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亀戸の駅前の明治通り沿いにあるビルです。ビルの壁面にある名称は有名な洋菓子店の「風月堂」ですが、建物に入っているのは、クリニックと学習塾です。ちょっとヘンな感じを受けました。人気ブログランキングビルの名前がヘンです
2024年04月28日
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最近といっても、10年近く前に完成した虎ノ門ヒルズ森タワーのオーバル広場で見つけたパブリックアートです。パッと見て、不気味でしたが、虎ノ門ヒルズ森タワーのホームページ(→→→こちら)を拝見すると、これはスペインを代表する世界的アーティスト、ジャウメ・プレンサ氏による、8つの言語の文字を使い、膝をかかえて座る人間をかたどった高さ約10mの巨大なパブリックアートである「ルーツ」という作品だそうです。それぞれの文化を映し出す文字を通じて「世界の多様性」を表現し、「多様な文化の違いを越えて、人々が平和的に共存すること」を象徴する作品だそうです。よく見ると、確かに文字らしきものが組み合わせられているのがわかりました。しかし、解説を読んで初めて理解できる難解な作品。芸術を理解するのは難しいものだとつくづく思いました。人気ブログランキングへ虎ノ門ヒルズ森タワーにある変なもの
2023年09月08日
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目白駅で見かけた看板です。幼稚園・小学校のお受験用の洋服をオーダーできる店があるんですね。お受験には外見も大切ってことなんですね。人気ブログランキングお受験もファッションが大切らしい
2023年02月05日
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出張で、三重県の桑名に行ったんですが、泊まりは名古屋の中心街の栄というところの近くのホテルにしました。そのホテルの近くにあったビルに、なんと観覧車があって、「でら驚いたがや」夜もライトアップして営業しているんですね。人気ブログランキングでら驚いたがや
2022年12月25日
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大阪に住む友達から、「自分、大阪では駐車場のことモータープールと言うんやで」と教えてもらった。ちなみに、大阪の人が「自分」と言う時は、本人の事を意味する場合もあるし、相手のこと意味する場合もあるらしい。大阪環状線の今宮駅近くにある駐車場、確かに「モータープール」でした。駐車場のことを「パーキング(parking)」と呼んでいますが、"parking"は駐車することを意味している場合と駐車場を意味している場合があるので、大阪の人が使う「自分」と同じぐらい、状況を踏まえて理解しないといけませんね。正確に駐車場を言いたい場合には"parking lot"とか"car park"という必要があります。また、「モータープ-ル( motorpool )」は、英語版のウィキペディア(→→→こちら)ではA motorpool is a group of motor vehicles whose use is shared on a short-term basis by the personnel of an organization, such as a governmental agency or military installation. The term can also refer to the place where such vehicles are parked when not in use, and to the staff that manages the vehicles and or maintains them such that they are operable and ready for use when requested.(和訳)モータープールは、政府機関や軍事施設などの組織の人員によって短期間で使用が共有される自動車のグループです。この用語はまた、そのような車両が使用されていないときに駐車されている場所、および車両を管理し、または要求されたときに運転可能で使用できるようにそれらを維持しているスタッフを指すことができる。ということですが、お役所の車以外の民間の車も区別なく平等に「モータープール」を使っているというのは、大阪の人らしいフラットな意識の表れでしょうか。人気ブログランキング自分、大阪では「駐車場」のこと「モータープール」言うんやで
2022年10月31日
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両国の駅近くにあるこの自動販売機これは鰻重の自動販売機です。多分、冷凍食品になっているんでしょうね。でも、鰻屋さんの店先から漂ってくる鰻を焼いているニオイがしないと、なんか鰻を食べようって気持ちにならないような。人気ブログランキング鰻かば焼きの自動販売機
2022年10月22日
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ここは、MoMo太郎が敬愛するコメディアン、トニー谷(→→→こちら)も通い、芥川龍之介の母校でもある都立高校の名門「両国高校」(→→→こちら)です。平成18年(2006)から、附属中学校も開講されたみたいですね。京葉道路に面したフェンスの内側に「国産マッチ発祥の地」(→→→こちら)の記念碑が建立されています。碑には当時のマッチ箱ラベルが刻まれていました。明治8年(1875)に本所柳原町(今の墨田区江東橋1~3、5丁目に相当)、丁度この両国高校の敷地に「新燧社」(しんすいしゃ)というマッチ製造工場を作ったことからこの記念碑が建立されたそうですね。昔は喫茶店や居酒屋にはマッチが置いてあったりして、結構身近にマッチがありましたが、最近は見かけないですね。人気ブログランキング国産マッチ発祥の地
2022年09月22日
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さらに大正通りを歩いていくと、かなり本格的な商店街になっています。街灯の下についている「大正通り商明会」(→→→こちら)の看板。歴史を感じさせる昔風の食堂がありました。そして、東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の高架橋のあたりで大正通りの終点です。大正という元号を使った道路、都内でもまだ吉祥寺にもあるそうです。また全国を探せばまだまだありそうですが、ここで一旦、「大正通り」探索は終わります。【了】人気ブログランキング「大正通り」を探そう(その7) 大正通り商明会
2022年08月04日
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墨田区の大正通りを少し歩いてみました。大正通りに面してあった訪問看護施設ですが、ここは、京成白鬚線白鬚駅跡(→→→こちら)だそうです。京成白鬚線とは、京成押上線 京成曳舟~八広間にあった向島駅を起点に北西へ、東武スカイツリーライン(伊勢崎線)を東向島駅の北側でまたぎ、隅田川に架かる白鬚橋の東詰付近にあった白鬚駅に至る1.4kmほどの路線でした。昭和3(1928)年に開業したのですが、昭和11(1936)年に廃止されたそうです。京成電鉄の向島駅も現存しておらず、さらに線路跡は宅地化されいて、このあたりを歩いても、廃線跡はわからないので、今昔マップ on the web(→→→こちら)より作成した地図をつけます。この京成白鬚線にほぼ並行している大正通りは、このように住宅街と商店街の中にあります。近くにある大きな集合住宅のそばにある広い公園にある。謎のオブジェです。こういうものってどういう意図があるのかわからないものが多いですね。まあ、作品の意図は見た人が感じ取ってくれという、コミュニケーション能力の欠如した人が制作しているんでしょうね。【つづく】人気ブログランキング「大正通り」を探そう(その6) 墨田区の大正通りを歩く
2022年08月03日
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新型コロナが2類から5類になると今まで無料だったワクチン接種や治療費が有料になるのが心配なMoMo太郎です(→→→こちら)さて、白鬚橋近くにあった「鴎の渡し」の外で文筆活動を始めた森鴎外で思い出しました。墨田区にある「大正通り」、確認に行ってみました。明治通りと墨堤通りが交差する。白鬚橋東詰交差点。この交差点近くにある、下町の洋食屋さん「レストラン カタヤマ」(→→→こちら)。よくテレビなんかでも登場している有名店です。この近くに、「大正通り」があります。こちらが大正通りの入口にある八百屋さん。なかなか安いので有名かも。【つづく】人気ブログランキング「大正通り」を探そう(その5) 墨田区にもあるよ
2022年08月02日
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文豪として知られ陸軍の軍医総監も務めて、脚気は「脚気菌」による細菌感染症であるとする説にこだわっていた(→→→こちら)森鴎外(本名:林太郎)は、一時期、この北千住に住んでいたそうです。大正通り探索のついでに森鴎外が住んでいた、橘井堂医院(きっせいどういいん)の場所を訪れてみました。北千住にある旧日光街道に沿った千住本町商店街の千住ザ・タワー付近の交差点を線路にむかって左折すると、橘井堂医院跡にある記念碑がありました。「森鷗外旧居 橘井堂森医院跡」の石柱があり、「千住の鴎外碑の碑文」には、小説「カズイスチカ」の一説が引用されていました。森鴎外と北千住の関係について説明が書かれていました。3枚の説明板があったのですが、重なって全文が見えません。またそれぞれの板は固定されていて全文を読むことはなかなか苦労します。とりあえず、一番上の説明板の内容を引用します。明治12(1879)年に父静男が南足立郡医となり千住に転居して、後に橘井堂医院(きっせいどういいん)を開業しました。この頃、林太郎は東大在学中で下宿先にいましたが、大学を卒業した明治14(1881)年には下宿を引き払って千住に住み、医師として父とともに医療活動に従事しました。この頃の様子は小説『カズイスチカ』に描写されています。「鴎外」という号は、現隅田川の白髭橋付近にあった「鴎の渡しの外」(かもめのわたしのそと)という意味で、林太郎が住んでいた千住を意味しています。ちなみに、白鬚橋付近にあった「鴎(かもめ)の渡し」は吉原を指す名称でもあったそうで。遊興の地には近寄らず、遠く離れて千住に在るという意味も込められているのでしょうか。註1) 鴎の字は、「メ」ではなく「品」ですが環境依存文字であるため「鴎」を使用しています。註2) 説明板の白髭橋の表記は間違いで、正しくは白鬚橋です【つづく】人気ブログランキング「大正通り」を探そう(その4) 北千住と森鴎外
2022年07月31日
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大正通りを南側の墨堤通りの方へ歩いて行くと、道路沿いに公園があってそこに石碑が建立されていました。碑文の刻まれた大きな石碑です。篆書体で「大正記念道碑(たいしょうきねんどひ)」(→→→こちら)と刻まれています。これが大正通りという命名と関連しているようですね。この大正記念道碑、碑文は、かの文豪、森鷗外(1862〜1922)が文章を起草しているようです。碑文に関する説明がありました。説明によると、この道は、大正1911(明治44)年から開始された荒川放水路の開削工事によって不要になった用水路を埋め立てて、新たな道を作ったようです。そして、大正記念道碑は、大正新道敷設を記念して当時の地域の有志が大正5年(1916)に建立したものですが、もともとは、別の場所にあったそうですが、平成26年(2014)4月に千住の鷗外碑保存会が公益信託あだちまちづくりトラストの「まちづくりトラスト」助成を受けて、大正新道に面する千住中居町公園に移設整備したそうです。森鴎外の書いた漢文の読み下した内容が説明板に書かれていました。碑文の最後に「千住は父がかつて住んだところでなじみがあり、辞退するわけにもいかず、いわれを書いて与えた」とありました。森鴎外は、大学卒業後、父静男が千住に開業した橘井堂(きっせいどう)森医院で医師として医業に携わっていたのですね。【つづく】人気ブログランキング「大正通り」を探そう(その3) 大正記念道碑
2022年07月30日
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「昭和通り」から続いている、日光街道こと国道4号線を越えて行きます。この交差点にあった鯛焼き屋さん。天然鯛焼とありますが、養殖鯛焼というのもあるそうですね。調べてみると、天然鯛焼というのは「箸もの」という焼きごてのような釜で焼き上げる製造方法。養殖鯛焼は生地を焼き型に流し入れて焼き、片側にあんこをのせて両側を合わせ、一度に6匹~10匹くらい焼き上げる方法だそうです。4号線を越えて、この道を更に西に。この道は北千住昭和会という商店街で、まだ昭和の時代ですが、この交差点に差し掛かると、北千住昭和会と交差するこの道が大正通りのようです。住宅街にある道ですが、ちょっと昭和感漂う飲食店街もありました。この「大正通り」という愛称は、公募により選ばれたそうですが、そもそも「大正通り」と名付けた発想はどこにあるんでしょうか。ということで、大正通りの命名の由来も探してみました。【つづく】人気ブログランキング「大正通り」を探そう(その2) 昭和から大正へタイムスリップ
2022年07月29日
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東京にある大正通りを探しにやって来たのは、足立区北千住。北千住駅西口に出てきました。西口から西に向かう商店街を歩いて行きます。きたろーど1010(→→→こちら)というのが、この商店街の名前のようです。商店街にかざられているフラッグには北千住に因むものが描かれています。赤い閻魔大王は、赤い山門で「赤門寺」とも呼ばれる「勝専寺(しょうせんじ)」(→→→こちら)にある閻魔堂に因むものでしょう。中央のラッパを吹いているワンちゃんは「わんさ君」というこの商店街のゆるキャラ。そして、編み笠を持った人物は、北千住から旅に出た松尾芭蕉ですね。そして、銭湯や蔵なども描かれていました。この商店街にあった風格のある建物。眼科医院のようですね。なんか歴史ありそうな建物ですね。さらに西向かって歩きます。【つづく】人気ブログランキング「大正通り」を探そう(その1) きたろーど1010
2022年07月28日
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東京都心部を東西に貫く「靖国通り」です。靖国通りは、新宿大ガード東交差点から中央区浅草橋交差点に至る延長8kmの道路で、正式名称は、東京都道302号新宿両国線というそうです。この道路も関東大震災の復興事業として東京の南北を貫く「昭和通り」とともに計画された道路だそうです。また、この道路が「靖国通り」という名称が使われるようになったのは、昭和37年(1962)からだそうで、それ以前は「大正通り」と呼ばれていたそうです(→→→こちら)。「大正通り」という道はあったのですが、都内に「大正通り」と呼ばれる道がここ以外にも現存しているそうなので、現存する「大正通り」を明日からは紹介します。【了】人気ブログランキング元号が名前となっている道路(その3) 昔は大正通りでした
2022年07月27日
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こちらは、日本橋兜町にある東京証券取引所。この東京証券取引所を起点に築地の晴海通りまで約1.9kmの道があります。それが、平成通りと呼ばれています。平成になって建設された新しい道ではなく、平成元年(1989)に中央区が愛称を定めた道だそうです。となると気になるのは大正通りはどこかにあるのかということですね。【つづく】人気ブログランキング元号が名前となっている道路(その2) 平成通り
2022年07月26日
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首都高速道路日本橋区間地下化事業が進む日本橋近くにある「昭和通り」昭和通りは、東京都港区の新橋交差点から、明治通りが交わる台東区の大関横丁交差点に至る道路の東京都がつけた通称だそうです。関東大震災の復興事業として計画、建設された道路だったので、新しい時代の昭和を切り拓く「昭和通り」という通称はふさわしいものだったでしょう。昭和通りは、このように東京のビジネス街の中心を貫く道路となっています。そして、こちらは明治通り、東京都港区南麻布二丁目から、渋谷区、新宿区、豊島区、北区、荒川区、台東区、墨田区を経由して江東区夢の島に至る東京をぐるっと一周できる道路です。この道路も関東大震災後の復興のために計画された道路です。東京初の環状道路となる「環状5号線」として整備された道路ですが、明治通りの名が付いたのは、明治神宮の近くを通るためという説が有力なようです。台東区の大関横丁からみた明治通りです。主要な幹線道路として沢山の車が行き交っています。明治、昭和と元号を使った名前の道路がありますが、そうなると大正通りとか平成通りというのはないのでしょうか。【つづく】人気ブログランキング元号が名前となっている道路(その1) 昭和通りと明治通り
2022年07月25日
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昭和通りの江戸橋南交差点にある日本橋郵便局郵便ポストの上に地球を多くの人が持ち上げているようなオブジェがあって、ちょっと凝ったデザインになっています。この日本橋郵便局は郵便発祥の地になるようで、入り口にプレートが埋め込まれています。郵便発祥の地の碑文です。郵便発祥の地ここは、明治4年3月1日(1871年4月20日)わが国に新式郵便制度が発足したとき駅通司(現在の日本郵政公社)と東京の郵便役所(四日市郵便役所とも呼ばれ現在の東京中央郵便局)が置かれたところです人気ブログランキング郵便発祥の地
2022年07月24日
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さて、新井薬師への参詣が終わったMoMo太郎は、新井薬師近くでちょっと行きたかったところに立ち寄りました。その途中、電柱に貼ってあった看板「空手道場」はいいとしても「忍術体操」(→→→こちら)って?そして、画廊ってあるけど普通の住宅みたいな建物の前に、大きなけやきの木が鬱蒼とした林として残る、垣根のある一角がありました。個人のお宅のようですが、入口のそばに看板があります。ここが「たきび」のうた発祥の地だそうです。「たきび」の作詞者、巽聖歌は、この詩が作られた昭和5,6年頃(1930,1931)から 約13年の間, 現在の上高田四丁目に家を借りて住んでいました。朝な夕なに このあたりを散歩しながら, 「たきび」のうたの詩情をわかせたそうです。(新井薬師への参詣コースです)【了】人気ブログランキング新井薬師への道(エピローグ) 「たきび」のうた発祥の地
2022年06月15日
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新井薬師での参詣を終えて、西武新宿線新井薬師前駅から電車で帰ることにします。西武新宿線の地下化工事中なので、仮設の駅名標と路線図が貼ってありました。相対式ホーム2面2線を有する地上駅ですが、線路が大きく曲がり、それに併せてホームも曲がっています。安全確認のためでしょうね。下り線のホームの中央部には、監視係の駅員さんが立っていました。西武というとこの黄色い電車が昔から走っていますが、最近は見かけなくなった戸袋窓がついていました。新井薬師駅から高田馬場駅に行き、そこで山手線に乗り換えます。西武新宿線、山手線に乗り換えるなら、終点の西武新宿ではなく高田馬場の方が便利ですね。西武新宿駅とJR新宿駅は結構離れていますから。ちなみにJR高田馬場駅の発車メロディーは「鉄腕アトム」ですが、西武新宿線の高田馬場駅の発車メロディーは、味噌メーカーの「マルコメ」のCMソングのメロディーでした。しかし、マルコメと西武鉄道どういう関係なんでしょうかね?(新井薬師への参詣コースです)【つづく】人気ブログランキングえ新井薬師への道(その13) 西武新宿線新井薬師
2022年06月14日
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新井薬師境内をしばらく散策してみると、境内には大きな石塔が二基ありました。ひとつは、十三重石塔で「弘法大師一千百五十年御遺忌供養塔」と記されていました。こちらの五重石塔には渋谷講とありましたが、新井薬師を崇敬している渋谷に住んでいる人達の団体が建立したものでしょうかね。さら聖徳太子像がありました。像のよこにある説明板によると、この16歳の聖徳太子銅像は、昭和35年(1960)に左官職組合連合会中野支部の組合員の皆さんが技能向上を願って製作した像のようてす。さらに新井薬師の裏側には、道路をはさんで、新井薬師公園という公園がありました。大正3年(1914)、新井薬師が境内の一部を公園として開放したのが始まりとなっており、ケヤキやサクラなどの木々があるので有名だそうです。こじんまりとした公園ですが、水遊びのできる池などもあって、子供達には格好の遊び場かと思いつつご高齢の方ものんびりと散策を楽しまれているようでした。(新井薬師への参詣コースです)【つづく】人気ブログランキング新井薬師への道(その12) 新井薬師公園
2022年06月13日
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新井薬師駅前商店街を進んで、ちょっとわかりにく五差路に差し掛かりました。このちょっと賑やかそうな商店街を進んで行くと、スクランブル交差点にやって来ました。新井薬師門前交差点です。この交差点を右折すると、目的地の新井薬師として知られる新井山梅照院(→→→こちら)の門前に到着です。新井薬師は、真言宗豊山派の寺。高尾山薬王院、日向薬師、峰の薬師とともに武相四大薬師に数えられる名刹です。ご利益は、「眼病治癒」と「子育て」、特に眼病治癒は徳川幕府2代将軍・徳川秀忠の第5子、和子の方(東福門院)の悪質な眼病を祈願して快癒したことで知られ信仰を集めたそうです。MoMo太郎の老眼を治してくれるのでしょうか、早速、参詣します。こちらが山門です。山門の脇には「本堂再建供養塔」というのがありました。この塔は、梅照院(新井薬師)の再建に尽した住職運樹の業績と信徒の信仰心にこたえるため、安永8年(1779)後継者の英俊が高野山延命院の引導地獄尊を模して建立したものです。山門を入って左手にあった薬師霊堂。赤と白が美しい二重の塔です。右手にあるのが不動堂。名前のとおり不動明王が祀られているそうです。右側にあるお地蔵さまは、お願い地蔵。自分の体の治してほしいところと同じ部分に水をかけて洗います。こういうところに来ると、いつもお地蔵様の顔と頭を洗ってしまうMoMo太郎。頭を洗ってもなかなかご利益ありませんが。そして、回向柱(えこうばはら)の向こうに本堂が見えてきました。回向柱は御開帳の際、本堂前に建立する柱のことで、御本尊と柱とを五色(白色もある)の紐でつないで御本尊の霊験が柱に宿り、柱に触れる者に御利益をもたらしますということです。本堂でお参りしました。回向柱があるということでわかると思いますが、今年は、12年に一度の新井薬師梅照院ご本尊が開帳される年になります。御本尊は、秘仏とされ、薬師如来・如意輪観音の二仏一体。国内でも、非常に稀な御尊像だそうで、丈一寸八分(5.5cm)黄金仏の坐像。弘法大師の作と伝えられています。ということで、令和4年5月1日〜6月30日、10:30〜15:00 の間、一人1,000円でご本尊を拝観できるそうです。(新井薬師への参詣コースです)【つづく】人気ブログランキング新井薬師への道(その11) 新井薬師参詣と回向柱
2022年06月12日
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しばらく、住宅街を歩いて行くと少し上り坂になっています。そして、仮囲いに覆われたところに出ました。仮設で作ったような跨線橋らしいものが見えてきて、西武新宿線の新井薬師に着きました。しかし、新井薬師前駅の周辺、大きな工事をしていますね。これは、中井駅付近から野方駅付近までの約2.4kmについて、鉄道を地下化して道路と鉄道を連続的に立体交差化する「西武新宿線(中井駅―野方駅間)連続立体交差事業」だそうです。地下化されて連続立体交差になると、こういう踏切もなくなり交通渋滞もなくなってよくなりますね。しかし、踏切から見た新井薬師駅のホーム、随分か湾曲していますね。このホームもいずれ見られなくなるのでしょう。完成は2027年3月の予定だそうです(→→→こちら)。踏切を渡って駅の南側には新井薬師駅前商店街が続いています。ちょっと賑やかな商店街でした。(新井薬師への参詣コースです)【つづく】人気ブログランキング新井薬師への道(その10) 新井薬師前駅
2022年06月11日
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中井通りを西に向かって歩いて、ここでようやく西武新宿線の脇に出ました。しかし、道が右側に大きくカーブして、並走する区間はすぐ終わり、またしばらく西武線とはお別れです。そして、妙正寺川(→→→こちら)をこの橋で渡ります。橋の名前が「くずはし」、クズ? いえ葛橋という名前です。こちらが川の上流側、川の始点は杉並区の妙正寺公園内の妙正寺池になります。こちらが川の下流側、西武新宿線の鉄橋を抜けると川がほぼ直角に曲がり、東に向かって流れ、新宿区下落合一丁目の辰巳橋付近で神田川高田馬場分水路に合流します。そして、葛橋を渡ると中野区上高田になります。(新井薬師への参詣コースです)【つづく】人気ブログランキング新井薬師への道(その9) 妙正寺川を越えると中野区です
2022年06月09日
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山手通りを過ぎたところで、林芙美子記念館(→→→こちら)があります。林芙美子(1903-1951)は、北九州市門司に生まれ、尾道で多感な少女時代を過ごし、大正11年(1922)に上京。昭和5年(1930)に出版された小説「放浪記」により一躍流行作家の仲間入りを果たしました。そして、その年に新宿落合に転居した後、昭和16年(1941)8月から昭和26年(1951)6月28日にその生涯を閉じるまでこの家に住んでいたそうです。その間、「うず潮」「晩菊」「浮雲」など数々の代表作を執筆したそうです。中井通りから脇に逸れて「四の坂通り」という坂道を少し登ったところに林芙美子の自宅玄関があります。しかしここは記念館の入口ではなく、ここから更に坂道を登ったところに記念館の入口になります。こちらが、記念館の入口です。入場料は一般150円。お安いと思いましたが、新井薬師へのお参りの途中なので、見学は後日ということにします。中井通りに戻ってくると「落合に住んだ文化人」という案内板がありました。この案内板を確認してみましたが、赤塚不二夫さんの名前がありませんでした。新宿区に住んだ文化人で最もビックネーム、「ひみつのアッコちゃん」、「おそ松君」、「天才バカボン」等々の稀代の名作漫画を発表し、「レバニラ炒め」(→→→こちら)という中華料理を定着させ、さらに人気タレント「タモリ」を発掘した、あの赤塚不二夫先生を忘れているとは、まさに「おそまつ」ですね。青梅にあった青梅赤塚不二夫会館(→→→こちら)も一昨年閉鎖されたことから、新宿落合・中井の地に赤塚不二夫記念館を建てて欲しいものです。今度の参院東京選挙区から立候補する、れいわ新選組の山本太郎代表には、「赤塚不二夫記念館建設」を公約としていただきたいものです。(新井薬師への参詣コースです)【つづく】人気ブログランキング新井薬師への道(その8) 林芙美子記念館より赤塚不二夫記念館を!!
2022年06月08日
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薬王院から先は、いったん新目白通りに出て新井薬師に向かいます。文京区の江戸川橋交差点から新宿区の西落合一丁目交差点までの新目白通り、目白通りのバイパスとして整備され全線が開通したのは昭和59年(1984)だそうです。新目白通り下落合駅前交差点から北に登る聖母坂通り、この坂道を登ったところに目白通りがあります。また、坂の上には聖母病院(→→→こちら)があります。この病院は古くからあるようで、昭和23年(1948)1月26日に起こった帝銀事件の被害者が収容された病院だったそうです。道路の南側に渡ってさらに西の方へ進みました。中井通りに入ります。新宿区中井、ちょっと下町風で住むのにはいい街のようです。商店街があって日常の買い物にもいいですね。途中にあった「見晴坂」。道標にある解説では、むかし,この坂上からの眺望はすばらしく,特に富士山の雄大な姿は抜群であったという。坂下の水田地帯は 古来より 落合蛍 の名所として知られた。坂名はこれらの風景に由来するものであろう。平成三年九月 東京都新宿区教育委員会とありました。この陸橋は、山手通りです。山手通り、地下には都営大江戸線と首都高速中央環状線の山手トンネルが走っているのですが、地表は普通の町並みですね。(新井薬師への参詣コースです)【つづく】人気ブログランキング新井薬師への道(その7) 中井通りです
2022年06月07日
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新井薬師道を歩いていくと、立派な寺号碑のある大きなお寺がありました。瑠璃山薬王院医王寺(→→→こちら)というのが正式な名称のようですが、東長谷寺とも呼ばれている真言宗豊山派のお寺だそうです。相模国(神奈川県)大山寺を中興した願行上人により、鎌倉時代に開山された歴史のあるお寺です。東長谷寺というのは、鎌倉の長谷寺(浄土宗)ではなく、真言宗豊山派の総本山、奈良の長谷寺(→→→こちら)に由来するのでしょう。真言宗豊山派のお寺なので、弘法大師の石像がありました。崖の上に本堂があり、奈良の長谷寺に似た雰囲気です。鉄筋コンクリート造りですが立派なものです。このお寺にお参りするのも信心と思い、この石段を登って本堂にお参りさせてもらいました。(新井薬師への参詣コースです)【つづく】人気ブログランキング新井薬師への道(その6) 瑠璃山薬王院医王寺
2022年06月06日
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さらに新井薬師道を歩いていくと、氷川神社がありました。目指すは新井薬師ですが、道中らある神社にお参りするのも信心と思い、参拝しました。新宿下落合氷川神社(→→→こちら)というそうです。住宅街の中の神社ですが、広い境内でした。こちらの狛犬。下から子狛犬が岩山に登ろうとしていました。こちらには神社の御由緒が記されていました。御創立は第五代孝昭天皇の御代(今より二千四百年前)ともさらに上古ともいわれているそうで、明らかではないそうですが、古くからの神社のようです。また、スサノオノミコト、クシナダヒメノミコトそしてオオナムチノミコトの三柱の神様が奉られています。本殿です。最近では珍しく拝殿の上の鈴を鳴らすことができました。落合崖線沿いの道なので、台地に登る坂道と新井薬師道は交差しています。緩やかにカーブを描きながら台地の上に向かっている七曲坂というそうです。折れ曲がった坂であることから、七曲坂というのですね。七曲坂を過ぎると、新井薬師道の道幅が狭くなってきています。(新井薬師への参詣コースです)【つづく】人気ブログランキング新井薬師への道(その5) 新宿下落合氷川神社
2022年06月05日
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おとめ山公園の近くにある建物です。ふりかけの錦松梅(→→→こちら)の東京工場だそうです。東京工場ということは、他にも日本のどこかにふりかけの錦松梅を作っている工場があるんでしょうか?集合住宅(マンション)の立ち並ぶ高級マンション地帯の中を歩いて行きます。「落合四小下」という交差点に出ました。落合四小下というのですから、この坂道を登っていけば、落合第4小学校というのがあるのですね。このあたり、坂道が多いのは、 文京区から豊島区、新宿区にかけて、目白台や豊島台の台地南側から神田川と妙正寺川が削った谷に落ち込む目白崖線、落合崖線といわれる崖があるからでしよう。つまり、新井薬師道は落合崖線に沿った道ということです。また、下落合の「落合」という地名は、神田川と井草川(現在は妙正寺川)の2つの川が落ち合う場所であったことに由来します。また、川の上流が上落合、下流が下落合になります。(新井薬師への参詣コースです)【つづく】人気ブログランキング新井薬師への道(その4) 落合崖線沿いの道
2022年06月04日
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おとめ山公園(→→→こちら)という公園があるようなので、ちょっと立ち寄ってみました。なかなか広い公園です。「おとめ山」、「乙女山」と連想してちょっといいなと思いますが、しかし「乙女」が遊んでいそうな感じはなく、家族連れて近所の人達が遊びに来ているようです。江戸時代、おとめ山公園の敷地周辺は、将軍家の鷹狩や猪狩などの狩猟場でした。一帯を立ち入り禁止として「おとめ山(御留山、御禁止山)」と呼ばれ、現在の公園の名称の由来となっているみたいでした。ということで、乙女が山ほどいる公園ではなかったのですね。(新井薬師への参詣コースです)【つづく】人気ブログランキング新井薬師への道(その3) おとめ山公園
2022年06月03日
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「学習院下通り」はちょっと高級感の住宅街の道で、テニスクラブがありました。そして、学習院大学のある台地の崖に沿うように、高級そうなマンションが、ここに黒田慶樹・清子ご夫妻がお住まいになっているという噂があります。埼京線・山手線のガードが見えてきて学習院下という名前の三叉路に着きました。鉄道の下をくぐり抜けるトンネルのようですが、「新井薬師道道ガード」というそうです。このガードという言葉、girder=「太い梁」から、道路の上にかけられた鉄道橋。また、市街地の鉄道の高架橋という意味に使われているそうです。ガード下には、ちょっとポップな壁画が描かれていて、殺風景なコンクリートの壁の印象を和らげています。ちなみにこのガードを抜けると新宿区に入ります。新井薬師道ガードを抜けて少し行くと、「高田馬場住宅」というのがあります。ちょっと古い建物のようですが、これも大きな集合住宅(マンション)でした。(新井薬師への参詣コースです)【つづく】人気ブログランキング新井薬師への道(その2) 高級マンション地帯
2022年06月02日
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新井薬師に向かって学習院下停留所から出発です。こちらのホームが早稲田行のホームです。踏切をはさんで反対側が雑司ヶ谷、大塚方面行きのホームになります。踏切を渡った時に、次の電車が入ってきました。この道が学習院下通りで、そこを西に向かって歩いてゆくのですが、明治通りを渡る横断歩道がなかったので、この歩道橋を使い明治通りを渡ります。歩道橋の上から雑司ヶ谷方面を撮影。遠くに見える高層ビルは豊島区役所ですね。塘路標識に隠れて判りにくいですが、千登世橋があります。明治通りから学習院下通りに入ってすぐに千登世橋中学校がありました。学習院下通りなので、学習院大学の裏門がありました。こちらの門から入ると、裏口入学になりますかね。(新井薬師への参詣コースです)【つづく】人気ブログランキング新井薬師への道(その1) 学習院下通り
2022年06月01日
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或る日、東京都中野区にある新井薬師へ参詣しようと思い立ちました。普通に西武新宿線に乗って新井薬師前まで行ってというのもつまらないので、そこで新井薬師道(→→→こちら)があるらしいので、そのルートを辿ってお参りに行くことにしました。出発点は東京さくらトラム(都電荒川線)の学習院下停留所。新井薬師に向かう前に、人生の端っこを歩くMoMo太郎の好きな橋を見かけたので、ちょっと立ち寄ってみました。明治通りを目白通りが立体交差する「千登世橋」です。この橋は昭和7年竣工。橋の長さは28メートル。巾は18.2メートル。一径間鋼ヒンジアーチ橋。東京都内で初めての幹線道路同士の立体交差橋だそうで、現在は土木史的価値が高いとして「東京都の著名橋」に指定されているそうです。橋の上は目白通りとなっています。親柱が大きくて立派、かつ街灯までついてます。橋のたもとの広場には、石碑が建立されています。ひとつは、千登世橋の歴史を記したもので、千登世橋は、昭和7年に橋長28.0m、有効幅員18.2mの一経間鋼ヒンジアーチ橋で架設された。この橋は、明治通りと目白通りとの立体交差橋で都内でも土木史的価値の高い橋として「東京都の著名橋」に指定された。著名橋整備事業として、千登世小橋と共に親柱、高欄、橋側灯及び橋詰空間など、歴史的原型のほぜんを行い、文化遺産継続の願いをこめて修景を施したものである。施工年度 平成2年度施工者 東京都第四建設事務所とありました。こちらの作業員の姿がある記念碑は、関東大震災の帝都復興事業を計画実行した東京府土木部長だった来島良亮(→→→こちら)の記念碑です。こちらの記念碑は古く、以下の碑文がありました。東京府土木部長 来島良亮君像故従四位勲四等来島良亮君ハ山口縣ノ人ナリ明治45年(1912)東京帝国大学ヲ卒業シ内務技師ニ任せらる利根川及雄物川ノ改修ニ功アリ秋田市会議員ニ挙ケラルルコト二回昭和2年(1927)東京府土木部長ニ補セラル居ルコト6年力ヲ都市計畫ノ諸事業河川港湾ノ改修府縣道ノ改良ニ致シ業績顕著ナリ環状道路ノ如キモ亦君ノ労苦ニ負フ所多シ8年9月再ヒ内務技師ニ任セラレ北海道■技師ヲ兼ヌ偶疾ヲ獲11月卒ス享年40有九近者知友胥謀テ地ヲ此ニ相シ紀念碑ヲ建ツ 昭和9年(1934)11月22日(新井薬師への参詣コースです)【つづく】人気ブログランキング新井薬師への道(プロローグ) 東京の著名橋「千登世橋」
2022年05月31日
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新橋の汐留シオサイトと道路を挟んで建っている銀座郵便局です。その銀座郵便局の前にある石碑です。検査業務開始の地 明治9年6月17日, この地に 工部省電信寮の碍子試験所が発足 して電信用碍子の電気試験が行わ れた。これが我が国における近代的物品購入検査の始まりである。 検査100年を記念して 昭和51年6月 郵政省 日本電信電話公社 寄贈 検友会「碍子」とは「がいし」と読みます。で、碍子(がいし)とは何かというと、電柱の上にある電線を支えている白いものや、鉄塔についている白いそろばんの玉のようなものです。その役割は電気を漏らさず、電線を支えるものです。つまり、電気が漏れるのを「碍げる」(さまたげる)部品です。これがないと電線から電気が鉄塔を通って地面に電気が漏れてしまいます。人気ブログランキング検査業務開始の地
2022年03月28日
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お正月というと門松を飾るというのが、昔からの風習ですが、やはり本格的に門松を飾っている所は少ないですね。最近は、こういう小ぶりの門松もあるんですね。両国国技館になると、やっぱり本格的なものがかざられています。しかし、門「松」といいながら、センターにある3本組の竹が目立ちますね。日本伝統の相撲ということで、両国界隈の相撲部屋もちょっと見てみると、春日野部屋はしめ飾りのみで門松はなく、門松が書かれた用紙でした。出羽海部屋は、松の枝だけつけていました。確かにこれが門松かも。回向院も竹の幹に松の枝をくくりつけような形で、これは門松の初期タイプかも。ちゃんこ料理屋さんともなるともしっかり飾っていますね。こちらのちゃんこ料理屋さんもしっかり飾っています。年神様はこの門松を目印に降臨してくると言われるので。お客様は神様です。お客様もこの門松を目印にやってきてくれるということでしょうか。江戸東京博物館の入口にも立派な門松が飾られています。江戸の風情を伝えるということで、これも広い意味での展示なのかもしれませんね。ちなみに、1月2日と3日は無料で両国にある江戸東京博物館を観覧できます。いずれにせよ、「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」ということで。人気ブログランキング門松をさがしてみました
2022年01月02日
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日本橋蛎殻町で見つけた洋傘店。2階は「シェルブール」という名前の喫茶店になっています。やっぱりこれはフランスの映画「シェルブールの雨傘」(→→→こちら)にあやかったんでしょうね。ラストシーンは雪の降る夜、クリスマスの買い物に出かけた妻と息子あと、主人公の経営するガソリンスタンドに、元カノで子供まで産ませたカトリーヌ・ドヌーヴがやって来て、そして何事もなかったように分かれて行く。なんか大晦日の夜に見てもいいような映画ですね。しかし、MoMo太郎は子供の頃、この映画を観て、「フランス人ってこんな感じで歌いながら会話するのか」と思っていました。人気ブログランキング日本橋蛎殻町にある洋傘店
2021年12月31日
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水稲荷神社の参道から甘泉(かんせん)園公園(→→→こちら)への入口があります。元々は徳川御三卿の一つの清水家の下屋敷があったところで、屋敷にあった回遊式の大名庭園であった。この庭園から湧き出ていた湧き水がお茶に適して評判であったことから、「甘泉園」と呼ばれていたそうです。ということで公園の中に湧水があったのでしょう。それがこの滝なのでしょうか。滝から流れ出た水でこの「山吹の井」というひょうたん型の池が出来ています。背後に見える高層マンションに住んでいると、眼下にこの庭園が眺められて、ひときわセレブ感に浸れそうです。こちらが甘泉園公園の正式な入口なかでしょうか。新宿区が建てた甘泉園の案内がありました。甘泉園という名は、園内に湧き水があり、清冽で常時涸れず、また、茶に適したところから起ったものであり、その由来を書きしるした石碑が、園の南東に当たる水稲荷神社の社務所脇に現存している。この地は、江戸中期の安政三年(一七七四年)徳川御三卿の一つ、清水家の下屋敷がおかれたところである。明治三十年ごろ、相馬家の所有となったが、昭和十三年早稲田大学に移譲された。戦後、都はこの地を買収し、改修の手を加えて、昭和四十四年、区へ移管した。庭園は、神田川右岸を東西に走る台地の北面の傾斜地とその低地にあって、段丘の高低差を利用し、泉の水を引いた池を廻遊する林泉になっている。池傍より見上げる雄大な常緑樹林に囲まれ、春のツツ秋の紅葉が水面に写り、美事な景観を創りだしている。「日本の歴史公園一〇〇選」にも選定された。こちらが甘泉園公園の案内図です。【了】人気ブログランキング高田馬場を探して(その7) 甘泉園公園
2021年10月27日
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折角の機会なので水稲荷神社に参拝しました。木立に囲まれた参道は古い神社の歴史を感じさせます。また、この神社では旧暦二月初午の日に珍しい「オビシャ」(御歩射、御備射)の祭事があるのだそうです。神社のとなりは大きな集合住宅がありました。甘泉園住宅と呼ばれているようですが、都営住宅なんでしょうか?参道には二宮金次郎来て、薪を背負ったまま石に腰掛け休んで読書していました。馬小屋のようでしたが、見かけたのはヤギでした。こちらが本殿への入口にある鳥居です。鳥居をくぐってすぐのところに「平和の礎」という慰霊碑がありました。平和の礎は 大東亜戦を聖戦と信じ 滅私興国の至誠を以て 散華した新宿区内の英霊及び早稲田大学教職員並に出陣学徒の英霊四千三百余柱をおさめ、常住に平和を希求し慰霊するは我等戦友の責務であると誓い、同志郷友会員の素志により建立した次第です。 昭和四十年八月十五日 戸塚郷友会 建立だそうです。ちなみに、「平和の礎」の文字は内閣総理大臣、佐藤栄作によるものです。岸田文雄総理や安倍晋三元総理にもこうやって揮毫を頼む人はいるんでしょうね。こちらが拝殿です。水稲荷ということで、「イネが生った」ということで水稲が植えられているのでしょう。「稲荷大神様」のお使い(眷族)の白いきつねです。赤いきつねは神様の使いではありません。カップ麺です、間違わないで下さい。こちらのきつねは神の霊力を示す「宝珠」を咥えています。こちらのきつねは別のものを咥えていました。どんな願いも叶うという稲荷の秘法が書かれている「巻物」です。玉と巻物を持っていれば、稲荷神のる宇迦之御魂神(うかのみたま)の霊力が備わるのかも。水稲荷神社の拝殿です。水稲荷神社は天慶四年(941)藤原秀郷(平将門追討したことで有名な武将)が稲荷大神を勧請したことが始まりだそうです。古くは「富塚稲荷」「将軍稲荷」と呼ばれていましたが、江戸中期境内の大椋の下に霊水が湧き、眼病に利くとして評判を呼んだことが、神社名の由来だとか。また、水つながりで水商売および消防の神様として有名だそうです。【つづく】人気ブログランキング高田馬場を探して(その6) 水稲荷神社に参拝
2021年10月26日
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西早稲田交差点から新目白通りの方へ下っていくと、水稲荷神社(→→→こちら)の社号碑がありました。水稲荷神社境内の入口に「堀部武庸加功遺跡の碑」がありました。これは講談や芝居で知られる「高田の馬場の決闘」(→→→こちら)に助太刀で参加し18人を斬ったといわれる堀部安兵衛(本名は堀部 武庸(ほりべ たけつね)で安兵衛は通称,旧姓は中山)の事績を称えた石碑です。ちなみに18人を斬ったというのは講談の創作で、本当は3人だったそうです。そして、その武功を見込まれ、堀部安兵衛は浅野家家臣堀部弥兵衛の養子になり、赤穗浪士として吉良上野介を討ち果たしたということです。なかなか立派な石碑が建立されていました。この石碑は明治43年(1910)に茶屋町通りの一隅に建立されましが。その後、昭和46年(1971)に水稲荷神社に移設されたそうです。「堀部武庸加功遺跡の碑」は篆書体(てんしょたい)でこのように書くのですね。【つづく】人気ブログランキングへ高田馬場を探して(その5) 堀部武庸加功遺跡の碑
2021年10月25日
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早稲田通りに戻って、西早稲田交差点にあるお寿司屋さんの壁面に新宿区が設置した看板がありました。この説明によると西早稲田三丁目一・二・十二・十四番を含む長方形の土地が、江戸時代の高田馬場跡である。(中略)馬場の一角、茶屋町通りに面したところは堀部安兵衛 が叔父の菅野六郎左衛門 の決闘の助太刀をしたとされるところで、水稲荷神社 の境内には「堀部武庸加功遺跡の碑 」が建っている。ということで、史蹟の高田馬場は山手線の高田馬場駅からは随分離れた、西早稲田にあったということですね。となりのお寿司屋さんのショーケースには高田馬場の見取り図が掲示されていました。これによると、馬場といっても今の楕円形をした競馬場のトラックのようなものではなく、細長い直線コースを走るコースのようでした。しかし、このお寿司屋さんのご主人は地元の歴史に詳しい方のようですね。この近くには戸塚囃子(→→→こちら)の案内板もありました。水稲荷神社の祭礼を中心に奏される祭囃子で、昭和初期に途絶え、太平洋戦争後に一時期(昭和24年~同28年)に再開したが、昭和51年に再度復活したそうですね。ここまで来たら、その水稲荷神社まで行って、高田馬場の決闘の石碑「堀部武庸加功績跡碑」を観に行くことにしました。【つづく】人気ブログランキング高田馬場を探して(その4) 史蹟高田馬場は西早稲田にあります
2021年10月24日
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茶屋町通りという標識がありました。江戸時代、この付近には旗本の馬術練習場があり、見物客等が多かったことから、地元の農家が茶屋を開いた。ということで茶屋町通りとなったのですね。早稲田通りから北側に向かって、そして突き当りを東に行く道のようです。つまりこのあたりに高田馬場があったようです。こちらが茶屋町通り。茶屋があったというような痕跡はなく、普通の住宅街の道ですが、古くからやっていそうなうなぎ屋さんです。なんか隠れた名店的な雰囲気がありました。そして、広い道に出て茶屋町通りは終わりました。とりあえず、なんとなくこのあたりに高田馬場という馬術の練習場があったんだということがわかりました。【つづく】人気ブログランキング高田馬場を探して(その3) 茶屋町通り
2021年10月23日
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この早稲田通りを東の方角、早稲田大学の方へ向かって歩きます。この通りの商店街も銀座だったんですね。馬のイラストはやっぱり高田馬場にちなんだマスコットなんでしょうね。早稲田松竹という映画館がありました。いわゆる名画座(→→→こちら)と呼ばれるタイプの映画館で、旧作を中心に上映する映画館でのようです。そして明治通りとの交差点です。西早稲田源兵衛子育地蔵尊というのがありました。この説明板によると、「江戸時代に小泉源兵衛という人が荒地を開墾し、人々が集まってきて村となり、後に功績を記念して300年近く前の1726年に地蔵尊が安置されたそうです。」子育てというより、早稲田を開拓した記念のお地蔵様ですね。【つづく】人気ブログランキング高田馬場を探して(その2) 早稲田通りを東へ
2021年10月22日
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高田馬場ってずっと「たかたのばば」と思っていましたが、「たかだのばば」と濁るんですね。知りませんでした。JRの駅名標の表記も「たかだのばば」でした。西武鉄道の駅名もローマ字表記では「Takadanobaba」東京メトロ東西線も「Takadanobaba」でした。ところで、高田馬場という地名は、寛永13年(1636)、徳川三代将軍家光により旗本達の馬術の訓練や流鏑馬などのために造営された馬場のことだそうで、その馬場がどこにあったのかを探しに行くのが今回の目的です。ということで、高田馬場駅前に立つ平和の女神像に見送られて早稲田の方角へ歩き出しました。ちなみに、この像は東京藝術大学名誉教授の山本豊一氏の製作で、昭和49年に高田馬場再開発記念として建立されたのだそうです。【つづく】人気ブログランキング高田馬場を探して(その1) 「たかたのばば」と思っていました。
2021年10月21日
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西日暮里のJR宇都宮線の近くにあるイトーヨーカドー(→→→こちら)です。小さいけどセブンイレブンではありません。これは、ネットスーパーに特化した店舗だそうです。ネットスーパーとは、店頭で販売している商品をインターネットで注文できるシステムなんだそうですが、店舗がないとAMAZONとの違がないので、わざわざ店舗を作ったのかというとそうではなく、酒類・医薬品等の免許商品をネットスーパーで取り扱うために、「実際に店舗を構えて販売している」ことが法律上条件となっているからだそうです。ということで、この小さなイトーヨーカドーのおかげて、今までイトーヨーカドーのお店がなかった銀座や上野にお住まいの方でも、イトーヨーカドーの商品が買えるというわけですね(→→→こちら)ちなみに、このイトーヨーカドーの裏手、JR宇都宮線から見えるこの大きい建物がネットスーパーの本体のようですね。人気ブログランキング小さいイトーヨーカドー
2021年09月21日
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東大生には、多分馴染みが深い「本富士(もとふじ)警察署」文京区本郷七丁目にあるのに本富士警察署ってなんか変だなと思っていました。そしたら、春日通りを歩いていて、この神社に気がつきました。江戸時代前にはここに「富士浅間神社」が鎮座していたのですが、江戸時代に「加賀百万石前田家の上屋敷(東部は富山・大聖寺両支藩の屋敷)」となったので、「富士浅間神社」は駒込へ移転しました。そして「浅間神社の元鎮座地」との意味合いで「元(本)富士」と町名が付けられたそうなんですね。ということで、いまでも小さい拝殿が鎮座していました。その横には「冨士淺間大神」と刻まれた石碑もありました。人気ブログランキング本富士の地名の由来
2021年09月16日
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王子の町には、ちょっと小洒落たパン屋さんがありました。MEIJIDO(明治堂)というパン屋さん(→→→こちら)で一階はベーカリー、二階はカフェとなっていました。結構有名らしく、明治22年(1889)に明治堂は開業したそうです。当時東京にパン屋はまだ10軒しかなかった時代だったとか、新しい物好きの創業者が銀座木村屋で初めてパンを食べて感動し、木村屋で修業を積み、地元の王子で開業したそうです。ホームページによると、地元の王子に限らず、日本中から私たちのパンを求めてお客様がご来店してくださるようになったことです。最近では海外からの旅行客でいらっしゃる方も増えました。ということだそうです。こちらは、独立行政法人 国立印刷局のお札と切手の博物館(→→→こちら)です。やっぱり、福沢諭吉はじめお札には縁のないMoMo太郎。コロナ禍で閉館しており見学できませんでした。仕方ないので、チンチン電車(これってセクハラ用語かな)で帰りました。【了】人気ブログランキング王子駅界隈 (その2) 明治堂
2021年09月04日
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JR京浜東北線にある王子駅界隈を散策してきました。王子駅の近くにあるこの高層ビルです。北とぴあ(→→→こちら)という総合文化施設です。MoMo太郎の記憶では、バブルの末期、平成のはじめ頃に出来た施設だと思います。正面玄関の前にあった銅像です。立膝をついたお行儀の悪いお姿のこの銅像、どこかで見たことがあるな、と思ったら、長崎市にある平和祈念像でした。北とぴあで催し物がある時は、ガースーのように遅刻しないようにしないと、そして、なにより戦争で失われた多くの命の冥福を、遠く離れた東京都北区の地から祈りました。北とぴあの最上階は17階で、無料で利用できる展望ロビーになっています。無料が好きなMoMo太郎には有り難い施設です。この展望ロビーからは関東平野が一望できます。こちらは南側の景色です。わかりやすく目立つのは、この東京スカイツリー。こちらは東側の眺め、天気が良ければ筑波山とか見えそうです。もう少し手前に目を落とすと、隅田川と首都高速の中央環状線が見えました。こちらは西側の都心部。ビルの合間から薄っすらと東京タワーが見えました。こちらは北側の眺め、ちょっと晴れ間が見えていました。北とびあの真下を見ると、王子駅がみえます。京浜東北線と北陸新幹線です。こちらは赤羽方面から走ってきた京浜東北線も撮影できました。霞んで見えていますが、尾久車両センターです。鉄道が好きな方にはこの場所有名なんでしょうね。【つづく】人気ブログランキング王子駅界隈 (その1) 北とぴあ
2021年09月03日
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江東区立第三亀戸中学校の近くにあるこの建物、錦糸町プライムタワー(旧名は日鐵NDタワー)というオフィスビルです。ここのオープンスペースにあるこの碑「ドラム缶発祥の地」です。碑文にはこう記されてました。ドラム缶発祥の地 わが国におけるドラム缶の製造は, 昭和4年日本石油(株)下松精油所で 自家用として生産したことに始まるといわれているが, その後昭和7年3月, 先進的な事業家本野吉彦が合資会社日本ドラム罐製作所を設立, こ の地にわが国初めてのドラム缶製造専門工場を建設し, 商業生産を開始した。スチール製ドラム缶がアメリカで発明されてから僅かに30年後の ことである。 以後長い間この工場はわが国ドラム缶製造の中心として活躍したが, 日本経済の高度成長に伴う需要量の増大と技術の進歩に対応するため には新立地による新鋭工場の建設が不可欠となり, 当地のわが国最初の ドラム缶工場はその使命を終えて昭和49年10月製鐵ドラム株式会社を合併し 日鐵ドラム株式會社として新たな出発をしたが, 平成6年, その発足20周年を 迎えるにあたり, ドラム缶製造工場発祥の場であるこの地に, 日鐵NDタワーを含む“NDプラザ”をその記念として建設した。 平成8年10月 日鐵ドラム株式會社 代表取締役社長 安東成海人気ブログランキングドラム缶発祥の地
2021年09月02日
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MoMo太郎が調べたラジオ体操発祥の地紹介します。第四回は、浅草のかっぱ橋道具街通りの近くにある台東区松葉公園です。公園の中には竹林となまこ塀がありました。この日本風の庭園は近くには浅草の東本願寺をはじめとする寺院が多いことと関係しているのでしょうか。この広場でラジオ体操会が開かれているのでしょう。立派なステージも設置されいます。こちらが、「ラジオ体操中継放送再開発祥の地」の掲示板。「中継放送」の「再開」が「発祥」した というのはなんか判りにくいですね。碑文によれば、ラジオ体操は、昭和3年天皇陛下ご即位を記念し国民の健康増進を目的として郵政省(当時逓信省)簡易保険局が制定し、日本放送協会の電波にのせて全国に放送してから50年国民の愛好するところとなり体力づくりに大きな役割を果たしつつあったが、第2次世界大戦の影響を受け昭和22年8月31日で放送も一時中断の止むなきに至った。その後、戦後の復興とともに、昭和26年5月6日、3年8ヶ月ぶりにラジオ体操の放送が再開され、昭和27年6月28日中継放送再開の第一声が、ここ松葉公園から全国に放送された。これを機として台東区ラジオ体操連盟が発足し、次いで東京都ラジオ体操会連盟及び全国ラジオ体操連盟と発展し今や全国に20万人を突破する今日の隆盛を見るに至った。ここにラジオ体操制定50年と中継放送再開発祥の地を記念して長く後世に伝える。 昭和53年6月25日 東京都台東区とうことで、戦後の一時期、ラジオ体操は中断されていたんですね。郵政博物館のホームページ(→→→こちら)には次のように説明されていました。終戦となり、ラジオで全国一斉に実施するラジオ体操が軍国主義的であると連合郡総司令部から指摘され、昭和21年に放送を中止しました。その後、国民の中にスポーツに対する関心が高まり、誰もが行える気軽な運動として、ラジオ体操の復活を望む声が多くなってきました。そこで、簡易保険局では、ラジオ体操の復活を決定し、各方面に働きかけを行い、昭和26年に新ラジオ体操が完成し、NHKの全国放送によって放送が開始されました。楽しくラジオ体操ができるっていうのも、色々な歴史があったのですね。【了】人気ブログランキングラジオ体操発祥の地めぐり(その4) 松葉公園
2021年07月24日
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MoMo太郎が調べたラジオ体操発祥の地紹介します。第三回は、総武線沿いの秋葉原と浅草橋の中間にある千代田区佐久間公園です。公園の中にある大きな石碑は「戦災受難者慰霊碑」です。揮毫は第52・53・54代内閣総理大臣。鳩山一郎(明治16年(1883)1月1日~昭和34年(1959)3月7日)です。小さな公園の慰霊碑にしては大物政治家の揮毫ですね。こちらの掲示板には神田佐久間町三丁目の町名由来が。公園の隅に鎮座している草分稲荷社です。由来はここにあるとおり、江戸時代の大名屋敷にはこういう小さな神社を祀っていたのですね。こちらの南隅に発祥の地の石碑がありました。ちなみに、こちら町名由来は、葉っぱに隠れてわかりませんが、神田佐久間町四丁目になっています。佐久間公園、三丁目と四丁目にまたがっているかな?その隣に、「ラジオ体操会発祥の地」の石碑がありました。碑文は以下のように記されていました。ラジオ体操は 昭和3年11月 簡易保険局が国民の健康増進のために国民保険体操と名づけて制定したものであるこれがひとたび放送されるやラジオ体操として親しまれ全国各地にラジオ体操会の誕生をみるにいたった この地は 当時万世橋警察署の面高巡査が町内会の人達と共に全国に先駆けて「早起きラジオ体操会」を始めたゆかりの地である ラジオ体操50年に当りこれを顕彰する昭和53年8月1日郵政省簡易保険局日本放送協会全国ラジオ体操連盟教育委員会などが碑文を書いていた千住本氷川神社や大塚公園の碑文に比べると、郵政省簡易保険局、日本放送協会そして全国ラジオ体操連盟という、権威ある組織が碑文を記しているというところを見ると、公式には「神田佐久間町がラジオ体操発祥の地」として認められているいうことでしょうか。ちなみに、神田佐久間町三丁目の町名由来の掲示板によると、万世橋警察署の面高巡査が「早起きラジオ体操会」を始めたのは、昭和5年(1930)とありますから、昭和4年(1929)に始まった文京区の大塚公園のラジオ体操会の方が古いですね。ラジオ体操のことを思いながら、この近くにあるいつも行列のできるラーメン店「青島食堂秋葉原店」(→→→こちら)で新潟の長岡生姜醤油ラーメンをいただくのもいいかもしれませんね。【つづく】人気ブログランキングラジオ体操発祥の地めぐり(その3) 佐久間公園
2021年07月23日
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