(この記事は平成29年7月5日から6日に九州北部地方で発生した九州北部豪雨災害の前に訪れた時のものです。被害に遭われたみなさまには心からお見舞いを申し上げます。)
福岡県小郡市内をはしる県道738号線沿いにある「名馬池月塚」を訪れてきました。
味坂地区にある老人ホームの裏にある竹林。この中に、名馬池月がありました。
こちらは、馬ではなくヤギですが。この横を通って竹林の裏手にいくと、
お墓のような石碑のようなものがあります。
石碑をよく見てみると、何やら文字が。
石の表面には「池月塚」
石碑の横にある説明板です。
大まかな説明の内容
源平の戦いにおいて、宇治川の先陣争いで有名な、鎌倉時代の武将である佐々木高綱は、源 頼朝より賜わった名馬「池月」にまたがり、渡河に成功し、宇治川合戦を勝利に導いた。
平氏征伐の軍功により筑後国の鯵坂庄に所領700町歩を賜った佐々木高綱は愛馬の池月とともにこの鯵坂の地に移り住んだ。 そして、ここに城を築き、嫁をもらい一子をもうけ、佐々木三蔵利綱と名付けた。
高綱は鎌倉幕府の命によって、一子利綱と池月をこの地に残し、鎌倉に帰った。
この地にいる時、高綱は、名馬「池月」に鞭打って領地を乗りまわっていたが、利綱もまた、父の意思を継ぎ、名馬「池月」を我が子のように大切にしたそうである。 領民たちも、領主の名馬「池月」をこの上もなく愛し、領地をかけめぐる「池月」を仏の再来として信仰したそうである。
名馬「池月」が死亡すると、その遺体をこの塚に葬り「名馬池月塚」と称した。
源平の合戦で、木曽義仲と義経の激突となった宇治川の合戦は、よく知られていますが、その時に活躍した佐々木高綱にこんな後日談があったとは知りませんでした。
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名馬池月の塚
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