マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2020.04.21
XML
カテゴリ: 歴史全般
<何枚かの地図から その3>

   

これが清国(1644-1912)の地図と言ったらきっと驚くことだろう。だがこれには当時の柵封国(形式上臣下となって朝貢する国)も含まれ、琉球王国もあった。琉球は1600年代の初頭、薩摩藩の支配下に置かれ、日本と清への両属と言う不自然な形を取っていた。当時は東南アジア諸国との貿易を行っていたため、その方がどちらにも好都合だったせいもある。琉球王国が琉球藩、そして沖縄県となったのは明治時代の後半だった。



 清国を起こした太宗は元々ヌルハチと称する満州人。満州は後に日本が興した傀儡(かいらい)国家とのイメージが強いだろうが、本来の満州は民族の名で、「マンジュ」と言ったようだ。この満州族が不思議な民族で、古代日本では靺鞨(まっかつ)とか粛慎(しゅくしん、みしはせ)などと呼ばれ、奈良時代後期には知られていた。また、女真、女直、韃靼(だったん)などの異名を持つツングース系の民族。



         満州族の肖像(左)と独特の髪型=弁髪(右)

 満州族は古くは「金」と言う国家(1115-1234)を樹立している。中国が異民族に支配されたのは「元」とこの金だけだった。金は北宋と西夏を滅ぼしたものの、元によって滅ぼされた。民族的には古代朝鮮の高句麗及びその末裔が建国した渤海の民族と同じく、牧畜と農業を生業とし、優れた騎馬術を有していた。「ラストエンペラー」愛新覚羅溥儀も満州族の皇帝の子孫で、後に日本の皇女を娶る。




 近代化が遅れた上、内乱が続いた清はやがて先進諸国の侵略を受ける。イギリスはアヘン戦争(1840-42)によって莫大な富を得た。当初は銀を支払って茶葉を購入していたが、銀が底を尽いたため東南アジアで安価で仕入れたアヘン(ケシの実が原料の麻薬)を代価とした。これによって中国の庶民はアヘン中毒になって働かなくなり、イギリスはさらに販路を広めて中国奥地へ進出する。中国にとっては「言いがかり」以外の何物でもない、侮辱的な戦争だった。


                 <アヘン戦争の図>

 帝政ロシアは清との間で締結したアイグン条約(1858安政5年)、北京条約(1880万延元年)によって外満州を自国領とし、後に遼東半島を租借する。フランスはかつては清の柵封国だったインドシナの国々に進出して、フランス領インドシナとしてベトナムラオス、支配、カンボジア、タイ、ビルマを支配下に置く。ドイツは1898年の「膠州港租借条約」によって山東半島に進出し、青島市街を建設した。



 1900年(明治33年)西欧列強の中国進出と不平等条約の締結に怒った秘密結社の義和団がキリスト教排斥を掲げて蜂起し、20万人が西太后がいた北京城を襲った。これに危機感を抱いた西欧8か国は連合軍を派遣し、日本もイギリス政府の要請に応じて軍隊を派遣した。これが後に「北京の55日」として映画化され、清国の衰退を一層早める結果となった。<続く>





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020.04.21 13:37:59
コメント(10) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR


© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: