東北の城や館とその歴史をよく理解しよう。下記2つの文献から勉強しました。
■飯村均・室野秀文編『東北の名城を歩く 南東北編』吉川弘文館、2017年
(最初の部分pp1-6「南東北の名城の歴史をたどる」(飯村均)を基にしました。)=文献1
■飯村均・室野秀文編『東北の名城を歩く 北東北編』吉川弘文館、2017年
(最初の部分pp1-8「北東北の名城の歴史をたどる」(室野秀文)を基にしました。)=文献2
おだずまコメント:東北の南と北では、古代の朝廷の東北経営(蝦夷との関係)で違いがあることに改めて注目しなければならない。このため、両文献の内容を合わせないで、それぞれ整理しました。
本稿は文献1を基にしています。
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城館の歴史(その2 北東北の城館)
=文献2を基に。
1 城(館)とは
考古学の立場からは「切岸(きりぎし)、堀、土塁で区画された空間」。その意味では、環濠集落など縄文弥生時代にすでに成立していた。しかし、中世城館の直接的系譜は古代の城だろう。
2 古墳時代
前期では、近年、防御性の高い集落(栗原市入ノ沢遺跡)が発見された。中後期の堀や塀で区画された豪族居館として、喜多方市古屋敷遺跡、白河市舟田中道遺跡など。
3 古代の城
陸奥国府・多賀城跡に代表される、堀、築地、塀で区画された城柵官衙遺跡が、律令国家期の7世紀以降に展開。10世紀以降、律令国家の衰退とともに、地方官人の系譜をひく村落首長は開発領主として地位を高め、溝で方形に区画された屋敷を形成する(喜多方市鏡ノ町遺跡など)。
一方、前九年合戦に関わる館として、栗原市花山館など(安倍貞任が立てこもった伝承があり11世紀に遡る可能性)。
いずれも城館の一つの系譜になろう。
4 12世紀の城
二重の堀と土塁で不整形に囲われた城が出現する。陣が峯城の出土遺跡は平泉藤原氏政庁とされる柳の御所遺跡と遜色なく、有力層の存在を指摘できる。鶴岡市田川館は、平泉藤原氏の下の田川太郎行文の居館の伝承。宮城県北部の津久毛橋城、姫松館なども藤原氏との関連を示唆する伝承がある。文治5年奥州合戦で著名な阿津賀志山防塁は、11世紀12世紀の安倍・清原氏や平泉藤原氏関連の城館と共通する構造と指摘される。
5 鎌倉時代の城
1町(110m)や半町程度の規模で略方形に堀や低土塁で区画された館が成立。仙台市王ノ壇・南小泉遺跡、福島市勝口前畑遺跡、桑折町播磨館、郡山氏荒井猫田遺跡・白旗遺跡・安子島城など。
王ノ壇遺跡は、都市鎌倉と同じ出土遺物であり、名取郡北方の政所の可能性。
現況で確認できる鎌倉時代の城館は皆無に近いが、天童市二階堂屋敷(地頭二階堂氏の居館の可能性)。今後は、平地居館のほか山城の存在も考えうる。
6 南北朝期の城
南北朝と室町前期は、戦乱時代で多くの城館が作られた。
南北朝期は切岸、堀切、腰郭を多用した山城が成立し山上に居住空間を形成。岩切城(正平6年合戦で有名)、霊山城(建武4年北畠顕家が義長親王を奉じて陸奥国府を移す)、宇津峰城(文和1年北畠顕信が立て籠った)、白川城御城山地区(白川結城氏の本拠)など。
居館では、小高城(建武3年に城郭を構えたとされる相馬市の本拠)、鶴岡市藤島城(延文1年北畠顕信が挙兵したとされる)など。いずれも室町・戦国時代の改変を受けているが、立地や基本的構造に痕跡を伝える。
7 室町時代の城
山城は居館型山城というべき形態で、郭の機能分担も明確。切岸、腰郭、堀切を主体で構成され、堀り残し土塁や低い積み土の土塁がみられる。名取市熊野堂大館(名取熊野三山を山上に移したと思われる)、福島市大鳥城(信夫庄司佐藤氏の本拠)、小野町猪久保城、いわき市荒川館などが典型。
居館は土塁と堀の大規模化を特徴とし、館内部の空間構成が次第に定型化。名生館(大崎氏の居館)、篠川御所・稲村御所(鎌倉公方が奥州支配の拠点として一族を下向させた居館)など。梁川(奥州守護職伊達氏の本拠)は、館を中心に方格地割の守護町が形成された。
会津新宮城(応永27年落城とされる新宮氏の本拠)は、室町時代の平地居館を現況で見ることのできる希少な城。須賀川市南古舘、郡山市荒井猫田遺跡は、室町時代を下限とする方半町規模の居館で国人領主の館の典型と考えられる。
8 戦国時代の城
戦国時代には土塁や虎口が特に発達。大規模な土塁、郭を全周する土塁、桝形虎口など。後半には、独自に石積み技術が発展し、虎口、土塁、通路に多用。奥州仕置以降の豊臣大名の入部で、本格的な石垣が出現。
伊達氏の本拠は、梁川城から、桑折西山城、米沢舘山城、岩出山城、仙台城と移転するが、築城形態や城下町形成の志向の変遷をみることができる。葦名氏の城は、向羽黒山城や柏木城で築城技術をみることができる。田村氏居城の三春城は、山城として戦国から近世への変遷が明らかにされている。庄内では、武藤氏の大浦城・高館、亀ヶ崎城(東禅寺城)、砂越氏の砂越城、村山・最上では、最上氏本拠の山形城、天童古城、東根城、高楯城など。砂金氏居城の前川本城では城下集落が明らかになっている。
境目の城として、赤館(白川結城氏と常陸佐竹氏の境目)、柏木城(葦名氏と伊達氏)、中山城(最上氏と伊達氏)、高楯城(同)などが挙げられる。近世に改変を受けているが、柏木城は天正17年の形態をほぼ現況で見ることができる。
9 豊臣大名の入部
天正18年の奥州仕置で、同19年伊達政宗は岩出山城(家康が改修)に移り、佐沼城(同じく家康が改修)を支城とした。黒川城は蒲生氏郷が入り居城とし、支城として南会津町鴫山城、郡山市守山城、小峰城、猪苗代城、須賀川市長沼城、二本松城、白石城、中山城、小国城などが整備され、織豊系城郭の築城技術が導入され、高石垣・礎石建物・瓦葺の3要素が、完全な形ではなく各城に個別部分的に導入される。最上義光の山形城や上山城などで、やはり織豊系の築城技術が部分的に導入されている。
慶長3年に五大老上杉景勝が黒川城に120万石で入り、領国支配の拠点として神指(こうざし)城を整備。関ケ原合戦の契機となったのは周知のことだが、築城途中で放棄された城としても注目できる。支城として新たに梁川城、鮎貝城、伊達市保原城、福島市宮代館・大森城、米沢舘山城、二本松市四本松城、南会津町久川城などが整備され、織豊系城郭の技術の導入が部分的に確認できる。文禄年間頃には、山形城(最上義光が改修)、長谷堂城(北の関ケ原として著名な長谷堂合戦の舞台)も最上氏の山城として注目される。
豊臣大名の入部、京・伏見への屋敷造営、朝鮮出兵などを契機に、織豊系城郭の築城技術の導入があったされるが、高石垣・礎石建物・瓦葺の3要素がすべて導入された可能性があるのは、豊臣大名の本城である黒川城と神指城のみと考えているが、近世城郭に確実に歩み始めている。
10 慶長から寛永の城
江戸幕府成立後も不安定な政治情勢を背景に、築城・改修が継続される。幕藩体制の安定が寛永年間とされる。
伊達政宗の仙台城(慶長7年築城)、若林城(寛永4年築城)。片倉景綱の白石城(慶長末年までに改修)、鳥居忠政は岩城平城を慶長8年築城開始、その後元和8年移封され山形城を現在に至る縄張に大改修したとされる。丹羽長重は寛永2年棚倉城を新規築城し、移封され寛永4年小峰城を総石垣の平山城に大改修した。
元和・寛永の築城は幕府の主導で、譜代や親徳川大名による築城で、有力外様大名(佐竹、伊達、上杉など)を押さえ奥州幕藩体制を安定させるためだった。
11 築城の終焉
寛永以降は幕藩体制安定で新規築城は皆無。次に築城が盛んとなるのは、幕末・戊辰戦争で、会津藩や奥羽越列藩同盟に関わる陣跡などが多数確認される。
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