全265件 (265件中 1-50件目)
~立山に走って登った話~ 秋ですなあ。と言うよりも東北は晩秋です。朝晩にはすっかり冷え込むようになりましたわい。 で、家主は今日も旅ですじゃ。さて麻雀の結果はどうなってることか。それよりもゲームの後で良く眠れたどうかが問題ですなあ。わっはっは。 そんなことで、今日のブログも予約ですわ。留守中誰にも文句を言われなくて済みますのう。 宇奈月温泉。爺は初めてなんですわ。以前黒部と立山を旅した際に、トロッコ列車で通過したことはあるんじゃが泊まるのは初。山間のいで湯はどんな塩梅ですかのう。ふぉっふぉっふぉ。 幹事のTさんには、富山まで行くと遠いため、北陸新幹線の黒部宇奈月駅で降りた方が良いと言われたけど、天邪鬼の私は富山まで行くつもり。 富山駅からは「富山地方鉄道」に乗って引き返す予定。なぜそんなことをするかと言えば、しみじみと富山の景色をみたいためなんじゃよ。 まだ元気だったころ、富山市の浜黒崎という浜辺をスタートして、立山連峰の雄山(標高3003m)の頂上まで走るレースに出たことがあったんじゃ。距離は65km。当時の制限は11時間じゃった。 結構きついコースじゃった。何せ海抜0mの日本海に手を突っ込み、そこからスタートするんじゃもんなあ。距離は65kmでも、標高差が3003m。頂上では雪が降ることもあるからのう。ふぉっふぉっふぉ。 常願寺川の堤防を走っとるうちはまだ良い。傾斜が緩いからのう。それが山道に入ると徐々にきつくなるんじゃ。 八郎坂は特にきつい山道での、足を滑らせたら崖の下に真っ逆さまじゃ。いやいや嘘じゃないぞ。大雨が降って危険なため、中止になった年もあったのう。私は雨の中で20回も倒れた年があったんじゃ。あの時は不整脈が出たのかのう。 そこにあるのが「称名(しょうみょう)の滝」。落差は400mほどもあるかのう。もっとも3段合わせての話じゃが。それが立山の雪解け水なんじゃよ。 坂を登り切ると「弥陀ヶ原」に出る。称名も弥陀もすべて仏教用語。ここはかつて山岳宗教のメッカじゃもんでのう。そこから湿地帯を走るんじゃ。これが木道が架けられた細い道なんじゃよ。 標高2500mの室堂に荷物を預け、そこから雄山山頂まで登るんじゃよ。「一の越山荘」経由での。そこから山頂まではほぼ絶壁に見えるぞ。ふぉっふぉっふぉ。 軽いジョギングシューズで浮いた岩がある山道を登るのはきつい。しかもランパン、ランシャツ姿のつわものもおるでのう。まさに豪傑じゃよ。ふぉおっふぉ。 体が動くうちは良いが、体が動かなくなったら大変じゃ。何せ標高3千メートルの山は気温が低いからのう。晴れてればまだ良いのじゃが。う~む。 在る年などは急に雨が降って気温が下がり、ランナーが遭難する騒ぎになったそうな。たとえ山のベテランでもランパンランシャツ姿では寒さを防ぎようがないでのう。結局ヘリコプターの出動と相成ったと聞いたぞ。頂上は零下にもなる気温、体温が急激に下がってそう感じるんじゃよ。 それからどうなったじゃと。う~む。ちょうど紙数が尽きた。残念じゃがこの話の続きはいずれのう。と言ってもこの爺の命が持てばの話じゃがの。ふぉっふぉっふぉ。ではまたの。
2019.11.27
コメント(10)
≪ ゴール後のメモ ≫ ゴール後、「認定証」をもらいに行く。これはリタイヤの証明みたいなもの。私が「完走したけどリタイヤです」と言うと、受付の青年が戸惑っていた。それでも事情が分かったようだ。こんな物は別にどうでも良いのだが、話の種。次にキャッシュバックのコーナーへ行き、2千円を受け取る。これは昨年のうちに申し込んだランナーだけが受け取れるもの。つまり「早割」みたいなものだ。 参加賞のTシャツ 次に体育館の中で朝預けていた荷物と参加賞、「飲食物引換券」をもらう。もう時間が遅いので体育館は空いており、男子更衣室もがら空きだった。荷物をロッカーに入れてシャワー。ようやくレース中にかいた汗を流す。荷物を整理してリュックに詰め、着替えてから体育館を出る。 完走メダル裏側 テント村では牛肉などが「引換券」で食べられ、ビールも無料で飲めるのだが、盛岡行きのバスの確認が先。バス乗り場には既に長い列で乗り切れず、7時発の乗り場へと歩いて移動。もう飲食する暇はない。先ずは最短で帰宅する道を選ぶ。何とかギリギリで座席に座れ、ラッキー。隣の人は北海道から来たランナー。100kmの部だが、50kmでリタイヤした由。昨年仕事で来た岩手県が好きになり、今回初めてこの大会に申し込んだそうだ。 岩手山(45km地点) 私が時間外にゴールし、何も食べてないことを話すと、彼はもらった「わさびお握り」を2個くれた。「でもお茶がないと食べられないし」と言うと、今度は関西から来た女性ランナーがお茶の入ったペットボトルをくれた。まだ胃が落ち着かないためお握りは食べられないが、体内の水分を失ったせいか、お茶はゴクゴク飲める。これが実に美味しい。結局盛岡駅まで北海道の人とマラソン談議を続けていた。 夕暮れ(47km地点) 東北新幹線の車中で遅い食事。何分レース中にはろくに物を食べていない。もらったお握りはそのままで、駅で買った弁当を食べる。少しでもおかずを食べて体力の回復を図る必要があるからだ。缶ビールも美味かった。 大会プログラムでレースに参加した走友の名前を確認。100kmの部は男子10名、女子4名が知り合いだった。昔に比べたらかなり少ない。50kmの部では、茨城県から参加した夫妻だけしか知らなかった。次に写真の整理。不要だと思う画像を捨てる。完走記を書くためのものを含め、全部で80枚近く残した。 雫石川(48km地点) 家には9時半ごろに着いたが、妻は既に眠っていた。荷物を片づけ、汗をかいた洗濯物を水洗いしてバケツへ。入浴後は自室でパソコンを開き、留守中にもらったコメントへの返事。そしてレースの簡単な結果報告を書いた。 70歳ともなると、疲労はなかなか退かない。その疲労と戦いながら、完走記を書いた。思い出に残る今大会。体力が落ちた自分にとっては、ウルトラマラソンの厳しさを思い知らされたレースだった。だが、数日後には、7月のマラニックを申し込み、もう一度フルマラソンを走ってみたいとの気持ちも蘇った。 レースの翌日妻が言う。「きっとお父さんはレース中に倒れ、担架で運ばれたと思った」と。そこで私は言った。運営がちゃんとした大会ではリタイヤ収容バスがあるから大丈夫なんだよ」と。「それでウルトラはお金が高いのね」と妻。そして「次はどこを走るの」と聞く。私は7月と8月の恒例のマラニックの名前を妻に告げた。<完>(お知らせ) 明日はレース中に撮った花の写真の特集です。どうぞお楽しみに~♪
2014.06.14
コメント(20)
≪ 薄暮の姫神山と4年ぶりのゴール ≫ 最後の関門 40.5km地点の最後の関門に着いたのは、スタート後6時間35分27秒後。制限時間の4分33秒前だった。やれやれ、これでゴールまで走る権利は出来たがどうするか。先ずは43km地点までは何としても行きたい。フルマラソンの距離を超えれば、ちょうど今回が100回目のフル以上のレース完走になるからだ。 今回は体調に合わせて目標を変えた。初めは1つ目の関門突破。次に銀河高原の関門突破。さらに30km走破から40km走破へ。そしてフルマラソン越えへと。これでもう本望。今日はレースに出た甲斐があったと言うもの。私はその後も道端の花を撮り続けた。最後の関門では、係の小母ちゃんが私の手に飴を3個無理やり握らせてくれた。これも結果的に良かった。それを食べたことで、僅かな糖分が前進へのエネルギーに変わった。 間もなく左折すると目の前に登り坂。この坂は500mも続く。もう登って走る体力がないため、手を振って歩く。途中、白い花をつけた樹を発見。多分エゴノキで久しぶりの対面だ。これもカメラに収める。夕方が近いのか気温が下がって来たようだ。坂道を登り切ると43km過ぎ。このまま進めば45km地点に到達する。 45km地点 表示は「残り5km」に変わった。ここまで7時間20分45秒。もう十分、ここでリタイアして収容バスが来るのを待とう。ところが待てど暮らせどバスは来ない。制限時間内にゴールするのは無理だが、ここからさらに自分の足で走って見るか。右折してゴールに向かえば最後まで行くしかない。収容バスは直進して雫石総合運動公園に向かうことを私は知っていた。 姫神山 遥か遠くに姫神山が見えた。デジカメを出して記念撮影。標高1124mのあの山へは、2週間前に登ったばかり。いつもならここでは岩手山の雄大な景色が出迎えてくれるのだが、今年は麓まで厚い雲に覆われている。でもその代わりに姫神山が見られて嬉しい。田圃道に夕暮れが迫る。 夕景色 振り返ると西の空に残照はなく、秋田駒ケ岳らしい山が曇り空に立っていた。良くここまで来れたものだ。今日は8km付近で早くもリタイヤを考えた。それほど私の体調は最悪だった。それでも我慢して走ったり歩いたりしているうちに、きっと体がウルトラマラソンのペースを思い出したのだろう。頭と両膝に水をかけたのも正解で、痛みが出ずに済んだ。いつもなら35km付近で出る股関節痛もなく、38km付近で出た脇腹痛もほどなく消えてくれた。 雫石川に架かる橋 目の前に橋が現れる。橋の上から雫石川を眺める。前半に見た和賀川は南下した後、錦秋湖から東流して北上川に合流し、この雫石川は東に向かって大河北上川に注ぐのだ。この橋を渡れば残り2km。以前は坂の手前のASで冷えた果物の缶詰を出してくれたのだが、今回はコーラだけ。全般的に「いわて銀河」のエイドの質が落ちている。これではランナーが完走するのはきついと思う。 坂を登り切って左折。人影の消えた道を1人ゴールへと向かう。前方にスタッフ。そこから右折してグラウンドへ。ついに「後1km」の表示が見えて来る。そこからの道が実に長く感じる。もう体力の限界で、距離感が完全に狂っているのだ。スタッフが私を追い越してゴールへ走った。私の後からも2人のランナーがゴールに向かって走っているようだ。 「ゼッケンナンバー5051番は50kmの部、宮城県のAさん。時間は過ぎてますが最後まで頑張っています」。遠くから場内アナウンスが聞こえる。思わず涙が零れそうになるのを必死に堪える。両手を上げてゴールに飛び込む。スタッフが駆け寄り、私の首に完走メダルをかけてくれた。タイムは8時間09分03秒。50kmの部では初。4年ぶりのゴールだった。だがこれは時間内完走でないためリタイヤ扱いになるのだが、私の中では立派な完走だ。<続く> ゴール後の私 完走メダル(表)
2014.06.13
コメント(16)
≪ 鉄人と最後の関門 ≫ 25km地点 25km地点の通過は4時間04分51秒。これでようやく半分まで来たのだが、この時はそんな意識はなかった。何せどこまで行けるかは自分の体調次第で、全く予定が立たないのだ。28km地点の給水所は、かつて私が大会本部に要望して設置してもらった所。今回は近所の主婦の方がボランティアで給水係に出られていた。ここでクッキーを1枚いただく。これも自分達の提供のようだ。1枚のクッキーが、前進のエネルギーに変わる。 O川さんの勇姿 27km辺りで後から私の名前を呼ぶ声。振り返ると同じ走友会のO川さんだった。私がここにいるのが不思議そうだったが、直ぐにゼッケンで50kmの部と分かったようだ。100kmの部とは言え、スピードランナーの彼が今頃こんな場所にいる方が変。 話をすると5月の連休に走った「川の道」520kmの疲れがまだ残っている由。彼はかつて盛岡から仙台までたった1人で200kmを走ったことがある。それもこれも全ては「川の道」の練習のため。そうして2年連続完走の偉業を達成したのだ。 28km地点の私 会えて良かった。ずっと彼のことが気にかかっていたのに、仕事の関係で5月末の「みちのくラン」でも会えなかった彼。「撮りますか」とO川さん。彼はそんな優しい心づかいが出来る男だ。暫く一緒に歩いたが、やがて彼はゴールに向かって走り出した。 今回の「川の道」ではゴール寸前にコースを間違いそうになり、ゴールしたのは制限時間のわずか20秒前だった由。我が走友会には2年連続で520kmを完走した勇者が2人いる。彼らこそまさに鉄の心と脚を持った鉄人なのだ。 30km地点 30km地点の通過は4時間52分41秒。今の体調で良くここまで来れたものだ。次の関門は36.6km地点で制限時間は午後4時。歩かなければ間に合うかも知れない。ここから下りが始まり、間もなくトンネルを過ぎると急な坂道になる。今までに4回走ったこのコースは、まだ鮮明に記憶として残っていた。 魔の下り坂 ここが魔の下り坂。峠越えをする100kmの部では、峠の真っ暗で寒いトンネルを抜けると急激な下り坂がある。あそこで飛ばすと、この坂が利いて来るのだ。幸か不幸か50kmの部の私は前半かなり歩いた。そのためにまだ坂道を走って下る力が残っていたようだ。ゆっくりとでも走れるのが有難い。それにコースを覚えているのも有利なはず。 林の中の標識 慎重に走って何とか下り坂が終わった。ここからは暫くほぼ平坦な道が続く。道路に落ちていた「黒飴」を拾って食べる。これも貴重なエネルギー源。無駄には出来ない。ここからが本番と立ち止まり、ペットボトルにサプリの粉を入れた。だがペットボトルの水はほとんど無くなっていた。慌てて周囲を見回す。左手の森に小川が流れている。そこにペットボトルを沈めて水を入れた。浅いため何度か動作を繰り返す。水はようやく8分ほどまで満たされた。よ~し、また前進だ。 杉林を見ながら 左手に見事な杉林が見えて来る。ようやくここまで来れた。またこの景色を観られるとは思わなかった。途中でリタイヤしたランナーを収容するバスは県道1号線を直進するため、この景色は2つの関門(100kmの部は3つ)をクリヤーしないと見られない。感慨が胸を過る。だがここから次の関門までが長く感じる。 「このペースで次の関門がクリヤー出来ますか?」と若い女性。「キロ10分ペースでも走っていれば大丈夫」と私。その声を遮るように別の女性ランナーが言った。「でも最後の関門を通過しても登り坂があるからキロ8分ペースは無理。今のうちに貯金を作っておかないと完走出来ないよ」。なるほどその通り。まだ「現役」の頃の私なら、きっと同じような計算をしたはず。2人は先へ行った。私は相変わらずのペースで、登り坂は歩いた。 鶯宿ダム湖 やがて右手の下方に鶯宿ダム湖が見えて来る。ここはちょっとした登り坂なのだが、その僅かの傾斜が苦しい。それにしても何故35km地点の標識が見えて来ないのだろう。同じような疑問を、他のランナーもぶつけているのが聞こえた。これは標識の位置がおかしいのではなく、疲労のためにペースが落ち、距離感が狂うのが原因だ。 35km地点 ようやく35km地点の標識発見。通過は5時間44分30秒。この5kmに約52分もかかっている。これで次の関門までの時間が残り僅かになった。坂道を下ると前方に人影。3つ目の関門だ。 3つ目の関門(36.3km地点) 36.3km地点。これが3つ目の関門だが、何とか時間前に辿り着いた。頭から水を被り、両膝にも冷たい水をかける。これでかなり体温を下げ、炎症を抑えることが出来る。スポーツドリンクと水を飲み、バナナを食べて直ぐに出発。次の関門は「賢治ワールド」で近いのだが、制限時間がギリギリの上坂道が続く。いつまでも休んでいる訳には行かない。最後の関門は40.5km。そこまで行けたら立派なもの。これは自分でも予想外の大健闘だ。 40km地点の通過は6時間27分45秒。次の関門まで500m。大きく手を振りながら必死になって坂を登る。ついに県道1号線と合流。少し先に最後の関門が見えて来た。これは嬉しい。最後の頑張りだ。<続く>
2014.06.12
コメント(14)
≪ 走友達のエール ≫ 胃がムカムカして来たのは、久しぶりのウルトラレースに体が慣れてなかったためだろう。「今年のランナーの通過は早い」。9.6k地点のASスタッフがそう言っていたことを思い出す。道端に立っていたスタッフに100kmの部との合流点まで後何kmか尋ねたが、答えは何度聞いても「20km」。そんな訳はなく、間もなくのはずだ。私の予想通り、暫くすると森の中から走って来るランナーの姿が見えた。100kmの部のランナーだ。 合流点を過ぎた橋の上 スタッフの指示に従って道を曲がる。間もなく和賀川に架かる赤い橋を渡る。良く見ると背中にゼッケンナンバーのないランナーが多い。尋ねると100kmの部では、途中で3回雨に降られた由。きっとその時に濡れて千切れたのだ。いつの間にか観察車は消えていた。続々と100kmの部のランナーが来るため、無意味になったのだと思う。 15km地点 15km地点を2時間15分14秒で通過。良くこの体調でここまで来れたものだ。その時後から私の名前を呼ぶ声がした。振り返ると宮城UMC仲間のT田さんだった。「戦場カメラマン」の彼はレースで走りながら200枚もの写真を撮る。その写真をいつもメールで送ってくれる奇特な人だ。この時もお互いに写真を撮り合った。そして彼はこの後の関門でも密かに私の写真を撮ってくれていたようだ。 T田氏の勇姿 よほど慌てていたのか、16.5km地点の第1関門(100kmの部では2つ目)では、写真も撮らずタイムも残してなかった。ベテランランナーに次の関門の制限時間を尋ねると、十分間に合いそう。そこで酢飯を味噌汁に入れてかき込んだ。結局後にも先にもご飯があったのはここだけ。腹に溜まりエネルギー源になるご飯は、ウルトラレースには欠かせない貴重な食べ物だ。 ここに同じ走友会のT脇さんがいた。彼女とは数年前の「えちごくびき野100km」でデッドヒートを演じたことがあった。あの時彼女はまだ40代。道理で速かった訳だ。エールを交わして走り出す。直ぐにT田さんを抜く。友達を待っていたようで、直ぐに抜き返された。T脇さんも直ぐに私を抜いて行った。 暫くして見慣れたユニフォームが追い抜いて行った。追い着いて声をかけると、その人はサングラスを外して私を見た。やはりKさんだ。黙って私の手を握るKさん。疲労困憊ですっかり冷え切った私の手。「今日は引退レースなんだよ」。そう言うと、まるで青い鳥が羽ばたくように彼女の姿は見えなくなった。あのスピードならきっと12時間台前半で2度目の完走を果たしたはず。 20km地点 20km地点の通過は3時間09分31秒。いつもなら暑さに苦しむこの登り坂が、曇って気温が低い今日は楽に感じる。きっと体もレースに慣れて来たのだろう。100kmの部の仮装ランナーが次々に私を抜いて行った。「忍者赤影」は背中に大刀を背負い、菅笠を被った修行僧は裸足。「足は大丈夫なの?」の声にピースサインの余裕ぶり。そして「埼玉のはるな愛」は長身の女装ランナーで、顔は男そのものだった。 間もなく県道1号線を左折して銀河高原への折り返しに入る。前方にT脇さんを発見。急いで走り、エールの交換。そこからコースが左折し、彼女の姿はたちまち見えなくなった。次にやって来たT田さんが「Aさん、時間は十分にあるからゴール出来るよ」と一言。この男は私の体調を知らないのだろうかと思ったが、彼の言葉がなぜか私の頭にこびり着いていた。 銀河高原ホテル 間もなく銀河高原。まだ元気が良かった頃は、ここで美味しい地ビールを飲んだものだ。今年の折り返し点はホテルの構内ではなく、少し先の道路。そこをUターンして2つ目の関門に到着。ここは100kmの部に出た昨年リタイヤした場所。73.3kmが昨年私が走った最長記録だった。 2つ目の関門の前で ここでも次の関門の制限時間を聞いた。走れば何とか間に合いそう。慌てて牛乳寒天をかき込んでスタート。3つ目の関門は少し遠く、その途中に猛烈な下り坂がある。その衝撃に私の脚腰が果たして耐えられるかどうか。走友の姿を探しながら折り返しを下る。だが、知ってる顔は誰一人見つからなかった。 銀河高原の折り返し 間もなく左折して山の中の道に入る。ここを走るのは4年ぶり。4年前のレースが私が100kmを完走した最後だった。今年は50kmだが、とてもゴール出来るような体調ではない。だが私の頭の中には、先刻T田さんが励ましてくれた言葉が蘇っていた。そうだ1つでも先の関門を突破しよう。それが俺の引退への花道だ。<続く>
2014.06.11
コメント(16)
≪ 苦しみの始まり ≫ 大会パンフ いつものように3時半に目覚める。良く眠っている相棒を起こさないよう静かに部屋を出、最初のトイレを済ませる。その後、廊下に座って両足、両膝、両脚に厳重にテーピング。そしてテーピングが剥がれないよう、下はインナーとハーフタイツを履いて再び就寝。2度寝から起きたのは5時過ぎ。7時間ほど睡眠が取れたら十分だ。外は明るい。雨は昨夜のうちに止んだようだ。7時前に洗顔を済ませ、ロビーのテレビで天気予報を見る。 食事は大広間で7時から。100kmの部だと深夜の2時に起きて準備し、その直後に早い朝食を摂るのが普通。それに比べたらスタート時間が遅い50kmの部は、ゆっくり出来て助かる。ただ夕食同様、野菜が少ないのが唯一の難点か。これだとなかなかトイレに難儀するのだ。8時前に受付のため、体育館に向かう。部屋の相棒は受付後は体育館に居るとのこと。 50kmの部の選手受付 私は一旦宿へ帰り、部屋でシャツにゼッケンナンバーを着けた。まさか晴れるとは予想しなかった。つい前日までの予報では「雨時々曇り」。だから半袖シャツで良いと思ったのだが、雨が降らなければランニングシャツの方がベストだった。首を冷やすための「鉢巻き」も持参しなかった。帽子と小さめのタオルハンカチは必携。小ぶりのポシェットの中には、小銭、サプリの小袋が1袋、塩の小袋、そしてデジカメ。途中リタイアを考えればこれで十分のはず。 スタート前の自分 体調はまあまあ。直前まで宿で休み、9時20分にスタート地点へ向かう。ゴールへの荷物を預け、軽く体操して体をほぐす。それから体育館の中で開会式に臨んだ。形式的な挨拶が続く。それも今から50km走るランナーを鼓舞するようなものではなく、暗い声。後は自分で自分を励ますしかない。 これが50kmの部のコース図。アップダウンは峠越えをする100kmの部よりは少ないが、それでも結構脚へ負担をかけるだろう。ゴールまでの4つの関門が緑色の丸の個所。最初の関門は16.5km先。そこまで行くのも今の体調ではきついはず。出来たら23.3km地点の第2関門までは行きたい。100kmの部だと73.3km地点の銀河高原だが、そこがこれまでリタイヤした最短地点。今回はその先のコース風景を見たかったのだが、多分無理のはず。 スタート前の風景 意外だったのがスタート時の方向。このままゴールのある雫石町へ北行するのだとばかり思っていたのだが、一旦距離調整のため南に向かうようだ。最初から坂道の連続とはねえ。スタートは10時ジャスト。カウントダウンも無しに合図のピストルが鳴った。下り坂を走り出すランナーの群れ。私はゆっくり最初の一歩を踏み出した。いよいよ長いレースの始まりだ。果たして今日はどんな苦しみを味わうのだろう。 和賀川の流れ 折り返し点は案外近く、800mほど先にあった。そこから引き返して登り坂へ。たちまち大勢のランナーに抜かれ、私は最後尾に近かった。それでもポシェットからデジカメを取り出し、和賀川の流れを撮った。この人は何を考えているのだろう。不思議そうな顔をして私を抜いて行くランナー達。これで良いんだよ。今日は私の引退レース。思い切り記念写真を撮ろう。 キロ表示と腕時計を見比べながら走る。キロ7分程度のスピードだ。これは散歩しかしてない自分にはきつい。だが、ペースは「流れ」に任せた。きっとランナーとしての意識がまだどこかに残っているのだろう。スタート直後はどうしても他のランナーのペースに影響されがち。距離表示は7km地点でなくなった。後は自分の体と相談しながら走るしかない。 和賀川再び 再び和賀川を撮る。やがてコースは山道に入った。周囲は樹木に覆われている。胸が苦しい。息が苦しい。きっとペースが速過ぎたのだ。うめき声を上げながら走り、そして歩く。練習不足が早くも現れたのだ。「走った距離はウソをつかない」。これがランニングの世界の鉄則。練習してなければレースで苦しむのが当然なのだ。 最初のエイドステーションにて ようやく9.6km地点のエイドステーション(AS)に辿り着く。私はスポーツドリンクのペットボトルを持って走っているから良いが、ここまで水なしで走ったランナーは苦しかったはず。気温が上がれば喉が渇き、発汗が促され、体内の水分がたちまち不足する。ここで冷たい水を飲み、バナナを食べ、塩をなめ、ペットボトルにスポーツドリンクを補充。そして頭から水を被って再スタート。 森の中のコース 森の中は涼しくて助かる。こんな所ではでは帽子を脱いだ方が良い。少しでも発汗を防ぐためだ。相変わらず走ると胸が苦しい。散歩では心肺機能がさほど鍛えられないためだろう。こんなスピードでも不整脈手術を2度受けた私の心臓は、フル回転してるはずだ。思わずうめき声が漏れる。まだ元気だった頃は、歌を口ずさみながら走ったものだ。今口から出るのはうめき声だけ。苦しくて歩く。そして少しだけまた走る。前方のランナーも苦しそうだ。 観察車が背後から いつの間にか、私が最終ランナーになってしまったようだ。背後からぴったり大会本部の観察車が着いて来る。だが焦りはない。これも2度目の経験。3年前の「秋田内陸100km」では最初の8km地点で不整脈が起き、私は最終ランナーになって45kmでリタイアしたことがあった。あれ以来の観察車。これもきっと良い思い出になるはずだ。車を気にせず、私は道端の花をカメラに収めながら次のASに向かった。<続く>
2014.06.10
コメント(14)
≪ 不安を胸に ≫ 東北新幹線の車中から 東北新幹線で北上市に向かう車中から見る空は、何だか鬱陶しい。北海道を除くすべての地方が梅雨入りした日本列島。明日のレースも雨の中を走ることになるだろう。そう覚悟を決めていた。雨は苦にならない。むしろ長い距離を走るウルトラレースでは、酷使する脚の筋肉が冷やされて却って良いくらいだ。だが、私の心配は、天候とは違ったところにあった。 北上線の車両は1両のみ JR北上駅で北上線に乗り換える。車両はたった1両だったが、何とか座ることは出来た。心配と言うのは一番長い付き合いだったYさんが最近ブログを更新してなかったことだった。それに親戚が亡くなり、レース当日の夕方が通夜。妻に列席を頼んだものの、どこかにやましい気持ちが残った。妻と妻の姉の様子も心配の種。自身の不調も重なり、それらのことが私の心を暗くしていたのだ。 錦秋湖 席を移動し、ランナーらしい夫婦の向かいに座る。茨城県の方で、奥様は今回が初ウルトラらしい。ご主人はサポート役としてして、何とか奥様を完走させたい由。私も茨城県には11年勤務し、彼らの街も知っている。茨城県内でのレースやマラニックの話に花が咲く。茨城は35年前に私がランニングを始めた懐かしい土地柄でもあった。 ほっと湯田駅の温泉 「ほっと湯田駅」で下車。駅の直ぐ横に温泉があった。まるで「駅中温泉」だ。宿のマイクロバスが待っていた。運転手さんに聞くと、宿の風呂も天然の温泉らしい。これは楽しみ。宿は明日のレースのスタート地点にもなっていて便利。「いわて銀河ウルトラマラソン」に出るのはこれで確か8回目だが、50kmの部への参加は初めて。その50kmでさえ、今回は完走するのは無理。どこまで行けるか分からないが、「引退レース」を楽しむのみ。 沢内バーデン これが今夜の宿の「沢内バーデン」。沢内と言うのは昔の村名で、南部藩の隠れ里と言われた米どころ。名うての豪雪地帯でもある。スタッフの方に尋ねると、この宿も第3セクターの経営らしい。早速散歩に出かける。明日の選手受付場所の体育館を確認するためでもあった。周囲には「雪国研究所」や、水車小屋風の建物もあって不思議な感じ。直ぐ裏山はスキー場みたい。 水車小屋風の建物 歩いているうちに、すり減ったシューズの底に違和感を感じた。最近は散歩ばかりで走っていない。きっと久しぶりのランニングシューズが足に馴染まないのだろう。膝用のサポーターを家に忘れたことを、新幹線の車中で気づいていた。まあ、一旦スタートラインンに立つと決めた以上は走るだけ。今出来る最大の準備をすれば、それで良いのだ。 宿の大浴場 宿に戻って大浴場に行った。ここは源泉かけ流しの「志賀来温泉」。塩分や硫黄分が混じって筋肉痛などに効果があるようだ。明日酷使する自分の脚を風呂の中で擦る。露天風呂、サウナ、水風呂にも入った。今回のレースへの備えは、姫神登山以来の疲れを取るために極力休養し、床屋に行って髪を短く切ったことぐらい。それだけでも、体への負担を幾分かは軽減出来るはず。 その夜、部屋の相棒が着いたのは9時前。福島県の出身で、自宅は仙台。目下秋田へ単身赴任中の由。本人は練習不足だと言うが、明日のレースでは密かに記録を狙っているようだ。偶然にも彼の出身大学は私の最後の勤務先でもあった。彼が学んだ学部へも、仕事で何度か行ったことがある。10時過ぎに就寝。深夜、物凄い雨の音に目が覚めた。これは雨のレースになる。そう思いながら、再び眠りに就いた。<続く>
2014.06.09
コメント(12)
私の引退レースとして予定していた「第10回いわて銀河」から無事帰宅しました。最近は体調不良のため、せいぜい4kmほどの散歩しか出来ず、今回も30km行ければ「恩の字」と思っていました。ところが久しぶりのレースに苦しみ、最初の10kmでリタイアを覚悟しました。何せ私の直ぐ後には大会本部の監督車が着いて来ていたのです。 何とか16km地点の関門通過に成功し、まだ制限時間に余裕があったため、その後の関門通過に挑戦しました。その結果制限タイムをオーバーしたものの、8時間09分03秒で50kmを完走出来ました。これは走友T田さんが73km地点の折り返しで励ましてくれたのと、徐々に体調が良くなってこれまでの経験を生かして走れたためでしょう。これでフルマラソン以上のレースの完走はちょうど100回目。ちょうど良い区切りになりました。 レースの模様は、写真の整理を終了してから開始したいと思っています。どうぞお楽しみに~!!
2014.06.08
コメント(16)
≪ 鈴と月 ≫ ナップザックの紐を鉢巻きで結ぶ。これで首が楽になり、荷物もブラブラしない。ついでに深呼吸。最近は息苦しさが続いていた。多分心肺機能の低下が原因だと思う。それに長い距離を走るウルトラでは、疲れると姿勢が崩れ、呼吸が浅くなり易い。そうすると酸素が全身に廻らず、さらに疲労が増す。これは老ランナーの宿命だ。 鈴が鳴る。私は1人で走る淋しさを紛らすため、ポシェットにクマよけの鈴を下げていた。88km付近で道に迷う。曲がり角に居たスタッフが追い駆けて来て、正しいコースを教えてくれた。90km地点のASに16時に到着。ここでコンソメスープとミニシュークリーム3個をいただく。 残り10km。ここまで来ればゴールまで行けると思う。だがJRのガードを過ぎた個所に矢印がない。ゴールへ向かうには左折するはず。間もなく「新居の関所」。立派な建物は復元したものだろうか。傍に大きな老松。JR新居町駅前に横断歩道を渡るよう矢印。だがスタッフは地下道を行った方が良いと言う。その言葉に従ったが、却ってコースが分からなくなった。 慌てて地図を確認。やはりあそこで横断歩道を渡るべきだった。駅の手前で歩いていたランナーが1人、駅で電車に乗った。残り8kmを走る気力が無くなったのだ。95km地点の最終ASまでがやけに遠い。ホルト通りから東門松原通りへ向かう。海浜公園への松並木が立派。砂州の先のASに17時10分に到着。 東門松原通りの松並木 ここでオレンジゼリー3個とコーヒーゼリー1個、美味しいウナギお握り3個にお茶を3杯いただく。これでゴールまで行けるはず。後は気力の問題だ。国道1号線まで戻る途中、無言の凛峰さんと出会った。彼女も疲労が激しいようだ。会釈して前進。曲がり角でスタッフが道の向こう側へ渡れと指示。その先は歩道がない由。 夕潮 夕暮れが迫る。秋の日は釣瓶落としだ。水路に流れが見えた。きっと満潮なのだろう。少し先から再び道路の右側に渡るが、1号線の所でスタッフに左へ渡れと戻される。そこからは1号線に沿って東行。西浜名橋では大勢の釣り客が釣竿を出していた。中浜名橋の手前で三度道路の向こう側に渡る。その先でスタッフが「大丈夫か」と声。 浜名湖の月 私は大丈夫と答え、そのままゴールへ向かった。空にはいつしか月。中浜名橋には歩道がなかった。スタッフはこれを心配していたのだ。でもOK。私はもっと怖い思いをしたことがある。18時、ホテル前に到着。朝5時にスタートしてから13時間の旅が、今ようやく終わった。記念撮影とコース短縮の申告を済ませ、弁当を受け取って部屋へ帰った。 ナップザックの「野菜サラダ」から酸っぱい匂い。どうやらドレッシングがこぼれたようだ。部屋のリュックを開けてビックリ。何とそこにお握りとあんパンがあった。自分ではナップザックに入れた積りだが、きっと睡眠不足で疲れていたのだろう。勿体ないが舘山寺で買ったお握り2個と共に捨てた。弁当のご飯も全部残した。どうしても胃が受け付けなかったのだ。 風呂に入り、胃が落ち着いたところで缶ビールで祝杯。その夜も5時間しか眠れなかった。神経がまだ興奮状態なのだ。翌朝は5時に起床し、ロビーで新聞を読んだ。その後、浜辺を散歩。出漁するのか、湖を走る船が見えた。そして真っ赤な朝日。仙台と違って太陽は海から出ないことに初めて気づいた。 東雲の朝日 朝食時に髭カクさんと出会った。21時過ぎにゴールした由。76歳、最年長の彼が100kmを16時間を超えながらも完走したのだ。確か74歳の時に、彼は250kmの「さくら道」を完走した。衰えを知らない超人だ。来年の「みちのくラン」にも来られる由。 前夜祭の髭カクさん 私は早めにホテルを出、新幹線を乗り継いで帰宅した。悪い体調で良く70kmも走れたものだ。今回がウルトラの最終レース。その最大のミッションは、無事に帰宅することだった。妻は無言だったが、その夜から安心して眠ったようだ。 翌日の夕方、クール宅急便が届いた。それは弁天島のホテルから私が出した参加賞。妻は直ちに冷凍し、シラスを食べたのは6日後だった。もう一方のウナギは、まだ冷凍保存中。さて浜名湖名産の美味しいウナギを食べられるのは、果たしていつになるのだろう。<完> 美味しそうな参加賞
2013.10.20
コメント(10)
≪ 秋祭とエイドステーション ≫ 猪鼻瀬戸に架かる新瀬戸橋を渡ると、眼下に猪鼻湖が見えた。渡り切ると右手にトンネル。あれが正規のルート。さっき見えたランナーに、そのうち追い抜かれるだろう。ここは73kmくらいか。ゆっくり走っているうちに、どうやら不整脈は治まったようだ。 これは想定内とも言えた。今月に入ってからずっと体調が悪かったのだ。めまい、動悸、物の二重視、そして胃のムカムカ。心配になってレースの3日前に循環器内科へ行った。だが、胸部レントゲン写真と心電図には異常がなかった。 自分ではどうしようもない体調の急変を、今年は何度も経験していた。おまけに整形外科からはランニング禁止を申し渡されている。これではウルトラマラソンは無理だと、私は覚悟を決めていた。きっとこのレースが最後のウルトラになるはずだ。 もちろん申し込んだ時点では、100kmを走り切る自信があった。だが数カ月経ってレースを迎える頃には体調が悪化し、練習すら出来なくなる。病院へ行った翌日ようやく9kmを走ったが、疲労と筋肉痛が酷かった。こんな程度で疲れていては100kmの完走は無理。そこでショートカット作戦を立てたのだが、果たしてどこまで足と体が持ってくれるか。 気温が上がった。既に28度はありそうだ。仙台なら夏の陽気だが、風があるせいかさほど汗はかかない。前方からウォーカーがやって来た。浜名湖を歩いて一周する100kmウォークのようだ。既に足を引きずり、とても辛そうだ。湖畔に彼らのためのエイドステーション(AS)があった。 やがて天竜浜名湖鉄道のガードを潜る。これは嬉しい。いよいよ浜名湖の西岸。体が持たなくなったら電車を乗り継げばゴールまで行けるのだ。知波田駅近辺の交差点で山車に出逢った。この地域の秋祭りのようだ。若者が太鼓を叩き、子供達はぞろぞろ山車の後からついて行く。13時38分、79km地点のASに到着。 ここには美味しいお粥が用意されていた。味噌味の漬物などを入れて3杯お代わりし、お茶も3杯飲んだ。係員にショートカットしたことを申告。既に5人のランナーが通過した由。30kmもコースを短縮した私より、さらに速いランナーがいたのだ。同学年だと言う小母ちゃんと記念撮影。 私の首に注目して欲しい。左右のひもが頸部でクロスしているのが分かる。これが不整脈の原因ではないかと、暫く後になって気づく。何しろずっと頸動脈を圧迫し続けているのだから。 79kmエイド 踏切を渡って湖岸の道に入る。暫く行くと湖の中で釣りをしている人がいた。とても不思議な風景だった。あんな恰好で、一体何を釣っているんだろう。 湖中の釣り人 ほどなく80km地点を通過。小さな港ではたくさんの人が釣糸を垂れていた。その先で青いシャツの青年に抜かれた。彼が6位の選手。少しだけ言葉を交わしたが、スピードがまるで違う。湖に突き出た半島の根元から右折すると白山神社。境内でたき火をする人が見えた。先ほどの山車は、きっとこの神社のお祭りなのだろう。少し先の入江から湖を見る。「天皇陛下乗船場」と書かれた石塔があった。 14時50分。84km地点のASに到着。何だか中途半端な場所だ。おまけに食べ物が少ない。お茶を飲み、黒糖菓子を食べる。ここに秋田出身の女性がいた。この地へ来て40年になるらしい。私がブログの写真を撮りながら走っていると言うと、男性のスタッフが自分もやっていると言う。「山草人」云々の彼のブログは読んだことがあり、どこか一徹な感じの記憶が残っていた。 湖岸に沿ってコースは右や左へと曲がる。JR鷲津駅を過ぎた辺りで「水戸黄門」に抜かれた。彼は7位のはず。多分64歳くらいだと思うがとんでもないスピードランナーなのだ。アパートが立ち並ぶ団地の横を抜ける。大丈夫、まだ脚は持ちそうだ。ふと気づいてナップザックを下ろす。ひょっとしてひもが頸部を圧迫したのが不整脈の原因ではないか。よくもこんな危険なことを続けていたものだ。危ない危ない。<続く>
2013.10.19
コメント(2)
≪ ラーメンとショートカット大作戦 ≫ 行き止まりの駐車場から街の方へ出ると、ラーメン店があった。中に居たお婆ちゃんに船乗り場がどこか聞いた。「その前だよ」と老婆。慌てて外へ飛び出して探すが、それらしい施設は見当たらない。困り果てて男の人に聞いた。何と彼が船着き場の職員だった。それにしても分かり難い場所にあるものだ。急いで建物の中に入り、目指す船の出航時間を聞いた。 どうやら私が乗るべき船は12時20分に出るらしい。今はまだ10時57分。せいぜい10分程度の変更だとばかり思っていたのに、何と1時間遅れに変わったのだ。それをどう捉えるか、私は混乱した。ともかく後1時間20分を、ここで過ごすしかない。さて、その間に何をやるべきか。そうだ、先ずはラーメン店へ行こう。 観光船の建物を出て2階を見上げると、そこに会社の名前が書いてあった。ああ、これでは見つからないのも当然だ。向かいのラーメン店に入り、ラーメンを注文する。驚く老婆に、今はマラソンの途中であることを説明。冷たい水が美味しくて4杯飲んだ。ラーメンは汁も全部完食。これが塩分と水分の補給になって良いのだ。ついでにミカンを食べ、薬を飲む。 舘山寺港のラーメン 「時間があるなら舘山寺を見たら良いよ」と親切な老婆。大きな観音様もあるそうだ。それにしても食べようと思ったお握りとあんパンが見当たらない。はて、どこかへ置いて来たのだろうか。それはこれから走るための大事な食糧なのだ。又しても頭の中が大混乱。それを堪えて舘山寺の石段を登る。 ここは昔、独立した小島。それがやがて砂州で陸地と繋がったようだ。山の上には古いお寺と神社があった。目の前の海に観光船。そしてその先にはロープウエイが見えた。白亜の観音様は、島の裏側にあるようだ。そこまで行ってる暇はない。次に何をすべきか。そうだ。お握りを買いに行こう。急いで石段を降り、街の方へ向かう。だがコンビニまではかなり遠く、私は焦った。 お握り2個と3個入りのミニ大福、それに野菜サラダを買った。もう出航時間まで後わずか。走って港へ戻る。慌てているせいか、それともここまでのランで疲れているのか足が重たい。ふう~っ、ぎりぎりセーフ。何とか間に合った。 観光船 これが私が乗った船。2時間で湖を巡回するのだが、私は瀬戸港までの片道だ。船の向こうに見える山の頂上が、ロープウエイの終点。船は舘山寺港から広々とした浜名湖へ出た。なるほど後側からだと、舘山寺が島であることが一目瞭然だ。2階の座席で景色を眺めながら、私はせっせと野菜サラダを食べ出した。 旅先の食事内容では便通が悪くなる。ましてレースではあまり食物繊維を摂れないのだ。こんな時こそ野菜を食べよう。だが全部は食べ切れず、ミニ大福も1個だけ。ウルトラマラソンでは、満腹するまでは食べない。ASで少しずつ食べて、次のASまで持たせるのだ。 さて、ここで100kmマラソンのコースを紹介しよう。一番下の中央◎の弁天島がスタート地点で、反時計回りに浜名湖の湖岸を一周する。Cの庄内湖は全部正規のルートを走った。これで約40km。Aの細江湖とBの猪鼻湖の点線部分が正規のルートだが、私は船に乗ってこの30km分をショートカットする。航路は波線で、右の舘山寺港から左の瀬戸港へ向かう。私はそこから橋を渡って浜名湖の西岸へ直行する予定だ。 船内から湖岸を走るランナーが見えた。悪代官のタフマンさんら3名だ。その先にもう1人。彼らが先頭グループだろうか。船中からレースを観察するのも不思議な気分だ。船に乗っている時間は約50分。その間、疲れた足を休ませていると考えれば良いだろう。間もなく瀬戸港到着。どうやらここで降りるのは私一人だけのようだ。 だが立ち上がった途端、胸に異常を感じた。トイレに入って用を足しながら、左手で右手首を押さえ、脈拍を測る。1分間に120以上はありそうだ。これは不整脈の発生かも知れない。先刻ラーメン店で、薬は服用したのだが。レース中の不整脈は、これまで2度ほど経験している。ゆっくり走れば多分何とかなるはずだ。予定通り橋の方へと走り出す。<続く>
2013.10.18
コメント(10)
≪ 間に合うか? ≫ 20.8km地点のASでは小さなパンを食べ、記念撮影をした。横浜のランナーは黙って先へ行った。みるみる遠ざかる彼の姿。本当は速いランナーなのだろう。「舘山寺から船に乗る積り」との私の言葉を聞いて、「これは付き合い切れない」と思ったのかも知れない。それで良いのだ。無理にペースを合わせると却って疲れる。私は再びゆっくりと走り出した。 庭に柿や柑橘類が実っている。ここは冬でも温暖の地なのだろう。やがて、家々に祭礼の提灯や飾り花が見え出す。どうやら秋祭のようだ。八幡神社、そして少し先に宇気比神社。境内には幟が風にはためいていた。「はまゆう大橋」のたもとから右折し、湖岸に沿って左折する。ここは干拓地のようで、単純な風景が続く。 不思議な名前の公園 間もなく左手に不思議な名前の公園。はて、「頭脳公園」とは一体何だろう。帰宅後調べたら、付近に民間のシンクタンクがあるようだ。暫く行くと人工の堀割。確か「機関場」とか書いてあったはず。きっと昔は機関船の発着所でもあったのだろう。岸辺には何人かの釣り人。天ぷらにしたら美味しそうなサイズのハゼが数匹釣れていた。 とうとう「岬」の突端に出た。細長い庄内湖とはここでお別れだ。サイクリング道路に入ると、「冷たい豆腐」と書かれたビラを発見。9時35分28.9km地点のASに到着。早速目の前に冷や奴が出される。刻みネギと醤油をかけていただく。なるほど冷たくて美味しいのだが、これでは腹が持たない。何せ既に30km近く走っているのだ。 豆腐エイドのスタッフ達 「何か腹に溜まるものはないの?」と聞くと、3個の「おかき」をくれた。その場で1個を食べ、2個はポシェットへ。後々の用心のためだが、残りを食べたのはゴール後だった。スタッフをカメラに納めて出発。間もなく30km地点を通過。左手には雄大な浜名湖。そしてその彼方に対岸の山々が見える。まさに疲れたランナーを癒してくれる風景だ。 10時26分。34km地点の小さなASに到着。ここで勧められたのはビール。どうやらなかなか来ない最終ランナーを待ちかねて、既に一杯やっていた感じだ。勧められるまま、冷えたビールをいただく。「つまみ」は韓国海苔と佃煮。確かに美味しいのだが、私は気が気でなかった。「心臓の手術をしたので」と断るのだが、「ビールは心臓に良い」と強引だ。 2杯目を飲み干して直ちに出発。呑ん兵衛に用はない。私は先を急ぐランナー。こんな所でのんびりしてる暇はない。「船に乗るなら歩いても間に合うよ」。後から又しても無責任な声。とんでもない。舘山寺から瀬戸港までの船の時刻はメモしてあるが、スタート地点の標示にはその時間が変更になったと書かれていた。その時間が不明なのだ。確か古いのは11時20分だったはず。 ウナギの養殖池 焦る気持ちで湖岸を走ると、右手に緑色の「池」が2つ見えた。これは養鰻場だろう。そう思って付近の人に尋ねると、やはりそうみたい。前方に白いホテルが見え出す。きっとあそこが舘山寺だ。街に近づき、船着き場がどこか尋ねると、「まだ先だよ」と老人が笑うだけ。曲がり角でコースの標識を発見。だが私はそのまま浜辺の道を直進した。 「この道じゃないですよ」。誰かが親切に教えてくれた。きっと走り去るランナーの集団を見ていたのだろう。「船に乗るんで良いんです」。私は叫んでそのまま行った。前方に赤い太鼓橋が見えた。きっとその先に目指す船着場があるはずだ。だが神社の先は行き止まり。もし乗れないと次の出航は確か3時間後で大変なロスになる。半狂乱で船着場を探す私だった。<続く> 舘山寺入口の太鼓橋
2013.10.17
コメント(8)
≪ 最終ランナーの不安 ≫ 国道1号線の橋を渡ると舞阪地区。かつての東海道五十三次の舞阪宿だ。小道へ入ると古い常夜灯や脇本陣などがあり、宿場町の面影が残っている。さらに進むと松並木。ここは旧東海道なのだ。道路に誰かがうずくまっていた。薄暗くて良く分からないが、女性ランナーみたいだ。まだ1kmしか走ってないのに、ハプニングでも生じたのだろうか。 薄明かり 東海道線を潜って北へ向かう。周囲が次第に明るくなると浜名湖につながる水路が見え出す。橋の上から東の空を撮る。懐中電灯はポシェットに入れた。そしてもう大勢のランナーが先へ行った。きっと私が最終ランナーのはず。それは最初から覚悟の上。コースは知らないし不安もあるが、何とかなると思って進むしかない。 スタート前の仮装ランナー(左:水戸黄門 右:悪代官) 5km辺りの角にスタッフが立っていた。そこから浜名湖を通る道路まで折り返す。橋を渡って行くと前方からトップランナーが来た。悪代官のタフマンさんだ。袴をヒラヒラさせて走る後から2名のランナーが追いかける。やがて続々とランナーがやって来て、狭い橋の上でエールを送り返す。既に1km以上の差だ。 折り返し地点には「呼びかけ人」のH田さんがいた。前方には浜名湖が広がっている。まさに絶景だ。ここで記念写真を1枚。ミカンを手渡すH田さんに、ナップザックに入れるよう頼んだ。ナップザックの紐はピンで止めており、一々開けるのが面倒だったのだ。帰路、弁天島方面の写真を撮る。遅いランナーがますます遅れるが仕方がない。 弁天島方面を望む 再び広い道に出て北上。左手に見える湖水が浜名湖の東部に当たる庄内湖。やがて前方に有料道路の「はまゆう大橋」が見えて来る。そこで道を間違えた。暫く走った所で姫路ナンバーの車から声。遠方から応援に来たスタッフだ。正規のコースは湖岸の道とのこと。慌てて左折し、橋の下の第1AS(エイドステーション)に到達。10.8km地点のここでスポーツドリンクを飲んだ。 仙台から来たことを知って驚く地元の方々に、私は東日本大震災の話をした。この大橋を渡ると約10kmのショートカットが出来るが、まだその段階ではない。お礼を言って正規のコースを進む。入り組む湖岸に何度か戸惑う。とある小学校の前で不安が最高潮に達した。ナップザックから地図を取り出して見たが現在地が分からない。 道の向こうの中学生に地図を示して聞いた。ようやく現在地が分かった。元の位置に戻ると、風で地図が飛んだ。慌てて道路に飛び出し、1枚ずつ拾う。見兼ねた中学生も手伝って何とか回収したが、全体図が無くなったことに気づいたのはゴール後のこと。坂を登る。湖がどんどん遠くなる。本当にこの道で良いのだろうか。 坂を登り切った所が浜松市立湖東中学校。さっきの中学生がそこから左折せよと教えてくれた。急な坂を下りコンビニから左折。少し進んでさらに左折。ようやく湖岸が見えた。やれやれ。 コースの矢印 湖岸風景 コースの矢印がある。この道で間違いなさそうだ。安心して写真を撮る。やがて後からランナーがやって来た。折り返し地点で見えた人だ。1km以上差があったのに私が道に迷い、写真を撮っているうちに追い着いたのだ。彼は岩手県の釜石出身とのこと。横浜に出てから40年近くなる由。ウルトラ歴は21年。走りながら、しばし東北の話に花が咲く。<続く>
2013.10.16
コメント(8)
≪ 「想定外」続きの前日からスタートまで ≫ トイレの鏡に真っ青な顔の私が写っていた。ここは浜松市弁天島のホテルで、明日の100kmマラソンのスタート地。最初の驚きは選手受付をした時。参加賞は浜名湖名産の「シラス」と「白焼きのウナギ」のようだが、クール宅急便の申し込みをさせられた。参加賞を自宅に送るのは初めての経験だった。 フロントで鍵を貰って部屋へ向かったが、今度は8階のその部屋が地図にない。必死に探すとようやく離れた場所にあった。ここは電車が通る側で騒音がすごいため、特別料金の部屋。2泊朝食1回で6840円の超お得料金。だが、肝心のトイレがなかった。先ずは大会本部からもらった資料を慎重にチェック。安全なレースのためにも欠かせない作業だ。 そこで大事なことを発見。この大会は自分の体力、走力に応じてショートカットが自由に出来る。浜名湖は複雑な形をしており、正規なルートはその湖岸に沿って走るのだが、入り組んだ「湾」には橋がかかっていて直進も可能。そして40km付近から船にも乗れるし、45km付近からは電車にも乗れる。そのワープの新コースを発見したのだ。 よし、それならどうにかなるかも知れない。少し安心して散歩に出かけたのは良いのだが、あまりにも風が強過ぎて体が冷えたのだ。おまけに空腹でガス欠状態。これは9月に走った「猪苗代湖」の前夜と同じ。またまた体調の異変発生かと、すっかり慌てた私だった。 ホテルの前の浜名湖。ここが明日のスタート地点だ 前夜祭司会者 呼びかけ人のH田氏 夕方の6時にウエルカムパーティーが始まった。ユニークな服装の司会者だが、彼もれっきとしたウルトラランナーのはず。レース呼びかけ人のH田さん自身もウルトラランナーで、主に静岡県内で幾つもウルトラマラソンを開催され、海岸と富士山の頂上を走って往復する大会などもある。挨拶はものの2分で終了し、早速乾杯から懇親会へ突入した。 ウエルカムパーティー 会場には知り合いの髭カクさん、ユノさん、凛峰さん、悪代官タフマン、群馬の黄門さんなどがいた。ところがオードブルがあっと言う間になくなった。これが今夜の夕食なのだから大変。髭カクさんが文句を言いに来た。去年はもっと料理が大量にあったらしい。そこで慌ててキノコご飯とみそ汁をもらいに行った。 パーティーでは老年のバンドが始まっていたが、私は缶ビール1本と焼酎を1杯飲んだ所で会場を抜けた。明日の朝の食料を買いに行くのだ。相変わらず台風のような強風だ。これが遠州名物の空っ風らしい。CS第1戦は広島とロッテが勝った。これは面白い展開になりそうだ。 だが、夜は何度も目が覚めて眠れない。電車の音はさほどでもないが、部屋のスピーカーから音楽が聞こえるのだ。たまらずフロントへ電話し、音を止めてもらう。眠ったのは3時間程度か。翌朝3時半には起床し、トイレの後丹念にテーピングを施し、早めの朝食を摂る。ナップザックにはレース中に必要なものを詰めた。 これは先日白樺湖のホテルに忘れたもの。この軽さと素材がマラニックにはちょうど良いと判断し、着払いで届けてもらったのだ。ポシェットには現金、デジカメ、サプリメント類も。もちろん地図と筆記用具、必要な薬剤も持った。自分ではこれで万全だと思っていたのだが、後で「ハプニング」が起きることを、この時はまだ知らない。 服装を整えてスタート地点に向かう。海風があるが、昨夜ほど吹き荒れてはいない。真っ暗な空にオリオン座が光る。三々五々選手が集まって来た。皆気合が入っている中で、私は静かなまま。睡眠不足と体調に不安があるためだ。不整脈抑止剤と血圧降下剤は持ったが、果たしてどこまで行けるか。そして私の「ワープ作戦」が、どこまで通じるか。スタート地点の横は海。波がそこまで迫っていた。 午前5時。1番から40番までの選手がスタートする。ゼッケンナンバー68番の私は第2グループで、5時1分のスタート。参加者は全部で112名。これから長い長い冒険の旅が始まる。<続く> スタート前の緊張した私
2013.10.15
コメント(0)
≪ あれから ≫ ゴール後、完走証と完走Tシャツを受け取る。預けていた荷物を引き取り、ホテルの大浴場へ。脚が痛むのに重たい荷物を持って、階段で3階まで。エレベーターがないのだ。これもまた修行の内。さっぱりして1階まで降りると、JR猪苗代駅へのシャトルバスは出たばかり。次の便は1時間先とのこと。そこへ1台のタクシーが停まった。 これは良かったと思って乗ろうとすると、東京の若者が呼んだものらしい。頼んで同乗させてもらう。料金は1600円ほどだったが、私が千円出した。若者は恐縮したが、私もそれで助かったのだ。このお陰でちょうど良い電車に乗れ、悠々座ることが出来た。私の目の前に1人の女性が座った。彼女も65kmの部に出たとのこと。 中田浜(21km地点) ウルトラ挑戦は2度目だが、今回が初めての完走だった由。一目で心身が健康だと分かる、感じの良い女性で、3人のお子さんがおられるとのこと。彼女を相手に終点の郡山まで、今日のレースや全国で走ったウルトラレースなどの話をした。別れ際に、退屈せずに有益な話を聞けて良かったと彼女。私もこんな素直な人に話せて嬉しかった。 新幹線の乗り継ぎも良く、自宅には7時前に着いた。早速荷物を整理し、ワインレッドの完走Tシャツ、歓迎会の記念品のワイン、抽選で当たった外国製のポシェットは妻へプレゼントした。残ったのは1枚の完走証。それも完走記を書き終えた後は、切ってメモ用紙に。その完走記の写真すら、容量オーバーになれば消える。それで十分、思い出は私の頭の中にあれば良い。 ワインレッドの完走Tシャツ 翌日は整骨院へ行った。「50kmは行けたでしょ?」と院長。私は折り畳んだ完走証を広げて見せた。それを見た院長が驚いた。「いや~。良く頑張りましたね」。両脚の筋肉はかなり傷んでいたようだ。マッサージを受けると、強い痛みが走る。それでも厳重にテーピングしたお陰で、この程度の傷みで済んだ由。膝にサポーターをつけてレースに臨んだのは平成19年の「おきなわマラソン」以来。今回はゆっくり走ったため、何の違和感もなかった。 「次回は2日後に来てください」。院長の指示を無視し、私は1週間後の日曜日を予約した。次の予定レースまで1カ月ちょっとある。確かに通院すれば状態は改善されるが、ここは自分の体の自然治癒力に任せてみよう。私はそう考えたのだ。 5つ目の山を下った湖畔(42km地点) 9月10日火曜日は、街中のホテルで高校時代の同学年会があった。今回は古稀を祝うのが目的だが恩師の姿はなく、同窓会会長が列席しただけだった。高校卒業後52年。物故者も増えた。会は先ず物故者への黙祷で始まった。クラスの仲間は良く会っているので分かるが、他の組の連中は2、3人を除いて見覚えがない。 もうすっかり老人の顔だ。話題も体調の話が多くて閉口した。ある人の提唱で、サミエル・ウルマンの詩「青春」を一緒に朗読した。「青春とは人生のある時期のことではなく」で始まる有名な詩だが、私は黙って聞いていた。男が40になれば自分の顔に責任を持てと言う。70にもなって一緒に詩を読んで人生を振り返って何になる。 70歳の男なら人生訓の2つや3つくらい自分でも作れるはずなのだ。私は数日前に走り終えたウルトラマラソンの話をした。ついでに全都道府県を走った話や、走り始めてから地球2周に達したことも。列席者は51名いたが、ほとんどの人は驚いたようだ。だが1人の学友が近づいて来て私に言った。「年に20回ほどフルマラソンに出ている」と。私は大いに飲み、大いに酔った。 道路標識の磐梯山(57km地点) 9月14日(土)。レースから1週間後のこの日。ブログ更新後、近所の公園を走った。舗装道路と土の道をゆっくり10周。5kmほどの距離に50分近くかかった。脚に痛みはなかった。どうやら「自然治癒力」で痛みが取れたようだ。翌日の日曜日も同様に5kmをゆっくり走った。脚の違和感は全くない。整骨院から電話が来たが、「キャンセルします」と断った。 来月の「浜名湖一周」は100km。果たして今の私に100kmを走破する力が残っているかどうかは分からない。だが挑戦する価値はありそうだ。問題は妻。また心配して何か言い出すだろうが、体調の判断はいつも通り自分でする。「もう駄目だ」と思ったら、その時点でレースは終了。ウルトラマラソンは精神力が強く作用するスポーツなのだ。 長瀬川の土手(61km地点) それにしても「磐梯高原猪苗代湖マラソン」では、良く最後まで走れた。今さらながら奇跡だと感じる。70年近く生きていると、たまにはこんな不思議なことに出会うものだ。これまでもう駄目だと思ったことが6度はあるだろう。何故だか知らないが、その都度何とか立ち直ることが出来た。今回はその典型的な事例だったと思う。ウルトラマラソンの奥深さを感じる所以だ。<完>
2013.09.16
コメント(16)
≪ 奇跡のゴールへ ≫ 45km地点は12時02分の通過。スタート後、既に7時間が経っている。この5kmの所要時間は59分。かなり遅いスピードだ。前方から3千番台のゼッケンをつけたランナーが来る。彼らは制限7時間のフルの部。そのうち100kmの部のトップランナーが見え出した。彼らは65km地点から引き返して来たのだ。同じ道を3度走る辛さは、私も3年前に味わっている。 プルーン これは47.5km地点の第9ASにあったプルーン。美味しかったので6つほど食べ、写真を撮る。他の大会なら絶対出さない高級品だが、ここでは他のASにもあった。ここで血圧と不整脈の薬を服用。ゆっくり走っているので血圧も脈も安定しているはずだが念のためだ。湖畔の単調な道。この付近は湖水浴場だらけで、トイレや駐車場が多い。 心持ちスピードを上げ、歌を歌う。曲は「あまちゃん」の劇中歌、「田舎へ帰ろう」。周囲のランナーが驚いて私を振り返る。100kmの部のパナップさんと出会ったのもこの辺。パナップさんが私を見つけて嬉しそう。お互いにエールを交わしてハイタッチ。最近ヘルニアで腰が痛むようなのに、頑張っている彼。パナップさん、勇気をありがとうね!! 湖畔のトンネル 50km地点を12時49分に通過。残りは15kmだ。間もなく猪苗代町へ入ると、前方にトンネルが見えて来る。道路の左端をランナーが交錯しながら走る。幸い通過する車両が少ないので助かる。トンネルにはスリットがあり、縦の窓を通じて猪苗代湖が見える。だが磐梯山は厚い雲の中だ。脚が次第に重くなって来た。頑張れ自分。まだ先は長い。 55km地点の通過は13時35分。既にスタート後8時間35分が経過している。残りは10kmだが本当の勝負はこれからで、まだまだ油断が出来ない。上戸(じょうこ)で国道49号線と合流し左折。小さなトンネルの手前で、団子3兄弟を抜く。長兄は相変わらず元気で後輩達を叱咤激励しながら走っているが、後の2人はかなりのお疲れモードだ。声をかけて前へ進む。 志田浜AS 56.6km地点第10ASの志田浜では、ガールスカウトのお譲さんが2人、お手伝いをしていた。赤飯のお握りが塩味が効いてとても美味しい。3年前にはソフトクリームの引換券がもらえたのに、残念ながら今回はなかった。開催時期が7月から9月に変わったからか、それとも参加者が増えたためか。 ハーフの部の歩いているランナーがやけに目立つ。わずか21kmなのに、こんなところで歩いていたらゴールは覚束ないだろう。浜辺を過ぎ再び49号線と合流。そこから左折する。ポツポツ雨が降って来たが、弱いので全く気にならない。田圃道から国道の下を潜って北上。秋の田が黄色く色づき始めている。そして懐かしい長瀬川の土手。 60km地点を14時34分に通過。この5kmに59分もかかった。重い足取りで坂道を登る。残り3km地点でゴールのホテルが見え出した。だがそこからが遠い。もう歌は出ず、ウンウンうめきながら前進。畑道で「赤鬼」の仮装をしたランナーと出会った。彼は6月の「いわて銀河」73km地点でのリタイヤ仲間。きっと65kmの部を完走した帰りだと思う。 ついにここまで来た。ホテルへの長い坂道の途中に団子3兄弟の長兄が立っていた。どうやらここで仲間を待ち、一緒にゴールする積りのようだ。偉いねえ先輩は。残りの2人はかなり遅れていると言うのに。でも後日彼がブログに書いてくれたコメントによれば、あの後3人揃ってゴールした由。仲間の1人がこの日誕生日だったようだ。頑張ったね、団子3兄弟!! 苦しんだレースにもとうとう終わりが近づいた。最後の坂を登ってホテル構内へ入り、ゴールへと飛び込む。タイムは10時間21分20秒。2週間前にはほとんど走れなかったことを思えば、奇跡以外の何物でもないだろう。こんな経験は初めてだ。主催者のE藤さんにお礼を言おうと探したが、彼は所用で出かけていた。それにしても最後まで良く脚が持ってくれたもの。良く頑張ったぞ、俺の脚。<続く> 栄光の完走証
2013.09.15
コメント(12)
≪ 名付け親の意地 ≫ 集落に私設の給水所があった。ただ水があるだけだが、その水が冷たくて美味しい。どうやら井戸水のようだ。ああ生き返った。お礼を言って前進。少し行くと松林。その向こうには猪苗代湖の湖水が光っている。この光景を眺めるのはこれで4度目だ。 秋山浜の松林 湖畔の道を暫く行くと中浜AS(エイドステーション)。ここにも集落の人々の心の籠った食べ物が、たくさん用意されていた。茹でたアスパラにマヨネーズをつけたもの。大根の漬物。千切りのゴボウを味噌味で揚げた「ミソ揚げ」。それにお握りなどなど。まさにこれぞ「お・も・て・な・し」。疲れたランナーの体に良いものばかり。夢中になってたくさんいただくランナー達。 中浜ASのご馳走 勇気百倍になって湖畔の道を進む。少し日が差して暑い。腰に挟んでいた帽子を後向きに被る。角を曲がると飯場の前に、40km地点の標識があった。何だか淋しい場所だ。 時間は11時03分。スタートから既に6時間3分が経過している。この5kmに51分かかった。ここから湖畔を離れて山道に入る。本日5つ目の山道だが、これが最後の登りではない。団子3兄弟の長兄が私を追い抜いて行った。元気の良い若者だ。彼にその先のコースとASの様子を教える。 この山道はパンフレットの高低図とはかなり違って、さほど勾配がきつくない。面白みのない坂道を下ると、沼地のような湖畔に出る。この辺りから猪苗代湖の東岸が始まる。湖南公園の岸辺に釣り人。何が釣れるか尋ねると、ブラックバスとのこと。こんな湖にも本来の生態系を崩すブラックバスを放流する輩がいるんだねえ。 船津ASのかき氷 間もなく船津公園のASに到着。ここは44km地点で、湖の東岸を走るフルマラソンの折り返し地点。早速名物のかき氷にありつく。量が少ないので2杯目を食べると、さすがに喉の奥が痛くなる。オレンジとパンを食べて元気回復。次々とフルの部のランナーがやって来て、中にはかき氷を食べる若者もいた。 これが船津公園前の松並木。前から次々にフルの部のランナーがやってくる。彼らはまだ20kmを過ぎたくらいなので、かなりのスピードだ。ここから船津川沿いの砂利道に出る。橋を渡って向こう岸へ行くと、後から団子3兄弟が抜いて行った。おお~っ、3兄弟が揃ったのは久しぶりだ。これは写真を撮ろう。そう思って彼らを呼び止めた。ついでに私もパチリ。頭部に見えるのは濡らしたタオルハンカチ。これで頭を冷やすことが出来る。首の鉢巻も冷却用だ。 若者2人はさっさと前へ行った。「済みませんね」と謝る長兄。「良いんだよ、若いんだから」と私。あの様子では、そのうち必ず追い着くはず。何せ私は超ベテランのウルトラランナー。彼らとは年季が違う。それに私はこのマラソンの「名付け親」なのだ。 以前は「磐梯高原ウルトラマラソン」と言っていたこのレースだが、磐梯高原を走るコースは第3回まで。それ以降はずっと猪苗代湖畔を走るコースに変わった。そこで私はアンケートに「猪苗代湖をレース名に入れるべき」と書いたのだ。それが今回から正式に採用された。そんな訳で、私はどうしても完走する必要があった。まだまだ経験の乏しい若者に負ける訳には行かない。<続く>
2013.09.14
コメント(12)
≪ 苦しみを喜びに変えて ≫ 2つ目の山は150mほどの高低差だった。山を下ると平地に出たが、風景に記憶がない。3年前にも走ったはずなのに覚えてないのは、きっとスピードを上げて通り過ぎたせいだろう。あの年はまだ200kmレースに出るほど元気だったもんなあ。 8時35分。25km地点に到達。スタートしてから3時間35分が経過している。良くこの体調でここまで来れた。我ながら立派なものだ。それもみな経験のなせる業。これまで出たたくさんのレースで、こんな時はどう走ったら良いか体が覚えているのだ。3つ目の山道が目前に迫る。後から「団子3兄弟」の長兄が追って来た。彼は登り坂が大好きなのだとか。 ブナ林 苦しみに耐えながら登って行くと、やがて見事なブナ林が見えて来る。頂上に近づくと、今度はコースの横に萩、ヤマホタルブクロ、ガマズミの赤い実。この歓迎が嬉しい。苦しみが喜びに変わる瞬間だ。ありがとうお前達。俺も頑張るよ。30km地点を9時20分に通過。この5kmに45分を要している。間もなく第5AS。たくさんの選手がここで休んでいた。 第5AS 冷えたスイカ ここにはスイカがあった。夢中になって4個ほど、塩をつけて食べた。冷たくて美味しい。オレンジも梅干しも食べた。キュウリには味噌をつけて食べた。この大会のASは最高。参加人数が少ない分、食べ物にも配慮が可能なのだろう。水とスポーツドリンクを飲み、ペットボトルにアスリートソルトを補充して出発。さあ、再び前進だ。 平潟林道はさらに続き、4つ目の山に入る。コース図だと100mほどの高さしかないが、実際は300m近く登る。それにとても長い坂道。ここはじっと我慢だ。32.5kmを過ぎた。もう半分まで来た。後に戻ってもASはない。どこまで行けるか分からないが、ここは前進あるのみ。 郡山市の標識が見えて来た。会津若松市ともお別れだ。郡山市の領域は、ここから猪苗代湖の東岸まで続く。ゴールの猪苗代町はまだまだ先で、その前にもう一つ山を越える必要がある。 35km地点は10時12分に通過。走り出してから既に5時間12分が経過している。この5kmを走るのに要したのは52分。エイドもあったし坂もあった。時間がかかるのは仕方がない。こうして歩き、走れるだけでもありがたい。ゴールまで残り30km。遥かなる旅はまだまだ続く。 やがて林道は下りになった。結構急勾配だ。慎重に走り、女性ランナーを抜く。足はまだ大丈夫みたい。痛みはあるが耐えられそうだ。麓まで下り切ると、道端に華やかな花の一群があった。紫にピンクに黄色。紫の花はトリカブトに似てるが、まさかねえ。ピンクと黄色はツリフネソウか。すっかり平地になると、前方に湖が見え出した。ここは秋山浜。きれいな浜辺だった。<続く> 秋山浜
2013.09.13
コメント(8)
≪ 湖畔の道、山の道 ≫ 最初の山道 国道49号線と別れて山道へ入る。最初の登り坂は高低差80mほどか。これはコース図には出て来ないが、結構きついので無理せずに歩く。やがて明鏡館と言う重要文化財の前を通過する。宮家の別荘などもある閑静な場所だ。ここでグリーン系統の色で統一された太ったランナーを抜かす。背中には「BOO」のプリント。どうやらブタの仮装らしい。このランナーの歩きがとても速い。登りは歩くが下りでは走る彼。だが私は急な下りも極力歩いて、脚を傷めないよう注意した。 十六橋 ようやく平地になり暫く行くと、前方に橋が見えて来る。ここは「十六橋」。農業用水の乏しい郡山市周辺まで猪苗代湖の水を運ぶ「安積疏水」の分岐点だ。明治期、外国人技術者の手によって完成した疏水のお陰で、「中通り地方」の山間部でも米作が可能になった。少し前、大河ドラマ『八重の桜』を観ていたら、戊辰戦争の時はここでも官軍と会津藩が戦ったようだ。 再び国道49号線と合流。信号から渡った先が3つ目のAS「会津リクリエーション村」で、ここはもう会津若松市。スポーツドリンクと水で喉の渇きを癒して出発。猪苗代湖に注ぎ込む川は多いが、流れ出る川は日橋川のみ。その細い川筋が一瞬だけ見えた。これがやがて阿賀野川となって日本海に注ぐのだ。 道端にアカマンマの花。ここはまだ15kmほどだが、既に歩き始めるランナーもいる。小石ヶ浜へのカーブ道。3年前の大会では、5匹の子猫がニャーニャー鳴きながら道路を歩いていたっけ。あの時の捨て猫は、その後どうなったのだろう。 小石ヶ浜 小石ヶ浜の港には、何艘かのヨットが係留されていた。猪苗代湖ではヨットの他にモーターボートや水上バイクなどで遊ぶ人が多く、所々に湖水浴場もある。ここが16km地点。湖畔の道はさらに続く。「気攻師ランナー」や「団子3兄弟」、ブーちゃんを抜いたのはこの辺りか。少しペースを上げる。空が曇って気温が低く、風もあるためとても走り易いのだ。 5kmほど走ると、前方に4つ目の中田浜ASが見えてくる。スイカはなかったが、オレンジやパンがあった。ペットボトルに水を入れ、サプリメントとアスリートソルトを混入し、これまでに失ったミネラル分を補足。これも安全に走るためには欠かせない作業だ。ここにいたバグ犬にパンを与えると喜んでペロリ。顔の割には人懐っこいワンちゃんだった。 バグ犬と遊ぶ ここは21km地点。エネルギーは十分に補充した。道はやがて湖から離れて山に入る。ここが朝見えた山だろうか。結構勾配がきつい。3年前は走って登れたが、大震災後不整脈で2度手術をした体に無理は禁物。手を振って歩く。後を振り返るとこんな感じ。この後も3回山道が出て来るので油断は出来ない。息を整えながら急な坂を登る。<続く> 2つ目の山道
2013.09.12
コメント(10)
≪ 愉快な仲間達 ≫ 尿意を催したのは3km過ぎだったろうか。都会のマラソンならとてもこうは行かないが、田舎のコースはこんな時に助かる。用を足しているうち、私は最後の方になった。これで良いのだ。今日は順位やタイムを競うのではなく、最後まで自分のペースを守るのが大事。それでも私の後には何人かのランナーがおり、中にはこんな恰好の人も。 どこまでも行こう♪ これは65kmの部のランナー。かなり苦しいはずなのに本人はニコニコ笑っていた。彼らは果たして最後まで楽しんで走れたのだろうか。 そこからさらに進むと、前方に猪苗代湖が見えて来た。その手前には真っ白い花を咲かせたソバ畑が全面に広がっている。ここ会津はソバの名産地でもあるようだ。湖の向こう岸に見える山が、これから私達が走るコース。高低差が200m以上あり、これが結構きついのだ。 猪苗代湖は東北最大の湖で、透明度は日本一とのこと。だが、今年は猛暑で水草が繁茂し、岸辺には刈り取ったヒシ(菱)が積み上げられていた。湖畔の道はとても気持ちが良い。そこをのんびり走るランナーの群れ。お揃いの緑のTシャツを着た3人組が目の前にいた。あのシャツは今年の「いわて銀河」の参加賞。とても目立つので良く分かる。 話をすると3人組は会社の仲間で、少し年上の先輩だけが完走し、後の2人は50kmの手前でリタイヤしたようだ。「そうそう、あそこの関門には水がなかったもんね。でも俺は73kmまで行ったよ」と言うと、皆はビックリしていた。この3人組とは結局50km以上前後して走った。そして彼らの呼び名も「いわて銀河3兄弟」から、「団子3兄弟」に変わった。 ゆっくり慎重に走っている若者がいた。力はありそうなのに、ずっとマイペースを守っている。今回が初ウルトラらしい。彼とは暫く一緒だったが、その後私はスピードを上げたため、それ以降彼の姿は見なかった。でもあの慎重さがあれば、きっと完走出来たはず。 同室の「気攻師ランナー」と行き合ったのもこの辺り。ピンクの帽子を被っていたのでてっきり女性だと思っていたら、何と彼だった。私が傍にいたのが不思議だったみたい。昨夜は「10km走ったら引き返すかも」と話していたからだ。 その辺で私は歩き出した。走り出してから40分が経過したので、脚を休ませるのだ。この2カ月長距離の練習をしていないため、脚を持たせるにはこの方法が効果的。今日は極力マイペースを守ろう。湖畔には葦の茂み。そして大きな柳の樹が何本も見える。 野口英世記念館手前のトイレに飛び込む。どうも先ほどから腹具合がおかしかった。昨夜の懇親会で大いに食べた影響が、まだ残っていたようだ。水を流そうと便器を見たら、なんと私の帽子が中に落ちていた。タイツを下げた時に入ったようだ。悠々と取り上げ、水道水でジャブジャブ。これで運が落ちたか、それとも運が着いたか?(笑) 八幡神社 国道49号線に沿って西行する途中に小さな神社があった。医聖野口英世博士が幼い頃にお参りした八幡神社だ。後年黄熱病の研究中アフリカで命を落とすが、彼はこの付近で生まれたのだ。郷土の偉人を偲びつつ、神社の前を通過。 この辺りから私は調子が出て来た。脚の痛みも感じない。きっと脳内から興奮物質が分泌され、体がレースモードになって来たのだろう。少しスピードを上げ、前へ進む。良いぞ良いぞ、この調子。 長浜AS前 長浜の第2AS(エード・ステーション)で給水。湖にはスワン型の船が浮かんでいる。それを背景に記念写真を1枚。ここでまだ10kmも来ていないはず。そこからさらに走ると、やがてコースは山道に入る。いよいよ最初の難関だ。<続く>
2013.09.11
コメント(4)
≪ 旅の始まり ≫ そっと部屋を出て、先ずトイレを済ませる。次にテーピング用のテープを持参し、階段の踊り場で、足、膝、大腿四頭筋と後脛骨筋に沿って、丁寧にテーピングした。3時、部屋の照明をつけ、同室のランナーを起こす。サポート機能のあるハーフタイツを穿き、左膝にはサポーターも装着。これで何とか最後まで脚が持ってくれたら良いのだが。首には冷却用の「鉢巻」を巻く。 昨夜のうちに準備していた「会津魂Tシャツ」からゼッケンを外し、宮城UMCのランニングシャツに付け替え、玄関のシューズにはタグを装着した。ポシェットには、アスリートソルト(ミネラル分補充用)、アミノ酸とクエン酸入りのサプリメント2袋、現金2万1千円、デジカメを入れた。現金はタクシーに乗る場合に備えてのもの。お昼の分の血圧降下剤と不整脈抑止剤も入れた。 睡眠時間は2時間半だが、横になって休んだ時間を加えれば5時間半。200km超級のレースで2晩寝ずに走ることを思えば、これでも楽な方だ。眠れないままに出した結論は、これまで19年間もウルトラマラソンを走って来れたことに感謝し、今回で卒業する気持ちで走ることだった。それならきっとウルトラの神様も許してくれるはず。 3時半、食堂で心の籠った朝食をいただき、4時過ぎに民宿のマイクロバスでスタート地点のホテルへ向かう。深夜の大雨は上がり、周囲は漆黒の闇だ。ホテルに荷物を預けた後、主催者のE藤さんに遭遇。体調が良くないと話すと、彼は65kmを止めハーフマラソンに出ることを勧めてくれた。だがスタートは7時間後と聞き、予定通り走ることを告げた。 その時心の中で堅く誓った。折角配慮してくれたE藤さんに迷惑をかけないためにも、今日は絶対事故を起こさずに走ることだ。65kmの部の制限は13時間。これまでの経験から、こんな体調の時にはどんな風に走れば良いかは分かっている。スタート地点へ向かおうとした時、S水さんと遭った。昨夜は私の体調を聞いて心配したはず。あの時よりは元気になって良かった。 スタート地点の一際明るい照明の傍に立っていると、同じ走友会のM井さん、Y田さん、T脇さん、Y広さんが来た。彼らは2時に仙台を出て、ちょうど今到着したばかり。Y広さんが私の体調をしきりに心配してくれた。リタイヤの収容バスはなく、いざと言う時のためにタクシー代を持ってると話すと、彼女は少し安心したようだ。 スタート前の私。体調も顔色もいまいち状態だ。 M井さんのカメラで記念撮影。私は1人でも撮ってもらった。私の前には仮装ランナーがいた。漫画「ゲゲゲの鬼太郎」に出て来る妖怪「一反木綿」だ。あまりの面白さに1枚撮らせてもらう。 暗闇の中の「一反木綿」ランナー 5時。100kmの部と65kmの部の静かなスタート。いよいよ長い旅の始まりだ。ホテル構内の下り坂を慎重に下る。1kmも走らないうち、膝に痛み発生。もう2週間以上舗装道路を走っていないのだ。それに20km以上の距離を走るのは2カ月ぶりのこと。堅い道路が傷んでいる脚にどう響くか怖い。ラン仲間のパナップさんが私に声をかけながら追い越して行った。ありがとうパナップさん。俺も慎重に行くよ。<続く>[ 注意 ] このレポートは無謀な冒険を勧めるものでも自慢話でもありません。体調が悪い場合は決して無理に出走しないでください。私はフルマラソン以上の距離を150回以上走った経験に基づき、走り方を考えれば大丈夫と判断してレースに臨んでいます。距離の長いウルトラマラソンでは、十分なトレーニングをせずに臨んだ場合、重大な事故につながる危険性があることを認識のうえで参加されることをお勧めします。
2013.09.10
コメント(12)
≪ 体調の急変と眠れない夜 ≫ 会津若松城(鶴ケ城)では背中に「会津魂」とプリントされた黄色いTシャツを着て見学した。撮った写真は40枚以上。昼食は上杉謙信の仮埋葬地の近くでお握りを食べた。彼の遺骨は越後の春日山城からこの地へ移され、転封が決まると再び掘り起こされて米沢へと運ばれ、そこでようやく永遠の眠りに就いたのだ。 城を出てバスに乗りJR会津若松駅へ。ここからマラソンのスタート地点である猪苗代町へ電車で移動。駅から30分ほどかけて民宿まで歩いた。この日歩いた距離は6kmくらい。幸い脚にはさほど痛みが出ずに済んだ。磐梯山は相変わらず雲に覆われ、裾野しか見えない。ウエルカムパーティーがある夕刻まで、民宿の部屋で寛ぐ。 磐梯山は雲の中 同室の方は65歳の栃木のランナー。フルは4時間以内で走る力があるが、ウルトラは今回が初参加。しきりに65kmを何時間で走れるか気にしている。コースの概要を教え、「8時間以内で走れますよ」と言うと、少し安心したようだ。翌週にある自転車レースの方が本命らしい。私は2度出場した栃木県の代表的なレース「大田原マラソン」の話をした。 4時過ぎ、民宿のマイクロバスで受付と懇親会のあるホテルへ向かう。乗ったランナーは10名ほどだが、65kmの部の参加者が多かった。先ず選手受付を済ませ、ゼッケンナンバーを受け取る。念のため大会役員にリタイヤする場合の話を聞く。やはり収容バスは用意しておらず、必要があればタクシーを呼んで欲しいとのこと。 私はこれまで100kmの部に3度出ているが、タクシーの姿など見たことはない。山中の淋しいコースなのだ。そこでさらに尋ねると、もし体調が悪くなったら、給水所から本部へ連絡してもらうよう言われた。猪苗代湖の周囲は44km以上。交通の手段はなく、基本的に自分の脚で行くしか方法がないのだ。 大会役員と話すうちに体調が急変。異常にパワーが落ちた感じだ。血圧と血糖値が急低下し、脈拍が遅くなった。これは大変。こんな体調で65kmも走るのは無理。脚の不調に加え、心臓の調子までおかしいようではスタートも出来ない。そこへ新潟のS水さんが来た。彼は同じ走友会の所属。「もし何か起きたら」と考え、彼に体調の不安を話した。 会場のホテル 変なことはさらに続いた。懇親会場で胸につけた名札が、いつの間にか半ズボンにあった。それに持って来てないはずのデジカメがポシェットに入っていた。そう言えば先刻会ったS水さんの名前も参加者名簿で見つからず「変だなあ」と思っていた。単なる物忘れか、それとも変調の重大なサインなのか。 挨拶が長い。幕開けの日本舞踊も陰気だし、地元の方の挨拶が25分ほど延々と続くのには参った。6時半、ようやく食べ物にありつく。ビールもかなり飲んだ。体調悪化の一つの原因は「ガス欠」にあると考えたのだ。そこで大いに食べ、エネルギーを補充。その合間に血圧の薬と不整脈の薬を服用。次第に体調が戻って来た。 歓迎のフラダンス 約2時間で懇親会がようやく終わった。抽選会では外国製のポシェットが当たり、記念品に地元産のワインをいただく。食べ物の内容が良く、3千円では安いと感じた。帰路のマイクロバスでは、隣に座った老ランナーが膝に手を当ててくれた。気攻術を習得しているとかで、懇親会の会場でも数人の老女を治していた方だ。 分厚く温かい手。その温もりが膝の内部まで伝わった感じだ。72歳のその方が同室の神奈川のランナーだった。もう一つ気になっていた楽天対日ハムのナイターは、結局田中マー君の開幕20連勝となった。入浴後9時半に就寝。だが12時前に目が覚めてから全く眠れなくなった。その後レースではどうすべきかを考えていた。そしてようやく考えがまとまったのは3時前。もう起きる時間だ。<続く>
2013.09.09
コメント(10)
≪ 八重の城 ≫ 目が覚めるとそこは福島。目の前に黄色く色づき始めた田圃があった。吾妻PAでトイレ休憩。PAのコンビニで缶コーヒーと天津甘栗を購入し、座席で寛ぐ。せめてもう少し時間があったらなあと思う。急遽出場することを決めた「磐梯高原・猪苗代湖マラソン」。あと1週間あれば、脚の痛みが取れたかも知れない。 それにしても最後の2回は余計だったのではないか。水曜日のランは半分にすべきだったし、木曜日は完全休養に当てるべきだったと悔やむ。やはり整骨院の院長は若い。年老いたランナーの疲労回復には時間がかかることを知らないのではないか。あそこは院長の指示に従わず、自分の直感を大事にすべきだった。 安達太良山が雲に隠れて見えない。ここは二本松市。ブロ友のいなかのシルビアさんは多分この辺にお住いのはず。腰骨を圧迫骨折したとブログに書かれていたが、ひょっとしてスコップ1本での農作業が堪えたのではないか。自分の体調が良くないのに私を励ましてくれた彼女をはじめ、ブログにたくさんのメッセージを寄せてくれた友の心を思う。 郡山ジャンクションから磐越道に入り、幾つかのトンネルを抜けると猪苗代町。ここが明日のレースのスタート地なのだが、シンボルの磐梯山はすっぽり雲に隠れていた。 猪苗代湖の白く細い湖水が微かに見える。その向こうには低く垂れ込めた雲。明日はあの向こう岸を一周するのだ。ウルトラマラソンに「れば」や「たら」は全く通用しないのだが胸に過るのは不安ばかり。やがて会津盆地が眼下に見え出した。明日のレースに先立ち、今日は鶴ヶ城を見学する。会津若松城の別名で、戊辰戦争で官軍に敗れた奥羽越列藩同盟の要だった城。後に新島襄の妻となった八重が自慢の銃を持って立て籠った城だ。 終点のバス停で降り、城まで歩く。バスツアーで1回だけ来たが、わずかに外から眺めただけだった。城に近づくと風格のある城が樹木の合間から見えた。濠もなかなか見事なもの。やはり官軍を相手に最後まで戦っただけのことはある。 会津若松城(別名鶴ケ城) 今から約600年前、まだ黒川と呼ばれたこの地に葦名氏が築城したのが最初で、それを奥州の覇者伊達氏が実力で奪い取った。だが秀吉の裁決で政宗がこの城に居たのはわずか2年数カ月だった。その後近江から蒲生氏が伊達の抑えとして入城。その後は越後の上杉氏が120万石の城主となったものの不興を買って米沢へ転封し、その後へ蒲生氏が入って再びこの地を治めた。 その後は加藤氏が伊予松山から40万石で移り、最後は徳川家の親戚筋に当たる保科氏が21万石で入り、その後松平氏と改姓し幕末期に京都守護職となった松平容保公が最後の城主。土地を治め城を築き、東北の雄たらんとした武将達の激しい戦いを、この城は見守って来た訳だ。城は戊辰戦争で焼失したのではなく、明治新政府の廃城令によって取り壊されたそうだ。 歴代城主と家紋 廃城直前の鶴ヶ城(明治期) 天守閣から飯盛山方面を望む 戊辰戦争では八重のような女性陣も城へ立て籠った他、まだ歳の若い藩士達が白虎隊として結成された。彼らは若松市街の東北部に当たる飯盛山に陣地を構えていたが、城が敵の砲撃で焼け落ちたと錯覚し自刃。「ならぬものはなりません」。幼少の頃より藩校日新館で学んだ会津精神に殉じたのである。現在の城は近年再現されたものだが、威風堂々として往時を偲ばせるものがある。なお、城内外の写真は日を改めて掲載する予定だ。<続く> JR会津若松駅と白虎隊の勇姿
2013.09.08
コメント(10)
≪ お疲れ様でした!! ≫ 車中は案外賑やかで、リタイヤした悲惨な雰囲気はない。得意気に話していた隣のランナーが私の年齢を尋ねる。「69歳だよ。去年は不整脈の手術を2回して、今も薬を飲んでいる」。そう言うと、彼は絶句した。ええ~っ、この人は案外年寄りだったんだ。それに心臓の手術を2回も・・。彼は若くて元気な自分が、爺さんと同じ場所でリタイヤしたことを恥じたようだ。 バスは県道1号線を北上する。大会のコースはもう一つ山の中の道なので、選手の姿を見ることは出来ない。ようやく鶯宿温泉付近で大会コースと合流。ここは92km地点。懸命に力走する選手の姿が見え出した。仲間がいないか車中から探したが、それらしい姿はなかった。95km付近で右折する選手達。バスはそのまま直進。前方右手には、秀麗な岩手山が見え出す。 ここで見え出す岩手山が、レース中一番の慰めだった。後5kmでゴール。いつもそう思って最後の力走を試みたものだ。たとえバスの車中からでも、岩手山が見られて良かった。バスは雫石総合運動公園の裏口から入った。その途端、何か動いているものが見えた。あれは岩手県の誇る「チャグチャグ馬コ」。バスから降りた私は、真っ先に馬に駆け寄った。 ≪ チャグチャグ馬コ ≫ 6月2日に福島市で開催された「東北六魂祭」で、盛岡の「サンサ踊り」は見たが、この有名な「馬コ」を見たのは初めて。岩手のブログ友であるニッパさんによれば、滝沢村近隣の市町村の協力を得て、飾り立てられた80頭の馬が祭に参加するらしい。やはり本物は違う。たった1頭だけだが、祭の雰囲気を味わえたのが嬉しい。次にゴール地点で記念撮影したが、まるで自分まで完走したような気分に。 ≪ 雫石総合運動公園内のゴール地点 ≫ 胸のタグと引き換えに、「認定書」を受理。次に体育館でアーリーエントリー分の2千円をもらい、荷物と参加賞を受け取る。体育館の中は、疲れたランナーがノロノロと動き、中には床に横たわった人も。先ず荷物を整理してから男子更衣室へ。ここはシャワー室が開くのを待つランナーの長蛇の列。シャワーを諦め、濡れタオルで全身を拭く。デリケートゾーンの擦り傷が酷く痛む。 ここでバッタリM仙人と出会った。彼は12時間台で完走した由。私より3学年上だが、さすがに鍛え方が違う。半袖Tシャツと半ズボンに着替えて食事会場へ向かう。ここではビール、わさびお握り、銀河汁、ホルモンが半券と引き換えでもらえる。芝生に座って食べているとM仙人が来た。どうやら「おんちゃん」ことT野さんが、初めて完走出来そうとのこと。これは嬉しい。 ≪ 参加賞のしゃれたTシャツ ≫ ≪ ゴール後の食事 ≫ ≪ 銀河汁2千人分を作った大鍋 ≫ まだコースに残っている仲間がいるが、M仙人に断り、私は一足先に盛岡から新幹線で帰らせてもらった。全席指定の列車には空席があったが、私は「ロビー」の床に座ってデジカメの画像を見ていた。練習不足の身で73.3kmまで行けたのは予想外の快挙。このままトレーニングを続けたら、来年はもっと先に行けるかも知れない。 帰宅して荷物を片づけ、風呂に入り、洗濯ものを水洗いし、ブログに簡単な報告を書いた。その後数日間は腸脛靭帯と中殿筋の痛みに悩まされ、1週間走ることが出来なかった。仲間のレース結果は走友会の掲示板などで知った。おんちゃんは何とウルトラに挑戦して10年目での初完走だった由。M井さんも3年ぶりに完走出来たようだ。2人共良かったね。本当におめでとうございま~す。 実力者のO川さん、Kさん、Dさん、それにS村さんの完走は間違いないだろうが、S木さんとY田さんはどうだったのだろう。スピードランナーのS水さんは、9時間台でゴールしたようだが、それでも彼は不満だったみたい。皆、それぞれに頑張ったようだ。 宮城UMC仲間のほとんどは完走出来たはずだが、急遽代理で選手宣誓をしたTさんは、残念ながら86kmの関門で捕まった由。3週連続のウルトラレース出場では無理もない。それでもレース中に200枚以上の写真を撮ったと言うから驚く。もし来年私が写真を撮らずに走ったら、ひょっとして第3関門も突破出来るかもしれない。まあウルトラマラソンに「過去の栄光」や「たら話」は、全く通用しないのだが。<完> ≪ 挑戦10年目で見事完走した「おんちゃん」 ≫
2013.06.17
コメント(16)
≪ 地獄で天女、高原でビール ≫ 折角なのでキュウリに塩をつけて食べ、味噌汁も飲んだ。慌ただしくレストステーションを飛び出しながら時計を見ると、13時35分。関門閉鎖のわずか5分前だった。次の関門が73.3km地点の銀河高原であることは十分に知っている。だが、閉鎖時間までは念頭になかった。相変わらず県道1号線の日差しは強く、どこまでも続く登り坂が疲れたランナー達を苦しめる。 第2関門から500mから1kmほど走った個所で、ある婦人が個人エードを開いていた。おや、あれはS村さんの奥さん。声をかけて飲みものをいただく。氷の塊を入れた冷たい水が美味い。「地獄で仏」とはこのことか。いやいやご婦人に仏はない。ここは「地獄で天女」にしておこう。お礼を言って再びレースに復帰。 それにしても水のない関門や、お握りのない「レストステーション」にはビックリ。レース後大会本部に苦情のメールを送ったが、指定の宛先では届かなかったのも不愉快。かつて、第2回大会の完走記を書いた私のブログを大会本部のスタッフが読んだことがあった。何でも意見を書いてほしいとのコメントだったため、幾つかの要望を書いた。 私の提案は、1)制限時間を13時間から14時間に延長すべきこと。 2)ゼッケンナンバーは前後2枚とし、ランナーの名前を付すこと。 3)エードステーション(AS)に置く食べ物の質を上げること。 4)給水所(または水を入れた容器)の個所を増やすことなどだが、それらのほとんどが、その後実現された。だが、今回選手数を200名増やしたのは良いが、果たして十分に対応したのだろうか。200名増えた分、エードの食べ物を増やすのが当然だが、私には対応出来てなかったように見えた。 「地獄じゃ~!!地獄じゃ~!!」。叫びながら走っている私を、2人連れの女子ランナーが笑う。彼女達の計算によれば、1km7分ペースで行けば第3関門を突破出来る由。私は瞬時に無理だと悟った。疲れ切った体で坂道をそのペースで走れるのは、十分鍛えたランナーだけ。過去6回参加した私の経験だと、フルマラソンを4時間半程度で走れないと完走は無理なように思う。 ≪ ミズ ≫ 小川の畔に生えている「ミズ」を発見。これはとても美味しい野草で、実の漬けものが絶品。清楚なエゴの花も見つけたが、今年はルピナスが少なかった。いつもの年は1m近いルピナスが見事なのだ。しかし、わずか6.8kmしかない次の関門までの遠いこと。疲労が進むと走るスピードが鈍り、距離感が全然狂ってしまうのだ。やがて女子の2人連れが歩き出した。1km7分ペースが無理なことに、彼女達もようやく気づいたようだ。 ≪ 和賀岳遠望 ≫ 69km地点辺りで、左手前方に和賀岳が見えて来た。朝渡った和賀川の水源地の一つがあの山。全く余裕はないのだが、記念に撮影する。GMCメンバーのゼッケンをつけた2人連れが缶ビールを飲みながら歩いている。「諦めたの?まだkm3分ぺースなら間に合うけどね」と冗談を言うと、「ハハハ」と笑った彼らは青森県のランナーで、仲間同士みたい。私は走る。関門通過が無理なことは分かっているが、最後まで全力を出し切るのが自分流。 ようやく道の左側に銀河高原へ向かう「矢印」が見えた。そこを曲がると正面に和賀岳。2年ぶりの風景が懐かしい。第3関門から戻って第4関門に向かう道に、ランナーの姿がない。どうやら制限時間がオーバーしたようだ。いつもの年ならここでランナー同士がすれ違い、エールの交換が出来るのだが、今は道路の片側は無人。それを眺めながら必死に前進。前方に関門が見えて来た。ようやく銀河高原だ。 今回はビール工場の構内には入らず、直進するみたい。既にASでは片づけが始まっていた。役員に申し出て、タイムを申告。到達地点は73.3kmで、タイムは10時間38分。関門閉鎖の18分後だった。これで長い戦いがようやく終わった。役員に頼んで、73.3km地点の標識を撮らせてもらう。次にホテルのフロントで銀河高原ビールを購入し記念撮影。 ≪ 73.3km地点 戦い終えて ≫ ≪ 赤鬼さんもここでリタイヤ ≫ 赤鬼に仮装したランナーも、ここにいた。「仮装を止めたらもっと楽に走れるのに」。私がそう言うと、「この恰好で走るのが良いんです。これでも段々速くなったんですよ」と屈託がない。世の中には色んなランナーがいるものだ。「収容バス」がなかなか来ないので、お互いのレース評を話ながら待つ。それぞれに苦戦した理由はあるのだろうが、誰もが存分にウルトラマラソンを楽しんだみたい。 ≪ 絶品で冷え冷えの銀河高原ビール ≫ 30分ほどかかって、ようやく収容バスが来た。座席に落ち着き、飲んだ缶ビールを記念撮影。車内は寛いだ雰囲気の選手達。さて、今回のレースで「いわて銀河」は4勝3敗だが、全力を尽くしたので全く悔いはない。参考までにこれまでの記録を記して置きたい。☆ 第2回 62歳 完走 12:16:24☆ 第3回 63歳 完走 12:17:43☆ 第4回 64歳 86km 11:19:00 左足靭帯故障中☆ 第5回 65歳 完走 13:29:31☆ 第6回 66歳 完走 13:23:24☆ 第7回 67歳 73.3km 10:38:44 不整脈発生☆ 第9回 69歳 73.3km 10:38:00 不整脈治療中 <続く>
2013.06.16
コメント(8)
≪ じぇじぇじぇ~ ≫ 真っ暗なトンネルを走るのは勇気が要る。足元が全く見えないからだ。それでも道路が平らなことを信じて足を踏み出す。所々に避難用の照明があり、そこだけは明るい。また、たまに車が通る時は、周囲が見えて助かる。そのうち壁が自分の方に寄って来るような錯覚に陥る。闇との戦いは、暗くて狭い所が嫌いな人にとっては相当恐怖に感じるはず。中には思わず歩き出すランナーもいるほどだ。 トンネルの前方に光が見えて来るとホッとする。8年前の第2回大会は5月開催だったが、トンネルの外に大量の雪があった。中山峠のあるこの県道34号線は、冬期には閉鎖すると聞いた。それほど雪が深く、厳しい気象条件なのだろう。だからトンネル内が寒いのも当然。でも私はランニングシャツでも平気。むしろ気持ちが良いくらいだ。 景色が眩しい57.5km地点の第11AS。ここには水が十分にあった。第1関門で水を飲めなかったランナーは、13.3kmを水無しで走ったことになる。きっと苦しい思いをしたに違いない。いや、中には走る気持ちが失せてしまった人もいると思う。スタッフの人が自分のお握りを出してくれた。有難くそれを頂き、水と塩をペットボトルに補給する。 ≪ 57.5km地点の疲れ切った自分 ≫ 変な顔だが、ここで撮った写真を載せておこう。頭からはみ出したオレンジ色の物体は、濡れたタオルハンカチ。常に頭が冷えるよう、帽子の下に入れているのだ。そして後ろ向きに帽子を被るのは、延髄が直射日光に照らされ、運動機能が落ちるのを防ぐため。長時間高温に曝されるウルトラマラソンでは、色んな工夫が必要だ。 ここからは急激な下り。時間を稼ぐには好都合だが、あまり速く走ると後で足や膝に来る。下り坂は疲労したランナーにとって、結構負担になる場所でもある。まだ元気だった頃は猛スピードで下ったものだが、走り込んでいない今は、慎重に下るしかない。後から誰かが追って来る。シャツを見て、「宮城県の人ですか。○○さんを知ってますか」と聞く。「ああ知ってるよ、仲間だもの」。 彼も宮城の人で、100kmレースは今回が初挑戦の由。「もう少し落とせば良いのですが」と言う彼の体重は75kgとか。まだ気持ち良いスピードを出せるのが嬉しい。この先のコースや注意点を彼に教える。足が痛いと言って、そのうち彼は遅れ出した。渓流ではフライフィッシングの釣り人。これも毎回見かける懐かしい風景だ。 ほぼ峠を下り切った所が61.9km地点の第12AS。スタッフの小母さんが巻き寿司を出してくれた。たった1個だが、今は貴重な食べ物。ウルトラマラソンはバナナだけじゃ走れない。腹に溜まる「ご飯もの」が、どうしても必要なのだ。ここで第2関門の制限時間を確認。1人のランナーが正確に教えてくれた。そこまでの距離と残りの時間を疲れた頭で計算する。 「大丈夫、行けるぞ~!!」。大声で叫んで飛び出した私。目の前には1人のランナーが激走中。第2関門の制限時間を教えてくれた彼は5回完走のGMCメンバーで、ゼッケンの色が違う。「制限は12時40分だが、第3関門を通過するためには12時30分までに着く必要がある」と彼。今回は50kmまでと思っていた私は、正直そこまでは考えてなかった。 緩い下りが心地良い。ここで飛ばすと、後で効くのは分かっているが、自分の体に任せる。どうやら第2関門は突破出来、第3関門の銀河高原までは行ける計算。良いぞ良いぞ、これは嬉しい誤算。もうすぐ50kmの部のコースと出会う県道1号線は近い。問題はそこから。緩いがずっと続く登り坂。日光を遮るものが全くない地獄のような道なのだ。 ようやく県道1号線に合流。足音を聞いて振り返ると、体重75kgのランナー。彼にも注意点を教える。第3関門まで行くには、次のレストハウスでのんびり休憩しないことが大事だ。ところが彼はそこに荷物を預け、着替えする予定とか。初挑戦の彼なりに立てた作戦だろうが、多分それでは苦戦するはず。 選手のゼッケンナンバーを読み上げる声が前方から聞こえる。おお~っ、やっとここまで来たか~。喜び勇んでASに飛び込むと、お握りが1個もない。何と走り去ったランナー達が全部食べてしまったのだ。「味噌汁とキュウリがあるよ」と小母さん達。あのねえ、それじゃ全然エネルギーにはならないの。 水が全くない関門も酷いが、ご飯ものが全くない「レストステーション」も酷い。まさにじぇじぇじぇ~!!の事態発生。「レストステーションと言うのは、ご馳走がある場所の意味なんだよ」。小母さん達にそう話しても解決にはならない。そこでポシェットから草餅を取り出して食べる。驚く小母さん達を尻目に、ペットボトルにはアスリートソルトを投入。これはミネラル類を豊富に含んだ、沖縄県宮古島産の優れ物なのだ。何事も用心が肝要。ウルトラは経験が物を言うスポーツだ。 次の目標73.3km地点の銀河高原。そこはこれまで自分が走った最低記録の場所。だがこの体調と練習不足でそこまで行けたら「オンの字」だ。この「いわて銀河」は「秋田内陸」と違って、関門を通過した場合はリタイヤの意思表示をしない限り次の関門まで走らせてくれる。これでどうやらY田さんと話した「銀河高原ビール」が飲めそうだ。<続く> ≪ 次の目標は・・ ≫
2013.06.15
コメント(8)
≪ じぇじぇ~ ≫ 山道に入り、少しずつ高度を上げて行く。走っているランナーはまばらで、ほとんど見かけない。賑やかに蝉が鳴いている。後で聞いたら、あれは「ハルゼミ」と言うらしい。沖縄本島を走って1周した時は、11月末なのに蝉の鳴き声が煩かった。まるで金属音のような感じ。それに比べればこのハルゼミは情緒がある。そしてホトトギスの鳴き声も聞こえる。 ヤマツツジが咲いている。所々に見事な山藤も。自然が豊かな山道を見ながら走れるのは、ウルトラランナーならではの楽しみだ。いつの間にか全く痛みが気にならなくなった。「魔法の水」が効いて来たのか。それとも脳内から分泌される「興奮物質」のせいか。今はレースに集中出来ていることを喜びたい。時々左手に現れる豊沢湖がきれい。このダム湖に沈んだ豊沢集落の記念碑が見えて来た。 ≪ 豊沢湖 ≫ コースはアップダウンを繰り返す。太陽は頭上にあるが、山風が爽やか。やがて左手にASが見えて来た。49.6km地点の第10AS。そして初めての関門でもある。水を飲もうと近づくと、スタッフの人が「水はありませんよ」と言う。「じぇじぇ~!!」第1関門のASに水が無いなんてことが果たしてあるだろうか。これは悪夢か? 「私達も困っているんです」とオジサン。私は怒って言い返した。「一番困るのは選手です。こんな暑い日に水が無かったら、走っている選手は死ぬんですよ」。その抗議に、さすがのオジサン、オバサン達は皆黙った。多分地元から狩り出されたボランティアの人達で、彼らに責任はない。だが、本部と連絡体制が取れないと、こんな非常事態の場合は困るのだ。 スタート前、「今日は最高気温が28度になります。選手の皆さんは十分に注意して走ってください」などと、放送を繰り返していたじゃないか。自分の生命が大事なので、当然選手は頭から水を被る。この高温は数日前から予想されていたはず。それなのに、十分な「被り水」を用意しなかったため、飲用水が足らなくなったのだ。 以前は自衛隊が給水に協力してくれていた。それが災害救助のために、手が回らなくなったのだろうか。もう第9回の開催で十分ノウハウは蓄積されているはずなのに、この対応とは腹が立つ。51km辺りに監察車が止まっていた。近づくと役員が降りて来て、「リタイヤか?」と聞く。その横柄な態度にも怒りがこみ上げる。 「リタイヤじゃないです。第1関門に全然水が無いですよ。あれじゃ選手は走れません」。そう言うと、さすがの役員も慌てた様子。多分長年体育の教師をしていたのだろう。それが退職後、地域の体協役員になったのだと思う。ずっと「お山の大将」で来たため、どうしても「上から目線」が治らないのだろう。困ったもんだよ全く!! 私は関門で水を飲んだ。それはスタッフの飲みものを冷やしていた残り。例え汚れていても、命には替えられない。それに私はスポーツドリンクと塩が入ったペットボトルを持っている。まさに「命の水」。だが、飲めなかった選手は一体どうなるのか? 炎天下を長時間走って来て、ようやく給水出来ると喜び勇んでASに来た選手の驚きと不安に対して、一体誰が責任を取るのか。 道は5回も6回もアップダウンを繰り返す。そのまま登り坂なら良いのだが、何度も上り下りを繰り返すこのコースは、疲れたランナーをさらに疲労に追い込む。一見登っているようには見えないのだが、後を振りかえると結構な勾配だ。毎回そんな錯覚と戦う私。走れない急坂では、大きく手を振って歩く。 トボトボ歩いている選手はすっかり気力を失った様子。ひょっとして関門で水が飲めなかったのだろうか。ウルトラマラソンは距離が長いだけに、レース中色んなハプニングが起きる。だから汗かきの私は手にペットボトルを持って走り、AS毎に水を補給し、塩を入れる。水だけでもダメ。大量の発汗は大量のミネラル不足を招き、体調を崩す原因になる。 前方にトンネル。いよいよ中山峠も終わる。最初のトンネルは小さい。暗く涼しいトンネルは疲れたランナーを癒してくれる。2つ目のトンネルは長い。中は真っ暗でとても怖い。3つ目は1800m近い長いトンネル。だがトンネル手前のバケツにも、水はほとんど残っていなかった。底のわずかな水を柄杓で掬って一口飲み、残りを頭に掛ける。<続く> ≪ 中山峠のトンネル ≫ ≪ 真っ暗で寒い風が吹くトンネル内 ≫
2013.06.14
コメント(12)
≪ 「なめとこ街道」 ≫ 21.2km地点の第3ASで、ペットボトルに塩を入れ、頭から水を被る。気温は20度ほどだが、3時間近く走っているとかなり暑く感じる。膝や腰にも水。少しでも冷やせば、炎症を抑えられるかも知れない。ランナーがかなり疎らになった県道37号線は、歪みながら北上。24.4km地点の第5ASを過ぎると間もなく花巻市。 やっとここまで来れた。だが市が変わっても農村風景は同じ。ここ数kmの間、あるランナーと同じペースで走っている。帽子はピンクで、パンツもピンク。茶髪なので女性なのだろうが、大柄で肩幅もある。スタート前に女装の男がいると聞いた。また「はるな愛」が出場しているとも聞いた。ひょっとして前を走っているのは「はるな愛」こと「オオニシケンジ」か。そう思って密かに腰の膨らみや胸を観察していたのだ。 それにしてもなかなかのペースで、フォームが安定している。「○○時間テレビ」で芸能人がわずか数か月のトレーニングで100kmを走るのが恒例行事だが、あんなのはインチキ。数カ月ではフルマラソンでさえ無理。数年前「磐梯山・猪苗代湖ウルトラ」の66kmの部に出た梅宮アンナを見たが、彼女は数人のお伴を連れていた上、最後は父親の車に乗ったもんなあ。 だが第6ASでスタッフと話す彼女の声を聞いて、完全な女性だと分かった。それに顔が小母ちゃん。この後も彼女の後姿を何度か見かけた。ゴール地点で会った時に話をしたら、86.3km地点の第4関門で捕まった由。間もなく左手に「高村光太郎記念館」の看板。光太郎の別荘があったと言うこの付近は良く覚えている。そして豊沢川を渡る橋が「高村橋」。 コースは間もなく左折して山に入る。いよいよ「なめとこ街道」だ。徐々に高度が上がりランナーを苦しめる。ここは花巻の温泉郷で、道沿いにずっと温泉が続く。最初が松倉温泉。坂の途中にある志戸平温泉を記念撮影。豊沢川沿いの建物は風格があって私は好き。このホテルは送迎バスが仙台駅まで迎えに来てくれてとても便利なのだ。 ≪ 坂の上の「志戸平温泉」 ≫ 次に大沢温泉。次いで山の神温泉に高倉山温泉。だが鉛温泉前のスキー場がなかなか見えて来ない。不整脈の影響と2度の手術で体力が落ち、満足に走れなかったために、すっかり距離感が狂っているのだ。39km地点。右足に違和感を覚え、道端に腰を下ろす。ずっと水を被ったため足のテーピングが取れたのだろう。靴下を脱ぎ、折角のテープを剥いで捨てる。 一旦走り出したものの、まだ違和感。だがシューズの中に手を入れると、原因が分かった。医療用インソールのカバーが水に濡れて剥がれ、丸まっていたのだ。もし乾燥したままならシリコン製のインソールは摩擦熱が生じるが、濡れた靴下を穿いているので行けるはず。そう判断して再びレースに復帰。100kmの道のりでは途中で何が起こるか分からない。だが冷静に対処して前進するしかないのだ。 鉛温泉通過。西鉛温泉も通過。新鉛温泉を過ぎると、ようやく雪よけ用のシェルターが見えて来た。トンネル内では警備員がランナーを護っている。急こう配のトンネルを抜けると、目の前に豊沢ダム。ここは43km辺り。既にフルマラソンの距離は走った。今年走った最高は1月末の「寅さん詣り」の44km。「よし、絶対今年の新記録を作るぞ。そして行けるところまで行こう!」。 ≪ 豊沢ダム ≫ わざわざ右に渡って放水の勇壮な景色を見た。ダムを過ぎると小さなトンネルで、中はひんやりとして気持ちが良い。豊沢湖を左手に見ながら山を登ると、目の前を歩くHさん発見。「頑張って50kmまで行きましょう」。そう励ますが、「もうダメだ」と諦めたような声。これが73歳の彼の最後のウルトラレースになるのだろうか。いずれは私も経験する厳しい現実だ。<続く>
2013.06.13
コメント(6)
≪ 走友達の力走 ≫ 上下スーツ姿のランナーが行く。もちろんネクタイも締めている。金棒を持った赤鬼も、女学生姿の男もいる。きっと仮装するにはよほど完走の自信があるのだろう。運動公園を抜けた4km過ぎ、H夫人を抜いた。苦しそうな表情の彼女は、帯状疱疹が酷いらしい。埼玉の「奥武蔵」(距離75km、高低差900m)や富山の「立山登山マラニック」(距離65km、高低差3003m)でも、一生懸命走る姿を見たが、彼女も私同様岐路に差し掛かっているのだと思う。つまり年齢の壁だ。 道は西行と北上を繰り返しながら、少しずつ北へ向かう。周囲は静かな農村で、応援する人はほとんどいない。明るく澄んだ朝の空に、吹く風が心地良い。Hさんのご主人が抜いて行った。結構なスピードだが、きっと奥様の体調を心配しているはず。若い頃は円谷幸吉選手と共に走ったエリートランナーの彼が、今は老化との戦いに苦戦している。 O川さんが行った。彼は「川の道」520kmを完走した勇者。練習のため盛岡から仙台まで、一睡もしないで200kmを走り通した男だ。「祝賀会に出られないでゴメンね」と言うと、「良いんですよ。それより復活ですね」と彼。「こんな俺が復活?」と思ったが、それが彼の優しさ。口には出さず、有難く心で受け止めた。今日も一番後ろからスタートしたのだろうが、あっと言う間に彼の姿は見えなくなった。 Kさんが来た。彼もO川さんと一緒に今回「川の道」520kmを走り切った男。「仙台国際ハーフでは体が曲がっていたね」と言うと、「今でも曲がっているんですよ」と彼。直前には東京の「柴又100km」も完走している。大した精神力だ。Y田さんが抜いて行った。「73km地点で銀河ビールを飲みましょう」と彼。お金は持っているが、私はそこまで到達出来るかどうか。 大震災による原発事故で故郷へ帰れなくなった彼が、仙台近郊に家を買ったと聞いた。9月には「猪苗代湖一周」(66km)に出場する由。私も出る予定なので楽しみだ。山並み、農家、牛舎、そして広大な田圃。そんな農村風景に心が洗われる。何の目印もない田舎道の所々に、ピンクのタニウツギと真っ白なヤブテマリの花。 ≪ ヤブテマリ ≫ 緑色の帽子とTシャツ姿のS木さんが来た。短い距離しか走っておらず、スピードが出ないと嘆く彼。4月の「かすみがうらマラソン」(フル)では盲人ランナーの伴走を務め、5時間台で完走したと聞いた。「奥さんに公園で応援してもらったよ」とお礼を言い暫く並走。「少し前へ行くよ」と私。病後の私が先に出たことで、彼もスピードを上げる決心がついたようだ。彼は高校の後輩。「何言ってるの、俺より3つも若いくせに」。きっと私の言葉に発奮したのだと思う。 「相当走り込んでますね」。そう言いながら抜いて行ったのはM井さん。Dさんと一緒に前を走っていた彼が、何故こんな所に?と訝ったが、きっとトイレ休憩だったのだろう。「これは草取りのせい」。私がそう答えたのは、露出した肌が焼けているのを見て彼が判断したから。彼も不調な時期があったようだが、今は復調して猛練習を重ねている。 もう後に走友は誰もいないはず。追い抜いて行ったY田さんの話だと、H夫人はその後も体調が悪く、途中で吐いていた由。私と同様、長らくレースから遠ざかっていたため、体力が戻ってないのだ。だが、レースでは誰も助けることは出来ない。苦しくても前進するか、それとも走るのを止めるかを決めるのは自分自身。道端のマーガレットが苦しむランナー達を眺めている。そして頭上には容赦なく照りつける太陽。 ≪ 一面のマーガレット ≫ 11km辺りで左膝と右脚に痛み。練習では13km付近で出る痛みが、今日は少し早めに出た。そして13km過ぎには右股関節に痛み発生。これはピンチ。きっと痛む足を庇ったため、別の個所が痛み出したのだろう。道路の左側ばかり走ると、常に低い右足に負担がかかるのだ。14.7kmの第3AS(エイドステーション)で給水し、バナナを食べ、痛む個所に水をかける。 こんな状態では30km持つかどうか。今日は厳しい戦いになると覚悟。痛みをこらえながら走っていると、18km過ぎに美しいゴルフ場が出現。2年ぶりの懐かしい風景だ。そこから道は下り、20km付近で堂々たる川を渡る。北上川の支流の和賀川だ。橋の上で立ち止り、写真撮影。この川の源流は銀河高原の和賀岳。果たして今日は、あの美しい山容を見られるだろうか。<続く> ≪ 和賀川の橋の上で ≫
2013.06.12
コメント(6)
≪ ああ勘違い!? ≫ レース当日は2時5分前に目覚めた。前日、前夜祭の会場からホテルへ移動し、チェックインの後で買い物に行った。駅前のビルでは、トマト1個、牛乳、カクテル、駅ビルではお握り、サンドイッチとワンタンを買った。エネルギー源としてはまだ不足と感じたためだ。ホテルに戻って大浴場に入り、ナイターを観ながらの夕食。残念ながら楽天が巨人に突き放されたようだが、いつの間にか眠っていた。 9時に一旦目覚め、照明を消して本格的に眠る。クーラーを点けたが、北上の夜は蒸し暑かった。これじゃ沖縄と変わらないなあと感じつつ、5時間半ほど睡眠時間を取れた。2時のモーニングコールの時には、既に起きていた。最初にトイレ。次に両足、両膝にテーピング。だが、右太股分のテープを忘れた。仕方がないので、ハーフタイツの上からエアサロンパスを噴射。何とか頼むぞ、俺の脚よ。 食堂にはHさんが居た。「奥様にもよろしく」と挨拶し、朝食を受け取ってホテルを出る。駅前から乗ったバスは2時半に出発。車中は無言のランナーばかり。きっと不安のせいだろう。15分ほどで北上総合運動公園に到着したが、まだ周囲は真っ暗。例年のことだが、前夜この運動公園に仲間達が泊っている。つまり寝袋持参で、無料と言う訳。全くタフな連中だ。 ≪ まだ真っ暗な競技場 ≫ 先ず出走前のチェックを済ませ、床に座っての朝食。これまではホテルで済ませた朝食だが、スタート時間に近い方がその後の「腹持ち」が良いとの判断だ。M仙人が来た。彼はいつも通り車中泊。他の仲間は会議室で眠れた由。M井さんの姿は遠くから見えたが、他の仲間とは会えず仕舞。「荷物預かりは3時45分までです」との館内放送。「ええ~っ、少し早過ぎじゃないの~」と私。この時点では自分の勘違いに全く気づいていない。 その後2度目のトイレを済ませ、荷物を預ける。ところが選手の姿が少ない。「おかしいなあ」と思ったら、既にスタート地点のサブグランドに移動したみたい。「選手の皆さんは、サブグランドへお急ぎ下さい!!」と繰り返す放送。私はてっきり5時スタートだと思っていたのに、何とスタートは4時。昨年出場しなかったための勘違いだった。 自販機でスポーツドリンクを買い、サブトラックへ向かう。少しずつ夜が明けて来た。外気温は17度で、ランシャツでも寒くない。これで走り出せば、直ぐに汗をかく。スタート前に記念写真。今回は初めてデジカメを持って走る。完走は困難と見て、時計もストップウオッチ機能に変えないまま。まあなるようになるさ。 ≪ 「使用前」の自分 ≫ マイクから夫婦漫才の宮川大助、花子がしゃべる声。「チーム吉本」が駅伝の部で出るため、彼らも招待されたのだ。スタート前に仙台明走会のパナップさんと挨拶。このレースで5回完走すると、ゼッケンナンバーを自由に選べる「GMC」メンバーになれるのだが、「324」は彼に譲ろう。歳はかなり離れているが、2人共3月24日が誕生日なのだ。 4時ジャスト。ランナーが一斉に走り出す。いよいよ100kmマラソンのスタートだ。運動公園内のコースがいつもと少し違う。S木さんの奥さんが私を見つけ「Aさんガンバ!」と声をかけてくれた。今回もご主人の応援に来られたのだ。彼女が闘病生活を送っていることは知っている。「ありがとう!!」。大声でエールに応えて前進。2周目の時に、すっかり明るくなった競技場を撮った。これも何かの記念。<続く> ≪ 夜明けの北上総合運動公園グラウンド ≫
2013.06.11
コメント(8)
≪ 仙人との旅 そして仲間との再会 ≫ 『第9回いわて銀河100kmチャレンジマラソン』はようやく終わった。2年ぶりに参加した今回は、10時間38分走って、73.3kmの第3関門まで行けた。それが限界。制限時間を18分オーバーし、その先に進むことは出来なかった。だが、もし時間に間に合ったとしても、第4関門まで到達するのは無理だったろう。 厳しいコースと照りつける太陽に体力を奪われ、足は既にボロボロだった。しかし、あの体調で良く73kmも走れたものだ。これは我慢と経験のなせる業。最初はレースから遠ざかっていてすっかり感覚を忘れていたのに、厳しい峠道に差し掛かった頃から、私の胸には「ウルトラ魂」がメラメラと燃え上って来た。次の関門を突破しようとするのは、きっとこれまでに培った本能みたいなものだろう。 突然の雨だった。慌てて洗濯ものを取り込み、室内へ干した。それから傘を差して、M仙人との待ち合わせ場所へ急ぐ。今日はM仙人の車で、岩手県北上市の受付会場へ行く。ゼッケンナンバーなど必要なものを受け取り、その後前夜祭に出る積り。私より3年先輩のM仙人は、あまり遅いので心配していたようだ。だが温厚な彼の怒った顔を観たことはない。 ≪ M仙人 ≫ 彼は70歳を過ぎてから「エベレストマラソン」に挑戦した超人。5月に私も走った「仙台国際ハーフ」の後、彼は「富士山1周100kmウルトラ」と「吾妻スカイライン」(今回は62kmに短縮)を走破している。並みのランナーではないのだ。その彼と、レースの話や仲間の消息について情報交換する。宮城県北部から岩手県南部にかけてにわか雨。高速道脇の気温は27度の表示。 会場の「北上勤労者体育センター」で受付し、ゼッケンナンバーなどを受け取る。これがないと明日は走れない。秋田のDさん、新潟のSさんなど仲間の姿を発見し挨拶。その後、前夜祭のある体育館に移動。ここにM仙人、私、S木さん、M井さん、Dさん、Y田さん、S村夫妻、T野さん、S水さんら走友会の仲間とH夫妻など宮城UMC仲間12名が勢ぞろい。 開会式の後、各自缶ビールと折詰をもらって、一気に飲み会に突入。明日のレースの心配などどこ吹く風で、大いに食べ、大いに飲む。何しろ岩手の銘酒がどれも飲み放題なのだ。食べ物をどんどん運んでくれるH夫人に、「仙台国際ハーフ」で応援してもらったお礼を言う。ご主人のHさんはウルトラ最後のレースにこの「いわて銀河」を選んだ由。彼女自身も体調が思わしくない中で出場を決めたようだ。 その気持ちがとても良く分かる。いかに凄いランナーでも、いつかは歳をとって思うように走れなくなる。実際私自身がその良い例だ。頭の中には「まだやれる」との幻想が残っているのだが、実際レースに出ると、思うように脚が動かないのだ。選手宣誓は9回連続出場のT田さんだった。彼も宮城UMCの仲間。最前列に行って撮った写真を載せておこう。ついでに酔っ払った私の姿も。仲間の写真は数が多いため、割愛させていただいたので悪しからず。<続く> ≪ T田さんは年間30レースほどに出場している猛者 ≫ ≪ 前夜祭会場と酔っ払った赤鬼 ≫
2013.06.10
コメント(10)
≪ 『いわて銀河』速報 ≫ 留守中にたくさんのコメントやエールをお寄せいただき、どうもありがとうございます。お陰様で、怪我もなく無事レースを終え、帰宅することが出来ました。結果は第3関門(73.3km地点)で、制限時間オーバーのため、途中リタイヤになりました。体調があまり良くなく、練習不十分の割には良くそこまで走れたと思っています。最後の最後まで頑張ることが出来、心から満足しています。「リタイヤ記」は明日から書き始める予定です。どうぞ最後までお付き合い頂けると嬉しいです。先ずは走った「証拠」に、『認定書』を張りつけておきますね~。
2013.06.09
コメント(6)
≪ いざ『いわて銀河』へ ≫ 前回は沖縄へ旅行する前日まで、『仙台国際ハーフ』の完走記を書いていたが、今回はその逆パターン。『いわて銀河』へ出かける前日まで、沖縄旅行記を長々と書いた。体調はあまり良くない。4月末から5月初めの連休で傷めた膝の回復が思わしくないのだ。昨年は2度の不整脈手術を受けた。その結果かなり体調は戻ったが、ウルトラマラソンを走れる体力と走力はまだ戻らないままだ。 老化の影響が大きいようだ。トレーニングのお陰で心肺機能の心配はなくなったが、筋力が戻らず、無理をすればどこかを傷めてしまう可能性が高い。でも、こんな時は考え方を変えるのが大事。今回は(も?)行けるところまで行くのが正解だろう。 『いわて銀河』への参加は、昨年の暮れに決めた。まだ練習を再開して4カ月しか経ってない時期。そしてレースからは1年3カ月も遠ざかっていた。6月のレースまで半年もあるのに、一体なぜ?と思うかも知れない。それは「アーリーエントリー制度」のため。年末までにエントリーすると、レース後2千円のキャッシュバックがある。たとえ完走出来なくてもだ。 なぜそんな状態で100kmの部なのか。一つは料金が50kmの部(1万2千円)と変わらないため。つまりキャッシュバックを考えれば一緒なのだ。二つ目の理由は、50kmの部のスタート地点まで行くのが不便と感じたせい。これまで参加した6回は全て100kmの部なので、その方が慣れているのだ。そして、果たして半年先に100kmを走れる体力が回復するかも分からないのに申し込むのは、自分の「夢」。「ひょっとして俺はまだ100kmを走れるのではないか」との幻想だ。 50kmの部は峠越えがない分楽だし、きっと完走出来ると思う。来年参加する場合は50kmの部。その方が楽しい年齢になった。だが今回は、あの厳しい峠越えに挑戦する。今の体調、今の走力でどこまで行けるかを試してみるのだ。でも無理は禁物。今後に響くようなことをすれば、予定がすっかり狂ってしまう。 目下の予定は以下の通り。6月下旬『みちのくラン』は、30kmのマラニック。7月下旬の『チャリティラン』はフリータイムの部に参加予定で、30km~40kmは走るだろう。同じく7月下旬の所属走友会の合宿では、30kmくらいは走ると思う。8月初旬の『薬莱山とお足』は55kmのマラニック。9月の『猪苗代湖一周』は65kmのウルトラレース。 10月の『大阪マラソン』(フル)は目下抽選待ちだが、外れる公算が強い。そのため『浜名湖一周』(100km)に参加申請中。こちらも選考待ちだが、行けそうな気がする。11月の『神戸マラソン』(フル)も抽選待ちだが、今年は何とか参加したい。こんな風に予定レースがぎっしり入っているため、一番怖いのが怪我。怪我が長引けば、折角の高いエントリー料金が無駄になってしまう。 はっきり言って練習は不十分。長期間疲労と痛みがあったためだ。ここ1カ月以内に一番長く走ったのが21kmでは、レース本番だとせいぜい50kmがやっと。それでも傷んでいる両膝が途中で悲鳴を上げるはず。それを少しでも補強するためテーピングをし、サポート機能のあるハーフタイツを穿く。当日の最高気温は27度か28度。今年はまだそんな気温の中で走ったことはなく、その点でも苦戦は免れない。 過酷なレースに備えて、サングラスを新調した。これはポイントが残っていたため、「ただ」で買えてラッキーだった。発汗を助けるために散髪も済ませた。シューズをネットで買ったが、これは軽過ぎた。スピードの出るハーフマラソンには良いが、ウルトラ向きではなかった。登りは良いが、下りで足や膝を傷める可能性が高い。私は「走らないよう」整形外科医からドクターストップを食ってる身なのだ。 ≪ 軽過ぎたニューシューズ ≫ 出来れば40kmは走りたいし、慾を言えば峠を登り切って50km地点までは到達したい。だが、66km地点の「レストハウス」には荷物を預けない。きっと今回そこまで辿り着くのは無理のはず。でも俺はオレンジ色のランニングシャツと帽子を被る。それは「宮城ウルトラマラソンチャレンジクラブ」のユニフォーム。大勢の仲間と一緒に、この色で走りたい。たとえ途中リタイヤでも、気持ちだけは仲間と共に前進する積りだ。<続く> では皆さん行って来ま~す!! 帰宅は明日の夜遅く。それまで留守しますがよろしくね~♪ (おまけ)そうそう、こんな写真も買いました。『仙台国際ハーフ』の時にプロが撮ったものです。さすがに迫力が違いますね。レース中、私はこんな苦しそうな表情をしていました。それだけレースが過酷だったことの証明です。ついでにゴール時のものも掲載しましょうかね。 ≪ 『仙台国際ハーフ』での勇姿? ≫
2013.06.08
コメント(16)
≪ 達成感と疲労感 ≫ K藤さんとK村さんは既に食事を済ませ、これからお風呂へ行くところだった。2人の祝福を受け、S木さん手作りのスープを飲む。暖かいスープが疲れた体に嬉しい。キャベツの芯もウインナーも美味しい。スープを全部飲み干してお代り。今度はうどんとカモのスモーク入り。缶ビールも飲んだ。冷たいビールと暖かいスープ。失った体内の塩分を、しっかり補うことが出来た。 S木さん、雲峰師匠、S原パパと短い会話。荷物が残っているところを見ると、まだ到着していない人が何人かいるようだ。挨拶してお風呂へ向かう。スーパー銭湯は大変な人混みだったが、構わず床に荷物を広げた。シャツを脱いで胸のゼッケンナンバーと、背中の「がんばろう東北」を外す。両足のテーピングを外し、全てゴミ袋に入れた。私が最後まで走れたのは、ゴミとなったそれらのお陰だ。 長い風呂から上がり、牛乳を飲んだ。そして傷んだ足には冷却用スプレー。着替えて休憩所へ戻ると、K藤さんとK村さんが仙台の女性ランナーを待っていた。横に座って話し込む。その間に乳酸飲料を2本。それでも喉が渇き、お茶も買った。2人に断ってお先する。大相撲千秋楽は日馬富士が白鵬を下して全勝優勝だったが、話に夢中でその取り組みを観てなかったのが残念。 表に出て、地下鉄東西線ではなく、JRの葛西臨海公園駅へ向かった。チケットがそのまま使えるし、さほど遠くないと判断したのだ。冒険かと思ったが走ってみる。ゆっくりとなら大丈夫みたい。リハビリのためにもきっと良いはず。ところが駅までかなり遠く感じた。後で測ったら3.2kmあった。4人の人に尋ねて無事到着。最後の陸橋は、何とスタート後、最初に迷った陸橋だった。これで朝走った分、レースの分、帰路の駅までの分を合わせると、1日にざっと50kmを走った計算だ。 東北新幹線は東京駅が19時発。早速夕食にかかる。お握り、チーズケーキ、笹かまぼこ、お菓子、キンカンなどを食べ、缶ビールを飲んだ。それからコースの地図を見ながら、思い出すことをメモして行った。ブログを書くためだが、後日詳しい地図を見、ジョギングシュミレーターで距離を測ると、レース中のことやコースの風景のほとんどが鮮やかに蘇り、メモは全く不要だった。 主催者のS木さんは「あれはレースじゃなくてマラニック」と言うが、私にとっては十分レースだった。たとえ参加者が50人でも、心と体が単独走とは全く違う反応をするのだ。走り切った喜びはあるが、制限時間の厳しいフルマラソンや100kmマラソンだと、今の状態で完走は無理。それはこれまでの経験で分かるのだ。昔ならイメージ通り完走出来たのが、今はイメージと現実との乖離が大き過ぎる。 翌日体重計に乗ると、体重はレース前と変わらなかったのに、体脂肪率が4%減っていた。重さにして2.66kgの体脂肪が燃えた計算だ。それでレース中のエネルギーを作り出したのだろう。レースの興奮は2日ほどで治まったが、強い疲労感が1週間残って、全く走ることが出来なかった。 昔なら考えられないことだが、レースに出られなかった1年4カ月の間にそれだけ老化が進んだのだ。厳しい現実だが、それを受け入れるしかない。自分なりに楽しめる方法はまだあるはず。たかがランニング。されどランニング。私にとってランニングは、やはり永遠のテーマだ。<完>
2013.02.03
コメント(14)
≪ 幾つかの奇跡 ≫ この調子じゃフルマラソンはとても無理だ。実はちょうど2週間後に福島県の「いわきサンシャインマラソン」に出ることにしていた。大きな震災を受けたにも関わらず、1度も休まなかった大会だ。いわき市の復興ぶりと自分の体調の復調を確かめるためにも何とか行きたかったレースなのだが。足を止めてポシェットから塩が入った小袋を出し、塩を舐める。 両膝の痙攣は練習不足と筋力の低下のためだと思う。まさかこんなことで痙攣が治まるかは分からないが、念のためだ。それで走ってみてビックリ。何とゆっくりなら走れるのだ。いや~。こんな奇跡があるだろうか。やはり暑さで大量の汗をかき、ミネラル分を失ったことも関係していたようだ。江戸川清掃工場付近で、歩いている青年に出会う。不思議なことにこの青年は、私達のゴールを知っていると言う。 その青年を後にしたが、新たな問題が起きた。ペットボトルの水がとうとう切れてしまったのだ。少しなら走れるだろうが、ゴールまではとても無理そう。それに急に気温が下がった感じがする。脱いでいた手袋をはめ、ウインドブレーカーを着た。これで暖かさは戻った。後は喉の渇きだけ。喉がカラカラになった頃、何と目の前に自販機があることに気づいた。 これが2つ目の奇跡。多分長いサイクリングロードでも唯一の自販機だろう。スポーツドリンクを買ってゴクゴク飲み、塩を舐め、お菓子を食べた。本当はカロリーメートやASでもらったキンカンもあったのに、全くそのことに気づいていなかった。それほど思考力が低下していたのだろう。通りかかったK井さんが、「痙攣ならたくさん飲んだ方が良いですよ」と言ってゆっくり走って行った。 先刻の青年もゆっくり走って行った。彼の話だとゴールまでは5km。その青年の後を追って走る。今井の交通公園を通らず川沿いを進んだため400mほど距離が増えたが、橋は分かり易かった。青年を抜かし、K井さんに追い着き、ゴールへの曲がり角を聞く。その後出会った婦人に浦安橋の位置を聞いた。そこから右折する大事なポイントなのだ。少し先の青いアーチ型の橋がそれとのこと。 時々家陰に入って見えなくなる橋。そんな時はとても不安。ようやく目的の橋に辿り着き、薄暗いガードの下を潜る。そこから狭い歩道を右折。暫く直進すると高架がなくなり道が広くなった。後は最後の目印の寿司屋を探すこと。そこから左折するとゴールの「湯処葛西」まで真っすぐらしい。ところがその寿司屋がない。広い道の向こう側に渡って人に聞くと、来過ぎとか。再び横断歩道を渡る。 道の向こうで手招きをしていたK井さんにお礼を言って走り出す。私が先行し、彼が信号で追い着くパターンが何度か続いた。地下鉄東西線の位置も彼に教わった。彼は歩き出した。私は走ったが、速度はさほど変わらない。もう限界なのだが、それでも走ろうとする気持ちが最後まで残っていた。奇跡と呼ぶべきか、それとも長年の経験の為せる業か。 スーパー銭湯の看板が見えた。ついにゴールだ。駐車場の左奥へ進むと、雲峰師匠、S木さん、S原パパの姿が見えた。時刻は4時11分。スタートしてから6時間41分で44.2kmの長いマラニックがとうとう終わった。自分でも最後まで良く走れたと思う。一昨年9月の「秋田内陸」で途中リタイヤして以来のレース。その後2度に亘る不整脈手術に耐え、良くここまで復活したものだ。<続く>
2013.02.02
コメント(8)
≪ 最後は1人に ≫ トンタタ、トンタタ、トンタタ。飴を切る軽快な音。名物草団子を買う人の列。猛烈な人混みの中ではもう走れず、私達も観光客の一部になった。昨年の7月に初めて来たこの地。お寺の方角は分かっている。先ずトイレを済ませ、水道の水をペットボトルに詰めた。スタート前に買ったスポーツドリンクは残り3分の1まで減っている。そこに水を入れたらかなり薄まるが、それも仕方がないこと。 日の当たる沿道に腰を下ろし、ポシェットからお菓子を出して食べた。「それ買ったの?」と男のランナー。「いや、持って走っているの」と私。「ここまで大体30km走ったよ」と彼。どうやら時計にGPS機能がついているようだ。30kmねえ。ここまでそんなに走ったのかなあ?スタートは9時半で着いたのが午後1時36分だったから4時間ちょっとかかった計算。 「ゴールまで残り10kmちょっとだね」彼は連れの女性ランナーにそう話していた。一方の私は全く距離感が摑めなかった。だが、S木さんの話だと41kmではなく44kmだから、残りは最低でも14kmになる。後日ジョギングシュミレーターで測り直したら、帝釈天までは28.8km、ゴールまで44.2kmあった。残りは15.4kmだが、この時はそれを知らずに焦っていた。 そそくさと食べ、帰途に着く。コースを知ってるランナーたちがスタートしようとしていたからだ。広場で大道芸を観ていたK藤さんに声を掛けた。それで彼女も気づいたようだ。お寺の裏道を堤防の方へ進むと、小高い丘があった。そこに瀟洒な東屋も。思わず「へえ~っ、こんなところがあったんだね」とつぶやくと、凛峰さんが「ここ通らなかったの」と聞くので、「お巡りさんのはしごをしたんだよ」と返事。結局どっちでも同じくらいの距離だったようだが、やはり信号のない土手は走り易い。 後日知ったのだが、この柴又公園をスタート、ゴールとする第1回の「柴又ウルトラマラソン」が6月に開かれるようだ。コースは一旦南に5km走って引き返し、そこから土手沿いに埼玉県方向に行って戻る50kmと100kmのレース。まさにこの土手を走るのだ。足に痛みを感じた私は、出来るだけ道路の端の芝生の部分を走るようにした。 男女のペアが抜いて行った。速い集団にも置いて行かれ、青とピンクのウインドブレーカーの女性2人組も抜いて行った。凛峰さんが挨拶代わりに手を振って前へ行った。彼女のペースは朝から全く変わらない。きっとあのスピードのままゴールまで行くはず。河川敷へ下り、どこかの鉄橋を潜った先で、K藤さんが「酸っぱいものを食べる?」と言ってクエン酸入りのグミのようなものを2個くれた。 「背中が反っているよ」。前半から私にそう注意してくれていた彼女も、凛峰さんを追うように前へ行った。どうやら単独走になったみたい。でもそんなことは織り込み済み。後で聞いたらK藤さんは迷子になるまいと必死で凛峰さんを追った由。私は迷子にはならない自信があったが、足が最後まで持つかどうか心配だった。折角お金を準備したが、タクシーの姿を一度も見たことがなかったのだ。 さっき過ぎた川向こうの大きなマンションと大学の塔。あの付近が下総国府があった辺り。平安時代に平将門が国府を襲い、平安末期には鞍馬寺から奥州平泉に向かった若き日の義経が、この地の牧場に潜んでいたみたいだ。東京スカイツリーもどこかで見えた。江戸川水門付近で迷いかけたが、何とかサイクリングロードに戻れた。膝に異常を感じたのは都立篠崎高校前。ここは約37km地点。鋭い痙攣が両膝を襲う。とうとう膝が長距離の重圧に悲鳴を上げ出したのだ。まずい。これはピンチだ。<続く>≪ 1月のラン&ウォーク ≫ラン回数:11回 ラン距離:219km ウォーク72km 月間合計=年間合計291km これまでの累計:81207km
2013.02.01
コメント(8)
≪ 柴又帝釈天への道 ≫ 「もうすぐASがありますよ」と凛峰さん。彼女の言葉通り、やがてサイクリングロードの左側に数人のランナーが固まっているのが見えた。ここがレース唯一のASで、約17km地点。主催者のS木さんと雲峰師匠が甲斐甲斐しく働いていた。先ず小さめのお稲荷さんを2個食べ、次に生ハムを3枚。再び稲荷ずしを2個と生ハム。そしてバナナ半分とカップ1杯の水。 大会要項には「マイカップ持参のこと」と書かれており、ポシェットの中に小さなアルミ製のカップを入れていたが、全く不要だった。スポーツドリンクも良いが、普通の水が何より美味しい。水を半分追加で飲んでいると、雲峰師匠が私にそっとささやく。「あんまり真面目に走らなくて良いんだよ」。それは私の体調を気遣って、適当にワープしたらと言うことなのだろう。 でもねえ、折角走れるようになったのだから、行けるところまでは頑張るのが自分流。お礼を言って再びランナーに戻る。18km地点に真っ白で高い煙突が見えた。散歩中の人に聞くと、江戸川区の清掃工場とのこと。へえ~っ、そうなの?私には瀟洒なタワーみたいに見えるのだが。「水辺のスポーツガーデン」が19km地点。1km先にトイレありの標示。 間もなく右手に大きな水門と砂洲。これが「江戸川水門」で、江戸川との合流地点だ。江戸川大橋を潜ると、河川敷にはサッカーコートなどの運動施設が連なり、土手には子供の試合を見学する父兄の姿。道路の左手には篠崎公園が見えた。川の向こう側は千葉県の市川市。大きなマンションや大学の高い塔。あれは東京医科歯科大学の分院と教養部のはず。河川敷に下りて最初のトイレ。ここが23km地点。 散歩中の人に折り返し地点の「帝釈天」はまだか尋ねると、遥か向こうの大きなマンションまでが約3kmあり、帝釈天はさらにそこから3kmくらい先とのこと。鉄橋が見えたので青年に「何線?」と聞く。彼の答えは「各駅停車も通るし、快速も通るよ」。どうやら知的障害者だったようだ。そこで「総武線?」と聞くと、「そうそう、ソーブせ~ん」と去って行った。「河口から11km」の標示あり。 総武線の小さなガードを潜ったまでは良かった。そこから進んだ国道14号線(通称千葉街道)の交差点で再び迷う。河川敷への降り方が分からないのだ。一緒にいた仲間と近くの交番で帝釈天への道を尋ねると、サイクリングロードよりも街中を行った方が近いとの返事。東京のランナーが地図を見ていたが、私には川沿いの方が近いように見えた。後で考えると現在地が分かってなかったのだが、そこが25km地点だった。 もちろん道路には距離表示も、コース案内もない。初めての人は地図だけが頼りなのだが、細かい点は不明。鉄橋がある場合はサイクリングロードから一旦河川敷に下りると良いのだが、それは後になってから分かったこと。皆は街中を走ることを選んだ。これが私にはとても遠く感じた。川に沿った方が近いとの思い込みがあったためだが、街中はとかく信号が多くて待たされる。ノンストップの堤防の方がよほど走り易いのだ。 ようやく「柴又街道」の標示を発見し、右折。最初に京成電車の線路を潜る。近くの駅は小岩駅だ。そこから帝釈天は近いはずだが、なぜだかやたらと遠い。多分疲労が溜まって来たのと知らない道を走るせいだ。次に潜ったのが北総鉄道の高架。ええ~っ、こんな鉄道ってあったの~?そこも突っ切って先へ進む。あの後も何度か交番で確かめた。草臥れ果てた頃、ようやく柴又帝釈天の参道にぶつかった。大勢の観光客がゾロゾロと歩いている。<続く>
2013.01.31
コメント(6)
≪ 迷う ≫ 先頭を走る引率者は、頭に白いタオルを巻いた青年。迷子にならないようその後に続く。初めはゆっくりのペースに感じたのだが、結構速いようだ。それにしても葛西臨海公園はきれいな公園だ。暫く行ったら海岸に出た。海の向こうに真っ白い雪を被った富士山が見えた。この日2回目の対面だが、こんな晴天でお目にかかれるとは嬉しい。 園内を走る電車にもあった。走っているうちに暑くなり、ウインドブレーカーを脱いで腰に巻いた。その間に先頭グループは遠ざかり、ついに追い着くことが出来なかった。雲峰師匠がカメラを構えている横を通る。後日師匠の掲示板を見たら、S木さんとの2ショットの他、颯爽と園内を走る私の写真が載っていた。屈託ない笑顔と、案外脚が伸びたランニングフォーム。多分必死で追いかけていたのだと思う。 園内を一周した後、芝生の土手を横切って舞浜大橋の歩道橋へ上がった。この橋は昨年の大会後に完成したものとか。下には広い川。そこを渡ると千葉県の浦安市だ。ディズニーランドとディズニーシーの周囲をグルリと廻る。舞浜駅には大変な人だかり。皆遊園地に行く人なのだろう。ちらっと見えていた先頭グループの姿がとうとう見えなくなった。大きな客船の煙突から煙が上がり、ディズニーリゾートラインの豪華な電車が何度も通る。 もう一度舞浜大橋を渡って東京側に戻ると10km。ここで最初の迷子になった。一旦環状7号線の歩道橋を渡って道の向こう側に出、そこから川の堤防まで戻る。本当は潜れるガードがあったようだが、ここで早くも600mほど余分に走った計算。地図を良く見てないのと、新しく出来た橋のために、昨年参加した人も間違ったのだ。 私にも誤解があった。その川をてっきり江戸川だとばかり思っていたのだ。浦安市との境を流れていたからだが、ここは旧江戸川で、江戸川と出会うのはもっと先なのだ。13km地点付近で左足底部に痛み。多分最近はこんなスピードで走ってないため、足が負担に耐え切れなくなったのだろう。まあ、行けるところまで行くしかない。 手術前の元気な頃、1月は「勝田マラソン」に出るのが常だった。だが申し込む日まで、フルマラソンを走り切る自信がなかった。風の強い勝田で走れなくなったら、低体温で倒れるのは必定だ。12月に入って、制限時間の長い「寅さん詣で」なら何とか40km近く走れるかもと思ってエントリーしたが、ポシェットに3500円ほど入れたのは、最悪の場合タクシーに乗ることも考えたからだ。 狭い堤防上のサイクリングロードから川が見える。そして岸辺には釣り船や船宿も。へえ~っ、東京にもこんな風景が残っていたのか。ひょっとして川向うが「青べか物語」の地かも知れないなあ。走りながらそんなことを考えていたのだが、後日調べたらやはりそうだった。川向かいの浦安市猫実や堀江が、まさに山本周五郎の小説の舞台。TDLはかつて広大な荒れ地だったようだ。 浦安橋のある妙見島が15km地点。工場などが建て込み、ごちゃごちゃした下町の印象だ。16km地点の今井水門は直ぐに分かった。小さな橋を渡って右折し、交通公園の中を通って再びサイクリングロードへ出る。ここで腹が空いて来たため休憩し、ポシェットからお菓子を出して食べる。と、後からK藤さんの声。彼女は間違って水門を行き過ぎ、もう一つ先の橋を渡ったとか。やはりここは迷子になり易いコースのようだ。<続く>
2013.01.30
コメント(8)
≪ 復活に向けて ≫ まだ温泉から戻らない人もいるようだけど、今日は参加者全員に会うことが出来た。そろそろ失礼することにしよう。C一さん、元気そうで良かったね。520kmの「川の道」で肉刺が潰れたK彦さんの足裏は、きれいに治っていた。今年は11月に変更された「佐渡島一周」だが、寒さを心配していたK藤さん頑張ってね!!挨拶もそこそこに、私は大勢の仲間に別れを告げた。 建物の外に出て軽く体を動かしていると、2階の部屋から仲間達の笑いさざめく声が聞こえた。きっと1人1人の挨拶に、共感しているのだろう。マウンテンバイクに跨ろうとした時、1台のロードレーサーが到着した。本格的なサイクリスト。どこのバイク野郎かと訝しく思った時、その男はサングラスを外した。 伝説のドライバー、古川のフランケンこと黒ちゃんだった。今日は用事があってランニングに参加出来ず、自転車で来た由。何と言う格好良さ。バイク用のヘルメットが決まっている。「今2階で懇親会の最中だよ」。「気をつけて帰ってください」。短い挨拶を交わし、薬師の湯を後にした。往路苦しんだ登り坂を、まっしぐらに下る。直接国道へは向かわず、薬莱山神社の里宮を通った。 さようなら2012薬莱山とお足。これから自宅までの1人旅だ。逆方向だと、風景が違って見える。迷子にならないよう、事故に遭わないよう、細心の注意を払う。色麻町の田圃道は、意外とアップダウンがあってきつかった。再び国道457号線に出て色麻の歩道を走っている時、微かに変な音が聞こえた。 自転車から降りて、タイヤを調べる。じっくり点検すると、タイヤの厚い部分に1本のネジ釘が刺さっていた。たまたま厚い部分だったから助かったが、溝の薄い部分なら間違いなくパンクしたはず。そしてあのまま乗り続けていたら、深く刺さって同じ結果になったと思う。危ない危ない。自転車の旅も楽しくて良いのだが、もし不便な場所でパンクしたら、歩いて帰るしかないのだ。 ゾッとしながら再び走り出した後で、大変なことを思い出した。何と、折角抜いたネジ釘を、元の場所に置いて来たのだ。もう場所は分からない。来年来る時が危ないなあ。それまでに無くなっていれば良いけど。やはり疲労で、正しい判断が出来なかったのだ。大衡村の道路工事現場では、一方通行でかなり待たされた。 大和町までの途中、何度か雨がパラつき、七つ森は雲に隠れていた。富谷町でお徳用のカルピスソーダを購入。この日使ったお金は、会費も入れてわずか1695円で済んだ。往復110kmも走った割には、ビックリの対費用効果。東北道への地下道で初めて休憩し、O形さんにいただいたバナナの他、ハイチュウと「2分間チャージ」を口にする。これは短時間で塩分を補給できる優れ物だ。 将監台の坂道も登れた。台原の坂道では電動アシスト付き自転車に抜かれたため、追いかけて抜き返した。俺もまだ若いとほくそ笑んだ瞬間、左足が痙攣。やはり急激な運動で、脚に無理がかかっていたのだ。それらを除けば往復共ほぼ一定のペースでペダルを漕ぎ、良いトレーニングが出来たと思う。 自転車のロングライドは、四国の松山から鳴門まで、片道220kmを往復したのがこれまでの最長。次いで大阪の高槻から京都府の舞鶴市往復の200km。これは往復で6つの峠越えがきつかった。松山から石鎚山往復は160kmほどだが、標高1549mの土小屋まで登った。それがバイクでの最高到達地点。いずれも軽いロードレーサーで、年齢もまだ50台だった。 あの頃に比べたら体力は衰えたが、俺もまだまだ捨てたもんじゃない。今回のマウンテンバイク110kmはそれらに次ぐ長さだが、わずか10日間ほどのトレーニングで良くここまで体調が回復したもの。無事帰れたことで、復活への自信につながったような気がする。帰宅後洗濯物を片づけ、シャワーを浴びてから裏庭へ行った。 愛犬は静かに横たわっていた。私が帰って来たことが分かったのか、彼は目を開けてヨロヨロと立ち上がった。その鼻が土で汚れていた。きっと暑さで苦しみ、そこらじゅうを掘って体を冷やせる場所を探したのだろう。良く頑張ったねマックス。お父さんも頑張ったよ。それから1匹と1人は、夕方の散歩に出かけ、妻が関西から帰宅したのは、8時近くなってからだった。 数日後、Kazuさんがブログにコメントしてくれた。薬莱山での私を観て、「復活」を確信したそうだ。私はT田さんに無理にお願いし、写真をプリントしてもらった。笑顔の私と多少ビックリ顔のT田さん。それは「亡霊騒動」の直後に撮ったもの。そしてkazuさんとのツーショットは、2人とも満面の笑顔。本当に私が復活出来るかどうかは、今後のトレーニング次第。仲間の期待に応えるためにも、何とか頑張ろうと心に誓った私だった。<完>
2012.08.18
コメント(6)
≪ 亡霊騒ぎ ≫ 脱衣所に戻り、バイク用のシャツとパンツに着替える。バイク用のパンツの尻にはクッションが入っており、帰路の旅を少しは助けるはず。足には赤く擦れた痕があった。偏平足用のサポーターを、直接足に着けたのが悪かったようだ。 S水さんは既に到着していた。長町駅前を5時にスタートしたようだが、あの時間で富谷まで来、この時間にゴールするとは、大変なスピードの持ち主だ。おんちゃん達がいつ追い着かれるかビビっていたのも頷ける。 お茶を買って大広間へ行く。ここでゆっくりと寛ぎ、用意したお握りとお菓子を食べた。擦れた足にはバンドエイドを施し、テーピングをする。帰路はサポーターは着けず、このままで行く積り。座布団を枕代わりにし、暫し横になる。畳の感触が良かったのか、それとも疲れていたのか、いつの間にか私は眠っていたようだ。この間わずか2、3分だが、それがとても気持ち良いのだ。 ロビーでT田さんを見つけた。気づかれないように近づき、思い切りハグする。一瞬誰だと思った彼が、私の顔を観て「亡霊か!」と驚く。全く考えてなかった人物がいきなり目の前に現れたせいか、彼の脳は直ぐに「本物の私」と判断出来なかったのだろう。実は2年前、彼に驚かされたことがあった。伊豆大島ウルトラを走ろうとして東京の桟橋で待っていた時に、突然彼が現れたのだ。 彼は私をビックリさせようと、自分の参加を隠していた由。今回はその「お返し」なのだ。「そう言えば「ハプニングがあるかも」と書いていたね」と彼。私のブログの熱心な読者で彼らの仲間kazuさんへのコメントに、確かそう書いたかも知れない。コメントまで全部読む人はなかなかいないが、T田さんは少ない例外だ。。 缶ビールをおごると言う彼に、「小さいので良いよ」と返事。彼ら古川組は薬莱山へ向かう途中にも、既に缶ビールを飲んでいるはず。彼が撮って送ってくれた写真には、飛び切りの笑顔の2人が写っていた。こんな笑顔はいつ以来だろう。2度の手術を受け激務に苦しんだ今年の4月、鏡の中の私には「死相」が現れていた。U海さんと会ったことを話すと、とても残念がる彼。 「私が来たことはkazuさんには内緒にしてて」と頼む。後で会ったKazuさんの驚きも大変なものだった。2人と飲んだビールは実に美味かった。「やっぱりここへ来て良かった」と健康であることの喜びを実感。だが、H多さんは畳に横になったまま。久しぶりの長距離ランにすっかり草臥れ果ててしまったのだろう。良く頑張ったね、H多さん。 O形さんからいただいたバナナは、帰路の大事なエネルギー源として持ち帰った。M会長としっかり握手。彼はオレンジのシャツと帽子の自転車に乗った男が私とは気づかなかった由。誰にも今回の「冒険」を話していないので当然だ。お世話役のKさんには、早めに挨拶して帰りたいことを告げた。猛暑に耐えながら留守番している愛犬のために、夕方までには帰る必要があったのだ。 M会長の挨拶に続き、私は自分の想いを話した。病気のこと、現在の体調のこと、この薬莱山に賭ける気持ち、そして今後への期待。最後に「来年はウルトラに復帰します」とは言ったが、あれは勢いから出た言葉。夢ではあっても、決して現実とはならないことを自分でも良く知っている。U海さんと会ったことは黙っていた。多分「三婆」の誰かが話すはず。この日、U海さんからは「完走祝い」の金一封をいただいた由。難病と闘う彼の気持ちを想う。頑張れ~っ、U海さ~ん!!<続く>
2012.08.17
コメント(0)
≪ 懐かしい顔、涙の顔 ≫ それにしても何故おんちゃんがウルトラを走るようになったのだろう。ゴール後に聞いたら、昨年初めて走った「秋田内陸」では、62km地点でリタイヤしたもののとても楽しく、それ以来すっかりはまってしまった由。なるほどねえ。そうそう、住吉台のCちゃんがDさん達の少し前を走っていたことを書き忘れていた。 道は徐々に下り、鳴瀬川に架かる旭橋を渡る。もう最後の町、加美町だ。国道の角のコンビニに寄り、アイス最中、お握り2個、「つまみ」を買う。外でアイス最中を食べている時にS原さんが通っていった。結構速いスピードだ。自転車で追いかけた時は、かなり前へ行っていた。前方から逆走して来る赤いシャツのランナーは、同じ走友会のM井さん。彼は前週「奥武蔵」を走ったばかり。「後5kmです」。確かにそうなのだが、私のゴールは60km先にある。 残り4kmくらいで、今度はS山さんが逆走して来た。彼はかなりのスピードランナーで、仲間のO友さんと一緒に55kmを走ってゴールし、今はクールダウンの積りで走っているのだろう。多分65km以上走ることになるはず。恐るべき青年だ。いよいよ国道347号線を左折して薬莱山への道に入る。 水沼橋の向こうに3人のランナーが見えた。一番後ろの人は歩いているが、前の2人は元気良く坂を走って登っている。最後の難関の登り坂。ここまで来れば薬師の湯はもう直ぐなのだ。こんな登りは自転車ではきつい。一番小さなギアにしても苦しい。歩いていたのはH多さん。最近はほとんど練習をしていない由。それでもこの「薬莱山とお足」へ、仲間と一緒に参加するのが自分への励みになる由。 話ながら坂を登る道の横に、1台の車が停まった。窓から顔を出したのは、この会の事務局長を長い間勤めてくれたU海さん。彼は目下闘病中の身。きっと仲間の顔が見たくなり、奥様の運転でわざわざ応援に来てくれたのだろう。案外元気そうな顔。私が彼と会ったのは彼が病気になった年だから、5年ぶりくらいのはず。最後に飲んだあの店は、今では名前が変わっている。 思いがけない再会だった。H多さんは泣いていた。私は彼女の手に、そっと手を重ねた。U海さんも感極っていた。U海さんと別れた後、彼女はゴールまで走ろうとしたが、もうそんな力は残ってなかった。ゴールの薬師の湯に着いたのが9時47分。家を出てから4時間12分後だ。マウンテンバイクを日影に停め、私は体操をした。長時間のロングライドで固まった体をほぐすのだ。 駐車場のU海さんの車の前で、K村さん、H多さん、K藤さんの3人がU海さんと泣きながら話していた。あのまま引き返そうとしたU海さんを、奥様が「折角だから仲間と会って行ったら」と宥めて戻った由。U海さんは私が不調なことも知っていた。今年の文集にT田さんが書いた文章を読んだ由。久しぶりに仲間と会って話せたせいか、U海さんは安らかな顔で帰って行った。 K村さんはまだ泣いていた。「鬼の目にも涙」だ。最近は思うように走れなくなったと言う同学年の彼女。私が不整脈で走れなくなった時に彼女は言った。「Aちゃんは不整脈に負けてる」と。その厳しくも熱いエールを、私は今でも良く覚えている。「人はいつか走れなくなる時が必ず来るんだよ」。それは自分の体験に基づく実感なのだが、果たして彼女はどう受け止めたのだろう。 K藤さんが幹事役のKさんに連絡してくれたお陰で、飛び入り参加の私も名簿に名前を追加して入場出来た。早速温泉へ向かう。大浴場、水風呂、露天風呂、サウナ、そして再び水風呂。冷たい水が筋肉の火照りを癒してくれた。1年ぶりの薬莱山。無謀な冒険だったかも知れないが、何とかここまで辿り着くことが出来た。無事ゴールした仲間が続々温泉へやって来る。<続く>
2012.08.16
コメント(2)
≪仲間達の勇姿≫ 一番後の人が女性ランナーだと直ぐに分かった。すらりと伸びた長い脚、ちらっと見えた横顔は、「K野姉妹」の妹さんのようだ。10年以上も前からの顔見知りだが、まだ一度も話したことはない。ここはまだ半分も来ていない地点。この時間帯にここでは遅過ぎないか。そんな心配が一瞬過った。前の2人はサングラスのため表情が分からないが、多分仙台明走会の若い人のはず。 彼らに自転車で参加した理由を簡単に話し、エールを送って前進。後でこの2人は「たんぽぽ走友会」のSさんとOさんだと分かった。暫く行くとまたまたランナー発見。何と同じ走友会のS水さんだ。私は東京勤務の彼がわざわざ走りに来たことに、彼は私が自転車で来たことに互いに驚いた。握手をして別れたが、彼のスピードに驚くのはゴール後の話。そして8月から新潟勤務に変わったこともその時に知った。 大和町の手前で女性ランナー発見。太白お母さんランナーズのOさんだった。確か彼女は私と年齢がまあまあ近いはず。その割に走力はほとんど落ちていないのが凄い。これまでのレースでも、彼女に何度追い抜かれたことか。声をかけて抜いて行く。大衡村への分岐点手前で最初のサポート車発見。住吉台走友会のA谷さんだった。Oさんと一緒にここで給水した。冷たいスポーツドリンクが喉に沁みる。あまりの美味しさに、ついお代りをする。たっぷり水分を補い前進。 ここで国道4号線から別れて、国道457号線へ入る。今までの広い国道と違って歩道は狭く、かつ未整備のため特に自転車は要注意の個所だ。間もなく仙台鉄人会のTさん発見。彼女はここまで18km走った由。ゴールまでの残りは多分まだ20kmはあるはずだ。その前方にT脇さんがいた。彼女は同じ走友会所属で、元気な姿が嬉しい。仲間の参加状況などを彼女から聞けた。 緩やかな坂の途中に4人組を発見。同じ走友会のDさんは私の姿を観て「自転車で来たのか」とつぶやく。後の3人は住吉台の両S木さんとFさん。彼らは相当のスピードランナーだが、ここで会うとは意外。ランニングと自転車とではスピードが違うため、どうやら距離と時間に関する私の感覚が狂っているのだろう。 ここから当分の間、走っている仲間はいなかった。坂を登って色麻町に入ると、要所に「薬師の湯」の看板が見え出す。看板に書かれた距離数がランナーの助けになる。自衛隊演習場方面に左折し、直ちに右折する。ここから約8kmは田圃の中の一本道。コンビニも自販機もないランナー泣かせの難所で、両手にペットボトルを持って走るのがこれまでの常だった。 だがやはり自転車は楽。いつもならゴールまでに500ccのペットボトルが10本空になるのが、今日はまだ1本目。大汗かきの私ですら、さほど汗をかかないのだ。空は曇って栗駒山は見えないが、いつもより走りやすい気温。通行する車も少なく安全な道を、マウンテンバイクで快調に飛ばす。「風に吹かれて~♪」のあのメロディーが、ついつい口から飛び出る。 加美町が近くなったころ、逆走して来たランナー発見。最初に会ったKさんのお母さん。自称「K野姉妹」の「お姉さん」だ。彼女からゴールまでの間にいる仲間の情報を聞き、逆にお嬢さんの状況を伝えた。間もなく歩道を悠々と走るS原さん発見。彼は同じ走友会所属で年齢も近い。存在感があり実力者の彼から、今後の参加予定レースなどを聞いた。 さらに前進すると、2人のランナー発見。同じ走友会所属の「おんちゃん」ことT野さんと、先日結婚したばかりのHさん。2人ともフルマラソンを3時間以内で走るサブスリーランナーだが、雰囲気は実にゆったりしたもの。Hさんは奥様とランニングを通じて結ばれ、新婚旅行は「ホノルルマラソン」に行く予定とか。夢があって良いねえ若者は。<続く>
2012.08.15
コメント(4)
「薬莱山へは自転車で行きたいんだけど。ただし雨ならダメと言う条件で」。走友会の幹事役であるKさんにそう申し出たのは、Hさんの結婚式の時だった。だがKさんは「分かった」とは言わなかった。「車で薬莱山に行って、向こうから逆走したら」。私の体調を心配しての提案だったのだろうが、それは無理なのだ。第一私はまだ走ることが出来ないし、車で行けば何のトレーニングにもならないからだ。 申し込みの締め切り日まで、ついにKさんへはメールしなかった。自分でも自転車で往復する自信がなかったのだ。老犬との朝夕の散歩以外はほとんど運動らしいことはしておらず、しかも肩に痛みがあった。マウンテンバイクの場合は、肩に相当の衝撃が加わる。ずっと前傾姿勢を保つ必要があるからだ。それに例え自転車でも、果たして真夏の暑さの中で110kmを往復する体力が今の自分にあるだろうか。 「ひょっとして死ぬかも知れない」。正直そんな思いが胸に過った。だが無事帰宅するために自分がやれるのは何か、それを考えるのが先決だ。先ず体力を少しでも向上させるために考えたのが、速歩きや体操など7つのエクササイズ。そして肩の痛みを和らげるため、整骨院へ行った。整骨院の先生は若いのだが腕は確か。だが私が不整脈で2度手術をし、右足が筋膜炎であることを告げると、彼の表情は曇った。 「薬莱山とお足」は、県内のウルトラマラソン愛好者団体「宮城UMC」の合同練習会で、毎年8月に開催される恒例行事。各走友会ごとにスタート場所と時間を決め、12時までに薬莱山の中腹にある「薬師の湯」に到着するのが唯一のルール。我が走友会は3時に仙台市体育館をスタートするのがこれまでの恒例だった。それを今回は自転車でと思ったのだ。どんな形であれ今の自分に出来そうな冒険は、これしかないのだ。 私はこれまで9年連続で完走していたのが誇りだった。そして自転車で走るのは初めてではなく、最初の参加の際にコース確認のため、やはりマウンテンバイクで往復したことがある。さて、必死のエクササイズと整骨院での施療が効いて、体調は飛躍的に良くなった。だが自転車で行くことは誰にも告げなかった。妻はその日、関西方面から帰宅する予定。問題は暑さに弱い愛犬を、日中どこに繋ぐかだ。 出発時間は5時と決めた。途中の休憩や給水を入れて、片道に約5時間はかかると計算。出来るだけ早めに山に着いて体を休め、帰路の体力を養おうと考えたのだ。当日の朝は4時前に目が覚め、先ずブログに「大冒険」に旅立つことを宣言。愛犬との散歩はまだ暗い中だった。帰宅後餌と水を与え、涼しそうな裏庭の樹陰に彼を繋いだ。 バケツには1日分の水。そして首には保冷剤。それで何とか猛暑に耐えてもらうしかない。頑張れマックス。俺も1日頑張るからね!!朝食は予め何を食べるかメモしていた。だが愛犬の世話に思いのほか時間がかかり、朝食を終えてマウンテンバイクでスタートしたのが5時35分。よほど慌てていたのか、血圧降下剤を飲むのをすっかり忘れていた。 既に空は明るく、ペダルを漕ぐと風が爽やかだ。約半年間運動らしい運動をしていない私だが、この大冒険を無事に終えるため、細心の注意を払う必要がある。その緊張感が私の全身を包んでいた。荷物はハンドルに結わえつけた。これは少しでも汗をかかないための工夫。両足には偏平足用のサポーターを装着した。上は宮城UMCの半袖シャツで、下はハーフタイツ。帽子は宮城UMCのオレンジ色のもの。このオレンジの蛍光色が、仲間としての連帯感を高めるはず。そして首には冷却用の布。 ボトルキーパーには、スポーツドリンクにアスリートソルトとサプリメントを加えたペットボトル。赤信号で停まった時に、これで随時給水するのだ。最初の難関は泉区の将監坂。自転車はトンネルを通れず、階段を押して登るしかない。東北道の地下通路を潜り富谷町へ。ここまでに1時間15分ほどかかっている。田圃道の先に、3人のランナーが走りながら北へ向かうのが見えた。あれは一体誰なのだろう。自転車から仲間の姿を観るととても興奮することを、今回初めて知った。<続く>
2012.08.14
コメント(8)
< 那覇の街で > 急行バスは主に東海岸の高速道路を走るが、各駅停車は西海岸の国道58号線をひたすら南下し、見える景色が全く異なる。まあ往きと帰りとではコースが違った方が楽しいし、地名の勉強にもなる。だが、いつの間にか疲れて眠り、起きたのは嘉手納だった。ここにはかつて巨大なロータリーがおかれ米国式の通行マナーが罷り通っていたが、現在ではすっかり日本式に改められている。 幾つもの町を通り過ぎ、那覇の中心部でバスを降りた。到着した日に乗った急行バスもそうだが、2年前に比べて400円から500円料金が値上げされていた。久茂地から平和通りの市場まで歩く。そしてM菓子店へ。ここは沖縄に来た都度立ち寄る店。楚洲(そす)出身の小母さんに会うのが楽しみなのだ。 だが、小母さんは休みでいなかった。代わりに40代の女性が対応してくれたが、私の名前をちゃんと覚えていたのには驚いた。彼女とは昨年初めて会っただけなのだ。家と職場へのお土産にクンペン20個とナントウ1枚を購入。クンペンはピーナツがたくさん入った中国渡来の月餅に似たお菓子で、ナントウは月桃の葉にくるまれた沖縄らしい餅で、「ゆべし」や「ウイロウ」に食感が似ている。 若い小母さんはこれに大福を2個おまけしてくれた。いつもは立ち寄る沖縄料理の「花笠食堂」へ行かず、モノレールの美栄橋駅方面に向かって歩く。国際通りの直ぐ近くに沖縄そばの店があったので入った。初めての店だ。ソーキそばが700円だが、「替え玉」が110円と言うのが気に入った。沖縄そばの替え玉も初めての経験。 夫婦で切り盛りしてる店のようで、今回は本部半島を一周して4年がかりで「沖縄本島一周」を達成したことを話すと驚く夫婦。宮城県出身の知り合いも数人いて、大震災の前に仙台へも行った由。屋我地島でハブの死骸を見たと言うと、あの島がハブの生息地であることや、お兄さんが島の病院に勤務していることも教えてくれた。 ええっ、ちょっと待てよ。島の病院と言ったら、私が最初に迷子になったあの病院しかないはず。これは奇遇だ。巨大なハブが恩納村の豚舎で捕まった話もこの店主から聞いた。2m45cmと言えば我家の天井の高さよりもっと長く、太さも相当のはず。確かにハブは怖くて嫌だが、ネズミを捕食することを考えたら益獣とも言える。 不整脈で苦しみながらのランだったことを話すと、店主は自分も「ペースメーカー」を埋めていると教えてくれた。感じの良い夫婦のそば屋が気に入り、「また来ます」と言って店を出た。外は雨。大きな本屋を発見し、思わず入る。店頭に沖縄関係出版物がずらり。手に取ってパラパラページをめくると、どの本も買いたくなる。そのうちの2冊だけ買ってバッグへ入れた。 空港では少し待ったが、全然苦にならない。大事業を達成した今、ぼんやり時を過ごすのも楽しいもの。帰路の機内から見えたのは、中城湾の一部、勝連半島、宜野座村の海岸、辺戸岬周辺、そして伊平屋島。これらはすべて沖縄で、以下鹿児島県の与論島、沖永良部島、徳之島、加計呂間島と奄美大島、悪石島、種子島。それらも雲に隠れて一部しか見えなかった。 屋久島は海岸線のごく一部だけ。この後は白い雲の中に隠れ、仙台空港に降り立つまで一切観ることが出来なかった。仙台空港に着いた途端、私の名を呼ぶ声。同じ走友会のS目さんが、沖縄の友人を迎えに来ていたのだ。無事本島一周を達成したこと、ハブの死骸に出遭ったことなどを手短に話したが、これもまた奇遇だった。何故なら彼も私と同様に、沖縄で勤務した経験の持ち主なのだ。<続く>
2011.11.15
コメント(4)
< 深夜の沖縄そば > ようやく国道58号線との合流点まで来た。右手に21世紀の森運動公園が現れる。ここが日本ハムのキャンプ地だ。時刻は20時30分を過ぎてるが、走ってるランナーが結構いる。そのうちの1人に「NAHAマラソンの練習?」と聞いてみた。「NAHAも出るけど、その1週間前の県体育大会に向けての練習です」との答え。 特徴のある名護市役所前を通過。かなりゴールは近い。先ほどの青年が折り返しながら挨拶してくれたのが嬉しい。20時54分ホテル前に到着。結局歩いたのは4、5kmほどだと思う。何とか本部半島を一周し、「沖縄本島単独一周」を達成することが出来た。コンビニで買い物を済ませてからホテルへ戻った。早速バスにお湯を張る。 歯を磨こうとしたら再び吐き気。相当疲労が激しく、夕食用に買った沖縄そばのカップ麺も受け付けない。先ず風呂に入って汗を流し、股擦れした個所にワセリンを塗った。入浴して寛いだせいか、徐々に体調が戻って来た。味噌汁を飲み、ミカンを食べ、最後に恐る恐るオリオンビールを飲んでみた。大丈夫、吐き気は何とか治まったようだ。 本当は20時までに戻って譜久原恒勇の特集番組を観たかったのだが、残念ながら既に放送は終わっていた。彼は「芭蕉布」、「ふるさとの雨」、「なんた浜」などの美しい曲を作った沖縄を代表する音楽家だ。スポーツニュースを観て22時頃に眠ったが、夜中の2時過ぎには目が覚めた。 ステテコがピンク色に染まっている。擦り傷からの出血と浸出液が混じったのだ。傷はかなり乾き、少しはマシな状態になっていた。興奮と空腹で眠れないため、カップ麺にお湯を注ぐ。真夜中に沖縄そばとは不思議な図だが、これもまた良い思い出。大量の発汗でミネラル分を失った身体には、汁の一滴すら貴重だった。 朝7時、ホテルのレストランで朝食。無料のため期待してなかったのだが、とても充実した内容に驚く。緑とピンクの野菜の名を聞くと「はんだま」とのこと。30cmほどの高さで、沖縄では家の庭に植えるポピュラーな野菜で、アントシアニンが豊富とか。金沢の地元野菜の「金時草」(きんじそう)にも似た感じ。 部屋へ戻ると、窓から名護湾と本部半島が見えた。昨夜は真っ暗な道を必死に歩いた。その上に聳える八重岳は、沖縄で最も早く桜の花が開花することで有名。例年1月中旬には「さくら祭り」が開催されている。今回2泊したこのホテル。西海岸縦断では2泊し、東海岸縦断でも1泊しているが、多分再び泊ることはないだろう。 ホテルからロードレーサーで出かけた若夫婦は、ぴしっとスタイルが決まっていたが、あの後雨は大丈夫だったろうか。チェックアウトを済ませ、バス停へ向かう。那覇へ行くおばあの娘さんのご主人は福島出身で、その父親に「沖縄で一緒に暮らしたら」と勧めても、山奥で1人暮らしをしてるとか。急行バスに乗るおばあと別れ、私は各駅停車へ乗った。<続く>
2011.11.14
コメント(4)
< 極度の疲労と暗い道 > 暫く走ると海洋博記念公園の美しい人工ビーチが見え出した。16時30分、公園の中央ゲート前通過。間もなく閉園時間か、たくさんのタクシーが客待ちしている。私はこの公園に3度来たことがある。1度は家族と一緒に遊びに来、後の2回はマラソン。この公園を発着する「海洋博トリムマラソン」だ。 「トリムマラソン」は速さを競うのではなく、事前に申告したタイムに最も近かった人が優勝するというルールで、私が出たのは20kmの部。コースは渡久地港を経て瀬底島を一周して帰るのだが、結構アップダウンがあった。当時を思い出しながら走ったが、道路は見違えるほど良くなり様子が変わっていた。 周囲の食堂は軒並み閉鎖。観光ツアー客は他に食事場所が決まっているのだ。新しい道路は渡久地港には寄らずに海の上を直進。これで2kmは短縮したはず。前方に瀬底大橋と瀬底島。島へはマラソンを含めて3度渡っている。 ある時、島の浜辺で山羊の頭がい骨を見つけ、ビックリしたことがあった。沖縄では山羊は精がつく食べ物。きっと島の人が解体したのだろう。当初は橋を往復する予定だったが、景色を脳裏に焼き付けるだけに留めて前進。 夕暮れが迫り、海の向こうに扁平な水納島(みんなじま)が霞む。17時15分、本部町のコンビニで買い物。店の外でアイスとサンドウィッチを食べ、牛乳とシークワーサージュースを飲んだ。本当はあんパンが食べたかったのだが残念。17時35分スタート。 その後、国道ではなく本部港への道を進む。後で思えば200mほどしか距離は違わないのだが、急に心細くなった。本部港へはかつて那覇から本土へのフェリーも寄港したが、今は素通りで伊江島行きのフェリーしか出ていないみたい。間もなく4車線に拡張されしかも極力直線の国道と合流。 日が落ちると街灯がないため、道路は真っ暗状態。山際を走るとハブが出て来そうで怖い。餌がないため、彼らが道路へ出ることはないと信じるしかない。車のライトとわずかな月明かりだけが頼りのラン。だがランパンのゴムが股に擦れ、汗が染みて猛烈に痛む。18時25分「塩川」前を通過。ここは地中の塩分が湧き水に溶けて出る不思議な泉が地名の起り。 小さな突端を過ぎると名護湾沿いに明かりが見え出す。ところがこれが曲者で、距離感が狂う原因。疲れたランナーは湾曲した海岸線でなく、直線で距離を測ってしまうためだ。おまけに速度が極端に落ちているため、さらに距離感が狂う。集落のない道路には、当然のことだが自販機もない。フラフラになりながら遥か彼方の明かりを心の支えにして前進。 もう名護市内に入っている。安和(あわ)も山入端(やまなは)も過ぎた感じ。先刻自分のホテルと思った明かりは、ずいぶん手前のリゾートホテル。ガッカリしてさらにスピードが落ちた。20時2分、宇茂佐集落到着。疲れと吐き気でとうとう走れなくなった。自販機で暖かいミルクコーヒーを買い、騙し騙し飲む。 この集落は沖縄勤務時に一緒だったOさんの故郷。琉球王朝時代は武士(さむれー)だったOさんの先祖は「琉球処分」の結果無禄となり、都落ちしてこの地で農業を始めたと聞いた。想像していたよりは遥かに都会的で、現在は人家も多そうだ。だが名護市街までがやけに遠い。ここからは真っ暗な道をテクテク歩いた。それにしても、ゴールの我がホテルはまだなのか。<続く>
2011.11.13
コメント(2)
< ゆんたく=おしゃべり > 強い日差しを避けるため、極力日影のある歩道を走る。間もなく本部町に入った。駅伝を応援していた集落の人が、私にどこから来たのかと尋ねる。「宮城県から来て、今日は本部半島を一周してる」と答えた。さらに3月の地震で妻の精神状態がおかしくなり、自分も不整脈になったことを告げると、「沖縄に引っ越したら良いよ」との慰め。うちなんちゅ(沖縄人)のゆんたく(おしゃべり)は屈託がない。 14時40分「沖縄そば」と書かれた旗を発見し、店に入る。個人商店ではなく「田空の駅」と言う道の駅で、昨年出来たばかりの新しい建物。豚のスペアリブが入った「ソーキそば」を注文すると、おばあが「食事は終わったよ」と言う。「ええっ、まだ3時前なのに」と嘆きつつ、思わず「楽しみにしてたんだけどなあ」と言うと、「ちょっと待って」とおばあ。 どうやらソーキが一つだけ残ってることを思い出したようだ。3人のおばあは昼食を摂るところだったみたい。ほぼ食べ物が売り切れたのは本当だと思う。そばにはソーキが4つとかまぼこが2切れ入っていた。漬物もついてデージ(かなり)上等。喜んで食べていると、1人のおばあが私に「高校生か、中学生か」と聞く。 こんな白髪頭の中高生がいるはずないが、きっとランニングスタイルなので誤解したのだろう。中学生の駅伝大会が翌日あるらしい。駅伝は元々島の中部で行っていたが、交通事情が厳しくなり本部半島にコースを変更した由。結果的にここでそばを食べたのは大正解。次に食べ物を口に出来たのは3時間後だったからだ。 本部半島一周道路から逸れ、備瀬崎方面に向かう。15時42分に着いた本部半島最北端の浜辺はとても美しく、岬の先の小島には灯台があった。目の前には伊江島のタッチュウ。寺院の塔頭(たっちゅう)が変化し、沖縄では尖がった岩山の意味で使われ、頂上には城もある。第2次世界大戦では、米国の従軍記者アーニーパイルがこの島で戦死している。 浜辺で休んでいると関西弁が聞こえて来た。こんなところに内地の人が2人もいるのに驚き、思わず会話に参加。1人は「かりゆしシャツ」を着た愛媛出身の人で、半年前からここのペンションで暮らしている由。もう1人は淡路島から旅行に来た青年。2つほど地名を言うと愛媛出身の男が驚く。どうやら彼の出身地だったようだ。青年には「大鳴門橋」を渡り初めした際の話をしたが、まだ生れてなかったみたい。 スポーツドリンクを飲みながら「味噌汁の素」を舐める。これが暑さに負けないための秘訣なのだ。16時ちょうど、海岸に沿って走り出す。備瀬の集落には見事なフクギ並木。沖縄でも有数の防風林で、フクギ並木見学用の馬車まで準備されていた。この樹皮から黄色い染料が取れ、著名な染色である紅型(びんがた)にも用いられる。<続く>
2011.11.12
コメント(2)
< 今帰仁城と博物館 > メモを書き終え、お握り1個と魚肉ソーセージを半分だけ食べた。まだ体調は良くない。入場券(400円)を買い、城の入口に向かう。その手前の店で1杯300円のサトウキビジュースを飲んだ。青臭いかと思ったが案外爽やかで美味しい。店主が黒砂糖をお湯で割ったのをくれたのでこれも試飲。お陰で体調が戻った感じ。 ここに来たのは3度目。いつ観ても立派な城だ。他の城と違うのは石の色。同じ石灰岩でも青黒くて堅いため、風格を感じる。また入口の平郎門が防御用に出来てるのも特徴だ。合計で6つの廓があり、このうち御内原には神に祈願する御嶽があった。一番奥の志慶真門まで行って引き返す。帰りはわざわざ旧道を通った。これが本来の道で、築城当時の雰囲気が残っている。 世界遺産に登録されてから、城と周囲の整備が急速に進んだ感じ。ついでに「今帰仁村歴史文化センター」も観覧。意外にも立派な施設で驚いた。城が出来る前の遺跡と出土品、今帰仁城からの出土品、琉球王朝時代の宗教制度と古い墓、戦前の村の様子などがテーマ毎に陳列。私が狂喜する内容だった。 ランの途中で観た「オランダ墓」や、電照菊畑で聞こうとした「百按司(ももじゃな)墓」の説明もあった。百按司墓は北山王国を滅ぼした中山王国の監視役である貴族の墓で、1500年代のものが7基あるようだ。東大理学部が戦前に発掘し、人骨を持ち去っていることは知っていたが、木棺が漆塗りの立派なものであることは初耳。 これらとは別に「大北(うふにし)墓」と言うのが、運天港の近辺にあるようだ。1700年代に今帰仁城付近から移設された按司(あじ)の墓とか。城の麓には、かつてかなり広い水田があったことも初耳。現在の沖縄本島には、ほとんど水田がないのだ。また古宇利島はじめ、沖縄本島と周囲の離島間に烽火のネットワーク体制が敷かれていたことも驚きだった。 これだけ収穫があるとは意外で、一遍に長年抱いていた謎が解けた。お握り1個とソーセージの残りを食べ、14時03分スタート。ここで2時間以上休んだことになる。坂を下る途中に月桃の葉をちぎって匂いを嗅ぐ。私はこの匂いがとても好きで、古宇利島でも葉をちぎった。国道に下りると男子の高校駅伝選手が走っていた。 トップはコザ高校で、北山高校は2位だったはず。ビリの方の選手が長袖を着ていたのにはビックリ。30度近くで長袖を着てては勝てない。これで「暑さ対策」の積りなのだろうが、私には狂気の沙汰としか思えなかった。翌日の新聞によれば、男子の参加校は23チームのはず。<続く>
2011.11.11
コメント(8)
< 高校駅伝と老ランナー > ワルミ大橋へ向かう途中、自販機でレモンティー購入。冷たいレモンティーが何とも美味い。それにしても「ワルミ」の意味は何だろう。周辺にこのような地名がないことは、朝乗ったタクシーの運転手に聞いた。それで「割れ目」の変化ではないかと考えた。つまり屋我地島と沖縄本島の間の海峡が「割れ目」だ。 橋から覗くと水深は結構あるようで、紺色の海水だった。その奥に運天港と古宇利島が見えた。港は風を防げ、大型船も入港が可能な好条件の位置。昔から交通の要衝だったことが頷けた。橋を渡り終えると今帰仁村(なきじんそん)。電照菊畑の前で、10人ほどの奥さんが手を振ってくれた。私も手を振り返す。まさか私が本土からわざわざ走りに来たなんて思っても見ないだろう。 照明を当てて、開花の時期をコントロールするのが電照菊の栽培方法。きっと花の少ない時期に本土へ出荷すると、高く売れるのだと思う。通過した後で、周辺の「百按司墓」について尋ねなかったことを後悔した。だが果たして彼女らが、古い墓のことを知っていたかどうか。ともあれ新しい橋のお陰で、初めてのコースを走ることが出来た。 村の中心部まで来ると、どうも様子が変。スタッフの人に聞くと、「高校駅伝」の県予選みたい。女子は間もなくゴールし、その後男子がスタートする由。道理で人が集まっているわけだ。道路脇でロープに短いビニール紐を結んでいる人達がいた。何の作業か聞くと、あーさの種付け用とか。あーさはアオサで、沖縄では良く食べる海藻だ。 私の姿を見て笑い声が上がる。その観衆の好奇心をパワーに変えて前進。間もなく先頭グループ。トップはコザ高校。次いで名護高校。地元北山(ほくざん)高校は3位。それにしても参加チームが少ない。10チームくらいと思ったが翌朝の新聞によれば13チーム。そして下位のチームとの差が大きい。暑い沖縄での駅伝は、余りにも条件が悪過ぎる。 話は変わるが、14世紀の沖縄本島には3国が鼎立していた。北の北山王国、中央の中山王国、そして南部の南山王国だ。3つの王国はそれぞれ中国と貿易していた。やがて中山によって全島が統一され、北山と南山は滅ぶ。北山高校は誇り高き祖先の名を校名に戴いたのだ。その本拠地である今帰仁城への坂道を登る。 初めは走って登れていたが、最後はトボトボ歩くだけ。11時50分、ようやく城の入口に到着。走り始めてから既に5時間半ほどが経過し、疲労と空腹の限界に達していた。無料休憩所の椅子に座って大休止。唸りながらメモしていると、外国人が私を振り返り、ランナーだと分かって安心したようだ。外は激しいスコールになった。<続く>
2011.11.10
コメント(2)
< 謎のオランダ墓 > この島ではセミが鳴いていない代わりに、何種類かの蝶々を見かけた。島の北側は畑で、植えられていたのはカボチャ、サトウキビ、紅イモ。レストランや休憩所や宿泊施設は30個所ほどあったが、その大部分は既に閉鎖された感じ。まず立地が悪く、施設も貧弱。メニューの「海ブドウ丼」や「イセエビ」は、漁期との関係から一年を通じて提供するのは難しいはず。何よりも島が小さ過ぎて、休まずに通過する車が多いと思う。 戻ったものの橋がない。真下からだと角度の関係で橋が見えないのだ。橋の上到着は8時56分。一周するのに約1時間かかったが、坂道のため案外距離があったのかも知れない。10kmほど海上を隔てた大宜味村辺りに、光が差している。最北端の辺戸(へど)岬は雲の中か。風が強く、2kmの橋を21分かかって渡る。屋我地島の海岸に8つの岩。 分岐点からワルミ大橋方面に右折。橋へ登る坂道の途中に「オランダ墓」の標識。ここで疲労感に襲われた。朝食から4時間半、走り始めてからでも3時間半が経っている。この暑さの中では疲れが出ない方がおかしい。道端に腰掛けてマドレーヌと煎餅を食べ、味噌汁の素を口にする。 通りかかったお婆さんに「オランダ墓」のことを尋ねると、「オランダ人の墓だよ。ここから近いよ」との返事。今行かないと二度と見れないだろう。そう思って道を下った。500mほど行くと小さな港。案内板はないものの、その右側にそれらしい雰囲気の小道。途中にお墓のようなものがあるが説明はない。どんどん進むと、突端にそれらしい岩。 石製の見事な墓に眠っていたのは2人のフランス人水兵で、没年は1846年。首里の琉球王府と折衝後、幕末の日本に向かう途中に病没。琉球王朝時代は今帰仁間切(なきじんまぎり)の役人が、明治以降は付近の集落の人が墓の管理をしている由。「オランダ」は外国人の通称で、当時は「うらんだー」と発音していたことをようやく思い出す。やはり寄った甲斐があった。 さらに驚いたのは墓の真向かい、瀬戸の向こうが運天港だったこと。そこは源為朝が立ち寄ったとの伝説があり、1609年に琉球王国を進攻するため薩摩藩の軍船が入った港であり、付近には古い墓が多いので有名な地であり、今は伊平屋島、伊是名島へのフェリー乗り場のある天然の良港。まさに奇遇とはこのことだ。 当時八丈島へ流されていた為朝がわざわざ琉球を訪れる理由はないが、これは沖縄と日本は「同祖」であることを強調するための後世の作り話。アイヌの神であるオキクルミと源義経が同一人物であるとして、平取町のアイヌ人集落内に義経神社を建てたのと同根。琉球とアイヌを日本帝国に組み込むための方便だったとも言える。こうして明治新政府はアイヌから広大な土地を収奪し、三菱などへ払い下げたのだ。<続く>
2011.11.09
コメント(2)
全265件 (265件中 1-50件目)