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本当のこたえ New! かめおか ゆみこさん

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森の声

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2026.05.12
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カテゴリ: カテゴリ未分類
「人」というより「全ての生き物」は感覚の働きで、自分以外の他者や、周囲の環境や、自然とつながっています。感覚の働きがなければ、自分自身ともつながることが出来ません。そしてその感覚の働きは、体験によって育つように出来ています。

例えば視覚ですが、外部の世界の映像が眼球を通して網膜に映し出され、そのデータが脳に送られるという所までは、特別に機能的な異常がない限り誰でも生まれつき持っている能力です。これは体験によって生まれた能力ではなく、DNAの働きによって生まれた能力だからです。

でも、その視覚データがどのように処理され、そのデータの中に何を見て、何を感じるのかを決めているのはDNAではなく体験です。
ですから、体験とつながっていないものは網膜に写っていても見えないのです。

以前、子どもたちに小さな公園が写っている1枚の写真を見せて「何が見える」と聞いたことがあります。
公園の写真ですから、子どもたちは、ブランコ、滑り台と勢いよく答えてくれました。でも、写真に写っている遊具の名前が一通り出たら、そこで発言は止まってしまいました。
公園の上に広がっている青い空や、白い雲、公園の木々、道路の脇の自動車、そういうものが見えていないのです。

それで、「それだけじゃないでしょ」と更に聞いたら、ようやくそういうものに気付く子が出てきました。

小学校に呼ばれて音のワークをした時も、体育館に集まった子どもたちに「何の音が聞こえる」と聞いたら、まず最初に足音や、話し声や、ピアノの音や、自動車の音といった、人工的な音ばかりが出てきました。
風が強い日だったので風の音も聞こえていたのですが、それに気付くまでにはかなり時間がかかりました。

人間は、目で見て、耳で聞いているのではなく、体験で見て、体験で聞いているのです。
それは言葉を聞くのと同じ仕組みです。全く知らない外国語は単なる「音」としてしか聞こえませんが、日本語なら「音」ではなく言葉として聞こえてきますよね。それと同時に、言葉の「音」としての側面は聞こえなくなってしまいます。

鶏の鳴き声は日本人には「コケコッコー」と聞こえますが、英語圏の人には「クックドゥードゥルドゥー」と聞こえるそうです。
それは、日本人は鶏の鳴き声を「日本語の音」で聞き取ろうとして、英語圏の人は「英語の音」で聞き取ろうとしてしまうからです。体験を通して感覚の働きがそのように調整されてしまっているのです。

「木」という言葉はみんな知っていますが、木が身近なところにあり、木登りしたり、木の実を取って遊んでいる子にとっての「木」と、木との触れ合いがない生活をしている子の「木」は同じではないのです。

「木」という「文字」も、「キ」という「音」も、「木についての説明」も知っていても、木との触れ合いがない状態で育った子は、「木についての情報」を知っているだけで「木」そのものは知らないからです。
そのため、「木」についての話や、「木」が出てくる物語を聞いても本質的なところで理解することが出来ません。

言葉が「言葉」として正しく機能するためには、その言葉とつながった体験が必要になるのです。

そして、その体験を支えているのが感覚の働きなんです。感覚が働いていない子は体験も出来ないのです。
大人達が、子どもたちに何かを体験させようとして何かをやらせても、感覚を働かせることが出来た子はちゃんと体験が出来ますが、マニュアル通りに作業しただけの子は体験が出来ないのです。

例えば、包丁を使う体験をさせる時も、包丁や、自分が切るものや、手のひらの感覚や、からだの感覚を感じながら切ることが出来た子は、ちゃんと「包丁」を体験できますが、ただ動作を真似しただけの子は、「包丁」の体験が出来ないのです。
そして、ちゃんと体験が出来た子は、その体験を通してさらに感覚の働きを高めることが出来ます。

感覚の使い方を知らない子は体験も出来ないし、体験を通して成長することも出来ないのです。そのような子は、どんなに学んでもただ知識が増えるだけなんです。

その違いが現れ始めるのが中学生頃です。小学校の間の勉強は覚えるだけでも何とかなりますが、中学生ぐらいになると考える能力が育ってない子はついて行くことが困難になってしまうのです。当然、勉強を楽しむことも出来ません。

だからといって、東大に入るような子がみんな考える能力に優れているということではありません。受験やお勉強に特化した思考法はパターンが決まっているので、やる気があって、ある程度の体験的な素地のある子なら、その思考法を単なる技術として覚えることで何とかなってしまうからです。だから、小説「ビリギャル」で描かれたようなことが起きるのです。

逆に言えば、「自由に考える能力」は日本の教育制度の中ではあまり必要がないのです。日本式の教育現場ではかえって邪魔になってしまうこともあります。実際、「自由に考える能力」が高いが故に、学校の成績は悪い子もいます。
でも、その「自由に考える能力」がないと、自分の人生を自分のものとして生き生きと生きることが出来ないのです。
もちろん、「子育て」も困難になります。

その「自由に考える能力」が育つためには、7才頃までに感覚をいっぱい働かせながら、色々な体験をする必要があるのです。だから「森へ行こう」「仲間と遊ぼう」「自由に遊ぼう」ということを言い続けているのです。





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Last updated  2026.05.12 13:21:00
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