全8件 (8件中 1-8件目)
1
活断層の本を読んでみた。■國生剛治ほか監修『活断層が分かる本』技報堂、2016年活断層は、阪神・淡路大震災でもクローズアップされたが、今年4月の熊本の地震で、いっそう脚光を浴びたと思う。また、秋には鳥取中部の地震があり、これは未確認の活断層とされた。さらに、年末にかけては、東日本大震災の余震ともされる福島や茨城の地震があって、地下深くで断層がいまだに動いているということのようだ。原発、病院、学校などなど、活断層の影響はないか、などと気にする向きがある。気にするのは正しいことだが、そもそも未発見の断層も相当あるのだろうから、およそ活断層がすべて危険だとしているばかりでは、社会生活が成り立たない。把握と予測も大切だし、活断層がどれだけ危ないか(とりあえずはどの程度まで不活動を予想して良いか)、公共施設やインフラの施設安全基準やリスク管理のソフト対応をどうするか、など、ここは技術者と科学者の力を合わせて、現在までにわかることと不可測なことを明確にしながら、社会的な合意を作りながら進んでいくしかないだろう。この本の中で、断層のずれに対する備えの説明が、大変興味深かった。ことに、断層があると分かっても横断せざるをえない線形インフラとして、パイプラインや道路・鉄道などが、どうリスクに対処しようとしているか。例えば米国の石油パイプラインは、断層のズレを想定して、パイプがスライドできる構造にするなど可撓性をもたせて、2002年のデナリ地震に対処した。東海道新幹線の富士川橋梁は、入山瀬断層を横断するが、落橋防止のための橋脚を拡幅し、また橋の横に構造部材を備蓄して、早期の復旧に備えている。そして、仙台市地下鉄東西線について。大年寺山断層を横切って建設されたが、この活断層は平均変位速度0.1ミリ/年、平均活動間隔も3千年以上と長く、一回のズレは平均で数十cmと推定された。そこで、予めトンネル断面の内径を50cm拡幅して建設しておいて、被災後に掘削し直さなくても早期に復旧できるようにする考え方をとっている。一般論として、リスクに備える考え方としては、回避、低減、移転、保有の4種類の対応方針がある。・リスクの保有 損失を甘受すること。発生可能性と損失が小さい場合(リスク・マトリックスで左下)には、そのまま放置するこの対応が合理的。・低減 リスク発生可能性が高く、発生の際の損失が大きくない場合。リスク発生可能性を下げたり、損失を小さくする対策を講じる。・回避 発生可能性も損失も大きい場合には、規模の大きい対策が実行困難なので、リスクに巻き込まれないようにする。リスク保有によって得られる利益より、保有するリスクが極端に大きい場合に有効。・移転 保険に入ってダメージを低減など。発生の可能性が低いが損失が大きい場合に考える対策。仙台市地下鉄東西線の事例は、リスクの移転だ。
2016.12.31
コメント(3)
藤原氏が滅びた後に支配者となった鎌倉御家人などの推移をまとめる。(山本博文監修『あなたの知らない宮城県の歴史』洋泉社、2013年 などから)〔前回 中世宮城の名族たち(その1) に続く〕4 北条氏の権勢と御家人の没落・頼朝死後、北条氏は有力御家人を謀略で滅ぼし、実権を掌握・奥州に所領を持つ畠山重忠、和田義盛、三浦泰村なども倒される・鎌倉中頃には県内の半数が北条氏の所領に・なお、北条時頼の時代に延福寺(天台宗)が円福寺(臨済宗)に改められる5 建武の新政と奥州小幕府・建武の新政では、元弘3年(1333)後醍醐天皇が北畠顕家を陸奥守に任命、義良(のりよし)親王とともに多賀国府に派遣し支配させる・顕家は、父親房とともに統治機構を整備・式評定衆(8人)、引付(一から三番)、政所、奉行(評定、寺社、安堵の各奉行)、侍所を設置・評定衆には、冷泉家房(公家)、結城宗広(奥州武士)、伊達行朝(同)、二階堂行珍(旧鎌倉幕府文官)などを任命・この機構は、旧鎌倉幕府の焼き直しで、義良親王(村上天皇)を将軍に、顕家を執権に擬した、奥州小幕府とでもいうべき・足利尊氏を牽制し、関東や奥羽の武士を建武政権に靡かせるねらいとされる・さらに奥州諸郡には郡奉行、郡検断がおかれ、現地人材を登用・これにより北条氏領の地頭代として逼塞していた奥州土着武士や庶流の武士の自立の機会となり、彼らは小幕府に忠誠心を高めた(顕家が奥州武士を率いて西上し尊氏を追いやる)・しかし、顕家が鎮守府将軍として奥州に戻るまで、尊氏から奥州総大将に任命された斯波家長が、二階堂行珍ら評定衆を引き抜いて多賀国府を骨抜きにし、在地武士を北朝に寝返らせる・建武4年、顕家は多賀国府を放棄(奥州小幕府の瓦解)、霊山城に逃れ、暦応6年(1338)和泉国で討死6 南北朝期と岩切城の戦い・顕家死後、奥州では北朝が攻勢・斯波家長に続く奥州総大将の石塔義房は、康永1年(1342)、陸奥介・鎮守府将軍の北畠顕信(顕家の弟)を三迫(栗原市)で破り北朝優位を決定づける・その後北朝内部で、尊氏と直義の兄弟対立(観応の擾乱)で全国で両派に分かれ戦う・奥州では、奥州管領として貞和1年(1345)赴任の畠山国氏(尊氏派)と吉良貞家(良義派)の抗争・観応2年(1351)、貞家は和賀氏(北上)から結城氏(白河)まで奥州武士の大半を動員して岩切城の畠山国氏を攻める・国氏は、留守氏、宮城氏とともに防戦するが惨敗・一方、北畠顕信は北朝分裂に乗じて一時多賀国府を回復するが、観応3年、吉良貞経(貞家の弟)に奪い返され、宇津峰城に籠城するもやがて奥州から撤退7 大崎氏の登場・文和3年(1354)、斯波家兼(大崎氏初代)が吉良貞家の後任の奥州管領として赴任・賀美、志田、遠田、玉造、栗原の大崎5郡を所領。4代満持の頃から大崎氏を名乗る・家兼赴任の頃は、斯波、吉良、畠山、石塔の4氏がそれぞれ管領として権限行使・明徳3年(1392)、鎌倉府の管轄下となり奥州管領は廃絶。しかし、家兼の孫詮持とその子の満持が事実上管領権を行使・幕府と鎌倉府の対立が深刻化し、将軍義満は応永7年(1400)ふたたび大崎氏を奥州管領に任命・その後大崎氏は、伊達、葛西、南部、留守、結城、和賀などの各氏を配下に収め、福島県から岩手県にかけて影響力を持つ奥州随一の勢力に・奥州統治の拠点も多賀国府から志田郡に移る・国人領主達は定期的に大崎に出仕。家督相続には大崎氏の許可を得る8 戦国へ・14世紀半ば以降、大崎氏が奥州管領として君臨。周囲の有力国人を配下に収め、さらに婚姻関係で強固な同盟を結ぶ・しかし、16世紀初頭に伊達氏が台頭。大永2年(1522)伊達稙宗が幕府から陸奥国守護職を拝領。大金と引き換え。・鎌倉期に奥州惣奉行だった葛西氏は、戦国期には伊達氏養子を受けるなど弱体化・留守氏も伊達配下に収まり独立性は維持できず
2016.12.26
コメント(0)
藤原氏が滅びた後に支配者となった鎌倉御家人などの推移をまとめる。(山本博文監修『あなたの知らない宮城県の歴史』洋泉社、2013年 などから)1 奥州合戦後(鎌倉前期)の体制・御家人2氏(奥州惣奉行と呼ばれる)が事実上の現地支配者に・諸国におかれた守護に近いが、陸奥には守護がおかれず、奥州惣奉行が事実上守護に相当・鎌倉時代を通して、多賀国府と平泉が奥州統治の拠点になった(1)葛西氏・葛西清重。関東八平氏・秩父氏の一族豊島氏の子。下総国葛西御厨を所領として葛西氏を名乗る・鎌倉をめざす頼朝の陣営に加わり、平氏追討や奥州合戦で軍功。幕府草創期の重臣・胆沢郡、牡鹿郡などの地頭職を得るとともに、陸奥奉行人として戦後処理にあたる・検非違使所(平泉)を指揮。御家人の統制、軍事警察権執行、農村復興など・伊沢氏(国衙)に対して、清重は奥州藤原氏の行政権を継承した・鎌倉末期には関東御代官として奥羽両国の年貢を中尊寺に進上(清重以来のもの)(2)伊沢氏、留守氏・伊沢左近将監家景。京下りの役人。文才を買われて御家人になった・幕府の陸奥統治の拠点は多賀国府。現地最高責任者である留守職に・家景以後も留守職は代々継承・(事例)淡路国から将軍に献上された九本足の馬を外ヶ浜に放つ(建久4年)・(同)津軽海辺に人のような大魚の死体が浮かんだことを幕府に報告(宝治2年)・家名も留守氏を名乗る2 所領を得た鎌倉御家人たち・奥州合戦と大河兼任の乱で藤原時代の土着の領主が没落・鎌倉御家人(治承・寿永の内乱で武功)が幕府の命で次々と奥州各地の地頭職に就任・宮城県内では 葛西清重(牡鹿郡) 伊沢家景(宮城郡高用名) 千葉常胤(亘理郡) 畠山重忠(長岡郡) 和田義盛(名取郡) 宇都宮朝綱(遠田郡) 熊谷直実(本良(もとよし)荘) 山内首藤経俊(桃生郡)など・ほとんどの御家人は自ら赴任せず、庶子や一族、家人(けにん)を代官(地頭代)として派遣・かれらが本家から独立して各地に土着していく・地頭の権益は大きく、年貢収納をはじめ、警察、裁判、自社造営役の催促など・(事例)正治2年長岡郡小林新熊社(大崎市)僧侶の境界争いで、地頭畠山重忠は藤原以来の由緒ある祈祷所の争論を専断できないとして幕府に採決を仰いだが、裏を返せば通常の訴訟は地頭の専断であって奥州の地頭の権力の強大さがわかる3 平安以来の土着の武士の多くは所領を失う・鎌倉以後も宮城県内に所領を持ったのは、陸奥介氏(八幡荘)、柴田氏(柴田郡)・柴田氏は鎌倉の召喚に応ぜず、正治2年追討を受け滅びる・陸奥介氏は鎌倉中期に下野国保田景家を祖とする八幡介(やわたのすけ)氏に代わられる(続く)
2016.12.23
コメント(1)
長井市で、市長の給与減額条例が可決されたという記事があった。減給の理由は、10月の長井マラソン大会でスタート地点を48m手前に設定してしまったことの責任という。道路に埋め込まれた別の大会の金属鋲を、大会スタッフが誤ってこの大会のものと勘違いしたそうだ。手前に設定、ということはコースが長くなったのか。別の記事では、スタート位置がゴール側に設定された、とあるので、48メートル短くなっていたもののようだ。大会当日の10月16日朝にスタッフがスタート位置を設定。出発5分前の午前9時に別のスタッフが気づいて修正を求めたが、審判長ら競技役員4人が、多少のずれは問題ないと判断して続行したとのこと。フルマラソンは公認コースで642人がエントリーして、533人が完走。同時に公認ではないがハーフも行われた。大会記録は日本陸連から公認されず、市教委は参加者への謝罪と説明の文書を郵送した。山形県内唯一のフルマラソン大会とされているようだ。長井市と市教委が主催。マラソンの運営は、関係者が多いし、コストや交通遮断の問題などもあって、行政の側としても一大イベントだろう。30回を数えるのだから、定着して、参加者や応援する人たちに支えられてきたのではないだろうか。長井市のサイトでは、遠く連峰をのぞみながら「山の港町」の風情を楽しめるコースのように感じた。そこで、このミスは、大変残念なことだ。長井市置賜生涯学習プラザがスタート・ゴール地点、とあり、市サイトの説明では、道路に埋め込まれた鋲の画像や、再発防止策なども記載されいる。市長の減給に市議会では反対の声もあったという。たしかに、基本的には現場のミスであり、実行委員会の役員の判断、スポーツ関係団体や市教委の体制はどうだったのか、彼らの減給を誘発するのか、などなど、政治的判断について当否の議論はありうるかも知れないが、市長として自らけじめを果たすという判断のようだ。
2016.12.23
コメント(0)
ニュースで、相模原市の知的障害者施設殺傷事件に関して、被疑者である元職員の追送検の報道があった。NHKでは、この報道に続けて、被害者の名前を一部公表していた。その言い方は、警察がこれまで家族の意向で死亡者の名は公表していなかったが、警察が重軽傷を負った被害者については、家族の同意が得られたとして名前を公表したから、というのだ。続けて、名前が公表された被害者の母親の話が報じられている。息子(被害者)にはちゃんと名前があるのだから、本人のために、家族と話し合って決めた、という。また、別の被害者の父親は、公表を望まない考え方にも理解を示した上で、息子の障害も個性であって何も恥ずかしいことはないと理解を呼びかけたい、との話。私は、この親の方々の考えは理解できるものだと思う。問題は、自らの取材と報道についての主体性や責任などは棚上げにして、「警察が公表した(しない)から」というようなメディアの姿勢なのではないか。ニュースでは、この後に続けて、実名の当否についてのコメントがある。それも、まずは、「警察の公表が実名と匿名に分かれたことについて、警察は家族の要望だと説明した」という趣旨の説明をした後で、某大学の教授の解説を伝えている。正直言って、私にはこの教授の解説は不可解なものだった(NHKが自社に都合良いようにつまんだ可能性もあるが)。(報道のとおりとすると、この教授の論理は、)障害者差別の風潮が残る異常、被害者や家族の匿名要望は理解できるが、事件の真相や被害者の痛みを伝えるには実名報道が望ましく、事件ごとにバランスが重要。匿名を望んだ人でも、時間の経過や公表の重要性を理解して考えが変わることもあり、公表するかどうかは警察が判断する現在の仕組みより、報道機関が判断する仕組みを検討する必要がある、というものだ。最もおかしいのは、現在は警察が判断する仕組み、という認識だ。今後は報道機関が判断する仕組みを検討、とも言う。現在も昔も、報道は報道機関の責任だろう。おそらく、NHKの側で、現在の仕組みは警察が決めるので報道機関の主体性が(出そうとしても)できないと聞こえるようにしたかったのではないか、と疑いたくもなる。今だって今後だって、本当に伝えるべきと思えば、警察に遠慮も何もなく報道すべきだけのことだ。それとも、自ら取材などせず発表報道に依存するNHKの体質が素直に出たか。この教授のコメント(とされるNHK報道)の後半は、まったくその通りで、報道機関が判断すべきことだ。警察の判断は正しいと限らないから、権力をチェックするメディアの視点からも、そうあるべきだ。(だから、警察は実名の情報開示をすべき、情報開示がないと取材ができない、報道機関が報道に際して匿名か実名かは責任をもって決めます、などというメディアの言い分は、どうも理解できない。国民の知る権利ではなくて、自分たちが楽をしたい本音ではないのか、と言いたくなるのだ。前に書いた。こちらが理解不足か。)私自身は、被害者の匿名については、これまで配慮に関しての議論が少なかったのではないかと感じている。今回の場合は障害者だから特に配慮があって当然だと思う。とは良いながらも、ニュースに登場した親の方のように、障害も個性だから実名で良いという考え方も、もちろんあって良いと思う。だから、どうしても本人(家族)の同意が条件になる面はある。では、(障害者だけでなく、より)一般的に被害者の実名報道は同意を基本とすべきか。マスコミはこのようなシステムや社会的合意があるとしたら、とても困るだろう。これは、個人情報保護と報道をどう考えるかという難しい問題だ。個人情報の保護という概念も決して古くからあるものではないことからもわかるように、人々の考え方なども移ろってきている。憲法や哲学などから、一義的で普遍的に演繹されるような公式は、ない。報道の価値も踏まえて、どう考えるのが適当か、国民的議論がなされるべきかも知れない。今まで、捜査上の支障と報道のあり方については、論議も深められてきたような気もする。誘拐事案などでの報道協定、バスジャック現場報道のあり方、などなど。これに対して、個人情報に関しては、議論が進んでいるのだろうか。たとえば新聞協会でガイドラインを作るとか、そのような議論でもあるのだろうか。(不勉強で、これから調べたり聴いたりしていきたいことだが、)実名報道をあくまで基本としたいメディア側としては、議論すらはばかられるという面があるのではないか。映像メディアと新聞でもスタンスが多少異なるかも知れない。まずは、メディアが主唱する「真実の報道や被害の痛みを伝えるためには(被害者の)実名が必要」というテーゼがどれだけ客観的に正しくて、また、どれだけ国民に理解されているか、についてまずはじっくり解説したり検証したりする努力が、メディアには求められるのではないか。(こちらもしっかり勉強したいですね。)■関連する過去の記事 被害者の実名報道の是非を考える(2016年7月30日) 石巻殺傷事件の実名報道を考える(続)(2016年6月25日) 石巻殺傷事件の実名報道を考える(2016年6月16日)
2016.12.19
コメント(0)
1 はじめに(何が問題か)大震災の津波で多くの児童や職員が地域の方々とともに命を失った大川小学校の事故をめぐって、児童の遺族から国賠訴訟が提起され、さる10月に教員の過失責任を認めて石巻市と宮城県に賠償を命じる仙台地裁の判決があった。被告である石巻市と宮城県は、11月7日に仙台高裁に控訴。石巻市は10月30日に臨時議会を開催して議決(賛成多数)。宮城県は知事による専決処分で控訴を決定。この行政側の控訴の判断にも、事故そのものと同様にさまざまな受け止め方がされているようだ。そして、中には、控訴は誤っているという論調がみられる。しかし、その見解は、原告遺族や弁護士が主張するのは自然かも知れないが、今回の事態全体を客観的に考えた場合、控訴断念が、事件を教訓に論じられるべき防災対策に直接つながる訳ではないし、更に、地方自治の視点からしても実は重要な問題を含んだ見解である。以下に丁寧に解説するが、端的に指摘すると、事故の反省や教訓という我々が真摯に向き合うべき課題と、国賠訴訟は別物だと認識しなければならない。言い換えると、裁判の場は教職員の過失の有無を判断するだろうが、一般の方々が(おそらく原告も)熱望する事故の反省や教訓、そしれこれから学校関係者や行政や我々がどう対応していくべきかを明らかにする場面では全くない、ということだ。この点で、地裁判決翌日の社説でさっそく、「控訴すべきでない」と堂々と論陣を張った河北新報は、いかにも突出した印象だった。情緒論を表に出して行政の対応への非難を控訴の当否に集約させてしまい、かえって問題の本質をすり替えてしまった形なのだが、いかにも「わかりやすい」納得感(?)だけを読者に与えようとした面がある。石巻市や県の判断に先だって主張した勇み足の点も、自治とメディアの観点から重大な問題を持つと思う。以下、大川小事故とその教訓との関係で裁判(控訴)をどう考えるべきかを説明し、最後に、河北新報の社論の問題点をまとめて述べる。2 事故の教訓と課題大川小事故は大きな課題を残した。学校管理下で多くの児童が犠牲になった事実は、必ずや事実として受け止め、絶対に後世に教訓として残していかなければならない。そのためには、多面的な角度からの検証は必要だ。どんな議論があるか、項目立てしてみると...(1)真相究明として、現場の実態はどうだったのか。より具体的に言えば、なぜ校庭に長時間とどまっていたのか、その間教頭以下の教職員の対応や指示はどうだったのか、なぜ裏山でなくて三角地帯に向かったのか、(2)学校安全の問題として、事前の防災訓練やマニュアルが徹底されていたのか。その内容は今後に向けて妥当なのか、(3)地域防災の観点として、避難所としていたことの問題、市役所の避難の広報の仕方、さらには、災害に対して迅速に主体的な避難行動がとれるような勧告等の発令のあり方、また防潮堤や河川堤防のハードについても、専門家の知恵を集約していくべきでないか、(4)事後対応の問題として、市教委や市の対応はどうだったのか(メモ廃棄、宿命発言)、学校教職員の研修などに積極的に活かすべきでないのか、県教委のリーダーシップが欠如したのでないか、そもそも学校組織や教委の隠蔽体質や事なかれ主義が根本問題でないか、(5)訴訟に至らざるを得なかったのは、行政側の話し合いが足りなかったのでないか、これにより遺族の苦しみは消えない、控訴すれば苦しみが長引く、和解すべきでないか、(6)裁判過程で、生存した教諭の証人尋問をすべきでなかったか、児童の証言を尊重すべきでないか、(7)宮城県知事が専決処分で控訴を判断したのは、議会軽視でないか、...などの様々な視点があるように思う。一般の方々の抱く認識としても、「なぜ命を救えなかったのか」という疑問と教訓意識を抱くだろう。真相はどうだったのか、そして、なぜ裁判になってしまったのか、という思いを多くの人が抱くのでないか。そして、こうした思いに駆られるのは、74人の児童が学校管理下で死亡・行方不明という圧倒的な惨事であることと、石巻市教委などによる検証等の対応が後ろ向きな印象を与えてきたことも大きく影響していると思われる。このため、どうしてもモヤモヤが晴れない、あるいは、行政の姿勢に憤懣やる方ないという感覚に覆われているのではないだろうか。3 我々が対応すべき課題と裁判の関係では、裁判とは何を明らかにしようとするものなのか。国家賠償法に基づく訴訟であることから、公務員の故意又は過失が要件となり、民事責任(賠償)を公務員の雇用主である石巻市と宮城県(給与負担者)に問うという構造だ。国賠法上の救済を受ける権利が原告にあるかどうかを裁判所が決する。そして、原告がこの訴訟で問題にしているのは、校長以下の教職員の過失(市教委や市役所の職員ではない)のようだ。従って、上記の諸議論の中では、(1)や(2)については、ある程度対応されるとは言える。ただし、法的な過失を認定できるかの限りで必要な真実の認定にも努めるだろうが、あくまでその限りだ。地裁判決では、津波襲来の予見可能性を認めて、さらに、裏山に登るべきをそうしなかったことで結果回避義務に反した、と構成した。たいへん微妙な判断であると思われ、津波に対する認識レベルと、地区の住民も多数避難していたことなどの事情もあり、どちらに判断が分かれても、誰もが100%納得するとは言えないように思われる。いずれにしても、本質的に重要なことは、裁判は損害賠償義務を認めるかどうかの判断しか行わないのであって、(もちろん裁判官はできるだけ当事者が納得できる結論をめざすだろうが)教訓や対応を示す場ではないということだ。私は、おそらく多くの人が感じているように、現場の教員(大人)は、背中を押して腕を引っ張ってでも山に引き上げれば良かったのに、と思う。その意味で、結果として子供たちを守るべき教員(大人)や地域に相当な問題はあったと言うべきだと思うし、これを絶対に後世に伝えて対策を講じねばならない。だが、それが裁判所が判断する法的な責任かどうかは別の話だ。かりに仙台地裁が訴えを認めなくても、市教委や県教委は、必ずや教訓を活かして今後の対応を検討して行かねばならないことは当然である。他方で、実は別の点で、法的な過失の認定いかんは重要な意味を持つ。それは、全国の学校や教員にとって、施設管理や職員の行動の基準として、災害時にどの程度の注意義務が求められるかという点である。さらに言えば、学校施設や催事に関する責任保険制度の関係で、保険会社は注目しているだろう。その意味で、社会的に見ても、控訴して過失の有無をさらに検討する「利益」はあると言える。市教委・県教委としても、事態の対応のまずさはあるとしても、事故の時点での「法的な」過失を争うと提訴されれば、司法の場で判断を求めることは、自然な話であって、特段に非難されるべきいわれはない。(繰り返すが、仮に過失がないとして、だから許される、何も対応しなくて良いということではない。児童や教職員の命を救うために教訓を今後に活かすあらゆる努力をすべきことは当然だ。)以上から、裁判は、今回の場合、問題の本質の解決には基本的にならない。原告遺族の方々は、おそらく、我が子がどのように被害に会ったのかを知りたいという切実な思いをお持ちだろう。その点では、一つの判断が示されたと受け取るのだと思うが、もとより問題の解決の大切なところは、教訓をどう活かすかであって、それは裁判で決すると考えていないだろう。もっとも、もどかしい行政を突き動かす意味もあっての提訴だったのかも知れない。判決の直後に、原告団は、「先生の言うことを信じていたのに」「教員を断罪」などの横断幕を示していたようだが(記憶が不正確)、私には、弁護士や背後の関係者の行政(教育)批判主義や行き過ぎた達成感の発露のように思えて、見るのが非常に嫌だった。教員組織(多くが犠牲者でもある)の過失が法的に認定されたからといって、そこに全てをなすりつけるかのような風潮は、さして健全でないし、(逆に先生方も被害者だという感情論をかき立てることはあっても、)事態の解決になるわけでもない。4 和解について和解すべきだとの見解がある。私もそう思う。天災があらゆるものを引き裂いた。それをどう立て直すかは、みんなの責務だが、政治や行政が率先すべきことは当然だ。大川小学校の事故をどう検証して対策を行うか、これまでの対応はじゅうぶんだっただろうか。私は適切に評価できるほどの材料を持っていないのだが、報道に接してきた限りでは、市教委の対応に主体性が感じられないと思うことは多々あった。あえて対立しようという構えではなかろうが、隠蔽や事なかれ的な行政体質が出たとも感じられた。あの日のあの現場でもそれがあったのではないか(適切な判断ができずに右往左往、とか)との連想も働いてしまい、一層無念さが募る、と一般の人たちも感じたのでは。ことに当事者の方々にとっては、逆撫でされる局面もあったのかも知れない。まずは市教委がもっと主体的に関わるべきだと思う。できないのなら、県教委が率先して動くべきでないか。もちろん、政治家が中に立って動いても良いが、そのような話はあったのだろうか。そして、その延長として、遺族や保護者や地域住民が納得する説明や対策が出てくる。もちろん、個人個人の思いのあらゆる点に合点や満足がいくことはないだろうが、今後の学校と地域のために何を残していくべきかの点で力を合わせていくことが求められる。それが、我々の務めだろう。いま、裁判になったから、裁判の局面で言えば、その第一歩が和解だ。最低限の納得があって、初めて今回の事態と対策が進み出すのであって、和解は必要条件というべきだ。そして、提訴していない遺族も多いのであって、裁判の和解を契機に、さらに課題への対応が進むことを期待しているだろう。行政側にとっては、和解を機に(本当は裁判や和解があってもなくても)、更に対応を前に進めなければならない。今回の大震災は長く歴史に残るし、そうしなければならない。その際に、大川小の惨事を、一部遺族と裁判で対立したという形で残すのではなく、裁判はあったが和解し、地域の皆で対応を考えたとの歴史にしておきたい。5 「控訴するな」論の問題控訴すべきでないという見解がある(例えば河北新報)。控訴しない場合、まず原告の方々はある程度納得する可能性はある。また、真相を知りたいという一般人の思い、或いは犠牲となった児童に報いたいという世間一般の気持ちが、ある程度晴れる、のかも知れない。だから、教員の過失を認めたのだから、もういいんじゃないか、というのが「控訴すべきでない論」だということになる。たしかに、学校の体制の問題、事後の石巻市教委の対応のまずさがあり、遺族の不満も高まっただろう。原告の立場からすれば、控訴を望まないのも自然だろう。一般にも多様な意見があって良いが、メディアがこの見解を大きく振りかざすことは、大きな問題をはらんでいる。なぜかというと、真相が晴れないモヤモヤ、行政への不信感、あるいは児童や原告遺族に寄せる一般人の感情を追い風に、「責任逃れの果てに訴訟でまで反論するのはけしからん」とばかりに、すべて控訴判断の是非の点に集約(すり替え)てしまい、課題の本質をかえって見誤るおそれがあるからだ。これを公器たるメディアが採るのは、かなり不健全で見識の狭い態度である。いま、教員の「法的」過失が認定されたとして、それで教訓の伝えや対応の方向が切り替わるものではない。また、真相解明は裁判では限度がある。市教委を中心に皆で検証すべきだが、分からないことはわからないで終えるしかない。その先が大事なのだ。裁判は早く終わらせて、今後の対策に注力すべきだという見解もある。これは一理ある意見だと思う。行政が「裁判中は様子を見る」という態度とも見えるからだ。だが、行政の主体性を促すべきであり(もう行政は動かないと決めつけるのもおかしい)、また、今後の和解も視野に入れるなど、大局的に見るべきであり、地裁判決の一時点で思考すべきではない。また、河北新報の言い方だと、遺族に負担を強いるべきではないから控訴するな、という。原告からすれば控訴を望まないのは自然なことだ。たしかに、行政の対応が悪くて裁判に踏み切る「しかなかった」面があるかも知れないから、いわば二重の被害者であって、これ以上苦しめるなということだろう。だが、間違ってはいけないのは、提訴したのは遺族側なのである。石巻市が訴えたのではない。こんなことを書くと、遺族に失礼とか不謹慎とか言われるだろうか。しかし、控訴の当否は、あくまで裁判という限局された世界に過ぎない。そして、当事者主義と三審制という訴訟制度を否定するのでない以上、訴訟当事者としての動きを非難や牽制する積極姿勢をマスコミが取るべきではない。なお、控訴は権利だとしても、行政側として「すべきでない」議論が適当な場合もありうる。例えば、ハンセン病隔離政策をめぐった国賠訴訟で、小泉内閣は国の長年にわたる国策の誤りを認めて控訴を見送った(2001年)。現在から見ても、この判断は歓迎すべきものと言えるだろう。もちろん、この場合も、訴訟がすべての問題を解決するプロセスではないが、国会の立法不作為も含めて国の非行が明らかとなっており、患者の権利回復のための少しでも早い対応が求められており、さらに言えば、法的な争点として時効の起算点などの問題があったが一審判決が明確に権利救済の側の姿勢を示したこともあって(人生被害判決)、実務的にも控訴すべき事情が薄らいだこともあったようだ。6 控訴しないとどうなるかところで、河北新報が主張するように、市・県が控訴を断念するとどういう事態になるのか。(1)議会を招集しない → 代表を通じて民意を問う機会がないが、河北新報はそれでいいのか。(2)賠償が確定する → 14億円と法定利息が市民(県民)の負担で行われることになるが、本当にそのことに市民県民の合意があるか。河北新報は住民全員が賛同しているという前提だろうが。(3)和解の機会は実質的に奪われる → 控訴審で裁判上の和解の可能性がなくなる。7 地方自治との関係石巻市議会は賛成多数で控訴議案を可決した。河北によれば控訴は誤りなのだから、賛成した議員は誤っていることになる。だが、そんな一面的な見方で良いはずはない。少なくとも、住民の代表である議員たちが、それぞれの立場で、さまざまな次元の問題を総合的に考えて投じた姿勢である。反対した議員も賛成した議員も、苦悩しただろう。地方自治は二元代表制と、よく言われる。かなり誤用もされる用語なのだが、今回の議決について言えば、まず、市長は議案を出す(このような場合、絶対控訴したいという姿勢から、議案として出して議会の判断を待つ姿勢まで、幅が許されよう。なぜなら控訴断念の場合、控訴すべしという議会の意思表明ができないから)。そして、議員は、市民の百人百様の意見を反映し、今後の地域のためのどんな論点があるかを、提示したり整理(討論などを通じて)したりする。この過程が重要なのだ。これが議会制を軸とした団体自治の本道であって、そのような過程を踏みつぶして、結論だけを声高に主張するメディアの姿勢は、通常は許されない。8 河北新報の社論最後に、河北新報の社論を確認して、上に述べた点も含めて、その誤りを改めて整理しておく。河北は、社説を二度掲げたようだ。その骨子は以下の通り。(1)2016年10月27日(判決翌日)「大川小訴訟で賠償命令/災害弱者守る責任は重い」・判決は過失を認定。ほぼ遺族側の主張を取り入れた内容。・この判断はうなずける点が多い。予見可能性は司法の場でも判断が分かれやすいが、今回の判決は実質的で理解しやすい。(広報車がきた時点、裏山が最善、などの判断内容を評価しているようだ。)・石巻市などは控訴せず判決を受け入れる方向で検討進めるべきだ。これ以上遺族に負担を強いるべきではない。・学校に厳しいようにも見えるが、守るべきは子供たちだった。自分の判断で避難するのは困難だし、それは許されなかった訳だから、学校側の責任は格段に重くなる。・判断の基礎は、子供たちには責任を負わされず、周囲の役割が厳しく問われるということ。子供たちのような災害弱者を守るために、忘れてはならない。(2)2016年11月6日(市議会可決、県知事専決処分の後。控訴状提出の前日)「大川小訴訟の控訴/「代表機関」の看板が泣く」・自治の根幹をゆるがす事態と当事者は理解しているのか。・石巻市議会には議論を尽くして、不満は残るがやむを得ないという住民の納得につなげる役割が求められていたが、多数決で早々に可決したのは拙速。熟議なき議決をどう住民に説明していくのか。・代表機関としての自覚の欠如と、自らの権能の理解不足。・会期延長して住民対話の機会を確保できた。傍聴席に意見を聴くこともできた。・議会基本条例のすべてに、命の代償が問われる局面で、自ら反していた。・宮城県は、議会も招集せず知事の独断。二元代表制の本旨に照らし疑問。時間的余裕がなかったとは言い難い。・震災の被災自治体では、専決処分の拡大が続く。議会が譲歩。この風潮に便乗して、例外的であるべき専決処分を安易に行使する傾向が首長側にあるのでないか。・議会が軽んじられるとき、背後に控える住民も軽んじられているのだということを忘れてはならない。(1)は、控訴すべきでないと踏み込んだ社説だが、その不適当なことは、上に述べた。子どもを守る責務は当然あり、絶対に我々は教訓を伝えていくべきだが、それと裁判は本質的に別。市議会の前に一方的に訴訟態度を主張するのも団体自治に対して攻撃的だ。(2)については、私の感覚では、社論を守るためのいい訳のようで見苦しい。河北の主張(1)のように控訴断念するならば、議案提出不要だから市議会も開催されないが(市議会を招集した市長の判断が誤りのはず)、今度は市議会の審議が不足だ(審議すべきことが前提なのか)、と矛盾しているようにも見える。河北は控訴した議決は誤りだと言うべきはずだが、こんどは、市議会の議論の「過程」に非難を浴びせている。「不満残るがやむを得ないという住民の納得」を得られる審議がない、拙速だというのだ。ここで、住民は控訴すべきでないという民意が絶対にされている(河北の決めつけ)。私は、実際に市議会のネット中継を視聴していたが、通常の感覚としては、かなり時間を割いて集中的に審議しているという受け止めだろう(議員の発言のほとんどは控訴すべきでない立場)。時間が少ないとか、傍聴席に意見を聴く議会があるとか、議会基本条例に反しているとか、あれこれ並べているが、ならば(結論でなくて)具体的にどういう議会運営なら河北がいう「住民の納得」が得られるというのか。他の案件の審議は納得されているのか(これまで他の案件でこのような批判や指摘を河北がしたか)。「議会が軽んじられると住民も軽んじられる」とまとめているが、宮城県の専決処分については、いわゆる議会軽視として成り立つ議論だが、専決処分の是非は、そもそも本題の控訴当否とは別の論点。他方で、石巻市議会については、ともかくも臨時会を開いたことは「議会を軽んじて」いない。市議会のやり方(熟議がない)が、議会自らを軽んじたという論法だろうが、本件に全く関係のない多用される専決処分まで持ち出して、「風潮」としてまとめて、自論を支えたに過ぎない。「民意」を絶対視した河北新報の自縛だ。というより、「民意に仮託して」河北が形成しようとした社論なのだ。何にせよ、異常に踏み込んだ社論で、河北が報道を持って県民の世論を束ねて、市議会を誘導しようとしたのは明らか。重大なミスリードの責任はどう果たすのか。どのような経営的判断があってのことか不明だが、県内に圧倒的なシェアを誇る一大メディアとして、このような姿勢が許されるだろうか。
2016.12.18
コメント(0)
神社の祭りには「防災訓練」の意味があるとの指摘がある。新潟工科大学の深澤教授が、新潟県内の神社で行われる裸祭りを調査したところ、(1)構造線、活断層と位置的に関係がある(2)いずれも内陸の豪雪地帯(冬にこそ男が裸で火災や地震に備える必要)(3)川の災害に悩まされた地域という共通性などから、地震や水害や雪崩などの防災訓練と、健康祈願の儀礼として行われたものと推測している(2004年)。伊豆大島の三原山は何度も噴火を繰り返しているが、1986年の大噴火でも、山頂にある三原神社の直前で溶岩の流れが分かれて、神社を避けて両側を下っていった。安政の東海地震の研究では、被災地の中にぽっかりと地震被害の軽微なところがあり、そこには鹿島の神が祀られているという。ある所で調査すると、その地盤は砂礫層で局地的に地震に強いことが解明された。地震や津波を除ける神として知られる鹿島神宮(鹿嶋市)には、ナマズを押さえつける要石が祀られている。もっとも、全国約600の鹿島神社の総本社は、東日本大震災で石造りの大鳥居が倒壊したが。地滑り地帯にあるほとんどの神社では、神殿前に杉の巨木が育っている。神社の建つ場所は、滑らない安全な場所なのだ。京都造形芸術大学の原田教授は山形県の地滑り地帯の神社を調査し、また、九州の災害多発地帯でも神社が災害を免れる傾向を発見。さらに、ニュージーランドの地滑り地帯でマオリ族の聖地が堅固な地盤に建っていることを明らかにした。なぜ、わざわざ神社があるのか。地滑り地帯の米はうまいというように、植物が豊富のため、人々は地滑り地帯に住み着くという。地域の中でわずかながら地盤の堅固なところにすぐに避難するために、神社を建てたというのだ。昔の人は、自然の動きや変化への鋭敏な対応力を備えていたに違いない。------------以上は、高世仁他著『神社は警告する-古代から伝わる津波のメッセージ』(講談社、2012年)の記載をもとに記したものだ。今回の東日本大震災でも津波が神社を除けたとか、貞観地震による津波に際しても被害を免れたところに神社があるとの伝承などが、クローズアップされた。この本を手がかりに、どんな事実や伝承があるのか、まとめてみたい。○福島県南相馬市から新地町まで、国道6号より海側の神社仏閣84を現地確認したところ、17社が被害、他の67はすべて無事。相双地域の津波浸水線と神社の分布が、よく符合している。神社が高いところにあるという見方もあるが、残った神社は浸水域ギリギリの位置にあり、地区毎に立地する標高が一致している。なお、8社が流失・全壊した南相馬市鹿島区の場合は、起源や来歴の記載が残っている比較的新しい神社が流された。千年以上も歴史を持つ名も無き祠が、幾多の天災を経験して立地場所や存在意義を確立したと言えるのでないか。○相馬市原釜の津(つのみつ)神社では、50人ほどが避難して助かった。津波が来れば、津神社に逃げれば助かるという言い伝えがあった。慶長津波では相馬領内で700人が死亡。○宮城県内の言い伝え。浪切不動堂(仙台市宮城野区)、蛸薬師堂(太白区、慶長津波で蛸のついた観音様が打ち上げられた)、千貫神社(岩沼市)。鼻節神社(七ヶ浜町)には千年以上前の津波で沈んだ大根明神の伝説がある。(飯沼勇義先生)○浪分神社(仙台市若林区)。ギリギリにまで津波が来たが、過去にもそこまで津波が来てそこに神社を建てたと思われる。(今村文彦教授)○延喜式の式内社、陸奥国100座のうち、津波で流されたのは3社。海に近いところでも古い神社が被害を免れている。延喜式は927年なので、貞観津波(869年)が立地に影響したと考えられるのでないか。とすれば、式内3社はなぜ流されたか。例えば、宮城郡には式内社4つがあった。鼻節、伊豆佐賣、志波彦(移転前)、多賀(同)。いずれも丘陵と平野部の境目の高台に位置しており、貞観でも津波を免れただろう。全壊・半壊した式内社3社とは、石(いその)神社(石巻市雄勝)、伊去波夜和気命神社(石巻市大宮町)、くさ(草冠に召)神社(浪江町)。石神社はご神体の石は山にあり、被災したのは麓の参道入り口に立つ里宮の葉山神社。伊去波夜和気命神社は、内陸の水沼地区から分祠されたという見方がある。浪江の場合も、延喜式当時の鎮座地ではないようだ。○仙台平野や石巻では、貞観津波と今回の海水到達ラインはほぼ重なる。○津波遡上限界ラインには神社仏閣がある。(福島県職員吉田さん)○三陸海岸の各地にある記念碑(ここより下に家を建てるな、など)○津波を避けて設けられた街道と宿場。慶長津波の経験から山沿いに移したのでないか(平川新教授)○災害地名(太宰幸子先生)
2016.12.11
コメント(0)
岩手県民の歌は、小さい頃に聴いたから今でも覚えている。県からのお知らせのような短いテレビ番組があって、最初に流れていたような気がする。バックには、バツ印が縦に並んだような岩手県庁の建物が映っていた。白雲の 浮かぶ果てまで はろばろと あおき国ばら...岩手県の誇りを謳い、未来に伸びる姿を願うようで、子どもながらに良い歌だと思っていた。わかりやすい旋律だが、和声の進行も素晴らしくて、実は小学生ながらにこのような音楽のすばらしさに着目したつもりになって、和音の構造やルールを知ろうと、図書館の音楽の本を読んだりしたものだ。ところで、最近なのだが、この歌が中田喜直さんの作編曲だと知った。中田さんと言えば、「雪の降るまちを」や「ちいさい秋みつけた」などの楽曲を、やはり小学生の頃から大変気に入っていて、その和声や転調の仕方などに勝手に注目していたのだが、岩手県民の歌が中田さんの曲と知って、驚きと納得の入り交じったような、大げさに言えば感動をおぼえた。中田喜直さんは大正12年生まれで2000年に亡くなられたが、父の中田章さんは明治19年生まれで、「早春賦」の作曲者。会津藩士の子息だったそうだ。いま住んでいるわが宮城県では、おそらく県民の歌を知っている人は5%もいないのではないだろうか。実は、沿革上、公的な県民の歌が2つある。● 宮城県民歌(昭和13年、河北新報社が募集・制定)● 「輝く郷土」(昭和21年、県と河北新報社が合同で公募)しかし、いずれもほとんどの人は知らないだろう。
2016.12.03
コメント(0)
全8件 (8件中 1-8件目)
1
![]()
