マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2014.10.31
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カテゴリ: 歴史全般
<久米島の歴史を訪ねて その1>

ホテル1.jpg 私が泊ったホテル

 10月25日土曜日。旅の2日目は4時前に目が覚めた。いつもならブログを更新するのだが、パソコンがないために手持無沙汰。仕方なく体操や読書で時間を潰す。6時過ぎ、空が少し明るくなって来たため海岸へ出る。ここはホテルのプライベートビーチ。ホテルは全室オーシャンビューのようだ。


   久米島の夜明け  海1.jpg

 少し沖にサンゴ礁(リーフ)が見える。この内側が遠浅で、砂の白さと太陽の光でエメラルドグリーンに見える。沖縄では「イノー」と呼び、昔はここで魚や貝を捕った。リーフの外側が外洋で急に深くなり、色も濃紺に変わる。遠くに見える山はアーラ山(287m)で、あの付近もマラソンのコースだ。


海9夕暮れ.jpg

 それにしても木の葉が全て茶色に変色していたのが気になった。変色の理由は後で知った。台風19号は風台風で雨が降らず、そのため塩害を受けたのだそうだ。枯れた葉の下から、若い葉が芽生えていた。木は枯れてはいないようで、セミがジージーと煩いほど鳴いていた。

朝食は7時からレストランでバイキング方式。地元の野菜などをたっぷり食べる。部屋に戻って朝の連続ドラマを観、フロントへ電話。9時にタクシーを予約し、島の観光に行く予定。だが私のは単なる観光ではなく、久米島の歴史を辿る旅なのだ。古い沖縄の地図を見ながら、訪ねたい個所をチェックした。3時間もあれば全部行けるはず。ついでに明日のマラソンの選手受付を済ませる積りだ。


       運転手のOさん  人1運転手.jpg

 9時前、予約したタクシーが来た。運転手さんに行きたい先を6つほど告げる。島出身の彼は観光案内することも多いらしく、早速メモを取る。私は島の主な産業と人口。塩害の話。琉球王朝時代の間切(まぎり=島の言葉ではまじり=行政区分)、城(ぐすく)と御嶽(うたき=聖なる場所)の存在など、聞きたかったことを彼に尋ねた。


歴1上1.jpg 上江洲家住宅

 最初に行ったのが国の重要文化財指定の上江洲家住宅。これで「うえず」と読む。先祖は島の城主だった由。宅地の広さは661坪で、建物部分が92坪の堂々たるもの。主な部分は乾隆19年(1754年)の建築。琉球王朝時代で、これは中国の年代。第2次世界大戦の際、久米島は米軍の「艦砲射撃」を受けなかったそうだ。それでこんな古い建物が残ったのだ。まさに奇跡的なことだ。

 家の前の石は「ひんぷん」(屏風)と呼ばれる目隠し。家の主人や重要な来客はこの門を入るが、女性の家族などは別の入口から入るのが風習。帰宅後もらったパンフレットを見たら、王朝時代は「親雲上」だった由。これは「ペイチン」と呼ばれる身分で武士。無役の士(さむれー=さむらい)→ 里之子(さとぬし)→ 親雲上 → 親方(うえーかた)→ 三司官(さんしかん=大臣クラス)→ 王子(王になれなかった、あるいはなる前の王族)→ 琉球王 が当時の序列だ。


     メーヌヤ 歴5上5.jpg

 メーヌヤ(前の家)と呼ばれる蔵。ここが農作物などを保管する高床式の建物。上江洲家は首里王府から任命を受けて、具志川間切(明治以降は具志川村、現在は合併して久米島町)の地頭代(税金を取り立てる役職)をしていたのだろう。当時の久米島が課せられた税は、米と久米島絣(かすり)。どちらも琉球王朝では貴重な産物で、王族、貴族、士族の食料や着物に仕立てられた。


歴8上8.jpg フール

 これはフールと呼ばれる建物。左側がトイレで、右側が豚小屋。これだけきれいに残っているのは、県内では他にないはず。戦前までの主な食料はサツマイモで、大量の大便が排泄される。これを豚の餌にしたのだ。ベトナムのトイレが池の上にあって、便が魚の餌になるのと一緒。極めて合理的な生活の知恵なのだ。沖縄の人は恥じるが、これは最もエコであり文化性の高いもの。もちろん今はどこにも残っておらず、ここでも使用もされてはいないのだが。


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 主家の裏側に糸繰機が置かれていた。これで絣の元になる木綿を紡いだのだろう。


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 家の裏庭。石垣と植木のバランスがとても美しく、いかにも高級士族の屋敷らしい雰囲気を醸し出している。


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 今は石で覆われてしまったが、元々は野菜などを洗うための水場があったそうだ。


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 母屋の東側にある小屋。東は太陽が登る聖なる方向で、家の守り神をこの小屋で祀った。


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 小屋の棚には上江洲家の守り神が祀られていた。因みに沖縄では東は「あがり」と言う。これは太陽が上がるため。西は「いり」と呼ぶ。これは太陽が入る(沈む)ため。因みに南は「はえ」。これは南風(はえ)から来ており、北は「にし」と呼ぶ。北風(にし)に由来する。東は生命復活の源である太陽(てぃーだ=天道=てんとう=おてんとさまが語源)が上る、聖なる方向。

 やはり上江洲家住宅は素晴らしかった。沖縄本島中城村の中村家住宅も琉球王朝時代の建物が奇跡的に残り、同じように国の重要文化財に指定されている。フールもあるが屋根付きではなかった。こちらは子豚が行き来出来る「穴」が開いている。親豚や兄豚の所に行って、自由に餌を食べるための工夫だ。


歴16君1.jpg 君南風殿内

 次に向かったのが君南風殿内。これで「ちんべーどんち」と読む。君南風は原始神道の祝女(ノロ)で、琉球王朝の卑弥呼に当たる「聞得大君」(きこえおおきみ)に次ぐ高位の神女。殿内は高貴な建物の意味。琉球王朝時代、石垣島で起きたオヤケアカハチの反乱を鎮めたのが宮古島の仲宗根豊見親(なかそねとゆみやー)と君南風。豊見親は武力で反乱を鎮め、君南風は呪術で鎮めた訳だ。


歴17君2.jpg 殿内の内部

 これは殿内の内部。今では内地の神社とあまり変わらないが、元々は自然崇拝なので境内には大きな樹木などがあったはず。「君南風」の称号は首里王府から任命書により、代々正式に任命された。現在でもここで雨乞いの儀式をしているそうだ。


       境内の岩  歴18君3.jpg

 これは境内の岩。沖縄では霊力のことを「シジ」と呼び、大きな岩や樹木に霊力が宿ると考えていた。日本神道も全く同様の起源を持つ。この岩もきっとシジの高いものとして置かれたのだろう。<文字制限のため明日に続く>





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Last updated  2014.10.31 05:20:58
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