マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2022.03.23
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カテゴリ: 文化論
~大阪へ行きたい理由・続編(2)~

  国立民族学博物館(みんぱく)

 大阪へ行きたい理由のその2は、かつての職場から案内状が来たことだ。そこから転勤して25年になるのに、辞めてからも「特別展」を開催する都度、招待を兼ねた案内状が送付される。私も転勤後の様子を知りたいのだ。展示場があれからどう変わったのか。私が勤めた頃に国内で初めて実施した「マルチメディア展示」がどんな風に進展したのかを。

         常設展示場の一部   

 国立民族学博物館は大阪府吹田市の「万博公園」内にある。「民族学」は昔風の呼称で、今なら「文化人類学」の方が馴染みやすいかも知れない。世界各地の文化や風俗を調査し、収集した標本を展示しているが、それらのほとんどが直接手で触れることが可能な稀有の存在。おまけに大学院まで持つ研究博物館。研究者は世界各地で学術的なフィールド調査をし、映像を撮影し、標本を収集して来る。



 今回の特別展は「日本・モンゴル外交関係50周年記念特別展」であり、~邂逅(かいこう)する写真たちモンゴルの100年前と今~のサブタイトルが付いている。招待状と共にパンフレットが送付されて来たので、パンフに載っていた写真を中心に紹介することにしたい。大学図書館が本職の私が博物館に転勤したのは異例だが、博物館も文化人類学も大好きな私にとっては幸運な人事異動だったかも。

                   鳥居龍蔵  

 パンフレットには書かれてないが、モンゴルの古い写真を撮ったのは鳥居龍蔵(1870-1953)だろうと私は推理した。鳥居龍蔵は徳島県徳島市出身の人類学者、考古学者、民族学者、かつ民俗学者。生家は煙草の卸商。勉強が嫌いだった彼は尋常小学校しか出ていない。だが独学で人類学を学び、東京大学人類学教室の坪井教授に標本整理係として採用された。

  鳥居記念館(徳島県鳴門市)

 坪井教授の下で学術研究に目覚めた彼は、沖縄、朝鮮、中国、満州などで学術調査を重ね、1896年(明治29年)の台湾調査時に初めて持参したカメラで初めて映像資料を残した。1906年(明治39年)には蒙古(現在のモンゴル)カラチン王府女学堂の教師として招かれた妻きみ子を追って同国に渡り、同男子堂教授となった。当然カメラ持参で、多数の映像を撮影したことだろう。

徳島県立鳥居龍蔵記念博物館(徳島市)  

 彼が撮影した学術的な写真の大半が後に「国立民族学博物館」に寄付されたことを私は知っていた。鳴門市でも勤務したため、「鳥居記念館」を観たこともある。東大時代の鳥居は助教授で終わった。小学校しか卒業してなかったためだ。フランス政府から彼に与えられた賞を東大の事務局が紛失したらしい。それだけの名誉があれば、教授にもなれたはず。彼は当時まだ専門学校だった「上智」を大学に格上げするよう文部省に進言し、上智大学が誕生。後に彼は文学部長として迎えられる。

   蒙古族の女

 しかし不思議な縁だ。たまたま鳴門へ転勤希望を出したため、鳥居記念館を訪ねて鳥居龍蔵を知った。彼は当時の軍部の依頼で外地の調査をした際も、国益よりも学術的な見地からのフィールド調査に徹したようだ。そのことも東大で教授になれなかった理由なのかも知れない。

        古いモンゴルの写真(2)   

 不思議な縁だが、私は鳴門から沖縄に転勤した。鳥居龍蔵は沖縄でも詳細な学術調査を行って日本と沖縄の文化、風俗、言語、信仰の類似点や変異に気づいたことだろう。それはド素人の私も直ぐに察知し、沖縄には日本の古い形がたくさん残っていることに気づいた。それは私が貧しい東北の生まれだったからかも知れない。東北と遠く離れた沖縄に、言葉の類似点を見つけたのだ。そして私は詩を書いた。

  古いモンゴルの写真(3)

 しかし大学図書館勤務の私が国立の、しかも民族学と言う専門的な博物館に転勤するとは意外だった。だが考古学、人類学、日本の古代史、言語学、民俗学などに興味を抱いて専門書を読んでいた私にとって、国立民族学博物館は厳しく、かつ楽しい職場だった。国内外の博物館や美術館を一体どれだけ見学したことだろう。それらが全部生きた学問となって、自分なりの歴史観、、世界観、文化観を養ったことか。

    古い写真 パオと自転車    

 蒙古族は元々遊牧民族で、家畜を追いながら移動を繰り返している。彼らの家パオ(後ろのテント)は自由な持ち運び出来るように分解して組み立て可能。簡単だが寒さにも強い。だが長い遊牧生活も現在ではウランバートルなどの都会での定住生活も増えたと聞く。自転車に乗る蒙古族の姿を、私は今回初めて見た。

  古い写真(5)

 男だけが持つY染色体だが、世界で一番多いY染色体はチンギスハンの孫のフビライハンのもの。彼は戦いを止めた後、中国に「元」王国を興して王となったが、モンゴル族が東アジアから中央アジア、東ヨーロッパまで征服した結果、現地の男はほとんど殺されフビライハンの血を引くモンゴルの男たちが現地の女性を妻にした結果、4千万人がフビライと同じY染色体を持つと言われる。ロシアが最も恐れたのはモンゴル族だった由。          

          古い写真(6)  

 モノクロではあるが、後ろには現代風の建物が建っている。そして道端に座っているのは「物売り」のようだ。第二次世界大戦後、かつての蒙古はソビエト社会主義人民共和国の影響を強く受けた。モンゴル共和国の文字もロシアの「キリル文字」を使用していたように記憶している。だがモンゴルと日本の国交樹立は50年と言うので、1970年代。私が知ってる一番古いモンゴル人は力士の旭鷲山だった。



 さてここからは全てカラー写真。恐らくは民博(みんぱく)の研究者達が撮ったモンゴル共和国の現況なのだろう。



 私が知ってるモンゴルのことと言えば、作家井上靖の「蒼き狼」。勇者チンギスハンの一生を描いた心奮える歴史小説だった。そのチンギスハンの都の跡を発掘調査している話。それから馬乳酒に馬頭琴にモンゴル相撲。裸馬に乗って草原を走る勇壮な競馬のこと。



 モンゴルに「ホーミー」と言う歌唱法がある。高音と重低音を同時に出す歌い方。一人で高音と重低音を歌いこなすのには驚く。その独特の旋律がモンゴルの草原に響く光景は圧巻だ。モンゴルと日本の友好関係を切に祈ってこのシリーズを終えたい。懐かしい大阪を今後訪ねることが出来るかは不明。何しろツーリストから届くパンフレットの類は、全て「資源ごみ」になっている現状なので。



 ずっと以前に予約していたこの原稿だが、ロシアによるウクライナ急襲が起きたため、先送りしていた。これがいつまで続くか不明だが、遅まきながら公開することにした。果たしてキエフの包囲網と、ウクライナ国民の行方が心配だ。





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Last updated  2022.03.23 00:00:20
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