マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2016.03.03
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カテゴリ: 文化論
むう3マスコット.jpg

 「むう姫のお雛様は撮れますか」。私は尋ねた。「いや、フラッシュを焚くと困るので」。「それではフラッシュを焚かなければ良いのですか」。さらに尋ねる。「一人に許すと皆に許さないといけないんで」。返事はそんな風に変わった。ダメならダメと最初からそう言えば分かるのに、この廻りくどさは一体何だろう。観光案内所の人ではないな。学芸員ならもっと端的に対応するはず。となると、教育委員会関係者かも知れない。私はそんな風に感じたのだ。

 電話の相手は角田市郷土資料館の方。地元紙にむう姫のお雛様のことが出ていた。ブログで取り上げるにはちょうど良いテーマなのだが、写真が撮れないとなるとどうなのか。そこで他の展示品のことなども聞いてみたのだ。


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 それから数日後、私は自転車でJRの最寄り駅に行き、電車を乗り次いで県南の小さな市へと向かった。槻木駅からは「阿武隈急行」の旅。単線ののどかな電車で乗るのは今回で3回目のはず。


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 車窓から南蔵王の雪景色が見えた。雪雲に隠れてぼんやりした山容。それもやがて見えなくなってしまった。間もなく角田市内へ入ったようだ。角田出身の先輩や後輩の顔を思い出す。彼らは2番目までの職場の関係者だったり、夜学の同級生だったりする。その後私は東京へ転勤し、さらに全国を転勤したため、皆若いころの顔のままなのだが。


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 大雑把だがこれが角田市の位置。ほぼ宮城県の最南端に当たる。人口3万人ちょっとの小さな市だ。


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 この市の目玉はロケットと梅干。変わった組み合わせだが、ロケットはJAXAの角田ロケットセンターと言う施設が市内に在り、梅が名産品と言うわけ。梅の花の適当な写真がなかったので、梅干しにした次第。大笑い郷土資料館への行き方は頭に入っているが、念のために駅前の地図で再確認してみた。


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 20分ほど歩いただろうか。駅前は閑散として何もない。そこから東へ向かい、市役所の角から南へと曲がった。その先に立派な蔵が見え、資料室の看板が立っていた。そこから横へ入ると昔のお屋敷が見えた。それをそのまま資料館として使っているようだ。


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 左は表の蔵の横にあった門。後で聞いたら元々は角田城の城門の一つだった由。そして右はこの建物の本来の持ち主の標識。後で聞いたら角田の殿様に出入りしていた商人の屋敷だったそうだ。ふ~む。私はしばらく外の様子を撮影してから屋敷の中へと入って行った。料金は300円。決して高くはないが、果たして肝心の展示物はどうなのか。ぽっ


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 これがむう姫の両親。父は仙台藩祖の伊達政宗。これは有名だから説明不要かも知れない。母は側室のお山の方。慶長13年(1608年)に政宗の次女として生まれたんだ。そんな姫がなぜ田舎町の角田へ?


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 むうには14歳年上の姉五郎八(いろは)姫があった。彼女は正妻である愛姫(めごひめ)との間に生まれ、徳川家康の六男松平忠輝に嫁いだ。彼は越後高田100万石の城主だったが父の不興を買い、国替えとなった。そして五郎八姫も離縁され、仙台へと戻ったのだ。一方のむうは政宗の寵愛を一身に受けて、伸び伸びと育った。そして戦国時代ではなかったため、戦略として大名家に嫁ぐ必要はなかったのだ。


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 むうの嫁ぎ先は仙台藩伊達家一門筆頭格の石川家。角田初代の石川昭光は政宗の叔父で、源氏の血を引く名門石川家を継いだ。だが秀吉の小田原攻めに参陣せず、現在の福島県石川郡の領地を没収されてしまった。そこで甥の政宗に泣きつき、臣下となったのだ。そして1万石を与えられ、角田城主に落ち着いた。


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 政宗は最愛の娘を、一門筆頭格の石川家に嫁がせた。相手は昭光の孫の宗敬。まだ宗敬が13歳、牟宇(むう)姫は12歳の若さだった。姉五郎八(いろは)は子を産むことなく死んで松島瑞巌寺の末寺に祀られているが、次女の牟宇は3男2女を挙げ、角田市内に葬られている。享年76歳の長命だったようだ。

 さて本論のむうのお雛さまが写真のもの。撮影は無理だったので、パンフレットから借用した。お雛様はむうが嫁入りした時に持参したと考えられている。それは雛人形の調度品に刻まれた伊達家の「雪薄紋」(ゆきすすきもん)で分かるとのこと。伊達家には6つほど家紋があるが、この「雪薄紋」だけは他に類例がないため、伊達本家から嫁入りしたむうの持ち物と判断された訳だ。


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 これが男雛の写真。江戸初期の嫁入りなので、その当時これだけの人形を作れたのは恐らく京都以外にないだろう。町雛にはない大名雛の風格はさすがだ。


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 そしてこれが女雛。むう姫の肖像画が残されていないため、この女雛の顔をむうの顔の代わりに描いている絵が多いのだと思う。ウィンク


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 優しい雛人形の横顔に、政宗の次女むうの面影が偲べるだろうか。


家10むう雛の部屋.jpg

 これは「むうのお雛様」が飾られていた部屋の障子。辛うじてこれだけは何とか撮らせてもらえたのだ。<続く>





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Last updated  2016.03.03 07:30:24
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