マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2018.07.15
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カテゴリ: 歴史全般


しょんぼり それから最近ウインドウズ10が原因の不都合が起きているようです。上手く立ち上がらなかったり、見たいブログに入れないことはありませんか?それらも多分ウインドウズ10が原因と思われます。世界的なウイルスの脅威に厳重に対処するあまり、チェックが厳しくなったことも原因とか。これは出入りの電気屋さんから聞いたのですが、実に迷惑な話ですね。

~海の道~ 訪れた者、立ち去った者



 大陸と繋がっていた時期はともかく、縄文時代以降の日本列島は孤立しており、海を渡るには何らかの手段が必要だった。丸木舟、筏、帆船や構造船と、より丈夫で安全かつ大量の輸送が出来るよう、絶えず改良の手が加えられた。三内丸山遺跡からは、新潟のヒスイ、秋田のアスファルト、北海道の黒曜石、岩手の琥珀などが出土しており、それらは舟で運ばれたと考えられている。既に縄文時代に舟による輸送があったことに驚く。



 2200年ほど前のある日、浜辺に何艘かの大きな船が漂着し、見かけない人がぞろぞろ上陸した。一行を率いていたのは徐福(じょふく)。秦の始皇帝の部下で、不老長寿の薬を求めて遥々やって来たと言う。中には女子供も含まれていた。なぜ女子供までがこの列島にやって来たのかは不明。始皇帝は大変な暴君で、平気で殺戮を行った。ひょっとすると徐福らは、日本へ逃げて来たのではないのか。



 いわゆる「徐福伝説」を私は知っていた。渡来地の一つが佐賀県であり、もう一つが紀伊半島の熊野近辺であることも含めて。そして今回の旅では、三重県の海岸で「徐福上陸の地」の標識をバスの車中から見つけた。ところが旅を終え、紀行文を書くためにネットで調べ、徐福伝説が残された地が全国で37か所もあることに驚いたのだ。これは一体何を意味するのだろう。「徐福」は1人ではなく、幾つも同じような例があったのかどうか。


            <補陀洛寺=和歌山県那智勝浦町>

 また那智勝浦町に「補陀洛寺(ふだらくじ)」があるのを、車中から偶然見つけた。ここは仁徳天皇の御代にインド僧の裸形上人が漂着し、仏教を広めたと伝わる地。そして「補陀落信仰」が生まれた地でもある。補陀落とはインドの南の洋上にある理想郷で、サンスクリット語(梵語)のポータラカの漢訳。チベット仏教の聖地であるラサのポタラ宮殿の「ポタラ」も同源で、「観音浄土」の意味。


          <渡海用の船の模型=補陀洛寺HPによる>

 補陀落信仰とは、船でその観音浄土を目指すもの。30日分の水と食料を積み、僧は船室にいたまま扉を釘付けされる由。渡海の時期は11月。沖の繋切島で綱を切られた船は、そのまま大海を漂流するのだが、難破する姿を見た者は誰もいないと伝わる。平安時代から戦国時代までに9名、その後に10名が浄土を目指した由。茨城の那珂湊や高知の足摺、室戸にも同じ信仰の痕跡が伝わっているそうだ。

 守礼門  

 私が補陀落信仰を知ったのは、30年前に赴任した沖縄でのこと。沖縄への仏教伝来は14世紀前半で、漢字の伝来も同じ頃とされる。そしてそれを伝えたのが、いずれも船で流れ着いた補陀落信仰の僧との説を本を読んで知った。それがずっと私の頭の中に残っていたのだ。しかし舵もない漂流船が、果たしてあの速い黒潮を逆流出来るのかどうか。真偽は不明だが、不思議な話ではある。

 アカバナ

 不思議と言えば、源為朝が八丈島から沖縄へ渡り、琉球王の祖先になった話(彼はその後帰国)や、平家の落人が琉球に逃げた「南走平氏」の話が沖縄にある。竹富島の集落の拝所(うがんじゅ)の傍に「私達は平家の末裔で、ここはその聖地です」と書かれていたのには驚いた。そこは西表島のすぐ傍の小島なのだから。

 そして沖縄本島東部の島や宮古島には、倭寇の基地があったとされる。そして民俗学者柳田國男の『海上の道』は、かつて一世を風靡した。彼は中国や南方からの文化は、琉球列島や奄美諸島を伝って日本へ渡ったと考えたのだ。現在ではその考えの大半は否定されている。実際は方向が逆だったのだ。

   ミルク神(弥勒菩薩)  

 ところで沖縄のこんな言葉をご存じだろうか。1つ目は「ニライカライ」。これは沖縄の人々が憧れた理想郷で、海の彼方にあると言う。ある民俗学者によれば「ニ」は「根」。つまり根の国で、あの世と言う訳だ。2つ目は「うるま」。麗しい土地と言う意味で、沖縄本島には「うるま市」も誕生。また波照間(はてるま)は「果てのうるま」。つまり最果ての理想郷と言う意味を持つ。


               <アンコールワット>

 その波照間に「ぱいはてるま」と言う言葉がある。「ぱい」は「はえ」で南風のこと。ひいては「南」の意。つまり最果ての理想郷の南に、さらなる理想郷があると考えた訳だ。果たして人間の深い欲望を思うべきか、それとも遥かに遠い祇園精舎への渇望を思うべきか。室町時代にはアンコールワットに落書きした武士もいた。彼らはその地を「本当の祇園精舎」と信じていたのだ。<続く>





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Last updated  2018.07.15 05:36:09
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