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~大阪へ行きたい理由・続編(2)~ 国立民族学博物館(みんぱく) 大阪へ行きたい理由のその2は、かつての職場から案内状が来たことだ。そこから転勤して25年になるのに、辞めてからも「特別展」を開催する都度、招待を兼ねた案内状が送付される。私も転勤後の様子を知りたいのだ。展示場があれからどう変わったのか。私が勤めた頃に国内で初めて実施した「マルチメディア展示」がどんな風に進展したのかを。 常設展示場の一部 国立民族学博物館は大阪府吹田市の「万博公園」内にある。「民族学」は昔風の呼称で、今なら「文化人類学」の方が馴染みやすいかも知れない。世界各地の文化や風俗を調査し、収集した標本を展示しているが、それらのほとんどが直接手で触れることが可能な稀有の存在。おまけに大学院まで持つ研究博物館。研究者は世界各地で学術的なフィールド調査をし、映像を撮影し、標本を収集して来る。 今回の特別展は「日本・モンゴル外交関係50周年記念特別展」であり、~邂逅(かいこう)する写真たちモンゴルの100年前と今~のサブタイトルが付いている。招待状と共にパンフレットが送付されて来たので、パンフに載っていた写真を中心に紹介することにしたい。大学図書館が本職の私が博物館に転勤したのは異例だが、博物館も文化人類学も大好きな私にとっては幸運な人事異動だったかも。 鳥居龍蔵 パンフレットには書かれてないが、モンゴルの古い写真を撮ったのは鳥居龍蔵(1870-1953)だろうと私は推理した。鳥居龍蔵は徳島県徳島市出身の人類学者、考古学者、民族学者、かつ民俗学者。生家は煙草の卸商。勉強が嫌いだった彼は尋常小学校しか出ていない。だが独学で人類学を学び、東京大学人類学教室の坪井教授に標本整理係として採用された。 鳥居記念館(徳島県鳴門市) 坪井教授の下で学術研究に目覚めた彼は、沖縄、朝鮮、中国、満州などで学術調査を重ね、1896年(明治29年)の台湾調査時に初めて持参したカメラで初めて映像資料を残した。1906年(明治39年)には蒙古(現在のモンゴル)カラチン王府女学堂の教師として招かれた妻きみ子を追って同国に渡り、同男子堂教授となった。当然カメラ持参で、多数の映像を撮影したことだろう。徳島県立鳥居龍蔵記念博物館(徳島市) 彼が撮影した学術的な写真の大半が後に「国立民族学博物館」に寄付されたことを私は知っていた。鳴門市でも勤務したため、「鳥居記念館」を観たこともある。東大時代の鳥居は助教授で終わった。小学校しか卒業してなかったためだ。フランス政府から彼に与えられた賞を東大の事務局が紛失したらしい。それだけの名誉があれば、教授にもなれたはず。彼は当時まだ専門学校だった「上智」を大学に格上げするよう文部省に進言し、上智大学が誕生。後に彼は文学部長として迎えられる。 蒙古族の女 しかし不思議な縁だ。たまたま鳴門へ転勤希望を出したため、鳥居記念館を訪ねて鳥居龍蔵を知った。彼は当時の軍部の依頼で外地の調査をした際も、国益よりも学術的な見地からのフィールド調査に徹したようだ。そのことも東大で教授になれなかった理由なのかも知れない。 古いモンゴルの写真(2) 不思議な縁だが、私は鳴門から沖縄に転勤した。鳥居龍蔵は沖縄でも詳細な学術調査を行って日本と沖縄の文化、風俗、言語、信仰の類似点や変異に気づいたことだろう。それはド素人の私も直ぐに察知し、沖縄には日本の古い形がたくさん残っていることに気づいた。それは私が貧しい東北の生まれだったからかも知れない。東北と遠く離れた沖縄に、言葉の類似点を見つけたのだ。そして私は詩を書いた。 古いモンゴルの写真(3) しかし大学図書館勤務の私が国立の、しかも民族学と言う専門的な博物館に転勤するとは意外だった。だが考古学、人類学、日本の古代史、言語学、民俗学などに興味を抱いて専門書を読んでいた私にとって、国立民族学博物館は厳しく、かつ楽しい職場だった。国内外の博物館や美術館を一体どれだけ見学したことだろう。それらが全部生きた学問となって、自分なりの歴史観、、世界観、文化観を養ったことか。 古い写真 パオと自転車 蒙古族は元々遊牧民族で、家畜を追いながら移動を繰り返している。彼らの家パオ(後ろのテント)は自由な持ち運び出来るように分解して組み立て可能。簡単だが寒さにも強い。だが長い遊牧生活も現在ではウランバートルなどの都会での定住生活も増えたと聞く。自転車に乗る蒙古族の姿を、私は今回初めて見た。 古い写真(5) 男だけが持つY染色体だが、世界で一番多いY染色体はチンギスハンの孫のフビライハンのもの。彼は戦いを止めた後、中国に「元」王国を興して王となったが、モンゴル族が東アジアから中央アジア、東ヨーロッパまで征服した結果、現地の男はほとんど殺されフビライハンの血を引くモンゴルの男たちが現地の女性を妻にした結果、4千万人がフビライと同じY染色体を持つと言われる。ロシアが最も恐れたのはモンゴル族だった由。 古い写真(6) モノクロではあるが、後ろには現代風の建物が建っている。そして道端に座っているのは「物売り」のようだ。第二次世界大戦後、かつての蒙古はソビエト社会主義人民共和国の影響を強く受けた。モンゴル共和国の文字もロシアの「キリル文字」を使用していたように記憶している。だがモンゴルと日本の国交樹立は50年と言うので、1970年代。私が知ってる一番古いモンゴル人は力士の旭鷲山だった。 さてここからは全てカラー写真。恐らくは民博(みんぱく)の研究者達が撮ったモンゴル共和国の現況なのだろう。 私が知ってるモンゴルのことと言えば、作家井上靖の「蒼き狼」。勇者チンギスハンの一生を描いた心奮える歴史小説だった。そのチンギスハンの都の跡を発掘調査している話。それから馬乳酒に馬頭琴にモンゴル相撲。裸馬に乗って草原を走る勇壮な競馬のこと。 モンゴルに「ホーミー」と言う歌唱法がある。高音と重低音を同時に出す歌い方。一人で高音と重低音を歌いこなすのには驚く。その独特の旋律がモンゴルの草原に響く光景は圧巻だ。モンゴルと日本の友好関係を切に祈ってこのシリーズを終えたい。懐かしい大阪を今後訪ねることが出来るかは不明。何しろツーリストから届くパンフレットの類は、全て「資源ごみ」になっている現状なので。 ずっと以前に予約していたこの原稿だが、ロシアによるウクライナ急襲が起きたため、先送りしていた。これがいつまで続くか不明だが、遅まきながら公開することにした。果たしてキエフの包囲網と、ウクライナ国民の行方が心配だ。
2022.03.23
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~日本語及び琉球語の起源~ 今日のテーマはとても遠大だ。そして直接沖縄には関係のない話も多く、かえって沖縄に対する理解を妨げるかも知れない。それでもこの困難なテーマに挑んだのは、つい最近ネットであるニュースを知ったことによる。難し過ぎてつまらないかも知れない。頭が混乱するかも知れない。これまで理解していたことは違うかも知れない。私自身もどうまとめるべきか分からないのだが、ともかく書き出した。 その新説は世界的な科学雑誌であるNatureに載ったそうだ。日本語の原郷は現在の中国東北部に住んでアワやキビを栽培していた4千年前の農耕民と言うのがその主旨。論文を発表したチームは、ドイツ、日本、中国、韓国、ロシア、アメリカの研究者たちで、専攻分野は言語学、考古学、人類学、遺伝学。加えて98種の言語の農業に関した語彙や、古い人骨のDNA解析、考古学に関する膨大なデータを組み合わせ分析した結果と言う。 さて、琉球語を含む日本語、韓国語、モンゴル語、ツングース語、トルコ語などユーラシア大陸に広範に広がる「トランスユーラシア語」の起源と拡散については、アジア先史学で長年問題となっていた。だが、文法上の共通点がある。トルコはヨーロッパの入口だが、かつてはモンゴル付近にいた民族が西へ西へと移動して現在の位置に落ち着いた。突厥(とっけつ)やトルキスタンの国名や民族名に「トルコ」の響きが残っていると以前から感じていた。 アワ(粟=左)やキビ(黍=右)の雑穀などを、縄文時代の日本列島で栽培していたことも私は知っていた。稲作が日本列島に伝わる以前、縄文人が採集生活だけでなく住まいの近くで数種類の穀物などを栽培していた。栗や漆も同様だ。自然の山栗と栽培種の栗ではDNAが異なる。また花粉の植物オパールの分析でも分かる。 参考までに国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の見解を載せておく。 今回Natureに掲載された論文を補足する図を載せておこう。農耕の普及と共に言語も拡散した。朝鮮半島ではイネとムギも加わった。日本列島へは約3千年前に「日琉語族」として水田稲作農耕を伴って九州北部に到達した。沖縄では11世紀に始まる「グスク時代」に九州から多くの本土日本人が農耕と琉球語を持って移住し、それ以前の言語(縄文語?)と置き換わったと推定出来る由。 さて、左の図は国立歴史民俗博物館の資料から借用した。右から縄文人、弥生人、オホーツク人である。縄文人は日本列島の先住人。縄文土器は朝鮮半島からも数多く出土しており、縄文人と共通のDNAを有する人骨も発掘されている。縄文文化は朝鮮半島にまで及んでいた時期があったのだ。 さて弥生人は稲作文化と新たな言語を持って日本列島にやって来た。オホーツク人は北海道で縄文人と住み分けていたツングース族。縄文人と弥生人は徐々に混血するが、弥生人が北海道に渡ることはなかった。稲作に適さなかったからだ。 先住民の縄文語は、後で北海道や本州北部にやって来たアイヌ(右から2番目は現代のアイヌ人)語に引き継がれたようだ。秋田の狩猟民であるマタギの言葉には、アイヌ語が残っているそうだ。アイヌ人の祖先はユーラシア大陸東部のツングース系だろう。右は現代の沖縄人で具志堅用高さん。彫が深い容貌はアイヌ人に似ているが、DNAの特徴は内地人に近く、アイヌ人のDNAの特徴とは遠い。 ゴーヤが描かれた琉球漆器 今日書いたことは、私がこのシリーズの中で主張して来たこととも通じて嬉しい。ただし、ことはそう簡単ではなく、日本で一番古い人骨は沖縄の石垣島の洞窟遺跡で発見されている。その人骨のDNAは確かインドネシア系のものに近い特徴があった。かと言って沖縄の民族が日本人の祖先だった訳ではない。九州南部にある幾つかの海底火山の爆発で、日本列島との往来が途絶えた時期があったためだ。 丸木舟を刳り抜くための石斧はフィリピンから関東にかけて同じ型の石器が出土している。朝鮮半島出土の黒曜石は佐賀県の腰岳産で、ロシアのウラジオストク周辺から出土した黒曜石は、島根県の隠岐島産だと分かっている。縄文人の活動範囲はとても広い。その頃はまだ国も国境もなかった。ただし丸木舟での民族移動はあった。人間とはある意味凄いし、縄文文化は偉大な文化だとも思う。 そして日本人男子の遺伝子のY染色体は、アジアの近隣諸国のものとは明らかに別物の由。Y染色体は男系にしか伝わらない。それが古来ほぼ同一の特徴を有しているのは、大量殺りくがなかった証拠。縄文から弥生へとわりと穏やかに推移して行ったのだろう。日本人と似たY染色体が出るのはチベットの由。あそこは高地でなかなか他民族が攻略出来なかったためだろう。ただし現代を除いて。
2021.12.08
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~NHK大好き人間のわたし~ 虹1 NHKと裁判してる党(以下略)とか言う長い名の党があって、総選挙にもかなりの候補者を立てているようだ。公約はただ一点。NHKのスクランブル放送(観たい人だけが視聴料を支払い、観ない人は支払い義務なし)を実現することみたい。まあ発想は悪くないが、一体活動資金をどうやって得ているのだろう。さて、私はNHK大好き人間。ニュースにドキュメンタリーに大河ドラマに朝ドラ。 虹2 何が良いと言って、コマーシャルがないのが一番。民放だと観たくもないコマーシャルを次々に観せられるし、その間本来の番組が中断するのが辛い。そしてNHKの良さは経費を無視したかのように番組を創ること。とても民放には真似が出来ないだろう。「シルクロード」や「映像の世紀」、「新日本紀行」、「英雄たちの選択」など、私にとってNHKの番組はとても良い学習の機会。1人暮らしなのに2台分のBS料金を支払っても惜しくない。 先日たまたま松本清張に関する番組を観ていて驚いた。彼が名高い推理小説の作家であることは知っている。重厚な文体かつ緻密な推理で、読者を虜にする魔力を有する作家。彼の半生を追うその番組で、私が驚いたのは、彼の字の上手さだった。あんな字で文章を書けるのは、きっと相当高い教養と頭脳を持っているのだろう。私はとっさにそう判断し、松本清張と言う人物に興味を抱いたのだった。 清張の書 私がその番組で観たのは、毛筆で書いた書簡。驚いたのはその達筆さと流れるような文章力だった。それで初めウィキペディアで調べた。本名はまつもときよはる。書はさる能書家に習ったようだ。その方は俳句も嗜まれていたようで、松本清張もその影響を受けたのだろう。私はてっきり彼が高学歴の人だとばかり思っていた。だが実際はその正反対で高等小学校(現在の中学校)しか出てなかったのだ。 若き日の清張 家も貧しく高等小学校を卒業すると、彼は印刷工などをして収入を得ていたようだ。努力して図工を学び新聞のカットなどを描くようになり、その合間に考古学好きの仲間に触発されて、九州北部の古墳を訪ね歩く。その経験が後に邪馬台国研究に打ち込む要因となったようだ。そして収入を得るため、新聞社だったか雑誌社だったかの懸賞小説に応募して入選。作家井上靖の目に留まるのはさらに後日のことだ。 清張の代表作 彼の知識の源は読書だった。古本を買って読むのが唯一の学習。だが彼は元々考える力が優れ、たくさんの本を読み、苦労しながら著作したことでさらに文章力が磨かれたのではないか。後には考古学関係の専門書も読んだようだが、一流の学者の著書だった。私は清張の本は一冊も読んだことがない。今回たった1回ウィキペディアで履歴を確認しただけだが、彼の偉大さは十分伝わったと思う。 清張と対極にあるのがタモリではないだろうか。NHKの番組である「ブラタモリ」を楽しみに観ているが、毎回タモリの知識の深さと教養には驚かされっ放し。地学や地理学に詳しく、歴史にも強い。地層を観て岩石の種類やその成因を即座に言い当てる。これにはプロの案内人もぶったまげてしまう。どこでそんな勉強をしたのかは不明だが、彼の関心は広範囲に亘っており、天才と言っても過言ではない。 野葡萄 タモリは子供の時から祖母の料理作りを毎日見ていたそうだ。そのせいで一人暮らしになってからも、出汁の取り方や各種の料理を手早く作ることが出来た由。日曜ごとに教会に行ったのは信仰心からではなく、牧師の動作を観察するため。坂道を一日中眺め、通行人を飽きずに観察し、押し入れで中国語や韓国語をラジオで聞くなど、彼は一風変わった少年だった。それが後に芸能人になって全部役立った由。 早稲田の第二文学部に入ったものの、音楽や趣味に浸って授業をサボり中退したが、還暦を過ぎてから大学が特別に「卒業」と認めた由。彼の特異な才能はウィキペディアで確認したら良く分かる。何しろ面白い人物が博多にいると聞き、何とか芸能人にしようとして東京に呼んだた先輩がいたほど。彼の変人ぶりは、誰の弟子にもならないなどの自戒でも理解出来よう。まったく型にはまらないのがタモリの芸風。堅実な松本清張とは正反対の自由闊達さ。「なるべく頭を下げないで金を儲ける」のも彼のモットーだ。 先日NHKの番組で、台湾人のDNAを調べると原住民由来の人が85%もいることが分かったと知った。従来は漢族が85%以上で、原住民はごく少数と言われていたのだ。私は沖縄に3年間勤務し、琉球王朝と中国(清)や台湾との関係についてはかなり詳しかった。後に大阪の国立民族学博物館にも勤務したことから台湾の原住民についての知識もまあまああった。 アミ族 2年前には台湾を一週間旅行し、現地案内人に色んな質問をして色んなことが分かった。原住民の一つであるアミ族の民族舞踊も観たし、台北の故宮博物館では中国の秘宝もたくさん見た。そして日本の統治下にあった台湾の実態は、その後ネットなどで調べて分かった。それでも今回のNHKの報道は私にとってまさに驚愕すべき内容だったのだ。 これは台湾の原住民16部族の分布図。驚いたのは第2次世界大戦後の台湾では3つの階層があったこと。最上部が漢族でその下に「中蛮」最下層が「正蛮」で税金がかなり違っていたそうだ。だが中国化を進めるため、一定期間を置くと直ぐ上の階級に上がれて、税金が安くなる仕組みを作った由。同時に部族間の混血が進んだことも自らを中国人と認識する助けになった。 ところが遺伝子は正直で、本来の台湾は漢民族とは全く違っていたのだ。これは統一を図る中国にとっては不都合な事実。科学は真実を証明する重要な手がかりだ。そんな訳で私にとってNHKの番組は、知識の宝庫となっている。
2021.10.21
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~「古代エジプト展」を観る その2~ 仙台市博物館で開催された特別展「ライデン国立古代博物館所蔵古代エジプト展」を、昨日は1枚のパンフレットの写真を中心に紹介した。それだけでは物足らないため、今日は「ライデン国立博物館」でヒットしたネットの画像を紹介したい。そのほとんどが仙台市博物館と同様に国内各所の博物館で開催された同じ内容の展示物。著作権所有者は不明だが、フリー状態のためブログに転載させてもらった。感謝。なお、詳しい説明はありません。画像をご覧いただくだけです。m(__)m ミイラを収めた木棺を、このように立てて展示してありました。 死者の内臓を収めた木箱のようです。内臓は壺に入っていました。 パンフレットにもあった木棺です。内部にも色鮮やかな装飾が施されています。恐らくは死者の生前の肖像なのでしょう。女性のように見えますね。 ずらりと立ち並ぶ木棺。その数と本物だけが持つ荘厳さに震えます。 昨日紹介した壁画の全体像。冥府の王や、ハヤブサの頭部を持つ神像などが描かれています。断片からはパピルスに描かれたように見えますが、壁画を切り取ったのでしょうか。 女性の貴人を収めた木棺と、死者の容貌。アイラインがきちんと引かれています。眩しさを防ぐためと聞いたことがあります。 黄金の顏を持つ貴人の頭部。 豊かな頭髪はひょっとしてかつらなのかも。 うら若きツタンカーメン王でしょうか。素材は花崗閃緑岩のようです。 船と乗組員の模型で木製です。当時は紅海を渡って、領土のシナイ半島などへも行き来していました。 以下は仙台市博物館のミュージアムショップ(売店)で販売されていた、同展関係のお土産(記念品)を私が無断で撮影したものです。 恐らくは記念品を取り扱う業者の方が描かれたイラスト。とても上手ですね。国内の各博物館で開催された同展にもきっと同じものが巡回していたのでしょう。 同展の展示物目録(冊子体で2400円)を購入すると、この特製のビニール袋に入れてくれるようです。冊子体の目録があればもっと詳細な説明と鮮明な画像を得られたことでしょうが、今の私にとって2400円は高過ぎました。多分ブログを書くために1度見るだけでしょうから。 どれもみな洒落たデザインばかりですね。でも見るだけで、何一つ買いませんでしたが。 さて、昨日書いた「大谷探検隊」の補足です。大谷光瑞(おおたにこうずい1876-1948=左)は浄土真宗本願寺派(西本願寺)第22世法主で探検家。明治33年(1900年)から大正3年(1914年)まで教団活動の一環として3次に亘る西域探査を実施、インドで仏蹟の発掘などを行った。中央はその探検隊の様子。 右は探検隊が発掘した菩薩像頭部で、東京国立博物館が所蔵している。西洋のヘレニズム文化との融合が観られますね。同探検隊の記録としては「菩薩が来た道」などがあるようだ。 私は昨年訪れた中国大連市の旅順博物館(上)で、大谷探検隊が中国奥地で発掘したミイラを観た。撮影禁止のため映像はないが、最新技術で復元された容貌や身に着けていた衣装など、まさに生きているようだった。 なお同館は旧満州国の満鉄が経営した博物館で、当時の学芸員が中国各地で取集した一級品の美術品や考古資料(上)が多数所蔵され、敗戦後はそのまま中国に引き渡された。現在も中国の歴史や文化を伝える貴重な存在で観光の目玉となっている。戦前の日本が収奪を繰り返した他の先進国とは異なり、積極的に文化学術活動を行っていたことを明記しておきたい。<この項 完>
2021.09.10
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~「古代エジプト展」を観る その1~ 9月の最初の日曜日に仙台市博物館へ行った。 やっていたのはこの特別展。もっと前に行きたかったのだが、庭仕事を続けた後に体調を崩してこの日になった。実はこの日が閉幕の日。何とか最終日に間に合ったわけだ。 そのせいで館内は大いに混んだ。2階の入場口に行くまで20分ほど待たされ、やっと2階に上がっても40分間は待った。退院翌日の病み上がりの身には、立ったまま待つのは辛かった。そして展示物は撮影禁止。 さてどうやってこの特別展をブログで伝えるかと悩んだ。もっと早く行っていれば、地元紙の特集号がもらえたはず。そこでない知恵を何とか絞る。 出来ることは決まっている。唯一もらえたパンフレット(上)にしわが寄らぬよう、折れぬよう持参した新聞に包み、大事に持ち帰る。それをデジカメで丹念に撮れば何とか雰囲気は伝わるだろうと。ところが夜は照明が反射して画像が光る。そこで翌日も何度か撮り直した。舞台裏の話だ。 この特別展は、ライデン国立古代博物館(上)の所蔵品を借りてのもので、全国何か所かで開催されたようだ。パンフレットには「美しき棺(ひつぎ)が立ち並ぶ圧巻の立体展示!」とある。事実展示物は246点と質量ともに内容があり、言葉で表現するのは到底無理。それなのに紹介出来るのがパンフレットの中の写真しかない。因みに同館はオランダの大学都市ライデンにある由緒ある博物館。 ライデン国立古代博物館の建物の写真はネットから借りたが、同館に関する説明はない。あったのは各地で開催された特別展の案内のみ。不思議な話だ。上は展示場外にあった紹介文を撮影したもの。急いで撮ったため部分的になったがそれでも、概要は分かるだろう。オランダは東インド会社での活動を通じ、17世紀前半から、古代エジプトを含む東方の美術品を収集していたことが分かる。 左はフランスのパリにあるルーブル博物館に設置された古代エジプトのオベリスク(尖塔)で、ナポレオンがエジプト遠征時に収奪した通称「クレオパトラの針」。 右は有名な「ロゼッタストーン」で大英博物館所蔵。最上部が古代エジプトのヒエログラフ(神聖文字)、中段は庶民が用いた文字、下段が古代ギリシャ語で、同じ内容の文章が記されている。大英帝国時代にエジプトを占領していたイギリスが収奪したもので、この3種類の文字からなる碑文を翻訳して、古代エジプトの神聖文字を解明した極めて学術性の高い一級の考古資料。 やがてヨーロッパの列強は東方への関心をさらに深め、古代ギリシャ、古代エジプト、中央アジア内部のシルクロード各遺跡などへ探検隊を送った。当時は最初に探検調査した国が、遺物を自由に持ち帰った。日本も明治初期に「大谷探検隊」を中国奥地に送り、学術調査を行っている。 上はオーストラリアのメルボルンにあるビクトリア博物館。私も見学したが古代エジプトの考古資料がたくさんあったことに大変驚いた。博物館の建設に際して国民へ展示品の寄付を募った由。大英帝国国民の末裔がオーストラリアに移住したため、祖先から伝わる貴重な考古資料が大量に寄贈されたのだろう。全てかつての収奪品のはずだが、中には代金を支払って収集したコレクションがあるかも知れない。 前置きが長くなったが、パンフレットの中央に大きく写ったのがこの3体の棺。材質は木。恐らくは古代エジプトの支配下にあったレバノン産だと思う。その中に丁寧に包帯で巻かれた貴人のミイラが眠っていたのだろう。木棺の表面は丁寧で美しい装飾が施されている。このような棺が何十も展示されて、実に壮観だった。ちゃんと紹介出来ないのが悲しい。 左の棺の下部 中央の棺の下部 右の棺の下部 3枚の写真は上の3体の棺の下部の装飾を拡大したもの。左の棺の文様は不鮮明だが、神聖文字が線刻されているみたいだ。中央の棺の文様は神殿とさまざまな神像が描かれている。右の棺の装飾は羽を広げたスカラベ(フンコロガシ)か。スカラベは太陽の象徴でもある。古代エジプトでは太陽は船に乗って移動し、翌日東の空に現れると信じられていた。スカラベの下の三角模様は恐らく「太陽の船」と思われる。 壁画(左) 壁画(中央) 壁画(右) 壁画(右)の全身緑色をしたのは冥府(めいふ=あの世)の王か。壁画(中央)は神に飲み物を捧げる王。当時ワインやビールがあり、ピラミッド建設のための労働者たちも毎日ビールを飲んでいた。壁画(右)はハヤブサの顏をした神で、右手には護符を持っている。 1) 2) 1)は護符(下)とビーズの首飾り(新王朝時代 前1539-1077頃) 2)は王の書記であるバウティの「ピラミディオン」(ピラミッドの模型)新王朝時代第19王朝セティ1世の治世(前1290-1279頃) 3) 4) 3)はネヘメスウのカルトナージュ棺(部分)第2王朝(前934-746年頃) 4)は説明あり a) b) a)は不明だがカワウソの姿をした神像か。b)は猫の像 調査1 調査2 神聖文字(ビデオ) 1)と2)はかつての学術調査時の写真で、出口のパネルを撮影した。最後の神聖文字は流れていたビデオを撮影したもので過去の調査か。 2019年。ライデン国立古代博物館で最新型のCTスキャンにかけて、ミイラの包帯を解かないまま撮影した際の写真。(パンフより)なお同館では、1980年代半ばにイギリスの研究機関と共に、エジプトで調査活動をした由。明日はさらに鮮明な映像を紹介予定。どうぞお楽しみに。<続く>
2021.09.09
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~65年ぶりに観た映画の話など~ ようやく何でも食べられるようになった。一安心でもあるが、逆に心配でもある。それは美味しく食べられるためにたちまち太ることだ。しかし、良くここまで回復したものだ。結構強い体なのかも知れないが、これからも油断せず健康に注意しよう。特に梅雨の時期は食べ物が傷みやすい。これはもういけないと感じたら、ためらわずに捨てよう。 何気なくテレビを点けたら、古い映画をやっていた。タイトルは「慕情」。1955年制作のアメリカ映画。実はこのシーンは前から知っていた。1955年と言えば昭和30年。私は小学校の最高学年だったはず。だから映画は観てないが、このテーマ音楽も知っていた。中学生や高校生時代、私は良くラジオを聞いた。当時スクリーンミュージックは、ラジオ番組の定番だった。 それにしても色彩の美しい映画だった。その頃の呼び名は「天然色」。つまりオールカラー版だ。中国人と英国人のハーフの未亡人医者と、アメリカ人記者の恋。ガキには理解出来ない心情が、手に取るように分かった。中国共産党の横暴から香港に逃げて来た貧しい中国人たち。やがて記者は朝鮮戦争の従軍記者として戦地に赴き、そこで爆撃に遭って死亡する。 美しい映画だった。美しい風景だった。美しい女優に美しい音楽。映画のストーリーを65年ぶりに知った。二人がデートしたあの丘が「ビクトリアピーク」と呼ぶことを、ネット検索して知った。もう20年ほど前に香港で初めてフルマラソンを行うことを、ランニング雑誌で知った。結構アップダウンのあるコースらしい。もちろん参加してないが、ひょっとしてあの丘もコースの一部なのかもしれない。何となくそう感じた。しかし、映画って良いですね。恋するって良いものですね。例え実らなくても。 テレビのドキュメント番組で、首里城復元計画の全貌を知った。相当古い番組の再放送だろう。私も沖縄に勤務していたため、その経緯の大要は知っている。復元計画は1980年代からあり、その中で一番苦労したのが2万枚もの「赤瓦」をどうやって作るかだった由。沖縄独自の赤瓦を造れる職人は当時1人しかおらず、しかも老齢で弱っていた。ところが奇跡的にその息子が跡を継ぐと言い出した由。 結局息子は2億円ほど借金して赤瓦を造り始め、次々と失敗を重ねた。大量の粘土をどこから入手するか。赤が良く発色するための温度管理はどうするか。何年も試行錯誤の結果、必要な瓦を焼き上げた。城を復元するための古い設計図は、故鎌倉芳太郎氏が保管していた。沖縄では戦火で全て焼失していたのだ。漆の色彩の決定、窓の桟に塗る土と色の決定。これは久米島の赤土を何とか探し当てた。 首里城は1992年(平成4年)に復元した。あの赤瓦は、職人親子がそろって葺いた。ところがその美しい城が観られたのは27年間だけ。膨大な経費と苦労の末に完成した城は、2019年に炎上崩落した。火災の原因は未だに明らかになっていない。だが玉城県知事は直ちに上京して首里城再建を陳情し、政府もそれを約束した。馬鹿な話だ。火災の原因も不明、管理不十分な沖縄県になぜそこまで甘いのか。 私が復元された首里城を観たのは1回だけ。そして焼失後の首里城を昨年の暮れに初めて見た。無残な焼け跡だったが、「世界遺産」は無事。実は世界遺産に指定されたのは、復元された建物ではなく地下の「遺構」なのだ。写真の右手に見えるのが地下の遺構。塀の内側には瓦が入った袋が積まれていた。使えるものは再利用し、ダメな物も細かく砕いて次回の瓦を焼く際に利用する計画とか。 私は沖縄が大好きだが、嫌いでもある。韓国と同じで、日本政府に金を要求するのは得意だが、ことの本質を観ようとしないのだ。危険極まりない普天間飛行場が辺野古に移転したら安全になり、しかも新たな都市計画が可能になる。しかし辺野古のサンゴ移植すら県は認可せずに裁判に訴えた。尖閣が中国艦船に侵入されているのに、県の職員を中国に派遣する。何と馬鹿な県知事なのだろう。
2021.07.10
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~人名・地名・物の名~ 水曜日。午前中も午後も転寝をしたにも関わらず、夜もしっかり眠れた。その夜の東北楽天はオリックスに1-4で負けていた。この分では駄目だろう。そう思っていたのだが、何と9回の表に2本のホームランで逆転勝ちをしていた。各チームの差が少ない今季のパリーグ。きっとこれからも厳しい戦いが続くのだろう。大相撲では綱取りの照ノ富士は当然として、意外にも白鵬が踏ん張っている。これにはたまげた。 伊豆山神社 熱海市の土砂崩れ事故が生じた際に名前を聞いたのが伊豆山地区と伊豆山神社。ちょっと待てよ。sの神社は確か、伊豆に配流された源氏の御曹司である源頼朝が、敵方武将の娘北条政子と密かに会っていた場所ではなかったかと。そして土砂崩れを起こした川の名前が「逢初川」(あいぞめがわ)。きっと二人の逢瀬から名付けられた小川なのだろう。微かな記憶から咄嗟にそう思った私だった。 黄瀬川大橋 それと同時に「黄瀬川大橋」が崩落のニュースでも思い出した。こちらは同じ静岡県の三島市。狩野川の支流である「黄瀬(きせ)川」に架かる橋が川の増水で崩落した。この川も源平の戦いに関係する。黄瀬川の畔に陣を張っていた平家軍。そこに対岸から源氏の軍が近づくと、眠っていた水鳥が一斉に飛び立った。その羽音を聞いた平家は、「すわ一大事源氏の襲来だ」と慌てふためき、戦わずして逃亡したと言うお粗末の一席。これは有名な実話。まさか源平に縁のある地名が2か所も出るとはねえ。 つばな ある方がかつて「つばな」の話をブログに書かれていた。私は「はてな?」と思った。ひょっとして「チバナ」の間違いじゃないのかと。理由は地名に茅野(ちの)市、人名に茅根(ちのね)、習俗に茅輪(ちのわ)潜りがあったためだ。それで本来の「ちばな」が訛ったものと推察。しかしネット検索したら、どちらも「読み」としてあり、さらに季語に「茅花流し」がある由。春の風に穂がたなびく様子とのこと。 その方は子供の頃に食べたとも書いていた。そのことも同時に分かった。何と茅花には「節」があり、糖分を蓄える性質を有する由。つまり大きさも見た目も違うが、サトウキビの仲間なのだ。私は沖縄で何度もサトウキビの穂を見た。まさに「ザワワ」の世界だが茅花の穂も、そう言われて見れば小さなサトウキビの穂と見えなくもない。人は色んなものから学ぶことが出来る。そう考えれば、とても愉快だ。 木曜日。小雨が上がるのを待って近所のスーパーへ。たまには歩かないと筋肉が衰えてしまう。最近はすっかりごろ寝族だった。食べたい物を中心に食品を選んだ。今は体力回復が一番。人間食べないとパワーが出ない。だが、梅干し用の「赤シソ」の葉も忘れずに買った。帰宅して値段を確かめると2把で500円となっていた。それはともかく品名は「あくあー」。これは一体仙台弁なのか、不可解千万。 その後の作業が面倒で、葉っぱを枝から1枚ずつ千切り、まとまったら水洗いする。それをボウルに移し、塩を加えて良く揉む。すると赤い汁が出る。ところがその汁は捨てるのだ。きっと「あくあー」は「灰汁」(あく)から転化したのだろう。2把分の葉を塩揉みして灰汁を流し、残った葉っぱを梅干しを漬けている容器に、万遍なく散らばす。すると2時間ほどで梅酢が徐々に赤く変化する。一週間ほど放置し、晴れた日に2回ほど外で干せば、赤い梅干しへと変化する。私の健康の素。今年も頼んだよ。
2021.07.09
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~死と再生~ 菊の御紋は天皇家の紋章である。それがテーマと何の関係あるの。と聞かれるだろう。菊の原産地は中国。日本へは遣唐使がもたらしたと言われる。中国で菊は割と重要な役目を果たした。「重陽の節句」つまり旧暦の9月9日は菊の花を飾って祝った由。薫り高い菊は日本人にも好まれ、朝廷に献上されてついには天皇家の紋章となった。宮家の家紋は全て菊をアレンジしたものとなっている。 ところが菊を愛したのは中国や日本だけではなかった。これは古代エジプトのファラオの黄金の椅子だが、何と背もたれのデザインはまさに菊の御紋ではないか。すると菊が中国からエジプトへ伝えられたのだろうか。それは不明だが、実はこの「菊」は太陽を表したものなのだ。しかし古代エジプトの王室とアジアの東外れにある日本の皇室で、同じデザインを用いていたとは。天皇の祖先である天照大神は太陽神で、国旗は日の丸。すると菊の紋章を太陽と見なすことも可能なのかも知れない。 古代エジプト「太陽の船」 それならなぜ古代エジプトでは太陽を聖なるものと考えたのか。それは太陽が不滅であるからだ。夕方になると太陽は西に沈む。だが翌日の朝には東の空から再び姿を現す。古代エジプトの民は太陽を復活と再生のシンボルとして崇め、その太陽を舟が運んでいると考えた。上の絵は太陽神を舟で運んでいる姿。それは絵だけでなく、巨大な船が発掘されたことで実在が証明されている。 発掘された「太陽の船」 エジプト考古学の専門家である吉村作治早大名誉教授は、かつて巨大ピラミッド付近の地下には巨大な空間があることを地磁気センサーで探知し、巨大な船が収められてる可能性があると「世界ふしぎ発見!」で語っていた。その後、エジプト考古庁が発掘して吉村説が真実だったことが証明された。彼は他にもう1艘分の空間があると言っていたが、古代エジプト人の信仰や知識、技術の高さが理解出来よう。 秋田県大湯環状列石 これは秋田県鹿角市にある大湯環状列石遺跡。縄文時代のストーンサークルだ。巨大な石の輪が2か所あり、その中に写真のような石組が幾つかある。この遺跡には住居はなく、祭祀専用の空間だった。石組をどかして掘ると人骨が出て来たことから墓だったことが分かった。同時に、この石組は太陽の位置を正確に捉える日時計で、毎年春分の日には、同じ位置から太陽が現れることが確認された由。墓は死者の埋葬施設だが、「日時計」はその復活と再生を願っての施設。二重の意味があったのだ。 第二琉球王朝尚育王肖像 さて、沖縄では太陽を「てぃーだ」「てだこ」と呼ぶ。第二琉球王朝の最初の王都であった浦添城と、次に移動した首里城からは、東方の久高島から昇る太陽を遥拝したことが知られている。久高島は琉球の始祖神であるアマミキヨとシネリキヨが上陸した聖地で、城(ぐすく)には必ず祭事を執り行う御嶽(うたき)があった。まさに卑弥呼や、日本の原始神道を彷彿とさせる祭政一致の姿だ。死と再生は人類共通の願いであり、それゆえ縄文、古代エジプト、琉球王朝と形を変えつつも太陽信仰が出現したのだろう。 (1) (2) (3) さて最後に古代の三美神を紹介しよう。(1)はトルコから出土した「地母神」。豊かな胸と腹部から妊婦であることが分かる。(2)は長野県茅野市の棚畑遺跡から出土した「縄文のビーナス」。どうやら縄文時代中期の土偶のようで、国宝に指定されている。腹部から、妊婦だと分かる。(3)は(2)と同じ茅野市棚畑遺跡出土の「仮面の女神」で国宝指定。妊婦なのか「出べそ」状態だ。同一の遺跡から出土した土偶が複数点国宝に指定されるのは恐らく初めてのはず。 亀甲墓 これは「亀甲墓」と呼ばれ、沖縄のお墓の形態の一つ。名前の由来は形が亀の甲羅に似ていることからだが、これは琉球王朝時代に進貢していた中国福建省の墓制を倣ったもので、「母胎」との説もある。つまり死後は母の胎内に還り、いつの日か再生する願いがあったのだろうと。かつては火葬せず遺体は墓の中の「しるひらし」(汁減らし)に安置し、数年後に取り出して洗骨した。洗骨は女性の仕事だった。 この墓も風葬募の一種。温度と湿度の高い沖縄では最も自然な葬制だったのだろう。一族はみな同じ墓に葬られた。いわゆる「門中墓」(むんちゅうばか)で、今でも一門の結束は強い。墓の入口を「産道」と見なすことも出来るが、遺体を入れた後は漆喰で固め部外者の侵入を防いだ。墓は集落のすぐ傍に在り、死者は子孫の繁栄を見守っていた。そのため家も墓も風水によって場所を決めたのだ。 唐草文 「唐草模様」と呼ばれ、日本の風呂敷のデザインの主流はこれだった。かつては中国由来の忍冬(スイカズラ)の蔓を模したとされたが、今では空想の植物をデザイン化したパルメット紋と呼ばれる。古代ギリシャやエジプトの神殿の石柱などにも彫られた。まさに「文化は伝播する」見本。「東京凡太」が背中にこの風呂敷を被っていたが、そんなことを知る人はもういないだろうなあ。 <横山大観 「生々流転」の一部> 横山大観の名作に因む「名前」を借りたシリーズも最終の10回目。我ながら頑張って難しいテーマに挑んだと思う。「生と性」についてはまあまあ書けたが、「死と詩」のうち「詩」はさっぱりだった。次はいずれ「詩」をテーマに書きたいものだ。なお、この「生々流転」を観たのは島根県の足立美術館だった。ツアーで行った際にたまたま「院展100周年記念展」だったかをやっていたのだ。 ただし展示点数が驚くほど充実し、日本画にあまり興味のない私は大急ぎで見回り、庭園や他の美術品に心を動かされたのだった。偶然だが上の絵を見ると、足立美術館の有名な庭園に雰囲気がとても良く似ていることに気づいた。長い間のご愛読、どうもありがとうございました。心から御礼申し上げ、このシリーズの結びといたします。亭主謹白。<完>
2021.05.10
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~形と意味~ 昨日「陰陽石」のことを書いたら、それを観た鹿児島のクマタツさんが、それがあるのは宮崎県の小林市だと教えてくれた。私も確かネットで知ったはずなのに、原稿を書いているうちに失念したようだ。メモはしてるはずなのに、最近は忘れることが増えた。ただし、それに因む画像を保存していたことを思い出した。宮崎県で一番古い「田の神さあ」が陰陽石の地に建てられていると言うからこれも小林市にある訳。そしてこれは神官型の田の神さあだと言うことが分かり、彩色もされている。 これも宮崎県の田の神さあで、彩色されている。右手に持っているのは「しゃもじ」のようで、上の神官型とは明らかに雰囲気が違うので、きっと農民型なのだろう。私はこの画像を見て、これは「あれ」に似てるなあと直感した。 みるく神(沖縄県竹富島) 私が似てると思ったのは、沖縄県の先島地方に伝わる「みるく神」。先島とは宮古島以西の島々。そして「みるく」は弥勒菩薩の「みろく」が転じたものだが、仏教の弥勒菩薩とは異なり、海の彼方のニライカナイ(極楽浄土)からやって来る神で、風体は「布袋さま」に近いだろう。人々に世果報(ゆがふう=豊穣や幸福)をもたらすと信じられるが、果たして九州南部と沖縄に共通点があるのかどうか。 さて、これまで見て来た神々はすべて石で出来ていたが、上の道祖神は長野県のもので、見た通り稲わらで作られている。道祖神には賽の神、障の神、幸の神、さえの神などの別名があり、いずれも「さい」または「さえ」と呼ばれ、悪霊を封じ込め病魔を退散させると信じられていた。遮(さえぎ)るの「さえ」も同じ語源を持つと思われる。 因みに古代東北の蝦夷(えみし)は武力に秀で、都の人々を怖がらせた。そこで朝廷に服属した蝦夷の中から都を警護する者を選んで「佐伯氏」と名乗らせた。これも「さえき」で、「守る」の意味。また東北の蝦夷を各地に移転させた。佐伯、細木などの地名はそれに由来するもので、真言宗の開祖空海上人も讃岐国(現在の香川県)の佐伯氏の出身。古代豪族にも佐伯氏がいる。 秋田県にも可愛らしいわら製の道祖神を祀る風習があるようだ。また「仁王さん」と呼ばれることもあるようだ。仁王も寺院の門前にあって、聖なる空間を守護する存在だからであろうか。形や素材や呼び名は違っても、日本民族とし相通ずる信仰があったのだろう。 さて、大事なことを忘れていたことに気づいた。宮城県名取市にある道祖神社のことだ。平安時代の延長5年(927年)に編集された「延喜式神名帳」に掲載された全国の官社一覧のうち、陸奥国名取郡の2社がここにあるのだ。明治になって二社を合祀し、「佐倍乃神社」と名を変えた。これも「さえの」と発音するので、相当古い時代から東北でも信仰された何よりの証拠。するとウィキペディアの記述にも過不足があると言うことだろう。 左の道祖神の台座の下部に不思議な形が彫られているのに気付いた。右はその拡大だが明らかに女性のシンボル。石像は「両性具有」だった。私には観音様のようにも見える。「香炉」か賽銭台があるのは聖なるものと崇めた証拠だろう。形が良く似た「桃の種」が奈良の纏向遺跡から3600個ほど出土したのも頷ける。女陰を表す古語の「ほと」は朝鮮語のポティと同源だそうだ。なるほどねえ。 両性具有(りょうせいぐゆう)と言えば、彫刻家アルプのこの作品はさほどリアルではないが、それらしい雰囲気とエロスを感じる。私が初めて彼の作品を知ったのは中学生か高校生の頃のはずだが、フォルムの美しさと彫刻家の意図は感じた。形に込められた人の願いや祈りは、時代や地域や人種を超えているのかも知れない。明日は最終回になるが、果たしてどうまとめたら良いのか。<続く>
2021.05.09
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~あれまあ。どうしてだろう?~ 1)田の神さあ<クマタツ氏撮影> 過日鹿児島のブログ友クマタツさんのブログ「ジージの南からのたより」を見てビックリ。彼が撮影した1枚の写真に目が釘付けになった。彼は薩摩藩の歴史に詳しく、書かれる文章はとても精緻だ。この日のテーマは「田の神さあ」。薩摩弁で「たのかんさあ」と呼ばれる豊穣の神だが、私はこれはあるものに似てると直感。それは男女のシンボル。左側が女性、右側が男性と見たのだが。思い過ごしだろうか。 田の神の後ろ姿(クマタツ氏提供) なぜ田の神が男女のシンボルと結びつくのか。田の神が山から里に訪れることは知っていた。「山の神」には奥方の意味もある。それで男女なのか。形が似ている「道祖神」は、長野や関東で祀られることが多い。だが鹿児島は火山灰地層の「シラス台地」が多く、稲作には向いてないはず。それなのになぜ。果たしてどんな謂れがあるのだろうと私の疑問は深まるばかり。そこで調査を開始した。 画像はグーグルの画像検索で探せる。上は鹿児島と宮崎南部の「田の神さあ」。全て男の形だ。宮崎の南部もかつては薩摩藩に属しており、同じ風習が伝わっているようだ。ヒットした画像をクリックすると、撮影した際の記録を得られる場合もある。またウィキペディアで「田の神さあ」や「道祖神」を検索し、信仰の起源や現状などを知ることが出来た。こうして少しずつ疑問が解けて行った。 <宮崎県えびの市の「田の神さあ」> 「田の神さあ」の形には農民型と神官型があるようだ。神官型の「田の神さあ」は霧島山の噴火で被害を受けた地域に多いそうだ。いずれも豊穣、子孫繁栄、長命を願った由。それほど古い信仰の歴史はなく、どうやら島津藩の新田開発と関係が深いようで、江戸時代に起こった由。豊穣地区の「田の神」を自分の集落に借りる「オットウ」の風習があり、返す際はお礼の品を付け、両地区の農民が共に祝った由。 <長野県安曇野市の道祖神> 一方「道祖神」(どうそしん)は村境や峠などの道端に置かれ、旅の安全を守る神とされた。先住の国つ神が天つ神に国譲りし、道案内したことが旅の安全神に繋がったのか。また縁結びの神、和合の神とされたのは国津神の猿田彦と天津神のアメノウズメが夫婦となったことに因むのだろうし、安曇野市の道祖神がいずれも双身型なのも同じ理由。冒頭の写真と石全体の形が良く似ているのはそれを意識して作ったからとしか思えない。中国では紀元前から「道祖神」信仰があった由。新たな謎が増えた。 陰陽石 調べるうちに、宮崎県南部に「陰陽石」(いんよういし)と言うのがあると分かった。陰陽とくれば、男女のシンボルに間違いない。左手の溝が陰で女性のシンボル。奥の石はどう見ても男性のシンボルだ。これは火山の噴火で偶に出来た「作品」で、人工物ではない由。それも大正時代に茨城県の人が発見したみたいで、古くから信仰の対象となったものではなさそう。世の中には、そんなこともあるのか。 1) 2) 3) いずれも長野県下の双身型の道祖神。1)は男女が手を繋いでいる。2)は男女がキスしてる「接吻型」だが、男性の足が女性の股間に伸びているように見える。3)は男の手がおっぱいに触れている。二人は既に恍惚の表情だ。まあ素朴な愛の表現だが、明治新政府はこれらの道祖神を「恥ずべき」ものとして、極力外国人の目に触れない場所に移動させたと聞く。こんな微笑ましい愛の信仰を。<続く>
2021.05.08
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~エロス・諸行無常~ 歓喜仏 愛欲の業火仏も人もまた *ごうか まぐわひて人生まれける道理かな チベット仏教の仏像などには性〇為そのものと思われる形のものがある。大抵は「歓喜仏」(かんきぶつ)と呼ばれ、今も厚い信仰の対象である。その真意は到底凡人には理解し得ないが、あるいは生命の起源が真理につながるとの考えかも知れない。 クメールの女神の笑みに惑ひつつ <アンコールワット彫像> 東南アジアの女神たちもチベット仏教の秘仏に劣らず妖艶そのもの。アンコールワットの壁面一杯に浮き彫りされた女神像はいずれも豊満な肉体を有し、隠微な印象はどこにもない。実におおらかで、これを「祇園精舎」と考えたのであれば、日本人の感性とは異なるようにも思うが、多分そうではないのだろう。 縄文の石棒 道祖神 梵天祭り 縄文時代の石棒も日本古来の信仰である道祖神も、形は男〇器そのもの。梵天祭りの「梵天」もその代理で、子宮に見立てた社に梵天を突入させるのが祭りの本旨。形を変えた性〇為と見なすことが出来よう。これらに共通するのは種族の繁栄と長命の願い。ヒンズー教の「リンガ」も男〇器を模したと言われるので、長命と種族の繁栄は民族や時代を超えた希求なのだろう。 そそり立つ魔羅につながる人類史 *まら(仏教用語で男〇器) 天の岩戸の前で踊るアメノウズメ ほと出して鈿女踊れる大岩戸 *うずめ エロスとは生そのものと見つけたり 弟スサノオノミコトの乱暴に怒って姉の天照大神が天岩戸に隠れて以来、世の中は真暗になって人々は困っていた。そこでアメノウズメノミコトが大岩戸の前に進み出、踊りを踊った。皆は喜んでやんやとはやし立て笑った。外が賑やかなことに驚いた天照大神が戸を開いて覗いた途端、タヂカラオノミコトが一気に戸を開き、天照を外に引き出した。すると世の中はたちまち明るくなったと言う日本の神話。 この時、アメノウズメは「腰のもの」を外して「ほと」を露わにし、ストリップの発祥とも言われる。ほとは聖なるもので、呪術性を秘めていたと言われる。単なるエロスとは異なり、沖縄にも似たような話がある。 殷の紂王と妲己 さて、「酒池肉林」と聞いたら何を思い出すだろうか。男なら「ムフフ」なことと答えるかも知れない。だがこれは殷の紂王(ちゅうおう)の妃だった妲己(だっき)の行いに対しての譬え。彼女は贅沢を好み、毎晩のように宴を催し、池に酒を注ぎ、子豚の丸焼きを林のように立てて豪遊した由。挙句は裸の男女に鬼ごっこさせた由。その殷が周に攻められ、妲己は周王に殺害された。天下の悪女を成敗した積りだったのだろう。 四字熟語残し悪女は殺されぬ イヌイットの氷の家 北極圏に住むイヌイット(かつてのエスキモー)は氷の家を作る。昔は電気もストーブもない。おまけに近隣には家もない。だから遠来の旅人が訪れた際は、主人は妻を客に提供した由。心身の暖房のため。客は主人の配慮に感謝し、喜んで受け入れるのが礼儀だった由。また貧しい地域では兄弟が妻を共有することもあった。それもまた文化。文化に高低はない。あるのはその土地に応じた暮らしと人の生き方なのだ。 妻与え客をもてなすイヌイット オーストラリアの僻地に、集団で暮らす一族がいたそうだ。研究者が彼らの血統に関心を持って調査したしたら、彼らは4代から5代に亘って近親結婚を繰り返していたことが判明。その結果、身体的な障害のみならず、精神的な障害が数多く見られた由。あまりにも近い血族で何世代にも亘って婚姻したため、劣性の遺伝子が影響したのだろう。これは本当にあった話。きっとメンデルもビックリだろう。 メンデルもエンドウ豆なら分かったが 話はまだ続くのだが、こんな内容の話は書く方も草臥れるのでねえ。 <一応続く予定>
2021.05.05
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~エロスと歴史と習俗~ 源氏物語絵巻 世界に誇る日本の文学の代表として「源氏物語」を挙げる人は多いかも知れない。その証にこれまで何人もの人が訳している。だが古典文学に明るくない私には、王侯貴族の単なるセッ〇ス依存症としか思えないのである。時代が異なるので単純な比較は出来ないが、皇室における結婚観は現在とは全く異なり、中には「近親〇婚」としか思えないようなケースも多々あることに驚かされる。 古代の上流階級では「妻問婚」が普通だった由。真っ暗な寝床に男が忍んで行くのだ。当時貴族が風呂に入るのは月に5、6度。それも吉兆を占ってからのこと。長い髪を洗うのは米を研いだ研ぎ汁。ただし光沢を出すため、髪に油を塗っていた由。匂いを隠すため、香を焚き込めていた。だからあまり清潔とは言えなかったようだ。庶民は風呂などにも入れず、たまに体を拭く程度だったのではないか。 筑波山 関東平野の北に聳える筑波山。男体山と女体山の二つの嶺の間で、古代は年に2回「歌垣」が催されていた由。本来は男女が歌を詠み交わすことだが、実態は自由恋愛。その日だけは既婚者と未婚者を問わず好きな相手と思いを遂げることが出来たと言う。頂上は筑波山神社の神域だが、神も公認する特別な一夜だった。 百人一首に陽成院(陽成天皇)の歌がある。「筑波嶺のみねより落つるみなの川 こひぞつもりて淵となりぬる」。みなのかわは「男女川と書く。こひは恋で、筑波山での歌垣を詠んだもの。だが都の天皇は筑波山も、そこで行われていた「歌垣」の実態も知らない。歌を詠んだ天皇は若くして皇位を次ぎ、権力を維持するために苦心した。藤原氏の影響が婚姻に及び、激しい権力争いが絶えない古代の皇室だった。 時代も場所も遠く離れた沖縄にも、かつて筑波山と似たような風習があった。毛遊びだ。「もうあしび」と読み、祭りの夜にだけ許される草むらでの男女の自由恋愛。琉球王朝とヤマトに同じ風習があったのは決して偶然ではない。日本と沖縄は、人種も言葉も宗教性も風俗も底流でつながるものがある。どちらも祖先は縄文人だからであろう。本土の庶民なら、さしずめ「夜這い」に近いかも知れない。 男女間の話はまだあるのだが、今日はこの辺りで止めておこう。私は色んなことに興味を持ち、本を読んだり、現地を旅したり、博物館、美術館、神社、古墳、聖地などをたくさん訪ねた。またTVなどの科学番組が好きで観ている。そのせいで、幾つかの疑問点がふとした機会に解けることがある。つい最近もそんなことがあり、自分の直感が間違ってなかったことを知った。まさに事実は小説よりも奇なり。だから自由な発想が大切。自分の知識など知れたものだ。<続く>
2021.05.03
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~宗教と性差別~ 夜のモスク 連日苦戦しながらブログを書いている。特に今日取り上げるイスラム教の話は厄介だ。知識がないためと、この宗教の厳格性のため。揶揄したと誤解され暗殺された人もいるほど。でも誤解を恐れずに書こうと思う。私の青年時代、イスラム教は教祖の名を取って「マホメット教」と呼ばれていた。現在は「ムハンマド」とされ、「イスラム教」になった。神の名はアラーで、ユダヤ教の神の名にも通じるとされているようだ。 イスラム教国の国旗(部分) ユダヤ教の信徒だったムハンマドはアラーの啓示を受けて預言者となり、イスラム教の宗祖となった。彼は偶像を禁止するなど厳しい戒律を定めた。そして10年ほど前、アラーを揶揄する漫画を新聞に載せたフランス人が暗殺され、事件を論評した筑波大学の助教授が殺された事件を今でもはっきり覚えている。やはり異常性と残忍性が際立っているとの印象が強い。 マララ・ユスフザイさん(ノーベル平和賞受賞者) 2012年。14歳だった彼女がアフガニスタン北部の中学校からスクールバスで帰宅途中、2人の学友と共に過激派タリバンに襲われ、彼女は頭部を銃撃された。入院、手術して頭部を貫き顎骨に留まっていた銃弾の摘出に成功する。彼女が襲われた理由は、タリバンはイスラムの女子に教育は不要と主張していたが、彼女は事件の3年前イギリスのBBCに取材を受けた際、それに激しく反論し抗議したこと。 映像が世界に報道され義援金がアフガニスタンに寄せられたことで、政府が勇気ある少女として、彼女の本名を公表したのが仇となった。彼女は奇跡的に一命を取りとめ、退院後も女性解放運動と人権活動に身を捧げ、2014年にノーベル平和賞を受賞した。授賞式や国連総会での堂々とした英語での演説は、世界の人々を感動に包んだ。 イスラム教にスンニ派とシーア派があることは知られている。スンニ派はイスラム圏の9割を占め、宗祖ムハンマドの教えである慣行を重視すべきとする。従って規律はより厳格だ。これに対してシーア派は宗祖ムハンマドの血を引く者から指導者を選ぶべきとする、血縁重視と言えようか。男は妻を4人まで持てると言うのは、両派とも共通のようだ。 これに対して対して女への制限はかなり厳しいものがある。女性は夫以外の男の前で肌をさらさないことが求められ、図のような肌を蔽う衣類が規律の厳しさに応じて設けられている。ただしトルコのように近代化したイスラム国家においては、これらの厳格な衣装から解放されて、お洒落を楽しむのが普通になった。 ただし、アフリカなどには過酷な通過儀礼がある。少女に対する「割礼」だ。一部キリスト教徒にもあるようだが、ほとんどはイスラム教徒の中での習俗のようだ。具体的には、クリ〇リス、大〇唇、小〇唇を切除し、中にはちつを縫い合わせることもある由。その苦痛と心身への被害は甚大で、医学的な有用性は全くない。世界で毎年約2億人の少女がこの危険行為に曝されている。 アラビアンナイト また新婚の初夜に、新郎が新婦に対して割礼を施す地域もあると聞く。医学的な知識も技術も、麻酔もないまま素人が重要な〇器を損傷するのは因習に過ぎず、百害あって一利なしの危険行為だ。アフリカのある地域で大勢の女子中学生が拘留され、過激派兵士の妻として前線に送られたニュースがあったのは、つい数年前だったと記憶している。どうやらその後解放されたと思うが、誤解でないことを祈りたい。記載内容が 「わいせつ」との判定で公開出来なかったため、一部「伏字」にし直しました。<続く>
2021.05.01
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~中国の不気味さ~ 空母遼寧 過日、中国の空母遼寧と数隻の艦船が沖縄の「宮古海峡」を通過して太平洋へと遠征した。これで3度目の太平洋遠征だったと思う。領海侵犯はなかった由。ただし空軍機もこれに追随したため、自衛隊機が那覇基地からスクランブル発進したそうだ。 数日後、今度は中国最大級の駆逐艦など3隻が対馬海峡から日本海に入ったようだ。これは初めてのことだった由。なぜ中国人民解放軍はこうした示威的な行動を取ったのだろう。それは言うまでもなく米、日、豪、印のいわゆる「クワッド」に加えて、最近ではイギリス、フランス、オランダの海軍までも加わって中国の東、南シナ海覇権を封じ込めようとの動きへの対抗であることは明白だ。 その中国でトンデモナイ遺物が発掘された。それが黄金の仮面(上3枚)だ。場所は四川省の省都成都の北方40kmにある広漢市の三星堆遺跡。それをネットのニュースで知り、関心を持った次第。 遺跡と発掘風景 この遺跡は長江(揚子江)上流域文明の中心地で、30年前から発掘を中断していたようだ。上は同遺跡と発掘風景の写真でネットで検索した。モノクロでぼやけた、いかにも古そうな画像だ。ところがこの遺跡から驚くべき遺物が発掘されていたことを、ネットで知る。以下に過去の発掘品を載せる。 三星堆博物館 どうやら発掘物はこの博物館に収容されているようだ。恐らく学術的にも貴重な物であるため、博物館を造って管理、保管しようとしたのだろう。 貼金銅人頭像 青銅神樹 高さが4mあるという、とてつもない巨大な青銅製品。こんなものが地中に埋まっていたとは驚きだ。 高さ2.6mの青銅立人 捩(ねじ)れて飛び出した「目」を持つ神像。この画像は以前観たことがあった。この遺跡は今から約三千年前のもの。世界四大文明の一つである「黄河文明」は良く知られているが、それとは異なる場所に、黄河文明にも劣らない文化を持った帝国が築かれていたことに驚嘆する。日本で言えば弥生時代に相当する。しかもこれまで発掘したのは遺跡全体の千分の一と言うからビックリだ。 昨年後半から発掘が再開され、祭祀坑6基が新たに発見された。冒頭の金の仮面のほかに、これまで酒器、玉製礼器、絹、象牙製品など500点が発掘されている。古代中国の文化の高さに目を見張る。そして同時にその末裔である中国人(漢族)政治家の思考の野蛮さにも驚く。どうやら文化は持続しないようだ。
2021.04.07
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~少数民族への差別と和解~ 最近NHKのBS放送で、やたらと「西部劇」が多いのに驚いた。新型コロナの影響で新たな番組を作るのが難しく、つい著作権の切れた古い映画を使うのかも知れないが私には、あまりにもお手軽で安直な思考としか思えなかった。アメリカインディアンつまりネイティブアメリカンはアメリカの先住民だが、西部劇では開拓の邪魔になるインディアンは「悪者」で片っ端から銃で殺す。そんな白人本位の価値観から生まれた映画をそのまま垂れ流していて良いのだろうか。 オーストラリアの先住民族はアボリジニだ。ここにイギリスの犯罪者が送り込まれて開拓を始める。広大な大地には250ものアボリジニの部族がいたようだ。後からやって来た白人たちは、呆れたことにこの先住民たちを狩りの対象にしたと言う。それらが禁止されると、政府はアボリジニの児童だけを隔離して、欧米風の生活様式を強要したと言う。やがてそれも非難の対象となった。 すると政府は大人も子供もひっくるめて都市にアボリジニを移住させ、広大な原野から追い出した。政府からの補助金で暮らすようになった彼らは仕事を失い、朝からアルコールを飲むようになった。元々アルコールに耐性がなかった彼らがアルコール依存症になるのは早かった。そのことを重く見た政府はアボリジニの芸術性に着目した。彼らが特殊な画法で描く絵は、やがて高額で売れるようになった。 左上がアボリジニが描く絵で、動物などは「レントゲン画法」と呼ばれる描き方をする。それは内部の骨格がとても印象的なもの。さて長年のアボリジニ政策を反省したオーストラリア政府は、国立や州立の博物館と美術館には必ず「アボリジニコーナー」を設けて、彼らの美術作品を展示することにした。私は25年ほど前にオーストラリアの美術館と博物館などを見学し、それらの作品にも接することが出来た。 政府は彼らの宗教上の聖地を返却することも決めた。観光名所として有名な「エアーズロック」は、かつて外国からの観光客が自由に登ることが出来たが、今はアボリジニの聖地「ウルル」として眺めることしか許されない。先住民の権利を尊重するまでにオーストラリア政府が辿った道のりは本当に遠かったのだ。それらに比べてわが国の状況はどうだったのだろう。 アイヌと聞いて私が真っ先に思い出すのが「コタンの口笛」だ。私はてっきり少年時代にラジオで聞いた番組とばかり思っていたのだが、今回このシリーズを書くに際してネットで調べた結果、昭和34年に制作上映された映画と分かった。原作者である石森延男の名は覚えていた。彼は児童文学者で、この原作は第1回未明文学賞と第5回産経児童出版文化賞を受賞している。 アイヌの少年と日本人の少年が最初は誤解していたのが、お互いに少しずつ相手を理解して行く過程を描いたもののようだ。恐らくは戦後民主主義のお手本になるようなストーリーなのだろう。私には何となくそう思えた。<続く>
2021.03.08
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~本物であること。真実であることの大切さ~ ウポポイの敷地の一角に何棟かのチセ(アイヌの小屋)が建てられている。これがとても巨大なもので、窓はアルミサッシ、床は一面のフロ―リング、そして要所要所にコンセントが設けられているそうだ。すっかり近代化したアイヌの小屋だが、せめて一つぐらいは「本物」を建てられなかったのだろうか。博物館は「真実」を伝えるべき機関だし、そこに展示される物は全てが「本物」であるべきだと私は思う。 もちろん不特定多数の観客が利用する施設なので、安全安心である必要がある。きっと新造のチセもそう言った点が重視されたのだと思う。だが国立アイヌ博物館と銘打つからには「真実」であり、「本物」であるのが絶対の条件のように思う。 ネットで探した本物のチセの画像がこれ。全てのチセを本物にするのが難しいとしたら、せめて1棟くらいは本物を博物館の屋内に再現して欲しかったと思う。屋内なら風雨に曝されることもなく、屋外よりは建物も長持ちするはずだ。ウポポイが「精神文化尊重機能」を基本精神の一つに謳うのであれば、当然のことだし、「調査研究機能」や「情報発信機能」も偽物でどう研究し、どう発信するのだろう。 アイヌの民族衣装に「アットウシ」と言うのがある。私は「青森県立郷土館」や「五所川原市立博物館」でその本物に接したことがある。どちらもかつての「北前船」で北海道から青森県にもたらされたものだ。だがウポポイの展示品のほとんどは開館に合わせて新しく作ったものと聞く。だから生活感がないのだろうし、アイヌの精神や芸術性が正しく伝わらないのではないかと危惧する。 衣服の素材となる繊維はシナノキやオヒョウの内皮を剥いで晒し、細く割いて繊維にする。ところがそれに適した樹木がもう北海道では少ないそうだ。また染色の紺色は普通は藍(あい)を使うが、北海道では藍は産しないし、気温が低いために発酵しない。従って他の植物を使って染色せざるを得ないが、近年ではそれも困難だろうし、化学染料のお世話になるか、他県の藍を使うしかないと思われる。 茶色の染料にはクルミ(胡桃)を用いると聞いたことがある。実が実る頃になるとこの皮がこげ茶色になる。クルミなら北海道でも入手しやすいのではないか。 10年ほど前に北海道に旅し、大沼公園の周囲を走っていた。その時道路わきに小さな説明版が立ってるのに気づいた。それを読むと植物はウバユリ(左)で、アイヌはその球根を好んで食用にしたとあった。ゆり根は高給な食材だし、採集生活を送っていたアイヌが豊富に自生するウバユリやギョウジャニンニクを利用しない手はないだろう。函館の志海苔館(しのりたて)と言い、この旅ではアイヌにまつわる知識を得た貴重な体験だった。 さてアイヌの工芸品として名高い鮭を咥えた木彫りの熊だが、あれが元々伝統的なアイヌの工芸だったわけではない。鮭が遡上する川や野生動物が生息する山野を明治以降になってから和人に奪われたアイヌの生きる術が、観光客相手に土産物としての木彫りを生業にしたのだ。こうして木彫りの工芸品はアイヌの「伝統工芸」と化して行った。<続く>
2021.03.07
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~ウポポイの空疎な理念と展示物~ 国立アイヌ博物館ウポポイ 連日苦しみながらもアイヌの話を書いている。こんな内容にも関わらず、毎日たくさんの方が訪れて下さることに、心から感謝したい。もしも私が頑張って書けているとすれば、それは名も知れない大勢の読者のお陰だと思う。私は研究者でもないただの老人だが、何とか乏しい知識を駆使して連日悪戦苦闘している。我ながら不思議な体験。この話を書き始めた端緒は、たまたま観たNHKの番組だったのだが。 ウポポイの敷地と航空写真 ウポポイは7番目に出来た国立博物館。国立東京、国立京都、国立奈良、国立九州が地域別の博物館とすれば、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)は考古学を含む日本史と日本の民俗学専門であり、国立民族学博物館は世界の文化人類学を専門分野とする博物館で、両者とも総合大学院大学の大学院を有する研究機関でもある。それに比してウポポイは出来立てホヤホヤの若い博物館だ。 広場で行われるアイヌの舞踊 「民族共生象徴空間」の別称があるウポポイが行う事業は以下の通り。1)展示、調査研究機能。これは当然だが果たして十分な展示と研究は出来てるのだろうか。2)文化伝承・人材育成機能。これを国立博物館が行う意義が良く分からない。3)情報発信機能。これも違うような気がするが。4)体験交流機能。国立博物館がそこまでやるかねえ。5)公園機能。これを打ち出すならもう観光施設だが。6)精神文化強調機能。国立機関がアイヌ民族の精神性に肩入れするってどういうことだろうね。宗教儀式だってきっとあるはずだが。 国立歴史民俗博物館(歴博)と展示の一部。歴博の展示は展示物の採取場所、歴史的な事実とそれが作られた時代背景などの説明が克明に記されている。学術機関として当然だ。まして国立の博物館で、大学院を有するのだから。 国立民族学博物館(民博)とアイヌ展示の一部。チセ(アイヌの小屋)は当初のものがその後ぼやのために燃えたようで、茅葺の屋根がまだ修復されていない状態だ。だが展示物はすべてアイヌが使用した本物ばかりで、アイヌ文化の本質に接することが出来る。また同館では動画による世界各地域の民族の文化を知り、展示物の大部分は直接触れることが可能。最新技術により画像や音声でのマルチメディア案内もある。 がらんとしたウポポイの展示場 それら先発博物館の展示物に反して、ウポポイの展示物の評判はあまり良くない。先ず絶対的な量が少なく、しかもアイヌが使用した本物がほとんどない。アッツシなどの民族衣装もほとんどが新しく作られたもので、生活感のないものばかり。実際に観覧した方の感想を聞くと、理念ばかりが先行して抽象的で空虚な印象を抱いた。これでは「ただの空間」だ。 第一アイヌは日本の先住民ではないし、人類学や分子生物学上の研究もまだ十分には進んでいない。それを3万年も前からアイヌがいたと言う根拠は何だろうか。もちろん誰にも先祖はおり、3万年前に繋がる先祖はいる。だが民族としてのアイヌがいつどこで発生したかは解明出来ないはず。ウポポイはそれらの疑問にどう答えるのだろう。私には「アイヌ新法」制定とこの博物館建設の動機に無理があったとしかどうしても思えないのだが。<続く>
2021.03.06
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~アイヌとの交流~ 北海道開拓記念館 いわゆる「アイヌ新法」が制定されてから、言葉などに一種の「制約」がかけられたのではないだろうか。実際に体験はしてないが私にはなぜかそんな風に思えて仕方ないのだ。例えば「開拓」。私たちの年代で北海道と言えばすぐに思い出すのが「開拓」だし、「屯田兵」。それらは明治新政府が目指した「富国強兵」を支えるものでもあった。だが「開拓記念館」はどうやら「北海道博物館」になったようだ。 アイヌに数の概念が乏しいことは以前に述べた。例えば江戸時代に和人がアイヌと取引する時の数え方だが、先ず「はじめ」から始まり1,2,3,と数えて真ん中に「真ん中」が入り、10まで数えると最後に「おわり」が入った由。つまり10は10ではなく13になるが、それでもアイヌは了承したと聞く。明治新政府は、アイヌが居住した便利な土地を奪って三菱や三井に払い下げ、アイヌは僻地に追い込まれたと言う。 さて、アイヌに混じって立っている外国人は、イギリス人のジョン・バチェラー。彼は英国国教(プロテスタント)の牧師で、夫人と共に早期に北海道に渡りアイヌにキリスト教を布教した。風習はもとより、言葉も日本語とは大きく異なるために彼の苦労は並大抵のものではなかったと思われる。 そのために彼が苦労して作ったのが「アイヌ語、日本語、英語の対訳辞書」(左)だった。彼はアイヌのための教育施設まで作った。それが幌内に建てた「愛隣学校」だ。そんな努力がアイヌにも認められ中にはキリスト教へ改宗する者も出た。アイヌにとって最初の異人は日本人だが、日本人以外の外国人がジョン・バチェラーで、彼がアイヌ研究に果たした役割は極めて大きなものがある。 日本人のアイヌ語研究の第一人者が金田一京助(左)だろう。彼は東大でアイヌ語研究を志し何度も北海道を訪れたが、十分に聞き取ることは出来なかった。そこでアイヌの少女知里幸恵を東京に招いて、彼女から正確なアイヌ語を学んだ。彼女は幼少時から幾編ものユーカラを聴いて育ち、いち早く学校で日本語の教育も受けたバイリンガルで、金田一にとってはまたとない良い助手となったのだ。 こうして金田一の研究は一挙に進んだが、北海道から出て来た幸恵にとって大都会での慣れない暮らしによるストレスは大変なものがあったのだろう。語学の天才はわずか18歳と言う短い生涯を終えたのだ。この後、金田一は幸恵の弟真志保を東大に入学させてアイヌ語の研究を続けるが、真志保は東大卒業後北海道へ帰還し、後に北海道大学の教授となる。その後は彼らの叔母である金成マツが暗唱していたユーカラを学ぶ。 アイヌ初の国会議員となった萱野茂の生涯は、アイヌ文化の振興に捧げたと言っても過言ではないだろう。自らもアイヌ博物館を自宅敷地内に建て、大阪の国立民族学博物館の建設に寄与し、アイヌ新法制定の原動力となり、金成マツがアルファベットで書き残した膨大なユーカラを日本語に翻訳した。また自らもアイヌに伝わる昔話を何十冊もの著書にまとめた。 それらの研究や長年のアイヌ文化振興活動に対して、総合研究大学院大学から博士号が綬与された。私は国立民族学博物館勤務当時、同氏が館内にあるチセ(アイヌの小屋」で執り行うカムイノミ(神行事)を身近で体験し、夫妻が持参したアイヌ料理に舌鼓を打ったことがあった。また北海道平取町にある自宅と私立博物館を訪問して直接お話を伺ったこともあった。それはアイヌ語の地名の特徴に関するもので、今となってはとても貴重な体験だったと思っている。<続く>
2021.03.05
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~写真で見る蝦夷地~ 北前船と言うのが江戸時代から明治時代まで日本の近海を走っていた。最初は蝦夷地(北海道)から日本海、瀬戸内海を通って大坂までの西廻り船。だが伊達政宗が石巻から江戸までの東回り航路を江戸初期に開くと、主に東北諸藩の米が江戸に船で運ばれた。西廻りで大坂に運ばれた北海道の産品は、昆布、新巻鮭、身欠きニシン、鷹の羽、獣の皮などだった。 また大坂から江戸までの南海航路では、酒や塩、ミカンなどが運ばれた。このようにして各地の産物が大坂や江戸に運ばれるとともに、西国の文化や芸能が北陸や東北に伝えられた。京都のニシンソバは小浜に陸揚げされた身欠きニシンを上手に加工したものだし、明治期以降北海道の昆布は大阪から関西汽船で遠く沖縄まで運ばれた。「くーぶいりちー」などの昆布料理が今も沖縄で作られるのは、その名残だ。 幕末期になると、西欧列強の蒸気船が日本近海に頻繁に出没するようになる。わが国の開国と通商を求めてのことだが、ロシアは不凍港を求めての南下政策を採っていたし、アメリカは織機を動かすための機械油の原料である鯨油を確保する捕鯨のための燃料や飲み水を求めていた。一時は小笠原諸島を占拠していたほどだ。このような状況下で幕府は蝦夷地の測量を進め、領土の確定と保全を進めた。 伊能忠敬らが日本全土を徒歩で測量して正確な地図を作ったことは有名だし、間宮林蔵が当時は島か大陸の岬か不明だった樺太を探検して、島である証の間宮海峡を発見した。それらの重要な機密である地図を持ち出そうとしたシーボルトを国外追放処分にしたり、海防を説く仙台藩の林子平の著書「海国兵談」を発禁処分とし、蟄居を命じたのも危機感の表れだったろう。 幕府は伊勢国の探検家である松浦武四郎に命じて、蝦夷が島の細部に亘る調査をさせた。絵心のある松浦は、数次に渡って蝦夷が島を探検し、丹念に山河やアイヌ集落の名をメモし、アイヌの習俗をスケッチした。これがやがて明治新政府による北海道開拓へとつながって行く。蝦夷が島を「北海道」と名づけたのも彼だ。 江戸幕府は各藩が勝手に外国と交渉するのを防ぐため、船の舵(かじ)を弱い物に変えた。このため難破する船が増えた。アリューシャン列島まで流された伊勢国の船頭大黒屋光太夫ら。アメリカの捕鯨船に救助されてアメリカで英語での教育を受けた土佐のジョン万次郎らなどだ。漂流し期せずして外国の文化に接したことが、世界の趨勢を伝える結果となった。もちろん長崎でオランダから学んだことも大きい。 五稜郭建造原図 幕府は蝦夷が島の警備を松前藩、津軽藩、南部藩、仙台藩の北辺4藩に命じ、各藩はそのために箱館周辺に代官所を置いた。それでも不足と見た幕府は西洋式の城郭である「五稜郭」を箱館郊外に建造した。だがやがて浦賀に侵入したアメリカのペリー艦隊など列強の声に押されて開国を決断し、函館などを開港する。そして鳥羽伏見の戦い後、歴史は一気に王政復古、明治新政府の誕生へと動いて行く。<続く>
2021.03.04
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~和人(シャモ)との交渉・交流史など~ アイヌ新法の制定に先んじて、文部科学省は全国の研究機関等に対してアイヌ人骨の有無についての調査依頼をしたのだろうか。これによって3300体以上ものアイヌ人骨の存在が明らかになった。だが、肝心の大学などの研究機関がそれをどこから持って来たのかが分からない。中には古い時代に「発掘」したもあるが、アイヌに内緒で掘り出して落ち去ったものもあったのだと思う。 市町村名は分かっても、詳しい場所は不明のケースが多かったのだろう。それで場所も遺族も不明の人骨の処置に困ったことで、ウポポイの敷地の一角に「慰霊施設」を設けてそこに納めることにしたのだろう。人骨を返却した研究機関が、遺族などの関係者へ謝罪することはなかったようだ。後で賠償などの問題になることを怖れたのだと思う。テレビで見た北大の副学長も、結局謝罪はしなかった。 人骨を無断で持ち去られたのはアイヌだけではない。沖縄県今帰仁村の百按司(むむじゃな)墓(左上)から京都大学などが昭和初期以降に持ち出していることが分かった。ここは琉球王朝成立前には、今帰仁城を根拠とする北山王朝関係者の風葬募と言われている。それが正しければ800年前から続く墓地で、人類学的にも貴重な資料であることは明白。だからと言って無断での持ち去りが許されるものではない。アイヌも琉球も結果的には「征服」された民族であるがゆえの所業と言うしかない。 ウポポイの展示に関する基本方針は「過去の差別などの暗い部分をピンポイントで取り上げないで欲しい」との要請があった由。すると要請したのは政府だろうか。展示物の中にはホカイ(左上)やマキリ(右上)があるようだ。ホカイは漆を塗った容器だが、アイヌには漆を加工する技術はない。これは山伏などが移動する際に用いるが、江戸時代以降に和人との交流・交渉の中で入手したもの。マキリは小刀だが、アイヌには製鉄の技術はなく、これも和人との交流の中で入手したものを鞘(さや)や柄(え)にアイヌ独特の文様を刻んだものと思われる。和人との接触以前は、鉄は大陸経由で入手したのだろう。 <縄文土器> <擦文土器> <内耳土器> 縄文土器は沖縄県の宮古島でも北海道でも出土している。つまり縄文人が竪穴住居で生活しており、彼らが日本列島の「先住民族」だったわけだ。ただし日本一古い人骨は沖縄県の石垣島空港の地下で発掘された約3万5千年前のもの。この人骨は数体で、日本全体に広がった訳ではない。北海道で縄文土器の後に現れるのが「擦文土器」で、これを作ったのはオホーツク文化の担い手とされるツングース系の民族。アイヌが北海道へ渡って来たのは13世紀の鎌倉時代と言われており、彼らが作った「内耳土器」は鉄鍋を模したものと言われる。取っ手を付ける穴もあるが、全体的にかなり粗野な印象を受ける。<続く>
2021.03.03
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~ウポポイの話など~ ウポポイは昨年7月にオープンした7番目の国立博物館で、北海道の白老町にあるアイヌ博物館。「ウポポイ」は大勢で歌うと言う意味のアイヌ語。この博物館には「民族共生象徴空間」と言う、やけに抽象的で長たらしい別名が付けられ、それだけで何だかインチキ臭いものを感じてしまう。観覧した人の評判も今一で中には「ウポポイ」ではなく、「嘘ポイ」だと言う人も出る始末。 そもそもこの博物館が出来たきっかけは、2007年9月の国連総会において採択された、「先住民族の権利に関する国連宣言」。これを受けて2014年6月に北海道白老町に「民族共生の象徴となる空間」を建設することが閣議で決定した。また2019年4月にはアイヌを先住民族として明確に位置付けた「アイヌ新法」た成立している。この旗振り役が当時の内閣官房長官で現総理の、菅さんだった。 そのせいもあって、昨年の開会式には菅総理も列席している。それまでアイヌに関しては明治30年代に制定された「旧土人保護法」と言うのがあった。それは「保護」に名を借りた、土地の没収であり、漁業や狩猟の禁止であり、アイヌ固有の習慣。風習の禁止であり、日本語の使用義務と、日本風氏名への改名に伴う戸籍への編入であった。 祈りの際に使用するイナウ アイヌには自分の領土と言う概念はなかったし、数の概念もあいまいだった。和人が蝦夷が島(北海道)に進出して交易が始まると、和人に簡単に数を誤魔化されたと言う。また明治新政府が北海道と名づけて本格的に開拓を始めると、居住や農地としての適地は和人に奪われ、アイヌは奥地へと追いやられたのが実態だ。政府はその事実をウポポイでは明確に示さないよう、画策したのだろう。そのことがアイヌとこの博物館の立ち位置が不明確になった原因と私は思うのだが。<続く>
2021.03.02
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~アイヌ・崇高な民族~ 前回アイヌの人骨の話を書いてから、1週間ほど経った。体調が急に思わしくなくなって、そのまま放置していたが気になってその続きを書こうとしている。アイヌとは「人間」と言う意味なので、あえてアイヌ民族とかアイヌ族とかせずに、ここではそのままアイヌと表記することにしたい。アイヌが日本民族と異なる文化を持つ民族であることは知っている。だが、日本の先住民族とすることはどうかと思っている。 これはかつての北海道の文化圏を図示したもの。しかし「かつて」とはいつかと、私の知識では正しく規定は出来ない。道南の黒い地域には縄文人が居住し、東北の縄文人と全く同じ文化圏に属していた。ところがオホーツク海沿岸には、かつて「オホーツク文化圏」と言うのがあった。北見市付近のモヨロ貝塚はその典型だろうか。民族としてはアムール川河口のギリヤーク、ツングース族だろうとされるようだ。 擦文(さつもん)文化と言うのがあったことは知ってるが、その担い手である民族名は知らない。アイヌが当時の北海道に来たのは12世紀ごろと言うのが私の認識だった。彼らも元々はアムール川河口周辺の民族だった由。そしてその集団が、千島、樺太、北海道と3つに分かれた。衣装のデザインがそれぞれで異なるようだ。アイヌは文字を持たず、土地は神から授かったものとの大らかな一面がある。 アイヌの口承文学として有名なのがユーカラ(正確にはユカッラ)で、各種の神話や伝承を口伝えに伝えた。いずれも音楽と結びついた哀愁を帯びた旋律で語られる。私も20以上ものユーカラを動画で鑑賞したが、アイヌの宗教観や文化、芸術、生活が偲ばれる貴重な文学と言えよう。アイヌにとっては自然は全て神との関係の中にあり、また万物に神が宿ると考えるのがアイヌの宇宙観でもある。 志海苔館跡(函館市) 北海道(蝦夷が島)への和人の進出の記録は、奈良時代の阿倍比羅夫が渡島(道南)の粛慎(しゅくしん・みしはせ)を討伐したとあるのが嚆矢だろう。粛慎もアムール川河口のツングース族と言われる。和人の定着は道南への秋田氏(後に蠣崎氏、松前氏)が最初で、後に南北朝の戦いで破れた武士が、蝦夷が島へ移住した。私はたまたま函館市の湯の川温泉に宿泊した翌朝、津軽海峡沿いの国道を東に走った。 9km先で見つけたのが上の「志海苔館跡」。これは室町時代の山城で、木村氏の居城。同氏も南北朝の戦いで破れてこの地へ流れ着いた武士。付近からは宋の銅銭が3万9千枚以上発掘され、青磁、白磁、珠洲焼、古瀬戸などが出土した。曲輪、井戸、空堀などを有している。「道南十二館」の一つで、この地のアイヌの有力者であるシャクシャインの襲撃にあって落城した。 偶然ではあったが、中世の山城と出会い、アイヌと和人の戦いの痕跡と言う貴重な歴史遺産を知ることが出来た。これもランニングが趣味だったお陰と言えようか。後日地図で確認したが、場所は函館空港の直ぐ南側だった。上の写真で背後に見えるのが津軽海峡。城主の木村氏は津軽海峡や日本海を通じて広範に貿易を行っていたのだろう。なお出土した銅貨の枚数は日本一。それだけ貿易が順調だったことを示している。<続く>
2021.03.01
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~最近観た番組とわたし~ たまたまテレビ番組欄を見たら懐かしい番組を発見した。良く見ていたのは20年も前だろうか。それかいつの間にか放送終了となって残念だった覚えがある。依頼主の要望に応じて「匠」が自分の技術を尽くしてリフォームする。完成したわが家を見て依頼主が大喜びすると言うのがエンディングの「お約束」だった。いつもギリギリの経費で完成してのは、きっとスポンサーからの援助もあったのだろう。 今回リフォームを依頼されたのは何と、パリのモンマルトルの丘に建つアパートメント。依頼主の奥様が日本人と言うことで納得。しかし良くもフランスまで匠が出かけて行ったものだ。建材や意匠にも制限がある。それに上下左右の隣人に、工事の騒音で迷惑をかけることも出来ない。そして階段が狭い上に、現場は5階だった。リフォーム工事にはフランスの職人さんにも協力してもらった。 しかし匠の考えはいつ見ても凄い。床下には断熱と防音効果を高めるため、使用済みのコルク栓(左上)を粉砕したものを使い、壁にも分厚い断熱材。暖房に薪ストーブを使用するため、パリの石材で暖炉を造ると言う凝りよう。しかし、それだけではなかった。フランスのリフォームを参考にするため、セーヌ川に浮かぶ「ボートハウス」を見学に行く。かつての船は、とても立派な家になっていた。(右上) NHKでトンデモナイ番組も観た。学術的な観点から、かつてアイヌの墓を掘って人骨を持ち出した話。もちろん明治以降のことで、持ち去られた人骨は全国で3300体以上との話に驚いた。北大の博物館にアイヌの人骨があることは知っていたが。まさかそれほどの量が持ち去られていたとは。それがどこから掘り出したか分からないか、場所は分かっても現在は子孫やお墓が特定出来ないそうだ。<続く>
2021.02.22
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~何のための情報発信か~ 洗濯物を干しにベランダに行って驚いた。床に黒いものが転がっていたからだ。拾うとそれは3日ほど前に手すりで干していたカレイ。そのまま忘れ、強風に煽られて落ちたのだろう。キッチンで4切れのカレイを焼き、その後サバの切り身も焼いた。それから生ワカメを茹でて、サラダに。カボチャとひき肉の煮物、ワカメ、モヤシ、油揚げの味噌汁、野菜炒め、おでんを午前中かけて作った。前日は大掃除も。 経済学者高橋洋一氏の著書 昨日の高橋洋一氏の話の続き。新聞記者は事実に基づかずに自分の勝手な推測で記事を書く。例えば籠池氏と安倍前総理の昭恵夫人が親しいと聞くと、「大変だ~!!」となり、近畿財務局が籠池氏に売却した土地を値引きしたと聞くと「大変だ~!!」となり、その後はもう一直線。新聞だけでなく系列のテレビ局も話題はそればかり。売却地は元沼で、地下には大量のゴミが捨てられていたために競争入札の対象とならず、随意契約のためゴミの件で値引きしたもので、なんらやましい点はなかったと。同氏は元財務官僚でもある。 加計学園の獣医学部新設問題も全く同様で、安倍総理と加計学園の理事長が知り合いだと聞くと「大変だ~!!」と騒ぎ立てる。実際は日本獣医師会の反対で50年間も獣医学部の新設を認めなかった文科省に対して、安倍総理が規制緩和しただけで、むしろ英断。だがマスコミはそれを報じず、「夜の街を毎週探訪」した事務次官や、息子の裏口入学を頼んだ文科省の局長をも擁護した。 文科省の下部機関である国立大学や国立博物館に勤務していた私には実態が見え、マスコミの「空騒ぎ」が不愉快だっただけでなく、総理を「安倍」と呼び捨てにしていた当時のブログ友をも、苦々しく感じていた。高橋氏は東京大学経済学部卒業の財務官僚で、同僚が唱える「緊縮財政」の過ちを指摘していた由。彼は東京大学理学部数学科も卒業し、後に博士号(政策研究)を取るほどの秀才、同僚も理論では太刀打ち出来なかった。 さて、中国武漢の勤務医で眼科医だった李文亮医師が死亡してから1年が経つ。彼は中国当局の公表前に「新型コロナウイルス感染症」の拡大に警鐘を鳴らした初めての人。本来なら英雄だが当局によって拘束され、コロナために犠牲になった。その1周忌を前に当局への批判が再燃しないよう、中国共産党は彼への追悼を抑圧する方針を決定したようだ。 英国政府はこの度中国の放送免許を取り消した。具体的には中国中央テレビの海外放送を手掛ける中国国際テレビ(CCTN)の免許取り消しだ。また記者と身分を偽ってスパイ活動をしていた中国人3名を国外追放処分にした。中国はこれに猛反発して、対抗措置を取ることを示唆している由。 インド太平洋における日米、豪、インド艦船による中国封じ込め体制強化に、イギリスとフランスも参加することになったが、このほどドイツ軍の参加も決定した。中国に対する国際世論の厳しさが日増しに増強した感がある。ミャンマー軍によるクーデターの黙認は、恐らく中国の危機感の表れだろう。 中国への風当たりが強い時、どこからともなく現れて中国の擁護論をぶつのが富坂聡氏(左=拓殖大学教授)だ。同氏は台湾で中国語を学んだ後、北京大学中文系入学、後退学。帰国後週刊ポスト、週刊文春記者。後にフリージャーナリストとなり現職。今一彼の実態がつかめない。 鳴霞さん(右)は中国の東北部で生まれ、専門学校、日本語学校卒業後中国企業に勤務。同時に中国共産党員だった由。現在は日本の短期大学で講師を務める傍ら「月間中国」の編集に携わっているようだが、この人の実態も不明。先日はyoutubeで習近平氏死亡説を唱えていたが、まだ生存しているみたい。冨坂氏同様私には謎めいた人物のように感じる。この人は一体わが国で何を発信したいのだろう。因みにわが国には「スパイ防止法」はなく、外国人が日本の土地を購入するのも自由だ。 その点この人の立場は明快だ。早稲田大学を卒業後アメリカに遊学。現在は故郷の沖縄でラジオ局を開局、ユーチューバーとしても活躍中。沖縄県における米軍基地反対運動家の実態や、「沖縄独立論」や玉城県政の矛盾点、地元沖縄県内マスコミ陣営の偏向ぶりなどについて精力的に発信している。昨年からつい最近までアメリカに赴き、現地から大統領選の実態を発信してくれた。 メキシコ国境の壁 彼女の体当たり的行動で、1月6日の暴徒の米国議会議事堂への突入の実態(上=その時の様子を現地のマスコミにインタビューを受ける我那覇さん)や、メキシコ国境に立つ「壁」の実態が良く分かった。私が彼女の存在を初めて知ったのは3年前だが、彼女の自宅は30年以上も前に私が沖縄に転勤した時から知っている。たまたまだが、ご実家は有名な沖縄ソバ屋さん。私も食べたことあるし、実家付近のホテルには3度泊まって、沖縄本島単独一周ランを4年がかりで実現したことも今は懐かしい思い出だ。 彼女の主張は、以前から私が思い感じていたことと全く一緒。まだ若い彼女が沖縄であのような行動を取るのは、アメリカで自分はトランプ支持者だと言うことよりも何倍何十倍も困難な道。だからこそ彼女の純粋な行動に心打たれるのだろう。今は保守陣営の若き担い手として将来を嘱望されている。<続く>
2021.02.10
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~陰鬱なる時代に生きる~ 前夜は風呂に入らず、靴下を履いたまま眠った。翌朝カーテンを開けると、小雪が舞っていた。立春は形だけで、まだ春の気配はどこにもない。新聞は律儀に新型コロナウイルスの感染者数を連日掲載する。2月7日現在の累計は1631人増えて406276人。死亡者の累計は52人増えて6426人となった由。だが2020年の自殺者数は2万2千人だったと聞いた。 WHOの合同調査団はようやく武漢での現地調査に入れたが、無関係の市場に案内されたりして無駄な時間を費やし、肝心のウイルス研究所での発症原因究明は多分無理だったはず。思えば昨年の最初の調査では武漢に向かわずに北京で習近平氏と接触しただけで終わった事務局長のテドロス氏。彼はエチオピアの外相で共産主義者。初めから結果は見えていた。全ては中国のストーリー通りの決着になるはず。 池上彰氏のテレビ番組「ニュースそうだったのか」が、番組内でトランプ前大統領は人権問題に全く対応して来なかったとと発言して大炎上したとか。全く対応しないどころか、香港問題でも、ウイグル自治区問題でも、また北朝鮮による拉致事件でも強いメッセージを発して力強く対応したことは明らか。それなのに真逆の発言をするのにはどんな意図があったのかはなはだ疑問だ。 同氏のニュース解説には以前から疑問を感じていた。専門家の意見をまるで自分の意見のように番組で主張していたからだ。テレビ局が企画したテーマの取材で得た知識を、彼が元々知っていたものではないにも関わらず物知り博士のような態度で解説する。今回の件で彼の化けの皮がはがれたが、口の悪い連中は「ニュースうそだったのか」と揶揄している由。これは痛烈な皮肉だ。 先日youtubeによる高橋洋一氏(内閣官房参与、嘉悦大学教授、博士)と長谷川幸洋氏(ジャーナリスト)の日本のマスコミに関する対談で、面白いことを話していた。1)日本のマスコミは先ず「ストーリーありき」で「大変だ!」と騒ぐ。2)記事はそれに沿って書くだけ。3)記者は多面的ではなく1つの要因でしか物事を見ない。4)マスコミの仕事は政治批判にあると勘違いしていること。 さらに日本の特徴として1)新聞社とTV局の経営者が共通していることが多い。2)新聞は「日刊新聞紙法」、「価格カルテル」、「軽減税率」で保護され、3)共通の「新聞休刊日」で労働環境が守られている。またテレビ局は「電波割合」で保護されている由。双方の媒体ともスポンサーや日本政府や中国の意向に沿った記事や番組編成になることがあるとも。 だが現在は新聞もTV局も広告が付きにくくて発行部数も著しく減少し、朝日、毎日、日本経済新聞など軒並み大赤字とか。今は人気のyoutubeにスポンサーが群がる時代のようだ。 これに対してアメリカでは、新聞とテレビ局の経営者は別で、新聞の配達制度はない由。さて、今回の大統領選挙に関しては巨大IT企業を含めて不正な情報操作や不公平な報道が目立った。その反動か、共和党が知事を務める州ではCNNの放送権がはく奪された。また視聴率が激減したテレビ局が増えたと伝えられている。 日本のマスコミが実態を伝えないため、私はもっぱらyoutubeでアメリカ大統領選挙の情報を得た。ジャーナリスト、宗教家、研究者に混じって、一般市民のyoutubeによる発信が目立った。国内のみならず、アメリカやカナダ在住の日本人が現地から情報を寄せたり、アメリカ人からの情報提供もあった。ただしその内容は必ずしも均質ではなく、玉石混交と言うべき面もあった。 それはディープステートとトランプ陣営との戦いの中で発生した、「陰謀論」をどう見るかの立場の違い、見解の相違から来るものとも言えよう。別な角度から見れば、それだけ今回の米国大統領選挙に関する強い関心を持つ日本人が多かったとも言える。ただし、国内のマスコミの報道しか観ない人にとってはまさに「陰謀」としか思えない複雑さだったかも知れない。<続く>
2021.02.09
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~最近感じたことなど~ <槍ヶ岳のモルゲンロート=朝焼け> 慰霊の日南風吹き渡る岬かな *はえ 白南風のモルゲンロート槍ヶ岳 *しろはえ 荒梅雨や野良猫旬日現れず *あらづゆ *じゅんじつ=10日間 過日の俳句教室。私の俳号真楠(マックス)が呼ばれた。最後に呼ばれたのは講師がその日提出された作品の中で最も優れたものと認めたのだろう。私は一句ずつ読み上げ、句の背景を説明した。講師はほとんど口を挟まず、ただ工夫の跡と挑戦心が窺えるとだけ言った。私にはそれで十分。それらの句の陰には没にした習作がどれだけあったことか。新しい仲間と話せたのも嬉しい。来月の兼題は「立秋」だ。 ある夜TVで「太陽を抱く月」を観た。韓国の歴史ドラマだ。嘘が多い韓国の歴史ドラマには飽き飽きしていたのだが、このシリーズには厭らしさが感じられずにこれまでに4回ほど観た。最初のフリップに「このドラマは時代背景も含めて全てフィクションです」のコメントが流れたのも好感を抱いた理由。世子(セジョン=日本の皇太子に相当)の亡き妃を思う一途な気持に打たれた。 眠っている間にBSから地デジに切り替わり、別の韓国歴史ドラマ「百日の郎君様」が始まっていた。ストーリーが良く似ているが、嘘っぽさが目立つ。王室の親子の確執と両班(ヤンパン)の対立などドロドロした話。おまけに記憶喪失がらみの話も共通。どうやら何年か前の再放送みたいだ。その1週間後にどちらも観た。だが回りくどくて辟易。韓国人は喜んで観るのだろうが、つい歴史考証に目が行く私。 東京の「産業遺産情報センター」に「軍艦島」の展示コーナーがある。ユネスコの記憶遺産となった軍艦島を補足説明するためのもの。それに先ごろ韓国の外相がクレームをつけた。日本が朝鮮人労働者に対して行った差別のことが記されてないと言うのだ。だが当時の朝鮮は日本と併合し、朝鮮人も同じ日本人で差別はしてない。それらを旧島民からの聞き取り調査で確かめ、映像もある。それすら確認してないのだ。 「歴史はこうあって欲しい」との願望から、韓国は歴史を書き換える。だから「歴史ドラマ」は美化の産物なのだ。だが日本では「水戸黄門」は娯楽番組で「歴史番組ではない」と誰もが認識している。逆に反日の論理で「従軍慰安婦」を「性の奴隷」に、「出稼ぎ労働者」を「強制労働」に変えて何度も補償を要求する。何と言う曲がった根性なのだろう。 日本併合以前の朝鮮では奴隷制度が残り、激しい差別が存在した。それを嫌って内地(日本)や満州に渡ったのだ。そこでは日本人となり、差別がなかったためだ。かつて2割の人が奴隷(白丁=パクチョン)で白い服しか着られなかった。貴族階級の両班はせいぜい1割程度しかいなかった。ところが現在では8割の人が自分は両班(ヤンパン=貴族)の出と主張する由。だからあのインチキ歴史ドラマに夢中になるのだろう。だが当時の庶民があんな美しい絹の服を着ることはない。それらは中国の産物で、王族や貴族の特権だったのだ。 一方中国では力で帝国を倒した者が、次の帝王となって倒した前の時代の歴史を書いて「正史」とする。だから時の権力者に都合の良い歴史になる。それが延々と繰り返され、現代にも続いている。欧米列強による支配には目をつぶり、同じアジアの日本をことさら悪者にする。それは共産主義国家になっても同様で、政治家は自分に都合の悪い事実や自国民を簡単に抹殺する。そんな国が一体どこにあるだろうか。 「GoTo」から東京発着が除かれた。そのことに対する評価は様々だろう。何せ未曽有の出来事。これまで人類が出会ったことのない新型で狂暴なウイルスだ。人の命が最優先だが、経済活動や行動の自由とどう折り合いをつけるか。それが為政者が最も悩むところだろう。コロナ禍のさ中にあって私たちはどう生きるのが正解なのか。それが分かれば苦労はない。東京オリンピックも今後の世界情勢次第だ。 それなのにさらなる軍備強化を図り、宇宙開発や5Gや世界のIT制覇と経済援助攻勢を続けた中国。その「つけ」が今一気に押し寄せている。チベットや新疆ウイグルに続いて香港の自由まで奪い、政府高官は汚職で私腹を肥やし、自国民は顔認証やネット規制で厳重に管理し、事実を秘匿する。そんな今、中国の真の姿を知りたいものだ。 7月6日現在の上海中央部の水深は50cmで、降雨が本格的になるのは8月以降なので恐らく上海の水害は大変なものになってるはず。さらに各地の国家穀物倉庫が次々に炎上している由。穀物不足のため政府の監査が入ることを怖れて、省の役人が火をつけたのだろうとのこと。備蓄したはずの穀物は食べられないゴミつまり籾殻。その発覚を恐れたのだ。中国では万事がこの調子。崩壊が近い訳だ。 連日こんな内容のため、ブログ友が全然寄り付かなくなった。その一方で誰だか知らない読者が増えて全体のアクセス数は上がった。無名のお客様にこの場を借りてお礼を言いたい。面白味に欠けたわがブログですが、これからもどうぞよろしくね。
2020.07.22
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<想いは限りなく> 先日youtubeで沖縄県与那国島の海中遺跡(上)を、とても興味深く観た。私がこの遺跡の存在を知ったのは20年以上も前。一人のダイバーがダイビングポイントを調べているうち偶然発見したのだった。当時はまだそれが本当に遺跡なのか、単なる自然の構造物かの判断は出来なかった。それを遺跡だと最初に判定したのが琉球大学理学部の木村政昭教授だった。 私は琉球大学勤務時代に先生と会って話したことがある。当時先生はまだ助教授だったはず。先生の専門は地学、中でも地殻変動だが考古学に興味を持ち「ムー大陸は琉球だった」と言う著書がある。私はそれを読んでいたのだ。沖縄本島北谷(ちゃたん)で発見された「線刻文字」などが論拠の一つ。世界の各地にある不思議な文字と共通性があり、北海道小樽のフゴッペ洞窟の文字なども同様で、海洋民族の特徴と先生は考えていた。 木村先生はダイビングも出来て自ら与那国に行き、学生などと何度も調査した。上の図はその調査結果を図化したもの。youtubeではさらに進化し、特殊なレーダーで海中遺跡を精密に測量して3D化した。さらに遺跡は地上部の崖上に続き、そこに石像があった。私はモアイ像やアステカの石像とも似ているとの印象を受けた。八重山地方は隆起と沈降を繰り返しており、かつては地上にあった遺跡が海中に沈んのだろう。後日談だが、出雲大社付近の日御碕神社の直ぐ沖合の海中にも、古い宗教遺跡があることが判明した。ここも地震と地殻変動で海中に沈んだのだろう。 島根県立古代出雲歴史博物館(上)の存在を知ったのは、昨年の山陰旅行の紀行文を書くためネットで検索してから。出雲大社境内から出土した鎌倉時代の柱が伝承と全く同じ状態であり、同館にも保存してある由。もうツアーで行くこともなく、残念な思いをしていたのだ。ところがコロナ不況で困ったツーリストから先日格安フリープランの案内が届いた。松江と出雲大社3日間の旅で往復飛行機の直行便だ。 同館には荒神谷遺跡などから出土したおびただしい数の銅鐸と銅剣も展示(上)されている。これは願ったり叶ったり。例の10万円をこの際有効に使わせてもらう所存。神話の国出雲は謎が多い。国譲りやヤマタノオロチ伝説などだ。古代出雲王朝と大和王権との間で激しい闘争があったのは確実。だが両者は戦わずにテリトリーを分割して共存を図り、出雲は大量の武器と銅鐸を地中に埋めたのだろうか。 さて、7月12日にオープンした国立アイヌ文化伝承館「ウポポイ」(上)の存在を知ったのは、昨年のこと。情報源は忘れたが、北海道の白老に1年後に開館することだけが頭に残っていた。ところが何と、旅先の大連でそのポスターを見たのだ。これにはビックリ。多分北海道へ観光客を呼び込むキャンペーンの一環だったのだろう。不思議な話だが旅をしていると、そんなことに何度も遭遇する。 私が勤務していた国立民族学博物館(大阪府吹田市)にも、アイヌのチセ(小屋)があり、毎年アイヌの儀式をしていた。当時アイヌ出身で唯一の国会議員だった萱野茂氏と奥方がわざわざ来館され、私もアイヌのご馳走をいただいたことがあった。その縁で北海道平取町で氏が運営するアイヌ資料館と、平取町立アイヌ博物館を、「北海道マラソン」参加のついでに立ち寄ったこともあった。 知里幸恵さん アイヌ文化に関心を抱いていた私は、アイヌ語研究の第一人者であった金田一京助博士とその助手を務めた知里幸恵さんの苦心談も知っている。差別を受けながらも日本の高等教育を受けた幸恵さんが、博士の希望に応え、助手としてアイヌ語を日本語に翻訳する重要な任務を立派に果たした。若くして東京に出て苦労されたせいか、彼女は19歳の若さで亡くなった。類稀な才能の持ち主だった彼女の遺志を、弟の真志保博士(北海道大学教授など)が継いだ。 ウポポイではアイヌの音楽や踊りなどを後世に伝え、アイヌ文化を広める役割も担っている。アイヌ(人間と言う意味)のみならず、それに賛同する日本人(アイヌは日本の先住民とされた)も一緒にこの事業に携わっている。私はアイヌの口承文学であるユーカラ(正しい発音はユカッラ)を読み、動画もたくさん観たが、コロナ騒動が落ち着いたら是非ウポポイ(アイヌ語で大勢で歌うと言う意味)を訪ねたいものだ。 大連で観たポスター 国や領土と言う概念も文字も持たなかったアイヌ民族。そのために日本人に騙され、「旧土人保護法」によって自分たちの土地と生活の手段をほとんど奪われた彼ら。だが当時の蝦夷地をくまなく踏査し、アイヌ民族の文化をこよなく愛した松浦武四郎(初めて北海道の名をつけた冒険家)のような存在もある。いずれは札幌市の「北海道博物館」とこのウポポイを訪ねたいと願っている。 宇梶剛士氏 何気なく観た新聞に、ウポポイの開館の紹介と、この人の談話が載っていた。俳優の宇梶剛士さん。以前から風貌がアイヌっぽいなと感じていたのだが、その勘が当たった。東京生まれの彼はアイヌ出身の母親にアイヌの魂を叩き込まれた由。それが嫌で北海道に渡り、様々な職を転々として苦労した。だが自らの出自に誇りを持ち、アイヌとして生きることを自覚したそうだ。思いがけない出来事だった。 旅を通じて歴史を学び、各地の文化に接する。私はアイヌや沖縄に対する偏見は一切ない。ただし、国の内外には彼らの民族意識を煽り、政治活動に利用しようとする動きがあるのも事実。長らく国立大学の図書館や国立博物館職員として勤めた私は、常に何が真実かを自分の目で確かめる習性があり、他人の言を簡単には信じない。曇った眼や頑なな耳では真実は見えず声も聞けない。これからも旅を通じて歴史と文化と真実を探し続けたいと願っている。
2020.07.21
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~ドキュメント番組を観る その2~ 南米アマゾン川流域に住む原住民に関する番組を2晩続けて観た。最初はペルーの原住民で、こちらはまったく外界と接触したことがない部族と、ペルー政府の調査団が接触を試みるもので、日本人のカメラマン1名も同行を許された。彼らは今も縄文時代そのものの暮らしを続け、男は全くの全裸で鋭い穂先の槍を持っていた。鏃(やじり)には蛇の毒が塗られており、当たれば死ぬのは必至。 原住民の少女がカメラマンの下半身に触れて良いか尋ねるが、彼は必死に断り「私たちは友達」とだけ言う。もう一人の少女は妊娠中で、腹の子の父親が誰かは不明。原住民は500名ほどいるが、相次ぐ開発と外部人の密漁で残った部落は5か所。多分今後3年間で全滅するとのこと。無菌状態の彼らは外部からもたらされる病気に弱く、たちまちのうちに感染するとのこと。 赤い箇所が「焼き畑」で失われたジャングル。特にブラジルでは変わった政権が開発を容認してるため急速に荒廃が進み、かつ「新型コロナ」による感染も現実のものになってる由。地球温暖化問題もさることながら、アマゾンの大自然喪失と先住民族の壊滅問題は、全人類の前途を暗示しているように思えてならない。 さて、熱帯医学で私が思い出す日本人は野口英世(1876-1928)博士。福島県出身で現在の日本医科大学を卒業して渡米し、ペンシルバニア大学医学部助手、ロックフェラー医学研究所研究員を歴任。黄熱病や梅毒菌に関する論文でノーベル生理学医学賞(当時)の受賞候補者に3度推薦された。京都大学医学博士、東京大学理学博士。メリー・ロレッタ・ダージス夫人はアイルランド系移民の米国人。 論文の正しさを証明するため南米エクアドルや英領ゴールドコースト(現在のガーナ)に渡って黄熱病の研究と治療に従事。そのさ中現地で黄熱病のために死去。享年52歳。日本が世界に誇る熱帯医学の権威だった。
2020.05.10
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~テレビとの付き合い方~ こんな人が参議院選に立候補したことに驚き、当選したことにまた驚いた。公約は「NHKをぶっ壊す」と言うそのことだけ。そんな政党があって良いのか。それが私の正直な感想だった。だが世の中にはかなり支持者がおり、統一会派まで結成してしまったのだ。それで政党補助金の他に、別の経費が出るのだとか。今は何でもありの世の中。でも私はNHKに契約料を支払い、番組も良く観ているのだ。 今年の大河ドラマ「いだてん」はかつてない不人気で、史上最低の視聴率なのだとか。だが私は面白く観ている。かつてランナーだったせいもあるが、私が知らなかった現代史を知る機会にもなった。近代五輪がどのようにして生まれ、先進国の仲間入りをするために、日本がどんな苦労をして来たのか。最初のオリンピック参加から、幻となった戦前の「東京オリンピック」招致までの涙ぐましい努力に泣ける。 しかしマラソンの金栗四三(かなぐりしそう)があれほどまでランニングに打ち込んでいたとは驚異。彼が「箱根駅伝」の創始者だったことをこのドラマで初めて知った。上左の加納治五郎は柔術家として有名だが、教育者であり、日本の五輪参加の立役者だった。上右は水泳平泳ぎの鶴田義行選手。1928年のアムステルダム大会と1932年のロスアンゼルス大会で入賞。私の中学校時代の恩師の父親だ。 朝ドラ「なつぞら」が間もなく終わる。今年の4月から始まったこの番組は、日本で初めてのアニメーター誕生にまつわるドラマだ。ヒロインの奥原なつは架空の人物だが、モデルになった人物が存在する。その方を知るためウィキペディアで調べたが、並大抵の苦労ではなかったようだ。女性が一生かけて仕事を続けることの困難さ、初めてのものに挑戦する冒険心。作中の『白蛇伝』は、小学生当時に観た。 北海道150年記念ドラマ『永遠のニシパ「北海道」と名付けた男』は、こよなく蝦夷地を愛した探検家松浦武四郎の物語。幕府に命じられて蝦夷地を数度に亘って探検し、アイヌ語の地名を漢字で表記したのがこの人。だが明治新政府は彼が愛した蝦夷地をアイヌから奪い、三菱などの政商に安価で払い下げる。そのことに抗議し、彼は在野の人に戻る。出身地の松阪市には、彼に因む博物館がある。 国立科学博物館による丸木舟の実験は、日本人の先祖がどのようにして琉球列島へたどり着いたかの謎を解くためのもの。台湾から与那国島まで3度の実験をしている。最初の草船は海水を吸い込んで沈没。2年目の竹の筏は黒潮に流されて失敗。今年は自分たちで丸木舟を作り、見事黒潮をこ漕ぎ切った。位置は太陽と星を観て確認し、男女5人で2日間かかって柳田國男の「海上の道」説を再現したのだ。台湾旅行直後の快挙だけに、考古学や古代史愛好者として深く感じるものがあった。 「それは経費で落ちません」は、コメディータッチの夜ドラで全10回放映中。多部未華子主演の経理部職員が、生真面目に職務を追求する話。彼女は次々と疑問点を解明し、会社の経費で支出すべき費目かを判定する。実にリアルな筋書きなのだが、同僚との恋愛が絡んでの進行がハラハラさせる。超堅物女子社員の多部の変身ぶりが見もの。9月27日(金)が最終回。今回のタイトルはこれをもじった。 9月15日開催のMGC代表戦は見ごたえがあった。来年の東京オリンピックマラソン代表の選考会で、上位2名がそのまま代表に選ばれると言う公明さが受けた。男子は基準を満たした30名、女子は故障者を除く10名によって戦われた。真夏のオリンピックを体現する絶好のチャンスで、NHKと民放1社が全く同じ映像を使っての同時中継。女子のレース中心だったことに少々不満が残った。 マラソンのみならずスポーツ番組が大好きな私。ラグビーW杯初戦の日本はロシアを30対10で下し勝ち点5をゲット。きれいなゲームだった。女子ゴルフの渋野日向子はデサントレディースで今季3勝目を挙げ、獲得賞金が1億円を超えた。女子プロテニスの大坂なおみ選手は、大阪オープンで優勝。「応援おおきに」とリップサービス。コーチを解雇した直後の優勝だけに、感無量だったのではないか。 大相撲秋場所は両関脇の優勝決定戦。中日の本割では負けた御嶽海が、来場所は大関復帰を果たした貴景勝を堂々たる相撲で下した。そして来場所は大関取りを狙うと宣言。出場した大関2人は精彩がなく、栃ノ心は2度目の大関陥落となった。一時は序二段まで陥落した元大関照ノ富士が幕下で6勝1敗の好成績を上げたのが嬉しい。色々あっただけに、良く辛抱したと感心している。 私がNHKの番組を観るのは、コマーシャルが入らないため。ただ「大事な経費を使い過ぎじゃないの」と、文句を言いたくなる時がある。だから観たくない人は支払わないのも「あり」かもね。 ところで韓国のハンギョレ新聞社の若手記者が、上層部の退陣を求めて決起した。「ご用新聞」と揶揄されながら文政権を擁護して来た同紙だが、記事が削除されたことへの体を張った抗議とか。これに中堅記者も同調して大波乱の由。あの反日国にようやく変化が起きるのか。
2019.09.23
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~敦煌莫高窟第57窟の再現~ <敦煌莫高窟全景> 中国敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)は井上康靖の小説『敦煌』でも描かれた著名な仏教遺跡で、敦煌郊外の岸壁に掘られた大小492の石窟群。そこには4世紀から約千年間にわたって彩色塑像と壁画が造られ、世界文化遺産に指定されている。その第57窟の再現を東京芸術大学が試みた。 シルクロードはローマと長安(現在の西安)をつなぐ貿易の道で、その東の端が日本。その道を通ってもたらされたものの代表が正倉院御物で、国宝とされている。 敦煌の位置は中国の奥地。かつては西域と称された地域だ。 仏教は古代インドで起こり、その一方はパキスタン経由でシルクロードを渡り、中国、朝鮮半島、そしてわが国へ伝来した。敦煌はその途中にあり、インドに渡って仏教を学んだ玄奘三蔵(「西遊記」の三蔵法師も旅の途中に訪れたことがある。スェーデン人の地理学者・探検家であるスヴェン・ヘディンによって、その学術的価値が西欧に伝えられたことでも有名。 写真はパンフレットから借用した。だがそれ以外は残念な結果に終わった。 人間の目にははっきりと見えるが、残念ながら再現された洞窟内は暗くて写真が撮れなかった。 ポスターにあった仏像 東京芸術大学が最新技術で再現した仏像のパネルがあったので撮影。以下は全てネットから借用した。 <莫高窟の内部=窟名は不明> <第57窟壁画その1> <第57窟壁画その2=上の一部> <第45号窟の仏像> 以下の写真はすべて窟名不明 <仏像と壁画による構成> <色鮮やかな壁画> <柔和な表情の仏像> <上の写真と同じ仏像が配置されている> <表情には艶めかしさも・・> <交脚の仏像 制作年代による様式の違いが分かる> <暗い石窟内での撮影には苦労の跡が窺える>(備考) 展示物以外の物をネットから借りてまで掲載するのは邪道かも知れない。だがそうしなければこの遺跡の素晴らしさが分からないと考え、敢えてその方途を選んだ。なお過日NHKのBSでシルクロード関係の番組が放送され、敦煌莫高窟の貴重な映像を観ることが出来た。その感動もあって参考資料として付加した。<続く> 本日は台湾旅行の第3日目。高雄市=三鳳宮、台東市=三仙台、花蓮市へ移動途中に八仙洞見学予定。
2019.07.02
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~いよいよ最終回になりました~ これまで10回に亘って紹介して来た仙台市博物館の特別展『古代アンデス文明展』ですが、今日がいよいよ最終回になりました。古代アンデス文明と言っても、相当古い時代から比較的新しい時代まで、色んな国や文化が興り、素晴らしい芸術作品などを残していることを学びました。最終回の今日は、南アメリカ大陸で最大の文明、「インカ帝国」の紹介です。 インカ帝国は15世紀前半から16世紀の後半まで、約150年間に亘って栄えた帝国で、優れた文明を持つ国家でした。 インカ帝国は現在のコロンビア、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、チリにまたがる広大な領地を持つ帝国で、1人の王が支配していました。国民は1千万人もいたと伝えられています。領土は海岸部の平野、砂漠、山岳からアマゾン川の上流部のジャングルまであり、亜熱帯、温帯、寒帯と様々な暮らしが営まれていました。当然言語も幾つかに分かれます。それを補っていたのが左上のキープ。文字に代わる通信手段でした。 <険しい谷を縫うインカ道> 王の命令を各地に伝えるためには、当然道路の整備が必要になります。何せ領土は海抜0mから標高4000m以上の高地までと広範。険しい谷や山々を縫って作られたのが「インカ道」です。写真を見ても、相当険しい地形に、道が造られたことが分かります。恐らく総延長距離は6千kmを超えるはず。この厳しく細い道を、専門の「飛脚」がキープを持って走って行ったのです。つまり古代の駅伝です。 強大な権力を持った王の元へは、各地で精錬された金や銀などの貴金属や、生活に欠かせない各種の金属が集まって来ました。後にキリスト教伝道を名目にやって来た西欧人、中でもインカの財宝が目当ての冒険者に、豊かな富を奪われる原因ともなったのです。 いずれも豪華な装飾品ですね。恐らくは王の権威を示すためのものと思われます。 この他にもたくさんの金製品や貴重な資料が展示されていたのですが、残念ながら撮影禁止で撮ることが出来ませんでした。 インカの象徴的なアリバロ壺です。 スペイン人に征服された後の地味な土器。 強大なインカ帝国にもやがて衰亡の時が訪れます。インカには帝国が滅亡する時、白い人が馬に乗ってやって来て、自分達を救ってくれると言う伝説がありました。そんな時にスペイン人が馬に乗って攻めて来たのです。弓矢やこん棒で戦ったものの、鉄砲と言う近代兵器を持った相手には全く通じず、莫大な富を奪われてしまいます。そして敵に従ったり、ジャングルの奥地に逃げ込んだりしました。 ピサロなどスペイン人に奪われた金や銀製の工芸品は、やがて鋳つぶされてスペイン本国へと送られました。インカの財宝が、スペイン王国を支えたと言っても過言ではありません。そして「新大陸」にとっては、まさに受難の時代の幕開けになったのです。だが、インカ文明の象徴とも言える、マチュピチュ、ワイナピチュは発見されないままでした。現代の我々が、こうして今も素晴らしい景観を見ることが出来るのも、高地文明だったからかも知れませんね。 特別展を観覧した小学生たちが描いた絵の紹介です。 最後に貴重な資料にも関わらず、快く撮影許可を与えてくださった関係各位に深甚なる謝意を表し、このシリーズを閉じさせていただきます。最後までどうもありがとうございました。<完>
2018.11.02
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~チムー文化とチャンカイ文化~ 仙台市博物館で開催された『古代アンデス文明展』の紹介も今回で10回目になり、そろそろ終わりに近づいて来ました。今日はペルーのごく狭い地域に興り、共にインカ帝国に滅ぼされた2つの文化の紹介です。 チムーは現在のペルー北東部に、12世紀から15世紀後半まで栄えた王国で、最後はあの有名なインカ帝国に滅ぼされました。発掘品などにより、その一端を紹介しますね。 同じような風景から、2枚の写真は共に「チャンチャン遺跡」のようですね。以下のものは、きっとこの遺跡から発掘されたのでしょうね。 2人は兵士だったのでしょうか。それにしてもあどけない表情をしていますね。 祭祀用の杯だそうです。とても神聖なものだったのでしょう。 建築物の模型のようですが、日干し煉瓦の壁までちゃんと再現されていますね。 墓場への葬列を再現したみたいです。 ここからはチャンカイ文化の紹介です。チムーがペルー北東部に興った文化だったのに対して、チャンカイはペルー中部海岸付近のチャンカイ河谷にチムーとほぼ同時期に栄え、インカに滅ぼされたごく狭い範囲の文化だったようです。 天野芳太郎 このチャンカイ文化を紹介したのが日本人実業家の天野芳太郎(1898-1982)でした。氏は秋田県出身で、戦前からペルーに渡り活動。大戦中は一時日本へ強制送還されますが、戦後再びペルーに渡り、古代文明の研究を進めます。特にチャンカイ文化の遺物を熱心に収集。それを元に後年リマに「天野博物館」が建てられました。私が彼の名を初めて知ったのが、「世界ふしぎ発見!」でした。 チャンカイ文化の特徴の一つは、優れた織物のようです。 おお。確かに優れたデザインですね。 これは「織物のサンプル」との表示がありました。再現された現代のものでしょう。 精緻な土製品もまたチャンカイ文化の特徴だそうです。 確かにデザイン的にも優れた美術品ですね。 なお『古代アンデス文明展』は、後1回くらいかな。<続く>
2018.10.29
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~仙台市博物館の特別展から~ 今回はシカン文化の紹介です。同文化はペルー北部の海岸部に興り、紀元後800年頃から1375年頃まで600年近く栄えました。 上の説明板に載っていた写真を拡大してみました。アーモンドアイ(吊り上がった目)の神像を象った祭器のように思われます。 シカンの金属精錬技術についての説明板です。シカンでは「ヒ素青銅」の精錬技術に長け、これで莫大な富を築いたとあります。上の神像もヒ素青銅による物かも知れませんね。 こんなスチール写真が飾られていました。シカン文化期の遺跡でしょうか。 シカンではモチェ文化から引き継いだ金の精錬にも精通していました。実に見事な胸飾りです。 いずれも見事な金製品ですね。以下にその細部を見てみましょう。 細かい凹凸のある立体的な製品。恐らくは王権を象徴するものだと思われます。 金の鉢に神像が浮かび上がっています。 揃いの金製コップ。やはり権威の象徴ですね。 典型的なアーモンドアイですね。鋳造ではなく、金の板を叩いて形成したみたいです。 現代にも同じような形の刃物があります。丸い部分をグリグリ押し付けて切る方式です。 銀の浅鉢の底にも、大変細かい装飾が施されています。 上も下もビーズの胸飾りです。 埋葬された権力者の顔に被せられたマスクです。遺体には辰砂(水銀)が塗られていた由。これは日本の古墳時代にもかなり使用例があります。防腐のためでもありました。 赤い色が辰砂の痕跡。長い顔ですねえ。 人間型の土製小像3体です。 上が皿、下が水差しです。 右側の水差しの顔と手を拡大しました。異星人そのものですね。 子犬を咥える母犬ですって。 リャマは友達みたいな家畜かも。 下は拡大図です。 やはり目は吊り上がったアーモンドアイですね。 シカン文化の紹介はこれで終わりです。でも特別展はまだ続きますよ。 <続く>
2018.10.27
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~わが国語は日本語~ ホトトギスソウ 先だっての俳句教室でホトトギスソウの話になった。どんな花か知らないと言うので、「鳴いて血を吐くのあれだよ」と私が言うと、「それは鳥でしょ」と1人の女性。それはそうなんだが、なぜ花の名が鳥の名から来たかを私は話したつもり。花びらに赤い点々が散らばるのが花のホトトギス(草)。その様子が「鳴いて血を吐く」ように見えるため、そう名付けたと思ったのだ。 ホトトギス 一方、この鳥にも羽根に斑点があるが、これが血のようには到底見えない。ところがこの鳥の口の中は真っ赤で、まるで血を吐くように古人は感じたのかも。だが人は普通、鳥の口の中まで見ることはない。それにこの鳥は深い森に棲み、滅多に姿を見せることはないのだ。だが声なら聴いたことがあるかも知れない。「特許許可局」とか「てっぺんかけたか」と聞こえるので有名。 白花のホトトギスソウ 昔から例えとして使用されるのが鳴き声。「鳴かぬなら」の次が「殺してしまえ」なら信長。「鳴かしてみしょう」が秀吉。そして「鳴くまで待とう」が家康とされ、武将の気性を表すとされる。私は夜、鳴き声を聞いたことがある。もう1度は「いわて銀河」の100kmレースの途中。こちらは深い森の中だった。また、ウグイスなどの巣に托卵することでも有名。他の鳥に育児を委ねる変わりものだ。 正岡子規 近代俳句で有名な正岡子規。実はこの「子規」もホトトギスと読む。彼は従軍記者として戦地に赴く途中喀血し、帰国して入院する。不治の病である結核と覚悟し、「鳴いて血を吐く」ことから俳号を子規とし、何句かホトトギスに因む句を詠んだ由。徳富蘆花の小説『不如帰」も、ホトトギスと読む。他に時鳥、杜鵑、霍公鳥などの漢字表記がある。かつては案外暮らしの中で親しみ深い鳥だったのだろう。雑誌『ホトトギス』 また雑誌の『ホトトギス』も有名。こちらは子規の友人、柳原極堂が明治30年(1897年)に創刊し、平成25年(2013年)には通巻1400号に達した。俳句の専門誌だが、当初は漱石の『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』も載った総合文芸誌。現在は高浜虚子の曽孫である稲畑広太郎が主宰し、五七五の定形と季語を厳守する本格派。ホトトギスは、俳句を学ぶ者には極めて関りの深い名なのだ。 バベルの塔 新約聖書ヨハネ伝には「最初に言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とある。だが慢心した人類は、神に近づこうとして高い塔を建てた。いよいよ塔が天に近づいた時、神は怒って塔を破壊する。そして人々の言葉をバラバラにした。言葉が互いに通じないよう、罰したのだ。 人類が多くの言語を持つのは、この時以降と聖書は説く。有名なバベルの塔の伝説だ。だが最近の研究によれば、アフリカで誕生した現代人「ホモサピエンス」の祖先たちが世界へと拡散する中で、新しい言語が派生したことが判明している。 木の実 縄文人が後からやって来た弥生人と混血し、私たち日本人の祖先となった。滅亡したネアンデルタール人の遺伝子が最も良く残っているのが日本人。そして古いアジア人のDNAを色濃く有しているのが日本人、チベット族、インド洋のアンダマン諸島の民族。いずれも海や高原で隔絶されたために、他民族との混血が進まなかった由。縄文人、沖縄の人、アイヌ人のDNAが極めて近いのも、同じ理由による。 渋柿 では言語はどうか。琉球語は日本語の方言で、古代の日本語が色濃く残されている。一方、日本語とアイヌ語は文法上も異なる言語。だが、通商により幾つかの言葉がそれぞれ借用語となった。さらに言えば、神とカムイのように、重要な言葉の類似性が不思議でもある。 日本人は古来「言霊」を信じて来た。そして「やまとことば」は日本語の原型として縄文以降現在も生き続けている。いわゆる「訓読み」の言葉がそうらしい。「だからこそ決して言葉を軽んじてはいけない」と、老人は静かに微笑むのだが。
2018.10.24
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~ティワナク文化その3~ お休みしていたこのシリーズですが、標高3800mの高地で栄えたティワナク文化の3回目です。こんな山のどこに遺跡があるのでしょうか。 おや、高い崖の下で何かを発掘しているような現場が見えますねえ。👀 発掘した跡がかなり深く掘られています。埋まってからかなり年月が経ったみたいですよ。 ほぼ完全な状態の大きな鉢ですね。 この鉢を上から見ると、とても細密なデザインが施されています。現代にも通じますね。 デザインはこんな感じみたいです。 これらは捕虜の人たちでしょうか。 魔物か、神様か、人間か。不可解な文様が描かれています。 説明によれば、世界最高レベルの細かいつづれ織りと書かれています。 これも同様に多彩な模様ですね。 動物の毛を巻いた楽器みたいです。 死者に被せた帽子のようですね。 文字がなかった古代アンデスでは、この「キープ」で情報を伝えました。結び目の場所、ひもの色などの相違で、識別していたようです。王朝時代の琉球にも文字が読めない農民のために「わら算」と呼ばれる、これと同じような記録方法が存在しました。 土器の模様の説明です。 リャマを模した土器は、以前にも出て来ましたね。 土器の破片から全体を再現したのかな? 顔が見えているのが従者かな? 上の写真を拡大して見ました。 植物のようなデザインのある鉢。 ピエロのような顔が見えますね。 今でもコップとして通用しますね。<続く>
2018.10.22
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~仙台市博物館の特別展から~ 第7回目の今日は、ティワナク文化の2回目です。退屈でしょうが、今日も素晴らしい芸術作品を楽しんでいただけたら幸いです。 これは4つの突起のある帽子です。見事な作品で、今でも使用出来ますね。 優れたデザインのバッグですね。現代の物と比べても全くそん色がありません。 んんん? 嗅ぎタバコ用の木製皿ですって。一体どんな風に使うんだろうね。 これも嗅ぎタバコと関係あるんだろうか。 コンドルなどの猛禽類を象った土製の皿みたいですよ。案外可愛いけどね。 同じものを上から見た図です。 バリティ島はチチカカ湖に浮かぶ小島。儀式が執り行われた神聖な島だったようです。ここから出土した遺物を以下に並べますね。 どこに動物がいるか見つけてね。👀 こっちの土器には猛禽類が描かれているけど、直ぐにわかるよね。 神様に奉げる飲み物を入れていた容器。下は顔の部分の拡大図です。見てケロ。 かなりリアルな表情ですねえ。 台座の顔もかなり表情が豊かですね。 こちらは鉢の縁に付けられた動物の飾りをアップしてみました。 バリティ島から出土した男女の彩色土像。決してカッパではありません。 オウム型の土器は前にも出ましたね。 背負ったカモは神様への供え物でしょうか。 神様の顔の部分を拡大しましたが、罰当たりだったでしょうか。<続く>
2018.10.17
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~仙台市博物館の特別展から~ 第5回目の今日はティワナク文化の紹介です。上の説明板にあるように、有名なチチカカ湖付近に興った文化のようで、標高は3800mとありますから、富士山よりも高い高地での文化なんですねえ。そしてPCの関係で、写真データを移動してしまったみたい。何とか別のファイルから取り出してみますが、さてどうなるかな。上手く行ったらお慰み。 スチール写真にあった遺跡の映像です。見事な石の神殿ですね。 上のアーチの部分をズームアップして見ました。 さらに石像部分を拡大してみました。どこかイースター島のモアイ像と似ていますが、イースター島と遠く離れた南アメリカ大陸の文化とは、交流があるとの学説もあります。不思議な話ですね。 なんだかドラえもんにも似てるけどなあ。 遺跡の映像からお借りしました。(以下同様です) 人の首に似せた石像が石の壁にはめ込んであります。これは神様なのかもね。 かなりの高地にも関わらず、こんなに広い神殿が建っていたんですねえ。 被葬者の頭に被せられた王冠です。きっと身分の高い権力者だったのでしょう。 2人の顔が彫られた石壁です。 金製品はこんな感じで権力者の上半身を飾ったんですね。 これが王冠の拡大図です。 そしてこの2枚は胸の部分の装飾品です。いずれも見事な細工ですね。 この文明には海岸部などに4つほどの領地(飛び地)があり、連絡道路が通じていたようです。これらはそこからの出土品なのでしょう。 いずれも動物や鳥が象られた見事な土器ですね。精巧な造りに驚きます。 この地域の民族にとって、コカは麻薬ではなく生活に欠かせないし好品や薬でした。今でもその末裔たちはコカの葉を噛んでいます。コカの葉は精製品のコカインより効力は弱く、現地では高山病予防のため、お茶として飲むこともあるようです。<続く>
2018.10.16
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~テレビと映画に観る日本の郷愁~ 何気なくTVを観たら、小津作品をやっていた。松竹の『お茶漬けの味』で昭和30年頃の制作のようだ。夫婦のちょっとした日常を描き、佐分利信が夫役、その妻を木暮実千代が演じていた。もちろんカラーではなくモノクロ。それもやけに暗い画面だ。暗いのはきっとその頃の時代も反映していたのだろうが、テンポもやけにスローモー。現代人ならきっと直ぐに飽きてしまうだろう。 翌日もたまたま小津作品を見た。今度は池部良と淡島千景の夫婦の物語。どうでも良い痴話げんかが延々と続く。映画の中で本人を観たのは初めてかも。そして若い女優の顔にビックリ。ひょっとして岸恵子じゃないかと思ったらやっぱりそう。淡島千景もきれいだった。昭和30年当時私は小学6年生。観ていた映画は東映の時代劇か日活の裕次郎で、松竹は大人の映画なのか、全く知らない世界だった。 小津安二郎は明治36年(1903年)東京生まれ。若くして映画に憧れ、戦前に松竹入社。助監督から監督を務め、一時戦地にも赴いた。復員後も映画を撮り続け、自ら脚本も書いた由。昭和30年当時は、日本映画監督協会理事長の要職にあったようだ。気に入った俳優や女優を使い続け、昭和38年(1963年)60歳で逝去。生涯独身を貫き、大勢の女優が監督の死を悲しんだ由。 3日目は『東京暮色」。父親が笠智衆(りゅう・ちしゅう)で、長女が原節子(左)、次女が有馬稲子。次女は最初、蘆川いづみと間違えた。男と女の感性の違いは、時代が変わっても同じようだ。貧しくて汚かったが、今日の繁栄はあの時代を乗り越えてこそのもの。強い郷愁を感じるのは、きっと私も同じ時を過ごしたからだろう。昭和も遠くなった。そして来年は平成も消える。 一方YouTubeで観たのがこの番組。ビックリするほど面白くて、結局5回分とも順次観てしまった。こちらは2001年の「NHKスペシャル」で取り上げたテーマだった由。その頃は現役で忙しく、観る暇がなかった。もし当時観ていれば最新の学説を知って認識を新たにしていたはず。それほど自分にとっては斬新でショックな内容。17年遅れでも観られて良かったと言うべきだろう。 遮光器型土偶 シリーズの構成は以下の通り。第1集:マンモスハンター シベリアからの旅立ち 第2集:巨大噴火に消えた黒潮の民 第3集:海が育てた森の王国 第4集:イネ 知られざる1万年の旅 第5集:そして日本人が生まれた。考古学ファン、いやいや日本人なら誰でも関心のあるテーマと内容。一体日本人はどこからやって来、日本列島に定着したのかの謎を解く手掛かりになるからだ。 「旧石器時代」の「日本」は、北は樺太経由で、南は東シナ海経由で大陸と繋がり、決して孤立してなかった。だから象やトラなどの動物を追って、人間も日本へとやって来た。ただし火山国の日本は酸性の火山灰に覆われて、当時の人骨の大部分は融けてしまう。かつて発掘されたと言う「明石原人」や「葛生原人」は失われ、「偽石器事件」で日本の旧石器時代研究が50年も遅れてしまった。 古代米 このシリーズで日本人のルーツ、列島での米作りは縄文時代から始まっていたこと、三内丸山遺跡が滅亡した理由、近隣諸国との文化の共通性や独自性などたくさんの新事実を知った。こちらは遥か遠い祖先たちの暮しだが、やはりどこかに懐かしさを覚える。恐らくは自分の体に流れている「日本人の血」が騒ぐのだろう。そして生きている限り、このテーマを追い続けるのではないかと思うのだ。
2018.10.14
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~仙台市博物館の特別展から~ 第5回目の今日は「ナスカ文明」の紹介です。きっと「ナスカの地上絵」は誰でも聞いたことがあると思います。ペルーの海岸部に位置するナスカは、紀元前200年頃から紀元650年頃までに栄えた文明でしたが、常に水との戦いでもありました。最後は頼みの水が消えて、人々は山岳部へと向かったようです。ここには山形大学の研究所があり、新たな地上絵などを発見しています。 ナスカは約850年ほども続いた文化で、当然のことながらここには人が暮らしていました。従ってその人たちが使用した道具も遺物として発掘されています。これは4つの首のある土器。顔と言わずに首とある所から、捕虜などを描いたのかも知れませんね。 階段状の基壇建築です。これはミニチュアですが、きっと元になった建築物があったのでしょうね。 やはりありました。カワチ神殿だそうです。私達は地上絵しか知りませんが、当時の人々が祀っていた神殿が存在したのです。あれだけの規模の地上絵を描いた人々ですから、それに相応しい文化を有していたのでしょう。 スポンディルスと言う美しい貝殻を髪の毛に通したネックレスのようです。 ひょうたん型の土製容器に描かれた神様は、何か植物を身にまとっているみたいです。 その身にまとったものがどんなものか、ズームアップしてみました。 「波の模様」のように見える線は、どうやらクモの手足みたいですね。 こっちは魚だとはっきり分かります。 縄をかけられたリャマですって。あリャマ。 小学生が描いた絵も負けてないねえ。 持ち手紐が付いたコカ袋(左)と房が付いたバッグ(右) 幾何学模様の織物ベルトです。見事な美術品ですね。 糸を巻き付けた房を持つコカ袋。コカの葉は日常的なし好品で、口で噛んでいたのです。 やはり音楽が好きだったのでしょうね。 木像の顔をアップしてみました。 人の顔を持つ神様です。 顔の部分を縦向きに直しました。 土器の下に描かれたしっかりとした顔の人面。 いずれも見事な作品ですね。 「ナスカ」の最後はやはり地上絵で締めましょう。地上の黒い石をある一定の幅で退けると、中から白い部分が現われます。これが「線」となるのです。元図はとても小さいのですが、それを杭とロープで拡大して正確な図に描く方法です。高度な文化を持ったナスカの人々も、飲み水が途絶えたことでこの地を去り、より高い山へ向かったと考えられています。<続く>
2018.10.13
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~仙台市博物館の特別展から~ 今日はペルーに興った「モチェ文化」の2回目です。日本だと弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、そして平安時代の初期くらいに当たる年代でしょうか。 裸の捕虜をかたどった注口土器とあります。 捕虜の顔の部分をアップしてみました。左手に持った四角い物は何でしょうね。 こちらも裸の捕虜でした。きっと戦いが続いていたのでしょうね。 どうやら刺繍されたマントみたいです。 トウモロコシの姿の神とは愉快ですね。 走る人々をらせん階段状に描いた鐙型注口土器。下は上の部分のアップです。 素っ頓狂な顔だけど、神様みたいよ。 あらまあ、こっちにも海の神様が。 この時代の象徴とも言うべき黄金のマスク。下は見学した小学生の作品です。 ずらりと並んだ4つの注口土器。それを下に一つずつ紹介します。 どうやら「モチェ文化」では神も人も動物も、そして生と死が混沌としているみたいですが。 まあ、怖い顔のネコですこと!! これらはいずれもミイラを覆っていたマントとそれを拡大したものです。気候が乾燥しているために現代までしっかり保存されていますが、実に精巧な作品ですね。これで「モチェ文化」の紹介を終わり、次回は「ナスカ文明」を紹介します。<続く>
2018.10.10
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~仙台市博物館の特別展から~ 今回は古代アンデス文明で4番目に古い「モチェ文化」の紹介です。この文化は現在のペルーに興り、紀元200年頃から紀元750年(ないし800年)頃まで栄えたようです。 ずいぶん長い名前を持つ壺ですね。人間の姿をした「神様」がケープを巻いています。 こちらも長い名前を持つ儀式用のケープですが、ネコ科動物の毛皮に似せて作っています。 上の拡大です。ネコ科動物の顔が見えます。毛皮に見えているのは金の小片でしょうか。 どうも動物も神になるのが特徴みたいですね。土で作った足に「爪」まで付けています。 右の立っている男性像も部分的に色分けして作られているように見えますが・・。 モチェは海岸に近かったために、アシカもいたのでしょうね。 こっちの壺はリャマのようです。 ほほう。こっちはウミガメみたいよ。 リアルな成人男性の顔が付いた大型壺です。 2人の男女が造る「チチャ」とは何でしょうね。食べ物か、それとも飲み物なのか。 金地に象嵌(ぞうがん)された人面形の装飾品です。やはり金製品が多いようです。 同じ人物が、青年、壮年、老年と変わって行く姿です。 木製のこん棒の頭に当たる部分です。 こちらはどうやら石製のこん棒の頭部みたいです。名札を撮影しなかったため、「出品目録」から推定しました。「こん棒」は武器。相手をこれで殴って撲殺したのです。やはり領土を守り、領土を広げるために古代から戦い続けて来たのでしょうね。 2柱の主神が描かれた鐙(あぶみ)型注口土器とその拡大。「柱」は神様を数える際の単位。鐙(あぶみ)は乗馬する際に足を置く装置です。馬の腹の両側に付いています。上の土器から想像してください。「モチェ文化」はもう1回続きます。そしてこのシリーズは当分続きます。地味なシリーズですが、最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。<続く>
2018.10.08
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~仙台市博物館の特別展から~ 第3回目の今日は、チャビン文化の続きです。この文化は南米で2番目に古いんですよ。 サル人間だそうです。これも神様なのかなあ? 貝で作ったトランペットだって。よっぽど音楽が好きだったのねえ。 鳥に似た生物って一体何だろうね。古代アンデスでは、生物はどれも神様に近かったのかな? すり鉢とすり棒ですって。縄文時代にもあるけど、こんな美術は施されてなかったなあ。 こっちのすり鉢もかなり精緻な造りですね。石にこんな模様を刻むのは大変な技術です。 自分の首を切るなんて不気味ですね。南米には首を下向きにする古代文化があるのです。 上の名札は中央の像のもの。どうやら顔に入れ墨を入れたか、模様を描いているようです。 黄金の王冠、ジャガー神、腕輪(レプリカ)。古代の南米では既に金の精錬が行われていました。 山全体が遺跡なのでしょうか。この遺跡の名前は聞いたことがありました。 オベリスク(尖塔)は古代エジプトばかりとは限らないんですね。古代南米にもありました。 上のオベリスクの細部です。どうやら裏表に雌雄のワニを別々に彫ってあるみたいですね。<続く>
2018.10.07
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~仙台市博物館の特別展から~ このシリーズでは、仙台市博物館で開催された『古代アンデス文明展』を紹介しています。会期は平成30年7月27日から9月30日までで、既に終了しています。私が観に行ったのは終了の1週間前でしたが、大勢の観客で賑わっていました。 なお、この特別展では特定のものを除き、ほとんどの展示品の撮影が許可され、こうしてブログで公開出来たことに感謝しています。極めて学術的性の高い展示ですが、ご一緒に楽しんでいただけたら幸いです。 私達現代人が所属するホモサピエンスは、アフリカ南部で誕生した女性イブを祖先としています。それが世界各地に移動しました。肌の色は異なりますが、全て共通の祖先なのです。やがてアフリカから各地に移動し、その一部は凍結したベーリング海峡を渡って北アメリカ大陸へと進出し、海岸に沿って南アメリカ大陸まで渡ります。その大部分はアジアの民族と親戚で、中には日本人同様に「蒙古斑」を持つ人々も存在します。この南アメリカ大陸に古代文化を興したのも彼らでした。 古代アンデス文明を構成した各文化の名称です。左上から右上、第2段目の左から右、第3段目の左から右の順番で古さが構成されています。 これは各文化の主要遺跡と地理的配置状況を示しています。エクアドル、ペルー、ボリビア、チリにまたがる広範な範囲で各文化が栄えたことが分かります。人類の移動と密接な関係がありそうです。 この特別展の展示構成です。必ずしも年代順(各文化順)とは限らないようですが参考までに。 日本で言えば縄文時代の晩期から弥生時代の前期くらいでしょうか。 未焼成の小型男性人物像。つまり粘土のままで、共にレプリカですが素朴な味わいがありますね。 線刻装飾のある骨製の笛(レプリカ)で、芸術的なセンスと音楽を楽しんだ文化の高さを感じます。 次は上とは異なる遺跡です。 案外モダンな表現ですねえ。 チャビン文化は古代アンデスでは2番目に古い文化です。 チャビン・デ・ワンデル遺跡の全容。 上の画像をアップしてみました。巨大でしっかりした石組の遺跡であることが分かります。 上とは別のパネル。2枚の写真ですが、石組の精緻さがとても良く分かります。 古代アンデスの人々は神を信仰していました。そのことで彼らの精神構造が分かります。また神を祭る神殿も建築しました。以下は神殿の壁に組み込まれたジャガー神で、ジャガーが次第に神に変化する姿が刻まれています。 彼らは森羅万象を神と崇めました。どこか日本人とも共通する心理がありそうですね。また神聖な神への最大の供え物が人間でした。まだ幼い子供を神に近い高山まで連れて行き、そこで生贄(いけにえ)としたのです。そのミイラが現在でも高山で発見されますが、空気が乾燥しているため保存状態は極めて良好です。なお子供が怖がらないよう、弱いアルコールや麻薬を施すのが常でした。<続く>
2018.10.06
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~仙台市博物館の特別展から~ 平成30年9月24日。私は仙台市博物館へ行きました。 やっていたのはこれ。特別展の『古代アンデス文明展』です。以前はここで『インカ文明展』を観たのですが、さてどこが違うのかな。嬉しいことに、65歳以上の仙台市民は半額の750円で観ることが出来ましたよ。 ポスターはインカ帝国の象徴である、マチュピチュとワイナピチュ。定番ですよね。 アンデス山中の段々畑です。展示場入り口で写真を撮っていると、展示物の大半が撮影出来る由。これは考古学ファンとしては最高の喜びです。それでもスチール写真も是非撮らなくては。 トウモロコシはアンデスが原産地で、実に様々な形態と色の種類があるんですよ。 これはきっと塩の運搬でしょう。アンデスもかつては海の底。塩の採れる湖もあるのです。 リャマ(左)とそれを模した容器(右) 温和な性質のリャマは、肉や毛皮を提供してくれる貴重な家畜です。 ロビーには現地の民族衣装が展示してありました。とても鮮やかな色彩です。 スペインに征服された後、街は西洋風になりました。インカの末裔、西洋系の人々、それらの混血と、容貌も文化も多彩です。 最後はやはりこの写真で締めましょう。明日から長いシリーズが始まります。地味で学術的な内容の展示ですが、どうぞお楽しみに~!!<続く>
2018.10.05
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~シリーズ最終編~ さてお立合い。市民まつりの展示も今日が最終回。市民と言っても、ここはある小学校の校区。その範囲内での文化祭だが、今年で42回目の伝統を持つ。おそらくどのクラブも、この日に向けて準備して来たに違いない。それだけの力作が展示場内に溢れていた。講釈はそれくらいにして、早速展示物を紹介しよう。 最初の作品。水彩画のような静謐な画面だが、写真かも知れない。 青空を背にした桜の樹が艶めかしい。 3枚目は新緑の中を流れ落ちる滝。轟音が聞こえて来そうだ。 これは南米の山中にあるウユニ塩湖。雨上がりの湖に水が溜まって、反射して見える。これはよほど幸運でないと見られない光景なのだとか。 ここからは焼き物教室「ぞうさん窯」の会員の作品。 窯は電気窯。先ず素焼きとして焼き上げ、その後思い思いの釉薬を施す由。 粘土は先生(ぞうさん)が準備し、それに自宅の土などを混ぜることもあるとか。 色は焼き上げる際の窯の温度で、微妙に違って来るとのこと。 時には割れたりするなどの失敗もあるらしい。まあ、それも芸術の一部か。 自由自在に作品が作れたら面白いでしょうね。でも爺は不器用だもんなあ。 こんな深い壺はね、粘土を縄のようにグルっと巻き上げて作るんだって。 こ洒落たティーカップに光沢のある小鉢。良いですなあ、なかなか。 観て観て。これは絵の先生が描いた顔。さすがは手慣れたもんだ。 ささ~っと仕上げるところが良いんだろうね、きっと。 やはり日本人は、こんな焼き物に心惹かれるものがありますなあ。 実はそれらの焼き物は、私達の短歌会の作品の下のテーブルに並んでいました。 近くで見られる焼き物と違って、壁の短歌を読む人はあんまりねえ。目が悪いと特にね。 完全に焼き物の引き立て役になった短歌でしたが、たまにはちらっと読んでくれたかなあ? 最後は近所を流れるザル川の「洞門」。50年近く前の台風の際に濁流が岩に穴を開けて、新たな流れが出来ました。この上には山道が通っているのですが、崩壊の危険性があるため現在車両の通行は禁止され、人が歩いて通るだけです。 愛犬がまだ生きていた時、2度に分けて川の中を歩く冒険をしたのですが、ここは水深が深いと思って断念した場所でした。でも、案外浅かったようです。残念だったね、マックス。<完>
2018.05.17
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~力作を鑑賞する~ 「第42回市民まつり」の点実物紹介も、今日で4回目となりました。案外充実してることに、正直驚いた私です。さて今日は「新聞ちぎり絵」の続きから始まりますね。 これはひょっとして、北海道富良野の観光農場でしょうか。とっても優雅な風景です。 紫の花はカタクリ。そして白い花はイチリンソウみたいですね。 これは椿かな?ちょっと枝が伸び過ぎみたいですが。 あらまあ。蓮の傘の下に集まっているのはカエルさん達。梅雨時の風景ですね。 これは何の実でしょうか。ひょっとしてホオズキかもね。 ここからは「木曜書道クラブ」の作品。こちらは初日の準備中の風景です。 場所が限られているため、大作は無理ですね。これは芭蕉の「奥の細道」の一節から。 あらまあ、哀しい歌ですこと。まるで辞世の歌みたい。 朝日新聞「天声人語」からの書き写し。こんな形になると優雅ですね。 ここからは3つ目の手芸クラブの作品。 これらは「小野クン」に似ていますね。東日本大震災の被災地の一つである、宮城県東松島市小野にある仮設住宅で生まれた「小野クン」は手袋を加工した人形で、援助のお礼に全国に発送された手作りの人形です。これらはその「小野クン」を模した作品ではないでしょうか。 手編みのセーターとカーデガン。普段の爺なら近づかないのですが。 盆栽はすべて同じ方の出品でした。小さな木ですが、瑞々しい新緑が躍動する命を象徴していますね。 この学区の小学生が彫った版画で自画像。県内の審査で入選し、全国大会でも入選した作品です。<続く>
2018.05.16
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~展示編その2~ Kコミセンで開催された「市民まつり」。今年で42回目だそうですね。大したもんだ。今日は再び展示物の紹介をしますね。ではさっそくご案内をば。 手芸サークルも幾つかあるみたいですよ。たとえばこの犬張子と・・ こっちの犬張子は違う場所に置かれていました。背景も違いますよね。 ジェームス・ディーンにマリリン・モンローですかね。人物は古いけどセンスは若い? これはポーチと言うのか、ポシェットと言うのか・・。 こっちは初日の準備中に撮ったんですが・・ こっちは2日目に撮った作品。良く似てるけど、微妙に違っているような。 「新聞ちぎり絵」ってのがあったので尋ねてみました。「新聞ちぎり絵」って何ですかとね。答えは簡単。何と新聞の広告から使えそうなものを選び。それを手でちぎって台紙に張り付けるんですって。これが実に見事でねえ。色あいと言い形と言い、立派な作品でしたね。 ビニールでカバーした作品は、光が反射して見え難いのが残念ですね。 これらがまさか新聞広告だったとは、到底信じられませんがねえ。 初日はこんな風に、ざっくりと作品を撮ったのですよね。 2日目は十分に時間があったので、主な作品ごとに撮ってみたのです。<続く>
2018.05.15
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~イベント編~ 土曜日の朝8時、ドーンと花火が上がった。あれがひょっとして「市民まつり」の合図だったのだろうか。ここはわが町内会の所属ではなく、隣の小学校の学区。そこの団地が出来た時に始めたお祭りが、今年で42回目になるらしい。しかも住民が自発的に始めたもののようだ。その頃、私は筑波研究学園都市勤務のため、事情は今年初めて聞いたのだ。 日曜日も展示撤収のため会場へ。すると小学校へ向かう小道に、ずらりと出店が並んでいた。これは一番手前の店で、古着を売ってるようだ。 可愛らしい小物がビッシリ並んでいる。真剣な目で探している女の子が1人。 赤ちゃんのための用品だろうか。優しそうな色あいの商品が多数。 こちらはキャラクター付きの商品がずらりと。 これは手作りのブローチか。お値段も子供向きですね。 こんな可愛い動物たちをどこから仕入れて来たのだろう? 1個50円だって? 超安いねえ。 ポテトフライはお母さんたちの手作りかな。少なめなのがグー。 このテーブルに並んでるのは何? わーい、お母さん手作りのスイーツだ。これなら安心だよね。 コミセンの中庭では、花や野菜の苗の大安売りも。 そこのお爺さん、野菜の苗買って行かない? 特別に安くしとくよ。 お爺さんって、ひょっとして俺のことかい。生憎だが俺はもう買ったよ。 それにこれ以上買っても、植えるとこがないんだよなあ。残念ながら。 んんん?何だ何だ。新館の中から賑やかな音楽が聞こえて来るぞ~。 いいじゃん、いいじゃん。ハワイアンにフラダンスなんて最高。 ハワイへようこそ。心から皆様を歓迎いたします。( ,,`・ω・´)ンンン? いかがです、軽やかなハワイアン。これでも結構練習したざます。 マジックショーじゃないんです。正統派のシャンソンに拍手喝采。<明日は再び展示へ>
2018.05.14
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~初めての参加記~ <仙台国際ハーフマラソンに向けて練習中のランナー> 今日は「仙台国際ハーフマラソン」の開催日。本当なら所属走友会の仲間や、かつて参加していた宮城UMCの仲間たちが走るこのレースを応援するのだが、体調が悪くなり走れなくなってからは応援する気力も失ってしまった。そこで所属短歌会がお世話になっているコミュニティセンター(略称コミセン=仙台市では小学校の学区ごとに存在)を会場にした市民まつりを手伝うことにした。 コミセンの付近にはこんな幟が立っていた。ここは隣の学区でほとんど馴染みがないのだが、短歌の会でここのコミセンに出入りするようになった。まあ、これも何かの縁だろう。 これが私達の会。Mさんが「看板」を書いてくれたみたい。 私がコミセンに着いた時には4人のメンバーがいて、既に準備が始まっていた。作品を準備しているのはK先生。会員1人2点の作品が展示されている。 各自2点の作品とは、1点が正方形の色紙で、もう1点が短冊形の色紙だ。 正方形の色紙に混じって、短冊形の色紙も飾られてある。歌は全てMさんが筆で清書した。 これが私の作品 もしもしと風の電話で呼びかける 聴こえしものは風の聲のみ (左) これは3月の歌会に出した詠草。東日本最震災の犠牲者と家族を繋ぐ「風の電話」を詠った。 極北の氷河より落つる滝白し バレンツ海に音谺(こだま)して (右) これは5月の歌会に出した詠草。スピッツベルゲン島(ノルウエー)の滝を詠んだもの。 ここからは他のグループの紹介。これらは手芸のサークルの作品で、キルトでしょうか。 これも刺繍ではなく、キルトのようです。 キルト(壁)とバッグ(テーブル) シックなショルダーバッグが壁に。 可愛いバッグとポーチ。 ここからは別のグループで、現代的な置物。 これは小さなベンチ型の本箱か。シンプルで可愛い。 幾何学模様のタペストリー。 こちらは水芭蕉を現代風にアレンジした作品。実にモダンですね。<続く>
2018.05.13
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~『西郷どん展』を観に~ NHK仙台放送局で『西郷どん・全国巡回展』をやってると言うので、先日観に行った。自転車で行けば冒険にも運動にもなる。そして公共の場所なので無料のはず。おまけにブログネタになれば、メデタシメデタシではないか。そんな訳でえっちらおっちら出かけたのだが、ちと様子が違った。そのことはいずれ触れることにしよう。 私が向かったのは、旧の建物。ところが会場は新しい会館だとのこと。まあさほど離れていないので、少し引き返せば済む。そしてこれが新しい放送局。我々の支払う料金で建てたにしては、超豪華な建物だった。権威の象徴でなければ良いが、と一老人は危惧したのだった。 1階のロビー内にこんな幟(のぼり)がたくさん立っていて、場所は直ぐに分かった。期待してすぐさまそこへ向かったのだが。 おうおう。西郷どんが笑っとる。殿はさすがに立派じゃ。正助どん(大久保)も篤姫さまもおらっしゃる。今年の大河ドラマは、これじゃこれじゃ。 こいじゃ、こい。番組の冒頭に出て来るシーン。西郷どんが空に向かって飛び上がる場面じゃ。 左から正助さ~、西郷どん、糸さ~が演技の時に着ちょる着物じゃ。美しか~!!💛 これは衣装を担当された方のデッサン。こうしてイメージを作っちょるんじゃ。 畏れ多くも殿斉彬公の衣装じゃ。黒マント、ボタン付きのシャツなど、さすがは西洋文化を一早く取り入れた英明なお方。服装もそれなりに気を遣ったんじゃなあ。 左は土佐の漂流民のジョン万次郎。右は愛らしい篤姫様かのう。 赤山靭負は確か西郷どん達の先生だったかのう。謂れのない罪で、確か切腹をされたはずじゃが。 西郷どん(左)と正助どん(右)の着物。どちらも薩摩藩の下士(下級武士)じゃったどん、やがて明治維新の立役者になって行く。西郷どん、正助どん、気張れ~!! 西郷どんが初めて江戸へ上る際に、殿から拝領した脇差。束に「丸に十」の島津家の紋。もちろんレプリカなんじゃが。 西郷どんが脇差を拝領したシーン。「西郷、お前は今日からわしになれ」。だったかな? 西郷どんが同志で京から追放された僧の月照と心中する図。歌舞伎になったんじゃろうか?月照は薩摩湾で命を落とすが、西郷どんは一命を取り止め、やがて奄美へと流される。 西郷どんの2番目の妻となった愛可那(あいかな)。奄美大島に流された西郷どんのお世話をし、2子を生した。後に西郷どんが徳之島に流された際は、2人の子を連れて会いに行ったものの、夫はさらに遠い沖永良部島に流される。長男の菊次郎は無事成人し、明治に入ってから京都市長に就任。あいかなの「かな」は島の言葉で「美しい娘」を意味する。沖縄と共通の言葉だ。 勝海舟(右)と会談する西郷どん。官軍サイドの中心人物となった西郷どんは、江戸城を無血開城させるために勝と話し合った。もし談判が物別れになれば、多数の江戸の住民が死に、世界一人口が多い都市(当時)は焼け野原になったことだろう。この無血開城には篤姫の勝に対する説得も大きく作用したはず。こうして我が国最大の危機は2人の大人物によって救われ、日本は近代国家へと向かう。チェスト~!!気張れ~!!<続く>
2018.04.25
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