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2018年05月01日
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シングルシーター
 主催者の意に反し、規定の変わった1979年の第1戦
では、
様子見の姿勢のチームが多かった。
 出走したシングルシーターは長谷見昌弘のMCS、
片山
義美のKIR、清水正智の火の鳥の3台だけ。

     ​

 優勝こそ逃したものの、単座マシンのポテンシャル
は予
選と決勝を通じてドライバーやピットスタッフに
知れ渡っ
た。
 各チームが新たなマシン作りに取り組み、独創的な
デザ
インのボディーが製作された。
 当時は設計にコンピュータは利用できれず、風洞
実験も
限られていたので空力性能を高めるためのさま
ざまな工夫
、実験的試みがなされた。

     ​

 1983年、高橋徹が死亡。
 観客にも死傷者が出たため、現場検証には警察が
介入す
ることになった。
 さらに高橋の遺族や関係者は死傷した観客側から
提訴さ
れ、事故の責任を問われた。
 グラウンド・エフェクト・カーの特性に起因する
との主
張もあり、グラチャンマシンが危険との印象
が生じた。
 1984年、グラチャンでグラウンド・エフェクト・
カーは
禁止になった。
 グラチャンの人気が復活する中、新しいスターが
育った。

     ​

 モトクロスのライダーから日産の契約ドライバーに
なっ
た星野一義は、1976年のF1イン・ジャパンで一時
3位を走行
する活躍を見せ、闘争心あふれる走りから
“日本一速い男”
の称号を得た。
 彼がグラチャンで初のシリーズタイトルを獲得した
のは
1978年。

     ​

 翌年チャンピオンは、ヒーローズレーシングで星野の
1年後輩にあたる中嶋 悟。
 好敵手として名勝負を繰り広げた二人だった。
 1987年、中嶋はロータス・ホンダに乗り、日本人初
のシリ
ーズ、フルタイム参戦のF1ドライバーとなった。

     ​

 好敵手を欠いたレースは面白みに欠けた。





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最終更新日  2018年10月09日 19時29分19秒
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