マックス爺のエッセイ風日記

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2019.06.30
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~高句麗古墳群江西大墓と明日香の古墳~



 さて「高句麗古墳群江西大墓」のコーナーがありました。何枚か写真を撮った中で使えたのは冒頭の説明板だけ。それも後で区切りが分かるよう、部分しか載っていません。こうなった原因は古墳を模した墓室があまりにも暗過ぎて写真が真っ暗になったことと、著作権の関係か展示物の撮影が出来なかったためです。そこでネットから必要な写真を借りてこの章を構成することにしました。



 これは高句麗の地図。日本はまだ「倭」の時代です。百済の要請を受けて、白村江で戦ったこともありました。高句麗は現在の南満州まで広がる領土を持つ、牧畜民族でした。半島南部の農業中心の民族とは出自が異なっていたのです。古墳群があるのは現在の中国領。日本との協力の結果、江西大墓の研究が進んだのです。それによって明日香村の2つの古墳との関係も解明されるはずです。

 江西大墓外観

 キトラ塚外観

 高松塚外観

 どれも円墳であることが分かります。江西大墓は日本のものより大きく、見学者用の横穴を開けたことが推定されます。明日香村の2つの古墳は発見後研究などのために人が入ったことで、後に国宝に指定される壁画が損傷する事態になります。呼吸による湿気とカビが原因で、後に保護策が取られ現在は立ち入り禁止です。墓室内の壁画は高句麗の様式と極めて高い類似性を有すると言われています。



 高松塚古墳壁画のレプリカです。この壁画には高句麗と共通する約束事があります。



 キトラ塚古墳壁画の説明用図面です。壁画の東西南北にそれぞれの守り神(四神)を配しています。北は玄武(亀)、東は青龍、南は朱雀(朱雀門は都の南面を向いています)、西は白虎です。それらの色は季節を表し、春は青春、夏は朱夏、秋は白秋、冬は玄冬とも呼ばれます。古代中国の神仙思想から来るものでしょうか。




 上が高句麗の「玄武」で、下がキトラ古墳の「玄武」です。




 上が高句麗の「青龍」で下が高松塚古墳の「青龍」です。


          

 上は高句麗の「朱雀」で右上は比較のため左右反転。下はキトラ古墳の「朱雀」です。



 左はキトラ古墳の「白虎」。高句麗のものがなかったのですが、参考のために載せました。右は「星宿図」。方角及び星の位置から、中国の集安付近での観測と記憶しています。古代朝鮮の戦乱のため、百済、新羅のみならず高句麗から王族などがわが国に逃亡し、その高い技術力から朝廷に重用されました。2つの古墳は高句麗系の渡来人が葬られたか、その技術を駆使したものと考えられます。


                <高松塚古墳西壁女子像切手>

<ご挨拶>
 今日は6月30日、台湾旅行の出発日です。実際は6月19日に予約機能を使って書いています。帰宅は7月4日ですが、ブログは念のためその先まで予約してあります。では行って来ますね。皆様もどうぞお元気で。梅雨の時期の台湾がどんなものか、レポート出来るのを楽しみにしています。

 ローズコーンさん入院お疲れ様でした。いよいよ退院ですね。帰宅されてもお大事にされ、お元気で過ごされますよう。ぽっ





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Last updated  2019.06.30 00:00:17
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