マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2013.09.08
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≪ 八重の城 ≫

 目が覚めるとそこは福島。目の前に黄色く色づき始めた田圃があった。吾妻PAでトイレ休憩。PAのコンビニで缶コーヒーと天津甘栗を購入し、座席で寛ぐ。せめてもう少し時間があったらなあと思う。急遽出場することを決めた「磐梯高原・猪苗代湖マラソン」。あと1週間あれば、脚の痛みが取れたかも知れない。

 それにしても最後の2回は余計だったのではないか。水曜日のランは半分にすべきだったし、木曜日は完全休養に当てるべきだったと悔やむ。やはり整骨院の院長は若い。年老いたランナーの疲労回復には時間がかかることを知らないのではないか。あそこは院長の指示に従わず、自分の直感を大事にすべきだった。

 安達太良山が雲に隠れて見えない。ここは二本松市。ブロ友のいなかのシルビアさんは多分この辺にお住いのはず。腰骨を圧迫骨折したとブログに書かれていたが、ひょっとしてスコップ1本での農作業が堪えたのではないか。自分の体調が良くないのに私を励ましてくれた彼女をはじめ、ブログにたくさんのメッセージを寄せてくれた友の心を思う。

 郡山ジャンクションから磐越道に入り、幾つかのトンネルを抜けると猪苗代町。ここが明日のレースのスタート地なのだが、シンボルの磐梯山はすっぽり雲に隠れていた。



猪苗代湖.jpg


 猪苗代湖の白く細い湖水が微かに見える。その向こうには低く垂れ込めた雲。明日はあの向こう岸を一周するのだ。ウルトラマラソンに「れば」や「たら」は全く通用しないのだが胸に過るのは不安ばかり。やがて会津盆地が眼下に見え出した。明日のレースに先立ち、今日は鶴ヶ城を見学する。会津若松城の別名で、戊辰戦争で官軍に敗れた奥羽越列藩同盟の要だった城。後に新島襄の妻となった八重が自慢の銃を持って立て籠った城だ。

 終点のバス停で降り、城まで歩く。バスツアーで1回だけ来たが、わずかに外から眺めただけだった。城に近づくと風格のある城が樹木の合間から見えた。濠もなかなか見事なもの。やはり官軍を相手に最後まで戦っただけのことはある。



城1.jpg

 会津若松城(別名鶴ケ城)

 今から約600年前、まだ黒川と呼ばれたこの地に葦名氏が築城したのが最初で、それを奥州の覇者伊達氏が実力で奪い取った。だが秀吉の裁決で政宗がこの城に居たのはわずか2年数カ月だった。その後近江から蒲生氏が伊達の抑えとして入城。その後は越後の上杉氏が120万石の城主となったものの不興を買って米沢へ転封し、その後へ蒲生氏が入って再びこの地を治めた。

 その後は加藤氏が伊予松山から40万石で移り、最後は徳川家の親戚筋に当たる保科氏が21万石で入り、その後松平氏と改姓し幕末期に京都守護職となった松平容保公が最後の城主。土地を治め城を築き、東北の雄たらんとした武将達の激しい戦いを、この城は見守って来た訳だ。城は戊辰戦争で焼失したのではなく、明治新政府の廃城令によって取り壊されたそうだ。




城31歴代城主.jpg

 歴代城主と家紋



城10明治期.jpg

 廃城直前の鶴ヶ城(明治期)



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 天守閣から飯盛山方面を望む


 戊辰戦争では八重のような女性陣も城へ立て籠った他、まだ歳の若い藩士達が白虎隊として結成された。彼らは若松市街の東北部に当たる飯盛山に陣地を構えていたが、城が敵の砲撃で焼け落ちたと錯覚し自刃。「ならぬものはなりません」。幼少の頃より藩校日新館で学んだ会津精神に殉じたのである。現在の城は近年再現されたものだが、威風堂々として往時を偲ばせるものがある。なお、城内外の写真は日を改めて掲載する予定だ。<続く>



若松駅と白虎隊.jpg

 JR会津若松駅と白虎隊の勇姿





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Last updated  2013.09.08 16:55:23
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