

溜池発祥の碑
溜池は江戸時代のはじめ, 江戸城の防備をかねた 外堀兼用の上水源として作られ 水道の発祥地ともなり, 徳川秀忠時代には 鯉, 鮒を放し 蓮を植えて 上野の不忍池に匹敵する 江戸の名所となった。徳川家光は遊泳したとも伝えられ, 江戸後期には 日枝神社より赤坂四丁目に通じる 料金を取った銭取橋が架設され 「麦とろ家」数軒と出店で, にぎわったと云われる。
明治八年より 埋め立てに着手し 四十四年に完成したが, 明治二十一年十二月には 赤坂溜池町が創立され, 明治四十二年に市電が開通し, 大正十年五月に 正式な町会として 溜池町会が発足し, 溜池角の小松ビルは 元は演伎座と云う芝居館として人気を煽り 東京オリンピック以後は ビル街として発展し, 町会名も「赤坂溜池町会」と改称し 今日に到り, 地下鉄新駅「溜池山王駅」の開通を記念し建立とした。
(赤坂溜池町・文責)
平成九年八月吉日 東京都 港区



「明日に向かって」
この地は、勝海舟が明治5年(1872年)から同32年(1899年)に77歳で亡くなるまで27年間住んだ屋敷のあった場所です。 海舟は、明治維新後 旧幕臣の代表格として維新政府の要職に在り協力していました。坂本龍馬との係りは海舟が幕府の要職に付いていた頃(海舟37歳~46歳)で、龍馬(26歳~31歳)は海舟を師と仰いで慕い緊密な交流があったようです。
この交流の始まりは、海舟が威臨丸での渡米、帰国後、幕府軍艦奉行就任の文久2年(1862年)海舟39歳のとき、龍馬が海舟を斬ろうと面会を申し入れ逆に感化され、 海舟の門人となり身辺警護をかってでたことからと言われております。当時、日本国の未来を見据え大意を進めるに当って海舟と龍馬とは相反する体制下にありながら、改革を行うことが出来たのは海と繋がっている広い世界を観る目、日本国を取り巻く世界情勢の中で日本のゆくえについて日本人が一体となって事に当らなければならないことを教えたと伝えられています。
また、海舟は軍艦奉行に就いていた文久4年(1864年)2月英・仏・米・蘭4ヶ国艦隊の下関砲撃の中止交渉を幕府から命じられ、神戸から九州の豊後街道を通り長崎まで旅をしています。この旅に海舟は自らが主催する「神戸海軍塾」の塾生だった龍馬らを同行させています。重責を担って旅する海舟にとって龍馬に日本国の行く末を教える機会の旅であり、当時の欧米の植民地政策の過の中にあるこの国の現状をつぶさに語り合い、後の薩長同盟、大政奉還、江戸無血開城へと繋げていったと考えられます。
海舟、龍馬の生きた19世紀末と21世紀の今をとりまく時代状況は比較にならないくらい違ってきていますが、彼らの明日を切り開いて行く強い志とエネルギーを、 宇宙船地球丸に乗っているこれからの時代を担う世代に伝えてゆくシンボルとしての銅像でありたいと願っております。
銅像の細部を見て頂くと、海も龍馬も視線は、明日に向かって海のかなたに広がる世界を向いています。また、海舟の刀の鍔(つば)に下緒(刀のさやを帯に巻くための紐) を絡めて刀をぬけないようにしています。 剣術の達人でありながら、当時の風潮を憂い何事にも対処するに当って刀を絶対に抜かないとの心がまえを表しています。
勝海舟坂本龍馬の師弟像を建てる会
この銅像の建立にあたっては、「勝海舟・坂本龍馬の師弟像を建てる会」の呼びかけに赤坂をはじめとする全国のみなさまからのご支援ご協力を頂き、彫刻家山崎和國氏に製作をお願いし平成28年(2016年)9月完成建立し港区に寄贈しました。

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