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報道されている事柄でおかしいと思うことはたくさんあるのですが、最近はオリンピックのマラソン開催についてです。なぜ今になって東京から北海道に場所を移すのか?コースの整備など準備のことを考えるとかなり遅いですよね。ドーハのマラソンで気温や湿度が高く棄権者が続出したからかもしれません。しかし、以前にも書いたことがありますが、自然のことは仕方がないのです。、東京から北海道に移してもその日の気温や天候はわからないのですから。今後の温暖化がますます世界的な問題になることは確かです。今そのことに本当に対応するのであれば、距離を短くするなどルールを変えるか、時期を冬に開催することのほうが妥当と思います。オリンピックが開催される国を毎回変えることの良さは、幅広くさまざまな条件や環境を受け入れて行うことです。時差や気候も含めてさまざまなのは必然のはずです。結局その条件や環境に合わせてどう走るかを考え、強い選手になるしかありません。ドーハのマラソンで気温や湿度が高かったため有力者の棄権が続出したとしても、その悪条件の中で走りきった選手がいたはずです。記録としてどうであれ、その条件を克服した選手こそがもっと評価されていいはずです。メディアはそこを取り上げないで、有力者の棄権を大きく取り上げています。東京は世界でいちばん気温や湿度が高い都市なのでしょうか?ドーハよりは下のようです。だからこそ東京より高い国や地域から参加する選手にとっては、東京での開催が絶好のチャンスと言えるはずです。そうでなければ、今回で日本でのオリンピックの開催はほとんど最後になってしまうでしょう。日本はオリンピックを見据えて巨額の予算をつけて備えてきました。キャッシュレス化や外国人労働者・観光客の受け入れ、消費税アップ、そして都市や観光地の整備、外国人向けサービスの充実、都内の身近なところでもやたら綺麗に整備されてきています。また、都はマラソンだけにでも300億円を使って整備してきました。それにも関わらず他の都市に変わりましたなんて都民としては受け入れられません。民間企業であれば、こんなにお金を使って実現できなかったら大問題です。ですから、都知事は最後まで移転開催を反対しなければなりません。
2019.10.31
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演奏会をプログラミングするにあたって何が重要であるかということをずっと言ってきたわけですが、それは得意とするレパートリーを演奏することです。演奏するにあたって克明な出来上がりのイメージがない曲目を演奏するのはNGです。オーディションの課題曲、皆が演奏しているから演奏するなど、選曲の理由はそれぞれですが自分の演奏スタイルを確立することこそが重要だと思います。そうではない曲に挑戦して何かミスしてしまった場合、聴いている側からすればかなり大きなミスとして印象に残ってしまいます。それはどんな定評のある演奏であったとしても大きなダメージとなる可能性があります。それを例え聴く側の問題と言っても、ミスは意識下に残るのです。音楽とは抽象で人によって聴くところが違ったり評価が分かれたりするものです。しかし、ミスは誰にでもわかる程度ともなると意識下に残ります。それは具体(具象)的な現象であるほど印象として残ります。その具象はこれまでにもさまざまな作曲家によって曲に盛り込まれてきました。これまでのブログでも紹介したとおりです。そもそも音楽は音そのものを感じることがすべてで、そこにエモーショナルなものが生まれてきました。最近の教育で、初めて聴いた音楽に物語をつけたり独自のイメージを持たせたりすると聞きます。その音楽を自分なりに理解することにおいてそれは自由ですが、作曲者が本来意図したものではない可能性は高いのです。タイトルや曲目解説、さらには研究をしてその曲への正しい理解が深まるわけで、クラシックの近現代音楽に関しては勉強して聴いてこそ造詣が深まります。美術で言えば音声ガイドを聴きながら鑑賞するのと同じです。しかし、音楽は聴く側の趣向が強く、鑑賞するという発想が極度に減っているのです。タイトルや解説を読んでもわからないほど抽象である音楽、それを具象化する、つまりミスした時のように聴衆の意識下に訴えかける音楽を考えています。それは先述のように、今までハプニング的に扱われきちんと論理化されていません。人の意識下に呼びかける音楽、それは純粋に音を聴くことではないかもしれませんが、誰が聴いても、例えクラシックに精通していなくても同じことを感じる音楽です。「アマポーラ」は1992年にマンドリン奏者の青山忠さんの委嘱により編曲しました。当時の作風はシュルレアリスムと多様式性を採り入れた最初期でしたが、この音楽も「アマポーラ」がはっきりしない背景から、徐々にアマポーラ本来の背景に移り変わっていく様子をピアノで表したものです。この演奏の美しさは素晴らしいもので、この曲のイメージを見事に顕在化しています。どのようなジャンルの方にも受け入れられる音楽として自負しています。
2019.10.25
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このところ心臓の発作はなく穏やかな日々です。ただクレアチニンが以前から微妙で腎臓がそんなによくないことはわかります。今回は検査でした。東京医療センターは外来ではなかなか予約が入らずかなり待つことになります。そこで、近所の循環器系内科も探していました。薬を出してもらうために以前行ったところは結果的に良くなかったので新たに探しました。今回の病院はいい印象があります!何よりも看護師さんたちのひた向きさのようなもの、今時は中高年の方と若い人では仕事に対する温度差のようなものを感じるのですが、そこはそれなりに中高年の看護師さんは昔ながらの親身さで患者に寄り添い、若い人は多少マニュアル的であれ、面と向き合う誠意は感じられました。お医者さんそのものからではなくとも、看護師さんたちからその病院の活気や状態が感じられる気がします。そして何よりもよかったのはほとんど待たされなかったことがよかったです。おそらく看護師さんたちの努力によるものと感じました。採血も痛みなく上手にいていただきました。自分に合った病院を見つけるのは大切なことだと思います。次に検査結果をもらいに行く時にはっきりすることもあると思います。
2019.10.25
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時代が変わっただの何だのと言いますが、人が責任を取れることと取れないことがあります。悲しみや損害について誰かを訴えたい気持ちはわかりますが、それほど世の中や社会は整ったものでも物事に精通したものではないと思います。たとえ地震を予測できたとしても被害まで予測などできません。台風が来るとわかっていてもどれほどの被害が出るかはわかりません。10月12日夜に関東を通過する台風19号については、本当にすごい被害が起きると報道されていますが、これは千葉を壊滅した前回の教訓があるからとも考えられます。なぜ前回の15号の時にそれほどの報道ができなかったのか、それはそれほどの被害が出る予測はたっていなかったからです。被害を予測することなどたとえできたとしても、それだけの行政を動かしたり予算を捻出するのはさらにその先のことです。備えに越したことはありませんが、日本は今まで起こったことを教訓として次を考えることが基本です。その被害を予測することはできても対処までできないのです。しかし、誰かに責任を取らせる裁判の報道をよく耳にします。どんな力のある責任者であっても大震災や大型台風の前には対処できないと思います。一生懸命対処しますとしか言いようがありません。対応が遅れているとか言うのだったら、そうなる前に注意を喚起する報道をするべきです。ことが起きてから責任追及するのは簡単なことですが、個人を責めるのではなく、この時こそ行政が動かなくてはならないと思います。保険で保障されるのであればそれでも良いから解決を促すのは行政です。行政を相手に訴訟を起こすのであればそれはいいと思います。しかし、例えば電力会社の管理職のイメージがどうあれ、その人たちに自然災害の責任を押し付けるのはおかしいと思います。原子力発電は避けたいでしょうが、広域停電だって被害は甚大なのです。それを全て何とかしろと言うのは日頃の幸せを当たり前に思いすぎではないでしょうか。この数年、今までにはなかったような大型台風が来ます。昔も大きな台風はありましたが、昔はそれほど頑丈な建物がなかったわけで、15号の時のように鉄塔が倒れるということは考えられなかったことです。なぜ、史上最大級の台風が立て続けに来るようになったのか?そこに地球温暖化が原因なのであればそこの責任を追及するべきです。それが文明の発展なのであれば、これ以上発展しなくていいのではないでしょうか。それよりも大事なことがあると思います。対外的な敢えてやらなくてもいいような政策ではなく、自然災害で被害を受けた地域の復興のために税金を使ってもらいたいと思います。
2019.10.11
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多くの人がダンスのことに詳しいので今更のことかもしれません。ラストアイドルの「青春トレイン」という歌と言うよりもはやダンスが、これまで観てきたものとは違って芸術性が極めて高いと感じるのです。ここで言っているのは音楽面や詞はまったく抜きでダンスのみです。振付がいいということは言うまでもありませんが、細かく振付られた身体のラインが美しいこと、最初からいきなり始まる意外性などの突発的な動き、揃ったステップの見事さや美しさなどが芸術的な要因かと思います。いわゆる動きが速くてキレがある、激しい、揃っているダンスはよく見ますが、振付から個性的な表現が感じられることは新鮮です。新しい芸術表現を見たと言っても過言ではありません。
2019.10.10
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日本とイギリスは同じ島国ですが、まったく異なることがあります。日本は独自性のないこと、周りの国に合わせることです。そこに民主主義はなく、後付けで説明する、それでも国民は概ね変わらないことが喜びで、皆が結構いい国だと思っています。しかし、東京オリンピックが決まってから国の強行さを感じています。日本はそもそも現金に信用があるから現金で取引されてきました。本当はスマホ決済があまり好きではないという人は多いはずです。いつかハッキングされるのではないかと思っているのです。いつも思うのは特殊詐欺やハッキングの報道が少ないことです。実際は少ないわけではないと思います。事実セブンペイは不正使用されたことでなくなったわけです。スマホ決済で数種類インストールしています。他にもパソコンで何種類かポイントやクーポンを取得します。さらに紙などのポイントカードもあるわけです。慣れれば決済する時に楽で得していることに楽しさは感じます。しかし、お知らせの量がたいへん多く、還元率や期限が全てにあって煩雑きわまりありません。しかも使える店がそれぞれ異なるので使いこなすのは面倒です。結局は売価の安い所を探したほうが確実と感じます。また、日々行く店が決まっている人にとっては使い途がそれほど多くはありません。外国人が多くやってきたら経済の活性化にはなるでしょう。日本人は最初からやらない人も多いでしょう。外国人が来店しそうな店は導入するでしょう。でも受け入れる側はたいへんではないでしょうか。消費増税も軽減税率を取り入れたことでレジを変えなければならなかったり、さまざまな決済に対応していく際に何から導入するのか?例えば、スマホ決済は今は決済会社のポイントや現金還元であっても、クレジットカードの手数料は店側の負担ですから店のポイントはつかなかったりします。また、銀行がATMを減らしてその代わりにコンビニエンスストアがATMを入れたのに、キャッシュレス化が進むとATMにはあまり行かなくなりますがどうなのでしょうか。そんな煩雑な状況の中、消費増税されても内税価格で値上がりせず、安値を維持しつつ、現金しか扱わない店もあります。結局そんな店のほうが居心地がよくて、庶民の味方に感じるのです。
2019.10.06
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10月1日に調布FMのドリームワークスの番組の最後に、1994年に作曲した「新多様式空間」の冒頭がかけられました。この曲は10分以上かかる曲で冒頭から徐々に音楽様式が変わっていきます。音楽様式とは時代様式が変わり全く異なる音楽に変わるということです。この音楽の関係性を繋ぎとめているものはラ-シ♭-ソ-ファ♯という、調性でも無調でも使えるショスタコーヴィチの引用とも言える断片ひとつです。この曲は同じ断片がさまざまな時代をタイムマシーンで回游する、そんな音楽です。曲の構成が極めてシンプルなのは、何よりも自分の主義を出すことにありました。このような音楽は現在でこそ普通にたくさんありますが、当時は無調が最後に調性になる程度の新ロマン主義がありましたが、まだまだ長三和音をそのまま出すことを嫌う風潮がありました。また、提唱している新しい多様式とは、例えば邦楽器とオーケストラが協調したり、クラシックとジャズが融合したりというものではなく、異なる時代様式が出会うことによる違和感や超現実感を出すことで夢のできごとを音楽にする、日本で言われている「シュール」と似た体感を表出することが目的です。つまり、わざと違和感を醸すことによって、意識下に「エモーショナルな感覚」を呼び起こさせる意図があります。この「エモーショナルな感覚」とは意外性や驚きといった具体的な事象です。収録で「芸術は驚きだ!」ということを話しました。さまざまな現代音楽のシーンで音素材やアイデアで驚くことはもちろんあります。ただ音素材は芸術や音楽史的な意味づけより技術やメディアが先にいっている点、また全体な作風が既存の作風を再度利用し多様化を図るものが多く、個人的な価値観のレヴェルに留まることが殆どであろうと思われます。「驚き」いうことは現代で言う「サプライズ」と同じことで、そのくらいシンプルで意図的でいいと思います。今では当然のこととして認知されている事柄ながら、音楽史的な意味合いとは別に知られている事実があります。そこには必ず「サプライズ」があり作曲者はそれを狙っていました。ハイドンの交響曲は106曲(番号がついているものは104曲)あり、もちろん「交響曲の父」としてのハイドンの音楽的内容は偉大なものですが、本当のハイドンマニア以外がハイドンの交響曲をどれほど知っているでしょうか。94番ト長調「驚愕」100番ト長調「軍隊」101番ニ長調「時計」104番「ロンドン」などが有名ですが、どんな曲と訊かれるとなかなか思い出せなかったりします。しかし、第94番「驚愕」の第2楽章だけはすぐに想いだせます。それは、極めてシンプルな旋律に明確に聴衆を驚かせる意図があったからです。しかもそれは寝ている聴衆を驚かせるためという極めて浮薄な理由でした。そしてモーツァルト、名曲が多くさまざまな曲が演奏されていますが、やはり当時の作曲家の力量を揶揄する「音楽の冗談」というディヴェルティメントがあります。さまざまな当時の慣習から逸脱する作曲法、わざと音を外したかのような複調による演出など文字どおりのジョークです。その150年後に現れた新古典主義によって今日では違和感なく聴けたりするどころか、ジョークと思わなければかなりの名曲でもあるのです。その後はベートーヴェンの「運命」もそれまでなかった作曲法をとり、「第九」の構成や合唱付きであったことは驚きだったことと思われます。また、ドビュッシーやラヴェルが大学などの教育機関で教わる、和声学のルールをまったく無視した曲を作ったことも凄いできごとだと思います。その兆候はロマン派ですでにあったわけですが音楽構造の根幹を覆したのです。またロマン派ではチャイコフスキー、近代ではプロコフィエフは、奇をてらった曲の冒頭を絶えず考えたと思われます。そこには聴衆をアッと言わせるアイディアに満ちていたと思います。このような傾向はストラヴィンスキーの「火の鳥」「ぺトルーシュカ」「春の祭典」、ダリウス・ミヨーの複調、バルトークの語法、ジョリヴェ の呪術性*、メシアンの語法など独創的な音楽が驚きと共に出現、伝統を重んじるパリで初演されれば激しいブーイングに晒されたわけです。1900年代後半では新たな方法論として提示された音楽が増えましたが、それ以前の驚きとは異質なもので論理的な事柄が優先していたかもしれません。若い頃にはポーランド楽派のトーン・クラスターや群列書法はたくさん勉強しました。そしてミニマル・ミュージックや偶然性の音楽など、聴いて何かを感じるか感じないかは作曲家の作り方次第になりました。そんな中でハイドンやモーツァルトのような意図をもって、具体的な驚きやハプニングといった作風を持つ作曲家、そこにアルフレート・シュニトケがいたことはこれまでも述べてきました。オーケストラのための「真夏の夜の夢」では、冒頭ヴァイオリンソナタの1節かと思えば、フルートが入り、伴奏がピアノからチェンバロに変わります。そのうち、双方が伴奏も含めてカノンになり、オーケストラが入ってくる、そして時差(リヴァーブ)を故意に演出したような不思議な空間が発生します。世にも珍しい世界を体現できるのです。また、全曲を通じてモチーフが変わらない点では「新多様式空間」と同じです。ハプニングの作曲家として挙げられるのは、アルゼンチン生まれのマウリシオ・カーゲルです。カーゲルの音楽はなかなかわからないことが多くなんとも言えない点が多いのですが、そのハプニング性が高いことは誰しもが認めるところです。約20分のティンパニ協奏曲ではさまざまな作曲法が駆使されているものの、最後のティンパニに頭を突っ込む姿だけが独り歩きしているのです。この動画はティンパニソロ部分を抜粋したものです。「芸術は驚きだ!」を考えてずっときましたが、今の時代は真に新しい音楽は受け入れられにくい、しかし今の時代だからこそできることがあると思っています。*このブログを書くにあたって「アンドレ・ジョリヴェ」を検索したところ、2018年掲載された自分の論文が2番目に出てくることがわかりました。ジョリヴェを勉強する人の何かの足しになれば嬉しい限りです。
2019.10.03
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