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2018年05月01日
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グラチャンの幕引きを早めた暴走族
  一方で、グラチャンはレースとは直接関係のな
いところで悩みを抱えていた。
 1970年代から80年代にかけて暴走族が社会問題と
なっていた。

     ​

 2シータースポーツカーの時代から、モータース
ポーツファンとともにグラチャンは暴走族も多数集
めていた。
 グラチャンの開催日には東名高速や中央高速に暴
走族が集まり、会場周辺で集会、レース開催中も会
場内、グランドスタンド裏でドラム缶をパイロンに
みたてジムカーナもどきを行なっていた。
 多くの観客が集まるグラチャンで、改造車を見せ
つけて存在を誇示していた。

     ​

 主催者も困惑、警察の指導もあり「不法改造車で
の入場をお断りいたします」との文言をチケットに
印刷、チケットゲートに掲示するなどしたが、効果
はなかった。
 ツーリングカーレースでは性能向上のために空力
パーツや幅広タイヤをカバーするオーバーフェンダ
ーで装着された市販車がレースを行っている。
 彼らはそれを真似、性能向上などを考えないエス
カレートし、目立つことが目的の改造車を作って乗
り込んできた。

     ​

 特攻服に身を包んだ若者が違法改造車でグラチャン
に集合、普通のモータースポーツファンは辟易。
 竹ヤリ、デッパの改造車は「グラチャン」と呼ばれるまでになった。
 モータースポーツ自体が世間に誤解された。

     ​

 1987年、鈴鹿サーキットでF1日本グランプリが開催
された。
 4輪モータースポーツファンは再びF1に接し、中嶋の
参戦もありレースファンは急増。
 頂点レースの高まりは、その裾野を拡大することなく、
1989年、グラチャンは終了。

     ​

 スポーツカーレースであるグラチャンは廃れ、プラ
ベーター主体のレースは、F2000、F2、F3000など
のフォ
ーミュラが主流となっていた。

     ​

 お手本にしたCan-Amシリーズも1986年終了。
 1988年から鈴鹿や菅生でも開催されるようになった
が、
長年富士スピードウェイだけで行われたことで、
マシン
も富士専用にガラパゴス的進化を遂げていた。

     ​

 グラチャンは、19年もの間日本のトップカテゴリー
レースだった。
 フォーミュラ押しの鈴鹿は、モータースポーツイベ
トとしては2流だった。
 そして私にとっては「青春」。





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最終更新日  2018年10月09日 19時29分01秒
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