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住宅街の中を歩いて、東海道線の次の駅、大船へ向かっています。ちなみに、この道を歩いていたのは2023年9月17日(日)です。まだまだ残暑の厳しい中を歩きました。そしてちょっと疲れたので住宅街の中の公園でひと休みです。公園の名前が「原宿公園」、横浜にも原宿(→→→こちら)があったんですね。ちなみに東京の原宿は江戸時代以前は鎌倉街道の宿場町があった(→→→こちら)そうですが、このあたりもそういう宿場町だった歴史があるんでしょうか?高齢者専用の押しボタン式信号機がありました。でも通学に使う子供たちも押しているかも?炎天下の下で、サッカーの練習をしている高校生のようです。途中の道端にあった廃止された公衆電話です。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その10) 横浜市の原宿、そして使われなくなった公衆電話
2024年01月15日
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大坂松並木を過ぎてさらに国道一号沿いに歩みを進めると、このような石碑があります。石碑には「お軽勘平戸塚山中道行の場」(→→→こちら)と刻まれていました。人形浄瑠璃や歌舞伎の演目である「仮名手本忠臣蔵」の中で演じられる三段目・恋歌の意趣の中にある「道行旅路の花聟」に因むもので、「仮名手本忠臣蔵」の元々の内容ではないが、現行の歌舞伎の通し上演では一体化して上演されている。 清元節を使った所作事になるそうです。、話としては、腰元お軽と逢引していて殿中で刃傷沙汰を起こした主君の大事に居合わせることができなかった早野勘平が、お軽の実家のある山崎へと、お軽とともに落ちのびてゆくところに、鷺坂伴内が手下を連れやってきて両人にからむという筋立で、鎌倉から落ち行くふたりが桜と菜の花が咲き乱れる戸塚山中で見せる美しく華やかな所作事になるそうです。ちなみに仮名手本忠臣蔵の中では、お軽の故郷に逃げた勘平は猟師として暮らしていたところ、誤って義父与市兵衛を殺したと誤解し自害するが、死に際に潔白が証明され,討ち入りの連判状に加えられるといった内容でした。こちらの石碑は、お軽勘平戸塚山中道行の場の石碑が建立された由来が記されているようで、清元節に因んだことが記されているようでした(多分)。このレストランのあるところで左折して、住宅街のなかの道を歩いて行きます。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その9) お軽勘平戸塚山中道行の場の碑
2024年01月14日
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国道一号沿いに歩いて行くと、また旧東海道道しるべ(→→→こちら)が見つかりました。大坂松並木という道しるべてした。説明文では、大坂では天気の良い日に松並木から素晴しい富士山が眺められることから、多くの浮世絵の画題となりました。昭和七(一九三二)年に坂の改修工事が始まり、頂上を削り、下の方は十mほど土盛りをしてなだらかな長い坂にしました。現在の大坂になるまでは数回の改修がおこなわれたそうです。とありました。さらに進んでいくと、大きな歩道橋になっているところがありました。グーッと突き出したカーブした歩道橋になっています。歩道橋の下は環状3号線(→→→こちら)が通っていました。道がきれいで最近開通したような感じですね。歩道橋の上から望遠で撮影しましたが、港南台(→→→こちら)と呼んでいるニュータウンの方でしょうか。横浜も多くの人が済んでいるんだなと思いました。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その8) 大坂松並木と環状3号線
2024年01月13日
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旧東海道から離れて、国道一号の新道に向かいます。バイパスに面した戸塚警察署です。この道が国道一号の新道、バイパスになっています。そして、お正月の箱根駅伝のコースになっています。箱根駅伝の戸塚中継所近くなってきて、ちょっと渋滞。この広場、箱根駅伝往路2区→3区から中継所になります。飲食店などがあって、多くの車が駐車されていますが、駅伝当日は一般車両は駐車禁止になるんでしょう。こちらの自動車販売店は復路8区→9区の中継点です。店名が戸塚中継店になっていました。アピールできる店名ですね。駅伝のイラストもありました。しかし、いつも思うのですが、駅伝ってオリンピックの競技でもないのに、なんであんなに人気あるんですかね。と言ってもMoMo太郎も好きですが。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その7) 箱根駅伝戸塚中継所
2024年01月12日
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バス停の横に道標がありました。わざわざ植樹された木もあって、目立たたせようとしているのか。道標には「横浜市地域史跡東海道戸塚宿見附跡-上方見附-」とありました。ここが戸塚宿の上方(京都)側の入口にあたるのですね。戸塚区内の旧東海道は南北方向にまたがっており、全長約11.7kmあります。その中で戸塚宿は、江戸方見附跡と上方見附跡の2つの見附跡に挟まれた約2.3kmの範囲とされていたそうです(→→→こちら)。ここからは、長大な登り坂が始まるようです。坂道に差しかかるあたりに石碑が立ち並んでいました。この石碑は庚申塔のようですね。江戸時代庚申信仰(→→→こちら)が盛んだっんでしょうね。さらに坂道を登って行くと、またバス停の近くの植え込みに道標がありました。植え込みに隠れていますが、説明文には、かつては二つの坂から成り立っていたようで「新編相模国風土記稿」によれば、一番坂登り一町余(百m余)、二番坂登り三十間余(五十四m余)と書かれています。大坂では嘉永六(一八五三)年に仇討ちがあったという記録があります。とありました。ということで長い坂が続きます。その道しるべの先に石碑が植え込みの中に建っていました。東海道の史跡「大坂」を示す石碑、もっとわかりやすく設置し直して欲しいな。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その6) 戸塚宿上方見附と大坂
2024年01月11日
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しばらく歩くと、大きな交差点がありました。戸塚町とありましたから、ここが戸塚の中の戸塚なんですかね。その交差点の近くにあった旧東海道道しるべ、結構頼りにしています。説明文によれば、戸塚宿の総鎮守で祭神は誉田別命(応神天皇)と冨属彦命の二柱です。源頼義・義家父子がここに野営し夢で応神天皇の神託を受け戦に勝利した事に感謝し延久4(1072)年に社殿を造りその御霊を勧請したとのことです。山頂の古墳は冨属彦命の古墳とされており、「冨塚」と呼ばれ、これが「戸塚」の地名の起こりとも言われています。境内には松尾芭蕉の句碑もあります。とのことです。とりあえず、お参りさせてもらいました。こちらの石碑が松尾芭蕉の句碑です。句碑には、「鎌倉を 生きて出でけむ 初鰹(芭蕉翁)」と刻まれてました。鎌倉産の初鰹の活きのよさを詠んだ句なんでしょうね。江戸っ子に珍重された初鰹。当時は鎌倉に水揚げされて戸塚を通り江戸へ運ばれていたんですね。こちらには冨塚八幡宮の由緒が書かれていました。御祭神は誉田別命、富属彦命で、社殿後方の地は富属彦命の古墳になるそうです。また、これを富塚と称した事により戸塚の地名が発祥したと伝えられています。戸塚(富塚)一族は昔この地に住み、当神社を氏神として崇敬しておりました。現在全国に散らばる戸塚姓富塚姓の方々の守護神でもあるそうです。そして社殿は、この石段を登ったところに。登ってみました。こちらが社殿です。御幣束で扁額の文字が隠れてしまいましたが、冨塚八幡宮です。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その5) 冨塚八幡宮
2024年01月10日
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澤邉本陣跡から平坦な道が続く通りを300mほど進むと、この鳥居が見えてきました。鳥居の前にあった東海道道しるべによると、この神社は「八坂神社」(→→→こちら)だそうです。この説明文によれば通称「お天王さま」として親しまれている戸塚宿の鎮守です。元亀3(1572)年に。牛頭天王社を勧請したのが始まりと言われています。毎年7月14日行われる「お礼まき」は、無病息災を祈願して市の無形文化財になっています。神社脇の東海道と鎌倉道が交差するあたりに高札場がありました。と説明されていました。また鳥居のすぐそばに国土地理院の水準点が設けられています。八坂神社の境内には、明治天皇東幸史跡の石碑が建立されていました。ここにも明治元年の天皇が東京に移られた時に内侍所(三種の神器の一つである神鏡(八咫鏡やたのかがみ)を安置した所)が建てられたことによるものだそうです。この石碑の脇にあった、八坂神社の由緒を説明した看板です。これによると、創建は元亀参年六月郷の庄司内田兵庫源政親によるものだそうです。ちなみに「庄司」とは、江戸時代において村落の長。庄屋。名主(なぬし)。肝煎(きもいり)を意味していたそうです。横浜市の無形民俗文化財の「お札まき」についての説明板もありました。こちらが八坂神社の境内になります。風に舞う幣束が写り込んでいますが、社殿の扁額です。八坂神社とあります。ちなみに京都の八坂神社では、素戔嗚尊 (すさのをのみこと)がご祭神になりますが、こちらで祀られていた牛頭天王は起源不詳の習合神で祇園精舎を守護するとされ、日本では素戔嗚尊と同神とされていたことから、明治初年社号を八坂社と改めたのでしょうか。そして、神社脇の東海道と鎌倉道の交差点にあった古びた石碑です。読みにくいですが、「これよ里かまくら道」と刻まれていますが、建てられている場所が東海道の北側で、本来の、東海道の南側のかまくら道の入口でないのは、道路工事かなにかの関係でここに移設されたんでしょうかね。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その4) 八坂神社と「これよ里かまくら道」
2024年01月09日
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戸塚宿の澤邉本陣跡の横には羽黒神社があります。参道にある鬱蒼とした大木がこの神社の歴史を物語るようです。戸塚羽黒神社の由緒は、国府台の合戦(→→→こちら)で戦死した沢辺修理亮信直(天文7年1538年没)の長男沢辺河内守信友が弘治2年(1556)に創建したと伝えられています。江戸時代の初め、戸塚が宿場町になるよう幕府に働きかけていた澤邉宗三は、元和2年(1616)11月17日に(戸塚が宿場町となる)伝馬証文が下附された際、羽黒社に感謝して祭日を11月17日としたそうです。江戸期には戸塚宿内の鎮守とされ、明治6年村社に列格、明治14年戸塚町内神沢より当地へ遷座したと伝わっています。今の社殿は昭和34年8月17日の改築になっています。また祭礼の日も現在では8月17日だそうです。しかし、神奈川県の戸塚から遥かに遠い出羽の国、山形県にある羽黒山とつながりがあるのは、なんか不思議ですね。また、この神社を創建した沢辺河内守信友という方も、羽黒山とどういうつながりがあったんでしょうかね。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その3) 羽黒神社
2024年01月08日
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旧東海道に沿って歩いて行くと、旧東海道道しるべが設置されていました。ここに戸塚宿の脇本陣があったようですね。説明文によると、脇本陣は、本陣に差し支えが生じたときなどに利用されました。本陣とは異なり大名などの宿泊が無い時は一般旅客の宿泊に供することができました。規模は本陣よりも小さいですが、諸式はすべて本陣に準じ、上段の間などもあります。 戸塚宿には3軒の脇本陣がありました。だそうです。さらに南に下って、進んでいくと、「きじま本陣」(→→→こちら)がありました。江戸時代からの流れを汲む本陣が、飲食店になったのではと思いましたが、そうではなく普通の飲食店のようでした。こちらが正真正銘の戸塚宿 澤邊本陣跡だそうです。背後に建つお宅には澤邉本陣にゆかりのある方がすんでいたりして。説明文では澤邊本陣は戸塚宿に2つあった本陣のうちの1つです。本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって 幕府に強く働きかけた功労者です。明治天皇の東下の際には行在所になりました。敷地の一角に戸塚宿の鎮守の1つ 羽黒神社があります。弘治2(1556)年に澤邊河内守信友が羽黒大権現を勧請したのが始まりと言われています。と記されていました。大きな木製の標柱もあり、そして、明治天皇戸塚宿行在所址の石碑もありました。行在所(あんざいしょ)とは、天皇が行幸時に、臨時に滞在する場所のことで、わざわざ天皇滞在のための建物を建てると行宮(かりみや)となるのでしょうけど、臣下の邸宅・寺・官衙などを臨時に利用・転用した場合に行在所と呼ぶようです。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その2) 本陣と脇本陣
2024年01月07日
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新年早々、東海道線の駅間歩きをはじめます。さて、戸塚駅から出発します。戸塚駅に停車している東海道線の車両です。駅西口にある地図で行き先を確認します。駅前の広場には、なぜかハトがたむろしていました。西口には、横浜市の戸塚区役所がありました。駅西口から続く商店街です。駅前の国道1号にある戸塚郵便局です。旧東海道にあたる国道1号を南の方角に向かって歩いて行きます。(戸塚から大船へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(戸塚~大船)(その1) 戸塚区役所
2024年01月06日
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日高屋さんの天津飯(560円税込み)です。かかっている甘酢の酢がちょっとキツイ感じがしましたが、それはそれで食欲増進になりました。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 天津飯
2024年01月05日
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一宮町に戻って、一宮海岸広場にやってきました。こちらは大塚実氏顕彰記念碑です。一宮の海岸再生に活用をとして大塚商会名誉会長だった大塚実氏が4000万円寄付したんですね。(→→→こちら)大きな石碑が二基建立されていました。こちらは「芥川龍之介 愛の碑」だそうです。裏面の解説によると、芥川龍之介は千葉県九十九里浜の南端、長生郡一宮町に、大正3年夏と5年夏、二回にわたって滞在してたそうです。大正3年に来たときは、芥川の初恋の人、吉田弥生とは、家柄の違いを理由に恋は実らなかったようです。大正5年には新しい恋人塚本文(ふみ)に、この一宮町から長い長い求婚の手紙を出し、結婚したたそうです。こちらの石碑は「黄塵碑」と読むのでしょうか。裏面の説明によると、となりの長南町出身の上田広(本名浜田昇)(→→→こちら)の記念碑のようです。この方は、日中戦争に応召され、現地で「黄塵」などの作品を書いた、いわゆる兵隊作家だったようです。戦後は、鉄道関係の著作を多く書かれたそうです。【了】人気ブログランキング冬の海をみたくなつた(その3)芥川龍之介愛の碑
2024年01月04日
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隣のいすみ市にある太東海浴場にやってきました。雰囲気は南国ですが、やっぱり寒かったです。夏の海水浴シーズンにはこのベンチに座って記念撮影する人も多いんでしょうね。イルカののモニュメントがありましたが、ここにイルカはやって来るのかな?これはシンボルの石像ですね。こちらの海岸、2020年東京オリンピックのサーフィン競技の会場となった釣ヶ崎海岸に続いています。海水浴場の隣は太東漁港になっています。冬の海ってなんか寒さを一層感じました。【つづく】人気ブログランキング冬の海をみたくなつた(その2)太東海水浴場
2024年01月03日
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去年の暮も押し迫った頃、急に海が見たくなったので、千葉県九十九里浜の方へドライブしてきました。こちらはJR東日本の外房線の駅、上総一ノ宮駅の西口です。上総一ノ宮駅は東京・千葉方面からの快速電車終着駅であるためここから千葉や東京に通勤している人もいるそうです。駅舎の天井は杉の木を使った格子状になっていて、なかなか凝ったデザインになっています。こちらは駅の東口、改札はICカードのみ利用のようです。一ノ宮というだけあって、駅の近くには上総国一之宮として知られる玉前神社(→→→こちら)があります。一之宮というのは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことだそうですから。この神社も大きな神社でした。この鳥居を抜けて、階段を上がると、黒漆塗りの権現造りという珍しい社殿がありました。一年の最後ということで年末詣でお参りさせていただきました。【つづく】人気ブログランキング冬の海をみたくなつた(その1)上総国一之宮 玉前神社
2024年01月02日
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あけましておめでとうございます。気候変動、戦争など人類の将来を憂うばかりですが、自分にできることに着実に取り組んで参りたいと思っています。本年も宜しくお願い致します。人気ブログランキング新年おめでとうございます
2024年01月01日
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今日は大みそか。大みそかといえば「年越しそば」。昨日食べた立ち食いそばのチェーン店「ゆで太郎」で朝定食、焼きサバ朝食(480円税込み)です。朝からこういう形で年越しそばをいただくのもいかがでしょうか。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 朝から年越しそばいかがですか
2023年12月31日
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下立売通を東に歩いて堀川通との交差点に出ました。京都の町を歩くには、やっぱり京都の通りの名前を憶えておかないといけませんね。ということで、こちらは堀川通ですが、基本として東西の道としては、南から四条通、三条通、丸太町通、そして北大路通。さらに南北の道としては、東から東大路通、河原町通、烏丸通、そして西大路通。を覚えておくと観光地に行くのには困らないでしょう。本当に生活するなら、「まるたけえびす(丸竹夷)」の唄(→→→こちら)で東西の道を、そして「てらごこ(寺御幸)」の唄(→→→こちら)で南北の道を覚えましょう。しかし、これらの唄でカバーしている範囲に京大は入っていないので、京都大学は難関大学なのかもしれません。堀川下立売の交差点にあるスーパーマーケットです。やはり京都という場所柄、普通の日本家屋みたいな意匠にしているんでしょうかね。そして、この堀川を渡ります。こちらの建物は京都府庁です。京都府庁前の釜座通にある「明治天皇御駐輦所合薬会社阯(めいじてんのうごちゅうれんしょごうやくかいしゃあと)」の石碑です明治10(1877)年,関西行幸中の明治天皇が、2月1日にここにあった京都合薬会社の設立した模範薬局(アポテーキ)を視察したことを示す石碑です(→→→こちら)。模範薬局(アポテーキ)は医師の処方箋による調剤を行ったそうです。丸太町通りにあるこの建物。日本共産党京都府委員会のビルでした。京都ってなんかわからないけど共産党を支持する人が多いのかも、MoMo太郎の通っていた学校にも、共産党支持者っぽい人が造った看板が沢山並んでいました。そして、ようやくこちらの交差点に出ました。烏丸丸太町です。そしてこの近くにあるのが京都御苑です。京都御苑は環境省所管の国民公園で、京都御所(→→→こちら)の周囲の緑地を指しています。東西約700m、南北約1300mの範囲で、総面積は92ヘクタール。その内、環境省が管理する国民公園である京都御苑は65ヘクタールだそうです。広大な京都御苑内を結ぶ幅広の砂利道には、自転車1台程が通れる小道があります。誰かが通った轍を毎日同じようにみんながなぞって自転車を走らせていくため、出来上がった道なのですが、すれ違う際にはどちらかが道を譲らないといけません。MoMo太郎も学生時代はよく自転車でここを通りましたが、その際には、なんとなく男性は女性に、若者は年配に自然と道を譲る習慣になっているようでした。この築地塀に囲まれた範囲が京都御所です。現在の京都御所は、もと里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つであった土御門東洞院殿の地になるそうです。北朝2代光明天皇が1337年(建武4年)から1869年(明治2年)までの間の天皇の住まいとして利用されてきました。この門が建礼門になるそうです。ちなみに、御所は、入場無料で通年公開されていますが、ここからは入場できません。入場するのは、北側の今出川通に近い清所門からになります。そんなわけで、久しぶりに訪れた京都の40年前から謎だった、東寺、そして平安宮内裏などの謎が解決でき、学生時代より京都に詳しくなった気分です。【了】人気ブログランキング京都の謎を40年ぶりに解明(その6) 京都御所へ行く
2023年12月30日
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建礼門から北に少し歩いて下立売通りとの交差点を左折するとこの酒屋さんの前が、平安宮内裏承知明門跡となっていました。承明門は平安宮内裏内郭の南正面門で,外郭の建礼門と相対して建てられた門だそうです。こちらのハーモニカ長屋を思わせる建物は、平安宮内裏弘徽殿跡に建っているようです。弘徽殿(こきでん)とは、平安御所の後宮のひとつで後宮で最も格の高い殿舎だったそうで、皇后・中宮・女御などが居住したところだったそうです(→→→こちら)。さらにこのハーモニカ長屋は、別の内裏の建物、平安宮内裏承香殿跡にもまたがって建っています。承香殿(じょうきょうでん/しょうきょうでん)とは、平安御所の後宮のひとつで弘徽殿についで格式の高い殿舎とされ、女御などが居住していたそうです。ちなみに、後宮の位は皇后・中宮・女御・更衣の順だったそうです。ちなみに、後宮(こうきゅう)は、天皇の后妃や、その嫡出子が住む場所ですが、平安宮は、後の江戸幕府の大奥のように厳格に男子禁制の場所というほどでもなく、源氏物語や枕草子を読むと、殿上人(天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間に昇ること(昇殿)を許された者)のうちでも家族や親しい人間は頻繁に出入りしていたように描写されています。ということで、こちらの長屋にも玄関があって、このように承香殿東対と看板があり、殿上人が出入りできるようになっているようです。ところで源氏物語や枕草子の作者の紫式部や清少納言は、天皇やその妃の側に仕えた女房と呼ばれる使用人だったそうです。したがって、奥さんのことを女房と呼ぶと、使用人を意味するので、MoMo太郎の家の掟では、奥さんのことを女房と呼んではいけないことになっています。こちらのお宅の前にも案内板がありました。平安宮内裏清涼殿跡(→→→こちら)とありました。清涼殿(せいりょうでん)とは、天皇の日常生活の住居になるそうですから、このお宅。、随分いい場所に建っているんですね。こちらのお宅の前にも石碑がありました。平安宮内裏綾綺殿跡とありました。綾綺殿(りょうきでん)は、宮中の舞などが行われた建物だそうです。平安宮内裏宜陽殿跡の石碑です。宜陽殿(ぎようでん)とは、天皇累代の御物・宝物を保管しておく納殿として用いられた建物です。下立売通にある歴史のありそうな油屋(→→→こちら)さんその油店の向かい側の空き地にもなにやら案内板がありました。源氏物語ゆかりの地の案内板(→→→こちら)です。この案内板によれば、794年(延暦13年)の平安遷都とともに造営された平安宮内裏ですが、ら村上天皇の天徳4年(960年)に初めて焼亡し、その後内裏の再建と焼亡は頻繁に起こり、鎌倉時代の安貞元年(1227年)に火災によって全焼し、これをもって大内裏の再建されず歴史から姿を消したそうです。なるほど、平安宮内裏が火災で亡くなったのであれば、こういう所に油を取り扱う商店もできるわけでしょうか?ちなみに、このお店の創業は江戸後期の文政年間(1818-1830)だそうです。京都の住所ってなんかやたら長いです。この商店の敷地には、水車があったりして、雰囲気がありますね。そしてここにも、平安宮内裏を示す石碑がありました。平安宮一本御書所(いっぽんごしょどころ)跡とありました。この案内板に、一本御書所のことが記されているんでしょうけど、読めませんでした。なお、一本御書所の役割については次の二通りの説があるそうです。(1)世間に流布する書籍をそれぞれ「一本」(一部)ずつ書き写して保管していた。(2)「一本書」(1冊しかない稀覯本)を納めさせ保管していた。どちらの役割をはたしていんでしょうかね。さて、こちらの図面と照らし合わせてみると平安宮の内裏にはどのような建物があったかがわかるでしょう。なお、この図面は『ウィキペディア(Wikipedia)』の内裏(→→→こちら)から借用しています。そして、今度は幕末まで天皇が住んだ京都御所を目指して行くことにしました。さて、元々天皇が住まわれていた内裏ですから、今も治安のために交番がありました。【つづく】人気ブログランキング京都の謎を40年ぶりに解明(その5) 平安宮内裏を歩きます
2023年12月29日
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平安京の概略の位置関係がわかったところで、天皇の私的区域であった内裏は今どうなっているかについても調べてみました。ということで、京都の町の北の方、丸太町通りへやってきました。千本通りと丸太町通りの交差点付近です。「千本丸太町」のバス停近くの住宅街の中に入って行きます。京都って町の中心でもこういう低層住宅がまだ残っているんですね。ちょっと凝った作りの校門のある京都市立二条北小学校です。この小学校の近くには、「平安宮内裏南限と建礼門跡」という看板がありました。この看板は「源氏物語ゆかりの地」説明板(→→→こちら)だそうです。そして、建礼門(けんれいもん)とは、平安宮内裏外郭の南正面の門のことだそうです。来年の大河ドラマは「源氏物語」を書いた女流ベストセラー作家、紫式部が主人公の「光る君へ」(→→→こちら)だそうですから、ファンの方はこのあたりを巡られてもいいかもしれませんね。ところで、現代の女流ベストセラー作家の日大理事長さん、しっかりやっているんですかね。【つづく】人気ブログランキング京都の謎を40年ぶりに解明(その4) 内裏を探します
2023年12月28日
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矢取地蔵尊のところであったように、「東寺の空海と西寺の守敏憎都(しゅびんそうず)が祈祷で争った・・・」というのですから、西寺(さいじ)(→→→こちら)というお寺があったんですね。ということで西寺を探してみました。とりあえず、新千本通りにちょっと入ってみました。新千本通り、かなり広い道でした。街角にある小さな地蔵堂。なんか京都っていうイメージですね。こういう祠の前で京都の地蔵盆のお祭りってあるんですよね(→→→こちら)。大きな公園を発見。公園と思いきや、「史跡西寺跡における現状変更には許可が必要です」という看板がありました。ということは、公園というよりもここが西寺があった場所ということですかね。この盛土が、西寺跡という史跡なんですね。東寺は残っているのに、西寺は消えてしまったんですね。もともと西寺は、平安時代に東寺と同規模の大寺院だったようですが、次第に荒廃し、鎌倉時代の1233年に五重塔が焼け、西寺は廃絶し、以後再興されることはなかったそうです。また、西寺の衰退原因は立地である右京の水はけが悪く、平安後期には住民がいなくなったために環境が悪化したことや、朝廷の支援を受けられなくなったこともその要因ともいわれているんだとか。この礎石は、西寺の建物の基礎だったんでしょうか。といことで、西寺址を示す石柱が残っているだけです。ということで、平安京・現代京都複層地図(→→→こちら)を見てみるとわかるように、今の京都の中心市街地は、平安京の中では東にズレていたようですね。平安京のメインストリートである朱雀大路が、現在の千本通にあたる位置を通っていたこと、また京都御所は、むかしの平安京では東北の隅っこにあるってことがわかりました。そんな次第で、ようやく、「京都駅の西側にあるのになぜ東寺なのか」という学生時代からの謎が解けました。【つづく】人気ブログランキング京都の謎を40年ぶりに解明(その3) 西寺もあったんですね
2023年12月27日
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東寺の西側にあるこの道路。壬生通り、壬生川通り(→→→こちら)とも呼ばれているそうです。そして、平安京の壬生大路に相当するそうです。東寺から九条通をさらに西へ進むと、ちょっと大きな地蔵堂があります。こういう地蔵堂も京都にあると、なにか由緒あるものに思えますね。お参りしようと中に入ってみました。この説明板には「矢取地蔵尊」とありました。どんなお地蔵様かというと、824年(天長元年)、日照り続きで人々は飢えと渇きに苦しんでいた。そのため第53代・淳和天皇の勅命により、東寺の空海と西寺の守敏憎都(しゅびんそうず)が神泉苑の池畔で雨乞いの法会を行った。先に守敏が祈祷するも雨は降らず、対して空海が祈祷すると三日三晩にわたって雨が続き、国土が潤った。これにより守敏は空海を恨み、ついて空海を羅城門の近くで待ち伏せ矢を射かけた。すると一人の黒衣の僧が現れ、空海の身代わりとなって矢を受けたために、空海は難を逃れた。空海の身代わりとなった黒衣の僧は地蔵菩薩の化身であっため、その後の人々はこの身代わり地蔵を矢取の地蔵と呼び、羅城門の跡地であるこの地に地蔵尊を建立し、長く敬ってきた。ということで、空海のピンチを救ったお地蔵様です。そして、矢取地蔵尊の脇にあった「羅城門」(→→→こちら)の標識です。矢取地蔵尊の裏にあったこの小さな公園。羅城門遺跡の石碑がありました。「羅城門」は幅約35m、奥行き約9m、高さ約21mの大きな門だったそうで、朱雀大路の最南端に位置し、目の前を東西に延びる九条大路(現・九条通)を境界として平安京の内と外を分かつ門だったそうです。ということは、この公園のあるところが、平安京の中心を南北に貫く朱雀大路のあった場所なんですね。「羅城門」は「羅生門」とも表記されることがありますが、「羅生門」というと芥川龍之介の小説(→→→こちら)で有名ですが、黒澤明による映画「羅生門」は、小説を原作にしているわけではなく、同じ芥川の「藪の中」が原作となっているそうです。【つづく】人気ブログランキング京都の謎を40年ぶりに解明(その2) 羅城門はここでした
2023年12月26日
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むかしから京都について謎だと思っていたことがあって、それを解明できた話です。近鉄電車の東寺駅で降りて、東寺に行きました。東寺の五重塔、国宝です。しかし、東にある寺だから東寺というだろうと思いますが、あるのは京都駅の西側。西にあるのに東の寺、東寺と言うのを、京都で学生やっいた当時から不思議に思っていました。こちらが東寺の入口。重要文化財の南大門です。南大門から入ると正面に見える、国宝の金堂です。でも拝観するには、東側の慶賀門から入って、拝観料を払って入らないといけません。こちらから入ると、金堂、講堂、そして五重塔が拝観できます。こちらの食堂(じきどう)、ここで僧侶がご飯を食べていたというわけではないようで、中には十一面観音菩薩が安置され、無料でお参りできます。京都の町の中心、京都御所や京都駅の西にあるのになぜ「東寺」と呼んでいるのかですかね。その謎を調べてみました。【つづく】人気ブログランキング京都の謎を40年ぶりに解明(その1) 東寺は京都駅の西にある
2023年12月25日
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今日はクリスマスイブ(Christmas Eve)。「Eve」と同じ語源の「Evening」と同様に、日没から就寝時刻までを指します。クリスマスはキリスト教の祭日であり、キリスト教では「教会暦」で日付を区切ります。教会暦では、日没から次の日没までが1日です。常用時では、0:00~24:00が1日となります。これに合わせると、12月24日の日没から24:00までがクリスマスイブ、12月25日の日没までがクリスマスになるというわけです。写真のクリスマスツリーは、先日、所用で訪れた目白駅前に飾られていたものです。ブログを読んでいただいている皆様、Merry Chirstmas!!です。人気ブログランキング今日はクリスマスイブ
2023年12月24日
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駅の近くまでやってきました。この道沿いにも旧東海道の史跡がありました。矢部町問屋場跡です。標柱には矢部町問屋場について解説がありました。公用で旅する武士や旅人の宿泊や荷物の世話をするために設けられました。問屋役の下に年寄、帳付、人馬指などの役人が置かれ、馬や人足の手配、荷物の積み替え、帳付けなどを行いました。戸塚宿には三ヶ所の問屋場があり、交代で役目を勤め、矢部町問屋場は毎月一日から四日までを担当しました。戸塚宿には問屋場(→→→こちら)が三ヶ所あったとありましたが、この近くにも問屋場跡の標柱がありました。こちらは、吉田町問屋場跡です。標柱の説明文、最後の「吉田町問屋場は毎五日から十一日までを担当しました。」以外は、矢部町の標柱と同じでした。しかし、問屋場、当番制とはいえ、当番でない時に問屋場で働いていたお役人様たちは何をしていたんでしょうかね。駅前にやって来ると、路線バスが停車していました。路線バスで横浜駅まで行けるんですね。これなら太川陽介さんもテレ東のロケでも困らないかも。戸塚駅、横浜市営地下鉄も乗り入れているんですね。戸塚駅につながるペデストリアンデッキです。デッキの上にあるアンテナみたいなオブジェクト、どんな意味があるんですかね。こちらから戸塚駅に向かいます。戸塚駅東口です。こちらが改札口です。JR戸塚駅では、東海道線、横須賀線、そして湘南新宿ラインの3路線が利用できます。(東戸塚から戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東戸塚~戸塚)(その10) 問屋場と戸塚駅
2023年12月23日
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吉田一里塚跡を過ぎて、橋が見えてきました。これが大橋ですね。大橋の横には、稲荷社がありました。むかし東海道を往来する旅人も道中の無事を願ってお参りしたんでしょうか。親柱には、柏尾川(→→→こちら)と刻まれていました。この川が柏尾川(かしおがわ)です。橋の欄干には東海道五十三次の浮世絵が飾られていました。こちらは歌川広重の戸塚宿、元町別道という浮世絵です。橋のたもとには「左かまくら道」との道標が立っていて、ここが鎌倉へ向かう分岐点だったことがわかります。また「こめや」と書かれた大きな看板を掲げる旅籠が見える。軒先には「大山講中」や「月参講中」など様々な神仏参詣の団体の名前が掛けられています、ここがこれら講中の指定休憩所だったんでしょうか。また、旅人がまさに旅籠に到着て不器用そうに馬から台の上へ降りる様子も得かがれていて、なんかリアルです。こちらも広重の東海道ですが、佐野喜版と呼ばれる狂歌入りの浮世絵です。書かれている狂歌は、遊竹館一調の霞日(かすみび)をとつかの駅路(えきじ)とつかはといそぎて旅を双六(すごろく)のうですが、「とつかは」を、「戸塚」と、せかせかと急ぎあわてるさまを表す「とつかわ」のシャレになっているんですかね。大橋を過ぎると、道は東海道線をアンダーパスで越えているようですが、手前の交差点で左折して、柏尾川沿いの道を少し歩きます。川の向こうに見える建物は、日本を代表する総合電機メーカーの事業所のようでした。このあたり、企業の工場などの事業所が多いんですね。ようやく戸塚駅への標識が見えてきました。あと200mとなりました。(東戸塚から戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東戸塚~戸塚)(その9) 浮世絵のある橋
2023年12月22日
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箱根駅伝をモチーフにしたマンホール蓋がありました。動物病院がエキゾチックって、異国情緒のある診察室があるのかな。こちらは整骨院の前にあった骨格模型。こういう骨格模型もアマゾンでも売っていたりするみたいです(→→→こちら)ポツンと立っている案内標識。吉田一里塚跡とありました。説明文によると、吉田の一里塚は明治に入りずいぶん早い時期に取り壊されてしまったようです。江戸から10番目の一里塚で、 日本橋から約40kmになります。昔は、これだけの距離を一日で歩いており、旅籠のある戸塚の町まで、大橋を 渡ってあともう一息といった場所です。もう一息で戸塚宿なんですね。そういえば、十返舎一九 の東海道中膝栗毛でも弥次さん、喜多さんも江戸を発ってから最初の一泊は戸塚宿でした(→→→こちら)。(東戸塚から戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東戸塚~戸塚)(その8) 吉田一里塚跡
2023年12月21日
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道沿いに、また東海道の歴史を示すような石碑をまた発見しました。石碑に刻まれた文字は、「江戸方見附跡」でした。この標柱の説明によると、見付とは、宿場の出入り口のことです。ここは戸塚宿の江戸側の出入り口です。旧東海道の宿場に設けられた見付は、 宿場を見渡しやすいような施設となっていることが多いようです。参勤交代の大名らを、宿役人がここで出迎えました。とありました。さらにその近くには、「横浜旧東海道戸塚宿周辺散策案内図」という案内板があり、旧東海道沿いにある史蹟などの位置とその説明が書かれていました。これを頼りに歩くとより深く戸塚宿のことがわかりそうですね。(東戸塚から戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東戸塚~戸塚)(その7) 戸塚宿江戸方見附跡
2023年12月20日
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五太夫橋にやってきました。案内板には、この橋の名称の由来が書かれていました。石巻(康慶)五太夫は小田原北条氏の家臣で豊臣秀吉の小田原攻めのとき北条方の使者でした。北条氏滅亡後、鎌倉郡中田村で謹慎していた五太夫が、天正18(1590)年江戸に入る徳川家康をこの辺りで出迎えたことから、五太夫橋の名がついたといいます。泉区中田町には五太夫の墓があります。この橋が五太夫橋です。旧東海道ではありますが、この区間は、先ほど歩いた不動坂付近から国道1号のバイパスができたので、不動坂から戸塚駅前のバスセンターまでの区間は、神奈川県道22号横浜伊勢原線になっています。五太夫橋は「ごだゆうはし」と読むのですね。五太夫橋を過ぎると大きな建物が見えてきました。有名なタイヤメーカーの施設のようですね。ちなみに、日本語では「チ」に点々でブリヂストンと表記するのが正式のようですね。(東戸塚から戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東戸塚~戸塚)(その6) 五太夫橋とブリヂストン
2023年12月19日
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さらに旧東海道沿いを歩いて行くと、古めかしい雰囲気のある赤レンガの建物がありました。鎌倉ハム倉庫という施設だそうです。今はもう使われてはいないみたいですね。鎌倉ハムのホームページによると(→→→こちら)イギリス人ウィリアム・カーティスは明治七年、神奈川県鎌倉郡川上村(現在の横浜市戸塚区)でハムの製造を始めました。そして横浜で主に外国人相手に製品を売っていました。とありました。それがこの倉庫につながるのでしょうね。ただ、「鎌倉ハム」と呼ばれるブランドは、複数の業者が製造しているようです。名古屋に本社のある鎌倉ハム株式会社(→→→こちら)。鎌倉市に本社のある鎌倉ハム富岡商会(→→→こちら)そして横浜市瀬谷区に本社のある鎌倉ハム村井商会(→→→こちら)など何社かありました。そんなわけで、ハムの製造方法はイギリス人ウィリアム・カーティスから複数の日本人に伝えられ、それぞれハムを製造したのでしょうか。ちなみに、この倉庫から旧東海道沿いに少し南に行った元舞橋の付近には、肉屋さんがやっているハム製造のお店もありました。この店も鎌倉ハムの流れを汲むのかもしれませんね?またこのあたり、ちょっとした商店街らしきものになっていたようで、貴金属店や、本屋さん(代本屋(よもとや)と読むようです)などがありました。日曜日だったのでシャッターがおりていますが、今でも営業していると思われます。(東戸塚から戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東戸塚~戸塚)(その5) 鎌倉ハム倉庫
2023年12月18日
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国道1号線の道路改良工事が行われています。さして、その傍らに旧東海道を示す案内標識がありました。不動坂、地図で見てみるとこの近くに柏尾追分不動尊(→→→こちら)があることに由来するのでしょうか。旧東海道沿いに歩いて行くと「史蹟への小径」という石碑がありました。史蹟への小径、どこへ向かっているんでしょうか。石碑の裏側には、護良親王首洗井戸とありました。護良親王(→→→こちら)というのは、建武の新政で、大活躍した皇子で、足利直義の手によって殺害された方ですね。鎌倉で殺害されたと思っていましたが、ここで殺されたのでしょうかね。この小径を行くとその史蹟があるのでしょうね。その小径を少し歩くと、大きな木がありました。この木、神宮拝領の桧とありました。伊勢神宮式年遷宮の折、伊勢神社から賜わった檜だそうです。さて、肝心の目的だった首洗井戸へは、ちょっと遠そうだったので、訪れないで、戸塚駅に向けて歩みを進めていきます。(東戸塚から戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東戸塚~戸塚)(その4) 史蹟への小径
2023年12月17日
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東戸塚から戸塚に向かって、国道1号沿いを歩いています。道路沿いにあったお寺です。外壁が金属だとちょっと、お寺らしくないですね。そして、有名なパン屋さんの工場がありました。こちらもなにやら工場ですね。この会社(→→→こちら)、化粧品のメーカーのグループ会社のようです。よく見かけるロゴですね。こちらは、一見ガソリンスタンドのようですが、水素ステーション(→→→こちら)だそうです。「水素」と「酸素」を化学反応させて、直接「電気」を発電する燃料電池、カーボンニュートラルの実現に向けて普及が必要な施設でしょうね。(東戸塚から戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東戸塚~戸塚)(その3) 街道沿いの工場
2023年12月16日
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こちらの環状2号線を渡る歩道橋が旧東海道に相当するみたいです。ここからはしばらく旧東海道を歩きました。この品濃坂の坂道を下っていきます。旧東海道という案内板が所々に建てられていて、歩きやすいです。この川は、ブロック積の護岸などされて形状は変わっているかもしれませんが、昔から東海道に沿って流れていたんでしょうね。国道1号、今の東海道との交差点に出ました。旧東海道は、国道1号を横切っていくようですね。国道1号沿いにあった石材店です。店の前には、東海道を歩く人のための石碑が建てられていました。旧東海道は、左側のコミニュティ・バスが走っている道路でした。旧東海道を歩くと、また「提灯立場」と書かれた案内の標柱が建てられていました。説明書きによると、立場とは宿場間が遠い場合に、また峠などの難所に休憩施設として茶屋などが設けられた場所です。立場が反映すると宿場と混同され、間の宿と呼ばれました。この立場は上柏尾町地内提灯にあり、江戸から道程におい品濃坂の急坂を下りきったところで、戸塚宿まではあと一息の場所となります。しかし、地名が「提灯」というのはなぜなんでしょうね。(東戸塚から戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東戸塚~戸塚)(その2) 旧東海道を歩きました
2023年12月15日
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駅間歩き、東戸塚から戸塚に向けて続けます。横須賀線に乗って東戸塚駅にやって来ました。東戸塚駅から直接、ペデストリアンデッキで駅前のショッピングセンターに行けるようですが。やっぱり、地べたを歩こうと思い、下の道を歩きます。駅前から少し歩くと交差点があり、交差点には品濃町の表示がありました。東戸塚という住所はなく、このあたりは神奈川県 横浜市 戸塚区 品濃町 という住所になるんですね。この交差点から東に向かって環状2号線方へ行くと、神社がありました。品濃白旗神社(→→→こちら)というそうです。鳥居の横には、神社の御由緒がありました。康元元年(1256年)創建といわれている神社で、白旗神社の白旗は、源平争乱の際の源氏の白旗に由来するもので、源氏の武将等が祀られ神社だそうです。ちなみに、ここ品濃白旗神社の主祭神は源義経になるそうです。その他、白旗神社には、源頼朝、源義家などが祀られているところもあるそうです。かなりな石段を登りますが、駅間歩きが始まったばかりで、これくらいはなんなく登れました。こちらが社殿でした。これからの道中の無事を祈らせてもらいました。環状2号線の方に向けて、ダラダラとして坂道が続きます。環状2号線を跨ぐ歩道橋の上に来ました。環状2号線なので、この道を進むと磯子、日野と横浜市街地を一周することになるんですね。しばらく行って右折すれば、次の目的地の戸塚駅に行けそうです。歩道橋を渡ったところに「品濃坂」と刻まれた道標がありました。この道標の先には旧東海道と書かれた案内板がありました。むかしの人はこの道を歩いて旅したんですね。またその道端には旧東海道を説明する案内板がありました。品濃坂、江戸を旅立った人にはその日の宿泊先である次の戸塚宿までの最後の坂道だったということですね。そういえば、東海道中膝栗毛の弥次さん、喜多さんも最初の一泊目は戸塚宿でしたね。(東戸塚から戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(東戸塚~戸塚)(その1) 白旗神社と品濃坂上
2023年12月14日
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休日にドライブで出かける時、朝食は外で食べることってよくあります。そういう時、最近はこの「すき家」のたまかけ朝食(290円税込み)が気に入っています。人気ブログランキングへ孤独のグルメ すき家の朝食
2023年12月13日
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伝通院前通りを歩いて行くと、この建物がありました。日本指圧専門学校(→→→こちら)だそうです。指圧というのは、日本独特の技法であって、あん摩・マッサージのように"もんだり""たたいたり"せず、手指や手掌で体表に「圧」を加える技法になります。「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律(昭和22年12月20日公布)」において、あん摩マッサージ指圧師免許もしくは医師免許(共に国家資格)がなければ指圧業として行う事は出来ないそうなので、こういう専門学校で勉強する必要があるんでしょうね。そして、指圧と言えば、この方。浪越徳治郎(→→→こちら)。「指圧の心は母ごころ、押せば命の泉湧く」というのがこの方の決めゼリフ。7歳の時、香川県から北海道留寿都村へ移住した徳冶郎の母マサはなれない旅の疲れと急激な生活環境の変化からか、到着直後から体中の痛みを訴え寝込んでしまったそうです。母の苦しみを見かねた徳治郎は「撫でる」、「擦る」など必死に看病しましたが、そのうちに、からだのある部分、特に固く凝り固まっている箇所を母指で押してほぐす事により、不思議と母の容態が良くなってくることに気付いたそうです。この母を思う子供が文字通り必死で「手当」をした結果が指圧という技法の起源になるそうです。多分、母親の病気は多発性関節リウマチだったと思われますが、以前は、関節リウマチに対する有効な薬はなく、現在でも、関節リウマチそのものを治すことはできませんが、薬によって関節リウマチの進行を抑えることはできます。また、破壊されて変形した関節の機能を回復させる手術という手段もありますが、「手当」の気持ちって大切ですね。ということで、伝通院にお参りさせてもらいました。寺号碑には「無量山 伝通院 寿経寺」と刻まれています。「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」と刻まれた石柱も建っています。くさいにおいのする野菜と、酒は、修行の妨げになるので、寺の中に持ち込んではならない。とは言われたのですが、買った持ってお弁当に餃子が入っているんですけど、まあいいか。山門をくぐります。「徳川家康公生母於大の方」という幟です。でも普通、「於大の方の墓所」くらいの説明はあるのでは、それとも住職さん松島菜々子ファンで、於大の方推しだったりして。広い境内でした。境内にあった物故指聖供養塔です。こちらは浪越徳次郎氏が寄贈した「指塚」だそうです。昭和63年(1988)に戦後2度目に再建された鉄筋コンクリート造りの本堂です。徳川家ゆかりのお寺だけに、徳川家だけが独占して使用を許された「葵の御紋(三つ葉葵)」を使ってますね。そしてこちらが於大の方の墓所です。こちらに於大の方(→→→こちら)の生涯についての説明がありました。(徳川家ゆかりの地散策コース)【つづく】人気ブログランキング徳川家ゆかり地を巡る散策(その6)伝通院に参拝
2023年12月12日
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本郷通りと春日通り交わる本郷三丁目の交差点です。そして、文京シビックセンターです。富坂下の交差点です。富坂を登って、伝通院前の交差点にやってきました。交差点を右折して、伝通院前通りに入ってくると、伝通院(→→→こちら)の山門が見えてきました。正式名称は、無量山 伝通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)。または小石川伝通院とも呼ばれます。慶長8年(1603年)に徳川家康は生母「於大の方」の遺骨をこの地に埋葬して堂宇(堂の建物)を建て、於大の方の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院とした。於大の方をはじめ千姫など徳川家ゆかりの女性の墓が数多くあるそうです。(徳川家ゆかりの地散策コース)【つづく】人気ブログランキング徳川家ゆかり地を巡る散策(その5)伝通院まで
2023年12月11日
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妻恋坂と清水坂の交わる清水坂下の交差点にあるこのビルは、辞書や教科書を作っている大修館書店(→→→こちら)という出版社です。古典か漢文かでこの出版社の教科書を高校生の時使っていましたが、今はここで出版しいるジーニアス英和辞典と和英辞典(→→→こちら)のお世話になっています。文法と語法、用法の説明が充実しているというので使っています。そんな勉強に役立つ出版社から清水坂を登っていくと、学問の神様を祀る湯島天神(→→→こちら)に到着です。天正18年(1590)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬したと伝わっています。天神様といえば、この撫で牛が欠かせませんね。天神様となった菅原道真は丑年生まれで、色々と縁が深いので牛の像が置かれているんだそうです(→→→こちら)。春日通に出ました。春日通の坂道を西の方角、本郷通りに向かって坂道を登って行きます。徳川家康の遺訓・名言として伝わる「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」(→→→こちら)、確かに江戸の町も坂道が多いですね。そして、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母である春日局(→→→こちら)の墓所のある麟祥院は春日通にあり、入り口のポケットパークには春日局の銅像があります。この春日局、今年の大河ドラマで春日局役を演じる寺島しのぶ(→→→こちら)さんというよりもやはり大原麗子(→→→こちら)さんの方が雰囲気かも。というのはこの銅像、大原麗子さんが主演を務めた平成元年のNHK大河ドラマ「春日局」を記念し、礫川公園に建てられたものを令和元年に麟祥院前のポケットパークに移設したものだからですね。(→→→こちら)(徳川家ゆかりの地散策コース)【つづく】人気ブログランキング徳川家ゆかり地を巡る散策(その4)湯島天神と麟祥院前の春日局
2023年12月10日
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神田川を渡れば、やはりここですね。神田明神として親しまれている江戸総鎮守神田神社(→→→こちら)です。天平2年(730)創建の神社で、御祭神は、縁結びの神様のだいこく様、商売繁昌の神様のえびす様、そして除災厄除の神様となっているまさかど様(平将門公)で、直接徳川家とゆかりがあるかというと、関係性は薄いかもしれませんが、神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内など江戸の108の町々の総氏神さまですから、やはり徳川家康の開いた江戸の町を守っているという意味では、徳川家ゆかりの神社として認められてもいいかもしれません。こちらの神殿には多くの人が並んで参拝されていました。多分、あまり知られてはいないかもしれませんが、御神殿の脇に建立されたこの石碑。神田明神下に住んでいた銭形平次を記念した石碑です。有志の作家と出版社が発起人となり、寛永通寶を形どって建立された石碑です。つまり、銭形平次でお金を儲けた人たちが感謝の気持ちを込めて建てたものなんですね。それからもう一つ、こちらも見逃せない。御神馬・神幸号(ごしんめ・みゆきごう)、通称・あかり(明)という小さな牝のポニーです。御神馬といっても、置物で代用したりしている神社も多いですが、生きている馬がいるのは、やはり江戸総鎮守の神田神社ならでしょうね。(徳川家ゆかりの地散策コース)【つづく】人気ブログランキング徳川家ゆかり地を巡る散策(その3)神田明神
2023年12月09日
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神田から本郷通を歩いて、靖国通りと交差する小川町交差点までやってきました。ここからは御茶ノ水駅にむけて緩やかな坂道が続きます。徳川家とは関係ないですが、日本ハリストス正教会(日本正教会)の中心となるニコライ堂(→→→こちら)です。本格的なビザンチン様式が特徴的ですね。本郷通りを挟んでニコライ堂の反対側あるこの坂道。幽霊坂(→→→こちら)と呼ばれる坂道です。乃木坂46とか櫻坂46、日向坂46、吉本坂46といったグループはありますが、幽霊坂46というアイドルグループはいませんね。神田川に架かる聖橋です。聖橋の上から見た神田川と東京メトロ丸の内線の神田川橋梁(→→→こちら)です。実はこの神田川のこの区間、仙台堀とも呼ばれることがあるようですが、第二代将軍徳川秀忠の時代に江戸の町の洪水対策として、徳川幕府に命じられて、仙台藩祖の伊達政宗が、現在の飯田橋駅近くの牛込橋付近から秋葉原駅近くの和泉橋までの本郷台地の開削を行ったことにより出来たものです(→→→こちら)。(徳川家ゆかりの地散策コース)【つづく】人気ブログランキング徳川家ゆかり地を巡る散策(その2)神田川
2023年12月08日
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今年のNHKの大河ドラマ「どうする家康」。なんとなく期待外れに感じている視聴者も多かったのでは。テレビでは、番組の最後に、ドラマで関係した場所を紹介していますが、それに倣って、MoMo太郎も東京に残る徳川家ゆかりの地を巡ってみました。ということでスタートは神田駅からです。神田駅、アース製薬本社前の副駅名がついているんですね。そういえば、ホームの発車メロディが「♪お口クチュクチュ、モンダミン」になっていましたが、あれってアース製薬の製品だったんですね。そして、この西口商店街を歩いてゆきます。商店街の途中にあった佐竹稲荷神社(→→→こちら)です。こちらは徳川家とは関係なく、佐竹稲荷神社は、当地に江戸屋敷を構えた秋田藩佐竹氏が、藩邸の鬼門除けのため、寛永12年(1635)、邸内社として創建された神社だそうです。外堀通りを鎌倉橋の近くまでやってきたところにあるこの小さな神社。御宿稲荷神社(おんじゅくいなりじんじゃ)(→→→こちら)という神社で、徳川家康とゆかりのある神社だそうです。境内にあった、御宿稲荷神社の由緒を記した石碑です。これによると、徳川家康が豊臣秀吉の命令により、領地を関東に移す際、宿をとった邸宅がこの武蔵国豊島郡神田村の地にあったとされ、後年、この邸宅に祀られていた祠(ほこら)を、家康足留めの記念として名付けたのが、この「御宿稲荷神社」の始まりになるそうです。お賽銭は、この郵便ポストみたいなものから入れるようですね。(徳川家ゆかりの地散策コース)【つづく】人気ブログランキング徳川家ゆかり地を巡る散策(その1)御宿稲荷神社
2023年12月07日
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この間、久しぶりに仙台出張があったので、仙台駅東口の「BiVi」という商業施設にある大衆食堂半田屋(→→→こちら)に行きました。この食堂ではセルフサービスで、「おかず」棚からお好みのおかずを選び、ご飯・汁物・ラーメン類・カレー類・丼ものをレジ前で注文、そしてレジで会計。食べ終わったらトレーと食器を洗い場前の窓口に持っていくという次第です。頂いたのはカツ丼(460円税込み)、ひじき煮(100円税込み)です。この半田屋さん、ホームページによれば、戦後まもない頃、「日本人にお腹いっぱい、ご飯を食べさせたい」との創業者の想いから、仙台駅前のジャンジャン横丁に昭和29年6月11日、「めしのはんだや」が誕生しました。ということで、「やすくておいしいものをお腹いっぱいに」というのがお店のモットーらしく、盛りがいいので、仙台に住んでいた時にはよく利用していました。また、一時期、茨城県のつくば研究学園都市にあって何度か利用しました。そのほか埼玉県越谷あたりにも出店していたようですが、両方とも今はなくなっていて、お店の数が減ってきているようですが、創業の地、仙台では続けていって欲しいです。人気ブログランキング孤独のグルメ 仙台でお勧めの店です
2023年12月06日
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東戸塚駅です。地域住民からの要望を受けて新設された請願駅であり、横須賀線のいわゆる「SM分離」(→→→こちら)に際して、昭和55年(1980)に開業したそうです。SM分離とは、東京駅 - 大船駅間で線路を共有していた横須賀線電車と湘南電車との系統別分離運転を指す呼称で、鶴見駅 - 東戸塚駅においては貨物列車専用の別線を新設して同区間の在来貨物線は旅客用に転用して、東戸塚駅 - 大船駅間に貨物専用線を在来線に併設線増したそうです。駅前には、東海道戸塚宿周辺散策案内図が設置されていました。駅前からは各方面にバスが出ているようです。東戸塚駅はこのエスカレーター、ないしはエレベーターを利用してビルの4階相当の高さまで登って行きます。駅舎の改札階まで登ったらこんな高いです。このベストリアンデッキを使って駅前の百貨店に行くことができます。ベストリアンデッキから地上のバスターミナルを見下ろしたところです。改札口です。乗降客は多くて混雑していました。ホームは盛土されて高くなったところにあるので改札階からは一階分降りるだけです。東戸塚駅に停車する系統は駅ナンバーリングのJO(横須賀線・総武線快速)とJS(湘南新宿ライン)のみで、東海道線の列車は停車しません。最初にやってきた、この湘南新宿ラインの列車に乗ると、新宿・大宮方面に行ってしまうので、これは見送って、次にやってきた、東京・千葉方面に行く横須賀線・総武線快速に乗って帰ります。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【了】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その15) 東戸塚駅
2023年12月05日
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品濃一里塚を越えて、旧東海道を外れ広い道に出ました。環状2号線(→→→こちら)というそうです。沿道には高層マンションが立ち並び、このあたりは横浜でも新興の住宅街なんでしょうかね。道路の案内標識を頼りに歩いていくと7、目的の東戸塚駅の標識が見えてきました。環状2号線から左折して、この緑濃い街路樹の坂道を下っていくと、東戸塚駅に出ました。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その14) 環状2号線
2023年12月04日
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坂道を登って行くと、またなにやら史跡を示す看板が建っていました。その手前に旧東海道、保土ヶ谷宿、戸塚宿と記された石碑もありました。こちらが説明板。「品濃一里塚」(→→→こちら)とありました。一里塚は、江戸の日本橋を目印として大きな道路(街道)の側に1里(約3.927キロメートル)毎に設置した塚(土盛り)である。多くは塚の上に榎や松を植えて、旅人の目印にしたものだそうです。説明文を書いてみました。江戸から数えて九番目の一里塚です。神奈川県内では、ほぼ完全な形で残る唯一の一里塚で、県の指定史跡となっています。旧東海道をはさんで道の両側に二つの塚があり、品濃側(西側)には昔大きな榎が植えられていたそうです。現在は品濃側(西側)平戸側(東側)共に、塚とその周辺が公園として整備されています。こちらの説明板にはもう少し詳しく色々と書かれていました。考えてみると、江戸日本橋から京都三条大橋までの距離は約492kmだそうです。それを一般的に、徒歩で13日から15日前後で歩いたそうですから、平均すると一日平均約33km歩くことになります。ということは、人の歩く速度は時速4kmくらいだそうですので、単純計算で1日に約8~10時間は歩くことになります。そうすると江戸から数えて九番目の一里塚になる品濃一里塚で江戸から約32kmの地点になるので、最初の一泊は保土ケ谷宿か次の戸塚宿のどちらかになるのでしょうかね。(→→→こちら)だから、江戸時代後期の戯作者、十返舎一九の代表作「東海道中膝栗毛」では、江戸を出発した弥次さん、喜多さんの一泊目は戸塚宿になっていたというわけですね(→→→こちら)。ちなみに江戸時代、手紙などを運んでいた飛脚は東海道を3~4日で結んでいたそうです。さて、道の両側に二つの塚があるということで、この説明板の向かい側も、なにやらありそうです。こちらも一里塚の痕跡のようですね。やはり説明する道標が建っていました。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その13) 品濃一里塚
2023年12月03日
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焼餅坂を下っていくと橋がありました。橋の名称は「品平橋(しなひらはし)」。かっての品濃村と平戸村(→→→こちら)の境にあったからこのような名称になったのでしょうか。川が流れているということは、ここが谷底。そして、この後はまた登り坂が続きます。細かいアップダウンの続く旧東海道です。途中に大きなアンテナのあるお宅がありました。諸外国の電波を傍受しているのでしょうか。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その12) 品平橋
2023年12月02日
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半分植込みの木に隠れて見えにくいですが、「右 環状二号、左 旧東海道」と刻まれている道標があり、とりあえず次の目的地の東戸塚駅に行くには、旧東海道がいいだろうということで、旧東海道を歩くことにします。この道が旧東海道になります。下り坂になっているのでやや歩き易いかな。途中にちょっとした公園があり、小さな石碑がありました。この坂道は、「焼餅坂(→→→こちら)」と呼ばれているそうです。旧東海道を戸塚方面に下るこの坂は「焼餅坂(別名:牡丹餅坂)」と呼ばれています。武蔵国と相模国の国境にあたる権太坂と焼餅坂は、昔の旅人にとって日本橋を出発してから最初の難所でした。このあたりには、一服する旅人を目当てにした茶屋が並んでおり、坂の傍らで焼餅を売っていた事がこの坂の名の由来だと言われています。さすがに、今は焼餅を売っているところは見当たりませんね。さらに下って行くと、また説明板がありました。さらに向こう側には木板の標識もありました。木板の文字は掠れていましたが、辛うじて旧東海道(焼餅坂)と書いてあるのが読めました。こちらの説明板には、焼餅坂は当時の品濃村と平戸村の境にあり、一町半(約百六十m)の坂道でした。坂の傍らの茶店で、焼餅を商っていたので焼餅坂と名付けられたといいます。別名牡丹餅坂(ぼたもちざか)とも呼ばれています。戸塚を描いた浮世絵には山坂や焼餅の絵がしばしば登場します。との説明がありました。たしかに、こちらの浮世絵には、「名物やきもち」を売る茶店の様子と、さらに旅人や馬が行き交う街道の松並木ごしに、雪をいただいた富士山が見える風景が得かがれていました。江戸時代には、ここから富士山の眺望が楽しめたんですね。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その11) 焼餅坂
2023年12月01日
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境木立場跡には、その他にも旧東海道に関連する史跡がありました。それがこちらの説明板にある境木地蔵尊(→→→こちら)です。こちらが境木地蔵尊へ登る石段です。この石碑には境木地蔵の由来が記されていました。ざっと、言えば、相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕にたち「俺は江戸の方へ行きたい運んでくれたらこの海を守ろう」と告たので漁師達が江戸へ運ぶ途中、この境木で動かなくなったため、村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところ、それからお参りに来る人も出て「ぼたもち」が名物のお茶屋さんもでき、たいへん村が繁盛したということです。ということで、この石段を登ってお参りに。寺号碑には、「一心山 良翁院 境木延命地蔵尊」とありました。ちなみに、良翁院は大正12年の関東大地震でなくなってしまったそうで、この地蔵尊だけでが残っているのでした。こちらの手水鉢、ちょっと変わっていますね。こちらが地蔵堂。MoMo太郎も昔の旅人に習って、道中の安全をお願いしました。地蔵堂の扁額には亡くなった良翁院の文字が記されていました。境木地蔵層の前の広場にあった「武相国境之木」というモニュメントです。文字が掠れて読めませんが、「相模国戸塚宿一里九丁」と記されています。一里九丁とは一里は約4km、一丁は約100mですから、戸塚宿までは約5kmはあるってことですね。そもそも、この土地が「境木」と呼ばれる由来が記されていました。ここが武蔵国と相模国の国境で、それを示した榜示杭と呼ばれる木杭があった。あるいはその境を示すケヤキの木があったことが地名の由来みたいですね。保土ケ谷は武蔵国になるわけですね。モニュメントの根元には、武蔵国と相模国の地図と、さらそれぞれの方角にある地名が表示されていました。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その10) 境木地蔵尊と武相国境モニュメント
2023年11月30日
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旧東海道の権太坂は、あまりの険しさに江戸から西へ旅行く最初の難所として知られ、東海道中、箱根につぐ難所とされていたそうです。その権太坂を登り切ったところにある地区が「境木(さかいぎ)」です。このあたりの中心街はちょっとした商店街になっていました。その中でもこの和菓子屋さん「境木おじぞうさんもなか」(→→→こちら)という商品を売っていました。「おじぞうさん」というのは、境木のシンボル的史跡、境木地蔵尊(→→→こちら)にちなんだ最中だそうです。さらに旧東海道を進みます。バスも通る道ですが、結構、道幅が狭いですね。大きな樹の下に説明板がふりました。境木立場跡とありました。この説明によると、「立場とは宿場間に設けられた馬子や人足の休憩場。ここまでの権太坂、そしてここからの焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、富士の眺望も良いこの立場は旅人の格好の休息地として牡丹餅を出す茶屋も出され、大層にぎわった。」と書かれていました。また「横浜旧東海道戸塚淑周辺散策案内図」という案内図もありこの先の戸塚宿までの旧跡が紹介されていました。このあたりの住宅街、かなり急な坂道がありますね。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その9) 境木(さかいぎ)立場跡
2023年11月29日
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権太坂陸橋を過ぎても、まだまだ権太坂は続きます。坂の途中に権太坂と刻まれた石碑と説明板がありました。権太坂の石碑です。側面にひらがなで「ごんたさか」と刻まれているので、子供にも優しい石碑です。横浜市教育委員会の設置した権太坂の説明です。権太坂の名前の由来は、「旅人が耳の遠い老人に坂の名を尋ねたところ、自分の名を聞かれたと思った老人が「権太」と答えた」のが由来であるとされています。その他にも、坂の改修工事を手がけた藤田権左衛門の名にちなんだ「権左坂」が「権太坂」になったという説もあるそうです。史実では、万治2年(1659)に代官藤原の指図により、藤田権左衛門がこの坂道の改修を行ったそうです。しかし、まだまだ坂道は続きます。やっとこのあたりが頂上かと思ったら、少し下り坂になって、油断したら、またちょっと登り坂になっています。しかし、このあたりに住んでいる人は、みんな電動自転車使っているのかな。ようやく、このバスの転回場があり。この標識で、ようやく権太坂が終わったと確信できました。折角、バスも停まっているので、ここからバスで帰ろうかと思いましたが、やっぱりまだ歩き続けることにしました。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その8) まだまだ続く権太坂です
2023年11月28日
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元町橋を過ぎると少し道が登り坂になってきました。そして、この町内会の掲示板の後ろに何か大きな穴がありました。何かしらと思って覗いてみると、これは一等水準点(→→→こちら)でした。国土地理院の管理する水準点は、全国の主要国道等に沿って約2キロメートル毎に設置しており、各地点の高さを測るための基準として利用されているそうですが、その中でも、これは基準水準点となるもので国土地理院のホームページによると、基準水準点は、特に地盤が強固な場所に設置されることが多く、柱石だけでなく、地中にも硬石標とクローム金属標があります。基準水準点は100~150キロメートル間隔に設置しており、全国に約80点あります。柱石の長さは1メートルになります。と記されていました。そして、いよいよ権太坂(→→→こちら)に差し掛かります。こちらが旧東海道の権太坂になります。権太坂といえば、箱根駅伝では各校のエースが顔をそろえる「花の2区」の中でも難所として知られていますが、駅伝で走るのはこちらの国道1号の方です。坂の途中に見えるのは自動車専用道路の保土ヶ谷バイパスの高架橋です。ということで、旧東海道の権太坂を登って行くと、坂の途中に小さな鳥居と祠がありますが、ここに、「旧東海道権太坂改修記念碑」が建立されていました。権太坂って道路の名前だけではなく、住所でもあったんですね。やがて、こんな橋に出ました。これは保土ヶ谷バイパスを跨ぐ陸橋です。名称も「権太坂陸橋」となっていました。(保土ケ谷から東戸塚へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 東海道線(保土ケ谷~東戸塚)(その7) いよいよ権太坂です
2023年11月27日
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