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森の声@ Re[3]:「体験格差」(子どもの育ちに必要な体験について)(11/04) めげぞうさんへ >これからどうなって行…

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森の声

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2012.08.12
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カテゴリ: カテゴリ未分類
昨日も書いたように「共に」という生き方は、非常に難しいのです。私の個人的な考えでは釈迦も、キリストも、「共に」ということの大切さを訴えていたと思うのですが、どうもそれが「宗教」という形になってしまうと自分たちを守ることの方が優先され、「共に」という思想は失われて行くようです。

釈迦もキリストも「みんなのため」に教えを説きましたが、宗教という形の中では教会でも寺院でも「自分たちのため」に教えを説いています。

だから戦争に利用されてしまったのです。

なぜそんなに「共に」が難しいのかというと、「共に」と言う生き方をするためには「自分」を捨てなければならないからです。

自分の考え、自分の価値観、自分の善悪の基準にこだわる限り「共に」という生き方は出来ないのです。

そこにはただ、「相手に寄り添う」という意識しかありません。

でも、そんなことなかなか出来るもんじゃありません。私にだって出来ません。

ところが、それをやっている人たちがいるのです。

先日ご紹介した「凍りついた瞳」(椎名篤子原作)という虐待を扱ったマンガに出てくる人たちです。

幼い頃に受けた虐待によって苦しんでいる人を救うために頑張っている人たちは徹底的にこの「共に」という関わり方をするのです。

(ただし、当然のことながら、そうでない人もいっぱいいるようですけど・・・。)

虐待を受けた人たちは「共に」を否定され、一方的に押しつけられてきた人たちです。

ですから、その苦しみからそのような人たちを救い出すためには、徹底的に「共に」という働きかけが必要になるのです。

でも、幼い頃から「共に」を否定され続けてきた人たちは、「共に」という関わり方をしてくる人を信じようとしません。

ですから、徹底的にその想いを裏切るようなことをやってきます。そのようにして「共になんてあり得ないんだ」という自分の考えを確認しようとするのです。

ですから当然、普通の人の善悪の価値基準を平気で壊してきます。その時、関わる大人たちが自分の善悪にこだわって、虐待を受けてきた人の行動を非難してしまうと、「やっぱり口先だけなんだ」ということになります。

だからといって、その行為を肯定しろということではありません。そうではなく、「肯定も否定もしないで、ただその状態を受け入れ、想いに寄り添う」ということが大切になるのです。

でも、これは非常に困難です。まったくもって困難です。

それは道元禅師の
仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。

という言葉にも通じる世界です。

その時に必要になるのが「信じる」ということです。

神様や仏様を信じるのではありません。また、その相手を信じるのでもありません。「生命の働き」を信じるのです。

そして実は、神様も仏様もこの「生命の働き」の中に存在しているのです。

だからこそ、神様の言葉も仏様の言葉も私たちの心を打つのです。

虐待を受けて苦しんでいる人は、その生命の状態において非常に不安定です。だから、不安も緊張も孤独も強く、その成長にも強い偏りがあるのです。そして、人を愛することも、助け合うことも、子どもを育てることも困難なのです。

一般的に、虐待をしてしまう人は、「残虐な人」と思われていますが、全くそういうことではありません。

生命の状態が不安定だから、必死になって自分を守ろうとしているだけなのです。相手を虐待しようとしているのではなく、ただ自分を守ろうとしているだけなのです。

ただ問題は、子どもを守るべき立場のお母さんが、子どもに対してそれをやってしまったら虐待になってしまうということです。

でも、お母さんには「子どもを虐待している」という意識はありません。そのようなお母さんにとって関心があるのは「自分の心」だけであって、「子どもの心」になんか最初から関心がないからです。

ですから、虐待を繰り返しているお母さんにその虐待をやめさせるためには、そのお母さんの心に寄り添う「他者の心」が必要になります。

そして、「一人で苦しまなくてもいいんだよ」というメッセージを伝える必要があります。

そこで必要になるのも「共に」という意識です。

虐待を受けて苦しんでいる子を救うときにも、虐待をして苦しんでいるお母さん(お父さん)を救う時にも、この「共に」という意識が必要なのです。

「凍りついた瞳」の中に、児童相談所所長の河西という人の思いとして、

父親や母親の心を変えようと時間をかけるより
相手の努力を認めて
現実的に何をすればいいのかを話し合う
その方法なら数回の面接で効果が得られることが多かった


ということが書いてあります。

ここには「共に」という考え方があります。

そしてこれは子どもを育てるときにも大切なことだと思います。

この言葉の中の「父親や母親の心」というところを「子どもの心」と置き換えて読んでみて下さい。





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Last updated  2012.08.12 06:01:36
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