マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2020.10.19
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カテゴリ: 歴史全般
~大運河の風景~



 「京杭大運河」を行き来する船の列。南の杭州から北の北京まで約1800kmにも及ぶ大運河の開削が始まったのは紀元前5世紀。そして隋の煬帝(ようだい・ようてい)が完成させたのが6世紀。つまり千年近くをかけての一大土木事業だった。日本の遣隋使や遣唐使もきっとこの運河を利用したのだろう。そして今もまだ現役の運河として生活に欠かせない存在だ。



   運河の畔に建つ「古運河」の石標(左)と運河の所々にある閘門(右)

 大運河は途中で長江(揚子江)と黄河を横切る。かなり水位が異なり、それを調整するための施設が閘門(こうもん)。パナマ運河にもこれの大掛かりなものが複数あり、大型船の航行が可能。もちろん古代にはこんな施設はなく。舟人の苦労が偲ばれる。長江の三峡ダムの直ぐ傍にも、大型船を通行させるための航路と閘門がセットであるそうだ。さすがは大河だけあるねえ。




 「大運河」を完成させた煬帝の陵墓は水田の中にあり、他の皇帝の陵墓に比べれば、規模も体裁も実に貧弱。その理由は朝鮮の高句麗征伐にも失敗した挙句、大運河の土木作業に多くの民を使役し、その恨みを買ったためと言う。そのせいで隋は滅び、新たに唐が興った。



  煬帝の霊を慰めるセレモニーのようだが、画面からはどこか冷めた感じを受けた。




 既に通過した揚州には幾つかのイスラム教の寺院がある。ここもその一つ。杭州にはひと頃500人ほどのイスラム教徒が住み、海のシルクロードを介した貿易で巨万の富を築いたと言う。ところがそれを妬んだ賊に襲われて滅亡、以後貿易の拠点は福建省の泉州や広東省の広州に移った由。確かに広州にはイスラム教の香りがプンプン匂っていた。なるほどそういうことだったのかとようやく納得。



 重厚な石の門の奥に一風変わった墓が見える。そして画面には右のテロップ。死者の名には漢字の当て字も。やはり異民族で、便宜上漢字の名を当てたのだろう。



 写真はきっと死者の名だと思われる。アラブ系ならアラビア語、イラン系ならペルシャ語。墓碑銘に見る古く長い東西交易の歴史。だが広州のイスラム教徒はブタを食べた形跡があった。ひょっとして彼らは漢民族だったのか。



 取材班は大運河を離れ、最終目的地である西安(かつての長安)へと向かう。このレポートも終わりに近づくころだが、話をどう展開させるかと頭の中でストーリーを組み建てる日々。書き手だけが知る苦しみで、かつ喜びでもある。翌朝前日のアクセス数を確認しながら、名も知らない誰かが日本のどこかで読んでいると感じて嬉しい。間もなくゴール。ガンバレ自分。<続く>





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Last updated  2020.10.19 05:54:04
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