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坂道を登って行くと、またなにやら史跡を示す看板が建っていました。その手前に旧東海道、保土ヶ谷宿、戸塚宿と記された石碑もありました。こちらが説明板。「品濃一里塚」(→→→こちら)とありました。一里塚は、江戸の日本橋を目印として大きな道路(街道)の側に1里(約3.927キロメートル)毎に設置した塚(土盛り)である。多くは塚の上に榎や松を植えて、旅人の目印にしたものだそうです。説明文を書いてみました。江戸から数えて九番目の一里塚です。神奈川県内では、ほぼ完全な形で残る唯一の一里塚で、県の指定史跡となっています。旧東海道をはさんで道の両側に二つの塚があり、品濃側(西側)には昔大きな榎が植えられていたそうです。現在は品濃側(西側)平戸側(東側)共に、塚とその周辺が公園として整備されています。こちらの説明板にはもう少し詳しく色々と書かれていました。考えてみると、江戸日本橋から京都三条大橋までの距離は約492kmだそうです。それを一般的に、徒歩で13日から15日前後で歩いたそうですから、平均すると一日平均約33km歩くことになります。ということは、人の歩く速度は時速4kmくらいだそうですので、単純計算で1日に約8~10時間は歩くことになります。そうすると江戸から数えて九番目の一里塚になる品濃一里塚で江戸から約32kmの地点になるので、最初の一泊は保土ケ谷宿か次の戸塚宿のどちらかになるのでしょうかね。(→→→こちら)だから、江戸時代後期の戯作者、十返舎一九の代表作「東海道中膝栗毛」では、江戸を出発した弥次さん、喜多さんの一泊目は戸塚宿になっていたというわけですね(→→→こちら)。ちなみに江戸時代、手紙などを運んでいた飛脚は東海道を3~4日で結んでいたそうです。さて、道の両側に二つの塚があるということで、この説明板の向かい側も、なにやらありそうです。こちらも一里塚の痕跡のようですね。やはり説明する道標が建っていました。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その13) 品濃一里塚
2023年12月03日
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焼餅坂を下っていくと橋がありました。橋の名称は「品平橋(しなひらはし)」。かっての品濃村と平戸村(→→→こちら)の境にあったからこのような名称になったのでしょうか。川が流れているということは、ここが谷底。そして、この後はまた登り坂が続きます。細かいアップダウンの続く旧東海道です。途中に大きなアンテナのあるお宅がありました。諸外国の電波を傍受しているのでしょうか。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その12) 品平橋
2023年12月02日
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半分植込みの木に隠れて見えにくいですが、「右 環状二号、左 旧東海道」と刻まれている道標があり、とりあえず次の目的地の東戸塚駅に行くには、旧東海道がいいだろうということで、旧東海道を歩くことにします。この道が旧東海道になります。下り坂になっているのでやや歩き易いかな。途中にちょっとした公園があり、小さな石碑がありました。この坂道は、「焼餅坂(→→→こちら)」と呼ばれているそうです。旧東海道を戸塚方面に下るこの坂は「焼餅坂(別名:牡丹餅坂)」と呼ばれています。武蔵国と相模国の国境にあたる権太坂と焼餅坂は、昔の旅人にとって日本橋を出発してから最初の難所でした。このあたりには、一服する旅人を目当てにした茶屋が並んでおり、坂の傍らで焼餅を売っていた事がこの坂の名の由来だと言われています。さすがに、今は焼餅を売っているところは見当たりませんね。さらに下って行くと、また説明板がありました。さらに向こう側には木板の標識もありました。木板の文字は掠れていましたが、辛うじて旧東海道(焼餅坂)と書いてあるのが読めました。こちらの説明板には、焼餅坂は当時の品濃村と平戸村の境にあり、一町半(約百六十m)の坂道でした。坂の傍らの茶店で、焼餅を商っていたので焼餅坂と名付けられたといいます。別名牡丹餅坂(ぼたもちざか)とも呼ばれています。戸塚を描いた浮世絵には山坂や焼餅の絵がしばしば登場します。との説明がありました。たしかに、こちらの浮世絵には、「名物やきもち」を売る茶店の様子と、さらに旅人や馬が行き交う街道の松並木ごしに、雪をいただいた富士山が見える風景が得かがれていました。江戸時代には、ここから富士山の眺望が楽しめたんですね。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その11) 焼餅坂
2023年12月01日
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境木立場跡には、その他にも旧東海道に関連する史跡がありました。それがこちらの説明板にある境木地蔵尊(→→→こちら)です。こちらが境木地蔵尊へ登る石段です。この石碑には境木地蔵の由来が記されていました。ざっと、言えば、相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕にたち「俺は江戸の方へ行きたい運んでくれたらこの海を守ろう」と告たので漁師達が江戸へ運ぶ途中、この境木で動かなくなったため、村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところ、それからお参りに来る人も出て「ぼたもち」が名物のお茶屋さんもでき、たいへん村が繁盛したということです。ということで、この石段を登ってお参りに。寺号碑には、「一心山 良翁院 境木延命地蔵尊」とありました。ちなみに、良翁院は大正12年の関東大地震でなくなってしまったそうで、この地蔵尊だけでが残っているのでした。こちらの手水鉢、ちょっと変わっていますね。こちらが地蔵堂。MoMo太郎も昔の旅人に習って、道中の安全をお願いしました。地蔵堂の扁額には亡くなった良翁院の文字が記されていました。境木地蔵層の前の広場にあった「武相国境之木」というモニュメントです。文字が掠れて読めませんが、「相模国戸塚宿一里九丁」と記されています。一里九丁とは一里は約4km、一丁は約100mですから、戸塚宿までは約5kmはあるってことですね。そもそも、この土地が「境木」と呼ばれる由来が記されていました。ここが武蔵国と相模国の国境で、それを示した榜示杭と呼ばれる木杭があった。あるいはその境を示すケヤキの木があったことが地名の由来みたいですね。保土ケ谷は武蔵国になるわけですね。モニュメントの根元には、武蔵国と相模国の地図と、さらそれぞれの方角にある地名が表示されていました。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その10) 境木地蔵尊と武相国境モニュメント
2023年11月30日
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旧東海道の権太坂は、あまりの険しさに江戸から西へ旅行く最初の難所として知られ、東海道中、箱根につぐ難所とされていたそうです。その権太坂を登り切ったところにある地区が「境木(さかいぎ)」です。このあたりの中心街はちょっとした商店街になっていました。その中でもこの和菓子屋さん「境木おじぞうさんもなか」(→→→こちら)という商品を売っていました。「おじぞうさん」というのは、境木のシンボル的史跡、境木地蔵尊(→→→こちら)にちなんだ最中だそうです。さらに旧東海道を進みます。バスも通る道ですが、結構、道幅が狭いですね。大きな樹の下に説明板がふりました。境木立場跡とありました。この説明によると、「立場とは宿場間に設けられた馬子や人足の休憩場。ここまでの権太坂、そしてここからの焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、富士の眺望も良いこの立場は旅人の格好の休息地として牡丹餅を出す茶屋も出され、大層にぎわった。」と書かれていました。また「横浜旧東海道戸塚淑周辺散策案内図」という案内図もありこの先の戸塚宿までの旧跡が紹介されていました。このあたりの住宅街、かなり急な坂道がありますね。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その9) 境木(さかいぎ)立場跡
2023年11月29日
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権太坂陸橋を過ぎても、まだまだ権太坂は続きます。坂の途中に権太坂と刻まれた石碑と説明板がありました。権太坂の石碑です。側面にひらがなで「ごんたさか」と刻まれているので、子供にも優しい石碑です。横浜市教育委員会の設置した権太坂の説明です。権太坂の名前の由来は、「旅人が耳の遠い老人に坂の名を尋ねたところ、自分の名を聞かれたと思った老人が「権太」と答えた」のが由来であるとされています。その他にも、坂の改修工事を手がけた藤田権左衛門の名にちなんだ「権左坂」が「権太坂」になったという説もあるそうです。史実では、万治2年(1659)に代官藤原の指図により、藤田権左衛門がこの坂道の改修を行ったそうです。しかし、まだまだ坂道は続きます。やっとこのあたりが頂上かと思ったら、少し下り坂になって、油断したら、またちょっと登り坂になっています。しかし、このあたりに住んでいる人は、みんな電動自転車使っているのかな。ようやく、このバスの転回場があり。この標識で、ようやく権太坂が終わったと確信できました。折角、バスも停まっているので、ここからバスで帰ろうかと思いましたが、やっぱりまだ歩き続けることにしました。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その8) まだまだ続く権太坂です
2023年11月28日
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元町橋を過ぎると少し道が登り坂になってきました。そして、この町内会の掲示板の後ろに何か大きな穴がありました。何かしらと思って覗いてみると、これは一等水準点(→→→こちら)でした。国土地理院の管理する水準点は、全国の主要国道等に沿って約2キロメートル毎に設置しており、各地点の高さを測るための基準として利用されているそうですが、その中でも、これは基準水準点となるもので国土地理院のホームページによると、基準水準点は、特に地盤が強固な場所に設置されることが多く、柱石だけでなく、地中にも硬石標とクローム金属標があります。基準水準点は100~150キロメートル間隔に設置しており、全国に約80点あります。柱石の長さは1メートルになります。と記されていました。そして、いよいよ権太坂(→→→こちら)に差し掛かります。こちらが旧東海道の権太坂になります。権太坂といえば、箱根駅伝では各校のエースが顔をそろえる「花の2区」の中でも難所として知られていますが、駅伝で走るのはこちらの国道1号の方です。坂の途中に見えるのは自動車専用道路の保土ヶ谷バイパスの高架橋です。ということで、旧東海道の権太坂を登って行くと、坂の途中に小さな鳥居と祠がありますが、ここに、「旧東海道権太坂改修記念碑」が建立されていました。権太坂って道路の名前だけではなく、住所でもあったんですね。やがて、こんな橋に出ました。これは保土ヶ谷バイパスを跨ぐ陸橋です。名称も「権太坂陸橋」となっていました。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その7) いよいよ権太坂です
2023年11月27日
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旧東海道を外れて、今井川沿いの遊歩道を歩いてみました。写真の左側の川が今井川(→→→こちら)です。今井川が合流する下流の帷子川は、昭和33年の台風22号で床上浸水2,851戸、床下浸水1,803戸の大きな被害を受けたことを契機に、治水工事が進められてきました。その関連でしょうか、この区間も河川改修工事が行われ、整備されていました。治水のため今井川には、近接する国道1号の地下にトンネル式の地下調節池があるそうです。河底の脇にグレーチングがあるのは、ここからトンネル式の地下調節池に水が流れ込む仕掛けになっているんでしょうか。元町ガードという交差点にやってきました。今井川と旧東海道が交差する橋です。こちらが今の元町橋(もとまちはし)です。ここも「ばし」と濁らずに「はし」と読むのですね。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その6) 今井川の河川改修
2023年11月26日
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東海道線を走る列車です。旧東海道をたどることが今回の散歩の目的ではなく、駅間歩きが目的なのことを改め思い出しました。旧東海道を走る箱根駅伝をイメージしたマンホール蓋がありました。始まった頃の箱根駅伝は旧東海道を走っていたんでしょうかね。三叉路に差し掛かりました。歴史の道「旧東海道」と書かれた案内板を頼りに、始まった頃の箱根駅伝にならい旧東海道を歩くことにします。この道が旧東海道になるようです。歩いて行くと、この地区の自治会の掲示板の横にあった標柱を発見。旧元町橋跡明治期に東海道線の鉄道が敷設されるまで、今井川がこの辺りで街道を横切っていたようです。また、ここを境に東側を「元保土ヶ谷」、西側を「元保土ヶ谷橋向こう」という字名だったということも書いてありました。今の今井川は国道一号に沿って流れているので、かなり大きな河川工事があったんでしょうね。多分この道路を横切る小さな排水路が昔の今井川の名残りなのかも知れません。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その5) 旧東海道の旧元町橋
2023年11月25日
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この今井川沿いの歩道を歩いていきます。盛土した上に松が植えられいて、その先に松並木が続く区間にやってきました。石垣と説明看板がありました。説明板には、一里塚跡と上方見附跡とありました。このあたりに一里塚があったようです、一里塚とは、この説明板によると、街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土盛した小山を作り、 その上に遠くからでも目立つよう榎など木々が植えられていました。この付近にあった一里塚は、江戸から8番目のものです。手前にあった盛土が一里塚の後なんでしょうね。また上方見附とは、この説明板によると、保土ケ谷宿の京都(上方)側の出入口となる上方見附は、保土ケ谷区郷土史によれば、外川神社の前にあったとされています。 見附は、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしており、「土居」とも呼ばれています。この上方見附から江戸方見附までは、 家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれています。この石垣が上方見附跡なんですね。こういう土塁を作って、町を守っていたんでしょうね。また、この説明板によると保土ケ谷区では、東海道保土ヶ谷宿の歴史を伝えるために、松並木と一里塚、上方見附の復元をしているようでした。こちらが復元された松並木なんですね。このように昔の街灯も復元されて、ちょっと東海道を旅する気持ちをちょっぴり味わえますね。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その4) 保土ヶ谷上方見附跡
2023年11月24日
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国道1号沿いにあったこのタイル張りの塀には、文字が掠れてしまって、よくわかりませんが「東海道五十三次保土ヶ谷宿碑」という金属板が設置されていました。こちらは「保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設」という説明板と「脇本陣(水屋)跡」の標柱がありました。この説明板によれば、「本陣・脇本陣は、明治3年の宿駅制度廃止まで続いていました。しかし、その格式と引き換えに制約や出費も多く、経営は必ずしも楽ではなかった」と記されていました。また、正式な本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋があったことや、旅籠屋のことも記されていました。保土ヶ谷宿では、天保13年(1842)には69軒の旅籠屋があったそうです。そして、この場所には脇本陣(水屋)があったのですね。こちらの標柱には、茶屋本陣跡とあり、解説文には「元治元年(1864)の茶屋本陣(九左衛門)の規模建坪六三坪(約二〇八㎡)間口一〇間半(約一九.一m)奥行六間(約一〇.九m)室数八 門構付」と記されていました。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その3) 保土ヶ谷宿の脇本陣(水屋)と茶屋本陣
2023年11月23日
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保土ケ谷橋を渡ります。この川は今井川、帷子川の支流で横浜港に向かって流れていきます。この橋に平行して東海道線が走っています。撮影した列車は横須賀線ですが、保土ケ谷橋を渡ると旧東海道を示す標柱が建てられていました。こういうものを辿っていけば旧東海道を歩いて行けますね。こちらが保土ヶ谷宿の本陣があったところです。かっての本陣の門が残っているみたいです。本陣跡について詳しい解説がありました(→→→こちら)。本陣とは、幕府の役人や参勤交代の大名が宿泊する宿で一般の人が泊まるようなものではなかったのでしょうね。保土ケ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が代々つとめていたそうです。こちらは本陣跡に今も建つ住宅の門です。今も苅部家の所縁の人が済んでいるんでしょうかね。国道1号、交通量はおおいですね。昔も人の往来は多かったんでしょうね。また別の標柱がありました。本陣が混雑した際に、幕府の役人や参勤交代の大名が宿泊する脇本陣がありました。また保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の3軒の 脇本陣があったそうです。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その2) 保土ヶ谷宿の本陣と脇本陣
2023年11月22日
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保土ケ谷駅西口の駅前広場です。こちが駅舎の西口です。駅舎の西口側は旧東海道が通っていたせいか、なんとなく賑やかな感じがします。次の東戸塚へは保土ケ谷駅東口から国道一号沿いに歩いて行くことにします。国道一号沿いには商店街が続いています。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その1) 国道1号を歩きました
2023年11月21日
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久しぶりに大戸屋でランチしました。頂いたのは大戸屋ランチ(890円税込み)です。唐揚げとカボチャのコロッケ、そしてご飯は白米と五穀米のどちらか好きな方が選べます。五穀米の方が身体にいいかなと思って、五穀米にしました。ちょっと慣れないといけないのは、オーダーのやり方。直接店員さんに頼んでもいいのですが、飲食店も人手不足のこのご時世、スマホを使ってオーダーするシステムが取り入れられてました。オーダーにかこつけて若い女性の店員さんとお話ししたかったのですが、渋々スマホでオーダーしました。オジサンには世知辛い世の中になったものです。人気ブログランキング孤独のグルメ お店に行ってもスマホでオーダー
2023年11月20日
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標識を確認すると、この先500mで小田原方面と鎌倉方面の分岐があるんですね。といってもこのあたりの地理や道路に詳しくないので、よくわかりません。高層アパートとバスターミナルが見えてきました。バスターミナルがあるということは、駅も近いですね。保土ケ谷駅の看板が見えてきました。「保土ヶ谷」とは書かずに「保土ケ谷」と書くのが正しいのですが、この「ケ」の大きさ微妙ですね。細い道を入っていくと駅にたどり着けるようです。東海道線を跨ぐ橋上駅舎となってます。こちらが改札口。ちなみに保土ケ谷駅には横須賀線または湘南新宿ライン経由の列車しか止まりませんので、注意して下さい。(横浜から保土ケ谷へ歩いたコース)【了】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(横浜~保土ケ谷)(その9) 保土ヶ谷駅
2023年11月19日
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国道1号を歩いてきて、ようやく、保土ケ谷区に入りました。小さい「ヶ」ではなく大きな「ケ」が正しい表記のようです。やがて見えてきた鳥居、切り立った斜面に造られた神社です。折角なので、お参りさせてもらいます。鳥居の扁額には「杉山社」鳥居の脇に立つ社号碑では「鎮守杉山神社」と記されていました。杉山神社(→→→こちら)というのは現在の神奈川県横浜市を中心に川崎市、東京都町田市、稲城市などに数十社存在するそうで、旧武蔵国における式内社とされている。式内社とは、延長5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳に記載されている神社で、当時、朝廷から「官社」として認められていた神社になるそうです。鳥居をくぐった先、左手には大きな石灯篭がありました。Googleマップでは、「怪力石灯籠」(→→→こちら)という表示がなされています。怪力石灯籠とは、「昔々、ある江戸の講中が、伊勢の大神宮へ石灯籠を献納しようと、牛車に積んで江戸を出発し、保土ヶ谷までやってきましたが、そこで牛が進まなくなり、牛は杉山神社の境内へ逃げ込んでしまったということで、これは石灯籠が伊勢へ行くのを嫌がり、この宮に納まりたいということになり、杉山神社へ奉納することになりったのだそうです。そのため、灯籠に「伊勢大神宮」、台座に江戸講中の名が記されているのだとか。しかし、この石灯籠、台座には講中の名前らしきものはありましたが、「伊勢大神宮」の文字はわかりませんでした。反対側の灯籠も調べましが、「伊勢大神宮」の文字をわかりませんでした。そのほか、境内には石碑もありました。逆光で文字も見えづらいですが、なにかの記念碑のようでした。こちらは杉山神社のご祭神のに五十猛神(イタケルノミコト)(→→→こちら)の文字が見えました。五十猛神はスサノオの子で林業の神として信仰されているそうなので、社名も杉山神社なんですかね。ということで、こちらの階段を登って、こちらの社殿にお参りさせてもらいました。(横浜から保土ケ谷へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(横浜~保土ケ谷)(その8) 杉山神社
2023年11月18日
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国道1号を西へ向かって歩きます。道路だけではなく国道に並行する東海道線も跨ぐ歩道橋がありました。文字が消えかかっていますが「さわやか歩道橋」と書いてありました。歩道橋にも名称があるんですね。これからは気を付けて見ておこうと思いました。歩道橋の下には「さわやか歩道橋」と書かれたモニュメントがあります。モニュメントまであるってこの歩道橋、変わってますね。並行する東海道線を走る列車です。ちょっと駅間歩きっぽくなってきましたね。(横浜から保土ケ谷へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(横浜~保土ケ谷)(その7) さわやか歩道橋
2023年11月17日
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国道1号を歩いてゆくと、浜松町がありました。この町名は、かつてこの地が塩田だった頃に磯馴松(そなれまつ)があった事に由来するそうです。浜松町交差点は国道1号と藤棚浦舟通り・国道16号が交差する交通の要衝になります。さらに国道1号を南西の方角に進むと「水道道」という名称の道がありました。この道が水道道です。横浜市は明治20(1887)年10月に日本初の近代水道として給水を始めた街です(→→→こちら)その時、津久井郡三井村(現在の相模原市)の相模川より浄水場のある野毛山まで送水するための水道管ルートがこの道になります(→→→こちら)。(横浜から保土ケ谷へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(横浜~保土ケ谷)(その6) 浜松町と水道道路
2023年11月16日
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この橋を渡ります。道路幅員が広い大きな道ですね。灯籠の形をした石造りの親柱が風格がありますね。西平沼橋という橋で、石崎川に架かっている橋です。この川が石崎川。帷子川から分かれて流れる派川ですが、下流では帷子川に合流しています。河床にはかなり土砂が堆積しているようで、川面に台船が設置されていて、浚渫工事を進めているみたいですね。橋を渡ると大きな交差点に出ました。交差点で右折してこちらの道を歩いて行きます。道路標識で確認します。国道1号を小田原方面に向かって進んでいきます。(横浜から保土ヶ谷へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(横浜~保土ケ谷)(その5) 国道1号です
2023年11月15日
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こちらの鉄道橋は、京浜急行電鉄のものです。ここで今まで並走してくれた京浜急行ともお別れになりますね。京浜急行の鉄道橋を撮影した地点の横に、「文身歴史資料館」(→→→こちら)という建物がありました。文身(ぶんしん)とは、「肌を傷つけ種々の文様を残す習俗。針の先でつけた傷あとに色素をすりこむ刺痕(しこん)文身は入墨(いれずみ)ともいう。」ということで、隣にある「ワンポイントから全身彫りまで承ります」ということですね。この建物が三代目彫よしさんのお店兼資料館ということでしょうね。タトゥーとか入れ墨とかって「や」で始まる自営業の人だけのものかと思っていましたが、最近は普通の人でもやっているようですが、「なんかちょっとね。」とMoMo太郎は思っています。だから、外国人のサッカー選手なんか腕に結構入れ墨があったりして、それでサッカーが、なんとなく好きになれないです。(横浜から保土ケ谷へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(横浜~保土ケ谷)(その4) 文身とは
2023年11月14日
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道路を跨ぐ鉄道橋がありました。これは横浜駅から桜木町を通って根岸、そして大船へ至る京浜東北線・根岸線の鉄道橋です。再び橋を渡ります。この川は帷子川の派川の石崎川です。写真の鉄橋は京浜急行電鉄のものです。ちょっと、濁った水ですが魚が泳いでいました。まだ京浜急行と並行して歩いています。商店街があるようです。平沼商店街(→→→こちら)です。このあたりは平沼(→→→こちら)という地区だそうです。平沼は、程ヶ谷宿の豪商であった平沼九兵衛が、数代にわたる辛苦の末に、埋め立てに成功し新田開発を行ったのでその名を冠したという町です。さらに幕末には横浜開港に伴い、東海道と横浜港を結ぶ「横浜道」が当時の海岸沿いに設けられ、その道が、この平沼商店街になったそうです。そして、大正期から昭和期にかけては、三菱重工横浜造船所で働く人たちの通勤経路にもなり、港町の商店街として栄えたそうです。この角にあるお店は、昭和25年創業の角平(→→→こちら)というお蕎麦屋さんで、つけ天そばで有名なお店らしいです。(横浜から保土ケ谷へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(横浜~保土ケ谷)(その3) 平沼商店街
2023年11月13日
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さてと、横浜駅東口から出発です。横浜駅、大きな駅ビルですね。大きな駅の傍には、たいてい大きな郵便局がありますね。駅を出て東南方向に向かって歩くと、川がありました。帷子川(かたびらがわ)(→→→こちら)です。帷子とは一重の着物なんかのことですが、名称の由来は着物とは関係なさそうで、この川が流れていた現在の保土ヶ谷区天王町一帯は昔、一方が山で他方が田野で平らな地形をしていたため、片平「かたひら」と呼ばれ、その中を流れていた川を「かたびらかわ」と呼んでいたことが由来だという説があるそうです。ちょっと写真では、親柱の銘板が詠みづらいですが万里橋(→→→こちら)というそうです。「まんりはし」または「ばんりばし」と読むそうで、一定ではないようです。明治5年、わが国初の鉄道が開通しました、現在の桜木町駅にあった「横浜」駅を出発した鉄道路は、海だった場所を埋め立て整備されました。そして、次の神奈川駅(今の横浜駅に近いため廃駅となったそうです)までに五つの橋が設けられたそうですが、その一つとして現在も残され、その歴史を物語っているのがこの万里橋だそうです。帷子川には東海道線と京浜急行線の橋梁が架かっていました。京浜急行の車両が丁度、橋を渡たるところです。(横浜から保土ケ谷へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(横浜~保土ケ谷)(その2) 帷子川と万里橋
2023年11月12日
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東海道線沿いの駅間歩き、再開しました。横須賀線経由で横浜駅に到着です。横須賀線を利用したのには理由があって、横須賀線のホームの駅名標だと横浜の次の駅は保土ケ谷になりますが、東海道線では横浜の次は3駅先の戸塚になってしまうので、横須賀線のホームで降りて駅名標を撮影したわけです。また、横須賀線では横浜から東京方面に向かう次の駅は新川崎になります。また、駅名標についている「JO」は横須賀線、「JS」は湘南新宿ラインを意味しています。また、数字の「13」は横須賀線の始発(?)になる逗子から数えて13番目の駅という意味です。横浜駅の中を歩いてみました。この通路は、横浜駅の南改札と中央改札を結ぶ通路でした。なんかオシャレなので撮影してみました。横浜駅を歩く女性の皆さん、やっぱり池袋駅なんかで見かける方と違って、なんというかアイロンのかかった服というか、どことなくエレガントでかつトラディショナルな装いを好まれている方が多いような印象を受けました。(あくまで、個人の感想です)折角、横浜に来たので横浜駅直結の駅ビルJR横浜タワー(→→→こちら)の屋上にある「うみそらデッキ」(→→→こちら)を訪れました。まず目につくのが「YOKOHAMA」の文字を象ったこのオブジェ。正面から改めて撮影。ここで記念撮影している方が写り込んでしまいました。ここからは、横浜港や横浜ベイブリッジを一望できます。といっても目につくのは東口にある横浜そごうの看板ですね。ズームして横浜ベイブリッジの主塔を撮影しました。ちなみにこの日は8月17日でしたから、夏の雲ですね。ちょっぴり、港町横浜の気分を味わって、駅間歩き、保土ヶ谷に向かって出発です。(横浜から保土ケ谷へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(横浜~保土ケ谷)(その1) うみそらデッキ
2023年11月11日
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閉店したレコード店のシャッターに貼ってあるポスターです。どんな歌手でどんな歌を歌っているのかわかりませんが、こういう歌手を見ると、BSのテレビ番組でコマーシャルをしている歌手の保科有里(→→→こちら)さんを思い出します。なにかヒット曲があるわけでもないのに1993年のデビュー以来31年も活動を続けていらっしゃる。そして、よく見かけるテレビCMでは「社長、もう少し安くして下さい」というおねだりする決めセリフ。なんか、この社長とその愛人みたいな雰囲気もあるお二人ですが、一応、夢グループ(→→→こちら)という会社の専属歌手で社長のビジネスパートナーということだそうです。他にも夢グループには橋幸夫さんも所属しているんだとか。ということで、1961年生まれ御年62歳になられる保科有里さんのオフィシャルサイト(→→→こちら)もありますよ。人気ブログランキング歌手は、大ヒットなしでも31年活動できる
2023年11月10日
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今回の出張の目的地は、ここ福井県鯖江市です。来年の3月16日には北陸新幹線が敦賀まで延伸されます。東京から来る人は米原経由ではなく北陸新幹線を利用すると、最速で東京~福井間 2時間51分。東京~敦賀間 3時間8分となるそうです。この鯖江駅には新幹線の駅はできませんが、それでももう少し楽に来れるようになるかもしれませんね。ちなみに、北陸新幹線 金沢~敦賀間開業に伴い、特急「サンダーバード」(敦賀~金沢・和倉温泉間)と特急「しらさぎ」(敦賀~金沢間)の運転は終了となり、サンダーバードは大阪~敦賀間、しらさぎは名古屋~敦賀間の運転のみとなるそうです。駅前にはこんな看板がありました。近松門左衛門の出生地については肥前国唐津、山城国、長門国萩など諸説あったそうですが、現在では越前国(現在の福井県)の武士杉森信義の次男として生まれたというのが、確実視されているそうですね。そして、やっぱり鯖江といえば、日本の眼鏡フレーム生産の約96%、世界でも約20%のシェアを誇っている「めがねのまちさばえ」ですね。仕事を終えて帰るとき、特急に乗り損ねたので、各駅停車で敦賀駅まで行って、そこから米原までまた各駅停車で行きました。ちなみに敦賀~米原間、各駅停車だと約50分、特急だと34分です。そこで通常期指定席特急料金1,290円(新幹線に乗り継ぎだと640円)を支払うかどうか、人によっては、ちょっと微妙かもしれませんね。下の写真は、敦賀駅のホームのベンチにあった、恐竜の人形です。最初はちょっと驚きましたが、福井県で多くの恐竜化石が発見されているということからこんなベンチにしているんでしょうね。人気ブログランキング福井へ出張してきました(その2) 鯖江駅と敦賀駅
2023年11月09日
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東海道新幹線に乗って、やってきたのは米原駅ここで乗り換えです。北陸本線に乗り換えます。ホームの向こうに見えるのは、近江鉄道のホームでした。まだ乗ったことがないので、一度は乗ってみたいです。米原駅に到着した、名古屋と金沢を結ぶ、上りの特急しらさぎ(→→→こちら)です。よくみると、車体側面の青色ラインの下部にオレンジ色のラインが入っていました。同じ編成のしらさぎですが、最後尾の6号車は、先頭の1号車とちょっと形が違っていました。こちらの方の特急電車は余りみたことがないので、ちょっと変な感じでした。ようやく下りの金沢行のしらさぎがホームに入って来ました。これに乗って福井方面に向かいました。人気ブログランキング福井へ出張してきました(その1) 特急しらさぎに乗りました
2023年11月08日
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集中曝涼の時期、なかなか入れないところにも訪れることができます。それが、茨城県立太田第一高等学校(→→→こちら)です。付属中学もあるんですね。ちなみに卒業生には、元内閣官房長官など要職を務めた梶山静六氏とその息子で経済産業大臣を務められた梶山弘志氏などがおられます。しかし、そんなことよりもこの学校で大事なのは、国指定重要文化財の「旧茨城県立太田中学校講堂」(→→→こちら)です。明治37年に旧太田中学校のとして建築されたものですが、瓦葺き屋根の洋風建築で「明治時代における洋風建築としての重要な遺例であり,損傷も少なく堂々としている。これは,設計者と請負師の技術と心が合致していたことと,特に御影石の質と工法のすばらしさに起因する。」と文化庁に賞され、昭和51年2月3日には,国の重要文化財(建財1977号)に指定されました。こちらに行くと、制服に腕章をつけた新しい学校のリーダーズ(→→→こちら)調の女子高生の皆さんが建物の説明などをしてくれました。また、10月14日に訪れた時、この講堂では「弁論」と呼ばれる高校生諸君たちの演説会が行われました。この生徒さんの中から、太田第一高校のリーダーズから、梶山弘志を越える、新しい日本のリーダーズになって欲しいものですね。また常陸太田には、幕末のリータダーとして注目されていた水戸徳川家九代藩主・水戸斉昭(烈公)(→→→こちら)が水戸八景のひとつとして選んだ太田落雁(→→→こちら)もあります。水戸八景というのは、水戸藩領内の景勝地として斉昭公が選んだものだそうです。水戸八景のそれぞれの場所には斉昭公自筆の隷書の銘を刻んだ碑が置かれています。太田落雁にもこのような石碑がありました。斉昭公が、「さして行く 越路の雁の 越えかねて 太田の面に しばしやすらふ」と詠まれた、阿武隈連山を背景とした素晴らしい眺めや「真弓千石」と呼ばれる水田地帯、雁が苅田に降りる様子などが見えた風景も、今ではこんな感じです。本当は魅力的で東京からも近い茨城県、まあランキング最下位の方が、インバウンドの外国人観光客なども少なくて、のんびりと魅力を味わえて、いいなと思うMoMo太郎でした。人気ブログランキング常陸太田の集中曝涼(その3) 太田第一高校旧講堂と太田落雁
2023年11月07日
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町中にある大きな空き地、ここはかって専売公社の倉庫があった跡地です。かって葉たばこの栽培が盛んだった頃は、秋になると農家の方が葉煙草を納めにやってきて、納め終わると現金を手にして,周辺の飲食店で美酒に酔いしれたことでしょうね。この広大な跡地には、ケヤキの大木とイチョウの大木だけが残っていました。その空地の近くにあったのは太田小学校です。こちらの小学校は、戦国大名として常陸国を治めていた佐竹氏(→→→こちら)の居城のあった舞鶴城(→→→こちら)の跡地に建っています。[つづく]人気ブログランキング常陸太田の集中曝涼(その2) 舞鶴城跡碑
2023年11月06日
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都道府県魅力度ランキング2023(→→→こちら)で栄えある47位、つまり最下位になった茨城県。その茨城県に通算で7年間暮らしたMoMo太郎です。ちなみに、ランキング46位の佐賀県にも3年間住んでました。そんな魅力度が低い茨城県にある水郡線の常陸太田駅にやってきました。10月14日(土)・15日(日)に常陸太田市では、集中曝涼というイベントが開催されていました。曝涼とは「夏または秋の天気のよい乾燥した日を選んで、庫などに納められていた衣類や書物・諸道具などを日光に当てたり、風を通したりして、かびや虫の発生を防ぐこと。虫干し。」という意味で、普段は見ることができない貴重な文化財を、虫干しを兼ねて特別に公開するイベントにやってきました。最初に訪れたのは、この洋風のレトロな建築物です。入口には胸像と建物の解説がありました。登録有形文化財「梅津会館」(→→→こちら)です。現在、郷土資料館として利用されているこの梅津会館は、昭和11年(1936)に常陸太田市出身の実業家・梅津福次郎の寄付により建てられたもので、昭和53年(1978)まで市役所として利用されていました。梅津福次郎氏(→→→こちら)の胸像です。同市出身の福次郎は、函館にわたり、商売で成功を納め、故郷にこの建物を寄付したそうです。やっぱり都道府県魅力度ランキング1位の北海道に行くと一山当てられそうですね。梅津会館の近くにあるのは、こちらは江戸後期から蔵に伝わるマンゴク醤油醸造元の立川醤油店(→→→こちら)です。煉瓦造三階建が珍しい旧稲田屋赤煉瓦蔵(→→→こちら)です。赤いスタッフジャンパーを着た若い人は茨城大学のボランティアで、この建物の説明をしてくれました。こちらが駿河屋宮田書店店舗兼主屋(→→→こちら)です。こちらでは以前度量衡器(物差し・はかり)などを扱っていたそうです。こちらは集中曝涼で公開はされていませんでしたが、寛政12(1800)年創業の老舗の醤油蔵元のヨネビシ醤油店(→→→こちら)です。人気ブログランキング常陸太田の集中曝涼(その1) 町の歴史を感じる建物
2023年11月05日
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NHKの連続テレビ小説『ブギウギ』、なかなか面白いみたいですね。歌手の笠置シヅ子さんがモデルだそうですが、その笠置シヅ子さんの曲の中でも、子供の頃、初めてラジオで聞いて感動したのがこの曲です。オリジナルでは、ちょっと今は使っていけない言葉が歌詞の中に使われていたようなので、こちらがオリジナルに近いのかも、(共有はできないのでクリックしてYou Tubeで見て下さい。)いずれにしても、「仁丹」とかの商品名が含まれているので、NHKのドラマでは歌わないでしょうね。人気ブログランキング買い物ブギー
2023年11月04日
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JR東日本が催行している「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加するため常磐線の金町駅まで行った時に、ハイキング前の腹ごしらえで食べた、富士そば金町店の朝食セット(430円税込み)です。玉子丼に加えて、かけ蕎麦又はもり蕎麦がついてこの値段はお得でした。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 富士そば金町店で食べた朝食セット
2023年11月03日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。今回の駅からハイキングのゴールは、京成電鉄の京成高砂駅になります。こちらが駅の南口になります。この駅には、京成電鉄の本線・金町線・成田空港線と北総鉄道の北総線が乗り入れています。そして、京成電鉄と北総鉄道の共同使用駅なのですが、駅名に「京成」を冠しています。また、元々は曲金駅(まがりかねえき)として開業したそうですが、柴又帝釈天の参詣客から「『曲金』では縁起が悪い」と言われたため、このあたりの小字名にあった「高砂」に駅名を変えたそうです。ちなみにその高砂は、明治の地租改正の際、謡曲ちなんでつけられた小字名(墨田・朝妻・出雲・須磨・明石・高砂・吾妻)の中から縁起がいい名前として選ばれたそうです(→→→こちら)駅東側の踏切を渡って北口に行ってみました。なぜか偶然、お相撲さんが写り込んでいますが、葛飾区には、元大関雅山の二子山親方が率いる二子山部屋、元大関千代大海の九重親方の率いる九重部屋、そして令和5年10月には元関脇旭天鵬の大島親方の率いる大島部屋が出来たそうですから、お相撲さんもよく見かけるのでしょう。駅の横にあるこの踏切は、京成本線と北総線(成田スカイアクセス線)の列車が同時に通過する上、車両基地への入・出庫の列車も低速で通過するため、いわゆる開かずの踏切となっています。向こうに見えるのが、京成電鉄高砂車庫です。ちなみに京成高砂駅は京成本線と北総線が発着する島式ホーム2面4線(地平)と京成金町線が利用する単式ホーム1面1線(高架)になっています。今は京成立石駅では高架化工事が進んでいて、隣の青砥駅はすでに高架駅となっているので、いずれ、このあたりも連続立体交差工事が行われるのだとは思いますが、それができるまでは開かずの踏切を我慢するしかないのでしょうね。こちらの北口から橋上駅舎に上がりました。京成高砂駅の改札口です。ここから京成電鉄に乗って帰りました。JR東日本の主催した駅からハイキングのイベントでしたが、結局行も帰りも、JRではなく京成電鉄を利用してしまいました。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【了】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その11) 京成高砂駅
2023年11月02日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。新中川の左岸側の堤防を歩いて北上しています。左手には新中川を見て、右手には小岩駅と金町駅を結ぶ貨物線の新金線を見て、歩いて行きます。ここが、埼玉県・茨城県および東京都を流れ東京湾に注ぐ一級河川の中川と新中川の分岐点になります。新中川はここで中川から分かれて、中川と江戸川の間を平行するように流下し、江戸川区江戸川で、東から流れる旧江戸川に合流しています。分岐点を過ぎると河川の名前は中川になります。中川を走るモーターボートです。塔から斜めに張ったケーブルを橋桁に直接つなぎ支える構造である斜張橋の高砂橋です。高砂橋からみた新金線です。貨物列車の写真を撮影するのにいいスポットかもしれませんね。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その10) 中川分岐点と新金線
2023年11月01日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。奥戸新橋を渡って新中川の右岸側にある宝蔵院(→→→こちら)にやって来ました。こちらが宝蔵院の山門になります。江戸時代中期に尊王論者が弾圧された最初の事件である宝暦事件の首謀者竹内式部の門下生で、公家の徳大寺公城の家臣だった本堂良喜と公城の娘が、京都から落ち延びて、このお寺で仏門に入ったそうです。そして、師匠竹内式部の菩提を弔うために安置した薬師如来像が有名なようですね。これは昭和38年に完成した中川放水路の記念として建立された「和光の鐘」を吊った鐘楼です。こちらが本堂になります。なかなか立派な建物です。寺号は、青旧山和光寺というそうです。新中川の堤防を北に向かって歩きます。こちらの橋は架け替えの工事中で、この仮橋で左岸側に戻りました。新しい橋の橋脚は出来上がっているようですね。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その9) 宝蔵院
2023年10月31日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。鎌倉公園からさらに南下して、京成本線を越えて行きます。葛飾区細田と呼ばれる地域を歩いて行くと、「東用水せせらぎ通り」という緑道がありました。葛飾区には葛飾区水元の小合溜井を水源とした江戸時代に整備された用水路があり、小岩用水・東井堀・中井堀・西井堀という、いずれも農業用水や物資の輸送路として利用されてきた水路がありました。東用水というのは東井堀の別名です。用水路としての役目を終えた東井堀は、ほとんどが道路になりましたが、葛飾区高砂2丁目19から細田1丁目22までの間は東用水せせらぎ通りとして、歩道、緑、花、小さなせせらぎが整備されています。この東用水せせらぎ通りに並行するように、新金線とも呼ばれる新金貨物線(→→→こちら)が走っています。この新金線を越えて新中川の近くまでやってくると、ちょっと洒落た公園がありました。奥戸ローズガーデン(→→→こちら)という公園で、日本の皇室や海外の王室ゆかり名前が付いたバラなど、様々なバラが植えられています。このようなオリンピック・パラリンピックを記念したバラも栽培されているようです。バラの咲くタイミングを見計らっていくといいですね。9月中旬、厳しい残暑のせいか花も少なかったです。ガゼボと呼ばれる西洋風四阿などがあって、英国風の庭園デザインになっていました。こちらの新中川に架かる奥戸新橋を渡って、対岸に渡ります。この橋は、四ツ木と小岩を結ぶ幹線道路である奥戸街道の橋です。橋の南側には新金線の鉄橋が見えます。新金線はここで新中川を渡って総武線の亀戸駅方面に向かい、さらに南に向かって江東区砂町を経て江東区塩浜の汐見運河のあたりまでつながっています。新中川、かなり河幅は大きいです。さて、この新中川、中川の洪水対策として中川放水路として1949年から1963年にかけて新しく造成された水路ですが、1965年3月、一級河川に指定され河川名を「新中川」に改称されたそうです。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その8) 奥戸ローズガーデンと新中川
2023年10月30日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。北総線の高架橋を越えたところにある鎌倉公園(→→→こちら)です。入口には「野草園」という古びた看板が掲げられていました。しかし、この野草園は2022年3月5日に開園したそうです。こちらが鎌倉公園の案内図です。野草園以外にも、芝生広場なども整備されていて、子供達が楽しめそうな公園になっています。こちらは入口付近にあった花時計。丁度、お昼時にこの公園に到着したんですね。こちらの遊具は、木でできたいかだの上に乗り、ロープを引いて池を渡る「いかだ渡り」という遊具です。ちょっとした冒険気分を子供たちが味わえそうですね。こちらは、野草園らしく草花が植えられているエリアです。葛飾区にも鎌倉という地名がある由来が書かれていました。戦国末期から江戸時代のはじめにかけて鎌倉に住んでいた人たちが移住したことから、鎌倉という地名になったそうですね。大きな池がありました。そして奥にある建物は、野草園の管理所です。授乳室なんかもあってなかなか充実した施設です。この池は「じゃぶじゃぶ池」という名前で、夏の間は子供たちが水遊びできるみたいです。また冬はスケートリンクにもなるそうです。無料で楽しめるこんな公園があるって、葛飾区もなかなか住みやすそうな街ですね。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その7) 鎌倉公園(野草園)
2023年10月29日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。ところで、昨日いただいたコメントの中に、「タコ社長には子供はいなかったのでしょうか?」という質問がありましたが、タコ社長には、美保純さんが演じたあけみという娘さんがいました。さて、こちらの道、柴又街道を南に下っていきます。こちらにあるのは、東京スマイル農業協同組合の経営する葛飾元気野菜直売所(→→→こちら)です。葛飾区でとれた新鮮な野菜を購入できるお店として有名らしいです。しかし、葛飾区内でも野菜を栽培してている農家さんがいるんですね。この住宅街の道を歩きました。このあたりが今回の駅からハイキングのコースの中間地点になるそうです。ちなみに今回のコースの距離は12kmだそうです。そしてこちらは、京成電鉄高砂車庫です。門扉越しにしかわかりませんでしたが、鉄道の日なんかに一般公開してもらいたいですね。この道は、かってあった小岩用水の水路の上に蓋をかけて歩道にしています。この道の先に見えるのは北総鉄道の高架橋です。成田空港に行く京成スカイライナーはこちらの線路を走っています。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その6) 京成電鉄高砂車庫
2023年10月28日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。スーパー堤防(→→→こちら)とは、越水しても崩壊し決壊しないよう、裏法面を3%以内の緩やかな勾配としたものをいうそうですが、その土地を利用して公園にしているようです。ここには、葛飾柴又の生んだスーパースター、「フーテンの寅」こと車寅次郎(→→→こちら)をテーマとした葛飾柴又寅さん記念館(→→→こちら)です。こちらは、葛飾区山本亭(→→→こちら)です。ここは、地元ゆかりの山本工場(カメラ部品製造)の創立者である山本栄之助翁の自宅でした。関東大震災後、当地に移り住み、以後4代にわたって使われていたものを、昭和63年に葛飾区が取得し、平成3年4月から一般に公開しているそうです。柴又にこんな豪邸に住んでいた人がいたんだなと改めて思う次第です。そして、柴又帝釈天(→→→こちら)の二天門です。寅さん映画でもお馴染みの門前ですね。そして、ここが板本尊を祀る帝釈堂です。そして、帝釈天参道です。この団子屋さんが寅さんの実家のモデルとなったところだそうです(→→→こちら)。映画の設定では、団子屋さんの裏は、義弟の諏訪博が勤めるタコ社長(→→→こちら)の経営する印刷会社工場でしたが、今では団子屋さんの駐車場になっていました。タコ社長の会社、後継者がいなかったんですね。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その5) 柴又帝釈天
2023年10月27日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。江戸川にやってきました。江戸川に建っているこれは、江戸川の水を取り入れている取水塔です。堤防は、江戸川堤サイクリング道路として整備されています。自転車でもいいし、歩いてもいい道です。こちらは別の取水塔。いろんなデザインがあるんですね。水利使用標識です。東京都の水道水、ここは毎年更新なんですね。金町浄水場で都民の皆様に水道水を送っています。墨東エリアに住むMoMo太郎も、多分、江戸川の水を飲んでいるんでしょうね。江戸川の河川敷も広々として、野球のグランドも整備されていて、みなさんスポーツの秋をエンジョイされていますね。柴又公園として整備され、葛飾区民の憩いの場所なんですね。やっぱりここで有名なのは、矢切の渡し(→→→こちら)ですね。矢切の渡しは、小説「野菊の墓」や、歌謡曲「矢切の渡し」で有名な唯一現存する江戸川の農民渡船で、松戸市矢切と葛飾区柴又を結んでいます。こちらは「矢切の渡し」の歌碑です。江戸時代は、街道に続く渡し舟は厳しく管理されていましたが、一方で対岸に農地を持つ農民のための渡船は許されていました。そんなわけで、旅人の中には事情により街道の利用がはばかられ、農民に扮装して川を渡る者もあったといいます。歌謡曲の最初の一節、「♪連れて逃げてよ」はこういう背景で書かれたのでしょうかね。この渡し舟、片道200円で利用できます。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その4) 江戸川堤と矢切の渡し
2023年10月26日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。新宿交通公園にやって来ました。交通がテーマの公園。無料で楽しめるテーマパークみたいです。交通公園は児童が遊びながら交通知識や交通ルールを体得させることを目的として設置される都市公園のことで、第1次交通戦争と呼ばれる1960年代から全国的に整備がはじめられた公園です。こちらの建物が公園の管理事務所を兼ねた建物です。交通公園というだけあって、色んな交通機関が展示されています。これはミニSLです。このミニSLは土日、祝日のみ運行されています。料金は100円になります。こちらはゴーカート、といっても自分の足で漕いで進むタイプ。小さい子供にはむずすしぃかな。都バスも展示されています。新宿交通公園からひたすら東に向かって歩くと、京成電鉄の金町線の方へやって来ました。金町線、単線だったんですね。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その3) 新宿交通公園
2023年10月25日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。新金線の踏切を越えて、少し行くと石仏が沢山並んだ場所がありました。記念碑の碑文を読むと、道路の拡幅に伴い地蔵菩薩などの石仏をこちらに移設した旨が記されていました。旧水戸街道というのは、その名の通り今の国道6号、東京や千葉では水戸街道と呼んでいます。そして、旧上下之割用水(→→→こちら)というのは、江戸川から取り入れていた灌漑用水のことで、農地がなくなるとともに、下水道として地下水路になったのでしょう。ちなみに「新宿」とありますが、「しんじゅく」ではなく「にいじゅく」と読むそうです(→→→こちら)で、このあたりに小規模な宿場町があったようです。色んな石仏がまとめられているみたいですね。こちらの奇妙な形状の石碑には、「帝釋道」と刻まれていて、柴又帝釈天への道しるべということですね。こちらの道が旧水戸街道になるわけですね。新金線の踏切には「浜街道踏切」とありましたが、これは水戸以北、仙台に向かう街道は磐城街道と呼ばれていて、明治時代以降は、水戸街道と磐城街道をまとめて陸前浜街道と呼称するよう明治政府から通達されたことを受けての踏切の名称になるのでしょう。踏切の先の町並み、並木道となっていてなんとなく旧街道らしい雰囲気も・・・あるような。こちらは国道6号に面した警視庁亀有署。漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の主人公、両津勘吉巡査長はこちらの所属になるのかな?そして、この国道6号(水戸街道)を渡ります。水戸街道、交通量は多いですね。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その2) 帝釈道の道しるべ
2023年10月24日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。京成電鉄金町線に乗ってやってきました。京成金町駅です。この駅は、金町線の終点であり、行き止まり型の棒線駅です。JR東日本の開催するイベントに参加するのに、京成電鉄を使って参加するのは、いささか気が引けたのですが、MoMo太郎の住む東京墨東エリアからはJR常磐線を使うより、こちらの方が時間が掛からないので、利用しました。で、出発は当然のことながらJR常磐線の金町駅です。駅から線路沿いに歩いて行くと、この日は地元のお祭りの日で、沿道には、このようにお神輿が飾られていました。下町というと、東京では武蔵野台地東麓や隅田川沿いがそのエリア(→→→こちら)で、葛飾区この辺りを下町と呼ぶのには、やや抵抗がないわけでもないですが、かと言って山の手でもなく、本来は田園調布(?)のような郊外の住宅街というべきかもしれませんが、まあ、台東区、墨田区、江東区、荒川区、文京区、足立区、葛飾区、そして江戸川区は東京の下町町区域として認識されています。というわけで下町には欠かせない、銭湯です。屋号は「金町湯」とありました。江戸の昔は、今の水元公園あたりを水源とし農業用水を送っていた小岩用水の跡地のこの道路を歩いて行くと、踏切があります。総武線の小岩駅と常磐線の金町駅を結ぶ新金貨物線の踏切です。この路線、新金線とも呼ばれていて、葛飾区はこの路線の旅客化を検討しているそうです(→→→こちら)。確かに旅客線となると便利な気もしますが、しかし、用地はあるとしても、この踏切やあるいは国道6号を平面交差している踏切があるなど設備面でハードルが高そうな気もしますね。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その1)京成金町駅周辺
2023年10月23日
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松のやの朝定食「得朝ささみかつ&コロッケ定食」(490円税込み)を頂きました。小鉢がコロッケ、お新香、納豆、冷奴の中から選べるので、冷奴をいただきました。朝から揚げ物だと、なかなか胃腸には負担掛けてますかね。人気ブログランキング孤独のグルメ 朝からささみかつ&コロッケ定食
2023年10月22日
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キンモクセイの下でワンちゃんに用をさせているおばちゃんがいました。なるほどなと思いましたね。さて、琵琶湖にも太平洋にも見立てられる大泉水の周りを散策しました。こちらは、大泉水の東橋に当たる舟着と呼ばれる場所から大泉水にある蓬莱島を撮影してみました。蓬莱島にある海岸です。よく見ると、灯籠の手前にアオサギが一羽いました。この小石川後楽園に大きな望遠レンズを付けたカメラを持って園内を歩いている人がよく見かけられます。小石川後楽園は、都内でも有数のカワセミ撮影スポットなんだそうですね(→→→こちら)。また木立の間から、朱色に塗られた弁財天の祠が見えました。こういうことも想定して望遠レンズを持ってくればよかたですね。この角度から撮影すると、島の景観がよくわかりました。大泉水を西向かって岸伝いに歩いゆくと、滝がありました。白糸の滝と呼ばれています。白糸の滝って軽井沢や富士宮など日本各地にあるそうですが、これはどこをモデルにしているんでしょうかね。大泉水の横にある蓮池です。季節の頃には見事なハスの花が楽しめるのでしょうね。大泉水の横にある一つ松。琵琶湖唐崎の一本松を模して植えられたとのことです。そして、西門にある売店の方にやってきました。小石川後楽園の西門です。特別史跡及び特別名勝の小石川後楽園、四季折々に訪れたい場所ですね。その際には年間パスポート1,200円はお得かも(ちなみに。65歳以上になると半額になります)。また9庭園共通年間パスポート4,000円もあります。ちなみに9庭園とは、浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園、小石川後楽園、旧岩崎邸庭園、向島百花園、清澄庭園、六義園、旧古河庭園、そして殿ヶ谷戸庭園になります。【了】人気ブログランキング小石川後楽園(その8) 大泉水の周りを巡って帰りました
2023年10月21日
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大泉水の周りに戻って来ました。大泉水の周りには「松原」と呼ばれる松が植えられた広場があります。松原といえば、おそらく三保の松原を設定しているようです。とすれば、この大泉水は太平洋にも見立てられているんですね。松の間から、見えたのは中央大学の校舎です。松原の片隅に茅葺の木造の建物がありました。九八屋という江戸時代の酒亭を復元した建物だそうです。解説文には、「江戸時代の風流な酒亭の様子を具した。この名の由来は、『酒を飲むには、昼は九分、夜は八分にすべし。』と酒飲みならず、万事控えるを良しとする。との教訓による。」と書かれています。このため、昼は九分、夜は八分の教訓から、九八屋と名付けられたそうです。こういう教訓を庭にするとは、水戸徳川家の人には、お酒が好きな人が多かったんでしょうかね。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その7) 酒を飲むには、昼は九分、夜は八分にすべし。
2023年10月20日
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無料公開の都民の日に訪れた小石川後楽園。園内の散策まだ続きます。見るべきものが多いです。こちらにあるのは、建立当時の姿を残す園内唯一の建物といわれる得仁堂。光圀18歳の時、司馬遷『史記』の「伯夷列伝」を読み、伯夷、叔斉の高義を慕い、泰伯の像とともに二人の像を安置したところだそうです。堂名は、孔子が伯夷・叔斉を評して「求仁得仁 (仁を求めて仁を得たり)」(『論語』述而第七の十四)と語ったことに由来します。園内を歩くと、一瞬、深い山の中の道を歩いている感覚になります。そして、これが円月橋。水戸徳川家2代藩主光圀により、賓師(客分として待遇される師)として招聘された明の儒学者朱舜水が設計したといわれる石橋です。このあたりも光圀公の中国への関心の高さがわかりますね。水面に映る姿が満月のように見えるので、円月橋の名がつけられたそうですが、沖縄・九州地方を除く地域の中では最古級とされる石橋です。残念ながら、橋の上には登れませんでした。こちらは花菖蒲田ということで、季節にはきれいなハナショウブが楽しめるそうです。ボランティアガイドの案内は、この後大泉水の方に出て、ガイド終了となりましたが、MoMo太郎はもう少し見たかったので、さらに園内を探検しました。こちらはまた山に登る階段がありました。この上にも行ってみたかったのですが、パスさせてもらいました。そして、こちらの石碑がありました。「藤田東湖 護母致命の処」という石碑です。藤田東湖(1806~1855)は、幕末の水戸藩士で勤王家として知られた人物です。その藤田東湖が水戸藩江戸上屋敷で安政の大地震に遭ったのですが、その際母を助けて外に出たのです。しかし、火鉢の火を心配した母が屋内に引き返したため救い出そうとしたところ鴨居が落ちてきて、東湖は老母を下に囲い、肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭へ出したのですが、東湖本人は力尽きて下敷きになり圧死したそうです。その記念碑はとして建立されたもので、圧死した場所の後楽園ジムの脇に建立されたのですが、白山通りの拡幅により道路となったため、ここに移設されたそうです。この井戸は、どんな干ばつにも枯れず、またどんな洪水でも水があふれなかったという伝説があるため、「不老水」と呼ばれているそうです。石川後楽園にある梅林です。の梅の木を水戸の偕楽園に持って行って植えたそうです。ちなみに水戸光圀公は号を「梅里」と称するほど梅を好んだそうです。園内を流れる川です。この川のほとりにあるのが、こちらの稲田です。この稲田は、光圀が、農民の苦労や農業の尊さを彼の嗣子綱条の夫人に教えるために作ったとされるもので、毎年文京区内の小学生による田植えと稲刈りが行われ、光圀の教えを継承しているそうです。園内には水戸光圀公の趣味で作られたものがかなりあるんですね。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その6) 水戸光圀公の趣味です
2023年10月19日
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谷村新司さんがお亡くなりになったそうで、ご冥福をお祈りします。MoMo太郎にとっては、谷村新司さんって歌手とかというイメージはあまりなくって、ラジオの深夜番組でエッチな話をしていた人という印象があります。特に、印象に残っているのは、和式トイレで大きな方をするときには、予めトイレットペーパーを便器の中に敷いておくと、きれいに排泄物を流せて痕が残らない、という話でした。その話を聞いてからは、最近は洋式トイレが多いのでそういうことはしていませんが、和式トイレで大きな方をするときは、その方法を実践しています。さて、無料公開の都民の日に訪れた小石川後楽園。園内の京都の名所、まだ続きます。琉球山の頂上付近かにあった、この建物の土台のようなものは、清水観音堂跡です。かつては京都の清水寺の本堂を模写したお堂が建てられていたそうですが、この建物も大正12年(1923)の関東大震災で焼失してしまったそうです。ということで、清水の舞台からの眺望を楽しもうとすると、ちらっと見えた赤い橋、これもなにやら京都をイメージしたんでしょうか。園路を辿って、山を下っていくとこの赤い橋を渡ることができます。この橋、京都東福寺の通天橋と見立てるそうです。でも、これって水戸頼房公も光圀公も騙されたんじゃないんですか。京都で学生生活を6年送ったMoMo太郎は騙されないぞ!本当の東福寺の通天橋は、こんな朱色のアーチ橋ではなく、渋い木造の水平な橋で、そして屋根が付いているんですよ(→→→こちら)。この橋を渡るお姉さん、今度は京都に行って確かめてね。ちなみに東福寺通天橋は紅葉が見事です。こちらの橋からも紅葉が楽しめそうなので、その点では通天橋に見立てても間違いではないかも。ちなみに、例年だと小石川後楽園の紅葉が綺麗なのは12月の第一週だそうです。その時はちゃんと300円の入園料を払って来てね、とボランティアガイドさんに言われました。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その5) 水戸頼房公は騙されたのか?ついでに谷村新司の思い出も
2023年10月18日
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こちらの道を行くと大泉水をクルっと一周できるのですが、なぜかこちらに人が集まっていました。実は小石川後楽園のボランティアガイドさん(→→→こちら)が無料で園内を案内してくれるそうです。無料と聞いて放ってはおけません。MoMo太郎もこのボランティアガイドのオジサンについて園内を歩くことにしました。さて、ガイドさんの説明によると、この橋は京都の嵐山にある渡月橋だと見立てるそうです。中山道を歩いていよいよ京都に来たのですね。渡月橋が架かる、京都の桂川上流で嵐山を流れる大堰川(→→→こちら)に見立てられた川です。嵐山の雰囲気がありますかね。と、京都だとばかり思っていたら、この堰は、なんと西湖の堤(さいこのつつみ)というそうです。西湖って京都にあったのかなと思っていたら、なんと中国の杭州(今の浙江省)にある西湖(→→→こちら)の堤に見立てるそうです。これは二代目藩主の水戸光圀が、父の水戸頼房の時代から水戸藩に仕えた明の遺臣朱舜水(→→→こちら)のアドバイスに従って、こういう中国の風物を取り入れた庭を造ったそうです。さすが、日本で初めてラーメンを食べたという俗説の伝わる水戸光圀、中国が好きだったんですね(→→→こちら)。渡月橋を渡り切った所、大堰川の河原に置かれた屏風岩です。屏風のように板状の石が並べられているから屏風岩。屏風岩の後ろには琉球山と呼ばれる築山が作られています。琉球山に登り始めたところで振り返って撮影した、渡月橋と西湖の堤です。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その4) いよいよ京都です
2023年10月17日
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園内の散策、色んなものがありました。石碑も建立されているようです。この石碑は、駐歩泉碑(ちゅうほせんひ)というもので、この辺りは、清水が湧き出ていたそうで、水戸藩九代目藩主徳川斉昭が「駐歩泉」と命名したそうです。「駐歩泉」は西行(→→→こちら)の和歌「道のべに しみづながるる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」に因んだもので、「駐歩泉」碑の小径を行くと西行堂跡というのがあります。こちらが西行堂跡です。関東大震災で焼失し西行堂の土台だけが残っています。また右側の石碑は西行の歌碑になるそうですが、上手く撮影できなかったので、載せていません。西行堂跡のあたりから大泉水を眺めると、大泉水に浮かぶ蓬莱島の姿がよくわかりました。このような島は、神仙思想に説かれる蓬莱山を表す工夫として、各地の庭園に設けられているそうで、。この島は、亀の形をしていて、亀の頭に当たる板状の石は、庭師・徳大寺佐兵衛にちなんで徳大寺石と命名されています。また、樹木に覆われて見えにくいのですが、島内には弁財天の祠がありますが、島に渡る渡し舟が運行されておらず、お参りすることはできません。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その3) 駐歩泉碑と西行堂跡
2023年10月16日
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10月1日の都民の日で無料公開されていた小石川後楽園に行ってきました。こちらの案内図(→→→こちら)を見ながら、どのようにこの庭園を廻ろうかと考えていると、木曽川とか龍田川、そして渡月橋、通天橋といった日本各地の名所の名前が見えました。どうやら、この小石川後楽園の庭づくりのコンセプトは、日本各地の名所を水戸徳川藩の上屋敷の庭園に造ろうということのようです。さすが、全国を回って巡って悪人を退治する水戸黄門漫遊記のモデルとなった水戸光圀公を生んだ水戸徳川家の庭園、きっと、光圀公もこの庭園を巡りながら、水戸黄門ごっこをして遊んでいたのかも。水戸徳川家の上屋敷は、この後楽園と隣の東京ドームシティを併せた広い敷地にあり、この小石川後楽園は、上屋敷の中の庭園ということです。また屋敷の建物は、庭園の東側にある今の東京ドームシティの場所にあったそうです。MoMo太郎は小石川後楽園の東門から入ったので、最初にこの内庭と呼ばれる水戸藩書院のあったところに出ました。内庭は、この唐門によって、仕切られ、唐門は開設時の「後楽園」の正門になります。ということで、門に懸けられた扁額には「後楽園」という文字が書かれています。この唐門の前に立つと、東京ドームの屋根が見えます。来シーズンはジャイアンツも頑張って欲しいものです。弱い巨人相手に勝っても阪神タイガースの岡田監督も面白くないでしょうから。こちらの橋を渡って中にある島に渡ることはできないようです。唐門の裏に回ると、このよう道標がありました。唐門を江戸とすれば、木曽川が流れていることから、こちらは西に向かう中山道という設定でしょうか。こちらが木曽川、そして設定では、このあたりが浦島太郎伝説のある「寝覚の床」(→→→こちら)ということのようです。そして、これが中山道の峠道ということになるのでしょうか、「延段」(のべだん)と呼ばれる自然石と切石を組み合わせた石畳の道になります。そして、延段を越えると眼下に池が広がってきます。この池は琵琶湖という設定なんでしょうね。これは庭園の中心となる「大泉水」と呼ばれる池です。蓬莱島を配し、琵琶湖を表現した景色を造り出しそうです。ちなみに、大泉水の橋に置かれたこの岩は、琵琶湖北部に浮かぶ竹生島(→→→こちら)と名付けられています。池岸の広場です。ここは紅葉林と呼ばれている場所です。そして、先ほどの木曽川がこちらにも流れていますが、ここでは紅葉の名所の龍田川(→→→こちら)という設定になっています。【つづく】人気ブログランキング小石川後楽園(その2) 中山道の旅ができます
2023年10月15日
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