マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2016.07.17
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 <秋田城・東北の古代史と日本海>

博1建物正面.jpg

 旅の最終訪問地は秋田県立博物館。JR秋田駅から奥羽本線か男鹿線で3つ目の追分駅で下車し、そこから寂しい道を30分近く歩く。途中にはスポーツで有名な県立金足農業高校があった。


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 この博物館は出来てから40年ほど経つらしいが、全面的に改修したせいか古さは全く感じないどころか、なかなか斬新な展示だった。入館料も無料と意欲的。写真撮影の際は先ず届けて、許可を受ける必要がある。


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 館内で意外なコーナーを発見。秋田城や雄勝柵など古代の城柵のコーナーがあったのだ。秋田県立の博物館なので当然と言えば当然なのだが、その朝行けなかった秋田城に関する情報が得られたのは予想外の収穫だった。大笑い

 何せこの博物館を見終えてまだ時間が許せば、途中の土崎駅で降りて秋田城へ行こうとし、駅前にタクシーが停まっていることを確認したほどだ。興奮して展示を見つめた。


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  復元された秋田城

 天平5年(733年)山形の庄内地方にあった出羽柵が秋田に移転された。蝦夷を制圧するための日本海側の拠点としてだ。これがやがて秋田城と改称される。


日本海2.jpg

 ここで東北の古代史をおさらいしておきたい。記述は年代順にした。

1)斉明天皇4年(658年)から3年間、将軍阿倍比羅夫が渡島(北海道)に押し寄せていた粛慎(みしはせ)と交戦した。この際蝦夷の恩荷(おが=後の男鹿か)を淳代(=能代)、津軽2郡の郡領とし、渡島の蝦夷を饗応した。

 粛慎はロシアの沿海州付近のツングース族のこと。阿倍比羅夫は越(福井県から新潟県まで)の国守でもあり、斉明天皇9年(663年)には征新羅将軍として白村江において唐・新羅の連合軍と戦っている。いずれも日本海を船で移動するしかない。古代の日本海側は古くから舟運が盛んだったことが分かる。

2)和銅5年(712年)出羽国が成立。越国の一部と陸奥国の日本海側を割譲して出来た。現在の山形県と秋田県に相当。


古城6古代東北の城柵.jpg 東北の城柵

3)和銅2年(709年)には既に出羽柵(城輪柵)があったことが歴史書に記されている。場所は現在の山形県酒田市付近と考えられている。もちろん日本海側の蝦夷を制するためだ。

4)神亀元年(724年)多賀城が置かれる。陸奥国国府であり、蝦夷制圧のための鎮守府でもあった。多賀城の前身である陸奥国府跡と考えられる郡山遺跡(仙台市)の成立期は不明。

5)天平5年(733年)出羽柵が秋田へ移転。後に秋田城となる。出羽国北部の軍事拠点であり、政治の中心地であった。津軽や渡島の蝦夷との交流や渤海国との外交拠点でもあった。また同年内陸部に雄勝郡が成立した。

6)天平宝字3年(759年)藤原朝狩が雄勝城を築城。これによって内陸部の蝦夷征伐が進んだ。

7)延暦22年(803年)征夷大将軍坂上田村麻呂が現在の盛岡市に志波城を築城。こちらは北上川を北上しながら蝦夷を征服して行った。


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 渤海国(ぼっかいこく)や靺鞨(まっかつ)の名は聞き馴染みがない人がほとんどだろう。渤海国は唐から「海東の盛国」と呼ばれた貿易国で、現在の福岡市には鴻臚館と呼ばれる使節接待・宿泊施設があり、能登半島と秋田にも渤海使節を饗応する施設が置かれた。

 靺鞨は多賀城の石碑(壺の碑)にも名が刻まれている。ツングース系の民族で阿倍比羅夫が退けた「粛慎」の末裔。東北にはこのような日本海を通じての交流や戦いが、古代からあったのだ。


古城0-4.jpg

 秋田城跡から出土した瓦


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 秋田城跡から出土した柱


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 秋田城の発掘状況


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 秋田城の発掘状況。防御のための「築地塀」の跡。宮城県の「多賀城」も秋田城と同様に丘の上にあり、このような築地塀で蝦夷の侵入を防いでいた。


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 築地塀の構築再現状況。粘土と砂を交互に入れて突き固める「版築」と呼ばれる工法で、三内丸山遺跡(青森)の楼観の土台にもこの版築工法が用いられていた。


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           出土した「人面壺」


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  墨書土器。土器の底に墨で文字が記されている。


古城9漆紙文書.jpg

 漆紙文書。壺に入れた漆が乾燥しないよう、使用済みの紙を蓋代わりに使った。その紙に漆が沁み込んで今日まで残ったもの。国内の各所で同様の文書が見つかっている。


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 円面硯(えんめんけん)。陶製の硯(すずり)で、役人達がこれで墨を磨り文字を書いた。


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 復元された秋田城の城門1


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     復元された秋田城の城門2


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 恐らくこの朝に訪れたとしても、あまりにも広過ぎて全部は見切れなかったのではないか。またこれだけ詳しい説明もなかったと思う。直接見られなかったのは残念だが、初期の目的は十分に果たせ、大満足の私だった。


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 この後も古代の東北では「前九年の役」、「後三年の役」と大きな戦いが続く。その戦乱が治まり奥州藤原氏が平泉に造営した「極楽」も頼朝によってわずか4代で終焉を迎え、中世へと突入することになる。


参考17秋田氏像.jpg参考16安東氏像.jpg

 上の肖像は蝦夷出身の豪族であった安倍氏の末裔で、左が秋田氏で右が安東氏。彼らは日本海へ船を乗り出して巨万の富を築く。阿倍比羅夫以前、遥か縄文時代から日本海は交流と貿易の場であり、やがてその歴史は北前船による西廻り航路の開発へと繋がって行く。<続く>





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Last updated  2016.07.17 06:24:44
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