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これだっ!と思わずにいられない。河北新報記事だ(5月3日、川村公俊さん署名)。箟岳山焼(ののだけやまやき)だ。概要を下記に(当ジャーナルまとめ)。涌谷町の割烹みうら(三浦嘉彦代表)で、箟岳山焼が提供される。ウェルファムフーズの町内立地工場(2024年稼働)が生産する銘柄鶏「森林どり」と、箟岳で名物だったジンギスカンのタレを再現して組み合わせた逸品。遠田商工会が中心となり、今年3月の試食会では13の事業者が独自メニューを披露。今秋には大規模イベントを開催。箟岳山地区は、1960から70年代、4軒ほどのジンギスカン店が営業していた。三浦さんも少年野球の打ち上げで訪れた。各店の味は違ったが、当時の記憶と食材を意識して、タレを開発した。地元の川敬醸造のしょうゆに、果物やスパイス、ニンニク。料理を通じて、町に人を呼び込むと三浦さん。昔は羊、今は鶏だが、町に根付いた食文化を次代に合わせて残したい、と意気込む。実は、私(おだずまジャーナル編集長)も社会人駆け出しの石巻時代に、天気のいい日に先輩が、ああ箟岳でジンギスカンでも食うか、なんて言ったことを覚えている。なので、箟岳はジンギスカンの名所という印象が自分には強いが、地域の皆さんには味で馴染んだソウルフードに違いない。そして、新たな立地企業と地元の企業とが一丸協力して、昭和の味で町おこし。なんてすばらしい取組か。歴史と今が融合し、世代もつないで、町を盛り上げる味づくり。あたらしい味を求めに、たくさんの人が涌谷を訪れるかも知れない。ぜひ、頑張ってください。秋のイベントいきます。ところで、この記事は連載のようで、「おいしい物語@みやぎ/まち盛り上げるグルメ」の5回目とされている。シリーズのこれまでも、よく読んでおこう。■関連する過去の記事(涌谷町。ほかにも多数ありそうですが) 城山公園の桜まつり(涌谷町)(2026年04月12日) 箟岳白山小学校(2025年05月30日) 涌谷町の殺人事件(2022年11月20) 涌谷町の地名 産仮小屋(2015年4月25日) 誉れ高き箟岳分校史(2012年5月15日) 定時制箆岳分校の充実ぶり(2012年5月14日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日)=涌谷町と鉄道の歴史 ゴールドラッシュと涌谷(2011年10月25日) 涌谷商人隆盛の歴史(2011年10月15日) 金華山と涌谷を考える(06年12月17日)
2026.05.03
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仙台藩や宮城県の県民性について何度か書いた。幕末に東北を歴訪し、的確にも「大藩」仙台藩の怠惰で後ろ向きな民情と産業の乏しさを見事に見抜いた薩摩藩士肝付兼武の評は、まことに21世紀の今にも通用するようだ(『東北風談』、風譚とも)。■過去の日記 ○見透かされた「大藩仙台」の空虚なる風土(06年4月2日) ○肝付兼武のこと(06年6月13日)明治の廃藩置県で仙台県ができ(明治4年)、県令は塩谷良翰。次いで、登米県、角田県を分合して、仙台県(参事塩谷)と一関県(参事増田繁幸)に。一関県は水沢県、仙台県は宮城県と改称し、塩谷が県令となる。塩谷は館林の出身、勤王の志士として新政府の大蔵の役人になった人物。初代県令塩谷の後は、権県令(「権」は仮の意らしい)宮城時亮(ときすけ)である。彼は赴任の際に、任地と自分が同名であることを気にし差し支えあれば姓を変えようと太政官に伺い出たという。さて宮城時亮は、赴任後に「宮城県風土民俗の情況」を次のように報告した。東は海に面し、土地広漠、山野荒蕪多し、然れども其地肥沃にて米穀魚塩及び動植物産生盛すべきなり。加うるに諸川水利遭運の便亦無きに非ず。但し人民衆多ならずして勉強進取の気力に乏しく頑然自ら鄙陋に安んじ、復た富強の域あるを知らず。其曾て地力の尽さざる亦職として是に由れり... 近年稍々(やや)進取の気力を発生するに赴かんとす...つまり、産物は結構良いし、水運にも恵まれているが、怠け者で現状に甘んじ、外を知らない、ということだ。中央政府から見れば賊軍の遅れた民心を評したのか、あるいは県令として開墾開発の必要を政府に訴えるが為の表現なのか。そして、時亮の後、初代の宮城県知事は、内務の三松の一、松平正直である。このときの県は、既に磐井県(水沢県を改称)が消滅し、現在の宮城県の範囲となっている。野蒜築港や道路整備を推進した時代だ。明治14年東北・北海道行幸の際、明治天皇に松平は県の情況を次のように上奏報告した。なお文案は友部伸吉が草したという。本県の人民は固陋にして進取の気象少なく、怠惰にして忍耐の精神に乏しと、夙に笑を上国にひくところなりと雖も、是唯皮相の論のみ。その実樸直にして浮躁の情態なく、質素にして虚飾の風習あらず。若しよく薫陶誘掖を加えなば将来必ず忠厚の人士を生ずるに至らん。参考:佐々久『近代宮城のあゆみ』仙台宝文堂、1979年
2006.07.03
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下記文献の記載から、東北のキリシタン聖地とされる地域について記事にさせていただく。歴史を学ぶことの重要さをかみしめながら、今を生きる地域の姿を考えたい(構成と一部見出しは当ジャーナル)。高橋陽子氏は、下掲書巻末の執筆者紹介によると、仙台白百合女子大学カトリック研究所客員所員、専門は国語国文学。あとがき(加藤美紀による。同氏は、2023年度まで仙台白百合女子大学カトリック研究所長、2024年度から仙台白百合女子大学学長)によると、東北キリシタン研究会は高橋陽子氏と川上直哉氏(日本基督教団石巻栄光教会牧師、仙台白百合女子大学カトリック研究所客員所員)を中心に2016年立ち上げられた。また、髙橋氏は東北キリシタンを祖先に持つと思われる歴史愛好家として紹介されている。■高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン」 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収■同書に基づく記事シリーズ・今回 東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その2 馬籠村)(2024年09月03日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(2024年09月10日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟)(2024年09月13日)■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)1 意気込みをもって探査された驚愕の史実 かつて『宮城県民新聞』が、昭和22年1月1日の第一号から昭和28年まで続き、同年12月から「県政だより」と名称を変更した現在に至る。創刊号には、「県政の基本を確立」の見出しがあり、戦後の立て直しに向かう姿勢が示される。 県史編纂のために宮城県史編纂室という部署を設けて昭和25年10月21日に、執筆分担が決定した記事が掲載されている。昭和26年1月には、年頭の顔合わせが開かれ、「調査に精進して」「光彩ある縣史を作りたい」という見出しで、集まった歴史・文化担当10人の意気込みが感じられる。 歴史担当者は各地域を分担して伝承や文書に関わる家や人を訪ね、次第に隠れキリシタンの存在が明らかになっていく。担当の中心だった只野淳氏の探査の結果が、昭和26年2月11日の地方紙・全国紙に「東北にキリシタン聖地」「長崎を凌いだ仙台藩の切支丹」「貴重なキリスト布教の発見」の見出しが語るように驚愕の史実として報道された。 聖地とされた大津保村は、1955年まで東磐井郡にあった村(一関市藤沢町大籠、室根村津谷川、藤沢町保呂羽にあたる)。藤原氏の時代から有力な金の産地で、大籠の地名は、秀衡が大きな籠に乗って当地に来たことにちなむとも伝えられる。現在も100を超える金山跡がある。古くは本吉郡に属した荘園だった。2 探査の基礎資料 遺跡探査の基礎資料は、村岡典嗣(つねつぐ、東北大学教授)の論文「仙臺以北に於ける吉利支丹遺跡-傳説と史實」(1928年)。村岡は元岩手県立博物館長菅野義之助氏から大津保村に切支丹の伝承・遺跡が多くあることを聞いて、探訪に出かけた。本吉郡狼河原から始まり、大籠、馬籠を訪問。出会った千早東山によって大籠の切支丹の十分な知識を得たと述べている。中でも「栽増坊物語抄録」(当地の歴史と伝説)には、切支丹について次のように記される。 千松大八郎、小八郎兄弟がこの地に来て、この地の旧家と共に製鉄に従事し仙台領の製鉄の根元となった。兄弟は切支丹で布教に努めたので信者が三万人にも増えた。その後、藩の禁教が厳しくなり刑死してしまった。 村岡は、この伝説が村社である神明神社の縁起「大籠明神由来記」とも重なる部分があり、大八郎が迫害を避けられず、デウス仏を埋めた場所に石の山神を置いて祀った話や、千松神社、大善神、千松屋敷跡、大八郎墓、首塚など物語に登場する遺跡を歩いて確認した。 その後、栗原郡高清水町に仙台藩重臣石母田大膳亮宗頼の家老土田甲平宅を訪ね、『石母田文書』に出会う。切支丹関係の文書が46通みつかり、伝承・遺跡と文書が一致した。3 馬籠地域とキリシタン 馬籠は調査隊が最初に入った地域。藤沢町保呂羽と隣合せの地域である。調査隊は市明院という寺で、田束山の縁起について書かれた文書の中に切支丹の記述をみつけた。〔おだずま注。この調査隊とは昭和26年の只野淳氏ほかの探査のことと思われるが、直近の髙橋氏ほかのチームのことかも知れない。〕3-1 田束山と満海上人 田束山は金が豊富な平泉藤原氏管轄の霊山だった。当時、七堂伽藍70余坊を有する山で多くの僧がいた。龍峯山(たつかねさん)とも表記し、竜神信仰(水の神)として本吉地方の信仰の山でもあった。 『志津川町史』では、834-847年(承和年中)に開創された。秀衡が観音堂を建て、山上には羽黒山清水寺(せいすいじ)、中腹には田束山寂光寺、北峰を幌羽山金峰寺と要所に大伽藍を築いた。清衡の四男本吉四郎高衡がこの山を掌ったとも伝えられる。奥州藤原氏が出羽三山信仰を強化して独自の勢力圏を図ろうとした様相が浮かぶ。弁慶の長刀一振りが寄進されたとも伝えられる。 藤原氏滅亡後、知行地を引き継いだ葛西清重もまた坊僧四十餘宇を建て、家臣の千葉刑部に寺社を掌らしめたと言われるが、葛西氏滅亡後荒廃した。 昭和46年発掘調査で経塚群が発見され、山上の経筒から約800年以前のものと推定され、平安後期には信仰の霊場であったことが確実に。1632年(寛永9)、田束山に僧坊が立ち並び仏教のメッカになっていたところに、寺が邪宗門改めを容赦なく行ったことで、キリシタンの仏閣への反感が爆発して寺院を焼き払った。田束山の大上坊にある大学院その他の房や入谷八幡社もその時焼き打ちにあったと伝えられる。 田束山から尾根続きに南西1キロほどの峰を満海山と呼び、山頂の塚が満海上人の入定の地と伝えられて「満海上人壇」という解説板が建てられている。 伝承では、満海上人は天正年間気仙沼松崎に生まれ、弥勒菩薩に深く帰依し、自ら即身仏になったと伝えられる。また別に、馬籠地区にキリシタンが増えて田束山の四八坊の僧侶は切支丹宗門に転じてしまい、天台宗の満海上人は転宗した僧との法問に敗れ、食を絶って入滅したとの伝承もある。さらに、田束山を預かっていた満海上人が修行から山に戻るとキリシタンの暴挙で霊山は壊滅状態になり、自分の力不足を悲観してせめてキリシタンの非道を後世に知らしめる意をもって入定した、など諸説ある。 しかし上人の没年が『気仙沼町史』では1567年(永禄10)になっており、キリシタン一揆は1632年(寛永9)である。没年と一揆の年号が『歌津町史』と『気仙沼市史』〔おだずま注、ママ〕では違う伝承で疑問が残るが、キリシタンが力を見せつけようとした伝承として残されている(「田束山中興満海上人伝、清水浜細浦、市明院誌」)。 田束山の登り口は、(1)樋ノ口地区から。行者の道と言われ、蜘蛛滝、穴滝など修行場。滝の裏に洞窟。登り口の観音堂には慈覚大師作といわれる不動明王。(2)払川ルート(3)小泉ルートの3つがあり、払川ルートは馬籠に通じる。このルートの登り口から国道346号を横切って北上すると、平泉に向かう。 田束山清水寺(せいすいじ)からキリシタン蜂起の際に下げてきたと伝えられる細浦の正音寺に四分五寸の金佛坐像(天竺国の佛工作と言われる)があったが東日本大震災の津波で流失した。 東北キリシタン研究会〔おだずま注、著者の高橋氏が所属しておられる〕が満海上人壇を訪れた。案内板の反対側の小山が壇で、側には送電塔。入滅の後一度も掘り起こしていない当時のままだそうだ。案内板には上人と共に経典なども埋められているとある。 (おだずま注、南三陸町観光協会のパンフレットから)以下は当ジャーナルのコメント。高橋氏の御著作では、田束山の登山ルートのうち、払川ルートは馬籠、平泉に通じるとある。あるサイトでは、登山ルートは、樋の口ルート(行者の滝)、払川・上沢ルート、小泉(気仙沼市本吉町)の3つがあり、徒歩で古来の修行の場や自然を堪能するなら樋の口ルートを、手軽に自動車なら後2者のルート、と案内される。払川ルートは、山頂から南下し満海山を経由して、払川ダムの上流の県道206号(地図アプリでは歌津字払川の地域)に通じるものを指すのだろう。入谷地区から田束山をめざす道が払川を経由していく。払川はかつて街道の交差する宿場として栄えたという。(払川 in 南三陸観光ポータルサイト)(なお、みちのく潮風トレイルは、入谷から払川を経由するルート。)なお、私の場合は、国道45号から歌津IC辺りで県道236号に入り、払川ダムの付近から右折して山に登る道を車で登った。地図アプリでは、この県道236号付近に歌津字上沢(かみさわ)の地域名が見える。「払川・上沢ルート」と称するのは、車で行ける登山道ができる前は、沿岸部から県道236号を通って払川集落までいって上ったからなのか。話を高橋氏著作に戻すが、同書掲載の地図(p167)では、「払川」が田束山の北に記されている。西に牛王野沢(ごおうのさわ)、北に馬籠、と記される。これだと確かに、「払川ルートは馬籠に通じる」、「払川登り口から国道346号を横切って北上すると、平泉に向かう」との記述(p169)とすんなりマッチする。しかし、払川集落からは、県道206号を北上してつづら折りを越えて馬籠(西郡街道、国道346号)に至るものの、かなり迂遠である。南山麓の払川集落とはべつに山の北側に「払川ルート」があったとは考えられないので、地図で山の北にプロットされた「払川」は、キリシタンの馬籠とその影響を受けた田束山僧坊の関係を重視するあまり、著者が誤解されたのではないかと推察する。■関連する過去の記事(田束山) 田束山(2023年05月30日)■関連する過去の記事(登米市関係) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 気仙沼線・BRTを体験する(2024年05月05日) 香林寺(登米市)(2024年05月02日) 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)=組合立だった米谷工業高校 ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) ネフスキーと登米(2022年11月9日) 北上川の移流霧(2021年5月22日) 登米の警察資料館(2015年5月24日) 中江その通り(2015年5月1日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日) 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 柳津と横山 名所も並ぶ(07年10月26日)
2024.08.31
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大型連休の中のこの日。大崎市田尻の加護坊山に登った。山頂から、風わたる耕土を眺める。豊かなる里が広がる。遠くには七ツ森と蔵王連峰だ。
2026.05.04
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こどもの呼び方について、多くの小学校では男女平等のためか「さん」で統一する例が多いようという。全国紙のある新聞社は、幼児から大人まで原則として「さん」で統一、別の新聞社は、原則小中学生は(男女を分けて)「さん」「くん」、高校生以上は「さん」で統一しているという。ちなみに河北新報社は、小学生以上は(男女とも)「さん」、0歳から未就学児は主に「ちゃん」だ。大事なのは組織として明確な判断基準があることだという。(5月5日付河北新報から。NIEのコーナーで、前日本新聞協会NIEコーディネーター関口修司さん)そうなのか。学校や幼稚園保育園での悩みも察するが、新聞がそれぞれ基準を持っていること、そして基準を持つことが大事なのだという。いろいろな考え方があるだろう。私自身は、家族や社会のはなしであり、あまり統一や基準とかには馴染まないと考えるが、放送や新聞がみずから基準を持つことは理解できる。学校や保育などの現場も自由でいいと思うが、呼ばれる側(親でなく本人)の受け止め方は重視していくべきだろう。思い出すことがある。大学時代の友人が4年生のころ、社会人になったら同級や目下の人間も「さん」づけで呼ぶと、決意をもったように語っていた。まだ昭和の時代だが、自分はそこまで意識は高くなかった。いまは令和の世だ。ジェンダー平等の観点とあいまってか、職場の部下や同窓会の主に男性の後輩を「君」でなく、みな「さん」で呼ぶ流れがあると思う。自分も、それが良いと考えており、実践しているつもりだ。みな同じ会社や集団の仲間だ、指揮命令関係があるとしても、個性を持った人間同士、互いを尊重して付き合おう、という趣旨だろう。思えば、私の同級生の40年以上前の発言も、こうした考えだった。相手を見下してはいけない、と。本当に素晴らしいやつだ。また、「さん」統一の理由には、「君」付けで後輩や格下のスティグマを与えないという上記の理由の外に、私自身はもう一つ、「面倒がないこと」を理由に挙げたい。消極的な理由だが、少々無理して積極的に言うなら、だれでも「さん」なら敬称の意味もうすれて、組織やポストでなく生身の人間の付き合い(ファーストネームで呼び合うアメリカ社会みたいに?)を促すかもしれない。実はいまの職場で、若手職員から、上司をポスト名で呼ぶのをやめて「さん」にしたらとの意見があった。私自身は賛成だ。たぶん、一定の時間つづければ慣れると思うが、「始め方」が問題だ。上から強制や誘導は下策だろう、何気なく若手から使って広まる仕掛けがうまくできないか。こどもの話、ジェンダーの話からそれてしまったが、これも一つのポジティブアクションだろう。
2026.05.05
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リフト建設と絡んだ有名な蔵王の境界紛争。宮城県副知事を務められた津軽芳三郎さんの著作をもとに整理を。----------1 経緯 北都開発と山形交通のリフト建設競争に端を発する。 昭和37年のエコーライン開通を機に、北都開発商会はリフト建設を計画し、38年1月山形営林署に国有林貸付申請を提出、山形県には建設計画を提出したが受理されないでいた。他方、山形交通は宮城県側にリフトを計画、38年2月に白石営林署に貸付申請書を提出して受理され、8月には落成式が行われた。 これに対して、山交のリフトが実際に建設されたのは従来県境とされた登山道の西側であっっため、北都は山形営林署に抗議。山形営林署は、明治37年の記録を基に実際に検測を行い、分水嶺付近が林班界であり県境であると主張したが、北都は39年1月、山形交通と営林署関係者等を公文書偽造、公務員職権濫用などで告訴。さらに、同年3月には林野庁と山形県に4千万円の損害賠償請求。 なお、北都開発は山交に1年遅れてリフトを完成したが3年で運転を打ち切り、残がいが長く残った。2 刑事訴訟 山形地検は当時の営林署長ら16人を逮捕したが、営林署長だけを起訴。昭和45年7月に仙台高裁で有罪が確定(職権濫用は無罪、収賄が有罪)。3 境界の変更 国有林の借用の案件がどちらの営林署の管轄となるかは、市町村の境界問題でもあり、リフトの固定資産税の帰属の問題でもある。七ヶ宿町は林班界(分水嶺)説を主張し、上山市は登山道説を主張。両県知事の数度にわたる話し合いは、刑事事件係属中もあり物別れに。 41年3月には、両市町からそれぞれ裁定申請を受けた両県知事は、4月に自治大臣に地方自治法に基づく裁定を申請。 当時宮城県地方課長だった津軽さんは現地を踏査した。登山道と言っても境界標石があるわけではなく、分水嶺と言っても馬の背のように明白ではない。角田領主の石川氏ゆかりの図面や書類まで借りて調査したのだそうだ。 その後、自治省は事情聴取や現地調査も行ったが裁定を出さないままの状態が続き、国会でも取り上げられた。 固定資産税は39年から法務局に供託されたままであった。4 新境界の設定 20年を経て上山、七ヶ宿とも首長が交代し、解決の機運が生じ、林班界と登山道の中間線を新境界とするとの七ヶ宿町長の提案を上山も了承。59年3月に両議会が了承。8月には自治省も再度現地調査、10月に自治法施行以来初の大臣裁定となり、不服申立期間を経て11月に確定した。 なお、川崎町、蔵王町、上山市の境界は一部未定のままであり、リフト問題の際に川崎町、蔵王町からも問題が提起されたが、開発や税との関わりもないのでそのままになったと思われる。5 民事訴訟 民事訴訟は大臣裁定で県境問題が解決した後の昭和62年になって第一審判決があり、山形地裁は分水嶺が県境という国の主張を認めて請求棄却。控訴審判決は平成7年1月に行われ、仙台地裁は、一審判決を取り消し795万円の支払を国に命じた(確定)。 曰く、従来は登山道を県境として認識し維持管理していたのに山交リフトに協力する意図で検測した線引きに従い申請を拒否したもので、職権濫用で違法な公権力の行使だ。営林署の検測は内部調査に過ぎず、大臣裁定まで、境界として取り扱われていた登山道に基づいて措置すべきだった。----------4の後半の部分は、リフトとは別の位置の境界未確定部分で、お釜の周辺のことだと思う。■津軽芳三郎『何があった地方行政五十年』宝文堂、2006年■関連する過去の記事 蔵王のお釜は共有財産(08年11月5日)
2009.05.17
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ノンちゃん牧場が栗原市鶯沢にあったという。「ノンちゃん雲に乗る」を書いた石井桃子さんが友人の女性とともに開墾した。■『せんだいノート ミュージアムって何だろう?』(2011年10月、仙台市市民文化事業団)による。1945年8月15日に、狩野ときわさんと石井桃子さんが開墾を始める。1947年に『ノンちゃん雲に乗る』が出版される。いつしか牧場はノンちゃん牧場と呼ばれる。1956年に石井さんは鶯沢小学校5年B組で読書の授業をはじめた。お昼には牧場のノンちゃん牛乳を飲ませた。卒業まで2年間授業は続いた。いま牧場だった土地は、狩野さんという方が守っている。ご主人とともに跡を継いでやってきたのだという。宮城県図書館の資料(ことばのうみ、2000年7月)に、その5年B組で授業を受けた鶯沢町教委の課長さんの話が出ている。担任の先生から、2年間読書の授業と牛乳の試飲があると知らされた。当時はまだ給食がなく、他学級に申し訳ない気持ちだったが、昼時間が待ち遠しかった。石井さんは週1回国語の時間に朗読。読書の習慣がなかったが、だんだん関心が高まり、1週間が待ち遠しくなった。平成10年に、鶯沢小学校に「石井桃子文庫」コーナーを作ることに石井さんの了承を得て、教育長とともに東京に石井さんを訪ね、40年ぶりに会うことができた。小学校の文庫には先生から送られた本も並び、子ども達が楽しく利用している。「ノンちゃん雲に乗る」というと、私には岩手県の小学校の図書室にあった記憶がある。図書室はあまり豊富な蔵書とは言えなかったと思うが、学校が子ども達のために買いそろえたり受け入れたりしてきたのだろう。先生方は読書指導にずいぶんと力を入れていたのだと思う。私も家に本など無かったから、いろんな分野の本をよく借りた。感想文の指定図書のようなものより、科学、地理、歴史やノンフィクションなどを広く読んでいたように思う。借りてきた本を自宅で祖父が読んでいて、続きを借りてこいと言われたこともあった。旧字体の本や、例えば日本がまだ国連に加盟していない段階の記述となっている書物などもあって、その分知識も広がったのかも知れない。自分にとって「ノンちゃん」の印象だが、その内容(記憶にない)よりも、「つづり方兄弟」などあの頃図書室にあった本や児童文学シリーズ的な書物らとともに、なにやらあの頃高まっていたと思う読書や作文の指導教育の代表みたいに子どもながら受け止めていた。また、「ノンちゃん」が本当はどうか解らないが、教育の自由や戦争反対を掲げストライキもあった岩手県教組の活動とも自分の感覚ではつながっている。いずれにしても、ノンちゃん牧場が宮城県にあるとは、今まで知らなかった。さて、鶯沢小学校の石井さんの授業の話だが、昭和31年には石井さんは東京で活動していたのだと思うが、毎週鶯沢まで来ていたということになるだろう。新幹線もなく、来るだけでも一日がかりだ。誰かが車で送迎したのだろうか。石井さんの熱意もあってのことだろうが、支えている人たちもいたのだろう。そもそも、学校で、そのような授業をやることも普通ではないが、5年B組の先生が前向きで、また校長や教委の理解もあったからか。「ノンちゃん牧場のこころみ」という映画が昨年、仙台で上映されたという。そう遠くない、今に繋がっている私たちの地域の歴史。■関連する過去の記事 鶯沢・文字地区の新小学校(2012年2月26日)
2016.06.04
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戦後、米川村議会議員を務め、「米川新聞」を15年間500回にわたり発行した女性がいた。キリシタンの歴史の再発見、集団洗礼とカトリック教会創立など、戦後の米川の地域社会の姿に思いをしながら、下記文献をもとに、記します。■佐藤和賀子「『米川新聞』からみえるキリシタンと地域社会」 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収(なお同書の他執筆者部分も適宜参考にしています。出典等は記事本文中に注記します。)■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)■関連する記事 「東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に」シリーズ・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その2 馬籠村)(2024年09月03日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(2024年09月10日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟)(2024年09月13日)1 町村合併 1889年(明治22)4月に、狼河原村と鱒淵村が合併して米川村になる。人口5800人ほど。農耕地は少なく、煙草、養蚕、製炭が主な産業だった。その後、1956年(昭和31)9月、米川村と錦織村が合併して日高村が誕生。人口8500人ほどであった。当時の県は人口1万人以上の広域合併を勧奨したため、一年も経たない1957年(昭和32)5月に、日高村と米谷町が合併して東和町となる。 日高村の合併が決議されたのは1954年(昭和29年)3月26日だが、直後の米川新聞114号(1954年4月1日)の「波紋」欄には、第一の念願たる米川の主体性確立には、今後の大籠部落との併合が是非必要である、とする読者の意見が掲載された。 大籠地区は米川に隣接しキリシタン遺跡がある点で共通する。1889年(明治22)、大籠村、津谷川村、保呂羽村が合併し、岩手県東磐井郡大津保村ができた。さらに、1955年(昭和30)に、大津保村の旧大籠村と旧保呂羽村は近隣町村とともに東磐井郡藤沢村になる(2011年一関市に)。 なお、大保津村は戦後、貴重なキリシタンの聖地として調査が行われた。(上掲書所収、高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン:東北のキリシタン聖地」から。当ジャーナルで別記事にしたい。)2 米川新聞 1951年(昭和26)1月15日に創刊、終刊は1965年(昭和40)2月21日である。その間、日高村誕生で新聞の名称も日高新聞に変更、東和町誕生の際は、北星新報に改称、その11か月後に再び米川新聞になる。 藁半紙(ほぼB4サイズ)ガリ版両面印刷の2ページ。発行部数は350前後、月3回発行で購読料15円(1953年当時)。編集に関わった同人メンバーは、議員の沼倉たまきを中心に、教員、郵便局員、役場職員、農民、主婦など多様。配達は小学生高学年や中学生が担当し(小さな同人)、報酬は不明だが年に一度バスで松島等へ遠足のご褒美があった。 特色は、沼倉の担当による詳細な議会報告が掲載されたこと。また、論説や「桑の実」(朝日の天声人語に相当)、農事放談、農事メモ、学校の行事予定や人事異動、「波紋」(読者投稿欄)、「ほそみち」(風刺のきいたエッセー)、時々小学生向けのクイズが出され景品に文房具をプレゼントしたようだ。出生、死亡、会葬御礼、火事見舞い、商店広告等も載った。 3 沼倉たまきの生涯(1896-1990) 米川新聞の編集発行人であった。 1896年(明治29)米川村に江戸時代から続く医者である沼倉家に生まれる。父の精一郎で5代目と言われる。たまきの生まれる5年前の1891年(明治24)、沼倉家は石巻町の安田家から昌平(12歳)を養子に迎える。たまきは1914年(大正3)、宮城県女子師範学校を卒業し、翌年米川村小学校教員になる。1917年(大正6)には、朝鮮総督府に勤務していた義兄を頼り朝鮮にわたり日本人学校に勤務。義兄の勧めで1919年に婿養子縁組の結婚をするが、翌年に夫が亡くなり、3か月後に長男隆文が誕生。1941年(昭和16)朝鮮で一緒に暮らしていた母りんが亡くなり、2年後には隆文が結核で23歳で亡くなる。 終戦後、たまきは母、夫、息子の3つの位牌をもって帰郷し、1946年(昭和21)米川小学校に勤務。翌年には米川中学校に転勤し、在職のまま米川村議会議員に立候補して当選(1947年4月30日)。その後も日高村議会議員、東和町議会議員に連続当選し、1965年(昭和40)5月14日まで議員を続けた。 翌年の1966年(昭和41)に洗礼を受ける(洗礼名モニカ)。1985年(昭和60)に沼倉正見・満帆夫妻と養子縁組をしている。正見は米川出身の画家で、高校教員の満帆はたまきが朝鮮で小学校の教員をしていた時の教え子である。1990年(平成2)に94歳で亡くなる。4 沼倉たまきの議員活動と米川新聞 たまきが村議になって3年8月が過ぎた1951年(昭和26)1月15日に米川新聞が創刊される。発刊の辞には、明瞭な村を再建するためとある。 なお、創刊号の記事の冒頭は、「新校舎の行方?-行き悩む学校敷地問題-」で、懸案の中学校建築問題を論じているようだ(同書掲載の資料写真から当ジャーナル)。 1965年(昭和40)2月21日発行の第500号を最後に廃刊するが、同号には、「終戦5年という頃、米川にも正しい民主主義を育てようと同士が集まって新聞を発刊した。その功罪は読者の判断に委ねたい」とある。その3か月後の5月14日にたまきは18年間の議員生活を終える。 編集責任者は、221号までは沼倉たまき、222号から406号までは東北電力勤務の亀掛川貢一、以降は個人でなく米川新聞社となっている。5 キリスト教に関する記事 米川新聞に掲載されたキリスト教関係の記事は、内容から3つの時期に分けられる。(1)隠れキリシタンの遺跡や資料の発見が相次いだ時期 =1951年から1953年 8号(1951年3月25日)には「カトリック聖人 後藤寿庵の墓発見さる」。墓石の絵が掲載され、「一天齢延壽巷主」と読める文字がある。寿庵についての記事の要約はこうだ。------------ 後藤寿庵の前の名は岩淵又五郎で、葛西氏の家臣である兄が戦死、葛西が没落後、又五郎は諸国を放浪し長崎でキリスト教徒になった。京都の商人田中勝助と親交を結び、田中の推薦で伊達政宗の家臣になり、その時、後藤と改姓し、現在の岩手県水沢市福原の地に領地を与えられた。福原に堰(寿庵堰)を作り農業の発展につとめた。キリシタンの迫害が激しくなり、政宗は片倉小十郎に捕縛を命じるが、寿庵は逃れ、元和9年12月以来、行方は不明になったと伝えられている。------------ 元和9年(1623)の前年に長崎で元和の大殉教があった。51号(1952年6月21日)には、「訪う人繁き 寿庵師の墓」、53号(1952年7月11日)に「後藤寿庵墓参の名士」と続く。名士とは全日本観光事務局と宮城県観光課の関係者で、観光資源にする動きがあったようだ。 55号(1952年8月1日)では、同年7月16日岩手日報に掲載された記事(岩手県南部家の古文書によれば寿庵の系統をひく信者が84人いた)を紹介している。 しかし、59号(1952年9月11日)では、新しく寿庵の墓碑がつくられ、仙台と一関の教会が協賛で落成式を行ったとの記事が掲載されている。8号で墓と紹介された「一天齢延壽巷主」との関係はわからない。 米川新聞が報道(一天齢延壽巷主)してから40年後に、郷土史家の沼倉良之氏は『洞窟が待っていた仙北隠れキリシタン物語』(宝文堂、1991年)を著す。この中で、「一天齢延壽巷主」の墓は、1951年(昭和26)3月18日に旧米川村で発見されて後藤寿庵の墓と報道されたが、その墓は後に「狼河原村高人数御改帳」から後藤正八の墓であることが確認された、と記している。 60号(1952年9月21日)には、「聖地における荘厳ミサ」。新しく造られた寿庵の墓碑の前でミサが行わわれ、NHK全国放送予定である、と書かれている。また、同号には、じゅあん羊かん本舗の広告がある。 61号(1952年10月1日)では、宮城県史編纂委員の只野(淳)、小原(伸)、岩間(初郎)の三氏が米川綱木沢の小野寺藤右衛門宅を調査して、キリシタンに関する重要な古文書を発見した、とある。この文書には三経塚の由来等の記述があったようだ。 68号(1952年12月11日)では、「子安観音三体発見」の記事で、宝ノ沢で2体、毘沙門天の堂内で1体発見され、何れもマリアを観音様や地蔵様の形にしたと説明がある。 75号(1953年2月21日)では、沼倉良之氏が、小野寺家の巻物(「老聞並伝説記」。なお、沼倉良之『洞窟が待っていた..』では「伝説並老聞記」と記している)から三経塚について紹介している。------------ 鉱山盛りし処 東磐井郡保呂羽村千松大篭村より製鉄方お役人が来り 神仏の信仰を語り教え人々は皆尊び申候処 其後は伊達様の御役人参り 信者を集めて打ち首となす張付となす 手と足に釘を打つ ・・・・・・・死体と経文を埋候 鉱夫の人数は三ヶ所・・・・・・・一場所に四十人位・・・・・・・享保年間の事------------ 76号(1953年3月1日)には、「老聞並伝説記」から、隠れ籠の由来が紹介されている。------------ (旅人が)享保9年8月15日夜、磐井郡一関より黄海に行くために一夜の宿を願うにより 是を許したるも出発は何時とたずねしに 明朝五ッ刻と語りし時 門外に人の声するあり これは追手の役人なり この家に五〇位の男あらば差出すべしとの事 その中に裏門より出で山に登りて一夜を明かす ・・・・・・・かくれた所を隠れ籠と呼んでいる・・・・・・・旅人はついにつかまって磔になったという------------(2)教会活動が活発になった時期 =1954年から1960年頃 小林有方司教が米川村を訪問し、その後に集団洗礼や聖堂建設など教会活動が活発になった時期である。 小林司教は仙台教区長を退いた後に、1971年(昭和46)8月、第8代米川教会の主任司祭に就任した。1980年発行の『身も魂も 米川カトリック教会創立25周年記念誌』に「米川と私」と題したエッセーを寄せている。------------ 私が・・・・・・・仙台教区長に任ぜられたのは、昭和29年の春三月でした・・・・・・・(只野淳氏が)「宮城県北に、米川という不思議な村があります。350年前の殉教者の子孫の住む村落です。殉教の遺跡も数多くありますから一度行ってみませんか」そして、私は、誘われるままに、何気なしに〔おだずま注、この5文字に傍点あり〕、29年の夏の一日、その米川に第一歩を印ました。------------ この時の記事が124号(1954年7月11日)に掲載されている。小林司教が初めて米川に来て1年後、1955年(昭和30)7月10日には集団洗礼がある。159号(1955年7月11日)には、「全国的にも異例の式」「受洗者は184人、大人38人、大部分が小中学生だった」などと。同号の社説の記載は次の通り。------------ 去る10日、184名が受洗された事は本村何百年来の快事である・・・・・・・われわれの祖先がキリスト教を信仰し、120の殉教者を出した聖地である事は、つい近日まで誰一人、口にする者のなかった・・・・・・・人類愛に生き抜くべく改宗された方々のその英断、ひたすら良い子たれと、わが子を神に託すべく受洗させられたご両親の決断に対し、心から敬意を表したい。願わくは受洗者のすべてが、村人の心のともしびとなられるよう祈ってやまない。------------ この集団洗礼は『アサヒグラフ』(1955年7月27日号)で紹介された(バテレン村に主はきませり-宮城県登米郡米川村-)。米川に聖堂はなく、洗礼式は米川小学校で行われた。7月10日は農繁期で昼は忙しかったので、夜に行われた。『アサヒグラフ』記事では、なぜ集団洗礼を受けたかとの記者の質問に、少年が「母ちゃんが、まぁええじゃろう」と答えた、とある。 181号(1956年3月1日)では、聖マリア保育園開園を知らせ、241号(1957年11月1日)には、「カナダ レミュ大司教の贈物」の見出しで聖堂落成の記事が掲載されている。小林司教はカナダで、江戸時代に殉教のあった米川で集団洗礼が行われたことを講演した結果、浄財が集まり聖堂建設が実現したと報じている。 301号(1959年7月10日)には、次の記事(集団洗礼4周年)がある。------------ 7月10日は米川カトリック教会に於ける第1回集団洗礼の記念日にあたり、教会では・・・・・・・ミサを捧げることになっている・・・・・・・信者たちも追々増え信仰生活も漸く板について来つつある。保育園事業その他教会を中心とした仕事も着々と実績が上がって居り今後が期待される。------------ 前掲『身も魂も...記念誌』によると、同誌が発行された昭和51年(1976)時点で、米川教会とその巡回教会の大籠教会の両教会で受洗した人は、臨終洗礼を含めて540人。(3)米川カトリック教会神父の随筆が掲載された時期 =1960年から1963年 1960年(昭和35)に米川カトリック教会は教会報「じゅあん」を発行する。それ以降、米川新聞に教会関係の記事は少なくなるが、神父のエッセーが掲載されるようになる。そのうち3例を紹介する。 347号(1960年11月1日)には、浅沼事件(10月12日社会党委員長浅沼稲次郎が右翼成年に刺殺される)について平田浩神父が寄稿。379号(1961年10月1日)の島村泰三神父の題は「世界の関心は核実験」。ベルギー人の村首ステファノ神父は「青い目で見た米川」の題で連載し、432号(1963年4月1日)では、できるだけ他人の私生活に互いに興味を持たない方が良い、と書いている。6 カトリック布教からみた米川新聞の評価 前出『身も魂も...』には、米川新聞を「間接の布教」と評価する意見が掲載されている。教会報「じゅあん」が発行される前は米川新聞が教会の広報誌の役割を果たしていたが、新聞の編集者は布教を第一の目的に書いたのではないだろう。公平な報道を心がけていたと推察される記事があるからである(下記)。 143号(1955年1月24日)「新春座談会 若い世代に聞く」では、ある青年の「自分だけが幸福になるのなら宗教で出来ようが、家族を幸福にするには経済が伴わないことには」という率直な意見を掲載している。359号(1961年3月1日)では、辛口エッセーを載せる「ほそみち」欄で次の文章がある。------------〔おだずま要約〕旧正月元旦、お父さんは神タナの前で「五穀ホージョー、国家安全」とかしわ手。7歳のA子と5歳のS坊は保育所のおしこみよろしく「チチトコト セイレイノ ミナニヨリテ アーメン」。3歳のT坊やは「ナンミョーホーレンゲッチョ」。ハイティーンK君は年越しパーティで夜更かしし今朝もぐりこんだ床の中から「アアアリガタヤ アリガタヤー」------------ 最後の一節は、1960年某歌手が歌って流行した「ありがたや節」の一節。(五穀豊穣)国家安全は、前年(1960年)の安保闘争を反映して、家内安全を国家安全に書き換えたと推察する。そして、このエッセーの重要な点は、父親だけが伝統的な宗教儀式を継承していること。 伊藤幹治氏が「東北農村におけるキリスト教の受容」(『国立民族学博物館研究報告』11巻1号、1986年8月25日)で、「家督相続者非受洗の法則」と書いている。父親はキリスト教徒にならないことがエッセーから読み取れる。7 現代につながる隠れキリシタン(まとめ) 隠れキリシタンは既存の宗教から新しいキリスト教の信仰に生きた人々である。戦後参政権を得たが、女性が議員として活躍する機会は特に農村では閉ざされていた。しかし、米川の有権者は、沼倉たまきを議会に送り18年間も政治を託した。この選択は、既存の価値観にとらわれない点で、隠れキリシタンと通じるものがある。 米川新聞が15年間休刊がなかったことは、信仰生活を送った米川の人々の持続力と勤勉の成果である。そして、編集者たちが自らを「同人」と呼んだことに象徴されるが、年齢や男女の差もなく多様な人々が結集し新聞発行を担い、米川地区の購読者もまた担い手の一員だった。 戦後の米川地区の人々の中には、隠れキリシタンと同じような精神が生き続けていたと思う。■関連する過去の記事(登米市関係) 気仙沼線・BRTを体験する(2024年05月05日) 香林寺(登米市)(2024年05月02日) 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)=組合立だった米谷工業高校 ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) ネフスキーと登米(2022年11月9日) 北上川の移流霧(2021年5月22日) 登米の警察資料館(2015年5月24日) 中江その通り(2015年5月1日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日) 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 柳津と横山 名所も並ぶ(07年10月26日)
2024.08.16
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以前の記事で(「んざねはぐ」の語源を考える(2007年9月5日))で、浜荻の「うざね」とあった意味がわからないと書いたが、『浜荻』は仙台藩制時代の方言書のことだ。諸藩の交流の便宜として、各地で「(仙台)浜荻」の名で、方言を解説する書がつくられたもののようだ。浜荻の元の意味は浜辺の葦で、さしずめ「言海」や「大辞林」のようだ。さて、浜荻が方言書だというのは、三原良吉監修(仙台八十八選選定委員会編集)『仙台あのころこのころ八十八年』(宝文堂、1978年)の「仙台弁八十八選」に書いてあった。なお、この選集は、天江富弥氏が選定委員長で、言語学者の藤原勉氏が中心となって検討されたとある。語源として解説がある。うざねという田下駄があり、履きにくいことから、とされるが、田下駄をうざねというところはない。「身実(みざね)」で精魂出し尽くすの説もある。喉仏(骨)を吐き出すくらい苦しいとの説も。『浜荻』に喉仏を「うざね」とあるが、その「うざねはく」の項の解釈にはこの「うざね」を用いていないところを見ると怪しい。憂さ音はく、とするものも怪しい。秋田、青森では「うんざりはいた」「うんざり見た」という。仙台のうざね(に)も、うんざりと関係があるのではないか。というのだ。ところで、同書の「うざにはく」の前の語は「いんぴん」(発音はエンピン。ひねくれの意)だ。私も仙台に来てから知っているが、そのような人物をさして、インピンタカリというのだと思っていた。これは私の勘違いで、正しくは同書のとおりインピンカタリ(語り)だ。なお、「きずいたかり」(発音キズエタガリ)の項があり、強気の無愛想な女のことだという。「きずい」(気まま、気随)に、「たかり」が付いた。「たかり」は、人だかり、しらみたかり、などの「たかり」だが、仙台では憑依の意味に使い、「神経たかり」、「けんのんたかり」(潔癖家)、「気違いたかり」、「中風たかり」などという。「いんぴんかたり」の「語り」と、取り憑く意味の「たかり」を、混同してしまったというわけだ。
2016.01.17
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伊達政宗が来住する以前の仙台平野は、国分氏支配の下に名族が城館を構えていた。現在の国分町は、政宗開府以前に木ノ下の国分寺薬師堂周辺にいた家臣団(国分衆)を移住させたという。また、仙台城も、若林城ももとは国分氏の旧城を基にしているのであって、仙台は国分氏とその領民が基礎を形成したのである。木ノ下の白山神社は国分町移住後も国分衆によって流鏑馬などの儀式が運営され、国分氏滅亡後は遺臣(国分侍)が伝統に則り祭礼を執行している。国分氏は、鎌倉御家人の千葉介平常胤の五男胤通が、平泉征伐の戦功で国分荘33郷と名取郡を給与されて仙台平野に土着したという。胤通は、その前に鎌倉から下総国国分荘に移住して国分氏を称しており、国分氏の祖となっている。もっとも、国分氏の名は宮城郡の国分荘に由来するとの説もある。居城は、始め郷六城、次いで千代城、小泉城、松森城と当主により転々した。国分寺郷の名は南北朝期にも見え、国分寺周辺を指し、北は南目村、東は伊在、蒲町あたりで区切られていた。しかし、観応2年(1351年)の岩切城の合戦で吉良探題に味方し勝利した国分氏は、ライバル留守氏の勢力を削いで、仙台平野に君臨することとなる。十代盛忠は足利義持から宮城、名取、黒川の三郡の主政に任ぜられたとされ、北は泉区から旧宮城町一帯、東は岩切で留守氏と境を接し、南は増田付近まで、西は秋保峡から高館付近までを治めた。栄盛を誇った国分氏だが、室町中期以降南奥から北上する伊達氏と結んだ留守氏に、小鶴の合戦で敗れる(永正3年、1506年)。また、同年松森城主で国分氏の分家松森盛次の反乱があり、衰運に向かう。14代宗政が伊達家の後ろ盾を得て立て直すが、家中に意見の対立が続く。伊達家から入嗣した第十八代盛重が、政事宜しからずと政宗の怒りを買い、松森城を追われる。一説には、国分家老の堀江伊勢(掃部)が盛重の謀反の意と急襲の陰謀を政宗に通報したとされている。軍記には乱戦の中、盛重の身代わりに切腹させて自らは落ち延びた、とされるが、亡命先は常陸の佐竹氏。関ヶ原の後の出羽の左遷には同行し、横手城に一千石を充てられる。盛重には三男一女があり、三男の重広は姉の嫁いだ先の古内実綱の家督として、やがて岩沼に1万6千石を得る。なお、長男と次男は僧となり、盛重が横手城に移ってから、藩主佐竹義久の三男宣宗を養子とし、宣宗は国分(伊達)氏を称した。さらに、妾腹に伊賀重吉がおり、国分氏没落の際に、宮城郡桂島の馬場主殿をたより桂島(松島)に隠れ住み、やがて木ノ下に移り伊達家の安堵を受けて荒巻方面の開墾に従事したが、一族は国分姓をはばかり馬場、桂島を称したという。国分氏の家臣団としては、郷六、森田、八乙女、北目、南目、朴沢、鶴谷、松森、秋保、粟野、古内、坂元、白石、福岡、馬場、小泉、堀江、萱場、武田、横沢、小林、税所などの各氏があった。参考 紫桃正隆『みやぎの戦国時代 合戦と群雄』宝文堂、1993年
2009.08.09
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日本中がW杯ドイツ大会の日本初戦直後で騒然としているこんな真夜中に、なぜか私は仙台藩の気風のことを考えていた。幕末東北諸藩を歴訪した薩摩藩士の肝付兼武が、仙台藩の怠惰な風を見事に評している。いわく、家臣は小城を構え主君に使える気風なく、士民とも狡賢く労苦は人に押しつける、だから貧国を脱することもできない...と。私は、この肝付兼武の東北譚のことを日記に書いたが、そのことは一般にあまり知られていないのだと思いこんでいた。自分もはじめて接したと思っていた。 ■過去の日記 見透かされた「大藩仙台」の空虚なる風土(06年4月2日)しかし本棚の小冊子の中にちゃんと書いていた。20年前に買った本だ。佐々久『近代宮城の歩み』、宝文堂出版、1979年。鉛筆で「1986.2.16.一番町金港堂」と自分のメモがある。ちなみに590円だ。佐々先生が近代の本県のあゆみを読みやすく綴ったもので、巻末の年表とあわせて、最近の百年の郷土のあゆみを知る手頃な教科書として活用できる。そのつもりで若い頃は手にしていたものだ。その4頁に、肝付兼武の仙台藩評がズバリと書いてあった。忘れているものだ。というより、20年前にどれほどちゃんと読んでいたのか、とも言える。思えば、20年も前の私なら、郷土史の本を読むとすれば、偉大な先輩が書いた事実や評論それ自体を客観的に受け取るという作業として読んでいただろう。しかし最近は、著者の職業や立場からみて、こう見えるのだろうか、などと考えながら読むようになった。すると、以前は無理して読み取ろうと力みながら読んでいたのが、なんとなく自然と楽に読める。決して、そのレベルに自分が進化したわけでも知識が長じたのでもないが、何か高い次元から降りてきた非人称の作品を眺め取ろうとするのではなく、著者の立場や時点にたって、過去を思い同時代を感じ未来を構想してみると、不思議と歴史の流れを感じながら、動的に生き生きと、あるいは立体的に日本や世界のつながりを感じて読み取れるような気がする。気がするだけかも知れないが。大家の先生の立場には同化しきれるハズもないが、でも確かに同じ郷土に生きた先人だから、成ったツモリには成れるだろう。また、著者によって感じ方や論評も異なる、当たり前のことだが、そのことを素直に受け取れるようになった気もする。書物を、作者の手を離れた客観的作品物として見れば、書き手によって違っては困ると感じてしまうのだが、著者が異なれば見方考え方が違うのだから、それが当然。かえって、異なる人の立場に立つことで、郷土が立体的に感じられるというものだ。懐かしい本を手にした感想でした。
2006.06.13
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昨日(14日)のニュースだが、13日に浜松市の国道1号バイパスで大型バイクを運転していたツーリング中の50代の会社員が中央分離帯に接触、右足をひざ下から切断したが、気付かず約2キロ走行していたという。これを聞いて思いだした。たぶん高校の頃だが、ある人が車を運転中右腕を窓から車外に出して運転していたら、対向車か中央分離帯か何かに腕をもぎ取られた。しかし気付かずに運転を続け、しばらくして腕の先が無いことに気付いてビックリした、という話。ニュースなのか創作なのか定かではない。今で言う都市伝説の類だったのだろうか。高速で風を切って運転していると、意外と気が付かない者かな、と変に納得してしまう話だった。ちょうど岩手県にも高速道路が開通した頃で、この話が高速道路と関係があるかどうか知らないが、私の記憶には何となく高速道路とセットになったイメージで残っている。ところで、今朝のTVで高木美保さんが同様の事を、小さい頃に聞かされた話として語っていた。一瞬にもぎ取られると血管の切り口も引き締まって血も出ないのだ、と随分リアルな解説もあった。だから車から手を出してはダメだよと親に言われた、とか。おそらく基となったニュースは同じなのだろう。高木さんは私と同年代。(今調べたら、実は僕よりお姉さんですね。)高木さんが親に聞いた時点がニュースとしてタイムリーだったとすれば、私がこの話を聞いたのはやや遅れて何年か後だったのだろう。実は私もこのような話を聞いたためか、腕を窓の外に垂らして運転はしないようにしてきた。もっとも窓を開けることも少ないが。逆に腕を出していた鮮明な記憶もある。小学生の頃、親戚の人が東京に帰るときに、祖父と一緒に乗せてもらった。車はブルーバード、途中お昼を食べた大田原の店の構造やメニューを覚えている。子供ながらにも、貴重な体験だから忘れられないのだ。我が家にトラックはあっても乗用車はなかった。後部座席の左側に座って、ひとり満悦していたのだろう。外に腕を出して外から手のひらでパンパンとボディーを叩いた記憶がある。栃木県内で工事かなにかで随分遅くなってしまい、行け行け、という感じで叩いたのだと思う。こんな事を思い出した。きょうは仙台で観測以来最高の37.2度だそうだ。プール合宿で真っ黒のシャネルズ状態の上の娘と、仙台市宮城野図書館に行ったが、冷房された図書館の中がとても快適に感じられた。行く途中の車内は、地球温暖化を心配する娘の提案でエアコンを切った。さらに実験的に窓を閉めたものだから5分もすると汗ダラダラ。窓を開けると、体温より高い外気も涼しく感じられた。
2007.08.15
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先日河北新報で報道があった。今月3日、栗原市議会が、次世代新幹線開発に向けた試験車両の深夜走行の中止を求める意見書を反対多数(議長を除く23人中17人が反対)で否決。記事によると、県の2017年調査で新幹線の騒音が環境基本法の基準を超えていることが前提として認識されており、その上でも沿線住民への配慮はなされている(反対意見)、子供や高齢者に苦痛をあたえている(賛成意見)とのことのようだ。また、志波姫地区東北新幹線沿線公害対策協議会なる組織の会長の発言が紹介されている。JR東日本が時速360kmの営業運転を目指すため、試験車両として運用しているのがE956型ALFA-Xである。試験走行は今年5月から仙台ー新青森間で実施。22年3月まで週2回のペースで行う。問題の栗原市は、くりこま高原駅を午後11時台と午前5時前後に通過するのだそうだ。営業運転での目標は360kmだが、現実の気象や地形など諸条件を考えると、試験走行では時速400kmをクリアすることが必要で、今回の試験でも400km走行を数回試すという。窓が非常に小さく、両端車両の鼻が異常に長いのが特徴だ。北海道新幹線が札幌まで延びる2031年春までの導入をめざす。なお、2005年からの試験車両FASTECH(ファステック)も営業360kmを目指したが、騒音とコスト対策が課題で現行のE5系は320kmを最高としている。JR東としては、沿線地域の反対はもちろん避けたいだろうし、時間短縮に見合わない高コストは意味がないということだろう。現在仙台から東京は約90分、中でも約30分を要する大宮以南のスピードアップは技術的には可能だという。最近になってやっとこの区間の最高110kmを130kmに引き上げるための工事を始めたそうだが、かつての埼玉県住民などによる東北新幹線反対の大運動を背景に、沿線には相当気を使っているのだろう。それにしても、わが宮城県で「新幹線がうるさい」という意見はこれまであっただろうか。たしかに個別の世帯の状況によっては苦痛といえる場合もないとは言えない。また、信条をもって問題提起する個人がいるのも自由で構わない。しかし、地域の声として対策を求める動きがあるとは、私は不勉強にして知らなかった。「公害対策」とまで名を冠した組織があるのか。まずはそのことが新鮮だった。
2019.10.06
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ちょっと前の晴れた秋の日。大崎市鳴子地区の山奥のおそば屋さん(手打ち蕎麦ふく)に家族でお邪魔した。しばらく順番待ちだったが、心優しい店主の気づかいとおいしい蕎麦を堪能させていただいた。住所は鳴子温泉水沼という地名だが、周囲は入植開拓地という雰囲気。学校の建物と校庭がある。閉校の碑と銘打たれた碑文をみると、平成12年3月に閉校した上原分校である。並んでいる「開校三十周年記念」の碑は1980年と記されているので、1950年(昭和25年)の開校ということになる。以下に碑文を転記する。■開校三十周年記念凍土を掘起し 開拓の鍬を入れてから 三十年わたしたちは この分校を囲んで 部落をつくってきた子どもたちが 希望の光 であった1980年8月 上原分校育英会■閉校の碑この手に鍬を持ち 子どもらと生きることを願い 分校とともに歩んだ日々それは上原を拓く年月でもあった五十年の時が流れた 子どもらを見守る 男達の深いまなざしと 女達のやさしさが 耕す土に浸みた平成12年3月29日 文 伊藤清之 書 多田正隆読んでいると、胸が熱くなる。以下は周辺の風景。まずは、旧分校からは西の方面にひろがる牧場。次の画像は、道端の集会所と思われる施設にあるモニュメントなど。さらに、学校の東側方向にも、牧草地が広がる。■関連する過去の記事(鳴子、岩出山周辺など) 小黒ヶ崎のすばらしさ(2016年6月5日) 歌枕だった小黒崎(2013年3月14日) 大崎市のカンガルー(09年11月26日) 観光客で賑わう鳴子峡(08年11月2日) 花山で釣りをする(07年10月25日) 再び岩出山を探訪する(07年7月22日) 初滑りオニコウベ(06年12月29日) 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日) 岩出山を探訪する(06年7月17日) 鳴子の交流人口と東北の地域構造の多様性を考える(05年10月10日) 鳴子峡散策で地域の先人たちを考える(05年10月9日) 御料馬金華山号と支倉常長の野望(08年9月16日) 鬼首の名馬金華山号(07年12月26日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 松山道・上街道(2011年9月16日)
2023.12.10
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亘理町逢隈蕨の十二支地名(方角地名)について書いた(十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日))が、耕地整理の際に命名したのではないかと推察した。じつは、昨年参加させて頂いた地名研究会で、耕地整理で字名変更が行われた大崎市の「戦中地名」についての研究報告があったことを思い出したからだった。以下、大崎市の「戦中地名」について。下記文献から当ジャーナル整理。(■鈴木進、鴇田勝彦「大崎市古川大崎を歩く」 宮城県地名研究会『地名』第58号 所収)1 地域の概要 大崎市古川大崎は、次のような経緯をもつ地域である。・明治8年 大崎村←名生村+伏見村・明治22年 大崎村←大崎村+新田村+清水村+下野目村+南沢村・明治29年 (分村)→東大崎村(大字大崎・新田・清水)、西大崎村(大字下野目・南沢)・昭和25年 古川市大崎・平成18年 大崎市古川大崎(↓画像 「大崎市古川大崎」の区域。なお、隣接して「古川清水」「古川新田(にいだ)」の区域がある。) 名生舘(みょうたて)、名生北舘などの字名が残るが、名生館(名生城)は南北朝時代から戦国時代の城で、江合川西岸の段丘の上に築かれた。大崎5郡を領地とした大崎氏の城で1351年に斯波(大崎)家兼が築城したといわれる。〔当ジャーナル注釈〕合併と広域地名の関係論(下記参照)でいうと、大崎氏が居城し、また陸羽東線を挟んで大崎神社もあり、明治初年に大崎村を名乗ったのは、その資格十分ありということだろうか。(参照 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日))2 耕地整理と戦中地名 東大崎村では昭和17年の耕地整理で大幅な字変更が行われた。ここで下記のような戦中地名が集中的に生まれた。・(古川大崎)朝日、共和、更生、新興、信念、交合、銃初稔、自力、神力、先制、善勝、総力、東亜、日の丸、奉公、富国、報国、躍進・(古川清水)精農、新成・(古川新田)朝日、共栄、興和、銃後稔、十陸稔、末広、世紀、宝稔朝日と共栄を除くと、多くが全国的にみても東大崎村特有の地名である。 これらはあくまで耕地名であり、宅地の字(囲)名はそのまま残った。例えば、「古川大崎字自立」の小字の中の宅地に「古川大崎字伏見新田」が地図で見ると海に浮かぶ小島のように残存する。明治以来、当地域は「名生○○」「伏見○○」という40ほどの字名だったが、耕地整理で戦中地名を含む新字が付けられ、水田などの地域の大部分はこの新しい小字に変わったが、ただし、宅地部分だけは明治以来の字名が残ったという構図である。3 具体例・「報国」 昭和17年に名生西川原と名生新田に生まれた耕地名・「銃初稔」(じゅうはつねん) 昭和18年の意味で、「銃」を使った戦中地名。名生中川原のうち渋井川と陸羽東線に挟まれた水田。・名生上代(わだい)では、「昭和」、瑞祥地名の「弥栄」なども生まれた。・名生六角は、安永風土記にある「六角辻」が語源とみられるが、渋井川を挟んで西に「六角」、東に「共和」の新字名を付けた。前者は「古川大崎字六角」であり、「古川大崎字共和」に囲まれて残る「古川大崎字名生六角」とは別である。・「富国」は伏見樋下の一部、伏見津花立、伏見八反田の新しい耕地名。「善勝」は伏見樋下の8割方についた新字名。なお、平成期の耕地整理で、「善勝」と「富国」の西3分の1が新たに「新善勝」となり、また、「富国」の東3分の2と周囲(更生、東亜、巴、十陸稔、世紀など)は東大崎最大の水田面積を持つ新しい字「富国」となった。宮城県古川農業試験場、農業大学校もここにある。4 なぜ付けたか 15年戦争、なかんずく太平洋戦争時には国民は総動員体制のもと、農村は食糧増産のための耕地整理が緊急の課題だった。これと戦意高揚が結びついて、特にこの東大崎村で戦中地名が集中的に生まれた。誰がイニシアティブをとったか分らないが、村民の支持をかなり得たと思われる。5 補足(当ジャーナル) この研究報告では、現地調査によって「屋号」が多く確認され、伝承、氾濫などにまつわる由来などが非常に興味深かった。鈴木さん鴇田さんの調査に心から敬意を表します。■関連する過去の記事 十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日) 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日) 亘理町を知る(地域区分、大字など)(2024年03月10日) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日)
2024.03.20
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利府街道(県道8号仙台松島線)を岩切から利府町に入って間もない辺りにある碑の説明板が、いつの間にか、新しくなっていました(以前の説明板の画像は末尾掲出の過去記事に)。過去に記事を書いた頃は、神谷沢の浜街道で神谷川に架かる土橋と三原良吉氏著作にあることから(末尾掲出の過去記事参照)、平田橋は神谷沢のこの碑の辺りだろうと思っていました。私が図書館で町史などを調べると、伝説の紹介はあっても橋の記載はなかったのでした(2015年3月現地探索?した過去記事あり)。しかし最近、利府町のボランティアサークルの方々(りふdeおは梨)が作った絵本『平田五郎』を手にしました。町のことを知り、足で調べて、子どもたちに読み聞かせる素晴らしい取組に敬服しますが、仙台市宮城野区原町の平田神社が関係するということです。たしかに、原町の松原街道(国道45号から利府街道ガス局交差点方面に出る旧道。坂下交差点を経由しない近道ルート)で梅田川を渡るのが、平田橋です。さて、新しい説明板の内容を、以下にテキスト文で示します(振り仮名は適宜当ジャーナルで括弧書き追記)。------------延慶の碑(えんきょうのひ)- Enkyou's monument -鎌倉時代、延慶3年(1310年)に建てられた石陣で、板碑(いたび)と呼ばれるものです。高さ約1.4m、幅約1.25mの砂岩の巨石に「大日如来」を意味する「ア」という梵字(古代インドのサンスクリット語)が彫られています。その下には「延慶三年二月二七日敬白」と刻まれています。板碑は、鎌倉時代に北関東地方に始まり、室町時代にかけて県内でも盛んに建てられました。梵字によって自分が信じる仏様を現し、それを敬うことにより、親や先祖のあの世での往生を願いました。この碑には、平田五郎という人にまつわる伝説があり、昔から「力試石(ちからだめしいし)」とも呼ばれています。The stone monument was built in the 3rd year of Enkyo (1310) during the Kamakura period, and is called an "Itabi".The Sanskrit character "A" (ancient Indian Sanskrit word), which means "Vairocana", is carved on a giant sandstone with a height of about 1.4m and a width of about 1.25m. There are words "February 27th, the 3rd year of Enkyo (1310)", "Sincerely" engraved in the lower part of it."Itabi" began in the Northern Kanto region during the Kamakura period, and was also actively buift throughout the prefecture until the Muromachi period.The Sanskrit characters represent the Buddha they believe in, and by respecting them, they wished their parents and ancestors to remain peacefully after their death.There is a legend about a man named Goro Hirata who use this monument to test his strength by lift it up, and that is the reason it has long been called the "Chikara Dameshi Ishi" (strength test stone).「延慶の碑」にまつわる力試し伝説江戸時代の初め、平田五郎という男がいました。五郎は伊達政宗に仕え二百石を拝領し、利府本郷(利府、館、大町の辺り)に住んでいました。ある日仕事から帰る途中、神谷沢にある神谷川の土橋で、きつねが落としていった玉を拾いました。その夜、五郎の前にきつねがあらわれ、「あの玉がないと仲間のところに戻れません。玉を返していただければ、そのかわりに怪力を身につけて差し上げます。」と懇願されました。五郎はきつねが可哀そうになり、玉を返してあげました。翌日、五郎は試しにこの延慶の碑を持ち上げると、まるでわら束を持ち上げるかのように軽々と持ち上げることができました。そのことがあってから、人々はこの碑を「力試石」と呼ぶようになりました。令和5年8月 利府町教育委員会------------■関連する過去の記事 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日)
2024.08.17
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おみやげに北上京だんごのずんだ大福をもらい、早速子どもたちと食べた。袋を眺めていて気がついたのだが、法務省の人権啓発のキャラクターの人権まもる君に雰囲気が似ている。法務省のサイトによると、正しくは「人権イメージキャラクター 人KENまもる君・人KENあゆみちゃん」なのだそうだ。そして、やなせたかしさんの作と説明がある。ということは...改めて北上京だんごのサイトを見ると、キャラクターのわきに、やなせたかしの印。そして、サイト内には「ずんだ」と「もちこ」の名前も紹介され、さらに、やなせたかしさんの作詞作曲「ずんだのワルツ」のCDまであるそうだ。おみやげの袋にも、よくみると、やなせさんの印がはっきり記されている。やなせさんのお墨付きのうまさ。郷土の味。■関連する過去の記事 北上京だんご 山形に進出(08年8月28日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日)(お昼の店が北上京だんご本店の近くでしたので)
2010.05.26
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今回も下記文献からのお勉強。アイヌ語で読み解けるとされる仙台の地名について。■太宰幸子『仙台城下の地名』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書14)大崎八幡宮 仙台・江戸学実行委員会、2008年■関連する過去の記事(同文献からの記事) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 縄文海進海退の跡を示す地名(2013年4月15日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日)(県内の災害崩壊地名)アイヌ語で解ける地名は青森県、秋田県、岩手県に多いが宮城県内でも仙台以北に確認される。多くは、古代城柵のあった地点を結んだ直線の前後から北に分布。仙台市内では次の3つの地名などが、アイヌ語で解けるとされる。(1)案内燕沢と東仙台に統合されて消えたが、案内住宅やバス会社の案内車庫の呼び方が残る。案内は ara-nay で、もう一つの川の意味。燕沢エリアには、北に高野(こうや)川、南の東仙台エリアには藤川が流れ、藤川のそばの高台(東仙台5丁目)に案内公園がある。このあたりが案内住宅とよばれたようだ。高野川は与平沼(ママ)から流れ出るが、昭和4年に井戸を掘った際に湧き出た案内温泉(案内荘)がある。(2)日辺名取川と広瀬川の合流地点に開けた場所。洪水が度々あったのではないか。アイヌ語では nit-pet で、流木がたくさんある川の意味。アイヌ語を話した人が住んだ頃は上流からたくさんの気が流れ着く土地だったろう。(3)茂庭北海道の藻岩と同じ。mo-iwa 小さい山だが、どちらかというと霊山のような所を言ったようだ。太白山がそれかも知れない。■関連する過去の記事(案内について) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日)
2013.04.18
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江戸時代に天下の大々名とされた前田家、島津家、伊達家を称して「三柄大名」とした。加賀藩前田家は百万石と最高の禄高を持つので、「高柄」(たかがら)と称した。薩摩藩島津家は源頼朝の落胤として名家だったので「家柄」(いえがら)。そして、領土が広く豊饒で国の富める仙台藩は「国柄」(くにがら)と称された。伊達家は62万石の禄高だが、本石米の主産地として名実ともに豊かな国で、実収は150とも200とも推定される。■出典 菊地勝之助『名数みやぎ郷土小事典』宝文堂出版、1973年
2007.08.17
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最近目に留まったニュース。福岡県大牟田市が保健所を廃止するという。お堅い表現でいうと、保健所設置市(保健所政令市)を解除する。もっと正確に言うと地域保健法施行令に定める「保健所を設置する市」としての記載から市名が削除される。現象としては、同市域の保健所業務は、市ではなく県に移管されることになる。6月26日に改正政令が公布され、来年(令和2年)4月に指定解除が決定した。全国でも初めてのケースだ。普通の住民にとってはあまり関心もなかろう。行政内部のちょっとした仕組みの変更。仕事で関係ある人だと、届け出先が市保健所から県保健所になるという影響はある。この場合、大牟田市内で用が済んだのが、おそらく柳川市か八女市に所在する県の保健所まで行くことになるようだ。市のサイトの資料や議会の議事録をみると、市は設置主体変更を昨年9月に国と県に要望。市としては、運営経費がかさむこと、医師や獣医師の確保が困難なことを理由としている。また、食中毒、感染症、自然災害などに十分に対応できない、と説明している。自治体がみずからの体制の脆弱を理由に、業務を返上するというのは異例のことだと、私は感じたのだが、考えてみれば十分ありえることだ。大牟田市は工業都市として栄えた土地だが、人口減少も激しい。環境や健康を担う保健所に寄せられるニーズも減ってきた、と言えなくもないか。村は町に、町は市に昇格をめざし、大きな市は指定都市や中核市をめざし、また国としても保健や衛生の事務は県から市町村に移管する流れを作ってきたと言えるだろう。しかし、現実は冷ややかだ。なんでも右肩上がりの時代はとうに過ぎた。経済学的には、県が規模の経済を生かして業務を担うのが合理的。これに抗って、市民の自治だとか、県の業務を受け取って一元的行政に励みます、などとカッコつけて居られなくなっているのだ。東北各地でも、小中学校や高校は廃止や統合が進んでいるし、そもそも平成の合併は基礎体力の落ちてきた市町村の体制強化の意味合いもあった。大牟田市の事例は、二層構造の地方自治体制の視点からみれば、福岡県が大牟田市を救済するという見方もできる。同様のことは今後増えていくのだろう。市立の高校、病院、のみならず各市町村が単独経費で実施してきた産業、観光、文化などの面の独自の取組も解消されていく方向が顕著になるのでないか。これを悲観的に眺めていても仕方がない。どこまで行政に担わせるのか、換言すれば、人口や財政が縮小していく中で、市民、企業、行政の役割分担を大いに議論していかなければならないだろう。自治の根本問題でもある。国家の統制を嫌って(特に都市型社会において)市民自治を追求しようとした時代があった。その意義はもちろん失われていないが、経済合理性だけでなく、コストをかけてでも守る真剣な地方自治について改めて議論すべきタイミングなのかも知れない、と。
2019.07.21
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仙台藩が雄藩だったとか、そのアナロジーだろうが、東北の雄県と冠して宮城県を論じる風がある。存在感を放った大藩の誇りを示す枕詞としてさほど気に留めていなかったが、ある雑学本を眺めていて、「雄藩」の意味に自分が無知だったことに気づくとともに、不安感を覚えた。■小和田哲男監修『1日1ページ、読むだけで身につく日本の教養365 歴史編』文響社、2021年(218雄藩、のページ)雄藩の説明として、天保の改革で幕政立て直しを模索しているころに、藩政改革に成功して、経済力と軍事力を背景に幕末維新期に国を動かす原動力となった藩のこととしている。文章中では、薩摩、長州、肥前、土佐、宇和島などの外様藩や、水戸、越前などの親藩が紹介されている。とすると、「雄藩」とは、藩政改革がうまくいって、幕末から明治日本への歴史で主役となったダイナミックさをもつ藩になるが、その呼称は、明治初期にでも誰かの著書や新聞論調などで定着したのだろうか。仙台藩が列するのは無理があるように思うが、西南諸藩偏重の明治改革に対して反骨の精神をもって、我こそ雄藩なり、という気概で明治以降の仙台人が意図的に自称したのだろうか。それとも、そもそも藩内体制刷新や維新のダイナミズミとは別に、藩政期全般を通して経済力をもった藩に「雄藩」の語を当てた文献があったのかも知れない。あるいは、最初はダイナミズムだったが、どこかで経済力や規模の大きい藩を漠然と示す意味にも使われるようになったのか。この辺は深読みが過ぎるかもしれないが、いずれにしても、仙台の人が「雄藩」というときに、全国的な観点からは違和感を惹起するのではないか、アレまた仙台人の独りよがりダネと言われないか、というのが冒頭に記した自分の「不安感」だ。大したことではないかも知れないが。それにしても、仙台・宮城の人は「雄藩」や「雄県」をよく言うと感じる。他と比較してみよう。まず、宮城県議会の議事録(ネット)をみてみた。代表的な言い方と思われるものを紹介する。■雄藩(ヒット7件)事例(1)「我が宮城県は奈良朝時代既に国府を置かれた樞要な地であり藩租正宗公仙台に治府以来天下の雄藩として独特の地方文化を創造して重きをなして...」(昭和22年、県史編纂を進めるべしとの意見書の中で。漢字はママ)事例(2)「当時、仙台藩主だった伊達政宗公の指揮のもと、復興事業が始まり、米や木材等を運ぶ運河、沿岸部の新田開発、更に製塩業の振興など次々に手が打たれ、この時の挑戦が後に実質百万石と言われる雄藩に成長する基礎となりました...」(平成28年)事例(3)「河北新報社発刊の「宮城県百科事典」では次のように解説しております。県名の由来、1871年、明治4年、仙台藩は仙台県となったが、政府部内に仙台という名は過去の雄藩を連想させるとして翌年1月8日宮城県に改称したと言われる...」(平成29年、多賀城跡の整備を促進すべきとの質問で。)ここに掲げた3事例以外に、本来(たぶん)の「雄藩」の意味(ダイナミズムある藩)に忠実といえるものもあるが、大半のヒット例は、これら事例のように仙台藩が「雄藩」だったという認識だ。つぎに、「大藩」と「雄県」を確認してみよう。■大藩(ヒット1件)(仙台・宮城に関わる発言ではない)■雄県(ヒット49件)事例(1)「東北の雄県であります本県の警察長を拝命いたしましたことを光栄に存じます...」(昭和23年)事例(2)「こうした宮城県の貧弱さ、かつて全国に誇る雄県として認められておつた宮城県が、かような状態にある一事をもつてしても...」(昭和26年)事例(3)「こういったデータによって他県と比較してみると、かつて東北の雄県と言われた宮城県の姿は、随分かすんできたなというのが実感であります...」(平成16年)「雄県」は、ほとんどの場合「東北の雄県」という表現が定着しており、だから他県に先を越されるべきでない、とか、それに相応しい基盤整備をせよ、などの文脈で用いられている。中には、近代の宮城県の地位(東北の中心として官公所などが置かれたなど)を重視するものもある。語呂はともかく、「雄藩」との歴史的連続性が意識されている訳ではないと感じる。さて、他県はどうだろうか。(ヒット数は、検索対象期間などが異なり一概に比較できない。)■石川県議会「雄藩」(ヒット1件)例「まさにこのことが百万石という雄藩をつくる礎になったのではないか...」(平成14年)■同「大藩」(ヒット4件)例「まさに旧百万石の大藩の面影とそのすばらしい様は、また新たなる大きな観光の目玉ともなり...」(平成3年)■同「雄県」(ヒット17件)例「裏日本の小県であった石川県を今やさん然と輝く日本海側の雄県、トップリーダー県に押し上げられたのはほかならぬ谷本知事の卓越したリーダーシップによる...」(令和4年)例「北陸国際空港建設という大きな視点で見た場合、北陸の雄県として隣県との連携をどのように...」(平成3年)石川県では、「北陸の雄県」などと言われるようだ。■岩手県議会「雄藩」(ヒット1件)西南雄藩との語法だ。■同「大藩」(ヒットなし)■同「雄県」(ヒットなし)■鹿児島県議会「雄藩」(ヒット1件)「近代日本の黎明期、西国の雄藩薩摩は、西洋の文明を先駆けて取り入れ、明治維新の原動力となりました...」(平成6年)■同「大藩」(ヒットなし)■同「雄県」(ヒットなし)雄藩や雄県なるワードに対する思い入れは、仙台・宮城に特有かもしれない。江戸時代の経済大藩という歴史認識に加えて、明治以後も東北の中心という位置づけがされた事実をもとに、本来(たぶん)の意味の「雄藩」に対しては意図的か無意識的かは別として、わが郷土を称揚する決まり文句として、あるいは、現状改善を訴えるスローガンとして多用され続けてきた、というあたりだろうか。(雄藩の表現の経緯については、資料や論考があると思われます。当ジャーナルでも課題としてまいります。)■関連する過去の記事(仙台・宮城の県民性や歴史認識などに関しては、下記以外もあります。フリーページ記事リストをご覧ください。) 三柄大名(07年8月17日) 見透かされた「大藩仙台」の空虚なる風土(06年4月2日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日)(明治末年の出来事) 仙台・宮城の気風を再び考える(06年7月3日) 肝付兼武のこと(06年6月13日) 仙台文化を理論的に解明?(06年2月17日)
2023.02.26
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先日の記事(下記)に記した一番町四丁目のキクチさんをたびたび利用したのは、社会人になってからで、学生の頃の行動範囲では、文具といえば「巴屋」さんによく行っていた。中央通りの大町商店街(マーブルロードおおまち)の中で(1.5番丁などと呼んでいた)辻に斜めに面した店。今の楽天ショップのところだと思う。たまたま今日、家の中の片づけをしていて、これが出てきた。記載された住所は、やはりあそこだ。懐かしい。■関連する過去の記事 キクチが閉店(シリーズ仙台百景 44)(2026年02月12日)
2026.02.14
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河北新報2023年4月3日(ワイド東北)で、東北大学災害科学国際研究所の川内淳史准教授(東北近現代史)に聞いたという記事。東北の侮蔑後とされた「白河以北一山百文」は、最近の研究によって意味合いが時代によって少しづつ変化してきた過程が明らかになってきたという。概要は以下だ。(記事の文中には、川内氏の見解(持論)などと随所に断りがあるが、以下では省いた。なお、記事の署名はコンテンツセンター小沢一成さん。)1.近事評論の寓話文献に初めて登場したのは、雑誌「近事評論」の明治11年(1878)8月23日第148号。福沢諭吉の門弟だった旧熊本藩士で自由民権運動に共鳴した林正明が書いたとされる。記事は、西南(薩長)の地図の上に並べた人形は飛ぶように売れるのに、白河以北に並べた人形は誰も顧みようとしないという寓話。時代が変われば売れるようになると慰められた人形売りが泣き止み、白河以北一山百文と叫んだという内容。。2年後の同誌第277号は、東北人士を人形になぞらえ、薩長藩閥政府の下で西南優位の状況を覆絵層としない無気力を批判し奮起を促す狙いだったと記述している。2.天恵薄き地意味合いが変わったのは20世紀に入った頃。明治三陸大津波(1896年)や大飢饉(1905年)などで、東北=「天恵薄き地」という認識が広まった。これを理由に東北振興の機運が高まっていく。東北人を発奮させるためだった「白河以北一山百文」が、天恵薄き地の認識が広まる中で、東北全体を指す言葉に意味がずれていった。3.薩長発信との認識昭和に入ると薩長新政府が東北に投げかけた「罵倒語」との認識が登場し始める。1930年出版の「総合ヂャーナリズム講座Ⅲ」に、「一山百文とは明治維新の変革に政権を握った薩長が、東北を侮蔑した呼称で(中略)あざける意味が含まれていた」との記事。昭和三陸津波(1933年)や昭和東北大凶作(1930-34年)に見舞われ、さらに戦時体制の強まる中で、同じ日本にも関わらず差別的扱いを受けたとして国家を造った薩長に不満が向けられて、「白河以北一山百文」に結びついたのではないか。4.司馬遼太郎の推理と影響一方で、戊辰戦争で薩長の司令官が攻め込んだ際に「白河以北一山百文」と言ったという俗説がある。司馬遼太郎の紀行「街道をゆく」が一番古い記述とみられる。1972年の連載を収録した「街道をゆく三」の冒頭部分に「『白河以北、一山百文』といったのは、戊辰戦争を戦って会津城を攻め落とした長州軍の士官の一人であったであろう」とある。司馬一流の推理とみられるが、意味がずれていく中で生まれたものと推量される。司馬の影響で、以降こうした認識が広まった。■関連する過去の記事 中央からの視点だった東北開発(2023年04月02日) 東北という呼称の初現 ー 「東北」の形成(2023年03月26日) 明治政府の焼き付けた東北後進論(2013年8月19日) 「二束三文」と東北(2012年8月11日) 「白河以北一山百文」の由来と河北新報(07年8月7日)
2023.04.04
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『47都道府県・妖怪伝承百科』小松和彦・常光徹 監修、香川雅信・飯倉義之 編、丸善出版、2017年 から(川島秀一執筆部分)■関連する記事 青森県の妖怪伝承(2023年07月11日) 岩手県の妖怪伝承(2023年07月12日) 秋田県の妖怪伝承(2023年07月15日) 山形県の妖怪伝承(2023年07月16日) 福島県の妖怪伝承(2023年07月17日)・糸車を回す婆様(山中の家に居り、何度撃っても笑っている。最後には老体のサルが正体を現し、婆様と思ったのは木の根だあった)・海人魚(唐桑町津本の漁師がカツオ船で目撃したクジラのようなヒレを持ち胴体は人間の女性。同町鮪立では捕まえた人魚を逃がしたら、舐めれば三年長生きするのに、と揶揄われた。)・海坊主(網地島のカツオ船が大漁するたびに船上から熊野神社に投げていた。もったいないからと潜ってそのカツオを拾い上げた船頭が、大坊主に片手をつかまれ、馬屋の馬を海に引っ張り込んだ。)・大鱈(気仙沼市五駄鱈の家の娘に毎夜通ってくる和子様(若者)の袴に麻糸をつけて、翌朝たどっていくと沼の中に大きな鱈が死んでいた。南三陸町戸倉の同様の話は「姫子岩」で鱈の親分に子分が集まる所の話で、鱈網で大漁する漁場だった。)・片目の鮒(大郷町大谷のメッコ沼の鮒は、漁師が大鮒の目を貫いて殺したため、みな片目だというが、その漁師も片目を刺されて死んでいた。)・河童(旧暦6月15日は天王様の祭日で各家で初物のキュウリを供えるが、気仙沼地方では河童様にあげ申すと唱えた。河童に引かれるからと危険な場所で子どもが泳ぐのを注意することもある。色麻町の磯良神社はオカッパ様と呼ばれ、宮司の姓は代々「川童」である。)・ザシキワラシ(気仙沼市大島村上家。旧長磯村斎藤家。気仙沼尋常小学校。南三陸町入谷の菅原家では代かきを手伝ってくれたワラシに魚を御馳走したが、雲南神社の祠に入っていたので、以来菅原家では田仕事に魚を食べない。南方町原の佐々木家。宮戸島の観音寺では、三寸くらいのザシキワラシが多数酒を飲みかわすが、見た者は小人になってしまう。)・大蛇(気仙沼市名木沢の門兵衛が鉄砲で撃った大蛇が、大島の葡萄口まで流されて死んだ。その祟りで門兵衛一族が大島に渡るとさざ波が立ち、一族は代々片目が悪い。大郷町では板谷斎兵衛が大蛇を撃った話。七ヶ浜花渕浜の花淵善兵衛は大蛇の歯に刺さっていた獣骨を抜いてやり、山の蛇除けの言葉を教えられた。)・テンテンコブシ(気仙沼地方で、わら打ちの槌を椿の木でつくると、その晩に化け物が来る。)・人をだます猫(離島に多い話。小野喜惣治『田代管見録』(1888)。また、網地島では、田代島から渡って来たマントに高帽の男が渡した金が木の葉だった。網地島で宿直の先生が毎晩猫を目撃したが、その猫が船賃として2円を出した。今でも臨時に田代島から網地島に船を出してもらうときには2000円を払うという。出島では唄を、野々島では浄瑠璃を歌う猫の話。田代島には猫神様、野々島には猫神社が祀られている。)・ヒヒ(本吉町でヒヒ(老年のサル)にさらわれた娘がを、故郷の者が五葉山で見つけたが、何不自由ないので帰らないと語った。)・船幽霊(菅江真澄が1786年気仙沼大島に渡る船中で聞いた。沖に碇泊していたカツオ船に次々と人が乗り移ってくるので、狭い一室に閉じ込めると翌朝にはみなクラゲになっていた。七ヶ浜にも同様の話がある。南三陸町寺浜では、大阪徳蔵という船頭の船の前に急に山が現れたが、乗り切って助かった。「大阪徳蔵山乗った」という地口が残る。清水浜ではハモドウ(ハモ漁の筌)を挙げているときに多数の手が船べりにすがりついた。)・まさぼう滝(気仙沼市渡戸川の小滝に浮いた大ウナギを取り上げダツ(運搬具)に入れたところ、マサボウ、マサボウ、いつ来るや、と滝の中から声が聞こえ、ダツの中から大ウナギが、マサはいつ来る来ずさ、と声を返したので、男は一目散に逃げ帰った。同様の話のある「昌坊滝」が登米市東和町と藤沢町の境にも伝えられる。)・山小屋の妖怪(気仙沼市塚沢で出会った化け物は人の心を読むので退治に難儀したが、そのうち小屋のオキリ(炭火)が跳んできて退散した。同市西才中に同型の話がある。)■関連する過去の記事 ごんだら村(気仙沼市五駄鱈)(2013年2月8日)ほかにも多数あります。フリーページの記事リストご覧ください。
2023.07.13
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(前回記事旭山(石巻市北村)を訪れる(その1 桜と眺望)(2024年04月14日)に続いています。)山頂に、朝日山計仙麻神社がある。旭山神社ともいい、かつては深谷一宮旭山宝竜大権現とも称されていた。延喜式神名帳にも名を残し、古くから河南地区の産土神として信仰を集めている。創祀の年代は不明で、大同年間(806-810)坂上田村麻呂が陸奥侵攻に際し、戦勝を祈願、戦勝後千束の田を寄進したことが社伝にみられる。本殿は昭和11年改築。祭神 倉稲魂命 豊玉姫命例祭 4月下旬(下記の宮城の旅サイトから。)参道をのぼる途中、左右にもみどころがあった。坂道の下の方から取り上げていくが、まず、旭山観音堂だ。説明版を読んでみる。------------旭山観音堂旭山観音堂は亡学童や戦没者の冥福を祈らんため発願し 昭和13年建立したもので 文豪徳富蘇峯(ママ)定礎し御堂は東北大学小倉強教授の設計 平安時代の様式で三間二面単層四注造の本瓦葺回廊をめぐらし 前面は張り出し 背面の子持石とよく調和し 結構荘厳清水観音堂を髣髴せしめる 聖観音像は元帝展審査委員国方林三の作 国宝的傑作である 扁額「観自在」は蘇峯(ママ)の筆旭山御堂の中に拝みぬ 端厳微妙の聖観世音 土井晩翠------------参道から観音堂に分かれ行く箇所には、左に上記の説明版、右には愛知揆一書になる「旭山聖観音」の石碑がある。小径を進んでいくと、しばらくして断崖にせり出すように建立された観音堂が現れる。すぐ上には奇岩が聳え立っている。説明版に言う子持石だろう。堂宇の周りを歩いてみた。次に、聖観音の入口から参道を少しだけ登ったところに、桃太郎神社の入口がある。左に分け入って歩くと、すぐに開けた場に出て、小さな祠と大きな石碑がある。碑には、「日本一桃太郎神社 内閣総理大臣 岸信介 書」とある。お社には、なぜか猫たちが大集合。立派な碑の裏側を読んでみる。次のように刻まれていると思うが、判読しかねる部分もあり、自信がない。------------桃太郎 ここに生まれて ふるさとの なほ新しく 栄ゆる 旭山昭和三十二年四月二十八日 斎藤 荘次郎 謹------------桃太郎神社から参道に戻りさらに登ると、右手に「旭山不動尊」と石柱がある。右側面には、「日本大学総長勲一等医学博士鈴木勝書」とある。左側面には「昭和五十一年四月二十八日 日本大学理□ 医学博士 □野一 建立」と(読み間違い容赦下さい)。さて、石碑の辺りから脇に立ち入ると、下り道の石段があり、降りていく。石は整形に切られており、最近整備された道のようだ。不動明王様は、東日本大震災の後、今は北村の高福寺に移されているのだそうだ(下記サイト)。なお、上の画像でお堂前の高台に至る手前から、下の沢に降りる階段がある。湧き水の場所に降りるためだろうか。・宮城の旅 旭山・石巻市サイト 県立自然公園旭山訪問日 2024年4月14日■今回訪問の記事・旭山(石巻市北村)を訪れる(その1 桜と眺望)(2024年04月14日)・旭山(石巻市北村)を訪れる(その2 神社、観音堂など)(2024年04月14日)
2024.04.14
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■高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン」 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収■同書に基づく記事シリーズ・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その2 馬籠村)(2024年09月03日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(2024年09月10日)・今回 東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟)(2024年09月13日)■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)〔前回から続く〕4 大籠地域とキリシタン4-4 大柄沢キリシタン洞窟 1973年(昭和48)8月、山の持ち主Nさんが下刈り作業中に、偶然みつけた。道らしきものが続いていることに気づき、右側が崖になる藪を進んでいくと、山の一部に人工的に色が変化している場所を発見。鶴橋をいれるとぽっかり穴が開き洞窟の入口とわかった。 岩穴は高さ1.3m、底辺1m、奥行き10mほど。奥には細断と思われるものが2段あった。灯火用の金属片を岩に取り付けた跡もあった。 その後訪ねる人もなかったが、NHKで放映することになり、一昨年〔おだずま注、鈴木氏の著書は2020年1月の講演がもと〕、持ち主に無理にお願いしてショベルカーで低木を掃っていただき、入口に辿り着いた。50年近く経た洞窟の入口は土砂が崩落していたが、懐中電灯で照らした洞窟の中は、ロウソクの煤で薄暗く、ミサで使用したのか壊れた皿が散乱していた。〔おだずまコメント。ネットなどで調べると、大柄沢(おおがらさわ)キリシタン洞窟は、大籠教会から西に1.5kmで登米市米川地区にある。登米市の土砂災害危険個所のマップで、国道346号の北側に大柄沢キリシタン洞窟の語がみえる。米川里山だよりのマップ〕4-5 大籠の地名 大籠の地名には殉教地を物語るところがある。シト(使徒)の沢、トキゾー(徒刑場)沢、デス(仏)、ハセバ(架場)など。ハセバは稲を干すハセ掛けのように死体を並べたということ。殉教を「架けた」と表現する地域もあった。 大籠地区自治会協議会は、殉教と製鉄の里として「大籠の旧跡と名所」という地図を製作。この中にキリシタンに関わる史跡は22箇所もある。一部、米川(狼河原)のキリシタン関係の遺跡と後藤壽庵の碑も掲載されている。■関連する過去の記事(田束山) 田束山(2023年05月30日)■関連する過去の記事(登米市関係) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 気仙沼線・BRTを体験する(2024年05月05日) 香林寺(登米市)(2024年05月02日) 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)=組合立だった米谷工業高校 ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) ネフスキーと登米(2022年11月9日) 北上川の移流霧(2021年5月22日) 登米の警察資料館(2015年5月24日) 中江その通り(2015年5月1日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日) 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 柳津と横山 名所も並ぶ(07年10月26日)
2024.09.13
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葛西氏はどこに行ったのか。下記の文献から。■江田郁夫編『秀吉の天下統一 奥州再仕置』勉誠社(アジア遊学294)、2024年 より、泉田邦彦「葛西・大崎一揆と葛西晴信」による1 奥州仕置と再仕置天正18年、小田原北条氏を滅ぼした秀吉は、翌8月には会津黒川に下向し、破城、刀狩、検地を強行するいわゆる奥州仕置を行う。奥羽ではこれに反発する一揆が各地で起きた。しかし、豊臣政権やその意を受けた伊達政宗により、鎮圧され、天正19年秋までに奥州再仕置がなされて、豊臣政権の全国支配が実現された。2 一揆と葛西氏の動向小田原攻めには、政宗が天正18年6月に参陣したのに対して、葛西晴信は不参だった。7月上旬に米沢城に戻った政宗は、7月23日に秀吉を出迎えに宇都宮に出発する。その前日の7月22日付で、葛西晴信、一族で桃生郡山崎館主(石巻市相野谷)の葛西流斎(重俊)、栗原郡三迫の富沢日向守(葛西一門)に宛てた3通の政宗書状があり、晴信は使者を遣わしていた。政宗は、晴信には、奥州の仕置は政宗に仰せつけられたことをよく考慮すべきと、また、流斎には、晴信が伊達氏へ一統に属するよう働きかけを求めた。奥州仕置以前の段階で、流斎、冨沢日向守ら葛西氏の一族・重臣は伊達氏とも気脈を通じていた。天正18年7月下旬の宇都宮仕置で、葛西、大崎、和賀、稗貫各氏の知行召上げは決定した(小林清治はこれを奥州仕置の第一段階と位置付け)、同年8月から10月にかけて、北上川中下流域の葛西領(牡鹿、桃生、本吉、登米、磐井、江刺、胆沢、気仙郡)では、豊臣政権による破城、刀狩、検地が進められた。浅野長吉、石田三成が主体となった検地、刀狩を経て、葛西・大崎旧領は、木村伊勢守吉清、弥市右衛門吉久の父子の手にわたり、吉清は登米城、吉久は古川城に入城した。旧臣たちは従来の居城と武士身分を剥奪され、農村に年貢のほか伝馬役や人足が課せられた。加美郡米泉(加美町)では、伝馬の負担を不満として大崎旧臣や百姓が隠し持っていた刀を取り出して、30人余りが中新田で磔にされたという。各地の城主は上方から召し連れられた者に置き換わり、年貢や妻子等を奪い取るなど無道の仕形であった(貞山公治家記録)。旧臣等の一揆は、胆沢郡柏山(金ケ崎町)、気仙郡、磐井郡東山、玉造郡岩手沢(岩出山)で立て続けに起き、各地へ波及した。一揆勢は10月16日には、佐沼城に吉清、吉久父子を包囲することに成功する。注目すべきは、一揆蜂起直後に出された(10月23日付)宛て所を欠く(晴信家臣宛てと推定)政宗の書状で、政宗が木村吉清を助けるべく一揆鎮圧の助力を晴信に依頼したこと。他方、蒲生氏郷が政宗に宛てた書状では、一揆鎮圧に励むなら晴信の所領安堵を秀吉に取り次ぐ意を示したとみられ、また政宗も晴信の処遇に関与していたと指摘される。晴信の発給した文書をみると、一揆発生後の天正19年2月以降、家臣の奉公に対する恩賞として宛行っており、実際に一揆鎮圧に動いていたこと、政宗の下での所領回復を目指していたことが推測される。政宗が申し開きのために上京した天正19年2月から奥州再仕置が始まった6月までのものであることから、晴信の牡鹿郡支配は政宗の庇護の下でなされたとする見解がある。確かにそうだが、晴信の宛行行為は、奥州仕置の以前から牡鹿郡及び遠島に限られている。また、仕置以後も晴信が牡鹿郡にいたものと推定されている。3 政宗と氏郷11月10日、江戸では徳川家康と浅野長吉が対応を協議し、20日までに名生城に入った蒲生氏郷は、須田伯耆の密告を受け、一揆と政宗の関係を疑う。政宗は、宮沢城、中目城、師山城(いずれも大崎市古川)、高清水城を攻撃、11月24日には佐沼城へ軍勢を進め木村父子を救出する。この後、木村から政宗へ登米、佐沼両城を渡すことと「葛西大崎之儀」を政宗へ預けるよう秀吉に取り成すこと等が、氏郷から浅野六右衛門と政宗に伝えられ、政宗も氏郷に起請文を提出した。しかし、氏郷から浅野長吉に政宗心替の報が入り、京都にもたらされる。これを受け、二本松にいた長吉と政宗の会談が行われた。翌天正19年正月9日付で、政宗に長吉の書状が出され、政宗が富沢日向守以下の葛西大崎旧臣を抱えていながら未だその妻子を人質として豊臣政権側に差し出していなかったことが窺えるが、こうした状況も政宗と一揆の密な関係が疑われた要因だろう。その後、長吉の勧めもあり、政宗は天正19年1月30日米沢を立ち、(閏1月をはさみ)2月4日京に上洛する。晴信は政宗に書状を送り、その返書が閏1月朔日付で政宗から出された。その書状には、1月19日に秀吉からもたらされた朱印状により、一揆の鎮圧を中止し上洛を命じられたこと、朱印状の内容は安心してよいこと、(晴信の問いに対する)残りのことは京都から申し述べることが伝えられている。依然として、政宗と晴信の密接な関係が窺える。政宗は上洛後、2月6日秀吉に参礼し、12日には侍従に補任、羽柴姓の名乗りを許されたほか、屋敷を与えられ公家衆とも交際した。2月9日付浅野長吉宛政宗書状は、国元から一揆大将(佐沼城主)を岩沼に捕縛したことを報告したものだが、この時点で葛西大崎旧領を政宗に与え、会津周辺5郡(田村、塩松、信夫、小野、小手)を秀吉へ進上することが命じられている。4 葛西大崎合戦一揆の鎮圧を命じられた政宗は5月20日ころに米沢に帰国し、6月14日葛西大崎旧領への出馬を家臣に報じた。直後の6月19日付で政宗が流斎に宛てた書状では、流斎から何度か書状が送られていたこと、大崎衆は過半が政宗に出仕してきたこと等が判明する。葛西大崎一揆と伊達方の、宮崎、佐沼両城における合戦は、政宗が秀吉家臣たちに宛てた書状に詳しく、それらによれば、6月24日一揆が籠る宮崎城(加美町)を取り囲み、翌日に攻め落とし、数百人に及ぶ撫切りを行い、佐沼城は、2月に討ち取った一揆大将(城主の子の彦九郎)を残党が支援して抵抗したが、7月2日に伊達方が城を取り囲み、翌3日には落城。城主の兄弟をはじめ旧臣ら5百人が討ち取られ、2千余人の首が刎ねられて、女童にいたるまで撫切りにして葛西の残党は退散される。一揆勢のうち宮崎城を拠点としたのは大崎旧臣ら、佐沼城を拠点としたのは葛西旧臣らが主で、後者がより強硬に抵抗を続けたと窺える。この後、政宗は登米城に入城し、対一揆勢の合戦は葛西残党を中心としたものになる。5 深谷の役7月14日頃には磐井郡東山も伊達方が押さえたようで、一揆の鎮圧は進む。この頃、秀吉は、葛西大崎一揆及び九戸一揆を討滅すべく、秀次と徳川家康を中心とする大軍を奥州へ指し向け、宮崎佐沼両城を落とされた一揆勢は政宗に降参を申し入れた(貞山公治家記録)。政宗は、秀次に助命を取り次ぐことを約束し、桃生郡深谷に彼らを移した。しかし、秀次からは一揆勢の首を刎ねる指示が出され、政宗は、一揆の武頭20余人を討ち、その首を京都に送ったという。石巻市須江糠塚「殿入沢」に伝承される「深谷の役」である。この事件は史実で、家臣宛て政宗書状でも弁明している。宮崎、佐沼の撫切りもそうだが、奥州仕置を強行する豊臣政権の命に従って政宗が実行したものだった。6 一揆の背景と影響8月下旬から9月下旬にかけて、葛西大崎旧領の城館破却と普請が豊臣政権の手でなされた。葛西旧領では、胆沢郡柏山城を上杉景勝が、江刺郡江刺城、胆沢郡水沢城を大谷吉継が、磐井郡大原城、気仙郡気仙城を石田三成が普請し、大崎旧領は玉造郡岩手沢城、栗原郡佐沼城を徳川家康が普請した後、政宗に渡されたという。その上で天正19年秋から冬にかけて、伊達氏は重臣を本領から切り離す大胆な知行替えを実行。江刺郡岩谷堂城に桑折政長、胆沢郡水沢城に白石宗実、磐井郡大原城に粟野国顕、同郡黄海城に留守政景、栗原郡真坂城に富塚近江、同郡築館城に遠藤宗信、同郡佐沼城に湯目景康、遠田郡涌谷城に亘理重宗、志田郡松山城に石田宗朝が移された。7月7日付政宗書状では、深谷保小野城主の長江月鑑斎(勝景または晴清)と黒川郡黒川城の黒川月舟斎(晴氏)に対し、横目を付けるよう指示している。彼らは必ず居残ろうとするから、引越しを交渉し、拒否するなら切腹の外なしと述べているように、知行替えは容易でなかった。亘理重宗の場合も、涌谷城への移転は応じ難かったようで、亘理郡の知行高の差出はなかなか実現されなかった。秋保定重の下に預け置かれていた長江月鑑斎は、12月7日付で政宗から定重に命がだされ、13日に「生害」が定重から政宗に報告された。翌14日、政宗は、湯村右近衛に対し「深谷一宇惣成敗」を認めており、深谷保も政宗の支配下に組み込まれた。月鑑斎の「生害」では、政宗は定重に、月鑑斎の妻子を弟の晴信のもとに返すことを指示している。天正19年12月時点で、晴信はなお牡鹿郡周辺で存命した可能性がある。ただし、この段階で晴信の立場は厳しいものだった。12月9日政宗が家臣に与えた知行配分日記では、登米郡米谷、西郡、本吉郡鱒渕等が石母田頼景へ、志田郡坂本、蟻ヶ袋、磐井郡東山、桃生郡寺崎、牡鹿郡真野、鹿妻等が大条宗直に与えられた。これまで葛西晴信のみが牡鹿郡に対する宛行行為を行えたことを踏まえれば、天正19年冬までには政宗は葛西大崎旧領を完全に手中に収め晴信は領土権を失ったとみられる。7 その後の葛西氏葛西晴信の行く末は、前田利家に預けられて慶長2年加賀で死去(葛西真記録)、大崎義隆とともに上京して上杉景勝に属した(貞山公治家記録)などの説があるが、後者が有力視されている(大石直正、竹井英文)。晴信の子葛西長三郎清高に比定される人物が慶長5年7月の白石城における上杉氏と伊達氏の合戦(いわゆる北の関ヶ原)の際に、(家中の富沢吉内、黒沢豊前、高野佐渡守らとともに)伊達氏に降っていること、上杉氏から伊達氏に渡された刈田郡内の知行目録に、かさい、とみさわ、が確認されるからである。なお、大崎義隆は、蒲生氏郷の客分を経て会津上杉氏に仕え、その後山形最上氏を頼って慶長19年までに没したという(遠藤ゆり子)。一方、いち早く伊達氏に仕官した者たちもいた。天正19年冬には、葛西流斎が宮城郡幡谷村、竹谷村に100貫文の所領を得て幡谷村に居住。晴信の重臣だった赤井景綱も幡谷村を与えられ、近世には仙台藩士として存続。流斎の系統は、二男の葛西俊信が文禄6年(1597)桃生郡飯野川に113貫文も所領を得た後、寛永4年(1627)政宗に「先祖旧領之地」を望んで桃生郡相野谷村、成田村を拝領したといい、近世には準一家飯野川葛西氏として在郷支配をしていく。流斎の長男葛西重信は、宇和島藩士になっている。ほかにも、晴信の子葛西勝兵衛延景は、慶長3年盛岡藩南部氏の客分となり、慶長6年南部利直より和賀郡毒沢村、浮田村700石を与えられる。盛岡藩には、江刺柏山氏ら江刺郡胆沢郡を治めた葛西一族らが出仕している。8 一揆と葛西氏江刺郡の曹洞宗正法寺に伝わる「正法年譜住山記」には、天正18年条に、江刺城の場合、九左衛門という上方勢が新たな城主に置き換わり、9月17日に蜂起した一揆が落城させて元の侍が城に復したと記される。一揆の主たる構成員は、大崎、葛西の残党などと確認できるほか、一揆とは距離を置いて政宗に扶持されていた氏家典膳や、富沢日向守らの「葛西大崎牢人衆」も確認できる。つまり、一揆の主たる構成員は、葛西晴信、大崎義隆の所領が没収され自身も居館を追われた葛西、大崎の旧臣らが中心であったが、凡下や百姓ら地域住民を巻き込むものであった。一方で、葛西晴信や流斎は、奥州仕置前後から政宗と連絡を取り合い、一揆蜂起直後には鎮圧への協力を依頼されたことからすれば、一揆の結成は必ずしも葛西大崎両氏を盟主と推戴するものではないと思われる。「京儀を嫌う」心理と、仕置後の上方勢による年貢、伝馬役の賦課、妻子、下女、下人の略奪等の横暴が耐え難いものであったと推察される。9 葛西氏と牡鹿郡葛西七郡、葛西八郡と呼ばれる広大な支配領域をもちながら、なぜ奥州仕置後の葛西晴信は牡鹿郡に身を寄せたのか。そもそも葛西氏と牡鹿郡のつながりは、文治5年(1189)奥州合戦の後、葛西清重が源頼朝から恩賞として陸奥国5郡2保を賜ったことに始まる。平泉周辺に加え、飛び地として北上川河口の牡鹿郡を獲得したのは、牡鹿湊(石巻、湊、伊原津の3地区が複合的に機能)による流通が指摘される。葛西氏惣領は興国3年(1342)前後、牡鹿郡に下向し、天文年間に登米郡寺池城に移転するまで牡鹿湊を拠点としていた。14世紀半ば以降、支配領域の重要な基盤が牡鹿郡であり、16世紀初め以降は山内首藤氏を滅ぼして獲得した桃生郡が加わった。葛西晴信の宛行行為は、対象が牡鹿郡及び遠島に限られている。晴信の父葛西晴胤が宛行を確認した永禄8年の判物には、桃生郡三輪田村に関する可能性がある。天文年間以降、葛西氏の本拠は登米郡寺池城に移転するわけだが、その支配領域では、薄衣氏と浜田安房守の合戦、一族江刺氏の再乱、元吉氏の再乱、遠野孫次郎と鱒沢氏の対立、磐井郡東山での内乱等が相次ぎ、麾下領主たちを統制できていなかった。室町中期以降、江刺郡や胆沢郡は葛西一族の江刺氏、柏山氏が、葛西氏惣領を頂点とする家格秩序に位置づけられながら、それぞれ郡内では頂点に立ちその下に郡内の領主が編成されていたことがわかっている(高橋和孝)。すなわち、戦国期葛西氏の支配領域は、葛西氏惣領を頂点としながらも、江刺郡は江刺氏、胆沢郡は柏山氏、本吉郡は元吉氏、気仙郡は北の浜田氏、南の熊谷氏といった「郡主」とも呼びうる一族、重臣が支配を展開したと推察される。(磐井郡は、東部に薄衣氏、東山の大原氏、黄海の藤沢氏、西部に小野寺氏がおり、南部の流は三迫の富沢氏の勢力が及んでいたと考えられる。)葛西氏惣領が自ら家臣に宛行行為をおこなった牡鹿桃生両郡と遠島、天文年間以降の本拠であった登米郡は、さしあたり惣領家の直轄領と位置付けられよう。とりわけ、流斎が拠点とした山崎館があった桃生郡に対して、牡鹿郡には有力領主が存在しなかった。奥州仕置後、登米郡は木村吉清の手にわたり、晴信は直轄領たる牡鹿郡に身を寄せることとなった。当該地域では大規模な一揆がなかったと指摘されるが、それは晴信が一揆に与しない選択をしたため牡鹿郡の旧臣らは合流しなかったものと捉えたい。■関連する過去の記事 葛西氏と大崎氏(10年9月22日)そのほか、フリーページの記事リスト (10)戦国・藩政期の仙台・宮城 をご覧ください。
2025.08.18
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大郷町のSSP構想をめぐる住民投票の問題。以前、記事にした後の動きについて。2025年8月の町長選挙で争点となり、構想を推進する現職田中学氏が敗れ、見直しを視野に入れるとして当選した石川良彦町長が、10月になって事業者と役場で会談。規模縮小を提案した町長に対して、事業者は撤退を意思表明。そして、きのう(2026年2月25日)、議会の解散請求の署名の一部に無効なものが含まれているとして町議3人が無効確認(186人分が代筆で無効)を求めて訴えていた裁判で、仙台地裁は、町選管が有効とした署名2135人分のうち、12名の署名を無効と判断した。違法な代筆が10人(本人に心身の故障がない、委任していない)、署名後に町選管が有効と判定するまでに死亡した人が2人いるということだ。これにより、有効署名数は議会解散に必要な3分の1(2127人)を4人下回ることになる。これにより、議会解散を問う住民投票は白紙となる見通しだ。なお、町は控訴を検討するとの報道があるが、地裁決定に対しては控訴はできず、上告の可能性だけ。下記2025年4月16日記事参照。もっとも、構想を断念した町として議会解散にこだわる理由は最早なく、どっちにしても住民投票はもうないだろう。SSP構想自体の帰趨は一定の方向に収束していくと思われる。この件の大きな課題としては、町選管の事務処理が適切だったのかがやはり問われなければならない。公務の信頼性の問題だ。ところで、仙台地裁の判決のニュースでこの件をきのう思い出したのだが、前の記事を書いた時点では、地方自治法の規定(76条4項で準用する74条の2第8項)により判決は100日以内だから、夏に結果が出ると思っていた。よくいう百日裁判とは、公職選挙法の場合(同法213条など)を指し示すことが多いようで、自治法の場合は結構長期になっているのが実態なのかも知れない。■関連する過去の記事 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.02.26
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朝日新聞(宮城県版)2026年4月3日「石巻出身の軍人が見た「二・二六」」から。1936年の二・二六事件は近代史に残るクーデター未遂事件だが、石巻市出身の軍人が日記に書き残していた。旧稲井村出身の陸軍歩兵大尉、後藤東一郎(1915-1939)である。旧制石巻中学校を首席で卒業し、事件当時は、陸軍士官学校本科の生徒だった。26日の日記は、「社界に如何なる事変の生ずるにも拘らず余等は益々沈静(略)本分に邁進するのみ」。(おだずま注;カタカナを平仮名にし濁点を付した。以下同じ)翌27日には、「遂に戒厳令布かれ 香椎閣下戒厳令指令を拝命 帝都の治安に任ぜらる」、「デマはデマを生み 何とはなく不安の空色なり」。29日の日記は、「流血を出すに忍びざれど遂に武力を以て之を解決するに決せらると」。4日間のクーデターが終わった。7月には首謀した将校らに判決が下る。同月7日の日記は、「命令に依って動きし千有余名の兵の無罪を喜ぶ」。命令に従った兵士が咎められないことを後藤も喜んだ。事件から3年半、中尉となった後藤はノモンハン事件の戦場にいた。39年8月24日、ホロンバイルで、隊長の後藤は肉弾突撃を敢行。右腕を撃たれたが、自分よりも兵士の手当てを優先するよう衛生兵に告げ、立ち上がった瞬間に一弾が頭部を貫いた。23歳で戦場に倒れた。(死後に大尉に昇進。)後藤家は長男の戦死で家が途絶え、後藤の士官学校の卒業証書、勲章、日記などの遺品は、親戚が2010年、北村の施設平和資料館に寄贈した。館長で元女川高校校長の佐々木慶一郎さんは企画展を開いている。難を逃れた岡田首相の鉄瓶、斎藤実や高橋是清の掛け軸なども展示する。二・二六事件の背景には東北の冷害、米価下落、不況、政治腐敗があった。政治家は軍を恐れ、軍部独裁と大戦の破局につながっていった。過ちは繰り返してはならない、と佐々木さん。企画展は4月15日まで。
2026.04.03
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宮城県北の不自然な東北本線のルートについて。前回(宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日))は、小牛田や田尻など、敷設が実現した地域の町史を読んでみた。今回は、外された地域の公的文献を見てみよう。------------涌谷町 涌谷町史下巻(昭和43)から 日本鉄道株式会社は(中略)、遠田郡では北浦村の鎌田常之助(1万円)、馬場谷地村砂金三十郎(5千円)、横山萬五郎(5千円)の3人が名を連ねた。(砂金三十郎は涌谷伊達家の御用商人の家の次男、質屋小間物度量衡火薬商を営業。横山萬五郎は江合川の河川交通盛んな頃にひたら船の船頭、維新後、三井組石巻出張所の東京引き上げに際し手形の残処理で産を成したという。〔この部分おだずまジャーナル要約〕) (中略)本線は鹿島台から涌谷を通る予定であった。ところが陸蒸気が走るとその火の粉で火災になるとか、振動で線路近くの田圃に植えた苗は活着しないとかの流言が飛んで、涌谷駅の開設を拒み、鉄道を小牛田に追いやった。小牛田でも停車場を街には作らせず、南端の田圃中の元停車場の地に建てたのであった。いわゆる鉄道反対説が堂々と罷り通って涌谷は本線筋からはずれたのであると伝える。これは各地でよく語られる話であるが、真偽は不明であり、もし事実とすれば誠に遺憾事で、爾後の涌谷町の発展に大きな影響を与えたといえる。 鉄道の開通によって陸運は飛躍的な発展をしていった。従来振るわなかった塩竈の市況はとみに活発化し、小牛田新市街が生まれていった。三本木町 三本木町史上巻(昭和41年)から 東北本線の通過している宮城県内の地点を見るに、仙台以南の地と一関以北の地とは、大体国道すなわち奥州街道に沿うているが、仙台から北方一関に至るまでの間は、鉄道は国道の東方を走っている。従って、かつて奥州街道に沿うていた七北田、富谷、吉岡、三本木、古川、高清水、築館、金成等の旧宿駅であった町々は、遠く鉄道から離れ、一方比較的人口の疎らな地方を縦走している。 これは色々と敷設に当たっての理由もあったことであろうが、一般の鉄道敷設条件の例外とも見られる。その理由として考えられることは、鉄道を敷設する地方は可成り平地であるということである。従って丘陵地帯である七北田、三本木とか築館、金成などの地を避けたものと見られる。また、鉄道の通過することによって従来からの徒歩の往来客が減少するとか、桑の栽培とか稲作に被害などの関係から地元民の要望、反対もあったので、現在の場所を通過することになったとも言われている。 この鉄道の便から遠ざかった三本木は、汽車に乗るためには当時小牛田とか松島の駅まで出ねばならなかったのである。かくて旧道に沿った各宿場町は、衰微の一途を辿った。特に川の運輸の便を失った三本木などは、その代表的なものであった。古川市 古川市史第4巻(平成19年)から なぜ、東北線は古川を通らなかったのか。東北線から外れた理由は何だったのだろうか。地元民の反対の声が強かったためとも言われるが定かではない。(中略)各地の鉄道反対の声(中略)の多くは、鉄道の便利であることは認めつつも、自分のところだけはいやだといったもので、口から口に伝えられるに過ぎないものが大部分であった。 東北線のルート決定に当たっては、明治13年(1880年)12月開拓使傭ジョセフ・クロフォードが松本荘一郎とともに東京-青森間を測量したが、それによると、一関-仙台間は現在の路線と同じである。このことから、古川は当初から外れていたとも推定されるが、これより古い図面には古川を通る路線が書き込まれたものもあったとされ、詳細は不明である。 ルート決定の基準として、(1)東京と野蒜(後に塩竈)、八戸の各港を結び、更には青森港に達する、(2)街道沿いの人口の多い都市(東北地方の内陸部)を結ぶ、(3)急勾配はやむを得ないが、トンネルはなるべく避ける、の3点があった。路線が古川などの国道から離れ、東側を通ることになったのは、やはり国道筋の反対と仙台-塩竈間を本線としたためかも知れない。(この後、本線との連結が課題となる。明治27年石巻鉄道株式会社の設立申請があり、石巻-小牛田-古川-鍛冶屋沢(川渡)の開通をめざした。明治30年に測量、31年に免許下付もされたが、結局実現できず。後の陸羽東線まで待つことに。〔この部分おだずまジャーナル要約〕)------------以上がルートから外れた地域の「正史」であり、現代から振り返って、やはり残念だったという色がどうしても濃い。涌谷が原案ではルートだったのに反対論で変更した、というのは、真相ではなく、やっぱり強がりから来る言い訳なのだろう。東北線が走った後には各地で横断線の熱意が上がっていることから、よく理由とされる鉄道反対論も、当時にどれだけ人々が信じていたのかと考えると、相当疑わしいと思う。ただ、実際に鉄道が走る前の段階では、見たこともない黒船に疑心暗鬼だったろうことは、考えられる。ある程度は、反対論があって、多少なりともルート選定に影響したのかも知れない。もし古川が商工界挙って出資も増強し政治運動などすれば小牛田ルートから変更されたかも知れぬ、という消極的な意味での影響だが。それにしても、古川、築館が東北本線で結ばれている県土を想像してみる。例えば、泉区や富谷の大型団地も今ほどでなかったかも知れない、などと。■関連する過去の記事(東北本線ルートなど) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 仙台駅の予定地(その7)(10年9月6日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 仙台駅の位置について(その6)(09年10月21日) 仙台駅の位置について(再び)(09年3月10日) 仙台駅の位置について(その4)(07年8月16日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 仙台駅の位置について・続々(06年7月15日) 仙台駅のはなし・続(06年7月11日) 仙台駅のはなし(06年7月10日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)■関連する過去の記事(県北部の駅) 我らが準秘境駅 梅ヶ沢駅(2011年8月14日) 小牛田駅前 20時(08年5月10日) エリアスタディ鹿島台駅東口(08年5月5日)
2011.08.24
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昨日に続き、宮城県内の災害を知らせる地名の話を。太宰先生の本を読みながら。(太宰幸子『地名に込められた伝言 災害・崩壊・津波地名解』彩流社、2013年)■昨日の記事 仙台・泉区の赤生津を考える(2013年10月14日)水害を知らせる地名としては、昨日記した赤生津や荒川などのほか、袋、郎丸が関連する。また、ウメ(梅田など)、カケ(欠、懸、柿など)、カメ(亀田など)、ヨネ(米川、米山など)、ツル(鶴巻、鶴巣など)も水害を受けやすい地を示している。崖崩れなどの災害を知らせる地名としては、クリ(栗生、栗木など)、アザブ・アオソ(麻布、青麻)、小豆、倉(大倉、沼倉)、サクラ(佐倉)、シロ、放れ、竹(竹谷など)、貫(平貫など)、萩(萩野など)が関連する。いずれも、崩れる、荒れる、取れるなどの言葉から生まれたものとされる。中でも興味を引いたのが、「猿」である。サルは、古語のザレ(礫)の転訛で、山の崩れて欠け落ちた所や岩の崩れることをいう。地名の例として挙げられているのが「猿田」で比較的多い地名とのことだ。同書に説明されているものでは、○ 猿田(石巻市北村)(平成15年宮城県北部地震で被災)○ 猿田(角田市)(地元ではサンダと呼ばれる。猿田溜池がある。昭和61年8.5豪雨で地滑り。○ 猿跳(さるぱね、丸森町)○ 猿鼻(さるはな、蔵王町)ハナは地形が出っ張っていること。住所表記は町尻。東に猿頭の地名があり、ザレの始まりの地だろう。もう一つある。この読み方が興味深い。○ 猿田(ねこた、蔵王町)地元では「去る」で縁起が悪いので猫にしたと伝わる。猿田と書いてネコタと読ませるのだから面白い。松川と薮川の合流地点で、猿が来て田植えを手伝ったという伝説があるが、川が崖を曲流していて、古くから崩れていたのではないかという。また、ネコは山の麓や山の根方を意味し、ここも山の際に位置している。私も地図を見てみた。蔵王町の宮地区の小字に猿田があり、読みはやっぱりネコのようだ。
2013.10.15
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朝日新聞に出ていたが、会津若松の鶴ケ城の瓦のふき替えのため、2体の鯱(しゃちほこ)が取り外された。天守閣が1965年再建された際、工事を手掛けたハザマが贈ったもので、当時の価格で1千数百万円という。瞳は2カラットのダイヤで、金箔や銀箔をほどこした豪華なモノ。しかし、なぜここまで豪華なものを寄贈したのか、今となっては同社も市も「わからない」そうだ。 朝日は、ミステリーを扱うかのようなタッチだが、河北新報は「請け負った建設会社の社長が寄贈した」とアッサリ。ダイヤの瞳のことも触れていない。この鯱は、19日から公開するという。地上37メートルで45年間、ダイヤの瞳は城下を眺めてきた訳だ。ところで、今回の天守閣の瓦の葺き替えだが、幕末当時のような赤瓦にするそうだ。寒さで割れるのを防ぐ上薬を塗ったもの。改修費は4億3千万円だが、10万枚の赤瓦に寄附者の名前を書き入れるとして、一口2千円の寄附を募るという。11月末まで、一枚の瓦に5人まで名前を書けるという。誰の発案なのか、なかなか面白いアイディアと思う。
2010.06.11
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仙台弁の代表とも言えるのがコレ。「んざねはぐ」は物事に骨が折れて難儀すること、という意味だろう。私は岩手県の旧仙台藩領で生まれだが、地元でも使われていた。音としては「うざねはぐ」が近いように思うが、「う」か「ん」かその中間音か、よくわからない。ところが盛岡では使わないのだという。代わりに「へっちょはぐ」「せっちょはぐ」と表現し、三戸郡や九戸郡では「うざねはぐ」が通じるという。ちなみに、怠けることを仙台では「かばねやむ」というが、盛岡は「せっこぐ」というそうだ(盛岡タイムス記事)。さて、その「ん(う)ざねはぐ」の語源だ。諸説あるようだ。(1)沼地や海岸で泥地を渉るのに用いた「うざに」と称する幅の広い一種の木製下駄(田下駄)があった。これで泥の上を歩行はできるが極めて難渋するので、難儀することを「うざにはく」と言った。(2)前九年の役の頃源の頼義義家親子が安倍頼時貞任を討伐した際に、「うざに」を履いて深雪の奥羽の山野を難儀して越えたことから。(3)身実(うさね)を吐く、すなわち己の精魂を出し尽くすの意(藤原相之助氏:過去の日記)。(4)浜荻の「うざね」の解(喉仏の骨)から、喉仏を吐くこと、すなわち骨を折ると同類の比喩的表現(小林好日博士)。(編集部注:浜荻のうざねの意味がわからなかったが、例えば南部弁で喉仏を「うざね」というようだ。青森県資料)(5)憂さ音(うさね)吐く、の意味。■出典 菊地勝之助『仙台事物起原考〔再編復刻版〕』1995年、株式会社ヨークベニマル(原著は昭和39年発行(郵辨社)。復刻はヨークベニマル仙台古内店開設記念の非売品)なおこの本では「うざにはく」として解説されています。
2007.09.05
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津軽の名は東北の最古の地名の一つ。斉明天皇元年(655年)に「津刈蝦夷」で初見。最も遠くにいた蝦夷として扱われる。平安時代には「津軽」と書かれる。鎌倉幕府のもとでいくつかの群に分かれていたようだが、江戸初期に初めて陸奥国の津軽郡とされる。ツガルの語源は諸説。水に「漬かる」所という説。本州の果ての「尽きる」所という説。この2つが有力だが、まだハッキリしていない。十三湖、十三湊は、日本海と湖の間の狭い水路を、と(門)さ(狭い)と表して、十三(とさ)の字をあて、また「じゅうさん」とも読ませたとみられる。(吉田茂樹『図解雑学 日本の地名』ナツメ社、2005年 4-8163-3869-1)■関連する過去の記事 「むつ」の語源(07年8月27日) 津軽の名の意味(07年4月6日) 津軽とジャパン(06年8月28日)
2007.12.12
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岩出山から真坂を経て岩ヶ崎に至る道は、古くは松山道(まつやまみち)、江戸時代からは上街道(かみかいどう)として知られ、さらに金成を通って一関に結んでいた。奥州街道の脇街道として馴染みが薄いが、古代東北経営の要路として奥州藤原氏が利用した道が、はしなくも源頼朝の奥州征伐の通る道となり、下っては芭蕉の歩いた道ともなった。この松山道・上街道は、古代律令国家の東北経営に当たって、8世紀前半につくられた多賀城を基点に北に延びるルートであった。9世紀初頭にかけて胆沢城・志波城に前線基地が設営され、多賀城と結ぶ道が必要となった。その道が奥羽山脈東沿いを通る松山道であった。松山とは道の両側に松並木が数多く存在したことから平安時代に呼称されたようで、一方の上街道は平野を通る道に対し山沿いを通ることから呼ばれたと思われる。■吉岡一男『宮城の鉄道物語-宮城の街道物語-』宝文堂、1987年■関連する過去の記事(松山街道) 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日)■関連する過去の記事(東北の街道通史) 東北の道 概説(その4・完 近世)(2010年10月24日) 東北の道 概説(その3 中世)(2010年10月24日) 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(2010年10月24日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日)
2011.09.16
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一家で山形から行楽の帰りに、どっかで夕食をとるかという話になり、286号線沿い西多賀あたりの「半田家」(注:漢字です。)かその脇の「びっくりドンキー」にするか、車内でモメました。私は当然はんだや派。しかるに子どもたちが妻に賛成し、父親あっさり敗北。ちょっと前までは必ず父親に付いたはずなのに...それはともかくとして、妻が言うには、びっくりドンキーははんだやグループに入っているというのです。エッ本当か? 「きらら寿司」がはんだやなのは知っているが。私も仙台の多くの「元」若者と同様(?)、はんだやで育ちました。私の「はんだや」人生は、社会人になってから。学生時代は自分でコメを炊くのが安いし時間も柔軟だから、ほとんどお世話になりませんでした(徹夜明けの青葉通り「吉野家」にはよく行ったけど)。平成になる前後の頃だと思うが、国分町にも小さな「はんだや」があって、朝食はそこでご飯とカリカリの目玉焼きを食べたこともあります。これぞ仙台のシティライフと勝手に胸を張り、ゲーテに敬意を表しながら。2年ほど前、宇都宮に住む大学時代の友人から「漢字のファミレスタイプで宇都宮に出来たが、あの仙台のはんだやか」とメール連絡がありました。はんだやの現在の全国展開はすごいですね。さて、問題の「はんだや」と「びっくりドンキー」の関係です。確かに、はんだやのHP見ますと、会社概要に「ドンキー4店舗」とあります。ドンキーの運営会社は株式会社アレフですが(ドンキーの食事に出てくる竹箸の袋に社名が書いている)、主取引先にも「(株)アレフ」とあります。「びっくりドンキー」は札幌が発祥のハンバーグレストランで、今や全国に127店舗(直営112,FC161)あるそうですが((株)アレフHPによる)、そのFC展開の一部(4店舗)を株式会社半田屋が担っているようです。全然関係ないのですが、関西では「王将」が有名だそうで、学生や若者はみんな「王将」でメシを食うんだ、関西で王将に行かないヤツおらへん、と自慢する大阪の友人に連れられて関西の3泊4日くらいの楽しい旅行をした時、京都市内でだったと思いますが、ついに念願の「王将」に入りました。もう15年くらい前です。餃子を中心にしたメシ屋さんですね。何を食ったか覚えていませんが、インドネシア人のSが醤油の瓶をこぼしたのを何故か覚えています(留学生を交えて多民族混成チームで行った楽しい夏休み旅行。あのメンバー仙台にも来てくれた)。あの「王将」、仙台で言えば、もちろん「はんだや」ですね。東北の外食産業(一昔前は「中食」産業と言われた分野ですね。)で元気なものを勝手に挙げますと、 幸楽苑(前の「会津っぽ」、東証一部銘柄指定) カルラ(まるまつ、すし兵衛) アミノ(うまい鮨勘)でしょうか。がんばれ、はんだや。がんばれ東北の企業。
2006.01.21
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昨日も記したが、下北に突然姿を現したシカの話題に関心を抱いた。ラジオで聴いた話なのだが、地元の新聞にも随分と出たようだ。わが宮城では、イノシシが急に北上し出したというし、大崎市ではカンガルーも飛び出した。地球環境の変化、いや政権交代の異変に動物たちも気づいたのか。朝日新聞地方版の複数の記事から要点を拾う(構成と論理補正は当ジャーナル)。----------1 シカの出没青森県で絶滅したとされるニホンジカが、下北地域の5市町村で目撃されている。始まりは08年3月、むつ市大畑町のあすなろ保育園で、保育士がカメラに収めた。4月には、大間町大間、東通村蒲野沢で別のシカが撮影された。10月には、風間浦村、佐井村、大間町などで、同一個体と見られるが春とは違うシカが出没。また、同月は八戸市にも出没し、水路に迷い込み、救出後に死亡し、焼却処分された。いずれも若いオス。今年8月にはむつ市で2歳のオスが捕獲された。北里大獣医学部(十和田市)でDNA分析したところ、北海道のシカに近く、岩手のシカとは違うDNA配列だった。この2年間の目撃情報は15件に上るが、下北半島北部で目撃されたシカは、八戸市などの個体よりも比較的大型のようだ。エゾシカはホンシュウジカよりもやや大きい。むつ市のシカも、DNA配列からエゾシカの可能性が高いが、解剖では消化管に寄生虫が少なく、飼育されていた疑いも捨てきれないという。シカはどこから来たか。岩手県からホンシュウジカが北上したとの説、飼育されていたシカが逃げ出した説もあるが、北海道から海峡を泳いで渡ったとの見方もされている。2 北海道から泳いで渡来したとの見方北海道では、渡島半島でエゾシカ分布が拡大し、数年前からシカ猟を解禁している。特に函館市恵山周辺や知内町などで増加しているという。温暖化によりホンシュウジカが太平洋側で分布域を広げ、北上しているという見方は理解しやすいが、北海道のエゾシカが果たして津軽海峡を泳いで渡来するだろうか。しかし、最近の目撃例こそ確認されていないものの、下北では古来、シカが海を泳ぐことが知られていた。シカが持つ反芻胃が浮袋となって浮力を維持するらしく、また首が長い分、泳ぐには有利かも知れない。松前で山火事があったときに渡った、また、前のシカの尻に首を乗せ、交互に先頭を代えて泳ぐなど、エゾシカの渡りは今でも下北に伝えられている。「奥隅奇譚」「宇曽利百話」など古い書物にも、シカが海洋を渡る記述がある。村林源助「原始謾筆風土年表」には、1807年、「榎山(えさん)灘より渡れるや野牛海より来たりしか。砂鉄山より見たりしは鹿渡りと云える一連なるべし。初めの一匹は頭を上げ、残るは幾匹ならん。七、八丈(二十数メートル)にも見え……」とある。三内丸山など県内の多くの縄文遺跡からシカの骨で作った釣り針が出土し、江戸時代に県内を旅した紀行家、菅江真澄は各地でシカの鳴き声を聞いている。その後、青森では明治初期のわずかな期間にシカやイノシシを絶滅させてしまった。シカが渡島半島の西側から泳ぎ始めれば、下北半島の長い西海岸が海流を受けとめる位置にある。集落はまばらで、人知れず上陸していた可能性は否定できない。3 岩手県から北上したとの見方ホンシュウジカが北上したという見方に関しては、北限とされる岩手県の五葉山をすでに越え、北上高地全域に分布を拡大していると見られている。県境を接する二戸市や洋野町でも目撃例があるという。温暖化と無縁ではなかろう。かつて青森を含む東北地方に広く生息したが、明治以降の乱獲と豪雪で激減。有蹄類は脚の関節以上の積雪で、著しく活動を制限される。しかし、雪解けが早まることで死亡率は低くなった。暖冬で雪の少なくなった太平洋側をシカたちが北へ向かっているのかも知れない。同じ偶蹄目のイノシシも現在、宮城県を北進中だ。4 飼育されたシカとの見方かつて全国各地で養鹿場が開かれたが、下北地域には施設はなく、シカなどの動物を飼っていた観光牧場も30年前に閉鎖された。ニホンジカの寿命は長くても20年前後で、少数が世代交代を繰り返しているとも考えにくい。だが、今回のシカは、各地で写真に収められるなど、人慣れしている雰囲気もある。狩猟期間中にシカを捕獲し飼育しても、規制の対象にはならない。仮に飼育していたシカが逃げ出した場合、そのシカはホンシュウジカとは限らず、交雑も心配される。県内ではエゾシカなどを移入し、飼うケースが少なくない。5 今後の展望ニホンジカは青森を挟んで、北海道と岩手で数を増やしている。新天地を求めて今年も出没を繰り返すのか、それとも実は飼育されていたシカなのか。また、この三つの可能性が複合しているとも指摘されているる。近年のDNA研究により、ニホンジカは北海道から兵庫県までの北日本グループと、以西の南日本グループに二分されることがわかってきた。ホンシュウジカとエゾシカは別亜種とされるが、ミトコンドリアDNAによる系統解析では、予想に反して、ブラキストン線の北と南で大きな違いはなかったという。遺伝学的には津軽海峡は境界ではないのだ。さらに、DNA分析では、ニホンザルやツキノワグマも列島の南北でグループが分かれていたことが明らかになっている。哺乳類3種が、ほぼ同じ時代に分化したが、そのうちのシカだけが北海道に分布し、サルとツキノワグマはブラキストン線以南の本州にだけ生息している。シカは海峡を行き来したが、サルとクマは渡れなかったというわけだ。太古の昔、シカの祖先は果敢に海へ泳ぎ出したのかも知れない。83年に本州最北端の大間町で捕獲され、現在展示されているシカの剥製について、皮膚の一部をPCR法でDNA検出可能な量にまで増幅し、正体の解明が試みられている。次の焦点は雌の確認だ。シカは若いオスが単独で出没を繰り返し、その後、メスの群れが定着するという。メスが目撃されると、繁殖が懸念される。大雪と狩猟で絶滅した種の再定着という見方もできる一方で、各地でシカによる食害が拡大し、増殖のスピードに対策が追いつかないというのが実情だ。県内でもシカが増える可能性は高く、保護管理を考えるべき時代になる可能性もある。----------
2009.12.30
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今日の仙台も猛暑だ。35度を下まわると穏やかに感じるほど異変の夏だ。そんな昼下がり、水の森の丘に佇む、明治15年コレラ流行の死者をまつる塚を訪れてきた。■関連する過去の記事 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日)(そのほかの関連記事は最後にまとめて記しています。)はじめて、水の森市民センターにお邪魔する。プールや児童館も併設され、夏休みの子どもたちも来ているようだ。明治のコレラや碑について、ホールに何も解説などはなかった。この市民センターは水の森公園のちょうど南端に位置する(昭和の頃はスケートリンクがあったと思う)。館を出て市道沿いの敷地の南角が、広い公園全体の南端であり、公園内の長い園路の出発点がある。車止めがされ、林の中に進んでいく散策路なのだが、そもそも古くは秀衡街道(別名を古街道、義経街道)と呼ばれ、伊達政宗公が七北田を通る新街道と七北田宿を整備するまでは重要な街道だった。江戸時代は新街道の大名行列を避けるため、そして戦前は難を逃れるため、戦後は買い出しや病院通いのため、人々は秀衡街道を往来した。(仙台市サイトの解説)(秀衡街道に関する当ジャーナルの過去記事は、最後に整理しています。)そんな秀衡街道だが、この辺は明治の頃は相当寂しく暗い峠だったろう。下の地図の赤い印の場所が、叢塚の場所だ。さっそく、散策路を進んでいく。阿曽沼先生の言うとおり(上記の前回記事です)、150歩ほど北進すると左手に叢塚が現れた。碑文は三面にわたって刻まれている(写真は一面のみ)。解読文は前回記事のとおりだが、目にすると、仙台に現実に起きた災禍の重みと、碑を建てて後世に伝えた意気に押される。(↑左が市民センター。市道から入っていく散策路の入口。往時の秀衡街道だ)(↑碑の左面の刻文)さらに緩やかに上り坂を進んでいくと、すぐに三叉路に出る。なお、東西の二本に分かれる散策路は、三共堤の外周をまわり、北のキャンプ場で合流するのだ。東(北に向かって右)に延びる園路が秀衡街道だろう。この三叉路の山側(北)斜面に、上部が欠けた自然石の「焼場供養塔」(コレラ塔)がある。276人の供養碑だ。吉岡方面からやってきて秀衡街道を仙台に向かう人は、この峠を経て、現在の荒巻小学校の方向へ降りて行ったのだろう。コレラ供養塔のある三叉路からは、住宅が密集する東勝山の風景を見下ろせる。秀衡街道を引き返して、市道から公園の散策路に入る地点に戻る。(↑秀衡街道が荒巻方面に下っていく。尾根沿いの山道だったろうが、今では陸橋だ)(↑同じ陸橋部分を、散策路入口地点から。市内中心部のドコモビルが見える)(↑公園散策路入口地点から、西側住宅地を望む。桜ヶ丘や中山か)(↑北に向かう市道は坂道を下っていく。右側が市民センター)(↑水の森市民センター。右側の園庭の奥の法面の上が散策路だ)■関連する過去の記事(仙台・宮城と感染症) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)■関連する過去の記事(疫病や感染症に関する民俗) 世界に誇る東北の郷土芸能(西馬音内盆踊り、鬼剣舞など)(2022年12月14日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日) 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 魔よけと東北を考える(08年2月10日)■関連する過去の記事(秀衡街道などに関して) 北根と七北田街道(2011年10月24日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 中山道を考える(再び)(09年11月23日) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)(奥州街道について) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日)(根白石街道) 中山道のむかし(09年3月23日)(根白石街道) セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日)■(参考)関連する過去の記事(奇祭など。ほかにも過去記事ありそうですが) ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) 中新田火伏せの虎舞(2013年4月29日) ハンコタンナと覆面風俗(2015年2月1日) 塩竈の「ざっとな」(2011年2月27日) 奇祭 鶴岡化けもの祭(2011年1月3日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)(弘前市鬼沢) 岩木山信仰とモヤ山(2022年5月30日)■(参考)関連する過去の記事(来訪神などに関するもの) 西馬音内の盆踊り(2012年8月5日) ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性(2022年5月29日) 秋田美人を考える(再)(2022年5月11日) 日本三大美人と秋田(2016年1月31日) 小野小町(2011年7月23日) 秘密結社とナマハゲ(2011年6月4日) 海の民、山の民(2010年12月25日) 秋田美人を考える(2010年12月23日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日) なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日) 秋田なまはげは秘密結社か(07年8月13日)
2023.08.03
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■高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン」 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収■同書に基づく記事シリーズ・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その2 馬籠村)(2024年09月03日)・今回 東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(2024年09月10日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟)(2024年09月13日)■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)〔前回から続く〕4 大籠地域とキリシタン4-1 千早東山 新聞報道された大津保村の一部、大籠は多くの殉教者を出した。大籠を巡検した東北大学教授村岡氏がまとめたのが、村岡典嗣『仙臺以北に於ける吉利支丹遺跡ー伝説と史実』(改造社、1928年)である。村岡氏が情報を得た儒学者の千早多聞は、父親が千早東山といい、人名辞典によると、「磐井郡奥山村の人で、江戸に出て山地蕉窓の養子となり、儒学者として幕府に仕える。安政の頃故郷に戻り隠遁する。」とある。東山は故郷愛が深く村民に非常に慕われ、明治34年に80際で亡くなる。 東山の著書には『大籠往来』と『大籠神明記』、他に『裁増坊物語抄録』がある。この3つを手にした村岡は「これでもう大籠のことはすべてわかったような気がした」と書いている。ただし、『裁増坊物語抄録』は現代人の視点で読むと荒唐無稽と一笑に付されてもやむを得ない。「裁増坊」とは大籠村の百姓で1613年(慶長17)に生まれ、1750年(寛延3)まで地域に生存し、高野山には7度参詣し、93歳から剃髪して裁増坊と称し、130歳まで生きたとある。とすると1792年(元文2)まで生きたことになる。伊達政宗に故郷大籠の地誌などを話したという内容が記されている。村岡氏の論文にはその一部が引用してあるが、栽〔ママ〕増坊は「大籠の地は自然に恵まれ、まるで桃源郷にいるように、心安らかに暮らしている」と話している。現在、大籠に伝わる人名地名などの口伝や伝承に鑑みると、全くの妄想話として切り捨てがたい内容であり、『裁増坊物語抄録』の記述が信頼できるかどうかは別として大きな影響を与えた。 現在大籠の遺跡、遺物として目の当たりにできるのは、大籠の仙人ともいうべき千早東山の故郷愛の記述に基づく作品が、村岡氏によって発掘されたことによる。4-2 石母田文書 その後、村岡氏は大槻文彦著の支倉常長の遣欧使節について書かれている「金城秘韞補遺」に掲載されていた「石母田文書」と出会う。栗原郡高清水町の石母田家に切支丹関係の文書があることを知り、石母田家の家老土田甲平氏を訪ねる。大長持67個に入っていた文書は火災に遭い、小長持に大小23、4束しか残っていなかった。同伴した研究室の大森、重森文学士と共に、二日にわたって調査した結果、キリシタン関係の文書が断片的なものも合わせて約46通見つかった。 石母田家は元和、寛永の頃、仙台藩江戸詰奉行で政宗の右腕と言われた石母田大膳亮宗頼の家である。膨大な文書を前に村岡氏を奮い立たせたのは、大籠で俗称「塔婆」と呼ばれる地域に1640年(寛永17)の殉教後62年後の1701年(元禄14)に建てられたと伝えられる供養塔「元禄の碑」だった。建立者の氏名が1712年(正徳2)大籠村宗門御改帖に記載されていたのである。地域に口伝えで伝わった石碑は単なる供養塔でなく、殉教者の墓石であった。遺跡と文書が一致したことで、口承の碑であっても、信ずべき検証者であることを知った。以上の資料を精査、実地踏査した村岡氏は仙台切支丹史をまとめようとしていると記している。4-3 製鉄とキリシタン 葛西氏滅亡後、旧家臣団は結束して、この地方の特産である砂鉄精錬に注目した。天文年中(1550年頃)まで奥羽地方に鐵の烔屋がなく、千葉土佐・佐藤但馬が備中に行って製鐵法を学んできたが結果がよくなく、1558年(永禄1)、布留大八郎・小八郎兄弟(千松地域に在住し後に姓を千松と改める)を呼び寄せて効率の良い鐵の製錬を行った。その結果、烔屋も増え、はじめは北上川河口(旧追波川)で製錬し、寛永年中(1624年頃から)に飛騨・勘座衛門・駒吉・越中の4人は狼河原に居住して製鐵を行っていた。 大籠では背の沢(千松沢)から烔屋が始まって八人衆と言われる指導者も生まれて次第に量産していく。鉄砲・武器・農具を生産し、問屋に卸していた。『藤沢町史』によると多くは生活必需品である鍬、鎌、鍋、釜、鉄瓶などを生産している。特に農機具は需要が多かったようだ。烔屋八人衆とは、千葉土佐、首藤伊豆、須藤相模、佐藤淡路、佐藤治、佐藤丹波、佐藤肥後、沼倉伊賀である。この中の多くは葛西氏の旧家臣で馬籠の佐藤家の血縁の者だった。千葉土佐を除いた7人はキリシタンとして成敗されている。 「安永風土記書出し」(仙台藩では1773年(安永2)江刺郡から始まった地誌)によると、大籠村の人頭数は114人、保呂波村は151人、藤沢村303人だったので、昭和26年2月の新聞見出し「長崎を凌いだ仙台藩の切支丹」「使徒3万人」は信徒の実数ではない。 1612年(慶長17)、家康が初めてキリシタン禁教令を発し、1613年には江戸でキリシタン狩りが始まった。登録されていた3700人のうち1500人が小伝馬町に送られたが、殆どの者は転んだり、取り締りの緩い奥羽地方の金銀山・鉱山に逃亡した。多くがヤマに逃げ込んだのは、家康が金銀を獲得するため、幕府の直轄地として保護政策「御山五十三条之事」をとったことが要因でした。鉱山に入っている者についての取り調べは不問にするという治外法権が認められ、ある意味安住の地になったのが都合よかった。鉱山の生産様式は基本的に採鉱部門と製錬部門に分かれ、例えば採鉱部門は、鉱脈の探索、試掘、開坑、その後鉱石を採取して坑外に運搬するまでの作業があり、大規模な労働力が集まって一つの町が形成される。佐渡鉄山の最盛期には10万人近く集まっていた。このように多くの労働力を調達するため、外来者は条件なしに受け入れた。仙台藩のみでなく、当時の支配者にとって自国の財原となる鉱山経営のために、鉱山技術者の導入も必然だった。なかには、共同体から脱落した者、遁走した武士、水のみ百姓が雇用され、鉱夫たちの階級が自然に形成された。 キリシタン鉱夫は他と違い強い絆が必要だった。それまでも日本のキリシタンの組織として、「組」「結」と呼ばれる組織(コンフェリア)をもっており、フランシスコ会では「帯の組」、イエズス会の場合は「さんたまりやの御組」(マリヤ会)を結成して団結した。鉱山では、それぞれの立場で身の安全を保つ工夫をしていたのだ。 1617年(元和3)年頃の統計では、佐竹藩の院内鉱山の人々は、他国から入っている者の割合が非常に多かったが、仙台大橋袂の広瀬川殉教碑の殉教者と出身をみても、全員がそれぞれ違う国の出身。また、姓の有無で分かるように武士や農民、身分に関わりなく幾筋にも分かれた坑道に隠れていた。カルワリオ神父が捕縛された颪江(おろせ)鉱山(その後渋民鉱山に改名、現在ダムの一部)は、仙台領と佐竹領の境界付近で、カルワリオ神父が秋田へ向かう布教ルートにある鉱山。この時60余人が生活を共にしていた。神父が懇意にしている居者が、柏峠付近にいたと思われる。 鉄鉱石に恵まれた旧大津保村のたたら製鉄の烔屋跡を流れる川は、いつも赤かったと言われていて、現在も赤く染まった川石があり、流れる水は茶色に染まっている。付近を流れる砂鉄川では川底を掬うといまだに砂鉄が採れる。この地域に他国のキリシタンや宣教師が入り込んでいても不思議ではない。 千松大八郎・小八郎兄弟が切支丹で、表向きは烔工として布教に努めたという説があるが定かではない。千松兄弟のキリシタンに関わる文書はない。炯屋八人衆の千葉土佐の子孫千葉哲夫氏の屋敷続きの畑の中にある墓群の一番奥に二代目千葉土佐の墓石がある。墓碑には「寛永一八年八月七日、栄寿院顕阿広俊道寛居士 八月七日 千葉土佐 九十七」とあり、側面に「父 狼河原村月山之住累徳曰 母 長坂太郎息女也」とあり、墓の裏面に由緒が刻字されてある。「当国御鐵方根元之始也永禄年中、大綱様御用鉄並東照宮権現公御城御用鉄指上候、当国御両御城御用鉄甚御重宝都而御国用不及申鍬打方上分ニ而菊一菊上天下一与銘目御免之上貞山公ヨリ奥州御鉄方長之家也与有御意末世御鉄繁昌之大祖也」と刻まれ、大籠で採れた鉄は、太閤様や東照宮の権現様に奉納し、最高の鉄製品であったと称賛している。初代千葉土佐は、葛西氏滅亡後、初め歌津村に逃げたが、その後東和町東上沢の月山に居住し製鉄に没頭した。この時41歳、二代目土佐は14歳だった。この後二代目土佐は大籠村に転住。千葉家の屋敷墓は、二代目千葉土佐の墓が一番奥にあり、その前方に千葉土佐の子孫の墓が雑然と置かれる。墓の頭部にキリシタンのマーク(一、1、卍、釣り針)があるので、何代かにわたりキリシタンであったことが推測される。二代目千葉土佐の墓石の上部には「一」とある。初代の千葉土佐も製鉄を行っていたが、南蛮流ではなかったようだ。 この地域の鉄で農機具がたくさん作られた。「藤沢町問屋及川勘助の取引」の記録によると、天明8年の8月から9月の生産者は保呂羽の3人で賄い、寛政元年には生産者が6人に増えて、岩屋堂や江刺、最上とも取引をしている。天明と寛政の鍬取引数は、4374枚にも及んだ。多くの工人が大籠に入り製鉄を行ったことを物語る。保呂羽の領主の屋敷墓は、後ろに山を背負った一段高い奥に代々の領主の大きな墓石があり、40センチほど下の段に、取り囲むように小さい墓石がある。この屋敷のご当主によると、先祖がいくつか炯屋を持っており、小さい墓石はそこの工人たちの墓だと考えているということであった。この墓の中にもやはりキリシタンのマークがある。大籠地域の屋敷墓には、墓石の法名の上部にキリシタンのマーク、「卍」「一」「心」を多く見かける。■関連する過去の記事(田束山) 田束山(2023年05月30日)■関連する過去の記事(登米市関係) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 気仙沼線・BRTを体験する(2024年05月05日) 香林寺(登米市)(2024年05月02日) 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)=組合立だった米谷工業高校 ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) ネフスキーと登米(2022年11月9日) 北上川の移流霧(2021年5月22日) 登米の警察資料館(2015年5月24日) 中江その通り(2015年5月1日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日) 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 柳津と横山 名所も並ぶ(07年10月26日)
2024.09.10
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先日登米市内を走っているとカーナビに「本吉街道」と表示が出た。帰宅してから道路地図を見てみると、栗原市若柳や登米市石森を経由して、米谷から水界峠を経て志津川に至る道に本吉街道と付記されている。少し詳しくいうと、次のようだ。(1)まず、国道4号の栗原市沢辺地区から、三迫川沿いに下流に下り若柳の川北に至る。この区間は、現在の県道4号(中田栗駒線)の南に並行する感じで川沿いに繋がっている。沢辺町の集落や大林地区の街村をつなぐ。かつての栗原電鉄が寄り添って走っていた。(2)次に、若柳(川北)からは現在の県道4号(中田栗駒線)で、東北本線石越駅の南を通り、登米市役所石越支所付近を経由して、登米市石森の中心部を経て国道346号に出る。(3)交差点を渡る(国道346号をクロス)と、道は国道398号になり、浅水から米谷大橋を渡って、一路のぼって水界峠(新水界トンネル)をめざし、越えると入谷、志津川に出る。こんな感じだ。県道4号(中田栗駒線)は国道4号の西側にも続いて岩ヶ崎に至るのだが、この道路地図では、国道4号の西の部分には「本吉街道」の語がないから、奥州街道(陸羽街道)から志津川で東浜街道と合流するまでの区間を、本吉街道と呼ぶ趣旨なのだろう。ところが、YAHOO!マップでみてみると、「本吉街道」と付された道は、若柳地区で県道4号を離れ、下の画像のように迫川をこえてまた戻ってくるルートとされている。そして、「本吉街道」の文字は、若柳中心部から西には付されていない。■関連する過去の記事 歴史ある水界トンネル(2012年10月20日)
2024.11.12
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宮城野原に突如形成された仙台の城下町には、大量かつ安定的に食糧を供給するシステムが必要となった。とりわけ動物性タンパク質の最大の摂取源であった魚を運んだのが、2つの道であった。下記文献に詳しく説明があるが、非常に興味深い内容なので、整理して記す。(当ジャーナルで再構成〉■斎藤善之『仙台城下への肴の道』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書42)大崎八幡宮仙台・江戸学実行委員会、2014年1 江戸近郊の場合江戸では、木下(きおろし)街道がそれにあたる。九十九里や鹿島灘で漁獲された魚が、銚子から川舟で利根川を遡り木下河岸(印西市)で陸揚げ、ここから江戸川の行徳新河岸まで約30キロの駄送が木下街道となる。行徳新河岸からは再び船で江戸川を下り日本橋の魚市場に到る。その後、木下河岸のやや上流の布佐(ふさ)河岸を起点と市、松戸の江戸川納屋河岸までを結ぶ約30キロの第二の街道が出現し、松戸街道、通称「鮮魚(なま)街道」(なま道)と呼ばれた。競合する2つの肴の道は、正徳6年(1716)に布佐から松戸までの通し馬(宿場ごとに積み替えずに済む)が幕府から承認されると、鮮魚(生)街道が優勢となる。夕方に銚子を出た鮮魚は、夜明けに布佐河岸に着き、馬に積み替えられ昼前に松戸河岸に到着、船で江戸川を下し、翌朝には日本橋の魚市場に並べられた。これら2つの道は、鉄道が普及する明治30年代まで活用されたと言われる。2 仙台城下町への肴の道仙台の肴の道は、城下町の成立に伴い自然発生的に形成されたらしい。塩竈市宮町・丹野六右衛門家文書によると、遠島(牡鹿半島)で漁獲された生魚は、(文書が書かれた元禄3年)以前は、(1)花淵浜、吉田浜、代ヶ崎浜、東宮浜から大代、(2)蒲生、(3)塩竈のいずれかに自由に運び、そこから仙台に運んで売り捌かれていた。また、東宮浜、吉田浜、菖蒲田浜、花淵浜、松ケ浜、代ヶ崎浜の六ヶ浜の商判紙(あきないはんし)を受けた者(藩公認の商人)、大代と蒲生の茶船持ちの者ども(船持商人)は、以前から地元で漁がない場合は、宮戸島や遠島に出かけて沖買いで調達した魚を自分の浜に水揚げして手馬(自分の馬)に積んで仙台に運んだという。すなわち、流通経路は、(1)七ヶ浜、(2)蒲生、(3)塩竈、の3つに区分される。(1)は大代を経由し、さらに福田町で、(2)蒲生から来た道と合流。城下に向けて進むと、原町で(3)塩竈道と合流して、仙台城下の肴町に向かった。3 状況の変化 - 舟入堀の開削こうした状況に変化が生じたのは、東宮から大代を経て蒲生(七北田川河口)に至る約7キロの御舟入堀の開削である。寛文10年(1670)に着工し、延宝元年(1673)竣工とされる。これにより、それまで蒲沼(がまぬま)と呼ばれた湿地は急速に町場化し蒲生(がもう)と名付けられ、七北田川対岸の南蒲生から集団移住のほか、周辺集落の次三男以下や運河普請の出稼ぎたちも定住し、舟運の要となった。蒲生には藩の御蔵場が設置され、米蔵6棟、塩蔵4棟、御役所2棟、長屋(人足や船方)3棟。米10万俵、塩10万俵が収納できたといい、このことから、御舟入堀は、主として大崎平野の米穀、仙台湾と三陸沿岸産の塩を城下町に輸送するために開削されたと考えられている。蒲生御蔵の御舟入堀側には、「舟溜」(ふなだまり)が東西25間、南北15間の広さで造られ、ヒラタ船が停泊した。御蔵をはさんで反対側には別の船溜まりと七北田川に繋がる高瀬堀が造られ、舟曵堀を経て苦竹御蔵に向かう高瀬船が停泊した。4 貞享特令による塩竈の特権御舟入堀の開削で蒲生が発展した一方で、塩竈は荷物の入港がなくなり、深刻な衰退に見舞われた。このため、藩は塩竈に大幅な経済的優遇策を与える、いわゆる貞享特令を発することとなる。他に例を見ない大幅な経済優遇措置を塩竈町にだけ特別に認めたことから後にこう呼ばれるが、実際の表題は「塩竈村の者どもへ申し渡すべき事」で、塩竈では「お恵み九箇条」とも呼ばれる。その内容は、1.塩竈の物成(年貢)は町人の持ち高に応じて返付する、2.毎年250両を給付するので町人持高に応じて配分せよ、3.小荷駄日市(こにだひいち)の開催を7月10日から8月14日まで許可する、4.見世物芝居の興行を毎年3月と7月に許可(仙台城下は芝居は原則禁止だった)、5.商人荷物・五十集(いさば、海産物)・材木を積んだ船はすべて塩竈に入港して水揚げすること、6.塩竈町人が市川村と山王村に出作する分の物成(年貢)を免除する、7.塩竈町の諸役負担を免除する、8.塩竈町人は鷹巣入江を新田開発してよいこと、9.毎年(毎月か)6度の市の開催を許可、などであった。この第5条は注目すべきで、商人荷物、五十集、材木はすべて塩竈に着岸せよとするが、御舟入堀と蒲生御蔵の主たる輸送品である米雑穀や塩などは含まれず、その後も蒲生・舟曳堀ルートで城下に運ばれたのだろう。一方で、五十集は塩竈が独占することになり、五十集四分問屋(→6参照)が現れて、塩竈から仙台肴町へ至る藩公認の肴の道が出現した。商人荷物も塩竈の独占が守られ、江戸からの下り荷である呉服、太物、古着、綿花、薬、陶器、瀬戸内塩、灘酒などが塩竈にもたらされた。塩竈神社の表坂鳥居前に、仙台城下商人六仲間(藩から独占を認められた特権集団。古手(ママ)、繰綿、木綿、薬種、呉服、小間物)のうち、古着仲間が奉納した常夜灯がある。六仲間は、石巻の御穀船(石巻穀船)が江戸から戻る際に六種の商品を積み込み、塩竈港で水揚げして、仙台城下に運んだ。(→6参照)こうして、衰退の危機にあった塩竈は貞享特令で復活した。特令を発した四代藩主綱村の位牌を祀る東園寺の境内にある「東園寺の碑」は、安永5年(1776)建立されたが慶応3年(1867)塩竈大火で破損、現在の碑は昭和59年建てられた。特令の全文が彫られている。この特令は江戸時代において、塩竈を中心とする領内の五十集の流通システムを確立する、非常に大きな意味を持った(→5参照)。すなわち、大藩ならではの強力な流通統制により、領外との交流を制御し完結した藩の市場圏を作るために、肴の流通においては塩竈が大きな役割を与えられ、また、塩竈もその機能を担うことで繁栄を謳歌したのだった。5 仙台藩独自の流通システム - 丹野六右衛門家の文書丹野六右衛門家は塩竈市宮町、現在はお茶、茶器、和菓子の販売で知られるが、当時は鮮魚と塩干物を扱う五十集問屋であった。上記の仙台藩固有の五十集の流通の制約について記したマニュアルが、丹野家文書「五十集必要」である。以下のような内容。第1条。五十集を輸送する者が添付すべき願書と、出発後50日以内に帰着すべきことが定められた。願書は藩の許可を要し、また、帰着後に願書を点検して日数を超過していれば罰金が科された。当時は、船や牛馬で輸送したが、50日とは領内の往復はできても領外との往復は難しい日数だろう。さらに、仙台肴町で売却したことを証明する仕切状や領収書の保管も求められ、役人(御塩方元締)が時々村々の商人を巡回し抜き打ち検査した。第2条。五十集を相馬原釜方面に海上輸送して商売することを禁じる。領外の商人も、五十集を買い付けて相馬領へ持ち出してはならない。第3条。塩竈で水揚げした五十集は、仙台城下肴町に売ること。勝手に肴町以外に輸送販売してはならない。また、領内各地には肴町から転売すること。第4条。南部産や北方産の五十集でも、一度領内に入れたら原釜相馬方面に再移出してはならない。第5条。領内の五十集を他領に持ち出す時は、仲役(すあいやく、移出入税)を支払えば認めるが、相馬原釜方面はこれも認めない。陸上輸送はこの限りでない。このように、領内の五十集の流通を塩竈と城下肴町にすべて集中させようとしたのである。しかし領内の生産者漁民にとっては、塩竈に売り先が限定されることは不利な取引を余儀なくされた。とりわけ、南方方面は背後に関東の膨大な消費需要がある。隣領の相馬藩最大の港の原釜は、東回り航路を行き交う諸国の廻船を通じて全国市場と繋がっていた。仙台藩が、原釜への移出を厳禁したのは、それだけ領内漁民の要望があったからであった。6 繁栄した塩竈の五十集問屋五十集四分(いさばしぶ)問屋は領内の水揚げを独占し繁栄した。四分とは、売り上げ100文につき4文を藩に納める四分役からきたとされる。領内では当初、塩を扱う御塩問屋と五十集を扱う五十集四分問屋、そして両者の兼営があったが、数が増えたため、享保8年(1723)、藩は五十集四分問屋のみの者に廃業を命じ、御塩問屋と兼営に存続を許可した。これにより御塩問屋を兼帯する5軒が継続した。その後天明3年(1783)には4軒、天保13年(1842)は、6軒。横田善三郎、小松善吉、鈴木平八、塗(ぬり)要右衛門、丹野六右衛門、鈴木甚右衛門。なお、近代以降の各問屋の経緯は以下。・塗芳之助家。古くから五十集問屋で分家も多く、塩竈における勢力は多大。もと鈴木姓だが、藩から塗屋の屋号を拝領。船溜まりの前に家があったが慶応の大火で焼けて衰え、やがて断絶した。東園寺に墓。・横田善三郎家。近代になって魚問屋とともに遠洋漁業にも進出。さらに塩竈倉庫などを経営して、実業家として今に至る。・鈴木慶蔵家。塗屋と親戚関係。かつて福釜酒造店の場所に家があったというが、その後断絶。・鈴木平八家。近代になり材木業を営み今日に至る。・小松善吉家。古くから五十集問屋。かつて三陸方面から船が同家に数多く入港したというが、その後断絶。・丹野六右衛門家。近世の五十集問屋から、近代になり廻船、肥物(こえもの、魚肥)取引に拡大。戦後は和菓子製造、茶舗となり丹六園の名で今日に至る。維新で五十集四分問屋の制度もなくなるが、直前の明治2年11月、6軒の連名で魚せり場の設置を県に願い出ており(丹野家文書)、塩竈の水揚げ拠点機能は、近代の塩竈魚市場に繋がっていった。7 七ヶ浜道の復権貞享特令の5年後、元禄3年(1690)に、遠島(牡鹿半島)と七ヶ浜の者たちが訴えを起こした。塩竈港への五十集の一極集中が、水揚げと仙台への売り込みで生計を立てた七ヶ浜を困窮させ、また、遠島の生産者も、それまで自由に水揚げする浜を選んでいたのに、日和や潮時により塩竈に入港できない時は生魚の売り時を逃してしまうと不満を募らせたのである。この訴えに対し、次のような裁定となった。・3月から8月まで、かつ生魚に限り、仙台直送分は七ヶ浜に自由に水揚げしてよい・干魚や塩魚は従来通り塩竈に限定・七ヶ浜及び塩竈の者が自分の船で漁をして自分の浜に持ち帰った分は水揚げを認めるこうして、限定的ながら七ヶ浜への水揚げが認められ、第2の肴の道である七ヶ浜道が出現した。8 その後の二つの道の競合資料によると(丹野家文書)、享保4年(1719)2月付で蒲生御番所役人が原町検段に対して異議を申し立てている。蒲生の役人が保証して蒲生商人が仙台向けの肴荷物を送りだしたのに、途中の原町検段が止め置いたことから、速やかに調査を求めたものである。差し止めた理由は、貞享特令により生肴の仙台直送が解禁される3月1日の前であること、また、荷が塩赤魚であったが、塩魚であれば塩竈以外の水揚げは許されず、蒲生から直送はできないのである。塩竈町検段から、御定(貞享特令)に抵触すると申し立てて、原町検段を支持している。赤魚は上巳の節句(3月3日)で城下町の武家や町家の食膳に需要があったと考えられるが、生肴移送が解禁される3月1日に現地を出発したのでは間に合わず、また、生魚ではこの時期の移送に不適で塩漬けにする必要があったのだろう。背景に、仙台城下の肴需要の拡大とこれに対応しようとした蒲生商人の動きがあったと理解される。冷蔵設備がない当時、気温の下がる夜間に夜通し輸送し早朝の朝市でセリにかけるのが一般だった。肴を積んだ馬は夜半に塩竈を出発し、松原街道から夜明けごろに原町を通過したが、原町は宿場であり丁切り(丁切根、木戸)が設置され関所の機能があったので、怖がられたとか、若い衆の血の気が多かったなどとされる。塩竈の馬方が仙台の帰りに原町はずれの茶屋で一杯飲んだとも伝えられる。寛政3年(1791)には、肴町の魚問屋14人が藩に訴えを起こした(丹野家文書)。当時、塩竈から荷を付けた馬がくると原町で現地の馬に積み替えて肴町まで送る慣行で、宿継ぎ(しゅくつぎ)や継替え(つぎかえ)といわれた。原町から肴町までは原町の馬の独占となり、その駄賃代が高すぎるというのが肴町問屋の言い分であり、そのために城下の肴の値が高騰し、五十集生産地の島浜(牡鹿半島沿岸、松島湾岸)の荷主が出荷を見合わせているというのだ。寛政5年(1793)には、塩竈の五十集問屋から訴えが出された(丹野家文書)。七ヶ浜の肴は原町で馬の積み替えをしないのに、塩竈からの肴は継立てが義務付けられるため、荷の痛みや遅れ、駄賃の高騰を招き、そのため七ヶ浜道に商品が流れて塩竈が衰退してしまうというのである。荷主の島浜商人たちは、塩竈に生ものだけでも年間通じて継ぎ立てなしで直送したいと要望していたが、せめて七ヶ浜ルートと競合する夏場期間だけでも、生ものに限り塩竈から原町の継ぎ立てなしで直送させてほしい、というのである。この訴状の日付は需要がピークとなる歳末期であり、原町継替えに不満の生産者が出荷ボイコットの動きがみられ、城下の問屋たちも危機感を募らせていた。中継点の塩竈と終点の肴町の双方から、塩竈道の劣勢をもたらす原町継ぎ立てを問題としたことが注目される。なお、木下街道が松戸街道に劣勢になったのも、途中宿場の継ぎ立ての有無から生じている(→1を参照)。こうした論争が寛政年間に表れたのは、直前の天明年間の大飢饉により、全国規模で流通経済システムの動揺と、その再編が促された背景がある。9 二つの肴の道をたどるこれらの肴の道の経路は、次のように推定される。(1)塩竈道塩竈港の大河岸から出発する。大河岸は宝永年間(1704-)の埋立で成立したとされるが、この時の石積み護岸は明治初年の埋立により今はない。船から降ろされた魚を、五十集四分問屋で馬(駄ん子馬)に付け替えて、その先は、二筋に分かれる。ひとつは、塩竈神社を右手に見て西町を抜け、赤坂橋に至る。ここから江戸時代に開かれた赤坂を上る。馬方を化かす赤坂狐の伝説が残る。また、坂の途中に茶屋、馬頭観音、菓子舗(丹野家の先祖)があったという。赤坂を越えると母子沢に至る。この辺りは湯壺(ゆつぼ)といい、湯壺のお夏と呼ばれる古狐が住んでいたという(馬子はお夏狐を怖れ、魚を一匹道端に投げて通った)。福徳稲荷が別名お夏稲荷といわれた。尾根筋をたどって惣社の宮、多賀城跡、市川橋に抜ける。他方の道は、大河岸から南進し、南町を抜けると町の入り口の枝垂れ柳があった。市立病院の南側及び千葉歯科医院、無量井内科クリニック(いずれも東玉川町、本線塩釜駅前)の南側を抜ける斜めの小道とみられる。本線をくぐると、間もなく野田の玉川の碑、浮島の谷筋を通り、壺の碑(多賀城碑)を左手に見て、市川橋に至る。二筋の道が合流する市川追分に道しるべの碑がある。※おだずま追加コメント:道標の画像を記事にしております 奏社宮道道標(市川追分の碑、多賀城市)(2026年03月30日)これら高低二筋の道は、古代多賀城と塩竈を結ぶ古道を継承している。市川で合流した後は、開けた水田の中を西に進む。南宮、山王の集落を経て、中世の拠点集落岩切に至る。ここで七北田川を渡って今市の集落を抜けると山崎に至る。ここで道は二筋に分かれるが、旧道は西側(山側)で、鶴ヶ谷、比丘尼坂、燕沢、案内を経て原町に至る。(2)七ヶ浜道半島の浜々を一周する道は、付け根にあたる大代で合流して、貞山堀(御舟入堀)を渡る。大代から福田町の間は小道が錯綜して復元が難しいが、子細に見ていくとそれらしい道筋は、大代郵便局の前の町並みを抜けて、県道23号(仙台塩釜線)を越えて、砂押川の北側を西進したとみられる(現在の多賀城駐屯地敷地で道が消えた)。その先は鶴ケ谷の笠神新橋あたりで砂押川を渡り、八幡の町並みに入る。まもなく末の松山、沖の石。その後、国道45号と合流し、仙台港北IC出口付近までは国道45号と同じとみられる。中野から出花の辺りで、国道45号をはずれ、南側を湾曲する道に入る。道は45号に戻って交差して仙石線を越え水田の中を西に向かい、誓渡寺に至る。再び水田の中を西に向かうと深山神社。車道を越えて福室集落を越えると七北田川堤防沿いの道となり、国道45号をくぐると、福田町の対岸集落の東作(ひがしさく)に至る。かつて馬方の呑み屋街があったという。七北田川をわたり福田町を抜け、ここからは国道45号の道筋で苦竹に至る。現在の陸上自衛隊仙台駐屯地はかつての苦竹御蔵場の跡地を含んでいる。その北側を抜けて坂下交差点からは、道は(国道45号から)北に分かれ、原町のはずれ追分で、塩竈道と合流する。原町は、苦竹村に属したが、城下に接する宿場町であり、丁切(丁切根、木戸)が設置され関所の機能を有していた。足軽町である二十人町、鉄砲町を経て、名懸丁、新伝馬町を抜けて、肴町に到る。10 肴町肴町は大町通の北側にあったが、今では通りの名称(肴町通り)と肴町公園にわずかに窺えるだけである。城下の中心部に近い大町通に並行する北側の通りにあった。西端は本柳町(もとやなぎまち、現在の西公園)、東端は奥州街道(国分町通り)で、西から肴町一から四丁目となっていた。城下の町人町「二四ヵ町」中では大町に次ぐ第二位の町列とされ、上位六位を独占する御譜代町(米沢、岩出山と町ぐるみ移転した六つの町)のひとつでもあった。近代になり仙台藩の五十集の流通統制がなくなると、肴町に魚は入ってこなくなる。大正元年の仙台市全図には、肴町四丁目に魚市場の記載があるが、魚問屋たちが営んだ民間市場として、江戸時代から続く塩竈と肴町の道の最後の姿であろう。昭和20年の仙台空襲で肴町は灰燼に帰し、戦後は、東七番丁、次いで卸町に中央卸売市場が造られる。■関連する過去の記事(仙台藩の藩政、流通、舟入堀など)は下記をご覧ください。 (記事リスト)戦国・藩政期の仙台・宮城
2026.01.06
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東北と貢馬の歴史、そして交易の道について。■井ヶ田良治他編(当巻担当編集委員吉田晶)『歴史の道・再発見 第1巻 平泉からロシア正教まで』面屋龍延、1994年(同書のうち、大石直正による「第2章 奥州藤原氏と貢馬の道」の前半部分から。おだずま要約・再構成)■後続記事 北方へのびる道(2026年04月17日) 東北と海の大道(2026年04月18日)1 貢馬遞送1188年(文治4)、藤原泰衡から京都に送る途中の貢馬(くめ)、貢金、桑糸などが、相模国府に近い大磯駅(おおいそのうまや)に着いた。すでに義経を保護し交戦状態にあった平泉からの貢納物であったため国府役人が源頼朝に報告すると、頼朝は、泰衡は反逆に与するものだが、これらは公物であるから抑留すべきではないと返事した(吾妻鏡)。このことから、奥州藤原氏の貢馬や貢金は東海道を通って京都に運ばれたことと、公物すなわち国家的な貢納物と考えられていたことが明らかだ。これ以前の11世紀の陸奥国からの貢馬は、新任の陸奥守が第一に行わねばならない重要な仕事であった。公物である馬の運送は国家的に行われ、官道の宿駅の間を国内の人民の負担する役によって、遞送(送り継ぎ)された。貢馬遞送の実態は、天喜年間(11世紀中ごろ)の例が、美濃国大井荘(大垣市)と茜部荘(あかなべ、岐阜市)の史料で知られる。2 東海道と東山道貢馬の官道が、陸奥国と美濃国が含まれる東山道であることは当然とも思われるが、冒頭の1188年の貢馬は、少なくとも相模国までは東海道を通っている。じつは、東海道から東山道の美濃国に抜ける道は、すでに奈良時代から使われていた。734年(天平6)尾張国正税(しょうぜい)帳、739年(天平10)駿河国正税帳には、陸奥国から進上する御馬の飼糠米などの費用が記されている。陸奥国からの貢納物が東海道(尾張、駿河)を経由したのは明らかである。おそらく、陸奥国から常陸国に出て東海道を通るコース、あるいは下野国から後の鎌倉街道と同じような道で相模国に抜けるコースが使われただろう。陸奥国に属する出羽国の場合は、進上御馬が北陸道を通っていた(733年(天平5)越前国郡稲帳から)。なお、陸奥国から下野国に出る東山道本道は白河関を越えるが、陸奥国から東海道の常陸国に抜ける道は菊田関(勿来関とも)を越える。後者の地域は陸奥国内でも古くから海道あるいは東海道といわれていた。また、東山道本道から分かれて久慈川の谷に沿って南下して常陸国に入る道もあった。その途中に焼山関があった(茨城県太子町北田気、南田気と推定)。「今昔物語集」巻27第45話には、相撲使(すまいのつかい)が焼山関付近を通る話だが、官使も東海道を通って陸奥国と都を往返したことを示している。3 陸奥国交易御馬と糠部郡奥州藤原氏の貢馬の前提となる陸奥国交易御馬は、陸奥国の正税をもって交易(きょうやく)して入手した馬を毎年11月12月のころに20疋または30疋づつ貢納する制度である。年の前半に、陸奥国御馬交易使なるものが朝廷から派遣され、その交易使が馬を牽いて上京する慣例だった。貢進された交易馬は、紫宸殿または清涼殿の南庭で、天皇の前で陸奥国交易御馬御覧の儀式が行われた。この陸奥国だけの制度は、10世紀中ごろに始まった。対象となる馬は北奥産だったと考えられる。陸奥国には、南部にも安達牧のような馬産地はあるが、陸奥国の産馬の名を高らしめたのは何といっても北奥の糠部郡の牧である。糠部(ぬかのぶ)郡は、現在の一戸から九戸にいたる広大な地域で日本最大の郡である。全郡が馬牧のようなところで、糠部駿馬の名声は全国に聞こえ、武士にとって垂涎の的であった。「源平盛衰記」では、熊谷次郎直実が上品の絹200疋を投じて買った名馬権太栗毛は一戸の牧の産。頼朝秘蔵の名馬で宇治川の先陣争いで有名な「いけづき」「するすみ」「わかしらげ」は、三戸立ち、七戸立ちの馬という。藤原基衡が都の仏師雲慶に送った品物にも糠部駿馬50疋が加えられていた(吾妻鏡)。糠部が郡に編成されるのは12世紀で、それ以前は蝦夷の村として把握されていたが、その時代からすでに蝦夷は名馬の産地で人々は争って蝦夷と馬の交易を行っていた。すでに787年(延暦6)、王臣百姓が綿や冑鉄を売って狄馬、俘奴婢を買い求めることが禁じられ、815年(弘仁6)には、権貴の使、豪富の民が争って蝦夷の馬を求めるため馬の値が騰貴し兵馬が得がたいとして軍用に耐える馬を国境から持ち出すことを禁じている(類聚三代格)。これらの狄、蝦夷の居住地の中に後の糠部郡が含まれていたのは間違いない。4 馬の交易と蝦夷の反乱9世紀から10世紀にかけて北奥羽では、馬の交易をめぐり蝦夷との紛争が絶えなかった。出羽国方面のことだが、元慶の乱(878年)の原因は馬と鷹の交易に伴う紛争であった(出羽国の国守藤原保則の伝、三善清行筆)。また901年(延喜1)に、陸奥守藤原滋実(しげざね)の死の遠因となった蝦夷との交易の問題性や官吏の腐敗を、菅原道真が痛烈に批判している(菅家後集)。道真は、人々は陸奥国に対して金・皮衣・鷹・馬などを求めるが、これらはみな狼のごとき夷民との交易で得るもので、昔から夷民の変が起こるもとになっているという。ところが蝦夷の反乱の記録は10世紀中ごろまでで、以後はぱったり消える。これは、陸奥国交易御馬の制度化の時期と一致するので、両者は関係するのだろう。10世紀後半、陸奥守には、平貞盛、平繁盛、平維叙(これのぶ)など桓武平氏一族(平将門の乱で活躍した家柄)が相次いで任ぜられたが、こうした武者の登用による軍事力強化は、蝦夷の反乱鎮圧がねらいであったに違いない。並行して蝦夷との間の馬の交易の統制が行われ、それを踏まえて陸奥国交易御馬の制度ができたと考えられる。糠部の南は、奥六郡(胆沢、江刺、和賀、稗貫、志和、岩手)だが、これは胆沢城直轄の俘囚(服属した蝦夷)の居住地として編成された特殊な郡である。馬の交易統制はおそらく奥六郡の組織を介して行われた。奥六郡の司で蝦夷社会と深い関係にあった安倍氏が交易統制に一役買っていたことは疑いない。5 藤原氏の貢馬陸奥国交易御馬は1120年(保安1)を最後に史料から消える。奥州藤原氏初代清衡の晩年であるが、奥州藤原氏は私的な貢馬とともに、国土貢(くにのどこう)といわれる公的な貢馬を行っていた。これは交易御馬と同様に毎年20疋だったようで、交易御馬を受け継いだと考えられる。1186年(文治2)、頼朝は秀衡に対して、貢馬貢金は国の土貢であり東海道の惣官として自分が管領する立場にあるので今年から自分が伝進すると要求した。頼朝の管轄下にあるというのは、1183年(寿永2)宣旨による東国行政権に基づくのだろうが、いずれにしても奥州藤原氏は事実上頼朝の統率下に立ち、貢馬は鎌倉に進上され、鎌倉を経由して京都に送られた。冒頭(1 貢馬遞送)に述べた泰衡の貢馬・貢金はその後の義経問題を契機とする鎌倉と平泉の手切れ後のもので、奥州藤原氏滅亡直後の1190年(建久1)春に頼朝は20疋の貢馬を行うが、奥州藤原氏時代の例を受け継いだものであった。もう一つ重要なことは、頼朝による貢馬・貢金の伝進が、奥州藤原氏の鎌倉への従属を意味しているとすれば、逆に、貢馬・貢金は奥州藤原氏の独立の証だったということである。貢馬・貢金を行う政治権力として朝廷から認知されていたのであり、奥州藤原氏のアイデンティティにかかわる特殊な貢納物であった。
2026.04.16
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昨日の19日(日)は宮城県内でも投票日の自治体があった。・大崎市長選挙 合併以来5期続けた現職の勇退に伴う選挙。元県議会議長の中島さんが、自民党支部が支える市議などを制して初当選。投票率53.09%は、前回選挙戦となった2018年を1.85上回った。・山元町長選挙 現職の橋元さんが再選。政争の町ともいわれたが、町政停滞から脱することになるだろうか。投票率は59.31%で前回から8.42の減。・山元町議補欠選挙 定員3に対して立候補3人で、無投票だった。さて、ここでは、大崎市議選に注目したい。28議席に30人が立候補した。市長も代わるが、現職11人が引退し、2人は市長選に出るため、半数が入れ替わり世代交代が進むとみられていたことと、従来は農村部的な政治風土が色濃かっただろうが(そして特に地方部では地方議会のなりて不足が深刻だ)、若い世代や「よそ者」の進出などがあるか、に着目していたからだ。落選者は2人しか生じないので当落という分かれ目から決定的な評価はしにくいが、得票数などの動向から、どんな候補者が受け入れられたか、を探ることができないだろうか。得票順に書き出してみる。1 3,587 加川 康子 無現 22 3,309 早坂 憂 自現 33 3,155 山田 匡身 公現 24 2,634 佐藤仁一郎 無現 45 2,458 小玉 仁志 無現 26 2,404 伊勢 健一 自現 37 2,373 佐藤 弘樹 無現 68 2,316 富田 堅治 無新 19 1,985 八木 吉夫 無現 510 1,954 遠藤 彰 公新 111 1,939 荒井 純 無新 112 1,877 吉越 美穂 無新 113 1,828 木内 知子 共現 614 1,767 高橋 雅博 無新 115 1,672 木村 和彦 無現 616 1,577 五島 啓太 無新 117 1,529 法華 栄喜 無現 218 1,509 後藤 錦信 無現 619 1,454 菅原 智宏 無新 120 1,439 石田 政博 無現 221 1,395 結城 豊 共新 122 1,331 鎌内 克美 共新 123 1,322 遊佐 辰雄 共現 624 1,306 山口 寿 無元 225 1,255 小嶋 匡晴 無現 226 982 平野 洋子 無新 127 912 山口 文博 無元 228 839 川合 明弘 無新 1(ここまでが当選者)落 581 畠山 紳悟 無新落 124 梅津 泰幸 無新新聞記事で紹介されていた肩書と年齢くらいしか情報がないが、上記の視点から当ブログの独断で注目した候補の得票数を見てみる。(1)若い人(40代以下)・川合明弘 無新 46歳 会社代表 28位・早坂 憂 自現 40歳 塾講師 2位・平野洋子 無新 46歳 鍼灸師 26位・五島啓太 無新 44歳 会社代表 16位・伊勢健一 自現 45歳 会社役員 6位・吉越美穂 無新 37歳 トレーナー 12位・加川康子 無現 48歳 研修講師 1位・小嶋匡晴 無現 41歳 会社役員 25位・畠山紳悟 無新 31歳 環境NPO代表 落・小玉仁志 無現 42歳 会社代表 5位・山田匡身 公現 47歳 党地区支部長 3位現職がある程度優位とは思われるが、新人で順位の高いのは吉越さん。(2)よそ者(選挙公報から新人で出身地が市外とわかる人。当ジャーナルで拾った)・畠山しんご 秋田県潟上市出身、大崎三年目。議会と戦う、政治家に嫌われる仕事、などやや過激な内容を選挙公報で記載している。→落選・平野洋子 結婚を機に大崎市に移住。→当選26位出身を明示しない候補もいるし、仕事で東京等にいた人も何人かいるようだ。正しい分析にはならないが、おそらく、今回の選挙では、従来にないような「流れ」が生じたとまでは言えないか。もっとも、選挙は議会政治の入り口。これから、新しい市議たちの活躍に期待いたします。(4月21日補遺)河北新報記事によると、当選者一覧で表示された出身地は、大崎市がほとんど。大崎市以外なのは、平野洋子さん(26位)の兵庫県西宮市、川合明弘さん(28位)の美里町、だけだ。
2026.04.20
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アイリスオーヤマがダイシンを買収との報道があった。2日午前は両者の記者会見があったようだ。河北新報記事の概要(当ジャーナル要約)である。------------アイリスオーヤマはダイシンの経営支援を続けていたが、救済依頼に応じて完全子会社化。既にグループ持ち株会社のオーヤマが、ダイシンの創業家とグループ企業が保有していた株式を全額取得。社名は変えず、店舗と従業員はそのまま引き継ぐ。買収額は不明。1日付で伊藤潔ダイシン社長が特別顧問に退き、後任にはアイリスから派遣された専務の村井幸一氏が昇格。アイリスは今後、生活用品製造・卸大手のノウハウを生かした売り場づくりを進め、販促では、アイリスがスポンサー契約を結ぶプロスポーツチームとの連携も検討。また、ホームセンター事業参入を機に、従来の郊外大型店から、中規模店のホームコンビニエンスも展開したい考えだ。アイリスは既に関東や宮城県で家具の専門店を出店し、小売事業に参入しているが、ホームセンターの業態は初参入。ダイシンは1975年、顧客第一、地域貢献を掲げて設立され現在、宮城県内に15店を構える。大手チェーンの相次ぐ出店に伴う競争激化で売り上げが減少、赤字決算が続いていた。その後も不動産投資による多額の借入金に加え、消費低迷などで経営が急速に悪化し、アイリスに救済を要請したとみられる。アイリスはホームセンター事業参入に伴い仙台市を中心に地域密着型店舗を展開する方針で、5年以内の経営再建を目指す。------------ダイシンのサイトによると(12月1日付けの情報)、次のようだ。------------私たちダイシンは1975年、「お客様第一」「地域貢献」を経営理念に掲げ、東北最初のDIYホームセンターを開設しました。当社は平成二十年十二月一日より、アイリスオーヤマグループの一員となり、新体制のもと新たなスタートを切ることになりました。創業以来三十三年の「ダイシンブランド」を受け継ぎ、「ホームコンビニエンスストア」として、お客様の要望に即した小回りと迅速性、住まいの不便を気軽に相談できる身近な店をモットーとして地域貢献に努めてまいります。------------ダイシンと言えば、私は昭和63年頃に、おそらく当時まだ新しかった泉店に何度か行ったことを思い出す。石巻に住んでいた頃は、市街地の航空写真が大きく載ったカレンダーをダイシンが景品につけていて、部屋でよく眺めたものだ。ちなみに、日本DIY協会の会員一覧(小売部門)を見てみた。カインズ、ケーヨー、コメリ、サンデー、ジョイ、トステムビバ、ホーマック、ロイヤルなど、馴染みの名前が並ぶ。もちろん、ダイシンも名を連ねている。今やDIY店舗も大手が随分参入して色とりどり。店舗にこだわるというよりは、どこでも品揃えはあるから、近所の便利なところに行くという人が大半だろう。20年前は、全国規模の店は思い当たらないが、地元系のDIY店が幾つかあった。もちろん、ダイシンは宮城県民に最もなじみのお店だったと思う。写真は、泉店で購入したドライバーセット。もう20年も使っている。一般に物持ちが良い私だが(つまりケチ)、このドライバー君は私と一緒にあちこち引っ越してきた。今は家の半地下倉庫が定位置だが、折に触れバリバリ活躍している。
2008.12.02
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蔵王のマグマに負けては居られない。風評など蹴散らして、いざ連休まっただ中の蔵王山麓へ。村田から遠刈田にのぼり、R457で青根温泉へ向かう。木漏れ日が気持ちよい。青根では、「じゃっぽの湯」に浸かる。ヒルクライムというのだろうか、路上でみかけた自転車の人たちが、温泉でも出会うことができた。じゃっぽの湯の向かいに青根洋館。じつは気に懸かっていたことがあり洋館の方に聞いてみた。学院大のセミナーハウスはどうなったのですか。すると、もう少し先の(下の)場所に有ったが、今は更地。その建物の一部がこの洋館で、10数年前にここに移築したということだった。青根温泉にはしばらく来ていない。すずらん峠の県道の方は何度も通っているが、たぶん青根は、およそ25年くらい前だろうか、湯元不忘閣などに仕事で訪れて以来だと思う。(その後も通過だけはしているかも。)学院のセミナーハウスは、もっと前。30何年か前だろう。青根セミナーハウスに行ったのだった。学院大の学生ではないが、車に乗せられてとにかく行った。道のこちら側でカーブのあたりだったという記憶。そして、洋風の建物もあったような。だからこの洋館がひょっとしたらそれと関係があるかも、と直感的に思い出して、尋ねたのだった。その後、川崎町内に向かって車を走らせると、たしかにすぐ下(北)に更地となっている区画があり、東北学院青根セミナーハウスの看板だけは残っていた。川崎から登れば気づいただろう。平成一桁台のころの私の青根のイメージは、上記の仕事で調査した古賀政男のことや不忘閣の歴史。そして、私的な思い出もあってセミナーハウスやエコーホテル。新緑に映える清涼の地。時代も動いているから、施設が消えてしまうのも仕方ない。しかし、緑に包まれ、訪れる人がすがすがしく生気を取り戻す地であることには変わりがないと思う。R457を降りていくと、若い人たちが列をなしているピザ工房なども見えた。青根は良いところです。
2015.05.04
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明治38年6月、長野の財閥片倉組による「仙台製糸場」が設立された。蒸気機械と300の従業員を抱える大工場で、東八番丁に設立された。現在の榴岡三丁目と思われる。明治41年10月に、皇太子(のち大正天皇)が盛岡行啓の途中に立ち寄り、品井沼干拓工事をご覧になり、仙台ではこの工場を見学。女工の多さを見て、この女性はみな宮城県人かと御質問された。工場長は、宮城県人はひとりもおりません。みな、山形県人と福島県人でございます、と答えた。さらに、なぜ本県人を採用せぬのか、との御下問に、「宮城県人は怠け者で採用すると損をします」と答えた。これが問題となり、この工場長は間もなく転任した。ちなみに、片倉財閥系のこの工場は第1次大戦後の世界不況の後も残り、戦後の昭和31年正月に閉鎖された。さて、工場長の発言は、明治末年に宮城県人が他県に比べて怠け者と見られていたことを伺わせるが、仙台・宮城人怠け者論は、根強く昔からあったようだ。幕末の肝付兼武については以前に記したが、兼武は、仙台藩はよい土地を有して貧乏している、自分なら3年で藩を豊かにしてみせる、と述べている。またある武士は、仙台の士風は嫉(ねたみ)、薩摩の士風は暴、金沢の士風は固、と三大藩の気風を評した。明治9年天皇行幸の際も、14年行幸の際も、知事の報告文には「近年怠惰の風もややあらたまり」との調子で、決して勤勉とは書けなかった。県庁三能吏に数えられ、土木事業に力を尽くした早川智寛が、第四代仙台市長の時、外米の無償交付を受けた人が酒屋に寄って酒に替えた話を聞いて、「どうも仙台藩は怠け者だ」と言ったと伝わり、旧仙台藩士に決闘を申し込まれたので、手をついて謝ったという。宮城県に企業が興らなかったのは、資本がないほかに、従業員が理屈が多くて実行の伴わないからかも知れない(後掲書で佐々さんがこう書いている)。■参考 佐々久『近代みやぎの歩み』宝文堂、1979年 仙台文化出版社『仙台きょうはなんの日』(せんだい新書2)仙台文化出版社、1988年■関連する過去の記事 仙台・宮城の気風を再び考える(06年7月3日) 肝付兼武のこと(06年6月13日) 見透かされた「大藩仙台」の空虚なる風土(06年4月2日)
2009.11.11
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ニュースで鶯沢小学校の閉校式が伝えられた。栗原市は小中学校の再編を進めており、鶯沢小と文字小が今春から統合されるようだ。新校名は鶯沢小学校、施設は現在の鶯沢小を活用する。新校名の募集もしたところ、66点が集まった。鶯沢、文字、鶯沢文字、文字鶯沢、などのほか、文鶯、鶯文、栗駒中央、栗原中央、栗駒西、栗原北西、などの提案もあったという(市サイトの「再編だより」から)。それでは他の地区ではどうだろう。尾松・宝来地区(小学校統合。尾松小校舎を活用)・・・栗駒南小学校一迫・花山地区(中学校統合。一迫中校舎を活用)・・・栗原西中学校以降は、2013年4月と一年先だが名前は決まったようだ。金成地区(小中学校の統合)・・・金成小学校。小中一貫の愛称は金成小中学校岩ケ崎・栗駒・鳥矢崎地区(小学校統合。岩ケ崎小校舎を活用)・・・栗駒小学校栗駒・鶯沢地区(中学校統合。栗駒中校舎を活用)・・・栗駒中学校一迫地区(小学校統合)・・・一迫小学校若柳地区(小学校統合)・・・まだか
2012.02.26
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江戸時代、馬に乗った武士などが城や寺社に入るとき、馬から下りなければならない場所が決められていて、そこを「下馬」といった。主人は中に入るが供回りの者たちは、下馬で主人の帰りを待つのが定めだった。暇を持て余した供の者たちは、世間の噂話や他人の批評などをして時間を潰すしかない。単なる時間つぶしなので、噂の真偽などお構いなしにあることないことを話題にした。そんなところから、第三者による無責任な噂話や興味本位の批評・評価を「下馬評」と呼ぶようになった。■三上文明著(野口元大監修)『みんなの語源 知って得する!日常語の由来184』山海堂、2007年さて、多賀城市に「下馬」がある。仙石線の駅名だし、古く明治時代には村の名前だった。『多賀城町誌』(佐々久監修、多賀城町誌編纂委員会編纂、昭和42年)によると(p.397)、次のように説明されている。------------ 下馬は、多賀城、塩釜(ママ)市と境を接している。塩釜神社に参詣する者はここで下馬して塩釜膳部に入ったので、この名ができたと言われる。神社までの距離が長すぎるし、其の外下馬する必要のある対象もなく、疑問の点が多い。佐々久氏は下馬はもともと急な坂であったから、下馬せねば通れなかったのでこの名ができたのであろうといっている。 一体塩釜と仙台方面との通路は大体二通りあって、一本の道は奏社宮(odazuma注1)-大日向の線と、もう一本は八幡-留ヶ谷-安部の待橋(odazuma注2)-向山(odazuma注3)と通って、今の坂病院の後に出て病院の北側を通って、膳部に出て塩釜に入り南町を抜けて神社という道もあった。 膳部で下馬し、あそこから歩いて神社に向かったものだろう。そうすると、この八幡を通る通路は神社に向かう本道ということになるだろう。本道だから下馬があって、奏社宮は脇道にすぎなかったのでこのような禁制区域があってもよい様に思われる。神社から見れば八幡街道は正面であって、南方に位しているので、この道を本道としたのもうなずけると思う。随って、神社への正使は勿論この八幡街道をとったと思われる。前述と相反する考え方であるが、参考のために書いておく。------------注1:奏社宮 陸奥総社宮。多賀城市サイトの説明参照。注2:安部の待橋 おもわくの橋の別名。多賀城市サイトの説明には、阿倍松橋と呼ばれていたとある。注3:向山 伝上山2丁目に「向山集会所」や「向山公園」があり、また行政区名「向山」として名が残る。従兄弟が東京から一時多賀城に住み着いたとき、シモウマと読むのではないのか、と言っていた。こちらはゲバなのです。なお、町誌の説明に出てくる「膳部」だが、塩竈市ホームページ「塩竈の水道の歴史」の中に、「膳部清水」として出ているのが関係するのだろう。地点としては、それこそ坂病院の北のあたりなのだろう。
2012.08.14
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ミトコンドリアDNAの解析によって、日本人は決して均一ではなく、大きく2つのグループに分かれる。その1は中国大陸、韓国、アメリカインディアンと遺伝的に近く、その2は東南アジア人に近い。縄文人の頭骨からDNAを抽出した結果、縄文人と近世アイヌは、現代日本人とは系統的にかなり異なり、縄文人は、現代のマレーシアやインドネシアなど東南アジア人と共通の遺伝的起源があることが明らかとなった。(国立遺伝学研究所宝来助教授の研究)また、家族内だけで感染する成人T細胞白血病ウイルス(ATLウイルス)の分布を調査すると、もともと日本列島にATLウイルスキャリアであった先住民がいたところに、大陸からノンキャリア集団が渡来し勢力を拡大、日本人の主流を占めるに至った、との仮説が立てられている。現在、北海道のアイヌ、琉球人、九州や東北の一部、隠岐島などにATLキャリアが高い確率で存在するのがその証拠である。(京都大学日沼名誉教授の研究)さらに、人間に随伴するイヌの移動パターンからもこれは裏付けられる。縄文人は犬を友として葬ったが弥生人は食料とした形跡さえある。これらの研究から、まず東南アジアから縄文人につながる人々が移住し、日本列島の全体に広がった後、大陸から渡来した人々と混血していった、と思われる。『古代史発見シリーズ2 謎の東北王国・三内丸山』1996年、学習研究社 から■関連する過去の記事 ミトコンドリアDNAと日本人の起源(07年11月4日) 縄文人と弥生人(07年6月5日)
2008.11.23
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あ・ら・伊達な道の駅(株式会社池月道の駅)は年間273万人の入込客(宮城県観光統計概要、令和4年)で、国道47号を往き交う車はみんな停車するのではないかと思わせる抜群の集客力だ。ところで、施設の奥側の広い駐車場の周囲に、標柱がいくつか建っている。一栗中学校の跡地なのだ。そして、道の駅に隣接して一栗体育館。おそらく校舎は解体したが、比較的新しくまだまだ使える学校体育館を残して地域の施設に転用したのだろう。最後の画像(体育館入口)の上部には、校章らしきものが。開校昭和22年4月1日閉校平成8年3月31日卒業生3778名旧岩出山町域では、岩出山、一栗、真山の3中学校があったが、平成8年に現在の岩出山中学校の1校に統合された。なお、小学校は平成29年度まで5校あった。岩出山(平成30年3月児童数253人)、西大崎(47人)、池月(47人)、上野目(45人)、真山(48人)の5校が144年の歴史を閉じて、平成30年4月に新制岩出山小学校となった。■関連する過去の記事(陸羽東線沿線の探訪) 西古川駅(大崎市)(2024年06月22日) 名生館から西古川へ(大崎市古川大崎、古川斎下)(2024年06月19日) 名生館官衙遺跡、名生城跡(2024年06月18日) 東大崎駅、大崎神社(2024年06月14日) 大崎市の戦中地名(2024年03月20日)■関連する過去の記事(鳴子、岩出山周辺など) 小黒崎観光センター(大崎市)(2023年12月13日) 美豆の小島(大崎市)(2023年12月12日) 小僧街道踏切(大崎市岩出山)(2023年12月11日) 川渡小学校上原分校跡(大崎市)(2023年12月10日) 小黒ヶ崎のすばらしさ(2016年6月5日) 歌枕だった小黒崎(2013年3月14日) 大崎市のカンガルー(09年11月26日) 観光客で賑わう鳴子峡(08年11月2日) 花山で釣りをする(07年10月25日) 再び岩出山を探訪する(07年7月22日) 初滑りオニコウベ(06年12月29日) 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日) 岩出山を探訪する(06年7月17日) 鳴子の交流人口と東北の地域構造の多様性を考える(05年10月10日) 鳴子峡散策で地域の先人たちを考える(05年10月9日) 御料馬金華山号と支倉常長の野望(08年9月16日) 鬼首の名馬金華山号(07年12月26日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 松山道・上街道(2011年9月16日)
2024.07.02
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