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休日の朝、なんとなく朝ご飯を作るのも面倒に思うと、吉野家に行って朝食を食べることがあります。ということで、この日は吉野家の焼魚定食(530円税込み)を食べました。焼き魚とありますが、確かに皮に焦げ目はあるが、焼いているというより、レンジで加熱して出しているみたいですね。それと魚は鮭なのか、それとも鱒なのかよくわかりません。でも「魚」であることは間違いないですね。しかし、まあまあ美味しいので食べて損はしないです。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 吉野家の朝定食
2024年05月23日
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聖徳記念絵画館前庭の西側にある石碑と松の木です。石碑には「御鷹の松」(→→→こちら)と記されていました。近くに説明板がありました。江戸幕府三代将軍徳川家光が鷹狩りの途中、後に国立競技場の敷地となった境妙寺で休息していたところ、江戸城より愛鷹「遊女」が飛来し、境内前庭の松に止まったとそうです。家光はこれを大いに喜び、この松を「遊女の松」と名付けたそうですが、後世の人たちは、「御鷹の松」、また地名から「霞の松」と称するようになったそうです。そして、2021年の東京オリンピック・パラリンピックのメイン会場となった国立競技場です。国立競技場の外周エリアに設置されたこの変なオブジェを、みなさん覚えていますか?東京五輪・パラリンピックの開閉会式で使われた聖火台です。そう言えば、聖火台はもう一基ありましたね。これは開閉会式で使われた聖火台ですが、もう一基、競技期間中、東京臨海部夢の大橋有明側に設置された聖火台。そちらは江東区有明にあるシンボルプロムナード公園(石と光の広場横)に再設置されているそうです。駅からハイキング「忠犬ハチ公生誕100年!渋谷~原宿・明治神宮までハチ公に思いを馳せるお散歩コース」では、この後、鳩森八幡神社、北参道、明治神宮を経て原宿駅まで歩くのですが、珍しく同行していた配偶者の方が「飽きた」というので、こちらの最寄りの信濃町駅から帰ることにしました。(渋谷からお散歩のコース)【了】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その14) 御鷹の松と聖火台
2024年05月22日
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明治神宮外苑のイチョウ並木を歩いて行くとドームが特徴的な荘厳な建物が見えてきます。聖徳7記念絵画館(→→→こちら)です。明治天皇のご生涯に起きた出来事を題材にした絵画が展示されています。聖徳記念絵画館の前に飾られている一角獣(ユニコーン)です。一角獣は王族を象徴する紋章として王冠などに使われていたそうです。現在のイギリス王家の大紋章には、ユニコーン(一角獣)とレパード(獅子)が描かれています。そういうことを踏まえて、ここにも一角獣がおかれているのでしょうか。この建物は、平成23年(2011年)、「直線的意匠と先駆的技術を採用した、わが国初期の美術館建築」と評価され、明治神宮宝物館と共に国の重要文化財に指定されたそうです。維持管理は宗教法人明治神宮の予算で賄われており、他からの援助は一切受けていませんが、入場するためには施設維持協力金500円が必要です。(渋谷からお散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その13) 聖徳記念絵画館
2024年05月21日
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青山墓地から北上して青山通りにやって来ました。流行の最先端をいく、オシャレな青山通りですね。今流行りの電気自動車(EV)のための充電スタンドがありました。最初の40分間は無料ですが、それ以降は20分につき1000円と書いてありました。ちなみにEV車に充電できる電力量は、「電力(電圧×電流)×時間」で決まります。たとえば、200Vの電圧で15Aの電流を流せる充電設備の場合、充電の電力は「3kW」、1時間で「3kWh」を充電することができます。この場合、松たか子さんがCMに出ていた日産の「サクラ」の場合はバッテリー容量が20kWhなので、少なくとも6時間は必要ということになりますから、この値段はちょっとお高いかなと思いましたが、この「スリーポインテッド・スター」のエンブレムの車に乗っている人ならそうたでもないかもと思いました。しかし、この充電スタンドは「EV Quick」とあるので、定格出力が約50kWの急速充電施設なのでしょうから、その場合は、急速充電で一気に電力を供給することでバッテリーは熱を持ちやすくなって劣化しやすくなります。そこで利用時間は最長で30分と定められているそうなので、無料の時間内だけ充電すると、料金は実質発生しないことになると思います。ようやく明治神宮外苑にやってきました。明治神宮外苑といえば、やっぱりこのイチョウ並木ですね。(渋谷からお散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その12) 青山通り
2024年05月20日
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5月18日は「国際博物館の日(→→→こちら)」(International Museum Day: IMD)ということで、博物館が社会に果たす役割を広く知っていただき、博物館に親しんでもらうための活動の取り組みとして、無料で公開している博物館がいくつかありました。その中で、豊島区目白にあるこの「切手の博物館(→→→こちら)」に行ってきました。入口にある館名板です。小鳥は多分、メジロがモチーフなのでは?切手を扱う博物館ですから、入口にあったのは、漫画家の楳図かずおさんのトレードカラーである赤と白のボーダーにまことちゃんの手のポーズ、投函口の下にはまことちゃんの目(と思われます)というデザインのポストがありました。中の展示物の撮影はできなかったのですが、展示室は小さくて、色々なテーマに沿った切手が展示されているだけです。それでも学芸員さんがいる博物館法(→→→こちら)で登録された博物館です。そのほかは、外国の切手などを売っているミュージアムショップ、切手に関する書籍を閲覧できる図書室(開架図書は閲覧無料ですが、閉架図書は1日1,000円の利用料金がかかります)。それから3階のスペースでは切手や絵ハガキなどのフリーマーケットが開催されていました。はっきり言って、普段の入場料200円を払って見に来るのはかなりの切手愛好家なんでしょうね。ちなみに毎月23日(ふみの日)は無料です。人気ブログランキング切手の博物館
2024年05月19日
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昨日、5月17日は暑かったですね。東京は3日連続夏日 になったそうです。ということで、お昼に、今年初めての冷やし中華を頂きました。日高屋の黒酢しょうゆ冷やし麺です。スタミナもつけておかねばと思い、セットで餃子も頼みました。これだけ食べて、黒酢しょうゆ冷やし麺と餃子のセットで890円(税込み)でした。これからは冷やし中華が食べたくなる季節ですね。ところで、MoMo太郎が学生時代、関西で過ごしていた頃、冷やし中華とは呼ばすに冷麺と呼んでいたような記憶が・・・。それとも岩手県で働いていた時に食べていた冷麺と記憶がゴッチャになっているのかな。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 今年の初の冷やし中華
2024年05月18日
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青山墓地にやって来ました。今回参加している駅からハイキングのタイトルが「忠犬ハチ公生誕100年!渋谷~原宿・明治神宮までハチ公に思いをはせるお散歩コース」です。青山墓地がコースに入っているのは、やっぱり、ここにハチ公に関係したものがあるからです。ということで、この東三通りに入っていくと、この道を奥へ奥へと歩いていくと、忠犬ハチ公の碑(→→→こちら)がありました。その隣にあるのは、もちろんハチ公の飼い主だった、上野英三郎博士(→→→こちら)のお墓です。実は、上野博士とその妻だった八重子さんと上野博士は、家族の反対もある中で結ばれたこともあり、入籍できなかったため、一緒のお墓に入ることはできなかったそうです。しかし、2016年に関係者の努力が実り。合祀されることになったそうです。その結果、上野博士と八重子さん、そしてハチ公の家族が揃って同じ場所に眠ることができたそうです(→→→こちら)。(渋谷からお散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その11) 忠犬ハチ公の碑
2024年05月17日
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白根記念渋谷区郷土博物館・文学館の近くにあるこの立派な門のお屋敷は、常盤松御用邸(→→→こちら)で、今は常陸宮家のお住まいとして使用されています。六本木通りと首都高速3号渋谷線を渡ります。そしてこの通りも渡ります。この通りの名前は、高樹町通り、骨董通り(→→→こちら)という別名もあります。おそらく「高樹町通り」というのが古くからある名称でしたが、沿道に骨董品店が多かったことから、1980年代頃から「骨董通り」が自然発生的に使われるようになったと思われます。もしくは古美術鑑定家・中島誠之助が使い出したものが広まったという説もあるそうです。そして、ドアの前で写真を撮っているおじさんがいるこのお店は、ジャズの生演奏が楽しめる「ブルーノート東京」(→→→こちら)です。こちらの建物は、根津美術館(→→→こちら)です。根津美術館の前をさらに乃木坂方面へ歩いてゆけば、谷を越える橋になっていました。橋の上から見えたのは、六本木ヒルズ森タワー(→→→こちら)ですね。橋は外苑西通りの上を越えています。(渋谷からお散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その10) 南青山です
2024年05月16日
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さて、この白根記念渋谷区郷土博物館・文学館(→→→こちら)の中に入ってみました。入口で係のお姉さんから「60歳以上ですか? 60歳以上なら無料になります」と言われたので、MoMo太郎は持っていた運転免許証を見せて、無料で入場することができました。しかし、同行の配偶者様は、実はオーバー還暦にもかかわらず「いえ、違います」と言って入場料100円を払って入場されていました。中の展示物、撮影してもいいものがあって、これは1964年の東京オリンピックの時の聖火ランナーが持っていたトーチだそうです。台の下に写真撮影可のマークがありますよ。こちらは1924年(大正13年)から1933年(昭和8年)の間にかけて建設された同潤会アパート(→→→こちら)で代官山に建てられたアパートの中を再現したものだそうです。こちらは縄文式土器の製作を体験できるコーナーです。MoMo太郎が作ってみた縄文式土器の模様です。ひも状の縄を粘土の上で押しつけながら転がすと縄目の模様がつきました。その他、渋谷にゆかりのある文学者に関する展示もあり、60歳以上無料の白根記念渋谷区郷土博物館・文学館、また行って色々勉強したい施設でした。(渋谷からお散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その9) 白根記念渋谷区郷土博物館・文学館(60歳以上無料でした)
2024年05月15日
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こちらが、白根記念渋谷区郷土博物館・文学館になりますが、その前に建物の回りの敷地にも珍しいものがあったので紹介します。まず、こちらの樹木です。幹の樹皮が白いのがちょっと変わっています。白松(はくしょう)という樹木で、松の仲間として分類された中国原産の植物で「しろまつ」とも呼ばれているそうです。この松は、大正の末ごろ、中国北京から持ち帰ったもので、内田治氏のご好意により昭和53年(1978)1月、区に寄贈されまということです。また、板碑というのも置かれているのですが、博物館に保管している三基の板碑と説明文にありましたが、MoMo太郎が確認できたのは、この一基だけです。残りの板碑は博物館の建物の中にあるのでしょうか。いずれにしても渋谷区内で発掘されたものだそうです。また建物の脇の植え込みの陰に置かれている石像群。説明板によると、五輪塔、傘屋の碑、聖観音、そして阿弥陀一尊図像板碑とありますが、ここに見えるのは、五輪塔、傘屋の碑、聖観音です。右が五輪塔です。五輪塔は、中世以降につくられた墓で、これはもと神宮前1丁目(旧竹下町)にあったものだそうです。左にあるのが、傘屋の碑です。もと千駄ヶ谷にあったといわれ、江戸時代に土地の傘問屋の仲間がつくったものと思われます。金王八幡宮から寄贈されました。こちらの2体の聖観音は、もと恵比寿橋から明治通りにでる左角にあったもので、言い伝えによるとある大名の奥方がこのあたりで急死し、その供養のために建てられたものといわれています。戦後、しばらく、ごみの中に埋まっていたのを、齋茂一氏が保管され、齋巌氏から区に寄贈されたそうです。また、博物館の正面左側の一角にも3基の石碑があります。両端のものが庚申塔です。右端の庚申塔は根元が折れて上部は後ろの植え込みに立てかけられています。真ん中の板碑は、阿弥陀一尊図像板碑になります。庚申塔(→→→こちら)は江戸時代に盛んであった民間信仰の庚申講に関連するもので、60日ごとに集まって念仏を唱えて、徹夜する集まりの庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いものです。左側の角柱型の庚申塔は、かつて桜丘町29番にお住まいだった個人の方から寄贈いただいたそうで、右側のものはかって道玄坂1丁目(旧大和町)にあったものです。玉川通りが建設される際、処分されそうになったものを五島慶太氏(→→→こちら)が引き取り保管していたものを、息子の五島昇氏(→→→こちら)によって渋谷区に寄贈されたものです。また下の説明板にある「松崎慊堂(まつざきこうどう)宅地跡」とあるのは、この白根記念渋谷区郷土博物館・文学館は昭和50年(1975年)に渋谷区議会議員の故白根全忠より寄贈された宅地、邸宅をもとに整備されたものですが、その前は江戸後期の有名な儒学者であった松崎慊堂(→→→こちら)の宅地だった場所だったということです。(渋谷からお散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その8) 白根記念渋谷区郷土博物館・文学館にある石像
2024年05月14日
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國學院大學から次の目的地である白根記念渋谷区郷土博物館・文学館(→→→こちら)に向かって歩いて行くと、丁度、その博物館の前に目立たない石碑がありました。渋谷区教育委員会の設置した説明板を要約すると、「もとこのあたりにあった皇室の御料乳牛場の構内に常盤松と呼ばれた樹齢約400年、枝ぶりのみごとな松がありました。この松は、源義朝の側室・常磐御前が植えたという説と、世田谷城主・吉良頼康の側室・常盤が植えたという説の二説があるのですが「常盤松」(→→→こちら)と呼ばれていたそうです。御料地になる以前に、その土地が島津家の持地だったことがあり、そのときに島津藩士によって石碑が建てられたということです」こちらがそのその石碑になります。碑文は、古代文字の1つ、篆書(てんしょ)で書いてあるようで、國學院大學の先生に頼んで解読してもらわないといけないです。インターネットで検索すると、これを解読したサイトがありました(→→→こちら)ので、知りたい方は、そちらを見て下さい。(渋谷からお散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その7) 常磐松の碑
2024年05月13日
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金王八幡宮の大鳥居前のT字路の少し上の右手に入る道で、この八幡通りから常磐松小学校正門へ通じる道をむかし「桜横町」と呼んばれていたサクラの並木道だったそうです。その道端にこんな石碑が道端にありました。「さくら横ちょう歌碑」作者の加藤周一(→→→こちら)は、当時の東京市渋谷区金王町出身の文筆家で、この通りの先にある常磐松小学校の卒業生だそうです。福永武彦、中村真一郎と親しく、共著である「一九四六 文学的考察」が文壇デビューのきっかけとなった方です。「さくら横ちょう」は、加藤周一が創作した新定型詩のひとつで、彼が実際に暮らしていたこの界隈を詠んだもの。のちに中田喜直と別宮貞雄が曲を付けたことで有名となったそうです。今ではサクラの並木道の面影はありませんが、その道を。遠くにそびえるあの高層ビルに向かって歩きます。「國學院大學(→→→こちら)」の渋谷キャンパスになるそうです。ちなみに敢えて旧字体で表記するのが、大学の方針みたいですね。國學院大學については良く存じ上げないのですが、神社本庁の神職の資格が取れる神職課程がある大学で、また有名なスポーツ選手なども出身者にいるということだけは知っています。こちらの建物は、学術メディアセンターという建物で中に國學院大學博物館があります。入館料は無料で、大学の収集した考古学や神道に関する資料を観覧できるようです。時間があるときにじっくり訪れたいところです。道路を挟んだ反対側にもキャンパスがあり、歴史ある大学らしい雰囲気が漂います。学術メディアセンターの横には胸像と石碑が建てられていました。きっと、偉い先生の物だと思い撮影しました。説明板によると、瀧川政次郎(→→→こちら)博士という方の胸像と顕彰碑のようです。この方は、日本法制史の大家で、研究領域は中国の法制史や政治史、社会経済史、芸能・風俗史などにおよび、遊女の歴史といった戦前はタブーとされた研究にも積極的に取り組んで、100冊を超える編著書を世に送り出している。法実務にも深くかかわり、東京裁判の特別弁護人を務めらられたそうです。「胸像は生前に親交のあった國松幹平(大次郎)の寄贈である。」と説明板に記されています。こちらは顕彰碑になっています。「建立は後継者小林宏(國學院大學名誉教授)、門下の法制史家金指正三、福岡市の石材店店主国松大次郎・良康父子であり、設計は石像美術研究の大家川勝政太郎である」と説明板に記されています。(渋谷からお散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その6) 國學院大學
2024年05月12日
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坂道の突き当りに鳥居があり、ここが金王(こんのう)八幡宮(→→→こちら)です。鳥居の横にあったこの金王八幡宮の説明です。寛治6年(1092年)創建されたとされる神社で、源義家が後三年の役(1083年-1087年)で勝利したことを八幡神に感謝してこの地に勧請しました。このあたりの領主であった河崎重家は、禁裏の賊を退治したことにより堀河天皇より渋谷の姓を賜り、当八幡宮を中心に館を構え居城とし、渋谷氏は代々当八幡宮を氏族の鎮守と崇めました。これが渋谷の発祥ともいわれています。八幡宮の表参道に回って参拝することにしました。さて、この八幡宮の名称の「金王」とは重家には子がなく夫婦で当八幡宮に祈願を続けていると、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かりました。そこで、その子に明王の上下二文字を戴き「金王丸」と名付けたそうです。この金王丸は17歳の時、源義朝に従って保元の乱(1156年)で大功を立て、その名を轟かせました。しかし、源義朝は平治の乱(1159年)に敗れ、尾張国野間の長田忠宗に殺されました。金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを報じたのち渋谷で剃髪し、土佐坊昌俊と称して義朝の御霊を弔と伝わっています。吾妻鏡では、土佐坊昌俊と名前を変えた金王丸は、源頼朝の挙兵に協力し、その後、源頼朝は源義経に謀反の疑い抱き、土佐坊昌俊(金王丸)に義経討伐を命じました。そこで、昌俊は断ることもできず、文治元年(1185年)10月、百騎ばかりを率いて京都に上り、同月23日夜義経の館に討ち入りました。しかし、昌俊は、はじめから義経を討つ考えはなく、捕らえられて勇将らしい立派な最期を遂げたそうです。そういった金王丸の名声により、当八幡宮を金王八幡宮と称するようになったそうです。この短い石段を登って行くと、こちらの神門は、3代将軍徳川家光の将軍決定の御礼として、乳母の春日局と守役青山忠俊が造営された伝わっています。こちらの社殿も同様に春日局と青山忠俊が造営したもので、江戸時代初期の建築様式を今に伝えています。守役の青山忠俊はこのあたりに下屋敷を持っており(これが今の青山の地名の由来)、この金王八幡宮を氏神として信仰していた。そして、将軍相続を危ぶまれた徳川家光のため熱心に祈願したそうです。しかし、青山忠俊は、しばしば家光に諫言を繰り返したため、老中を免職の上、上総大多喜藩(2万石)に減転封され、さらにはそれも取り上げられて相模今泉で蟄居となった。しかし、息子の青山宗俊は家光から許され浜松藩藩主の大名に復帰したそうです。ところで、こういう神社やお寺に参拝した時、お賽銭を出さない人がいますが、お賽銭は神社やお寺の掃除をしてくれる人へのお礼なので、別にその神様や仏様を信仰していなくても、出した方がいいですね。(MoMo太郎の配偶者のように自称クリスチャンであってもお賽銭は出した方がいいですよ)。扁額も立派な金文字ですね。社殿を飾る彫刻も豪華です。こちらは神楽殿です。八幡宮を出てしばらく南に行くとこちらにも大きな鳥居がありました。(渋谷からお散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その5) 金王八幡宮
2024年05月11日
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明治通りにやってきました。この歩道橋を渡ります。ここに来たのは3月24日(日)でしたが、明治通り沿いの桜並木はすでに開花していました。歩道橋の上から見る桜並木はきれいでした。この桜はヨウコウ(→→→こちら)だそうです。ヨウコウは、陽光桜とも呼ばれ、アマギヨシノとカンヒザクラを交配して作られた園芸品種で、ソメイヨシノよりも数日から1週間程度早く見頃を迎えるそうです。花は大きく一重で美しいピンク色、枝はソメイヨシノのように横に広がるというよりも、上に伸びるのが特徴です。品種登録されたのが1981年と歴史の浅い品種ですが、病虫害に強いため街路樹に使われることも多くなっているそうです。明治通り渡って、緩やかな坂道を登って、次の目的地、金王(こんのう)八幡宮に向かいます。(渋谷からお散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その4) 明治通りの桜並木
2024年05月10日
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渋谷駅の新南口から明治通りの方へ向かって歩くと、川沿いに開けた場所がありました。向こうに見えるのは、令和元年(2019年)に完成した47階建ての渋谷スクランブルスクエア(→→→こちら)がよく見えました。そして、ちょっと変わった赤いオブジェが目立つこの道は渋谷リバーストリート(→→→こちら)です。渋谷リバーストリートは、東急東横線渋谷駅〜代官山駅の地下化に伴い、渋谷川沿いの高架が撤去され、「鉄道の記憶」をテーマに整備された遊歩道のことです。こちらの赤いオブジェは、株式会社KISS TOKYOと、一般財団法人渋谷区観光協会、東急株式会社が共同で2020年12月に設置したベンチです。「鉄道の記憶」をテーマにしているということは、この日本の平行線は、かっての東急東横線の線路をイメージしているんでしょうね。黒澤明監督の映画「どですかでん」(→→→こちら)に出てくる六ちゃんなら喜んで、「どですかでん」と言いながら電車の運転手になりきって走るでしょうね。ちなみにこの映画の原作は山本周五郎の「季節のない街」(→→→こちら)です。渋谷リバーストリートというだけのことは、あって遊歩道の横には渋谷川(→→→こちら)が流れています。渋谷川は渋谷駅南方から天現寺橋までの2.4kmを流れる二級河川のことですか、その上流は代々木八幡宮や新宿御苑などから渋谷駅に向かって流れてくるいくつかの支川があり、下流は赤羽橋、芝公園の横を通って東京湾につながります。そんな都市の中の河川で、かっては「どぶ川」のようなものでしたが、現在では下水処理を行って再生水を利用してそこそこのきれいな水が流れる川になっています。、東横線の高架があった頃は、なんとなく薄暗いイメージでしたが、すっきりとして良くなったですね。その渋谷川を渡るこの橋。八幡橋を渡って明治通りに向かいます。【付録】映画「どですかでん」の映像です。黒澤明監督、初のカラー映画でした。(渋谷からお散歩のコース)【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その3) 渋谷リバーストリート
2024年05月09日
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こちらの建物に入っていくのが今回のルートです。入口に誘導係の駅員さんが立っていました。2023年11月に竣工したこの建物は、渋谷駅の南西2.6haに広がる地域を再開発してできた複合施設です。「SHIBUYAタワー」と「SAKURAタワー」と中心にオフィス・商業施設・ホテル・住宅などが立ち並ぶそうです。それらの建物を歩行者通路のネットワークにより結んで、渋谷駅周辺の回遊性が向上しているようです。とは言っても、店舗は順次開業していくらしいです。歩行者用通路から渋谷駅の方を撮影しました。渋谷駅周辺、色んな高層ビルができているみたいです。また、線路を跨ぐ通路がありましたが、これが新南改札になるところですね。ビルの中にあるこの広場は、渋谷の新しいランドマーク「しぶS」がある、桜丘のセンターステージ。「にぎわいSTAGE」というそうです。本物の木ではなく、人工物の林があるのが都会的なのかな?この広場から見えた高層ビルです。本当に渋谷にも高いビルが色々あるんですね。この通りも「Shibuya Sakura Stage」によって整備されたみたいですね。こちらも渋谷駅の新南口の改札口がありました。子の改札口は埼京線専用で、山手線に乗るのにはちょっと不便らしいです。それで南改札ができるとこちらは閉鎖されるそうです。渋谷駅って段々迷路みたいになって。オジサンにはわかりにくいです。この階段を降りて、渋谷駅の東側に出てきました。(渋谷からお散歩のコース)註)駅からハイキングのコースは国立競技場から、鳩森八幡神社を、明治神宮を経由して原宿駅に出る物でしたが、筆者は都合により途中で信濃町駅から帰りました。【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その2) Shibuya Sakura Stage
2024年05月08日
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ゴールデンウィークの最終日に上野アメ横に遊び行くと、こんな垂れ幕がありました。ABAB UENO(アブアブ上野)店が78年間の歴史(→→→こちら)を閉じるんですね。アブアブというと、MoMo太郎の印象では、高崎線、宇都宮線、常磐線、そして京成線沿線の中高生が、原宿や渋谷にはちょっと敷居が高く行きづらいが、上野アメ横ならという感じで、衣料品を買いに来るところというイメージでしたが、今はそういう郊外の町にもイオンなどのショッピングモールが充実し、わざわざ上野まで出てきて買い物しなくてもよくなったということですかね。人気ブログランキングさようならABAB
2024年05月07日
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2024年3月24日、JR東日本が主催する駅からハイキング「忠犬ハチ公生誕100年!渋谷~原宿・明治神宮までハチ公に思いをはせるお散歩コース」に参加するため山手線渋谷駅にやってきました。この駅名標をよく見ると、ベニヤ板で作られていて、ひょっとして仮設の駅名標。駅の構内も単管パイプで柵をつくってあったり、まだ渋谷駅は工事中みたいですね。さて渋谷といえば、ハチ公像(→→→こちら)ですね。MoMo太郎も携帯電話がない時代には、ハチ公の前で友達と待ち合わせしたものです。ちなみに、このハチ公が渋谷駅で待っていた飼い主は東京帝国大学農学部教授の上野英三郎博士(→→→こちら)です。この先生は日本の農業土木、農業工学の創始者であるということで、農業農村工学会のホームページでも上野英三郎博士とハチ公のことが紹介されています(→→→こちら)。こちらは渋谷駅西口にある「モヤイ像」(→→→こちら)。こちらも待ち合わせ場所としてよく利用していました。ちなみにチリ領イースター島にあるのは「モアイ」(→→→こちら)ですので間違わないようにしないと、言い間違えると待ち合わせ相手はイースター島で待つことになりますから。こちらが駅からハイキングの受付です。ここでコースマップをもらって出発です。かなり多くの人がこのイベントに参加しているようで、途中、ここでもらった地図を見ながら南青山を歩いていると、通りがかりの年配のご婦人から、「沢山の人がその地図を持って歩いているけど、何があったの」と尋ねられました。「駅からハイキングというイベントで、みなさん歩いているんですよ」と答えておきました。国道246号を渡る歩道橋を渡って、駅の南西側にある桜丘町の方へ進みます。渋谷駅西口のバス乗り場だったところも何か工事中のようですね。渋谷駅周辺の再開発はまだまだ続きそうですね。(渋谷からお散歩のコース)註)駅からハイキングのコースは国立競技場から、鳩森八幡神社を、明治神宮を経由して原宿駅に出る物でしたが、筆者は都合により途中で信濃町駅から帰りました。【つづく】人気ブログランキング渋谷からお散歩(その1) 渋谷駅は未完成かな
2024年05月06日
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ゴールデンウィークの陽気に誘われて、栃木県栃木市にある太平山神社(おおひらさんじんじゃ)(→→→こちら)に参拝してきました。大平山神社の駐車場から見えた関東平野です。関東平野の北縁にある太平山は、標高341メートルの低山でありながら、多分、山頂まで登れば、関東平野が一望できる山です。太平山神社は、平安時代、天長4年(827)、慈覚大師(円仁)により創建されたといわれ、武門をはじめ多くの人から信仰を集め、特に徳川将軍家の信仰が極めてあつかった神社です。瓊瓊杵命・天照皇大御神・豊受姫大神を祀っているそうですが、聖徳太子も祀られているんですね。社殿、拝殿も多く立ち並んでいて、沢山の神様が祀られているんでしょうね。こちらが、本殿です。本殿の前にある石を撫でてから皆さん参拝されるようです。この撫で石を撫でることにより災厄を祓い、霊験を得るという信仰があるそうです。霞んでいてわかりにくいですが、本殿の前から正面に、筑波山が望めました。人気ブログランキング北関東の旅、栃木県栃木市太平山神社
2024年05月05日
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「ハウンド・ドッグ(Hound Dog)」は、エルビス・プレスリー(Elvis Presley)が、1956年に「冷たくしないで (Don't Be Cruel)」のB面として発表した曲です。A面、B面ともにヒット曲となり。「ハウンド・ドッグ」は1956年8月18日に、ビルボードのポップ・チャートの1位を獲得。以後11週連続でその座に留まり、この年の年間ランキングで第1位となりました。しかし、この曲のオリジナルは、1953年にビッグ・ママ・ソーントン(Big Mama Thornton)が発表した曲で、ビルボードのR&Bチャートで7週連続1位となり、200万枚近くを売り上げた。ソーントンの最大のヒット曲だったそうです。ちなみに、「ハウンド・ドッグ」とは猟犬のことではなく、当時の黒人のスラングで安っぽいヒモ男の意味であり、ソーントンの歌詞では、You ain't nothing but a hound dogBeen snoopin' 'round my doorYou can wag your tailBut I ain't gon' feed you no moreあんたはただのヒモ男(ハウンド・ドッグ)よドアのあたりを嗅ぎまわっているばかりしっぽを振ってきたってエサはやらないわよとなっているますが、プレスリーは、ヒモ男のことを歌うわけにはいかないので、歌詞を変えて、You ain't nothin' but a hound dogCryin' all the timeWell, you ain't never caught no rabbitお前はただの猟犬いつも吠えまくっているでもウサギの一匹さえ捕まえたことがないよと歌っています。人気ブログランキングへ参考にMoMo太郎がDictationした歌詞を載せておきます。【Big Mama Thorntonの歌詞】You ain't nothing but a hound dogBeen snoopin' 'round my doorYou ain't nothing but a hound dogBeen snoopin' 'round my doorYou can wag your tailBut I ain't gon' feed you no moreTold me you were high classBut I could see through thatYeah, you told me you were high classBut I could see through thatAnd daddy, I knowYou ain't no real cool catYou ain't nothing but a hound dogBeen snoopin' 'round my doorYou ain't nothing but a hound dogBeen snoopin' 'round my doorYou can wag your tailBut I ain't gon' feed you no moreOh play it now, oh, shake it but don't breakOh, beauty, let her howlOh, it makes you feel so niceOh, get 'em, get 'em, get 'em, get 'em, get 'em, get 'emYour hound dogYou made me feel so blueYou made me weep and moanYou made me feel so blueHow you made me weep and moanYou ain't looking for a womanAll you're lookin' is for a homeYou ain't nothing but a hound dogBeen snoopin' 'round my doorYou ain't nothing but a hound dogBeen snoopin' 'round my doorYou can wag your tailBut I ain't gon' feed you no moreAnd bow-wow to you too【Elvis Presleyの歌詞】You ain't nothin' but a hound dogJust cryin' all the timeYou ain't nothin' but a hound dogCryin' all the timeWell, you ain't never caught no rabbitAnd you ain't no friend of mineWell, they said you was high-classedWell, that was just a lieYeah they said you was high-classedWell, that was just a lieYeah, you ain't never caught no rabbitAnd you ain't no friend of mineYou ain't nothin' but a hound dogCryin' all the timeYou ain't nothin' but a hound dogCryin' all the timeWell, you ain't never caught no rabbitAnd you ain't no friend of mineWell they said you was high-classedWell, that was just a lieYeah, they said you was high-classedWell, that was just a lieWell, you ain't never caught no rabbitAnd you ain't no friend of mineWell they said you was high-classedWell, that was just a lieYou know they said you was high-classedWell, that was just a lieYeah, you ain't never caught no rabbitAnd you ain't no friend of mineYou ain't nothin' but a hound dogCryin' all the timeYou ain't nothin' but a hound dogCryin' all the timeWell, you ain't never caught no rabbitYou ain't no friend of mine
2024年05月04日
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現在まで23件の事件が、警察庁広域重要指定事件(→→→こちら)として指定されているそうです。その23件のうち、公訴時効成立により未解決事件となったが2件あります。そのうち一件は、「広域指定116号」の赤報隊事件(→→→こちら)です。この事件は、「朝日新聞阪神支局襲撃事件」とも呼ばれる事件で、「赤報隊」を名乗る犯人により1987年(昭和62年)5月3日に西宮市にあった朝日新聞阪神支局において小尻知博記者(享年29)が殺害され、犬飼兵衛記者(当時42歳)が重傷を負った事件です。もう一つは、「広域指定114号」のグリコ・森永事件(→→→こちら)です。この事件は当時西宮市に居住していた江崎グリコ社長江崎勝久を誘拐したのを皮切りに、江崎グリコに対して脅迫や放火を起こす。その後、丸大食品、森永製菓、ハウス食品、不二家、駿河屋など食品企業を次々と脅迫し、小売店で青酸入り菓子を置き、日本全国を不安に陥いれた事件です。いずれもこれらの事件は兵庫県警西宮警察署管内(→→→こちら)で発生しています。市民の安全を守るために、西宮警察署のみなさん頑張って下さい。※写真は東京都の警視庁です。人気ブログランキングがんばれ西宮警察署
2024年05月03日
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新宿西口にあるビル群です。モード学園コクーンタワー(→→→こちら)って目立ちますね。そして、今新宿駅西口は小田急百貨店本店や新宿ミロードなどを解体して大規模な再開発工事が進められています。かって小田急百貨店の入口があったあたりですが、目隠しの防護壁があり、どこから小田急や京王電鉄の駅に入っていいのかわかりませんでした。少し離れて全景を撮影してみると大型のタワークレーンが設置されていて、聞くところによると高さ260メートルの高層ビルを建築するそうです(→→→こちら)。西口から少し離れて青梅街道に架かる新都心歩道橋に上がってみました。西側には西口の高層ビル群が広がり、東画を見てみると、新宿大ガードとその奥には歌舞伎町のビル群が見えます。昭和の頃から見えるこつらの景色もまた変わっていくんでしょうか。新宿彷徨のシリーズここでいったん休みますが、まだまだ新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録がありますので、これからも折に触れて書いていく予定にしています。人気ブログランキング新宿彷徨(その4) 変わりゆく新宿西口
2024年05月02日
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折角来たので、花園神社に参拝します。まず、こちらの手水舎で、手と口を浄めましょう。手を蛇口に近づけると自動で水が出てきますよ。昭和40年に鉄筋コンクリート造りで再建された拝殿。花園神社の他に雷電神社と大鳥神社の扁額もあります。倉稲魂命(花園神社)・日本武尊(大鳥神社)・受持神(雷電神社)の3柱の神を祀っているのですね。大鳥神社でもあるため、11月の酉の日には酉の市も開催されているそうです。合祀された雷電稲荷神社の石碑が残されていました。こちらは、奉納された赤い鳥居が並ぶ、境内社です。昭和3年(1928年)に創祀された威徳稲荷神社で、女性の参拝者に人気の高い神社です。人気ブログランキング新宿彷徨(その3) 花園神社に参拝
2024年05月01日
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新宿区新宿5丁目にある花園神社(→→→こちら)です。新宿の総鎮守として、江戸時代に内藤新宿が開かれて以来、新宿の守り神として奉られている神社です。この場所は尾張藩下屋敷の庭の一部で、たくさんの花が咲き乱れていたそうです。この美しい花園の跡に移転したので「花園稲荷神社」と呼ばれたのが社名の由来とされているそうです。この神社の中にある境内社のひとつが「芸能浅間神社」(→→→こちら)です。神社の名前からしてでしょうか、芸能人の奉納者の名前が多く並んでいるそうです。といってもコメディアンの「なべおさみさん」とその息子の「なべやかん」さんくらいしかわからなかったですけど。こちらは、MoMo太郎でも多少知っている芸能人の名前もありました。アングラ演劇の「唐十郎」さんや女性のシンガーソングライター「西島三重子」さん、そして漫才トリオのかしまし娘の末っ子である「正司花江」さんの名前も見えました。安永9年(1780年)と文化8年(1811年)には、大火で焼失した社殿を再建するため境内に劇場を設けて、見世物や演劇、踊りなどを興行したそうです。そのようなことから花園神社と芸能の縁は深まっていったそうです。そのことから、ここに芸能浅間神社があるんでしょうか。芸能だけではなく、MoMo太郎が敬愛してやまない二宮金次郎像もありました。新宿区立四谷第五小学校が廃校になるに伴い現在地に移設されたものだそうです。浅間神社なので、御祭神は木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)が祀られています。そしてここにも、宇多田ヒカルの母親としても知られる藤圭子の歌碑が建立されています。この歌碑も、西向天神社の歌碑と同様に、平成11年(1999年)に石坂まさをの作詞家生活30周年にあたって、建立されたものです。裏面には発起人として石坂みき、榎本襄、海老名香葉子、大下英治、なかにし礼、星野哲郎、船村徹、山上路夫等18人の氏名と協賛会社、協賛者が記載されています。思えば、2013年に藤圭子さんが亡くなったのも西新宿というそうですから、藤圭子さんは、何かと新宿に縁があるのか、新宿という街に似合う方だったのか、そんな気がしますね。この歌を売った頃は19歳の可憐な風貌でありながら、ドスの効いたハスキーボイスと凄みのある歌いまわしは宇多田ヒカルよりもすごいですよね。人気ブログランキング新宿彷徨(その2) 圭子の夢は花園神社で咲く
2024年04月30日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いていくことにします。ここは新宿区新宿6丁目にある西向天神社(→→→こちら)です。東都七天神(→→→こちら)のひとつという天神社になります。1228年(安貞2年)に栂尾明恵上人が創建したと伝えられ、大宰府に向かって、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれています。かつては大久保天満宮とも呼ばれていて、古くから東大久保村の鎮守でした。棗天神との俗称もあり、これは寛永年間(1630年代)に、将軍家の鷹狩りの祭に、当社が荒廃していたのを、金の棗の茶入れを下賜して、それをもって再興を促したという伝承によるものだそうです。この境内の一角に藤圭子のデビュー曲「新宿の女」の歌碑がありました。藤圭子(→→→こちら)といえば、宇多田ヒカルの母親としても知られていますが、「演歌の星を背負った宿命の少女!!」というキャッチフレーズの人気演歌歌手だったんですよね。そして、この歌碑は平成11年(1999年)に石坂まさをの作詞家生活30周年にあたって、建立されたものです。なぜここに歌碑が建立されたかというと、この西向天神社は、デビュー時に「新宿の女」発売キャンペーンの出陣式を行った場所であったそうです。歌碑の裏面には「昭和44年(1969)9月25日『新宿の女』でこの西向天神社より2人の若者が旅立って行き、石坂まさをと藤圭子の名は時代を刻み伝説として語られるようになった。心生舎」と刻まれています。【つづく】人気ブログランキング
2024年04月29日
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亀戸の駅前の明治通り沿いにあるビルです。ビルの壁面にある名称は有名な洋菓子店の「風月堂」ですが、建物に入っているのは、クリニックと学習塾です。ちょっとヘンな感じを受けました。人気ブログランキングビルの名前がヘンです
2024年04月28日
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出張に出かける朝、JR東日本の構内にあるBeck's Coffeeでモーニングセットのバタートーストセット390円(税込み)を頂きました。個人的にここのコーヒー、なんか気に入っています。人気ブログランキングへ孤独のグルメ Beck's Coffee
2024年04月27日
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かっぱ橋道具街まで来たのですが、今さら鍋や包丁という調理用品を買うつもりもないので、田原町にある都バスの転回場まで足を延ばして、その隣にある、行列のできるこちらのお店までやって来ました。このお店、パンのペリカン(→→→こちら)といって、結構遠方からのお客さんもパンを買い求めにやって来る人気店です。創業は1942年という老舗ですが、売っているのは食パンとロールパンのみというこだわりのパン屋さんで、小麦の味がしっかりとするパンを売っています。また売り切れると早めに店を閉めるので、早く行って買わないといけません。それから、ペリカンの隣にあるこちらの磯村政次郎商店(→→→こちら)の胡麻油も気になっているんですが、我が家ではもう30年以上、家で天ぷらを揚げたことがないので、買ったことはありません。(秋葉原~秋葉神社~かっぱ橋道具街へ歩いたコース)【了】人気ブログランキング秋葉神社は秋葉原駅からは遠かった(その6)
2024年04月26日
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そして、食に関する専門店が集まるかっぱ橋道具街(→→→こちら)もこの近くです。この道がかっぱ橋道具街になります。もうよくテレビや雑誌で紹介されていますからよく知られていますね。かっぱ橋道具街といえば、菊屋橋交差点にあるこのオブジェが有名ですね。ちなみに、かっぱ橋道具街のもとになった合羽橋の名称の由来には、2つの説があるんだそうです。1つめは、金竜小学校跡地辺りにその昔伊予新谷の城主の下屋敷があり、小身の侍や足軽が内職で作った雨合羽を、天気の良い日に近くの橋にズラリと干していたという、「雨合羽」説。2つめは、昨日紹介した曹源寺通称”かっぱ寺”に墓所がある合羽屋喜八のお話しです。合羽橋喜八の掘割工事を隅田川の河童たちが手伝ったという説です。多分、東京合羽橋商店街振興組合としては、2つめの説を支持しているんでしょうか。かっぱ橋道具街の真ん中のあたりにあるポケットパークに、金色に輝くかっぱ河太郎像が建立されています。この像は、平成15年10月、「合羽橋道具街」の誕生90年を記念して、東京合羽橋商店街振興組合が建立したものだそうで、石碑には、2つめの合羽屋喜八と隅田川の河童のことが刻まれていました。(秋葉原~秋葉神社~かっぱ橋道具街へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング秋葉神社は秋葉原駅からは遠かった(その5)
2024年04月25日
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折角ここまできたので、かっぱ寺としてしられる曹源寺(そうげんじ)(→→→こちら)に行ってみることにします。こちらが曹源寺の入口になります。曹洞宗のお寺でした。かっぱ寺らしく、「かっぱのぎーちゃん」が、入り口右手で出迎えてくれました。そして、正面には立派な本堂がありました。これが「かっぱ堂」、河童大明神を祀るお堂です。商売繁盛、火水難除に御利益があるそうです。また、この中にかっぱの手のミイラがあるそうで、見たい人は是非予約をしてからとお寺のホームページに書いてありました。こちらは、字も薄くなって、さらに錆びも浮いてよく見えませんが、多分、かっぱ寺の由緒を描いているんでしょう。一説によれば、文化年間(1804年~1817年)の頃、この一帯は低地で水はけも悪く、しばしば水害に悩まされたので、商人・合羽屋喜八が私財を投じ、新堀川(現在の合羽橋道具街にあった水路。合羽橋の名の由来の一つ)の開削の工事を行ったそうです。この工事の折、近隣の隅田川に棲んでいたとされる河童が手伝ったと言われています。そして、文化11年(1814年)に喜八が没し、菩提寺である当寺院に葬られいつしか「かっぱ寺」と言われるようになったのだとか。ということでかっぱ堂の回りには河童の像がありました。そして、好物のキュウリもお供えされていますね。(秋葉原~秋葉神社~かっぱ橋道具街へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング秋葉神社は秋葉原駅からは遠かった(その4)
2024年04月24日
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かっぱ橋本通りを浅草方面に歩いて行き、ここ松が谷二丁目の交差点に着くと、交差点を左折して、この左衛門橋通りを入谷方面、北に向かうと、秋葉神社に到着します。この秋葉神社御縁起によると、明治初年東京府内に火災が頻発し市民の難渋せる状を御憂慮せられた英照皇太后(明治天王御母)の思召を以て、明治天皇より太政官に御下命になり、宮城内紅葉山より鎮火三神を奉遷し東京府火災鎮護の神社として現今の秋葉原の地の創建せられたのが当社の始めである。明治21年鉄道駅設置のため境内地を払下げ現在地に御遷宮となる。秋葉原の駅名も当社名にその因を発する。とありました。ということで秋葉原駅から浅草の松が谷まで移転してきたんですね。御遷宮百年記念の石碑も建立されていました。こちらが社殿です。なかなか立派な社殿です。こちらが扁額です。(秋葉原から秋葉神社へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング秋葉神社は秋葉原駅からは遠かった(その3)
2024年04月23日
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上野駅から昭和通りに沿ってさらに北に向かいます。日本の地下鉄唯一の踏切のある東京メトロの上野検車区(→→→こちら)にやって来ました。この銀座線の踏切。柵の隙間からのぞくと、この線路が地下につながっているんですね。そして、かっぱ橋本通りにくると、今度は東に向かって歩きます。(秋葉原から秋葉神社へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング秋葉神社は秋葉原駅からは遠かった(その2)
2024年04月22日
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秋葉原です。秋葉原の地名の由来は、つぎのようなことだそうです(→→→こちら)1869(明治2年)の相生町の大火を機会に、当時の明治政府下の東京府は9000坪(約3万平方メートル)の火除地を当地に設置し、翌1870(明治3年)年に、遠州(現在の静岡県)から火除けの秋葉大権現を勧請し、鎮火神社としてまつった。 当初は鎮火原と呼ばれたが、鎮火神社が秋葉神社と改められると、「秋葉原(あきばはら・あきばっぱら)」と呼ばれるようになった。ということで、地名の由来となった秋葉神社へ行ってみることにしました。秋葉原の電気街から、中央通りを北に向かいます。いつの間にかアメ横に来てしまいました。アメ横から入った上野中通り商店街にある「都まんじゅうのかるた家」(→→→こちら)です。都まんじゅうは上野を代表するお菓子だとMoMo太郎は思っております。そして、いつの間にか上野駅まで来てしまいました。「♪上野は俺らの心の駅だ」ですから「ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聞きにゆく」わけですね。(秋葉原から秋葉神社へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング秋葉神社は秋葉原駅からは遠かった(その1)
2024年04月21日
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色々と物価も上がっていますが、ランチはワンコインの500円で食べられるとありがたいですね。ということで、松屋の牛めしランチセット(500円税込み)を頂きました。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 松屋でワンコイン
2024年04月20日
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久木大池から逗子駅に向かって歩きます。こちらの建物は、久木中学校です。久木神社というこのあたりの鎮守神社になるのでしょう。なかなか大きな神社でした。このトンネルを抜けて逗子駅に向かいます。右から「久木隧道」と記された銘板がありました。隧道(ずいどう)というのはトンネルの古い呼び方だそうです。この久木トンネルは昭和16年(1941年)に開削されたそうです。当時の逗子町久木地区に横須賀海軍工廠のための工員寄宿舎群が大規模に建設されたため、工員の通勤の便を図るため、横須賀線逗子駅への近道として開削されたそうです。古いトンネルなので、幅員は狭く、歩行者用に路側帯がありますが、そこにはみ出して行き違える車も多いかもしれません。トンネルの入口に埋め込まれた銘板には、「皇紀二千六百年 工事請負人 山口清造」と記されています。トンネルを抜けてしばらく歩くと、横須賀線の逗子駅が見えてきました。踏切を渡って、駅の東口にでて、帰りは、総武横須賀線に乗って帰りました。(逗子市で歩いたコース)【了】人気ブログランキング逗子を歩く(その13) 久木トンネル
2024年04月19日
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久木大池公園に着きました。公園の中の鬱蒼とした木々の中を下って行くと、久木大池が見えてきました。この池は農業用のため池として造られたそうです。以前はこの池から逗子駅にかけての低地には多くの農地が広がっていたんでしょうね。池の周りの森で、春は桜、初夏は新緑、秋は紅葉と、四季折々の風景を楽しめる公園になっているんでしょうね。久木大池から流れる久木川沿いにも遊歩道が整備されていました。さらに久木川の下流になりますが、池の大きさから考えるとこの河幅は狭いので、おそらく洪水対策として暗渠がこの下に埋められているのでしょうか。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その12) 久木大池公園
2024年04月18日
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関東の冨士見百景は「鎌倉逗子ハイランド(→→→こちら)」という住宅街の西端にあります。この住宅街の中を通って次の目的地、檜佐木大池公園に向かいます。「鎌倉逗子ハイランド」は昭和30年代、逗子市久木と鎌倉市浄明寺とが接する山上を大規模に宅地開発したところで、見事な桜並木の続く住宅街として有名なようです(→→→こちら)。訪れた3月10日は、まだまだ桜の開花には早い所ですが、中には早咲きの桜がありました。もう花盛りといった感じですね。こちらは赤みが強い桜ですね。寒緋桜かなと思いました。昭和30年代から開発が始まったというこの住宅地、なかなかの豪邸が立ち並んでいました。少子高齢化の現在、この公園で遊ぶ子供の姿はありませんでしたが、でもこの住宅地が開発されて分譲された頃は、この公園で遊ぶ子供たちも多かったんでしょうね。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その11) 鎌倉逗子ハイランド
2024年04月17日
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名越切通の道はやはり古くからの道なのでしょうね。道端にこのような小さなお稲荷様が祀られていました。また、可愛いお地蔵様もありました。このようなものに道中の安全を願ったのでしょうね。MoMo太郎も道中の無事を願って手を合わせました。ようやくアスファルト舗装された道に出ました。舗装されていない山道もいいですが、やはりこういう舗装された道に来ると安心しますね。ここから再び富士山が美しく見える絶景スポットに出てきました。平成17年(2005年)に国土交通省関東地方整備局が主催して選定された「関東の冨士見百景」(→→→こちら)だそうです。百景といいながら128ヶ所の映えスポットが選定されているそうです。ここからの富士山も見事ですね。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その10) 関東の冨士見百景
2024年04月16日
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ここにも名越切通の説明板がありました。この説明板には、名越切通について、日本語、中国語、英語、そして韓国語で説明されていました。国際的な観光地の鎌倉・逗子のことだけはありますね。また山道をしばらく歩いていくと、名越切通の第三切通に差し掛かりました。この切通を過ぎると道が二つに分かれていましたが、道標の示す大切岸の方へ向かいます。この道を過ぎて歩いていると、きれいな和服姿で草履で歩いている女性に出会い、挨拶されましたが、ちょっと不思議な方でした。平成31年2月1日に建立された新しい名越切通と刻まれた石碑がありました。そして、逗子市側の山の斜面に出ると、ここからは、逗子の町並みが見えました。逗子市教育委員会が設置した「お猿畠の大切岸(おおきりぎし)(→→→こちら)」の説明板がありました。この切り立ったた断崖が「お猿畠の大切岸」です。長さ800m以上にわたって高さ3〜10mにもなる切り立った崖が尾根に沿って連続する遺構で、従来から、鎌倉幕府が三浦一族からの攻撃に備えるために、切通の整備と一体のものとして築いた、鎌倉時代前期の防衛遺構だと言われてきました。しかし、平成14年度(2002年)に発掘調査したところ、大切岸は、板状の石を切り出す作業(=石切り)の結果、最終的に城壁のような形で掘り残されたもの、つまり石切り場の跡だということが確認されたそうです。鎌倉では、ここに見られるような「鎌倉石」と呼ばれる凝灰質砂岩の大規模な切出しが行われて丘陵部における平坦地が造成され、同時に切出したこれらの岩を破砕して道路の舗装材に使用したり、切石にして建築物の基礎や側溝の護岸・井戸枠などの建材に使用したりしていたそうです。、しかしながら、大切岸に防御的な目的は一切なかったと即断はしていないようで、「吾妻鏡」の記事に見られるように、鎌倉は敵の攻撃を防ぐのに適した地形=要害と認識されていることから、このように大々的な石切りを行なっても、鎌倉の街を取り囲む尾根を安易に掘り割ることはせず、あえて城壁のような崖を残したのかも知れませんね。註)下に添付しているGoogleの地図では、山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。そのほか名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その9) お猿畠の大切岸
2024年04月15日
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名越切通にあった道標です。次は、道標に書いてあった「まんだら堂やぐら群」(→→→こちら)に向かいます。また切通しがありました。これが第二切通になります。まんだら堂やぐら群と書いた標識がありました。「やぐら」とは、鎌倉のそこここに見られる、切り立った岩肌にぽっかり空いた洞穴のことで、中世の墳墓だそうです。三方を山に囲まれ平地の少ない鎌倉で、やぐらは平地面積を削らずにできた唯一の墓ということになります。まんだら堂やぐら群は、例年、初夏と秋・冬それぞれ1ヶ月程度の期間の、土・日・月曜日と祝日のみ公開されているようで、訪れた2024年3月10日は公開の碑ではなく、門扉が閉ざされていて中へ入ることはできませんでした。門扉の鉄格子の隙間から中を撮影してみました。奥には150穴以上の存在が確認されている有数のやぐら群で、おそらく手前の平場には「やぐら堂」と呼ばれる建物が建っていたのでしょう。これだけまとまったやぐらを良い状態で見ることのできる遺跡は鎌倉市内にも少なく、たいへん貴重な遺跡だそうです。やぐらの中に並ぶ五輪塔は火葬した骨を納めるなどして供養するために建てられたものなのでしょうね。註)下に添付しているGoogleの地図では、山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。そのほか名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その8) まんだら堂やぐら群
2024年04月14日
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名越切通に向かって再び山道を歩きました。「名越切通」(→→→こちら)についての説明板がありました。名越切通は鎌倉時代に整備された「鎌倉七口(鎌倉に入るために開削された切通し)」のひとつで、鎌倉と三浦半島を結ぶ要路として、明治時代まで使われていたもので最も狭い部分の幅は約0.9mになっているそうです。しかし、発掘調査によると、かつては3m近くあったが、地震で崖が崩れて狭まったことがわかっているそうです。現在の名越切通には三ヶ所の切通が残っていて、MoMo太郎が入ってきた逗子市の亀ケ岡団地側に近い方からそれぞれ第一切通、第二切通、第三切通と呼ばれています。こちらはその第一切通になります。「名越」の名は、この道が峻険で「難越」(なこし)と呼ばれたことに由来すると言われているそうです。この第一切通がもっとも大きく深く切り立っています。切通が造られたのは、鎌倉を囲む山の岩盤は柔らかく掘りやすいためだと言われています。切通し露出した岩は、おそらく凝灰質の岩だとおもわれます。鎌倉に分布する地層は、約700万~200万年前に、この海溝よりも陸側の海底斜面に、陸から流れ込んだ土砂や火山噴出物が堆積してできたものです。この地層が、海洋プレートの強い圧力で陸側に押し付けられ、隆起したと考えられています。鎌倉の地層には、砂や泥に、火山灰や火山礫が混じった「凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)」や「凝灰質泥岩(でいがん)」が広く分布しているそうです。この岩も凝灰質砂岩なのでしょうか。註)下に添付しているGoogleの地図では、山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。そのほか名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その7) 名越切通
2024年04月13日
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披露山公園の次は名越切通に向かいます。今度はまた山を下りますが、その道の途中からも江の島と富士山の姿が望めます。逗子市と鎌倉市の丘陵に広がる住宅団地です。こういう山を切り開いた所に住むには、坂道の上り下りで足腰が鍛えられていいかもしれませんね。披露山公園から下ってきた道です。本当はこちらが披露山公園の一般向けの入口なんですね。いったん下ってきましたが、また登り坂が始まりました。なかなかのきれいな住宅街の中を歩きました。住宅街の道、碁盤の目のようになっていのですが、ちょっと道が合っているかどうかよくわからなかったので、住宅案内図で行き先を確認しました。そして、住宅街が終わるところで、国指定史跡名越切通(→→→こちら)の入口になります。註)下に添付しているGoogleの地図では、山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。そのほか名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その6) 住宅街の中を歩く
2024年04月12日
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逗子にある披露山の山頂(標高92m)に向かって山道を歩いて行きました。今回はこのような山道を歩くと想定してトレッキングシューズを履いてきて正解でした。山道の途中で振り返ると逗子海岸が眼下に広がり、山道を登ってきた甲斐がありました。「披露山」には、古墳時代末期ごろからは古東海道が通り、古くから交通の要衝で、鎌倉時代には有力御家人が別邸を構えたと言われています。また、その名前の由来は、源頼朝がこの山で御家人たちを集めて、手柄者や、全国から献上された貢ぎ物を披露したことからこの山の名がついたとの説があるそうです(→→→こちら)。しかし、手下の武士たちに山道を登らせて、山の上に呼んで、貢ぎ物をみんなに見せるとは、源頼朝もとんだパワハラ野郎ですよね。そして、山頂近くまで登ると、駐車場があり、次回来る時はクルマで来ようと思いました。山頂は披露山公園(→→→こちら)として整備され、逗子市全景、江の島、相模湾の海岸線、富士山などを一望できる公園となっています。これが披露山公園の案内図です。ここでは、ニホンザルを飼育している猿舎、ミニ動物園、展望台そしてレストハウスなどの施設が揃っていますよ。披露山公園は、戦時中は海軍の小坪高角砲台として2連装12.7センチ高角砲2基と高射装置(Director)を備えた鉄筋コンクリート製の円形砲座3基と、同じく鉄筋コンクリート製の半地下式の指揮所があったそうです。そして、砲台のすり鉢型の砲座跡を猿舎と展望台、花壇に利用されて、指揮所跡にはレストハウスが設けられているそうです。手前の円形の花壇と奥に見える展望台がその砲台の跡に設けられたものでしよう。こちらは砲台跡に設けられた猿舎です。ニホンザルが飼育されていました。仮に将来、この猿舎を廃止することになったら、ここで飼われていたサルは山に戻しても生きていけないでしょうし、別の動物園の猿舎へ譲渡したとしても、譲渡先のニホンザルのグループの仲間に入れてもらえるかどうか難しいでしょうね。展望台からは相模湾の眺望を満喫できます。江の島と富士山です。折角の眺め、もっと上手く撮影できるようになりたいです。こちらがミニ動物園。カメ達がのんびりと日向ぼっこしていました。こちらはモルモット。クジャクも飼われていました。どの動物の写真も雑な撮影ですみません。こちらが指揮所跡にできたレストハウスです。さて、披露山公園の駐車場にあったこの石碑は、「尾崎行雄記念碑」です。碑文は「 人生の本舞台は常に将来にあり」と記されています。この碑文、10代、20代の若い人なら心に響くかもしれませんね。こちらには尾崎行雄(→→→こちら)記念碑についての説明が書かれていました。「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれた尾崎行雄は、昭和2年(1927年)70歳のとき、この碑の直ぐ下に「風雲閣」と名づけて居を構えます。そして、終戦直後には、日本の進むべき道について、教えを請う人たちで溢れたのだとか。昭和29年10月に、この地で95歳の天寿を全うしたそうです。註)下に添付しているGoogleの地図では、山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。そのほか名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その5) 披露山公園
2024年04月11日
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逗子海岸を西の端まで歩くと、山の斜面に建てられたお寺があります。その下にある小さな公園にあった「蘆花之故地」という木製の記念碑がありました。揮毫は、字が薄くなり見えにくくなっていましたが。文学博士藤原楚水という方のようでした。記念碑の裏面には、徳冨蘆花の簡単な経歴が書いてりました。明治30年(1897年)から明治33年(1900年)にかけて蘆花は逗子に居住し、「不如帰」、「青山白雲」、「自然と人生」、「思ひ出の記」等の作品を書いたそうです。不如帰(帰るに如しかず)つまり「かえりたい」と書いて「ホトトギス」と読むのは、古代中国の蜀の望帝・杜宇が、家来の妻と不貞を働いたために退位させられます。望帝は不徳を恥じ国を逃れたものの、その後復位を望みますが叶わずに亡くなり、ホトトギスに姿を変えて「不如帰(かえりたい)」と泣いたという故事に由来するそうです。それから、「ホトトギス」が望郷の念を募らせる鳥となったようで、蘆花の小説「不如帰」も海軍少尉の武男とその妻で結核で亡くなった浪子の物語ですから、不如帰というタイトルは、上手くつけられたものですね。石段を登っていくと、斜面にあったお寺は「浪子不動高養寺」(→→→こちら)というそうです。高養寺は、元々は「白滝不動」「小滝不動」「浪切不動」と呼ばれていた漁師の守護仏であっそうですが、明治時代、逗子が徳冨蘆花の小説「不如帰」(→→→こちら)の舞台となり、ヒロインの「浪子」から「浪子不動」と呼ばれるようになったそうです。「高養寺」という名称も、昭和の初期、関西画壇の一人、黒住章堂が出家入道し葉山慶増院に入り、時の首相高橋是清(1854年〜1936年)と犬養毅(1855年〜1932年)の援助を受けて本堂を建立し、堂内の天井画と襖絵を描いた。寺名も後援者のそれぞれ一字をとり高養寺と改めたそうです。境内の隅に二つの説明板がありました。MoMo太郎と同じ駅からハイキングの参加者のお姉さんが熱心に読まれていました。「逗子海岸葛ヶ浜の隆起海食台」の説明がありました。浪子不動の下にある海岸は、7000年前の縄文時代から少しずつ波によって岩盤が削られ、こうしてできた海底の岩礁が地震で隆起したものらしいです。そして、MoMo太郎は見落としていたのですが、この「浪子不動(高養寺)と不如帰の碑」によれば、徳富蘆花の兄蘇峰の筆で不如帰と刻まれた石柱が葛ヶ浜の隆起海食台の上に立っているそうです。その「不如帰の碑」の写真はこのリンク先(→→→こちら)を見て下さい。この石碑は海中に建てられていますが、干潮時には碑の傍まで歩いていくことができるそうです。そして、つぎの目的地の披露山公園に向かって、この山道を登って行きます。註)下に添付しているGoogleの地図では、この山道を歩くコースを表示できなかったため、大回りしたコースを歩いているように見えます。また名越切通や大切岸へのコースも同様に実際に歩いたコースとは違うコースが表示されています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その4) 「蘆花之故地の碑」と浪子不動
2024年04月10日
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3月10日に駅からハイキング「逗子の春色・春風を感じる自然の回廊」のレポートの途中ですが、やっぱり桜が満開の今の時期、MoMo太郎も人並みにお花見してきた報告ということで、4月7日(日)に東京都西部の多摩地区にある羽村市で開催されていた「はむら花と水のまつり2024」(→→→こちら)を訪れてきました。羽村市を歩いた記録は後日、改めてレポートするよていですが、多摩川沿いに咲いた桜の花をお楽しみ下さい。 桜つづみ公園と名付けられた、多摩川沿いの堤防の桜並木です。満開の桜の下を歩きました。開花したばかりの桜の花です。全体的に白いですね。見事な紅枝垂れ桜も咲いていました。これは国の天然記念物に指定されている「三春の滝桜」(→→→こちら)を羽村市福島県人会から寄贈されたんですね。人気ブログランキング「はむら花と水のまつり2024」に行ってきました。
2024年04月09日
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逗子海岸にやって来ました。富士山が見えるなかなかの映えスポットです。訪れた時期は3月10日で、富士山はまだ雪に覆われていましたが、逗子からこんなに近くに富士山が見えるとは思ってもみなかったです。逗子海岸には「太陽の季節」文学記念碑がありました。作家であり政治家でもあった石原慎太郎(1932-2022)が昭和30年(1955年)に発表したデビュー作「太陽の季節」の芥川賞受賞50周年を記念して立てられたもので、岡本太郎制作の「若い太陽」のオブジェが付けられた碑には「太陽の季節ここに始まる」と刻まれています。「太陽の季節」(→→→こちら)は、昭和31年(1956年)には日活から映画化され、この逗子市や三浦市で撮影されていました。また作者の石原慎太郎も逗子に居住していたそうですね。逗子海岸(→→→こちら)は遠浅の海岸で逗子海水浴場としても知られていますが、まだここで泳ぐには早すぎるようでした。でも、多くの人がウインド・サーフィンを楽しんでいました。また、沖合にはヨットも出ていて、マリンスポーツのメッカなんですね。波も穏やかですね。細砂で、貝殻や砂利や泥が少ない砂浜の波打ち際は散歩にも最適ですね。ちなみに足腰を鍛えたい方は、乾いた砂浜を歩かれた方が、いいかも。足が砂にめり込んで、結構、脚にきますよ。大型犬を連れて散歩されている姿も、なんとなく優雅な感じがしますね。しかし、このワンちゃん達が砂浜でオシッコやウンチするとしたら、砂浜で海水浴して砂遊びというのもなんとなく衛生的には問題があるのかな?【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その3) 「太陽の季節」記念文学碑と逗子海岸
2024年04月08日
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さて、「駅からハイキング 逗子の春色・春風を感じる自然の回廊」のスタートです。まずは逗子と言えば海。逗子海岸に向かって歩きます。逗子駅から「逗子銀座通り」という通りを歩いていきました。銀座という名前の付く商店街って全国にあるんですね。この川を渡ります。田越川という川でした。この河口が逗子海岸になります。赤く塗られたこの橋は冨士見橋というそうです。京都の五条大橋を模して架けられたのだとか(→→→こちら)かってここには養神亭(→→→こちら)という旅館があり、養神亭の「神」は精神の「神」で、すなわち心を養うという意味だったそうです。なかなか有名な旅館だったらしく、ここで、徳冨蘆花が「不如帰」という作品を執筆したり、大正天皇の病状の悪化が伝えられると、発足したばかりの若槻内閣の閣僚が養神亭に宿泊し、その結果養神亭に内閣を引越しさせることを閣議決定したそうです。また、冨士見橋からは文字通り富士山が見えたそうです。その養神亭は、現在は廃業しており、その跡地には渚マリーナというヨット、モーターボートなどのプレジャーボート類を係留・保管する施設になっています。このマリーナは、2006年神奈川県が行う不法係留船対策の一環として整備されたそうです。このクレーンを使って船が田越川に降ろされて、いまから出港しようというところでしょうか。マリーナの向こうには富士山の姿が見えています。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その2) 逗子海岸へ向かって
2024年04月07日
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2024年3月10日、やって来ました高輪ゲートウエイ駅。令和2年(2020年)3月14日に開業した新しい駅です。この駅で降りて、そして、京浜急行の泉岳寺駅へ行きました。泉岳寺駅は、昭和43年(1968年)開業の駅で、都営地下鉄の浅草線と、京急の本線が乗り入れており、京急本線の東京都側の終点になります。ここから京浜急行の三崎口行特急に乗りました。ここで昭和5年(1930年)開業の金沢文庫駅で、逗子・葉山行の逗子線の急行に乗り換えました。そして京浜急行逗子線の終着駅、逗子・葉山駅にやって来ました。令和2年(2020年)3月14日に駅名を「新逗子」から「逗子・葉山」に改称されたためため、旧駅名の「新逗子」が副駅名として添えられています。ちなみにこの駅も開業は昭和5年(1930年)になっています。ところで、逗子の「逗」のしんにょうの点の数が一点ではなく二点になっていますね。「しんにょう」にはこのように「一点しんにょう」と「二点しんにょう」というものが二つあるそうです。それは、戦前の印刷文字では,点二つの「しんにゅう」が一般的でした。戦後,昭和21年に「当用漢字表」が内閣告示として実施され,一般社会で用いる漢字の範囲として1850字が定められます。さらに,昭和24年に「当用漢字字体表」が定められ,当用漢字表の1850字の字体が決定されました。その際,「しんにゅう」の漢字は,点一つに統一されたのです。一方,当用漢字表に入っていない漢字の印刷文字は,原則として点二つのまま用いられてきたからだそうです。(→→→こちらさて、その後日本語のワードプロセッサー(ワープロ)が開発され普及しはじめると。ワープロなどの情報機器にはJISコードの漢字が搭載されました。このJISでは当用漢字以外は印刷物に使われている印刷文字を優先して採用しているため、例えば「二点しんにょう」の「辻」がパソコンでは入力出来るのですが。「一点しんにょう」のは異字体としてしか入力できません。全国の「一点しんにょう」の辻さんお困りかもしれませんね。こちら逗子・葉山駅の南出口です。円形の屋根がちょっと凝っていますね。逗子までやってきたのは、JR東日本が催行している、「駅からハイキング 逗子の春色・春風を感じる自然の回廊」に参加するためなので、京浜急行の逗子・葉山駅からJRの逗子駅に行って、参加の登録をしました。ちなみにJRの逗子駅の開業は、明治22年(1889年)です。(逗子市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング逗子を歩く(その1) 高輪ゲートウェイ駅から逗子葉山駅へ
2024年04月06日
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静岡県の知事が辞職されるというニュース(→→→こちら)を聞いて、生きているうちに大阪までリニアモーターカーで行くことができるという喜びを感じているMoMo太郎です。さて、新年度となって、新しく通勤通学で鉄道を利用された方も多いと思いますが、そんな通勤列車の中で見たこと感じことを書いています。【外国人の親子連れ】最近、朝の通勤電車の中で度々見かける、外国人の父親、息子、娘の三人の親子連れ。話している言葉からはフランス語っぽく聞こえたのですが、父親の服装はカジュアルで会社員のようには見えません。男の子は小学校の高学年くらい、女の子は小学校の低学年と言った感じですが、二人ともランドセルやカバンというのも持っていません。よく見かけるので観光客というのでもなく、やっぱり日本に住んでいるのだろうと思いますが、一体どんな暮らしをしているのか気になりました。【ドアにもたれてゲームをするな】背を向けてドアにもたれかかってゲームをしていた若い男性、駅についてもたれかかっている側のドアが開くことに気がつかず、そのままドアが開いて、後ろにのけぞれそうになったけど、何とか持ちこたえて転ぶことはなかった。しかし、そのまま転んでケガでもしたら、救護のため列車が遅れて乗客は迷惑するところでした。ゲームをするのもいいけど、周りにには気を付けて欲しいものです。【マタニティーマークはよく見えるにして下さい】電車の座席に座っていると、目の前にお腹のあたりがやや膨らんでいるかなという感じの女性が立った、妊婦さんかもしれないと思い、マタニティーマークを探したが見えなかった。MoMo太郎の配偶者のように妊娠していないけどお腹のあたりが膨らんでいるだけなら、席を譲るのもなんとなくバツが悪いなと思っていると、女性が降りる時に肩から下げたショルダーバッグの背中側にマタニティーマークが着いるのが見えました。少子高齢化の進む日本で妊娠されている方は大事にしたいと思っているので、マタニティーマークはよく見えるようにして下さい。少子化に歯止めをかけるべく、微力でも妊婦さんが増えるように努力したいと思うMoMo太郎でした。人気ブログランキング通勤沿線 気になるあの人(その6)
2024年04月05日
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皇居の乾通りから靖国神社へやって来ました。靖国神社といえば、、明治維新以後の国家のために殉難した人の霊(英霊)246万6千余柱を祀る神社ですから、こういう「出征を見送る家族の像」というのが建立されているのも、納得ですね。花見客目当てのキッチンカーも出張ってきています。昔は露店が並んでいたように記憶していますが、これも時代の流れですかね。こちらの第二鳥居から、いよいよ神聖な場所に入るという感じになります。神門の前です。東京の開花宣言のあった翌日の土曜日ということもあって、かなり大勢の人が参拝に来られて混雑していました。こちらの桜の木が、東京の開花宣言を判断する標本木です。確かに、開花していました。気象庁が正しいことをMoMo太郎も確認しました。ということで、拝殿にお参りしました。この神社のご祭神は、幕末の志士に始まり、日本を守るために戦ってきた軍人、軍属等の戦没者、つまり英霊と呼ばれる方々、その他、台湾神宮および台南神社に祀られていた北白川宮能久親王(→→→こちら)及び蒙疆神社(張家口)に祀られていた北白川宮永久王(→→→こちら)になります。ちなみに英霊の中には、太平洋戦争の結果、戦争犯罪犯罪人として裁かれた東条英機のような人も含まれているというが、色々と問題を生んでいるみたいですね。境内では野点の席なども開催されていて、気分はお花見というところでしたが、訪れた3月30日の時点では、桜もちらほら咲きといったところで、お花見にはちょっと寂しいところではありました。【了】人気ブログランキング皇居乾通り一般公開に行ってきました(その4) 靖国神社の桜
2024年04月04日
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