マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2013.03.14
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カテゴリ: 歴史全般


 彼は70代半ばだろうか。良く近所を歩いている姿を見かける。山歩きが好きなようだし、散歩しながら付近の様子の変化を常にチェックしているみたいだ。彼の家は川の傍で、庭には高さ20mほどの柳の木が風に揺らいでいる。目の前の小川に獲って来たカワニナを放ち、蛍を養成しているのも彼。何だか町内ではとても不思議な存在なのだ。

 彼が生まれた頃、この周辺は水田ばかりだったそうだ。裏にはひょうたん沼と言う沼があり、そこから流れる小川が田圃の水源になっていた由。江戸時代の図面を観ると、付近にはもう一つ沼がある。今は県立高校の敷地になっているのがその地と言うからビックリ。戦前から戦後にかけて、この周囲の地中には亜炭(あたん)鉱山があった。石炭になる前の粗末な燃料だ。

 それを運ぶためのトロッコも通っていたとか。また付近の田圃の中を、近郊の温泉まで小さな電車が走っていた。人も載せたが、温泉地付近で切り出した石材を、1日2回仙台まで積み出したそうだ。私も小学校の遠足で、1回だけ乗ったことがあるが、今は温泉地に車両が1台記念に遺されているだけだ。付近の神社の前は昔からの街道で、一時は国道だったとのこと。

 山から流れ出す小川で、昔はたくさん魚が獲れたそうだ。私も今は亡き愛犬とその川の上流部から探検したことがあったが、結構大きな魚が群れをなしていた。川岸に良く見られる竹林は、護岸のためにわざわざ昔の人が植えたそうだ。戦後開拓が入った山は個人の持ち山で、農家の一部は植木を育て、やがて付近が住宅化されると庭園業へ転身した由。今でも周辺には何軒か植木屋さんがあり、何年か前まで「開拓記念」の石碑が立っていた。

 終戦の数か月前、仙台空襲があり、この付近にも米軍機が焼夷弾を落としたそうだ。その残骸を彼は持参していた。戦後間もなくの頃は、それらの金属片を集めて売ったことも知っている。現在新しい道路を作っているお寺の裏側にも焼夷弾は落ちた由。この付近に上空まで光を放って敵機を探る探照灯が設置されていたためとのこと。

 土地の守り神である八幡神社は、元々70段近い石段の山上に鎮座していた由。そして小さな鉄道の最寄駅は、名取川付近の田圃の中にあったそうだ。小学校はあったが、中学校は遥か遠くまで歩いて通った由。通学途中の道草は、しょっちゅうだったと彼は笑う。彼が嘆いたのは「小字」の消滅。これで由緒ある昔からの地名が、記憶の中にしか残らなくなった。

 「裏町」街道の裏に当たるここには昔古墳があった。「三神峯」ここは2つの円墳が残る桜の名所。「名召」今は小さな公園が残るだけ。「王ノ壇」これは古代の方墳が名の興りで、今は「大野田」に変わった。確かに小字名は歴史の謎を解く鍵になるのだが、それを失くせば謎は解けずに終わる。私達は新しくてきれいな住宅街を手に入れた代わり、昔からの懐かしい風景を失ったのだ。

 狭い範囲の歴史談話だが、私にとっては十分面白かった。まだ20代前半の頃、この付近に下宿したことがあった。三神峯の裏側から山道を登ると、良く石の鏃(やじり)が見つかった。あれは私達の遠い祖先が、野山で獣を獲った矢の名残。祖先と私達をつなぐ手掛かりなのだ。その鏃が、良く探せば今でもまだ見つかるらしい。





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Last updated  2013.03.14 08:48:33
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