マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2020.04.18
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カテゴリ: 歴史全般
<何枚かの地図から その1>

 逆さ地図

 こんな地図を観たことがあるだろうか。これは日本から大陸を見るのではなく、大陸から日本列島を見るとこんな風に見えると言うもの。つまり人間時には視点を変える必要があると言うことだ。真ん中にある日本海を突っ切れば、大陸は割と近いし、樺太や朝鮮半島を経由したら楽に大陸に接近出来ることも理解出来よう。逆に中国から見ると広い太平洋に進出するには、日本列島及び南西諸島が邪魔になるのだ。



 これは4世紀から7世紀にかけての朝鮮半島。高句麗は後の満州に跨る騎馬民族の国。百済と新羅は専ら農業中心の国。伽耶(かや)は倭人が住み、任那日本府が置かれていた。新羅は高句麗を討とうとしたが百済が邪魔で、唐と共同で先ず百済を討った。これに驚いた百済は日本に援軍を求めた。このため将軍亜阿倍比羅夫が2万7千人の兵を率いて朝鮮半島へ渡った。だが、白村江の戦いで敗れた。661年のことだ。

  阿倍比羅夫(ねぶた絵)

 阿倍比羅夫(あべのひらふ)は元は蝦夷(えみし)だが武勇に優れて越国守に任ぜられ、能代(秋田)、津軽(青森)、渡島(北海道)の蝦夷及び粛慎(みしはせ)を討つ。船団を組んで現在の北海道まで征伐に行ったのは、朝鮮半島での海戦の訓練だったようだ。飛鳥時代から緊迫した国際情勢があったのだ。



 左は1880年(明治13年)集安(高句麗の都=現在は中国領)で発見された好太王(広開土王)碑文。中はその碑文で、ここに倭人が朝鮮半島に襲来したことが記され、倭が18回登場する。右は多賀城(陸奥国府=宮城県)の碑で、ここに靺鞨の国界を去ること2千里の文字が刻まれている。靺鞨(まっかつ)はアムール川河口(ロシア)付近のツングーズ系の民族で、満州族などにも通じる。

     渤海国版図  

 渤海(ぼっかい)国は新羅に滅ぼされた高句麗の末裔が建国した国家で、日本へ庇護を求め20度以上朝貢した。大陸、朝鮮半島に沿って南流するリマン海流、そこから北流する対馬海流に任せての航行で航路は不安定。このため敦賀(福井)、能登(石川)、秋田に使節の接待所があった。日本の使節は敦賀付近から日本海を突っ切って、現在のウラジオストック(ロシア)に直行した。後に契丹(遼)によって滅亡する。

 唐の版図

 白村江の戦で敗れた日本は唐の侵略を怖れ、阿倍比羅夫を太宰府帥(だざいふのそち)に任命し、防御を固める。太宰府近辺に水城と山城を築き、対馬及び瀬戸内海から近畿にかけて逃げ城としての朝鮮式山城を築き、都を難波宮から近江宮に遷都した。かつ十分に先進文化は学んだとして、遣唐使を廃止した。唐はシルクロードを経て西方の文化を迎え入れ、その一部が正倉院にも伝わった。

モンゴルの版図  

 チンギスハン及びその子孫は圧倒的な騎馬軍団によりヨーロッパまで遠征し、各地にモンゴル系国家(ハン国)を樹立した。男は全て虐殺、女をほしいままにして恐れられた。孫のフビライハンが中国にモンゴル系国歌の元をを樹立。鎌倉時代には高麗軍と合流してわが国を襲来した。いわゆる元寇だが、2回目は高麗の野望によるもの。ただし集合場所が2か所に別れたため、鎌倉武士の反撃に遭って敗退する。

 2度の元寇により、対馬と壱岐の島民はほとんどが虐殺され、この時に船で逃亡した対馬島民の一部が津軽に到達し、その後も対馬氏や津島氏を名乗った。太宰治の本名は津島で、元寇の際に対馬から逃れた末裔とのこと。逆に戦国時代、豊臣秀吉は2度の朝鮮征伐を行った。このように東アジアでは古代から朝鮮海峡を渡っての戦いが繰り返されて来た。それもすべては地政学的な理由による。<続く>





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Last updated  2020.04.18 09:25:43
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