仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2021.09.25
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カテゴリ: 東北

東北の城や館とその歴史をよく理解しよう。下記2つの文献から勉強しました。

■飯村均・室野秀文編『東北の名城を歩く 南東北編』吉川弘文館、2017年
(最初の部分pp1-6「南東北の名城の歴史をたどる」(飯村均)を基にしました。)=文献1
■飯村均・室野秀文編『東北の名城を歩く 北東北編』吉川弘文館、2017年
(最初の部分pp1-8「北東北の名城の歴史をたどる」(室野秀文)を基にしました。)=文献2
おだずまコメント:東北の南と北では、古代の朝廷の東北経営(蝦夷との関係)で違いがあることに改めて注目しなければならない。このため、両文献の内容を合わせないで、それぞれ整理しました。
本稿は文献2を基にしています。

■関連する記事
 ​ 城館の歴史(その1 南東北の城館)
 =文献1を基にしています。


1 城柵と館

 東北北部の中世城館の成立を知るには、律令国家の統治拠点いわゆる古代城柵が多く構築された朝廷の東北政策の時代からたどる必要がある。
 古代城柵は、東北を朝廷の版図に組み込み統治するための行政府であり軍事拠点であった。
 奈良時代の多賀城、秋田市秋田城など丘陵に立地するものも多いが、平安初期の胆沢城、盛岡市志波城、矢巾町徳丹城、酒田市城輪柵は、平野部低位段丘にあって都城制を基調とした方形プランであり、中央の政庁と外郭からなる二重構造である。区画施設は築地塀または掘立柱列で、内外に大溝(堀)を伴う場合も。
 徳丹城は、微高地から低地に及び、微高地では築地、低湿地では堅固な木柵で代用。外郭の築地や策には櫓が設置されていて物々しい。内部の政庁近くには実務を行う官衙群。
 志波城では外郭内に多数の竪穴建物が存在し、多くは兵舎か。官衙近くには、小鍛冶などの工房として機能した大型竪穴建物も。
 徳丹城外郭内にも工房エリアがあり井戸から琴や木製冑鉢が出土。志波城はわずか10年で徳丹城に移転し、徳丹城も9世紀半ばに役割終了。以降10世紀後半まで胆沢城が陸奥北部の統治拠点に。
 日本海側では、秋田城(7世紀造営、10世紀後半まで存続)、内陸部に雄勝城と仙北市払田柵(11世紀前半まで存続)。外郭内に竪穴建物の工房が多数構えられ、中にはカマドの無い壁沿いに柱の並ぶ中世的竪穴建物も存在する。

 陸奥鎮守府の置かれた胆沢城はおおむね三期に変遷し、一期(9世紀前半)は掘立柱建物の政庁を中心に簡素な実務官衙が設けられ、外部には櫓を備えた築地塀が廻る。二期(9世紀半がから10世紀前半)には政庁正殿や外郭南門などは瓦葺き礎石建物となり、政庁の南に殿門が設置され、饗応のための府庁厨や実務官衙建物が大幅に拡充される。志波城、特丹城の機能を集約した結果と考えられる。その後10世紀後半には、胆沢城南東城外の伯済寺遺跡に上級官人の館(たち)が営まれ、胆沢城そのものは衰退期に。鎮守府胆沢城はこうした館に機能移転したと考えられる。一方、停廃した志波城東側の林崎遺跡、徳丹城遺跡の館畑遺跡には、9世紀中頃以後に大型の掘立柱建物群が建てられる。

2 環濠・防御性集落と北海道のチャシ


 岩手県と秋田県の北部には、平安中期から後半にかけて、丘陵や台地の先端に堀を廻らし内部に竪穴建物を配置する特異な集落が出現する。多くは単郭か複郭だが、中には、多郭構造も(六ケ所村内沼蝦夷館や能代市チャクシ館)。北海道や樺太には、擦文文化やオホーツク文化の集落に、堀や溝で外部と遮断し囲郭するものが確認されており、後のアイヌ文化のチャシ成立に関係する可能性が指摘されている。

3 安倍氏・清原氏の柵

 安倍氏は鎮守府胆沢城の在庁官人から、清原氏は秋田城や払田柵の在庁官人から台頭した勢力。安倍氏は北上川上中流域の奥六郡を、清原氏は出羽国仙北三郡と雄物川流域を基盤とした。安倍氏の拠点の鳥海柵、清原氏の拠点の大鳥井山遺跡は、低地に臨む段丘縁辺部や低丘陵上に立地し、自然の沢による区画を活用しながら要所に堀を効果的に用いた防御を施す。
 鳥海柵は、堀が一重で分散的構成であるが、大鳥井山遺跡は二重三重の堀の内部建物は掘立柱建物や竪穴建物で構成。その源流は古代城柵内の工房としての竪穴建物。

4 平泉藤原氏の城館

 後三年合戦の後、藤原清衡は江刺豊田館から平泉に拠点を移し、奥羽二国を管掌した。政治拠点の平泉館は柳之御所遺跡と考えられる。二重堀内の居館、堀外の一門重臣の屋敷群、北西高地の高館。これらから猫間ヶ淵を隔てて南に伽羅之御所、西に無量光院。町の北西の関山に中尊寺、南西には毛越寺が存在し、これらの間に白山社、花館廃寺。毛越寺に向かう志羅山、泉屋には官人や武士の邸宅。
 藤原氏一門の居館として明確なのは比爪館(ひづめのたち)。後三年合戦当時の清原氏の城館より防御性はやや薄らいだ感がするが、平泉時代の安定した状況を物語る。

5 鎌倉から南北朝期の城館

 文治5年奥州合戦で、奥羽二国は鎌倉幕府の管轄となり、御家人が配置される。当時の城館の実像は不明な部分が多いが、根城の本丸には当時の城館の存在が判明。北上市丸子館、二戸市諏訪前遺跡、盛岡市台太郎遺跡など。
 二戸市を含む糠部(ぬかのぶ)は北条得宗領であり、岩手郡(台太郎遺跡含む)の地頭職は工藤氏から北条氏に移行した経緯がある。諏訪前、台太郎は、北条氏や得宗被官の拠点。根城や丸子館は防御と統治の両方を目的。
 鎌倉後期の津軽の安藤氏内乱では幕府軍が安藤氏の堅固な城郭を攻めあぐねた(鎌倉北条九代記)。
 奥羽北部では地方武士の間で台地上の城館が継続して営まれていた可能性。南北朝、室町以降も規模や構造を変えながら存続していることが多く、鎌倉時代の城館の詳細がわかりにくい。また、平地居館は、地表に痕跡残らず、開発による発掘で判明しても調査後は一般の目に触れる機会も少ない。
 建武政権の大規模な旧幕府軍掃討戦があったほか、南北朝分裂後の戦闘が続いた。奥羽北部では、津軽、糠部、北上川流域で多くの城館で攻防戦(遠野南部家文書、鬼柳家文書)。考古学的に確認された鎌倉末期から南北朝期の城館としては、根城、弘前市境関館、能代市竜毛沢館、丸子館など。境関館は平野部だが、他は段丘や台地上で、南奥(霊山城、宇津峰城など)の比高差の大きい山城は、奥羽北部では今のところ確認されていない。
 台地城館の構造的特徴は、居館のある主郭を広くとり、台地先端部や細い基部を掘り切って堡塞(ほうさい)ともいうべき小郭を付属させ守りを工夫。ただし、斜面部の腰郭や帯郭はまだ発達していない。

6 蝦夷地(北海道)の和人の城館

 鎌倉末期の津軽の大乱、元弘の乱により蝦夷地に逃れた人々がいた。また、蝦夷地は流罪先でもある。鎌倉い時代の蝦夷の沙汰を管掌した北条家御内人(みうちびと)の安藤氏は、蝦夷地での基盤は交易活動にあり、渡島半島の港近くに防衛のため城館を構えた。康正3年コシャマインの戦いでは、松前大館、上ノ国町花沢館、茂辺地町茂別館、函館市志海苔館、箱館など12の城館が攻撃受けた。このとき花沢館を守った武田信広は蠣崎氏を継承して松前に進出(子孫は松前藩主松前氏に)。

7 室町時代、戦国時代

 南北朝合一後は奥羽も室町幕府体制に組み込まれ、奥羽の武士は関東衆として鎌倉府管轄下に。奥羽二州に守護は設置されず、斯波一族の大崎市を奥州、最上氏を羽州の探題とした。糠部の南部氏、津軽西部から秋田・能代の安藤氏、仙北・雄勝・平賀の小野寺氏など大身の武士たちは、京都御扶持衆として幕府直属の国人領主であった。
 室町中期には、津軽海峡、外ヶ浜、西浜地域をめぐる安藤氏と南部氏の争い、仙北の小野寺氏と南部氏の争い、北上川中流域の稗貫氏と和賀氏の紛争など、大規模な戦闘が相次ぐ。永享7年初頭から同8年夏の和賀稗貫の合戦では、奥州探題と一族の斯波御所(紫波町高水寺城)を大将軍に、南部氏のほか北奥各地の武士が動員されて鎮圧にあたっている。
 この時代の合戦は戦国時代より大規模で長期化が特徴で、おのずと城館は長期戦を想定した大規模で堅固な構造に変化していった。拠点城館の大型化、多郭化、複郭化が進み、領主の本城は台地上の多郭式城館が主流に。また、小野寺氏は、平城の沼城館のほかに、湯沢市湯沢城、金沢城など、丘陵や山上に大規模な城館を構えている。安藤氏は福島城の中心に大型の方形居館を営んだが、南部氏との合戦で十三湊を退去し、後に出羽の檜山城、脇本城を構えた。糠部の南部氏は根城の本丸、中館、東善寺館、沢里館の後背部に、巨大な二重堀の岡前館を構築して惣構(そうがまえ)的な巨大な城を整備。南部氏一族の三戸南部氏は、段丘二段に二郭からなる聖寿寺館を構築し、火災後により堅固で巨大な山城の三戸城に移る。糠部では八戸の根城南部氏の勢力は戦国期に弱まり、三戸南部氏と九戸氏が成長。九戸氏は本領九戸から二戸地域に進出して、15世紀末頃に九戸城を構える。15世紀後半から16世紀にかけては、千徳城、角館城、米ヶ崎城、遠野城、鳥谷崎城など、大型の山城や多郭構造の台地城館が構築されているほか、地域単位の紛争多発で、戦国大名や国人領主に属した村落領主層や地侍層までも中小規模の城館を構築した。結果、現在の大字に対し一から数か所の城館跡が残った。

8 奥州仕置と城館

 天正15年秀吉の奥羽惣無事令、同18年には諸大名に参陣を命じる。応じた南部氏、津軽氏、戸沢氏、安藤氏などは存続を許されたが、稗貫氏、和賀氏、江刺氏、阿曽沼氏など遅参不参の大名は改易か、南部氏伊達氏の家臣となった。この直後、奥州仕置のため、検地と刀狩り、城割が実施。仕置軍主力が帰還すると、各地に一揆が勃発。糠部で南部信直と対立していた九戸政実は九戸城に挙兵。天正19年、再仕置で葛西、大崎、九戸、仙北の一揆は千夏され、三戸城、九戸城、鳥谷崎城など、存置城館の大規模な改修が施され南部信直に引き渡された。他地域でも存置城館は何らかの改修が考えられる。
 翌天正20年までに南部信直領内は48城中12を残し36城を破却。戸沢光盛領内は35城のうち本城角館城以外をすべて破却した。

9 幕藩体制の成立と北奥羽

 関ケ原の合戦では、奥羽でも徳川方の最上氏と西軍の上杉氏の合戦があり、南部利直、戸沢政盛、小野寺康道は最上氏に加勢。上杉氏は敗退し、会津から米沢に移される。小野寺氏は最上方の城を攻略したため取りつぶされ石見坂崎家に預けられた。慶長7年佐竹義宣が常陸国から秋田に移され、代わりに戸沢氏(後に真室川をへて新庄藩主)、本堂氏、六郷氏(後に出羽本荘へ)、仁賀保氏は常陸へ国替えとなった。
 元和1年豊臣氏が滅ぼされると、幕府は大名の居城を一城に制限、これによりさらに多くの城館が整理された。
 津軽では堀越城から弘前城に移転。大浦城、堀越城は廃城。
 南部信直利直領内では、三戸城、福岡城(九戸城)、高水寺城を仮居城としながら盛岡城築城が継続され、寛永10年南部重直が入城し盛岡藩主の居城と定まった。盛岡藩では、花巻城が支城、三戸城は古城と位置付けられ、他に、鹿角に大湯、毛馬内(柏崎)、花輪の3城、糠部に野辺地、田名部、根城の3城、閉伊郡に大槌城、遠野城、稗貫郡に新堀城、和賀郡に花巻市土沢城、北上市岩崎城が残されていた。このうち大湯、花輪、毛馬内、遠野、野辺地が要害屋敷として残され幕末まで存続。
 秋田藩では久保田城を本城に、大館、檜山、金沢、横手市吉田、横手、大仙市紫島、角館、十二所の各支城が存在し、このうち横手城、大館城は幕末まで存続している。
 関東以西と比較して藩領が広大なため治安維持と地方統治の利便性を考慮せざるを得なかった。






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最終更新日  2021.09.25 12:49:50
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