マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2015.08.17
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カテゴリ: 歴史全般
<私が見た風景と戦争>

 私は昭和19年の3月に生まれた。第2次世界大戦の最中である。従って戦争の記憶は全くない。私が見たのは戦後の風景だが、その風景を通じて戦争との関わりについて記そうと思う。なお、文中の写真はすべて、仙台市歴史民俗資料館の所蔵資料から借用したものである。


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 父は13人兄弟の三男だった。伯父の1人及び叔父の1人が戦死している。叔父の1人が満蒙開拓団に志願し、現地で開拓をしていたが戦後無事帰国。父はフィリピン方面に出征し、砲弾の破片で負傷。右足の膝から切断。いわゆる傷痍軍人として帰国した。私達兄弟には戦後生まれの弟を除いて、戦時に相応しい名前が付けられた。従姉の名は勝子。私と同学年だが、何年か前に亡くなっている。


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 母は父の出征中に知人にレイプされた。その後帰国した父との間に私と弟が生まれたが、戦時中の事件がわだかまりになり、弟が生まれて間もなく離婚した。私には幼い日に多分母だと思う人と手をつないだ、微かな記憶しか残っていない。


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 私の記憶に残る風景は、空襲後の焼け跡だ。母と別れて住んだ家の庭に畑を作り、そこにカボチャを植えてあった記憶がある。その後2度仙台市内を引越し、父は家を建てた。その近辺にも焼け跡があり、そこが私達の遊び場だった。現在の東北大学農学部のキャンパスだが、その構内の至る所に白いゴムが落ちていた。衛生サックつまり現在のコンドームだが、その時は何に使うものか知らなかった。道路は舗装されておらず、雨が降ると至る所に水溜りが出来た。


訓練3防空壕.jpg

 当然だが、防空壕に入った記憶はない。だが、戦後も仙台市内の崖のある所には、防空壕の穴が幾つも残っていた。だから防空壕の名前は聞いて知っていたが、現在はほとんど見かけない。空襲時にはきっとたくさんの人が逃げ込んで、生命の危機を免れたのだろう。先日の「ブラタモリ」で、頑丈な防空壕が今も残る家を見た。やはり広瀬川沿いの崖のある地区だった。


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 お祭りなどの行事があると、傷痍軍人が自分の負傷した体を「見世物」にして同情を買い、お金を恵んでもらっていた。彼らは傷痍軍人手帳を持ち、国から年金が支給されていたはず。父も傷痍軍人だったがこのようなことはせず、自分でお金を稼いだ。父は「闇屋」、お菓子屋、食堂、住宅経営などを手がけた。だが「もらい火」の結果多額の借金を作り、夜逃げした。浮沈の激しい人生で、私達子供もその影響を強く受けた。


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 浮浪児と言う言葉がある。戦争で身寄りを失い、自分達で自活していた子供たちだ。やがては孤児院に収容されたのだろうが、まだ路上生活者はいた。東京の地下道には、そんな人がたくさんいた。今で言うホームレスだ。戦争は家族を引き裂き、家庭を破壊する。私達兄弟も、それに近い経験をした。悲惨な時代だった。


戦後6学校給食.jpg

 子供の頃の記憶と言えば、空腹の記憶が強烈だ。ゴマ塩だけをかけたご飯。盗んだネギを刻み、醤油をかけただけのおかず。食糧は配給制で、数に限りがあった。サツマイモの茎に近い部分も食べた。そのサツマイモも農林○号と言う名の、とても不味い代物。そんな時代の救いが学校給食だった。ともかく小学校に行けば、給食で何かは食べられたのだ。脱脂粉乳だって私にはご馳走だった。それでも子供達はやせて、栄養失調寸前の体をしていた。

 また学校では、頭からDDTをかけられた。これは「頭シラミ」を撲滅するため。現在の「枯葉剤」と同じ成分の毒薬だ。また学校では「虫下し」を飲まされた。野菜に付着した寄生虫の卵が体内で成長し、栄養を吸い取ってしまう病気だ。私は気持ち悪くて飲まなかった。父の体内から出た10匹ほどの回虫が、洗面器の中で死んだのを見ていたからだ。


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 桜の咲く校庭に整列して、山内校長先生の話を聞いた。「日本は独立した」。確かそのような内容だったと思う。昭和26年9月8日、日本はサンフランシスコ講和条約に署名した。これでようやく敗戦国日本が世界の仲間入りしたのだ。だが効力発生は翌年の4月28日から。きっと私の脳裏に残っているのはこの日の記憶。私は小学3年生だった。


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 この前、昭和25年の6月に朝鮮戦争が勃発した。ソ連と中国は北朝鮮を支援し、米国は韓国を支援した。日本に駐留していた米軍も朝鮮半島に駆け付けた。仙台市内でも軍事演習に向かうアメリカの戦車を、街中で良く見かけた。米兵は戦車の上から子供達に、チューインガムやコーヒーが入った袋を投げた。ガムは食べたが、「苦い粉」は捨てた。

 GHQから日本が再軍備を求められたはこの時だ。自由主義諸国の仲間入りをした日本に再び軍隊を置き、何としても共産主義の拡大を防ぐ狙いがあったのだろう。平和主義を謳う憲法を強制された国に、再び30万人の軍隊を作ることを要請する大国。吉田総理は粘りに粘って3万人の規模の保安隊を置くことで妥協した。それ以上は日本の国力では無理と主張したのだ。それが現在の自衛隊の前身となった。


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 借金を作って夜逃げした父を追ったのは昭和29年の冬のこと。もう給食費すら払えないような状態だったのだ。中学2年の兄、小学5年の私、そして小学1年の弟の3人が、夜汽車と連絡船を乗り継いで四国へ渡った。数年ぶりに会った父が私達を見て驚く顔が今も忘れられない。その父も私が高校に入って間もなく脳溢血で死んだ。まだ40歳の若さだった。

 父が作った財産の全てが3人目の母に奪われ、私達は再び故郷の仙台に戻った。優しい叔父の家に厄介になり、アルバイトをして何とか高校を卒業した。学校が休みの時は、複数のアルバイトをした。その後結婚した兄は35歳の時に脳出血で倒れ、その後も発作を繰り返したが今も存命だ。妻をがんで失った弟はその後転勤先の九州で出会った現在の妻と再婚し、そこで暮している。私は東日本大震災の年に不整脈を発症して2度手術を受けたが、今もその症状に苦しんでいる。


資料18女の子.jpg

 姉は35歳の時に事故死した。両親の離婚、そして父の夜逃げなど、最も多感な時期に家庭がなかった姉は、最大の犠牲者だったと思う。一人で高校や看護学校の入学手続きをし、学資をまかなった苦労は、並大抵のものではなかったはずだ。兄弟で一番頭脳が優れていた姉がたった一度だけ私の高校へ文化祭を見に来てくれたのが懐かしい。

 父と別れた母は長く病院に入っていた。その母と最後に会ったのは、死の3日前だった。母の顔を見たのはそれが2回目。3回目は死後のことだ。もしも戦争がなかったら、父と母の人生、そして私達兄弟の人生も大きく違っていたはずだ。薄倖の人生を終えた母の顔が穏やかだったのが、せめてのも慰めだ。


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 今、父と母は同じ墓に眠っている。姉の遺骨も分骨して、父母と共に眠っている。それは兄の考えによるものだ。お墓は私達兄弟がお金を出して作った。私もいずれそこへ入る予定でいる。その時に父母や姉と何を話すか、今から楽しみにしている。<続く>





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Last updated  2015.08.17 06:17:09
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