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首都高速のパーキングエリアって利用されたことがありますか?MoMo太郎、二十数年ぶりに首都高速パーキングエリアで、用を足したくなって利用しました。辰巳第二パーキングエリアは、湾岸高速を千葉方面から走ってきて、首都高速の木場方面へ抜ける辰巳ジャンクションにあります。パーキングエリアからは、豊洲にあるタワーマンション群が見えました。タワーマンション、最上階に住んでいると、どんな気持ちなんでしょうかね。マンションも高いけど年収もお高いんでしょうね。こちらのマンションの屋上にあるのは何なんでしょうか。宇宙からの電波をキャッチするアンテンナみたいですが、それとも貯水タンクの大きいものでしょうか。恐竜橋とも呼ばれる東京ゲートブリッジ(→→→こちら)も見えました。確かに恐竜みたいですね。人気ブログランキング首都高速のパーキングエリア
May 4, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。JR四ツ谷駅に近づいてくると大きなビルが見えてきます。これは「CO・MO・RE YOTSUYA(コモレ四谷)」(→→→こちら)という大規模複合施設だそうで、平成28年(2016年)9月に着工し、令和2年(2020年)1月に竣工、9月にまちびらきしたそうです。中には、商業施設、オフィス、クリニック、住居、教育施設、体育施設、そして文化国際交流拠点として国際交流基金と国際観光振興機構が入居しています。中にはコモレビの広場という広場があって、この建物の中だけでちょっとした町になっているように感じました。外堀通りの向こう側に四ツ谷駅が見えてきました。四ツ谷駅の四谷口にある石碑です。外堀桜植樹記念碑(→→→こちら)というもので、明治33年(1900,年)に相澤三郎兵衛ら8名が建立したものです。明治29年(1896年)より、建碑者らによって四ッ谷駅前から外堀沿いに桜を植樹したことを記念して建立されたそうです。四ツ谷駅から中央線に乗って帰りました。人気ブログランキング新宿彷徨(その96) CO・MO・RE YOTSUYA(コモレ四谷)
May 3, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。JR四ツ谷駅に向かって、三栄通りを歩いていきます。新宿通りに並行して、一直線で駅に向かった通りです。津の守通りから入って、次の交差点に新宿歴史博物館(→→→こちら)石碑がありました。新宿歴史博物館については、すでに新宿彷徨のシリーズで紹介してたので(→→→こちら)、今回は訪れませんでした。四谷三栄町にあるので、三栄通りというのですが、1943年(昭和18年)4月1日に 箪笥町・北伊賀町・新堀江町の3つの町が合併し「三つの町が栄えるように」という願いから三栄町という町名にしたそうです。通りに面したこのビルに、ちょっと気になる出版社がありました。天文・水産系の学術書を出版している恒星社厚生閣(→→→こちら)です。人気ブログランキング新宿彷徨(その95) 三栄通りを歩く
May 2, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。四谷の荒木町は「策の池」を底にしたすり鉢状の地形になっいるので、北の靖国通りに抜けていかないと、どうしても坂の上り下りがついてまわりますね。ということで、この坂を登ってJR四ツ谷駅に向かいます。この坂、というか階段。フランスのモンマルトルの丘に似た光景からとったこちら新宿荒木町のモンマルトルの坂(→→→こちら)と呼ばれているそうです。階段の途中で振り返ってみました。ビルばかりの街並みですね。坂はまだまだ続きます。モンマルトルの坂を登ると、津の守坂通り(→→→こちら)に出ました。人気ブログランキング新宿彷徨(その94) モンマルトルの坂
May 1, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。荒木町にある雑居ビル群に囲まれたお椀のようなスリ鉢地形の空間にやってきました。ここにあるのが津の守(つのかみ)弁財天です。ここにあるのが、「策の池(むちのいけ)」です。徳川家康が鷹狩りの際に井戸水で策(むち)を洗い、その澄んだ水が滝となりこの池に注いでいたので、策の池と呼ばれるようになったそうです。昔は大きな池だったのかもしれませんが、滝もなく、わずかな湧き水でこの池の痕跡をとどめているんでしょうね。この策の池についての説明板がありました。江戸時代の古書「紫の一本」によれば徳川家康がタカ狩りの時近くにあった井戸水で策を洗ったので策の井戸と呼び澄んだこの水が高さ4メートルに及ぶ滝となりこの池に注いでいたので策の池と呼ばれ「十二社の滝」「目黒不動の滝」「王子の名主の滝」等と並び江戸八井のひとつとして庶民に愛されていました天和3年(1683)美濃国高須藩々主松平摂津の守がこの付近を拝領し上屋敷としましたので庶民から遠のきましたが約190年後の明治5年(1872)時の政府による廃藩置県の発令でこの池が開放され明治7年(1874)荒木町として住民の町となりました 人々は藩主の名を慕い「津の守」と呼び今なお愛称されています 現在では湧き水は減って池も埋まりこの滝つぼ跡に昔の語り草をわずかに残しています古来池のほとりにあった弁天祠を昭和31年(1956)崇敬者によって現在地に遷座再建し「津之守弁財天」の御神明で町民の守り神としてお祭りし御加護を受けています 平成17年(2005)乙酉卯月 荒木町々会 解脱会池のほとりの岩の上にあるのが、津の守弁財天です。ここもかっては松平摂津守家の庭園内だったところで、津の守とは「摂津の守」からとった名称でなんでしょうね。人気ブログランキング新宿彷徨(その93) 津の守弁天と策の池
Apr 30, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。荒木公園からこの坂道を下ってみました。途中で見かけた、今は使われていない昔のコンクリート製の街灯。こんな木造の古いアパートもありました。よく残っているものだなと思いました。人気ブログランキング新宿彷徨(その92) 昭和レトロな荒木町
Apr 29, 2026
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いよいよ明日から待望のゴールデンウィーク。ということで4月最後の職場でのランチは、ちょっと贅沢に外に出て、松屋の牛めし(460円税込み)を頂きました。松屋って、この牛めしにしてもカレーライスにしても、何故か味噌汁がついてきます。また、「牛丼」と呼ばす「牛めし」というのかを、「ちょっとGPT」に聞いてみました。チャットGPTのお答えは、創業者のこだわりと差別化: 吉野家の牛丼と区別し、独自のブランドイメージを確立するため「牛めし」と名付けられました。でした。ところで、今年の9月20日~23日も連休となりますね。これで19日の土曜日も休めたなら、5連休です。こんなに休んでいいんでしょうか?人気ブログランキング孤独のグルメ 牛めし
Apr 28, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。金丸稲荷神社の横にあるのは、この荒木公園です。この公園にあった高い木と二つの案内板がありました。ひとつは「松平摂津守家上屋敷跡について」という案内板でした。江戸時代、荒木町一帯には、美濃国高須藩主(現在の岐阜県海津市付近を領地とした藩)松平摂津守(近くの津の守坂はこれに因む)の上屋敷がありました。屋敷内には滝を伴った大池があり、回遊式庭園となっていましたが、この池は徳川家康が鷹狩りの帰りに策を洗ったという伝承があり『策の池』と呼ばれます。池は、明治時代には一般に開放され、景勝地、花街として賑わいました。『策の池』は現在もその一部が残っており、『カッパ池』と『津の守弁財天』として親しまれています。なお、荒木町の『車力門通り』は、上屋敷の甲州街道口にあった『車力門』に因むものです。幕末期、藩主松平義建の子としてこの屋敷に生まれた兄弟のうち、二男義勝は尾張徳川家、五男茂徳(後の茂栄)は御三卿一橋家、七男容保は会津松平家、八男定敬は桑名松平家を継承しました。兄弟は幕府方と新政府方に分かれ、立場を異にしましたが、『高須四兄弟』と呼ばれ、激動の時代を生き抜きました。ちょっと幕末の歴史の勉強になりました。そして、こちらは「ナツメの木の由来について」という案内板です。案内板にはこう書かれていました。 この木は、1905年(明治三十八年)一月五日に、日露戦争で旅順攻略の任にあった乃木希典日本陸軍第三司令官と露西亜軍ステッセル軍司令官が旅順開城規約締結の会見を行った水師営(現在の大連市水師営鎮小南村)の民家にあったナツメの木の二世として、地元に古くから語り継がれている木である。 このナツメの木は、かつて市ヶ谷にあった大日本帝国軍の士官が、会見が行われた水師営の民家を訪れた際に、記念の証としてナツメの苗木を日本に持ち帰り、士官たちがよく通った荒木町の料亭の庭先に植えられた。その後、成長したこのナツメの木は、関東大震災の難にも逃れ、東京大空襲では痛手を被ったが、奇跡的に芽を噴出し蘇ったと伝えられている。平成十二年には、マンション建設のため、一時は、抜粋の危機にも見舞われたが、地元の熱意により、この木は、無事に荒木公園内に移植され、老木にも係わらず、毎年可憐な実を実らせ、来園者に親しまれている。 水師営のナツメの木は、『昨日の敵は、今日の友』で有名な小学唱歌『水師営の会見』の歌詞の一節に「庭に一本棗(ひともとなつめ)の木…」と謳われている。作詞をした歌人であり国文学者であった佐佐木信綱は、作詞にあたって、正確を期すため、乃木大将から当時の会見模様を面接伺った折に、会見場所の庭の木について尋ねたところ、「そう言えばナツメの木が一本あったのう」と答えられたと、後年著書で記している。 日露戦争をはじめ、荒木町の歴史遺産として、この名木の由来を、後世に語り次ぐ。ここ訪れたのは8月の夏の盛り、ナツメの実がなっていましたが、この実はビタミン豊富で食用や薬用になるそうですね。人気ブログランキング新宿彷徨(その91) 松平摂津守家上屋敷跡
Apr 27, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。車力門通りを更に進んでいくと、小さな神社がありました。神社の玉垣には、伊勢丹という有名百貨店の名称や四谷三業組合の名称が刻まれていました。三業とは料理屋・待合茶屋・置屋(芸者屋)のことで、ここ四谷荒木町(→→→こちら)って、むかしは花街という大人の遊び場だったんですね。こちらが社殿となります。「金丸稲荷神社」と刻まれた社号碑がありました。また金丸稲荷神社由来という石碑もありました。これによると、この神社は、美濃国高須藩主松平摂津守上屋敷の守護神として天和3年(1683年)に創建されたものだそうです。その後は和合繁栄財宝出世安全又火伏せの神として崇められており、度重なる江戸の大火を免れ、更には大正12年の関東大震災にもその災禍を免がれたりと伝えらているそうです。昭和20年5月24日の東京大空襲に際しては惜しくも全町が焦土となったものの町民には一人の死者もなかったそうです。関東大震災で浅草や向島という花街には被害があったけど、荒木町には被害がなかったということで、繁盛したんでしょうね。人気ブログランキング新宿彷徨(その90) 金丸稲荷神社
Apr 26, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。新宿通りから北に向かう路地がまたありました。こちらの通りの名称は、「車力門通り」。新宿区の建てた標柱によると、江戸時代、荒木町が松平摂津守の屋敷だった頃「車力門横丁」と呼ばれ、物資が屋敷へ荷車で持ち込まれていた。とありました。今では商店や飲食店が並ぶこの通りも、江戸時代には美濃国高須藩三万石藩主の松平摂津守の上屋敷があったのですね(→→→こちら)。この通りにも個性的な大人の隠れ家的な飲食店がありますね。と思ったら、結構近代的なビルもありました。金融財政事情研究会(→→→こちら)という団体のセミナーハウスだったんですね。この横丁は隣の杉大門通りにつながっています。このあたり、新宿のゴールデン街とは違った、知る人ぞ知ると言った感じの大人の遊び場なんでしょうね。人気ブログランキング新宿彷徨(その89) 車力門通り
Apr 25, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。杉大門通りの隣ある路地です。目立たない路地ですが、「柳新道通り」とちゃんとした名前がついています。かつてはここに柳の木が植えられていた新しく作られた道ということなんでしょうか。中に入っていくと、こちらも飲食店が立ち並ぶ、隠れ家的な路地ですね。またこの道から分かれていく秘密の通路みたいな路地がありました。この先は別の通りにつながっています。柳新道通りはここで行き止まり。右折して、杉大門通りに戻りました。人気ブログランキング新宿彷徨(その88) 柳新道通り
Apr 24, 2026
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今日、電車の中で夏の白い制服を着た女子高生を見ました。その話を家でしたら、男子も夏服になっていた?と家の者に聞かれて、男子高生はどうだったか覚えていないかったです。というよりも、老眼が進んで、女子高生は見えても、男子高生は見えなくなっているのかも知れません。心配です。眼医者さんに行ったほうがいいでしょうか。そんなMoMo太郎ですが、新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」を再開します。外苑東通りを渡って、舟板横丁と呼ばれた通りを歩いてみました。外苑東通りの1本裏道で、シティタワー四谷の裏の路地。新宿通りから入って北へ向かって全勝寺へ向かうのが舟板横丁です。こちらは外苑東通りから新宿通りの方を見た写真です。舟板横丁とよばれたのは、この地域で伐採された杉材を造船に使っていたためで、今はビルが建っているあたりが、江戸時代は杉並木だったのでしょうね。新宿通りに出ると、大角玉屋(おおすみたまや)四谷店がありました。大角玉屋(→→→こちら)といえば、新宿の曙橋に本店を構え、100年以上の歴史を持つ和菓子店ですが、昭和60年(1985年)に発売された「いちご大福」が看板商品で。「いちご大福」の元祖とされています。しかし、この「いちご大福」、MoMo太郎は苦手です。砂糖のしつこい甘味といちごのちょっと酸味のある爽やかな甘味が打ち消しあって、また柔らかい大福の食感といちごのしっかりした食感のマッチングも食べていて気持ちがいいものではないです。どうして、人気があるのか不思議です。そして、こちらの通りを歩きます。杉大門通りと呼ばれる通りです。江戸時代、この地の北にある全勝寺には大門があり、門に至る横丁には杉の並木があった。という解説のある新宿区の標柱がありました。杉大門通りにある商店街の案内図です。結構、沢山のお店がありますね。ちょっと、昭和を感じる飲食店が多く立ち並んでいます。ちょっと隠れ家的な大人の街です。400mくらい歩くと、外苑東通りに出ました。人気ブログランキング新宿彷徨(その87) 杉大門通り
Apr 23, 2026
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旧鍛冶町の鍛冶町通りと旧日光街道が交わる地点に塀を軽く超す塔身の石造物が置かれていました。これは日光街道を行き交う人々の目印になるよう建てられた道標で、旧日光街道古河宿道標(→→→こちら)として古河市の文化財に指定されていました。古河市指定文化財・有形民俗文化財日光街道古河宿道標昭和五十二年四月四日指定寛永十三年(一六三六)に徳川家康をまつる日光東照宮が完成し、江戸と日光を結ぶ日光街道が整備された。その途中にある古河宿は、日光社参の旅人などの往来でひときわ賑わうようになった。日光街道は、江戸から古河に至り、二丁目で突き当たり、左が日光道、右が筑波道と分岐するように作られた(絵図参照)。その分岐点に、人々の往来の助けにと建てられたのがこの道標である。この道標は文久元年(一八六一)に太田屋源六が願主となり、八百屋儀左衛門ほか一一名によって建てられたもので、常夜灯型式の道標として貴重なものである。文字は北山霞外・梧岡・遜堂という父・子・孫三人の書家の揮毫である。平成二十年一月 古河市教育委員会丁度、この交差点で日光街道がクランクのようになっていて、日光方面から見ると「 右 江戸衜」。江戸方面から見ると「左 日光道」と道標に刻まれています。この道が、江戸時代の日光街道になり、この道を辿っていくと江戸に行けるのですね。鍛治町通りを東に進むと、この蔵造りの建物が残っていました。鍛冶町の由来は江戸時代に野木町野渡から鍛冶職人が移転したといわれていますが、明治期以降は卸問屋の町として栄えてきました。そして、鍛冶町通りには、明治から大正期の店蔵・煉瓦蔵・座敷蔵などの伝統的な町屋が現存しています。この蔵は、街中再生プロジェクト事業として「みらい蔵」(→→→こちら)という名称の地産地食による食のコミュニティ施設として利用されています。、みらい蔵から、JRの古河駅に戻って来ました。古河の町、結構見どころがあって楽しいウォーキングが出来ました。(花桃の里古河を歩くコース)>【了】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その14) 旧日光街道古河宿道標と蔵の町
Apr 22, 2026
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古河の町の中に戻って来ました。この建物は、直木賞作家で数々の歴史小説で有名な永井路子氏の旧宅で、今は古河文学館の別館「永井路子旧宅」(→→→こちら)として公開されています。入館料は無料です。永井路子氏(→→→こちら)は元々は東京本郷の生まれでしたが、母が一人娘だったため、母の実家を継ぐ目的で、血縁的には大叔父に当たる永井八郎治の長女として入籍し、3歳で古河市に転居し、高校まで古河で過ごしました。その後、東京に出て出版社勤務を経て作家になったそうです。ここでは、永井路子氏が住んでいた当時に近い状態に復元した店蔵は、江戸時代末期の建造と言われており、古い商家のおもむきを残していました。また、永井路子氏の幼少期から青春時代の写真のほか、永井路子氏の経歴を紹介するパネルや作品などが展示されています。こちらの建物は古河街角美術館(→→→こちら)です。入館料は無料です。古河街角美術館は、古河市ゆかりの作家を中心とした優れた美術作品の鑑賞の場として、また、美術分野における市民創作活動の発表の場として、平成7年3月に開館しています。この歴史を感じさせる建物は、平成3年春に開館した日本で初めての篆刻(てんこく)専門の美術館です。入館料は大人200円ですが、文学館・歴史博物館・篆刻美術館共通の入館券では600円です。建物は、大正9年(1920年)に建てられた商家の石蔵を改修したもので、平成10年(1998年)、「篆刻美術館表蔵棟(旧平野家表蔵棟)」・「篆刻美術館裏蔵棟(旧平野家裏蔵棟)」として、国の登録有形文化財に登録されています。篆刻は印章から発展したもので、約500年前に中国で始まった。篆書と呼ばれる二千数百年前の古文字を、軟質の石片や木片に刻み、朱色の印泥をつけて紙に押印し、印影を観賞するもので。書と彫刻が結合した工芸美術といえるものです。そして、この美術館は、元々は古河の篆刻家・生井子華(いくい・しか)の作品を展示する施設としてされてきたそうですが、その他有名な。篆刻家の作品も展示されています。また、古河市内小中学校生や全国高校生の篆刻作品展示も行わているそうです。(花桃の里古河を歩くコース)>【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その13) 古河の町にある美術館
Apr 21, 2026
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こちらの神社も古河城北西端の観音寺曲輪土塁上に建てられています。頼政神社(→→→こちら)という名称です。祭神は源三位頼政(正一位頼政大明神)。治承4年(1180年)に高倉天皇の兄宮である以仁王と源頼政が、平家打倒のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した事件(以仁王の挙兵)において、源頼政が平氏に敗れて平等院鳳凰堂にて自害した後、従者が頼政の首を笈にいれて持ち帰ったところ、下総国葛飾郡古河の立崎(龍崎)で笈が急に岩のように重くなったため、この地に塚をもうけて祀ったとされています。最初に埋められた立崎(龍崎)は、古河城内南端にあたりで今の新三国橋のあるあたりでしが、明治時代末に渡良瀬川改修工事のため削り取られて川底になってしまうことから、現在の地に移されたそうです。(花桃の里古河を歩くコース)>【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その12) 頼政神社
Apr 20, 2026
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古河の市街地の中に残る古河城の遺構を見て回りました。こちらにあったのが「古河城獅子ヶ崎土塁」(→→→こちら)です。土塁とは、敵や動物などの侵入を防ぐために築かれた、主に盛土による堤防状の防壁のことです。古河城のように平地にある城では、盛られる土塁は堀と組み合わせて作られ、堀を穿って生じた土を盛土に利用して作られたのでしょう。手前の案内板には、古河城の歴史と、この古河城獅子ヶ崎土塁についての説明が書かれている案内板もありました。「獅子ケ崎」は、戦略的要地として古河城内でもひときわ重要視されていた場所だったようでこの土塁は重要な防御施設だったんでしょうね。こちらは古河城追手門跡です。城の大手(正面)にあたり、敵の正面に攻めかかる軍勢(追手)を配置することから、城の正門(表門)のことを大手門とか追手門と呼んでいたそうです。(花桃の里古河を歩くコース)>【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その11) 古河城の遺構
Apr 19, 2026
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利根川水系渡良瀬川古河水位観測所という看板がありました。この施設が河川の水位を測っているんですね。しかし堤防のここまで水位が上がったら、古河の町のどこに逃げればいいんでしょうか。この近くにあったのが三国橋(→→→こちら)。思川が合流するこの地点は古河の渡しと呼ばれた渡良瀬川の渡河点でした。最初に三国橋が架かったのは明治14年。現在より上流の渡良瀬川と思川の合流地点に舟橋が設けられたそうです。渋滞緩和のため、先日紹介した新三国橋が建設されましたが、今でも交通量の多い橋のようです。群馬県北東部から栃木県南西部にまたがる足尾山地が三国橋の上から眺められます。はるかに見えたのは、日光火山群に属する男体山ですね。名称はわからないですが、足尾山地の山々もよく見えました。こちらは群馬県を代表する赤城山ですね。(花桃の里古河を歩くコース)>【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その10) 古河の渡し
Apr 18, 2026
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新三国橋を過ぎて、しばらく歩くと、石碑と案内板がありました。古河城本丸跡(→→→こちら)です。明治6年(1873年)に政府の廃城令によって城の取り壊しが決定し、翌年に建造物が破壊され、明治43年(1910年)に渡良瀬川の大規模な改修工事が始まり大正14年には城跡もほぼ消滅しています。ということで古河城は渡良瀬川の中に跡地として残っているわけですね。この色褪せてきた案内板に古河城の歴史が書いてありました。古河城は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、下河辺行平が古河の立崎(竜崎)に築いた城館に始まったそうです。周囲は沼地や渡良瀬川による天然の堀で守られていました。この地域は北関東と南関東を結ぶ水上交通の要地であり、物流や軍事上の重要性が高かったことから、城の立地は戦略的に選ばれたのでしょう。室町時代と戦国時代になると、鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に座を移し、古河城を本拠としたことで、城としての整備が進んだそうです。そして江戸時代に入ると、譜代大名が城主として入れ替わり、城郭の近代的整備が進められました。城の規模は南北約1,800メートル、東西350~400メートルで、出城の諏訪曲輪も含め関東有数の城郭でした。また、将軍の日光参詣の途中の宿としても使われました。そして、明治時代初期の廃城令により古河城は廃城となり、渡良瀬川の改修工事により城跡の大半が消滅しました。そして、退色している写真に写るのが、古河城の姿です。曲亭馬琴作の「南総里見八犬伝」で八犬士の犬塚信乃と犬飼現八が対決した芳流閣もここにあったんですね。と思って調べてみたら、芳流閣は架空の建物だそうですね。(花桃の里古河を歩くコース)>【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その9) 古河城本丸跡
Apr 17, 2026
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古河公方公園から渡良瀬川沿いの堤防の道に向かいます。この建物は、市営古河クリーンセンター、いわゆるゴミ焼却場ですね。渡良瀬川の堤防の法面には、菜の花が咲いていました。河川敷の高水敷(こうすいじき)にはサッカー場が整備されていました。でもこの高水敷は大きな洪水の時には水に浸かってしまいます。そして渡良瀬川を渡る五連アーチ橋が見えます。この橋は、群馬県の高崎市と茨城県鉾田市の太平洋岸を結ぶ国道354号のバイパス道路の一部をなす、新三国橋(しんみくにはし)です。名称の三国とは、下総国(茨城県)、下野国(栃木県)、武蔵国(埼玉県)の三国を跨ぐことに由来します。この橋が完成したのは、平成12年(2000年)に完成しまた。この橋の建設で古河市内を通らずに、対岸の埼玉県加須市(旧北川辺町)へは渡ることができたのですが、その先の群馬県板倉町までは歩道も無い狭隘区間が続き、途中に東武日光線の踏切があるなど幹線とは言えない状況が続いました。ようやく、平成30年(2018年)に板倉北川辺バイパスが開通したことで、群馬県館林と茨城県古河がほぼ一直線に結ばれ、交通状況が改善されることになりました。道路が良くなるのには随分時間が掛かるものですね。新三国橋を超えると、河川の高水敷に野球場があり、さらに渡良瀬川の西側に山地が見えました。。マイクロ波の中継塔の向こうに広がる山は赤城山でしょう。また視線を北に向けて望遠で撮影しました。真ん中のひときわ高い山は、多分、日光の男体山ですね。(花桃の里古河を歩くコース)>【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その8) 新三国橋
Apr 16, 2026
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「古河桃まつり」が開催されている古河公方公園(→→→こちら)にやって来ました。25ヘクタールにもおよぶ広大な公園で、入口も何か所かあり、こちらは徳源院口になります。徳源院は、5代古河公方足利義氏の息女・氏女(うじひめ)の法号に由来するお寺ですが、今はその跡が残っていて、「古河公方足利義氏墓所」として県指定史跡となっています(→→→こちら)。そして、こちらが今の正門です。こちらが公園内にある御所沼。御所沼は、鎌倉公方足利成氏が1455年に鎌倉から古河に移り初代古河公方となり、現在の古河公方館跡に鴻巣御所を構え、以後、古河公方とその子孫たちが、175年間鴻巣御所を使用しましたが、その鴻巣御所の周囲に広がる沼を何時の頃からか御所沼と呼ぶようになったそうです。しかし、昭和20年代に干拓によって水田になり消滅しましたが、古河公方公園として整備されて1975年開園したのち、1992-96年にかけて復元されたそうです。このように桃林が広がっています。また、古河桃まつり期間中は古河市の観光PRのために選ばれた桃むすめの方と記念撮影ができます。御所沼を復元したときの残土を積み上げて作られた富士見塚から目洗弁天池の方を撮影しました。公園内はこのような池が複数作られています。目洗弁天池は、目をすすげば眼病が癒えると伝えられた虚空蔵堂下にある御手洗池のことで、この池に湧き出すきれいな湧水で眼をすすげば眼病が癒えたのかもしれませんね。こちらにある芝生広場では、露店も出店されていて飲食が楽しめました。また、このようなステージが設置されていて、まつり期間中は郷土芸能やマジックショーなど様々なイベントが開催されるそうです。桃まつりなので、桃の木も撮影してみました。古河が桃林で有名なったのは、江戸時代のはじめ、徳川幕府の要職にあった土井利勝が、古河藩16万石の藩主になったおり、領内で薪が不足していたことから、江戸で家臣の子供たちに桃の種を拾い集めさせ古河に送って農民に育てさせたのが始まりです。桃は成長が早く、枝は薪になったといわれ、また果実は食料にもなったことから栽培が盛んになったそうです。しかしながら、大正期に発生した炭本病により桃林は壊滅してしまいましたが、昭和50年(1975年)の古河公方公園(古河総合公園)にあたり、江戸時代を偲ばせる花桃(花を観賞する桃)を植えて桃林を復活させたそうです。花桃にも色々品種があるようで、こちらは八重に咲く矢口という品種です。古河公方公園内の9割はこの品種だそうです。花つきもよくて見映えがしますね。また、公園では四季折々の花が楽しめるようで、こちらはカキツバタ園になっていて、5月から6月にかけては、カキツバタや花ショウブが楽しめそうですね。(花桃の里古河を歩くコース)>【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その7) 古河桃まつり
Apr 15, 2026
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次の目的地は「古河桃まつり」が開催されている古河公方公園ですが、その途中に見かけた長谷観音(→→→こちら)にお参りしました。長谷観音は、鎌倉・大和の長谷寺とともに日本三大長谷観音のひとつとうたわれているお寺だそうで、山号を明観山、院号を観音院、寺号を長谷寺というそうです。戦国時代の明応2年(1493年)、初代古河公方の足利成氏が古河城の鬼門除けとして、鎌倉の長谷寺から十一面観世音菩薩立像を勧請し、堂舎を建立したことが起源になるそうです。ちなみに、日本三大長谷観音と呼ばれる理由は、大和、鎌倉、古河の長谷観世音菩薩は一本の楠によって彫れ、大和の長谷観音様は楠の元木、鎌倉の長谷観音様は中木、古河の長谷観音様は楠の末木によって彫れたと口伝されていることによるそうです。こちらがお寺の山門になるのでしょうね。こちらが本堂です。輪袈裟と白衣を身に着けた本格的な巡礼姿の方が参拝されていました。巡礼の時は、袖なしの笈摺(おいずる)を着るのかなと思っていましたが、こういう袖のある白衣(びゃくえ)を着ているのですね。そういえば四国八十八ヶ所のお遍路さんを巡っていた義理パパと義理ママは、白衣で笈摺に朱印を捺してもらっていました。ちなみにその笈摺は義理パパの御遺体に着せて見送らせていただきました。この中に、長谷観世音菩薩様が安置されているのですね。(花桃の里古河を歩くコース)>【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その6) 長谷寺
Apr 14, 2026
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鷹見泉石記念館の隣にあるのが、こちらの建物です。奥原晴湖画室「繍水草堂」(→→→こちら)です。奥原晴湖(→→→こちら)とは、明治の南画界を代表する古河生まれの女流画家で、蘭学者の鷹見泉石は伯父にあたるそうです。奥原晴湖は、慶応元年(1865年)に江戸へ出て、上野摩利支天横丁に「墨吐煙雲楼」と看板を掲げた新居を構えて活躍していましたが、明治24年(1891年)埼玉県北埼玉晩年に古河藩領があった上川上村(現・熊谷市)に居を構え、画室を「繍水草堂」「繍佛草堂」「寸馬豆人楼」などと称して作品を発表していました。大正2年(1913年)、77歳で奥原晴湖が亡くなると、晴湖の甥にあたる池田多喜雄氏によって、昭和4年(1929年)に晴湖生誕地の池田家の敷地内に移設され、平成20年(2008年)、奥原家から古河市に寄付申し入れがあり、古河市歴史博物館南側に移築されたそうです。昭和4年に古河へ移築されたのは、熊谷にあった画室の一部だったそうですが、こちらへの移築にあたっては、すべてではありませんが、熊谷にあった当初のかたちをなるべく再現しているそうです。この縁側も熊谷にあったものの復元なのでしょうか。こちらの建物が古河歴史博物館(→→→こちら)です。そして、この博物館は、渡良瀬川の河川改修工事によって跡形も無くなった古河城本丸にあって、その東側に存在した出城であったにあった古河城出城 諏訪曲輪跡に建てられています。ちなみに古河城の出城とは、出城と古河城本城を隔てる百間堀にかかる土橋の御成道(日光山へ社参する徳川将軍の通る道)を守る橋頭堡として作られたものです(→→→こちら)。博物館内部の撮影ができなかったので、紹介できませんてせしたが、原始古代から近現代の歴史観はもとより、その他、古河藩家老鷹見泉石が収集・記録した蘭学関係資料、奥原晴湖や河鍋暁斎らの書画作品の紹介など、深く古河のことを知ることができ、400円の入館料は値打ちがありました。また、古河歴史博物館、古河文学館そして篆刻美術館がセットになった3館共通券 600円を使えば更に値打ちがあります(MoMo太郎はこれを利用しました)。(花桃の里古河を歩くコース)>【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その5) 奥原晴湖画室「繍水草堂」と古河歴史博物館
Apr 13, 2026
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このあたりは、旧古河城出城址だそうで、堀や土塁がのこっています。向こうに見える建物は古河歴史博物館(→→→こちら)です。そして堀の周辺は古河藩の武家屋敷もあったところで、その武家屋敷が今も残っています。今は鷹見泉石記念館(→→→こちら)として公開されています。鷹見泉石(→→→こちら)は家老として、藩主土井利位(としつら)に仕えた古河藩士。利位が大阪城代であった折りに「大塩平八郎の乱」で鎮圧にあたるなど、大きな働きをしました。また、優れた蘭学者でもあり、数多くの研究資料の収集にあたった方です。その鷹見泉石が隠居後もっぱら蘭学にいそしみ最晩年を送った家と伝わっています。確かに、家老にふさわしい立派な屋敷で、平成2年に改修されて「鷹見泉石記念館」として公開されているのです。また、昨日紹介した子供向け絵雑誌「コドモノクニ」を創刊した鷹見久太郎の曽祖父にあたるのが、鷹見泉石です。邸内の庭には「史跡鷹見泉石邸址」として紹介した石碑が残っていました。屋敷の中には一般には入ることができませんが、外からはこのように見ることができます。掛け軸や五月人形なども飾られています。また、お茶席や映画・ドラマ・CM等の撮影にも活用されているそうです。庭に植えられていた樹木です。この木は、「楓樹(フウジュ)」と呼ばれる古木でカエデの木なのかと思われましたが、説明文を読むと、日本には自生しないもので、古代中国では宮中に植えられ、それから天子のいるところを楓宸と呼ぶようになった。日本には、徳川吉宗が輸入し、享保12年(1727年)閏正月17日に日光東照宮奥院や吹上御所に植えさせたという木だそえです。と紹介されていました。。 (花桃の里古河を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その4) 鷹見泉石記念館
Apr 12, 2026
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古河市肴町に入いると福法寺(→→→こちら)というお寺があります。このお寺は、浄土真宗のお寺で、親鸞聖人の弟子正順坊が武蔵国内に創建したのがはじまりで、その後下総国佐倉へ移され、さらに寛永8年(1631年)に現在地に移されたものだそうです。山門の脇にある案内板によると、現在の山門は旧古河城内の二の丸御殿の入り口にあったとされる門で乾門といわれ、明治6年(1873年)、城取り壊しのとき檀家の一人が払い下げを受け、翌年寺に寄進、移築したといわれています。この門の構造は、平唐門(ひらからもん)と呼ばれる型式だそうです。また、さらに歩いて行くと、蔵造りの店構えの建物がありました。「ぬた屋」(→→→こちら)という鮒甘露煮・鮎甘露煮のお店です。この地は、江戸時代に日光街道の宿場町として栄え、利根川や渡良瀬川が交わる水郷地帯でもありました。鮒が豊富に獲れる環境を背景に、地元では古くから焼き魚や煮付けなどの鮒料理が日常的に作られており、旅人へのもてなし料理や保存食として重宝されていました。そして、明治30年、この店の初代野村安次郎が川魚料理店を開業し(主に鮒のあらいを販売)、鮒の大きいのは「あらい」に小さいのは「甘露煮」として販売したそうです。古河地方では、あらいを俗に「ぬた」と呼ぶので、自然発生的に屋号が「ぬたや」となったのだとか。店の前には「ぬた屋と鮒甘露煮の由来」が書かれている看板がありました。そして、古河文学館(→→→こちら)という大正ロマンの香りが漂う洋館にやってきました。ここでは、歴史小説の第一人者である永井路子、推理作家の小林久三など、古河ゆかりの作家の作品を中心に数々の貴重な資料を展示されていました。訪れた時には、大正時代を代表する絵雑誌である「コドモノクニ」(→→→こちら)の創刊者である古河市出身の鷹見久太郎に関する企画展示もあり、なかなかの充実した文学館なのですが、撮影できるのはこの大きな蓄音器とピアノのあるサロンだけでした。ちなみに「コドモノクニ」には、のちに風景画の大家となった東山魁夷が、若き時代に多くの挿絵を寄稿していたり、「あめふり」「兎のダンス」など今も歌い継がれる名作童謡もこの雑誌から始まっています。文学館の前にあった歌碑です。「今もかも巴波の川は岸高み 青葉にこもり水や流るゝ」と刻まれていました。「巴波の川」とは巴波川(うずまがわ)という古河市に近い渡良瀬川の支流の河川で、波が巴の模様のように渦を巻き、波を立てて流れる川ということが由来です。この作者の若杉鳥子(→→→こちら)は、大正から昭和にかけて活躍した古河出身のプロレタリア作家だそうで、古河の豪商と神田の貸席の女中との間に生まれ、すぐ古河の置屋、若杉はなの養女となり、古河高等小学校を卒業して上京し作家になったそうですが、治安維持法違反として検挙・投獄され、そして昭和12年(1937年)、46歳で死去したそうです。(花桃の里古河を歩くコース)>【つづく】人気ブログランキング花桃の里古河を歩く(その3) 古河文学館
Apr 11, 2026
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駅前通りを西に歩いて行くと、旧日光街道に突き当たりました。その旧日光街道にあったファミリーレストラン風の建物の前に石碑がありました。古河本陣址の石碑です。江戸時代、諸大名が参勤交代や日光参詣等の途中、古河に泊まる時に宿とした建物があったのですね。かっての古河の城下町の中心と思われる中央町のあたりにやってくると、蔵造りの建物が見えてきました。これは、古河のお休み処「坂長」(→→→こちら)です。かつて江戸時代より両替商を経営、その後酒問屋として栄えた店ですが、今は市民の憩いの場、来街者の回遊拠点となる施設となっています。敷地の中に入ると、何棟かの蔵が並んでいました。こちらの文庫蔵は展示室となっていたので、訪れてみました。入場は無料です。こちらが入り口です。いにしえの許我、現在の古河と書かれた幕が吊られていました。土足厳禁というので、靴を脱がないといけないのは、ちょっと面倒くさいですね。中に入るとかってあった古河城の写真と、この坂長の店主の写真がありました。そして千年杉の切り株が置いてありました。二階にも展示があるので登って行きました。二階には、かって酒屋だったことを示す看板やなら漬けを販売していた頃の看板が飾られていました。それほど、気になる展示もなかったので、次の観光スポットに向かいました。(花桃の里古河を歩くコース)【つづく】人気ブログランキングへ花桃の里古河を歩く(その2) お休み処 坂長
Apr 10, 2026
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3月19日に茨城県古河市にやってきました。古河では3月14日~29日に「古河桃まつり」が開催されていて、それを見にやって来たのです。ちなみにMoMo太郎日記では2022年3月23日~24日にかけて古河桃まつりへ来た報告をしています(→→→こちら)。ただ、この時は丁度コロナ禍の時で、桃まつり会場の古河公方公園しか訪れることができず、今回はできるだけ古河の町も巡ってみることにしました。古河駅西口にある花桃の木と万葉歌碑です。桜の花に比べると枝に引っ付いたように咲くのが桃の花の特徴でしょうか。こちらにあるのが万葉歌碑。万葉集のできた奈良時代の頃から古河の町があったことがわかります。石碑には二首の歌が刻まれていました。「真久良我の 許我の渡の 韓楫の 音高しもな 寝なへ児ゆゑに」意味は、「真久良我(まくらが)の許我(古河)の渡りの韓楫(からかじ)の音が高いように高い噂がたったなあ。あの子と共寝をしたわけはないのに」というらしいです。もう一首は「逢はずして 行かば惜しけむ 真久良我の 許我漕ぐ船に 君も逢はぬかも」意味は、「あなたと逢わずに行ってしまったら心残りだろう。真久良我(まくらが)の許我(古河)を漕ぐ渡し船であなたにお会いできないものかなあ」というらしいです。万葉の頃は、古河を昔は許我と表記していたんですね。真久良我(まくらが)は許我の枕詞なんでしょうか、それともこの辺りの地名のようなものだったんでしょうかね。どちらにしても、古河では利根川から渡良瀬川が別れる辺りなので、このように渡し舟でお別れの歌というのは、昭和の時代の「涙の連絡船」に通じる日本的な情緒なんでしょうかね。そんな古河市では駅前には、タワーマンションもあってなかなかの街でした。では、古河駅を出発しましょう。(花桃の里古河を歩くコース)【つづく】人気ブログランキングへ花桃の里古河を歩く(その1) 桃まつり
Apr 9, 2026
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4月になって新しい職場や学校への通勤・通学はもう慣れましたか。【学生帽】最近、気がついたんですが、MoMo太郎が中高生の時は学生帽を被っていたんですが、最近は男子生徒は学生帽を被っていませんね。職場のZ世代の人に聞くと、もう、今では学生帽は無くなっているらしいです。今でも学生帽を被っているのは、かもめ第三小学校に通っている磯野カツオ君ぐらいですか。【立ち食い蕎麦】旅先で時間がない時に手軽に食べられるホームにある立ち食いそば屋さん。社会人になって初めて出張した時に食べた土浦駅のホームにあったこの蕎麦屋さん。まだ営業していました。でもまだあるとは知らず、駅にあるコンビニでパンと牛乳を買って食べてしまいました。コンビニが充実しているので、こういう立ち食い蕎麦屋さんも段々減っていくのでしょうかね。【体幹鍛えているんですね】この間、満員電車で吊革にもつかまらず、立ったまま、手鏡を見ながら、アイラインを引いたりファンデーションを直していた女性がいました。揺れる車内で立ったまま化粧をするために体幹を鍛えてきているんですね。これも働く女性の嗜みですか。人気ブログランキング通勤沿線 気になるあの人(その13)
Apr 8, 2026
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城門があった跡です。ここから丹波亀山城(→→→こちら)へ入って行きました。雑水川となっている堀を越えます。石垣は、お城があった名残ですね。ここが入口のようです。横にある看板には、「丹波亀山城エリア拝観には拝観券(200円)が必要です。」とありました。京都では城址を見学することを「拝観」と呼ぶんですね。と思ったら、実はこの城址、「大本」(→→→こちら)という宗教団体の持ち物になっているんですね。ちなみに大本教とは呼ばないそうです。ということで、ここから先は拝観券が必要となるようです。大本(おほもと)というのがどういう宗教なのかわかりませんが、まあ、なんとなく妖しい感じがしたので、拝観は遠慮させてもらいました。敷地の中になにやら由緒のありそうな板碑がありました。大本の教祖の一人、出口王仁三郎の詠歌を刻んだ歌碑でした。信者以外にはあまり有難味はないのかも。しかし、大本って教祖が二人いるんですね(→→→こちら)。以上、京都に行った時の記録です。【了】人気ブログランキング京都の旅(その6) 丹波亀山城は宗教施設になっていました
Apr 7, 2026
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歴史上、最も名高い逆臣「明智光秀」の銅像があった場所は、南郷公園です。丹波亀山城の外堀として使われていた南郷池を中心につくられた公園。JR亀岡駅からすぐのところにあります。この案内板によると、南郷公園山陰街道が通り、城下町が広がる亀山城の南側き、内堀、外堀、惣堀の三重の堀と御土居がめぐり、堅牢な構えを呈しています。一方、南郷公園の立地する北側の搦手は、外堀が一重にめぐらされているだけとなっています。これは有事の際には、保津川の流れを塞き止めると、北側の水田は一気に大きな湖となるように考案されているためです。南郷公園は、桜を中心として四季折々の花を楽しむことが出来る都市公園としてせいびされ亀岡光秀まつりを始め、様々なイベントが繰り広げられる都市公園です。公園と亀山城の間にある堀ですが、雑水川(ぞうすがわ)という名称の川になっていました。ということで、天下の逆臣、明智光秀が築城した丹波亀山城へ行くことにしました。【つづく】人気ブログランキング京都の旅(その5) 南郷公園
Apr 6, 2026
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京都の旅といいながら、亀岡に来ています。京都に住んでいる人からいえば、宇治や亀岡から京都に行くことも上京というらしいです。だから亀岡へ行くことは京都の旅ではないということらしいです。そんな亀岡の駅前にあった自転車預り所。市役所や区役所が運営しているのではない民間の自転車置き場があるんですね。駅前にあった観光案内の看板。織田信長を弑逆した明智光秀(→→→こちら)の町なんですね。ということで、亀岡城趾にある公園には、こんな石碑がありました。そして、立派な銅像も。歴史上、もっとも有名な逆臣「明智光秀」が町の観光の目玉というのは、面白いですね。そういえば2020年、令和最初のNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」(→→→こちら)は明智光秀が主人公でしたから、その年はこの町も盛り上がったんでしょうか?しかし、このドラマ、帰蝶役の女優さんが薬物所持で逮捕されて放映前に降板したり、放映中はコロナ禍で放送が中断したりと、不運なことがあったのは、弑逆された織田信長の祟りだったんでしょうか?【つづく】人気ブログランキング京都の旅(その4) 亀岡には明智光秀がいた
Apr 5, 2026
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さて、山陰本線(嵯峨野線→→→こちら)に乗って、やってきたのは京都府亀岡市。同じ研究室だった先輩が遊びに来いと誘ってくれたので、「KYOTO SANGA TRAIN」という文字が書かれた紫の壁。紫色にカラーリングされた列車が走っているのでしょうかね。それにしても「SANGA」とは?改札口の正面にあった座像。江戸時代の思想家、倫理学者だった石田梅岩(→→→こちら)という方の座像です。石門心学と呼ばれる独自の哲学を樹立した方だそうで、存じ上げませんでした。駅の東口には、サッカーボールを象った石像がありました。ということは亀岡ってサッカーが盛んな町だったんですか?駅の東側にあったこの施設。SANGA STUDIM by KYOCERA(→→→こちら)という球技専用スタジアムで、京都サンガF.C.というサッカーチームのホームグランドだそうです。実は、MoMo太郎、サッカーという競技についてよく知らなくて、京都サンガF.C.というチームがあったことさえ初めて知りました。どうしてサッカーに興味がないのかというと、まずルールがわからないです。例えば、オフサイドという反則がどういうものかわかりません。ラグビーならボールを持っている味方選手よりも前(敵陣側)にいる場合、その選手がパスを受けたり、ラックやモールに参加しようとするとオフサイドという反則になりますが、サッカーの場合はパスを受けても反則になったりならなかったりするのが、よくわかりません。また、シュートを蹴って得点した選手が凄いのがわかりますが、シュートしなくてもパスを出しているだけでもいいプレーですねとか解説者が言うのは、どこがいいプレーだったのか理屈がわかりません。できれば、そういうルールやプレーの良かった点などをわかりやすく解説してもらいたいです。でも、そういう解説って、野球やバスケットボールでも必要なのかもしれませんね。【つづく】人気ブログランキング京都の旅(その3) 亀岡には「サンガスタジアム by KYOCERA」がある
Apr 4, 2026
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このタワーの入場料900円でしたが、思い切って、久しぶりとなりますが、登ってみました。京都市内で最も高い建造物であり、建築物のビルは高さ31メートル、ビルの屋上に載る工作物のタワーは高さ100メートル、合わせて高さ131メートルとなるそうです。また、タワーといっも東京タワーやスカイツリーのように鉄骨や鋼管を使って組み上げるのではなく、特殊鋼板シリンダーを溶接で繋ぎ合わせ、円筒型の塔身を作ったものというのが、特徴です。そして上層部の展望台です。ここには無料で使える双眼鏡が置いてあります。展望台から西の方を見てみました。おそらく正面の山が天王山なんでしょうか。南側を見ると、眼下には東寺の五重塔が。京都の南、宇治の方の眺望です。南東になるのでしょう。山科の方の景色です。あの山が音羽山でしょうか。眼下には新幹線の姿も見えました。こちらが東山の景色。よく見たら、これが多分、清水寺でしょうね。展望台のガラスに五山(大文字)とあったのでこちらに大文字が見えるのでしょう。一段と高い山が比叡山と思うのですが、多分、このあたりが五山の送り火で有名な大文字山かと。北画に広がる京都の町です。手前にある寺院は東本が字になるのでしょう。記念スタンプをパンフレットに押して記念としました。【つづく】人気ブログランキング京都の旅(その2) 京都タワー
Apr 3, 2026
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新幹線に乗って京都にやってきました。京都の駅前にあるこの建物が京都タワー(→→→こちら)。京都へ行くと、なんとなくこの歌が頭に浮かびます。チェリッシュの「なのにあなたは京都へゆくの」ちなみに、MoMo太郎が、「なのにあなたは京都に行くの」と高校三年の卒業式の日に東京の女子大に進学する友達から聞かれた時の答えは、「慶応に受からなくて、京都の大学に受かったから」でした。チェリッシュというと、松崎好孝と松崎悦子(旧姓 松井悦子)の夫婦デュオですが、この曲でデビューした時は5人組のフォークソンググループでした。どうして他の三人が脱退して、この二人だけのデュオになったのかよくわかりませんが、二人になってからは、「てんとう虫のサンバ」とか「白いギター」といった、歌謡曲テイストのヒット曲を出すようになりましたね。で、グループ名は、アメリカのバンド、アソシエイションのヒット曲「チェリッシュ」からとったそうです。英語の'Cherish(チェリッシュ)'というのは、(愛情をこめて)大事にする,かわいがる,大事にする.といった意味の動詞で、love とlikeの中間みたいな感じで、歌の中でもCherish is the word I use to describeAll the feeling that I haveHiding here for you insideCherishという言葉は僕の君への秘めた思い全てを表現するために使っている言葉と歌われています。【つづく】人気ブログランキング京都の旅(その1) なのにあなたは京都に行くの
Apr 2, 2026
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いよいよ4月になり、新学期が始まりますね。みんな元気に学校行ってくださいね。そんな皆さんに向けてのお話をします。「まど・みちお」(→→→こちら)という詩人をご存知でしょうか?おそらく多くの方が耳にしたことがある「ぞうさん」や「一年生になったら」という童謡を作詞された詩人です。まど・みちお氏が書かれた詩に「朝がくると」という詩があります。「朝がくると まど・みちお」朝がくると とび起きてぼくが作ったものでもない 水道で 顔をあらうとぼくが作ったものでもない洋服を きてぼくが作ったものでもないごはんを むしゃむしゃたべるそれから ぼくが作ったものでもない本やノートをぼくが作ったものでもないランドセルに つめてせなかに しょってさて ぼくが作ったものでもない靴を はくとたったか たったか でかけていくぼくが作ったものでもない道路をぼくが作ったものでもない学校へとああ なんのためにいまに おとなになったらぼくだって ぼくたってなにかを 作ることができるように なるためにまど・みちお氏は、1909年(明治42年)に山口県都濃郡徳山町(のちの徳山市、現在の周南市)の生まれですが、父親が仕事の関係で台湾に赴任したため、まど氏も台湾に渡り、台北工業学校土木科卒業後、台湾総督府交通局の道路港湾課で働いていましたが、自作の詩が北原白秋の目に止まり、詩人としての活動をはじめたそうです。土木技術者だったという経歴を背景に考えると、「ぼくが作ったものでもない 水道で 顔をあらうと」や「たったか たったか でかけていくぼくが作ったものでもない道路を」といったフレーズが、「おとなになったら ぼくだって ぼくたって なにかを 作ることが できるように なるために」という結末につながっているところに、少年だった頃のまど・みちお氏の思いがあったのかなと思いながら、この詩を読みました。ということで、子供たちがしっかり学校へ行って勉強していただき、何かをつくる大人になって欲しいものです。人気ブログランキングへ「朝がくると」 まど・みちお
Apr 1, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。このあたりの住所って新宿区舟町になるんですね。近くに海もないし、川もないのに舟町と呼ばれるのは、江戸時代初期には全勝寺一帯に杉林が存在し、伐採されて四谷丸太として売り出されていて、木材は舟板としても利用されていたことから、舟板横町と呼ばれていたので、それに因んでの町名らしいです(→→→こちら)。そしてこの舟町にあるのが、この西迎寺(さいこうじ)です。このお寺には、新宿区指定有形文化財の「阿弥陀如来座像」と新宿区登録有形文化財の「梵鐘」がありました。こちらが西迎寺の阿弥陀如来座像です。そしてこちらが、西迎寺の梵鐘です。西迎寺の境内です。西迎寺は、西迎法師(明応8年1499年寂)が、延徳2年(1490年)、太田道灌の菩提を葬うため西光庵と号して江戸城紅葉山の地に創建されました。しかし、江戸城拡張工事のため寛永12年(1635年)にこの地に移転したそうです。人気ブログランキング新宿彷徨(その86) 西迎寺
Mar 31, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。外苑東通りをさらに北へ、靖国通りの方へ向かっていくと、靖国通りへつながる坂道がありました。新宿区が設置した標柱では「新坂」と記されていました。説明は次のとおりでした。全勝寺から靖国通り手前まで下る坂道で、明治30年代後半の道路新装によりできた坂道である。江戸時代には、甲州街道から全勝寺まで杉の木が連なる「杉大門」通りが延び、新坂ができて靖国通りまで通じることになった。「今は杉樹は伐採し、其の路は新道に通じて、直ちに市谷に達せり」という光景であった(「新撰東京名所図会」)。新坂の近くにある全勝寺(→→→こちら)への入り口です。お寺だから山門と言うべできでしょうが、雰囲気は普通の門です。門柱の脇にあった説明板には、「山県 大弐(やまがた だいに)の墓」とありました。山県大弐(→→→こちら)は、江戸時代中期の兵学者・尊王論者として著名な人物だったみたいですね。こちらが本堂です。本堂の寺号額には「全勝禅寺」とあって、曹洞宗系の禅寺であることがわかります。本堂の前にあった、こちらが、多分、山形大弐の墓でしょうか。しかし、よく見ると碑文が削られたようになっていて、この人には、諸々の政治的な背景があるんでしょうかね?人気ブログランキング新宿彷徨(その85) 新坂と全勝寺
Mar 30, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。外苑東通りと新宿通りが交わる四谷三丁目交差点にやって来ました。四谷三丁目交差点に面して建つ、屋上にヘリコプターがあるこの建物は、東京消防庁消防防災資料センター(→→→こちら)、四谷消防署、四谷消防団本部です。まあ、東京消防庁消防防災資料センターというより消防博物館と言った方が知っている人は多いかも。ここから外苑東通りを靖国通りに向かって歩くと、アンパンマンショップ(→→→こちら)があります。ちなみに「あんぱん」は売っていませんよ。人気ブログランキング新宿彷徨(その84) 四谷三丁目交差点
Mar 29, 2026
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3月24日、新宿区下落合にある「おとめ山公園」(→→→こちら)を通りかかった時に撮影した桜です。東京の桜の開花宣言は、3月19日でしたが、この日は三分咲きといったところでしょうか。桜の花を撮影しようしてスマートフォンでズームしてみましたが、MoMo太郎の使っているスマートフォンはデジタルズーム、つまり、撮影した画像の一部を切り抜いて拡大する方式のようで。画質は凄く悪いですね。やっぱり、撮影するならちゃんとした光学ズームがあるデジタルカメラで撮影すべきだったです。日当たりのいい所にある桜は、このようにほぼ満開といったところで、やっぱり太陽の力って偉大ですね。人気ブログランキング新宿区おとめ山公園の桜
Mar 28, 2026
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すみだの桜の名所巡りは、隅田公園(→→→こちら)にやって来ました。もう桜も花開いているのもあり、その下でみんなピクニックを楽しんでいました。ちょっと赤みの強いエドヒガンサクラでしょうね。こちらのサクラでは皆さん写真を撮影していました。この桜はヨウコウ(陽光)ですかね。やっぱり隅田公園は人が多いです。こちらはやっぱりソメイヨシノなんでしょうね。芝生で覆われたそよ風広場で皆さん楽しまれていますね。こちらは隅田川沿いの桜。ミヤビという品種だそうです。隅田川沿いの桜はまだ準備中でした。でも今日あたりは満開でしょうね。人気ブログランキングすみだの桜の名所を巡る(その3) 隅田公園
Mar 27, 2026
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錦糸公園(→→→こちら)にやって来ました。こちらでは「桜まつり」が開催されていました。公園の広場の桜は少し咲いていて、桜の下でお花見を楽しんでいるグループが沢山いました。次に大横川親水公園(→→→こちら)にやって来ました。ここでは白しだれ桜も満開の下でフリーマーケットが開催されていました。東京スカイツリーに向かって大横川親水公園を歩いて行くと、まだ桜は開花していないようでした。その代わりに、白いユキヤナギが咲いていました。途中、数輪の桜が咲いているのがわかりました。蕾も膨らんできているようですね。また、花壇には白いアリッサムとデイジー(ヒナギク)が咲き誇っていました。ヒナギクというとこの丸い花形ですね。東京スカイツリーが見える東武橋までやってくると、桜が咲いていました。これは河津桜でした。すっかり葉桜になっていました。人気ブログランキングすみだの桜の名所を巡る(その2) 錦糸公園と大横川親水公園
Mar 26, 2026
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3月22日、三連休の最後の日に墨田区の桜の名所を巡ってみました。最初に訪れたのは両国駅近くの旧安田庭園(→→→こちら)です。その旧安田庭園に入る前に、報知新聞社の入っている国技館ビルの前にある「舟橋聖一生誕の地」の碑がありました。舟橋聖一(→→→こちら)の代表的な作品で幕末の大老井伊直弼の生涯を描いた「花の生涯」と刻まれた碑がありました。碑文には次のように記されていました。舟橋聖一生誕記念碑作家舟橋聖一は明冶37年(1904)12月25日に、本所区横綱町二丁目二番地に生る。作家、國文学者として盛名高く、数々の名作を遺すも、その七十二年の生涯は權威に屈せず、市井の文人、文学者として独自の風格を以て貫かれている。代表作の一つ、「花の生涯」は伊井大老の生涯を綴った醇乎たる逸品であるが、文学者、文化人として、前人未踏の道を歩いた作者の人生行路もまた、そのまま花の生涯と呼ぶにふさわしいものである。 井上靖 代表作:「木石」「川音」「悉皆屋康吉」「ある女の遠景」「好きな女の胸飾り」等 略歴:東大卒・明大教授・日本文芸家協会理事長・国語審議会委員・横綱審議委員長・等 日本芸術院会員・文化功労者」また、旧安田庭園の門の近くにあったこの食堂。下総屋食堂といいますが、このちょっと古びた食堂、よくテレビドラマのロケで使われているそうです。でも、この店構えだとちょっと入って食事するのは勇気が必要かも。こちらが旧安田庭園の入口です。東京都指定文化財(名勝)になっているそうです。まだ桜は開花していなかったようで、その代わり、木瓜(ボケ)の花は見事に咲いていました。果実は木瓜(もっか)と称される生薬になるそうで、「木瓜(もっか)」とよばれたものが「ぼけ」に転訛としたとも言われています。ということで、桜が咲いていないのは寂しかと思って、近くにあった日大一中・一高の前に咲いていた桜を撮影しました。この桜は「エドヒガン」という品種の桜です。ちなみにここには、「ソメイヨシノ」や「八重桜」など何種類かの桜が植えられていて、開花時期がそれぞれ違うので長い間、桜を楽しむことができるようです。人気ブログランキングすみだの桜の名所を巡る(その1) 旧安田庭園
Mar 25, 2026
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亀有が生んだ著名人の両津勘吉氏が勤務する亀有公園前派出所。公園前派出所があるということは、亀有駅の周辺にも公園があるはず。ということで駅前にあるのが「亀有リリオパーク」(→→→こちら)です。イベント会場として使用される広場が中心の公園です。夏の時期には水遊びができるように噴水の施設もあります。ということで、リリオパークの前に建つ両津勘吉像も祭り姿でした。駅の北側に行ってみると、正真正銘「亀有公園」(→→→こちら)がありました。ちなみに亀有公園前派出所はありませんでしたが、両さんの銅像はありました。こちらの銅像は「ダブルピース両さん像」。こちらの両さんはベンチに座っている「ひとやすみ両さん像」。ベンチに座って両さんとツーショット写真も撮影できそうですね。こちらは、2025年3月に新しく完成したフォトスポットです。漫画の中にいる自分の姿の写真が撮影できますね。このフォトスポット、亀有南口にオープンしたこち亀記念館の場所案内図も兼ねています。(亀有開運巡りのコース)【了】人気ブログランキング亀有開運巡り(その14) 亀有の公園
Mar 24, 2026
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こちらの「ゆうロード商店街(→→→こちら)」を歩いて亀有駅に向かいます。ゆうロードは、亀有駅の南側、約200mにわたり約110軒の店が並ぶ賑わいのある商店街です。ここも「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の舞台でもある商店街です。そんな商店街で遊んでいた両津勘吉少年の銅像が設置されていました。主人公の子供の頃の両さんと親友の戸田豚平、千田珍吉がモデルになっています。こちらは葛飾伊勢屋亀有本店。こちらの名物はだんごやどら焼き。一本140円のだんご。なかなかの絶品でしたよ。そして亀有駅に到着しました。(亀有開運巡りのコース)【つづく】人気ブログランキング亀有開運巡り(その13) 少年時代の両さんは商店街で遊んでいた
Mar 23, 2026
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こちらの旧水戸街道を亀有駅の方に向かって行きます。旧水戸街道は、亀有上宿町(現亀有1・2・3丁目の複合域)の北部を西から東に貫いています。そして、このような「旧水戸街道 亀有上宿」という標柱も建てられています。また道沿いには「亀有七福神」と染め抜かれたのぼりがあって、その位置には小さな七福神の石像が置かれています。この石像は毘沙門天でした。こちらにも七福神の一人が祀られているようです。旧水戸街道沿いの商店街である上宿商店会が、旧水戸街道をはじめ周囲の道路が拡幅され便利になったのを機に、亀有及び葛飾地域のますますの発展を願い、守り神として設置されたものです。こちらで祀られているのは「寿老人」でした。こちらにも亀有七福神の幟が立っています。そして、ここには3つの顔が彫られたモニュメントがありました。これは水戸黄門、格さん、助さんの石像になっているようでした。そして、「一里塚跡」という案内板が建てられていました。旧水戸街道と上宿との関係で最も深いつながりは、上宿の旧水戸街道上に「一里塚」が置かれていたことです。「一里塚」は江戸時代、街道上の往来の目安として、江戸日本橋を中心に1里(約4km)ごとに終着駅まで設置されたものです。ここ亀有は江戸日本橋から三里の距離に位置しているそうです。そして一里塚跡の石碑もありました。こちらは、都内から水戸へ向かう下り車線側に建てられた旧水戸街道亀有上宿の標柱です。(亀有開運巡りのコース)【つづく】人気ブログランキング亀有開運巡り(その12) 旧水戸街道の上宿亀有七福神
Mar 22, 2026
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再び曳舟川親水公園に戻って来ました。訪れた時期は1月だったので、散策道沿いの桜並木は枯れたままですが、春になると見事な桜を咲かしていることでしょう。こちらはトイレと休憩所です。こういう施設があるのも散策には大事ですね。曳舟川の歴史を記した案内板がありました。これを読むと江戸時代から現在までのこのあたりの水利状況がよくわかります。 曳舟川の由来曳舟川の名は、江戸時代中期から、明治15年頃まで、篠原村(現四つ木)~亀有村間の28町(約3km)でサッパ船という小舟に乗せた人を、船頭が土手から舳先につけた縄を引いたことにちなんでいます。曳舟川は江戸時代当初は、干拓・埋立が進んだ葛西領沿岸部の本所・深川地域へ、飲料水を供給した水路でした。成立は万治3年(1660)で亀有上水・本所上水などといわれていました。水源は、元荒川に設けられた瓦曽根溜井(現埼玉県越谷市)で、亀有以南は古墨田川から引いた東側の中井堀と四つ木付近まで並んで流れていました。享保14年(1729)、葛西領の用水溜井が、小合溜井(現水元公園)に変わると、すでに享保7年に廃止されていた上水路は葛西用水の水路として再利用され、古上水堀と呼ばれます。曳舟は、江戸東郊の風物として人気を呼び、多くの紀行文や初代歌川広重の「名所江戸百景」などに描かれています。昭和33年(1958)中井堀と古上水堀が一本化されて以降は、曳舟川の名のみが残り、げんざいの曳舟川親水公園へと受け継がれています。東京と埼玉周辺の地理に詳しくないとよくわからない内容ですが、今の足立区、葛飾区、江戸川区、墨田区そして江東区における近世の水利開発の様子が示されていて土木史の勉強になりました。ちなみに「溜井」とは、用水を確保するために河川を堰き止めて作った用水池のことです。また「古墨(隅)田川」は利根川の下流に位置しており、武蔵国と下総国の境界線となっていたと考えられている川です。現在で、古隅田川は埼玉県と東京都にある2つに分かれていますが、かつては利根川-隅田川の一部であり、現在の河川に則すれば、古利根川から古隅田川(埼玉側)、元荒川、中川、古隅田川(東京側)、隅田川という流れが利根川及び荒川の本流であったと考えられているそうです。「葛西用水」とは江戸時代初頭の(万治3年(1660年)に江戸幕府が天領開発の一環として、関東郡代の伊奈忠克に開発させた灌漑用水路であり。埼玉県東部および東京都東部を流れる灌漑用水路です。この用水は現在でも行田市にある利根大堰から取水し足立区まで水が流れています。そして、曳舟川親水公園の起点にある旧水戸街道との交差点には、石碑が建てられいます。石碑には、曳舟古上水橋と刻まれ、その裏側にはこれより水戸佐倉街道と刻まれていました。茨城県の水戸へ向かう街道と千葉県の佐倉へ向かう佐倉街道は、日本橋から亀有を過ぎ葛飾区新宿(にいじゅく)にある新宿追分までは同じ道となっていて、佐倉街道は新宿追分から南方に分かれて柴又をとおり市川を経て船橋、八千代、臼井を経て佐倉に至ります。そんな歴史の上にある曳舟川親水公園でした。(亀有開運巡りのコース)人気ブログランキング亀有開運巡り(その11) 曳舟川の由来
Mar 21, 2026
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この道は旧水戸街道です。今回は旧街道を歩かず、住宅街の中を真っ直ぐ東に向かって歩いて、この公園に向かいました。この公園は「西亀有せせらぎ公園」。かつて農耕地の水路として使われていた場所を付近の公園をつなぐ散策道として整備された公園です。せせらぎと言いながら、冬なので水は流れていませんでした。北側にある藤塚西公園と藤塚東公園。西側には中道公園、そして東側には上千葉砂原公園があり、それらの公園と一体となって遊ぶことができます。さらに東に向かって行くと東京都立農産高等学校(→→→こちら)があります。昭和23年(1948年)に創立した東京東部地区唯一の農業高校。約4万平方メートルの校地には農場や実習棟があり、充実した農業施設を有する学校だそうです。野菜や草花、果樹の栽培から、フラワーデザイン、造園などを学ぶ園芸デザイン科とパンやジャム、お菓子などの食品製造技術や、食品の栄養・成分、衛生管理について専門的に学べる食品科があるそうです。こちらが正門のようですが、日陰になって上手く撮影できませんでした。こういう専門的なことを教える学校の先生って大変でしょうね。古文なんか新しい教材が増えるわけでもなし、数学だって微分積分の解き方が昔と今で変わっているわけでもないでしょう。しかし、農業を教えるとなれば、日進月歩のバイオテクノロジーや、最近、導入が進むスマート農業等、教えなければならない内容は毎年増えて行くので先生も普段から学生さん以上に勉強しないといけませんからね。(亀有開運巡りのコース)【つづく】人気ブログランキング亀有開運巡り(その10) 西亀有せせらぎ公園と都立農産高校
Mar 20, 2026
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「お花茶屋」って、ちょっと素敵な名前の町ですね銭湯の煙突からモクモクと煙がのぼっています。上千葉小学校、校章の由来は「葛飾」の地名は、昔この地域一帯に、葛の葉が繁茂していたという事にちなんでつけられた為、本校の校章もこの事を考慮し「葛の葉の繁り如く反映する」事を願って制定されたそうです。現在の住所は堀切となっていますが、このあたり、昔は千葉村と呼ばれていたそうですね。東京なのに千葉なのは、葛飾区史(→→→こちら)によると、このあたりはその昔「木庭袋」という地名で、それが転じて「千葉袋」→千葉村という流れになったからだとか。開運巡り、上千葉香取神社(→→→こちら)にお参りしました。鳥居が二基あるのはこの神社の格式が高いということでしょうか。二の鳥居の先に社殿があります。現在の社殿は平成5年(1993年)の造営だそうです。社号額も新しいですね。こちらの香取神社社殿御造営記念碑によると、香取神宮から御分霊を勧請し、宝徳3年(1451年)創建と伝えられています。また境内には、以前境内の池の小島に祀られていた弁財天を中心にとして七福神が祀られています。七福神がまとめてお参りできるのは、福徳を授かる上で便利ですね。(亀有開運巡りのコース)【つづく】人気ブログランキング亀有開運巡り(その9) 上千葉香取神社
Mar 19, 2026
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葛飾区郷土と天文の博物館の郷土展示室の展示を紹介します。こちらにあるのは葛飾区で発掘された土器です。縄文時代は葛飾区は海の底だったので、縄文時代の土器は展示されていないようです。弥生時代の土器が展示されていました。こちらは中世の葛飾区を紹介している展示でした。こちらは近世、江戸時代の葛飾区に関する展示です。明治以降の葛飾の暮らしを紹介する展示です。「文化フライ」という小麦粉を練ったものをパン粉をつけて揚げたもの。昔はこんな食べ物が人気あったんですね。葛飾区では染め物も盛んだったようです。こちらは葛飾区にあった町工場の様子です。昔の葛飾区の庶民の住宅の様子。なつかしいオート三輪。MoMo太郎の子供の頃はこの車が活躍していました。葛飾区郷土と天文の博物館、またゆっくり見学に来たいと思います。(亀有開運巡りのコース)【つづく】人気ブログランキング亀有開運巡り(その8) 葛飾区郷土と天文の博物館の展示を見学
Mar 18, 2026
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曳舟川親水公園通りにあるドームが目立つ建物があります。「ドームかつしか」というモニュメントがありました。ここが「葛飾区郷土と天文の博物館」(→→→こちら)です。郷土の歴史を学ぶ施設と宇宙への知識を得るプラネタリウムがある博物館。ちょっと変わった取り合わせのように思いますが、一度に両方の勉強ができるというのは、なかなかお得な施設です。ということで、入館料100円を払って入ってみました。プラネタリウムは別に350円が必要です。上映時間もあるので、プラネタリウムは次回ということにしました。入って目についたのはこの「フーコーの振り子」(→→→こちら)です。フーコーの振り子は、地球の自転現象を示す演示実験になるそうです。自転運動する物体上で、長い弦をもつ周期の長い振り子を長時間振動させると、次第に振動面が変化することが観察できるということです。どういう理屈か理解するのは、難しいですが、この振り子の錘が円運動していくことはわかりました。(亀有開運巡りのコース)【つづく】人気ブログランキング亀有開運巡り(その7) 葛飾区郷土と天文の博物館
Mar 17, 2026
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道の中央部が歩道になっている道にやって来ました。曳舟川親水公園通りです。曳舟川親水公園(→→→こちら)は、曳舟川(葛西用水)の面影を残し、水をテーマとして整備された公園です。亀有から四つ木まで南北延長約3kmにわたり、水遊び場、自然景観水路、芝生地ゾーンなどの施設があります。曳舟川は、江戸時代に農業開発のために築いた「葛西用水」の葛飾における呼び名。太平洋戦争後に下水道が整備されると曳舟川は埋め立てられて川が姿を消した後に、旧流路に沿って公園が整備されたそうです。冬ということでしょうか、水は流れていませんが、所々に水が残っています。こちらは、農業用水であった名残を示すものでしょうか、稲が植えられていたようです。南北に長い公園のため、ウォーキングに利用している人も多いそうです。江戸時代には徳川家の鷹狩地であったこの辺りの歴史を示すため、鷹狩の様子を示す銅像がありました。曳舟川の名称は、舟に縄をかけて人や牛馬が舟を引いた川であることに由来します。その引き船の様子を示すための銅像もありました。(亀有開運巡りのコース)【つづく】人気ブログランキング亀有開運巡り(その6) 曳舟川親水公園
Mar 16, 2026
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