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蕪島無料休憩所の屋根の上に登って八戸港を眺めてみました。屋根の上の途中にはウミネコが休んでいました。ウミネコ繁殖地は全国に10ヵ所前後存在するそうですが、ほとんどが人を寄せつけない断崖絶壁や離島であり、蕪島は間近で営巣の様子を観察できる国内唯一の場所になるそうです。蕪島無料休憩所の屋上からは、八戸港が見渡せます。クレーンり向こうに見える残雪の残る山は、八甲田?なんでしょうか。八戸港の沿岸部の港湾道路を繋いでいる橋が見えました。こういう港湾道路って、港に陸揚げされた物資や港で積み込む物資の輸送に役立つのでしょうね。港の上には海鳥が自由に飛び回っていました。こちらのサイロには、何が入っているんでしょうか。サイロに書かれた会社名から、なんらかの鉱物がサイロに貯蔵されているんでしょうね。(八戸市鮫から種差海岸ドライブコース)【つづく】人気ブログランキングみちのくドライブ(その5) 八戸港
May 23, 2026
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こちらの施設の駐車場に車を駐車しました。こちらの施設は、蕪島物産販売施設「かぶーにゃ」(→→→こちら)です。お土産だけではなく、地元の食材を使った軽食も提供されていました。そして、蕪島(→→→こちら)へ渡ります。島といいながら、昭和17年、18年(1942年、1943年)に旧日本海軍により埋め立て工事が行われ、今は島が陸続きになっています。島の頂上に鎮座するしているのは蕪嶋神社(→→→こちら)です。八戸小唄(→→→こちら)の石碑があります。この歌は、昭和6年(1931年)に当時八戸市長であった神田重雄が「八戸小唄のようなものを作って八戸市を紹介したい」という発言がきっかけとなってできた新民謡(大正期後半から昭和期にかけて、地方自治体や地方の企業などが地元PRのために制作された歌曲)です。三橋美智也さんも歌っていたようですね。そして、この蕪島はウミネコ繁殖地として、国の天然記念物に指定されています。約3万羽のウミネコが営巣のため春早くから来るそうです。地面に点在するのは、ウミネコの排泄物。誰か定期的には清掃しているんでしょうね。八戸小唄では、「♪唄に夜明けた カモメの港」と歌われていますが、「カモメ」と「ウミネコ」って、似ているようで違うそうですね。ウミネコは留鳥でくちばしの先に赤と黒の模様があり尾羽に黒帯があるのに対し、カモメは渡り鳥でくちばしは黄色一色、尾羽は白いのが特徴なんです。八戸小唄の作詞者はその違いを知らなかったんですかね。こちらの蕪島無料休憩所に行くと、蕪島の四季や歴史、ウミネコ、蕪島周辺の見所、みちのく潮風トレイル等の展示があり休憩もできますし、また、ウミネコの営巣の様子を間近で観察することができます。(八戸市鮫から種差海岸ドライブコース)【つづく】人気ブログランキングみちのくドライブ(その4) 蕪島(かぶしま)
May 22, 2026
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やって来たのは八戸市鮫駅です。「鮫(サメ)」というのは変わった地名です。どうして鮫と呼ばれるようになったのか、この地名の由来は、沢(さわ)がなまった説や海岸付近でかつて鮫が盛んに獲れた説など諸説あるそうです。鮫が獲れたということは、青森県って鮫を食べる習慣があったんでしょうか。駅前にあった鮫のモニュメントです。また、駅前にあった観光案内図です。三陸復興国立公園 (→→→こちら)というのですね。三陸復興国立公園は青森県南部から宮城県の牡鹿半島に至る三陸海岸一帯を占める国立公園だそうです。最初は、昭和30年(1955年)日に陸中海岸国立公園として指定されていたところ、平成23年(2011年)に発生した東日本大震災による津波で指定区域が大きな被害を受けたことを受け、震災からの復興および被害の伝承を目的として、平成25年(2013年)に、青森県の種差海岸階上岳県立公園及び八戸市鮫町の2地区を編入の上、現在の名称に改められたそうです。今回はこの鮫駅から出発して、新しく編入された八戸市鮫町と種差海岸。そしてNHKの連続テレビ小説「あまちゃん」で有名な岩手県久慈市の小袖海岸をドライブする計画です。(八戸市鮫から種差海岸ドライブコース)【つづく】人気ブログランキングみちのくドライブ(その3) 八戸市鮫駅
May 21, 2026
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ゴールデンウィークのドライブ旅行のレポートです。こちらは岩手山サービスエリアから見える奥羽山脈の山々。まだ残雪があり、みちのくの春はまだ浅いという感じがしました。岩手山サービスエリア(下り)にあったのは、石川啄木(→→→こちら)の歌碑がありました。故郷の山に向ひていふ事なし故郷の山は有がたきかな 啄木石碑の文字にしては弱々しい感じがするのは、啄木自筆の歌稿ノートより採録したからでしょうか。岩手県渋民村(現在の盛岡市渋民)で育った啄木にとっては「ふるさとの山」というのは、やはりこの山。残雪の岩手山になるのでしょうか。【つづく】人気ブログランキングみちのくドライブ(その2) 岩手山サービスエリア
May 20, 2026
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今年のゴールデン・ウィークは三陸海岸の方へドライブ旅行をしてきました。その時のレポートです。ゴールデンウィークやお盆の期間などにドライブすると困るのがトイレ。サービスエリアなどは駐車場も広いせいか、車も沢山停まっているので、トイレに、特に女性用には長い行列ができているので、困ることが多いのですが、MoMo太郎の経験では、パーキング・エリアのトイレは比較的空いているので、休憩にはよくパーキングエリアを利用しています。で、宮城県にある金成パーキングエリア(→→→こちら)で休憩しました。遥かに見える栗駒山には、4月30日でも残雪が見えました。今は合併して宮城県栗原市となっていますが、かっては金成町でした。金成という地名から砂金の採れる場所であったようです(→→→こちら)。そんな金成パーキングエリアにあった金の商人、金売吉次(→→→こちら)の案内板です。この案内板には以下のように記されていました。奥州藤原三代の栄華を担った金売吉次ここ金成パーキングエリア一帯は遠い遠い昔、砂金の里として栄えたところです。天平の世、奈良東大寺大仏造営にこれら黄金が献上され、盛大に開眼供養が行われた。万葉歌人大伴家持はその喜びを「みちのく山に黄金花咲く」と歌にしたためている。その天平の黄金は後にみちのく平泉藤原文化の象徴となったが、この黄金をもって藤原文化を支え寄与したのが金売吉次である。また金売吉次は遮那王(義経の幼名)が十六歳のとき平泉藤原秀衡の元へ連れてきた人物で、義経の東下りとして世に知られている。金売吉次は奥州金成に住む炭焼藤太 於幸弥(おこや)の子で、現存する東館は吉次の屋敷跡と伝えられ両親の墓はそこから北方向1キロ先(国道4号沿い)丘陵の木立にあり、訪れる人も多く、往時を偲ばせる。【つづく】人気ブログランキングみちのくドライブ(その1) 金成(かんなり)パーキングエリア
May 19, 2026
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久しぶりに大戸屋さんでランチを頂きました。もろみチキン炭火焼き定食(990円税込み)です。ご飯は、なんとなく健康に良さそうということで、五穀米にしています。それにしても、千円札で支払って10円お釣りがあるって、なんとなく嬉しいです。人気ブログランキング孤独のグルメ 大戸屋の定食
May 18, 2026
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あの田代まさしさんが出演しているこちらのCM、ちょっと怖いかな。でも、このヒロポン酢(→→→こちら)。いたって真面目な商品のようです。それに「仁義なき戦い」とか「極道の妻たち」というヤクザ映画を観ていないZ世代にはヒロポンとか抵抗ないかもね。人気ブログランキングおすすめのポン酢
May 17, 2026
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大山街道の古道を赤坂見附の方向に向かって歩くと、このビルの中に、「赤ちゃんのあたまのかたちクリニック」という医院がありました。確かに、生まれたばかりの赤ちゃんの頭蓋骨は柔らかいので、変に寝ていると形が悪くなりそうなので、こういう専門的な病院も必要かもしれませんね。でも、おじいちゃんの望みとしては、「赤ちゃんのあたまの中身が良くなるクリニック」が欲しいです。このクリニックからは青山通りに向かって下っていく坂道がありました。この坂道は「牛鳴坂(うしなきざか)」と呼ばれているようです。その由来は、「赤坂から青山に抜ける厚木道で、路面が悪く車を引く牛が苦しんだため名づけられた。さいかち坂ともいう。」ということです。今では、傾斜は比較的緩やかで、さほど長くもありませんでしかが、その昔は牛も音を上げるほどの急坂だったのかも知れませんね。この牛鳴坂の始まる坂の上の交差点の近くにあるのが、国際医療福祉大学です。その敷地の一角に小さな公園になったような公開空地には「赤坂小学校」と刻まれた石碑が建立されていました。ここにあった赤坂小学校は、平成3年(1991年)に檜町小学校を統合され、檜町小学校の校地に移転されたさうです。石碑には、赤坂小学校の校歌と茜陵学校(せんりょうがっこう)・赤坂小学校跡地と題された赤坂小学校とその前身の茜陵学校の歴史が紹介された碑文が刻まれていました。【了】人気ブログランキングついでに赤坂を散策(その6)-赤坂小学校記念碑-
May 16, 2026
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大山街道の古道に沿って瀟洒な建物が建てられていました。こちらが入り口なんでしょうか。こちらは山脇学園(→→→こちら)です。1903年(明治36年)から続く、中高一貫教育を提供する私立女子中学校・高等学校です。そして高等学校において、生徒を募集しない完全中高一貫校になっています。途中、ここに通学している女子中高生に出会いましたが、入学にあたっては学力だけでなく、容姿の試験もあるのではないかと思えるような方ばかりでした。ちなみに卒業生を調べてみたら、朝丘雪路、多岐川裕美、鳥居かほり、水沢アキさんなどがおられるそうです。きっと容姿の試験ありますね。この山脇学園に隣接してあった、重厚な武家屋敷の門がありました。柵に囲まれて、一般には公開されていないようです。山脇学園の志の門(→→→こちら)というそうですが、国指定重要文化財(→→→こちら)の武家屋敷門です。元々は丸の内にあった旧岡崎藩主本多家(当時は老中本多忠民)の江戸上屋敷の表門として建てられたもので、前代の門が幕末の1862年に焼失した後に再建されたとされています。千葉県九十九里町に移築されていたが、2016年に東京の現在地に再移築されました。元は58間(約120m)もの長屋門だったが、切り縮められて中心部分(門と左右番所)のみ残っているようです。柵の外側に門の説明がありました。重要文化財 武家屋敷門桁行21.8m、梁間4.7m、二階建、切妻造、片流面出番所附属、本瓦葺この武家屋敷門は江戸城東廓八重洲大名小路(千代田区丸の内東京中央郵便局付近)にあった幕府老中屋敷もの表門で、文久2年(1862)の火災後、当時の老中であった本多美濃守忠民(三河国岡崎藩)によって再建されたとみられる。当時は桁行58間(実長約120m)にも及ぶ長大な長屋門であったが、左右が切り縮めされて、門と左右番所のみが移築されている。数少ない江戸城下の大名屋敷遺構のなかでも、5万石以上の諸侯または老中職に許された長屋門形式をもつ唯一の遺構である。【つづく】人気ブログランキングついでに赤坂を散策(その5)-山脇学園と志の門-
May 15, 2026
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三分坂に続いて青山通りに向かうと「薬研坂(やげんざか)」という緩やかにカーブした坂道がありました。薬研坂の名称の由来は、この標柱の説明によると、「中央がくぼみ両側の高い形が薬を砕く薬研(→→→こちら)に似ているために名づけられた。付近住民の名で何左衛門坂とも呼んだ。」とありました。しかし、舟形の溝を彫った薬研がこうやってカーブしていると、軸の付いた車輪状の「薬研車」も使いにくいでしょうね。薬研坂の先は青山通りに繋がっています。青山通りと薬研坂の交わるあたりから、港区赤坂区民センターの裏手に回る道があります。ここが大山街道の古道になるそうです。この大山街道の古道の途中から青山通りにつながった坂道がありました。この坂道にも弾正坂(だんじょうざか)という名称がありました。名称の由来は、「西側に吉井藩松平氏の屋敷があり、代々弾正大弼(だいひつ)に任ぜられることが多かったため名づけられた。」ということのようです。ちなみに、弾正坂は、ここから青山通りを斜めに交差して、赤坂御用地と豊川稲荷別院の間を抜けて、外堀通りにある紀伊国坂に向かって登っていく坂道です。【つづく】人気ブログランキングついでに赤坂を散策(その4)-薬研坂と弾正坂-
May 14, 2026
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TBS放送センターの裏手に報土寺(ほうどうじ)というお寺がありました。ここにも急な坂道が。三分坂(さんぷんざか)と呼ばれる坂道です。名称の由来は「江戸時代、急坂のため通る車力賃を銀3分(さんぷん:百円余)増したためという。坂下の渡し賃1分に対していったとの説もある。さんぶでは四分の三両になるので誤り。」ということでした。でもこの坂を上りきるには、3分間だけでは足りないかも。「港区の文化財 報土寺 築地塀(練塀)」という標柱もありました。この標柱の解説では、報土寺の練塀は、坂の多い港区の中でも特に急坂として知られる「三分坂」に沿っ造られており、塀が弓なりになっている珍しいものです。練塀は区内では残されているものが少なく、江戸の寺院の姿を今に伝える貴重な建造物といえます。 平成十年九月一日 東京都港区文化財総合目録登録 東京都港区教育委員会と記されていました。「雷電為右衛門の墓」という説明板もありました。雷電為右衛門(→→→こちら)といえば、現役生活21年、江戸本場所在籍35場所(大関在位27場所)で、通算黒星が10個、勝率.962の大相撲史上未曾有の最強力士だったそうですね。また、「東京都指定旧跡 井部香山墓」というのもあるそうです。井部香山(いべ こうざん)とは、江戸時代後期の儒学者(朱子学)だった人で、門弟には岸和田藩主岡部氏、飯山藩主本多氏などがいたそうです。天保14年(1843年)には、老中水野忠邦 に招かれ浜松藩の客儒となったそうです。こちらが、雷電為右衛門の墓だそうです。そして、こちらが井部香山の墓だそうです。【つづく】人気ブログランキングついでに赤坂を散策(その3)-報土寺築地塀-
May 13, 2026
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氷川坂を北に向かって歩いて行くと、この坂道と交わります。転坂(ころびざか)という坂道です。名称の由来は標柱の説明柿によると、「江戸時代から道が悪く、通行する人たちがよくころんだために呼びました。一時盛徳寺横の元氷川坂もころび坂といいました。」とありました。赤坂という街、町名に「坂」がつくだけあって坂道が多いですね。この転坂と氷川坂の交差点角にある古びた建物、一見して古い団地っぽい建物です。門扉には、「居住者以外立入禁止 関東財務局」と掲示されていました。国家公務員の方が住む公務員宿舎なんでしょうけど、場所が赤坂とはいえ、こんな古い建物に住む公務員がいるんでしょうかね。それとも、今は誰も住んでいないので、民間に払い下げて高級マンションが建つのか、それとも、どうしても霞が関や永田町あたりに急いで駆け付ける必要がある国家公務員が住むために建て替えてくれるんでしょうか。【つづく】人気ブログランキングついでに赤坂を散策(その2)-関東財務局所有建物-
May 12, 2026
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普段、あまり行くこともない赤坂にやって来たので、ついでに少し赤坂の町を歩いてみました。こちらが東京十社(→→→こちら)のひとつ赤坂氷川神社(→→→こちら)です。南側にある一の鳥居です。社号碑はなかなか大きくて、歴史を感じました。こちらが境内の案内図。大都会の中にありながら、緑の濃い広い境内を持っています。三の鳥居と、その奥にある中門です。中門の中にある御社殿です。この社殿は享保15年(1730年)に徳川八代将軍吉宗公の命より建立されました。数多くの戦災・震災を免れ、建立当時の姿を現代に残しているそうです。こちらは東側の参道にある一の鳥居です。こちらは東側の参道の入り口になります。こちらが氷川神社の元々の参道だったのではなかと思っています。神社の東側にあるこの坂道が、氷川坂と呼ばれる坂道です。標柱には、「八代将軍徳川吉宗の命で建てられた氷川神社のもと正面に当る坂である 平成十六年九月 港区」と記されていました。【つづく】人気ブログランキングついでに赤坂を散策(その1)-赤坂氷川神社-
May 11, 2026
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本氷川坂(もとひかわざか)と呼ばれる坂道があります。標柱の説明によれば、坂途中の東側に本氷川明神があって坂の名になった。社は明治十六年四月氷川神社に合祀された。元氷川坂とも書いた。とありました。この坂道を下ったところにあるマンションの敷地に、勝海舟邸跡と記された標柱がありました。標柱には「勝海舟邸跡ソフトタウン赤坂管理自治会」と記されていました。その下に、説明板がありました。勝海舟邸跡の記港区赤坂6丁目10番39号の「ソフトタウン赤坂」が建つこの地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟 が安政6年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ旧跡である。海舟は終生赤坂の地を愛し、三カ所に住んだが、当初居住中の10年間が最も華々しく活躍した時期に当たる。海舟は号で、名は義邦。通称麟太郎、安房守であったから安房と称し、後に安芳と改めた。夫人は民子。海舟は文政6年(1823)、本所亀沢町の旗本屋敷(現墨田区両国4丁目の両国公園の地)で、貧しい御家人の子として出生。長じて赤坂溜池の筑前黒田藩邸(のちの福吉町、現赤坂2丁目の赤坂ツインタワービルや衆議院赤坂議員宿舎などの地)に通って蘭学を学び、その縁から新婚23歳で赤坂田町中通り(現赤坂3丁目13番2号のみすじ通り)の借家で所帯を持った。36歳からは赤坂本氷川坂下(もとひかわざかした、のちの氷川町)のこの地に住んだ。明治元年45歳で、引退の徳川慶喜に従って、ここから静岡市に移ったが、明治5年(1872)再び上京し、満76歳で亡くなるまで赤坂区氷川町4番地(現赤坂6丁目6番14号)に住み、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら氷川清話などを遺した。この時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5年(1993)春まで区立氷川小学校敷地として使われた。当所に住み始めた翌年の安政7年(1860)、幕府海軍の軍艦頭取(咸臨丸 艦長)として、上司の軍艦奉行木村攝津守、その従僕福沢諭吉 らを乗せ、正使の外国奉行新見豊前守を乗せた米艦ポーハタン号に先行して渡航、日本の艦船として初めて太平洋横断・往復に成功した。文久2年(1862)11月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬 らに、世界情勢を説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの場所である。明治元年3月には、幕府陸軍総裁として、官軍の江戸城総攻撃を前に征討総督府参謀西郷隆盛 と談判を重ね、無血開城を決めて江戸の町を戦火から救った。第1回会談は高輪の薩摩藩邸(品川駅前の、のちの高輪南町、現港区高輪3丁目のホテルパシフィックの地)で行われた。第2回については芝田町薩摩藩邸(のち三田四国町、現港区芝5丁目芝税務署辺りの地)または、三田海岸の薩摩藩蔵屋敷(くらやしき=倉庫)の表側にある民家(現港区芝5丁目の三菱自動車ビル周辺)で行われたとの両説がある。いずれも当所居住中のことである。明治維新では、明治元年5月、海舟の留守中に一部の官軍兵士がここの勝邸に乱入したが、海舟の妹で佐久間象山未亡人の瑞枝(旧名・順)が家人を励まして一歩も引かずに応対し、危急を救った。海舟は終生赤坂の地を愛したが、郊外の風光にも惹かれ、初めは葛飾区東四ツ木1丁目に、次いで洗足池畔の大田区南千束1丁目現大田区立大森第六中学校の地に別邸を設けた。墓は洗足池に面して作られ、自ら建てた西郷隆盛を偲ぶ碑と共に大田区文化財に指定されている。平成7年11月吉日ソフトタウン赤坂管理自治会撰文 伊波 新之助協賛 勝海舟顕彰会協力 港区郷土資料館人気ブログランキング勝海舟邸跡-本氷川坂近く-
May 10, 2026
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六本木通りと外堀通りが交わる溜池交差点です。頭上を首都高速道路が通り 広い道路と複雑な構造のため、地図が頭に入っていないと方向を見失いそうな交差点です。この交差点の安全地帯の中に「溜池発祥の碑」という石碑が建立されています。碑文によると、このあたり江戸時代にはかなりの観光地だったみたいですね。溜池発祥の碑溜池は江戸時代のはじめ, 江戸城の防備をかねた 外堀兼用の上水源として作られ 水道の発祥地ともなり, 徳川秀忠時代には 鯉, 鮒を放し 蓮を植えて 上野の不忍池に匹敵する 江戸の名所となった。徳川家光は遊泳したとも伝えられ, 江戸後期には 日枝神社より赤坂四丁目に通じる 料金を取った銭取橋が架設され 「麦とろ家」数軒と出店で, にぎわったと云われる。明治八年より 埋め立てに着手し 四十四年に完成したが, 明治二十一年十二月には 赤坂溜池町が創立され, 明治四十二年に市電が開通し, 大正十年五月に 正式な町会として 溜池町会が発足し, 溜池角の小松ビルは 元は演伎座と云う芝居館として人気を煽り 東京オリンピック以後は ビル街として発展し, 町会名も「赤坂溜池町会」と改称し 今日に到り, 地下鉄新駅「溜池山王駅」の開通を記念し建立とした。(赤坂溜池町・文責)平成九年八月吉日 東京都 港区この溜池交差点から、赤坂の町の中にある「港区立赤坂子ども中高生プラザ」の近くに行くと、立派な二体の武士の銅像がありました。「勝海舟・坂本龍馬の師弟像」という銅像です。勝海舟が威臨丸での渡米、帰国後、幕府軍艦奉行就任のとき、坂本龍馬が勝海舟を斬ろうと面会を申し入れたころ、逆に感化され勝海舟の門人となったということに由来している銅像なんですね。さて、墨田区で生まれ育った勝海舟ですが、その後港区赤坂に住みました。やっぱり、人間、金回りがよくなると、港区に住みたくなるのは、昔も今も同じということですかね。さて、勝海舟は赤坂で3度住居を変えており、3度目の最後の住居なった場所ということで、ここに銅像が建立されたそうです。銅像についての説明板がありました。長いですが引用します。「明日に向かって」 この地は、勝海舟が明治5年(1872年)から同32年(1899年)に77歳で亡くなるまで27年間住んだ屋敷のあった場所です。 海舟は、明治維新後 旧幕臣の代表格として維新政府の要職に在り協力していました。坂本龍馬との係りは海舟が幕府の要職に付いていた頃(海舟37歳~46歳)で、龍馬(26歳~31歳)は海舟を師と仰いで慕い緊密な交流があったようです。 この交流の始まりは、海舟が威臨丸での渡米、帰国後、幕府軍艦奉行就任の文久2年(1862年)海舟39歳のとき、龍馬が海舟を斬ろうと面会を申し入れ逆に感化され、 海舟の門人となり身辺警護をかってでたことからと言われております。当時、日本国の未来を見据え大意を進めるに当って海舟と龍馬とは相反する体制下にありながら、改革を行うことが出来たのは海と繋がっている広い世界を観る目、日本国を取り巻く世界情勢の中で日本のゆくえについて日本人が一体となって事に当らなければならないことを教えたと伝えられています。 また、海舟は軍艦奉行に就いていた文久4年(1864年)2月英・仏・米・蘭4ヶ国艦隊の下関砲撃の中止交渉を幕府から命じられ、神戸から九州の豊後街道を通り長崎まで旅をしています。この旅に海舟は自らが主催する「神戸海軍塾」の塾生だった龍馬らを同行させています。重責を担って旅する海舟にとって龍馬に日本国の行く末を教える機会の旅であり、当時の欧米の植民地政策の過の中にあるこの国の現状をつぶさに語り合い、後の薩長同盟、大政奉還、江戸無血開城へと繋げていったと考えられます。 海舟、龍馬の生きた19世紀末と21世紀の今をとりまく時代状況は比較にならないくらい違ってきていますが、彼らの明日を切り開いて行く強い志とエネルギーを、 宇宙船地球丸に乗っているこれからの時代を担う世代に伝えてゆくシンボルとしての銅像でありたいと願っております。 銅像の細部を見て頂くと、海も龍馬も視線は、明日に向かって海のかなたに広がる世界を向いています。また、海舟の刀の鍔(つば)に下緒(刀のさやを帯に巻くための紐) を絡めて刀をぬけないようにしています。 剣術の達人でありながら、当時の風潮を憂い何事にも対処するに当って刀を絶対に抜かないとの心がまえを表しています。勝海舟坂本龍馬の師弟像を建てる会この銅像の建立にあたっては、「勝海舟・坂本龍馬の師弟像を建てる会」の呼びかけに赤坂をはじめとする全国のみなさまからのご支援ご協力を頂き、彫刻家山崎和國氏に製作をお願いし平成28年(2016年)9月完成建立し港区に寄贈しました。また、この銅像の建立にあたって寄付された方の名前が刻まれた石碑もありました。人気ブログランキング勝海舟・坂本龍馬の師弟像-港区立赤坂子ども中高生プラザ付近-
May 9, 2026
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墨田区緑四丁目の「すみだふれあいセンター」です。この建物の前にある案内板が「勝海舟居住の地―旗本岡野氏屋敷跡―」という案内板です。勝海舟居住の地ー旗本岡野氏屋敷跡ー 所在地 墨田区緑四丁目三十五番六号 勝海舟(麟太郎)は、文政六年(一八二三)に両国にあった父惟寅の実家、男谷氏の屋敷(現区立両国公園)で生誕しました。その後、父母とともに本所の旗本屋敷を転々としましたが、天保二年(一八三一)頃ここにあった岡野氏の屋敷に落ち着き、十代後半までの多感な時期を過ごしたといわれています。麟太郎は後に幕臣として出世を果たし、激動の時代に活躍の場を広げてゆきます。 麟太郎が世話になった岡野氏は、後北条氏の旧臣板部岡江雪を祖とする旗本で、文政九年十二月の屋敷替を経て、同十年三月ごろ当地に移住していました。家の経営費を捻出するための屋敷替であったようで、旧知行所に伝わる資料によれば、旧居を担保に数百両の金を用立て、代わりに旧居の半分ほどしかない屋敷に移住していたようです。幕府創業期より続く由緒ある武家とはいえ、岡野氏の家系は大変逼迫していたのです。このため、幕末維新の時代ともなれば家来を召し抱えるのも容易でなく、一人分の給与さえ払えぬ事態に陥ります。 正月に餅をつく金さえなかったという貧しい下級旗本の家に生まれた麟太郎は、こうした武家凋落の厳しい時代に成長し、大志を抱いて力強く立身していったのです。 平成二十五年一月 墨田区教育委員会とありました。この近くの本所割下水の屋敷に住んでいた1200石の直参旗本、旗本退屈男(→→→こちら)の早乙女主水之介が、「禄は低けれど直参旗本」、「天下御免の向う傷!」の決め台詞で悪人を退治していたのは、徳川綱吉が将軍の頃の話なんでしょうね。直参旗本といえども、幕末になると、生活は苦しかったんですね。人気ブログランキング勝海舟居住の地-旗本岡野氏屋敷跡-
May 8, 2026
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墨田区両国四丁目25番3号にある墨田区立両国公園です。この公園は、関東大震災復興小公園(→→→こちら)として整備されたものだそうです。関東大震災では、火災が鎮火した要因の一つに公園緑地や広場が焼け止まりとして機能したことがわかり、国は、隅田公園、錦糸公園、浜町公園、これら3か所の大公園を整備しました。また、東京市ではこれに倣い、震災の焼失区域において、震災復興公園として52か所の小公園を整備しました。両国公園はその小公園のひとつだそうです。そして、この公園は勝海舟生誕の地でもあります。こちらの公園には勝海舟幕末絵巻として勝海舟が幕末において果たした役割を開設したパネルが設置されています。これを順番に読んでいくと、勝海舟が歴史上で果たした役割を学ぶことができます。勝海舟は咸臨丸に乗りアメリカへ行ったのですね。また坂本龍馬へも影響を与えたようですね。神戸で海軍操練所をつくるなど、幕府海軍の強化に努めていたのですね。そして、戊辰戦争の際は西郷隆盛と話し合い、江戸城を開城し江戸の町を市街戦での被害から守りました。なかなかのタフネゴシェーターぶり。今ならトランプ大統領にスカウトされていたかもしれませんね。バネルの前には石碑と椅子がありました。勝海舟生誕之地と刻まれた石碑です。勝海舟の生涯を紹介した由来碑もありました。こちら椅子は、勝海舟が座って写真を撮った椅子で、ここに座って勝海舟になった気分を味わえるようです。人気ブログランキング勝海舟生誕の地-両国公園-
May 7, 2026
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墨田区役所にやって来ました。近くにある東京スカイツリーよりも高く見える墨田区役所の建物です。デジカメにある機能の魚眼レンズ風で撮影してみました。アサヒビール本社が近くあるせいか、建物がビールの飲みすぎでビール腹なってしまいました。この区役所前の広場あるのが、この銅像です。墨田区にゆかりの勝海舟(→→→こちら)の銅像です。日展作家木内禮智の制作した銅像で、像高2.5m、台座も入れると5.5mにもなるそうです。銅像の台座には勝安芳(やすよし)と記されています。勝海舟として知られていますが、幕末に武家官位である「安房守(あわのかみ)」を名乗ったことから勝 安房と知られていましたが、明治維新後は安芳と改名したことによるものでしょう。台座には「建立の記」がありました。一応、どのような文面かというと、建立の記勝海舟(麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823年)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899年)1月19日(発喪は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的起動を敷設した英雄であります。この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。海舟生誕180年平成15年(2003年)7月21日(海の日)墨田区長 山崎 昇この勝海舟は右手を前に突き出したポーズをしています。新しい日本を思い描き、目指すべき方向を示しているということでしょうか。また、銅像の横には勝海舟の略年表がありました。人気ブログランキング勝安芳(海舟)像-墨田区役所前-
May 6, 2026
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東関東道の下り線にある酒々井(しすい)パーキングエリアです。井戸の模型がありました。井戸の横に設置されていたこの説明板によると、「酒の井」伝説昔むかし、印旛沼の近くの村に年老いた父親と孝行息子が住んでおった。父親はたいそう酒好きでな、親思いの息子は毎日一生懸命働いて父親に酒を買っていたんじゃ。ところがある日、どうしても酒を買う金がつくれずに、とぼとぼと歩いて家に帰ろうとしていた。その時、道端の井戸から何とも良い香りが「ぷうん」としてきた。井戸の水をくんでなめてみると、それは本物の酒だったんじゃ。さっそく帰って父親に飲ませると、「こりゃうまい酒だ。ありがたい、ありがたい」とたいそう喜んだ。息子はそれから毎日、毎日井戸から酒をくんで飲ませたんじゃ。ところがこの酒は、親子以外の人が飲むと、ただの水になってしまうんじゃな。「きっと、孝行息子の真心が天に通じたに違いない」とみんながほめたたえた。この酒の話しが広まり、村もいつか「酒々井」と呼ばれるようになったということじゃ。と書いてありました。親孝行、大切なんですね。パーキングエリアの芝生が植えてあるところにあった看板です。「自動運転が芝刈り中です!」と書いてありました。この機械が自動運転で芝を刈ってくれるんですね。実際動いているところを見てみたかったです。人気ブログランキング酒々井パーキングエリア(下り)
May 5, 2026
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首都高速のパーキングエリアって利用されたことがありますか?MoMo太郎、二十数年ぶりに首都高速パーキングエリアで、用を足したくなって利用しました。辰巳第二パーキングエリアは、湾岸高速を千葉方面から走ってきて、首都高速の木場方面へ抜ける辰巳ジャンクションにあります。パーキングエリアからは、豊洲にあるタワーマンション群が見えました。タワーマンション、最上階に住んでいると、どんな気持ちなんでしょうかね。マンションも高いけど年収もお高いんでしょうね。こちらのマンションの屋上にあるのは何なんでしょうか。宇宙からの電波をキャッチするアンテンナみたいですが、それとも貯水タンクの大きいものでしょうか。恐竜橋とも呼ばれる東京ゲートブリッジ(→→→こちら)も見えました。確かに恐竜みたいですね。人気ブログランキング首都高速のパーキングエリア
May 4, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。JR四ツ谷駅に近づいてくると大きなビルが見えてきます。これは「CO・MO・RE YOTSUYA(コモレ四谷)」(→→→こちら)という大規模複合施設だそうで、平成28年(2016年)9月に着工し、令和2年(2020年)1月に竣工、9月にまちびらきしたそうです。中には、商業施設、オフィス、クリニック、住居、教育施設、体育施設、そして文化国際交流拠点として国際交流基金と国際観光振興機構が入居しています。中にはコモレビの広場という広場があって、この建物の中だけでちょっとした町になっているように感じました。外堀通りの向こう側に四ツ谷駅が見えてきました。四ツ谷駅の四谷口にある石碑です。外堀桜植樹記念碑(→→→こちら)というもので、明治33年(1900,年)に相澤三郎兵衛ら8名が建立したものです。明治29年(1896年)より、建碑者らによって四ッ谷駅前から外堀沿いに桜を植樹したことを記念して建立されたそうです。四ツ谷駅から中央線に乗って帰りました。人気ブログランキング新宿彷徨(その96) CO・MO・RE YOTSUYA(コモレ四谷)
May 3, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。JR四ツ谷駅に向かって、三栄通りを歩いていきます。新宿通りに並行して、一直線で駅に向かった通りです。津の守通りから入って、次の交差点に新宿歴史博物館(→→→こちら)石碑がありました。新宿歴史博物館については、すでに新宿彷徨のシリーズで紹介してたので(→→→こちら)、今回は訪れませんでした。四谷三栄町にあるので、三栄通りというのですが、1943年(昭和18年)4月1日に 箪笥町・北伊賀町・新堀江町の3つの町が合併し「三つの町が栄えるように」という願いから三栄町という町名にしたそうです。通りに面したこのビルに、ちょっと気になる出版社がありました。天文・水産系の学術書を出版している恒星社厚生閣(→→→こちら)です。人気ブログランキング新宿彷徨(その95) 三栄通りを歩く
May 2, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。四谷の荒木町は「策の池」を底にしたすり鉢状の地形になっいるので、北の靖国通りに抜けていかないと、どうしても坂の上り下りがついてまわりますね。ということで、この坂を登ってJR四ツ谷駅に向かいます。この坂、というか階段。フランスのモンマルトルの丘に似た光景からとったこちら新宿荒木町のモンマルトルの坂(→→→こちら)と呼ばれているそうです。階段の途中で振り返ってみました。ビルばかりの街並みですね。坂はまだまだ続きます。モンマルトルの坂を登ると、津の守坂通り(→→→こちら)に出ました。人気ブログランキング新宿彷徨(その94) モンマルトルの坂
May 1, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。荒木町にある雑居ビル群に囲まれたお椀のようなスリ鉢地形の空間にやってきました。ここにあるのが津の守(つのかみ)弁財天です。ここにあるのが、「策の池(むちのいけ)」です。徳川家康が鷹狩りの際に井戸水で策(むち)を洗い、その澄んだ水が滝となりこの池に注いでいたので、策の池と呼ばれるようになったそうです。昔は大きな池だったのかもしれませんが、滝もなく、わずかな湧き水でこの池の痕跡をとどめているんでしょうね。この策の池についての説明板がありました。江戸時代の古書「紫の一本」によれば徳川家康がタカ狩りの時近くにあった井戸水で策を洗ったので策の井戸と呼び澄んだこの水が高さ4メートルに及ぶ滝となりこの池に注いでいたので策の池と呼ばれ「十二社の滝」「目黒不動の滝」「王子の名主の滝」等と並び江戸八井のひとつとして庶民に愛されていました天和3年(1683)美濃国高須藩々主松平摂津の守がこの付近を拝領し上屋敷としましたので庶民から遠のきましたが約190年後の明治5年(1872)時の政府による廃藩置県の発令でこの池が開放され明治7年(1874)荒木町として住民の町となりました 人々は藩主の名を慕い「津の守」と呼び今なお愛称されています 現在では湧き水は減って池も埋まりこの滝つぼ跡に昔の語り草をわずかに残しています古来池のほとりにあった弁天祠を昭和31年(1956)崇敬者によって現在地に遷座再建し「津之守弁財天」の御神明で町民の守り神としてお祭りし御加護を受けています 平成17年(2005)乙酉卯月 荒木町々会 解脱会池のほとりの岩の上にあるのが、津の守弁財天です。ここもかっては松平摂津守家の庭園内だったところで、津の守とは「摂津の守」からとった名称でなんでしょうね。人気ブログランキング新宿彷徨(その93) 津の守弁天と策の池
Apr 30, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。荒木公園からこの坂道を下ってみました。途中で見かけた、今は使われていない昔のコンクリート製の街灯。こんな木造の古いアパートもありました。よく残っているものだなと思いました。人気ブログランキング新宿彷徨(その92) 昭和レトロな荒木町
Apr 29, 2026
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いよいよ明日から待望のゴールデンウィーク。ということで4月最後の職場でのランチは、ちょっと贅沢に外に出て、松屋の牛めし(460円税込み)を頂きました。松屋って、この牛めしにしてもカレーライスにしても、何故か味噌汁がついてきます。また、「牛丼」と呼ばす「牛めし」というのかを、「ちょっとGPT」に聞いてみました。チャットGPTのお答えは、創業者のこだわりと差別化: 吉野家の牛丼と区別し、独自のブランドイメージを確立するため「牛めし」と名付けられました。でした。ところで、今年の9月20日~23日も連休となりますね。これで19日の土曜日も休めたなら、5連休です。こんなに休んでいいんでしょうか?人気ブログランキング孤独のグルメ 牛めし
Apr 28, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。金丸稲荷神社の横にあるのは、この荒木公園です。この公園にあった高い木と二つの案内板がありました。ひとつは「松平摂津守家上屋敷跡について」という案内板でした。江戸時代、荒木町一帯には、美濃国高須藩主(現在の岐阜県海津市付近を領地とした藩)松平摂津守(近くの津の守坂はこれに因む)の上屋敷がありました。屋敷内には滝を伴った大池があり、回遊式庭園となっていましたが、この池は徳川家康が鷹狩りの帰りに策を洗ったという伝承があり『策の池』と呼ばれます。池は、明治時代には一般に開放され、景勝地、花街として賑わいました。『策の池』は現在もその一部が残っており、『カッパ池』と『津の守弁財天』として親しまれています。なお、荒木町の『車力門通り』は、上屋敷の甲州街道口にあった『車力門』に因むものです。幕末期、藩主松平義建の子としてこの屋敷に生まれた兄弟のうち、二男義勝は尾張徳川家、五男茂徳(後の茂栄)は御三卿一橋家、七男容保は会津松平家、八男定敬は桑名松平家を継承しました。兄弟は幕府方と新政府方に分かれ、立場を異にしましたが、『高須四兄弟』と呼ばれ、激動の時代を生き抜きました。ちょっと幕末の歴史の勉強になりました。そして、こちらは「ナツメの木の由来について」という案内板です。案内板にはこう書かれていました。 この木は、1905年(明治三十八年)一月五日に、日露戦争で旅順攻略の任にあった乃木希典日本陸軍第三司令官と露西亜軍ステッセル軍司令官が旅順開城規約締結の会見を行った水師営(現在の大連市水師営鎮小南村)の民家にあったナツメの木の二世として、地元に古くから語り継がれている木である。 このナツメの木は、かつて市ヶ谷にあった大日本帝国軍の士官が、会見が行われた水師営の民家を訪れた際に、記念の証としてナツメの苗木を日本に持ち帰り、士官たちがよく通った荒木町の料亭の庭先に植えられた。その後、成長したこのナツメの木は、関東大震災の難にも逃れ、東京大空襲では痛手を被ったが、奇跡的に芽を噴出し蘇ったと伝えられている。平成十二年には、マンション建設のため、一時は、抜粋の危機にも見舞われたが、地元の熱意により、この木は、無事に荒木公園内に移植され、老木にも係わらず、毎年可憐な実を実らせ、来園者に親しまれている。 水師営のナツメの木は、『昨日の敵は、今日の友』で有名な小学唱歌『水師営の会見』の歌詞の一節に「庭に一本棗(ひともとなつめ)の木…」と謳われている。作詞をした歌人であり国文学者であった佐佐木信綱は、作詞にあたって、正確を期すため、乃木大将から当時の会見模様を面接伺った折に、会見場所の庭の木について尋ねたところ、「そう言えばナツメの木が一本あったのう」と答えられたと、後年著書で記している。 日露戦争をはじめ、荒木町の歴史遺産として、この名木の由来を、後世に語り次ぐ。ここ訪れたのは8月の夏の盛り、ナツメの実がなっていましたが、この実はビタミン豊富で食用や薬用になるそうですね。人気ブログランキング新宿彷徨(その91) 松平摂津守家上屋敷跡
Apr 27, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。車力門通りを更に進んでいくと、小さな神社がありました。神社の玉垣には、伊勢丹という有名百貨店の名称や四谷三業組合の名称が刻まれていました。三業とは料理屋・待合茶屋・置屋(芸者屋)のことで、ここ四谷荒木町(→→→こちら)って、むかしは花街という大人の遊び場だったんですね。こちらが社殿となります。「金丸稲荷神社」と刻まれた社号碑がありました。また金丸稲荷神社由来という石碑もありました。これによると、この神社は、美濃国高須藩主松平摂津守上屋敷の守護神として天和3年(1683年)に創建されたものだそうです。その後は和合繁栄財宝出世安全又火伏せの神として崇められており、度重なる江戸の大火を免れ、更には大正12年の関東大震災にもその災禍を免がれたりと伝えらているそうです。昭和20年5月24日の東京大空襲に際しては惜しくも全町が焦土となったものの町民には一人の死者もなかったそうです。関東大震災で浅草や向島という花街には被害があったけど、荒木町には被害がなかったということで、繁盛したんでしょうね。人気ブログランキング新宿彷徨(その90) 金丸稲荷神社
Apr 26, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。新宿通りから北に向かう路地がまたありました。こちらの通りの名称は、「車力門通り」。新宿区の建てた標柱によると、江戸時代、荒木町が松平摂津守の屋敷だった頃「車力門横丁」と呼ばれ、物資が屋敷へ荷車で持ち込まれていた。とありました。今では商店や飲食店が並ぶこの通りも、江戸時代には美濃国高須藩三万石藩主の松平摂津守の上屋敷があったのですね(→→→こちら)。この通りにも個性的な大人の隠れ家的な飲食店がありますね。と思ったら、結構近代的なビルもありました。金融財政事情研究会(→→→こちら)という団体のセミナーハウスだったんですね。この横丁は隣の杉大門通りにつながっています。このあたり、新宿のゴールデン街とは違った、知る人ぞ知ると言った感じの大人の遊び場なんでしょうね。人気ブログランキング新宿彷徨(その89) 車力門通り
Apr 25, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。杉大門通りの隣ある路地です。目立たない路地ですが、「柳新道通り」とちゃんとした名前がついています。かつてはここに柳の木が植えられていた新しく作られた道ということなんでしょうか。中に入っていくと、こちらも飲食店が立ち並ぶ、隠れ家的な路地ですね。またこの道から分かれていく秘密の通路みたいな路地がありました。この先は別の通りにつながっています。柳新道通りはここで行き止まり。右折して、杉大門通りに戻りました。人気ブログランキング新宿彷徨(その88) 柳新道通り
Apr 24, 2026
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今日、電車の中で夏の白い制服を着た女子高生を見ました。その話を家でしたら、男子も夏服になっていた?と家の者に聞かれて、男子高生はどうだったか覚えていないかったです。というよりも、老眼が進んで、女子高生は見えても、男子高生は見えなくなっているのかも知れません。心配です。眼医者さんに行ったほうがいいでしょうか。そんなMoMo太郎ですが、新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」を再開します。外苑東通りを渡って、舟板横丁と呼ばれた通りを歩いてみました。外苑東通りの1本裏道で、シティタワー四谷の裏の路地。新宿通りから入って北へ向かって全勝寺へ向かうのが舟板横丁です。こちらは外苑東通りから新宿通りの方を見た写真です。舟板横丁とよばれたのは、この地域で伐採された杉材を造船に使っていたためで、今はビルが建っているあたりが、江戸時代は杉並木だったのでしょうね。新宿通りに出ると、大角玉屋(おおすみたまや)四谷店がありました。大角玉屋(→→→こちら)といえば、新宿の曙橋に本店を構え、100年以上の歴史を持つ和菓子店ですが、昭和60年(1985年)に発売された「いちご大福」が看板商品で。「いちご大福」の元祖とされています。しかし、この「いちご大福」、MoMo太郎は苦手です。砂糖のしつこい甘味といちごのちょっと酸味のある爽やかな甘味が打ち消しあって、また柔らかい大福の食感といちごのしっかりした食感のマッチングも食べていて気持ちがいいものではないです。どうして、人気があるのか不思議です。そして、こちらの通りを歩きます。杉大門通りと呼ばれる通りです。江戸時代、この地の北にある全勝寺には大門があり、門に至る横丁には杉の並木があった。という解説のある新宿区の標柱がありました。杉大門通りにある商店街の案内図です。結構、沢山のお店がありますね。ちょっと、昭和を感じる飲食店が多く立ち並んでいます。ちょっと隠れ家的な大人の街です。400mくらい歩くと、外苑東通りに出ました。人気ブログランキング新宿彷徨(その87) 杉大門通り
Apr 23, 2026
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旧鍛冶町の鍛冶町通りと旧日光街道が交わる地点に塀を軽く超す塔身の石造物が置かれていました。これは日光街道を行き交う人々の目印になるよう建てられた道標で、旧日光街道古河宿道標(→→→こちら)として古河市の文化財に指定されていました。古河市指定文化財・有形民俗文化財日光街道古河宿道標昭和五十二年四月四日指定寛永十三年(一六三六)に徳川家康をまつる日光東照宮が完成し、江戸と日光を結ぶ日光街道が整備された。その途中にある古河宿は、日光社参の旅人などの往来でひときわ賑わうようになった。日光街道は、江戸から古河に至り、二丁目で突き当たり、左が日光道、右が筑波道と分岐するように作られた(絵図参照)。その分岐点に、人々の往来の助けにと建てられたのがこの道標である。この道標は文久元年(一八六一)に太田屋源六が願主となり、八百屋儀左衛門ほか一一名によって建てられたもので、常夜灯型式の道標として貴重なものである。文字は北山霞外・梧岡・遜堂という父・子・孫三人の書家の揮毫である。平成二十年一月 古河市教育委員会丁度、この交差点で日光街道がクランクのようになっていて、日光方面から見ると「 右 江戸衜」。江戸方面から見ると「左 日光道」と道標に刻まれています。この道が、江戸時代の日光街道になり、この道を辿っていくと江戸に行けるのですね。鍛治町通りを東に進むと、この蔵造りの建物が残っていました。鍛冶町の由来は江戸時代に野木町野渡から鍛冶職人が移転したといわれていますが、明治期以降は卸問屋の町として栄えてきました。そして、鍛冶町通りには、明治から大正期の店蔵・煉瓦蔵・座敷蔵などの伝統的な町屋が現存しています。この蔵は、街中再生プロジェクト事業として「みらい蔵」(→→→こちら)という名称の地産地食による食のコミュニティ施設として利用されています。、みらい蔵から、JRの古河駅に戻って来ました。古河の町、結構見どころがあって楽しいウォーキングが出来ました。(花桃の里古河を歩くコース)>【了】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その14) 旧日光街道古河宿道標と蔵の町
Apr 22, 2026
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古河の町の中に戻って来ました。この建物は、直木賞作家で数々の歴史小説で有名な永井路子氏の旧宅で、今は古河文学館の別館「永井路子旧宅」(→→→こちら)として公開されています。入館料は無料です。永井路子氏(→→→こちら)は元々は東京本郷の生まれでしたが、母が一人娘だったため、母の実家を継ぐ目的で、血縁的には大叔父に当たる永井八郎治の長女として入籍し、3歳で古河市に転居し、高校まで古河で過ごしました。その後、東京に出て出版社勤務を経て作家になったそうです。ここでは、永井路子氏が住んでいた当時に近い状態に復元した店蔵は、江戸時代末期の建造と言われており、古い商家のおもむきを残していました。また、永井路子氏の幼少期から青春時代の写真のほか、永井路子氏の経歴を紹介するパネルや作品などが展示されています。こちらの建物は古河街角美術館(→→→こちら)です。入館料は無料です。古河街角美術館は、古河市ゆかりの作家を中心とした優れた美術作品の鑑賞の場として、また、美術分野における市民創作活動の発表の場として、平成7年3月に開館しています。この歴史を感じさせる建物は、平成3年春に開館した日本で初めての篆刻(てんこく)専門の美術館です。入館料は大人200円ですが、文学館・歴史博物館・篆刻美術館共通の入館券では600円です。建物は、大正9年(1920年)に建てられた商家の石蔵を改修したもので、平成10年(1998年)、「篆刻美術館表蔵棟(旧平野家表蔵棟)」・「篆刻美術館裏蔵棟(旧平野家裏蔵棟)」として、国の登録有形文化財に登録されています。篆刻は印章から発展したもので、約500年前に中国で始まった。篆書と呼ばれる二千数百年前の古文字を、軟質の石片や木片に刻み、朱色の印泥をつけて紙に押印し、印影を観賞するもので。書と彫刻が結合した工芸美術といえるものです。そして、この美術館は、元々は古河の篆刻家・生井子華(いくい・しか)の作品を展示する施設としてされてきたそうですが、その他有名な。篆刻家の作品も展示されています。また、古河市内小中学校生や全国高校生の篆刻作品展示も行わているそうです。(花桃の里古河を歩くコース)>【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その13) 古河の町にある美術館
Apr 21, 2026
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こちらの神社も古河城北西端の観音寺曲輪土塁上に建てられています。頼政神社(→→→こちら)という名称です。祭神は源三位頼政(正一位頼政大明神)。治承4年(1180年)に高倉天皇の兄宮である以仁王と源頼政が、平家打倒のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した事件(以仁王の挙兵)において、源頼政が平氏に敗れて平等院鳳凰堂にて自害した後、従者が頼政の首を笈にいれて持ち帰ったところ、下総国葛飾郡古河の立崎(龍崎)で笈が急に岩のように重くなったため、この地に塚をもうけて祀ったとされています。最初に埋められた立崎(龍崎)は、古河城内南端にあたりで今の新三国橋のあるあたりでしが、明治時代末に渡良瀬川改修工事のため削り取られて川底になってしまうことから、現在の地に移されたそうです。(花桃の里古河を歩くコース)>【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その12) 頼政神社
Apr 20, 2026
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古河の市街地の中に残る古河城の遺構を見て回りました。こちらにあったのが「古河城獅子ヶ崎土塁」(→→→こちら)です。土塁とは、敵や動物などの侵入を防ぐために築かれた、主に盛土による堤防状の防壁のことです。古河城のように平地にある城では、盛られる土塁は堀と組み合わせて作られ、堀を穿って生じた土を盛土に利用して作られたのでしょう。手前の案内板には、古河城の歴史と、この古河城獅子ヶ崎土塁についての説明が書かれている案内板もありました。「獅子ケ崎」は、戦略的要地として古河城内でもひときわ重要視されていた場所だったようでこの土塁は重要な防御施設だったんでしょうね。こちらは古河城追手門跡です。城の大手(正面)にあたり、敵の正面に攻めかかる軍勢(追手)を配置することから、城の正門(表門)のことを大手門とか追手門と呼んでいたそうです。(花桃の里古河を歩くコース)>【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その11) 古河城の遺構
Apr 19, 2026
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利根川水系渡良瀬川古河水位観測所という看板がありました。この施設が河川の水位を測っているんですね。しかし堤防のここまで水位が上がったら、古河の町のどこに逃げればいいんでしょうか。この近くにあったのが三国橋(→→→こちら)。思川が合流するこの地点は古河の渡しと呼ばれた渡良瀬川の渡河点でした。最初に三国橋が架かったのは明治14年。現在より上流の渡良瀬川と思川の合流地点に舟橋が設けられたそうです。渋滞緩和のため、先日紹介した新三国橋が建設されましたが、今でも交通量の多い橋のようです。群馬県北東部から栃木県南西部にまたがる足尾山地が三国橋の上から眺められます。はるかに見えたのは、日光火山群に属する男体山ですね。名称はわからないですが、足尾山地の山々もよく見えました。こちらは群馬県を代表する赤城山ですね。(花桃の里古河を歩くコース)>【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その10) 古河の渡し
Apr 18, 2026
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新三国橋を過ぎて、しばらく歩くと、石碑と案内板がありました。古河城本丸跡(→→→こちら)です。明治6年(1873年)に政府の廃城令によって城の取り壊しが決定し、翌年に建造物が破壊され、明治43年(1910年)に渡良瀬川の大規模な改修工事が始まり大正14年には城跡もほぼ消滅しています。ということで古河城は渡良瀬川の中に跡地として残っているわけですね。この色褪せてきた案内板に古河城の歴史が書いてありました。古河城は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、下河辺行平が古河の立崎(竜崎)に築いた城館に始まったそうです。周囲は沼地や渡良瀬川による天然の堀で守られていました。この地域は北関東と南関東を結ぶ水上交通の要地であり、物流や軍事上の重要性が高かったことから、城の立地は戦略的に選ばれたのでしょう。室町時代と戦国時代になると、鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に座を移し、古河城を本拠としたことで、城としての整備が進んだそうです。そして江戸時代に入ると、譜代大名が城主として入れ替わり、城郭の近代的整備が進められました。城の規模は南北約1,800メートル、東西350~400メートルで、出城の諏訪曲輪も含め関東有数の城郭でした。また、将軍の日光参詣の途中の宿としても使われました。そして、明治時代初期の廃城令により古河城は廃城となり、渡良瀬川の改修工事により城跡の大半が消滅しました。そして、退色している写真に写るのが、古河城の姿です。曲亭馬琴作の「南総里見八犬伝」で八犬士の犬塚信乃と犬飼現八が対決した芳流閣もここにあったんですね。と思って調べてみたら、芳流閣は架空の建物だそうですね。(花桃の里古河を歩くコース)>【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その9) 古河城本丸跡
Apr 17, 2026
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古河公方公園から渡良瀬川沿いの堤防の道に向かいます。この建物は、市営古河クリーンセンター、いわゆるゴミ焼却場ですね。渡良瀬川の堤防の法面には、菜の花が咲いていました。河川敷の高水敷(こうすいじき)にはサッカー場が整備されていました。でもこの高水敷は大きな洪水の時には水に浸かってしまいます。そして渡良瀬川を渡る五連アーチ橋が見えます。この橋は、群馬県の高崎市と茨城県鉾田市の太平洋岸を結ぶ国道354号のバイパス道路の一部をなす、新三国橋(しんみくにはし)です。名称の三国とは、下総国(茨城県)、下野国(栃木県)、武蔵国(埼玉県)の三国を跨ぐことに由来します。この橋が完成したのは、平成12年(2000年)に完成しまた。この橋の建設で古河市内を通らずに、対岸の埼玉県加須市(旧北川辺町)へは渡ることができたのですが、その先の群馬県板倉町までは歩道も無い狭隘区間が続き、途中に東武日光線の踏切があるなど幹線とは言えない状況が続いました。ようやく、平成30年(2018年)に板倉北川辺バイパスが開通したことで、群馬県館林と茨城県古河がほぼ一直線に結ばれ、交通状況が改善されることになりました。道路が良くなるのには随分時間が掛かるものですね。新三国橋を超えると、河川の高水敷に野球場があり、さらに渡良瀬川の西側に山地が見えました。。マイクロ波の中継塔の向こうに広がる山は赤城山でしょう。また視線を北に向けて望遠で撮影しました。真ん中のひときわ高い山は、多分、日光の男体山ですね。(花桃の里古河を歩くコース)>【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その8) 新三国橋
Apr 16, 2026
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「古河桃まつり」が開催されている古河公方公園(→→→こちら)にやって来ました。25ヘクタールにもおよぶ広大な公園で、入口も何か所かあり、こちらは徳源院口になります。徳源院は、5代古河公方足利義氏の息女・氏女(うじひめ)の法号に由来するお寺ですが、今はその跡が残っていて、「古河公方足利義氏墓所」として県指定史跡となっています(→→→こちら)。そして、こちらが今の正門です。こちらが公園内にある御所沼。御所沼は、鎌倉公方足利成氏が1455年に鎌倉から古河に移り初代古河公方となり、現在の古河公方館跡に鴻巣御所を構え、以後、古河公方とその子孫たちが、175年間鴻巣御所を使用しましたが、その鴻巣御所の周囲に広がる沼を何時の頃からか御所沼と呼ぶようになったそうです。しかし、昭和20年代に干拓によって水田になり消滅しましたが、古河公方公園として整備されて1975年開園したのち、1992-96年にかけて復元されたそうです。このように桃林が広がっています。また、古河桃まつり期間中は古河市の観光PRのために選ばれた桃むすめの方と記念撮影ができます。御所沼を復元したときの残土を積み上げて作られた富士見塚から目洗弁天池の方を撮影しました。公園内はこのような池が複数作られています。目洗弁天池は、目をすすげば眼病が癒えると伝えられた虚空蔵堂下にある御手洗池のことで、この池に湧き出すきれいな湧水で眼をすすげば眼病が癒えたのかもしれませんね。こちらにある芝生広場では、露店も出店されていて飲食が楽しめました。また、このようなステージが設置されていて、まつり期間中は郷土芸能やマジックショーなど様々なイベントが開催されるそうです。桃まつりなので、桃の木も撮影してみました。古河が桃林で有名なったのは、江戸時代のはじめ、徳川幕府の要職にあった土井利勝が、古河藩16万石の藩主になったおり、領内で薪が不足していたことから、江戸で家臣の子供たちに桃の種を拾い集めさせ古河に送って農民に育てさせたのが始まりです。桃は成長が早く、枝は薪になったといわれ、また果実は食料にもなったことから栽培が盛んになったそうです。しかしながら、大正期に発生した炭本病により桃林は壊滅してしまいましたが、昭和50年(1975年)の古河公方公園(古河総合公園)にあたり、江戸時代を偲ばせる花桃(花を観賞する桃)を植えて桃林を復活させたそうです。花桃にも色々品種があるようで、こちらは八重に咲く矢口という品種です。古河公方公園内の9割はこの品種だそうです。花つきもよくて見映えがしますね。また、公園では四季折々の花が楽しめるようで、こちらはカキツバタ園になっていて、5月から6月にかけては、カキツバタや花ショウブが楽しめそうですね。(花桃の里古河を歩くコース)>【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その7) 古河桃まつり
Apr 15, 2026
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次の目的地は「古河桃まつり」が開催されている古河公方公園ですが、その途中に見かけた長谷観音(→→→こちら)にお参りしました。長谷観音は、鎌倉・大和の長谷寺とともに日本三大長谷観音のひとつとうたわれているお寺だそうで、山号を明観山、院号を観音院、寺号を長谷寺というそうです。戦国時代の明応2年(1493年)、初代古河公方の足利成氏が古河城の鬼門除けとして、鎌倉の長谷寺から十一面観世音菩薩立像を勧請し、堂舎を建立したことが起源になるそうです。ちなみに、日本三大長谷観音と呼ばれる理由は、大和、鎌倉、古河の長谷観世音菩薩は一本の楠によって彫れ、大和の長谷観音様は楠の元木、鎌倉の長谷観音様は中木、古河の長谷観音様は楠の末木によって彫れたと口伝されていることによるそうです。こちらがお寺の山門になるのでしょうね。こちらが本堂です。輪袈裟と白衣を身に着けた本格的な巡礼姿の方が参拝されていました。巡礼の時は、袖なしの笈摺(おいずる)を着るのかなと思っていましたが、こういう袖のある白衣(びゃくえ)を着ているのですね。そういえば四国八十八ヶ所のお遍路さんを巡っていた義理パパと義理ママは、白衣で笈摺に朱印を捺してもらっていました。ちなみにその笈摺は義理パパの御遺体に着せて見送らせていただきました。この中に、長谷観世音菩薩様が安置されているのですね。(花桃の里古河を歩くコース)>【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その6) 長谷寺
Apr 14, 2026
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鷹見泉石記念館の隣にあるのが、こちらの建物です。奥原晴湖画室「繍水草堂」(→→→こちら)です。奥原晴湖(→→→こちら)とは、明治の南画界を代表する古河生まれの女流画家で、蘭学者の鷹見泉石は伯父にあたるそうです。奥原晴湖は、慶応元年(1865年)に江戸へ出て、上野摩利支天横丁に「墨吐煙雲楼」と看板を掲げた新居を構えて活躍していましたが、明治24年(1891年)埼玉県北埼玉晩年に古河藩領があった上川上村(現・熊谷市)に居を構え、画室を「繍水草堂」「繍佛草堂」「寸馬豆人楼」などと称して作品を発表していました。大正2年(1913年)、77歳で奥原晴湖が亡くなると、晴湖の甥にあたる池田多喜雄氏によって、昭和4年(1929年)に晴湖生誕地の池田家の敷地内に移設され、平成20年(2008年)、奥原家から古河市に寄付申し入れがあり、古河市歴史博物館南側に移築されたそうです。昭和4年に古河へ移築されたのは、熊谷にあった画室の一部だったそうですが、こちらへの移築にあたっては、すべてではありませんが、熊谷にあった当初のかたちをなるべく再現しているそうです。この縁側も熊谷にあったものの復元なのでしょうか。こちらの建物が古河歴史博物館(→→→こちら)です。そして、この博物館は、渡良瀬川の河川改修工事によって跡形も無くなった古河城本丸にあって、その東側に存在した出城であったにあった古河城出城 諏訪曲輪跡に建てられています。ちなみに古河城の出城とは、出城と古河城本城を隔てる百間堀にかかる土橋の御成道(日光山へ社参する徳川将軍の通る道)を守る橋頭堡として作られたものです(→→→こちら)。博物館内部の撮影ができなかったので、紹介できませんてせしたが、原始古代から近現代の歴史観はもとより、その他、古河藩家老鷹見泉石が収集・記録した蘭学関係資料、奥原晴湖や河鍋暁斎らの書画作品の紹介など、深く古河のことを知ることができ、400円の入館料は値打ちがありました。また、古河歴史博物館、古河文学館そして篆刻美術館がセットになった3館共通券 600円を使えば更に値打ちがあります(MoMo太郎はこれを利用しました)。(花桃の里古河を歩くコース)>【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その5) 奥原晴湖画室「繍水草堂」と古河歴史博物館
Apr 13, 2026
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このあたりは、旧古河城出城址だそうで、堀や土塁がのこっています。向こうに見える建物は古河歴史博物館(→→→こちら)です。そして堀の周辺は古河藩の武家屋敷もあったところで、その武家屋敷が今も残っています。今は鷹見泉石記念館(→→→こちら)として公開されています。鷹見泉石(→→→こちら)は家老として、藩主土井利位(としつら)に仕えた古河藩士。利位が大阪城代であった折りに「大塩平八郎の乱」で鎮圧にあたるなど、大きな働きをしました。また、優れた蘭学者でもあり、数多くの研究資料の収集にあたった方です。その鷹見泉石が隠居後もっぱら蘭学にいそしみ最晩年を送った家と伝わっています。確かに、家老にふさわしい立派な屋敷で、平成2年に改修されて「鷹見泉石記念館」として公開されているのです。また、昨日紹介した子供向け絵雑誌「コドモノクニ」を創刊した鷹見久太郎の曽祖父にあたるのが、鷹見泉石です。邸内の庭には「史跡鷹見泉石邸址」として紹介した石碑が残っていました。屋敷の中には一般には入ることができませんが、外からはこのように見ることができます。掛け軸や五月人形なども飾られています。また、お茶席や映画・ドラマ・CM等の撮影にも活用されているそうです。庭に植えられていた樹木です。この木は、「楓樹(フウジュ)」と呼ばれる古木でカエデの木なのかと思われましたが、説明文を読むと、日本には自生しないもので、古代中国では宮中に植えられ、それから天子のいるところを楓宸と呼ぶようになった。日本には、徳川吉宗が輸入し、享保12年(1727年)閏正月17日に日光東照宮奥院や吹上御所に植えさせたという木だそえです。と紹介されていました。。 (花桃の里古河を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その4) 鷹見泉石記念館
Apr 12, 2026
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古河市肴町に入いると福法寺(→→→こちら)というお寺があります。このお寺は、浄土真宗のお寺で、親鸞聖人の弟子正順坊が武蔵国内に創建したのがはじまりで、その後下総国佐倉へ移され、さらに寛永8年(1631年)に現在地に移されたものだそうです。山門の脇にある案内板によると、現在の山門は旧古河城内の二の丸御殿の入り口にあったとされる門で乾門といわれ、明治6年(1873年)、城取り壊しのとき檀家の一人が払い下げを受け、翌年寺に寄進、移築したといわれています。この門の構造は、平唐門(ひらからもん)と呼ばれる型式だそうです。また、さらに歩いて行くと、蔵造りの店構えの建物がありました。「ぬた屋」(→→→こちら)という鮒甘露煮・鮎甘露煮のお店です。この地は、江戸時代に日光街道の宿場町として栄え、利根川や渡良瀬川が交わる水郷地帯でもありました。鮒が豊富に獲れる環境を背景に、地元では古くから焼き魚や煮付けなどの鮒料理が日常的に作られており、旅人へのもてなし料理や保存食として重宝されていました。そして、明治30年、この店の初代野村安次郎が川魚料理店を開業し(主に鮒のあらいを販売)、鮒の大きいのは「あらい」に小さいのは「甘露煮」として販売したそうです。古河地方では、あらいを俗に「ぬた」と呼ぶので、自然発生的に屋号が「ぬたや」となったのだとか。店の前には「ぬた屋と鮒甘露煮の由来」が書かれている看板がありました。そして、古河文学館(→→→こちら)という大正ロマンの香りが漂う洋館にやってきました。ここでは、歴史小説の第一人者である永井路子、推理作家の小林久三など、古河ゆかりの作家の作品を中心に数々の貴重な資料を展示されていました。訪れた時には、大正時代を代表する絵雑誌である「コドモノクニ」(→→→こちら)の創刊者である古河市出身の鷹見久太郎に関する企画展示もあり、なかなかの充実した文学館なのですが、撮影できるのはこの大きな蓄音器とピアノのあるサロンだけでした。ちなみに「コドモノクニ」には、のちに風景画の大家となった東山魁夷が、若き時代に多くの挿絵を寄稿していたり、「あめふり」「兎のダンス」など今も歌い継がれる名作童謡もこの雑誌から始まっています。文学館の前にあった歌碑です。「今もかも巴波の川は岸高み 青葉にこもり水や流るゝ」と刻まれていました。「巴波の川」とは巴波川(うずまがわ)という古河市に近い渡良瀬川の支流の河川で、波が巴の模様のように渦を巻き、波を立てて流れる川ということが由来です。この作者の若杉鳥子(→→→こちら)は、大正から昭和にかけて活躍した古河出身のプロレタリア作家だそうで、古河の豪商と神田の貸席の女中との間に生まれ、すぐ古河の置屋、若杉はなの養女となり、古河高等小学校を卒業して上京し作家になったそうですが、治安維持法違反として検挙・投獄され、そして昭和12年(1937年)、46歳で死去したそうです。(花桃の里古河を歩くコース)>【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その3) 古河文学館
Apr 11, 2026
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駅前通りを西に歩いて行くと、旧日光街道に突き当たりました。その旧日光街道にあったファミリーレストラン風の建物の前に石碑がありました。古河本陣址の石碑です。江戸時代、諸大名が参勤交代や日光参詣等の途中、古河に泊まる時に宿とした建物があったのですね。かっての古河の城下町の中心と思われる中央町のあたりにやってくると、蔵造りの建物が見えてきました。これは、古河のお休み処「坂長」(→→→こちら)です。かつて江戸時代より両替商を経営、その後酒問屋として栄えた店ですが、今は市民の憩いの場、来街者の回遊拠点となる施設となっています。敷地の中に入ると、何棟かの蔵が並んでいました。こちらの文庫蔵は展示室となっていたので、訪れてみました。入場は無料です。こちらが入り口です。いにしえの許我、現在の古河と書かれた幕が吊られていました。土足厳禁というので、靴を脱がないといけないのは、ちょっと面倒くさいですね。中に入るとかってあった古河城の写真と、この坂長の店主の写真がありました。そして千年杉の切り株が置いてありました。二階にも展示があるので登って行きました。二階には、かって酒屋だったことを示す看板やなら漬けを販売していた頃の看板が飾られていました。それほど、気になる展示もなかったので、次の観光スポットに向かいました。(花桃の里古河を歩くコース)【つづく】人気ブログランキングへ花桃の里古河を歩く(その2) お休み処 坂長
Apr 10, 2026
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3月19日に茨城県古河市にやってきました。古河では3月14日~29日に「古河桃まつり」が開催されていて、それを見にやって来たのです。ちなみにMoMo太郎日記では2022年3月23日~24日にかけて古河桃まつりへ来た報告をしています(→→→こちら)。ただ、この時は丁度コロナ禍の時で、桃まつり会場の古河公方公園しか訪れることができず、今回はできるだけ古河の町も巡ってみることにしました。古河駅西口にある花桃の木と万葉歌碑です。桜の花に比べると枝に引っ付いたように咲くのが桃の花の特徴でしょうか。こちらにあるのが万葉歌碑。万葉集のできた奈良時代の頃から古河の町があったことがわかります。石碑には二首の歌が刻まれていました。「真久良我の 許我の渡の 韓楫の 音高しもな 寝なへ児ゆゑに」意味は、「真久良我(まくらが)の許我(古河)の渡りの韓楫(からかじ)の音が高いように高い噂がたったなあ。あの子と共寝をしたわけはないのに」というらしいです。もう一首は「逢はずして 行かば惜しけむ 真久良我の 許我漕ぐ船に 君も逢はぬかも」意味は、「あなたと逢わずに行ってしまったら心残りだろう。真久良我(まくらが)の許我(古河)を漕ぐ渡し船であなたにお会いできないものかなあ」というらしいです。万葉の頃は、古河を昔は許我と表記していたんですね。真久良我(まくらが)は許我の枕詞なんでしょうか、それともこの辺りの地名のようなものだったんでしょうかね。どちらにしても、古河では利根川から渡良瀬川が別れる辺りなので、このように渡し舟でお別れの歌というのは、昭和の時代の「涙の連絡船」に通じる日本的な情緒なんでしょうかね。そんな古河市では駅前には、タワーマンションもあってなかなかの街でした。では、古河駅を出発しましょう。(花桃の里古河を歩くコース)【つづく】人気ブログランキングへ花桃の里古河を歩く(その1) 桃まつり
Apr 9, 2026
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4月になって新しい職場や学校への通勤・通学はもう慣れましたか。【学生帽】最近、気がついたんですが、MoMo太郎が中高生の時は学生帽を被っていたんですが、最近は男子生徒は学生帽を被っていませんね。職場のZ世代の人に聞くと、もう、今では学生帽は無くなっているらしいです。今でも学生帽を被っているのは、かもめ第三小学校に通っている磯野カツオ君ぐらいですか。【立ち食い蕎麦】旅先で時間がない時に手軽に食べられるホームにある立ち食いそば屋さん。社会人になって初めて出張した時に食べた土浦駅のホームにあったこの蕎麦屋さん。まだ営業していました。でもまだあるとは知らず、駅にあるコンビニでパンと牛乳を買って食べてしまいました。コンビニが充実しているので、こういう立ち食い蕎麦屋さんも段々減っていくのでしょうかね。【体幹鍛えているんですね】この間、満員電車で吊革にもつかまらず、立ったまま、手鏡を見ながら、アイラインを引いたりファンデーションを直していた女性がいました。揺れる車内で立ったまま化粧をするために体幹を鍛えてきているんですね。これも働く女性の嗜みですか。人気ブログランキング通勤沿線 気になるあの人(その13)
Apr 8, 2026
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城門があった跡です。ここから丹波亀山城(→→→こちら)へ入って行きました。雑水川となっている堀を越えます。石垣は、お城があった名残ですね。ここが入口のようです。横にある看板には、「丹波亀山城エリア拝観には拝観券(200円)が必要です。」とありました。京都では城址を見学することを「拝観」と呼ぶんですね。と思ったら、実はこの城址、「大本」(→→→こちら)という宗教団体の持ち物になっているんですね。ちなみに大本教とは呼ばないそうです。ということで、ここから先は拝観券が必要となるようです。大本(おほもと)というのがどういう宗教なのかわかりませんが、まあ、なんとなく妖しい感じがしたので、拝観は遠慮させてもらいました。敷地の中になにやら由緒のありそうな板碑がありました。大本の教祖の一人、出口王仁三郎の詠歌を刻んだ歌碑でした。信者以外にはあまり有難味はないのかも。しかし、大本って教祖が二人いるんですね(→→→こちら)。以上、京都に行った時の記録です。【了】人気ブログランキング京都の旅(その6) 丹波亀山城は宗教施設になっていました
Apr 7, 2026
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歴史上、最も名高い逆臣「明智光秀」の銅像があった場所は、南郷公園です。丹波亀山城の外堀として使われていた南郷池を中心につくられた公園。JR亀岡駅からすぐのところにあります。この案内板によると、南郷公園山陰街道が通り、城下町が広がる亀山城の南側き、内堀、外堀、惣堀の三重の堀と御土居がめぐり、堅牢な構えを呈しています。一方、南郷公園の立地する北側の搦手は、外堀が一重にめぐらされているだけとなっています。これは有事の際には、保津川の流れを塞き止めると、北側の水田は一気に大きな湖となるように考案されているためです。南郷公園は、桜を中心として四季折々の花を楽しむことが出来る都市公園としてせいびされ亀岡光秀まつりを始め、様々なイベントが繰り広げられる都市公園です。公園と亀山城の間にある堀ですが、雑水川(ぞうすがわ)という名称の川になっていました。ということで、天下の逆臣、明智光秀が築城した丹波亀山城へ行くことにしました。【つづく】人気ブログランキング京都の旅(その5) 南郷公園
Apr 6, 2026
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京都の旅といいながら、亀岡に来ています。京都に住んでいる人からいえば、宇治や亀岡から京都に行くことも上京というらしいです。だから亀岡へ行くことは京都の旅ではないということらしいです。そんな亀岡の駅前にあった自転車預り所。市役所や区役所が運営しているのではない民間の自転車置き場があるんですね。駅前にあった観光案内の看板。織田信長を弑逆した明智光秀(→→→こちら)の町なんですね。ということで、亀岡城趾にある公園には、こんな石碑がありました。そして、立派な銅像も。歴史上、もっとも有名な逆臣「明智光秀」が町の観光の目玉というのは、面白いですね。そういえば2020年、令和最初のNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」(→→→こちら)は明智光秀が主人公でしたから、その年はこの町も盛り上がったんでしょうか?しかし、このドラマ、帰蝶役の女優さんが薬物所持で逮捕されて放映前に降板したり、放映中はコロナ禍で放送が中断したりと、不運なことがあったのは、弑逆された織田信長の祟りだったんでしょうか?【つづく】人気ブログランキング京都の旅(その4) 亀岡には明智光秀がいた
Apr 5, 2026
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さて、山陰本線(嵯峨野線→→→こちら)に乗って、やってきたのは京都府亀岡市。同じ研究室だった先輩が遊びに来いと誘ってくれたので、「KYOTO SANGA TRAIN」という文字が書かれた紫の壁。紫色にカラーリングされた列車が走っているのでしょうかね。それにしても「SANGA」とは?改札口の正面にあった座像。江戸時代の思想家、倫理学者だった石田梅岩(→→→こちら)という方の座像です。石門心学と呼ばれる独自の哲学を樹立した方だそうで、存じ上げませんでした。駅の東口には、サッカーボールを象った石像がありました。ということは亀岡ってサッカーが盛んな町だったんですか?駅の東側にあったこの施設。SANGA STUDIM by KYOCERA(→→→こちら)という球技専用スタジアムで、京都サンガF.C.というサッカーチームのホームグランドだそうです。実は、MoMo太郎、サッカーという競技についてよく知らなくて、京都サンガF.C.というチームがあったことさえ初めて知りました。どうしてサッカーに興味がないのかというと、まずルールがわからないです。例えば、オフサイドという反則がどういうものかわかりません。ラグビーならボールを持っている味方選手よりも前(敵陣側)にいる場合、その選手がパスを受けたり、ラックやモールに参加しようとするとオフサイドという反則になりますが、サッカーの場合はパスを受けても反則になったりならなかったりするのが、よくわかりません。また、シュートを蹴って得点した選手が凄いのがわかりますが、シュートしなくてもパスを出しているだけでもいいプレーですねとか解説者が言うのは、どこがいいプレーだったのか理屈がわかりません。できれば、そういうルールやプレーの良かった点などをわかりやすく解説してもらいたいです。でも、そういう解説って、野球やバスケットボールでも必要なのかもしれませんね。【つづく】人気ブログランキング京都の旅(その3) 亀岡には「サンガスタジアム by KYOCERA」がある
Apr 4, 2026
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