マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2016.07.16
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カテゴリ: 日本史全般
 <260年前の恨みを果たす>

形2七夕A.jpg

 6月26日(日)。いよいよ北東北の歴史を辿る一人旅の最終日になった。6時半からの朝食は和食を選んだ。メニューは悪くなく、一日のスタートとしては申し分のない内容。早めに荷物をまとめ、バスで秋田市内へ向かう。秋田駅に着いて、まずは列車の時刻をメモ。それが終わると千秋公園に向かって歩き出した。


城1.jpg

 向かった先は久保田城跡。駅から10分で着く。秋田藩主佐竹公の居城で石高は20万石であった。


城4久保田城.jpg

 秋田の城が秋田城ではなく、なぜ久保田城なのか、奇異に感じる。昨日も書いたが秋田城は古代の城柵で海よりの地にある。それに対してこちらの久保田城は江戸時代の築城だ。


城2説明.jpg

 説明には書かれていないが、秋田藩の城主である佐竹氏は元々常陸国(現在の茨城県)の戦国武将。徳川氏の関東進出と江戸での幕府開府によって佐竹氏は水戸の地を追われ、ここ秋田に移封された。その後には御三家の一つである水戸徳川家が入った。本貫の地を奪われた佐竹氏は、恨み骨髄であったのだろう。


        表門 城7表門.jpg
 幕末に起きた戊辰戦争において、東北と越後にあった藩の大半は幕府側に就いた。徳川の恩顧に報いるためだ。仙台の伊達はもとより、京都守護職であった会津藩の意思は固かった。その中にあって官軍側に味方した数少ない藩がこの佐竹藩。徳川氏によって本貫の地を追放された恨みを、260年ぶりに果たす機会が到来したのだ


城9表門内側.jpg 表門内側


    復元された御隅櫓 城14隅櫓.jpg

 戦いの結果は誰しもが知ってるだろう。戦いに勝った薩長は明治新政府を作り、味方だった藩を手厚く保護し、敵となった藩に対しては冷遇した。それは廃藩置県で置かれた県の形で分かる。伊達は北方の領土を失い、小さな宮城県となった。会津は福島県の一部となった。官軍に味方した佐竹は南部藩の所領だった鹿角地方を秋田県として編入されたのだ。


城15御隅櫓.jpg 御隅櫓


城13最後の城主第12代義尭公.jpg

             最後の城主第12代佐竹義堯公立像

 だが勝利した久保田城は明治13年(1880年)に失火で全焼した。失火の原因は分かっていないが、ひょっとしたら佐竹藩(秋田藩)が官軍側に就いたことを恨んでいた者の仕業だったのかも知れない。つまり「秋田は寝返って官軍に就いた敵だ」として。特に旧南部藩の領民だった鹿角地方の恨みは激しかったのではないか。ただし、これはあくまでも私の推測に過ぎないのだが。


城19濠.jpg 久保田城外濠

 城が焼け落ちた10年後になって、城跡は現在のような公園に整備された。早朝の久保田城を訪れた私がここで会った人はとても少なかった。


   濠に咲く睡蓮の花 花2.jpg

 当初の第一希望だった古代の城柵秋田城に行く予定が残念ながら適わず、代わりに江戸時代の久保田城を訪れる羽目になった。それはそれで良い。私も一度は街中にある佐竹の城を観、260年間の「佐竹の恨み」を感じたい部分もあったのだ。再び駅まで歩いて戻り、そこからいよいよ旅の最終訪問地へと向かった私だった。





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Last updated  2016.07.16 05:33:29
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