森鴎外住居跡
所在地 向島三丁目三十七番三十八番
文久二年(一八六二)に現在の島根県津和野町に生まれた森鴎外(本名林太郎)は、明治五年(一八七二)十歳の時に父静男に随い上京しました。初めに向島小梅村の旧津和野藩主亀井家下屋敷、翌月からは屋敷近くの小梅村八七番の借家で暮らすようになり、翌年上京した家族とともに三年後には小梅村二三七番にあった三百坪の隠居所を購入して移り住みました。茅葺きの家の門から玄関までの間には大きな芭蕉があり、鴎外が毛筆で写生したという庭は笠松や梅、楓などが植えられた情緒的で凝った作りでした。この向島の家のことを森家では「曳舟通りの家」と呼び、千住に転居する明治十二年まで暮らしました。
父の意思で学業に専念する道をつけられた鴎外は、上京二ヶ月後には西周宅に下宿して進文学社でドイツ語を学ぶ日々を過ごし、東京医学校予科(現東京大学医学部)に入学しました。明治九年以後は寄宿舎生活となりましたが、曳舟通りの家には毎週帰り、時おり向島の依田学海(よだがっかい)邸を訪れて漢学の指導を受けていました。鴎外の代表作『渋江抽斎(しぶえちゅうさい)』には「わたくしは幼い頃向島小梅村に住んでいた」と記し、弘福寺や常泉寺などがある周辺の様子や人々についても詳しく書き残しています。また、明治十年代に原稿用紙に用いたという「牽舟居士(ひきふねこじ)」の号は近くを流れていた曳舟川(現在の曳舟通り)にちなむものでした。鴎外にとって、向島小梅村周辺での生活は身近いものでしたが、思い出深い地として記憶にとどめられていたようです。
平成二十六年二月 墨田区教育委員会
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