マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2015.06.30
XML
<ブログ友ニッパさん>

旅5ニッパ後.jpg

 肩からバッグを提げた男の人が近づいて来て私の名前を呼んだ。ニッパさんだった。彼とのお付き合いは2年ほどだと思う。その間に怪我をされ、病気で入院され手術も受けた。まだ治療中であることは、彼のブログで知っている。「もしお会いしたらよろしく伝えてほしい」と言う札幌のブロ友たくちゃんさんの伝言を伝えた。また彼のブログを見てると言う三重のマッカーサーさんのことも話したが、名前は知っておられた。

 歩いて駐車場へと向かう。今日の仕事は明日に延ばしたと言う。申し訳ない気持ちだ。盛岡駅の西口へ出た。そこは「いわて銀河」のゴール後、雫石からバスで帰る時に必ず寄った懐かしい場所だった。歩きながら色んなことを話す。たくちゃんさんのこと、お互いの健康のこと、仕事のこと、家庭のこと。そして彼の車で志波城古代公園へと案内してくれた。私はささやかなお土産を渡した。この朝駅で買った仙台名産の笹かまぼこだった。


<志波城古代公園>

志波0城域.jpg
                  志波城の現況

 志波城は大和朝廷の最前線の城だ。古来「方八丁」と呼ばれ、中世の城跡だと考えられて来た。だが東北道の建設に際し、事前調査をして巨大な城跡があることが分かった。昭和51年(1976年)のことだ。それ以来発掘調査が続けられ、次第にその全容が分かって来た。

 928m四方の土塁の中に、840m四方の築地塀(ついじべい)を持つこの城は、外大溝(濠)によって護られている。築地塀の上には60m間隔で矢倉(現在の櫓)が設けられていた。城内には1200~2千棟の掘立柱住宅があり、そこで兵士が起居していた。従って兵士の数はその2倍から3倍は居たと考えられる。


志波1.jpg志波0-1図.jpg

 志波城は延暦22年(803年)に征夷大将軍である坂上田村麻呂が建てた。平安初期のことだ。その前年、彼は北上川の中流域にある胆沢城を建て、蝦夷(えみし)の族長であるアテルイとモレを倒して、さらに北へと向かった。なお蝦夷はアイヌ族とは異なる先住民であり、私達東北人の遠い祖先に当たる。


   建物配置図  志波0-5建物配置.jpg

 そして現在の岩手県盛岡市西方、雫石川と北上川が合流する近辺にこの城を建てた。もちろん蝦夷を征伐するためだ。だが、わずか10年でこの城を去ることになる。理由の一つが川の氾濫で城の北側が破壊されたこと。第2が文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)が弘仁2年(811年)現在の岩手県北部および青森県南部の蝦夷を全滅させ、ここに駐留する必要がなくなったためだ。

 そして3つ目がこの城が余りにも巨大で、維持するには大変な労力を要したため。そこで北上川を下った矢巾に徳丹城を築いて移転したのだ。


志波2外郭南門.jpg 外郭南門と築地塀

 坂上田村麻呂は延暦15年(796年)に陸奥按察使(あぜち)、陸奥守、鎮守将軍に任命されている。38歳の時だ。延暦23年(804年)に征夷大将軍となって志波城を築き、蝦夷を征伐した勲功で翌年には参議に任じられた。以降中納言、大納言、右近衛大将と出世し、京都清水寺創建、富士山本宮浅間神社創建、平城遷都造宮使などを命じられている。軍人でありながら、政治にも明るく、蝦夷からも強い人望があった好人物だったようだ。

志波2-3橋と南門.jpg志波2-2扉.jpg

 (左)外郭南門と橋。橋の位置を南門の中心とずらしてある。(右)外郭南門の扉。


志波6矢倉(櫓).jpg志波7濠.jpg

 (左)矢倉(後の櫓60mおきに設置)(右)外大溝断面図


志波5-1政庁正殿敷地.jpg

 政庁正殿の跡地


志波5政庁正殿.jpg

 政庁正殿のCG復元図。ここで大将軍が政務を取ったのだろう。


志波10-4執務.jpg志波9出土硯.jpg

 (左)役人の執務姿           (右)陶製の硯(すずり)


志波10-1服装.jpg

             当時の兵士と役人の服装(推定)


志波10当時.jpg

        都から着いた使節の一行か。(推定図)


志波8兵士宿舎.jpg志波10-3兵士.jpg

 (左)竪穴住居。これは兵士の宿舎や工房用で小型、形は色々なタイプがあった。城内に1200~2千棟建てられ、蝦夷の襲撃から城を守っていた。

志波9出土金属.jpg1-10.jpg

 (左)城内から出土した鉄製の武具など (右)盛岡市遺跡の学び館にあった太刀


旅3ニッパ.jpg旅6志波自分A.jpg

         ブロ友ニッパさん(左)と私


1-1.jpg1-3大館遺跡.jpg

 次にニッパさんが案内してくれたのが「盛岡市遺跡学びの館」。志波城古代公園から車で10分ほどの距離だった。ここに盛岡市内の大館町遺跡から出土した日本一大きい縄文土器(右)などが陳列してあった。志波城も学び館の出土品も長年の夢であった古代の東北を知る重要な手掛かりとなり、大いなる興味を引かれた私だった。<続く>





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2015.06.30 19:33:43
コメント(12) | コメントを書く
[考古学・日本古代史] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR


© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: