マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2016.03.02
XML
カテゴリ: ランニング全般
シラサギ2.jpg

 2月の末に走った13kmのコースで橋の上まで来た時、名取川の川幅がかなり広がったことに気づいた。「おかしいなあ。これほどまでに広がるのは初夏頃なんだが」。だが直ぐに原因が分かった。暖冬の影響で例年より2カ月以上も早くから山の雪が融け出したのだ。これが夏場の田圃の水不足に繋がらないことを祈りたいものだ。

 結局2月のは9回で92km止まり、一方は13回で45km。合わせて137kmだった。元気な頃の半分以下だが、ゆっくりでもまだ走れることに感謝したい。これまでの累計は86686kmに達した。


空1.jpg

 先日県南の市に行った時にふと思った。6年ほど前までやっていた「峠越えラン」。家からこの角田市、丸森町を通って福島の相馬市まで走ろうとしたことがあった。その後不整脈の症状が出てからは無理になったが、電車で角田や丸森まで来て、そこから残りを走れないだろうか。距離は30kmはありそうだ。その体力と走力が今の私に残っているかどうか。その前にもっと鍛える必要があるが、もしかしたらまた夢の続きが見られるかも知れない。冒険の再現だ。


鳥2.jpg

 2月下旬に9kmのコースを走った時、200mほど前方を歩く人が見えた。ところが登り坂なのでなかなか追いつかない。ようやく追いついたのは3kmほど先の団地の下り坂になった頃。そこでその男の人に3km手前から姿を見ていたことを話した。私の住所を言うと、彼は私の名前を口にした。向かいのKさんの畑と山友達で、彼もランナーなのだとか。それでKさんから私の名前を聞いていたらしい。

 これは驚いた。世の中にはこんなこともあるんだねえ。学年は私と同じ。病気になって体力が落ち、今はレースに出ていないが、体力維持のために走ったり歩いたりしている由。何とまあ私とそっくりではないか。私が所属する走友会のM仙人のことも知っていた。同じような経歴のランナーが今もまだ同じように頑張っている姿を見て、本当に嬉しくなった。


伊江島.jpg

 あるブログに沖縄の写真が載った。浜比嘉島の風景を観たのは平成3年に私が沖縄勤務中に訪ねた時以来。そして古宇利大橋から見る「ライオン島」と古宇利島の風景は、私が単独で走破した沖縄本島一周の最終年以来だから4年半ぶりのものだった。涙が出るほど懐かしい風景なのに、そのブログのコメント欄は半年も前から閉じられたまま。

 ブログの主のMさんも元ランナーで同学年。現役時代は月間500kmも走ったと言うから、セミプロ級だったのだろう。だが彼はその後走るのを止め、一方の私はボロボロになりながらもまだ走り続けている。彼がコメント欄を閉じている理由は分らないが、何かに苦しんでいるのかも知れない。


窓1.jpg

 ある方のブログに、先日文章のことで意見を書かせていただいた。彼は近い将来文筆や講演活動で余生を過ごしたいと書かれていたので、直ぐに理解してもらえると思ったのだ。だが私の書いたことが理解出来ないと言う。そして私は走るのを止めて歩きに変えるべきとも書かれていた。どうやら私のブログも読んでてくれたようだ。

 疑問に感じた点は二重否定にすべき箇所を単なる否定形にしたことで文章の意味が通じなくなったことだが、彼はそれに気づかなかったようだ。原因は彼の文章が「話し言葉」のために論理性に欠けてしまうこと。言葉を思いつくとメモし、文章の一部を取り換えることがあるそうだ。一つ一つのセンテンスは正しくても、それを繋ぎ合わせた文章になると逆の意味になるのは、きっとそんなことが原因なのだろう。


雪3.jpg

 彼は60を過ぎてからスキーや登山に挑戦し、素晴らしい経験を積まれている。それらのことが原因で障害を受けた時は、障害者として生きるとも書かれている。勿論そうなりたい訳ではなく、万が一そうなった場合の生き方を言ってるのだと思う。それは私のランニングも全く同様。リスクは覚悟の上での行動だ。そうならないよう鍛錬をしている積りだが、交通事故の巻き添えなどはあるかも知れない。

 ランニングのし過ぎで病気になったとの誤解を持つ人は結構多い。ランニングや病気の経験のない人が大半だ。不整脈の発生メカニズムは生理学的なことに原因があり、有酸素運動のジョギングはむしろ一部の不整脈には有効な運動療法でもあるのだ。そして何よりも私は楽しいから走るのであり、ランニングは苦しむためのものではない。ウィンク


コブシ.jpg

 1月に松島に行った際、同級生に会った話は前にも書いた。僧侶である彼の持論は「健康は何もしないのが一番。そして腹式呼吸の読経は健康の秘訣」。酒は大好きだし煙草も吸う。彼も私が体調を崩したのはランニングが原因と考えているようだ。だが私は敢えて反論はせず、「全てが良い経験になった」と答えただけ。そしてまだ朝の勤行を続けているのかを尋ねた。答えは「もう全て息子に任せている」だった。

 彼はクラス会などで良く言う。「自分が一番長生きして、亡くなったクラスメート全員の冥福を祈る」と。その志は嬉しいが、果たしてこの先どうなるかは神様しか分からないはず。先ほどの彼も、「自分は100歳まで生きる」と書いている。どうやら僧侶とは自分の健康に、相当自信がある人種なのだろう。


形3窓.jpg

 これは15年ほど前に週刊誌で読んだ話。ある高僧が体調を崩して病院へ行ったそうだ。精密検査を終えて診察室へ入った時に高僧が言った。「先生、私は長年厳しい修業を重ねて来ました。ですからどんなことを聞いても驚きません。全て本当のことを言って下さって結構です」と。そこでドクターは検査結果を見ながら高僧に答えた。「そうですか。それなら申し上げましょう。貴方は○○がんの第○期で、余命は後3カ月です」と。

 その高僧、直ぐに顔が蒼ざめ、それから1週間もしないうちに亡くなったそうだ。多少誇張はあるかも知れないが、実話のようだ。宗教者と言えども人間。死の恐怖や不安から逃れることは出来ないのかも知れない。


アオキ.jpg

 つい最近私は1人のブログ友を知った。最愛のご主人を亡くされたばかりの婦人だ。だが彼女の健気な生き方に感嘆する。まず自分に正直だし、何よりも前向きな生き方だ。そして書かれる文章がまた魅力に溢れている。人間歳を取ると、人格が顔に現れると良く言われる。文章も同じ。著者の人格、知性、器量などが文章を見れば一目瞭然なのだ。思い付きの言葉を羅列すれば素敵な文章に変わる訳ではない。文章にはその人の想いや生き方(哲学)が凝縮されている。まして言霊が宿る日本語ならなおさらだ。

 私のブログ友には高齢者が多い。彼らもそしてこの私も、長くて後十数年の命だろう。自分に遺された時間をどう使い、どう生きるのか。それは宗教者だろうが一市民だろうが一切関係ない。3月に入った途端の時ならぬ雪になったが、また体調を見ながらゆっくり走りたいと思っている。あっ、歩くのだって素敵だけどね。手書きハート





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2016.03.02 07:23:26
コメント(16) | コメントを書く
[ランニング全般] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR


© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: