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現代人が簡単で便利な機械の普及で失ったのは「時間の体験」です。それは「物語の体験」「感覚の体験」「感情の体験」を失うことです。それはつまり、「記憶」を失うことでもあります。記憶が心の中に生き生きと定着するためには、「物語の体験」「感覚の体験」「感情の体験」が必要だからです。だから、簡単で便利になったのに、いやそれ故に「充実感」は失われ、「充実感」が失われた故に記憶も残らないのです。それまで一時間かけてやっていたことを、ボタンをピット押すだけで出来るようになったら59分以上得したことになりますよね。でも本当は59分以上損してるのです。何を損しているのかというと、「感覚と思考とからだの体験」と「物語の記憶」です。だから何も学べないし、充実感も感じないし、記憶にも残らないのです。結果だけがすべての大人にとってはそれでもいいのでしょうけど、「感じ、考え、行動する能力」と「想い出」を育てている最中の幼い子ども達にとっては、これは致命的なんです。それらの能力が育つために必要な材料が消えてしまうのですから。「感じる能力」が育つためには「感じる体験」が必要です。「考える能力」が育つためには「考える体験」が必要です。「行動する能力」が育つためには「行動する目的」と、実際に「行動する体験」と、「それに伴う喜び」が必要です。「想い出」が育つためには「感覚や感情とつながった物語の体験」が必要です。「物語の体験」とは「過程の体験」のことです。それが「想い出」として残っていくのです。例えば、お料理を、材料を買うところから、材料を処理するところから作れば、出来上がるまでの過程が全て「物語」になります。でも、「ピッ」だけでは「物語」になりません。それは「子育て」でも同じです。「ザリガニを何匹捕まえた」という結果ではなく、「どのようにしてザリガニを捕まえたのか」という過程が記憶として残っていくのです。ですから、「自分で森の中に入ってカブトムシを捕まえた記憶」は残りますが、「カブトムシを買ってもらった記憶」は残りません。それが「世話をした記憶」とつながれば、「買ってもらった記憶」も残りますけど・・・。また、それらの体験は「子ども自身の意思に基づく能動的な体験」である必要があります。「大人に押しつけられた体験」は子どもの内側に入って行かないからです。「自分の意思でやった活動」は記憶に残りますが、「言われて嫌々やった活動」の記憶は残らないということです。だから子ども達には、便利や機械や道具に依存しない「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分のからだを使って色々なことにチャレンジする遊び」が必要なんです。そのような遊びが「子どもの能力」を育てるとともに、「子ども時代」を充実させてくれるのです。昨日も書いたように、今、子育ての講座などで、お母さん達に「子どもの頃の想い出」を聞いても、あんまり覚えていない人が多いです。悲しいことに、「子ども時代」が消えてしまっている人が多いのです。だから、子どもの気持ちが分からないし、子どもと視点を共有できないし、子どもに共感できないのです。そういう状態のお母さんにとって「子育て」は「義務」であり「苦しい労働」に過ぎません。そのようなお母さんに育てられている子どももまた苦しいでしょう。でも、便利な機械がそれほど普及していなかった時代に育った人や、子どもの頃それほど便利な機械に依存しない生活や遊びをしていた人に「子どもの頃の想い出」を聞くと次から次へと「想い出」が出てくるのです。便利な機械に依存しない生活や遊びをしていた人の方が、「子ども時代」が充実していたようなのです。現代人は「結果」ばかり大切にして「過程」を無視しますが、人の記憶は「過程」によって創られるのです。「充実感」をもたらしてくれるのも「結果」ではなく「過程」です。なぜなら「過程」はそのまま「物語」でもあるからです。山登りでも、頂上に立ったから充実感を感じるのではなく、長い時間をかけて自分の足で登ったから充実感を感じるのです。山登りが好きな人は「頂上に至るまでの物語」が好きなんです。感じる能力、考える能力、行動する能力が育つのも、ちゃんと過程を体験するからです。「人生」の中身は「どう生きたのか」という過程です。「何歳まで生きたのか」という長さではありません。そして「充実した人生」を送って来た人は死を恐れないのではないかと思います。「生まれてきた目的」を達成したのですから。それに対して、「空っぽの人生」を送ってきた人ほど死を恐れるのではないかと思います。そしてこれは勉強でも同じです。大切なのは「1+1=2」という式を覚えることではなく、「1と1と足すと2になる過程」を体験することなんです。その過程の体験があるから「1+1=2」を理解することが出来るのです。理解することが出来るから「1+1が2なら、2+1は3だよね」と自分の頭で考えて導き出すことが出来るのです。また、色々と応用することも出来るのです。それに対して、結果を覚えただけの子は自分の頭で考えることが出来ないので応用できません。勉強などでも、「色々な学者達が発見した結果(知識)」だけを学ばせる方が効率的かも知れませんが、「色々な学者がその結果に至るまでにたどった過程」を再体験させる方が、子どもの能力は育つのです。本当に子どもの育ちを支えたいと思うのなら、幼稚園や小学校は、みんなが学者や芸術家になって、「発見する喜び」、「創造し、表現する喜び」を体験する場であるべきなんです。でも実際には、「出来上がったもの」を覚えるだけの場になってしまっています。そこに喜びはありません。中身もありません。だったら行きたくなくなっても当然です。
2026.05.03
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子育ての勉強会などで、「子ども理解への入り口」として「ご自身の子どもの頃のことを話して下さい」と聞くと「覚えていない」とか「想い出そうとすると苦しくなるので想い出したくない」と言う人が結構います。以前、そのように問いかけたら、まだ20代か30代前半と思われるような若いお母さんに「そんな昔のことなんか覚えていない」と言われてすごく驚いたことを覚えています。70才,80才になっても子どもの頃のことを生き生きと覚えている人もいっぱいいるのに・・・。なんとか想い出してもらっても、「想い出」というより「記憶」のようなものしか出てきません。「こういうことをした」「こういう遊びをした」ということは想い出せても、そこに生き生きとした感覚や感情が伴っていないのです。ですから細部の記憶がありません。「タイトルの記憶」はあっても「中身の記憶」がないのです。このような人には「懐かしい子ども時代」が存在していないのでしょう。そのような「懐かしい子ども時代」を育てることが出来なかった人は、「自分が子どもだった頃の気持ち」を「大切なもの」として想い出すことが出来ません。そのため、今その想い出を作っている最中の「自分の子ども」とも共感できません。その結果、「子育て」が「お仕事」と同じようなものになってしまう可能性が高くなります。しかも、その「お仕事」は24時間続くブラック労働そのものです。それでいて、責任は非常に重いです。子どもの状態がちょっと悪くなっただけ、子どもがちょっと問題行動を起こしただけ、子どもが子どもらしく泣いたり、走り回ったりしただけで、周囲から色々言われます。現代社会は、大人専用に作られているので子どもの子どもらしい行動を許容することが出来ないのです。それでは子育てが辛くなって当たり前です。また、「お仕事」と同じ感覚で子育てをしているお母さんは、「子育て」も「お仕事」と同じように効率よくこなそうとします。そこで必要になるのは「共感」ではなく「知識」と「技術」です。それはネットで簡単に集めることが出来ます。昔の人は本を読みましたが、最近の人は本も読みません。ですから「子育て」について体系的に学ぶことが出来ません。そもそもそういうことに興味がありません。興味があるのは「目の前のトラブルを解消する簡単で手っ取り早い方法」だけです。また、効率的に子育てをしようとすると「便利な道具」も必要になります。ゲーム機はお母さんの労働を楽にしてくれます。子どもと一緒の時間や活動を楽しめないので、衣食住の世話はしても共に過ごす時間は少なくしようとします。でも、子どもを置いて遊びに出るわけにはいかないので仕事に出ます。生活のためにどうしても仕事をせざるおえない人もいますが、最近は子どもを保育園に預けて仕事に出るのが一つのファッションのようになってしまっています。国もまたそのような子育てを推奨しています。でも、国は子どもの成長には興味がありません。興味があるのは「経済の活性化」だけです。だから国の言葉に踊らされない方がいいです。そのことをしっかりと認識しておかないと後で後悔します。そのようなお母さんでも子どものことは大好きです。でも、「懐かしい子ども時代の想い出」を持っていない人は、子どもを「自分と対等な存在」として受け入れることが出来ません。同じ視点に立てないからです。また、子どもの傍らにいて安心を与え、子どもの成長に必要なものを整え、子どもの視点を大切にして子どもの成長を見守ることも出来ません。なぜなら子どもの成長を楽しめないからです。また、そのような活動はお母さんの自由を制限するので、そのような活動を求めると「子どもの犠牲にはなりたくない」などと言う人もいます。でも、その結果子どもが犠牲になっていきます。でも「子ども」は押しつけられたものではないですよね。自分の意思で産んだ存在ですよね。自分の人生の一部ですよね。だったら、その成長にも責任を持つのは当たり前だと思うのですが、どうなんでしょうか。「お仕事としての子育て」を受けて育った子が、大人になって「自分の子ども時代」を思い出そうとしても思い出せないのは当然のことです。そうやって、負の循環が連鎖していくのです。もし、自分は子ども時代のことを思い出せないけど、我が子には「懐かしい子ども時代」を残してあげたいと思うのなら、お子さんと一緒に子ども時代をやりなおしてみて下さい。私がやっている「親子遊び」ではそのようなことを大切にしています。だから「子どもは遊ばなくても、大人は遊んで下さい」と言っています。大人が遊んでいると、最初は寄ってこなかった子どもも一緒に遊び始めるのです。
2026.05.02
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「学び」は自分で気付くところから始まります。いくら熱心に教えても、本人がそのことに気付かなければ「暗記」は出来ても「学び」は成り立たないのです。なぜなら「学び」が成り立つためには、「そのこと」が子どもの内側に取り込まれる必要があるからです。それは「食べる」という行為と似ています。食べ物をいくらいっぱい食べても、それが消化も吸収もされずにそのまま流れ出たり、お腹の中に意味もなく溜まって行くだけなら食べたことになりませんよね。その状態が続けば当然成長は止まるし、心もからだも具合が悪くなりますよね。それは当然の結果です。でも、多くの大人達が「口に入れること」だけを求めて、「それ」がちゃんと消化され、吸収されているのかどうかということには関心がないのです。給食などでも「残さずちゃんと全部食べること」を求める先生も多いみたいですが、それは子どもの成長を支える食事のあり方ではありません。勉強でも、子どもが机に向かって勉強していれば大人は満足します。それが吸収されていなくてもです。でも、当然のことながらいくらいっぱい机に向かって勉強していても、それが子どもの内側に吸収されていないのならそれは無駄な時間、無駄な行為に過ぎません。それどころか、その無駄な行為をするために、子どもの成長に必要な活動や時間を奪われてしまっているのなら有害ですらあります。この場合、大人がチェックしているのは「子どもが大人の言うことに従っているのかどうか」ということだけです。そのような大人は自分もそのような勉強しかしてこなかったのでしょう。それで成績が悪かったら「頭が悪い」という評価を押しつけます。成績がよい子には「頭が良い」という評価を与えます。でも実際には、「学校の成績」と「頭の良さ」は関係がありません。「テストの成績がよい」というのは、ただ、「テストに強い」というだけのことだからです。(教室にも、「俺の方が成績がいいから、俺の方が頭がいいんだ」と友達と言い合っている子がいます。)多くの場合「じっくり考え理解しようとするタイプの子」よりも、「先生の言うことをそのまま暗記することが得意な子」の方が成績がよくなります。特に、小学生のうちはその傾向が強いです。でも、そのような勉強しかしてこなかったような子は、中学に入って抽象的な思考を求められるような勉強が始まると、勉強に付いていくのが困難になります。ちなみに算数で使う「ミカン一個」の「1」と、数学で使う「1」は全く別物です。数学では「-1」は成り立ちますが、「ミカンがマイナス一個」は成り立ちませんから。テストでよい成績を取るのに必要なのは暗記とテクニックです。だから、受験勉強でも、いっぱい暗記して、試験用のテクニックを学べば合格する率が高くなります。でも、合格する率が高くなったからといって頭がよくなったわけではありません。そこは混同しない方がいいです。頭の善し悪しは、「テストでどれだけいい点数を取ったか」ではなく、「学んだことをちゃんと理解できているのかどうか」という点に表れてくるからです。そして、学んだことを理解するためには、「理解するための受け皿」としての体験が必要になります。それはつまり「体験と知識が出会い、融合した時に学びが成り立つ」ということでもあります。知識を学んだ時「ああ、あれはこういうことだったんだ」「だから、ああいうことが起きたんだ」と、「体験を通して自分の内側に溜まっていたもの」と「新しく学んだ知識」が融合し、新しい発見が生まれた時に「学び」が成り立つのです。その「テストに強いだけの子」が、競争を勝ち抜いて国や社会を動かす立場に立っているとしたら、そのような社会や国の未来は暗いです。そのような人が教育のトップに立っていたら「押しつけ教育」を学校に求めるのは当然のことです。そのことで子どもが苦しくなって学校に行けなくなっても、それは「子どもの問題」、「親の問題」、「家庭の問題」であって、「学校の問題」であるとは考えません。同じような教育を受け、同じように洗脳された親もまた同じような価値観に染まってしまっているので、子どもを責め、自分を責め、苦しくなってしまいます。学校に行かない子どもはそのことを教えようとしているのです。
2026.05.01
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大人は子どもに「客観的な事実」を言うように求めます。でも子どもは「自分が感じた事実」を話します。すると大人は「嘘を言うんじゃありません」と叱ります。多くの場合「客観的な事実」と「子どもが感じた事実」は大きく異なっているからです。そのようなことが繰り返されると、子どもは「大人が自分に期待すること」ばかりを話すようになります。叱られたくないからです。そして、「本当に自分が感じたこと」を話さなくなります。そのうちに、自分でも「本当に自分が感じたこと」が分からなくなり「本当の自分」を見失っていきます。イジメなどをしている子に「本当にいじめているの?」と聞いても、「うちの子がそんなことをするわけない」という親の気持ちに合わせて子どもは「そんなことしていない」と言います。お母さんやお父さんに嫌われるのが怖いからです。そのような子は、幼い時から「親の期待に応えることばかりを求められるような子育て」を受けてきたのでしょう。子どもはお母さんに「約束よ、分かった」と言われると、分かっていなくても「分かった」と言います。それが「お母さんが期待している答え」だということを知っているからです。でも、その約束はほぼ100%守られません。「お母さんが期待している言葉」は分かっても、「お母さんが期待していることの意味」が分からないからです。でも、約束が守られないことに怒ったお母さんに「嘘つき」などと言われます。「おしっこ大丈夫?」と聞かれたら、「大丈夫」と答えます。それが「お母さんが期待している返事」だということを知っているからです。でも、家を出てから突然「おしっこ!」などと言い出したりします。それでお母さんは「だから家を出る時に聞いたじゃない!」と叱りますが、幼い子どもには自分のおしっこが溜まっているかどうかを感じ取る能力がありません。感覚が外側に開いてしまっているので、自分の内側を観察できないのです。でも、「嘘をついた」などと叱られます。読書感想文でも、自分が本当に感じたことを感じたままに書くと先生に指導されます。だから「先生が期待するような感想文」を書こうとするのですが、子どもには先生が何を期待しているのかが分かりません。素直に育った子どもほど分かりません。それで大人は先生が満足するような感想文の書き方を教えます。でもそれは「嘘の付き方」を教えているようなものです。子どもが自分が感じたように、自分に見えたように絵を描くと、先生に文句を言われます。空を黄色く塗ったりすると描き直すように言われます。(実際にそういう子がいました)算数でも、自分流の考え方、自分流の解き方で解くと、答えが合っていても×になります。「自分流の考え方、自分流の解き方で解いた」ということを褒めてはくれません。漢字もちゃんと読めるように書けていても、先生の期待通りに書けていないと×になります。そういう大人達に「よい子」を期待されて育ってい子は、次第に自分で自分の「本当の気持ち」が分からなくなってしまうでしょうね。
2026.04.30
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子どもが何か困ったことや悪いことをしたようなときに、「なんでこんなことしたんだ」などと、問い詰めたり、追い詰めたりしている大人がいっぱいいます。そして「もうしないと約束しなさい」などと約束させます。また大人は「子どもの嘘」にも厳しいです。子どもは調子に乗ると「本当ではないこと」や「大人には本当ではないように思えること」などをペラペラと話し出します。でもそれは大人が考えるような「嘘」ではありません。子どもにとって大切なのは「主観的事実」であって「客観的な事実」ではないからです。それはつまり、子どもが大切にしているのは「聞いている人にとっての事実」ではなく「自分にとっての事実」の方だということです。そもそも、子どもは9才頃になるまで、物事を客観的に見る能力が育っていません。だから「嘘を言うんじゃありません」などと叱っても「主観的な事実」と「客観的な事実」の違いがよく分からないのです。まただから「子どものケンカ」の仲裁が難しいのです。両者とも「自分にとっての事実」しか言わないのですから。このことは、成長に伴う「子どもの絵」の変化を見てみるとよく分かります。9歳前後から視点の変化、意識の変化、表現の変化が大きく表れますから。絵を描かせると9才前の子は「見えなくても知っていること」まで描き込みます。また、人の絵などでも大好きな人は大きく、そうでない人は小さく、関心がない人はその場にいても描かなかったりします。視点もピカソの絵のように多方面からの視点を組み合わせて自由に描きます。家の絵を描かせると、レントゲンのように家の中にいる人まで描いたりします。これを「透視画」と言いますが、でもこれを「嘘」とは言いませんよね。でも大人は、たとえそれが意図的なものでなくても、「客観的な事実とは異なった主観的な事実」を言えば「嘘だ」言います。そして「嘘」を言う子を叱ります。でも、子どもには大人が何を、何で怒っているのかが分からないのです。そんな時子どもは、「大人が期待するような答え」を言うのです。自分はそう思っていなくても、「自分が本当に思っていること」を言って叱られるのなら、それが「自分にとっての嘘」であっても、叱られることから逃れるために「大人が聞きたい答え」を言うのです。すると、大人は安心します。「もう嘘なんかつくんじゃないぞ」などと言ったりもします。そうやって子どもは「嘘の付き方」を学んでいきます。
2026.04.29
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多くのお母さんや先生が、子どもに対して入れることばかり考えています。子どもの言葉には耳を傾けないのに、お母さんの言うことはちゃんと聞くように求めています。子どもの自由な行動は制限しているのに、指示した行動はちゃんとやるように求めています。からだを思いっきり動かすような活動の場を与えないのに、「最近の子は体の使い方が下手だ、体力がない」とか「食が細い」などと言っています。勉強も同じです、知識を覚えさせるばかりで、その知識の意味や使い方を学べるような体験や場を与えていません。ちなみに、タブレットで知識を覚えることは出来ますが、タブレットではその知識を活用するような体験は出来ません。それはつまり、「知識としてのノコギリの使い方」は学ぶことが出来ても、「実際にノコギリを使って木を切る体験は出来ないし、切れるようにもならない」ということです。でも、困ったことに、実際の体験が乏しい子は「使い方を知ってるのなら使えるはずだ」と思い込んでしまうのです。「知識と現実の違い」を学ぶためにも実際の体験が必要だからです。そのため、知識ばかりの子は、他の子がやっているのを見てうまく出来ていないと平気で批評、批判、評価します。でも、自分ではやろうとしません。そのように言う子に「じゃあ、君がやってみな」などと言うと、「やれば出来るけどやらない」などと言います。これは大人でも同じで、私が自分が作った笛を見せると「今度作り方を教えて下さい」と簡単に言ってくる人が結構います。そういう人は「知識としての作り方」を学べば自分でも作れると思い込んでいるのでしょう。でも、作り方を教えても、最初から教えてもらおうとする人には作れないのです。大人がもう「知識と現実の違い」が分からなくなってしまっているのです。今時の子どもの頭の中にはそんな「使えない知識、役に立たない知識」がいっぱい詰まっています。だから、好奇心が目覚めないのです。「好奇心」と呼ばれるような感情は、実際に何かを体験するような場でしか目覚めないからです。「野原の映像」だけを見ても好奇心は目覚めませんが、実際に野原に行って、野原と関わるような活動をすれば好奇心が目覚める可能性が高くなるのです。なぜなら、好奇心が目覚めるためには感覚や感情を通して実際にその対象と関わる必要があるからです。「映像」ではその体験が出来ないのです。心の中に「言いたいこと」が詰まっている子どもに何かを伝えようとしても無駄です。暗記は出来てもそれを理解し、吸収することが出来ません。心の中が「言いたいこと」でいっぱいな子は、頭の中もいっぱいだからです。子どもがお母さんの言葉に耳を傾けることが出来るようになるのは、お母さんが子どもの言いたいことにちゃんと耳を傾けた後です。「言いたいこと」を吐き出せば、頭の中がすっきりします。また、ちゃんと聞いてくれた相手を信頼することも出来ます。だから、聞くことが出来るようになるのです。また人は、自分の言葉に耳を傾けてくれる人の言葉には耳を傾けますが、自分の言葉を無視するような人の言葉は無視しますよね。これは皆さんも同じですよね。自由に遊んだり、言ったり、表現したり出来るような場や体験を与えられることなく、大人の都合や要求に合わせた活動ばかりを求められているような子は自分で感じ、考え、判断し行動する能力が育たなくなってしまうのです。でも、「言いたいこと」や、「自由に自分を表現できない苦しみ」や、「満たされない想い」はドンドン溜まっていきます。そして、自己肯定感はドンドン下がっていきます。だからといって、ある程度の年齢までそのようにして育った子に自由に発言させたり、活動させたりすると大変なことになります。危険な状況にもなります。「負の感情」を多く溜め込んだ子ほど、感情や、感覚や、意識や、からだのコントロールが出来ないからです。子どもが、自身の「感情や、感覚や、意識や、からだのコントロール」を学ぶためには、「言いたいことがあったら言ってみる」、「やりたいことがあったらやってみる」というような活動が許される場と、それを見守り、受け止め、反応を返してくれる大人が必要なんです。9才前の子なら、それまで入れることばかりを求められ、出すことが出来ずに負の感情を溜め込んだ子でも、そういう場を与えることで大きく変わります。大人もまた、それくらいまでの年齢の子の想いなら受け止めることが出来ます。でも、その状態で思春期を迎えてしまった子の溜め込まれた負の感情を受け止めるのは非常に困難です。
2026.04.28
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私たちが人のものを盗んだり、人を傷つけないのは、罰せられるからでも、結果として自分に不利になるからでも、社会的に禁止されていることだからでもありませんよね。そういう人もいるかも知れませんが、そういう人は、匿名というような状況なら、平気で人を傷つけるようなことをします。そして、そういう人が増えて来ています。でも、このブログをお読み頂いている人にはそういう人はいないと思います。ではなぜ、皆さんは匿名でも、人の心やからだを傷つけるようなことや、相手を悲しませるようなことをしないのかというと、そういうことをすると心が苦しくなるからですよね。悲しんでいる相手の気持ちに共感したり、相手の気持ちを理解することが出来てしまうからです。バレなくても人のものを盗めば自分の心が苦しくなってしまうのです。それを「良心」と呼んだりします。つまり、「良心」とは「心の感覚」でもあるのです。それは、真・善・美を感じる感覚と同じ種類のものです。ではどうして、相手の気持ちに共感したり、相手の気持ちを理解することが出来るのかというと、子どもの頃から他の人と心を通わせて来たからです。仲間や家族と共に笑い、泣き、怒り、遊び、生活し、一緒に色々なことを体験してきたからです。だから「こういうことをすると悲しむ」とか「こういうことをすると喜ぶ」ということが論理ではなく、感覚的に分かるようになるのです。でも最近、そういうことが分からない子が増えて来たような気がします。別段、悪い子じゃないんです。一対一で対応しているとみんないい子なんです。でも、平気で他の子が嫌がるようなことをするのです。そこに悪意はないのです。ただ単に、「こういうことをしたら相手が悲しむ」ということが分からないのです。「人の心を感じる感性や感覚」が育っていないのでしょう。そういう子でも、「こういうことをしたら大人に叱られる」とはっきりと分かっているような場では人を悲しませるようなことをしません。頭では「やってはいけないこと」と理解出来ているからです。でも、大人には目が届かないネットのような場では平気で人を悲しませるようなことをします。また、仲間の注目を集めるためにわざと悪いことや人を悲しませるようなことをする子もいます。「イジメや犯罪のようなことをして、それを動画にとってアップする」などというような理解不能なことまでする子もいます。そして、そういう子が増えて来ているような気がします。確かに、私が子どもの頃にも悪いことや、困ったことをする子はいました。でも、そういう子は大人に対しても反抗的でした。一目で「あいつは悪ガキだ」ということが分かりました。でも、最近の「悪いことや困ったことをする子」は、一見、みんな「素直でいい子」なんです。そこが大きく違うのです。ただ「人の心を感じる感性」が育っていないだけなんです。でも、それも当然ですよね。幼い頃から狭い部屋の中で一人でオモチャや機械を相手に遊び、リアルな現実世界で、他の人や仲間と、嬉しいことや、楽しい事や、遊びや、生活を共有することなく育ってしまえば、相手に共感する感覚や感性が育つ訳がないですよね。
2026.04.27
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今の子育てや教育の現状に対して、様々な人が様々なことを言ったりやったりしていますが、「子どもの人間らしい心とからだの成長には〝美しいもの〟との出会いが必要だ」というようなことを言っている人は多くありません。人間の知的能力や社会性の育ちだけを考えるのなら〝美しいものとの出会い〟は特に必要ありません。実際、「競争に勝つための能力」や「社会性の育ち」にしか興味がない現代社会では〝美しいもの〟がドンドン消えて、〝醜悪なもの〟がドンドン増えてきています。また〝美しいものとの出会い〟がなくても、子どもたちは「遊び」を通して社会性や助け合う能力を育てることも出来ます。もっとも、最近はそれすらも学べない子も増えてきていますけど。でも、人間の「人間らしい精神や魂の育ち」や「内面の美しさの育ち」を支えたいと思うのなら、子ども達を〝美しいもの〟と出会わせてあげる必要があるのです。特に7才まで、9才まで、14才までの子どもにとっては〝美しいものとの出会い〟が絶対的に必要なのではないかと私は思っています。そしてそれが「人間の育て方」なのではないかとも。もっとも、今、そのようなものの育ちに興味がある人は多くありません。お金儲けにはつながらない能力ですから。ここに7才、9才、14才という区切りを書いたのは、その辺りで「成長に必要な美しさ」が変化するからです。私の中でもまだ整理されていないのでちゃんとは書けないのですが、幼児期には、色や音や味や触覚や嗅覚などといったような「五感に感じる美しさ」との出会いが必要な気がします。その出会いが美醜や善悪を感じ分ける感覚の判断基準を育てているような気がするからです。その出会いを失ってしまった最近の子ども達は「カワイイ」には反応しますが「キレイ(美しい)」には反応しません。また、人工的に作られた甘いものは喜びますが、素材本来が持っている素の甘さにはあまり反応しません。「見た目」は気にしますが、自分の感覚ではなく流行を基準にしています。絵を見たり音楽を聴いても「味わう」ということが出来ません。足下に生えている草花や自然の美しさ、身近にいる虫たちの美しさに気付く子は少ないです。土や水の感触を「心地よい」と感じる子も減りました。人間はその成長において「自然との出会い」「人間との出会い」「社会との出会い」「真理との出会い」という様々な出会いが必要になります。その時「美しい自然」、「人のことを思いやることが出来る美しい人間」、「助け合いによって支えられている美しい社会」、「宇宙の真理を解き明かすような美しい考え方」と出会えた子は幸いです。知識をいっぱい覚えさせたり、様々な能力を育てるような教育は「人間が持っている機能」を育てるためのものです。その理想型が「AI」です。でも、どんなにAIを目指して子どもを教育しても、絶対にAIには追いつけません。なぜなら人間は感情や命といった「論理化しきれないもの」の支配を受けているからです。人間は「勉強なんか嫌だな」と感じたりしますが、AIはそんなこと感じないのです。さらに、最近のAIは「人間のように動くことが出来るからだ」まで手に入れ始めています。ですから、AIを目指して教育を受けた子は、社会に出てもAIの下で働くしかないのです。でも実は、その「論理化しきれないもの」が人間らしい想像力や創造力の源泉になっているのです。人間の成長を支えているのです。そしてその「論理化出来ないもの」育てるために「美しいものとの出会い」が必要になるのです。
2026.04.26
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私たちは常に何かしらの「全体」の一部です。「人間」という存在の一部であったり、「会社」という存在の一部であったり、男性や女性という「性別」の一部であったり、地球人の一部であったり、自然の一部であったり、地球の一部であったり、宇宙の一部であったりします。私たちのからだを構成している炭素や鉄などの物質は、地球が生まれる以前に、遙か彼方の宇宙空間で巨大な星の死滅と共に作られたものです。私たちのからだは地球が生まれる以前に、長い時間宇宙空間を旅して来たものによって作られているのです。これは「私のからだ」だけではなく、「皆さんのからだ」も、「地球上の全ての生き物のからだ」も、「地球そのもの」も同じです。そもそも地球自体が、「星の残骸」が固まって出来たものですから、間違いなく私たちは「宇宙の一部」なのです。この「全体」というつながりの外の世界は存在していません。この宇宙に存在するもの全てが、何らかの「全体」の一部なのです。ですから、本当はつながりから切り離された「孤独な存在」など存在していないのです。これは宗教ではなく、誰もが否定できない物理的な事実です。「つながり」を感じられないのは意識の働きが「自分」にしがみついているからです。夜、星空を見上げて下さい。私たちの外の世界にあの星空があるのではなく、あの星空の一部として私たちは存在しているのです。古代の人は感覚的にそのことを感じ、その説明不能な「全体」を「神」と言い表したのでしょう。そして、「神の一部としての自分」に安らぎを感じたのだと思います。ところが、現代人は人間を「更に大きな全体の一部」とは考えなくなりました。そして、「人間こそが全ての頂点で、全てが人間から始まると」と考えるようになりました。人間至上主義です。そして、「人間は自然の一部であり地球の一部に過ぎない」ということを忘れ、「自然や地球の支配者」だと思い込むようになってしまいました。でも、それは事実とは異なります。人間は「この世界のありのまま」を無視して、人間の都合だけでデタラメな世界観を作り出してしまったのです。そして、「人間を含む大きな全体」が作り出していた「つながり」を平気で無視して、破壊し始めました。それは例えば、「脳」が「自分が一番偉くて、手や足やからだは奴隷に過ぎない」と思い込むようなものです。でも、「脳」が脳を含む更に大きな「生命という全体の声」に耳を傾けることなく、「手」や「足」や「からだ」をこき使っていると、「生命の働き」という全体のバランスが狂い始め、それと同時に「脳」もまた狂い始めるのです。そして、同じ原理で「人間」もまた狂い始めています。それは今の人間や地球の状態を、子どものような素直な気持ちで見て見ればすぐに分かることです。私はいつも「子どもには古代人の感性がある」と書いていますが、そのため子どもには「全体を見る感覚」があります。だから、子ども達は大人がやっていることに違和感と不安を感じるのです。でも、「部分」しか見ていない大人達はそのことに気付きません。「7才までは夢の中」という言葉がありますが、7才までの子ども達はファンタジーの世界の中に生きています。そのファンタジーの世界は、まさに「全体とのつながりの世界」なんです。「自分を含む更に大きな全体の存在」をはっきりと感じることが出来る世界が「ファンタジーの世界」なんです。大人達が信じている人間中心の考え方では、人間以外の生き物は人間より下等で、人間の支配下にあります。でも、子ども達が感じている「人間を含むさらに大きな生命の世界」では、人間もウサギも猫もミミズもみんな兄弟です。それらの生命の間に本質的な違いは存在していません。だから、自在に変化(へんげ)することも可能なのです。そして、冷静に考えたら分かることなんですが、大人が信じている「人間中心」の世界観よりも、子どもが感じている「全ての生命は兄弟である」という世界の方が、科学が提示する事実に近いのです。「この世界は人間中心に回っていて、人間が一番偉いのだ」というのは単なる妄想に過ぎないのです。そんな考え方をしているから「孤独な人間」ばかりが増え、人の心も、自然も、社会も荒廃してしまうのです。「部分」に過ぎないものが勝手なことをやっているので、「全体」が狂い始めているのです。ただ、ここで非常に大きな問題があるのです。「全体の歪み」に気付くためには、自分とは異なる「部分」の声に耳を傾けるしかないということです。でも、それが出来るくらいなら最初からこんな状態にはならないわけですから、人類は今非常に困った状態に陥っています。当然のことながら、「部分」と「全体」は運命共同体です。「全体」が滅びるときには必ず「部分」も滅びます。「生命が死んで脳だけ生き残る」などということはあり得ないのです。会社がつぶれたら自分も路頭に迷うのです。だから、「部分」は常に他の「部分」のことも考え、お互いに支え合い、補い合うような関わり方をする必要があるのです。そして、そのことで自分もまた生き生きとすることが出来るのです。それは自分を犠牲にすることではなく、逆に自分を生かすことなのです。
2026.04.25
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犬の赤ちゃんは「犬としての教育」をしなくても、「犬らしく」育ちます。猫の赤ちゃんも「猫としての教育」をしなくても、「猫らしく」育ちます。でも、人間の赤ちゃんだけは「人間としての教育」をしないことには「人間らしく」育たないのです。それが人間の短所であると同時に長所でもあります。なぜ「短所」なのかというと、そのような特徴があるから「子育て」が面倒くさく、また難しいものになってしまっているからです。そのような特徴がなければ、ただ安全と衣食住と、退屈しないようにオモチャやゲームを与えておくだけで子どもはちゃんと育つのです。またそうなら、小さいときから保育園に預けても「子どもの成長」に関して何にも心配することがなくなります。それなら楽ですよね。でも実際には、人間の子どもは「人間らしさ」を持った人の活動を見たり、その様な人と人間らしい関わりをすることで、「人間らしさ」を育てているのです。ちなみに保育園の先生の役割はあくまでも「保育」であって、「教育」や「子育て」や「人間育て」ではありませんからね。ですから、保育園の先生は「子どもの安全」には気を配りますが、「子どもの人生」には気を配りません。それは「お母さんやお父さんの役割」であって、「保育園の先生の役割」ではないからです。そこはしっかりと認識した方がいいです。そうでないと後で後悔します。ただし、小数ではありますが、そこまで踏み込んだ保育をしようとしている保育園もあります。そのような保育園では、子どもだけでなく、「お母さん育て」「お父さん育て」というような視点の活動までしています。子どもにハサミを使わせただけで文句を言ってくるようなお母さんやお父さんがいたら「子どものための保育」が出来なくなってしまうからです。でもその様な保育園は小数です。そして数も減ってきているのではないでしょうか。安全と、安心と、楽ばかりを求める親が増えてきましたから。「人間の赤ちゃんが人間らしく育つためには人間らしさのお手本が必要だ」ということの長所としての側面は、「だから無限の可能性を持っている」ということです。赤ちゃんは、それがどんな言葉であろうと、自分を育ててくれる人の言葉を学ぶことが出来ます。テレビを見せても言葉は覚えませんが、話しかけてくれて、自分の言葉に耳を傾けてくれる人がいればその人の言葉を覚えることが出来るのです。ただし、それ故にお母さんが「乱暴な言葉」を話していると、子どもも「乱暴な言葉」を話すようになりますけどね。それは言葉だけではありません。歩くこと、踊ること、絵を描くこと、歌を歌うこと、人に優しくすること、木登り、コマ回し、子どもは目で見ることが出来るものなら何でも真似しようとするのです。勉強も、お母さんやお父さんが子どもに見えるような状態でいつも楽しそうに勉強しているのなら、子どもも勉強に興味を持って勉強を始めるでしょう。でも、目に見える型は真似することが出来ますが、目に見えない中身まで真似することは出来ません。目には見えない中身を伝えるためには「子どもとの対話」が必要になります。子育てにおいて、人間の成長におけるこの特徴を長所にすることが出来るか、短所にしてしまうかはあなた次第です。
2026.04.24
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昨日テレビを見ていたら、「膝の筋力不足を補う」というサポーターの宣伝をしていました。数人の芸能人がそれを付けて、「本当だ、歩くのが楽になった」「イスから片足で立ち上がれるようになった」などと言っていました。私はそのCMを見ながら、「筋力が落ちて歩くことや、階段の上り下りが困難になったのなら、サポーターを付けるのではなく、運動して筋力を付けるようにした方がいいのに」と思ってしまいました。確かに、筋力不足をサポーターで補えば歩くのが楽になるでしょう。でも、生活スタイルが変わらないのなら、筋力の低下はさらに進むでしょう。そしてやがて、筋力不足を補助するさらに強力な何かを必要とするようになるでしょう。また、そのサポーターを取ったら、サポーターをつける前より足が重くなり、膝は体重を支えられなくなり、以前よりもさらに歩行が困難になってしまうでしょう。また、膝の筋肉は支えられても、からだの他の部分の筋肉はそのままなので、元気に歩いていてちょっとした段差に躓いて転んだだけで、からだを守ることが出来ずに、大けがを負ってしまう可能性も高いです。膝の筋肉が低下していることに気付いたなら、サポーターに頼るのではなく、普段よりも多く歩くようにしたり、意識して運動するようにすれば膝の筋肉だけでなく、それと繋がっている他の筋肉もバランスよく鍛えられるので、転んでもケガをする可能性は低くなるのです。確かに、障害を持っていたり、歳を取っていたり、ケガをしたりしていて、運動が困難な状態の人にはそのような、「衰えた身体機能を補うようなサポーター」は有効だと思います。でも、運動しようと思えば出来る状態の人には、そのようなサポーターは有害でしかありません。筋力の衰えは、気力や、生命力や、認知力や、人間の活動を支えている様々な能力の低下の表れでもあるので、便利な道具などで膝の筋力をサポートしても、それだけでは意味がないのです。駅などに階段とエスカレーターがあると、大部分の人がエスカレーターの方に行きます。その方が簡単で便利で楽だからなのでしょう。でも、まだ階段を上る能力があるのなら、頑張って階段を上るようにした方がその能力を長く維持できるのです。そしてそれは気力や、生命力や、認知力や、人間の活動を支えている様々な能力の維持にもつながるのです。それは、ちょっと考えれば当たり前のことなんですが、でも実際には多くの人が「簡単で便利で楽な方」を選んでいます。それでも、もう成長が止まってしまった大人は自分が好きにすればいいのです。私はそこまで干渉しません。私はただ、「ああ、この人は自分を大切にしようとしていないんだな」と思って見ているだけです。でも、成長過程にある子どもの場合は、明らかにそれはまずいのです。子どもの成長を支えなければいけない大人の責任として、安易にそのような「簡単で便利で楽なもの」を与えてはいけないのです。なぜなら、「簡単で便利で楽なもの」は子どもから「成長する必要性」を奪ってしまうからです。それは「大人のサポート」でも同じです。木登りしている子を見て「自分も登りたい」と言う子を、ヒョイと枝の上に乗せてあげたり、ヒモを巻くコマが回せない子に、ヒモを巻かなくても簡単に回せるコマを与えたり、素材から作ることが出来ない子にキットを与えたりしている大人がいっぱいいます。でも、今ではそのキットすら組み立てることが出来ない子が多いのです。最初から自分で作ることが出来る子は、キットを使えばさらに簡単に作ることが出来ます、でも、キットしか知らない子は、キットを使っても作れなくなってしまうのです。そして「すでに出来出来上がったもの」しか求めなくなります。また、そのような「簡単で便利で楽なもの」を与えられることで、子どもは、実際には自分の力では何も出来ないのに、何でも出来るような気になってしまうのです。成長したわけではないのに、成長したような錯覚に囚われてしまうのです。そして、「学び、努力し、成長すれば困難を克服出来る」ということを学ぶことが出来なくなってしまうのです。子どもが「学び、努力し、成長すれば困難を克服出来る」ということを学ぶためには、安易な手助けや、簡単で便利で楽な道具は不要なんです。だからといって「放っておけばいい」ということでもありません。同じ方向を向いて気持ちを共有する仲間も必要です。見守り、励まし、信頼して待ってくれる大人も必要です。
2026.04.23
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昨日は、人が近づいてきただけ、明るいところから暗いところに入っただけ、広いところから狭いところに移動しただけ、ピシッとした洋服からゆったりとした洋服に替えただけ、明るい色の洋服から暗い色の洋服に替えただけ、下を向いて歩く癖がある人が上を向いて歩くだけ、肉中心の食生活から野菜を多く取る生活に変えるだけ、雑音の多いところから静かなところに移動しただけ、姿勢や歩き方を変えただけ、それだけでからだの状態が変わります。そしてそれに伴って心の状態も変わります。ということを書きました。そしてそれは子どもでも同じです。どういう食事をして、どういうものを見て、どういう音を聴いて、どういうものに触れ、どういう匂いを嗅いでいるのか。どういう人間関係の中にいて、どういう生活環境、住環境の中で暮らしているのかということも、子どもの心とからだの状態に大きな影響を与えています。それが一過的なものならば、周囲の環境が元に戻れば、子どもの心とからだの状態も元に戻ります。そして、それほど子どもの成長に大きな影響は与えないと思います。でもそれが日常的なものの場合は、それらの要素は子どもの心とからだの中に組み込まれ成長に大きな影響を与えていきます。日常的に大きな音がしているような環境で育てば、当然のことながら音に対する感受性は鈍くなります。感受性を鈍くすることで強い刺激から自分を守ろうとするのです。これは味覚や視覚的な刺激に対しても同じです。日常的に刺激が強い食べ物を食べていたり、刺激が強い映像ばかりを見ていると心やからだはその刺激によって傷つかないように感受性を鈍くしていくのです。私たちは夜でも電気の光があれば普通にものを見ることが出来ます。先日行ったネパールや私が子どもの頃は薄暗い裸電球しかありませんでした。でも、別に不自由はしていませんでした。目が慣れてくればなんとか見えるからです。でも、昼間の明るい状態から、いきなり裸電球の状態になったら、瞬間的に真っ暗になったように感じますよね。でも、しばらくすると普通に見えるようになります。これは、車を運転していて明るいところから暗いトンネルに入るときにも起きる現象です。甘みの強いお菓子を食べてから、優しい甘みの果物を食べても甘く感じないでしょう。皆さんも、こういうことは日常的に体験していますよね。問題は感覚の働きが育っている時期の子ども達が、日常的に甘みの強いお菓子ばかり食べていると、「甘みに対する感受性」が育たなくなってしまうということなんです。一過的なものではなくなってしまうということです。その結果、さらに甘いものを求めるようになります。でも、甘みに対する感受性は鈍くなりますが、甘みの背後にある「苦み」に対する感受性は育ちます。甘いお菓子には苦みは含まれていませんから。野菜の味には「苦み」も含まれています。でも、幼い時から野菜を食べているとその苦みが気にならなくなります。でも、あまり野菜を食べていなかったり、苦みが弱くなるように品種改良された野菜(苦くないピーマンのようなもの)ばかり食べていると、苦みに対する感受性が高くなります。すると、野菜の中に含まれるかすかな苦みにも気づくようになり、野菜を拒否するようになります。でも、苦いからと行って野菜を食べなければ子どもの成長に影響が出ます。「何を食べているのか」ということは腸内環境に大きな影響を与えているので、心の状態や免疫能力にも影響が出ます。ネットなどで調べて頂ければ分かりますが、近年の研究で腸内環境が「心の状態」や「頭の状態」や「免疫能力」に大きな影響を与えていることが分かってきています。その子どもの腸内環境の出発点はお母さんから受け継がれています。出産の時に、産道を通る過程でお母さんから腸内細菌をいっぱい受け継いでいるのです。ただし、これは自然分娩の時です。産まれた後は、現代的な感覚からしたら不衛生ですが、お母さんが咀嚼して柔らかくしたものを赤ちゃんに与えるような行為でも、お母さんの腸内細菌が子どもの体の中に受け継がれます。当然のことながら、工場で生産されたベビーフードには腸内細菌は含まれていません。また、味覚だけでなく他の感覚の働きにも影響が出ます。人間の感覚は全てつながっているからです。そして、これは説明が難しいのですが、「音に対する感受性」が鈍くなれば、「自然に対する感受性」や「人の心に対する感受性」も鈍くなります。
2026.04.22
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昨日は「からだを変えれば心も変わるのです」ということを書きました。では、「どのようにしたらからだを変えることが出来るのか」ということです。でも実は、皆さんのからだは常に変化しているのです。むしろ同じ状態に固定することの方が難しいのです。だから、それに合わせてしょっちゅう心の状態も変わっているのです。ただ、その自覚がないだけです。人が近づいてきただけ、明るいところから暗いところに入っただけ、広いところから狭いところに移動しただけ、ピシッとした洋服からゆったりとした洋服に替えただけ、明るい色の洋服から暗い色の洋服に替えただけ、下を向いて歩く癖がある人が上を向いて歩くだけ、肉中心の食生活から野菜を多く取る生活に変えるだけ、雑音の多いところから静かなところに移動しただけ、姿勢や歩き方を変えただけ、それだけでからだの状態が変わります。そしてそれに伴って心の状態も変わります。明るい洋服を着た時と、暗い洋服を着た時とでは気分が変わりますでしょ。姿勢も表情も変わりますでしょ。そういうことです。気質の勉強会では、そのような「からだの変化に伴う心の変化」を感じるようなワークをよくやります。人にはそれぞれ、「他の人と出会うときの快適な距離」というものがあります。憂鬱質の子どもは、こちらに安心して慣れてくるまで近寄ってきません。まだ慣れていない時に近寄ろうとすると、瞬間的に表情もからだも心も固まります。防御の状態になるのです。大人になるとそれほど極端な反応はしなくなりますが、それでも基本的な反応は同じです。それに対して、多血質の子どもは近寄ってもからだを固めません。むしろ嬉しそうな表情になります。ワークではまず二人組になって、お互いが安心できる距離まで離れ、ちゃんと相手の目を見ながら向き合って立ってもらいます。そして一方は立ったまま、もう一方は相手の目を見ながら少しずつ近寄っていきます。そして、立ったままの人が緊張を感じたら、手を上げてストップのサインを出します。そして、その距離を確認します。これを交互にやります。知り合い同士か、同性かでも距離は大きく変わってしまいますから、出来るだけ知らない相手を選んでもらいます。すると、憂鬱質が強い人は2,3mの時点でストップをかける人が多いです。でも、多血質が強い人はその距離を超えてもストップをかけません。結果、抱きつくところまで行ってしまうことも多いです。でも、寄っていく側の人が憂鬱質が強いと寄っていく方が辛くなります。胆汁質や多血質が強い欧米の人は、相手の正面、しかも近くに立って、相手の目を見て話します。そもそも、そういう位置関係でないと「ハロー」と言いながら握手することが出来ません。肩を抱くことも出来ません。でも、憂鬱や粘液が強い日本人はそんな近くまで寄りません。肌が触れ合うどころか握手すら出来ない距離に立ちます。しかも、正面を外します。そして、相手の顔はチラチラッとみますが、目をしっかりと見て話すと言うことはしません。日本人同士でやっても気質に応じて似たような結果になります。気質のワークではその距離の違いを確認するだけですが、からだのワークではさらにその先をやります。ストップをかけたら、緊張を感じた方の人がからだを色々と動かしてみて、どうやったら緊張が解けるのかを試すのです。姿勢を変えてみる、ピョンピョン跳ねてみる、口を大きく開けてみる、重心の位置を変えてみる、からだを揺すってみる、などというようなことをやってみるのです。そうしてからだの状態を変えると意識の状態も変わるので、緊張が取れます。寄っていく方の人は相手の緊張が取れたらまた近寄って行きます。それを繰り返して相手の手を握るところまで近づきます。自分の中の緊張に気づき、意識的にからだの状態を変えることでその緊張をほどくことが出来るようにするのです。心で「緊張しないように、緊張しないように」と念じても無駄です。
2026.04.21
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土曜日は気持ちの良い天気だったので、自転車で江ノ島まで行ってきました。江ノ島は近いので時々行きます。行っても何をするわけでもなく、磯で海を見ながらお昼ご飯を食べて帰ってくるだけです。海に行くといつも感じるのですが、海では深い思考が出来なくなります。何となく気持ちが良くなってしまって、ボーっとしたくなるのです。それは海風のせいか、広い空間のせいか、波の音のせいか、潮の匂いのせいか分かりませんが、とにかく心とからだが町中にいる時や、山に行った時とは違った状態になるのです。山を歩きながらだと、深く、長くものを考えることが出来ます。町中にいる時には細切れに色々なことを考えます。まあ、他の人の場合はどうだか分かりませんが、でも、場所によって心やからだの状態が変わってしまう、というのは誰でも同じなのではないでしょうか。ですから、家の中で悩んでいたことが、海に行ったら気にならなくなってしまうなどということもあるのではないかと思います。問題が解決したわけではないのに、置かれた環境に応じて心とからだの状態が変わるだけでそれが問題ではなくなってしまうのです。子どもが言うことを聞かなくて悩んでいる人もいれば、そんなこと全然気にならない人もいます。また、同じ人でもある時には気になったことが、別の時には気にならないと言うこともあります。一般的に心に余裕がない時には細かいことが気になり、余裕がある時には細かいことは気になりません。心に余裕がある時には心の視野が広くなるからなのでしょう。だったら、子育ての問題を解決するには二通りの方法があることになります。一つはきちんと問題を突き詰めて答えを見つけることです。これは多くの人がやっていることです。でも、正解がある場合はこの方法は有効なのですが、正解がないものの場合はいくら追いつめて考えても迷路に入るばかりで答えにたどり着くことは出来ません。それに、答えのない問題の答えは人それぞれなので、他の人に聞いても自分の問題を解決する答えにはなりません。もう一つの方法は、心とからだの状態を変えてしまうことです。すると不思議なことに、問題それ自体が消えてしまうか、気にならなくなってしまうことがよくあるのです。特に、人によって答えが大きく違うような問題の場合にこの現象は起きます。一般的に、心とからだに余裕が出てくると視野が大きくなって客観的に物事を見ることが出来るようになります。だから細かいことが気にならなくなるのです。でも、心とからだに余裕がないと視野が狭くなって主観的に物事を判断するようになります。そのような状態の人が数人集まれば、主観と主観のぶつかり合いがおき、生存競争が起きます。ちなみに、子どもは主観の世界を生きています。ですから、大人が客観の世界にいればぶつかりませんが、大人も主観の世界にとらわれていると、生存競争になります。必然的に悩みも増えます。主観の世界にとらわれているとは、個人的な主義主張、価値観、感性にとらわれていると言うことです。人は誰でも自分の悩みは特別で、大切で、非常に重要なものだと思っています。だから悩んでいるわけですが、でも、だから悩みを手放すことが出来ないのです。そしていつまでも悩むことになります。そして、いつまでも何も変わらないのです。もしかしたらあなたが今悩んでいることは、本当は大したことではないかも知れません。からだという視点を持ち、からだにアクセスすることを学べば、心が変わります。すると、今の悩みは消えてしまうかも知れません。そういう問題の解決方法もあるのです。コペルニクス的な発想の転換です。寒い、寒いと悩み続けていても暖かくはなりませんが、セーターを一枚着るだけで暖かくなります。その程度の悩みで自分の人生を無駄にはしたくないですよね。
2026.04.20
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昨日、古くからの友人が企画してくれた「子育て対談」をFBの公開ライブでやりました。一昨日の夜決まって、昨日の朝ちょっと打ち合わせしてのいきなりでしたが、多くの人が見に来てくれました。内容は子育て、シュタイナー教育、心とからだ、からだの使い方など多岐に亘っています。今はyoutubeにアップしてあります。ご興味のある方はご覧になって下さい。「ここ」です。あと、子育てのついてのあれこれを学ぶ「ゆりかご」というZoomの講座を5月から始めます。毎月第四金曜日の10:00~12:00です。ご興味のある方は「こちら」まで連絡下さい。****************現代の子ども達はみんな「消費者」として教育されています。タブレットのような、簡単で便利な電子機器を使った教育も「消費者」を育てるためのものです。タブレットを使って学んだ子は、タブレットがないとどのように学んだらいいのか分からなくなってしまうでしょう。確かに、タブレットを使えば簡単に、効率的に知識を学ぶことは出来ます。でも、「学び方」を学ぶことが出来ないのです。それはタブレットの中に組み込まれてしまっているからです。そのため、そのようなものを使った授業ばかりを受けていると、タブレットがないとどのようにして学んだらいいのか分からなくなります。大人になって我が子が生まれても、「子育ての仕方」をタブレットやスマホに問いかけます。でも、そこにあるのは知識だけです。そして、知識だけでは子育ては出来ません。幼いときから「消費者としての教育」を受けて育った現代人は、食べるものでも、生活で使うものでも、知識のようなものでも、消費することしか出来ません。「生産する」という発想もないし、生産したいとも思いません。自分で生産したいと思ってもその知識も技術もありません。でも当然ながら、消費する人しかいない社会はその活力を維持することが出来ません。循環しないからです。でも、生産する教育を受けた人は消費することも出来ます。なぜなら、消費に必要なのはお金だけだからです。そして、生産することが出来る人は自分でそのお金を稼ぐことが出来ます。でも、消費することしか出来ない人がお金を稼ぐのは大変です。お金を持っている人に依存して、自分の時間や自分の人生を切り売りしないことにはお金を稼ぐことが出来ないからです。そのため、消費することしか出来ない人は都会でしか生きることが出来ません。また、国や会社の偉い人に逆らうことも出来ません。「もう明日から来なくていいよ」と言われたら生きていけなくなってしまうからです。「ぽつんと一軒家」というテレビ番組がありますが、そこに出てくる人はみんな何らかの「生産」をしています。生産をしているから、人里離れた一軒家でも自立した生活ができているのです。私が子どもの頃は、水鉄砲も、竹とんぼも、凧も、自分で作り方を学び自分で素材を探し、自分の手で作るものでした。でも、今では「お店で買うもの」になっています。現代の子ども達にとって、「遊ぶもの」を手に入れるために必要なのは「お金」だけです。「知識の学び」も、「技術の学び」も、「頭の使い方の学び」も、「からだの使い方の学び」も必要ありません。だから、教育においても「お金を儲ける能力」を育てることには熱心ですが、「知識の学び方」、「技術の学び方」「頭の使い方」「からだの使い方」を学ばせようとはしていません。そのような「消費者としての教育」ばかりを受けた子にとっての「作る」というのは、「キット」のようなものを「組み立てる」ことのようです。実際、学校の工作では、刃物を使わせず、すでに加工されたパーツを組み立てるだけの活動になっています。うちは造形教室をしていますが、教室に最初に来た頃の子もそんな感覚です。「椅子を作りたい」というので木を出してあげるとポカンとします。そして、「え! これ、自分で切るの?」と聞いてくる子もいます。それで「そうだよ、ここは自分で作るところだから」と答えるのですが、次に「何で切ったらいいの?」と聞いてきます。それで、「ハサミ、ナイフ、ノコギリ、腕力、超能力、切れるならなんでもいいよ」と言うと、実際にハサミやナイフで切ろうとし始める子もいます。まあ、ほとんどの子はノコギリを選びますけどね。次に、「どこで切ったらいいのか分からない」と言ってきます。頭の中に設計図がないからです。当然、ノコギリの持ち方も使い方も知りません。そのため、切り始めても、すぐに「切れない」「重い」「疲れた」「腰が痛い」などと言い出します。そしてこれと同じようなことが子育ての現場でも起きています。実際、我が子の子育てが始まるまでは、「子どもは子育てのマニュアル通りにやればちゃんと育つ」と思い込んでいる(ようにしか見えない)お母さんがいっぱいいますから。でも、消費者としての感覚や能力では子育ては出来ないのです。「生産者としての知識や能力」が子育てには必要なんです。
2026.04.19
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人と人のつながりの中で生きていた昔の子ども達の回りには、「遊びのお手本」「生活のお手本」「人生のお手本」「学びのお手本」「人間としてのお手本」がいっぱい存在していました。実際にそのお手本を見て学ぶかどうかは子ども次第ですが、でも、お手本が存在していなければ「自立した学び」が出来ないのも事実です。「自立した学び」とは「教えてもらう学び」ではなく、「自分の意思で、自分の体験と工夫と思考を通して学ぶ学び」のことです。確かに、タブレットを使って勉強することは出来ます。人に教わるよりも効率的に勉強できるかも知れません。結果、成績もアップするかも知れません。でも、タブレット学習では「学び方」を学ぶことが出来ないのです。「誰かが発見した知識」を学ぶことは出来ても、「自分自身の思考や、体験や、工夫を通して自分で知識を発見する能力」が育たないのです。タブレットで知識としての「カブトムシの生態」は学ぶことが出来ても、実際に山の中に入って苦労して自分でカブトムシを見つけた子が学ぶことが出来る「カブトムシの生態」は学ぶことが出来ません。カブトムシを捕まえたときの喜びや、カブトムシについて何か新しいことを発見したときの喜びも感じることが出来ません。タブレットで「カブトムシの捕まえ方」を学んでも、それだけではカブトムシを捕まえることは出来ません。タブレットで勉強すれば「カブトムシに詳しい子」にはなることが出来るかも知れませんが、「カブトムシの研究者」にはなれません。これは一見リアルな体験を与えてくれるVRを使った学習でも同じです。VRの中でカブトムシを捕まえることが出来ても、汚くて、虫がいて、じめじめしていて、からだにまとわりつく雑草がいっぱい生えている実際の森の中でカブトムシを捕まえるのは困難です。というか、快適で安全な部屋の中で、清潔なデジタルを使った学習しかしていない子は、リアルな森の中に入ることすら出来ないでしょう。これは子育てでも同じで、「知識としての子育ての方法」はAIやネットで調べることが出来ます。そして実際に、知識に関してなら子育ての専門家のように詳しいお母さんもいます。でも、そのようなお母さんでも、リアルな子育てがうまく行かなくて苦しんでいます。そういうお母さんから子育ての相談を受けると面倒くさいです。私が何かを言っても「それは知っています」と返ってくるからです。でも、知っているかも知れないけど出来ていないから言っているのです。また出来ていないから子育てが苦しくなってしまっているのです。「知っている」ということと「出来ている」ということは全くの別物なんですが、知識を学ぶだけの学習をしてきた人にはそれが分からないのです。AIやネットに情報をアップしている人は、皆さんのお子さんのことも、皆さんの性格や置かれた状況も知りません。AIが教えてくれるのは一般論としての知識だけです。「我が子」のことは教えてくれないのです。大分以前のことですが、子育て支援をしている人が「最近のお母さんは子どもをちゃんと見ていない、子どもと関われない、子どもを受け入れることが出来ない」というようなことを言っていました。我が子のおむつすら汚くて手で触れない、子どもの鼻水やよだれを「汚いもの」と感じてしまう、泣き声に耐えられない、ちょっと転んだだけ、ちょっと他の子とケンカしただけでも見守れない、ちょっとしたケガや病気でも大騒ぎしてすぐに病院に連れて行く。子どもの状態や成長が気になって気になって不安で仕方がない。そのようなお母さんが増えてきたようです。「子どもと一緒にいるのが辛い」と言うお母さんもいます。そういうお母さんは子育てに対する不安があるから、知識だけはいっぱい集めています。知識を集めることで安心を得たり、「失敗しない子育て」をしようとしているのでしょう。でも、その様なお母さんは子どもの「お手本」にはなることが出来ません。ペットを育てるような子育ては出来ても、我が子の子育ては出来ません。また、我が子との関わりを通して「我が子の育て方」を学ぶことも出来ません。我が子のことは我が子との関わりを通して直接、我が子から学ぶしかないからです。でも、タブレットやネットで「誰かが発見した知識」だけを学んだ人にはそれが出来ないのです。子どもの学習も同じです。タブレットで学んだ知識は学校の中でしか使えません。学校の外の世界のことは、自分の体験を通して学ぶしかないのです。でも、最近の子にはその様な能力を育てる場も、その様な学びをしているお手本とも出会うことが出来ません。
2026.04.18
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10年以上前から「ゆりかご」という名称で子育ての勉強会をしきましたが、今年はとうとう参加者がいませんでした。世の中には、自分で自分の首を絞めるような子育てをしている人がいっぱいいます。そういうお母さんに「子育てって楽しいよ」「子どもと一緒に育ってみませんか」「子どもはお母さんと自然、社会、世界をつないでくれますよ」ということを伝えたいと思って活動してきましたが、私の宣伝が下手なせいなのか、お母さん達が「自分育て」に興味がなくなったのか分からないのですが、4月から講座を始めることが出来なくなりました。「参加したい」というお母さんの声があれば、5月から開講します。地元の茅ヶ崎でも、ZoomでもOKです。ご希望の方は連絡して下さい。*********************子どもの自殺や、学校に行かない、行けないという状態の子どもたちが増えている状況で「子どものために」と活動している大人はいっぱいいます。そのような大人は子どもと向き合おうとしています。悩んでいる子ども、苦しんでいる子どもの声を聞き、その悩みや苦しみを和らげたり、取り除こうと頑張っている大人もいっぱいいます。それはそれで大切なことだし、重要なことです。でもそれは病気でいうところの「治療」のようなものです。でも私は、治療以上に大切なことは、子どもを「治療を必要としない状態」に育てたり、「自分で自分をケアする能力」を育ててあげることなのではないかと思うのです。「治療」には専門的な知識や技術が必要です。そしてそれは「お母さん」には出来ないことです。また、しない方がいいとも思っています。それをするとお母さんが、子どもにとっては「お母さん」ではなくなってしまうからです。「お母さん」は子どもにとっての「命の土台」です。だから、特別なことなどしなくても、しっかりと、ドシッとして、子どもに安心を与える存在であればいいのです。自分の意思で自分らしく生きていればいいのです。それだけで子どもは、お母さんをお手本として、自分の意思と本能で外の世界に意識を向け、外の世界で生きていくために必要な能力を育てていくことが出来るのです。でも実際には、多くのお母さんがしょっちゅう地震のように揺れ動いています。だから、子どもは不安を感じます。そして、外の世界に意識を向けたり、外の世界に出て行くことが出来なくなってしまっているのです。子どもに「自由に生きて欲しい」と願うのなら、お母さんも人の目など気にしないで、自分の意思で自由に生きるしかないのです。自分は人の目を気にしながら生きているのに、子どもにだけ「自由に生きて欲しい」と願っても無理なんです。ただし、どのような対策を取っても、様々な事情で「治療が必要な状態の子」は出てしまいます。そういう子に対しては「治療的な対応」は必要です。でも、最初から「治療的な方法」しか子どもに与えることが出来ないとしたら、それは大きな問題なんです。そうでないと、治療と病気を繰り返すだけになってしまいます。それで喜ぶのは医者と製薬会社だけです。でも今、それが日本人の当たり前になってしまっています。ネットを見ていると「こどもの非認知機能を育てるトレーナーになりませんか」とか「うちでは感覚統合療法を取り入れた活動をしています」などというような教室の案内を見かけますが、本来、その様な活動が職業として成り立つこと自体がおかしいのです。幼いときから子どもの成長に必要な学びを、適切な時期に、適切な順序で、適切な方法で学んでいれば、子どもたちの非認知機能も、感覚統合も当たり前のこととして身についてしまうはずのものなんですから。そしてそれが出来るのは「お母さん」だけなんです。お母さん以外の人間に出来るのは治療だけです。育てるのはお母さんにしか出来ないのです。でもそういうことを言うと「子どものために犠牲になれというのか」と反論してくる人がいますが、そうではありません。子どもはお母さんの人生の一部です。人生の一部として結婚し、人生の一部として子どもを産み、人生の一部として子どもを育てているのです。ですから、子どもを一人の自立した人間として育てようとすることもまた、お母さんの人生の一部なんです。子どもと共に生きることを拒否することは自分の人生を拒否することと同じなんです。ですからそれは「子どものための行為」ではなく「自分のための行為」なんです。
2026.04.17
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長いこと遊びや造形の場で子ども達と関わってきましたが、最近の子ども達を見ていて「非常に大きな問題だな」と感じるのは、「やりたいこと」を見つけることが出来ない子ども達が増えてきたことです。うちの教室では、基本的に自由に作っていいことになっています。そのため、様々な造形に関する本もあるし、様々な見本も材料も置いてあります。相談にも乗っています。そして、昔来ていた子ども達は「ここは自由に作れるから楽しい」と言ってくれていました。そして実際、ほとんどの子が自由に、自分の発想で色々なものを作っていました。ですから、その子どもの世界の素晴らしさをみんなにも見て欲しくて数年ごとに作品の発表会もやっていました。でも、20年くらい前から子ども達の状態が大きく変わってきました。「作るものがない」「退屈だ」「先生、何を作ったらいいの」と言ってくる子ども達が増えてきたのです。「何か簡単に出来るものはない?」と聞いてくる子も多いです。それで「君が作りたいものを作っていいんだよ」と答えるのですが、「分かんない」と言います。でも、「何か作りたい」とは言うのです。それは本当だと思います。だから造形教室に来ているのですから。でも、どうしていいのか分からないのです。だからといって「これを作ったら」と指示されるのも嫌がるのです。見本を見せても気に入らないし、「お店で売っているようなものが作りたい」と言う子もいます。いずれにしても、子どもたちは自分で決めたいんです。でも、選択肢も、経験も、知識もないので決められないのです。最近の子どもたちが知っているのは、テレビで見たもの、お店で見たものだけです。でもそれは、子どもが作れるようなものではありません。シール帳を作ろうとする子、毀滅の刃の刀を作ろうとする子もいますが、「お店で売っているもの」には遠く及びません。遊びや生活の場から「作る」」という行為が消えてしまった現代社会を生きている子どもたちは「自分で作る」という行為すら知りません。ですから、「自分で作れるもの」と「自分では作れないもの」の判断が出来ません。「お母さんがゲーム機を買ってくれないので、自分で作りたい」とか「ラジコンで空を飛ぶ飛行機を作りたい」と言う子もいます。でも、キットがあれば可能ですが、自分でそんなものが作れるわけがありません。でも子どもは「そういうものは自分には作れないんだ」ということを知らないので「先生が教えてくれれば僕にも作れる」とか、「youtubeで見たから作れる」などと思ったりしてしまうのです。皆さんはメニューがないお店に連れて行かれて「なんでも頼んでもいいよ」と言われても何も頼めないですよね。メニューがあっても、レストランに行ったことがなかったり、そこに書いてある料理が知らないものばかりだったら選ぶのは困難ですよね。「何を頼んでもいいよ」と言われるのは「これを頼みなさい」という指示や命令はないのでそういう点では「自由」です。でも、「自分で選ぶ能力」がない人にとっては「自由」は「不自由」なんです。大人が指示や命令を押しつけなくても、自由に感じたり、考えたり、判断したり、行動したり出来ない子は不自由を感じるのです。だから、自由を与えると退屈してしまうのです。そして、簡単で、刺激的で、受け身的に遊ばせてくれて楽しいゲーム機やネットにはまってしまいます。そしてまた、大人に「指示」を求めます。指示や命令は嫌いなんですが、でも、指示や命令がないとどうしていいのか分からないのです。今、「子どもを束縛せず自由にさせていれば自由に生きることが出来る人間に育つ」と考えているお母さんは多いですが、そこに簡単で便利で刺激的なオモチャや遊びがあったら、みんなそこに集まってしまうのです。そして、他のものには興味を示さなくなり、世界が閉ざされます。でも、簡単で便利で刺激的なオモチャや遊びには子どもを育てる力がありません。消費欲、購買欲、金銭欲は育ちますが、創作力や、工夫力や、想像力の育ちは阻害されます。その結果、自分の人生を自由に生きる能力が育たなくなります。
2026.04.16
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私は「頑張る」ということは苦手ですが、「諦める」ということも苦手なので、マイペースでですが、何十年と「からだ」と向き合ってきました。その「からだ」と最初に出会ったのが30才の頃、太極拳の学びを通してです。ある勉強会に参加していた仲間が「こういう太極拳の先生がいるんだけどその先生をお呼びして勉強会をしたい」というので参加したのです。私は今までに二人の太極拳の先生に師事していますが、その先生が最初の先生です。その先生は、太極拳の先生でもあると同時に、空手や柳生心影流も長いこと学んできた方で、腕や手首が丸太のように太かったです。重さが何キロもあるような、家の柱のように太くて長い木刀(振り棒)を千回とか振っていると言っていました。多分、鍛えていない人は一回も振れないと思います。その先生は台湾で太極拳を学んできたので、その先生が教えてくれた太極拳が台湾式なのか、また、その先生の個性なのかは分かりませんが、とにかく「大きな気持ちで、大きく動け」というようなことを言われました。今思えば「初心者は型に囚われるな」ということだったのだろうと思います。その先生には2年くらい学びました。その後に学んだ二人目の先生は、大陸系の太極拳を学んできた人で、最初の先生よりも動きが細かくて丁寧でした。「丁寧に動け」というのはその先生から言われたことです。でも、最初の先生よりも指導がはるかに分かりにくくて難しかったです。太極拳の初心者が学ぶ「簡化太極拳」(二十四式)というものがあります。その「簡化太極拳」は、最初に中腰で立って、両手を揃えて前に出し、少しあげて、少し下げる「チーシー」という動きから始まるのですが、毎回それだけで何十分もやらされました。ただ手を上げて下げるだけの動きなんですが、やってもやっても「はい、だめー」と言われるのです。でも、どうダメなのか聞いても教えてくれません。それどころか、何もしないで最初に立つ段階で「ちゃんと立てているかどうか」のチェックが入ります。「歩いている姿、立っている姿を見るだけで実力が分かる」とも言っていました。站椿功(たんとうこう)という、中腰で両手で何かを抱えるような形で何十分も立ち続けるようなこともやらされました。「腰が抜ける」という体験もしました。本当に腰が抜けたような状態になって立ち上げれなくなってしまうのです。そのようにして、2年やっても3年やっても、初心者が最初にやる「簡化太極拳」ばかりを中心に教えられました。「簡化が出来れば他のも出来る。簡化が出来なければ他のも出来ない」と言われました。そしてある時、「しのくん、もう簡化は人に教えてもいいよ」と言われました。私の財産です。当時は分からないことだらけだったのですが、その後、何十年とからだの学びを続けてきたので、今では「何をやらされてきたのか」が多少分かるようになってきました。最初の先生は「大きな気持ちで、大きく動け」と教えてくれました。二人目の先生はそうは言いませんでしたが、小さな動きでも大きな気持ちで動くように求められました。指や腕をちょっと動かすだけでも、周囲とのつながりを感じながら大きな気持ちで動くのです。「立つ」のも、「ただ立っていればいい」ということではなく、大地や地球を感じながら立つのです。その際重要なのは、中心点としての「自分」を見失わないようにすることです。「今・ココを大切に生きよう」ということを言う人がいますが、その「今・ココ」が全体から切り離されていたら迷子になってしまうのです。そもそも、幼い子ども達や自然界の動物たちはみんな最初から「今・ココ」を生きています。でも、それだけでOKだったら人は成長する必要がないのです。大切なのは、単なる「今・ココ」ではなく、「大きなつながりの中心としての今・ココ」なんです。宇宙全体とつながった「今・ココ」なんです。そして、そのつながりが分かるためには学びが必要なんです。
2026.04.15
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現代人は自分のからだを大切にしません。からだと対話することもしません。からだを通して学ぶことを大切にしません。からだの不思議を知りません。「からだ」という恩寵も「からだ」という喜びもを知りません。でも、学校でも家庭でも、「命を大切にしよう」とは言います。「命を支えてくれているからだ」は大切にしていないのに、「命を大切にしよう」と言うのです。不思議なことです。そんな現代人の考える「命」は非常に抽象的で観念的です。「命を大切にしよう」と言いながらそこには全く具体性がありません。ですから、子どもに「命ってなあに?」とか、「命ってどうやって大切にするの?」とか、「命はなんで大切なの?」などと聞かれてもちゃんと答えることが出来ません。そもそも皆さんはご自分の命を大切になさっていますか。最近は、自己肯定感の低い人も多いですが、自分で自分を否定することは、自分の命を粗末にしていることにはなりませんか。 「命」は物と違って、触れることも、見ることも出来ません。金庫に入れておくことも出来ません。科学的にその存在を証明することも出来ません。それは「神様」と呼ばれるようなものと似ています。実際、「命は単なる化学現象に過ぎない」と主張する科学者もいます。そこにあるのは、「命」ではなく、「命のような現象」に過ぎないということです。竜巻は「命あるもの」のように動きますが、単なる物理現象であって「命あるもの」ではないですよね。AIを搭載したロボットは人間のように反応しますが、「命あるもの」ではありませんよね。それと同じようなものだと言うのです。じゃあ、「命」は本当に観念的なものなのかというとそれは違います。確かに、科学的にその存在を証明することは出来ませんが、からだの感覚を通して、リアルな感覚として感じることは出来るからです。それは「音楽」と似ています。私たちは当たり前に「音楽」が存在していることを知っています。でも、そんな身近な存在でも、科学はその存在を証明できないのです。なぜなら、「音楽」を科学的に観察することが出来ないからです。科学で観察できるのは「音」だけです。「音の変化」や「音の関係性」を観察することも出来ますが、そこに「音楽」はありません。「音楽」は人の心でしかその存在を確認することが出来ないものだからです。「命」も同じです。「命」は人の「からだの感覚」を通してしか確認出来ないものなのです。子どもを抱きしめたときに「子どもの命」を感じますよね。自分のからだに意識を向けることで、それと同じ感覚を、自分自身の命に対しても感じることが出来ます。でも、「自分のからだと対話する能力」を失ってしまった現代人は、「命を感じる能力」も失ってしまいました。そして、「命」の源である「からだ」を、「頭の道具」として使うようになりました。その結果、「心」と「からだ」が分離し、「心」と「からだ」が不安定になり、不安が強くなってしまったのです。じゃあ、どうやったらもう一度「からだの感覚」を取り戻し、「自分のからだや命」と対話することが出来るようになるのか、ということですが、困った事に「自分のからだとの対話の方法」は教えることが出来ないのです。ただ、教えることは出来ませんが自分で学ぶ方法はあります。その一つに、「ゆっくり動く」「丁寧に動く」という方法があります。普通、人はいつも無意識にからだを動かしています。無意識に起き上がって、無意識に歩き、無意識に歯を磨き、無意識に話し、無意識に食事をしています。 そして、そのような無意識状態でからだを動かしているときには、「心とからだの対話」はありません。からだの内部だけで処理が自己完結してしまっているからです。だからこそ、考え事をしながらでも自転車に乗ることが出来るわけです。人間以外の動物たちはみなその状態です。でも、そのままでは「心とからだの対話」は出来ないので、その無意識状態からからだを解放してあげる必要があるのです。「ゆっくり」はそのための方法です。ちなみに「ゆっくり」は「ゆったり」とか「ゆるむ」という言葉と繋がっている言葉のようです。ですから、「ゆっくり動く」ということは、単に「スローモーションで動く」ということではありません。「心の余裕を持って動く」ということです。また、「からだ」を「頭の支配」から解放してあげないことには「ゆっくり」は出来ません。実は、「ゆっくり」を大切にするということは、「脳の中の世界」から出て、「自分のからだが置かれた現実の世界」に還ってくるということでもあるのです。それはまた、自分自身を受け入れることであり、目の前の子どもを受け入れることであり、自分が置かれている現実を肯定することなんです。「ゆっくり」はそこからしか始まらないのです。
2026.04.14
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4月17日(金)からZoomでの気質の講座が始まります。それでお申し込み頂いた方には招待状を送ったのですが、「申し込んだのに招待状が届いていない」とか「今からでも申し込みたい」という人は「kodomotachihe@yahoo.co.jp」までメールを下さい。************太極拳や武術などをやっていると「もっと力を抜いて」とか「肩をゆるめて」などと言われます。でも、実際に力を抜いてフニャフニャで動くと「もっと力を入れて」などと逆のことを言われます。「フニャフニャ」と「力を抜いた状態」は異なるからです。そもそも「フニャフニャ」では戦えません。「ゆるむ」の反対は「力む」です。「力を入れる」ではありません。緊張していたり、からだの使い方に慣れていないと必要以上に力が入ってしまい力んでしまうのです。だから、緊張している時には、何にも労働などしていなくても肩がこったり疲れたりするのです。そして、そういう状態が長く続いていると筋肉が固く固まってしまい緩まなくなります。さらに、そのような状態が長く続いていると、その状態を自覚できなくなります。姿勢が悪くても、ストレスや不安が強くてもからだは緊張しています。そしてその状態が長く続けば緊張状態は慢性化し、からだは固まります。でも、自覚はありません。腰の筋肉がそういう状態の時、不意に予想以上の負荷がかかってしまうと、弾性を失った筋肉が「グキッ」となってしまいます。また、「力み」が入っているとからだの連携が失われ、自由に動けなくなります。感覚も鈍くなります。呼吸も思考も浅くなります。問題は、本人はそのことを自覚できないということです。「ノーマル」は自覚できないのです。それは、「自分の気質」を自分で自覚できないのと同じです。戦争直後は平和を感じることが出来ますが、生まれた時から平和だと平和を感じることが出来なくなります。それもまた同じです。いつも緊張している人は、自分が緊張していることを自覚できないのです。だから「もっとゆるんで」と言われても、それ以外の状態を知らないので、何をどうしたらいいのか分からないのです。緊張やからだの使い方が下手なせいで、からだのどこかが力んでいる時には、からだのつながりが失われます。からだがバラバラになります。心とのつながりも弱くなります。ですから、一生懸命に力を入れて頑張っているつもりでも力が出ません。また、相手にも伝わりません。でも、緩んでからだ全体がつながっている時には、重力の働きを通して地球ともつながれます。その結果、力まなくても力が出るようになります。子どもや酔っ払っている人にいきなり抱きつかれたら倒れてしまいますよね。相手は倒そうとしていなくても、その重さに耐えられなくなってしまうからです。緩んでいる人は重いのです。また緩んでいる人は重さの中心が不安定なのでとらえどころがありません。10kgの石は楽々と持てても、10kgの水が入ったクニャクニャの袋は非常に持ちにくいのです。だから介護が大変になるのですが、自分の方が緩んでいると、自分の重さを相手に伝えることが出来るようになるのです。力んでいる時には、力んでいる場所が固まってしまっています。腕が力んでいる時には腕や肩が固まっています。本人は「足腰や胴体や肩を固め土台とすることで、腕の力を100%出せるようにしよう」としているのでしょうが、でも、そのような状態で出せるのは「腕の力」だけです。胴体や足や地球の力を使うことは出来ません。だから「力みを取れ」という意味で「力を抜け」とか「もっとゆるめろ」などというのですが、ほとんどの人は自分が力んでいることを知らないのでなかなか難しいのです。それで「力を抜けばいいのかな」と力を抜くとそれもまた叱られます。私がそうでしたから。武術における「力」は流体なんです。固い骨や筋肉を使って発生させる固体のようなものではなく、意識の働きや、動きや、重さを使ってからだの中を流すものなんです。力みがあるとその部分の流動性が失われ、流れがとまってしまうのです。だから「緩める」というのは、ただ単純に「力を抜く」ということではなく、「つながりを阻害している力みを取って下さい」ということなんです。でもそれが難しいのです。なかなか「力み」は自覚できないからです。
2026.04.13
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昔、太極拳を習っていた時によく言われたのが「丁寧に動け」ということでした。とにかくからだの全部が丁寧に動くように意識するのです。普通「丁寧に」というと小手先だけのことですが、そうではなく歩き方、呼吸の仕方、重心の移動の仕方、からだ全体の動き、そういうもの全てを心を込めて丁寧に動かすのです。それは、まだ生まれたばかりの小さな赤ちゃんを抱いている時のような感覚です。また、イメージの働きも使います。イメージには心とからだと、からだ全体を統合する働きがありますから。一般的に太極拳は「力を抜いてゆっくり動く踊りや体操のようなもの」というように理解されているのかも知れませんが、実際には、太極拳は武術であり格闘技です。力を抜いてただゆっくり動く練習をするだけで「戦えるからだ」が作れるわけがないのです。でも、指先やからだ全体に意識を通して、からだ全体をつなげた状態で、心とからだ丸ごとで丁寧に動く練習をしていると、水のように、状況に応じて自由に動けるようになるのです。「ゆっくり」とか「力を抜く」というのは、「自由な心とからだの使い方」を学ぶための手段であって、それ自体が目的ではありません。普通の格闘技は強くて固い体をつくり、スピードとパワーで戦います。中国にもそういう武術はありますが、太極拳はそれとは対極のからだの使い方をするのです。でも、現代人はその「丁寧に動く」ということが苦手です。時々、公園で太極拳を練習している高齢者の方もいますが、ほとんどの場合、そのような人はただ力を抜いてゆっくり動いているだけです。でも、「ゆっくり動く=丁寧」ではないですからね。ただ、何もしないで立っているだけ、座っているだけでも「丁寧」を心がけるのです。「禅」はそれをやっています。そういうことを子どもに伝えるのが「躾」です。と、偉そうなことを書いていますが、「私がちゃんと出来ている」ということではないですからね。「そういうことが分かるようになってきた」ということです。ただゆっくりなだけの人の動きは簡単に止めることが出来ます。でも、からだ全体がつながっていて心を込めて丁寧に動いている人の動きはなかなか止めることが出来ないのです。「丁寧に」という意識が意思の力となってからだ全体を統合しているからです。ただ、この「丁寧に」が難しいのです。からだ全体を丁寧に動かすためには、からだ全体に意識を張り巡らさなければいけないのですが、それが非常に難しいのです。現代人は心とからだがバラバラの人が多いです。子どももです。そのような状態の人は心とからだの状態が不安定になります。そのため不安が強くなったり、自分に自信が持てなくなったりします。それで、そのような状態を治療するために「感覚統合」などという方法も生まれたのでしょうが、でも実は、日々の動きに意識を向け、丁寧に動くように心がけているだけで、感覚は統合されるのです。心もからだも落ち着くのです。丁寧に歩く、丁寧に動く、丁寧にからだを使う、丁寧に見る、丁寧に聞く、丁寧に家事をする、丁寧に子どもと向き合う、それだけで感覚は統合され、自己肯定感も育つのです。ちなみに、「ゲーム」は「丁寧」の対極にあります。
2026.04.12
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私は茅ヶ崎で「気質の勉強会」だけでなく「からだの会」というものもやっています。(月1,月曜日)「からだの会」と言っても体操をするわけではありません。「自分のからだとの対話を楽しもう」という趣旨の会です。「からだ」と、意識やイメージや心などとのつながりを体感してみたりもします。武術的な考え方も取り入れています。普段は意識していないでしょうが、私たちの心とからだは密接につながっていて、姿勢をちょっと変えるだけで、ものの考え方や感覚の状態が変わるのです。気質も変化します。ですから、「気質の違い」は「からだの状態の違い」としても表れています。気質が違う人は、姿勢も違うのです。気質については色々な人が色々なことを言っていると思いますが、私のように「からだとのつながり」という視点で語っている人は多くないと思います。ちなみに、私が今まで学んできたのは、太極拳、野口体操、野口整体、繰体法、仁神術(本当は英語表記にしなければいけないのですけど)、システマ、古武術などです。(子どもの時は町道場で柔道をやっていました)カルチャーなどではなく、それぞれその分野の一流の先生から直接学びました。(ほとんどの先生が故人になってしまいましたけど・・)システマは10年以上やっていましたが2,3年前に休止しました。古武術は今も継続して20年近くやっています。からだの世界は奥が深いです。今でも毎日からだの不思議と面白さに向き合っています。ということで「からだ」についてちょっと書かせて頂きます。人は悩みがあると「自分の心」と向き合おうとします。でも、いくら深刻に「自分の心」と向き合っても、悩みは消えません。むしろ余計に深くなります。それは自分の心で、自分の心を操作することは出来ないからです。どんな力持ちでも、自分で自分のからだをつかんでも、自分を持ち上げることは出来ませんよね。それと同じです。人間は動物です。動物とは動くことを基本とした生き物だということです。ですから私たち人間の様々な能力や、機能や、生命力や、感覚といったものの多くは「動くため」に進化してきました。神経や脳といったものも「動くため」のものです。だから、ただ成長するだけで、動くことをしない植物には動物のような神経や脳がありません。思考力も、能動的に活動したり状況を判断をするために生まれました。その、「動くことを基本とした動物」が動かなくなる時、もしくは動けなくなる時、それらの能力も、機能も、生命力も、感覚も萎えていきます。必要がなくなるからです。さらに、意識や、思考力や、イメージ力や、創造力まで萎えてきます。必要がなくなるからです。でも現代人は、スポーツやジムなどでからだを動かすのはOKでも、毎日の生活や仕事の中では出来るだけからだを使わず簡単、便利に、楽をしたいと思っています。でも、スポーツをしたりジムなどに通って筋肉は鍛えることが出来ますが、心とからだのつながりを整えることは出来ません。スポーツなどしなくても、ジムなどに通わなくても、毎日の生活の中や仕事の場において、からだに意識を向け、意識的にからだを使うように工夫していれば、心とからだのつながりは整うのです。そして、心もからだも安定していきます。「からだを使う」ということは「心や感覚や知性を使う」ことと同じです。実際、科学的にもこれらの働きを分離することは出来ません。コップを取ろうとする時も、ホウキでお掃除している時も、歯を磨いている時も、肉体だけが動いているのではなく、心も感覚も知性も同時に働いているのです。でも、そのような時、からだの状態に異常がない普通の人は無意識的に動いているでしょう。その「無意識的な動き」を「意識的な動き」に変えるだけで、より有効に「からだ」を使うことが出来るのです。同時に「心」も育つのです。それは、「からだ」がより明確に「様々な精神活動や生命活動の表現体」として動くことが出来るからです。武術や太極拳などの「型」にはそのような意味もあるのです。特別に新しいことを始めなくても、今やっている日常的な活動を意識的に行うようにするだけでも「からだ」は目覚め始め、感覚や生命力もアップし、心の状態は安定していきます。このような状態を「マインドフルネス」と呼ぶ人もいます。私は数十年前、その「マインドフルネス」という考えを広めたティク・ナット・ハン師が鎌倉の光明寺でワークをした時に参加しました。
2026.04.11
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人間の最大の特徴は「自由」であることです。でも、「自由」が存在するためには「不自由」が必要になります。「善」が存在するためには「悪」が必要です。「光」が存在するためには「闇」が必要です。「下」が存在するためには「上」が必要です。「中」が存在するためには「外」が必要です。「自分」が存在するためには「他人」が必要です。そうですよね。だから「自由」だけを求めて「不自由」を嫌い遠ざけていたら、困ったことに「自由」も消えてしまうのです。問題は、その本人は「自由が失われたこと」に気付かないということです。何ら具体的な不自由があるわけではないからです。でも、不自由ではないのに自由を感じないのです。それは、「動きを邪魔するようなもの」が何もない広いところに連れていかれて、「自由に動いてもいいよ、何してもいいよ」と言われるようなものです。最初のうちは、「やったー」と思い、色々と動き回ったりするかもしれませんが、邪魔するものがないということは、「自分の能力」を上達させる機会も、使う機会も、ハラハラドキドキする機会も存在しないということです。自分の行為に意味も目的も持てないということです。達成感も感じることが出来ません。そして、自由なのに同じ事ばかりを繰り返すようになります。「自由」に飽きてきます。人間はみな「自分という檻」に閉じ込められいるからです。でも、その「自分という檻」は見ることが出来ません。人は「自分の目」を見ることが出来ませんがそれと同じです。出口もありません。またそのため、与えられた自由の中だけで生活している子どもは成長も止まってしまいます。成長は「乗り越えるべきもの」が存在するからこそ必要になる現象だからです。人は、思い通りにならないことと出会った時に、「自分という檻」に気づくのです。「重力」があるから、幼い子どもはそれに逆らって立ち上がり、歩くという能力が育つのです。それが、本能的に「自由」を求める人間の特性なんです。周囲に、自分に話しかけてくれる人がいなければ子どもは言葉を覚えようとしません。だから、話せないまま大きくなってしまいます。でも、「自分は言葉が話せない」ということに気づきません。必要がないからです。話しかけてくれる人がいるから、自分も相手に話しかけたいと思うのです。でも、言葉が分からないと気持ちが通じません。不自由が発生するのです。だから子どもは、その不自由を乗り越えるために言葉を覚えようとするのです。赤ちゃん語を翻訳する機械があるそうですが、それを使えばお母さんは子どもが言いたいことが分かって少しは楽になるのでしょうが、赤ちゃんの方はお母さんが話している言葉を覚える必要が消えます。お母さんが使っている言葉を覚え、言葉を使ってお母さんとコミュニケーションを取る必要がなくなってしまうからです。2月に二週間ほどネパールに行っていましたが、私はネパール語は話せません。でも、グーグル翻訳を使えばネパール語を日本語に変換したり、日本語をネパール語に変換するのも自由自在です。でもその結果、ネパール語を覚える必要が消えました。ただ、宿を貸してくれた人や子どもたちは、「通じない」ということを無視して話しかけてくるので、簡単なネパール語は覚えました。自分の耳で聞き、自分の言葉で話さないと「気持ちのやりとり」が出来ないからです。グーグル翻訳を使って出来るのは「意味のやりとり」だけです。(でも、メンバーの中で私が一番覚えられませんでした・・・)だから、大人は子どもに必要以上の自由を与えてはいけないのです。人間は何もできない未熟な状態で生まれてくるからこそ、自分の成長によって自由を手に入れようとするようになるのです。昔の子どもたちには、遊具など皆無のただの空き地や、路地裏や、野原や、山の中で遊んでいました。大人が作った遊具などなくても、そこにあるものをうまく使って遊びを作り出していました。木や、石や、木の実や、葉っぱも立派な遊び道具だったのです。水や風や光も遊び道具でした。「影ふみ」という遊びは光を使った遊びです。「影絵遊び」も光を使った遊びです。重力も、地面も、からだも、遊び道具です。路地裏も、さらには大人も遊び道具でした。「大人に隠れて悪いことをする」というスリルはワクワクします。「遊具」に慣れてしまった最近の子を、そういうものがない所に連れて行っても、遊びません。というか、遊べませんす。最近の子は、「子どもを遊ばせてくれるもの」が何もないところで遊ぶ能力が育っていないからです。大人たちは、安易に子どもに自由を与えることで、子どもが自分の力で自由を得る能力を育てる機会を奪ってしまったのです。子どもを「つながりという不自由」から切り離し、ゲームのように一人で自由に、簡単に遊べるおもちゃや遊具を与えるということはそういうことなんです。
2026.04.10
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四月から新しい気質の講座を始めます。対面(茅ヶ崎)とZoomがあります。詳しくは「こちら」をご覧になって下さい。**************この世界には無数の色がありますが、その無数の色を作っているのは「赤・青・黄(緑)と明暗といった、たった四つの要素です。時々、異なった色を混ぜて新しい色を作ることを覚えた子どもが「赤ってどうやって作るの?」「青ってどうやって作るの?」と聞いてくることがありますが、「赤・青・黄(緑)」は基本色なので、他の色を混ぜて作ることは出来ません。また、これらの違いは「周囲との関係性」によって見え方が変わります。白い背景の上に置かれた「赤」は黒っぽく見えます。でも、黒い背景の上に置かれた「赤」は明るく見えます。同じ「赤」なのに、周囲の環境が変わると見え方が変わってしまうのです。補色関係の色を隣り合わせに置けばその色の特性がはっきりと見えます。でも隣に、同系列の色を置けばその色の特性は目立たなくなります。同じ濃度の灰色でも、白い地の上では実際以上に黒く見え、黒い地の上では実際以上に白く見えます。人間の知覚は「客観的な状態」を認識するのではなく、「関係性」によってその状態を感じとるように出来ているからです。そこが機械のセンサーと、人間の感覚の大きな違いです。そしてこれは「気質」の認識においても同じです。「気質」も周囲との関係性によって表れてくるのです。ですから、固定された胆汁質、固定された多血質など存在しないのです。まただから「科学」では扱えないのです。40度のものにしばらく触れてから、20度のものに触れれば「冷たい」と感じます。でも、氷をしばらく握った後に20度のものに触れれば「温かい」と感じます。人間の感覚は相対的な関係性の中で物事を感じ取るように出来ているからです。科学は「同じ20度だ」と主張しますが、人間には異なった温度なんです。雪が降っているような寒いところから暖房で20度に暖められた部屋に入った人は「この部屋は暑い」と感じるかも知れません。でも、40度の気温の中にいた人が20度の部屋に入ったら「寒い」と感じるかも知れません。どっちも同じ20度なんですが、人間の感覚では「同じ温度」として感じることは出来ないのです。人間は「科学的にリアルな世界」に生きているのではなく「感覚的にリアルな世界」に生きているのです。でも、本人にはその自覚がないので、同じ温度だったのに「あの部屋は暑い。いや寒い」と議論を始めるのです。人間には「自分が感じたこと」が絶対だと思い込んでしまう癖があるからです。だから色々な問題が起きてしまうのです。印象派の絵を見るとものすごく色彩が豊かでキレイに見えます。でも、近くに寄って見たら、キレイな色はありません。ほとんどの色がくすんでいます。印象派の絵画が色彩豊かに美しく見えるのは、キレイな色を使っているからではなく、色の関係性をうまく使っているからなんです。関係性をうまく構成することで、くすんだ色ばかりでも美しく見せることが出来るのです。そして、自然界もまた関係性によって成り立っています。人間からみたら取るに足らない存在、役に立たない存在ではあっても、それは「人間とそのものの関係」だけの問題であって、より大きなシステムとしての自然界の中ではちゃんと役に立っている大切な存在なんです。他者とのつながりを持つことが出来な存在は、自然界に存在すること自体が出来ないのですから。人間も同じで、他者とつながることが出来ない人は、存在すること自体が困難になってしまうのです。そして、多様なもの達が相互に密接に関係しながら存在しているこの世界は「循環」というシステムによって、常に創成、再生され続けています。それは人間のからだでも同じです。循環が止まれば死が訪れます。多様性が消えても循環は消えます。その循環が成り立つためには総合的に見たらお互いに補い合うような働きが必要になります。海の水は太陽の熱(胆汁的な働き)で水蒸気になって空気の中に取り込まれ上昇していきます。そして、風の働き(多血質的な働き)で、至る所に拡散していきます。でも、山にぶつかったり、冷たい空気と出会うことで、また「水」に戻ります。「水」に戻れば重くなるので雨や雪になって地上に落ちていきます(憂鬱質的な働き)。そして、重力に引っ張られて集まりながら川や地下水になり、また海へと戻っていきます(粘液質的な働き)。この循環が繰り返されることで、地球上の水は維持され、生き物たちは自らの命の循環を支えることが出来ています。
2026.04.09
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しばらく前に「子ども達は群れ遊びの場で気質の勉強をしていたのです」ということを書きました。でも、気質の育ちに有効なのは「群れ遊び」だけではありません。「自由で正解のない活動」全般が子どもの気質の育ちに役に立つのです。ちなみに、「気質が育つ」ということは、自分の気質の特徴を短所ではなく長所として使いこなせるようになるということです。そしてそのことで、他の気質の子とも助け合えるようになります。また、自己肯定感も育ちます。正解があるような活動の場では、その正解に合った気質の子は自分の気質を伸ばすことが出来るでしょう。でも、そうではない子は、自分の気質を短所として扱われてしまうので自分を肯定することが出来なくなってしまいます。たとえば、全員にテキパキが求められるような活動の場では、粘液質の子は「どんくさいやつ」だと言われ自信と自己肯定感を失っていくでしょう。社交性が求められるような活動の場では、憂鬱質の子は最低の評価を受けるでしょう。その結果、周囲との関係もうまく作れなくなるでしょう。同時に、その活動が得意な子の方も、その活動が苦手な子をバカにするようになるため、他の気質の子と助け合えなくなります。でも逆に、よく見て、よく感じてじっくりと取り組むような活動なら粘液質の子は自分らしさを発揮出来るでしょう。そして、周囲の仲間達もそのことを認めてくれるでしょう。でも、そのような活動の場ではテキパキが得意な子は戸惑います。気質とはちょっとずれますが、これは勉強でも同じで、先生が「暗記を重視するような授業」をすれば、「暗記が得意な子」は成績が伸びます。でも、暗記よりもじっくりと考えることが好きな子は成績が伸びないでしょう。「成績=子どもの頭の善し悪し」ではないのです。「成績=先生の期待にどれだけ応えることが出来たか」なんです。だから、同じ子でも、先生が替われば成績も変わってしまうことがあるのです。そこはちゃんと理解しておいた方がいいです。先生が正解を提示し、それを覚えるような授業ばかりをしていたら、いくら成績がよくなっても社会に出てから困るのです。自分の意思で、自分に合った進路を決めることが出来なくなってしまうからです。そして、「みんながそっちに行くなら私も行く」「みんながやっているから私もやる」というような生き方をするようになる可能性が高いです。「本当に自分がやりたいこと」を見つけることが出来なくなってしまうかも知れません。当然、自己肯定感は低くなります。ですから、子ども達が自分らしさや自分の能力に目覚め、それを伸ばすためには「自由で正解のない活動」が必要になるのです。それが群れ遊びであったり、様々な芸術的な活動の意味なんです。ただし、その場合でも「自分で選択できる多様なお手本」は必要です。そうでないと、ただの「自分勝手」になってしまいますから。「けん玉」を「自由に遊んでいいよ」と、「けん玉」を全く知らない子に渡しても、子どもはそれを武器のように振り回して遊ぶだけかも知れません。でも、そのけん玉を自由自在に使って遊んでいる人を見たら、強制しなくても真似を始めるでしょう。見せるだけでいいのです。教えるのは、自分でやってみてうまく行かなくて「教えて欲しい」と言って来てからでいいのです。楽しそうに踊っている人を見て、自分も踊りたくなる子もいれば、ただ見ているだけで充分」という子もいるでしょう。全く興味を示さない子もいるでしょう。自分も踊りたくなるような子は、踊っている人と気質的に似ているのです。同じ気質同士は共鳴しやすいからです。「自由で正解のない活動」を楽しむためには、様々な気質の子が自分の気質を生かして助け合う必要があります。すると、一人では出来ないことが出来ます。そういう体験を通して自分の気質を長所として使えるようになるのです。
2026.04.08
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人間が人間らしく生きるためには「物質的豊かさ」と「精神的豊かさ」の両方が必要です。そして、「衣食足りて礼節を知る」という言葉の通りに、この二つは繋がっています。生存に必要な「物質的豊かさ」すら満たされない状態では「精神的な豊かさ」を求めることなど出来ないでしょう。かといって、「物質的豊かさ」だけを求めて「精神的豊かさ」を求めないような文明は秩序を維持できなくなって崩壊するでしょう。これは個人においても同じです。要はバランスの問題です。そして、気質が違うとこのバランスの取り方が微妙に異なってくるのです。胆汁質や多血質が強い人は「物質的な豊かさ」を重視するポイントでバランスを取ろうとします。それに対して、粘液質や憂鬱質の人は「精神的な豊かさ」を重視するポイントでバランスを取ろうとするのです。そして、胆汁質や多血質的な傾向が強い西洋の文明においては、「物質的な豊かさ」を求めるような方向で文明が発展してきました。物質的な豊かさを求めて世界中を侵略しました。その際、最初に「キリスト教」という精神的なものを提示して安心させてから物質の搾取をしました。キリスト教を掲げながらキリストの教えと反するようなことを行ってきたのです。日本がキリスト教を禁止したり鎖国を始めたのは、秀吉や家康が西洋人のその下心に気付いたからだ、という説を聞いたことがあります。キリスト教では、聖書に書かれた神の教えの中に「精神的に求めるべき事」が提示されているので、求められたのは「神の教えに対する従順さ」だけです。ちなみに、色々な所で問題になっている「統一教会」も一応キリスト教の一派です。それに対して、仏教の原点になる教えを説いたお釈迦様は、徹底的に自分や命や自然と向き合うことで苦しみから抜け出す道を探ろうとしました。誰かの教えに対して従順になるのではなく、自分の目で見て、自分の感覚で感じて、自分の頭で考えて、自分の意思と判断で行動しようとしたのです。その結果「物質的な欲を持たないということが幸せへの道」だと気付き、それを説かれました。もっとも、後の人は「釈迦の教え」を仏教という形で宗教に仕立て上げ、キリスト教と同じように「信じれば救われる」という教えになってしまっていますけど・・・。ただ仏教ではお経が無数にあって、お経ごとに教えが違うので正解が固定されていません。それに対して、キリスト教の教義を書いた聖書は基本的に一つだけです。そして、西洋的な価値観に染まった現代人は、「物質的豊かさ」の中に幸せを求めようとする傾向が強くなりました。現代社会はお金によって支えられているので、社会を動かしている国や企業は、国民の物質的な欲望をかき立てるような宣伝ばかりしています。その流れの中で、自己肯定感が低い人、幸せを感じることが出来ない人、精神的に満たされない人が増えてきています。逆にヨーロッパでは神に依存しない精神的な豊かさを求める人が増えてきたような気がします。ラダックやネパールのような所に行くと白人がいっぱいいますから。ラダックの寺院に入ったら白人の人が何人も瞑想していました。
2026.04.07
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「気質の違いは役割の違いでもある」ということを書きました。ですから、職業の種類において、その職業に従事している人の気質にも偏りがあります。当然のことながら政治家には胆汁質が強い人が多いです。また、胆汁質が強くなければ駅前に立って大きな声で「〇〇をよろしく」などと自己アピールなど出来ません。胆汁質の人にとっては勝つか負けるかが全てなので、出来るかどうか不明な公約でも、それが票の獲得に繋がるようなら堂々と掲げます。でも、公約を実現できなくても責任は取りません。それは皆さんがご存じの通りです。ただ、胆汁質が強いことは共通していますが、他の気質も混ざっているのでその混ざっている気質に応じて政治家のタイプも変わってきます。前総理の石破さんなんかは粘液質も入っているような気がしました。現総理の高市さんは多血質も強く混ざっているようです。あと、料理人のような「テキパキ」が求められる職業にも胆汁質が強い人が多いです。粘液質+憂鬱質の私はその「テキパキ」が出来ません。幼稚園の先生などは胆汁質や多血質が強い人が多いです。 職人と呼ばれるような人には粘液質や憂鬱質が強い人が多いですが胆汁質が強い人もいます。そのような人は頑固です。芸能界やマスコミには多血質が強い人が多いような気がします。ちなみに、多血質の人は物事を深く考えようとしない傾向があります。ただ「役者」と呼ばれるような人はまたちょっと違うような気がします。芸術家と呼ばれるような人は憂鬱質が強い人が多いです。ただし、「憂鬱質が強い人は芸術家に向いている」ということではありませんからね。政治家には胆汁質が強い人が多いですが、「胆汁質が強いから政治家に向いている」ということもありません。実際にどのような職業が向いているのかは気質だけでなく、家庭環境や出会いなどの「プラスアルファ」の要因も大きく作用していますから。以下は、ヘルムート・エラーという人が書いた「四つの気質と個性のしくみ」という本の中にあった図です。「四つの気質と個性のしくみ」から ヘルムート・エラー著トランスビュー発行これもまた同じで、「多血質+粘液質」の所に「詩人」と書いてありますが、これは、「詩人には多血質+粘液質の人が多い」ということであって、「多血質+粘液質の人が詩人に向いている」ということではありません。ただ、詩が好きな人は多いのではないかと思います。気質のワークで「もし、このメンバーで劇をやるとしたら、皆さんはどういう役割で参加したいですか?」と聞くことがあります。主役でも、準主役でも、その他大勢でも、大道具や小道具でも、衣装でも監督でも、脚本でも宣伝でも、振り付けや演技指導でも、照明や音響でもなんでもいいですよ。と聞くと、それぞれ自分の気質に合った選択をしてくれます。皆さんはどうですか。一番少ないのが「主役をやりたい」という人です。「脇役やその他大勢がやりたい」という人は少しはいます。「石や木がいいです」という人もいます。そのような人は、「目立ちたくはないけど舞台の上には立ちたい」と言います。でも、一番多いのが、大道具、小道具、衣装などの舞台の上には立たない「裏方」です。欧米の人に同じことを聞いたら全く違う結果になるかも知れませんが、これが「日本人らしさ」ということなのでしょうか。これは「もしも」という仮想遊びですが、でも多分みんな、日常生活の場でも同じような立ち位置で自分の役割を果たしていることが多いのではないでしょうか。
2026.04.06
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気質の状態は周囲の環境や、他の人との関係性によって変化します。ある状況では胆汁質みたいでも、別の状況では憂鬱質のようになってしまう人もいます。ある時は粘液質のようなのに、別の状況では多血質のようになってしまう人もいます。もちろん、その逆もあります。一般的にどの気質のお母さんでも、子どもの前では胆汁質のようです。いつも指示や命令を出して、言うことを聞かないと怒ったりしているお母さんがいっぱいいます。でも、そんなお母さんでもクラス会などに行くと全く別の状態になります。「お母さん」という「役割によって生じた気質」ではなく、自分本来の気質に戻るからです。そしてこれは子どもの方でも同じで、「お母さんの前の子ども」と「子どもの中の子ども」は同じ状態ではないのです。「お母さんの前の子ども」は「子どもという役割によって生じた気質」の状態になっているからです。多くのお母さんが気付いていませんが、「お母さんの前にいる時」と「仲間の中にいる時」の状態が全く違う子がいっぱいいるのです。同じように、周囲の人には「優しいお母さん」に見えても、子どもの目には「鬼のようなお母さん」もいます。ですから、我が子本来の気質を知りたいと思うのなら、子どもにバレないように、子どもの群れの中の我が子の状態を観察してみて下さい。我が子が子どもの群れの中で、他の子とどのような関係性を築いているのかを見るのです。これは、お母さん自身の気質を知る場合も同じです。自分で自分を分析するのではなく、自分が周囲の人とどのような関係性を築いているのかを冷静に見つめ直してみるのです。そうすることで「自分本来の気質」が見えてくるのです。
2026.04.05
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私が子どもの頃(昭和30年代)の子ども達は、学校から帰ったら森や、野原や、田んぼや、町の中や、神社の境内などで群れて遊んでいました。ちょうど、『ALWAYS 三丁目の夕日』という映画で描かれた時代です。その頃にはまだゲーム機もスマホもありませんでした。そして、日本中が貧しかったので、お母さんもお父さんもみんな忙しく働いていました。電子レンジもレトルト食品もなかったので、食事は100%手作りでした。おやつは「おにぎり」とか「梅干し」のようなものでした。スナック菓子などありませんでした。自動車を持っている人も少なかったです。テレビはありましたが、子ども向けの番組は少なかったです。そして、塾や〇〇クラブのようなところに通っている子も少なかったです。そういう状態だったので、学校から帰ったら子ども達はみんな屋外で遊んでいました。家の中にいても退屈だし、お手伝いをさせられるだけですから。そして、一人で遊んでも楽しくないので自分と同じような状態の仲間と一緒に群れて遊んでいました。これは、昭和30年代だけの話ではなく、もっともっと昔から続いてきた子どもの遊びの実態です。子どもが「学校から帰ったら、部屋の中で、機械を相手に一人で遊んでいる」などというような状態は、有史以来初めての出来事なんです。ですから、このような「一人遊び」が子どもの成長や、社会の状態や、人類の未来にどのように影響を与えるのか誰も知りません。そんな昔の「群れ遊びの場」には様々な気質や、能力や、特徴を持った子がいました。子どもたちが共有しているのは「地域」だけです。ですから、子どもたちは色々な子と関わり、遊びながら「自分とは異なった気質や、能力や、特徴を持った子」と出会い、自分とは異なった気質や能力を持った他者との関わり方を学んでいたのです。さらには、性別も、年齢もバラバラでした。幼稚園児、小学生、時には中学生まで一緒に遊んでいました。そしてそれが群れ遊びの多様性を生み出していたのです。アニメ「ドラえもん」に出てくる仲間達は、そんな昔の群れ遊びの状態を反映したようなキャラクター設定になっていますよね。色々な気質の子がいないと遊びも、話も広がらないからです。登場人物が全部ジャイアンのようだったり、のび太のようだったり、できすぎ君のようだったら面白くないですよね。また、あのメンバーの誰が欠けても、話の展開は退屈なものになってしまいますよね。そして、これは「ドラえもん」だけではありません。アニメでも物語でも、読んでいて楽しくなるようなお話には、ちゃんと四つの気質を象徴するような登場人物が揃っているのです。勇者=胆汁、賢者=粘液、心配性のお供=憂鬱、旅を楽しくしてくれるお供=多血などというようにです。でも、最近の子ども達が通っている「〇〇クラブ」や「〇〇教室」などは、子どもが選んでいます。だから「野球クラブ」なら野球が好きな子が集まっています。「造形教室」なら、造形が好きな子が集まっています。当然、気質的にも似た子が集まっています。さらにその様な場では、子どもと子どもが向き合うのではなく、大人の指導の下に同じ目標に向かって同じ方向を向いて活動しています。ですから、自分とは異なった気質の子と出会ったり話し合ったりすることもありません。当然、関わり方も学べません。そのため、最近の子ども達を見ていると、自分たちとは異質な子は排除しようとしているような気がします。遊びや情報を共有出来ない子は遊ぼうとしません。「違い」を楽しめないのです。子育てでも、我が子が自分とは異なった気質だとどうしていいのか分からないで困っているお母さんがいっぱいいます。子どもが自分とは異なった気質を持っていたら、それを楽しめばいいのですがそれが出来ないのです。
2026.04.04
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先日、FBの方に以下のような文章を流しました。今、世界中で「多様性」がドンドン消えてきています。異種のものが共存出来なくなっています。価値観の多様性。生活で使う言葉の多様性。言語の多様性。遊びの多様性。教育の多様性。仕事の多様性。感覚や、頭や、からだの使い方の多様性生活の多様性。生き方の多様性。宗教の多様性。人種の多様性。国家の多様性。自然界の多様性。男性と女性、大人と子どもの多様性。「そういう考え方の人もいるよね」「そういう生き方の人もいるよね」で済ますことが出来ずに、「正解」や「正義」を固定して、みんな一緒、みんな同じにしたがる人が増えています。その方が分かりやすく、効率的で便利になるからでしょうか。支配者は支配しやすくなるし・・・。でもその「正解」はコロコロ変わります。10年前の「正解」は今の「不正解」になっていることも多いです。そして、多様性が消えれば自然界も人間界もエネルギーを失い衰退します。どうしてこういうことが起きているのかというと、近代社会が「競争」を是とする価値観によって支配されているからです。簡単、便利、合理性、効率性を求めるのも、その背景には「競争」があります。戦争もまた競争の一つの形です。その競争社会には「正解」があります。というか、正解があるから競争が成り立つのです。スポーツでもルールと目標が固定されているから、競争が成り立っているのです。そしてそれは胆汁質の人が好きな世界でもあります。「胆汁質の人はリーダーに向いている」と言われます。それは、胆汁質の人が正解や、目標や、方法を提示するのが得意だからです。憂鬱質や粘液質の人は物事を複雑に考えようとしますが、胆汁質の人の考えはシンプルです。だから、説得しやすいし、みんなで共有しやすいのです。でもそこに落とし穴があるのです。でも、そんな競争原理に支配されている現代社会でも、子どもたちは競争とは無縁の世界に生きています。大人達は一生懸命に競争に参加させようと子どもを追い立てていますが、子どもは言うことに従いません。なぜなら、競争は子どもの成長を支えてはくれないからです。それでも追い立てれば、勝ち負けレースに参加するようになりますが、その代償に、子どもは「自分らしさ」や「自己肯定感」を失います。人間としての成長も実現されません。でも子どもたちは、追い立てなくても「遊び」には夢中になって参加します。なぜなら「遊び」には子どもの成長を支える働きがあるからです。その遊びの目的は勝ち負けを競うことではありません。みんなで楽しむことです。ですから、遊びの場では、胆汁的な論理だけでなく、他の気質の子どもたちの考え方ややり方も大切にされているのです。お話や物語が楽しくて面白いのは、様々な気質の登場人物が出てくるからですよね。アニメのドラえもんに「ジャイアン的な子」だけ、「スネ夫的な子」だけ、「のび太的な子」だけ、「できすぎくん的な子」だけしか出てこなかったら楽しくないですよね。色々なタイプの子が関わり合って遊んでいるから楽しくなるのです。でも、胆汁的な価値観の大人達は、目的がはっきりとしない子どもの遊びを否定します。そして、勉強や習い事に追い立てます。その結果、社会全体から多様性が失われてきてしまっているのです。今、子どもたちが一番夢中になって遊んでいるゲームでも子どもたちはスポーツと同じように勝ち負けを競っています。スタートも、ゴールも、レーンもない広い広場では鬼ごっこは出ても競争は出来ません。その「鬼ごっこ」には絶対的勝者は存在しません。「勝者」と「敗者」が交代するのが鬼ごっこという遊びなんですから。でも今、その「交代」が出来ない子が増えてきています。本来、「遊び」において一番大切なことは「勝ち負けを競うこと」ではなく、「みんなで楽しむこと」のはずなんですが、でも今、それが出来ない子が多いのです。「自分だけ楽しければいい」と自分勝手なことをして楽しもうとする子が増えてきたのです。確かに、遊びの場でも「勝ち負け」を競うことがありますが、それは上下を決めるためではなく、本気になって遊ぶためのきっかけに過ぎません。その点が、勝つことを目的とするスポーツとは決定的に違う点です。子ども達は、「みんなが楽しくなるような遊び」を通して、勝ち負けを競う社会ではなく、みんなが助け合うことが出来る社会を築くために必要な能力を育てているのです。だから、思春期前の子ども達には「群れて遊ぶ遊び」の体験が必要なんです。
2026.04.03
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いつも言っている(書いている)ことですが、「気質」という考え方は「人を分類するためのもの」ではありません。色々と「〇〇質にはこのような特性がある」と書いていますが、〇〇質の人が必ずそういう状態になるわけでも、そういう状態の人が「〇〇質」だというわけでもありません。人の心とからだの状態は状況に応じて常に変化しているからです。ただ、「〇〇質の人はこのような状態になりやすい傾向がある」ということです。また、成長によっても変わります。自分の気質の偏りに気付き、自分に足らない部分を補うように学び修練することで、他の気質のよいところも取り入れることが出来るようになります。すると気質が分かりにくくなります。ということで今日は胆汁質の人の話です。感覚の働きにおいて一番鈍いのが「胆汁質の人」です。胆汁質の人は感覚の働きではなく、情報や自分の感情によって物事を判断し、行動する傾向があります。ですから、見えないもの、聞こえない音、五感ではなく心を通して感じるようなこと、データ化できないようなことは信じません。感じようともしません。価値も感じません。ですから、ファンタジー的な世界が理解できません。というか、そういうものを大切にする人をバカにします。子どもを「未熟な存在」として見ます。ですから、そういうものを大切にする憂鬱質の人とは相性が悪いです。一見論理的なんですが、論理が自分の中だけで完結しているため客観的な判断が苦手で、いつも主観的な判断に従って考え、行動しています。やっかいなのは、自分の中では論理が完結しているので、いつも「自分は正しい」と思い込んでしまっていることです。そして、どこかの国の大統領のように、いつも、自分の思い通りに感じ考え行動しようとします。感覚の働きを通して外部とのやり取りをしないので自分の客観的な状態を知る術がありません。表現ワークにも参加しません。「自分と対話する」などというようなことには興味がありません。ですから、気質の勉強会などには参加しません。ある憂鬱質の人が胆汁質の人を気質の勉強会に誘ったとき、「それを学ぶことにどのような意味があるのですか?」と聞き返されたので、それ以上誘わなかったそうです。芸術品の価値を値段で判断します。ですから、社会的な価値が低い子どもの絵や、野に咲く花には価値を感じません。でもそれ故に「肩書き」には弱いです。芸術品だけではありません。様々な物事の価値を社会的な価値だけで判断しようとします。ですから、有名な人は「すごい人」で、どんなにすごいことをしていても無名な人は「大したことがない人」として扱います。それゆえ、「肩書き」を欲しがります。また、自然や生き物がいっぱいいるような野山でも平気でつぶしてビルを建てたりします。感覚の働きを通して「自分の状態」を映し出している鏡を見ようとしないので、自分の間違いにも気付きません。相手が困っていても、苦しんでいても気にしません。「見れば分かるでしょう」などというような理屈は通用しません。失敗したら「自分の過ち」ではなく、相手のせいにする傾向があります。新しいものには価値を感じますが、古いものには価値を感じません。(高い値段がついていれば別ですけど)マグロのように、常に、前に向かって走り続けようとします。邪魔をするものとは戦おうとします。そして自分とは異なる意見の人とはすぐに「戦いモード」に入ります。常に、自分が目立っていることを求めます。勝ち負けにこだわります。このような状態ですから、見えないもの、聞こえない音、五感ではなく心で感じるようなことを大切にしている憂鬱質の人とは相性が悪いです。憂鬱質の人がいくら説明しても「何を言っているのか」分かりません。でも、常にマイペースで、脅しが通用しない粘液質の人は苦手です。ちなみに胆汁質の人と粘液質の人は見かけは正反対ですが、両者とも安定しているし、構造的には似ているのです。胆汁質の人が一番扱いやすいのは多血質の人です。
2026.04.02
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この世界にはジーッとしていたり、ゆっくりと動いていないと見えてこないもの、聞こえてこない音、感じることが出来ないことがあります。胆汁質や多血質のようにいつも忙しく動き回っていたり、憂鬱質のように、自分の頭や心の中ばかりを見つめていたら見えないもの、聞こえない音、感じることが出来ないものがあるのです。でも人は、自分に見えないもの、聞こえない音、感じることが出来ないものは「存在していない」と思い込んでしまいます。そうして簡単に切り捨ててしまいます。でも、人の心とからだの状態は、その「動き回っている時には見えないもの、聞こえない音、感じることが出来ないもの」の影響を強く受けているのです。なぜなら、「見えない」、「聞こえない」、「感じない」のは意識の世界の話だけであって、からだの働きとダイレクトに繋がっている無意識の世界ではみんな感じているからです。ジーッとしているときに足の裏に触れば感じますよね。ちょっと触っただけでも感じますよね。でも、そんなにデリケートなのに、歩いているときには足の裏の感触を感じることは出来ませんよね。でも、太極拳や武術などをやっていると、普段から足の裏の感覚に敏感になります。つまり、ほとんどの人は歩いているときに「足の裏の感覚」など感じていませんが、感じようとすれば感じることが出来るのです。ですから、確かに「それ」は存在しているのです。そして、からだ全体の状態に大きな影響を与えているのです。洋服の感触も同じですよね。着ている洋服の色や、ゆったりしているか、ぴしっとしているか、ということも、その人の心とからだの状態に大きな影響を与えているのです。でも、ほとんどの人は人はその変化や影響を感じません。空気も、自然の音も、季節の気配も、感じることが出来る人にとっては、確かにそれは「存在するもの」なんですが、意識が「変化するもの」や「自分」に囚われてしまっている人には、それらは「存在していないもの」になってしまっているのです。そのような「変化しないもの」や「ジーッとしていないと見えてこないもの」「聞こえてこない音」「感じることが出来ないもの」を見たり、聞いたり、感じたりする能力に優れているのが「粘液質」という気質です。他の気質の人には、粘液質の子はいつもボーッとしているように見えます。忙しく動き回っている胆汁質や多血質の人には、何にもしていないように見えます。でも、心や感覚は周囲の状況を感じ取るためにフル活動しているのです。以前、幼稚園の先生達のグループに頼まれてこのような話をしたとき、終わった後で一人の先生がやって来て、「そうなんです。私は常に全体の状況に気を配っているのに、上司から〝あなたは何にもしていない〟と注意されるのです」と言っていました。子どもと一緒に遊んだり、子どもの遊びをリードしたりしていると「よくやっている」と言われるのでしょうけど、「危ないことをしている子はいないか」、「寂しそうにしている子はいないか」、「困っている子はいないか」、「みんな仲良く遊べているか」などというようなことを見守っていると、「あなたは何もしていない」と言われてしまうのです。「見守っていること」は「子どもの中に入って何かすること」よりも大切なことなんですが、でも、「何かすること」にしか価値を感じない人には、見守っているだけだと「何にもしていない」と言われてしまうのです。そして今、社会全体がその様な状態になってしまっています。「子どものために何かしてあげるのが親や大人の役割だ」と思い込み、幼いときからあれこれ教え込んだり、色々なところに連れ回したりしているお母さんがいっぱいいます。「子どものために」と遊具がいっぱいの公園も作られています。その様なことをする人は「大人がやらせないと子どもは何もしようとしない」と思い込んでいるのです。でも、「大人がやらせないと子どもは何もしようとしない」と思い込んでそのように関わっていると、本当にその様な状態になってしまうのです。そしてそのまま大人になります。子どもを仲間と一緒に自然の中に連れ出して、遠くからただ見守って見ていて下さい。大人がいかに子どものことを知らないのかが見えてきますから。でも、胆汁質や多血質の人にはそれが出来ないのです。子どもを森や自然の中に連れ出しても、大人だけでおしゃべりを始めたり、何とかしようと考えている子どもに簡単に手助けしてしまいます。そして「ほら、やっぱり大人が助けてあげないと」などと言います。子ども達が自分たちの力で次のステップに進むのを見守ることが出来ないのです。
2026.04.01
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多血質の人は「色」や、「動き」や、「変化」に対してデリケートな感覚を持っています。そのため、周囲の環境の変化に敏感です。そしてすぐに反応できます。憂鬱質の人は「音」そのものに敏感ですが、多血質の人は「音の変化」に敏感なんです。そのため、憂鬱質の人はメロディーに、多血質の人はリズムに反応しやすいような気がします。でもそのため、周囲の刺激に振り回されやすいです。勉強をしていても側でお母さんが何かをしていると気になって仕方がありません。外で、誰かが遊んでいる声がすると気になって仕方がありません。テレビの音が聞こえていると気になって仕方がありません。授業中でも外から声が聞こえると気になってしまいます。そして、心がそっちの方に飛んで行ってしまい「今やっていること」が疎かになってしまいます。(基本的に子ども時代は誰でも多血質が強いのでそのような傾向があります。)すると、その状態を見ているお母さんや周囲の大人は、それを「落ち着きがない」と「性格の問題」として理解してしまいます。そして、仕付けや教育で治そうとします。一般的に、「性格」は、「親や周囲の環境との関わりを通して、育ちの過程で作られるもの」として考えられているからです。そのため、「子どもの性格上の問題」は全て、「親や、周囲の大人や、環境の問題」として扱われています。中でも一番の責任者は「親」です。だから子どもが問題行動を起こすと親が責められるのです。落ち着きがないのも、憶病なのも、社交性がないのも、乱暴なのも、仲間と積極的に遊ぼうとしないのも、みんな親のせいだと考えられています。そして、周囲は親を責め、親は子どもを責めます。そして、親も子も自己肯定感を失います。確かに親子の関わりのあり方が変われば、子どもの状態も変わります。親、特にお母さんの子どもの性格に対する影響力は非常に大きいです。でも、どんなにお母さんが一生懸命になっても、子どもの感覚特性は変えることが出来ないのです。色に対する感受性、音に対する感受性、人間に対する感受性といったようなものは、その子のからだに生まれつき備わっている神経系の特性なので、お母さんが頑張っても変えようがないのです。ただし、「だから諦めなさい」ということではありません。面白いというか、不思議なことに、子どものその感覚的な特性を肯定して、それを長所として伸ばしてあげようとしていると、子どもはその自分の感覚特性をある程度コントロールできるようになってくるのです。「落ち着きがない」を「好奇心が旺盛」「感情が豊か」「からだを動かすのが好き」という風に理解して、肯定してあげていると逆に落ち着いてくるのです。叱りつけて静かにさせても、静かになるのは見かけだけです。内面は落ち着きがないままです。でも、自分の感覚が肯定され、感覚的な自由を得ることが出来ると心の中が落ち着いてきます。すると、感覚的な衝動に振り回されなくなるのです。ちなみに、多血質の子は動いている方が落ち着きます。「動いているから落ち着きがない」のではなく動いている方が落ち着くのです。だからいつも動いているのです。そんな多血質の子を無理に「落ち着きなさい」とジーッとイスに座らせると、今度は心だけがどこか別の世界に飛んで行ってしまい、別の世界で遊び出します。からだはここにあっても、心が別世界に飛んで行ってしまうのです。そのため、からだはジーッとしていても、目の前のことに集中することが出来ません。でも逆に、からだを動かす自由を与えると、心がからだに戻ってきます。だから、からだを動かしながら学ぶことが出来るように工夫してあげると、ちゃんと学ぶことが出来ます。
2026.03.31
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人の感覚は人それぞれです。でも、人は「自分が感じている事」は分かっても(実際にはそれすらも曖昧ですけど)、「他の人がどのように感じているのか」は分かりません。行動や表情や反応といった物質的現象は目で見ることが出来ても、その背景で働いている感覚の働きは目で見ることが出来ないからです。例えば、憂鬱質の子やアスペルガー症候群の子どもは音に敏感です。そのため、大きな音や、賑やかな音や、意味不明な音や、また、それらを感じさせるような状況に恐怖心を感じます。映画などでも恐怖心を煽るために音が使われますよね。幸せそうな映像が映し出されていても、その背景に不安を感じさせるような音が流れていたら、「これから何か不幸なことが起きるに違いない」と感じますよね。映像は「今の状態」しか映せませんが、音には「未来を予見させる働き」があるのです。だから「不安」を引き起こす働きもあるのです。それは「無意識に働きかける力」でもあります。また、「音感覚」は「空間感覚」ともつながっています。音に敏感な子は空間にも敏感なんです。ちなみに「空間感覚って何だ?」と聞かれても説明が出来ません。分かる人は説明しなくても分かりますが、分からない人は説明されても分からないからです。それが感覚の働きの特性でもあるのです。だからやっかいなんです。それでも簡単に説明しておくと、欧米の教会と日本のお寺、欧米の町と日本の町の中の空間の作り方は全く違いますよね。そういうことです。人が大勢いたり賑やかなところや、知らないところに行くと、音に敏感な憂鬱質の子は不安で固まります。子どもたちが大勢で楽しそうに遊んでいるような場でも同じです。多血質の子は視覚優位ですから、みんなが楽しそうに遊んでいればすぐに飛び込んでいきますが、どんなにみんなが楽しそうに遊んでいるところが見えても、聴覚優位の憂鬱質の子は隅の方で固まってしまうのです。視覚にだまされないのです。(多血質の子は視覚に簡単にだまされます。)すると、我が子の感覚世界が理解出来ないお母さんは、「うちの子は内向的だ、社会性がない、社交性がない、憶病だ、こんなことでは将来困ってしまう」と、本来は「感覚の働き」の自然な結果に過ぎないのに、その状態を「心の問題」として解釈してしまいます。時に、障害が疑われる場合もあります。そして「その心のトラブルを治さなければ」と思い込み、不安で固まっている我が子を無理矢理引っ張り出して、その場に慣れさせようとします。「こんなもの慣れれば大丈夫」と思うのでしょう。でも、その子の「感覚の働きの特性」は基本的に生まれつきのもものなので、仕付けでは治せないのです。私たちの行動の背景には、色や、音や、空間や、人間や、光や、命や、動きや、美や、秩序に対するに対する感受性が働いているのですが(これが「命の働き」です)、こういう感受性は、脳やからだの感覚特性でもあるので、仕付けでは治しようがないのです。だからそのような感覚特性が肯定されるような育て方をするしかないのです。気質の学びはその役に立ちます。確かに、嫌がる我が子を無理矢理引きずり出したりすることで、「みんなと一緒」が出来るようになることもあります。そして、それに成功したお母さんは「ほら見なさい、厳しくやれば大丈夫なんです。子どもを甘やかしてはいけないんです」と言います。でも、自分の感覚を肯定されなかった子は心を閉ざすようになります。そして、「みんなと仲良く遊んでいるように見せる演技」が上手な子になります。自分で自分にウソをつくようになるのです。そして、そのウソを維持するために、心とからだの中に強い緊張が固まったままになってしまいます。というようなことを以前気質の勉強会で話したら、「そのように育てられた主人が鬱病になってしまいました」という方が二人ほどいました。(別々の勉強会です)一人は時々相談に乗っていたのですが、悩まれた末、結局離婚しました。3人の子どもを抱えながら更にその上、旦那さんの面倒を見ることが出来なくなったからです。
2026.03.31
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昨日は「多血質」と「憂鬱質」の似ているところと似ていないところを書きましたが、同じようなことが「胆汁質」と「粘液質」の間にも言えます。どうしてそういう相似的な現象が起きるのかというと、「四つの気質の働き」が「自然界の循環」を支えているからです。季節の循環でも、水の循環でも、血液の循環でも、お金の循環でも、循環が継続して成り立つためには、その1サイクルの間に「出て行って変化したもの」が、また元の状態になって帰ってくる必要があります。だから、毎年春が来て、その後に夏が来て、秋が来て冬が来て、そしてまた春がやってくるのです。「行ったきり」にならないためにはその季節の変化がお互いに補い合うように働く必要があるのです。人間の社会も、四つの気質の人が居るから色々なことや、ものや、情報が循環し、状態を維持することが出来ているのです。「壊したい」と思う人もいれば「守りたい」と思う人もいますよね。「戦争したい」と思う人もいれば「戦争はダメだ」と思う人もいますよね。どっちか一方の人しかいなかったら人類は循環を維持できなくなってすでに絶滅しているのです。「歴史は繰り返す」といいますが、それは、人々の意識の変化が四季の変化と同じように繰り返すからです。行け行けドンドンで戦争しているときには胆汁質が優性です。でも、戦争が終わると「失ったもの」に気付き始め、憂鬱質が働き始めます。憂鬱質の人は戦争をする前から「失うもの」が分かるから戦うことを避けようとするんです。上がったものは下がります。拡散したものは凝縮します。右に行ったものはどこかで左に曲がります。そうでないと上がったまま、拡散したまま、行ったきりになってしまい循環がなり立たなくなってしまうからです。私たちのからだの中で血液を循環させている血管の構造も同じです。血液は心臓の動脈から出ていって毛細血管によって体中に運ばれ拡散しますが、今度は、別の毛細血管によって、来た時と逆の過程を通ってまた一つにまとまり心臓に帰っていきます。四つの気質はそれぞれ「春」(多血)、「夏」(胆汁)、「秋」(憂鬱)、冬(粘液)に例えられていますが、「春」と「秋」とでは逆の現象が起きていますよね。夏と冬も逆の現象が起きていますよね。だから見かけは正反対なんですが、構造的には似ているのです。多血質と憂鬱質の人の感覚や感情の状態は不安定です。そのため両者とも様々な変化に敏感です。違うのは、多血質の人はその変化を喜び、憂鬱質の人はその変化を怖がるということです。不安定という点では春と秋も似ていますよね。春の不安定さは命のエネルギーが活性化する夏への階段のようなものです。でも、秋の不安定さは、命のエネルギーが低下する冬への階段のようなものです。同じ不安定でもその意味が違うのです。多血質と憂鬱質、胆汁質と粘液質の人は骨格的にも似ています。声の状態も似ています。多血質と憂鬱質の人の感覚や感情は不安定だと書きましたが、胆汁質と粘液質の人の感覚や感情は比較的安定しています。胆汁質と粘液質の人は一見正反対に見えるのですが、正反対であるがゆえに似ているのです。そして、胆汁質の人が一番苦手なのが粘液質の人です。胆汁質の人はリーダー向きだと言われますが、粘液質の人もリーダとして活動できるのです。違うのは胆汁質の人は「俺についてこい型」のリーダーですが、粘液質の人は「調和を大切にする型」のリーダーだということです。多血質と憂鬱質の人は脅かせばなんとかなります。でも、粘液質の人には脅かしが通用しないのです。何を考えているのかすら読めません。胆汁質の人は感情や言葉や行動をドンドン排泄します。多血質と憂鬱質の人はその排泄物に敏感に反応するのですが、粘液質の人はそれをスルーしてしまいます。安定しているので振り回されないのです。だから、やりにくいのです。ちなみに憂鬱質の人が一度怒ると、心もからだも固まってしまい、しばらくその状態から抜け出せなくなります。でも、胆汁質の人は、大声で怒鳴った後でも、別人のように笑うことが出来ます。からだが固まらないからです。
2026.03.29
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4月からの、気質や、子育てや、心とからだ関係の講座は「こちら」のサイトをご覧になってください。茅ヶ崎での対面講座と、Zoomでの講座があります。あと、呼んでいただければどこへでも行きます。**************一般的に「憂鬱質の人は暗く、多血質の人は明るい」というイメージがありますが、それはあくまでも「そういう傾向がある」ということに過ぎません。実際には様々な要因で明るい憂鬱質の人もいれば、暗い多血質の人もいます。特に、幼児期の育ちがその状態に大きく影響を与えているような気がします。憂鬱質の子どもでも、安心出来る場で、安心出来る人といる時には、多血質のイメージのように明るい子も多いです。また、成長と共に色々なことを学び、自分で自分の安心を保てるようになれば、色々な場に行っても、色々な人に会ってもその明るく楽しい状態を維持できるようになったりもします。逆に多血質の子でも、自由と仲間を失い、刺激が少ない環境に束縛されていると、憂鬱質のイメージのように暗くなります。実は、多血質と憂鬱質は構造が似ているのです。人間や刺激に対して高い感受性を持っているという点でも、感覚や感情の状態が不安定だという点でも似ています。私の想像では、この両者は元々は同じものだったのではないかと思っています。人間以外の動物でも、不安を感じるような状態に置かれるとからだを固め、神経質になり、些細な刺激にも敏感になります。それは、知らない相手や知らない状況の中ではなにが起こるか分からないし、何か起きた時には自分の力で自分の身を守る必要が生まれるからです。ですから憂鬱質的な特性は、弱い動物が厳しい自然界の中で生きていくためには必要な能力なんです。それに対して、社交的で、明るくて、楽しい多血質的な性格は「群れ」の中で生活している時にだけ必要になります。自然の中で、自然を相手に生きている時には多血質は必要がないのです。人間が多血質的な気質を進化させてきたのは、人間が人間だけで群れを作り、社会生活を営むようになってからなのではないかと思います。でも、多血質の人でも、身の危険を感じると、その根底にある「危険に対処するための憂鬱質的な素質」が目覚めてしまうのではないかと思っています。でも、警戒心が強い野生動物でも、人間に飼われ、安心と安全と食料を与えて貰うことで人なつっこくなり甘えてきます。人間に対してあまり警戒しなくなります。つまり、多血質的な状態になります。それでも個体差はあります。人間の世話を受けていても、いつまでも警戒心を解かず人に懐こうとしない個体もいれば、すぐに人間に懐いてしまう個体もいます。「種による気質の違い」もありますが、同じ種の中にも「個体差による気質の違い」もあるのです。赤ちゃんでも、お母さんに抱かれている時にはニコニコして、嬉しそうに多血質的にはしゃいでいても、知らない人に抱かれると、突然憂鬱質の子のようにからだを固め、不安な顔になったり、泣き出したりしますよね。それがいわゆる「人見知り」という状態です。これは程度の差はありますが、基本的にはどんな子にもある現象です。この頃はまだ、野生動物のように憂鬱質と多血質が分離していないのでしょう。でも、その人見知りがズーッと続く子と、さっと通り過ぎてしまう子がいます。あと重要なことは、周囲の人には暗いように見えても、心の中まで暗いかどうかは分からないと言うことです。特に憂鬱質の人は、周囲の人には暗く見えても、本人的には明るかったりすることもあるのです。私には孫が6人います。で、一番最初に生まれた孫は結構人見知りが続きました。といっても人並み程度ですけど。それが長く感じたのは2番目があっという間に人見知りの時期が終わってしまったからです。人見知りの時期はあったのですが、「人見知りが始まったな」と思ったら、すぐに終わってしまったのです。この子は誰に対してもニコニコして甘え上手です。食べるのが大好きで、何か食べさせているとニコニコしてご機嫌がいいです。人間関係が広がるにつれ、その子の中で眠っていた気質が目覚め始め、はっきりとしてくるようです。そんな風に似ている憂鬱質と多血質なんですが、当然違うところもあります。憂鬱質の人は知識を得たり考えることによって物事を理解し、安心を得ようとするのに対して、多血質の人は他の人とのつながりによって安心を得ようとすることです。また、他の人に対しても、憂鬱質の人は理解を求め、多血質の人は共感を求めます。憂鬱質の人が苦しくなるのは、いくら知識を得ても「まだ知らないことがあるんじゃないか」と考えたり、考えすぎて頭の中がグチャグチャになってしまうからです。ですから、グチャグチャにならないような「正しい考え方」や「正しい知識」を身につけることで、不安や苦しみに束縛されなくなります。憂鬱質の人は自分で自分を苦しめているのです。逆に言うと、だから、学び直しをすることでその苦しみから逃れることも出来るのです。それに対して、多血質の人が苦しくなるのはつながりが失われた時です。求めるものが満たされなくなると多血質の人は苦しくなるのです。自分では色々と考えているつもりでも憂鬱質の人の思考に比べたら底が浅いです。だから、その状態から抜け出すためには他者の手助けが必要になるのです。もちろん多血質の人も考えたり悩んだりします。でも、突き詰めることが出来ないのです。途中で自分が何を考えていたのかすら分からなくなってしまうこともあります。それで「ま、いいか」となって終わります。でも、憂鬱質の人はどこまでも突き詰めようとします。だから考え方が間違っているとこんがらがって身動きが取れなくなってしまうのです。憂鬱質と多血質は写真の「明るいポジ」と「暗いネガ」のように、見かけは逆なんですがパターンは似ているのです。だから、周囲の状況次第でひっくり返ってしまうことがあるのです。
2026.03.28
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気質の違いは役割の違いでもありますから、人間関係の作り方もまた気質によって異なっています。それはつまり、気質が違うと「他者とのつながり方」や「他者に求めるもの」が違ってくるということです。あるお母さんが「うちの子、変なこと言うんです」と言ってきました。いつも一緒に遊んでいる〇〇君のことで、「友達の〇〇くんが・・・」と言ったら、〇〇くんは友達じゃないと言ったというのです。いつも楽しそうに遊んでいるのに友達じゃない・・・?これは。そのお母さんには理解できないことだったようです。それで私に「それはどういうことですか?」と聞いてきたわけです。ちなみにそのお子さんは憂鬱質のようでした。でもこれは「憂鬱質あるある」でもあるのです。多血質の子にとっては、一回楽しく一緒に遊べばもう「お友達」です。粘液質の子にとっては、自分を受け入れてくれるなら「お友達」です。そして、そのお母さんは多血質だったので、お子さんのこの言葉が理解できなかったのです。でも、胆汁質と憂鬱質の子の場合はそう簡単ではないのです。そもそも、胆汁質と憂鬱質の子は「お友達」なんか求めていません。胆汁質と憂鬱質の子が求めているのは「仲間」です。目的や、方法や、価値観や、美意識や、世界観を共有出来る仲間を求めているのです。胆汁質は目的や方法の共有を求めます。そしてそれらを共有出来る相手を仲間として受け入れます。じゃあなぜ、相談にあった子は、友達とは思っていないその子と遊んでいたのか、ということですよね。実は、憂鬱質の子は「本当はやりたくないこと」でも「相手に合わせる」ということをしてしまうのです。そしてこれは多血質の子でもやることです。この点では、憂鬱質は多血質と似ているのです。憂鬱質の子も多血質の子も、相手の気持ちを感じる能力が高いので、仕方がない状況では相手に合わせてしまうのです。そしてそれが出来るのが、憂鬱質と多血質の能力でもあるのです。でも、そのことで憂鬱質の子は苦しくなります。多血質の子も苦しくなるのですが、多血質の子は自分の心のバランスの取り方を知っているので、誰かに愚痴を言ったり、甘いものや美味しいものを食べたり、旅行や運動などしてストレスを発散することが出来ます。でも、憂鬱質の子はそういうことが苦手なので、ひたすら苦しみを溜め込みます。そしてそれは心やからだの不調として表れます。他の人の目には周囲とうまくやっているように見えるのですが、本人は苦しんでいることがあるのです。多血質の子はそのことを吐き出すことが出来るのですが、憂鬱質の子は吐き出せないのです。そのような時、心とからだが固まってしまっています。そのため、自由な活動が出来なくなります。お母さんでもそのような状態の人がいます。見かけは優しくて、何にも問題がないように見えるのですが、自分を守ることだけで精一杯なので子どもの心を感じることが出来ません。自由に感じることも考えることも行動することも出来ません。そして、表情が固まってしまっています。からだもガチガチです。表現ワークには参加しません。
2026.03.27
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「気質の違い」は「役割の違い」です。その「役割」という視点で気質を説明すると、胆汁質、憂鬱質、粘液質、多血質の四つの気質は、それぞれ「攻める」「守る」「維持する」「楽しむ」というようなものです。そのため、胆汁質の人は常に「攻める」という視点で物事を見たり考えたりする傾向があります。憂鬱質の人は「守る」という視点で、粘液質の人は「維持する」という視点で、多血質の人は「楽しむ」という視点で物事を見たり考えたりする傾向があります。でも、実際にはどれか一つの気質しか持っていなかったら生きていけません。攻めるだけでも、守るだけでも、維持するだけでも、楽しむだけでも生きて行くことが出来ません。そのため、人は皆「四つの気質」全部を持っています。そして、状況に応じて攻めたり、守ったり、維持したり、楽しんだりしています。自分より強い相手からは逃げますが、自分よりも弱い相手に対してなら強く出るでしょ。人は誰でもそういう二面性を持っているのです。ただ、この四つの割合が人によって異なっているのです。胆汁質だけが他の気質よりも強い人がいます。そういう人を指して「あの人は胆汁質だ」と言っているのですが、だからと言ってその人が胆汁質しか持っていないと言うことではありません。単に「その人の中では胆汁質が一番強い」というだけのことです。また、気質は役割なので、自分が置かれた状況に応じて変化もします。どの気質の人でも「身動きが取れないような状況」に追い込まれてしまったら自分を守ることしか出来ません。そのため、憂鬱質的な視点で考えようとします。退屈な状況に置かれたら、何とか楽しい事を見つけようとします。ただし、だからといってその人本来の気質が変わるわけではありません。「その場の状況に合わせて、四つの気質の中でその場に必要な気質が働き出す」ということです。気質にはそういう柔軟性があるのです。まただから分かりにくいのです。気質の講座をすると、「お話を聞いていると、自分には全ての気質があるように感じます」と言う人が多いのですが、これがその理由です。実際人はみんな四つの気質全部を持っているのですから。でも、胆汁質以外の人が胆汁的な状態になった時と、本来の胆汁質の人が胆汁的な状態になった時とでは、胆汁のレベルが違います。走るのが苦手な人でも走ることは出来ます。でも、走るのが得意な人ほど早く走ることが出来る訳ではありません。それでも、自分の体験しか知らなければ、「おれには走る才能があるのかも知れない」などと勘違いしてしまうかも知れません。それと同じです。当然のことですが、憂鬱質以外の人でも悩むことがあります。特に、多血質の人は自由を失うと憂鬱的な気分が強くなって、色々なことを悩み始めます。それで「自分は憂鬱質に違いない」と思い込んでしまっている人もいっぱいいます。でも、憂鬱質の人の悩み方と、多血質の人の悩み方は違うのです。憂鬱質の人は頭で悩みます。それに対して、多血質の人は心で悩むのです。この二つがどう違うのかというと、憂鬱質の人は頭で悩んでいるので自分の悩みについて語れるのです。そして、どこまでも悩みの原因を突き詰めようとします。ですから、憂鬱質の人からの子育て相談メールはものすごく長いです。それまで起きたことや、子どもの状態の分析や、自分の思考の過程が延々と書かれているからです。でも、多血質の人は「なんで分かってくれないの!」と言うばかりで、自分の悩みについて語れません。多血質の人からの子育て相談メールでは「○○で困っています。どうしたらいいのか教えて下さい。」というような簡単なものが多いです。悩みを言葉化できないのです。でも、ただ「苦しいから助けて下さい」と言われても、状況が分からなくては答えようがありません。そういう客観的な気質の状態を知るためには、様々な表現活動をワークが必要になるのです。他者の気質と出会う事で自分の気質に対する気付きが生まれるのです。気質は相対的なものなので、自分だけを見つめて自分の気質を知ろうとしてもムリなんです。それと女性は妊娠、出産、子育て中は憂鬱質が強くなる傾向があります。なぜなら、この時期は自己防御能力が弱くなるのと、自由が失われるのと、守るべきものが生まれるからです。*******************気質の講座(Zoomもあります)の案内は「こちら」にあります。
2026.03.26
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気質の勉強会をやっていてよく言われるのが、「他の人の気質は分かるようになったけど、いまだに自分の気質が分からない」ということです。これは当然のことで、人は誰でも最初から四つの気質を持っているので「自分の中の気質探し」をしてしまうと全部見つかってしまうからです。気質は季節にも例えられます。多血質は「春」、胆汁質は「夏」、憂鬱質は「秋」、粘液質は「冬」などというようにです。でもこの四つは日本中にあります。北の方にある北海道にも、南の方にある沖縄にも四季はあります。だから、「私は春(多血質)なんだろうか、夏(胆汁質)なんだろうか」などと考えても、客観的な自分の状態は分からないのです。北海道にも沖縄にも四季はあります。でもその状態は大きく異なります。同じ「春」ですが、「北海道の春」と、「沖縄の春」は異なるのです。平均気温も違います。そうですよね。だから、その特徴に応じて、北海道は「北国」と呼ばれ、沖縄は「南国」と呼ばれているわけです。でも、北海道から出たことがなく、北海道のことしか知らない人にはその違いが分かりません。沖縄から出たことがなく、沖縄のことしか知らない人もその違いが分かりません。そして、それと同じように、ほとんどの人が「自分の世界」から出たことがありません。外側からしか「自分」を見たことがありません。でも、気質の特徴と言われているものは「他の人にはどう見えているのか」ということなので、他の人には「多血丸出し」に見えていても、本人にその自覚がなければ自分の気質に気付かないのです。これは「国民性」と呼ばれているものも同じです。日本人の「国民性」は同じ「国民性」を持った人達には分からないのです。人の体臭は、同じ体臭を持っている人には分かりませんよね。日本人の匂いは、日本人には分からないのです。外国に行くと、町々に異なった匂いがあります。バックパッカーで旅をしていた時も、新しい町に行くと新しい匂いがありました。でも、しばらくその町にいると、分からなくなります。慣れてしまうからです。人は皆、生まれた時から「自分の感覚、自分の意識、自分の心や感情」の中から出ることが出来ません。だから、そのままの状態では、「自分にとっては当たり前のこと」が、「他の人には当たり前ではない」ということが分からないのです。でも、人は皆「自分」、つまり、必ずしも「他の人には当たり前ではない」ことを基準にして、他の人のことを評価し、判断しています。日本では富士山は「ものすごく高い山」ですが、8000m級の山々が連なっているネパールやチベットの人から見たら、3776mしかない富士山など「低い山」になってしまうでしょう。「気質」もまた相対的なものなので、同じ人の気質を判断するときも、評価する人の気質が変わると、異なった気質に見えてしまうのです。その様な状態から、自分の体臭、自分の癖に気付くためには、一度「自分」という殻から出て、外から自分を見てみるしかないのです。そのため、気質の勉強会では表現ワークを重視しています。でも、「自分」から出たくない人は「表現ワーク」を嫌います。「客観的な自分」と向き合うことを恐れているのでしょうか。
2026.03.25
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気質の講座(Zoomもあります)の案内は「こちら」にあります。******************今日は粘液質の人が好きな絵本をご紹介します。ちなみに私は粘液質+憂鬱質ですから、私の好みの本を紹介させて頂きます。先日、私は子どもの頃読んでもらった「ちびくろさんぼ」のことをよく覚えている、と書きましたが、大人になって読み返してみたら、実はストーリーの全体ではなく、虎が虎を追いかけ、グルグル グルグル回って最後には「バター」になってしまうという最後のシーンだけを覚えていたことに気付きました。その前の、虎とのとんちの効いたやり取りの記憶はあまりなかったのです。同じ絵本を読んでもらっても、気質によって響くところ、面白いと感じるところが違います。多血質の子だったらもしかしたら、「バター」よりも、最初の「虎とのやり取り」の方を覚えていたかも知れません。私が大好きな絵本に「ちいさいおうち」(バージニア・リー・バートン 作)があります。これは絶対的に大好きです。草花が咲き乱れるのどかな田園風景の中に立っている「ちいさいおうち」が主人公です。「ちいさいおうち」はいつまでも変わらないのに、時代の変化と共にその家の周りがどんどん開発されていきます。そしていつの間にか、小さいお家は都会の中に取り残されてしまいます。でもある日、偶然その家の持ち主の子孫がその家に気付き、その家を昔のような素敵な田舎へと移してあげます。以下はその時の「ちいさいおうち」の気持ちです。こうして、あたらしい おかのうえに おちついてちいさいおうちは うれしそうににっこりしました。また お日さまを みることができ、お月さまや ほしも みられます。そして また、はるや なつやあきや ふゆが、じゅんにめぐってくるのを、ながめることもできるのです。もう、これだけでジーンとしてしまいます。この「ちいさいおうち」は何も行動しません。ワクワクするような話の展開でもありません。「わたしとあそんで」の少女と同じように、「ただそこにいるだけ」です。でも、ただそこにいるだけだからこそ見えてくる世界、感じることが出来る世界があるのです。動かなければ見えない世界があります。それと同時に動いてしまったら見えなくなってしまう世界もあるのです。そして、粘液質の人は動いてしまったら見えなくなってしまう世界をジーッと見ているのが好きです。粘液質の人は不活発だと言われますが、ただボーッとしているのではないのです。静かにしていないと見えない世界を見ているだけなのです。ですから、粘液質の人は社会の変化、時代の変化にあまり関心がありません。人間社会よりも、山や自然の方が好きな人が多いような気がします。ちなみに私は「ターシャ・テューダー」の世界も大好きです。ターシャの世界は憂鬱質の人も好きだと思います。また、私は「そらのいろ みずいろ」(下田 昌克 著)という絵本も大好きです。本屋さんで見かけて、即買ってしまいました。これは雨が川となって森を抜け、都会を抜け、生き物や人々を潤し、海に帰り、そしてまた空に上がって雲になる、というお話しです。絵が素敵です。長田弘の「森の絵本」(荒井良二絵)も大好きです。「よあけ」(ユリー・シュルヴィッツ 著)「にぐるまひいて」(ドナルド・ホール 著)も好きです。そこには淡々とマッタリした世界があるだけですから、見方によってはみんな「退屈な絵本」です。でも、人間を超えた大きな世界へとつながっている絵本です。絵本ではありませんが宮沢賢治とファージョンも大好きです。なんだろう、読んでいると何かが心とか肌に触れてくるのです。
2026.03.24
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胆汁質の人は途中に困難は出てきますが、ストーリー自体は一直線で、「結論」がはっきりしているお話しが好きです。その結論とは「努力は報われる」とか「勧善懲悪」的な結論です。それは「スポ根物語」に似ています。多血質の人は、リズミカルで、常に変化があるお話しが好きです。その「変化」も、自分の力で引き起こした変化ではなく、偶然によって引き起こされる変化です。そして、最後はハッピーエンドになります。そこに、特別な結論や意味は必要ありません。それは「ディズニーランド」の楽しさに似ています。粘液質の人は、「微妙な変化」を味わうことが好きなので、リズミカルな変化も、結論も必要ありません。そして、「幸せ」を感じるようなマッタリしたお話しが好きです。胆汁質の人は「喜び」を、多血質の人は「楽しさ」を、粘液質の人は「幸せ」を、憂鬱質の人は「美しさ」を求める傾向があります。ですから、それぞれの気質の人が好きな絵本にもそのような傾向が現れるのです。ただ、憂鬱質の人が求める「美しさ」は説明が困難です。憂鬱質の人が求めているのは「憂鬱質の人にしか分からない美しさ」だからです。具体的には人それぞれですが、憂鬱質の人は一般的な「美しいもの」だけでなく、「1+1=2」という「真理」にも、「蜘蛛の巣」や「朝露」にも、「苦しみの中で頑張っている人」にも、「蜘蛛や昆虫の姿」にも「美しさ」を感じることが出来る感性を持っているのです。茶道における「侘び寂び(ワビサビ)」という美意識も憂鬱質の感性です。図鑑好きな子もいます。蜘蛛を見てうっとりする子もいます。ただ、その美的な感性ゆえに理想が高いので、現実の自分自身とのギャップを強く感じ、自己否定してしまうこともよくあります。また、非常に失敗を恐れます。「理想通りに出来ないのなら何もしない」という短絡的な判断をしてしまうこともあります。それでも子どもはまだ多血質が強いので、楽しい絵本の方が好きですが、大人になると本当にただ苦しいだけの絵本やお話しを選ぶ人もいます。以前、気質のワークで「自分の心にピッタリくる絵本を持ってきて下さい」と言ったら、幼い頃に親が死んで、意地悪な養父母がいる森の中の家に引き取られ、苦しいけど森の中の一本の木と対話して苦しみをこらえていたのに、ある時いったらその木が切られていて・・・・というような救いのない絵本を持ってきた人がいました。世の中には苦しいだけのお話しもいっぱいあります。多血質や胆汁質や粘液質の人には何でそんなお話しがあるのか理解不能ですが、苦しみと向き合って生きている憂鬱質の人の場合、そのようなお話しを読むと、「苦しいのは自分だけではないんだ」と感じるのかも知れません。「シンデレラ」というお話しにもそのような要素があります。憂鬱質の人は「美しいもの」に憧れますが、でも、何を美しいと感じるかは人それぞれなので、憂鬱質の人が好む絵本を決めるのは難しいです。「絵の美しさ」によって選ぶ人も、「お話しの美しさ」によって選ぶ人も、「言葉の美しさ」によって選ぶ人もいます。また、細かい図鑑のような絵本を選ぶ人もいます。ただそこで共通しているのはそこに何らかの「美しさ」があるということです。でも、この「美しさ」は憂鬱質の人にしか見えないので、それを他の人に伝えるのはなかなか難しいです。胆汁質の人はそれを簡単に馬鹿にします。そんな憂鬱質の人の世界を題材にした絵本(?)があります。アーノルド・ローベルという人が書いた「がまくんとかえるくん」のシリーズと、「ふくろうくん」です。私は好きです。憂鬱質の人の世界について知りたい方は是非、お読み下さい。
2026.03.23
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以前、あるドロンコ系の幼稚園の先生達のワークで、「好きな絵本を持ってきてもらうワーク」をやりました。それで一人一人、持ってきてもらった絵本を紹介してもらったのですが、その中に、非常に参加者の反応が良く、みんなが大笑いする絵本がありました。それは「そらまめくん」のシリーズの中の一冊です。「そらまめくんとながいながいまめ」 (創作絵本シリーズ) なかや みわ (著)その「そらまめくん」の話を聞きながら、みんなは何回も何回も大笑いをしていました。でも、憂鬱が入った粘液質の私には何が面白いのか全く分からないのです。そもそも私は絵本に「笑い」を求めてはいません。私は「楽しい絵本」よりも「心や感覚に響く絵本」の方が好きです。簡単に言うと「静かに読む本」が好きなんです。そのような「楽しい本」が好きなのは「多血質」の人達です。そして一般的に、幼稚園の先生には多血質や胆汁質の人がいっぱいいます。だから大受けしていたのでしょう。それに対して、シュタイナー幼稚園のお母さん達で同じワークをしても、そのような絵本を持ってくる人はあまりいません。いたとしても、そんなにも受けません。それは、シュタイナー教育に惹かれるような人は粘液質や憂鬱質の人が多いからだと思います。粘液質や憂鬱質の人は静かな方が好きなのです。多血質の人たちは、以下のような絵本も好きです。「よかったねネッドくん」 レミー チャーリップ (著)「まあちゃんのまほう」(こどものとも絵本) たかどの ほうこ (著)今、この画像を取るためアマゾンでこの絵本を見ていたら、その説明文の中にさて、作者からのクイズです。(1)タヌキははじめ、どこにいた? (2)贋物と本物のお母さんの違いは? (3)贋のお母さんがやりたい放題してる時、本物のお母さんはどこで何をしていた? 本を読んで答えを探しましょう。という文章を見つけました。やはり、作者の「たかどの ほうこ」さんは多血質の「楽しいこと大好き人間」のようです。私は以前、あるお母さんから「篠先生は多血質に冷たい」と言われたことがあるのですが、私は別に多血質の人が嫌いなわけではありません。ただ、理解が出来ないだけです。楽しそうにしている多血質の人を見ているのは楽しいです。それは、楽しそうに遊んでいる子ども達を見ているのが楽しいのと同じです。でも、多血質の人たちが「何がそんなにも楽しいのか」が理解が出来ないのです。逆に、多血質の人にはこの「理解しようとする気持ち」が理解出来ないようです。多血質の人たちの判断基準は「楽しいか 楽しくないか」だけなので、「理解」など必要がないからです。気質の学びをするようになってからは、多血質の人達のこのような気持ちも、このような絵本の良さも分かってきましたが、でも、だからといって「自分のためにこのような絵本を買うか」とか、「一人でも読むか」と言われたらNOです。ちなみに、子ども達は全般的に大人よりも多血質が強いので、このような絵本は結構受けます。ここで紹介した絵本は我が家でもよく読みました。逆に、私が好きな「静かな絵本」は、子どもにはあまり受けません。子どもに受けたのは以下のような本です。「キャベツくん」 作・絵:長 新太 出版社:文研出版「ねことあほうどり」 「11ぴきのねこ」シリーズ 作:馬場 のぼる「さるのせんせいとへびのかんごふさん」 作: 穂高 順也
2026.03.22
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昨日、「わたしとあそんで」という絵本のことについて書いたので、「気質と絵本」というテーマで書いてみます。気質の勉強会の時に、「自分の心に響く絵本を何冊か持ってきて下さい」というテーマでワークをすることがあります。「想い出の絵本」とか、「子どもが好きな絵本」ではなく、あくまでも「自分の心に響く絵本」です。すると、面白いことに、その人の気質とつながった人それぞれの傾向が現れるのです。「絵本の作者の気質」と「読む人の気質」が近い場合は、作者の意図や、気持ちや、感じたことをそのまま感じることが出来るので、深く共感するのです。でも、「作者」と「読む人」の気質が合わなければ、「名作」と言われる絵本でも全く興味を感じないものです。逆に、「名作」ではなくても、「作者の気質」と「読む人の気質」が近ければ、「好きな絵本」になるでしょう。ですから、読み聞かせの絵本を選ぶ時には、「名作リスト」を参考にするだけでなく、お子さんの気質も考えて選んだ方がいいかも知れません。「名作」だから共感するわけではないからです。昨日「わたしとあそんで」(マリー・ホール・エッツ作)という絵本を紹介しました。少し、話の繰り返しになりますがおつきあい下さい。ある気質の勉強会でこの絵本を読んだ時、「全く良さが分からない」「なんでこんなお話しが絵本になっているかすら分からない」と言った方がいました。そのお母さんは、色々な社会活動に熱心で、「将来は政治家になりたい」と言っていたほどの胆汁バリバリのお母さんでした。ちなみにこの絵本はいわゆる「名作」と言われている絵本の一つです。ですから、「大好き」という人もいっぱいいます。でも、その彼女には「こんなのあり得ない」ほどのくだらない絵本だったようです。それで、彼女に「どうしてくだらないと思うのですか?」と聞いたところ、「だってこの子はただ石に座っているだけで何にもしてないじゃない」と言いました。胆汁質が強い人は、「戦って勝つお話」や「人のために努力するお話」が好きです。しかも、最後にはその努力が報われる必要があります。ですから、「ただ石に座っているだけのお話」なんてありえないのです。「三びきのやぎのがらがらどん」とか、「しょうぼうじどうしゃ じぷた」のような内容だと分かるし、楽しめるのですが「自己満足的なお話」は理解不能なんです。「きつねのおきゃくさま」(あまんきみこ作)という絵本があります。わるがしこいキツネが、「よいキツネ」を演じて、ウサギやアヒルやヒヨコなどを安心させ、だまします。いっぱい食べさせ、太らせて、後で食べてしまうつもりで優しくするのです。でも、「よいキツネ」を演じていると、みんなが感謝してくれます。嘘をついて演じているだけなんですが、それでもみんなから感謝され、信頼されると嬉しくなるのです。そして、少しずつみんなのことが好きになってしまいます。そんなある日、そのウサギやアヒルやヒヨコを食べようとオオカミがやって来ます。キツネは逃げることも出来たのですが、みんなを守るために戦い、死んでしまいます。この最後のシーンで粘液質や憂鬱質のお母さんは「キツネの優しさ」に感動して泣きます。でも、胆汁質が強い人にとっては、キツネが「仲間を守る戦いに負けたこと」や「努力が報われなかったこと」の方がショックなようです。これは、胆汁質の人にとっては「ありえない展開」なのです。人は同じ物語に接しても、自分の気質に共鳴した部分だけに共感するのです。だから、子ども達に「同じ物語」を聞かせても気質が違えば違った感想になるのです。
2026.03.21
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「わたしと遊んで」(マリー・ホール・エッツ作)という絵本があります。野原に遊びにやってきた女の子が最初は積極的に動いて、バッタやカエルやカメなどに「一緒に遊ぼう」と働きかけます。でも、みんな逃げてしまって女の子は独りぼっちになってしまいます。そのうち女の子はあきらめて一人で石の上に腰掛けてジーッとしていたら、さっき逃げていった生き物たちがみんな戻ってきて、女の子の回りで遊び始めました。そして、その女の子は最後に ああ わたしは いま とっても うれしいの。 とびきり うれしいの。 なぜって、みんなが みんなが わたしと あそんでくれるんですもの。と言います。私はよくこの絵本を気質の勉強会に持って行きます。そして、みんなの感想を聞きます。すると、粘液質(ねんえきしつ)や憂鬱質(ゆううつしつ)の人は「素敵ですね」と言います。でも、多血質(たけつしつ)の人はピンとこないようです。さらに胆汁質(たんじゅうしつ)の人はもっと積極的に「よく分からない」と言います。「こんなお話しのどこが素敵なのか全然分からない。なんでこんなお話しが絵本になっているのかすら分からない」と言い切った胆汁バリバリの人もいました。彼女は、「だってこの女の子は何にもしないでただ座っているだけじゃない」と言いました。憂鬱質や粘液質の人はからだを使って特別な行動などしなくても、感覚や思考を働かせるだけで、素敵な何かが生まれることをよく知っています。だから、この女の子の「何もしない」が分かるのです。それに対して、胆汁質の人は「行動し積極的に関わることでしか何も生まれない」という価値観を持っているので、何もしないままで「うれしい」と言うこの子の気持ちが理解出来ないのです。それで胆汁質は話を聞いているうちにイライラして来てしまうのです。確かに、野原に行って、仲間と一緒に虫を探したり、木登りしたり、鬼ごっこをするのも楽しいです。でも、野原の真ん中に座ってジーッとしていると、自分と世界がつながっていること、自然の美しさ、生命の世界が豊かであること、そして自分の感覚が宇宙全体に広がっていく感覚など、色々なことを発見することが出来ます。憂鬱質の人はこのように空想することが、そして粘液質の人はこのような感覚世界に浸っているのが大好きです。ですから、いつも静かに浸っていたいと思います。でも、この内的な世界はデリケートなので活動的に動き回ると消えてしまうのです。ちなみに、粘液質の人は肌に触れてくる風、木々の木漏れ日の揺らめき、水の音、お日様の暖かさなどにうっとりとします。憂鬱質の人は精神的感覚を好み、粘液質の人は身体的感覚を好みます。(胆汁質は達成感を好み、多血質は関わり合いを好みます。)憂鬱質や粘液質の人があまり活発に活動しないのは、このように「内的な活動」をしているからなのです。でも、胆汁質や多血質の人にはその「内的な活動」が見えません。子どもの成長においても、胆汁質や多血質の子の方が一見早く成長するように見えます。憂鬱質や粘液質の子は成長がゆっくりのように見えます。でも、手仕事のような活動をさせると、胆汁質や多血質の子どもたちはすぐ飽きてしまいますが、憂鬱質や粘液質の子どもたちはあまり飽きません。むしろ自分がやっていることと対話することができるので面白さを感じます。表面的には不活発ですが内面はしっかりと成長しているのです。つまり、胆汁質や多血質の子どもは表面的には成長が早いように見えるのですが、内面の成長に関して言えば、憂鬱質や粘液質の子どもの方が早いのです。その違いを私は「外側から育つ子」と「内側から育つ子」というように表現しています。でも、どちらのタイプの子でも、気質を肯定され、自分のペースに合わせて育つことが出来れば思春期頃にはお互いの差は縮まっていきます。胆汁質や多血質の子も内的な活動が出来るようになり、憂鬱質や粘液質の子も外的な活動が出来るようになるということです。でも、子どもを教育する立場の大人にそのような認識がなく、遅れている部分を仕付けや教育にによって取り戻させようと追い立ててしまうと、そのままの状態で大人になってしまいます。そして、持って生まれた自分の能力を生かすことが出来なくなります。
2026.03.20
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気質の講座(Zoomもあります)の案内は「こちら」にあります。四つの気質の特徴を簡単にまとめてみました。<胆汁質>・目的を共有することでつながろうとする・目的達成に必要な方法も共有しようとします。・世界平和はどの気質の人でも望むでしょうが、胆汁質の人は「軍事力の強化」という方法で進もうとする傾向があるような気がします。・自然を資源として見る傾向があります<多血質>・感情を共有することでつながろうとする・身近な目的は持ちますが、遠くを見据えたような目的は持ちません・世界平和でも「みんなが仲良くなれば戦争なんて起きないのよ」というような考え方をする傾向があるような気がします・人の影響を受けやすいです・人間が大好きです・自然を「心とからだを楽しませてくれるもの」として見る傾向があります<粘液質>・感覚を共有することでつながろうとする・いっしょにご飯を食べて「おいしいね」と顔を見合わせる、一緒にお風呂に入って「気持ちがいいね」と顔を見合わせる。そんな感じです。感覚を共有しているので言葉はあまり必要がありません。・勝ち負けにこだわらないので、なぜ人と人が戦うのかが分かりません。人と人が殺し合っているのを見ると悲しくなります。・平和主義者ではありますが、大きな声で「反戦」を訴えるようなこともしません。・自然との相性はいいです。自然を仲間として受け入れます。 ですから、人がいなくても自然があれば寂しくありません。 <憂鬱質>・世界観、価値観、美意識を共有することでつながろうとする これが共有出来ないといつも一緒に遊んでいても「友だちではない」といいます。 逆に、これが共有出来るなら、会ったことがない相手でも仲間として受け入れます。・戦っている人を見ると恐怖を感じます。そして遠ざかろうとします。・大きな声の人、人の心を感じようとしない人、大騒ぎをしている人にも恐怖を感じます。 そのため、憂鬱質の子は、自分も子どもなのに「子どもらしい子ども」が苦手です。・大人と一緒にいる方が安心する子も多いです。・自然との関係は両極端です。 自分と分離できないくらい自然とつながろうとする人もいれば、自然に恐怖を感じ近寄らない人もいます。・憂鬱質の人にとって自然は「資源」でも「遊び場」でもなく、それ自体が「生き物」なんです。だから、その「生き物」と良い関係を築けた人は自然に包まれようとし、良い関係を築けなかった人は襲われる危険を感じて避けようとするのです。ちなみに日本人は、粘液質と憂鬱質が強い民族のような気がします。妖怪なんかも自然を生き物として見る感性の表れだと思います。「視点」の違いとしては、○粘液質の人は全体を観ようとして○胆汁質の人は目的と方法だけを見て○憂鬱質の人は自分の心や過去や未来を見て○多血質の人は周囲の人の目や行動や反応に意識を向けていますこんな感じです。もっとも、これは「各気質にはこのような傾向がある」ということであって、「必ずこのパターンに当てはまる」ということではありません。気質は混ざり合ったり、入れ子になったりしていますから。ですから、ここにまとめたことをお読みになってなんとなく各気質のメージを持って頂ければそれでOKです。
2026.03.19
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「気質」の違いはその人の感覚、思考、意識、感情の働きの違いの中に表れます。その人の「気質」が、その人の生まれつきの感覚、思考、意識、感情の働き方に強い影響を与えているのです。でもそれはスタート地点の違いに過ぎません。「スタートはそういう状態ですよ」というだけのことであって、それだけでは「今はこういう状態ですよ」ということを説明できません。なぜなら、感覚、思考、意識、感情の働き方に影響を与えているのは「気質」だけではないからです。皆さんもご存じのように、「その人がどのような子育てを受け、どのようなことを学び、体験してきたのか」ということもその人の感覚、思考、意識、感情の働き方に大きな影響を与えているからです。育った環境や食べ物の影響も大きいのです。というか、そのようなことが「気質の状態」に変化を与えているのです。つまり、人はだれでも「生まれつきの気質」を持っていますが、産まれた後からの様々な体験や学びを通して、自分が生きている環境に合わせて変化していく」ということでもあります。ただし、同じことを学び、同じ体験をして、同じものを食べても、気質が異なると、違うものを感じ、違うものを吸収するのです。気質が異なれば、同じ本を読んでも、その本から吸収することが違うのです。これは「体質」とも似ています。「体質」が異なれば、同じものを食べてもからだに与える影響は異なりますよね。アレルギーと呼ばれるものも体質と関係していますが、他にも、お肉を食べることで元気になる人もいますが、お肉を食べるとからだの具合が悪くなる人もいますよね。よく、「肉をいっぱい食べた方が健康にいい」とか「野菜をいっぱい食べた方が健康にいい」などというような話を聞きますが、でもこれは両方とも間違っているのです。「自分のからだに合った食べ物」を食べることが、「自分のからだ」にとっては一番いいことなんです。そしてそれは一人一人違います。また、それは固定されたものではありません。自分のからだの状態は常に変化しているからです。朝食べるとからだにいいものでも、夜食べるとからだに悪いものもあるでしょう。また、からだの調子がいい時には食べてもいいものでも、からだの調子が悪い時にはあまり食べない方がいいものもあるでしょう。春・夏・秋・冬でもからだの状態が違うので、「からだにいい食べ物」も異なります。基本的には動物のからだは、春には春のもの、夏には夏のものというように、季節季節のものを摂ると調子が良くなるように出来ているのです。何百万年とそのように生きてきたからです。でもそれも、普段とはからだの状態が異なる時には異なってきます。現代人のように、人工的に管理された環境の中で暮らしていて「季節に合わせたからだ」を持っていない人の場合は、必ずしも季節に合わせた食べ物がからだにいいとは限らないかも知れません。だから「何を食べたらいいのか」ということは、自分自身で「自分のからだ」と対話しながら確認するしかないのです。そして実は「気質」はこの「体質」と密接に関係しているのです。まただから、一人の個人の中では成長と共に気質も変わるのです。妊娠中、子育て中も変わります。病気をしても変わります。そのような時は体質も変わるからです。大まかに言うと、子どもの時は「多血質」が強く、思春期になると「胆汁質」が強く、中年になると「憂鬱質」が強く、老年になると「粘液質」が強くなるような気がします。体質の状態が変わっていくからです。でも、体質がみんな同じように変化している同年齢の仲間の中での気質はそれほど変わりません。ヨーロッパで最初に気質のことを言い出したのは2000年前のヒポクラテスというお医者さんだそうです。中国の最古の医学書と言われている『黄帝内経』(こうていだいけい、こうていだいきょう、こうていないけい)にも気質と同じような考え方が書かれているそうです。インドのアーユルベーダにも同じような考え方があります。日本の野口整体を作りだした、野口晴哉(のぐち はるちか)も似たようなことを書いています。それらに共通しているのは、みんな「からだを見る人達が気付いたこと」だということです。「からだ」見ているうちに、一人一人異なるからだの個性に合わせて、感覚、思考、意識、感情の働き方が違うことに気がついたのでしょう。ただし、その分類の仕方は分類した人や文化の個性に合わせて異なります。でも、共通点も多くあります。そして「気質」はその「体質」と密接に関係しているのです。「気質」は「性格を分類したもの」ではなく、「体質を分類したもの」でもあるのです。だから、お母さんが子どもの状態に問題を感じても、「しつけ」では直しようがないのです。いくら怒鳴っても、叱っても、叩いても、説得しても、体質は変わりませんからね。それよりも「生活のリズムを整える」、「食べ物を工夫する」、「環境を整える」、「遊びを変える」というような「からだ」に働きかける方法の方が効果的なんです。
2026.03.18
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人間の心もからだも、そして自然界も、人間の社会も常に変化しながら調和を保っています。 そこには「復元する働き」が働いているのですが、その「復元する働き」によって、いわゆる「恒常性」が維持されているわけです。固定された状態のものが変化しないのは当たり前です。(劣化はしますけど)でも、変化しながらも常に元に戻る働きが働いて、変化を繰り返しながらも大枠としては変化しないというのはすごいことです。優しい人でもまれに怒ることがあります。でも、しばらくするとまた元の優しい人に戻ります。風邪を引いて熱が出ても、しばらくすると風邪は過ぎ去り、熱も下がります。今年の春は寒暖の変化が激しいですが、冬に戻ることも、一気に夏になってしまうこともなくちゃんと「春」が進行しています。人間の社会には破壊者もいますが、その破壊を止めようとする人もいます。新しいものばかり求める人もいますが、古いものを守ろうとする人もいます。ケンカしている子どもも、しばらく放っておけばまた仲良く遊んでいます。だから、社会も、自然も、人間の心も、からだも、仲間も、崩壊することなく、ちゃんと調和を維持することが出来ているのです。そしてそれが「生命の世界」でもあります。「生命」が失われた世界にはこの復元力がないのです。だから、直線的な変化しか起きないのです。この復元力や調和を支える働きの背景にあるのが「気質の働き」です。というかそういう働きを「気質」と呼んでいるわけです。ちなみに「気」とは「エネルギーの流れ」のことです。「流れているエネルギー」とも言えるかも知れません。人間のからだも、生命も、自然界も、人間の社会も、「エネルギーの流れ」によって支えられています。春になると冬の間に大地の中や、種の中や、木々の中に閉じ込められていた生命のエネルギーが一斉に目に見える世界に現れてきます。夏になるとそのエネルギーはどんどん強さを増していきます。でも、秋になると春に起きたのとは逆の現象が起きます。つまり、目に見える世界に現れていた生命のエネルギーが、大地や、種や、木々の中にまた戻っていくのです。そして、冬になると、そのエネルギーは見えにくくなりますが、消えたわけではありません。見えない世界の中でしっかりと生命の働きを支えています。だから、春になると一斉に目に見える世界に現れてくることが出来るのです。冬は見えない世界で春の準備をしているのです。「春」と「秋」、「夏」と「冬」には一見相反する現象が起きています。でも、その相反する働きが、四季の循環を支えているのです。ちなみに、多血質は「春」、胆汁質は「夏」、憂鬱質は「秋」、粘液質は「冬」に例えられます。胆汁質の人は「成功したときのこと」ばかり考える傾向があります。でも、憂鬱質の人は「失敗したときのことばかり」考える傾向があります。だから胆汁質の人は憂鬱質の人を馬鹿にするのですが、でもだから胆汁質ばかりの組織は危険なんです。じゃあ、憂鬱質なら安全なのかと言うと、そういうことでもありません。憂鬱質の人は変化を嫌います。そのため、周囲の状況の変化に対応することが出来ずに危険になってしまうこともあるのです。こういう時は「どっちのほうが正しい」などという議論をすることなく、お互いに、お互いの言葉に耳を傾け、支え合い、補い合うべきなんです。ちなみに、多血、胆汁、憂鬱、粘液の四つの気質は「風」・「火」・「土」・「水」の「四大元素」例えられることもあります。ただし、私はこれに「空」(くう)を加えて、気質を5つの要素として考えています。(これは私の個人的な考え方です。シュタイナーの気質の考えにはないと思います。)この「空」は、具体的な現象ではありません。でも、この「空」があるから、「風」・「火」・「土」・「水」の四つの働きが分裂せず、お互いに支え合い、調和を保つことが出来ているのです。
2026.03.17
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四月から新しい講座を始めるに当たって、久しぶりに「気質」の話を始めます。講座については「こちら」をご覧になって下さい。昨日は、「気質とは素材のようなものだ」ということを書きましたが、当然のことながら、その「素材としての特質」は、子どもがオギャーと産まれた時にはすでに大方決まっています。ただ、まだ可能性として隠されてしまっているため目で見ることが出来ないだけです。普通は、種や卵を見ただけではそれがどんな植物や生き物に育つのか分かりませんよね。だからといって、ミカンの種を育ててリンゴの実をつけさせようとしても無理ですよね。ミカンの種は最初「ミカンの木」や「ミカンの実」とは似ても似つかない姿をしています。だからといって、ミカンの種を植えて「リンゴになれ、梨になれ」と願って育てても、ミカンの木にしか育たないし、ミカンの実しか実らせることが出来ませんよね。むしろ「ミカンらしさを否定されて育ったミカンの木」は、貧弱な木にしか育たないでしょう。貧弱なミカンしか実らせることが出来ないでしょう。人は皆、生まれつき一人一人違う特性を持っているのです。自分と同じ心と、からだと、感覚と、意識を持って産まれてくる人など世界中に一人もいないのです。DNAも育つ環境も違うのですから。ですから、違う能力、特徴、特性を持った子ども達を、同じ基準で競争させ、比較、評価しても意味がないのです。例えば、誰でも、同じ量だけ努力すれば、同じ量だけ上達するのかというと、そんなことはありませんよね。人一倍努力してようやく人並みに出来るようになる人もいれば、大して努力しなくても、人より優れたことが出来る人もいます。その逆に、どんなに努力しても人並みに出来るようにならない人もいます。それが私たちの現実です。ですから「努力は報われる」という言葉は、「努力が報われる素質」を持っている人には意味がありますが、そうでない人には意味がないどころか、自分の心とからだを壊すきっかけになってしまう可能性すらあるのです。今、生命科学が発達して、命の仕組みについて色々なことが分かって来ています。DNAはからだの設計図です。受精卵はその設計図に合わせて、お母さんのお腹の中で胎児のからだを創っていきます。目の色も、髪や肌の色も、鼻の高さも、背の高さも、筋肉や骨格の特徴もDNAが決めています。生まれた時にはまだ未知数で、育ちの過程で決まってくる特徴や能力もありますが、その土台となる部分は、生まれた時点でもう出来上がっているのです。頭の善し悪しも、半分ぐらいは親の遺伝らしいです。だから勉強が嫌いだったり苦手だったりしたお母さんやお父さんは、子どもに勉強を教えない方がいいです、成績で子どもを追い詰めない方がいいです。追い立てることで逆効果になってしまう可能性もありますから。子どもに「あんたは頭が悪い」と言うお母さんもいますが、それは自分が頭が悪いことを証明しているような言葉です。もっとも、勉強が好きなお母さんや得意なお母さんは、あまり子どもを追い立てないものです。そういうお母さんは、「そんなことをしても無駄だ」ということや、「勉強って面白い」ということを知っているのですから。むしろ、子どもの趣味や興味を伸ばしてあげる方が、未知数として残っている残り半分の可能性を拓くことになるのではないかと思います。「好き」を伸ばしてあげることで「苦手」を克服できるようになることもあるのですから。日々、子どもと接していると、「子どもの能力は一人一人みんな違う」ということを強く感じます。学んで、努力して成長するのではなく、最初から違うのです。もちろん、誰でも、ある程度は、学んだり努力したりすれば成長出来ます。でも、初期状態がみんな同じではないのです。特に、色に対する感性、音に関する感性、心の感受性、身体能力などといった感覚的な能力においては生まれつきの要素が大きいような気がします、幼稚園ぐらいの子でも「ああ、この子には敵わない」という子がいます。ちなみに、多血質と呼ばれる気質を持った子は、「色」に対する感受性が高いです。変化にも敏感です。でもそれ故に、変化に振り回されてしまうことも多いです。また、変化しないもの、変化しにくいものにはあまり興味を示しません。また、仲間と一緒に行動したがります。一人を嫌います。憂鬱質と呼ばれる気質を持った子は「音」や「光」に対する感受性が高いです。それと関係するのかも知れませんが「心」に対する感受性も高いです。人の心の中を覗こうとしたりもします。いつも未来を予測しています。強い刺激や、予測不能な状態や人を怖がります。その逆が胆汁質と呼ばれる気質を持った子です。人の行動には興味がありますが、心にはあまり興味がありません。憂鬱質の子は強い刺激を怖がりますが、胆汁質の子は強い刺激が好きです。勝ち負けにこだわります。思いつきで行動します。結果が全てです。トランプさんはその典型です。多血質の子は変化を待ちますが、胆汁質の子は変化を起こします。粘液質と呼ばれる気質の子は、観察し、じっくりと味わうのが好きです。表現することや行動することは苦手ですが、心の中では色々なことを考え、色々なことを楽しんでいます。勝ち負けにこだわらず、おっとりしています。ここに書いたのは各気質の特徴の一部ですが、このような違いは4,5才頃から分かりやすくなってきます。
2026.03.16
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一般的に、ものを作る時には、木や鉄や石などを使うことが多いです。そして、それらの特性は全く異なります。でも、それらがどのような形になるのかは作り手次第であって、全く異なった材質なのに、同じものを作ることも出来ます。たとえば、木でも、鉄でも、石でも、イスは作れます。スプーンも、カップも、家も作れます。でも、同じ用途のものであっても、そのものの材質が異なれば扱い方が異なります。使い方も、使い心地も違います。木のスプーンは湿気を吸いやすいです。汚れやすいです。ちゃんと手入れしないとすぐにかびたり腐ったりします。また、強度は弱いです。でも、軽くて、風合いがあって、手になじみやすいです。色を塗ったりもしやすいです。漆を塗れば何百年も持たせることが出来ます。これは「木」という材質自体の持つ特性なので、木が、スプーンでなくて、イスや、カップや、家になっていても同じことが言えます。鉄のスプーンは強いです。水に濡れたままにしておくと木と同じように腐りますが、油を塗ったりして表面を保護すれば、これも何百年も持ちます。強度があるので多少乱暴に扱っても壊れにくいです。ただ、木のように装飾するのはなかなか困難です。色を塗っても塗料を吸い込まないので、すぐに剥がれます。また重いです。一番手入れに気を遣わないでいいのが石のスプーンです。湿気があるところに置いておいても腐りません。でも壊れやすいです。餅つきの臼には木のものと石のものがありますが、木の臼はちゃんと手入れをしておかないとすぐにカビが生えたり腐ったりしてしまいます。でも、石の臼は野ざらしにしておいても、使う時に洗えば大丈夫です。このようにそれぞれの素材にはそれぞれの特性があります。そしてその特性に合わせてそれらの素材を使うのなら、その素材の能力を最大限に生かすことが出来ます。そして、「気質」はこの「素材」のようなものなんです。生まれつきの心や、感覚や、からだの特性を分類したものです。そしてそれは「素質」や「個性」と呼ばれるものともつながっています。子どもはみな同じ状態で生まれてくるのではないのです。オギャーと産まれた時点で、もっと言えばお腹の中にいる時から、一人一人みんな「特別な個性を持った存在」なんです。それは子育ての結果ではないし、子育てでどうこうできることでもないので、それはそのまま肯定して、受け入れるしかないのです。親の役割は、子どもが自分の気質や、個性や、特性を生かせるような生き方が出来るように支えてあげることなんです。何人かの職人に同じ木を与えて何かを作ってもらったとしても、実際に何が作られるかは職人さん次第です。家を作る人もいるかも知れませんが、パルプにして紙を作る人もいるかも知れません。そして、その職人さんにあたるのが親や成育環境になります。ですから、親は気質を変えることは出来ませんが親の役割は非常に大きいのです。実際、同じ気質の子でも、親や成育環境が異なれば、見かけ的には全く異なった状態の大人に育ちます。デリケートな特性を持った「憂鬱質」という材質の特性を無視して「強い子に育て」と願い、鉄を鍛えるように鍛えようとしたら、簡単に折れてしまうでしょう。でも、同じ憂鬱質の子でも、強さを求めるのではなく、そのデリケートさや優しさを生かすような育て方をすれば、自分に自信があり、思慮深く、優しい人に育つでしょう。素材の特性を無視して、親が「自分が欲しいもの」を無理矢理作ろうとすれば、何かの形になる前に壊れてしまうのです。子どもが「どういう大人に育つのか」という点において親の影響はものすごく大きいですが、親がどんな育て方をしても、子どもが持って生まれた材質自体を変えることは出来ないのです。そして変えようとしてはいけないのです。そんなことしたら子どもは「自分が否定された」と感じるだけです。自分が否定されていることを感じながら育った子が自分を肯定できる大人になることが出来るわけがないのです。
2026.03.15
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