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そして、隅田川に架かる清洲橋(→→→こちら)にやって来ました。「清州橋」という名前は、深川・清澄町と、日本橋・中州町を結ぶ橋であることから、それぞれの町名から1文字ずつとってつけられたそうです。2007年6月18日、清州橋は隅田川にかかる永代橋、勝鬨橋(かちどきばし)と共に、国の重要文化財に指定されています。関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋であり、「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、上に凸なるアーチ形状の永代橋に対して、放物線が上に開いて凹となる優美なデザインの吊り橋です。橋の下流側を見ると、首都高速の通る隅田川大橋にさえぎられて、永代橋のアーチがキレイに見えません。上流側を見れば、東京スカイツリーをほぼ正面に見ることができます。橋の細部を見ると、優美な景観と異なり、リベットが打ち込まれた武骨な主塔。橋桁を支えるメカニカルな雰囲気をのハンガーロープなどが、いかにも土木構造物という主張をしているみたいです。ちなみに、橋の呼び名は「きよすはし」と濁らずに読んで下さい。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その11) 清洲橋
2023年06月30日
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浜町緑道を南東方面に歩き清洲橋近くに来ました。ここには、道路下を横断する地下道がありした。地下道の壁面には、タイルで花菖蒲が描かれていました。「あやめ橋地下道」という名称にふさわしいですね。この地下道は、地上部が首都高速の浜町インターチェンジの出入口にあたるため、歩行者用に設置されたようです。ちなみに、高速道路の真下には、東京オリンピック前まで箱崎川が流れていて、地下道のある位置に同川を渡る「菖蒲橋」が架かっていた歴史の名残ですね。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その10) あやめ橋地下道
2023年06月29日
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水天宮から人形町に向かって歩いていくと、ありました。人形町 からくり櫓。平成21年(2009)11月に完成した、人形町通りを挟んで建つ2基のシンボル時計台です。そして、甘酒横丁です。明治初期に、通りの入り口近くに「尾張屋」という甘酒屋があったことから名づけられたと言われています。甘酒横丁は、西向きの一方通行。商店や飲食店が建ち並ぶ通りです。このお店の二階、ちょっと変わった看板が。「久松料理飲食業組合書道教室」とありました。久松料理飲食業組合(→→→こちら)とは飲食業を営む方々の組合ですが、この組合の事務所を書道教室に貸しているんでしょうか。甘酒横丁が旧浜町川である浜町緑道と交差するところにある歌舞伎の演目『勧進帳』の弁慶像があります。このあたり人形町界隈には、中村座や市村座がかつて所在し、江戸歌舞伎発祥の地の一つとされていたことに由来して設置されているそうです。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その9) 人形町「甘酒横丁」
2023年06月28日
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日本橋小網町から新大橋通りを歩いて、人形町通りと交差する水天宮前交差点にやってきました。名前の通り水天宮が見えてきました。せっかく来たのですからお参りをさせてもらいました。安産子授けの神様ですから、赤ちゃんを連れた参拝客の方も多いです。しかも最近は出張カメラマンを同行して写真撮影を行う方が多いみたいですね。やっぱりSNSのインスタ映えを狙っているご夫婦も多いんでしょうか。こちらが本殿です。3年間の建て替え工事が行われ、平成28年に竣工し、免震構造を備えた安全な神社へと生まれ変わったそうです。この近辺にお住まいの方は、もし大地震の際はこちらに避難できるので安心かも。御存じの方も多いとおもいますが、水天宮の発祥は九州の久留米藩(現在の福岡県久留米市)です。9代目久留米藩主の有馬頼徳が、文政元年(1818)、自家で祀っていた水天宮を三田赤羽の上屋敷に分祀したのが、東京の水天宮の始まりです。そして、久留米藩有馬家上屋敷内に祀られていた水天宮は、人々の信仰が篤く、塀越しにお賽銭を投げる人が後を絶ちませんでした。時の藩主は毎月5日に限り、お屋敷の門を開き、人々のお参りを許しました。そのことから有馬家と「情け深い」ことを掛けて、「情けありまの水天宮」という洒落が江戸っ子たちの流行語となったそうです。ということで、こちらが久留米にある水天宮の本殿です。ちなみに、中央競馬の一年を締めくくるレース馬の「有馬記念」(→→→こちら)は、日本中央競馬会理事長で旧久留米藩主・有馬家の第15代当主で伯爵あった有馬頼寧氏を記念して開催されるものですが、有馬記念にも「情けありまの水天宮」として競馬ファンに情けをかけて年末のビッグプレゼントを出していただけるといいのですが。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その8) 情けありまの水天宮
2023年06月27日
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東京証券取引所のある日本橋兜町と日本橋小網町をつなぐ橋です。兜だけでは、昔の武士も戦えないので、やっぱり必要なのは鎧です。ということで、橋の名前が鎧橋(→→→こちら)です。この鎧橋、やっぱり「よろいはし」と濁音は使わないようですね。中央区が設置した説明板によると、どうやら、橋が架かる以前は、渡船「鎧の渡し」が両岸を結んでいたようですね。説明板の最後にある和朝亭国盛の狂歌(社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込んだ短歌)、「縁日に 買うてぞ帰る おもだかも 逆さにうつる 鎧のわたし」の意味は、近くの縁日で買った「おもだか(澤瀉・面高)」(クワイに似た水草ですが、おそらくここでは漢方薬の利尿剤にする薬草のオモダカだと思われます)が水面に写り、鎧の威(おどし)の沢瀉糸威(→→→こちら)のようだったという意味なのでしょうか。そして、こちらの鎧橋を渡ります。高速道路の高架下を流れる日本橋川です。日本橋小網町にあったトレーニングジム(→→→こちら)。手軽にトレーニングできるらしいので、日本橋で働く忙しいビジネスマンやOLの方には人気なのかな。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その7) 鎧(よろい)橋
2023年06月26日
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こちらの兜神社は、1878年(明治11年)に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるにあたり、取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として造営されたそうです。こちらが拝殿となっています。御祭神は、主が商業の守護神の「倉稲魂命(うかのみたまのみこと=御稲荷さんの別名)」で、合祀されている神様は、大国主命(大黒様)と事代主命(恵比寿様)です。境内に兜岩と呼ばれる岩があります。この岩には次のような幾つかの由来があるのですが、いずれも確たる裏付けがあるわけではないようです。後三年の役(西暦1080年代)にて、源義家が奥州から凱旋してきたとき、東夷鎮定の祈願を兼ねて記念のため、兜を楓川の辺の土中に埋めて塚を作ったそうです。これを当時の人達は兜塚と呼んだのですが、いつしか兜岩となったとのことです。前九年の役(西暦1050年代)にて、源義家が奥州征伐に向かう際、岩に兜をかけて戦勝を祈願したことから、この岩を兜岩と呼びようになったとのことです。承平の乱(西暦935~940年)にて、藤原秀郷が平将門の首を打って京都へ運ぶ際、その平将門の打首に兜を沿えていたのですが、この地で罪滅ぼしにと兜だけ土中に埋め塚を作って供養したそうです。この塚を当時は兜山と呼んだそうですが、そこに兜神社が建ち、いつしか兜岩だけが残ったとのことです。ちなみに、兜岩手前の「兜岩」と文字が刻まれた岩か、それとも奥の大きな岩かどちらかはよくわかりませんでした。この兜神社の近くにあるのはこの東京証券取引所(→→→こちら)です。東京証券取引所の前のこの通り。明治通り、昭和通りに比べると馴染みがないでしょうが「平成通り」という名称です。平成元年(1989)に中央区が愛称を定めたそうです。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その6) 兜神社と平成通り
2023年06月25日
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日本橋から昭和通りまで歩いてきました。右折したかったら側道の方を通らないといけないので、慣れないとこの昭和通り自動車では走りにくいです。この昭和通りに面して二つのビルがあります。右側が日本橋郵便局。そして左側が日本橋ダイヤビルディングです。日本橋郵便局の前にある郵便ポストです。多分、地球を意味していると思われる球体を多くの人が支えている装飾があって、なかなか面白いですね。この日本橋郵便局には、「郵便発祥の地」のプレートが埋め込まれていました。郵便発祥の地ここは、明治4年3月1日(1871年4月20日)わが国に新式郵便制度が発足したとき駅通司と東京の郵便役所が置かれたところですこちらのビルは、地上5階までの、石造りでいかにもクラシカルなデザインの部分の古いビルの中に新しい18階建ての高層ビルが建っているちょっと変わったビルです。このビルの重厚な鋼鉄製ドアの横には、銘板が埋め込まれています。日本橋ダイヤビルディング(→→→こちら)という三菱倉庫の持ち物です。こちらのビルは、日本橋ダイヤビルディング(旧三菱倉庫江戸橋ビル)として東京都選定歴史的建造物(→→→こちら)であると同時に経済産業省の近代化産業遺産にも選ばれています。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その5)日本橋郵便局と日本橋ダイヤビルディング
2023年06月24日
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こちらは、東京の日本橋の南側西方の袂にある日本橋の由来が記された「日本橋由来の碑」です。こちらは、中央区教育委員会の設置した国の重要文化財「日本橋」に関する説明板です。日本橋由来の碑には、かっての日本橋の風景が描かれた広重の絵、その下に由来が刻まれています。こちらはカタカナと漢字で日本橋の由来が記されています(→→→こちら)。日本橋については、Microsoft BingのAIに解説してもらいました。日本橋は、東京都中央区にある橋梁で、日本の国道1号の起点となっています。江戸時代には、五街道の起点として栄えた歴史ある橋で、現在の橋は1911年に完成した石造りのアーチ橋です。しかし、1964年に首都高速道路が上を通るようになり、その景観は大きく変わりました。現在では、首都高速道路の撤去や日本橋の再生などが議論されています。確かにAIの説明通り、石造りのアーチ橋になっています。主に使われているのは、地下深部で形成された深成岩の中の一種である花崗岩(→→→こちら)です。花崗岩は産地によって、色や材質が微妙に違うため、全国の花崗岩を橋のそれぞれの部分ごとに使い分けています。橋脚と橋台は山口県周南市にある黒髪島の花崗岩。橋の側面は茨城県桜川市にある加波山で採掘された真壁石。アーチ部分と道路の表面は同じ茨城県笠間市の稲田で産出された稲田石。高欄部は、岡山県笠岡市の北木島の花崗岩が使われています。また、内部は、最も荷重の掛かる両端がコンクリートで、さほど荷重の掛からない中央部分が煉瓦を中詰めに使用しています。また、戦前の道路法では、各市町村に道路の始点となる道路元標の設置を義務付けていました。東京市は江戸時代を踏襲して日本橋を道路元標として、橋の中央部に「日本国道路元標」が埋めこまれています。現行の道路法では道路元標に関する規定はありませんが、今も日本橋の中央帯には「道路元標」が埋め込まれています。下の写真が、「日本国道路元標」です。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その4)日本橋
2023年06月23日
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日本橋川に沿って、日本橋に向かって歩いて行きました。日本橋川には多くの橋が架かっていて、こちらは外堀通りと交差する日本橋川に架けられている一石橋です。一石橋の名前の由来としては、「北橋詰め近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けた」という話が伝わっているそうです。橋の袂に、一石橋の歴史についての説明板がありました。かいつまんで言うと、「この橋は、寛永年間(1624~1647)、又は、それ以前から存在したといわれているようです。また、木造だった一石橋は、大正11年(1922)に鉄骨コンクリート造(花崗岩張り)のモダンな橋に改架され、親柱四基をすえた白亜の橋へ。その後、関東大震災にも落橋せず、交通上の重要な橋として使われていました。さらに、一石橋の上流側の半分は昭和48年(1973)にスチール製の桁橋に架け替えられ、平成11年(1999)には下流側の半分の架け替えが行われ、現在に至っているそうです。」下流に向かって歩いて行くと、さらにもう一本の橋がありました。鋼製の橋桁で、結構、新しい感じです。この橋は、日本橋から一石橋までの日本橋川右岸地域が、西河岸町という地名であったことから”西河岸橋”と名付けられたものです。橋の袂に設置された説明板では、着工が大正13年(1924年)12月、竣工が大正14年(1925年)8月となっていて、平成2年度に一度修復されたようですが、結構ベテランの橋なんですね。西河岸橋から川沿いの路地を歩いて日本橋に向かう途中、訪れた時期がちょぅど神田祭の頃だったせいでしょうか、祭礼用の提灯を飾ったお店がありました。そして、日本(二ホン)橋に到着です。大阪にあるのは日本(ニッポン)橋と呼ぶんだそうですね。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その3)日本橋川に架かる橋結構
2023年06月22日
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「近代東京の街並みと江戸情緒を愉しむ」ということで、こちらの常盤橋門跡にやって来ました。常盤橋門跡は寛永6年(1629)に奥羽の大名によって築かれた江戸城外郭門で、石垣を方形にめぐらせた「枡形門」と呼ばれる江戸城防御のための門の一つです。この門は奥州道へと通じており、田安門(上州道)・神田橋門(芝崎口)・半蔵門(甲州道)・外桜田門(小田原口・旧東海道)などと共に江戸城と街道を結ぶ要衝として「江戸五口」に数えられます。将軍家や水戸徳川家も利用する重要な門だったそうです。こちらが常磐(ときわ)橋になります。この橋は、東日本大震災で大きな被害を受け、長い間、修復工事を行っていましたが、令和3年(2021)5月から通行できるようになりました。復元に当たっては、世絵、古写真、資料などを参考にしたそうです。ということで、八角形の大理石の親柱と、唐草意匠の手すり柵は往時のままということです。そして、路面には当時いち早く取り入れられた「歩車分離」(人は端、馬車と人力車は中央)が再現されているそうです。ちなみにこちらは橋を渡って行くと、日本橋川の下流にも常盤(ときわ)橋があります。こちらの常盤橋は、関東大震災後の復興計画で建設された道路橋になります。磐と盤の使い分け要注意ですね。常磐橋を渡ると見えてくるこの古い西洋式の建築物が、日本銀行(→→→こちら)本店です。江戸時代にはここに金貨を製造する「金座」があったそうです。こちらが常盤橋です。ちゃんと「常盤橋」と書かれていますが、反対側の親柱には「ときわはし」と記されていて、日本橋川の水は濁って見えるけど、橋の名前は濁らないようですね。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その2)常盤橋門跡と常盤橋
2023年06月21日
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JR東日本の駅からハイキング「近代東京の街並みと江戸情緒を愉しむ」のコースを5月20日に歩いてきた報告です。出発はここ東京駅の丸の内側からスタートです。永代橋通りを通って八重洲側に出ました。このあたりも高層ビルが新しく建っていますね。こんな大きなビルが必要と言うのは、東京ってオフィスが不足しているんですね。常盤橋(→→→こちら)と常盤橋公園の方へ回ってみました。ここにあるのは新一万円札の肖像になる渋沢栄一氏(→→→こちら)の銅像です。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その1)永代橋通り
2023年06月20日
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イオンモール東久留米のフードコートで食べた、中野に本店のある「青葉」中華そば(830円税込み)です。具はシンプルに、なると巻、メンマ、焼き海苔、そして、豚肉を煮ているだけで焼いていないのに、焼き豚と呼んでいるチャーシューだけ。スープは、東京ラーメンと九州ラーメンをブレンドした「ダブルスープ」と呼ばれている。魚系(かつお節、さば節、煮干し)和風スープと、動物系(豚骨、トリガラ)スープから脂を分離したものをあわせた醤油味のスープだそうですが、なんとなく魚系のエグ味みたいなものが残っていて、最初の一口はちょっと・・・、慣れないです。麺はかん水使い過ぎで固いんじゃないですか。と思いました。あくまで個人の感想ですし、フードコートのお店と本店とはやっぱり調理のレベルが違うかもしれません。しかし、手軽に買い物ついでに食べる分には不満はありません。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 青葉の中華そば
2023年06月19日
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明治通り沿いを走る都電荒川線(東京さくらトラム)です。明治通りと交差する神田川です。橋の名前は高戸橋、名前の由来は、おそらく旧町名の豊島区「高田」と新宿区「戸塚」の両町名を合成したものでしょうね。この橋の上流で、左側に見える井の頭池から流れてくる神田川とその神田川が新宿区下落合一丁目の新堀橋付近で分流されている高田馬場分水路が合流しています。神田川高田馬場分水路には東京都杉並区の妙正寺公園内の妙正寺池から流れてくる妙正寺が合流しています。合流地点に架かる橋は新目白通りの高田橋です。また、神田川高田馬場分水路は新目白通り地下を流れています。明治通りを南の新宿方面に歩いて、早稲田通りとの交差点を右折して、早稲田通りを歩いて西に向かうと、高田馬場駅に到着しました。ここから電車に乗って帰りました。いいでいったん、文京区散策は中断させてもらい、また時期をみて文京区の紹介をさせてもらいます。【とりあえず、了】 人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(番外編その3) 高田馬場に到着です
2023年06月18日
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神田川沿いを高田馬場方面に向かって歩いています。都電の早稲田停留所の次の面影橋停留所のところで、神田川に架かる橋です。その名の通り「面影橋」(→→→こちら)です。面影橋といロマンチックの名前の由来をMicrosoft BingのAIに尋ねてみると、面影橋は、東京都を流れる神田川に架かる橋で、面影橋停留場のそばにあります。この橋は、古くから「於戸姫(おとひめ)」という美女の伝説で知られています。伝説によると、於戸姫は戦国時代に落ち武者と暮らしていたが、ある男に誘拐されて失神し、通りがかった杉山三郎左衛門という男に助けられました。しかし、杉山三郎左衛門の友人が於戸姫の美しさに惚れて杉山三郎左衛門を殺害しようとしたため、於戸姫はその友人を刺し殺しました。そして、自分の美しさを恨んで髪を切り落とし、神田川に身を投げたというのです2。村人たちはその娘の死を哀れみ、橋からその面影を偲んだことから面影橋の名前がついたと言われています。ということでした。なんか悲しい物語がある橋ですね。その面影橋のそばあった、「山吹之里」(→→→こちら)という石碑です。この石碑は1686年に建立された供養塔を転用したもので、半跏思惟像(はんかしみぞう)と呼ばれる仏像が彫られています。半跏思惟像とは、片足を曲げて座り、右手で頬杖をつきながら思索する姿の仏像で、太田道灌が学問に励む姿を表していると言われてい.るそうです。豊島区教育委員会の山吹の里の碑についての解説もありました。解説文の引用です。 新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は「山吹の里」といわれています。 これは、太田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日、「七重八重 花は咲けども 山吹の み(実)の(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、『和漢三才図会』(正徳2・1712年)などの文献から、江戸時代中期の18世紀前半には成立していたようです。 「山吹の里」の場所については、ここ以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町、などとする説があって定かではありません。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は、昭和63年(1988年)の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や鎌倉街道伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝地であったことは注目されます。 この碑は、神田川の改修工事が行なわれる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面をよくみると、「山吹之里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享3年(1636年)に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。豊島区教育委員会【つづく】人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(番外編その2) 面影橋と山吹の里
2023年06月17日
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神田川沿いを歩いて高田馬場の方へ向かって歩くと、大きなお屋敷の門の横に看板がありました。東京染ものがたり博物館(→→→こちら)という施設でした。ここでは、着物の染物体験(有料)や着物文化の案内をしていまるそうです。また、着物の染色で作った小物雑貨(ストール・ネクタイ・バック等)をミュージアムショップで販売しているそうです。【つづく】 人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(番外編その1) 東京染ものがたり博物館
2023年06月16日
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。水神社から神田川沿いに上流を目指して歩くと、ここ文京区立肥後細川庭園(→→→こちら)に着きました。MoMo太郎日記では既に、2023年2月4日(→→→こちら)にこちらを訪れた時の紹介をしていますので、今回が2度目の訪問になります。細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にしているので、江戸時代の大名屋敷の回遊式泉水庭園の雰囲気を現在でも楽しむことが出来きます。ということで、肥後熊本54万石の細川家の殿様になった気分で園内を散策してみました。しかし、これだけの庭園を持っていたとすれば、54万石の大名って結構なお金持ちだったんですね。肥後細川庭園を後にして神田川沿いを高田馬場方面に向かって歩いてゆきます。歩いた時期は2月中ごろ、まだまだ桜には早い時期でした。そして、文京区から新宿区に入ってきました。とりあえず、ここで文京区散策ではなくなるのですが、高田馬場までに見つけたものの紹介は続ける予定です。【つづく】文京区散策(その23) 肥後細川庭園
2023年06月15日
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。胸突坂の下りきると神田川になります。このあたり桜の並木になっていて、季節には華やかな感じになります。二本の大きな銀杏の木がある水神社(→→→こちら)がありました。石造りの鳥居は新しい感じです。鳥居の横のこの看板によると、平成16年12月5日に東京地方を襲った風速40.2mの大風により、銀杏の枝が折れ、鳥居の笠木を破損したことから、地元の人たちが鳥居を再建し、令和2年に完成したそうです。石段を登って社殿にお参りしました。創建の年代は明かでないそうですが、祭神は、速秋津彦命・速秋津姫命・応神天皇日本最古の神田上水の取水口がこのあたりにあったことから、その守り神として奉られているそうです。水神さまが江戸、そして東京の町の安泰を守っておられるのですね。【つづく】文京区散策(その22) 水神社
2023年06月14日
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。永青文庫からこの急な胸突坂と呼ばれる坂道を下って神田川に向かいます。この坂の途中にあるのが、関口芭蕉庵(→→→こちら)です。MoMo太郎の大好きな無料で見学ができる施設でした。中に入ると関口芭蕉庵の案内図があります。関口芭蕉庵は、江戸時代を代表する俳人松尾芭蕉(1644~1694)が、2度目の江戸入りの後、1677年から3年間この地に住んでいた住居跡になるそうです。池などもあって、なかなか趣のあるところに住んでいたんですかね。もともと、芭蕉の旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれにたずさわり、工事現場か水番屋に住んだといわれているそうで、後に芭蕉を慕う人々により「龍隠庵」という家を建てらたのが現在の芭蕉庵につながそうです。ということで、最初から、こんな広い庭付き一戸建てに住んでいたのではないんでしょうね。それにしても、芭蕉、本業は工事監督で、俳諧は趣味だったんですかね。確かに俳句で食べていくのは大変だったかも。中に入ってみると、木々が多くて都会の中とは思えない雰囲気です。こちらが瓢箪池と呼ばれる園内にある池です。さすが「名月や池をめぐりて夜もすがら」と詠んだ芭蕉の住まいですから池は必須アイテムというところでしょうか。入園無料でしたが、この庭園の維持費は誰が負担しているんでしょうか。夏井いつきさんのような俳句を職業としている人達の「日本俳人協会」みたいな団体があって、その団体が負担しているのかな。瓢箪池の畔に建つ石碑。「古池や蛙飛び込む水の音」の句碑だそうです。こちらの大きな石碑は、范石湖の詩碑だそうです。板に書かれた説明板には、「范石湖の詩碑 范石湖の碑を石摺により再刻せるもの。田中光顕氏之を建つ。明治22年(1889) 」とありました。范石湖とは、范 成大という中国南宋の政治家・詩人だそうで、石湖居士と号したことから范石湖とも呼ばれているのだとか(→→→こちら)。【つづく】 人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(その21) 関口芭蕉庵
2023年06月13日
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。文京区目白台に行けば、一度は訪れてみたいところはここ永青文庫(→→→こちら)です。旧熊本藩主細川家伝来の美術品・歴史資料、16代当主細川護立の蒐集品などを収蔵展示研究している施設です。細川家は室町幕府三管領の一つとして武門の誉高い家柄で、現在の細川家は藤孝(幽斎)を初代として戦国時代に始まりまる家柄ですね。「永青」とは、初代の細川藤孝の養家の始祖細川頼有以後8代の菩提寺である京都建仁寺塔頭永源庵の「永」と藤孝の居城青龍寺城の「青」の二字をとって16代目細川護立公が名付けたものです。文京区教育委員会の設置した説明板もありました。これによると、江戸時代の熊本54万石細川家の江戸下屋敷跡にこの施設があるんですね。この建物が展示館になっているんですね。入場料は大人1,000円ということなので入場は遠慮させてもらいました。【つづく】人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(その20) 永青文庫
2023年06月12日
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。椿山荘から目白通り目白の方へ向かって歩くと、この建物がありました。講談社野間記念館(→→→こちら)です。今のところ建て替えのため休館中ですが、講談社初代社長野間清治氏が収集した「野間コレクション」と称される美術品を中心に展示しているほか、講談社の出版事業にかかわる貴重な出版文化遺産も数多く展示されているそうです。文京区の関口と音羽のあたりは、講談社を中心としたグループ各社の光文社、キングレコード、講談社ビーシー等が立ち並んでいるんですね。目白通りから神田川に向かって下っていく坂を歩いて行くと、この建物があります。こちらは、以前このブログ(→→→こちら)でも紹介した男子の大学生・大学院生のための学生寮「和敬塾」(→→→こちら)の東門になります。【つづく】人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(その19) 野間記念館と和敬塾
2023年06月11日
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最近のニュースでは、「同性同士の結婚が認められないのは憲法に違反する」という判決が出たそうです。「自分の生きづらさは間違っていなかった」同性婚集団訴訟“最後の判決”は違憲状態(→→→こちら)法律の世界では、ニュートンの第1法則(慣性の法則)、ニュートンの第2法則(ニュートンの運動方程式)、そしてニュートンの第3法則(作用・反作用の法則)に従って、世の中の物体は動くという物理学の世界と同じで、法則である憲法に反するようなことがあってはいけないらしい。確かに、ある法律では、県知事のことを「地方長官」と呼んで、警察のことを「政府公認暴力団」と呼んでいると、法律同士が矛盾してはやりにくいのでしょう。また、世の中も変わってきて、ニュートン力学では説明できないことも増えてきて、アインシュタインの相対性理論、あるいは量子力学など形成されたように、これからも、違憲状態と裁判所が判断する事案も増えてきそうですね。。その中でも、国会なんて言うのも、いずれ違憲状態になるのかも。「ありえない」怒号の中強行採決 改正入管法あす成立へ(→→→こちら)しかし、理由はともかく、母国で犯罪者になっていた外国人が、難民として、この「一見さんお断り」の藁苞(わらづと)納豆みたいな日本に沢山やってきて、美味しい納豆社会日本は守れるんですかね。人気ブログランキング違憲状態なのは
2023年06月10日
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。東京カテドラル聖マリア大聖堂と目白通りを挟んで向かい合わせの場所にあるこの門は椿山荘(ちんざんそう)(→→→こちら)。MoMo太郎は子供の頃は、椿山荘といえば、結婚式場や宴会場というイメージだったんですが、平成の初め頃から「フォーシーズンズホテル椿山荘東京」ということで、高級感のあるホテルになったようです。今は「ホテル椿山荘東京」という名前で、いつのまにかフォーシーズンズ」は消えていますね。この椿山荘のある台地では、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったため「つばきやま」と呼ばれ、江戸時代には久留里藩黒田家の下屋敷があったそうです。明治時代になると、元勲の山縣有朋がその屋敷を購入して「椿山荘」と命名したそうです。さらに大正になって、藤田財閥の藤田平太郎男爵がこれを譲り受け、東京での別邸としました。戦後は藤田財閥を引き継いだ藤田興業の所有となり、そののち宴会場、結婚式場として利用されるようになって現在に至っているそうです。【つづく】文京区散策(その18) 椿山荘
2023年06月09日
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文化の京(みやこ)、文京区を散策しています。明治21年(1888年)4月に小石川関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂のある現関口教会)付属聖母仏語学校製パン部として創業した関口フランスパンのある目白坂を登って行くと、この変わった斬新な意匠の建物があります。これが東京カテドラル聖マリア大聖堂(→→→こちら)です。天に向かって延びるこの塔、なんの目的なんでしょうか。こちらの案内図でも説明はありませんでした。しかし、東京カテドラル聖マリア大聖堂、教会というよりもSF映画に出てくる建物ですね。世界的にも有名な日本の建築家・丹下健三氏(→→→こちら)の設計によるものだそうです。カテドラルとは、「カテドラ」のある教会のこと。「カテドラ」というのは大司教という教会の支店長みたいな人が座る椅子の事で、司教の座る椅子がある教会を「カテドラル」ということです。つまりここは東京支店長のいる教会ですね。近所にある営業所みたいな教会よりは格上ということでしょうか。そして、こちにあるのは「ルルドの洞窟」。ルルドの洞窟は、フランスとスペインの国境になっているピレネー山脈のふもとにある洞窟で聖母マリアが出現されたとされる場所だそうです。ここで祈りをささげる方も多く見かけました。教会なので、ここで結婚式も挙げらるんでしょうね。今度、結婚するチャンスがあればここで式を挙げてもいいかな。【つづく】 人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね文京区散策(その17) 東京カテドラル聖マリア大聖堂
2023年06月08日
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1ヶ月以上の中断でしたが、文化の京(みやこ)、文京区を散策した報告を再開します。江戸川公園から目白通りの坂道を登って行きます。このあたりの住所は文京区関口。地形では関口台(→→→こちら)とも呼ばれています。関口と呼ばれるようなったのは、神田川の水を取水して神田上水に流すため、この地点でせき止めた堰の口という意味があるそうです。この坂道の登り始まりのところにあるオシャレなパン屋さん。関口フランスパン(→→→こちら)。店の名前に「フランスパン」と入れているだけあって、日本における本格派フランスパンを誕生させた120年の歴史を誇る老舗のパン屋さんだそうです。5もともとは、明治21年(1888年)4月に小石川関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂のある現関口教会)付属聖母仏語学校製パン部として創業したのがはじまりだそうです。やっぱり、キリスト教にはパンは欠かせないということですかね。【つづく】文京区散策(その16) 目白通りの関口フランスパン
2023年06月07日
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「アメリカンドック」、こんな油で揚げたものを食べていいのかと思いつつも時間がないと、コンビニでこれを買ってお昼ご飯として食べていることが多いです。よく食べている割には、ケチャップとマスタードが両方入っていて、折り曲げるとそれぞれが出てくる名称不明の容器の使い方が下手で、ケチャップとマスタードがきれいに揃って絞り出せないのが悩みです。人気ブログランキング孤独のグルメ アメリカンドッグ
2023年06月06日
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この吉見百穴に隣接して、「吉見町埋蔵文化財センター」というものがありました。休憩所や、 資料館があり、出土品などの関連資料が展示されているほか、「埴輪づくり」や「勾玉づくり」などの体験学習メニューもやっていました。また、崖面に無数の穴が開いている異様な光景が、昔よりミステリアスな場所として有名だったのでしょうね、ここを訪れた正岡子規の句碑がありました。「神の代は かくやありけん 冬籠」という句を詠まれたようです。子の句碑は、平成16年(2004)に、町の記念行事として造られたと記されていました。さらに、この資料館の裏に行ってみると、屋根がかけられた発掘物がありました。横穴墓の玄室の壁の一部が展示されていました。横穴墓玄室の加工痕が残った岩だそうです。よく見ると、確かにノミのようなもので掘った痕跡が残っていました。こちらは同じ吉見町にあるかぶと塚古墳(→→→こちら)にあった石室の石が展示されていました。しかし、このかぶと塚古墳は昭和48年(1973)の調査の後に破壊されたそうです。この吉見百穴、埼玉にある観光スポットの穴場でした。(吉見百穴の周辺)【了】人気ブログランキング吉見百穴(その8) 吉見百穴は観光スポットの穴場でした
2023年06月05日
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こちらの横穴は、入り口が支保工で補強されていました。「この洞窟は地下軍需工場跡地です」の表示がありました。中にいることはできませんが、格子の間から内部を撮影してみました。こちらも、工場の入口だそうです。工場の名前は「中島飛行機大宮製作所 吉松地下軍需工場」といったそうです。この入口にあった説明板には、昭和18年(1943)に中島飛行機大宮製作所が新設。中島飛行機武蔵製作所(多摩製作所=海軍機)が製造していた海軍向けエンジン部品生産増産のために開設。昭和19年に中島飛行機武蔵製作所が空襲を受けたことにより、大宮製作所の生産能力確保のために疎開先の地下工場として吉見に地下工場が建設。通称の「吉松地下工場」とは、「吉見と松山」を意味しているという。といったようなことが書かれていました。こちらも中を撮影してみました。かなり大きなトンネルを掘っていたんですね。ここの岩盤は凝灰質砂岩というそうです。吉見百穴に併設されている「吉見町埋蔵文化財センター」にあった軍需工場の模式図です。縦と横の洞窟がそれぞれ交差し碁盤の目のようになっているのですね。(吉見百穴の周辺)【つづく】人気ブログランキング吉見百穴(その7) 戦争の痕跡「軍需工場跡」
2023年06月04日
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斜面を下っると大きな横穴がありましたが、中に入れないように格子がはめられていました。この横穴の前には、「横穴に葬られた人々」という説明板が柵の隙間から中を撮影してみました。確かに、岩盤質で、人力で掘るのは大変だっただろうなと想像できます。こちらの横穴は、天然記念物「ヒカリゴケ」の自生地だそうです。「ヒカリゴケ」とは、ヒカリゴケ科ヒカリゴケ属のコケで、1科1属1種の原始的かつ貴重なコケ植物である。その名が示すように、洞窟のような暗所においては、わずかな光をよく反射するため金緑色(エメラルド色)に光るように見えるものだそうです。しかし、自力で発光しているのではなく、原糸体のレンズ状細胞が暗所に入ってくる僅かな光を反射することによる。またレンズ状細胞には葉緑体が多量にあるため反射光は金緑色(エメラルド色)になるそうです。こちらの横穴の中にヒカリゴケが自生しているそうです。すき間から中を撮影してみると、奥の方にエメラルド色に輝くものがありました。これがヒカリゴケなんですね。(吉見百穴の周辺)【つづく】人気ブログランキング吉見百穴(その6) 天然記念物 ヒカリゴケ自生地
2023年06月03日
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斜面を登っていくと、穴に入って、横穴墓の構造が見れる個所がありました。「棺座の工夫」と書いた説明板のある横穴です。元々は、穴墓の入口には石の蓋が立て掛けられていました。蓋を外せば再び石室内に入れる構造だったので、一般的な古墳と違い追葬が可能でした。というようなことが記されていました。中を覗いてみるとこんな感じで、横穴の中には「棺座(かんざ)」が二つ並んでいました。棺座というのは、遺体を埋葬する為の仕切りのことです。しかし、ここに葬られていた遺体はどこへ行ったんでしょうかね。しかし、宇宙人の基地だったという痕跡は、みつけられませんでした。こうやってみると、穴の並びは一見不規則のようで、よく見るとなんとなく規則的に並んでいるように思えますね。しかし、この岩の斜面に穴を掘ってお墓にするのはかなりの重労働だったのではと思われます。斜面を登り切って、吉見百穴の頂上からの眺望です。秩父の武甲山あたりまで見えています。天気が良ければ、富士山まで見えるようです。写真前方左手に見える森は、国指定の史跡「武州松山城跡」になります。頂上にはお店があるようで、「やさい直売所」の幟もありましたが、営業している雰囲気はなかったです。(吉見百穴の周辺)【つづく】人気ブログランキング吉見百穴(その5) 横穴の中をのぞいてみました。
2023年06月02日
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いよいよ目的地の吉見百穴です。駐車場は無料ですが、入場料は中学生以上300円、小学生200円、小学生未満は無料となっています。営利目的の入場料というより、自然環境保護のための協力金ということでしょうね。この建物が入り口となっています。吉見百穴についての説明板がありました。以下はMicrosoft BingのAIによる説明です。吉見百穴は、埼玉県比企郡吉見町にある横穴墓群です。古墳時代後期(6世紀から7世紀)に作られたもので、国の史跡に指定されています。岩山の斜面に219基もの横穴が掘られており、その中には台座状の構造や緑色の石で作られた蓋が見られます。これらは墓として使われたことを示しています。また、一部の横穴にはヒカリゴケという珍しい苔が自生しており、国の天然記念物にもなっています。太平洋戦争中には、岩山の地下に中島飛行機の地下軍需工場が建設されましたが、その際に横穴が破壊されたものもあります。吉見百穴は、歴史的・文化的・自然的な価値が高い遺跡です。なかなかよくまとまった、わかりやすい説明ですね。また吉見町観光案内もありました。吉見百穴以外にもなかなか面白そうな観光地があるみたいです。ちなみにタレントの若槻千夏(→→→こちら)は、この町の出身だそうです。全体の雰囲気はこんな感じで、山の斜面に直径1メートル程度の穴が無数に空いていて異様な感じですね。何も知らなければ、宇宙人の秘密基地かもと想像しそう。実際、仮面ライダーやウルトラマンシリーズのロケ地にも使われていたようです。この吉見百穴を最初に発掘したのは、弥生土器発見者の一人でもある東京大学の学生、坪井正五郎氏で、発掘調査の後、坪井氏は「横穴をコビトのような日本の先住民族、コロポックルの住居とする説」を唱えたそうです。しかし、坪井正五郎の同志であった白井光太郎氏は、「横穴は最初から墓として作られた集合墳墓という説」で反論し、論争となったそうですが、今のところ墳墓説が定説となっているそうです。そして、1923年(大正12年)には、国の史跡に指定されています。MoMo太郎としては、地球外生命体による地球侵略の前線基地として造られたものであったが、流行した新型コロナウィルスによる感染症で多くの死者が出たため、地球外生命体は地球侵略をあきらめて帰って行った説を唱えたいです。このように、新型コロナウィルスは地球が危機の時に流行し、その原因となる生物を退治するウィルスとして地球が生み出したものであって、現在では気候変動などの地球の危機の原因を作っている人類を退治しようとしたが、現在は人類はワクチンを開発しウィルスの脅威と戦っているところなのでしょう。ということで、この説を補強する証拠を集めるため、この階段を登り吉見百穴について詳細に調査したいと思います。(吉見百穴の周辺)【つづく】人気ブログランキング吉見百穴(その4) 史跡「吉見百穴」は宇宙人の基地だったかも説
2023年06月01日
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さらに巌窟ホテルに並んで建てられていた「懸造り」の建築物です。「懸造り」とは、京都清水寺の観音堂のように山の崖(がけ)や河の岸に張り出してつくられた建造物のみことを言います。ここは岩室(いわむろ)観音堂(→→→こちら)という真言宗智山派岩室山龍性院の境外仏堂になります。この仏堂の始まりは、弘法大師が岩窟を選んで高さ一尺一寸(36.4センチメートル)の観音像を彫刻してこの岩窟に納め、その名前を岩室山と号したと伝えられているそうです。観音堂からも背後の武蔵松山城址に登って行けそうですが、バリケードが置かれていたので、危険なのかもしれません。札所巡りとして有名なものは「西国三十三ヵ所」「坂東三十三ヵ所」「秩父三十四ヵ所」ですが、江戸時代になると、遠隔地を巡礼できない人々のために、地域ごとに完結する札所めぐりが創設されるようになり、埼玉県の比企郡内には「比企西国三十三ヵ所」というものができたそうで、この岩室観音は比企西国三十三所の第三番札所になるそうです。凝灰岩を堀って作った穴には、88体の石仏が収められており、これは四国八十八ヵ所の霊地に建てられた本尊を模したもので、札所巡りに加えて、弘法大師が修行した四国八十八ヵ所を巡拝することを「遍路」もできるという趣向です。このように岩をくり抜き、石仏が祭られています。しかし、巌窟ホテルといい、この岩室観音堂といい、そしてこれから訪れる吉見百穴といい、ここは岩山をくり抜くのが流行していた場所なんでしょうか。(吉見百穴の周辺)【つづく】人気ブログランキング吉見百穴(その3) 岩室観音堂
2023年05月31日
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吉見百穴の手前には、まだまだ興味深いものがありました。フェンスに囲われた木々のすき間からコンクリートの建物のようなものが見えます。コンクリートの建物のあたりをズームで撮影してみると、コンクリートではなくむき出しの岩肌が見えました。こちらが、幻の名所「巌窟ホテル」(→→→こちら)だそうです。巌窟ホテルとは、この近くに住んでいた安政5年生まれの高橋峰吉という農夫が、明治37年から大正11年までの21年間、ノミ1つで掘り続けたものでだそうで、また峰吉の死後は、昭和の初めから息子の奏次が作業を引き継ぎ、昭和39年ころまで2階部分の掘削やペイントの補修作業が続けられたそうです。正式名称としては「巌窟ホテル高壮館」と名が付いているそうですが、ホテルとして使われたことはなく、峰吉氏はワインなどを作るための醸造用の施設を作る予定だったそうですが、「岩窟掘ってる」が訛って「岩窟ホテル」と呼ばれるようになったとか。その一方、内部には大広間や通路、科学実験室などがあり、階段を上って2階に上がることができた。岩を削り出した花瓶台なども。当初は3階まで作る構想だったそうです。 峯吉の死後、2代目の泰次が引き継いだが、岩壁が崩れやすい凝灰岩質のため、保守・管理が中心だったそうです。一時は観光地になったのですが、今では立ち入り禁止になっています(→→→こちら)。なお、この巌窟ホテルの向かいにある巌窟売店は、高橋さんの家族が運営しており、往時の写真や使用していたノミなどの資料が展示されています。うどんも美味しいと評判のお店だそうです。(吉見百穴の周辺)【つづく】人気ブログランキング吉見百穴(その2) 巌窟ホテル
2023年05月30日
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埼玉県比企郡吉見町にある吉見百穴(よしみひゃくあな/よしみひゃっけつ)を訪れました。地元では「ひゃくあな」と呼ぶことが多いそうですが、国の史跡に登録されているのは「ひゃっけつ」となっているそうです。名前の通り、岩山の斜面に多数の穴が空いています。さて、その前に吉見百穴(→→→こちら)の周辺にある観光スポットを紹介します。まず、紹介するのは「武蔵松山城跡」(→→→こちら)です。武州松山城または武蔵松山城とも呼ばれており、国の史跡「比企城館跡群」の一つになるこの松山城は、。戦国時代には上杉謙信、武田信玄、小田原北条氏などの名将が激しい攻防を繰り広げました。その中には、松山城風流合戦というのがあり、扇谷上杉氏と北条氏の間でこの城をめぐって起こった合戦において交わされた和歌問答が知られています。扇谷上杉軍の城代難波田弾正憲重が味方の戦況不利なのを見て城に引き上げる途中、北条方の山中主膳に和歌で、あしからじ よかれとてこそ戦わめ など難波田の崩れゆくらん(主君のために良かれと思い闘ったのではないか、なぜそれなのに難波田弾正ほどの名のある者が逃げるのか)これに対して、馬を停めて踵を返した難波田弾正は、君おきて あだし心を我れもたば すえの松山波も越えなん(幼い主君を置いて自分が死せば、しまいには松山は荒波の中に呑まれてしまうであろう。そういうわけにはいかんのだ)と返したのだとか、まあ合戦中にこんな優雅なひと時があったとも思えませんが。そのほかにも、武田・北条連合軍が永禄5年(1562)11月に上杉憲勝が守るこの城を攻めるため甲斐から金堀人足を呼び寄せ、城内に向かってあらゆる方向から掘りすすめたそうです。残念ながら、この作戦は失敗に終わったそうですが、上杉憲勝は北条氏の和睦交渉により越後から来る上杉政虎(のちの謙信)の援軍を待たずに開城し、以降松山城は北条氏の勢力下に入ったそうです。しかしながら、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐の際、前田利家・上杉景勝などの軍勢に攻め落とされました。こちらが本曲輪裏手になるそうです。この石段を登って、少しだけ城跡に入ってみました。かって曲輪だった広場も鬱蒼とした木立が覆っていました。城跡からこちら市野川の方に出てみました。松山城を囲むように流れるこの川は、城を守る天然の堀だったようですね。河岸の土手には一面にクサフジ(→→→こちら)の小さな花が咲いていました。これは食べられる野草だそうです。松山城で戦った戦国時代の兵(つわもの)たちも、このクサフジを茹でてから水にさらし、和え物やおひたし、酢の物にしたりして食べたのでしょうかね。(吉見百穴の周辺)【つづく】人気ブログランキング吉見百穴(その1) 武蔵松山城跡とクサフジ
2023年05月29日
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五月も下旬になると、もう暑くなってきたので、お昼はあっさりと、富士そばで冷やしたぬき(490円税込み)を頂きました。夏になると、こんな食事が増えてきそうですね。人気ブログランキング孤独のグルメ 冷やしたぬき
2023年05月28日
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ダムの湖面がキラキラと光を反射しています。奥多摩湖は蛇行しながらこの山々の奥深くまで広がっています。湖面には浮橋が架かっていますね。浮橋には船が係留されています。この船は遊覧船ではなく、水道水となる奥多摩湖の水質を監視する船だと思われます。小河内ダムの堤体の上は人が歩いて対岸まで行けるようなっていました。堤体には2つの塔があります。この塔はダムの堤体の中を点検するためのエレベーターや階段があるものでしょう。ダムの竣工年月が記された銘板が堤体の柵の親柱に埋め込まれています。重力式コンクリートダムの下流側です。勾配が急ですが、重力式コンクリートダムの下流側の勾配、大抵のダムは1:0.8の勾配(垂直に1メートル上がると、水平に0.8メートル進む)になっているケースが多いです。これはダムの転倒に対する安定計算の結果です。堤高は149メートルです。大体ビルの50階から見下ろす感じです。ダム下流のダム直下には水力発電所があります。2つある塔の一つは、小河内ダムの展望塔として中に一般の人が入れるようになっています。展望塔の2階には小河内ダム周辺も含めた航空写真が床に置かれていました。3階からは小河内ダムとその貯水池が展望できます。窓ガラス越しに奥多摩湖を撮影したので反射して撮影者の手が写り込んでいます。ダム下流側の多摩川の渓谷です。この渓谷の中に奥多摩むかし道があり、そこを歩いてきました。次にダムのこちらを歩いて右岸側まで行ってみます。右岸側にの広場にこんなモニュメントがあります。ダムの工事で87名の尊い命が失われました。その慰霊碑です。ダムの上流側です。一直線に延びたダムの堤体です。こちらには、錆びた金属製の物が置かれています。こちらはダムのコンクリートを打設するのに使われたコンクリートバケットです。今は色んな工法が開発されているようですが、小河内ダムが建設された時代はダムの両岸に鉄塔を建て、その間をケーブルで結び、そのケーブルにこのコンクリートバケット吊られていて、必要な場所にコンクリートを打設する方法が一般的でした。しかし、どうやって両岸の鉄塔にケーブルを掛けたのでしょうか?ドローンにケーブルの端をつけて、対岸に飛ばしたんでしょうか。その頃からドローン使われていたんですかね。考えてみて下さい。こちらは浮橋を浮かべるために使われたドラム缶の浮具です。というわけで、歩き疲れたので、帰りはバスに乗ってJR奥多摩駅に戻りました。このバス奥多摩湖が始発バス停というのではなく、ダム上流の集落からやって来るようで、バスの座席はもう埋まっていましたから、駅まではパスの中で立って帰りました。ちょっと疲れましたが、なかなか山の緑が楽しめたハイキングでした。(奥多摩むかし道を歩くコース)【了】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その20) ダムの上から
2023年05月27日
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ここまでやってきて、小河内ダムとダムによって生まれた小河内貯水池(通称「奥多摩湖」)(→→→こちら)も見学してみました。山あいに広がるエメラルドグリーンに輝く湖。しかし、普段からこの水を都民が飲んでいるわけではないようです。小河内ダムの完成当時、東京の水源は主に多摩川水系に依存していましたが、現在は都の水源の約20%となっています。 しかし、小河内ダムは東京都の独自水源として、利根川水系の渇水時や事故時には放流量を増やすなど、住民の安定給水の確保に重要な役割を果たしています(→→→こちら)。正面に見えるのが小河内ダムの堤体です。小河内ダム について簡単に諸元を記すと 所在地:東京都西多摩郡奥多摩町 河川:多摩川水系多摩川 目的:上水・発電 ダム型式: 重力式コンクリート 堤高:149m 堤頂長:353m 堤体積: 1676千m 流域面積:262.9km2 ( 全て直接流域 ) 湛水面積:425ha 総貯水容量:189100千m3 有効貯水容量:185400千m3 着手:1936年(昭和11年) 竣工:1957年(昭和32年) ダム湖名 奥多摩湖 (おくたまこ)我が国屈指の大ダムで、世界最大の水道専用ダムといわれることが多いそうです。「東京水道~企業の森(ネーミングライツ)」の取り組みが紹介されていました。ダムの水を生み出すためには、ダム流域の森林を育むこちが大切で、東京都水道局が企業と連携した森づくりとして水道水源林の一部の森林にネーミングライツを設定し、企業からの寄付をいただき、森づくりを行っているそうです。こちらは人間日時計というもので、この日時計の中心部を通るライン上に日付の目盛りがあり、その位置に立つと日時計のように時刻がわかるようになっています。日時計の周囲には、小河内ダム建設の歴史を記した説明板が展示されています。小河内ダム建設には長い道のりがあり、ダムに着手したのが1936年(昭和11年)で、途中戦争による中断をはさみ、完成したのは1957年(昭和32年)という21年間もの時間を要しています。「湖底の故郷」と刻まれた石碑がありました。揮毫は日本におけるスポーツ医学の草分けとなった医師であり、1959年(昭和34年)~1967年(昭和42年)の二期にわたり東京都知事を務めた東 龍太郎氏です。IOC委員を務め最初の東京オリンピック開催への功績も大きい方です。石碑の裏側には、歌手の東海林太郎さんが歌う「湖底の故郷」(作詞・島田磬也、作曲・鈴木武雄)という昭和12年に発表され、全国的に愛唱された歌が刻まれた歌碑となっています。ダム建設に伴い、東京都の小河内村、さらに山梨県丹波山村・小菅村を合わせ、945世帯6000人(小河内村は600世帯、3000人)ほどが移転を余儀なくされ、村を離れることの思いを歌にしたそうです。夕陽は赤し 身は悲し 涙は熱く 頬濡らすさらば湖底の わが村よまた、小河内ダム建設のため水没する村から三多摩地域の代替地に移住した人々のその後を描いた石川達三氏の小説「日蔭の村」(→→→こちら)をはじめいくつかの書籍もあるようですね。こちらは、ダムの洪水吐です。最大洪水量1,500m3/sを流下させることができるようです。仮面ライダーシリーズ第1作「仮面ライダー」の第1回に登場した怪人、蜘蛛男とライダーが戦った場所であり、最近公開された映画「シン・仮面ライダー」でも、人間とクモの合成した怪人のクモオーグとライダーはこの場所で戦っています。この洪水吐のゲートの上を越えてダム本体の方に向かいます。この湖底にも、人々の営みがあったという、その重みを感じて、これからは水道水を使わせていただきます。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その19) 奥多摩湖と湖底の故郷
2023年05月26日
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奥多摩むかし道を歩いていると、所々で見かけた看板です。地球の環境を守るために森林再生間伐事業をやっいたのですね。ところでここで出てくる林班とは、林野庁のホームページによると、森林の区画の単位で、都道府県が作成する地域森林計画の森林計画図において定められます。行政上の字界、尾根や川などの天然地形又は道路などの地物をもって区画して設定されています。市町村ごと(又は一定地域ごと)に一連の番号が付けられており、森林計画図でその区域を確認することができます。ということでした。奥多摩湖まで600mのところまでやって来ました。ここから先の道は舗装された道です。国道411号線、青梅街道に出ました。ここは秩父多摩国立公園なんですね。そして、ゴールの奥多摩水と緑のふれあい館(→→→こちら)に到着しました。この施設は、東京近代水道100周年と小河内ダム竣工40周年の記念事業として、 東京都水道局と奥多摩町の共同で、1998年に開館した施設です。郷土の歴史・文化、都民の水源地である奥多摩の豊かな自然や、ダムの仕組み、水の大切さなど3Dシアターやジオラマ・ビデオなどで紹介しています。しかもMoMo太郎の大好きな入館料無料なんです。水と緑ふれあい館の前にあった変わったモニュメント。2013年9月29日に行われた東京国体(スポーツ祭東京)自転車競技ロードレース本番の、前年のプレ大会(第2回東京ヒルクライムHINOHARAステージ)を記念して設置された自転車ゆりーと像というそうです。ちなみに「ゆりーと」とは、第68回国民体育大会及び第13回全国障害者スポーツ大会を応援するための「ゆりかもめ」をモチーフしたキャラクターです。また周辺には、「登々、極水源 隔谷、幾村々 崖峻、泉鳴筧 岳高 雲入軒」昭和六稔二月廿二日武州小河内宿舎即興蘇峰老人と刻まれた石碑がありました。徳富蘇峰(→→→こちら)の詩碑「登々、水源を極め 谷を隔て、幾村々 崖けわしく、泉は筧(かけひ)を鳴らし 嶽高く、雲軒に入る」というもののようです。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その18) 奥多摩水と緑のふれあい館
2023年05月25日
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いよいよ奥多摩むかし道を歩く行程も大詰めで、奥多摩湖(小河内ダム)に近づいてきました。そして、奥多摩湖へ向かって、この山道に入ります。やがて木立の隙間から小河内ダム(→→→こちら)の姿が見えてきました。言うまでもないことですが、小河内ダムで堰き止められてできた貯水池が「奥多摩湖」と呼ばれています。そして、奥多摩湖まではあと2.5kmとなり、いよいよゴール間近かと思いましたが、よく考えてみれば、ダム両側の山というのはダムの高さより高くないと水が貯まらないわけですから、急な山道を登り続けないといけません。ここでギブアップも思いましたが、こんな山の中にタクシーは来てくれない。ということで歩きます。見晴らしのよいところで多摩川の下流側を撮影しましたが、本当に山深いところだと改めて思いました。山の斜面にへばりついたような未舗装で細い山道が続きます。防護柵があるので安心ですが、なければとても危険です。奥多摩むかし道は旧青梅街道だったといいますが、こんな険しい道だったんでしょうか?思うにダムができる前から旧青梅街道として人々が利用していた道は、ダムが出来て使えなくなったので、ダムの横を大きく迂回して山を越えていくようになったので、このような登山道が「奥多摩むかし道」として作られたのではないのでしょうか。そして、木立の隙間から見える小河内ダムの洪水吐です。大雨の時は洪水がここを越流していくのですね。「青目不動尊」なかなか有名なお寺があるみたいでしたが、かなり足にきていたので参拝は諦めて素通りしました。青目不動尊のあたりから見下ろした奥多摩湖です。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その17) 山道続く、未舗装・道細い
2023年05月24日
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別に歌舞伎とかに詳しくはないんですが、市川猿之助さんの自殺未遂。色んな憶測があるみたいですが、猿之助さんの両親は向精神薬の過剰摂取による中毒死で、猿之助さんも薬物中毒の形跡があり胃の洗浄を受けたそうです(→→→こちら)。どのような理由であれで、亡くなられたご両親には哀悼の意をささげます。しかし、市川猿之助の屋号は澤瀉(オモダカ)屋というそうですが、オモダカ(→→→こちら)という植物は水田や湿地、ため池などに自生して白い花弁を3枚つける植物ですが、どちかと言うと、雑草に近い認識らしいです。しかし、近縁のサジオモダカの塊茎は沢瀉(タクシヤ)と呼ばれ、利尿効果などのある漢方薬として利用されているそうです(→→→こちら)。ということで、澤瀉という屋号の家の方が薬物で亡くなるって、なんか皮肉な感じもしますね。人気ブログランキング澤瀉屋(オモダカヤ)って名前に引っ掛かりました
2023年05月23日
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奥多摩むかし道にある川合玉堂(→→→こちら)の歌碑です。「山の上のはなれ 小むらの名を聞かむ やがてわが世を ここにへぬべく」明治36年夏奥多摩中山郷付近にて詠みし奮作を志とする 玉堂と記されていました。こちらの看板も解説文がありましたが、文字は判読できませんでした。川合玉堂は、1944年(昭和19年)にかねてより写生で頻繁に訪れていた東京都西多摩郡三田村御岳(現・青梅市御岳)に疎開し、1957年(昭和32年)、89才で他界するまで、奥多摩を離れることなく山や村などを描きつづけたそうです。小河内ダムに向かって更に歩いて行くと、また吊り橋がありました。道所橋という橋です。この橋も同時に渡れるのは2人までとなっていました。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その16) 玉堂歌碑と道所橋
2023年05月22日
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昔は馬だけではなく牛も運搬の手段として使われていたそうで、牛馬の息災を祈る牛頭(ごず)観音が祭られているそうです。こちらの小さな石仏が牛頭観音です。素朴な感じがする石仏ですが、それだけに当時の人たちの祈りの気持ちが伝わってくるようです。石積みの中に目立たないように祭られている石仏がありました。むし歯地蔵尊だそうです。この目立たない石仏が、「むし歯地蔵尊」だそうです。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その15) 牛頭観音とむし歯地蔵尊
2023年05月21日
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道の切羽面に説明板がありました。説明板には「縁結びの地蔵尊」とありましたが、お地蔵様の石仏、どこにも見当たりませんでした。切り立った崖にそって奥多摩むかし道は続きます。こちらにも説明板がありました。馬の水のみ場だそうです。茶店は今はありませんでした。馬の水のみ場にはまだ、清水が僅かですが、湧き出していました。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その14) 縁結びの地蔵尊はなかったけど馬の水飲み場はありました
2023年05月20日
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多摩川沿いを歩く奥多摩むかし道、川に沿って渓谷があるようです。このあたりが惣岳渓谷と呼ばれるているそうです。渓谷美が木立の間からのぞき見えています。しばらく行くと大きな吊り橋があります。しだくら橋と呼ばれているみたいです。同時に渡れるのは2人までだそうです。全長は約67mだそうです。歩くとこの橋、よく揺れました。橋の上からは、「惣岳の荒」と呼ばれる渓谷美を見下ろすことができました。巨岩がゴロゴロとした荒々しい渓谷美です。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その13) 惣岳渓谷としだくら橋
2023年05月19日
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駅からハイキング「新緑の奥多摩むかし道を歩く~都内随一の廃線跡をたどる~」、中間点を過ぎていよいよ後半戦です。石柱の道標を確認してみると、右 さかい村 奥多摩駅左 惣岳渓谷 小河内温泉と刻まれていました、しかし、温泉があるとは知りませんでした。前を向いても山。振り返っても山だけの道になりました。信仰の厚い山の暮らしなのでしょうか、また鳥居がありました。惣岳の不動尊と説明板に書いてありましたが、不動尊って仏教の神様では? とすると、神社を示す鳥居は謎ですね。そんなMoMo太郎の愚問に関係なく、道端の観音像が静かに微笑んでいました。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その12) 惣岳不動尊
2023年05月18日
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たまにはファミレスでお昼を食べることもあります。これはガストの月曜日の日替わりランチ 「ハンバーグデミソース&チキングリル醤油ソース」(700円税込み)です。ライス大盛無料・日替わりスープおかわり自由というのも魅力的でした。しかし、ファミレスのランチというと、なんかハンバーグが多いような気がしますね。人気ブログランキング孤独のグルメ ガストの日替わりランチ
2023年05月17日
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奥多摩むかし道を歩いています。緑に囲まれた山道を歩いていくと、また説明板を見つけました。樹齢約200年のもみじの木だそうで、「いろは楓」というそうですが、「楓」という漢字なら「いろはかえで」と読むべきでは。そこで、もみじ(紅葉)とかえで(楓)の違いについて、Microsoft BingのAIに聞いてみました。かえでともみじの違いについてお答えします。かえでともみじは、どちらもムクロジ科カエデ属の植物で、植物学上では同じ分類です。しかし、一般的には、葉の切れ込みが深いものがもみじ、切れ込みの浅いものがかえでと呼ばれます。また、名前の由来にも違いがあります。もみじは、秋に草木が赤や黄色に色づくことを意味する動詞「もみず」からきています。かえでは、葉の形がカエルの手に似ていることから「カエル手」が変化したものとされています。日本では、紅葉の代表として「イロハモミジ」「ヤマモミジ」「オオモミジ」などの品種があります1。これらは葉の大きさや形、紅葉の色などで見分けることができます。ということです。葉っぱの形で見分けてみると、切れ込みが深いので「もみじ」ですね。そして、このあたりが今回の駅からハイキング「新緑の奥多摩むかし道を歩く~都内随一の廃線跡をたどる~」の中間地点になります。まだ、道半ばです。ここからもうひと踏ん張り、と思ったら、沿道のお宅によもぎ大福の無人販売所があったので、100円払って1個いただきました。こういう時の甘いものいいですね。MoMo太郎がお餅を食べ終えた時、3人連れのおば様方が来て、大福餅を見つけると、「500円硬貨しかないから、5個買うわ」と言って、3人で5個のよもぎ大福を買っていきました。3人で5個どうやって分けるのか気になりました。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その11) 中間点でよもぎ大福
2023年05月16日
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奥多摩むかし道に沿って、また神様がおられました。耳神様というそうです。確かに穴の開いた小石が置かれていました。奥多摩の山村の人々の暮らしがうかがえる貴重な遺産ですね。そしてこの耳神様の頭上には、新たに整備された青梅街道のトンネルと、さらにその上にはかっての東京都水道局小河内線(→→→こちら)の廃線跡の橋梁がありました。天高くそびえる橋脚と橋桁、ダムを造るための鉄道建設も、本体のダム並みに大変な難工事だったのではないかと思わせますね。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その10) 耳神様と廃線の橋梁
2023年05月15日
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白髭神社を過ぎて、少し行くと、ちょっと変わった岩がありました。この説明板によると、「弁慶の腕ぬき岩」というそうです。ごつごつとしたこの大きな岩の下側に、なるほど、大人の腕がちょうど入るほどの穴が巨石を貫いていました。先ほどの白亜の巨岩といい、大地の不思議な力を感じる奥多摩むかし道です。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その9)弁慶の腕ぬき岩
2023年05月14日
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奥多摩むかし道沿いにある白髭神社です。神社はこの石段を登ったところにあります。巨岩が信仰の対象として祭祀されているそうです。MoMo太郎の知っている向島の白鬚神社の御祭神は猿田彦大神ですが、この奥多摩の白髭神社の御祭神は「巨岩」?石段の上はこのような崖に沿った細い道。そして木立の間から巨岩と社殿が見えてきました。大きな白亜の巨岩の陰にある、ここが白髭神社です。この石碑によると、社殿は昭和56年に再建されたようです。この白亜の巨岩は、約6000万年前の三世紀石灰岩が白亜紀泥質岩の上に急角度でせりあがってできたものだそうです。つまり、逆断層ですね。この大地が動かす力が祭られている白髭神社こそパワースポットではないでしょうか。【正断層と逆断層】正断層と逆断層の違いは、地殻の変動によって生じるひずみの方向にあります。正断層は、ひずみが引っ張りになるときに発生し、上部のブロックが下部のブロックよりも低い位置に移動します。逆断層は、ひずみが圧縮になるときに発生し、上部のブロックが下部のブロックよりも高い位置に移動します。正断層と逆断層は、地震や火山活動などの自然現象に影響を与える重要な構造です。(この解説は、Microsoft Bing のAIによって作成しものです)(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その8) 大地の力が宿るパワースポット、奥多摩の白髭神社
2023年05月13日
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奥多摩むかし道からまた廃線跡が見えてきました。このあたりはちょっとした集落になっています。これも小河内線の遺構ですが、なんか今でも機関車にけん引された貨車か走っていてもおかしくはないような景色でした。(奥多摩むかし道を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング奥多摩むかし道を歩く(その7) 天空に架かる廃線跡の鉄橋
2023年05月12日
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