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青森県の南部地方、上北郡に県内最大の面積を誇る湖があります。小川原湖というこの湖は、しじみやワカサギなどが豊富に捕れる県内有数の漁場としても知られています。小川原湖伝説小川原湖を舞台にした伝説として、”小川原湖伝説”というものがあります。様々な話型がありますが、概要としては以下の通りです。小川原湖伝説 白雉年間(650~654年)、橘中納言道忠という人物が世を儚んで出家し、関東から東北を巡り、今の小川原湖のほとりに庵を結び、自ら観世音菩薩の像を彫り、日々を送ったという。道忠には姉を玉代姫、妹は勝世姫の二人の娘があって、父を恋したう情に耐えかねて父道忠の行方を捜すため、家来二人を従え、東北の地、古間木まで辿り着いたが、「道忠は既に病死した」と聞き、悲しみのあまり夜密かに湖岸をさまよい、姉妹別れ別れに入水して果てたという。 一方、京都では、二人の娘が帰らなかったので、道忠の奥方と弟の二人は家来と共に道忠の庵を訪ね、ここに小寺を建て、道忠の菩提を弔ったという。 南北朝時代の戦乱の中、盗賊が境内に侵入した際、当時の住職が道忠の彫った本尊を背負い寺を離れたが、追い付かれそうになったため、近くにあった沼(後の仏沼)に本尊を投げ入れた。その後、仏像が二体岸にあがったので村民が拾いあげたという。同サイト 五戸町:一向山 無量院 専念寺 仏沼から引き揚げられし御仏像 よりさらにこのような話型もあります。こちらの話型は物語性が高めです。小川原湖伝説 今から1300年ほど昔、都には橘中納言道忠公という貴人がいた。道忠公には、玉代姫、勝世姫という二人の美しい姫がおり、日々幸福に暮らしていた。 ある日、屋敷を賊に襲われ重臣を失った道忠公は、世の無情であると感じ遁世されたのである。道忠公の妻は嘆き悲しみのあまり病の床につき、それを按じた二人は父のゆくえを探す旅に出ました。新堂織部・駒沢左京之進を供に従え、諸国を巡り探し歩いたがゆくえは知れず、尾張の国、熱田大社に37日間籠り願をかけた。満願の日、白髪の翁が夢まくらに立たれ、お告げをした。「汝らの父は、はるか北の国の清地の流れに住む。姉妹別れて探すがよい。」そのお告げを聞き、玉代姫は新堂織部と、勝世姫は駒沢左京之進を共につれ、奥羽をめざし別々に出発した。 玉代姫は武蔵から北上し古間木へたどり着いた際、旅の疲れを取ろうと休んでいるとどこからともなく父の呼ぶ声が聞こえてきた。声を追っていくと、そこは大沼という場所で、水底から聞こえてきたその声に我を忘れて飛び込んでしまった。 翌朝、玉代姫が居ないのに気づいた新堂織部は玉代姫を探して大沼に着いた際、急に嵐が巻き起こり、波の上に玉代姫の姿が現れ、こう言った。「私は大沼の主になります。父上は小川原という所で、沼崎観世音になられている。あなたは北へ行くがよい。妹や左京之進に会えるでしょう。」と示したのである。それからこの沼を「姉戸沼」と言うようになったという。 玉代姫の妹である勝世姫は、玉代姫と別れてから心細い旅を続け、村上という地にたどり着いた時、父上が沼崎というところの沼の主となったという噂を耳にしたため、旅を急ぎ鶴ケ崎から漆玉というところまで来て、ついには疲れ動けなくなってしまった。勝世姫はこの沼の主になろうと決め、このことを玉代姫に伝えて欲しいと、左京之進を姉戸沼へ向かわせた。 勝世姫が沼へ入ろうとすると、沼の主・鰐ざめが現われ、姫をめがけて飛びかかってきた。なんと姫は大蛇と化して三日三晩、闘い続けることとなったのだが、そこに道忠公が現われ、鰐ざめに縄をかけ、漆玉のうしろにあった小さな沼に投げ入れた。その事以来、勝世姫が沼の主となり、この沼を「妹沼」というようになった。 それが今の小川原湖である。一方、姉戸の沼に着いた左京之進は、玉代姫の霊と沼を守るためこの地にとどまったとされている。また勝世姫を探していた織部は、姫が主になった沼にたどりつくと、勝世姫の仰せを受けて、その沼の奉行となり、そこに住みついた。 その後、二人の姫は父の居る沼崎へと通われ、三尊仏となられたという。かの沼崎観音堂が霊験あらたかなことはいうまでもない。青森の魅力 / 小川原湖伝説 より引用後者の話型は今昔物語集のような言い回しがあって非常に好きです。南北朝時代のゴタゴタなども、ここでは語られておらず、ハッピーエンドとなっています。それでは、小川原湖伝説にゆかりのある所を見ていきましょう。一向山 無量院 専念寺道忠公の奥方によって、道忠公の庵跡に創建されたとされるお寺の後裔とされています。道忠公が彫ったとの由来がある千手観音像もここに納められており、五十年に一度の御開帳となっています。次回の御開帳は2039年です。詳細は下のリンクからどうぞ!・五戸町:一向山 無量院 専念寺 仏沼から引き揚げられし御仏像谷地頭神社専念寺が最初に創建されたとされる谷地頭の地に鎮座する神社です。近代になって出来た新しい神社で、小川原湖伝説に登場する橘尼の君(道忠公の奥方)を祀っています。それ以外にも南北朝時代の戦闘の犠牲者、小川原湖の主(龍神)なども合祀しています。詳細は下のリンクからどうぞ!・三沢市:谷地頭神社 小川原湖の龍神祀る神社沼崎観音堂道忠公が沼崎観音として祀られています。玉代姫を祀った姉戸大明神社、勝世姫を祀った広沼大明神社の間に位置し、まるで両者を見守るかのようです。詳細は下のリンクからどうぞ!・東北町:沼崎観音堂 都の貴人祀りし観音堂姉戸大明神社姉沼の主となった姉の玉代姫を祀っています。小さいながらも精巧な装飾がなされた社殿は見ごたえがあります。ナビ通りに行くと迷いやすいので注意です。詳細は下のリンクからどうぞ!・東北町:姉戸大明神社 姉沼の主を祀る神社広沼大明神社小川原湖の主となった勝世姫を祀っています。社殿のある高台からは小川原湖を一望できます。詳細は下のリンクからどうぞ!・東北町:広沼大明神社 小川原湖の主を祀る神社大沼大明神社(浜家苫)小川原湖畔に鎮座する小社で、かつて勝世姫の木像を御神体として祀っていたとされています。御神体は変われども、現在でも勝世姫を祀る社であることに変わりはありません。県内外から漁業の神として崇敬されています。詳細は下のリンクからどうぞ!・東北町:大沼大明神社(浜家苫) 勝世姫祀る湖畔の小社大沼大明神社(横志多)詳細は不明ですが、浜家苫の社と同名のため、こちらも勝世姫を祀っているものと思われます。集落のはずれの田んぼの中にひっそりと鎮座しており、細々と、且つ篤く地域の人々から信仰されていたのではないでしょうか。詳細は下のリンクからどうぞ!・東北町:大沼大明神社(横志多) 田んぼのあぜ道に鎮座する小社舘野熊野神社道忠公が都の奥方と不思議な石を使ってやり取りしたというエピソードが残されています。この時の道忠公の心情を察すると悲しくなってきます。詳細は下のリンクからどうぞ!・六戸町:舘野熊野神社 道忠公の願い届けた霊石がある熊野宮古間木薬師神社御神体として玉代姫のものとされる櫛が祀られているそうです。小川原湖に向かう途中のエピソードから派生したんでしょうか、伝説との不思議なつながりが感じられます。詳細は下のリンクからどうぞ!・三沢市:古間木薬師神社 三沢古間木のお薬師さま駆け足になりましたが、紹介はここまでになります。南部地域で長く親しまれてきた伝説なので、是非楽しんでいってください。本物の南部弁での小川原湖伝説朗読を楽しみたい方は、東北町歴史民俗資料館にて聞くことが出来ますのでご来館ください。また、小川原湖伝説はネブタの題材にもなっており、道の駅小川原湖に展示されていますので、そちらも見てみてください。おいしいバラ焼きも食べれますよ最後に、小川原湖畔にはこの伝説を語り継ぐ為に、玉代姫・勝代姫二人の像が建てられています。その表情は心なしか柔らかく、無事に二人が父と再会できたことを表しているように見えるんです。以上です。
2024年11月03日
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福島県の温泉地の中でも、特に歴史のあるものとして知られるいわき市湯本温泉。今でも通り沿いにいくつも店が並び、江戸時代の情緒を残した温泉宿も見られます。ザ・温泉地という雰囲気の町ですが、ここには温泉街にピッタリの名前を持った神社があるんです。2024.10.6温泉神社温泉地のメインストリートの突き当りに鎮座しています。社号標には延喜式内県社 温泉神社と有りますね。これほど温泉街にピッタリの名前をした神社があるでしょうか鳥居の先にはカクンと曲った参道が続いています。鳥居脇には神泉と書かれた石碑があります。そしてなんと、この石碑の頂点からは温泉が染み出しているんです。狛犬:阿。口の開きは控えめです。狛犬:吽。遠くを見つめています。境内には実際に温泉が湧いているようです。大黒天像も置かれて縁起が良さそうですね足湯の様になっていますが、入ってよいかは分かりません。足湯?の隣には、ある意味印象深い祠が置かれています。扁額の歳徳社、福富久社、竃處社からはどんなモノが祀られているのか想像もつきません。堂内には三連の厨子を中心に、左には達磨(白河達磨でしょうか?)、中央には十二支と大黒天、左には金精さまが祀られていました。ここの金精さまは特に巨大で、材料となった木も相当な大きさだと思われます。男性器だけでなく女性器型のものもあることから、子安さまなどの神格も祀られているかも知れません。更に隣には末社の稲荷宮があります。御由緒を見てみましょう。末社 常磐城稲荷神社ご由緒 温泉神社の境内には昔から瘡守稲荷神社が末社としてお祀りされており、その他別に昭和初期に「お市いなり」という祠が、当時疫病流行の折、市子という老婆に神懸りがあって、その関係者によって祀られてありました。 この瘡守様は笠間からのご分神であると云われ、当時の当町三函の里で妓楼(ぎろう)を営んでいた新亀屋こと藁谷氏が祀主となって祀ったものを、訳あって、当社に一切を奉還したものと伝えられています。 一坪半程の社殿でしたが昭和40年にその敷地の処に神社会館を 新設する為と、又建物が大分古くなって損傷したので社殿を取壊し、改めて敷地を変え新しく建設することにしましたが、中々に思うようにいきませんでしたので、本社の一隅に同床祭祀しておりました。 それから昭和45年11月に至り境内の辰巳の処に元の形に似せて再建造立をし、神号を常磐城稲荷神社(ときわぎいなりじん じゃ)と改称しました。 『ときわぎ』 とは常緑木で一年中緑の若さを保つ樹木のこと で、生成育栄、不老長寿を意味します。 また、常磐 (じょうばん)と磐城(いわき)の二字句を併せたもの で、つまり現在のいわき市 (以和貴) ということに通じます。ご祭神・宇迦之御魂神:すべての生物、人間が生命を保つ為に必要な食物を司る 『五穀豊穣と商売繁盛の神』・猿田彦神:水先案内人として先導され導き、 道路交通の守護 を司る 『天狗のモデルとなった神』・宇受女神:国内で見られたはじめての踊り子として技芸上達 を司る『猿田彦神の妃神』」Google map / 末社 常磐城稲荷神社 / オーナーより より抜粋小さな社ながら歴史たっぷりでした。茨城の笠間稲荷からの勧請です。祭神の構成は青森の高山稲荷神社と同じでした。扁額です。社の中には瘡守稲荷神社時代の扁額も有りました。読めませんが歌碑もあります。神楽殿です。拝殿右手には小祠がズラリ!右は2社が纏まっており、どちらも祭神がスサノオ神でした。・八坂神社祭神:素戔嗚命縁日:6月15日・津島神社祭神:建速須佐男命縁日:6月15日中央は下の2社です。国津神の二柱を祀っています。・三輪神社祭神:大物主神縁日:4月8・9日・出雲神社祭神:大国主神縁日:10月8日左も見てみましょう。足尾神社の祭神は葦穂大神、常立命、面足命の3柱と書かれていますが、これはおそらく常立命・面足命などの祭神を併せて葦穂大神として祀っているということを示していると思います(妄想ですが)。足尾山(あしおやま)の古名が葦穂山(あしほやま)であり、音も近いですね。・智々文神社(ちちぶじんじゃ)祭神:菅原道真命、八意思兼命、豊聡耳命(聖徳太子)縁日:2月25日・足尾神社祭神:葦穂大神、常立命、面足命縁日:2月25日湯殿山の石碑や謎の小祠も幾つかありました。拝殿です。手前の小屋に掛かった大扇子が目を引きます。この通り木彫装飾も豪華です。祭神は少彦名命、大己貴命(大国主神)、事代主命の3柱と書かれていました。ここで御由緒も見てみましょう。 上代の昔、湯の岳の山頂に鎮座在りしを天武天皇白鳳2年(西暦673年)佐波古神主の大祖小子部連鉏鈞(サヒヂ)の三男直足勅命によりこの湯本三函の地に遷座し、はじめ観音山(湯台山)の中腹にありましたが、最終に明和5年(西暦1768年)現在地に遷座したと伝えられています。大正12年に郷社に列し昭和3年県社に加列されました。 社殿奥の山中に「むすび磐境」があり、神体山である湯ノ岳山麗産の石で六体の磐境が築かれています。延喜式内 温泉神社 より抜粋内陣です。さっきの説明書きで佐波古神主とありましたが、現代でも神主は代々佐波古家が継いでいるようです。千年以上の歴史がある家系というのは・・・想像できません本殿です。ある意味今回のメインとも言えるところに来ました、本殿の裏手です。奥に見えるのが、説明書きにあったむすびの磐境だと思われます。手前の奇岩は金精さま達です。角度を変えて眺めてみると・・・そういうことです。この角度からではただの岩にしか見えません。奥に行ってみましょう。むすびの磐境の他にも小祠が二つあります。これは最奥の小祠。こっちは手前の小祠です。斜めから。神社名の通り、国内の温泉を発見したとされる2柱の神々が祀られていました。公式サイトには祭神の所に事代主神の記述は見られませんが、本当はどうなんでしょうかねぇ。境内奥のむすびの磐境は、よくある(神が降臨するとされる)磐座というよりは、形的に境界を示す標識の様にも見えます。公式サイトは現在整備中とのことですが、早く詳しい由緒を読みたいです。待ちきれません今回貰った御朱印です。通常御朱印延喜式内磐城七社御朱印以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー境内宵詣り。ライトアップはだいたい11月前半くらいからやっているようです。時期がずれて見れませんでしたが・・・。悔しさの一枚。宵詣り 斜めから御朱印帳:表御朱印帳:裏
2025年01月03日
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皆様、ゴールデンウィークはどのようにお過ごしでしょうか。僕は本開帳実施中の三浦三十三観音霊場の巡礼に望みました。本日無事結願し、明日は国府の町神事を見学して帰路に着こうと思っています。三浦半島、初めて行きましたが、かなり楽しめました暑さでだいぶやられそうになりながらも、肌を撫でる涼風と潮風とを全身で味わい尽くせました。久しぶりに海辺に来ましたが、やはり心洗われるかのよう。海無し県に住んでいる身としては、貴重な海成分を摂取出来て大満足です。帰り次第、また記事も書いて行きますので、どうぞ期待せずにお待ちください。そろそろ放置しっぱなしの三嶽神社と、磐城の延喜式内社についても書いていきたいと思います。
2026年05月04日
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帰省4か所目は胸肩神社、5か所目は岩木山神社です。弘前市の中心街から西へ西へと走ります。津軽は米どころゆえ、岩木川を超えると広大な田んぼがずーっと遠くまで続いています。どうにか岩木山の写真を撮りたかったんですが、黄砂の影響で白く霞がかかってしまいます。まあしょうがない。三つの頂点部があり、左から鳥海山、岩木山、巌鬼山となっているとか・・・。小学校の遠足で登って以来、ずっと山頂に行ってないですね。今年中に一度は登りたい。去年は百沢の方から登ったんですが、大雨で登山道がかなり削られており、途中で断念、引き返しました。2024.4.27岩木山神社夕方に行きましたが、ゴールデンウィークのためかかなりの人、人、人!すごい賑わいです。國幣岩木山神社とありますね。社各制度の名残りとか・・・。詳しくはわかりません。官社官社とは、祈年祭・新嘗祭に国から奉幣を受ける神社である。官社は神祇官が祀る官幣社と、地方官(国司)が祀る国幣社に分けられ、律令制の社格に倣ってそれぞれに大・中・小の格があり、「昇格」が行われた。官幣社・国幣社をまとめて官国幣社ともいう。主として官幣社は二十二社や天皇・皇族を祀る神社など朝廷に縁のある神社、国幣社は各国の一宮や地方の有力神社が中心である。官幣社・国幣社に実質的差異はないが、例祭について、官幣社へは皇室(宮内省 )から、国幣社へは国庫から幣帛が供進された点が異なる(祈年祭・新嘗祭はどちらも皇室から奉幣を受ける)。wikipedia 近代社各制度 より引用国庫や宮内省からの金銭的な援助があったということなんでしょうか?一の鳥居二の鳥居奥に岩木山と三の鳥居が見えます。苔や木々の緑がきれいでした。二の鳥居と三の鳥居の間に奥富士出雲神社への入り口があります。奥富士出雲神社の鳥居です。以前は拝殿を右に曲がり、右手に見える民家で御朱印をいただきました。由来が書いてあります。説明書き:百年記念碑抑奥富士出雲神社の創起は祖父寿海大人命明治6年百沢寺住職にてありしとき、明治天皇の維新更始の盛世に感激「神仏判然令」に遵ひ断然廃寺の願書を上申して之を廃し、而して土地は神社の境内に編入、樓門外高堂大廈悉神社の用に供すべき様願立、更に宝器什物等神器に成る可きは神社に寄付し、斯くして岩木山神社の根幹を作り上げし也、次いで数十戸の檀家をして悉く神祭の式を以て祖先以来の各霊を祭祀せしむべく数年間四方奔走して招致説諭し、ここに別社として出雲大神を主神に祀り、奥富士出雲神社の始歩を印せしもの也。これらの功績を奇特とし明治12年9月岩木山神社より多田寿海に対し慰労目録に添えて如上の意を含めし褒賞状一通贈られし也。斯くて壱百年の歳月流れ出雲神社の隆昌を今日に見るに至りしは偏に信徒の陰の力によるものにして、此処に百年祭を記念し建碑するもの也。管長宮司 多田昌雄 誌 昭和49年8月1日この石碑の脇には龍神様がおわします。白竜神とありますね。拝殿です。両脇に恵比寿様と大黒様がおります。恵比須様は少彦名、大黒様は大国主と同一だとされているようです。出雲の国造りを行った二柱が並んでいます。安彦良和先生の”ナムジ”でこの辺の神話は楽しみながら予習してきました。三の鳥居楼門が見えてきましたね。この橋の下の池に白いイワナ?ニジマス?がいたと思ったんですが、魚一匹泳いでいませんでした。どこへ行ったやら。楼門です。重要文化財に指定されています。朱塗りの壁が美しいですね。狛犬も心なしかシュッとしているように見えます。斜めから。神社に楼門・・・。神仏混稀の痕跡でしょうか。もともと寺だったなんて話を聞いたことがありますが。手水です。三頭の龍が水を吐いています。初めてここに来た時に、柄杓の長さに驚いたのを覚えています。お稲荷さまです。宇賀能賣神がおわします。お稲荷さんは特に別名が多いので調べるのも一苦労。こちらは多都比姫神の社で白雲神社というそう。宗像三女神の一柱で龍神・水神だそうです。ここでも水神が祀られていますね。本当に青森には水神が多い!拝殿が見えてきましたね。屋根だけ見えてる中門と拝殿が重要文化財に指定されています。ここからは見えませんが、奥門、瑞垣、本殿なども同じく重要文化財に指定されています。中門中門の額です。北門鎮護!拝殿です。注連縄が立派ですね。正月にはここで巫女さんが酒を振舞っていたような・・・。こちらも朱塗りの壁と、所々にある金色の装飾が美しい!帰りに楼門の手すりにくっついている獅子を撮りました。登っているものと降りているものがあります。調べてみると弘前市のサイトで説明がありました。下のリンクからどうぞ。いいかも弘前!! / 岩木山神社の狛犬岩木山神社の狛犬岩木山をご神体として祀る「岩木山神社(いわきやまじんじゃ)」。本殿や拝殿、楼門などが国の重要文化財に指定されており、「奥日光」とも称されます。パワースポットとしても知られている岩木山神社には、少し変わった狛犬がいます。楼門の前の玉垣にしがみついている狛犬と一緒に写真を撮ると、上向きのものは金運を、下向きのものは恋愛運を向上させると言われています。岩木山神社を訪れたときは、ぜひ探してみてください。上向き(金運、上がるもの)下向き(恋愛運、落ちるもの)最後に御由緒です。岩木山神社【祭神】顕國魂神うつしくにたまのかみ多都比姫神たつひひめのかみ宇賀能賣神うがのめのかみ大山祇神おおやまづみのかみ坂上刈田麿命さかのうえのかりたまろのみこと【由緒沿革】当社は昔から「お岩木さま」「お山」と親しんで呼ばれ、陸奥津軽の開拓の神、農海産物の守護神、また祖霊の座すところとして崇められてまいりました。神山・霊山である岩木山は津軽全土から仰望せられ、人々に慈しみの徳を授けたまい、郷土人の生活と心のよりどころであります。岩木山大神は太古より神霊岩木嶺にお鎮まりになられ、今から約1200年前、宝亀11年(780)に社殿を山頂に創建したのが当社の起りであります。延暦19年(800)に、征夷大将軍 坂上田村麿がこれを再建し、別に山麓である十腰内の里に下居宮を建立して、山頂を奥宮と称し、寛治5年(1091)神宣により、下居宮を現在地に奉遷いたしました。その後、世々の地頭・領主何れもがよく崇敬の赤誠をつくし、江戸時代には津軽藩主 為信・信牧・信義・信政により大造営が行われ、近代には崇敬者の熱意を集めて、建造物、諸施設とも整い、名実共にその偉容を誇り、畏き辺りも日本の北門鎮護の名社として、農業・漁業・商工業・医薬・交通関係、とりわけ開運福の神として、色々の宗派を超え、深い信仰の源として厚く崇敬されております。新しき時代に向かい、ご神徳のまにまに、日本人の心の絆としてひとしく拝し、ご神威ますます輝かしく仰ぎ奉られるのであります。大國魂鎮守 旧國幣社。北門鎮護 岩木山神社 / 由緒 より引用祭神の顕國魂神(大国主の異名の一つ)、多都比姫神、宇賀能賣神、大山祇神、坂上刈田麿命(坂上田村麻呂の父)を合わせて岩木山大神というそうです。奥富士出雲神社に顕國魂神、白雲神社に多都比姫神、稲荷神社に宇賀能賣神が祀られているということなんでしょうか。だとしたらあと二柱はそれぞれどこに祀られているんですかね?奥宮に大山祇神、本殿に坂上刈田麿命だろうか。とにかく、今回久しぶりに詣でることができてうれしかったです。次回はお山参詣に参加して奥宮まで行ってみたいです以前貰った御朱印です。奥富士出雲神社岩木山神社以上です。2024.8.3夏詣出お盆前に前乗りして津軽に遠征していたんですが、岩木山 求聞寺の参拝後に遠くから掛け声と囃子が聞こえて来たんです。”さーいぎさいぎ”という声に導かれて岩木山神社の方に抜けると、白い装束を着た保育園児と先生方が旗を担ぎ、演奏しながら参道を登っています。僕だけでなく周りにいた人たちまでもが、自然とその列にかだって拝殿の方に進んでいきます。佞武多囃子よりもゆっくりとした、不思議なテンポにノセられて、そのままお参りしてしまいました。本来のお山参詣はもっとすごいんでしょうねこの記事を書いた時には、”今年はお山参詣に参加して・・・”と言っていましたが、いろいろと都合が合わず、参加できないことが決定していました・・・。なので今回少しでもお山参詣の空気感を味わえて本当によかったです。菅江真澄も1785年の8月にお山参詣をする集団を見かけており、「外が浜風」にて次のように記述しています。十五日 笛、つづみがなりどよめいて、さんげさんげと大ぜいの声でとなえ、通り過ぎてゆくのは、この月のはじめからきょうを最後として、岩木山に詣でのぼる優婆塞(在家の山伏)たちであった。また注釈には・・・津軽平野の人たちが幣や幟を押し立てて岩木山へのぼる風習は、今でもさかんである。むかしは女人禁制であった。五穀豊穣を祈願し、また感謝するもので、登山者は一週間精進潔斎し、白装束に身をかためてのぼり、頂上の奧宮を拝んで下ってきた。とあります。昔から続けられているお山参詣ですが、当初は身を浄めて臨んだり、女人禁制だったりと、今より数段厳しい決まり事が多くあったようです。現在は誰でも岩木山に入ることが出来ますし、頂上付近へだって車で行けてしまいます。こんなにも岩木山を取り巻く環境は変わっているようですが、誰でも岩木山に親しむことが出来る様になっているというのもまた良い事だと思うのです。いつまでもお山参詣が続いていくことを願って終わりにします。以上です。2024.8.21こちらからも由来を確認できます。・新編弘前市史 / 通史編3(近世2) 473ページ / 下居宮この由緒では主に神仏混淆の百沢寺時代のものが書かれています。百沢寺の本尊などが移されたのは津軽八十八霊場五十番札所:太平山 長勝寺、山頂の聖観音が移されたのは津軽八十八霊場六十二番札所:阿闍羅山 専稱院みたいです。特に後者は津軽龍神霊場の札所にもなっています。以下全文です。下居宮 下居宮(おりいのみや・現岩木山神社・中津軽郡岩木町)は岩木山三所大権現を祀る。岩木山を神体として祀ることは古くから行われてきており、安寿と厨子王、田光沼(たっぴぬま)の竜女、赤倉の鬼神、坂上田村麻呂などの創建伝説を伝える(小舘衷三『岩木山信仰史』1975年 北方新社刊)。 寛治5年(1091年)、神託により北麓から100の沢を越えて南麓に移り百沢寺(ひゃくたくじ)と称した。天台系の密教(台密・だいみつ)の影響を受け、熊野三山を岩木山に充て、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説により中央の国常立命(くにとこたちのみこと)を阿弥陀如来とし、岩木山 百沢寺 光明院と左峰の国安珠姫(くにやすたまひめ・田都比姫)を十一面観音とし、十腰内の巖鬼山 西方寺 観音院と右峰の大己貴命(おおなむちのみこと)を薬師如来として松代の鳥海山 永平寺 景光院に配置し、岩木三所大権現とした(「津軽一統志」)。山頂に奥宮本宮、里宮として下居宮が建てられた。天正17年(1589年)の岩木山の噴火で諸堂が焼失したといわれ、津軽初代為信が慶長6年(1601年)に下居宮、同8年に大堂を再建、寺領400石を寄進し塔頭10院と神主 安倍を配した(資料近世1No.一七一、正徳元年の「寺社領分限帳」)。 享和3年(1803年)の「寺社領分限帳」(資料近世2No.三九九)によれば、大堂(拝殿)の本尊:阿弥陀如来と脇立の十一面観音・薬師如来は津軽二代信政、本尊を納める「御宮殿」と呼ばれる厨子は津軽三代信義が寄進した。神仏分離で百沢寺は廃寺となり、本尊と厨子、棟札は長勝寺、山頂の聖観音は専称院(現南津軽郡大鰐町)へ移された。岩木山は止山(とめやま)で平常は入山を禁止されたが、8月1日(八朔)から15日までは「お山参詣」が許され、村落ごとに豊山祈願のための登拝が行われた(黒瀧十二郎『弘前藩政の諸問題』1997年 北方新社刊)。以上です。2024.12.31締詣出今年の津軽は異常な積雪で、どこもかしこも雪の山。毎年ではないにしろ、こんな量の雪が積もったら、鳥居も社殿も直ぐに潰されてしまいます。奥富士出雲神社に寄ります。恵比寿さんの竿にはおみくじがいっぱい。拝殿です。では山門。雪化粧というやつでしょうか、なかなかこの姿も素晴らしい・・・!白と赤の対比が映えます。山門の右大臣。左大臣。岩木山神社は奥日光と言われるだけあって、こうした像も作りが精巧です。拝殿から玉垣からモサモサの雪に覆われています。ただ最も恐ろしいのが、階段も凍ってしまっていることです。今年の干支は巳ですか。一代守護本尊で言うと引き続き普賢菩薩。拝殿です。雪が落ちてくる前にさっさと拝んで退散しました。今年は岩木山神社から山頂本宮までの登拝を予定しています。茨城の友達は登山経験者なので、彼にかだってわも上で拝みてんずや。今年絶対やるはんで!以上です。2025.8.13登拝 2025↑で宣言していた通り、お盆休みを利用して岩木山登拝を敢行しました。かなりの猛暑で中止も考えていたんですが、同道する予定の茨城の友人に一喝され、気を引き締め直して登拝に臨みます。導師は茨城県の友人。彼は登山勢であり、今回ペースメーカーを務めてくれました。僕は急いで登りがちなので、彼がいなくては登拝出来なかったでしょう。道中の名所やかかった時間などは、YAMAPの方の記事をご覧ください。登り始めは夜明け前、ぼんやりと東の空が白んでくる頃、岩木山神社の鳥居をくぐります。岩木山神社で道中安全を祈願し、友人の般若心経読経を聴きます。岩木山神社ももとは岩木山 百澤寺という真言宗寺院でした。神仏混淆の霊場であり、岩木山三所大権現を本地仏とする津軽の一大山岳霊場なのです。その歴史に想いを馳せれば、神前読経も自然なことでしょう。いろいろと儀式(?)を済ませて、山門脇の登山道を進んでいきます。途中百沢のスキー場に出るんですが、ここから眺める岩木山も近い様で遠く、今からあそこに登るのかと思うと、胸が高鳴り武者震いしてしまいます。ふと振り返ると、ポツポツと灯る町明かりと、山を覆う雲海が陽光に照らされていました。津軽の文化の中心地である弘前の街は、岩木山のお膝元に広がっているのです。序盤はまだカワイイもんですが、この鼻コクリという急坂は結構きついです。長い上に急で、ペースを間違えるとここで力尽きてしまうでしょう。登山道も中ほどまで来ると、姥石という巨石が置かれています。岩木山は、昔は女人禁制の御山であり、女性の方はここまでしか立ち入ることが出来ませんでした。成人の儀式として岩木山登拝を終えた息子さんを、沢山の母さま方がここでお迎えしたんだとか。更に山形県の宝珠山 立石寺・高瀧山 光明院 奥之院などに見られるんですが、古来霊場と現世との境には奪衣婆が置かれていた様なんです。もしかするとこの姥石も奪衣婆の代わりなんじゃないか、なんて考えてしまいました。山頂がほど近くなってきた頃、僕は力尽きそうになっていました。日もだんだんと高くなって、容赦無く体に照りつけてきます。茨城の友人は快適そうなんですが、僕は絞れる程びしょびしょになったシャツをはたきながら、息を荒げて足をよろつかせフラフラと登っていきます。暑さもひどく限界だと思っていると、天の救いかしゃっこい湧水が!錫杖清水と呼ばれるこの清水で顔と手を洗うと、気も高ぶり一気に元気が湧いてきます。かつての岩木山修験たちも、この清水に助けられたんではないでしょうか。鳳鳴ヒュッテの近くまで来ると、もう山頂に手が届くぐらいの距離です。ヒュッテのすぐ下には種蒔苗代という泉があります。かつてはここで”散供打ち”という供物の浮き沈みで吉凶を占う儀式が行われていたと言います。散供打ちは十和田神社の物が有名で、その影響か南部地方の小さな神社などでも散供打ちを行う場所が有ったり、当地域と深く結びついている風習と言えるのではないでしょうか。十和田神社は永福寺(現:宝珠盛岡山 永福寺)という真言宗寺院が祭祀を努めていた霊場で、かつては十湾寺と号する寺院だったそうです。霊場には熊野系の修験しか立ち入れなかったようで、そこから察するに系統不明の岩木山修験も、熊野系の修験の影響を受けている可能性があるのではないでしょうか。近代になって津軽地域に多数勧請された飛龍大権現も、熊野那智大社の飛瀧神社から勧請したものであり、熊野信仰が津軽地方にも深く浸透している事を示していると思います。ヒュッテのすぐ脇には御倉石という奇岩があります。ここには面白い伝説が残っております。なんでも「津軽の人たちは死後祖霊となってここに籠る」んだとか。雰囲気的に恐山や熊野三山に似た感じですよね。祖霊はその土地の最も有名な霊場に祀られることが多いと思うのですが、津軽においては岩木山がその役割を努めているのでしょうね。それではヒュッテから山頂を目指しましょう。数十分で山頂に着きます。もうひと踏ん張り!雲を突き抜けて屹立する岩木山。こんな素晴らしい山が信仰対象にならないことがあるでしょうか。遂に登頂岩木山!もう既にかなり疲労していますが、山頂からの景色を拝めばそれも吹き飛びます。腹ごしらえしたいところですが、先ずは奥宮を拝みましょう。軒下に人2人が丁度納まるくらいの大きさの石祠。これが岩木山神社奥宮です。祠の中には3つの幣と共に神鏡が収められています。岩木山信仰の根幹です。言い伝えでは、かつてこの祠に聖観音像が置かれていたんだとか。岩木山の本地仏は阿弥陀如来ですので少々妙ですが、観音信仰の篤い津軽地方であれば不思議はないでしょう。明治の神仏分離に際して、大鰐町の阿闍羅山 専稱院に移されましたが、こちらでも阿闍羅山に登拝する”お山参詣”で使用されているんだとか。祠の前はこの通り切り立った斜面で、この下には岩木山神社が境内を構えています。奥宮は岩木山神社の方を向いて建っているんですねぇ。祠の前にて茨城の友人と2人して般若心経を唱えます。故郷の霊山に登拝出来たことをこれほどまでに実感することは、これを除いて後にも先にも無いでしょうね。本当に最高の体験でしたぼちぼち下山するんですが、わがままを言って鳥海山にも向かいました。中央に見える御倉岩、その右奥のロープウェイ駅、そこから左にちょこっと行った所が鳥海山です。鳥海山の山頂には巨岩が転がっています。たげだ数のダラっこあげであってびっくりしたじゃ!こちらも篤く祀られていました。下山する途中、岩木山の火口前で一休み。直近では16世紀に一度火を噴いており、その際岩木山神社の社殿の殆どが焼失します。それを再興したのは、後に当地域に覇を唱える津軽氏一門です。下山も下山で相当にきつかったです。急な斜面のせいで、つま先と膝にかなりの負担がかかり、麓に着くころには比喩ではなく膝が笑っていました。一度食堂で登拝成功の打ち上げをしてから、再度岩木山神社を参拝しました。やはり参道から望む巨大な随神門は最高ですね!北の地に建つ最高の(元)仏閣です。津軽産のベンガラは遠く栃木の日光東照宮にも使用されています。奥日光とも称される岩木山神社も、赤く染められた社殿が本当に美しいんです!本当に無事登拝出来て良かったです。これで故郷にて思い残すことは殆ど無くなりました。新しい土地で新しい寺院や神社と向き合い、生活していく糧と成ります。この日の登山は、未来永劫忘れることは無いでしょう以上です。
2024年04月29日
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目屋の奥は深い森や山地が広がっているんですが、それ故か霊場がいくつも点在しています。今回の岩谷観音堂もその一つで、かの行基菩薩が開創したと言われています。人が寄り付かない川岸の岸壁に出来た洞窟、そんな場所に造られた観音堂です。津軽三十三観音霊場番外札所:岩谷観音堂グーグルマップを頼りに岩谷観音に向かっていると、右側に看板を見つけました。停車して読んでみると、”鷹ノ巣”と書いています。看板背後の絶壁の事を指していて、確かに見事な岩壁だと、いつの間にか見とれていました。自然の力ってすごいなぁ説明書きです。鷹ノ巣いつの頃からか岩窟に大鷹がすみつき、この一つがいは人畜にも農作物にも一度として危害を加えたことがないことから、村人は神のように敬い、何か国内に事変があると、それに先立って姿を消すので、”霊鳥”と言われていた。昭和に入ってその崖ぶちに林道が開通し、人馬の往来が激しくなってからは、大事な巣を捨て、何処かへ飛び去り、二度とその姿を見ることができなくなった。さっきの看板から少し行くと鳥居が見えました。近くに駐車場もあるので、車でも安心。ここは下に下がっていく参道として有名らしいです。確かに参道は上がるものと言う感じがしますね。では行ってみます。説明書きです。岩谷観世音藩政時代に、川辺村の唐牛三左衛門が南部で、木戸の上に座し二本の角がある神馬を買い求めた。ある日、三左衛門は岩木川伝いに今の岩谷観世音前までの途中、めまいを起しふらふらとなり落馬し、気がつくと鞍はお倉と呼ばれる岸壁に、馬は川沿いの洞窟に倒れていた。三左衛門はいたく悲しみ、早速岩谷(岩壁の窪地)内にお堂を建てて馬の霊を弔ったのが由来として伝えられている。聞いていた由緒とは違う話ですね。南部馬は平安の頃には既に文献記録として残っているそうなので、かなりの歴史があるみたいです。今は混血によって純粋な南部馬は絶滅したとされているようです。二本角の南部馬・・・見てみたいねぇ招き猫。???参道は下りのみ。ありがたいことに手すりもついてます。どんどん川の方に向かっていますが大丈夫でしょうか。当に川岸ですね。三十三観音の札所の中でも、相当危険度の高い札所なんじゃないですかね。一位は九番札所:見入山 大悲閣 一択ですが・・・。岩壁の一部がえぐれて洞窟になっています。ここで神馬が倒れていたのかな・・・?見上げると懸造の社がありました。階段で上まで登れます。登り切るとスタンプが有りますが、これは三十三観音のものではありません。小祠があります。すぐ横を水がしたたり落ちていました。こんな場所に祠があるなんて誰も思わないと思います。ここの本尊は二番札所の記事でも書いた”花咲観音”なんですが、多賀神社を経て、現在は弘前市の桜庭山陽光院に納められています。この観音像は本来の本尊ではないでしょうが、そんな素晴らしい観音像がここにあった事を想いながら、お祈りしました。御詠歌萬代の 誓いをここに頼みおく 水は苔より 出ずる宮かな本尊:花咲観音(千手観音) सहस्रभुज※朱印所:三十三番札所の観音山普門院参道から逸れたところに、鷹ノ巣まで歩いて行ける遊歩道入り口が有ります。マタギ小屋、炭焼き小屋などがあって面白かったです。そこに向かうまでの橋から景色を見てみます。上流方向。下流方向。ここからでも窪んでいることが分かります。一体どうやってこんな場所を見つけたんでしょうか?以前貰った御朱印です。以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー鷹ノ巣と岩谷観世音
2024年07月21日
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洋野町の山手側、大野の地に鳴雷神を祀る神社が有ります。黄泉雷神の一柱として知られる鳴雷神ですが、この神社では大きく雷を司る神として捉えられている様なんです。雨を降らせることから、稲の成長とも関りがあるとされる雷ですが、当地では田んぼが多く、こうした神格に対する崇敬も篤かったんではないでしょうか。鳴雷神社大野の村を走っていると大きな鳥居が見えたので近くに停車、お参りすることに。二之鳥居です。隣には社号標も見えます。参道は一本道で拝殿まで続いています。まずは摂社などから見ていきましょう。参道脇の手水舎です。きれいな社ですが、現在はコロナ対策で消毒液が置かれるのみです。神楽殿です。その横には摂社の猿田彦神社があります。小さいながらも行燈や注連縄などのアメニティが充実しており、こちらも崇敬が篤いのかもしれません。文化財に関する説明書きがありました。右:洋野町指定有形文化財大日霊神社 文政8年(1825年)、文政9年(1826年) 俳諧献額一面指定日平成27年6月29日指定理由八戸藩・盛岡藩領内などの著名な俳人の句が掲載されている額(額が事情により鳴雷神社拝殿に掲示されております)洋野町教育委員会左:洋野町指定有形文化財鳴雷神社 文政6年(1823年) 俳諧献額一面指定日平成27年6月29日指定理由八戸藩七代藩主信房公の句が記載され、年号が入った額では初の確認である(拝殿に掲示されております)洋野町教育委員会今回どちらの額も写真撮りできませんでした・・・。大日霊神社の方も参拝しようとしたんですが(同大野村内)、参道の橋が壊れて通行禁止となっており、すごすごと退散するしかありませんでした。いつか参拝したいんですが・・・。神楽殿の脇に立派な木が生えており、根元には小祠が建っています。おそらく御神木でしょう。参道を挟んで反対側には、祓戸と書かれた額が下がる低い鳥居があります。この鳥居の横に説明書きがありました。それが言うことにゃ・・・祓戸大神祓えども祓えども なお足らざるは祓いなり私たちは、日々知らず知らずの内に過ちや罪を犯し、穢れに触れながら生きています。これはすなわち、生活環境の不安、心身発病の元始であります。日頃より「自祓い」をして心身を清め、感謝と慎みの心を持って心豊かな生活を送りましょう。神社の茅の輪くぐりと似たような方法です。あれも年越しや夏に行う大祓の行事だったと思いますが、なにやら関連がありそうです。鳥居をくぐると”祓戸大神”とかかれた石碑が建っていました。遂に拝殿です。割と大きく立派な社で、篤い崇敬を表しているように感じました。ここで御由緒を見てみましょう。鳴雷神社(洋野町大野)御祭神:鳴雷大神例祭日:8月17日由緒 宝暦8年(1758年)9月勧請という。京都上加茂の別雷神社(元官幣大社)の今宮として明治38年(1905年)3月村社に昇格した。 旧藩時代には、藩主(八戸藩主)南部公の尊崇も厚かったという。僻村の地方神社としては著名で、遠くは江戸の商人和泉屋甚兵衛は文化14年(1817年)4月、石造の狛犬一対を社前に奉納しご神徳をたたえている。 また隣接の八戸・久慈・中野村等の崇拝も厚く、幕末期に彼等より奉納された木製大形絵馬5、6枚が掲げられており、ご神徳がしのばれている。 自然現象を畏れ敬い、雷神(鳴雷)を祭神とする信仰は、荘厳な神格ある別雷神の威望を傷つけることなく熔合し、御神徳いよいよ昂揚し、我が大野村では大昔より天災・地災・火災等のあったことを聞かない。 祭典は毎年5月17日より3日間執行されているが、慶応2年(1866年)より、祭典に際し神輿の渡御の行列が荘重に執り行われ、多数の拝観者が沿道にならび、街はことのほか賑う。岩手県内 神社検索(岩手県神道青年会作成) / 鳴雷神社 より抜粋由緒を見る限り、元からあったのは雷を神格化して祀る信仰だったんだと思います。明治38年の村社昇格の理由が上加茂神社の今宮であることと書いてあります。この時には別雷命を祀っていたということを表しているのでしょうか?なかなかに謎が多い神社ですねぇ。ただどちらにせよ雷神ということで、雷の信仰と関係のある神社といえますこの通り木彫も素晴らしいです。蟇股の龍の更に上に、怪物と戦う侍の木彫がありますが、これは何の物語がモチーフになっているんでしょうか?扁額です。斜めから。鳴雷神社のある洋野町大野は、江戸時代には八戸藩領であり、そのためか八戸藩主からの崇敬も篤かったようです。現在でも大野の村は周囲を山に囲まれた僻地ではありますが、このような素晴らしい社殿の神社を擁する土地であります。18世紀の創建と、割と新しめの神社ですが、村の産業基盤である農業を守護するということで、村中はもとより周辺地域からの崇敬も限りないと言い伝えられております。今回貰った御朱印です。以上です。
2024年12月25日
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長勝寺構の端、少々小高くなった所に杉林が広がっています。周りには民家が多く、ここだけ昔の姿が保存されているかの様です。この杉林の先に、津軽三十三観音霊場の打ち納めの札所が置かれているんです。津軽三十三観音霊場三十三番札所:観音山 普門院空を覆うかのように鬱蒼とした杉の林。この石段から先はまるで別世界です。参道をいくと最奥の観音堂を中心に様々な御堂が置かれています。それでは境内の御堂を見ていきましょう。先ずは延命地蔵堂から。内部には子供の背丈位の地蔵尊石像が置かれていました。後ろに置かれた人形は冥婚などと関係しているんでしょうか?金木の賽の河原地蔵堂でも同じものを見た気がします。延命地蔵堂の左隣には古式ゆかしい鐘楼と閻魔堂が置かれていました。閻魔堂内陣には巨大な閻魔・奪衣婆像が置かれていました。服の彩色なども豪華で相当に素晴らしい尊像です。浄玻璃の鏡ではありませんが、2体の像の前には神鏡が置かれているのも面白いですね。何かしらの神格が守護として置かれていたんではないでしょうか。その像の基に如意輪観音像や十王像が置かれています。こちらも彩色されており、時代の風雪を感じさせるくらいには塗が剥がれていますが、それでも優れた像に代わりはありません。更に隣には身代観音堂。内部には絵馬と共に大量の観音像が置かれていました。その中に埴輪がまぎれているのが少々気になりますね身代観音堂の脇には鎮守のものか、稲荷堂が置かれています。中には荼枳尼天が置かれています。白狐に乗った面白い姿の神格です。像の隣には高山稲荷神社の木幣があり、この御堂に勧請されているんではないでしょうか。そして観音堂。こちらの説明は津軽八十八霊場の記事でしていますので、そちらもご覧ください!観音堂内には中央の厨子を中心にして、三十三観音像が安置されています。中央の厨子には本尊の聖観音像が収められているものと思います。聖徳太子の作とされる古仏ですが、当に納めの札所の本尊として相応しいものですそれでは最後に、本堂に納められている円空仏を見てみましょう。穏やかな表情を湛えた十一面観音像です。これは円空和尚によって作像され、寛文年間(1661~1672年)に奉納されました。全国を巡ったとされる円空和尚の痕跡がここにも残っています。斜めから。長らく続いた津軽三十三観音巡礼もここで結願を迎えます・・・。ここで購入できる津軽三十三観音霊場の札所が描かれた版画絵、思わず購入してしまいました・・・。良い記念品になると思うので、巡礼の記念にこちらもチェックして見てください御詠歌今までは 親と頼みし笈ずるを 末茂森の 御堂に納める本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर以前貰った御朱印です。今回貰った御朱印です。以上です。次の記事・番外札所:岩谷観音堂 河岸岸壁に造られた観音堂
2025年05月08日
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ゴールデンウィークで里帰りしたので、好きな神社仏閣を巡って来ました。一か所目は青森市に鎮座する諏訪神社です。2024.4.27諏訪神社堤川の土手沿いに歩いていると鳥居が見えてきます。隣には成田山青森寺があり、ここは津軽弘法大師霊場17番・東北三十六不動尊霊場17番に指定されています。まずは一の鳥居。すぐ後ろに桜が生えています。満開は逃しましたが十分きれいでした。二の鳥居です。五色の旗がたなびいて、お不動さんを祀る寺のような雰囲気があります。手水が何とイルカ!”イルカの諏訪詣り”伝説のある、ここならではのものでしょうか。拝殿です。ドデカい額に諏訪神社とあります。社殿もかなり立派ですなぁ!拝殿脇には三連猿田彦お堂がありました。なんで三つも連なっているのか不思議です。何はともあれ桜がきれいです。拝殿脇の小さな鳥居。裏の”文芸の小道”の方に出られます。この小道を浅虫方面に少し歩けば有名な激辛ネギラーメンを出すお店があります。お気に入りのお店です。説明書きです。御朱印と同じ筆跡・・・!良いですね!諏訪神社御祭神:武御名方神、猿田彦神、護国の英霊例祭日:7月27日寛弘年中(1004~1012年,平安時代中期)藤原実方朝臣の勧請により造道村浪打に鎮座したのに始まる。寛永8年(1631年,江戸時代初め)青森港開発奉行森山彌七郎が航海安全開港の守護神として堤川中洲に遷座。以来歴代弘前藩主を始め民衆の崇敬篤く元禄年中まで青森五社の筆頭と崇められた。明治5年青森大火により社殿焼失。現在地に遷座。昭和20年戦火により社殿焼失するも昭和24年旧招魂堂を社殿として移築再建。昭和47年本殿造営。昭和52年参集殿を新築。平成16年には御鎮座1000年祭が斎行された。御神徳:水の神として農業漁業商工業船舶海上交通安全の守護神として広く信仰を集めている。こちらも同じく説明書きです諏訪神社祭神:武御名方神、猿田彦大神、青森市出身の英霊 堤橋のたもとに鎮座する諏訪神社は、寛弘年中(1004~1012年)に藩政時代でいう造道村浪打(現:青森市)に鎮座したのを始まりとする。 寛永8年(1631年)、森山弥七郎が発起となり、青森町と海上の安全のため、堤川の中州(現:青柳2丁目)に遷座したと伝えられる。青森五社のひとつに数えられ、弘前藩主のほか黒石津軽家当主がここを訪れたという記録が残っている。また、万延元年(1860年)の記録では、鳥居は御影石で、狛犬も手水石も見事であったという。そして、門前には水茶屋や酒肴の看板が掲げられ、菓子や果物を売る声も聞こえる賑やかな門前であったようだ。 明治5年(1872年)3月25日、松森町(現:堤町1丁目・青柳2丁目)の大火で、青森町の名勝のひとつという拝殿をはじめ、境内にある鏡の井、逆手の桜といった古井・名樹などのすべてを焼失したと伝えられる。その後、火災の危険を考え、現在の栄町1丁目に移転した。なお、この神社には「イルカの諏訪詣り」という伝説が残されている。 昭和20年(1945年)7月、青森大空襲で全焼、現在の拝殿は、合浦公園内にあった招魂堂を移転改築したものである。 平成16年(2004年)には鎮座1000年の節目を迎え、盛大に奉祝大祭が挙行された。祭神は、武御名方神、猿田彦大神。例祭日は7月27日。イルカの諏訪詣りについて諏訪神社のサイトには 古来より諏訪神社に関わる伝説として、祭日に海豚が群れをなして堤川をのぼり参詣するという伝説があります。工藤白龍著「津軽俗説選」(天明6年・1786年著)に下の如く記されています。海豚伝説 東濱におこ婦と云ふ魚あり 毎月一度づつ上磯より十疋二十疋と揃ふて 堤川口入り 青森諏訪の社へ参詣するといへり (大体上八日 下八日 此事あり) 不測なる事は 浮つ沈みつ游ぎ來るに 鎭守の毘沙門の前沖に至りては形一向見へず 其處を過ぎて あらはれ出るといへりとあります。青森だけでなく日本各地で同じような説話が残っているようです。西洋ではイルカは魂を運ぶ動物と考えられていたと何かで読んだような気がしますが、洋の東西を問わず、イルカに何かしらの神秘性を感じていたのは面白いですよね。今回御朱印は貰いませんでしたが、以前貰ったものを揚げておきます。イルカのひれの様な形で始まる諏訪神社の4字は、↑の伝説を思い起こさせてくれるのでかなり好きです!公式サイトへのリンクです。・青森港守護神 諏訪神社以上です。2026.3.28見納め詣出今回は堤川からスタートです。田子南部氏の庶流 堤南部初代弾正光康によって整備されたと伝わる(あくまでも伝説)堤川ですが、かつてこの川をイルカが群れで遡り、諏訪神社を参拝したという伝説が残っております。堤橋の橋梁には、かつて流域に住んでいた善知鳥の石像が付けられています。青森の旧地名は善知鳥村です。名前からも如何に善知鳥が身近な鳥だったかが伺えます。中には親子のものも。こうした仲睦まじい姿が、善知鳥安方の伝説のもとになっているんではないでしょうか。イルカの諏訪詣りの舞台、諏訪神社に参拝してみましょう。まだまだ雪囲いが残る境内には、今でも豪雪の痕跡とジャケ雪が散らばっています。二之鳥居。立派な狛犬を添えて。手水は健在です。イルカの手水はここくらいでしょうねぇ!拝殿です。諏訪神社の拝殿は元の護国神社のものです。これには珍しく向拝が付いておらず、その為か冬には入口が雪に直接さらされてしまいます。神社によっては冬季のみこうした雪囲いが付けられる例があり、ここもそうらしいですね。拝殿脇の提灯には一葉・五根の梶の葉が描かれています。うーむ、下社からの分霊なんでしょうか。なんにせよ、どちらの大社とも神紋は異なります。仮設向拝には”イルカの諏訪詣り伝説”の絵馬が掲示されています。大きな白イルカが、他のイルカを先導して川を上っていきます。こうした伝説が残っているからには、これに類する出来事が実際にあったんではないでしょうか。斜めから。何気に11世紀初頭創建の古社であり、津軽でも最古級の神社です。南部氏も諏訪神社を崇敬しており、現在も南部町には古い諏訪神社が数社あります。この青森の諏訪神社は、伝説上ではあるものの、南部氏入部以前よりの鎮座という事で、だれが諏訪信仰を津軽に持ち込んだのか非常に気になります。古社には伝説を、信仰には歴史を。・・・という事で面白い諏訪神社でした今回貰った御朱印です。以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー冬の姿
2024年04月28日
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南部町の中でも岩手との県境に位置する鳥谷集落。そこにひっそりと観音堂が鎮座しています。義経北行伝説とも関係の深い観音堂です。今回もお付き合いください。奥州南部糠部三十三観音二十番札所:矢立観音今回の観音堂は鳥居がありません(普通のことですが)。つまり目印がありません、ということでお越しの際は通り過ぎないようにお気を付けください。村落内の細い道を進んでいくと、山中に小さな観音堂が見えてきました。観音堂脇には御朱印入れがありました。ここでセルフで判を押すことができます。拝殿です。今の観音堂は移築されたものなのですが、もとは源義経が放った矢が突き刺さったとされる場所にあったらしいです。ガイドブックによると、矢を放った場所が「矢放(やっぱなし)」、矢が通り過ぎた場所が「鳥谷(とりや→通り矢)」、矢が突き刺さったのが「矢立(やたて)」という所らしいです。矢を射させて、矢が刺さった場所をどうこうという逸話は東北のみならず、様々残っていると思います。今回の伝承もその一つなんでしょうか。八戸には弁慶が放った矢が刺さったとされる矢止めの清水というスポットがありますが、何だか似ていますね。この札所も、当時の人達に崇敬されたが故に、そうした逸話が付されたのかもしれません。御詠歌とやかくと 恵み矢立の観世音 導き給え 知るも知らぬもとやかくと めぐみやたてのかんぜおん みちびきたまえ しるもしらぬも本尊:十一面観音 एकदशमुख今回貰った御朱印です。以上です。次の記事二十一番札所:野瀬観音 旅の博徒の観音堂
2024年06月06日
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六月初めの土日に福一満虚空蔵菩薩堂と龍興山神社合同の春祭りがありました。龍興山神社の方は例祭になります。普段とは違って、参道にはのぼりが立ち並び、ライトアップされ、手水も華爛漫というハレの日具合きつい参道もワツワツと登っていき、身体健康を祈ってきました。龍興山神社福一満虚空蔵菩薩堂と道路を挟んで向かい側に一の鳥居があります。非常に年季が入っており、苔むしてきそうな具合です。参道の左右には天照皇大神・金刀比羅大権現・熊野山大権現の石碑、鹿嶋大明神の石碑がありました。少し進むと危険な階段が待っています。風情があって好きなんですが、石が不揃いで歩きづらいので十分に注意して降ります。ここを乗り越えればすぐに神社の境内に入れます。見えてきました。朱塗りの橋を越えれば龍興山神社の境内です。参道にはこのレベルの大木がゴロゴロ生えています。互いの根が絡み合い階段のようになっているので、歩くのに難はありません。手水がすごいことになっています。もったいないので、近くの小川で手を清めました。駒形神社です。例祭・元旦の時には授与所になります。お守り、お札、御朱印など普段は手に入らないものが並びます。この日は神前に大根や果物などの捧げものが置かれ、当に祭に来たという感じがしました。御朱印も手に入ったところで、拝殿目指して山上りせん。参道脇の小祠には観音様がいました。こちらは龍神社でしょうか。側面の彫刻が迫力ありますね!参道はこんな感じ。最初は緩いですが、徐々に坂が急になっていきます。少し登ると小さな社が見えてきます。右の社には十二山ノ神が祀られています。左には倉稲魂命と大己尊命(大国主)が祀られています。古い鳥居がありました。この先は通行止めです。看板に秋葉神社とあるので、昔はその参道だったのかもしれません。加具土命を祀る神社ですね。参道もクライマックスです!左が鎖を使って登っていく超急な道、右が比較的緩いけど心が折れる坂道となってます。今回は右の道を選びました。左の道右の道汗だくになりながらなんとか拝殿に到着。狛犬の前の道は、急な方の道とつながっているので、おそらくそっちが本当の参道なんでしょう。拝殿脇の水桶にも、本日は花が咲き乱れていました。拝殿正面です。古い社ですが、すごく手が入っていてきれいでした。管理者の方はこの道を何往復もしているかと思うと・・・。木彫も素晴らしいです。すごく立体感があります。拝殿の左脇には、創建者である平重盛像と祠がありました。簡単に由緒を紹介します。治承元年(1177年)、父清盛の強引なやり方に意見した息子重盛は、意見が聞き入れられないと分かるや京を去り、陸奥のこの地を隠居の地としたそうです。兜の前立てに隠して持ってきた虚空蔵菩薩像を浅田山(龍興山)山頂に祀り、虚空蔵菩薩堂としました。貞享4年(1687年)には本尊が高松寺に引き渡され、明治15年には廃仏毀釈により現在の福一満虚空蔵菩薩堂に遷座するなど、波乱の歴史です。福一満虚空蔵菩薩堂は現在高松寺が管理し、龍興山神社とは異なる堂宇となっています。現在の龍興山神社には、虚空蔵菩薩の代わりに大綿津見神(豊玉彦命)が祀られており、県内外から漁業関係者が参拝に訪れるそうです。由緒の通り龍興山神社は福一満虚空蔵菩薩堂と深い縁があります。合同で祭を催すのもそのためでしょうか。平重盛がこの地まで来た、というのは信じ難いですよね。源義経、武内宿禰、藤原諸江など落人伝説に事欠かない地ですので、今回もその一つだと思います。廃仏毀釈により、祭神を豊玉彦命として龍興山神社となりましたが、なぜ豊玉彦命だったんでしょうか?公式サイトでも言及されている通り、周囲に海がないこの地になぜ海神が祀られることになったのか不思議ですよね。何よりも無事に御朱印をゲットできて良かったです龍興山神社公式サイト・龍興山神社公式応援サイト今回貰った御朱印です(書置き)。龍興山神社にあったとされる虚空蔵菩薩像が祀られている御堂・その御堂を管理しているお寺の記事もあります。興味がある方は下のリンクからどうぞ虚空蔵菩薩像の行方・南郷村:福一満虚空蔵菩薩堂 廃仏毀釈から逃れし観音像虚空蔵菩薩堂の管理寺・四番札所:島守高山観音 南郷島守に座す観音様以上です。
2024年06月08日
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津軽大北斗七星の伝説に大丈丸という鬼(蝦夷ともされる)が出てくるんですが、浪岡に陣を張った坂上田村麻呂によって討伐されます。小金山神社はその鬼の首を埋めた土地とされています。津軽大北斗七星の伝説に付随するように、こうした小エピソードが生まれていったのかもしれません。上の話以外にも鬼を倒す昔話の舞台でもあるという、とにかく鬼にゆかりのある神社です。津軽大北斗七星の伝説については、下のリンクからご覧ください・津軽大北斗七星 大星神社に残る田村麻呂の古伝津軽三十三観音霊場二十四番札所:小金山神社 入内観音堂一之鳥居です。なかなか年季が入っていますね。おそらく冬になればここまで来れないんじゃないかな・・・?近くに集落もあるので、一応除雪はされると思うんですけど。この辺りに住んでいる方は冬どうしているんでしょう。鳥居の向いに駐車スペースがあるので、車でも安心。参道に門の様な二本の巨杉が生えていました。まるで鬼の角の様です。拝殿です。入母屋の屋根と見事な木彫が特徴です。小金山神社にはこの社以外にも複数の小社があり、なかには小高い丘の上にあるものも・・・。境内を歩いているだけで修行をしている感覚になります。では、ご由緒を・・・。小金山神社(入内観音堂)概要 小金山神社(入内観音堂)は青森県青森市入内駒田に鎮座している神社です。小金山神社 入内観音堂の創建は大同年間(806~810年)、蝦夷東征の為当地に派遣された征夷大将軍坂上田村麻呂が勅命を完遂し、蝦夷の首長「大獄丸」を討ち取り、その首を当地に埋め観世音菩薩を安置したのが始まりと伝えられています。 天慶年間(938~947年)平将門の孫とされる信田小太郎が当地に逃れて三間四方の白山権現社と観音堂を造営し入内観音堂を再興したとされます。平将門の男系の子供の内唯一生き残った平将国が常陸国信田(信太)郡に住した事に因みその子供である文国(小太郎)の代に信田姓を名のる様になりました。 文国(小太郎)が家督を継いだのが幼少時だった為、家臣で義兄だった小山行重が所領を接収し追い出した事で、文国(小太郎)は全国を流浪し当地に流れ着いたとされます。 その後、入内観音堂は荒廃しましたが慶長年間(1596~1616年)津軽為信が再興し寺領30石を寄進し堂宇の再建が成され、寺号「華福寺」が与えられました。無住だった事もあり再び荒廃しましたが、寛永18年(1641年)に住民達の浄財により堂宇が再建され、その後は津軽観音霊場24番札所(当初は28番札所)に選定されるなど隆盛しました。 寛政8年(1795年)には江戸時代後期の紀行家で民俗学の祖とも云われた菅江真澄も入内観音堂(小金山神社)を訪れ由来や境内の様子を記録しています。 明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により、仏教色が一掃され小金山神社に改称しています。ただし、本尊不在のままでも信仰が続けられ廃仏毀釈運動が沈静化した明治時代中期に再び聖観世音菩薩像を勧請し安置しました。祭神:大山祇命青森県歴史観光案内所 / 小金山神社(入内観音堂) より抜粋祭日は・・・1月1日:歳旦祭4月17日:祈年祭8月17日:例大祭11月17日:新嘗祭 です。拝殿の木彫と注連縄です。本殿。こちらの木彫装飾も素晴らしいです。斜めから。文手塚というそうです。謂れは分かりませんでした。久須志神社の石碑です。合祀されたのかな?拝殿右手の龍神宮です。近くに沢があるみたいです。拝殿左手の坂を少し登ったところ、稲荷社があります。坂を上り切ると少し大きめな祠がありました。祠の中には白い女神の石像が納められており、これがおそらく信田小太郎が奉納したという白山権現の社でしょう。祭神は菊理媛大神(白山大神、白山比咩大神とも)です。境内の端に観音堂があります。ここが二十四番札所:入内観音堂です。想像していたよりもずっと奇麗な御堂で、宝形造の屋根も素晴らしいです。外側に懸かっているたくさんの納め札が、信仰の篤さを示しているようでエモいです堂内に朱印があるわけでは無く、観音堂前の舗装道を更に奥に進んでいき、集落の中にある消防団の倉庫でいただくことが出来ます(無人)。堂内の由緒書きです。入内正観音沿革草創縁起は不詳なれど、伝うる所によれば大同年中坂上田村麿将軍・・・(省略)・・・貞享3年(1686年)に至り再建。その後破壊甚だしく、依って弘化5年(1848年)入内・小舘・小畑沢三ヶ村にて再建せしという。然るに再度の火災に遭いし為、観音像を小金山神社御堂へ鎮守せしが、明治初年神仏混淆禁止の令により観音像及び附随せる一切の書類・その他の焼失を命ぜられしも、当時の四十八代目神官柴田源治定弘氏、火中より観音像を拾い上げ奉り同神官宅に安置せり。其の後柴田家五十代目柴田紋家氏小樽市に居住。引き続き観音像を安置せるを昭和34年8月地元民の願望により寄贈されたるものなり。昭和34年12月23日由緒に出てくる観音像は、慈覚大師円仁が作像したものとされ、慶長19年(1614年)常陸国から同国の信者によって奉納されたと言われています。↑で話した昔話を紹介したいと思います。図書館で偶然見つけて一人で興奮してました。書籍名が不確かなので、次回来館時に確認します。青森の昔っこ題:下湯ものがたり 文:若松たつみ青森市八甲田山を、ぬうようにして流れる荒川けい流を、青森市から、南のほうにおよそ三里(12km)ほどのぼったところに、下湯という温泉がある。このあたりは、うっそうとした山にかこまれたところで、カジカのなく声や、山バト、ウグイスなどのなき声が、四季をとおして、おとずれる人の心をなごませてくれる。この人里はなれた下湯から、およそ北西に二里(8km)ほどはなれたところに、入内という村がある。ここにむかし、坂上田村麻呂将軍がエゾをせめほろぼすため、奥州に足をのばしたさいに、建てたといわれる、小さな観音堂がある。いまから、780年ぐらいまえ(建久年間)に、このあたりには、鬼がすんでいた。山道を通る旅人をおそっては、その生きた血をすすり、そのうえ肉までも、食っていたそうである。ちょうどそのころ、津軽外が浜の、大浜(今の油川あたり)に、出羽の国(いまの山形県、秋田県)の浪人で、阿部貞昌という男がいた。貞昌は、目をわずらっていたので、人づてに、いろいろな薬草を、山からとってきてはのみ、なおそうとつとめていた。ところがやまいは、いっこうによくならず、ますます重くなるばかりで、そのうちに手足が冷えだし、やがて、こしまでもいたみだしてきた。食事も、思うようにはかどらないので、貞昌のからだは、日一日と、やせおとろえるばかりだった。「ああ、なんのたたりか知らないが、もはや、薬もきかないやまいになってしまったか。このうえは、神仏にすがるほかはない。」生きるのぞみさえ、なくしていたそんなある日、入内の観音様にすがるとよいと、教えてくれた者があった。そこで貞昌はさっそく、入内に出かけた。そして、七日のあいだ、いっしんにおいのりをつづけた。やせおとろえた身に、それは、じごくのせめくのような、いたましいいのりのすがただった。そして、七日めの夜だった。貞昌のゆめの中に、観音様があらわれた。「貞昌よ。おまえの願いを、きき入れてやろう。よいか、これより、東南にむかって行くがよい。そこに、小さなわき湯があるはずじゃ。この湯に、三十七日のあいだ、よくすれば万病がなおる。だが貞昌よ、とちゅうには鬼がいる。そのため、だれかの力をかりるがよいぞ。」ゆめからさめた貞昌は、全身に、なぜかあたたかい血が流れたような感じがし、いっしんに観音様にむかって、両手をあわせた。貞昌はつぎの日、さっそく東南をさし旅に出た。すると、川上の草ぶかいあたりに、一軒のカヤぶきの、くずれかけた小屋が見えた。こんな人里はなれたところに、だれがすんでいるのかと、貞昌はふしぎに思ったが、神様のおつげのとおり、歩いてきたのだからと、声をかけてみた。すると、小屋の中から、「だれだ。」という声とともに、身の丈は六尺(約180cm)もあるような、まっくろな顔に、ぼうぼうのひげをのばした大男二人があらわれた。「おまえたちは、いったなに者だ。」「おれは大矢 名兵部(おおや なひょうぶ)だ。」「このおれさまは、霜結 茶左衛門(しもゆ ちゃざえもん)だ。」と、まるでほえるような声で、二人の大男は、なまえをなのった。貞昌は、じぶんの病気のことや、観音様はおつげのことを、くわしく話した。小屋の中にはいった貞昌は、またしてもおどろいた。そこには、シカやサルの肉が高くつまれ、動物のほねや、頭がい骨がちらばっていたのである。それは、まるでけだものの、すみ家のようだった。その夜、大男は貞昌にいった。「この川上のあたりには、津矢虎(しやこ)と身図(みず)という、二ひきの鬼がすんでいてな。このあたりをあらしては、人間どもの、生きた肉を食って生きている。このさきをのぼって行けば、二度と生きてはもどれまい。」しかし、貞昌は、「わしには観音様のおつげがある。鬼どもをたいじするため、なんとか力をかしてください。」とねっしんにたのんだ。あまりのねっしんさに、二人の大男は、とうとう貞昌に力をかすことになった。つぎの朝、茶左衛門は大やりをもち、名兵部は大太刀をもって、三人は、鬼のすむ岩あなへとむかった。ようやく、鬼のすむという、大きな岩あなを見つけた。「鬼ども、出てこい。」貞昌は、二人の大男を連れていたので、勇気百ばい、大声で、岩あなにむかってどなった。すると鬼どもは、よいえものがやってきたとばかりに、外へ出てきた。そして、三人めがけて、雨のように火の玉をふらした。三人は、とっさに岩かげにかくれた。と、こんどは大きな岩を、まるで雨あられのように、投げつけてきた。鬼の声は、あたりにひびきわたり、地ひびきがして、山がゆれ動いた。もはやこれまでかと思い、貞昌は「南無大慈悲観世音」ととなえ、がっしょうをつづけた。と、そのとき、ふしぎなことがおこった。入内のほうから、むらさき色の雲がまいおりてきたかと思うや、雲の中から、数千万本もの矢が、鬼どもめがけて、ふってきたのであった。あたりは、まるで雨のようにふりそそぐ火玉や岩、矢、そして地ひびきと、まさにじごくのようすそのものに、貞昌は、気をうしなってしまった。それからどのくらいたったろう。貞昌が目をあけてみると、すぐそばに、二ひきの鬼が、力つきて死んでいるすがたがあった。名兵部と茶左衛門の二人は、鬼の死体をなわでしばると、大滝まで引きずり、その下の川のふちに、おもしをくくりつけてしずめた。二ひきの鬼とたたかったこのあたりは「津矢虎・身図の沢」とよばれている。そしてまた、大滝の上は、しょ国の鬼どもがより集まって、酒宴をひらいたところということから「膳棚」といわれ、黒滝、七滝の沢がある。さて、みごとに鬼どもをたいじした貞昌は、二人のあんないをうけて、さらに川をのぼると、まもなく岩かげに、湯のわき出ている場所を、発見した。この湯で、三十七日のあいだ、身をあらったところ、たちまち目は、もとどおりによくなり、まるで若者のような、元気なからだになった。のち、霜結茶左衛門が湯守になったことから、下湯温泉とよばれるようになった。※現在この下湯温泉はダム建設のため廃湯となっている。※建久年間:1190~1199年鬼の名前は”しゃっこい(つめたい)水”からきてそうですよね!堂内はこんな感じで、仏前に神鏡があるという神仏混淆の姿が残っています。斜めから。入内観音堂は津軽三十三観音霊場の中でも一際美しい御堂でしたが、なんでも清掃活動をしている方がいるそうです。聞いた話では津軽三十三観音霊場のガイドブックを書いた方だそうです。そうした活動があってこの姿が維持されると思うと頭が上がりません。本当にありがとうございます御詠歌おしなべて 高きいやしき者までも ここに歩みを 運ぶなりけり本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर※朱印所:観音堂前の道路を更に奥に進んでいった先の倉庫以前貰った御朱印です。以上です。次の記事・二十五番札所:松倉神社(松倉観音堂) 津軽の霊山 梵珠山に鎮座する観音堂
2024年09月01日
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僕は定期的にネパールカレーを食べたくなる性分なんですが、津軽に住んでいた頃にその欲望を発散していた店があります。弘前から十和田までを結ぶ国道102号沿いにあるお店で、ネパール本国の方たちがやっている正真正銘のネパール料理店です。ポカラダイニングここはいつ来ても混んでいますが、その理由は単純においしいからだと思います。ネパールカレーを提供するお店は数あれど、本当においしいと心から言える店はそうそうありません。それに対して、このお店は心から”おいしい!”と言えるお店なのです。2024.11.17ガーリックティッカ と パラクマトンカレーセット良い事があった日も、嫌なことがあった日も、スパイスカレーは平等に私たちを受け入れてくれます。僕の人生においてスパイスカレーを食べるという行為は、心を鎮めてリセットすることと同義です。料理から立ち上る湯気とスパイスの香りを全身で味わうことで、自分の根源に立ち返ることが出来るのです。だいたいカレーセットと料理一品を注文します。今日はニンニク香るチキンことガーリックティッカと、ほうれん草ベースのマトンカレーを注文しました。ティッカはどの味付けでも好きですが、何よりもガーリックティッカが好きです。ジュウジュウという音と共に運ばれてくるだけで何だか嬉しくなります。噛みしめるたびに溢れ出すうま味が最高です。どうしてこんなにおいしいんでしょうか。パラクマトンカレーは言うまでもなく、ほうれん草のコクとマトンの風味が相性抜群の最高カレーとして知られています(自分調べ)。ナンですくい取って食べ、最後は皿に残らないように残しておいたナンでもってきれいに拭き取ります。きれいになったカレーの器を見るたびに、何とも言えない達成感が押し寄せます何て最高な瞬間でしょう・・・!カレーと言えば4月8日の花まつりですが、僕は年がら年中食べっぱなしです。自分のためにも、おいしいスパイスカレーを出している店を探して、いつもさまよい歩いているのです。以上です。
2025年01月05日
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下北半島は青森県南部地方の北端に位置するまさかり型の半島です。現在のむつ市に代官所が置かれて統治の中心地とされていました。むつ市は古くは田名部と呼ばれ、前述の通り下北の中心的な街として機能していたため、下北全体のことも田名部と呼称するようになりました。むつ市の内、西端には脇野沢という村があり、現在のむつ市街から脇野沢までを結ぶ道は”西通”と呼ばれます。40kmにも及ぶ長い街道の守りとして仰がれたのが今回紹介する神社になります。川内八幡宮川内町内の奥まったところに鎮座しています。社号標も豪華です。水盤は凍りついていました。参道脇には庚申の神を祀る祠があります。鈴が結ばれている綱には、さるぼぼの様な人形がいくつも付けられています。祠内はさらに沢山吊り下がっています。というか、庚申と言っておきながら、その御神体は仏塔です。うっすらと梵字の様なものも見えますが・・・これは一体?祠につけられた天狗面が更に謎を深めます。更に境内の奥に行くと御神木がありました。奥の建物が社務所です。境内の歌碑1つ目。ドクダミノ 日影日影を 歩いてる岳人歌碑2つ目。言い合が あって歩幅を 広くする稲人拝殿です。所々に金色の装飾がなされており、なかなかに豪華な社殿です。御由緒です。 八幡宮の由来は元亀2年(1571年)、川内川八幡淵から上がった石像(三ノ奇石)を御神体とし祀り堂宇を建てたのをひとつの起源とし、当初(慶長の頃)は古村に鎮座。 明暦2年(1655年)から万治元年(1658年)までには現地に移転し、万治元年(1658年)4月、八幡神である応神天皇の御尊体を新調奉祀。 延宝2年(1674年)4月に先に述べた八幡堂を移転、合祀、鎮守としたの記録がある。 延宝2年に正式に宇佐八幡宮(大分県)の御分霊を勧請したとの記録もある。wikipedia / 川内八幡宮例大祭 より引用全体的に木彫が美しいんですが、特に蟇股部分はかなり大きく採られており、細部まで細かく彫り込まれています。龍虎が向かい合って、お互いを威嚇しあっていますね。扁額です。両脇には羽子板が掛けられています。社殿内も見てみます。こちらは絵馬。こっちには住吉大社や金刀比羅宮などの、主に海神とくくられる神格を祀る神社の旗が掛けられています。港町川内における漁業の重要性が伺えますよね。斜めから。下北の中でも存在感のある神社でした。社殿の所々が補強されており、破損も見られますが、随所ゝの装飾はとても素晴らしく見ごたえが有ります。川内の町だけでなく、下北の南岸を守る社として、これからも崇敬を集めていってほしいです。今回貰った御朱印です。かなりカッケェデザインになっています以上です。
2025年02月18日
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大鰐町の中でも、大分奥まったところに居土という集落があります。細道に沿って家屋が並び、趣深い風景が広がっています。通りを進んでいると津軽三十三観音霊場と書かれた看板があり、そこを曲がると居土熊野宮の鳥居が見えてきます・・・なんですが、駐車場が無いので、朱印所の有る居土多目的集会センターに駐車して歩いて参拝するのが良いと思います。津軽三十三観音霊場三十一番札所:居土熊野宮 居土普門堂居土熊野宮の鳥居前です。小さな御堂の中には地蔵尊などが祀られています。隣に建つ社号標には”村社 居土神社”と刻まれていますね。この赤い両部式鳥居をくぐると境内です。参道の前半は緩い上り坂で、この林の中を行きます。段々と石段は消え、木の根が階の代わりを務めます。林を抜けるかという所にな小祠が建っています。内部には合掌印の尊像が収められています。これはおそらく水虎さまでしょう。しばしば水難除けに祀られます。林が終わると急に視界が開けます。もう神社は目の前です。二之鳥居です。社殿へと参拝者を導きます。鳥居の先の林に入ると、大鰐町指定天然記念物の大銀杏がそびえ立っています。その奥に幾つかの社殿が建っています。この内の1つが観音堂で、津軽三十三観音霊場の札所になっています。境内端に小祠が幾つかありましたが、祭神は不明です。手水舎です。使えるかは分かりません。手水舎の奥にも祠があります。内部には龍に乗る女神の彫像が収められています。おそらく飛龍権現ではないでしょうか。さらにその奥、札掛け所と御神木の夫婦杉です。こうした二又杉は夫婦杉として至る所で御神木になっていますよね。夫婦杉の奥には境内社の神明宮。その隣に、お待たせしました、居土普門堂が置かれています。入母屋屋根の小堂です。ご由緒です。居土熊野宮・居土普門堂 地内観音堂にある熊野宮は、伊弉諾命・伊弉冉命を祭神とする。「寺社領分限帳」(享和3年・1803年)には山神宮とあり、元和6年(1620年)創建という。 境内に津軽三十三観音の三十一番札所居土普門堂がある。本尊は千手観世音。前記「寺社領分限帳」では観音堂とみえ、元和6年再建と記される。明治初めの神仏分離によって、観音堂跡に熊野宮が建てられ、一度貴船神社の相殿として移転したがのちに復社、その後に観音堂をも境内に祀る変転はあった。大鰐町史 153~154ページ より引用観音堂隣、熊野宮の社殿です。狛犬よりも大きな狛駒が置かれているのが津軽らしいですね扁額です。斜めから。集落奥地に静かに鎮座する熊野宮。その傍らに建つは居土の観音堂。一度は廃絶してしまうも、再建の求めに応じて再び甦りました。写真では伝わりづらいですが、山中に有るにしては管理が行き届いた社殿・御堂です。きっと今も集落の方が熱心に管理してくださってるんでしょうね観音堂は廃れることなく健在です。御詠歌我が國を 巡り巡りて順襛の 目出度く帰る 元の居土へ本尊:千手観音 सहस्रभुज以前貰った御朱印です。以上です。次の記事・三十二番札所:熊野神社 苦木長谷観音堂 集落端の小さな観音堂
2025年05月06日
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北の地で脈々と受け継がれて来た観音めぐり 津軽三十三観音霊場。そのボーナスコンテンツとして近年新たに札所となった仏堂があります。今回紹介する白衣観音堂がそうです。津軽最大の溜池である富士見湖の湖畔に置かれており、世にも珍しき八角堂なんです。本尊も白衣観音と通常であれば札所本尊に選ばれない仏尊です。しかし、しっかり御詠歌も用意されており、急ごしらえで作られたような御詠歌なしの巡礼とは異なり、巡礼者の愛が感じられます。正式な札所でないものの、津軽巡礼の際には寄ってみるのも面白いと思います。津軽三十三観音霊場三十四番札所:白衣観音堂白衣観音堂を拝む前に、富士見湖について概観していきたいと思います。桜が写っているという事は、今年の春に行ったんだと思うんですが、富士見湖には桜が多く植えられており、花見スポットになっております。そしてバックに見える太鼓橋は、なにげに日本最大の木造太鼓橋として有名で、鶴の舞橋と呼ばれています。概要は以下の通りです。廻堰大溜池の沿革 古記によると、このため池は岩木山を水源とする白狐沢からの自然流水による貯水池であったものを、万治3年(1660年)に津軽四代信政公が、樋口権右衛門を廻壇大堤率行に任命し、柏村地方の用水補給のための堤防を築き用水池にしたものと記録されている。 その後、豪雨、融雪と自然災害により元禄、寛政、文政、明治、大正と堤防が決壊し、そのたびに大修理が加えられ関係者の苦難は、多大なものであった。しかし、この長期にわたる努力と地域住民の献身的な働きかけにより、国や県の手により提体や取水施設等の整備がなされ現在のため池となっている。 貯水量は、1.100万トン(直接かんがい面積393ヘクタール、補給面積6.500ヘクタール)をかかえ、満水面積281ヘクタールと県内でも最も大きな人造湖であり当地域の重要な農業用施設となっている。 また、このため池は周囲11kmのうち堤長4,178m、堤高7mと日本でも有数の大きなため池であり、ことに堤長に関しては日本一である。 ため池にうつる壮大な岩木山の姿から「津軽富士見湖」の愛称で親しまれており、また古くから豊富な淡水魚類、野鳥の宝庫として知られている。17世紀にこのような姿となった富士見湖ですが、それ以前の小さな溜池の頃から、↓のような伝説が残っているようです。見てみましょう。津軽富士見湖の伝説:白上姫と清水城主の悲恋物語 今から約600年前の春、野も山もしたたるような新緑に包まれた中を清水城(現在の間山部落の一部である館の﨑にあったという)城主 間山之守三郎兵衛忠勝は数人の若武者たちと共に白狐沢、高山方面で狩りをし、高山で獲物を前に昼食をとった。その時、東の方向にある隠里(廻堰字稲川)に煙が立ち上るのを発見した。日が落ちるには間があり、勢いに任せた間山之守三郎兵衛忠勝は隠里まで馬を飛ばした。 草深い中にある目的の家は、太右衛門宅であった。疲れた馬に水を与え、主人と談笑していたところへ同家の息女である白上姫が茶を持って顔を見せた。丈なす黒髪、色白な容姿は清純な山百合を思わせ、間山之守は一目で白上姫を恋するようになった。その日から、間山之守は一人で狩りに出かけるようになった。雨の日も風の日も隠里の野山には二人の姿が見られた。こうして一年はあっという間に過ぎていった。 ところが、翌年の秋、間山之守には当時、大福池堤わきに住んでいた豪農太右衛門の媒酌で妙堂崎の半四郎の次女、琴姫と婚約が進み、問山之守はいつしか白上姫を忘れるようになっていった。そうとも知らぬ白上姫は、以前に約束した間山之守の正月用の晴着を縫うのに精を出していた。 やがて晴着を縫い終わった日上姫は、サイカチの館(今の間山部落)清水城に通じる山道を急いだ。雪のちらつく日てあったが、問山之守に逢いたい一心の乙女心には雪など少しも苦にならなかった。 城に近づくと、普通の日と違って大変な人通りである。不審を抱いた白上姫は通りかかった人に聞くと、この日が間山之守婚礼の日と知らされた。手にしていた晴着が落ちたのも知らず、人目を避けて帰る足はいつしか大溜池の畔に姫を運んでいた。過ぎ去った日々の楽しい思い出が走馬灯のように脳裏をかけめぐり、今の我が身の惨めさがひしひしと感じられた時、水草が揺らぎ、波紋を残して白上姫の姿は水中に消えて行った。村人たちの必死の捜索も空しく、姫の遺体は発見されなかった。 翌年の春小雨の降る日、大溜池に清水城へ向かって湖水を渡る白竜を見た人があり白上姫の遺恨が化身したものだと大騒ぎになった。この話を伝え聞いても間山之守は新しい生活の幸福におぼれて一笑にふしていたが、しばらくすると、夜毎に狂人の状態になり、藩士を呼び寄せては、斬り捨てるようになった。ついには、愛妻の琴姫をも殺し、自らも城を抜け出し、吸われるように大溜池に身を投じた。 このことを嘆いた太右衛門とサイカチ部落の人々は、一宇を建立し、来る年ごとに二人を供養したと伝えられ、供養のかいがあってか、それまで魚の居なかった溜池に、たくさんの「フナ」や「鯉」がいるようになったということである。やがて、この大溜池は津軽新田の水源地となり、戸和田神社は豊作の神としてまつられている。 鶴の舞橋ステージの中央付近で手を叩くと”ビーンビーン”と反響音がこえてきます。もしかしたら、この音が白竜の鳴声かもしれません。今から600年前というと、南北朝時代も終わるかという頃でしょうか。津軽においても、この頃は南部氏・安東氏が覇を競っていた頃で、応永17年(1410年)には山本郡刈和野(秋田県大仙市)にて両軍激突、旅の僧侶に助けられ南部方が勝利したとされています(福聚山 大慈寺(糠塚)・籠田山月山神社の縁起参照)。その22年後の永享4年(1432年)には十三湊をも制圧し、安東勢力を蝦夷ヶ島に追い落とします。そんな激動の津軽において、間山之守とはどのような勢力に属していたんでしょうか。この人物に関しては創作の可能性も高く、確かなことは分かりません。ただ、現在でも富士見湖の畔にある戸和田神社にて、白上姫と共に奉斎されていることは確かです。小さな頃から幾度となく訪れた富士見湖ですが、鶴の舞橋で鳴龍のような現象が起きるとは露知らず、この説明看板を読んだときに驚いてしまいました。確かにビーンッと聞こえる気がしますが、鳴龍とは異なる様に聞こえます。鶴の舞橋を渡る前に岩木山と重ねて一枚。本当にキレイです・・・(うっとり)。富士見湖は季節によって大きく水位が変動します。水位が高くなる春~夏には水没している木がよくよく見られますよ。なんだか南国感が有りますねぇ。桜に飾られたこの小さな神社が、件の戸和田神社です。一応こちらの石碑には十和田神社と刻まれており、ここも十和田湖の十和田神社を分霊したものの一つだと思われます。津軽においても数社の十和田神社が確認されており、当地方においても篤く信仰されていたんではないでしょうか。割木に由緒が書かれていました。やはり十和田湖の分霊社なんですね。十和田神社 当社は十和田湖休屋にある十和田神社の分社で、毎年旧暦4月19日に例大祭を開催しています。 元々は小さな祠が湖の中に佇むように鎮座していました。岸辺からシツコ(清水っこ・泉)が湧き、農家の方々は”さんご打ち”をしました。”さんご打ち”とは紙にお金やお米を乗せ、シツコの流れにゆだね祠に到達する途中で沈めば神様が嘉納(供物や願いを喜んで受け入れること)した証しとして、豊作や凶作を占う風習のことです。残念ながら湖の築堤によりシツコはなくなり社も現地に移されました。 湖には悲恋の”白上姫白龍化身伝説”があり、白上姫と龍神様は当社の産生神として大切に祀られ、五穀豊穣・福徳恵方の願いを加護しています。 心を込めて御参拝いただければ幸いです。鶴田町誌参照社殿内、中央の祭壇には小さな祠が置かれ、この中に御神体があるものと思われます。斜めから。本当にいい時期に参拝出来ました!もう少し早ければ満開だったでしょうが、これでも十分春を感じられました。富士見湖鎮守の十和田神社、面白い伝説が残っており、非常に楽しめました。いよいよ札所の白衣観音堂を目指します。本当ならこの紫陽花の小道から直接行けるんですが、今回は正面からお参りしたいと思います。富士見湖西岸には富士見湖パークという大きな公園があり、小さな頃は休日に良くここで遊んでいました。公園の端の方に花壇の広場があり、そこから白亜の仏堂が見えます。参道を上っていくと、まずは鳥居、その奥に寺門と少々込み入った造りになっています。寺門に関しては少々低いです。観音堂の横には三十三観音霊場が広がっています。何の三十三観音霊場の写しなのかは不明ですが、面白い点として、全ての札所石仏が白衣観音と化しているのです。こんな写し霊場はここぐらいではないでしょうか。お待たせしました、白衣観音堂です。東北全体で見ても、このような八角形の仏堂は珍しいんではないでしょうか。御堂正面には津軽第三十四番霊場・御詠歌が懸けられ、扁額も双龍の装飾がしてあります。堂内には中央に大きな祭壇があり、そこに本尊が置かれています。そして四方には合掌印の菩薩?観音?と金の幣。御堂の守護として置かれているんではないでしょうか。本尊:白衣観音です。当札所本坊(朱印所)の三宝山 自覚院 正明寺の記事によると、この観音像は珍しくも陶器製とのこと。詳しい来歴は本坊の由緒をご覧ください。斜めから。湖畔に置かれた美しい八角堂でした。津軽山と大きく刻まれた扁額は、ここが打ち止めの札所であることを示しているんではないでしょうか。できれば良く晴れた日に御参拝ください。一緒に岩木山なども楽しめるかもしれませんから。御詠歌津軽山 諸菩薩の母御祀りて 法の松風 見るぞ尊し本尊:白衣観音今回貰った御朱印です(朱印所は三宝山 自覚院 正明寺)。以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー富士見湖から見る津軽富士
2025年12月28日
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ゴールデンウィーク帰省中2か所目は善知鳥神社に参拝しました。ある店で激辛ネギラーメンを食べた後、鯉に餌をあげながらゆっくりしたくなり行くことに・・・。2024.4.27善知鳥神社商店街の中に鎮座する善知鳥神社。境内は広く池もあります。周りには飲食店が多いです。うまいもんいっぱい食べた後の腹ごなしとして、散策するには持って来いの場所!ではまずは一の鳥居。古い形の鳥居でした。このすぐ脇に有料駐車場があるので車でも安心。参道を進み、朱塗りの二の鳥居が見えてきました。参拝者が多く、とても賑わっていました。一応ぼかしてます。授与所です。お守り、御朱印帳、鯉の餌(100円)など色々売ってます。御朱印も直書きでの対応でした。何といっても鯉の餌は買いですね。これで30分は余裕で楽しめます手水の近くに桜が・・・!最高の雰囲気!すぐ下の水路では、鯉たちが口を開けて待ってます。図々しく鳩も寄ってきますが、餌をやらないようにと注意書きがしてありますゆえ、気を付けて・・・。こちら拝殿です。変わった形だなといつも思うわけですが、下北の方で似た形の社殿を見たことがあるような・・・。額も立派で迫力がありました。拝殿左わきを進むと直ぐに龍神の水・弁天池が見えてきます。逆に右の方は稲荷や龍神様の社・石碑群があります。龍神の水です。桜の花びらがいい味だしてます。水の流れる音に癒されながら鯉に餌やりしてました。心が洗われる・・・!説明書き:龍神之水龍神様は水神、海神であり、御利益の湧き出る処(パワースポット)は、古くより水や海に関係する仕事、又、商売の人達に信仰されてきた特別な場所である。龍神の水の直ぐ脇に弁天池があります。ここにも元気な鯉がいっぱいいるので餌やりしました。池の真ん中には小さな祠が。弁財天をお祀りしています。社は石造りです。400年の風雪に耐えてきたんでしょうか。説明書き:弁財天宮寛永18年4月に建立されたと伝えられ、水の神として漁業を守護し、音楽や芸能を司る神、福財の神として、近隣の人々から厚い信仰を受けている。こちらはうとう沼。ここの桜は最高の状態でした。冬を越したからか鯉の数は減ってるように感じました。その分小さな鯉?鮒?が増えてました。でかい鯉に負けじと餌を食べていました。春ですねぇ!説明書き:うとう沼昔は安潟と呼ばれ、これに荒川・入内川が流れ込み、周囲5~6里(20~24km)あり、浪館・金浜・浜館等の集落に達する湖沼であった。また、この潟に入る船はいかなる時化でも転覆を免れた為、善知鳥神社と共に漁師の崇敬の対象となっていた。しかし横内城主堤氏が外敵を防ぐため、荒川の流れを変え、堤川に流した事により、次第に安潟は干上がり、干拓されていった。その名残りが現在のうとう沼である。切り株に”善知鳥”とその足跡が。ペンギンみたいな足跡っすね。芭蕉翁句碑です。以前山形の出羽三山社に参拝した時も、芭蕉ゆかりの土地ということで銅像が有ったり、石碑が有ったりしたのを見たのですが、まさか本州最北の地に芭蕉の碑があるなんてなぁ。残念ながら青森までは来ていないようですが、晩年は外ヶ浜に行けなかったことを悔やんでいたとか・・・。確かに外ヶ浜から見る下北や北海道はきれいですからね。引用元は下のリンクからどうぞ・善知鳥神社 / 史跡紹介芭蕉翁句碑明治11年碑文名月や 鶴脛高き 遠干潟(めいげつや つるはぎたかき とおひがた)芭蕉は、平泉を見た後、Uターンしたが、奥の細道の本文に、「南部道遥かにみやりて死………」と書いている。 南部道は、盛岡地方へ通ずる街道で、この下りから、日田へさらに旅を続けたかった思いが伝わる。 また、細 道の紀行が終わった翌年の元禄三年に書いた「幻住庵記」に、「猶うとう啼そとの浜辺よりに、えぞが千しまをみやらむまでど、 しきりにおもひ立侍るを………」とも書いている。外が浜から北海道を見たかったのだが、同行の曾良が病弱な師の身体を思い、引き止めたのだ。説明書き:芭蕉翁句碑碑文 名月や 鶴脛高き 遠干潟 (めいげつや つるはぎたかき とおひがた)文化9年(1812年)伝承不詳なれど、芭蕉作と伝えられるこの句を、この善知鳥の地に照らし合わせて建立したものと思われる。句碑の台座は昭和17年、芭蕉生誕300年記念として設した。説明書き:増田手古奈句碑昭和60年碑文 みちのくの 伊藤の宮の 小町草 (みちのくの うとうのみやの こまちぐさ)本名 増田義男1897年(明治30年)~1993年(平成5年)大鰐町出身東京帝大医学部卒業後、家業の増田医院を継ぐ。一方で俳人高浜虚子の指導を受け、俳詩「十和田」を主宰し、県俳壇の発展に貢献した。宮川翠雨書碑説明書き:宮川翠雨書碑平成2年碑文 夏雨の 青々と降る 古端渓 (なつさめの あおあおとふる こたんけい)1912年(大正元年)~1987(昭和62年)青森県文化賞受賞、青森市民表彰、日展評議員、雨声会主宰、河口俳句会代表本殿右側の社や石碑群です。左の社が龍神様、真ん中が猿田彦神・月読命、右が稲荷です。龍神宮海津美神をお祀りしています。港町ということで水に関係する神が多く祀られているようです。斜めから本殿です。小島にひっそりと建つ感じが雰囲気あります。猿田彦神・月読命天照大御神も祀っていると説明書きにあったので、もしかしたらこの白い社がそうなのかもしれません。稲荷です。商店街に一社はあるイメージ。菅江真澄も善知鳥神社を参拝したようです。これまで行く先々で菅江真澄の碑や説明書きがありましたが、じっくり調べたのは今回が初めて。なんでも北東北や北海道を中心に紀行文や絵、村々の風俗、植物をまとめたりしていた方だそうですね。これを機に”菅江真澄遊覧記(東洋文庫)”にも手を出したい・・・。ただ目下の積読を消費しないことには、この本も積読の仲間入りをしてしまいそうで怖いです。でも読みんでみたいんだよなぁ・・・。説明書き:菅江真澄1754年(宝暦4年)~1829年(文政12年)愛知県(旧三河国)豊橋に生まれる。姓は白井、幼名は英二といい、成年に達して秀雄。菅江真澄と称したのは、晩年、秋田に居住してからである。真澄が青森を訪れたのは、都合三度である。最初の天明5年(1785年)8月のときは、蝦夷地(現:北海道)へ渡るためであった。大飢饉による餓死者の無残な姿を見て、これ以上浜路をめぐることは、自らも飢える心配があると考えて引き返した。二度目の来青は、天明8年(1788年)7月である。浅虫を経て青森、三厩から蝦夷地へ渡った。この時、鳥頭神社(現:善知鳥神社)に詣でた後、古い社の後が残っているということから、二本木のある丘(現:久須志神社)を訪ねている。また、この杜を見て「青森という地名もここがもとであろう」と「外ヶ浜づたひ」に記録している。三度目は、寛政8年(1796年)で二十余日滞在。青森の各集落、社寺、山野等を歩きまわ、伝承習俗や庶民の生活を「すみかの山」に詳しく記録している。なかでも注目されることは、4月14日、石神村の小さな祠のかたわらに、「文永の碑があった」と記録していることである。真澄の歌碑は、善知鳥神社境内、荒川宗全寺(曹洞宗)に建立されている。なお、享和元年(1801年)秋田に赴くまで、7年余の間に津軽関係では「津軽の奥」、「外浜奇勝」、「津軽のをち」などの紀行を残している。菅江真澄歌碑向かい合う二羽の善知鳥が彫られています。実物も見てみたいですね。説明書き:菅江真澄歌碑昭和32年真澄が当神社、又、この地を詠んだと伝えられる歌の記念碑。うちなびく たむけのぬさもふりはへて こうごうしくも 見ゆるみず垣のどけしな そとがはまかぜ鳥すらも 世にやすかたと うとう声して本名 白井秀雄 愛知県(旧三河国)生まれ。1754年(宝暦4年)~1829年(文政12年)江戸後期の民俗学者、歌人。百目鬼のような不気味な鳥の像があります。これは善知鳥の名前の由来に関係した説話をモチーフに作られたものなんでしょうか?善知鳥神社のサイトにそれらしき説話が載っています。下のリンクからどうぞ。・善知鳥神社 / 神社について / うとう考説明書き:変幻燈鳥は善知鳥、悪知鳥と変幻し世界を視る。亀は大空を飛び大地を支え千万の季節を歩む。2つともこの世にあって人の幸せを願ひ伝説の中に生きるものなり。昭和53年 秋 濱田剛爾謡曲善知鳥之旧蹟「陸奥の 外の濱なる呼ぶ小鳥 鳴くなる声はうとうやすかた」説明書き:謡曲「善知鳥」とその「旧跡之地」碑謡曲「善知鳥」は、殺生の罪を犯した漁師が地獄で責めたてられる苦患の有様を見せる執心の夢幻能である。その漁師は奥州外が浜の者で、立山の凄惨の地獄に堕ちていたが、外が浜一見の旅僧に回向を乞うて故里の妻子の前に現われ、我が子を見て小鳥を殺した罪の恐ろしさを悔い、化鳥にさいなまれる苦しみの仕型を見せて更に回向を頼んで消えて行く。善知鳥と言うのは漁師が常に捕っていた鳥の名なのである。奥州の 外が浜なる呼子鳥 鳴くなる声は うとうやすかたという主題歌は定家の歌と伝えられている。善知鳥神社の社殿近くに「謡曲善知鳥旧跡之地」という碑がある。安潟と呼ばれた大きな湖沼のあとが現在の安方町であり、神社を囲む池を善知鳥沼と呼ぶなど、昔、此の地を「善知鳥の里」と言った名残りを示す碑である。御由緒です善知鳥神社由緒善知鳥神社は現在の青森市が昔、善知鳥村と言われた頃、奥州陸奥之国外ヶ浜鎮護の神として、第19代允恭天皇の御世に日本の国の総主祭神である天照坐皇大御神の御子の三女神を、善知鳥中納言安方が此の北国の夷人山海の悪鬼を誅罰平定して此の地を治め、その神願霊現あらたかな神々を祭った事に由来している。又、善知鳥中納言安方は、此の地の人々に初めて漁猟と耕作を教へ、此の辺一帯が今日のように発展したのは安方の聡明なる知恵と才能と勇気が神々の御意に叶い人々に慕い仰がれる所以となったと言われている。以来、此の善知鳥神社は青森の発祥の地として、長い間連綿として敬神崇祖の信仰が受け継がれている。御祭神:多紀理毘賣命、市寸嶋比賣命、多岐都比賣命合祀:天照大御神和魂、倉稲魂命(稲荷)、海津美神(竜神)祭日:善知鳥神社(9月14日前夜祭、15日大祭)、善知鳥稲荷神社(6月9日前夜祭、10日例祭)、善知鳥龍神宮(6月16日前夜祭、17日例祭)能や歌の舞台になった善知鳥神社。807年に坂上田村麻呂によって再建されたと記述があり、創建はさらに前ということになります。wikiだと允恭天皇の治世は5世紀頃だそうで、この神社の創建も記述通りならそのころということになりますよねぇ・・・。すんごい歴史感じますよね宗像三女神を主祭神とし、綿津美神などの水神も祀っている神社です。ほかの県のことはわかりませんが、青森県は水に関わる神を祀るところが多い気がします。八戸の蕪島神社も市寸嶋比賣命を祀っていますしね。それ以外にも各龍神を祀る寺社も多く、津軽龍神霊場もできましたしね。さすが三方を海に囲まれた土地!今回御朱印は貰いませんでした。過去に貰ったものを揚げておきます。御朱印帳:表御朱印帳:裏公式サイトへのリンクです。・善知鳥神社(うとうじんじゃ)〜青森市発祥の地〜以上です。2026.3.28見納め詣出やはり青森を立つとなると善知鳥神社参拝は外せません。青森総鎮守の社という事で、平日と謂えども参拝者は多かったです。二之鳥居。桜は咲く気配すらありません。境内の鯉たち。エサは4月からの販売です。見事な神明造の拝殿ですよね。大きく荘厳、当に青森を代表するような神社です。扁額です。賽銭箱には津軽家の家紋。青森が町として発展するのは17世紀以降です。そこから本格的に街の景観が整えられていきます。境内右側には末社の稲荷社と龍神宮です。境内に残るはかつての善知鳥沼の一部です。この様な湿原が広がっていたんですね。別角度から。ここだけ時間が止まっているかの様です。境内左側にも龍神宮。隣から清水も湧いています。流れ流れて隣の池へと注ぎます。本殿後方には、池の浮嶋に弁財天が祀ってあります。善知鳥神社の祭神:宗像三女神の本地は弁財天であり、この配置にも何か意味がある様に思えます。池では烏が餌をあさっていました。完全に人なれしており、全然逃げません。亀も冬眠から覚め、元気に池を泳いでいました。オフィス街の一画に古社が鎮座する。こうした光景はやはり好みです。斜めから。これでもう思い残すことは有りません。良い参拝でした今回貰った御朱印です。以上です。
2024年04月29日
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八戸から三陸道を通って宮古市へ向かう途中、普代IC前で巨大な鳥居を発見!何だこれはと思うこと数度あり、この前ついに寄ってみました。グーグルマップ調べでは鵜鳥神社の一の鳥居みたいですね。鳥居をくぐりしばらく進むと集落が見えてきます。これが何と源義経と所縁のある村だそうです。下に説明書きを載せます。伝説義経北行コース不行道悲劇の名将と世にうたわれた源九朗判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治5年(1189年4月)、平泉の高館において三十一歳を一期として自刃したが、短くも華麗だったその生涯を想い後世の人々は”義経はその一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た”という伝説を作りあげたのである。世にいう「判官びいき」であろう。その伝説の一つに”平泉を脱出した義経主従は、その途中、この地まで来たとき道に迷い通りがかった子供にたずねたところ、手にした牛追い用の鞭で「不行道」と地に記し、これより北へは行けないと教えられた”と伝えられている。それ以来、このあたりの地名を”不行道”としたという。岩手県観光連盟うーん、当時の子供たちが普通に字を書けたんでしょうかね?この辺は疑わしいですね。ただ、牛追いの子供が話に出てくる点には仏教説話味を感じますね。少年や病人が実は観音様だったという型の話は結構あると思います。それに似た雰囲気なんですよねぇ、個人的には。鵜鳥神社一の鳥居をくぐってから車で5~10分程走ると、道の両側に鳥居が見えてきます。右には赤と青の新しめの鳥居。左手には古めかしい鳥居。下の写真は古めかしい方です。注連縄、鳥居屋根、額全てが時代と信仰の強さを感じさせます。こちらは新しめの方。奥は広い駐車場になっていますので、車でも安心。コントラストと鳥居左右の上端にある鵜?の飾りが良いですね。歌碑もありました。右から一の姪 普代 大上フサ丸髷の あでやかなりし若き日を おもふとすれど 錯誤の如し小田観蛍二の姪 沼袋 菊地タミエわが母を 世に今もなを見るごとき 笑顔よ髪は霜おきそめぬ小田観蛍三の姪 普代 大上イサ床敷きて 我が長旅をねぎらへる よき人妻を幸ははんとす小田観蛍四の姪 田代 熊谷テル我が言ふをまじろぎもせず聴く頬に 涙ながれて おもふらんこと小田観蛍全体的に悲しい印象です。これが遥拝殿前になります。石碑やら神楽殿やら社やら様々ありますね。ここからさらに上に奥宮があるようです。もちろん行きますよ20分くらいかかる山道を登らなきゃですが・・・。奥宮に行くまでにもいろんなスポット有。出来れば全部紹介したいです。総理大臣や大臣が参拝したことを示す石碑が二つ、本社であることを示す石碑が一つ、歌碑が一つ。歌碑と言っても詩のようですね。グラス傾けサケ鍋かこみ しのぶ義経ものがたり 都会ぐらしで忘れたものを 冬の炉端で想い出す***** ***鳥居の脇には山乃神の石碑が。乃が小さく書かれているのが古文っぽくて雰囲気があります。これから山に登るので拝んでいきます。神楽殿です。遥拝殿前にあるパンフレットによると・・・神楽殿は県内外450名の方々の協賛を仰ぎ平成8年(1996)8月落成奉納されました(建築宮大工は普代村鍋梨祐市朗棟梁)。とあります。例祭日にはここで鵜鳥神楽が行われるんですかねちなみに鵜鳥神楽もパンフレットに記述があります。うねどり様には古くから山伏神楽が伝承されています。岩手県沿岸部では「北の鵜鳥、南の黒森」と呼ばれる神楽があり、南の黒森とは宮古市山口に鎮座する黒森神社に伝わる黒森神楽のことです。鵜鳥神楽と黒森神楽は、隔年交互に北回り、南回りの巡業を行います。鵜鳥神楽は、年末から正月8日の間に、舞い立ち(出発)の儀式を行い、北回りの年は久慈市久喜、小袖地区、南回りの年は釜石白浜、室浜にまで参ります。鵜鳥神楽は戦時中の一時期を中断したのみで今日まで続けられています。鵜鳥神楽は、民俗学者により伝承芸能として価値を認められ、平成元年(1989年)11月25日東京日本青年館において、文化庁企画の第39回日本民族芸能大会という檜舞台に登場しました。これは黒森神社にも行ってみなくちゃですね鵜鳥神楽はYoutubeでもご覧になれます。神楽の歌の中に一から十二郎までが登場し?複雑な鼓の旋律とともに、日本の古い伝統を感じさせてくれます。話が脱線しますが、アイヌの舞踊も神社の神楽も刀を使って舞いを行うのが共通しているんですよね。最近アイヌは続縄文人・擦文文化人の文化を受け継いでいる可能性があることが分かりましたが、こうした刀を使った舞いはいつから行われているのか非常に知りたいんです。是川縄文遺跡記念館には”縄文の飾り太刀”という木製の装飾太刀(とされているもの)が展示されています。武器としてではなく、儀式に用いたとされていますが、この頃からの風習が、現在伝承されている神楽や、アイヌの舞踊に残されているとしたら、すごく面白いと思います。これぞ歴史ロマンですよ鵜鳥神楽はこちらのリンクからご覧になれます。東北文映研ライブラリー投稿の動画です。・2022鵜鳥神楽「山の神」鵜鳥神社例大祭遥拝殿前の鳥居と手水です。それぞれ見てみましょう。まずは祭神についての説明から。うねどり様およそ千年の歴史をもつ普代村の鵜鳥神社は、藩政時代までは卯子酉大明神あるいは卯子酉神社と呼ばれておりました。明治維新の際の諸事情により神社とゆかりのある鵜鳥の文字を用い鵜鳥神社と称され今日に及んでおりますが、古来うねどり様の通称のもとに漁の神、縁結びの神、安産の神として沿岸部はもとより内陸部に至るまで広く尊崇されております。交通不便の時代に分霊神社(分社)として勧請されその地の神となって祀られている神社は、現在判明しているところだけで十社、参拝記念碑・拝礼塔は三十七基を数え、県下十八市町村にわたっております。平成14年8月現在分霊神社(分社)11社、参拝記念碑・拝礼塔は48基確認されております。鵜鳥神社 社務所手水です。なんと亀です。右にはカエルもいますね。かわいい・・・。子康神社です。その名の通り出産に関係のある社みたいですね。調べても詳しい記述が出ないのですが、出産などに関わるとくれば男根崇拝に関係しているのではと思います。金精様とかカナマラ様とかいろいろな呼び名で崇拝されていますよね。当八戸地域でも多いそうです。面白そうな資料を見つけたので、興味のある方は是非「青森県における生殖器崇拝資料」で検索してみてください斜めからです。脇にはおそらく金比羅さまの小祠が有りますね。鵜鳥神社も源義経ゆかりの神社だそうです。説明書きを下に載せます。伝説義経北行コース鵜鳥神社悲劇の名将と世にうたわれた源九朗判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治5年(1189年4月)、平泉の高館において三十一歳を一期として自刃したが、短くも華麗だったその生涯を想い後世の人々は”義経はその一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た”という伝説を作りあげたのである。世にいう「判官びいき」であろう。その伝説の一つに”平泉を脱出した義経主従は、その途中、この地で七日七夜にわたって海上安全、武運長久、諸願成就を祈り、藤九朗盛長に命じ社殿を建立し、祭典を執行するよう命じたという”と伝えられている。義経はこの地で金色の鵜鳥が子を抱いているのを見たとも伝えられているという。岩手県観光連盟こちらが遥拝殿。今まで見たこともない造りの社です。面白いかたちしてますよねぇそれでは、心身の健康を祈りましょう。立派な注連縄がステキここを進めば奥宮に着くようです。杖をとり、さっそく進んでみましょう!ほんとに面白いつくりしてますよね。大きな杉が何本も茂っています。ここを進むのです。木々に注連縄が・・・。まるで来る人を拒むかのような雰囲気が有ります。案内図にあった神道橋です。石造りのしっかりした橋でした。うがい場です。チョロチョロと水が流れていました。昔はもう少し水量が多かったのかな?お縒り場わきの水神宮です。社については説明が有りませんでしたが、お縒り場の説明はパンフレットに載っていました。パンフレットによると占い場です。紙縒を作り池に投じ沈めば願い事が叶い、水面に浮いては願い事叶わずと言われます。祠は、昭和60年(1985年)玉山村大山石材店奉納です。とあります。十和田湖のシステムと同じ方法の占いですね。お薬師様の小祠です。説明書きです。杉の根元から湧き出る清水を溜める中央の凹んだ置き石があり、この水で眼を洗うと眼病が治ると伝えられています。中央の新しい祠は、昭和60年(1985年)玉山村大山石材店奉納です。お薬師様とありますが、祠の御神体は不動明王に見えるんですよね。謎です・・・。更に登ると大木が有りました。夫婦杉と呼ばれる巨杉です。上部で幹が二股に分かれています。注連縄がしてあるだけでなく、傍らには祠もあります。ご神木ですね夫婦杉の社で、夫婦神社と言います。かなり精巧なつくりです。夫婦杉から歩いて5分くらいのところで、長い階段が見えてきました。説明書きには”嘉永2年(1849年)建設の石段、133段あります。昇り切った所に石段供養塔が建立され、その裏山は展望台になっています。”とあります。登ってみましょか・・・。ゼイゼイ言いながら登り切った先に供養塔が有りました。供養塔の左側には展望台に伸びる道があり、右には奥宮に至る道が有りました。これが奥宮に至る道の鳥居です。でも先に展望台を見てみましょう。木々が生い茂り、展望することはできませんでしたが、案内板のような方位針の石碑が有りました。見にくいですが、北の方角に本殿とあります。いざ行かん!奥宮への道は、そんなに荒れていませんが、虫がとにかく多くて大変でした。立ち止まるとたちどころに刺されまくるでしょう。やっとです、奥宮の鳥居が見えてきました。すんごく時代を感じる鳥居です。おほー!歩いた甲斐が有りますね奥宮に到着です。周りを松に囲まれて、ビューっと風が抜けます。熱くなった体をすっきりと冷ましてくれました奥宮脇には何やら小祠が有りました。行ったときは何の祠か分かっていたんですが、今は記憶がどこかにいってしまい分かりません。稲荷だったか、なんだったか・・・。奥宮の拝殿です。シンプルなつくりですが、手前に見える木彫り獅子などは非常に精巧な出来栄えでした。ここまで来て良かった、そう思えるほどです。これですよこれ!龍・獅子・象そのどれもが屏風から飛び出してきたように素晴らしいです。当に職人技!説明書きです。本殿は海抜424mの卯子酉山頂のひとつにあり奥宮とも呼ばれます。寛政4年(1792年)と明治35年(1902年)の二度火災にあい、神殿は明治45年(1912年)、拝殿は昭和8年(1933年)に新築されました。こちら奥宮の本殿です。今まで柵も何もなくむき出しの本殿を見たことがなかったので、直に信仰・歴史に触れているような、不思議な感覚になりました。奥宮の裏にある小祠です。造り的には神明宮のように見えますが・・・どうなんでしょう。こっちは鵜鳥神社の小祠です。何だか更に先があるようですね・・・!行ってみましょう。説明書き。奥宮の後方にある小径を百メートル程足をのばすと、この山の突端にお岬様という石の祠があり、眼下に太平洋が展望されます。ここからはるかに野田村の和佐羅比山が望まれ、久慈市や野田村からの参拝者の人達で、この場所から和佐羅比大権現を遥拝している人もあります。さっきの立て看板からすぐのところです。なんとも言えない神々しさが有ります。これがお岬様の小祠です。お岬様に関する詳しい説明はありませんが、お岬様=和佐羅比大権現なんですかね?和佐羅比大権現も野田村の”塩の道”の先にある女・男和佐羅比山に祀られているらしいので、いつか行ってみたいですね。製塩の歴史にも興味があるので、行かない手はない遠く三陸の岸辺はかすんでますが、非常に素晴らしい眺望でした。虫さえいなければ・・・。今回も最高な体験ができました。鈴付きの杖をついて山の中を歩くと、まるで自分が行者になった様で楽しかったです。杖が参道の石を穿つ度にシャン、シャン、と鈴の音が響きます。苦労にみあった絶景を拝める神社です。熊が出るそうなので、対策はきちんとした方がよさそうです。あと虫も・・・。義経北行伝説と地域信仰とが結びついた伝承混じりあう霊地でした御由緒です。鵜鳥神社は、平成元年(1989年)からかぞえて、およそ千年の昔から、下閉伊郡普代村海抜424m卯子酉山山頂のひとつに鎮座する古社で「うねどり様」の呼び名で知られています。明治以前は卯子酉大明神あるいは卯子酉神社と呼ばれておりました。明治維新の際の諸事情により神社とゆかりのある鵜鳥の文字を用い鵜鳥神社と称され今日に及んでおりますが、古来うねどり様の通称のもとに漁の神、縁結びの神、安産の神として沿岸部はもとより内陸部に至るまで広く尊崇されております。うねどり様は平安の初めの延暦23年(804年)卯子酉山薬師寺として開眼されたのがはじまりともまた、大同2年(807年)卯子酉大明神として建立されたのが起源とも云われています。文治5年(1189年)、源義経が蝦夷地へ渡る途中、卯子酉山で金色の鵜が子育てをしているのをみて神鳥ならんとこの地で七日七夜渡海の安全を祈願したら、鵜萱葺不合命、玉依姫命、海神命の三柱の神がみがあらわれ「汝の願いを聞きとどけよう」と云って姿を消されました。それにより義経は鵜鳥大明神として山頂に祀り翌年の建久元年(1190年)から4月8日を祭典としたと云う言い伝えもあります。普代村史によりますと、鵜鳥神社は古くは卯子酉山薬師寺とも呼称された歴史のあることから、卯子酉大明神の管理する寺院であり祭神は、鵜萱葺不合命、鵜鳥大明神で、一緒に祀られている文殊菩薩、千手観音、不動明王の三仏は脇侍であろう。山岳信仰もからんで神仏混淆となり明治2年、廃仏毀釈の際鵜鳥神社と改称したものであろうとしています。嘉永7年(1854年)、盛岡藩役人による三閉伊地方の道中記、三閉伊日記には、4月15日の日付に「今朝卯子酉明神参詣いたし、中略、700年以前より祭るよし伝う、船方共或女共信心のよし也、八戸侯よりは年々代参あり、実に辺鄙の地にかかる場所あるも珍し」とあり、土地の者に、およそ700年位前から祀られている旨聞き書きしているのがみられます。嘉永7年から700年前と云えば久寿元年(1154年)です。正確な数字でないにしてもかなり古くから祀られ、八戸藩の殿様も年々代参を立てているという記述からみても4月8日の祭礼が昔から盛だったことがわかります。鵜鳥神社 卯子酉神社 うねどり様 パンフレットより抜粋2024.5.11鵜鳥神社に再び参詣し、無事御朱印を貰うことができました。脇侍の三仏でしょうか、非常に豪華な判です。以上です。
2024年05月10日
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青森市街から八甲田方面に車を流していると、大きな石鳥居が見えてきます。小さい時から何なのか気になっていましたが、神社や寺に興味を持ってからは大星神社の鳥居だということが分かり、数回お参りしに行っています。大星神社は青森屈指の古社で、坂上田村麻呂創建の御由緒があります。旧社格は郷社ですが、津軽氏の歴代藩主に寵愛を受けた県内でも存在感のある神社です。何よりも”津軽大北斗七星”の伝承や、ねぶた起源伝説など複数の伝説の舞台となる景勝地でもあるみたいです。2024.6.9大星神社国道103号から大きな一の鳥居が見えます。結構ヒビが目立ちますが、それだけ歴史があるということでしょう。今回は表参道からお参りしたいと思います。説明書きです。青森市指定文化財(有形文化財)古面9面、額1枚大星神社は延暦11年(792年)蝦夷鎮護の祈願所として草創され、その後、坂上田村麻呂が本殿を再興したと伝えられている。江戸時代には妙見堂と呼ばれ、津軽藩の祈願所の一つとして外ヶ浜一帯で崇敬された。九代津軽藩主寧親が蝦夷地の警備を命ぜられたとき、祈願奉納した「妙見堂」の真筆の額と、中世のものと思われる舞楽面9面がある。花崗岩の鳥居は、津軽藩の御用商人、江戸時代後期考証学者として著名な狩谷棭斎が、文化6年(1809年)に奉納したものである。簡単に御由緒を知ったところで、さらに参道を進んでみましょう。参道脇に鳥居がありました。何やら木の根元に石碑が二つあります。右は猿田彦大神、左は・・・何だったかな・・・。一の鳥居から3分くらい歩いて二の鳥居が見えてきました。こちらは朱塗りの鳥居です。三の鳥居です。津軽らしく稲わら細工で飾られています。注連縄も良いですねこの三の鳥居脇の枝垂れ桜は”妙見の桜”と呼ばれているそうです。花を咲かせる頃にもう一度お参りしたいですね。説明書きです。大星神社 枝垂れ桜の由来江戸時代から桜の名所として人々に親しまれてきたのが、大星神社の「枝垂れ桜」である。開花時は爛漫と咲き誇り、あたかも白雪のようなその姿は「妙見の桜」と呼ばれている。樹齢は350年。高さ14m、幹周り4.12mあり、枝垂れ桜としては県内トップクラスであるという。30年ほど前幹に大きな穴が開き、衰え始めたが、治療や土壌改良が施され、近年では樹勢が回復し、古木の風格と貫禄ある姿に戻りました。津軽家4代藩主信政は、境内の雑木を取り除いて庭園を築き、桜の名所である奈良県の吉野から枝垂れ桜を取り寄せて植えた。同じ枝が、津軽信政を祀る弘前市の高照神社にも植えられ、毎年花を咲かせている。大星神社「社殿」より平成30年3月 妙見まちづくり協議会次は裏参道方面を見てみましょう。朱塗りの小鳥居が立っています。少し行くと、昔は池だったのか橋が架かっている小島があります。水に関する神格が祀られているとは思いますが良く分かりませんでした。小島の中央には3つの石が。表面に文字が刻んであるわけでも無く、何の神格かは分かりません。小島から本殿に近付くと、妙見宮という社が見えてきました。妙見信仰は北極星を神格化したもので、中国の道教と結びついて妙見菩薩が成立しました。これが日本に取り入れられ、後の神仏習合により天御中主神と同一視されます。ここではそんな神仏を祀っているんでしょうか。扁額です。これが青森市指定文化財なんでしょうか。社内はこんな感じ。篆書で書かれた”妙見堂”の扁額があります。どっちが文化財なんでしょうか?では拝殿の周囲を見ていきましょう。四の鳥居をくぐります。まずは手を清めましょう。手水です。拝殿右手には馬頭観音堂があります。鳥居もあり、神仏習合の要素が残っていますね。御堂内には白馬の御神体がありました。次に拝殿左側です。石碑群と二つの社があります。これは石碑群の内、独立しているものです。何の神格を祀っているんでしょうか。これ以外の石碑群は屋根付きです。鳥居もあります。待遇に差がありますねぇ。猿田彦大神、山の大神、石神大神、龍神大権現・・・。庚申、二十三夜大神・・・などなど。稲荷神社の社。薬師神社の社。拝殿です。紅白の美しい社です。主祭神は天御中主神、次いで祭神は右:磐余彦神(神武天皇)・経津主神・武甕槌神・日本武神、左:磐裂神・根裂神・素戔雄神と錚々たるもの。蝦夷征伐の祈願所だったということから、全体的に武神が多いような気がしますね。勝負がある方は是非お参りください大星神社の扁額。拝殿脇に説明書きがありました。ネブタ発祥伝説についてのものです。郷土に伝わる女酋 阿屋須と鬼面伝説地方伝説に依ればその昔津軽には岩木山を本拠地とする大丈丸、糠檀の嶽(こうだのだけ)八甲田山を本拠とする女酋 阿屋須が居しが、特に阿屋須はその所不明にて一策を講じ、仲間をとらえ糠檀の山中井戸澤に城郭を造り潜伏し居るを知る。四壁断崖草木うっそうと昼なお暗く容易に行ける場所でなく、ここより一里余の霧隠という大石の上に番兵2名に狗の仮面をかぶらしめ、事ある時は1人は胡沙笛を吹き非常を告げ、もう一人は飛鳥の如く駆け走りその状勢を報告、井戸澤めざして進むと番兵が胡沙をしきりに吹き怪しき濃霧がにわかに覆い霧の中、毒矢を烈しく放ち止むなく山中に露営を張りて滞陣。この時将軍の詠みし歌ならんと「こさふかば くもりもぞするみちのくの 蝦夷にはみせじ 秋の夜の月」。不思議な事に霧隠石を出れば全く別天地の様に雲もなく月明るく、頭上に銀河現れ七星東北の分野を照らし、将軍悪鬼退散を願い祈りて寝ると、夜中夢に北斗七星降り告げて曰く「此の仮面を被りて兇賊をたおせよと」。目覚めると鬼面7個あり、此神の賜ものと神慮の程を畏み奉りて、夜明けを待って7名にこの鬼面を付けて進撃すると、番兵いかに胡沙を吹けども雲霧更に起こらず、毒矢を放つも又当たらず。此を見て阿屋須の回りの者、巣窟を逃れ出んとする者多く、修羅王のごとく暴れる阿屋須を制し、多くの護衛を附して、本営行岳(なみおか)に送らしむと又、副首領の頓慶なるもの、頓慶山に潜伏し居るを知り攻め入れば、是又胡沙を吹き毒矢を放ちたるも効なき故、散々に逃げ出し討伐されるが、頓慶は佐和山に於いて討たれる。頓慶は茨葎の上を駆ける事あたかも平地を走るが如く足地につかず。毒気のごとき息を吐き、その口中上下とも二重の歯が有り、此のごとき怪物故、悪魔鎮護のため祠を佐和山に建てて祈れりと云う。後年頓慶住みたる谷に人移り住みたれど、常に雲霧ありて雲谷村と称し、山の名頓慶山と号せり。夷賊平定後鬼面7個を納めて妙見社と崇め、北斗寺を建てて之を祀るが、明治3年神仏分離令により大星神社と改称する。※資料 うとう7号、横内村史日本最大の悪鬼大嶽丸の伝承の片鱗が、津軽地方にも残っているんですね。また、パンフレットでは「胡沙」の笛による霧に苦しめられた際に、竹・木・紙で作った人形や囃子で蝦夷をおびき出したことや、勝利した後に人形を引きながら「ねぶた流れろ、まめの葉にとっちぱれ、えいえいやあ」と歌い踊りながら帰ったのがネブタになったと書かれています。そして頓慶が住んでいた頓慶山に建てられたのが妙見社(現大星神社)みたいです。蝦夷征伐の為に延暦11年(792年)に草創、田村麻呂将軍によって延暦20年(801年)に再興、というのがパンフレットの御由緒です。蝦夷征伐というのは真実味があります。坂上田村麻呂以外の征夷大将軍が送られた事蹟に、様々な脚色がなされて成立したんじゃないでしょうかねぇ。本殿です。文化4年(1808年)に津軽9代藩主寧親によって再建されたものです。斜めから。津軽地方には坂上田村麻呂創建の由来をもつ神社が多いですが、ここもその一つでした。一時は荒廃しましたが、津軽初代為信によって再建、二代信牧によって社殿修復、四代信政によって社殿再建・庭園整備、九代寧親によって本殿・宝物の寄進、などなど津軽藩の重要な社として大事にされていたことが分かります。有名な菅江真澄もここを訪れており、妙見の林などと綴っているそうです。まだ一巻しか持っていないので、その表記は探せませんでした。資料代さえあれば・・・。悲しくもこれが明日の仕事のモチベーションとなります。今回貰った御朱印です。以上です。2025.4.26春詣出津軽にも春が来た!桜を見に急げ!・・・ということで、かねてより気になっていた大星神社の”妙見の桜”を見に来ました。目的の桜の他にも、参道から境内まで至る所に花咲き乱れ、何とも幻想的な風景が広がっています。やっと冬が終わったんですねぇ、今年もいろいろなところに行きたいですこの鳥居の脇に生えているのが”妙見の桜”です。近くで見てみると、枝ぶりも力強く生命力に溢れています。津軽四代信政公によって植えられた吉野産のしだれ桜は、妙見の桜として今でも煌々と輝く花びらを付けています。津軽が誇る枝垂れ桜の古木でした。桜はきれいだったんですが、社殿の方は痛ましい状態になっていました。恐らく屋根に乗った雪によって、社殿前面が破損。滑り落ちた雪によって手水舎倒壊といった感じでしょうか。惨状を前に、背後では皮肉にもこれでもかと桜が咲き誇っていました。やっと前任宮司とのゴタゴタが解決間近なので、今年は行事などにも力を入れて頑張ってほしいですが・・・。まずは社殿の修復からでしょうか。今年もけっぱれさ!応援してらよ!以上です。
2024年06月26日
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青森駅から少々歩いて、線路を越えて更に進むと広い境内が見えてきます。街中に広い境内を持つこの神社は久須志神社です。久須志=薬師ということで、医療に関する神格などを祀っているんだと思います。詳しく見てみましょう2024.5.25久須志神社まずは一の鳥居です。扁額が豪華な金縁です。良き哉・・・手水舎です。この脇に様々な石碑や御神木があります。御神木や石碑を守るために覆いが建てられています。津軽の冬は降雪がひどいですからね・・・。神木の碑。隣の御神木を祀ったものでしょうか。今でも青々と葉を茂らせる御神木です。青森の地名の由来は、海からでも青々と茂る木々が見える土地だったからといいますが、この辺りも昔は森林だったようです。この御神木は、その頃からここに根付いているんでしょうかねぇ。非常に力強いです。薬師祖大神の石碑です。現在の御祭神は大國主神ですが、以前は薬師如来として祀られていたようです。その時の様子を今に伝えています。大國主神が因幡の白ウサギを癒した説話から薬師如来=大國主神と考えられたんでしょうか。少彦名神も薬神として名高いので、そちらと縁があってのことかもしれませんが・・・よくわかりません。庚申塔と二十三夜の石碑もありました。そして拝殿脇には龍神宮と稲荷宮が並んでいます。拝殿よりも小さいですが、かなり力の入った装飾が施されています。斜めから。何だかここもその内、津軽龍神霊場の札所になりそうな雰囲気です。隣の稲荷宮です。社の両脇に狐の石碑が置いてあります。正面から。斜めから。この神社は注連縄が立派なんですよね、どこの社も。龍神宮と同様の素晴らしい装飾と朱塗りの美しさが特徴の社です。では、いよいよ拝殿を見てみましょう。鳥居からまっすぐに伸びた参道を進んでいきます。拝殿です。相当立派な注連縄ですよね大國主神を祀る神社ということがはっきり分かります。この拝殿内にはかなり大きな神鏡が安置されていて、初めて見たときはびっくりしました。正面のガラス戸から見えるので、ご参拝時は見てみてください!御立派!本殿です。説明書きです。久須志神社祭神大名持命:国作の神、少彦名命:医薬の神大名持命大名持は其の功績をほめ称えた御名である。又オオナモチは地主・地震の名で土地の意味。即ち大地持の意味だとも云う。又大国主神とも云う。この神は素戔嗚尊六世孫。書記本伝には素戔嗚尊の御子とも。この神、始め異母の兄弟八十神達のにくしみを受け、御母:刺国若媛命の計いにより、紀国大屋毘古神の許に逃れようとしてはたさず、根の国に至り、素戔嗚尊の劇しい試練に堪えて御女須勢理媛命と夫婦になり、尊の教に従いて生太刀・生弓矢を持ちて八十神達をば、或いは坂の御尾に追い伏せ河の瀬に追い拂い不逞の徒を平げて国内を定めて、是より国土経営の基に心をこらし給う。「即ち川を浚え溝を掘っては水利を通じ堤を築き丘を拓いては田畝を開きご苦労を遊ばされた」。出雲の御穂﨑に海上漂着された神皇産霊神の子:少彦名命と兄弟となり、一緒に葦原中国の経営に尽され、其の外医薬禁厭の法を定めた。少彦名命少彦名命は身体が小さく、指の股より漏れ落ち給える故の御名という。命は諸病を治す薬方を定め、人民の患を救い、日本国産の草木品々の物の薬毒を考え定め、薬法を製し萬病を治された。由緒久須志神社の草創は延宝5年(1678年)で、以前は薬師堂といわれて、古川村民の産神として崇敬されておりました。明治初年に神仏混淆廃止によって、薬師堂は仏であるというので久須志神社と改められました。昔境内には大きな木が繁った林でした。伝説では烏頭安方中納言(善知鳥神社の宗像三女神を勧請した人)が亡くなるとき「安方町から8、9町南西の方に葬るべし」との遺言によって、山の木林に葬られたとされている。そこには小さな祠があり、一本木又は二本木ともいわれていました。俗に山の木林といわれたところが現在の境内です。二本の老木があり、一本はイタヤの木で他は名の知れない木で、今残っている神木はその一本です。山の木林は昔から青森市の名を示すように青々と繁茂して、入港する船の目標ともなっていたと伝えられております。青森の地名の由来となった場所なんですね!ここには菅江真澄も訪れており、善知鳥神社を見てからこちらに向かった様です。青森の地名の基はここだと言っています。烏頭安方の眠る地ともされ、残された御神木がかつての木林の名残りです。林の中にこんな社があったら何度でもお参りしちゃいますね斜めから。今回貰った御朱印です。以上です。2026.3.28見納め詣出新青森から新幹線で帰り路についたんですが、発射まで時間があったので、久須志神社に連れて行ってもらいました。いつ来ても立派な伽藍にほれぼれしてしまいます。拝殿です。旧社格は不明ながらも、伽藍だけ見れば郷社かとも思ってしまいます。善知鳥安方埋葬の地とも伝わり、相当古い歴史を持っている様に感じますが・・・。真偽のほどは分かりませんが、おそらく社格が付かないのはもともと仏堂だからではないでしょうか。名前の通り薬師如来を祀る霊堂であり、古くから”くすし様”として崇敬を受けてきました。それが明治の神仏分離で・・・といういつもの流れなんですが、こうした理由で社格が無い神社は沢山あります。末社の龍神宮と稲荷社です。・・・津軽龍神霊場の札所、まだ増えませんかね?稲荷社の方には見事な木彫装飾がなされています。こちらも見どころの1つか。かつては2本あったと伝わる御神木は、今では1本しか生えておりません。この下に善知鳥安方が眠っているのでしょうか。それではお参りしていきます。ここに来るのは何か月ぶりでしょうか。前回来てからかなり時が開いてしまいました。向拝は豪雪対策として添柱が付いていますね。拝殿内の大神鏡。物凄い!斜めから。久しぶりに参拝しましたがやはり良いですねぇ!自身と両親の無病息災・健康長寿を祈り、締めとします。今回貰った御朱印です。以上です。
2024年07月02日
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六戸の中央に位置する大きな神社です。境内には熊野神社以外の社殿も多く、地域の神社が集められたような風です。境内北側は舘野公園と接していて、小休憩するには持って来いの場所となっています。それでは見ていきましょう。2024.9.16舘野熊野神社みそぎ橋を渡って境内に進みます。一之鳥居の前には勇壮な狛犬が二頭ならんでいます。狛犬:阿咆哮が聞こえてきそうなくらい迫力満点人も乗れそうなくらい大きいです。狛犬:吽こちらも凛々しい顔してます。鳥居の横には小さな池があります。もとは禊ぎ場だったんじゃないでしょうか。参道を左に逸れると馬頭霊神の社があります。名前から察するに馬頭観音を祀っていたんではないでしょうか?現在はおそらく異なる神格に置き換えられていると思いますが・・・。扁額です。更に上にむかって進むと白龍神の社がありました。堂内に入ってみると、開けてビックリ古井戸でした。昔は湧水で、それを白龍神として祀り、御堂を建てたとかいう風に妄想できますね!一応水は枯れていませんが、相当濁っていたので利用は難しいかもしれません。境内の外輪には薬師如来・若宮大明神の社があります。堂々と神仏混淆しています。ということはさっきの馬頭霊神社はそのまま馬頭観音を祀り続けているんでしょうか?若宮大明神は応神天皇の御子である仁徳天皇を祀るとばかり思っていたのですが、どうやら違うみたいです。全国の若宮神社の祭神を見てみると、本当に様々な人物が祀られていました。だいたい共通するのは若くして亡くなった・ある有名な人物の子供であるなどの点です。その視点で考えてみると、このお堂の若宮大明神は何を祀っているのか更に分からなくなってしまいます。扁額です。変わったカラーリングの鳥居があります。扁額には舘野神社とありますね。進んでみると社は丁度工事中でした。調べても特に情報が出てこなかったんですが、どうやら蒼前の神を祀っているようです。同境内に家畜守護の神仏が並び立っているというのは、六戸と農耕との密接な関係が表れているようで面白いですねそして舘野神社の隣には御舘稲荷神社があります。ダブル扁額です。この稲荷神社の御堂は、境内の諸社の中でも特に装飾的です。木彫もこの通り見事です。斜めから。木に隠れて上手く撮れないのがもどかしい。熊野神社に戻りましょう。二之鳥居です。鳥居脇にはもはや何を祀っているのか分からなくなってしまった小石祠が二つ。金刀比羅神社の石碑もあります。奥に進むと変わった手水がありました。巨岩に龍が彫られています。頂部から流れ出す水と相まって、龍が滝を登っているように見えますね。案内板です。熊野神社御祭神:伊弉諾尊、伊弉册尊1月1日:元旦祭4月15日:祈年祭9月5~7日:例大祭11月23日:新嘗祭12月31日:年越祭案内板の地図を見ていると、気になる文字が書いてあります。”橘道忠公塚”ですって!地図に示されている所に行ってみます。まずは御神倉。この手前に橘道忠公塚があるはずです。ありました!鳥居の額にも橘道忠公と書かれています。社は何だか独特の形ですね。よく見ると社の中にも更に鳥居があります。大事にされている感があって良いですね社の脇にまるっころい石があり、賽銭が供えてあります。調べてみると面白い謂れを持っていると分かりました。橘公塚(きっこうづか) その社殿に向かって左側の一角に、金の鳥居が建ち、ブロックで囲まれた聖地がある。囲いの中は、1.5メートル四方の土まんじゅうの塚が築かれ、その上に50センチメートルほどの卵形の石が安置されている。石は苔むして、何も刻まれていないが、昔から「橘公塚」と呼んでいる。・・・その石は道忠公が、都を思い出して、舘野のさつき沼の霊水を使い、石へ思いのままを書きつけたところ、その文字が都の屋敷の庭石に浮き出たという。それを見た奥方が逆に、庭石へ字を書いたところ、橘公塚の石へ文字が浮き出てきたという逸話も橘公塚伝説として残っている。六戸町 / 六戸の伝説 より引用たしかに熊野神社は小川原湖に向かう途中にあるので、道忠公が湖畔に到達する前に宿ったところだとしても不思議はありません。説明書き内のさつき沼は今でも舘野公園の真ん中に有るようです。霊水・・・この時は神聖な水とされていたんでしょうか?それにしても石に字を書いて云々の話はどこかで聞いたことが有るんですが・・・思い出せない・・・。多分何かしら元となる話があったと思うんですがねぇ。とにかくここも小川原湖伝説に関係する場所でした。石に字を書く時の橘道忠公の心情を思うと、なかなかに悲しい。世の無常を儚んでいたとしても、家族には会いたかったんじゃないでしょうか。拝殿です。神明造の大きな社殿で、青森市鎮座の善知鳥神社と雰囲気・大きさ共に似ています。気になるご由緒はというと・・・熊野神社御祭神:伊弉諾尊、伊弉册尊 本神社は坂上田村磨蝦夷平定の勅命を奉じ陸奥の地へ下向、 此の地に滞在の際延暦二十三年(804年)、 住民をして一の堂宇を建立せしめ雌雄の鷹の羽にて作りし拝領の矢二本を伊弉諾伊弉册二神の御霊代として鎮祭し、 熊野大明神と称え奉り崇敬の古社なりしも、 明治五年(1872年)神仏仕分の際手続の不備の為明治六年(1873年)五月廃社となり、 明治十三年(1880年)復社出願し同年八月九日無格社として聞届けられ、 昭和六年(1931年)三月十九日村社に列せられる。 昭和六年八月神饌幣帛料供進の神社に指定される。 昭和二十一年(1946年)宗教法人となり神社本庁に所属す。 昭和二十二年(1947年)法律第五十三号に依り境内が国有地であったのを昭和二十五年(1950年)一月三十一日付を以て神社有地に無償譲与される。青森県神社庁 / 県内の神社紹介 / 熊野神社 より抜粋創建についてはもう一つ説があります。熊野神社文室綿麻呂の家臣笹野尚盛が844年に創建したとされています。この地に「イザナギ」「イザナミ」の二神を祀ったと伝えられている神社です。六戸町 / 観光スポット より引用個人的には後者の説の方が真実味があって好きですね。文屋綿麻呂やその家臣が創建伝承に出てくる神社は、県内では稀ではないでしょうか。扁額です。もう一枚扁額がありました。本殿前には立派な幣と権現頭が置かれています。いつか御神体の二矢も見てみたいですね斜めから。ここまで大規模にもかかわらず、ここまで情報が出ていない神社もそうそうないと思います。小川原湖伝説や坂上田村麻呂創建の伝説を有する素晴らしい神社でした。地域の神社を包括するように、大小さまざまな神社が集まっているのも、崇敬の強さが伝わってきて良かったです。以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー馬頭霊神社に奉納された牛馬の絵画
2024年11月03日
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極上の会津というサイトの説明文を見てみましょう。会津ころり三観音 会津三十三観音のうち、仏都会津の中核として古くから知られているのが、「会津ころり三観音」です。(中田観音、鳥追観音、立木観音) 三毒の悪しき心(貪:とん=むさぼること、瞋:しん=いかること、痴:ち=おろかなこと)を、三観音を巡礼することで仏の慈悲により消し去ってもらい、心の安らぎや健康長寿、やがてころりと安楽往生がかなうと言われています。極上の会津 特集コンテンツ「会津三十三観音めぐり」 より引用上記の通り、立木観音堂・中田観音堂・鳥追観音堂の三観音堂はとても素晴らしい御堂で、そこに居わす仏像も本当に素晴らしかったです。どれも会津三十三観音の札所となっているので、同時に廻ることも可能です。ただ、今回実際に廻ってみて、注意しなければならない点があると思いました。それらを下に挙げたいと思います。1. 霊場専用御朱印帳・霊場専用御朱印は無い上にリンク貼りしたサイトでは、「札所の三か所どこででも専用の御朱印帳が無料でいただける」という様に記載してありますが、2024.10.19時点で専用御朱印帳の方は品切れ・次回入荷予定未定という状態でした。このような事態の原因として、行政とのやりとりが上手くいっていないと住職さんからお聞きしました。専用御朱印帳の発行元は行政らしく、入荷をしようとしても連絡がつかないそうです。こうした状態でも、↑のサイトには情報が残り続け、御朱印帳を貰いにくる方が絶えないそうです。御朱印に関しても、三十三観音の物のみで、ころり三観音限定の御朱印があるわけではないようです。実際に廻っていて、札所の方の怨嗟が態度や言動ににじみ出ていて非常に心苦しかったです。この事態が改善されるように祈っています。2. 書き手が常駐しているわけでは無い会津三十三観音は日本遺産になっているようですが、実際に御朱印総揃えで満願するのはなかなか難易度が高いと思いました。理由として、青森でいう奥州南部糠部三十三観音霊場のように個人の方が管理する札所が多くあるからです。そのため札所に行ったはいいものの、御朱印の係の方が留守ということもまた多いです。住職常駐であるころり三観音の札所も例外ではなく、通常業務の合間に対応していただく形になります。訪問前の連絡は必須に近いと感じました(一個人の意見です)。専用の御詠歌などもないようです。発願2024.10.19、結願2024.10.19会津ころり三観音金塔山 恵隆寺 立木観音堂他の巡礼:会津三十三観音霊場三十一番札所本尊:立木観音(千手観音) सहस्रभुज札所記事・会津ころり三観音:金塔山 恵隆寺 見上げる程巨大な千手観音像普門山 弘安寺 中田観音堂他の巡礼:会津三十三観音霊場三十番札所本尊:中田観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事・会津ころり三観音:普門山 弘安寺 常姫の菩提弔う十一面観音像金剛山 如法寺 鳥追観音堂他の巡礼:会津三十三観音番外之三本尊:鳥追観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事・会津ころり三観音:金剛山 如法寺 会津西方に座す聖観音像以上です。
2024年11月03日
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三十二番札所は大鰐の苦木という集落にあります。周りはリンゴ畑だけで、ある意味津軽らしい雰囲気を放っている札所です。熊野神社の境内に鎮座する小ぶりの観音堂で、南北朝時代の頃から存在していた歴史ある仏閣です。津軽三十三観音霊場三十二番札所:熊野神社 苦木長谷観音堂苦木集落は大鰐と碇ヶ関の間にある小さな集落です。国道7号から脇に逸れ、平川にかかる橋を渡るとたどり着きます。集落内の道は狭く、とても車ではすれ違う事さえ出来ません。そんな古村の風情を残す村を山手の方に進んでいくと、急な上り坂が見えてきます。ここから熊野神社に入ることが出来ます。階段下には摂社の祠があります。龍神宮と呼ばれ、傍らには小祠が置かれています。小さな池も隣接し、水に関係する神格が祀られていたことを表しています。参道の階段を上り切ると更に鳥居がありました。鳥居脇には名も分からぬ小祠が二つ置かれています。祠内には子宝神社と書かれた木幣と、木花咲耶姫命と思しき木像が置かれてあります。こっちは姥石神社とうっすら読めますね。八甲田山を隔てた南部側にも似たような名前の神社が有りますが、なにか関係が有るんでしょうか。祠の隣には意味ありげな岩塊が置かれています。・七戸町:婆古石神社 巨石を祀る苔生す神社熊野神社の拝殿です。トタンで強化された拝殿内には、絵馬がいくつも飾ってあります。ページ最後で紹介していますので見てみてください。拝殿内には”かんじき”のような履物がかかっています。修験・熊野信仰との関連がみられます。本堂の扉も固く閉ざされ、この奥に御神体が有るんでしょう。斜めから。構造的に手前の拝殿は後になってから増築されたもので、もとは本殿がむき出しで置かれていたものと思われます。こちらは山神社です。なぜかこれだけ石造りの社殿です。そして観音堂です。扁額には正(聖)観音とあります。御由緒です。苦木長谷観音堂 苦木長谷観音堂は、津軽三十三観音の32番札所である。天文のころ(1532~1554年)長谷堂の地名で呼ばれていることから、南朝の武将水木堅正が熊野平館を築き、観音像を安置したと伝えられている。 明治6年(1873年)の神仏分離令で観音堂は熊野宮になった。さらにこちらの由緒も見てみましょう。苦木観音長谷堂(津軽三十三観音霊場) 津軽三十三観音霊場の第32番札所です。 寛永9年(1632年)村中により創建と伝えられている神社です。天保年間(1831~1845年)には女修験者や神官により2度観音像が盗まれていますが、いずれも無事に戻り現在に至ります。 長慶天皇は南北朝時代に足利尊氏と戦って敗れ津軽に亡命し、元相馬村で崩御します。その家臣である武将水木監正の一族が、天皇崩御の後、この苦木の地に住み着いた後、集落を作り、16世紀半ばに熊野平舘を築き観音像を安置しました。 津軽三十三観音霊場の第32番札所となっています大鰐温泉観光協会 / 観光 / 苦木観音長谷堂 より抜粋公式ガイドブックの方では・・・・・・1850年代には本尊である観音像が女修験者や神官により2度の盗難に遭うも無事に戻ってきた。明治の神仏分離令により廃堂、跡地に熊野宮が建立されるも明治中期には観音堂が再建された。・・・とあります。これらを合わせて考えると、観音堂の創建は水木氏によって1532~1554年、または苦木村民により1632年。1873年の神仏分離で熊野宮となるも、明治中期には本堂とは別に観音堂が再建されて現在に至ると言えそうです。観音堂斜めから。この観音堂は明治中期になって再建されたものですが、今でも蝋燭立や札掛け所、線香台が備えられるなど、キレイに管理されています。神仏分離による廃絶から立ち直った力強い観音札所です。御堂にかけられた千羽鶴から崇敬の篤さが伝わってくるようです。ちなみに朱印所は苦木集落の中心にある小屋です。僕は冬季に行ったんですが、ここではなく集落入り口のコミュニティーセンターで朱印をいただきました。時期によって朱印所が変わる可能性があるので、地域の方に尋ねてみましょう。御詠歌幾度も 法に歩みを運ぶなり 甘き苦木は 後の世のため本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर以前貰った御朱印です。以上です。次の記事・三十三番札所:観音山 普門院 巡礼のシメとなるお山の観音堂調子に乗って撮った写真ギャラリー拝殿内の絵馬天ノ岩戸白馬神宮皇后と武内宿禰
2024年12月28日
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白河市の東方、国道4号沿いにある麺処です。国道4号は白河に至る主要道で、福島県の他地域に遠征し、白河に戻る時はだいたいこの道路にお世話になっていました。遠征で疲れ果て、何か口に入れたい・・・そんな思いに支配された時、道路の脇に巨大な白河達磨が姿を現し、次いでこの店の看板が目に留まりました。急いで駐車し店に駆け込みます。※白河達磨は幻覚という意味ではなく、本当にこの店の手前に置かれています。麺家 大須賀 白河店暗闇の中、麺家 大須賀という文字が浮かび上がり、腹をすかせたラーメン好きを誘い込んでいます。今思い返すと、ここが僕の次郎系デビューの店だったと思います。2024.10.4辛味噌ラーメンもはや呪文は忘れてしまいましたが、たしか”ヤサイマシ”は付けた気がします。見た目通りの大食漢満足カスタムで、一発で満腹になれます。味は味噌の深みとダシが合わさって非常にうま味溢れる一杯・・・なんですが、どうも塩辛さが強い。僕は青森県出身故、濃い味は好きですが、これは中々にレベルが高い。もしかして”カラメ”を付けて、そのことを忘れているんでしょうか?真偽は分かりませんが、その分麺に味がしっかり絡んで最後までおいしく戴けました流石に汁完とまではいきませんが・・・。常人を次郎沼に引きずり込むアブナイ一杯、いかがでしょうか?以上です。
2025年02月12日
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岩木山の東麓にある寺院で、創建は20世紀と最近です。ここは特に御朱印に力を入れている札所で、津軽龍神霊場のものや七福神、諸仏など本当に数え切れない位の種類です。津軽弘法大師霊場十番札所:五色山 聖心寺岩木山ネックレスロードから御朱印と書かれた幟が見えます。そこから脇道を進むと境内に着きます。駐車場からは既に本堂が見えており、途中途中に様々な堂宇が置かれているようです。参道の起点には鳥居も建っており、神仏混淆の痕跡を感じられます。鳥居の脇に境内案内板が置かれています。どうやら参拝順路が決まっているようですが、今回は円形の境内を時計回りに参拝しました。その順で各堂宇を紹介していきたいと思います。鳥居をくぐってまず見えるのが地蔵堂。堂内には黒鉄の子安地蔵が置かれています。その奥には不動明王堂があります。地蔵堂と同じような外観です。内部には着色された不動尊の石像が置かれています。真言宗と言えば、という仏尊です。本堂です。入母屋屋根の端正なお堂です。五色の幕がかかり、真言宗寺院であることを示しています。寺院本尊の大日如来には面白い伝説があるので、由緒と共に載せたいと思います。まずは由緒から。第十番札所 五色山 聖心寺(ごしきさん せいしんじ) 「聖心寺」は、当初「聖心会」として昭和三十五年、弘前市南横町において成田聖心によって布教された。その信仰は、山岳信仰の開祖赤倉大神および真言宗開祖弘法大師の訓に基づき神、仏事、神占い、祈とうを行ってきた。 その後、同市北横町に移転し神殿、拝殿、事務所を設立、その間創立者は碇ヶ関村の国上寺住職小野朝恵師に入門、真言宗智山派総本山智積院道場にて修行し得度した。同時に、僧名を聖心するとともに、聖心会を「聖心寺」と改め、山号を五色山と定めた。昭和57年(1982年)春、現在地に今の寺を建立し、同59年秋、守護神社を建立、現在にいたっている。津軽弘法大師霊場 / 札所紹介 / 第十番札所 五色山 聖心寺(ごしきさん せいしんじ) より抜粋更に大日如来については、津軽龍神霊場の由緒の中に面白い記述があるんです。五色龍権現 霊峰岩木山は曼陀羅であり、諸佛・神々が住居する聖地であり、別名『白龍の峰』とも言う。開祖、聖心和尚。岩木山に入山、山頂において修行された時、白龍大権現を感得された。その龍神は、大日如来の光明に包まれて五つの色に輝き、『五色龍権現』になったと伝えられている。 それ以来、當山鎮守として、東西南北の守護の為五つに分けて勧請しているが、ご利益がそれぞれ異なり、青龍神は芸能運、金龍神は家庭運、赤龍神は勝負運、白龍神は金運、黒龍神は健康運のご霊験があり、各々の龍神が持つ玉は、人々の願いを叶える『宝』(宝珠)であるとされている。津軽龍神霊場 公式Facebook 投稿より引用下線部の記述には、神格と仏尊とが混じりあい五色龍権現が生まれたと書かれており、これこそ神道と仏教のあわいを越えた神仏混淆の信仰の形!それが現在まで保たれているんです。そうした点からなかなかに珍しい寺院と言えますよね本堂の裏手には弘法大師の像が置かれています。南無大師遍照金剛そして脇には金剛界大日如来。これは十二支守り年本尊の一つです。とりあえず丑・寅年の守り本尊、虚空蔵菩薩も撮っておきます。大師像の隣には、境内案内板に”神社”とだけ書かれた社が置かれています。詳細は不明なんですが、おそらく由緒書きの”守護神社”とはこのことだと思われます。ひょっとするとここが五色龍権現を祀る社なんですかね?分からん鳥居の脇には馬頭観音堂。真言が書かれた看板が掛かっています。それにしても本当に由緒が気になる社です。詳細プリーズ!神社脇の小さな池には水天宮が置かれています。津軽龍神霊場の札所になっています。その隣には大黒天堂が。中には御供え物が大量に置かれており、崇敬の篤さを示します。斜めから。割と最近になって創建された寺院でしたが、その由緒はかなり面白いものでした。津軽弘法大師霊場の札所の中でも特色ある寺院です。御詠歌ぬばたまの 闇を照らさん五色光 遍照尊の いますこの寺ぬばたまの やみをてらさんごしきこう へんじょうそんの いますこのてら清らかな 津軽富士山岩木峰 裳裾のうちの 聖心の寺きよらかな つがるふじやまいわきみね もすそのうちの せいしんのてら本尊:大日如来 महावैरोचन以前貰った御朱印です。津軽弘法大師霊場弘法大師生誕1250年記念御朱印以上です。
2025年03月05日
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角田市の南西に斗蔵山と呼ばれる小山があります。標高は238mとそこまで高くありませんが、お椀を伏せたようなキレイな形をしています。山頂には田村麿創建の伝説が残る神社と寺院が鎮座し、麓の集落を見守っています。2024.10.26奥州三十三観音霊場四番札所:安狐山 斗蔵寺県道105号から眺めた斗蔵山。右端の赤い橋の先に登山道があるそうです。これが表参道になるんですが、実は車で山頂まで行ける裏参道という道もあるんです。今回はそちらで途中まで行き、空き地に停め、残りは徒歩で向かいました。恐ろしく狭いオフロードを行く感じです。基本一車線ですれ違うことは難しいでしょう。岩石も転がっているので、踏みぬかない様に気を付けましょう。そんなこんなで頂上に着きました。眼前には何故か観音像がズラリと並んでいます。境内の案内板がありました。それによると現在地は本堂の裏手でしょうか。参道の突き当たりには神社。その脇に寺院という構図で、何となく神仏習合味が感じられます。斗蔵山神社先ずは斗蔵山神社から見ていきましょう。鳥居と共に立派な山門が置かれています。脇には石碑。えんころ節之碑とあります。一本動画を見てみましたが、石碑の物とは少々歌詞が異なりました。こうした違いがなぜ生まれたのかという点も、調べてみると面白いですよね。・YouTube / 錦美会 えんころ節(宮城県民謡)山門です。彩色なしの素朴な門ですが、その規模はかなりのものです。門をくぐると、これまた古めかしい社殿が見えてきました。斗蔵山神社の拝殿になります。御由緒を見てみましょう。斗蔵山神社主祭神:大山咋神例祭日:7月10日由緒 平城天皇大同2年(807年)坂上田村麿の勧請と伝え、保食神を祀るを以て斗蔵山と名づけた。元斗蔵三社大明神と称し(稲荷は中央、山王は左、白山は右の三社)斗蔵山頭の安居山斗蔵寺の鎮守社であった。寛政年中(或は万治年中とも)野火の為社殿古記録が烏有に帰した。 境内に隣りして斗蔵寺があって千手観音像を安置している。もと本寺の住職が神社の別当を兼ねたのである。 明治5年村社に列せられた。本社は小児の虫よけの神様として広く信仰される。即ち虫の根を切るというので鋏をあげ、榧の実をあげて祈願する風がある。虫気のあるものはこの奉納品を一時借りて成就の際には倍にして奉賽するのである。 境内は2850坪あるが、これに接する山は温帯北部に於ける樫の密生林なので国有保安林学術参考林になっている。宮城県神社庁 / 神社検索 / 斗蔵山神社 より引用創建当時の祭神は保食神だったようですが、現在は山王色が強くなったのか大山咋神を主祭神として祀っています。三社大明神という祀り方は、熊野などとも共通しており、修験道など様々な勢力の影響を受けているものと思われます。本堂の左右には小祠が置かれています。これは右側のもの。扁額には”蚕神”でしょうか?神像も女神型です。推測ですが、これは保食神を模したものなんではないでしょうか。蚕というと蠶養國神社や蚕養神社などが有名ですが、そこの祭神も保食神や稚産霊神となっています。もしそうなら、この社がかつての主祭神の社である可能性がありますね。左側の社も見てみましょう。内部には何故か猫の石碑や招き猫が置かれていました。白山神社・日枝神社共に猫に関するエピソードは無いように思いますが・・・?何の縁があってのことなんでしょうか、謎です。でもかわいいね斜めから。遥か昔から当地域の鎮守として、斗蔵山の山頂にて人々の崇敬を集めていたようですね。現在は当初の主祭神とは別の神格が主祭神となっていますが、当初の祭神からしておそらく農耕社会であったこの地域の農業・殖産の発展を願って勧請された神社だったんではないでしょうか。とても面白い由緒を持った古社です。安狐山 斗蔵寺次は別当の安狐山 斗蔵寺です。こちらが奥州三十三観音霊場の札所になっています。それではさっそく由緒の方見ていきましょう。第四番 安狐山 斗蔵寺真言宗智山派開山:坂上田村麿創建:大同2年(807年)本尊:千手観音 通称「おとくらさん」と呼ばれ、 全国至る所に信者を擁するこの斗蔵寺、寺伝によれば、大同2年(807年)坂上田村麻呂が勅令により奥州平定に赴いた際、観音堂を建立して千手観世音懸仏、正しくは千手千眼観世音菩薩を安置したのが始まりとされている。敵味方問わず戦没者の霊を弔うと共に天下泰平、五穀豊穣が祈願された。その後、斗蔵寺として開山したのは弘法大師とも伝えられているが定かではない。 開山以来、常に地元の厚い庇護を受けてきたが、万治3年(1660年)、災禍により全山の堂塔が全焼、御本尊の千手観音懸仏だけがかろうじて救出された。寛文3年(1663年)に角田領主宗弘公によって再建される。明和8年(1771年)には再び火災に遭うが御堂は延焼を免れ現在に致っている。 四間半(8.1m)の四面周囲に四尺五寸(135cm)の濡れ縁をめぐらした朱塗りの色鮮やかな御堂。内陣には、宮城県文化財にも指定されている御本尊の懸仏と、御前立てに木彫りの千手観世音菩薩(2.7m)が安置されている。 斗蔵寺観音堂の奥には白山神社が祀られ、広い境内には子安観音堂や昭和27年(1952年)に奉納された世界平和祈念の梵鐘がある。また、本堂の裏では、1m余の観音像18体が別々の高い台座の上に一列に並ぶ荘厳な光景を目にすることができる。さらに、少し離れた所には台座とも約80cmの三十三観音石像が安置されている。いずれも奉納者は広く全国にわたり、この寺の知名度の高さをうかがい知ることができる。 観音堂の祭りは、4月17日と8月9日、いつもは静寂の中にある境内がひととき喧噪につつまれる。また、新春1月14日の晩には「どんと祭」が行われ、地元小田青年会の有志による和太鼓「とくら太鼓」の奉納と角田市商工青年部を中心とする裸参りで大いに盛り上がる。これらの祭りの日には大護摩法要が厳修されるということもあって県内外からたくさんの参詣者が訪れる。若い母親の姿が目立つのは、子安観音様が子育てに御利益があると伝えられていることによるようだ。参詣者が多いこともあって休憩所や展望台などの整備もしっかり行き届いている。河北新報出版センター 改訂新版 奥州三十三観音の旅 28~30ページ より引用創建当時の山・寺号は安居山斗蔵寺。山号の字が異なりますが、音は今と同じですね。また、観音堂の奥に白山神社が置かれているという記述もありますが、これは斗蔵山神社を指したものなんでしょうか?ということは現在も白山比咩神が祀られているんですかねぇ。観音堂の左右には古めかしい狛犬が置かれています。これも神仏混淆の昔を表す遺物なれば。阿形。吽形。鼻が大きく、他にはない独特なデザインです。説明書きです。斗蔵寺の文化財 安孤山斗蔵寺は、大同2年(807年)に坂上田村麻呂が建立し、千手観音が安置されたと言い伝えられている。また同年、弘法大師が訪れ「紫雲天にたなびき 奥州無二の霊地なり」と賛美したとも伝えられる。 仙南地方では「おとくらさん」とも呼ばれ、古くから厚い信仰を集めている。斗蔵寺観音堂(昭和56年10月20日 市指定文化財) 方三間の宝形造の仏堂である。万治3年(1660年)に野火で焼夫したが、第四代角田城主石川宗弘により寛文3年(1663年)に再建された。その後、文化5年(1808年)には十二代宗光が屋根の瓦葺を修復、弘化3年(1846年)には十三代義光が瓦から銅板段葺に葺き替えた。昭和21年(1946年)には大風による倒木で被害を受けたため杉の皮で修繕を行ったが、昭和27年(1952年)鋼板段葺で再び修繕、昭和62年(1987年)に浄財によって全面を銅板瓦棒葺として現在に至る。木造千手観音立像(平成3年5月28日 市指定文化財) 高さ一丈五寸(約315cm)の仏像で、寛文3年(1663年)に観音堂が再建された際に開眼供養の法会を行ったとされることから、その頃の作と考えられる。銅造千手観音像懸仏(昭和39年8月7日 県指定文化財) 斗蔵寺の本尊で、秘仏として信仰されている。鏡板の直径が48.3cm、観音像の像高が26.7cmである。裏面には、鎌倉時代末期の延慶3年(1310年)に製作・奉納されたという墨書銘がある。鉄鉢(昭和43年10月1日 市指定文化財) 永禄3年(1560年)9月に田手助三郎時実から寄進されたものであるが、寛延3年(1750年)に盗難に遭い、第八代角田城主石川村俊が新鋳したと伝えられる。田手氏は伊達氏の庶流と伝えられ、伊具郡内に所領を持っていたが、天正19年(1591年)に伊達政宗の命で柴田郡に所領を移された。平成21年12月 角田市教育委員会説明書き内の写真をアップにしたものです。この木造千手観音像は本尊では無いですが、3mを越える巨像です。かなり立派な見た目をしています。ちなみに本尊の千手観音懸仏については、宮城県のサイトからその姿を拝むことができます。・宮城県 / 宮城県の指定文化財 / 銅造千手観音像懸仏斜めから。奥州札所は古刹の宝庫ですが、今回紹介した斗蔵時もその例にもれず、面白い由緒を持つ古刹でした。朱と黄で染められた宝形造の御堂の中には、生き仏と見紛う千手観音像が置かれ、奥の懸仏の代わりにその姿を現してくれています。初めてここに参拝した時、社務所には老住職がお一人で座っており、いろいろと雑談の末、見事な御朱印を授けてくださいました。その後5時丁度に別れて寺を後にしたのですが、帰りしなに聞こえてくるゴーンという鐘の音に心奪われてしまい、いつまでも耳を澄まして聞き入っていました。心なしか帰りの足取りは軽く、心も踊るようでした。これぞ巡礼の醍醐味、いつまでも心に置いておきたい思い出です。御詠歌あらざらむ 罪を斗蔵の松風は 弥生の霧も 晴るる山路あらざらむ つみをとくらのまつかぜは やよいのきりも はるるやまみち本尊:千手観音 सहस्रभुज今回貰った御朱印です。以上です。次の記事・五番札所:名取千手観音堂 どこから来たのか名取の千手観音
2025年03月26日
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東京都上野には、日本一有名な公園と言って差し支えない上野公園が広がっています。大きさは何と東京ドーム11個分とも言われ、動物園や美術館、博物館なども置かれ、都内屈指の観光スポットです。この上野公園ですが、もともとは東叡山 寛永寺の境内だったそう。戊辰戦争や廃仏毀釈の影響もあり、今では数ヶ所の堂宇が残るのみです。今回紹介する札所も、もとは堂宇の1つだったものです。江戸三十三観音霊場六番札所:東叡山 寛永寺 清水観音堂不忍池から公園側に歩き、信号を渡って長い石段を登ると、朱塗りの舞台と御堂が見えてきます。清水観音堂と呼ばれるその御堂は、京都の清水寺を模して建てられたものです。手水で清めたら、早速境内に入ってみましょう。境内の舞台では、観光客の人達が何人も写真を撮っていました。そのバックには奇妙にねじれ、円を描く松が生えています。これは”月の松”と呼ばれるもので、現在は2代目。2012年に植えられ、今はこのように立派な姿を見せてくれます。詳細は下のリンクからどうぞ。・台東区文化探訪アーカイブ / 清水観音堂の舞台に立つこの松の円をのぞき込むと、その先には不忍池の弁天堂がありました。景観も優れ、これだけ見栄えする松は他に無いでしょうね。歌川広重も浮世絵の題材にしたと言います。・台東区文化探訪アーカイブ / 清水観音堂の月の松観音堂です。日光の諸堂や岩木山神社の様に真っ赤です。清水観音堂を創建した天海大僧正は、さきの日光山 輪王寺の貫主でもあります。さらに岩木山神社がある津軽とも一応縁があって、津軽二代信枚の師となって津軽の真言宗布教を進めたともされています。では、御由緒も見てみましょうか。清水観音堂の歴史 清水観音堂は、寛永8年(1631年)に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643年)によって建立されました。 天海大僧正は寛永2年(1625年)に、二代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、平安京と比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開きました。これは、比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したのです。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立しましたが、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずでら)を見立てたお堂です。 清水観音堂は、京都の清水寺の義乗院春海上人から、同寺安置の千手観世音菩薩像が天海大僧正に奉納されたことにちなみ、清水寺と同じ舞台作りで、初めは上野公園内の「擂鉢(すりばち)山」に建てられました。 しかし元禄初期、今の噴水広場の地に、寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると、その工事に伴って元禄7年(1694年)9月に現在地に移築されました。上野の山に現存する、創建年時の明確な最古の建造物です。 平成2年12月から文化財保存修理が行われ、平成8年(1996年)10月に竣工、元禄移築時の面影を再現するに至る、国指定重要文化財です。東叡山 寛永寺 清水観音堂 / 清水観音堂について より引用17世紀建立の御堂で、創建当時の姿を今に伝えています。江戸時代の頃、東叡山 寛永寺は桜の名所上野公園にありながら、一般の人達は立ち入りが制限されていたようです。その中で清水観音堂だけは別で、一般の方の御参りの為に天海大僧正自ら私財を投じて建立したともされています。その親しみやすさ故か、現在でも沢山の人々に愛されているように感じました。次に堂内の仏像群について見てみましょう。秘仏ご本尊の縁起 京都清水寺からご遷座された秘仏ご本尊・千手観世音菩薩は、平安時代の比叡山の高僧・恵心僧都の作と伝えられています。 秘仏ご本尊には合掌したお手・禅定印を結ぶお手の他に小さなお手が40本あり、それぞれの小さなお手が、仏教で考えるあらゆる世界の生きとし生けるもののすべてに、慈悲の手をさしのべるお姿を表しています。 秘仏ご本尊は『平家物語』に述べられる、主馬判官(しゅめのほうがん)平盛久(たいらのもりひさ)の伝説があります。盛久は千手観音を清水寺に奉納し、千日参詣の祈願を続けていました。しかし源平の合戦で敗れた盛久は、鎌倉由比ヶ浜で斬首されそうになります。その際に刀が折れて盛久の命が助かり、また北条政子の夢に清水寺の高僧が現れて盛久の赦免を願ったので、驚いた源頼朝は直ちに盛久を許したのです。京都に戻った盛久が清水寺に参詣すると、盛久が斬首されそうになった際に観音像が倒れたという話を聞きます。こうして観音像に護られたことに気づいた盛久は感涙にむせんだ、という物語です。 この奇瑞が午の年・午の日・午の刻に起きたことから、ご開帳は年に1日、2月の「初午(はつうま)法楽」の日に行う縁起となっているのです。脇尊の子育て観音さま 右に祀られる脇尊の仏さまは「子育て観音」で、子授け・安産・子育ての観音さまとして多くの信仰を集めています。この観音さまに祈って子宝を授かった両親が、その無事な成長を願って奉納した身代り人形が、ご宝前に多数供えられています。この人形の供養が、こんにちではかわいがってきた人形に感謝する、人形供養となっています。 人形供養は毎年9月25日14時から行われます。東叡山 寛永寺 清水観音堂 / 清水観音堂について より引用本尊十一面観音についての平盛久の伝説は、おそらく観音経の中の一節をもじった創作で、史実ではないように思います。こうした伝説と結びついた謂れをもつ観音像、かなり好みですが・・・!御堂の名前からの縁なのか、実際に清水寺からもたらされたと書かれており、ここに歴史のエモさがありますよね、大好物です子育て観音と同一か、そうじゃないのか分かりませんが、こちらの聖観音像も収められているようです。これもかなりの古仏の様です。木造観音菩薩立像(寛永寺) 本像はヒノキ材の寄木造で、玉眼を嵌め入れます。肉身部は金泥塗り、衣部は漆箔です。右足柄の外側に「大し□たか□やか/勘十良」の墨書がみられますが、この墨書は近世修理時のものと考えられます。作風は文治5年(1189年)運慶作、浄楽寺阿弥陀三尊像脇侍(神奈川県横須賀市)や清水寺観音・勢至菩薩立像(京都府京都市)などと良く似ていることから、鎌倉時代初期の運慶派の制作と考えられます。しかし、本像の制作年代はそれらよりやや下がり、13世紀前半ころと推定されます。 本像の伝来は明らかでありませんが、現在は清水堂須弥壇、向かって左方の厨子内に安置されています。 清水観音堂の本尊である木造千手観音菩薩坐像(秘仏)は、13世紀の制作で、東叡山諸堂建立記によると京都清水寺の僧義定房某(東叡山之記は義足房某とする)が持参した像を主馬判官盛久が天海に献じたものと伝えます。清水観音堂には、寛文3年(1663)銘の義乗院春海の位牌が安置されていることから、義定房某との関連が推定されます。 本像は、区内に現存する木造観音菩薩立像の中では、比較的古いものに属し、ことに運慶派の正統的な作風を伝えるものとして貴重です。台東区 / 台東区の文化財 / 木造聖観音菩薩立像 より引用最後に不忍池の方から清水観音堂を眺めてみます。写真を撮ったのは確か3月、桜の開花前だったと思います。これは桜花とかなり相性がよさそうな外観です。桜と合わせて見てみたいもんですが、今年は早くも東京の桜は散ってるみたいですね。あまりにも青森県と状況が違いすぎて驚いております。東京の名所はやはり東京住が圧倒的に有利で、時期を見て写真を撮りに行けるのが羨ましいです。東京には日本各地の名所を模した”写し名所”とも言える所が非常に多いですが、ここもその一つでしたね。これを拝んだ江戸っ子も、京の都の清水の舞台に思いを馳せながら帰路に着いたんじゃないでしょうか。飛び降りる方が出る前に、僕も帰ります御詠歌松風や 音羽の滝は清水の むすぶ心は 涼しかるらん本尊:千手観音 सहस्रभुज今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンク・東叡山 寛永寺 清水観音堂以上です。次の記事・七番札所:柳井堂 心城院 聖天祀る湯島の寺院
2025年04月05日
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二度目の福島出張の時、一度目で行けなかった神社仏閣を周ろうと意気込んでおりました。特に行き残したのが茨城県の神社たち。両の手では足りない位に歴史の有る神社で溢れています。今回の出張中にどうしてもこの磯前神社2社は周りたかったんですが、ついにその願いが叶いました・・・!宿泊している白河の街を早朝に出発。国道349号をひたすらに南下し、途中で海側に折れ、虚空蔵堂・神明宮の前を走り抜けます(できればここにも参拝したかった・・・)。いつしか太陽に照らされた太平洋に辿りつき、海岸線を進んでいくと大洗の浜に到着です。大洗磯前神社先ほどの浜辺から徒歩数分。海に向かって建つ大鳥居が参拝者を迎えます。この他にも鳥居前の道路にも、跨ぐかたちで鳥居が建っており、そちらが一之鳥居でしょう。鳥居脇には石碑が建っています。何故か小石が積み上げられており、何かしらの願掛けかとも思われますが詳細は不明です。鳥居建設の碑 萬里の波頭巌を咬み、老松朝陽に映ゆ*処、大已貴命・少彦名命の両神東國の鎮護として神蹟を垂れ給ふ。時に、文徳天皇斉衡3年12月、爾来星霜茲に1129年、神威赫々として東國に光被し、延喜の制名神大社に列し、大洗磯前薬師菩薩名神の称号を賜う。明治の聖代國幣中社に列せられ、大洗磯前神社と称し國家の宗祀たり。 社頭正面に聳立する大鳥居は昭和12年深作貞治氏の奉献する処。年を経て損傷甚しく、依って其の再建を諮り建設委員会を結成し、資を氏子崇敬者に募り、工を大成建設株式会社に嘱し、茲に工成りて竣工の典を擧ぐ。依って資を献じ工を扶けし芳名を勒して後世に伝え、國運の隆昌と家門の繁栄を祈念する。昭和60年7月31日石碑と同じく、狛犬にも小石が積まれていました。狛犬:阿!狛犬:吽!海岸の小石を持ってきて積んでるんでしょうか、不思議です。参道を上がる前に、右手に折れて摂社を拝みます。こちらは”清良神社”といい、江戸氏によって謀殺された小幡義清の祟りを鎮めるために建立されました。小幡宥円命として祀られ、その姿は龍神だとも言われます。おそらくこれは近くに神池が有るためと思いますが、戦国時代の血なまぐさい争いの痕跡として、歴史を今に伝えます。祠はこんな感じです。清良神社の右脇には神池が広がっています。なんとなく鹿島神宮の御手洗池に似ていますね。もしかして磯前神社の閼伽井なんでしょうか。ここから採った水が祭神に捧げられていたりして・・・。詳細は不明です。参道を登り切ると右の方に手水が置かれています。そんで正面には随神門です。中には右大臣・左大臣が収められています。こちらの門もなかなかに美しい社殿です。町指定文化財に指定されています。木鼻の所には波頭の装飾がされているんですが、その造りの精密なこと・・・。なんともすばらしい職人技です!拝殿です。ギラギラとした装飾ではなく、落ち着いた厳かな装飾がなされています。平安の昔に創建された古社に相応しい風格を備えていました。御由緒です。大洗磯前神社祭神:大己貴神、少彦名神 平安時代の歴史書である『日本文徳天皇実録』によると、文徳天皇の斉衡3年(856年)12月29日、現在の神磯に御祭神の大己貴命・少彦名命が御降臨になり、「我は大奈母知、少比古奈命なり。昔此の国を造りおへて、去りて東海に往きけり。今民を済すくわんが為、亦帰またかえり来たれり」と仰ったことから、当社が創建されたと伝わっています。 その後、国からお供え物をいただける数少ない神社の一社となり、更には「大洗磯前薬師菩薩明神」の神号を賜りました。延喜式神名帳(平安時代の神社名鑑)では霊験あらたかな神社を表す「大社」とされ、明治時代には国幣中社という社格を賜りました。 御社殿等は戦国時代の兵乱によって焼失してしまいましたが、江戸時代になり水戸藩二代藩主徳川光圀公の命で元禄3年(1690年)社殿等の造営が始まり、享保15年(1730年)に完成したのが今の本殿・拝殿・随神門です。 本殿・拝殿は彫刻や建築様式が江戸初期の数少ない建造物として県の文化財に指定されています。 当社の創建について記されている「日本文徳天皇実録」には御祭神が降臨された時代は、天然痘が流行り、飢饉が起こるなど大変な時代だったことが記されています。特に御祭神御降臨の3年前には流行り病が猛威を振い多くの死者が出たとあります。薬も医者もいない時代に常世の国(不老不死の国)とも言われた常陸国に医薬の神が「今、民を救わんがために、また帰り来たれり」と仰り降臨されたのは、もう2度と同じような災難が繰り返されないよう、人々の願いを受けて二神が降臨されたと考えられています。 御祭神は平安の書物に「大洗磯前薬師菩薩明神」とも書かれた文字通りの医薬の神様です。 境内から涌く水は眼病に効くといわれ明治時代まで「目さらしの井」があり、神社前の海岸は潮湯治(病気治療のため、海水につかること)で江戸時代から御祭神の御利益をいただこうと賑わっていたようです。大洗磯前神社 / 御祭神・由緒 より引用出雲の神話の続きが、ここ常陸国で始まったのです。大洗磯前神社の主祭神は大已貴命こと大国主神で、相殿の神として相方の少彦名神が祀られています。この少彦名神はここより北方の酒列磯前神社より勧請されたもので、大洗・酒列の2社が揃うことで初めて1つの信仰となるようです。拝殿の外壁にはカラフルな彫り物が施されていました。それぞれに鳥が刻まれており、芸術的です。合計14面ありますが、外から見えるのは10面のみ。内側の4面は御祈祷などに呼ばれた方しか見ることが出来ません。拝殿は本殿と共に県指定文化財になっています。斜めから。海から来訪したとされる当神社の祭神たち。大洗・酒列ともに海岸にその降臨の跡があるんです。海からもたらされた物は受け入れる風土が日本には有りますが、それは大昔からのものだったようです。那珂川の河口を挟むようにして鎮座する2社は、今も変わらず当地の発展を見守っています。もう少しだけ続きます。ここからは摂社などを見ていきたいと思います。拝殿の向いには神馬舎があり、中には馬像が収められています。拝殿の左右奥には、末社がまとめられた合祭殿(正式には末社併合奉斎殿)が置かれています。それぞれ3つの神社が合祀されているようです。こちらは拝殿左奥の合祭殿。ここには右から・・・八幡宮:応神天皇・神功皇后・玉依比売命水神社:水波能売神大杉神社:大物主大神が祀られています。この合祭殿からは磯前神社の本殿が見えるんですが、なんと屋根は茅葺です!古くからの姿を遺しているんですねぇ反対側から見ても素晴らしい!茅は芸術的な整い具合です。右側の合祭殿です。こちらには右から・・・水天宮:天御中主神・安徳天皇・建礼門院二位尼静神社:建葉槌命・手力雄命・高皇産霊尊・思兼神大神宮:天照皇大神が祀られているようです。合祭殿から拝殿へ戻る途中にも摂社があります。こちらは御嶽神社、山岳信仰の社です。社はこんな感じ。扁額もこの通り豪華です。内部には金色の幣が置かれていました。祭神は国常立命・大己貴命・少彦名命の3柱です。他にも烏帽子厳社・茶釜稲荷神社・與利幾神社などの摂末社が有るようですが、今回は撮り忘れ・・・。次回参拝出来たらこちらも紹介したいと思います。帰りしなに神磯と呼ばれる、当神社の祭神が降臨したとされる場所を見に行きたいと思います。参道を登り切ったところの鳥居からは、大洗の海が良く見えます。参道の鳥居から徒歩2.3分。大洗の浜にある神磯に着きました。磐座を思わせる岩塊に鳥居が1基建っています。ここは神磯、大国主神降臨の地です。製塩労働者に神懸りしたとの言い伝えもありますが、大国主神を奉斎する部族が移り住んだ、とかならもっと面白いですよね。様々な説がありますが、いずれにしてもここが伝説の地と言うのは変わりありません。近くに歌碑が建っています。しかもこの詩は水戸光圀の詠んだもの・・・。磯月荒磯の 岩にくだけてちる月を ひとつになして 帰る浪かな徳川光圀大洗の浜は日の出の名所としても知られていますが、夜に見てもきっと美しいことでしょう。波に照りかえる月明かりを見ながら、ゆっくりとお酒を楽しんでみたいもんです隣には解説も!「磯月」について現代訳海に映る月が 荒磯の岩に砕けて散る その月を一つに戻して 帰る波なのだな 徳川光圀の歌集「常山詠草」の秋歌で、治世中の作に収められています。 光圀は元禄年間初頭に大洗磯前神社の再興に着手し、隠居後は水戸藩別荘の湊御殿(い賓閣)を基点に願入寺に通い祝町を振興し、大洗や磯浜・広浦で四季の行楽に興じました。令和6年立春 宮下町内会・大洗磯前神社・大洗観光協会鳥居から日輪が登る様子は撮影できませんでしたが、晴れ渡る空の下、どこまでも続く太平洋を背にして建つ鳥居は、何とも幻想的に映ります。大波に 洗われ続けた磐座は 神現われて 人や祝うや ということで、非常に見ごたえがありました。当に聖地巡礼、かねてより参拝したかった古社には、なんとも面白い由緒や伝説が残され、今でも参拝者を楽しませています今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・大洗磯前神社以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー随神門と樹叢美社殿大洗の浜
2025年06月04日
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まだ桜が咲く少し前に行った神社の紹介です。館鼻岸壁のほど近く、歴史ロマン香る神社があります。今回はその神社についてです。御前神社道路を挟んだ公園から撮影しました。鳥居です。すぐ横がみさき通という桜並木です。満開の時期に来たかったですね。木蓮や梅は満開できれいでしたけどね!境内に桜が・・・と思いきや、神社の方に聞いてみると梅だそうです。恥ずかしい隣にはおみくじが結びつけられた木があり、これも花が咲いているようできれいでした。ふなだま様です。調べてみると全国的に広く信仰されているようです。新しく船を造った時に様々な物を船に備えますが、それはふなだま様に対してだそうです。女神とされ、海上安全などの御神徳があります。海上安全と言えば金毘羅さんが有名ですが、このような民間信仰も存在すると知って興奮しました。説明書きです。ふなだまさま海とともに拓けてきた八戸にあって、航海安全守護を祈願する漁民信仰の代表は「ふなだまさま」といえます。「ふなだまさま」は航海安全の守り神のことで「船霊さま」、「船玉さま」、「船魂さま」とも書かれ、通常は帆柱を立てる下の部分や、舳先に祀られ、御神体は女性の毛髪や人形、硬貨などを入れました。船を新しく造った時は親類や村人を集めて酒宴を催し、完成すると、「ふなだまさまのタマス(魂)入れ」がはじまります。この石碑には「船魂様 施主吉田亀次郎」と刻まれており、建立年代は分かりませんが、奉納者の生存時代からして幕末ごろと思われます。御前神社の祭神が住吉大神・神功皇后を祀っているため「ふなだまさま」の御利益と合致します。当地方で、船魂碑を奉祭しているのはここ御前神社だけです。今日では、御神体を納める「切り込み」が船についていないため、御前神社のお札を祀るなど、信仰の形態が変化してきているといえるでしょう。「板子一枚下は地獄」といわれるよう海で生計を立てる漁師にとって「ふなだまさま」を崇拝することは大切なことでした。金毘羅さまです。こちらも海上安全の神として有名ですよね。説明書きです。こんぴらさま「金比羅船々 追風に帆かけて シュラ シュシュシュ」の民謡で唄われる讃岐(香川県)の金比羅さん。金比羅参りは江戸中期以降盛んとなり、お伊勢(伊勢神宮)参りとともに一生に一度の信仰の旅でした。金比羅神は航海安全守護の神さまとして崇拝され、他にも五穀豊穣・家内安全・商売繁盛・病疫退散などにも御利益があると信じられ全国に広まりました。この石殿の側面には「嘉永4年亥4月10日」、台座正面には「亀甲丸久次郎 小宝丸万吉」と刻まれています。久次郎と万吉が嘉永4年(1851年)航海安全を金比羅さんに祈願して湊館鼻の日和山に奉納したものでした。御前神社が館鼻の地から現在地に遷座され、この石殿もとなりの船魂碑とともに移されました。亀甲丸は、八戸藩の御用船で、久次郎はその船頭でした。「八戸藩日記」(嘉永元年5月4日付)によると「亀甲丸・・・此石852石5斗9升7合」と記され、かなり大型船であったことがわかります。亀甲丸や小宝丸は遠く上方まで商いに出かけ、四国の金刀比羅宮にも参詣し、ここに分霊して祀ったのでした。久次郎と万吉の祈りが伝わってくるような気がします。拝殿です。男山・八仙と銘酒が並びます。この近くに八戸酒造があるからでしょうか。斜めから。では御由緒です。御前神社祭神:底筒男命・中筒男命・上筒男命、息長帯姫命(神功皇后)・武内宿禰命由緒沿革当社の主神三坐は別に住吉の大神とも称され、古来、その縁起から航海安全・和歌・農業・漁業に関わる神として信仰崇敬されてきました。そして、神功皇后の由緒から安産の神としても信仰されました。さらに、古事記・日本書紀の記すところの伊邪那岐命が、黄泉の国の汚れを受け、禊祓をされた時に海中から生まれなさった故事により身の汚れ心の汚れを祓清める神としても古来篤く信仰されてきました。社伝によると住吉三神の教えを受けた息長帯姫命(神功皇后)が従者の武内宿禰を陸奥に下向させます。そして、新井田川の川口小浜に安着した折り、住吉三神の神霊を受け小祠を造営したことが、当社の誕生であったと伝えられています。宿禰は住吉三神を三崎御前と仰ぎ、息長帯姫命(神功皇后)をも合わせてお祀りすることになります。その後、坂上田村麿が、当社に武運長久を願って参籠したという言い伝えも残っています。古くは雷林の地名で呼ばれていた湊館鼻の地から、平成7年の秋、小中野・江陽地区の産土神であることと、櫛引八幡宮の「お浜入り」にもゆかりのある現在地に当社は遷座造営されました。平成12年12月神功皇后の夫は仲哀天皇で、足仲彦尊として気比神社に祀られ、息子応神天皇は八幡神として櫛引八幡宮に祀られています。八戸はこれら三神がそろう土地ということで、古来からの信仰の土地だと言えます。武内宿禰は伝承では陸奥に赴いたとされていますが、実際はどうだったんですかねぇ?青森まで来ていたんでしょうか?歴史ロマンですね2025.1.9現代語訳 八戸聞見録のなかに御前神社の記載があったので、内容を補足します。御前の神社 御前神社は湊村の館泉(日和山)の上にあり、息長足姫(神功皇后。仲哀天皇の后)を祭っている所であり、よほど古い社と思われる。言伝書によれば、その真偽は確かではないが、武内宿禰がこれを創建し、のちに坂上田村麻呂将軍が再建したという。源義経・弁慶・亀井及び藤原朝猲などの奉納目録がある。 以前は陸奥国階上郡、今の三戸郡総鎮守の社であったという。明治の今は、郷社格(一郷を代表する神社) となったので新たに本堂を造築し、間もなく遷宮の式典を挙げるという。(訳者注記=御前神社は、平成7年(1995年)に八戸市小中野八丁目の現在地に遷座する)現代語訳 八戸聞見録 77、78ページ より引用その時に頂いた御朱印です。以上です。公式サイトへのリンクです。・御前神社〈みさきじんじゃ〉2024.5.5氣比神社の記事ができました。下のリンクからご覧になれます。ご興味があれば是非・おいらせ町:氣比神社 生活・文化に根差す信仰の神社2024.12.29櫛引八幡宮の記事ができました。こちらもどうぞ!・八戸市:櫛引八幡宮 南部地方を代表する八幡宮2025.2.2蛇の美麗大絵馬2025年は蛇年。そしてここ御前神社には素敵な蛇の大絵馬が奉納されたと家族から聞き、あらためて参拝しました。大絵馬です。作成したのは八戸工業大学の学生、上原子創太さん。幸運の象徴とされる白蛇がリアルなタッチで描かれています。白い中にも光が当たっているのか輝いている所があり、白と良いコントラストになっていると思いました。10分くらい見とれてたたずんでいました以上です。
2024年05月02日
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突然ですが一息つきたくなったので、昭和大仏を見に行くことにしました。第二みちのく・みちのく有料を併用すれば2時間せずに青森に行けるんですね!僕にとって昭和大仏は日常から切り離されたリラックス空間なんです。青森市に異動できるなら迷わず年間パスポートを買うつもりです。寺の縁側で熱い茶をすするのが最高の癒しになるのです。2024.5.25全仏山 青龍寺青森の環状線は青森市を囲うように走っていますが、その南東に全仏山青龍寺はあります。駐車場に着くとまず目に入ってくるのがバス停の待合所です。雰囲気ありますよね!青龍寺の境内にいると感じさせてくれます。案内地図駐車場の真ん前には高野山青森別院があります。朱塗りの伽藍で津軽弘法大師霊場の十六番札所になっています。弘法大師霊場の札所記事については、以下のリンクからどうぞ!・十六番札所:高野山青森別院 朱塗りが美しい大師堂入り口は二階にあります。参道から右に逸れると小さな橋があり、そこから向かえます。山門です。何年間前に竣工しました。豪華なことに、仁王像ではなく四天王像が納められています。この四天王の御朱印もいただけるんです。正面側は左:持国天、右:多聞天です。裏側は左:広目天、右:増長天です。参道です。ここも何年か前に整備されてから、相当きれいになりました。右には高野山青森別院、左には枯山水が広がっています。これが高野山青森別院に至る橋です。説明書きです。高野山青森別院(大師堂)青龍寺伽藍の中で唯一朱に塗られた御堂です。本尊に真言宗の開祖、弘法大師空海をお祀りしているため、大師堂とも呼ばれております。昭和23年(1948年)に織田隆弘師が創建。元々は青森市茶屋町にありましたが、境内地が狭隘であったため、昭和53年(1978年)に将来の移転先としてこの桑原の地を譲り受けました。その後、青龍寺の境内地として昭和大仏、金堂、五重塔など伽藍整備をし、平成10年に旧茶屋町より本堂を移転修復しました。青龍寺伽藍が生まれる種となったお寺です。弘法大師御宝号「南無大師遍照金剛」を唱えてお参り下さい。こちらは開山堂。先の高野山青森別院(大師堂)を創建した隆弘大和尚を祀っています。全仏山 青龍寺真言宗易行派本山開山:織田隆弘大和尚本尊:胎蔵界大日如来開山堂二十尺四面、宝形造の小ぶりですっきりとした佇まいのお堂に青龍寺開山織田隆弘大和尚の木像をお祀りしております。開山主織田隆弘大和尚(大正3年弘前市生まれ)は、昭和16年東京四ツ谷の金鶏山眞成院住職を拝命するも東京空襲で堂宇を焼失してしまいます。そこで昭和23年、青森市茶屋町に高野山青森別院を建立し境内地に保育園、診療所、ユースホステルを併設して福祉事業、青少年育成に力を注ぎました。やがて昭和46年には四ツ谷の眞成院を復興、昭和57年に全仏山青龍寺を創建、続いて昭和大仏、書院、金堂を建立し、今日の青龍寺伽藍の基礎を築かれました。お加持によって癌をはじめ難病に苦しむ多くの人々を救い、著書は数十冊に及び、ひたすら仏法興隆に尽くされました。高野山真言宗の最高位、伝燈大阿闍梨大僧正に任ぜられ、平成5年金堂落慶を見届けて遷化されました(世寿80歳)。この開山堂をお参りしてふり返ると、その視界には右手に金堂、五重塔が、左側に書院が甍を連ねており、青龍寺伽藍が見渡せます。開山主は今も尚、伽藍を見つめ、参詣者を見守って居られるのです。昭和大仏青龍寺 / 開山堂 より抜粋これまで奥州南部糠部三十三観音で見てきた観音堂の造りは宝形造と言うんですね!今度から使いこなしていきたい言葉です。金堂です。結構横に広い造りになっています。中には諸仏と不動明王・愛染明王・見返り阿弥陀像が安置されています。その前で焼香できるんですが、何だか気が引き締まるような感じがします。本州最北端の青森県にこんなにも素晴らしい仏像がそろっているのは驚きですよね他にも様々な絵画類なども飾られています。斜めから。開山堂の右手あたりから撮りました。素晴らしい景色ですよね気分は小京都!金堂金堂は伽藍の中心となるお堂で、青龍寺で行われる多くの儀式がここで執り行われます。本尊は昭和大仏と同じ大日如来(胎蔵界)。「おんあびらうんけん」とご真言を唱えてお参り下さい。裏廊下には高野山に伝わる国宝を模写した「阿弥陀聖衆来迎図」、須弥壇西端には昭和大仏原型製作者、江里宗平仏師の手による「みかえり阿弥陀像」をお祀りしております。安置仏薬師如来、宝生如来、阿弥陀如来、釈迦如来、不動明王、愛染明王、虚空蔵菩薩、毘沙門天、真言八祖絵図、両界曼荼羅掛け軸昭和大仏青龍寺 / 金堂 より抜粋全仏山の額です。ここが金堂最高のポイントです。なんと五重塔を見ながら熱い茶を飲めるんですゆっくりしていると、誰かが付いた鐘の音がゴーンと聞こえてきます。本当に何時間でも居れますよ。五重塔です。青森県には弘前の最勝院にも五重塔が有り、非常にたくさんの名所がありますよね!この五重塔は柱を上から吊っているため、地震による揺れにも強いとのことです。五重塔の御開帳日には住職自ら説明してくれるので、非常に面白いです。近くに寄ってみると、銅鐸のカランカランという響きが聞こえてきて浄化されます(昇天)。五重塔青龍寺五重塔は、39,35mと木造五重塔としては京都の東寺、奈良の興福寺、香川の善通寺に次いで日本第4位の高さを誇ります。京都以北では最大の木造五重塔です。吊り心柱構造が採用されており、初重内部に設えてある須弥壇の中央に聳え立っているかのような太い心柱は、天井に空いている穴を突き抜けて五重目の土居から吊されています。地震の時に心柱が揺れることによって、地震の揺れを吸収する免震構造です。木造五重塔は台風などの大風による倒壊、火災による焼失は歴史上何度も起こりましたが、地震による倒壊は未だかつてありません。初重内部須弥壇には、胎蔵界曼荼羅に描かれる普賢菩薩・観世音菩薩・文殊菩薩・弥勒菩薩の四菩薩、壁面には真言八祖彫像が奉安されています。昭和大仏青龍寺 / 五重塔 より抜粋説明書きです。五重塔建立趣意仏塔の歴史は、お釈迦さまの入滅の時に舎利を納め供養するために建てられたのが始まりです。日本の仏教建築の中で世界に誇る五重塔は伽藍の中核をなし仏法興隆に功績大なるものがあります。思うに世相は繁栄の蔭に唯物自我の思想に立ち、無益な競争社会と犯罪社会を生み、権利のみを主張し、義務を怠り、小欲知足を知らぬ国民は感謝を忘れ、先人の意徳の広大さ、とりわけ護国英霊の大恩を忘れてしまっております。聖徳太子は十七条憲法の中で仏教をして国と民との模範として精神文化の大道を開かれました。仏教は人格教育であります。仏法なくして国の再生はなりません。「国民に仏心なくば人心乱れ、国に仏法なくば国荒廃す」の信念は正法興隆の大悲願となり、昭和大仏、金堂、そして五重塔建立の発願に至りました。境内の森を背景に屹立する五重塔は、仏教の精神美を表現し青い森、青い海、青い空の自然と調和して、人々の仏性に一層の輝きを与え正法の道しるべとして子孫の宗教心の涵養に役立つことを期待するものです。平成8年(1996年)10月10日 山主去年のいつだったか忘れてしまったのですが、五重塔のご縁日に内部を拝観することができました。確か月一で開帳していたと思うのですが・・・。その時に見た仏像です。これは普賢菩薩。こっちは弥勒菩薩です。書院です。何度も昭和大仏に行っていますが、ここには一度も入ったことはないです。分かることは素晴らしい建築物だということ!書院昭和57年、港区高輪の高野山東京別院新築に伴い、旧書院を拝受し青森の地に移築復元しました。昭和5年建立の深みのある風格を漂わせつつ、青龍寺境内の豊かな自然に溶け込んでおります。当初はこの書院の一階に本尊が祀られ、本堂として使用されておりましたが、平成4年に金堂が建立されると御本尊を金堂へ遷座し、以降主要な行事は金堂にて行われています。現在は精進料理やわんぱく小僧修行体験などを始め、各種行事、講演会場として使用されております。昭和大仏青龍寺 / 書院 より抜粋金堂から昭和大仏の方に進むと”大仏そば洗心庵”が見えてきます。蕎麦にあんみつ、五平餅など参拝の一休みとしていかがでしょう。僕は五平餅が一番好きですねセルフですが、ここでも茶を楽しめます。天気のいい日は傘の下で蕎麦をすすり、デザートにあんみつ・五平餅など最高ですね!大仏そば洗心庵洗心庵ではそば、うどんなどのお食事や甘物、お飲物をご用意しております。境内散策の合間に青龍寺境内の豊かな自然を感じながら、おくつろぎのひとときをお過ごし下さい。営業期間 4月1日~10月31日営業時間 11:30~16:30昭和大仏青龍寺 / 大仏そば洗心庵 より抜粋手水舎です。清瀧の滝の向いにあります。かっこいい龍ですね。清水が流れ出しています。裏には小さな滝がありました。四国八十八所お砂踏霊場の方に流れています。鐘楼です。二突き百円。昭和大仏に来たときは必ず打っています。清瀧の滝です。注連縄がしてあり、苔むした石に囲まれています。静かな山中に水の音が響いてリラックスできるんですよ、ここ。津軽龍神霊場の札所にもなっている場所です。津軽龍神霊場の記事については下のリンクからどうぞ!・津軽龍神霊場:全仏山青龍寺 唐国から来たりし清瀧大権現清瀧の滝水は命の源であり、滝の流れ落ちる様は命の躍動を感じさせてくれます。滝壺を打つ音は涼をもたらし、滝から生じる清澄な空気は心に落ち着きを与えてくれます。向き合うものに多くを与えてくれるこの滝を清瀧の滝と名付けました。龍は水中に住し雨や雲を司る神として古来よりインドや中国で信仰されています。仏教においても龍は仏法守護の善神として尊ばれます。仏伝には重要な場面に龍が登場します。お釈迦様誕生の際、龍王が天から甘露水をそそぎ、菩提樹下に座し七日間の瞑想の後に成道する際にも龍王がお釈迦様を覆って風雨や害虫から守ったことが伝えられています。また真言密教においても龍は重要な役割を担っています。弘法大師が唐に渡り密教を授かった長安の青龍寺(しょうりゅうじ)では、インド無熱達池に住む婆掲羅(沙掲羅)龍王の三女とされる善女龍王を勧請して密教守護の鎮守、「青龍」として奉祀されていました。弘法大師が恵果和尚から正統な後継者として密教を授かると、弘法大師の前にこの善女龍王が現れて三昧耶戒を受けたいと懇請しますが、大師はこれを許しません。帰朝する船中に再び現れて密教守護を誓ったため、帰朝後、大師は京都洛西の神護寺山麓に勧請しました。「青龍」が海を渡って来たので水編を加えて「清瀧権現」と改称し真言密教守護の鎮守となったことが伝えられています。当山でも真言密教守護の鎮守として勧請し、日々報恩感謝の祈りを捧げております。仏法、真言密教を信じ行ずる人には必ずやご加護が授かることでしょう。「南無清瀧大権現(なむせいりゅうだいごんげん)」と唱えて礼拝して下さい。滝の前の小さな池にはかわいらしい童(わらべ)地蔵が3体、蓮華の上に佇んでいます。中央の童地蔵が背負う光背は宝珠の形。風車の意匠が施されています。昭和大仏青龍寺 / 清瀧の滝 より抜粋延命地蔵尊です。半跏?のような姿勢で座り、黄金の宝珠を持っているのが印象的です。延命地蔵お地蔵さまは他の仏さまとは違い、仏堂に安置されるよりお寺の境内、村の入口、峠、あぜ道、四辻など野山や路傍に佇んでいる姿を目にする機会が多いと思います。これはそれだけ多くの人々から身近に親しみをもって拝まれてきた仏さまである証左といえます。右手の錫杖は各地の悩める者、助けを求める者の救済にくまなく巡行されていることを表し、その音は来訪を告げ、苦しみや厄を祓い、左手の如意宝珠は打ち出の小槌のように思うままに願いを叶えてくれます。『延命地蔵経』には地蔵尊を信仰すれば次の十種の福に恵まれることが説かれています。女人泰産 女性はやすらかなお産が出来る身根具足 身体が健康で丈夫になる衆病悉除 諸々の病気が回復する寿命長遠 寿命は長くなる聡明智恵 聡明で智慧が備わる財宝盈溢 財に恵まれる衆人愛敬 多くの人に愛される穀米成熟 穀物など豊作となる神明加護 神仏に守護を得る證大菩提 悟りを得る如意宝珠を持つ左手には紐が結ばれており、これが基壇に置かれた如意宝珠に繋がっております。お参りの際は、基壇の如意宝珠を撫でて所願成就をお祈り下さい。昭和大仏青龍寺 / 延命地蔵 より抜粋説明書きです。延命地蔵菩薩尊お地蔵さまは、他の多くの仏さまとは違い、仏堂に安置されるより、お寺の境内、村の入り口、峠、あぜ道、四辻など野山や路傍に立って手が届くところにおられるのは、それだけ庶民にとって、とても身近に親しみをもって拝まれている表れです。右手の錫杖は各地の悩める者、助けを求める者の救済にくまなく巡行され、その音は来訪を告げ、苦しみや厄を払う事を意味し、左手の如意宝珠は打ち出の小槌のように、思うままに願いを叶えてくれる事を意味します。「延命地蔵経」には地蔵尊を信仰すれば女人はやすらかに産み、諸々の病気は回復し、寿命は長遠し、聡明で智慧が備わり、財に富み、多くの人に愛され、神仏に守護され、悟りを得るなど十種の福に恵まれることを説いています。真言は 唵 訶訶訶 尾娑摩曳 娑婆訶更に道を進むとボケ除き観音が見えてきます。ぼけ除観音日本は平均寿命が80歳を越える世界最長寿国ですが、やはり年をとっても呆けに悩まされることなく長生きをしたいものです。観世音菩薩は人々の声にならない声を感じ取り、人々の苦しみを除いて下さる菩薩様です。このぼけ除観音は呆けを除き封じていただきたいという多くの人々の願いが込められた観音様です。ぼけ除けを念じお参り下さい。昭和大仏青龍寺 / ぼけ除観音 より抜粋ついに見えました昭和大仏です。大日如来を作像したものでここまでの大きさのものは無いんじゃないでしょうか。ここからのアングルも好きです。大日如来の前にある建物は護摩堂で、密教の護摩焚きが行われるそうです。御堂の陰になっていて見えませんが、大日如来とお堂の間に不動明王像があります。護摩堂この護摩堂は昭和大仏開眼30周年記念事業として平成26年9月に昭和大仏宝前に建立されました。間口2間、奥行6間という深い奥行きに唐破風銅板葺きという堂々たる威容は、巨大な昭和大仏の拝殿として存在感を充分に保ち、優美な曲線は昭和大仏の柔和な尊容と見事に調和しています。堂内最前の柱間には香呂を据え、昭和大仏の拝殿としての役割担っております。堂内最奥には護摩壇を設え、大日如来の教令輪身・不動明王を中心に降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の五大明王を祀り、弘法大師が唐より伝来された秘法である護摩供(ごまく)が執り行われます。護摩壇中央の炉で願い事が浄書された護摩木を焚き浄め、仏の智恵を象徴する炎が高らかに燃えあがる炉に五穀や香などさまざまな供物を捧げ、内には煩悩を焼尽し本尊と不二一体となる観法を修して、災難消除、福徳円満、所願成就の祈りを捧げます。正月三が日に新年大護摩祈祷、毎月28日午前11時より護摩供を厳修しております。是非ご参列いただき、護摩の炎を間近で感じながら心中の願いをご祈願下さい。昭和大仏青龍寺 / 護摩堂 より抜粋不動明王像です。迦楼羅炎の意匠の細かさが、本当に燃えているかのような迫力を醸しています。昭和大仏の内部には一代様の守り本尊が安置されています。子:千手観音菩薩 सहस्रभुज丑・寅:虚空蔵菩薩 आकाशगर्भ卯:文殊菩薩 मञ्जुश्रीकुमारभूत辰・巳:普賢菩薩 समन्तभद्र午:勢至菩薩 महास्थामप्राप्त未・申:大日如来 महावैरोचन酉:不動明王 अचलनाथ戌・亥:阿弥陀如来 अमिताभ昭和大仏の胎内仏です。五大明王や脇侍の諸仏に守られているのが分かります。光の加減も丁度よく、非常に神々しかったです。まだまだ仏像はあります。昭和大仏の左奥にあります、馬頭観音です。馬頭観音は観音には珍しい憤怒相の観音様です。三十三観音があるところでは、馬頭観音だけは必ず撮るようにしています。馬頭観音平成23年3月11日午後2時46分、突如襲った東日本大震災、さらに大津波による濁流は人家を襲い瞬時に尊き人命、家畜や愛玩動物の命までをも呑み込み未曾有の被害をもたらしました。加えて地震による福島原発事故の大惨事は大海大地山川草木を悉く汚染し、住民に避難流浪の生活を余儀なくし、今尚汚染の恐怖におののき、復興帰郷の希望の灯火が灯る兆しがないばかりか原発事故は主なき多数の家畜生類を餓死に追いやり、或いは野生と化した諸動物は捕獲殺処理されています。又避難者達はお互い布施の心を持ち相互互助の精神をもって復興と帰郷の希望を持ち生活を続けられています。この状況を憂えた福島県浪江町出身の篤信者が、震災犠牲者及び動物達の冥福と故郷の復興を祈り、馬頭(ばとう)観世音菩薩を造立寄進されました。馬頭観世音菩薩は忿怒の身を現していますが観世音菩薩の変化身の一つで、頭上に戴く馬の頭がひときわ目を引きます。馬が一心不乱に草を食べ尽くすように私たちの心に立ち現れる煩悩を悉く喰らって恐れを鎮め、さらには畜生類の苦を抜き化益し菩提涅槃の浄土に導く慈悲を誓願としています。昭和大仏青龍寺 / 馬頭観音 より抜粋かわいらしい仏像もありました。童観音です。説明書きです。童観音住職夫婦が、戦災によって荒廃した日本、そして焼土化された青森の人々が立ち上がる為には、将来の国造りを担う子供たちに、仏教による幼児情操教育の必要性を痛感し昭和23年(1948年)高野山保育園を茶屋町に開設。私費を投じて40年間、1200余名の卒園児を育て、平成元年(1989年)3月閉園されました。卒園児は勿論のこと昭和大仏へお参りされる多くの子供たちが心身共に健やかに育つことを心から願い建立されました。童観音の隣に観音様がいました。名前は・・・何だったか、忘れてしまいました。確か慈母観音だったような・・・。坂を下ったところに不動尊と童子が2人。左が制吒迦童子で、右が矜羯羅童子だと思いますが・・・どうでしょう。ここが東北三十六不動尊霊場の十八番札所になっています。札所記事については以下のリンクからどうぞ!・十八番札所:全仏山青龍寺 厄を滅す不動尊説明書きです。東北三十六不動尊霊場 第十八番 厄除不動火生三昧に住し忿怒相の不動明王は、大日如来(昭和大仏)の使者としてこの世に現われ、剛強難化の諸人を救うという。不動経には「大智慧の故に大火焔を現じ、大智の剣をとって貪瞋癡を害し、三昧の索を持って難伏の者を縛す」とあるように、いかなる煩悩も焼きつくし、剣と索を以て人々を救うという大慈悲の御誓願をあらわされております。不動尊の脇には、手水舎からの水が流れ込む池があります。祠や観音像・弘法大師像などが見えますね。修行中の大師さまでしょうか。この池の周りには足型がいくつもあり、四国八十八所お砂踏霊場となっています。説明書きです。修行大師と四国八十八所お砂踏み霊場弘法大師は「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば我が願いも尽きん」とご遺告をされて御入定されました。今尚、大師の遺徳を忍び四国八十八ヶ所霊場の巡礼者が絶えません。「同行二人」の思想は、生まれてから死ぬるまで、否、死んだ未来の先まで常に大師と共に歩もうとするものです。有り難や 行くも帰るも留まるも 我は大師と 二人連れなり。仏足の中に四国八十八ヶ所の聖砂が納められております。青森に居ながらにして四国八十八ヶ所霊場を参拝できます。金剛杖をお持ちになり南無大師遍照金剛とお唱えください。斜めから。今回はふと思い立って青森まで行きました。身も心も癒されて、大変幸せな休日でした・・・。定期的にまた来たいと思います。以前貰った御朱印です。本尊:大日如来(昭和大仏)今回貰った御朱印です。山門:四天王像以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー池の中の観音像花まつり天上天下唯我独尊五重塔
2024年05月26日
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青森県の南部地方や岩手県北部、秋田県北部・南部、山形県、福島県など東北地方に集中して存在する妻の神という地名があります。遠く愛知県や鳥取県にもあるんですが、やはり東北に集中して存在しています。青森県の階上町には実際に妻之神の社があるんですが、ここで祀っているのはどんな神格なんでしょうか。2024.5.26妻之神の社階上町の山道を走っていると、途中に大木が数本生えていて鳥居も見えます。前から何なんだろうと気になっていたんですが、ついに今回実際に行ってみました。鳥居の額には妻之神とあります。ここら辺の地名も妻の神というそうです。小さな祠が大木に囲まれています。傷んだ個所はほとんどなく、新しい印象です。注連縄も張ってあり、非常に管理が行き届いていると思いました。電柱よりも高い杉などに囲まれています。近くに由緒書きなどはなく、神社庁のサイトにも特に記載はありませんでした。当初妻の神という字面を見た時に、子宝に恵まれるとかそういう願いに関係した神格だと思ったんですが、どうやら違うようです。妻と言うのは実は音読みで、「サイ」と言う音に妻の字を当てただけらしいんですよね。サイノカミとなると当然「塞ノ神」。道祖神などとも呼ばれ、十字路や村の出入り口によくあるものです。真偽は分かりませんが、この社も塞ノ神を祀った社かもしれませんよね。ただ八戸周辺にかなりの数の妻の神の社や地名が存在しているのは、何かの侵入を防ぎたいという思いがあったのかもしれません。知らんけど。以上です。
2024年05月30日
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村はずれの祠に男根の形をした石をまつっている。このようなものは陸奥にはたいそう多い。・・・菅江真澄遊覧記2 / 外が浜づたひ 冒頭菅江真澄がこう語るように、東北の各地で”金精様”や”子安様”として男根型・女陰型の石や木が祀られていることがあります。こうして性器を祀るのは、子宝を授かることや子孫繁栄を願ったためと思われますが、増田公寧氏の”青森県における生殖器崇拝資料”によると、必ずしも金精様は生殖器神とは断言できないとしています。信仰の起源は中世以前とも言われ、はっきりとしたイメージがない古い神格の様です。ただし同論文内にある通り、神体あるいは奉納物は生殖器を象徴する形態をとっているものが多いのも事実です。特に男根型の石棒に関しては、山梨県の釈迦堂遺跡にて縄文時代中期後葉のものが確認されており、信仰の源流がこの頃には既に成立していた可能性があります。しかし、↑の通り縄文の石棒がそのまま現代の生殖器崇拝に繋がっているかと問われれば、安易にそうだとは言えないでしょう。神体に関しては自然物のものも有れば、人工物のものもあります。特に山間部では、奇岩や怪樹の類が見つかりやすいからか、自然物が神体となっている例が多いように思います。さてこの記事では、境内にこうした生殖器型の神体を祀った小祠が見られる神社仏閣をまとめたいと思います。東北の・・・と銘うっていますが、圧倒的に青森や岩手の記事が多いのはあまり遠出できないからです・・・。また、神社仏閣としていますが、こうした生殖器崇拝が見られるのは圧倒的に神社が多いので、仏閣は殆どないかもしれません。生殖器崇拝が見られる神社仏閣青森県青森市:松ノ木神社 青森市:松ノ木神社 田んぼの中に祀られる根の神社青森市:金精堂 青森市:金精堂 八甲田山中の精力の社黒石市:浅瀬石羽黒神社 黒石市:浅瀬石羽黒神社 浅瀬石の地名の由来となった”汗石”十和田市:法量神社 十和田市:法量神社 村の奥地にある水神の社十和田市:十和田湖温泉神社むつ市:上町稲荷神社八戸市:諏訪稲荷神社八戸市:魚籃山 常現寺 二十七番札所:魚籃山 常現寺 外ツ国伝来の魚籃観音祀る寺院南郷村:高山神社 四番札所:島守高山観音 南郷島守に座す観音様南部町:諏訪神社(剣吉)岩手県二戸市:枋ノ木神社一戸町:御小性神社盛岡市:巻堀神社一関市:御嶽山御嶽神明社秋田県鹿角市:金精神社宮城県角田市:熱日高彦神社栗原市:音羽山 清水寺仙台市:秋保神社 仙台市:秋保神社 幟旗たなびく秋保の古社福島県いわき市:温泉神社 いわき市:温泉神社 いで湯の郷の古神社いわき市:大國魂神社茨城県稲敷市:大杉神社 稲敷市:大杉神社 三本杉と天狗の社山梨県甲府市:夫婦木神社 甲府市:夫婦木神社 命生み出す自然の妙木祀る神社甲府市:夫婦木神社 姫ノ宮 甲府市:夫婦木神社 姫ノ宮 昇仙峡鎮座の生命力の社甲府市:八雲神社(弥三郎岳)笛吹市:淺間神社 笛吹市:淺間神社 甲斐国一宮に鎮座する古淺間社愛知県一宮市:真清田神社以上です。
2024年09月14日
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大洗の浜から北方に進み、酒列磯前神社の鎮座する阿字ヶ浦を越え、村松虚空蔵尊を更に越え、久慈川を越えた頃に大甕の町に着きます。大甕のまた北方に水木町があり、その町に今回紹介する神社が鎮座しています。住宅地の中に鬱蒼とした社叢を持ち、その中央に清い水が湧く池があります。言うまでもなくその泉の神格を祀る神社です。泉神社注連縄が巻かれた神明鳥居が境内の入口です。参道にはいくつもの幟がたなびき、如何に崇敬されているかが示されています。幟はもちろん拝殿まで、更には境内社にまで続いています。先に境内社を見てみましょう。狼で名高い三峯神社です。祠はこんな感じです。秩父に総本社(もとは寺院だとか・・・)があり、日本武尊が伊弉諾大神・伊弉冉大神を祀ったことに始まるとされています。この祠の脇から更に奥に進んで行けそうです。進んでいくと泉神社拝殿の裏手に出ました。・・・戻りましょう。参道に戻り、更に進むと右側に御神木が祀られていました。杉の木を基にし、途中から桜が生えているという面白い御神木だったんですが、昭和初期の落雷によってこのような姿になりました。まだ息絶えてはおらず、耐蝕処理をされて生きながらえています。推定樹齢は450年。御神木の正面辺りに説明書きがありました。こちらは境内の樹叢についてのもの。茨城県指定文化財(史跡第二十三号)昭和44年12月1日指定泉が森 こんもりと生い茂った常緑樹に囲まれた区域、泉神社境内一帯が史跡として指定されています。 泉が森については、奈良時代に編さんされた、「常陸国風土記」に次のように記されています。此より東北のかた二里に密筑(みつき)の里あり。村の中に浄泉あり。俗(くにひと)、大井と謂う。夏は冷かにして冬は温かなり。湧き流れて川となれり。夏の暑き時、遠通(おちこち)の郷里より酒と肴とをもちきて、男女会集いて、休い遊び飲み楽しめり。(原文は漢文) 密筑の里は、いまの水木の呼称で、浄泉・大井とは、神社の北側に湧出している泉のことです。周囲が50mほどある泉のほぼ中央部からは、今も青白い砂を吹き上げながら、絶え間なく清水が湧き出しています。水温は夏冬ともに約13度で、「風土記」に記されているとおり、「夏冷冬温」です。 泉神社は、平安時代初期の編修である延喜式神名帳にも記載されている由緒ある神社で、天速玉姫命を祭神とし、古くは天速玉姫命神社、さらには泉大明神とも呼ばれていました。 神社には、「水木のささら」(県指定無形民俗文化財)や「当屋祭」 が伝えられています。 ささらは、泉神社の出社に際して、露払いとして神輿を先導し、 村の五穀豊穣、浜大漁及び住民の安泰を祈願する獅子舞です。 また、当屋祭は、専業の神職をもたず、村人だけで神事を行っていた、古い時代の名残りとみられる珍しい行事です。日立市教育委員会鎮座地の”みつき”という地名が如何に古いかが分かりますね。境内の泉も、記述を見るに上古の頃から人々の憩いの場だったみたいです。何とも歴史ある神社でしょうかその隣には先述の”ささら”についての説明書き。茨城県指定無形民俗文化財 第一四号指定年月日:昭和45年9月28日日立のささら(水木ささら) 水木ささらは、延喜式内社である泉神社が出社する際に、氏子が露払いとして五穀豊穣と浜大漁、そして住民の安奏を祈願して奉納する風流系の一人立ち三匹獅子舞です。 水木ささらは、古くから旧水木村内の向町に伝えられてきたものですが、現在では水本地区全体の郷土芸能として保存継承を図るために保存会を結成して活動しています。 構成は、大獅子、中獅子、雌獅子が各一頭と射子舞が2人から4人で、いずれも小学生の男子が演じます。笛と警護のほかに、日立地方では水木ささらだけにみられる女児が演じる金棒引きという役もつきます。 演目は、渡り、摺込み、庭見、鈴さがし、拝礼(歌舞い)、ほまち、獅子の入羽、まめいり、廻れや車、拝礼(弁歌踊)、ツヅチ踊、獅子喰い、獅子の仲直りです。 水木ささらは、これまでに幾度も中断の危機がありましたが、この郷土芸能に寄せる関係者の努力と地元住民の愛着に支えられて今日まで続いています。日立市教育委員会今回も動画を探してきました。茨城新聞動画ニュースの動画になります。子どもたちが「水木ささら」披露 日立・泉神社で大祭説明書きの隣には、泉のものにも劣らぬ程の清水溢れる手水がありました。いよいよ社殿が見えてきました。鳥居の基、柵の側面には狛犬が刻まれています。阿形!吽形?躍動感あふれる獅子たちでした。拝殿です。秋深まる頃に参拝したので、周囲は落ち葉でカラフルに!美しい社殿を更に更に飾り付けていました木彫装飾も見事なんです。どこの匠の手になるものか、口をポカンと開けたまま、しばらく眺めていました。ご由緒です。泉神社祭神:天速玉姫命(アメノハヤタマヒメノミコト) 泉神社は人皇第十代崇神天皇の御代、宇治49年(紀元前42年)にこの地方に鎮祀されたと伝えられている。延喜式内社の由緒深い旧郷社である。 久自國造船瀬宿禰(くじのみやつこ ふなせしゅくね)の奏請により、大臣伊香色雄(いかがしこおのみこと)が勅命を受けての久自の国に至り、天速玉姫命を祭祀して、久自の国の総鎮守としたことが泉神社の創立である。 社記に「上古霊玉此地に天降り霊水湧騰して泉をなす号けて泉川云ひ霊玉を以て神体とする」とある。 ご祭神はこの霊玉を神格化した天速玉姫命をお祀りしている。「東夷の荒賊を平討する」最前線基地としての地域性を反映し、古くから多くの武将が祈祷に参拝している。特に、後奈良天皇の御代、享禄3年(1530年)9月に書かれた棟礼には、佐竹義篤が泉神社を崇敬し社殿を修造したと記録されている。残念なことに、享和2年(1802年)社殿が焼失し、旧記録を始め宝物などが散逸してしまった。 現在の社殿は氏子らの浄財により昭和58年(1983年)5月に再建されたものである。常陸国 式内社 泉神社 / 泉神社について より引用扁額です。延喜式内常陸二十八社が一、泉神社!斜めから。湧き出る清水の如く美しい社殿・境内ですから、参拝者もかなりのもの。相当に賑わっていました。何とも素晴らしい神社かと、もうかなり満足してしまったんですが、境内にはまだまだ見所が幾つも有るんです。拝殿左手から裏をまわって、ぐるりと右側に廻り込めるんですが、ここには末社の祠などが置かれています。当然本殿も見えますよ。末社の内、拝殿左手にあるのがこの目洗いの泉です。眼病平癒の神徳を持つ清水というと、やはり薬師様でしょうか。公式サイトにも特に祭神の記載がないんですが、そこから考えるとおそらく祭神は少彦名神ではないでしょうか。拝殿右手には摂社4社がまとめて祀られていました。右から・・・・稲荷神社:稲荷大神・豊稔神社:月夜見大神・大国主神・富士神社:木花開邪姫命・鷺杜神社:天玉柱屋姫命となるでしょうか。社殿脇の柵から境内の下の方を覗いてみると、今まで見た事もない程透き通った泉に社が鎮座していました。あれが”みつきの大井”でしょう。中央に鎮座するのは厳島神社で、通称は弁天様。市杵島姫命を祀っているようです。大井に近づいて見ようと坂を降ります。大井の周辺には歌碑が幾つも置かれていますが、この池を見れば詩作の心も沸き立つというもの。才能ある詩人であればなおさらでしょう。この石碑は栗田寛泉が森詠歌というもので、↓に説明書きを載せたいと思います。栗田寛泉が森詠歌 明治31年8月栗田寛・勤親子は勿来・平潟を巡り、帰途泉が森に立ち寄る。 栗田寛の門下生として輔仁学舎に学んだ多賀郡坂上村水木の内山耕造・徳之介に恵贈された。栗田寛没後(1899年)100年記念としてこの碑を奉献する。池のおもに 浮かぶ光を玉と見て むす手にわける月はありけれ水を掬めば手に在りといふこころをよめる 寛「水を掬む」は古語の「掬ぶ(むすぶ)」で、「むす手」は手のひらで水をすくうを言う。『大日本地名辞書』は、「太之速玉とは蓋し泉井の美称にして涌玉・玉水の類にして之を女神とするは其の幽麗の性格に比擬せるならん」としている。栗田寛略歴・天保6年(1835年):9月14日水戸下町六丁目に生まれる。・安政6年(1859年):豊田天功に見出されて彰考館に出仕する。・明治13年(1880年):家塾輔仁舎を開設する。・明治23年(1890年):教育勅語発布に際し「神聖宝訓」1巻を奉呈する。それが教育勅語草案起草の参考に供される。・明治25年(1892年):東京文科大学(現東京大学)教授に任命される。大日本史編纂に従事する。・明治32年(1899年):1月25日逝去。65歳。文学博士の称号が贈られる。平成11年秋日こちらにも歌碑です。常陸にも またみかの原いづみ河 國こそかはれ名こそかはらね内藤義秦尋ねきて けふ見かの原いづみ川 名にながれたる浅瀬きよしも安藤朴翁いさぎよき 心のそこのみゆるまで 水に姿をうつしてもみむ栗田寛新編常陸国誌によるこちらには泉ヶ森についての説明が刻まれている石碑がありました。史跡泉ヶ森茨城県指定文化財 昭和44年12月1日指定 泉ヶ森は、この清い泉と泉神社の神域をふくむ総称で、**の美しい歴史的に価値の高い森です。常陸国風土記には「蜜筑の大井」として人々の憩いの場であったことが記されており、また嬥歌の場所としても有名であったようです。 泉神社は天速玉姫命を祀る延喜式内社で日立地方では最も古い神社です。鎌倉・室町時代から多くの武将が祈願に訪れたといわれております。 江戸時代には常陸十景のひとつに加えられており現在も茨城百景として名勝地にもなっております。泉の近くにインドの河の精を神格化したという弁財天が祀られております。厳島神社雨舎造営記念昭和58年12月10日そして泉の西側にはこんなものも。朽ち果てた巨木に見えますが・・・。説明書きによると"泉龍木"と呼ばれ、龍の形をしていることからその名が付けられたようです。確かに近くで見ると、思ったよりも龍にそっくりでした。大きく割けた口に牙まで覗かせています。泉に龍、これ以上に優れた組み合わせがあるでしょうか。大井の中央に鎮座する弁天社。泉神社を訪れた方は皆こちらも拝んでいきます。祠を近くで見てみると、かなり荘厳な造りである事が分かります。木彫装飾に着色まで・・・なんということでしょう。弁天社の左脇辺りから、水が湧きだしている様です。水底の砂を巻き上げながら、今も昔も清水は湧き出し続けるのです。千年以上の時を経ようと、尊い大井が憩いの場であり続けていることは言うまでもない(今昔物語集風エンド)。今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・常陸国 式内社 泉神社以上です。
2025年06月16日
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奥州南部糠部三十三観音霊場の札所としても有名な岡田山観音堂。八戸御城下三十三観音霊場の札所にもなっております。この観音堂の開創は大同2年(807年)ですが、当地では珍しく坂上田村麻呂は関わっておりません。そうした意味でも面白い観音堂です。八戸御城下三十三観音霊場十四番札所:岡田山観音堂(岡田山 天台寺)籠田山の麓、せまい畦道を進んでいくと、赤い鳥居が見えてきます。ここが境内への入口となります。この鳥居の右手にある民家には、別当の橘氏が棲んでいるんですが、この御堂を開創したのも橘藤右衛門という出羽からきた者です。大同2年の創建以来、別当は代々橘藤右衛門の名を継ぎ、現在に至っています・・・。いったい何代目なんでしょうか。参道を登っていくと直ぐに観音堂に到着。創建当時は山頂にあったというので、もっと時間がかかったことでしょう。観音堂の近くには古い墓石が置かれています。おそらくこの観音堂にゆかりのある夫婦のものではないでしょうか。観音堂です。宝形造でスタンダードなタイプの観音堂。今はトタン葺ですが、つい数十年前までは茅葺屋根だったそうなので、今よりも更に見ごたえのある姿だったんではないでしょうか。ご由緒です。岡田山観音堂(岡田山 天台寺)曹洞宗開山:橘藤右衛門(初代)本尊:聖観音(元は千手観音) 月山神社から籠田山をまわり込むように、地続きの丘のふもとを東へ400mほど進むと、右手に古ぼけた鳥居が建っている。林の中から、鳥のさえずりが聞こえ、まだまだ自然美が残る、空気のおいしい場所に御堂は建っている。ゆるやかな坂道を上ると、葺屋根のその御堂(※現在はトタン葺)は、江戸時代の姿を今に伝えている。 寛保3年(1743年)6月、天聖寺守西上人が巡礼した際には、次のように記録している。「堂へ三間四方内御堂有。 此處ハ籠田月山ノ山也」と。文化10年(1813年)に巡礼した岩井良兵衛愛秀の八戸御城下三十三番札所の第二十九番にも定められており、彼は次のように詠んでいる。「塵の世の、ちりもととめぬ、御仏の、すめるかこたぞ、頼母しきかな」 岡田観音は、古くから、人々の信仰を集めていた八戸でも屈指の観音である。伝承によると大同2年(807年)、初代橘藤右衛門が出羽国(山形県)庄内から、一寸八分の黄金仏千手観音を奉持して、山のいただきに御堂を建立したという。そして、代々、橘家が別当として管理し、藤右衛門を襲名している。 慶長17年(1612年)の棟札によると、この年、根城南部二十代直政公が、山頂の御堂を現在地に遷し、再興している。これが現在の御堂である。棟札の裏には、「岡田山天台寺建造、大慈寺住持種南代也」とあり、天台寺と呼ばれ、松舘大慈寺が兼務したことが分かる。 この改築の際、新井田の豪農松橋孫助が、長年使用してきた二隻の千石船を解体し、御堂の柱にしたという言い伝えも残っている。 御堂の周りには、今なお参詣者が多く、さまざまな悲顔を書いた最近の巡礼札や絵馬が打ちつけられている。内部中央には、直径30cmほどの鰐口が掛けられており、やはり古さを感じさせる一品である。年代は判別できないが、「天台寺」と刻まれている。格子戸を開け、内陣に入ると、内御堂があり、観音像が安置されている。ところが、ふだん見ると目がつぶれるという言い伝えがあり、年に1回、12月17日、御開帳が許されている。その際は、松館大慈寺住職が、扉開封の法会を行ってから本尊を拝むことができる。 本尊は、運台を含め、一尺五寸ほどの木彫聖観音座像で、台座は、戦後になってから新しく換えたという。像容は、大ぶりで堂々とした体躯を誇っており、バランスがよくとれている。口はへの字に固く閉じ、目にはきびしさを感じさせる。頭上には弥陀如来を乗せ、輪光背を背負い、持ち物はなく、定印を念じている。 いつごろ作られたかは分からないが、黄金の観音像(千手観音)は、明治初期の廃仏毀釈の際、隣の籠田家へ移され、新たに奉納された観音像だといわれている。従って、明治30年(1897年)来迎寺佐々木恭岑上人が巡礼した八戸城下巡礼は、この木彫聖観音像を拝んだことになる。 また、故小井川潤次郎氏が、昭和元年(1926年)御堂礎石改築の際発見した「橘藤右衛門小絵馬」は、全国的に有名である。この絵馬は、全国でもまれにみる優秀なもので、その描法は、馬産を誇る当地方を物語るかのように、生き生きとした、素晴らしいものである。小井川氏は別当の名を採って命名したのである。 元禄(1688~1704年)・正徳(1711~1716年)・享保(1716~1736年)・延享(1744~1748年)・宝暦(1751~1764年)期の古い絵馬が掲げられていたというが、戦後、散逸してしまい、現在は八戸市立博物館に展示されているくらいで、御堂には残っていない。 古さを今に伝える岡田観音堂は、八戸市民が、保護保存していかなければならない、大切な文化財であるといえよう。 また、岡田観音は糠部三十三札所の三番札所に定められており、御詠歌は次の通りである。『守西上人糠部巡礼』かご岡田 大悲の御堂拝すれば 三垢消滅 身意柔軟『松尾頂水糠部巡礼』岡田なる 大悲の御堂大慈寺に 仏の誓 ここに松舘『宥映法印糠部巡礼』かく岡田 大悲の御堂拝すれば 三毒消滅 瞋恚柔軟『御国糠部巡礼』かご岡田 大悲の御堂拝すれば 五つの罪も 消え失せにけるデーリー東北出版「八戸御城下三十三番札所巡り」滝尻善英著 73~78ページ より引用橘藤右衛門が出羽国よりもたらした千手観音像が本尊となっていたようです。ですが明治の廃仏毀釈時に籠田家に預けられ、その後返還されなかったんでしょう、今では聖観音像が本尊となっています。千手観音については籠田山月山神社の御神体として収められている、という噂があります。ただし御神体故、容易に厨子が開けられることはなく、確認する術はありません。何とも不思議が残る仏像だこと。因みに八戸市立博物館に収蔵されている南部小絵馬はこのような感じです。これは是川の清水寺に収められていたものですが、橘藤右衛門小絵馬もこのような感じだったんではないでしょうか。この子絵馬は八戸地域のみならず南部地域で広くみられるものです。特に七戸の神社や仏閣に参拝すると、この絵馬が懸かっているのを見かける事でしょう。堂内です。格子戸の奥に厨子があり、おそらく本尊の聖観音像が収められているものと思われます。厨子には錦が巻かれると共に、周りには納札や鰐口なども見られました。堂内に橘藤右衛門小絵馬は無いと書かれていましたが、それに類する絵馬なら今でも沢山収められていましたこんなカラフルな作品もあります。他も見てみましょう。作風が似ているものもあれば、オリジナリティが感じられる作品も有りますねぇ。なんとも多種多様です。こちらはモロ藤右衛門小絵馬の作風です。斜めから。馬産が盛んな当地域の様子を垣間見れる面白い観音堂でした。山中にポツンと建つ姿は風情があってよろしい。数百年の歴史を持つ観音堂の風格そのままに、壁に打たれた巡礼札が崇敬の篤さを伝えていました。御詠歌かくをかた 大悲の御堂拝すれば いつつのさはり 消えうせにけり現代新御詠歌観世音 菩薩のみ声か草の屋の 御堂のほとり わたる松風本尊:岡田山観音(千手観音 सहस्रभुज → 聖観音 आर्यावलोकितेश्वर)※現在は籠田山月山神社の御神体として収められています。代わりに木造聖観音像が置かれました。以上です。次の記事・十五番札所:明久山 傳昌寺 妙の地に建つ八戸藩主御立寄の寺院
2025年06月23日
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青森市には著名な寺院が4つあり、それらを総称して青森四ヶ寺と呼んでいます。今回紹介する寺院はその内4番目の寺。周辺地域の中でも並外れて大きな堂宇を持つ、青森を代表する日蓮宗寺院です。青森の空襲に際しても、当山は焼失を免れ、現在の繁栄の礎を築いてきました。2025.4.26廣布山 蓮華寺四ヶ寺が立ち並ぶ寺町通りから少々脇道に逸れると、境内の入口が開かれています。かなり大きい御堂と、その前に立つ立派な松がなんとも風情あり。境内に入ると、鎮守を祀ったものか社が1社鎮座していました。公式サイトにて確認してみると、最上稲荷堂という堂宇だそうです。この堂宇で祀っているのは最上位経王大菩薩・三十番神です。扁額です。稲荷大明神は知っていますが、三十番神とは一体何でしょうか?この三十番神について、玉連山 真成寺の公式サイトを見てみましょう。このサイトの記述によると・・・三十番神様とは 日本には八百万(やおよろず)の神々がおられます。その神々をお祀りする神社仏閣も沢山ありますが、その日本の神々様の中でも、代表格である30体の神様を、1ヶ月30日を毎日ご当番(日番)に当てる様に選出されたのが三十番神様なのです。いわゆる神仏習合の信仰です。 その歴史は、法華経を布教された最澄(さいちよう)(伝教大師(でんぎようだいし))が比叡山に祀られたのが、日本で最初と伝えられており、鎌倉時代には盛んに信仰されるようになりました。 因みに31日は、法華経守護の※【五番の善神】が御当番に当てられています。31日の【五番の善神】は後付で尊崇される様になりました。 明治5年(1872年)太陽暦が採用されると、従来の大陰暦を一年の季節に合わせた旧暦(1ヶ月は29日または、30日)には無かった31日が生まれました。それに伴い、旧来の三十番神に空白の31日の日番を担う一神を加える必要性の問題が出てまいりました。そこで過去長い歴史の中で法華経守護の誓願を立て、篤き信仰を寄せられた【五番の善神】が31日の日番の善神として勧請されるようになりました。※【五番の善神(ごばんのぜんじん)】とは… “二聖(にしよう)、二天(にてん)、鬼子母神(きしもじん)・十羅刹女(じゆうらせつによ)”を指します。 日蓮聖人の『日女御前御返事』というお手紙には「陀羅尼品と申すは、二聖、二天、十羅刹女の法華経の行者を守護すべき様を説きけり。二聖と申すは薬王(やくおう)と勇施(ゆぜ)となり。二天と申すは毘沙門(びしやもん)と持国天(じこくてん)となり。十羅刹女と申すは十人の大鬼人也、四天下の一切の鬼神の母なり、又十羅刹女の母あり鬼子母神是也」と述べられています。と、記されています。このサイトにて、各日に対応する神格が記載されているんですが、どの神格も総本宮や一之宮クラスの神社で祀られる神格でした。そして面白いのが最後の五番善神です。これまで日蓮宗寺院に参拝すると必ずと言ってよい程、鬼子母神が祀られていましたが、それには↑の様な理由があったんですね!31日目の守護として、母親と子供の守り手として、今でも広く信仰されている神格です。因みに最上稲荷堂の狛犬の台座には、↓のような彫り物がしてあるんですが、これについては調べても分かりませんでした。何か犬の絵が発掘されたんでしょうか?更に境内の奥に進みます。駐車場の向い辺りには、日蓮上人の巨大像が鎮座しています。大迫力!その隣には子安観音。こちらも巨大且つ精巧な美像でした。観音像の隣には多宝塔・・・ではなく、永代供養塔が建っています。この隣には更に開山 日持上人を祀る石碑などが置かれていました。ではいよいよ本堂です。白壁に赤の柱が映える大堂ですねぇ!ご由緒を見てみましょう。ここのご由緒はかなり面白いです。廣布山 蓮華寺日蓮宗開山:蓮華阿闍梨日持上人本尊:十界曼荼羅<由緒・沿革> 蓮華寺は旧寺町にある、青森駅寄りから数えて四番目になる『日蓮宗』のお寺です。 一夜にして多くの命が犠牲になり、一面焼け野原になった昭和20年(1945年)の【青森空襲】でも当山は焼け残り、終戦後約3年間市役所も間借りした、青森市民にとっては忘れられない一番なじみの深いお寺です。 お寺の開基は、鎌倉時代の高僧「日蓮大聖人」の弟子の一人であった「蓮華阿闍梨日持上人」。上人は恩師の十三回忌を済ませた後、海外布教を目指し北海道に渡るために、当時の青森「合浦外ヶ浜」村に立ち寄ったが、あいにく風波が激しく船を出せず、留まること数ヶ月に及び、ここに1つの草庵を結びました。これが後の蓮華寺であり、時に永仁2年(1294年)、今から数えて約730年前のことでした。 日持上人は伝説的な人物で、後に北海道から樺太を経て中国内地まで布教につとめた方です。樺太を経て沿海州、満州内地にまで足を延ばしました。このため青森県・北海道・中国の各地には数々の遺跡が残っています。また、魚の「ホッケ」は【法華】にちなんで上人が名付けられ、アイヌ語で内地の人という意味の「シャモ」も【沙門日持】の名から上人が付けられたいわれています。日持上人が布教の旅に出たのは45歳の時であり、700年も前に海外布教を試みたのは正しく偉業といわざるを得ません。それだけ師僧の日蓮大聖人のご指導が大きなものであったといえます。 日持上人が居住していた草庵は「法華堂」と称し、国内最北の道場として受け継がれてきました。その後、約370年を経た江戸時代の寛文4年(1664年)に京都府にあります大本山『妙顕寺』より下向した日通上人が、津軽藩主から『廣布山蓮華寺』としての開山を許可され、ここに現在の廣布山蓮華寺の礎が築かれました。もちろん、寺号⦅蓮華寺⦆は蓮華阿闍梨の名より、山号⦅廣布山⦆は広宣流布の布教により名付けられたものであります。こうして廣布山蓮華寺は、青森開港と共に現在の場所に移り発展を続けたのでした。 現在の本堂は、昭和2年(1929年)に第二十六世日濤上人が当時とすれば全く異色の鉄筋コンクリートで建立しました。寺院は木製が主流であったため、多方面からかなり反対がありました。しかし、第二十六世日涛上人が“百年の計”であるとして周囲の反対を押し切り、予定通り工事に着手しました。 こうして、間口[幅]十三間(約24m)・奥行十六間(約29m)、372畳の総工費28万円[現在価格約5億円]を要し完成させたのでした。結局この英断が青森空襲を免れ、戦後の青森市政の中心となる市役所となったのは、改めて法華経のお力の有難さといえるでしょう。 その後当山の本堂は、何度かの修復を繰り返しながらも現在に至り、まもなく建立百周年を迎えます。 ご本尊は十界の大曼陀羅、寺宝としては【徳川光圀(水戸黄門)】の使用した⦅法華堂の茶釜⦆や【津軽藩】から拝領した⦅紅葉時計⦆などがあります。⦅法華堂の茶釜⦆は青森市指定有形文化財です。 また、青森市で起きた遭難、事故死など変死体の供養のために建てられた「みちのおく観世音菩薩」も安置されています。寺院パンフレット より引用初めてこのご由緒を見た時、大陸まで北方ルートで布教を行うような人物がいたということにかなり驚きました。伝説的な人物と言われている通り、信憑性があるかどうかと言われれば答えに困ってしまうかもしれません。しかし、物語的な面白さと国内最北の道場というブランドは、かなりの強みだと思います。伝説抜きにして考えてみると、寛文4年に大本山 妙顕寺から下向してきた日通上人が開山・開基だと思われます。また、寺宝も面白いものがありますねぇ!まずは法華堂の茶釜から見てみましょう。有形文化財 法華堂茶釜 指定物件は、元禄後期に作製されたものと推定され、胴部の「法華堂」という文字は、中国の儒学者朱舜水【しゅしゅんすい】の書とされている。 この茶釜は、水戸光圀の愛用していたものを水戸藩儒学者藤田東湖が拝領し、蓮華寺第二十六世住職角田堯現が東湖のもとで学び、帰郷の際に賜ってきたものといわれている。 朱舜水は明朝復興に失敗し、万次2年(1659年)日本へ亡命帰化した人で、徳川光圀に迎えられ、水戸学の発達に貢献している。青森市 / 市指定文化財 / 有形文化財 法華堂茶釜 より引用本当に水戸光圀公が使用していたものが、巡り巡って当寺院に流れ付いたようです。↑のリンクからその姿を拝むことができます。紅葉時計に関しては、調べてもどのような時計なのか出てきませんでした。寺宝になっているという事は、相当に芸術的な時計であるとは思うんですが・・・。津軽藩から授けられた品ということで、一度は拝んでみたいもんです。堂内には小型のネブタが飾られており、カエルと共に1人の僧が歌舞いています。これは蓮華寺に伝わる伝説をモチーフにしたものです。これがその伝説。蓮華寺の蛙合戦 天保13年(1842年)6月、蓮華寺の境内にはたくさんの蛙が集まって鳴きたてている。その声は町中に響きわたる程で、それをわざわざ見物にやってくる人もたくさんいた。 まず番神堂の池からひと一倍大きな蛙がのっそり上がってきて、まるで宣戦布告するかのように、高らかに鳴いた。一方、山門の外の蓮池からも、これまたひときわ図体の大きな蛙が一匹這い出て境内までのこのこ歩き、敵方大将蛙と十分な間合いを取り、やおらにらみ合い、どすの効いた太い声で一声上げた。この一声を合図に、両方の池から次から次へと、ぞろぞろぞろぞろ、おびただしい数の兵隊蛙が出てきて、互いに負けてはならずと盛んに鳴きたてはじめた。緒戦は鳴き合いであったが、次第に両軍の戦意は高まり、ついに、激しいつかみ合いや壮絶なかみ合いへと戦況は展開した。そのうちにリタイヤした兵隊蛙、また奮戦力闘の末、討ち死にする兵隊蛙も少なからず出てきた。二匹の大将蛙は一声大きく鳴いてここでいったん休戦の宣言をした。このような大合戦は一週間ほど続いたが、やがて境内は何事もなかったように元の静けさを取り戻した。 連華寺は青森市本町に位置する日蓮宗のお寺である。この話はかつての鍛冶町(現在の橋本一丁目あたり)で米や塩を商っていた京屋の記録とされる「柏原筆記」などをもとに「青森市沿革史」に収録され、現在に伝えられているものです。この伝説にある通り、当時は境内の周辺に池が幾つもあったようです。今でも本堂の裏手の方に龍神の祠が鎮座する池があり、こちらも伝説の舞台なんではないでしょうか。更に更に、この龍神にも面白い話が伝わっています。蓮華寺の寺報を開いてみます。龍神様と七面様 昔より、『龍神様』は我々に不可欠な水をつかさどり、更に大地に潤いをもたらす豊穣の神として信仰されてきました。そして、そのお姿は水の象徴であります川がヘビのように曲がりくねっていく、いわゆる蛇行から『龍』を想像し、そして神格化したものと考えられています。 そして、当山にお祀りされています『龍神様』も昭和20年7月の青森空襲の時に、そのお力を現わしました。 それは、空襲の数日前から当山の庭の池の水が突然あふれ出すという不思議な現象を起こしたのです。これは、何かの前兆ではないかと思っていた矢先、青森市はアメリカ軍から空襲に襲われ、市内は一面焼け野原となってしまったのでした。 当然、蓮華寺もいくつかの焼夷弾が当り、火の手が上がる状態でしたが、当時の第二十七世住職・角田堯承上人初め数名で、その延焼を防ぐ為に、このあふれ出た池の水を汲んでは掛け汲んでは掛けて、ついに鎮火させ蓮華寺を火災から救ったのでした。 この奇跡は、当山の『龍神様』の多大なるお力によるものだとして、その後、池には『龍神様』のお堂とお姿をお祀りし、毎年ご法楽をして、今日に至っているのです。 しかし、こういう素晴らしいお力を持つ『龍神様』もそのお力が偉大過ぎる為に、粗末に扱ったり、また大切にお祀りしなかったりしますと、容赦なく大雨・大洪水などをもたらし、自然を破壊してしまうという怖い面も備えています。ですから、我々は『龍神様』を大切にお祀りし、そのお力を戴いていかなければいけません。 また、同じく日蓮宗の守護神の『七面大天女』(身延山の鬼門を抑えてお山を護る神)も「龍神様』の化身といわれ、日蓮大聖人のお弟子【日朗上人】が初めて登られた永仁5年(1297年)9月19日をもって七面山開創の日としています。この龍神の池は、一声かけると参拝させてくれます。以前蓮華寺を訪れた時には実際に見させて貰いました。興味がある方は、是非お寺の方に尋ねてみてください。龍神と七面様の大祭も開かれているようです。参加は出来ませんでしたが、今年は5月19日に開催されたようですよ。詳しい日程は公式サイト等に掲載されているかもしれません。そんでこちらが本堂内陣です。かなり広い堂内の中央に荘厳な仏法曼荼羅が広がっておりました。その荘厳さはまさに天界を写したかのよう・・・。ここまでの規模の本堂を持つ寺院はそうそう無いでしょうね。堂内中央にあるのが十界曼荼羅の一部です。日蓮宗の宗旨に明るくないので解説は出来ないんですが、これは法華経の一部を再現したものなんです。中央にあるのが”お題目(南無妙法蓮華経)”で、その左右に釈迦如来と多宝如来とが座しています。そしてその周囲には、釈迦の説法を聴きに来た菩薩や諸神などが並べられています(この辺はあやふやです)。この諸神の中には天照皇大神や応神天皇(八幡大神)なども見られ、本地垂迹らしき考えも読み取れますよね。十界曼荼羅の配置については、本堂入り口に図が張ってありますので、そちらでご確認ください。堂内右手も見てみます。こちらには妙見菩薩と鬼子母神が祀られていました。対して堂内左手には大黒天と共に、先ほどの三十番神の考えを創生したとする日像上人が祀られています。左の上人は判別できませんでした。斜めから。おそらく当地でも指折りの古刹、蓮華寺を参拝出来ました。これまであまり日蓮宗の寺院とは縁がなく、その宗旨を調べることもなかったんですが、いざ茨城の友人と一緒に行ってみると、違う角度から楽しむことが出来、興味もかなり湧いて来たんです。茨城の友人は私よりも宗派に対する理解が深く、日蓮宗に関しては自分の名入りで御主題帳を付けてもらっています。これがなかなかに羨ましく、一時始めようかとも思ったんですが、どうしても持ち歩く朱印帳の数が増えて煩わしくなりそうだったので断念。これまで通り御朱印帳に書き入れてもらうことにしました。このように煩悩まみれな訳ですが、神社仏閣めぐりはいろいろな伝説や歴史などに触れられるため、いつまでもやめられません。今回も面白い伝説を見ることができ、満足です以前貰った御首題です。今回貰った御首題です。公式サイトへのリンクです。・青森の日蓮宗 廣布山蓮華寺以上です。
2025年07月24日
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神奈川県座間市の入谷に境内を構えるは坂東八番の札所なり。この日は鎌倉を発ち横浜へ、總持寺はまわれたんですが平間寺の方は駐車場が混みすぎて断念しました。それからも地獄のような渋滞に巻き込まれ、三連休の関東という恐怖を知ることになるのです。数時間単位の渋滞をなんとか抜け出し、座間市に着いたのは午後2時頃でした。谷戸山公園という大きな公園の脇を通って坂を下り、線路を渡ると星谷寺と書かれた大きな看板が建っていました。そこに吸い込まれるかのように入り、駐車してそそくさと朱印所へ向かいます。書いてもらっている間に線香をあげ、身体健康を祈願しました。2026.1.11坂東三十三観音霊場八番札所:妙法山 星谷寺では見ていきましょう。大きな山門はありませんが、参道の起点には迫力のある仁王像が建っています。こうして見ると、参道は低木や古木などの緑が豊かだと分かりますね。参道左手に建つ白亜の鐘楼堂。現代風の堂宇ではありますが、そこに吊ってある梵鐘は東日本最古級のものなんです。見た目とのギャップが凄いですよね。説明書きです。国指定重要文化財 嘉禄三年紀 梵鐘 一口昭和42年6月15日指定銘文 陽鋳(浮き出し)相州 星谷寺奉鋳 鐘一口嘉禄三年丁亥歳次正月廿一日大勧進金剛佛子 秀毫大檀越沙弥 西願大檀那源朝臣 信綱大工源吉国勧進金剛弟子秀範総高:129.3㎝重量:384㎏解説 嘉禄3年(1227年)銘の本鐘は、全国現存の梵鐘の中で50番目、関東以北では茨城県土浦市の等覚寺の建永年間(1206~1207年)に次いで2番目に古く、鐘を撞く際の撞座が一箇所のみであることから、江戸時代より「奇鐘」として有名でした。 優雅な平安時代の面影を残すとともに、鎌倉時代の特徴も備え、金工史上重要なものです。 銘文中の人名は全てが明らかではありませんが、「源朝臣信綱」は、有名な近江源氏の総本家をついだ佐々木信綱であることが当市文化財保護委員会の調査によって明らかにされました。信綱の祖父や父は、源氏に従っていたので、平氏が政権をにぎると一族は滋賀県下の所領を奪われ、現在の大和市南部あたりに住んでいた渋谷重国の許で20年あまりすごしました。 やがて源頼朝が兵を挙げたとき、北条氏とともに最も活躍し、一族の子孫は滋賀県から中国地方にかけ勢力を誇りました。 信綱は、父祖の縁によって寄進者として名を連ねたと考えられます。本線は「東鑑(あずまかがみ、「吾妻鏡」とも)」などの文献にみえる佐々木氏の相模国在住を裏付ける物的資料として唯一のもので、日本史の上でも重要な資料といえます。今和2年11月 座間市教育委員会資料によっては東日本最古の梵鐘と言われているんですが、境内の説明書きでは2番目とのこと。土浦市の等覚寺の梵鐘も見てみたいですねぇ。梵鐘には大檀那(奉納者)として源信綱の名が刻まれています。この刻名が故で、信綱が相模に拠点を持っていたことが明らかになったんだとか。こうして歴史的な事象を裏付ける証拠が見つかるというのは非常に稀ではないでしょうか。そういった意味でも貴重な梵鐘です。更に参道を進みます。参道右手には弘法大師像が建っています。その隣には市指定重要文化財の”咲き分け散り椿”が生えていました。星の谷七不思議の1つらしいですよ。これ以外にも、昼でも星が見えるという”星の井”などの不思議があるんだとか。そんで更に隣には、かなり立派な宝筐印塔が建っています。こちらも市指定文化財になっていますが、その大きさ故でしょうか。手水舎。現役です。遠巻きに本堂を眺めてみます。宝筐印塔がデカすぎるせいで感覚がマヒしますが、こちらも十分に大きく立派な御堂です。御由緒です。妙法山 星谷寺真言宗大覚寺派開山:行基菩薩本尊:聖観音法華経読誦の声 小田急線座間駅で下車、徒歩6分ほどで星谷寺に着く。『風土記稿』に「其地は山叡幽邃にして清泉せん湲たり、星影水中に映じ、暗夜も白昼の如なれば土人星谷と呼べり」とあるのは、現在地より少し離れた所、今そこには「本堂」の地名が残っている。寺伝によれば天平年間(729~749年)僧行基が来錫、「見不知森」の中に法華経読誦の声を聞いた。よく見ると、それは古木の根洞におわす観音の声であった。このことを「かの法華経を読みたるは正しく此尊像にてましますかと、感涙墨染の袖を絞り、土人に対し件の由を告げ玉へば、老若競い来たりて拝念し頻りに大悲殿を営構して、感得の霊像を安置し奉る」と『坂東霊場記』は記している。観世音の尊像が法華経を誦していたというこの奇瑞はまことに宗教的な発想であり、法華経流布につながる開創縁起といえよう。だからこそ山号を妙法山というのであろう。 座間市一帯は古墳時代の遺跡が多く、早くから文化の開けた地域。観音信仰の伝来も容易に受け入れたものと思われる。それに星影が水中に留まるという自然の瑞相、 一般に池泉の神秘によせる素朴な伝承は、寺院の開創にとって有力な条件であり、ここもそれらによって開かれたのである。撞座一つの梵鐘 創建より数百年を経て鎌倉時代の兵乱に伽藍の多くを失い、相模野の野火に観音堂を全焼するという悲運を迎えた。その時、本尊は火中より飛び出し給い、南の方600mほど離れた樹上に止り、光明を放たれたという。時の住僧理源が「南方補陀落山は大悲観世音の浄土なり、今や本尊南の方へ飛移り玉ふは度生有縁の地ならんと即ち其の地を占て殿堂を中興」(坂東霊場記)したのが今の霊域であるという。この話は信徒が本尊を火災から守って運び移したことをいうのであって、そこにここの観音さまによせる在地の人々の深い帰依を知る。すなわち旧堂から南の地、今の場所に本堂が再建されたのである。 のちに歴代北条氏の篤い保護をうけ、永正16年(1519年)箱根別当領目録には「十一貫五百文、ほしのや寺ぶん」とみえており、また徳川家康によって座間郷に寺領の寄進をうけてきた。 仁王門から境内に入ると右手に沙弥西願によって嘉禄3年(1227年)に勧進鋳造された梵鐘をかけた鐘楼がある。「相州星谷寺、大檀那源朝臣信綱、大工源吉国」との銘がある。東日本最古の鏡であるが「撞座が一つ」というのがめずらしい。平安時代の作風をとどめながらも、鎌倉期の形態をすでに完成しており、各部にせん細な特色をみせている名鐘といわれている。この鐘によって鎌倉期のこの寺の繁栄が偲ばれる。 この鐘と星の井・楠の化石・観音草・不断開花の桜・咲き分けの椿・根下り紅葉とを合わせて「七不思議」というが、乳房のように垂れた老木が今、本堂の中にあり、これに触れると乳の出が良くなるという「根下り紅葉」、これなど悲母観音の誓いに通ずるもので、庶民の願いの純粋さを物語っている。また「星の井」は夏になると井戸の内側に草が茂って、それを通す光が星のように水面に光るのだなどと分析せずに、観音さまの霊異と受け取りたい。不信の者には見えぬとか。 江戸から大山まで18里、徒歩で2日がかり、享保年間に「大山講」が設けられ、宝暦年間には約20万人の参詣を見たというが、その頃、この星ヵ谷寺も観音巡礼で大いに賑わったものと考えられる。観音さまのお加護で「旅」ができるというので民衆は喜んで札所を巡ったことである。朱鷺書房 改訂新版 坂東三十三所観音巡礼 60~65ページより抜粋行基菩薩開創と伝わる古刹です。面白い開創譚が伝わっていますが、これにも見える様に、何故か行基開創の霊場には木にまつわる話が多いような気がします。二戸の天台寺、須賀川の白山寺に於いても、木の洞に観音像を祀っただの、木の根元から清水が湧くだの枚挙にいとまがありません。関東にも中部にも行基菩薩開創の霊場は多いので、それらの巡礼を通して探っていきたいテーマです。本堂の彫刻も良し。特に懸魚の鳳は迫力あります扁額です。本堂左手には本坊へと続く山門があります。この脇に社務所があり、そこで各種手続きが可能です。ここの御朱印やお守りのシステムは面白く、自販機で商品名が記載された札を購入後、カウンターにて手続きするという現代的な方法なんです。斜めから。流石坂東札所といった感じの風格、なかなかに見ごたえがありました。ちなみに今年は坂東も秩父もご縁年、御開帳の年です。この年に関東至近に住めるという計らいは、この先の人生に於いて二度とないかも知れません。この好機を逃さずに、巡礼に精を出していきたいです。・・・しばらくは金欠で遠征は出来そうにないですが、また軍資金をしっかりと稼いで、どんどん古刹・古社をまわっていきますよ!御詠歌障りなす 迷ひの雲をふき払ひ 月もろともに 拝む星の谷本尊:星の谷観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर今回貰った御朱印です。以上です。
2026年03月12日
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小雨降りしきる五戸の町を、一人歩いております。五戸も南部の他の町同様、もとは城下町であり、現在は城跡に図書館が建てられています。夏も終わりに近づくころ、この舘跡を中心として三社大祭のような秋祭りが開催され、展開式の山車が広場に集合します。五戸は五戸南部氏が治めた・・・訳ではなく、三戸氏庶流の南氏が統括していた様です。南部二十六代信直公の代には、木村杢之助秀勝という代官が派遣され、統治を任せられたのです。今回紹介する髙雲寺は、その菩提寺です。2024.8.31光明山 髙雲寺城下町の風情が残る細路地の寺町、その一画に髙雲寺は境内を構えています。参道の先に建つ山門は最高の木彫装飾で飾られています。所々に九曜紋の装飾がありますが、これは南部氏が使用した家紋の1つとされています。装飾を近くで見てみましょう。草花の装飾も多いんですが・・・このように麒麟など瑞獣の図像も多いんです。門を過ぎると広い庭園があり、その先に本堂が置かれています。本堂の前には聖観音の石像も。では本堂です。五戸には大きな本堂を持つ寺院が多く、ここも相当に大きいです。他の寺院と違う点は、この寺院は相当に木彫装飾が凝っているという事です。まずはご由緒から見てみましょう。光明山 髙雲寺曹洞宗 鳩峰山報恩寺末寺開山:報恩寺四代 養山玄想大和尚開基:木村杢之助秀勝本尊:釈迦三尊 光明山 高雲寺は青森県三戸郡五戸町愛宕後に境内を構えている曹洞宗の寺院です。高雲寺の創建は慶長2年(1597年)、木村杢之助秀勝により開かれたのが始まりとされます。 秀勝は文禄4年(1595年)に三戸城(三戸町)の城主 南部二十六代信直の命で五戸館を築き城下町を整備した際、木村家の菩提寺として高雲寺を創建したと思われます。 慶長20年(1615年)に一国一城令が発令されると五戸館は廃城になりますが、変わって五戸代官所が設けられ、木村家は歴代代官を歴任し高雲寺も庇護されました。 高雲寺の堂宇、境内共に当地域では格式が高く、山門は向こう唐門、銅板葺、一間一戸、懸魚、木鼻、欄間部には精緻な彫刻が施されています。本堂は入母屋、銅板葺、平入、正面1間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ、入り口左右に華頭窓付、向拝懸魚と欄間には龍、木鼻には獏と獅子の精緻な彫刻が施されています。 又、明治3年(1870年)に会津藩の後継藩である斗南藩の藩庁が五戸代官所に設置された関係で旧会津藩の墓碑も多く境内には会津藩の家老だった内藤介右衛門(鶴ヶ城攻防戦では三の丸で指揮、斗南藩廃藩後は五戸町に移り住む。戒名「英烈寺殿信雄良節居士」)や会津藩士だった倉沢平治右衛門(斗南藩小参事、五戸町に移住、戒名「曹源院範岳儒翁居士」)などがあります。 開基となった木村杢助秀勝の墓や五戸代官所に勤めた圓子家歴代の墓が建立されています。青森県歴史観光案内所 / 光明山 髙雲寺 より引用五百羅漢で名高い盛岡の報恩寺の末寺です。17世紀以来、五戸の行政と深く関わってきた寺院で、五戸代官 木村家はもとより、会津藩の後継 斗南藩士の墓なども多くあるようです。それでは本堂の木彫装飾を見ていきましょう。まずはこの時点でかなり見とれてしまうんですが、これだけじゃありません。正面の蟇股には怒り狂う三頭の龍、何れも身をくねらせて暴れまわっている様に見えます。懸魚も龍と観音という面白い造詣です。木鼻の獅子・象共に、他の寺院とは一線を画す素晴らしさです。是非とも直にご覧になってください近くで見てみましょう。少し傾げた首が躍動感を生んでいます。本堂の壁面にも天女の図像が刻まれていて、何とも風雅です。山号額です。斜めから。地方ではこれほどまでに気合の入った木彫装飾に巡り合うのは本当に稀で、小雨の中とは言え見とれてたたずんでしまいました。南部随一の本堂を是非ともご覧ください以上です。
2026年04月29日
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津軽半島の中ほど、元の中里町の南側に富森という地域があります。おそらく鎮守の中里八幡宮から狭い路地を歩く事数分、札所の寺院が見えてきます。初めて参拝した時も、道の狭さに苦労したのを覚えております。今回は運よく対向車も無く、無事に山門前に到着しました。2025.6.1津軽八十八霊場十番札所:悟真山 光明院 善導寺古風な感のある山門が境内の入口です。門の両脇には仁王像が建っています。こちらはかなり新しそうですね。山門からも良く見えておりました、立派な鐘楼。外観も昔のまま保たれており、なかなかに風情がありますよね。鐘楼の隣には地蔵堂です。内部はこんな感じ。この手の地蔵堂は津軽各地の寺院でよく見られます。なぜこんなにも地蔵信仰が篤いのか、気になります。豪華な金装飾が施された本堂。随所に浄土宗の宗紋が捺されていました。ご由緒について新撰陸奥国誌 第3巻(みちのく双書 ; 第17集)の記述を見てみると・・・悟真山 光明院 善導寺浄土宗 月窓山栄源院貞昌寺末寺開山:閑栄本尊:阿弥陀三尊 中泊町富森に境内を構える浄土宗寺院です。開山は万治2年(1659年)4月15日、閑栄という僧侶によると言われています。 由緒など不明な点は多いですが、本尊の阿弥陀三尊は慈覚大師の作との伝説があり、実際優れた像容をしていました。本尊以外にも、堂内には閻魔・奪衣婆像、聖観音像、三十三観音像など多くの秀像が安置されています。と、なりそうです。本堂の木彫装飾。全体的に優れているんですが、特に虹梁の”波間に菊”の紋は見応えがありますよ山号額も豪華ですねぇ!堂内です。須弥壇も金・銀・錦で飾られて輝いております。本尊阿弥陀三尊です。三体とも慈覚大師の作と言われていますが、本当にそうだと思ってしまう位の躍動感あふれる美像でした堂内には他にも等身大の聖観音像や・・・。古めかしい閻魔・奪衣婆像が見られます。小さいながらも表情には迫力あり!その脇に三十三観音像。奥の如意輪観音を中心に、西国三十三観音霊場の札所本尊を模した三十三体の観音像が置かれているのです。一際大きな如意輪観音像は、持物が紛失しているものの、表情もたおやかで美しい舟形光背が見事でした。宝冠の装飾もかなり凝っていますねぇ!そしてお待ちかね、今回の馬頭観音です。斜めから。中里町の中心的な浄土宗寺院でした。浄土宗ながら慈覚大師関連の仏像・伝説があるという事は、元々は天台系の修験の堂だった可能性も有るのでは?なんて妄想していますが、今のところ情報が少なすぎて何とも言えません。不明な点は多いんですが、まずはキレイな本堂を是非ご覧になりに来てくださいね御詠歌ただたのめ よくもあしきもおしなべて ほとけのちかひ ふこうだのさと本尊:阿弥陀如来 अमिताभ以前貰った御朱印です。以上です。
2026年04月29日
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三沢市の内、古間木という地域には神社や仏閣が集まっており、今回紹介する立正閣も鎮座しています。三沢駅を囲むように様々なスポットがある為、電車で来て、あとは歩きで、という楽しみ方もできそうです。ちなみに地名の”古間木”は”ふるまき”と読まれ、古牧に由来しているそうです。方言的には”ふるま↑ぎ↓”と読まれます。当地域では木崎の牧という藩営大牧場が有りましたが、それを今に伝える地名となっています。立正閣三沢駅から徒歩数分、アクセス最強です。外観は普通の民家ですが、境内には立正閣と書かれた看板が建っています。ここの寺院のご由緒などは不明ですが、おそらく県内で一番ホスピタリティー溢れる寺院だと思われます。まず、絵入りの御朱印は手書きで、当然待ち時間はそれなりにかかります。ですがその待ち時間中に抹茶とお菓子が楽しめるので全く気になりません。むしろウェルカムです手書きの御朱印は月ごとに絵柄や文が異なり、そうした御朱印が好きな方には特に刺さる御朱印です。今回貰った御朱印は雨の時期に合わせたもので、曇天を駆ける龍が描かれています。淡い色合いで表現される曇天もさることながら、光り輝く龍と達筆な書が合わさり、一つの作品として御朱印帳に刻み込まれています。正直あの値段でこの素晴らしいクオリティーの御朱印をいただくのは本当に申し訳なく、もう少し多く支払いたい気持ちになりました。素晴らしい御主題を書き入れてくださり、本当にありがとうございました!以上です。
2025年01月18日
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茨城県の神社の中でも、今回紹介する神社はあまりにもスケールが大きい神社です。境内は山1つ分、祀られる神格は両の手でには収まりません。おまけに今でも神仏混淆の姿を保っているという・・・。そもそも茨城県は、かの水戸黄門の政策によって寺院よりも神社・修験に重きが置かれていました。そのためかこのような神仏混淆色の強い神社が今でも数多く残っているんです。御岩神社境内から少々離れたところにある駐車場に停車し、御岩神社へ向かいます。昔ながらの風情を残した町内を抜け、歩く事数分、白い神明鳥居が見えてきました。鳥居の脇には小祠が置かれています。ただこれはまだ、境内に祀られる神格の内の10分の1にも満たないものです。弁天社、阿夫利社です。おそらく祭神は弁財天と阿夫利明神(おそらく大山祇神・大雷神・高龗神)でしょう。社務所の隣にも社があります。これは祓戸神社で、おそらくお祓いや祈祷などのための社だと思われます。祭神についても特に記載は有りませんが、祓戸大神が祀られているものと思います。祓戸大神とは、瀬織津比売神・速開都比売神・気吹戸主神・速佐須良比売神の4柱の神格の総称で、全て水に関連した神格です。ちなみに八戸周辺だと、岩手県洋野町の鳴雷神社の末社にて祀られています。まぁ、これとは違う祭神かもしれませんが・・・詳細不明。境内を歩く前に案内図を見てみましょう。御岩神社は山の麓にあり、そこから表参道・裏参道の2本の参拝路が山頂まで伸びています。山と言ってもそこまで高いわけではなく、我らの足で片道20分もかからず着きました。そして御由緒も先に見ちゃいましょう。常陸国最古霊山 御岩神社御祭神・御岩神社:国常立尊、大国主命・伊邪那美命、他23柱・賀毗禮(かびれ)神宮:立速日男命、天照大御神・邇邇藝命・薩都神社:立速日男命・斎神社:天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、八衢比古神、八衢比賣神全山総祭神 188柱延喜式内本宮社 創建の時期は不明であるが、縁起書等によると天地開くる時よりこの霊山に鎮まるとある。また、古事記日本書紀と並ぶ我が国最古の地誌である「常陸国風土記」(713年)に、太古よりこの賀毗禮の宮に天つ神鎮まると記され、同じく「三代実録」には清和天皇貞観16年(874年)神階が県北地方最高位の従四位下に進められた事が書かれている。「続日本後紀」「古語拾遺」等にも当神社が記されており、特に「延喜式神名帳」(927年)には常陸久慈郡総社ともいえる薩都神社(里野宮)の本宮として常陸28社の1つとされている。江戸期では徳川家から神地189町が寄進され、水戸藩の出羽三山として隆盛を極めた。森厳を極めた霊地 数百年の老樹巨木鬱蒼と茂り、広大な境内全域はまことに神さびて森厳を極める。かつてこの霊山は賀毗禮山又は葦原山、天香久山と呼ばれ、中世には山岳信仰とともに神仏混淆の霊場となり、江戸時代に至り水戸藩の出羽三山として水戸領内外より信徒等も多く参詣した。境内には21の神社寺院があり寺町とよばれ、門前町である入四間宿を御町とよぶ大きな霊地を形成していた。明治維新によって神仏分離が実行され、神社として純粋な形を保つため、大日堂、観音堂、念仏堂、大仁王門など取払われたが、境内の遺跡、祭りの内容などは今日でも他の神社・寺院にみられない独自の信仰を伝えている。水戸藩の祈願所 御岩大権現、奥宮賀毗禮大神宮は水戸藩の祈願所として定められ、藩主は代々参拝するのを常例とされた。まだ、社殿の維持管理を始め参拝者より徴収する「山役銭」の管理まですべて水戸藩によって行われた。 初代藩主徳川頼房公は、敬神のため寛永7年(1630年)出羽三山をこの地に移し、其の後光圀公尊慮を以て大日如来を本地とする御岩山大権現と改称。明暦3年(1657年)2月11日奥宮である賀毗禮大神宮にて王政復古修史編纂(大日本史)の祈願「筆初めの儀」を行い、次の誓歌を詠んでいる。・國中に はこびる草根刈り絶ちて 君が千代田に 返し奉らむ(徳川光圀)・光圀の 遺せる跡を吾れ訪えば 朝廷を守る 証しなりけむ(徳川斉昭)霊峰 御岩山 御岩山はかつて賀毗禮山と呼ばれ、古来より神々が棲む神域として崇められてきた霊山である。常陸国風土記の久慈郡薩都の条「賀毗禮の高峰」とはこの山の事であり、山頂に奇岩怪石がそびえ立つ異観は、神が依り代として降臨する磐座信仰の佇まいである。 山中では縄文晩期その他の祭祀遺跡が発掘されており、古代より連綿と続く信仰の聖地である事が窺える。中世から近世にかけては修験の山として栄え、山伏の修行や崇敬者などが斎戒沐浴して登拝した。平地と隔絶した霊気漂う聖なる神域、御岩山はそういう特別な御山である。次は常陸国風土記についてです。常陸國風土記 東の大山を賀毗禮之高峰と謂ふ。即ち天神有す(ます)。名を立速日男命と稱す。一名は速經和氣命なり。本天より降りて、即て松澤の松樹の八俣の上に坐しき。神の祟、甚巖なりき。人有りて向きて大小便を行る時は、災を示し疾苦を致さしめしかば、近側に居る人、毎に甚く辛苦みて、状を具べて朝に請ひまつりしかば、片岡大連を遺して敬ひ祭らしめて、祈み日さく、今此処に坐せば、百姓近くに家して、朝夕に穢臭し。理、坐すべからず。宜しく避り移りて高山の浄き境に鎮りたまふべしとまをしき。是に、神、禰告を聴きたまひて、遂に賀毘禮之峰に登りたまふ。其の社は石を以て垣とす。中に種*甚多なり。併、品の寶、弓、鉾、釜、器の類、皆石と成りて存れり。凡、諸の鳥の経過るものは、悉に急く飛び避りて、峰の上に當ること無く、古より然あり、今に為りても亦同じく久慈河に入る。(久慈郡の条 漢文書き下し) 東の大きな山を賀毗禮の高峰という。ここには天つ神がおられ、名を立速日男命と申し上げ、またの名は速經和氣命である。もとは天より降りられて、すぐに松沢の松の木の八俣の上にお鎮まりになられた。 この神の祟りは非常に厳しく、人が向かって大小便でもしようものなら、たちまち災を下し病にならせたという。このため付近の住人は常に苦しみ困り果て、その状況をつぶさに朝廷に申し上げたところ、片岡大連を遣わされて謹んで祈り奉り「今おられるところは、民が近くに住んでいるので、いつも不浄でございます。おられるには相応しいところではありません。どうかこの様な地からお移りなられて、高い山の清浄な場所にお鎮まりください。」と申し上げた。 神はこの願を聞き届られ、遂に賀毗禮の峰にお登りなられた。その社は、石で垣を造り、様々の宝・弓・桙・釜・器の類が、皆石となって遣っている。 この場所は鳥が通り過ぎるときも、急いで飛び去って行き、峰の上に留まることはないといい、これは昔も今も変わらない。その山麓に薩都河といふ小川があり、水源は北の山に起こり南に流れて久慈河に入る。(口語訳)そして御岩山に祀られる神格の目録もあります。御岩山諸神名細表山1. 栗唐大聖不動滝、2. 斎神社、3. 御岩神社、4. 薩都神社、5. 入薩都神社、6. 三宝荒神社、7. 荒沢大聖不動尊、8. 楠比賣大神、9. 子保地蔵尊、10. 保食大神、11. 塞ノ神、12. 弘法大師、13. 平城大神、14. 保食神社、15. 駒形大神、16. 別雷皇太神、17. 白山大神、18. 姥格光神社、19. 大橘姥大神、20. 国魂神社、21. 無言ノ行通り、号外. 千代の水祓戸神社、22. 八雷龍神社、23. 十二社神社、24. 水速女大神、25. 熊野神社、26. 賀毗礼大神宮、27. 皇国神社、28. 御多満理池、29. 今上関、30. 義公御詠、31. 烈公御詠・御宝物、32. 養忠神社、33. 関前神社、34. 厳島大神、35. 辨財天、36. 久那斗大神、37. 青龍大神、38. 猿田彦大神、39. 三霊神、40. 清浄稲荷大神、41. 大六天すべり石、42. 十方稲荷大神、43. 八雷龍神、44. 八将神、45. 白狐稲荷大神、46. 真崎稲荷大神、47. 土公神、48. 加茂大神、49. 古茂理大神、50. 九頭龍大神、51. 松尾大神、52. 熱田大神、53. 諏訪大神、54. 伏見稲荷大神、55. 日吉大神、56. 根裂大神、57. 御裂大神、58. 駒形大神、59. 五社稲荷大神、60. 三十番神、61. 岩裂大神、62. 天狗ノ岩窟、63. 剣難除ノ神、64. 星野宮大神、65. 三社の託、66. 疱瘡大神、67. 開運稲荷大神、68. 三峯大神、69. 峯ノ薬師、70. 八雲大神、71. 峯越三十六社ノ神、72. 御岩山鏡石、73. 東西金砂神社、74. 近津大神、75. 稲日妃大神、76. 二十六夜愛染明王、77. 二十三夜尊、78. 小春日大神、79. 仲哀天皇、80. 誉田別命、81. 武内宿禰命、82. 高宮神社、83. 大已貴大神、84. 清滝大神、85. 大天狗、86. 小天狗、87. 金刀比羅神社、88. 三十三社ノ神・天狗ノ七戻り、89.天宇豆賣大神、90. 天兒屋根大神、91. 大山祇大神、92. 戸隠大神、93. 建葉槌大神・思兼大神、94. 天手力界大神、95. 天ノ岩戸大神、96. 伴緒之大神、97. 開運飯鋼大神、98. 賀毗礼本宮、99. 伊弉岐命、100. 伊弉美大神、101. 皇孫瓊々杵之大神、102. 出世大国天、103. 戸当大神、104. 毘沙門天、105. 多聞天、106. 五大尊、107. 持国天、108. 広目天、109. 摩利支天、110. 国支天、111. 石尊大神、112. 尊長天、113. 亥ノ目天、114. 四方天、115. 天照皇大神、116. 梵天石ノ神、117. 三宝荒神、118. 天狗飛石、119. 子保大神、120. 七福神以上 表山終り休場 三十町三十六間裏山121. 無言ノ行、122. 日ノ御蔭神、123. 豊受皇大神、124. 天宇受賣大神、125. 大山昨大神、126. 摩利支天、127. 浅間大神、128. 富士山大神、129. 和銅神社、130. 天狗ノ押別石、131. 三輪大神、132. 三輪地蔵尊、133. 天照日野大神、134. 天狗ノ須落し、135. 別雷皇大神、136. 天ノ磐座、137. 天ノ御柱、138. 猿田彦大神、139. 天ノ水分大神、140. 七代天神、141. 天ノ御蔭神、142. 五代天神、143. 戸隠大神、144. 石凝比賣大神、145. 天狗ノ押割石、146. 天狗ノ飛石、147. 大峯大神、148. 羽黒大神、149. 夕べノ御霧、150. 朝方ノ御霧、151. 岩祖大神、152. 天狗ノ西ノゾキ、153. 恵比寿ノ岩窟、154. 牛頭天王、155. 遇鹿神社、156. 奥薩都大神、157. 藤原大神、158. 久那斗彦大神、159. 加波山大神、160. 大洗大神、161. 久々能智大神、162. 鹿島ノ石、163. 船玉十二社大神、164. 二荒大神、165. 大岩不動明王、166. 石尊大神、167. 薩都大神、168. 月山大神、169. 梵天石、170. 日山大神、171. 白体幣帛、172. 五色幣帛、173. 青体幣帛、174. 宇豆幣帛、175. 金山彦大神、176. 無言ノ行、177. 三霊神、178. 加栖見神社、179. 三尊石、180. 戸隠大神、181. 香取大神、182. 鹿島大神、183. 愛宕大神、184. 西宮大神、185. 百取机、186. 虫切大神、187. 虫切為朝大神、188. 御嶽神社・・・。めまいがするほど多い祭神・・・すんごいですね境内のどこにどの神格が祀られているかの地図も有りました。数々の神名が列挙される中、山の上には飯綱権現が飛んでいます。修験味があって良いですねぇ!参道の左側に愛宕神社が置かれていました。鳥居の先にはいくつもの小祠が見えます。その反対側に神木 三本杉が生えています。見上げるほどに巨大で、根の太さはかなりのものです。大地を突き破って生えてきたという力強さが感じられました。説明書きです。御岩山の三本杉 この三本杉は、地上約3mのところから3本の幹に分かれ、それぞれが直立かつ均等に伸びています。 目通り幹囲は8.4m、樹高は39m、枝張りは東西南北へ7~8mで、市内最大、県内有数の全国的にもすぐれた杉です。三本杉の三幹は根元から一株が分かれたのか、三本の株が成長にしたがい根元で癒着したのかははっきりしません。 なお、三本杉には伝説があり、昔、この木の三叉のところに天狗が棲んでいて、近所の人々や御岩神社への参拝者に恐れられていたことから、「天狗杉」の異名を持ち、樹齢500年以上と推測されています。日立市教育委員会天狗もそうですが、最初に立速日男命が落ち着いたのも樹の上でしたよね。やはり樹木には神格が宿るという考えがあったものと思います。アニミズム的な要素ですね。程なくして立派な山門?随神門?が見えてきます。扁額には”萬世泰國”とありますね。そして再び説明書きです。 御岩神社は太古、天つ神の社”賀毗の礼の宮”として祀られ「常陸風土記」「三代実録」「延喜式」等にも記された古社で御岩・賀毘礼・斎の三社を中心に188柱の神々がこの深山幽谷・巨樹老木鬱蒼と繁る広大な神域に鎮座しています。また山頂奥の宮の岩場は祭祀遺跡を有し日本最古の石版の発見など東国の高天原伝説を秘めた、まさに常陸最古の霊山と称される神山でもあります。 中世よりは神仏混淆の霊場とされ、江戸時代に至っては寛永7年(1630年)初代水戸藩主徳川頼房公が出羽三山をこの地に分霊し、水戸領の三山として隆盛を極め、藩主代々参拝を常例とする祈願所と定めました。特に徳川光圀公は明暦3年(1657年)奥宮の賀毗礼神宮にて大日本史編纂祈願「筆初めの儀」を斉行し、神地189町を寄進され水戸藩直轄の社として領内は勿論、遠く江戸・下総・上総方面よりの信徒も多く境内に21の神社寺院を有す「御岩山大権現」の大きな聖域を形成していました。 幕末より明治維新にかけての神仏分離令により神社としての純粋な形を保つために大日堂・観音堂・念仏堂・楼門等すべて取り払われ「御岩神社」と改称されましたが今日でも多くの仏像等、信仰は勿論、指定文化財としても尊崇をあつめ、仁王像も去る昭和54年(1979年)氏子崇敬者の熱意により修復元し、実に120年ぶり御岩山の守護神として立ち上がる事が出来ました。 今般楼門再建の強い御懇請もあり奉賛会を結成。役員会にて諸般の事情を踏まえ御神威の昂揚と世界の平和・安泰を祈念し「萬世泰国」楼門再建の決意を見るに至り、以降工事に着工。由緒深い当山にふさわしい楼門が見事に竣工の運びと成りました。これも偏に氏子崇敬者皆様の御協賛の賜と感謝し、奉賛・建設委員各位の英知の結集並びに関係各位の御協力に依れるものであり、ここに再建記念碑に録し広く永く顕彰する所であります。平成4年6月吉日説明書きの通り神仏分離の影響は確かに受けましたが、近年になって神仏混淆時代の堂宇などが再建。現在の様な規格外の霊場へと発展しました。参道に戻ります。緑あふれる参道には、苔に被われた歌碑が幾つか建っています。俳誌「かびれ」孤悠句碑について 「かびれ」は、大竹孤悠が昭和6年3月に日立の地において創刊した俳句指導雑誌である。「かびれ」の名は、常陸国風土記にみえる「賀毗禮之高峰」にちなむ。 大竹孤悠は、明治29年米沢に生まれ、 松本蔦斉に俳譜を学び、さらに子規系矢田挿雲に師事し、近代俳句の敷行につとめつつ俳句活動を展開、真摯な社会生活のなかから湧きあがる詩情を俳句に詠うという「生活即俳道」を提唱して、後進を育成、昭和54年に84歳をもって死去。 この句碑は、昭和56年4月、「かびれ」の創刊50年を記念して、全国の「かびれ」同信一同が、亡き師大竹孤悠の霊を慰めるべく建立した。碑石彫んだ「残り葉の 人のけはひに 散りかかる」は、大竹孤悠が昭和26年賀毗禮山登攀の折に詠んだ俳句で、初冬の賀毗禮山山中のひそやかなたたずまいによせる、しみじみとした情感である。歌碑はこちらにも・・・。春深し杉の何処に念佛鳥 作者、久保柴雲郷は、明治44年(1911年)岩手縣に生まれ、後に日立市に住居を定む。大正11年(1922年)、大竹孤悠を師と仰ぎ「生活即俳道」の道一筋に励む。 句碑に彫られたこの句は、昭和6年3月大竹孤悠が俳誌「かびれ」発刊を決意して賀毗禮山攀の折り随行したときの作品。賀毗禮神社は古くから神佛混淆の霊場として多くの人の信心を集めており、杉の古木で昼なお暗い幽遠の趣が強く、念佛鳥の淋しい鳴き声が一瞬柴雲郷の誌心をとらえこの句となった。 念佛鳥(ネブツドリ)はトラツグミのこと。他の鳥と違い晩春から夏にかけて夜鳴くのが特徴。ときには暗い森では昼でも鳴く。ヒョーヒョーと笛を吹くような淋しい声で鳴くので五月雨の暗い夜など、鬼気迫る淋しさを感じる。ところによっては「ジゴクドリ」「ヌエツグミ」とも呼ばれ、念佛鳥とは山形縣米沢地方での呼び名。当入四間地方では一羽では鳴かず、谷合いで鳴き合うところからツンヒン鳥ともいわれている。もう1個いっときましょう(説明書きは読み取れませんでした・・・)。月の夜の 石に還へりし 道祖神歌碑群を過ぎると、参道の左手に池があります。手前の掌には洗心と刻まれ、池の中央には不動明王が置かれていました。それらを囲むように鎮座する小祠も何らかの神格が祀られているんですね。ほんとに祠だらけです。参道も半ば、いよいよ境内の中心に近づいて来ました。この社殿は斎神社回向殿と呼ばれるもので、中には神鏡のみならず仏像も収められています。御岩神社の中心的な社殿・御堂の内の1つです。先ほどの由緒で祭神を確認しておきましょう。斎神社:天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、八衢比古神、八衢比賣神造化三神と共に、道祖神とも同一視される八衢の対神が祀られているようです。天上には龍が描かれています。嵐とともに飛び出してきそうです!堂内の厨子には合掌印の阿弥陀如来像が置かれています。先ほどの祭神の本地仏ということなんでしょうか。斜めから。初っ端から神仏混淆ぶりを見せつけられました。この様に混淆の特徴を堂々と残している神社は本当に珍しいと思います。斎神社の脇辺りには三十三観音写し霊場らしき石仏と、動物供養のものと思われる石像が並んでいました。その反対側には地蔵尊や如意輪観音、苔むした墓などが並んでいます。斎神社の左手、特徴的な六角堂が建っています。こちらも仏教関係の堂宇で、大日如来が祀られているそうです。説明書きです。大日堂 ~胎蔵界大日如来~ 当神社の大日如来坐像は鎌倉後期の作と伝わり、江戸期に於いては「御岩大権現」の御本尊として篤く信仰され、広く崇敬を集めていた。 明治期に入り神仏判然令所謂神仏分離が断行され、世は廃仏毀釈の嵐の最中、仏教的事物を悉く破却排斥、又は強制移設等の憂き目にあっていたが、本坐像は当時の氏子によって懸命に護られ、神社にして仏像を祀るという独自の信仰を確立し現在に至っている。 長きに亘り尊崇され、幾星霜を経てもその御姿を留めてきた中で、令和の御代に入り、江戸中期以來200有余年振りの大修復が行われ、併せてより相応しく威容を誇るところとして大日堂の造替を成した。 堂内には日本画の大家「浜田泰介画伯」により、大作障壁画「日本の四季」並びに天井画「宇宙」が奉納され、森羅万象は大日如来の広大無辺なる慈悲心に帰一することを表している。社務所にて、この大日如来に因んだ御朱印帳が販売されているんですが、暗闇の中に金色の大日如来が浮き出て見えてとんでもなくかっこいいんです!かなりの高額なもんで今回は購入断念したんですが、そのことをかなり後悔しています。次回もしも参拝できたならば、必ず購入したいと思います。大日如来堂の裏手辺りには、八大龍王と入四間不動明王を祀った石碑が置かれています。入四間とは御岩神社が鎮座しているところの地名ですので、それに因んだものでしょう。境内の中心地から少々遡ります。石造りの神明鳥居が建っているんですが、ここから賀毗礼大神宮までの表参道が伸びています。先ほどの不動明王の石碑、その左脇あたりにある巨木に注連縄が巻かれ、神域であることを示しています。ただ、我らは津軽衆であり、からきんづです。今回は茨城の友人と共に裏参道から一度山頂を拝んだ後、参拝しました。表参道・裏参道問わず、参道の脇には幣が立ち、何かしらの神格が祀られているようです。先ほどの山内の神格の図を見てみてください。下の写真は表参道のもの。祭神は特定できませんが・・・。そのすぐ奥に御神木も生えています。行ったり来たりになりますが、大日如来堂のところに戻りまして、再び参拝していきましょう。手水で清め参拝の準備です。ついに到達!御岩神社の拝殿です。中規模かつ素朴な外観が修験らしさを感じさせます。垂れ幕には徳川の三葉葵、水戸藩からの崇敬も相当篤かったんではないでしょうか。扁額です。それでは次は御岩山山頂を目指しましょう。裏参道までには沢山の祠が置かれています。これは姥神という神格の祠です。中には達磨にも似た姿の石像が置かれています。姥というと・・・安産などの神徳があてがわれていそうです。本殿の横辺りには稲荷の祠です。祠を近くで見てみると、木彫の装飾も素晴らしいです。何体もの狐が立ち並ぶ姿も良いですね!こんな神格も祀られています。宮城県の中部辺りに鎮座する青麻山、その山に祀られるは青麻大明神。東北のみならず関東各地にも分霊され祀られているようです。ここ御岩神社にも、その分霊社が置かれているようですね。裏参道の入口に着きました。程なくして中心社殿・堂宇の1つ、薩都神社の中宮が置かれています。木の根が浮き出た参道を行くと祠が建っています。御岩山麓の松に降臨したとされる立速日男命を祭神としている社です。ある意味最も御岩山と関係の深い社とも言えるでしょうか。祭神の立速日男命は、その神威が余りにも強く住民に祟りを成していたことから、山頂に遷されたと常陸国風土記に記載されています。ということは、この祠は遥拝所的なものなのでしょう。薩都神社を過ぎると、宝塔と地蔵尊が置かれていました。そしてまたしても幣!こちらにも幣!石碑!石碑には東霊神・身曽貴霊神・松河霊神・太満川霊神などの神名が刻まれています。こちらにも!柴子之吉霊神・松川霊神・千代*霊神・*姫霊神・・・いったい何の神格なのか?こちらは折れてしまっていますね。どの神名にも霊と付くのが少々気になりますね。だんだんと山頂に近づいて来ました。それにつれゴロゴロとした岩石が目立ってきます。そしてついに頂上に到達。だいたい20分くらいで登り切れました。山頂からの景色は格別です。茨城の北部はこのように山深い土地で、修験などの勢力が根付きやすかったんではないでしょうか。山頂付近には巨大な磐座が横たわっていました。この磐座に立速日男命が祀られているんでしょうか、かなり立派な磐座です。山頂には他にも結界によって囲まれた石祠が置かれています。これが薩都神社の本宮だとすると、祭神はもしかすると立速日男命ではないでしょうか。それでは下山しつつ、中腹の賀毗礼大神宮を目指しましょう。途中の木の根には山王大神と水速女命(みずはのめのみこと)が祀られていました。山頂から数分で賀毗礼大神宮に到着です。垣根の内側にはいくつもの石碑が置かれていました。こちらは歌碑で、水戸徳川九代斉昭公によって建立されたものです。光圀の遺せる跡を吾れ訪えば朝廷を守る証しなりけるこの歌碑の他にも、水戸光圀公の歌碑も有るそうですが、今回は見つけられませんでした。こちらには小祠と共に磐座らしき巨岩が置かれています。当初は祠が無く、こうした磐座に各祭神を祀っていたんではないでしょうか。そんでもって社殿です。神明宮と言えばの切妻屋根の社です。常陸国で最も古い神明宮は、かくも荘厳な姿なのです。原始から続く信仰に触れ、常陸最古の霊山を歩み、北関東の歴史にまた1つ詳しくなれたのではないでしょうか。本当に素晴らしい霊場でした今回貰った御朱印です。因みに賀毗礼大神宮の御朱印をいただくには、賀毗礼大神宮に参拝するのは必須条件です。御朱印帳を預けて山の澄んだ空気に触れながら、賀毗礼大神宮を目指すのもまた一興ではないでしょうか。以上です。
2025年05月28日
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青森の南西、入内集落から更に山の方に進みます。舗装道も途切れ、道は段々とオフロードへと切り替わっていきます。こんな山奥に本当に神社が有るんでしょうか?神社の前に熊を先に見つけてしまいそうで、だんだんと不安になってきましたが、道の脇に鳥居を見つけました。この鳥居は滝へと続く鳥居なんですが、この鳥居から神社へは数分で到着。やっとこさ山奥の謎に包まれた神社に到着です。2024.8.4石神神社長い山道の突き当りに境内が広がっていました。境内には小祠が幾つかあり、先にそちらを紹介したいと思います。境内入り口に鎮座しているこちらは、大地主八代龍神大神を祀る祠です。この地の鎮守として八代龍王を祀っているんでしょうか。先ほどの祠から少々離れたところに清水が湧いております。その脇にも小祠が置かれ、祭神は薬師様だそうです。おそらく薬師如来と言うよりは、少名彦神だと思われます。それでは石神神社の方も見ていきましょう。神明鳥居がいくつも並んでおり、その先に社殿が鎮座しています。参道脇には境内の地図が置かれていました。思っていたよりもずっと境内は広いようです。周辺の山中に様々な神格が祀られていることが分かりますね。神社名から推察されるように、この神格たちの御神体は自然岩です。この様な自然岩を神格として祀るというのは、修験にも通ずるものがあり、非常に興味深いです。今回は気力がもたず、石神神社だけ参拝しましたが、いつかはこれらも廻ってみたいです。ここは本当に本当に山奥ですので、熊とのエンカウントには細心の注意を払わなければなりません。ご由緒書きもありました。入内の石神神社 藩政時代、「石神様」としてその霊験が広く喧伝された。日月輪の自然石から湧き出る清水が難病や眼病治癒に効果があったという。大祭の陰暦6月16日前後は、参詣する人が後を断つことがなかった。杉の大樹はそのことを物語っている。 草創年月は不詳であるが、霊泉の発見者は、眼病を煩っていた小館村(現青森市)の弥十郎という人であると伝えられている。明治初年、神仏混淆禁止のとき、神社の形体が未整*の理由から信仰を禁止させられた。 しかし、霊泉を求める人が多く祈祷所を願い出たが、明治5年(1872年)、県庁から「愚民を惑わす妖言」として不許可になった。その後、自然石の破壊も試みられたという。明治38年(1905年)、三上東満によって再開発され、以後、小野林之助・成田嘉七に継承され聖地として整えられた。祭神は天照皇大神・月夜見大神・大山祇大神、例祭日は陰暦の4月・6月・9月の16日である。日輪・月輪を司る2柱の神格と、諸山を統べる神格を祭神としている神社です。眼病に効く霊泉ともども崇敬は相当のものだったようですが、純然たる神社とは言い難く、そのためか明治期の神仏分離の際には大打撃を受けたようです。県庁からも酷い言われようですが、後に再び隆盛して現在に至ります。因みに山中に祀られる神格は津軽と関わりのあるものが多いのも面白いです。先ほどの地図で見てみると、十和田大神・大星大神・御志羅様・岩木大神などを見つけることができます。十和田神社や大星神社、岩木山神社などの神格を一挙に拝める、神社版の写し霊場といったところでしょうか。面白いですねそれでは先に進みましょう。置くに行くほど鳥居が古くなっていっているように見えました。参道はそれなりに長く、苔に注意しながら登ります。登っていくと山の中腹?斜面の開けた所に社殿が鎮座していました。造りはシンプルですが、山中にこの規模の社殿が有るとは・・・驚きです。扁額には石神大神とあります。社殿内はこんな感じです。中央・右・左それぞれに幣が置かれ、先ほどの神格たちが祀られているんだと思われます。そして面白いことに、この社殿には本殿がありません。その代わり拝殿裏手には、奇妙な形の自然岩が置かれています。奇岩を眺めてみます。岩の一部が浸食によって丸く削れています。向かって右が天照皇大神、左が月読大神として祀られているようです。なぜこの二か所だけがキレイに削れているんでしょうか?なんとも不思議な御神体です。更に先へと道が続いていましたが、またの機会にしたいと思います。続いて御鈴滝の方を見ていきます。こちらも入り口には鳥居が建っていました。さらにスズメバチも盛んに飛んでおり、注意が必要です。鳥居をくぐってすぐ脇には、小堂が置かれており内部には石仏が置かれていました。そのすぐ隣にも小祠です。祭神は不明。小祠の隣には文殊菩薩の石仏です。この時点で大分神仏混淆の要素が見られますね。参道を行くと分かれ道に突き当たります。右に行くと婦人に縁ある神格とされる淡島明神や、月待の1柱二十三夜神が祀られているようです。左には御鈴の滝へ通じています。今回は右の道から先に参拝しました。5分くらい山路を進むと淡島明神に到着です。こちらも漏れなく自然岩が御神体です。こうした巨岩・奇岩は分かりやすい祈りの対象として、人間の力の外にある自然の示現として、様々な場所で御神体となっています。更に先には二十三夜大神が鎮座しているんでしょうが、今回は深入りしません。ここまでにして、次は御鈴の滝に進みましょう。着きました、御鈴の滝です。断崖から幾筋かの水が零れ落ち、荘厳な滝へと変じています。近くには國常立神と書かれた石柱が建っており、滝の手前の巨岩を神体としているのか、滝自体が神体となっているのかは不明ですが、信仰の場であることに変わりはありません。真夏の参拝にも関わらず、この滝の周囲は涼やかで、ここに至るまでの苦難は全て報われました。青森の山中、当に秘境の地に鎮座する巨岩信仰の霊場は、今も変わらず崇敬を集めていました。今回貰った御朱印です。以上です。
2025年07月23日
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福島県の中でも相当に大きな都市である郡山。県内いろいろな街を見ましたが、福島県で一番栄えている街といっても過言では無いと思います。そこかしこに高いビルが立ち並び、何台もの車が行き交います。そんな賑やかな街なかに鎮守の社が鎮座しています。阿邪訶根神社鎮守の社の入口には白い神明鳥居。奥には駐車場もあるので、車でも安心。ただ鳥居前の道は一方通行なので参拝時は注意です。鳥居のそばの石柱には”總産土阿邪訶根神社”とありますね。字の通りこの神社は郡山の総鎮守とされています。手水舎は使用できない?のかどうか不明ですが、季節を感じる(参拝時は秋)雅な雰囲気です。参道を進むと少し開けた所に着き、その中央に御神木が立っています。幹は太く、枝葉は方々に盛んに伸び、力強さが感じられます。鎮守の御神木にふさわしい立派な大樹でした。境内には幾つか石碑が置かれています。その内こちらには梵字が刻まれており、神仏混淆時代に置かれたものなんではないでしょうか。説明書きです。福島県指定重要有形文化財石造法華曼荼羅供養塔昭和28年10月1日指定この供養塔は、高さ275cm、幅133cm、厚さ31cmで、安山岩質凝灰岩で造られています。頭部の形は、東北地方に一般的な山形で額があり、塔の上方に仏の姿をあらわす種子(梵字)を描いた曼荼羅と考えられていますが、風雪による摩耗などから一部が見えづらくなっています。 中心の種子は阿弥陀如来(釈迦如来との説もあり)で、そのまわりに四眷属の種子が配列され、各仏は清浄をあらわす丸い月輪で囲まれています。上の方には観音菩薩を、下の方には勢至菩薩をあらわしたと思われる種子がみえます。さらにその外側には八尊の種子が、曼荼羅の下方には供養に携わった僧の名前が上下二段に刻まれています。 左上部に治暦3年(1067年)の年号(平安時代中期)が刻まれていますが、後世に追刻されたものと考えられます。 しかし、形状等からみて、鎌倉時代前期に造られた遺品と考えられ、極めて貴重な考古資料であることに変わりはありません。郡山市教育委員会なんと遅くとも鎌倉時代の前期には既に造られていたという、かなりの古碑だったようです。製作からゆうに1000年は経っていますが、それでもなお風化せずに残っているとは驚きです。もう1つの石碑も仏教に関連したものになります。こちらは梵字ではなく、はっきりと仏尊が刻まれていました。面白いのは脇侍のポーズ、かなりへりくだっています。説明書きです。郡山市指定重要文化財石造浮彫阿弥陀三尊塔婆昭和33年5月14日指定 高さが91cm、幅62cm、厚さ16cmのこの塔婆は、俗に「福原石」と呼ばれ親しまれています。 材質は安山岩質凝灰岩です。 図柄は福島県に多く見られる表現方式で、左右に配された観音菩薩と勢至(せいし)菩薩が、中央の阿弥陀如来に向かって膝をかがめて供養しているような形をとっています。また、観音菩薩は極楽浄土に生まれ変わる者を取り上げるための蓮台を持っています。 三尊像は一部剝離している部分がありますが、周りの縁との厚さは等しく、東北地方にみられる一般的な塔婆に比べ少し薄手のようです。 塔婆の縁は厨子(三尊を安置する容器)の形を表現していると思われ、三尊像の背後には光背(こうはい)や飛雲(ひうん)は見あたりません。 制作年は不明ですが、鎌倉時代末期の作と思われます。郡山市教育委員会なにげにこちらも1つ目同様、かなりの古碑です。使われている石材も同じであり、付近に有名な石切り場があったんではないでしょうか。境内の端の方には末社の祠が置かれています。こちらでは笠間稲荷大神が祀られいます。茨城県笠間市の稲荷神社から分霊してきたものでしょう。そして拝殿です。シックな色合いがなんとも言えない、趣深い社殿です。ご由緒です。總鎮守 阿邪訶根神社御祭神:猿田毘古命、平忠通公霊、宇迦之御魂命例祭日:7月21日(大祭式典・神楽奉納)、22.23日(神輿渡御・奉幣祈祷)猿田毘古命 平安時代・康平年間(1060年頃)伊勢の国・阿邪訶より御分霊を迎え奉祀、はじめは道祖神社と申し上げ、事始めの神、教導の神として祀る平忠通公霊 平安時代・寛治3年(1089年)9月19日、源義家公の副将として前九年・後三年の役に出征された平忠通公が亡くなられると、その霊を道祖神社に合祀して社名を御霊宮に改称(境内「總産土 忠通神社碑」)。 明治2年(1869年)4月、社名を忠通神社に改称。明治22年(1889年)3月、社名を阿邪訶根神社に改称し現在に至る(旧社格:郷社)。社殿:江戸時代・寛延2年(1749年)焼失、翌3年再建、切破風造境内末社:笠間稲荷神社(宇迦之御魂命)指定文化財・石造法華曼荼羅供養塔(平安時代・1067年建立、県指定重要有形文化財)・石造浮彫阿弥陀三尊塔婆(鎌倉時代末期建立、市指定重要文化財)・境内西口の鳥居柱下部に「不」の刻印(江戸時代・文政11年(1828年)「御霊宮」の鳥居を奥州街道沿いの表参道に建立、明治9年(1876年)内務省が東京・塩釜間の水準測量(高低測量)を実施、鳥居柱の下部に几号水準点の印「不」が刻まれたもの、昭和5年(1930年)5月、西口に移設)初期は猿田彦大神を主祭神とする道祖神社でしたが、平安時代中期には前九年・後三年の役の功労者 平忠通公を合祀して御霊宮を名乗ります。それから数百年が経ち、現在の社名になったのは明治22年のこと。わりと最近です。いつ頃の勧請かは不明ですが、末社には笠間稲荷神社からの分霊が祀ってあります。日本三大稲荷の1つにも数えられる茨城県を代表する稲荷神社です。境内には前述のとおり古碑がいくつかあり、当神社の歴史の幽遠さを感じられます。拝殿の木彫装飾。波頭?や瑞雲?のような模様と共に、菊にも似た花が彫ってあり、非常に華やかです。扁額の文字は非常に力強く、”總産土”とだけ刻んでありました。斜めから。郡山を代表する鎮守の社でした。千年もの昔から、この地域の人々からうぶすな様として崇敬され、爾来郡山を見守ってきた由緒ある神社は、今でも郡山の賑やかな街の中に鎮座し続けています。木陰が涼やかな阿邪訶根神社、暑い時期にこそ涼みに行きたいところです。今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・郡山のうぶすな様 總産土 阿邪訶根神社以上です。
2025年08月31日
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神奈川県にある仏堂と寺社を草創年代順にまとめていきます。例の如く巡礼したものを載せていく、これまで書いた記事のまとめページです。その仏堂・寺社の前身が草創された年代でまとめています。草創年代は考証の有無関係なく載せていますので、史実に準拠したものではありません。あくまでも自己満足のためのリストです開創年代順:神奈川県の仏堂と寺社8世紀702年平塚市:金目山 光明寺716年伊勢原市:日向山 霊山寺 宝城坊718年伊勢原市:雨降山 石雲寺721年逗子市:海雲山 岩殿寺724年逗子市:醫王山 来迎院 神武寺725年厚木市:飯上山 長谷寺729~749年座間市:妙法山 星谷寺 八番札所:妙法山 星谷寺 座間入谷に境内を構える古刹逗子市:黄雲山 地蔵密院 延命寺葉山町:守護山 玉蔵院734年鎌倉市:大藏山 杉本寺736年鎌倉市:海光山 慈照院 長谷寺753年小田原市:飯泉山 勝福寺755年伊勢原市:雨降山 大山寺9世紀9世紀中厚木市:華厳山 遍照院 金剛寺11世紀1044年横浜市:瑞應山 蓮華院 弘明寺1088年?伊勢原市:誓正山 西迎院 涅槃寺12世紀1133~1212年鎌倉市:大異山 高徳院 清浄泉寺1188年鎌倉市:稲荷山 浄妙寺1189年以前横須賀市:金剛山 浄楽寺1189年横須賀市:金剛山 無量寺1192年横須賀市:鈴木山 長慶寺1194年横須賀市:岩戸山 満願寺横須賀市:義明山 満昌寺1200年鎌倉市:亀谷山 寿福金剛禅寺13世紀13世紀中?三浦市:金剛山 大椿寺三浦市:飯盛山 妙音寺三浦市:岩浦山 福寿寺1219年鎌倉市:普明山 法立寺 成就院1221年逗子市:青龍山 東昌寺1225年鎌倉市:祇園山 安養院 田代寺1232~1233年横須賀市:明星山 傳福寺1243年鎌倉市:天照山 蓮華院 光明寺1253年鎌倉市:巨福山 建長興國禅寺1258年?横浜市:金澤山 称名寺1259年鎌倉市:霊鷲山 感応院 極楽律寺1281年鎌倉市:金寶山 浄智寺1282年鎌倉市:瑞鹿山 円覚興聖禅寺14世紀14世紀以前横浜市:三療山 医王院 薬王寺1321年以前横浜市:諸嶽山 總持寺1332年横須賀市:海上山 円乗院1334~1335年三浦市:金田山 清傳寺1336年鎌倉市:宝亀山 長寿禅寺1345年伊勢原市:福智山 能満寺1351年横須賀市:金鳳山 景徳寺1394年以前横須賀市:大冨山 清雲寺1394年鎌倉市:扇谷山 海藏寺15世紀1436年鎌倉市:妙厳山 本覺寺1458年伊勢原市:蟠龍山 洞昌院1468年横須賀市:宝林山 正住寺16世紀1505年横須賀市:七重山 浄林寺1544年以前愛川町:満珠山 勝楽寺1550年以前横須賀市:海照山 専福寺1567年伊勢原市:冨士山 上行寺1584年横須賀市:栄久山 等覚寺1591年以前逗子市:長谷山 海宝院1596~1615年三浦市:龍徳山 光照寺17世紀17世紀以前横須賀市:延命山 東福寺1608年伊勢原市:無常山 浄発願寺1616年三浦市:紫陽山 見桃寺1671年?寒川町:霊信山 西善院1687年横須賀市:坂中山 観音寺17世紀1704年以前三浦市:白蓮山 心光寺1719年以前三浦市:円通山 蓮乗軒年代不明伊勢原市:伊勢原火伏不動堂逗子市:蓮沼山 観藏院葉山町:軍見山 海宝寺三浦市:城谷山 音岸寺三浦市:立光山 海應寺三浦市:網代山 海蔵寺三浦市:仏光山 観音寺(大畑観音堂)三浦市:菊名山 法昌寺三浦市:海東山 三樹院横須賀市:普門山 慈眼院横須賀市:楽浦山 能永寺以上です。
2025年12月06日
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朝早くから上田と佐久の神社仏閣を巡った後、別所温泉で休憩。心身は休まりましたが、帰るにはエネルギーが足りません。なにか食事ができる所はないかと、フラフラ走っていると、偶然見つけた中華料理の看板、引き寄せられるように店内へと駆け込みます。ラーメンフロンティア かもめまずは名前がよろしい。未開の土地を切り開くかの如き冒険心が感じられます。そして海をたゆたうカモメの如く、僕も店へと飛び込みました。土日は昼飯を抜くことが多いので、その分夜はしっかり目に食べます。腹を満たし、無事山梨へと帰りたいのです。2025.12.07中華丼かまぼこやきくらげ、エビ、卵や諸々の野菜を、濃厚な鳥出汁で炒め、全てのうま味を餡で閉じこめました。これが白米にドカッと乗っているんですから、こたえられません・・・。空腹の状態でこんなものを見せられては、我慢できるはずが無いでしょう。蓮華を持つ手が止まらず、口いっぱいに米とうま味を詰め込みます。喉つまりしそうになるのを、中華スープで飲み干し、ひとつため息。これほどの幸せがあるでしょうか、いや無い!豚角煮ラーメン次に運ばれて来たのが豚角煮ラーメン。シンプルな鳥出汁しょうゆラーメン、北国では珍しいストレート麺の上に、こちらも分厚い角煮が3つもころがっておりました。・・・なんていうかその、食べづらくはあるんですが、肉の塊をかじるというのは、心の中の獣を呼び起こすようで不思議な心地良さがありました。スープを飲み麺をすする、そして塊肉をかじる。これを繰り返すともう、満足感で胸がはちきれそうです。2人前をペロリと平らげ、体は重くなりましたが、財布は大分軽くなりました。財布に比例して心も軽く、気持ちいいままで甲州街道を上っていきました。以上です。
2025年12月14日
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東北に住んでいるとあまり聞きなじみのない名前の神社ですが、常陸国(茨城県)稲敷に鎮座する大杉神社は、全国に600社近い分霊社を持つ大杉神社の総本社です。茨城県と言えば内陸に食い込む形で広がる霞ケ浦が有名です。霞ケ浦は様々な水産資源をもたらし、今日の茨城県の発展の基礎を作ってきたと言っても過言では無い重要な内海です。そんな霞ケ浦の南岸で”あんば様”として古来より親しまれてきたのが今回紹介する大杉神社なんです。大杉神社香取神宮参拝後に利根川の土手道を牛久方面にひた走ります。ほどなくして右折し、利根川を越えて霞ヶ関方面へ。だんだんと道路が狭くなり、町の中を走っているとこれまた荘厳な鳥居が見えてきました。鳥居が見えたところで右折し、駐車場へ停車。さっきの鳥居の前に戻ります。町中に何気ない顔で鎮座していますが、端々の装飾が華やかすぎて異彩を放っています。鳥居脇の両天狗に睨まれながら鳥居をくぐり境内へ。二の鳥居はすんごいカラフルです。他では見ないカラーリング!燈籠の数も半端じゃないです。そのまま進むと本堂が、右に行くと末社群が置かれています。燈籠の後ろにはひっそりと大黒天が居わします。境内には七福神が祀られており、この像もその一つです。今回の記事を書いているときに気付きましたが、恵比寿さんを撮り忘れています。どこにあったんでしょうか?気づかなかったよ・・・。二の鳥居の横辺りに小さな社殿があります。扁額には”悪縁切堂”と書かれていますね。悪縁切りの作法はどのようなものなのかというと、”われおもふ きみのこころははなれつる われもおもはじ きみもおもはじ”という言を心中で三度唱え、土器(かわらけ)を叩き割るという風に行うようです。境内の所定の場所で割るか、自宅で割った破片を神社に言伝とともに送るという二つの方法があるみたいですよ。説明書きです。旧護摩堂 文化元年(1804年)完成。 桁行二間、梁間四間の寄棟萱葺風銅板葺建物。寛政10年(1798年)に焼失した社殿に代わって現社殿の完成まで仮社殿として使用された建造物。奥二間が当初本殿部、手前二間が祈祷殿(幣殿)として使用されていたとみられる。当初は茅葺屋根であったがその後瓦葺に改められた。 平成23年(2011年)に発生した東日本大震災により屋根瓦の落下被害が甚大であったため、当初の形状に近似する萱葺風銅板葺の屋根に改められた。 当初は社殿東側に並び立っていたとみられるが、その後数度に及ぶ移築を経て現在地に移された。これは現在の表参道に建てられた山門です。これとは別に昔の表参道の山門が有るんですが、道路を跨いでいるため、安全に配慮してか現在はくぐることは出来ません。こちらの門の非常にしっかりとした装飾がなされています。門をくぐると手水があります。双龍の手水は初めて見ましたよこちらが旧表参道の山門です。ここが”茨城の日光東照宮”や”元日光”と呼ばれる所以となった建造部でしょう。あまりにも豪華すぎて、初めて見た時は理解が追いつきませんでした道路側から見た山門表側。仁王像の代わりに両天狗が安置されています。この写真を見ながら一体何杯のお酒を飲んだことでしょう・・・最高の思い出です装飾もこの通り。近くで見ると尚凄いですよね!?日光東照宮に負けず劣らず、素晴らしい山門です。説明書きです・・・が、ほぼ全く未知の領域の中国故事の内容である為省略します。この分野の理解が深まった頃に見返すかもしれません。神社仏閣の木彫装飾としてはよく用いられる分野なので、見識を深めたいところではありますが・・・。山門横には神輿社があります。奥には鐘楼も見えますね。山門から拝殿の方を見ると北斗七星の形に足型が置かれています。いろいろ調べてみましたが、これは古代中国(夏王朝とあるので中国史の中でも原初に近い部分か)の聖天子”禹”の歩き方を模した禹歩というものだと思います。ここら辺はさっぱり知らない分野です。知らないけども、足型があると踏みたくなるもの・・・この通り進んでみます。するとあら不思議、脳内は小学校の時にやったケンケンパのことでいっぱいです拝殿です。もう言う事ないですね、素晴らしいの一言に尽きます。拝殿の装飾です。疲れ目には少々辛いカラーリングw斜めから見てみても、その美しさは留まることを知りません。説明書きです。社殿 本殿・幣殿・拝殿を繋ぐ複合社殿。 規模は県内最大規模で本殿は奥行二間、梁間三間。幣殿は奥行三間、梁間三間。拝殿は奥行三間、梁間五間。 本殿は三手先組の折衷様。側面及び背面に浜縁を廻らす。妻部は二重虹梁で中備を四霊(龍・鳳凰・麒麟・亀)彫刻が飾る他、多種多様な彫刻が施されている。 幣殿は鳴き龍の鏡天井となっている。拝殿向拝部の繋ぎ虹梁は龍の丸彫り彫刻となっている。西側の龍尾に(「信秀」磯部儀左衛門信秀)の銘が確認される。現在の社殿は寛政10年(1798年)、享和2年(1802年)の相次ぐ火災による焼失後に再建がなされたもので、文化13年(1816年)に遷座が行われた。棟梁は栃木県大平町下皆川の多兵衛。彫刻師は栃木県栃木市富田の磯部儀左衛門信秀一門。天井画および障壁画は磯部一門の五楽院法橋等随の手になる。本殿、幣殿に廻る瑞垣欄間彫刻は二十四孝題材のうち剡子・紅革・仲由を除く23話23面、および本殿腰組中備彫刻7面の彫刻は嶋村円鉄(円哲)作になる正徳社殿からの転用材。平成18年(2006年)完成当初の姿に復元。ただし本殿腰組中備の復元彩色は*暦時のそれに従った。また屋根は建立当初杉皮葺きであったが、文政5年(1808年)銅瓦棒葺きに改められた。平成18年これらに従い復元修復が完成。続けて説明書きです。天海大僧正と大杉神社 慈眼大師あるいは南公坊とも呼ばれ、徳川家康・秀忠・家光の三代の将軍の参謀を務め、風水師としても知られた天海大僧正に奇跡の瑞雨をもたらしたのが大杉大神さま。関東一円を襲った大干ばつの年に、当時随風と名乗っていた天海が霞ケ浦に小舟を浮かべ、東方にあった龍神(大杉大神)を勧請して見事に雨を降らすという奇跡を起こした。以来随風は江戸で将軍の参謀を務め、家康は特に彼を重用し臨終の際にも彼を立ち合わせた。また家光は随風のために天皇から勅許を得て東叡山 寛永寺(上野寛永寺)を建立。神恩を賜った大杉神社のある安穏寺の住職となり、以降明治を迎えるまで大杉神社の別当であった安穏寺は東叡山 寛永寺、日光山 輪王寺の住職である輪王寺宮が住職を兼帯する特別な存在となった。 風水師であった天海大僧正は大杉神社を江戸の鬼門守護社と定めたため関東各地から参詣の人々が絶えることがなかった。 天海、輪王寺との関係から東叡山 寛永寺に在った家光の廟である大猶院が日光山へ移される際に、廟前にあった徳川本家奉納「大杉大明神宝前」の刻印の下から、消し潰された「大猶院宝前」の文字を確認することができる。 ちなみに天海大僧正は明智光秀とともに本能寺の変より先に稲敷市江戸崎の不動院に身を隠した織田信長であったと伝えられている。天海大僧正は寛政20年(1643年)に入寂。一般にはこのとき数え年108歳であったといわれる。信長は天文3年(1534年)に生を受けているので、仮に信長が天海であったとすると満109歳・数え110歳であったことになり、他の明智光秀説などと比べると信憑性が高い。ついでに御由緒も見てみましょう。大杉神社の歴史海上に浮かぶ大杉神社 稲敷市阿波の大杉神社は、全国に670社ほどある大杉神社の総本宮です。大杉神社の鎮座する場所は、『常陸風土記』に「安婆嶋」として登場します。霞ヶ浦、利根川下流域、牛久沼、印旛沼、手賀沼、小貝川下流域などを内包する常総内海(常総内湾)に突き出すような半島地形だったことから、古代においてこの地は内海に浮かぶ島のように思われておりました。 律令体制以前この一帯は、菟上之国(うなかみのくに)という霞ヶ浦東岸域(稲敷、行方、鹿島南部)と東総域(香取、海上、匝瑳)を治めていた国の一部と伝えられております。菟上之国は菟上国、海上国とも表記され、常総内海の交易、産物を中心として成立した小国で、ここに暮らす多くの人々は漁撈と農耕の両方を生活基盤としておりました。他にも、製塩や玉造(勾玉を中心とする信仰対象の装飾品の製作)も盛んで、当時の大切な交易物資であったと伝えられております。海河の守護神あんばさま 当時、菟上之国は広大な常総内海を支配域としておりました。その内海の航路標識の役割をはたしたのが、大杉神社の巨大な杉です。この地が「あんば」と呼ばれていたことから、巨杉に鎮座する神様は「あんばさま」と呼ばれました。この巨杉は常総内海の人々の信仰の対象として、また海で生活する人々の交通標識として役割を発揮していたと考えられます。後に舟運交通守護の神様として利根川水系、太平洋沿岸の舟運業に携わる多くの方々にも信仰され、交通安全の神様として篤い信仰を受けていました。 律令体制期に、菟上之国が内海の西にあった茨城国の一部に組み入れられるまで、大杉神社は菟上国造を祀るもっとも重要な神社でした。その後菟上之国の海上支配、交易権は、南下してきた仲国の一族が築いた鹿嶋、香取の両神社に移譲しましたが、一般民衆の間では依然として、海河守護の神様としての大杉神社の信仰は温存されつづけられました。※御神木かつて「あんばさま」と呼ばれていた「太郎杉」は、1778年に消失しました。現在の御神木は、樹齢およそ1000年・樹高40mの大杉「次郎杉」と、樹高28mの「三郎杉」です。あんばさま 総本宮 大杉神社 / 大杉神社の歴史 より抜粋実際に境内を廻ってみましたが、次郎杉の時点で大分大きく、太郎杉はいったいどれほどの大きさだったのか非常に気になります。日光の瀧尾神社、鹿島の鹿島神宮しかり、古代の信仰であればあるほど巨木を御神体として祀っている神社が多い気がしますねぇ。なにかそうする理由があるんでしょうか。本殿もこの通りきらびやかです。東照宮の様な赤さが特徴的ですね。拝殿の左手側には神楽殿と末社が置かれています。その内これは神楽殿。堂内には四神が置かれていました。説明書きです。これ以外の説明書きは、ページ最下部にあります。”醤油醸造と大杉神社”、”あんば囃子”についてのものです。神楽殿 毎年節分当夜に十二座神楽が行われる。本来庭上に四神幡を立て注連縄を張り巡らせて神楽場とした名残りの四神台石が境内に据えられている。 神楽殿は正徳社殿群以降幾多の火災に遭い焼失。天保13年(1842年)に再建された神楽殿も老朽化に伴い傾斜が著しかったため平成10年(1998年)に再建。元和元年(1615年)創業成功祈祷に訪れたヒゲタ醤油の創業者であった田中玄蕃がのちにこの十二座神楽を東総地域に拡めた。 演目は猿田彦命・素戔嗚命・住吉明神・八幡大神・手力男命・天鈿女命・三宝荒神・恵比須・鈿女・榊葉・田の神・稲荷大神の十二座。これに扇舞・鈴舞の巫女舞が付属する。神楽殿の天井にはこの通り極彩色の鳥が描かれています。これには神楽殿横の布袋尊もニッコリ!次に神楽殿脇の末社群です。鳥居には大国神社と書かれていますが、これ含め合計5社の末社が置かれています。各祠の前にはひさしが取り付けられ、熱い日差しが降り注ぐ時も、雨が強い日でも参拝しやすくなっています。末社は右から・・・・天満宮:菅原道真公・四柱神社:天之御中主神、高御産巣日神・神産巣日神、天照大御神、神直日神・大直日神・白山神社:菊理媛命・五十瀬神社:天照大御神・大国神社:大国主神、事代主神となっていて、それぞれ祠の造りが異なります。是非見比べて見てください。末社群斜めから。本殿の脇には三本杉の内、三郎杉が立っています。鳥居や注連縄で飾られ、御神木感たっぷりです。三郎杉の直ぐ近くには毘沙門天が睨みをきかせていました。毘沙門天の左隣は別当寺だった龍華山 慈尊院 安隠寺が置かれていますが、別記事で紹介したいと思います。基礎部分の壁には彩色画が描かれています。寺院を取り囲むように三面に描かれています。その内一つは天台宗総本山:比叡山 延暦寺を描いたものです。彩色画からすぐのところに葦船神社が置かれています。この社は蛭子命と大国主神を祭神とする社であり、更に水子供養の社でもあります。水子供養 大杉神社に葦船神社が再興 古来、数え7歳までの子どもは神の子とされ、7歳になる前にこの世から旅立っていった子は神のもとへ帰ったとして葬式をせず水子として祭られることが多かった。 大杉神社の鎮座する一帯でも、そうした子たちすべて水子として丁重に祭った。かつて常陸内湾(江戸時代初頭まで広がっていた利根川か流域、印旛、手賀、牛久沼流域、霞ヶ浦域)に面していた大杉神社には、水子供養のためこうした地域から多くの人々が参詣に訪れていた。数え7歳にいたらずにこの世を去ってしまった子らを祭ったのが、「葦船社(あしふねしゃ)」あるいは「蛭子社(ひるこしゃ)」と称された神社。 我が国で、水子の原型とされているのが蛭子命(ヒルコノミコト)と称される神様で、別名エビス大神。あの世へ葦の船に乗せたれて旅立った後、父・伊弉諾命(イザナギノモコト)と母・伊弉冉命(イザナキノミコト)のために富を宝船に乗せて帰ってくるという伝説があり、恵比寿像は必ずと言っていいほど宝船に乗り小脇に鯛を抱える図で描かれている。こうした伝承もあり、水子を祭ることは一家の繁栄と安泰をもたらすとして、江戸時代には多くの地域から大杉神社境内の葦船社に参詣したことも知られている。 大杉神社では、廃絶に近い形だった葦船社を「葦船神社」として再興、間もなく完成の時を迎える。御祭神は、水子を守護する蛭子命と冥界を守護する大国主命。実際の愛情を注いであげられなかった子を想う、水子を持つ多くの人の思いを取り入れた社殿になっている。慰霊のための落ち着いた雰囲気の中にも贅を尽くした作りを―社殿外部は黒に銀で模様が描かれ、内部は天井に様々な花が描かれ華やかな趣がある。あんばさま 総本宮 大杉神社 / 大杉神社に葦船神社が再興 より抜粋社の前には福禄寿と寿老人が置かれていました。葦船神社から少々歩くと、駐車場の奥の方に三本杉の一つ”次郎杉”が見えてきます。三本揃った姿を見て見たかったです・・・。次郎杉から拝殿方面へ。こちらにも末社群があり、扁額には合計7つの神社名が載っていますね。参道の途中には謎の祠が・・・。どうせだから稲荷から参拝することに。鳥居をくぐっていきます。稲荷神社です。何と言いますか・・・たくさん稼げるようになれそうです。祭神は保食神。ほんとすんごいですよね、装飾!お次は勝馬神社。競馬ファンの参拝が絶えないそうですよ。その名の通り馬を守護する目的で置かれた神社の様です。面白いことに、祭神は不明。上・下野国からもそれなりに近いため、もしかしたら上・下毛野一族が信仰していたとされる駒形大神を祀ったものかもしれないと妄想しています。祠の中には猿に引かれた勇壮な馬像が収められています。古来より神猿は馬の守護神とされていたとか・・・それに因んでいるんでしょうか。説明書きです。勝馬神社御祭神:不詳 もと馬櫪社と称し、貞観4年(862年)信太馬牧に祀られた馬体守護の古社。鎌倉時代ごろ大杉神社境内に遷座された。 4月8日は大杉神社の春の大祭で別名駒牽祭と呼ばれている。境内山奥に馬場(現駐車場)があり競馬が開催された。 旧来は馬場を見渡す地に石祠として鎮座。農耕馬の消滅とともに石祠の存在すら多くの人々から忘れ去られていた。平成14年篤志家の手によって現在の地に遷座、社殿を建立。JRA美浦トレーニングセンターが近いこともあり、馬主・騎手・調教師といった競馬関係者はもとより、競馬ファンの参拝も多い。本堂もありますよ!末社の中でも特に崇敬が篤そうです。つぎは摂社になるでしょうか、捄総社です。大杉神社・あんば様とも関係の深い菟上之国の国人を祀った神社のようですよ。計4つの神社が合祀されています。説明書きです。捄総社捄総社とは日祀社・鵜神社・梶鳥社・神護社の総称。・日祀社御祭神:日女大神 ウナカミの王の祀る太陽の神様。・鵜神社御祭神:鵜神大神 歴代のウナカミの王と、これに連なる菟上国造の御霊。・梶鳥社御祭神:鳥船大神 ウナカミの王のもと海上交通と交易を守護する神様。・神護社御祭神:鵜神大神の末裔、日奉部直神護命 菟上(海上)国造となった神護命が祖先を祭祀した神社。日祀社・鵜神社・梶鳥社を再建した功により祀られた。古代常陸の歴史に深く関わる内容で非常に面白いです説明書きを見る限り、日祀社では今の日本神話とは別系統の太陽神が祀られているということなんでしょうか?天照皇大神の別名はオオヒルメであり、ヒルメ部分が共通しています。系統が異なったとしても、太陽神=女神という共通認識があったということなんでしょうか。これ以上考えると寝れなくなりそうなので、ここらへんで切り上げます。最後は相生神社です。ここは何と生殖器崇拝の社で、祭神は伊弉諾大神と伊弉冉大神の二柱なんですが、御神体はどちらも生殖器型の石碑です。おびただしい数の木札が掛けられているのが見えるでしょうか、これは願いの数を表しています。相当に崇敬の篤い社だと分かりますね説明書きです。相生神社御祭神:伊弉諾大神、伊弉冉大神 男女和合の神社で、子授け(子宝)の神社として知られている。 男根石に願い紐を懸けて月参りする。子供が授かったら女陰石に叶い紐を懸け、お礼参りの祈祷を受ける。御神体をよく見てみます。もはや形が分からないほどに札でおおわれてしまっています。大杉神社の末社は面白いものばかりでした・・・!神社を去る時、駐車場の入り口に弁財天を見つけました。明日からの筑波周辺の散策が楽しめればいいなと思いながら、友人の運転する車内から眺めていました。実際すごく楽しめたのですが、筑波山に登りたいという思いも強くなってしまい・・・。これは登りにいくしかないようです。いつになるか分かりませんが、絶対に。今回貰った御朱印です。大杉神社の御朱印末社:勝馬神社の御朱印摂社:捄総社の御朱印これら以外にも摂社・末社の御朱印がいくつもありました。以上です。公式サイトへのリンクあんばさま 総本宮 大杉神社wikipediaへのリンクwikipedia / 大杉神社補足情報コーナー神楽殿の近くに説明書きがいくつも有るんですが、醤油並みに内容が濃すぎて進行に支障をきたしそうだったので、ここに載せたいと思います。醤油醸造と大杉神社 一般に関東での醤油醸造は元和2年(1616年)の千葉県銚子市での田中玄蕃による醸造が早いとされる。玄蕃は後のヒゲタ醤油の創業者であるが、千葉県野田市で天文年間に飯田市郎兵衛によってすでに醸造が手掛けられていたという。 しかし飯田市郎兵衛は茨城県稲敷市上君山出身で野田に移住したとされている。市郎兵衛の出身は上君山の飯田藤右衛門家ですでに天文年間(1532~1555年)に土岐原氏に納める醤油を醸造しており、天正2年(1574年)に家業としたといわれている。関東醤油醸造の初期の創業者は藤右衛門家に創業の折には挨拶に赴くのを慣例としていたとみられ、その折に藤右衛門家が信仰していた大杉神社での祈祷を受けることも恒例化していたとされる。田中玄蕃もそうした中の一人であり、高梨兵左衛門(キッコウマン)、国分勘兵衛(大国屋、のちの国分)などが代表例である。 醸造家とともに廻船問屋や諸々の商いをする商人たちが多く大杉神社を参詣するようになった。盛時には神社周辺に20軒ほどの参詣宿が軒を連ね、参詣人の多さは「蟻のあんば詣で」と称された。また参詣人の増大と信仰の隆盛は豪奢な社殿群の建設を可能にし「あんば日光」の異名をもって称されるほか「あんば参れば日光みることなし」と称されるほどであった。※1. 大杉神社鎮座地の地名「阿波」は「あんば」と称されてきた。旧村合併の際「阿波村」となり村名は「あば」大字名は「あんば」であったが後に混同されることが多くなり、現在は「あば」と発音されている。大杉大神さまの鎮座地が「あんば」であったことから、大杉大神さまを「あんばさま」「あんば」と一般には称していた。あんば囃子 これまで元和元年(1617年)にヒゲタ醤油の創業者田中玄蕃によって上方からもたらされたとされたと言われていたあんば囃子は、すでに天正年間(1573~1592年)に境内で踊られており、初源は天文年間(1532~1555年)に遡る。 その後下火となったものの享保10年(1725年)隣村須賀津の若衆が大杉神社内の幣束を持ち出し、悪魔祓え囃子を奏し踊ったことに端を発し、翌享保11年(1726年)には水戸市および千葉県市原市に及ぶ広域に流布。さらに享保12年(1727年)永代寺境内で出開帳が行われた。この際悪魔祓え囃子と称していたあんば囃子が大流行となった。江戸市中を席巻した囃子は、市中の混乱を招くとするほどに盛況であったため江戸町奉行大岡越前守忠助により禁令を受けるほどであった。 その後も各地に伝播、佐原囃子・潮来囃子・成田祇園囃子など関東近郊の多くの囃子の源流となった。
2025年01月20日
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八戸市の新井田川沿いに岩淵という地域があり、そこに美女かん子の伝説が残されています。今回紹介する稲荷神社は、美女かん子を鎮めるために当地に建立されたものと言われているようです。2025.3.29かんこ稲荷神社満面の水を湛えた新井田川、もう少し進めば鮫町に突き当り、太平洋に注ぎます。いつの頃の話か、この新井田川に生きたまま沈められたかん子という美しい女がいたそうです。岩淵に住んでいたかん子は、沢山の男たちから求婚されますが、既に心に決めていた男がおり、全てはねのけていました。それに逆上した男たちがかん子を擦巻にし、新井田川に投じて殺してしまったのです。それからは夜な夜な火の玉が出るように・・・それは丁度八戸セメントのある辺りだと言います。かん子の怨念を鎮めるために、新井田川沿いに稲荷神社を建て、側に石柱を置いたとか。今その稲荷神社は”かんこ稲荷神社”と呼ばれています。とっちぱれ。かんこ稲荷神社の参道はかなり見つけずらいです。別雷神社(岩淵観音堂)と、(おそらく)八戸セメントおかかえの稲荷神社との間に、ひっそりと置かれています。※八戸セメントおかかえの稲荷神社には、一般の方は立ち入りできませんので、間違って入らないように注意しましょう。茂みの側に石畳が敷かれており、ここから参拝出来そうです。かんこ稲荷神社です。社殿は半壊状態で、あまり管理されていないようです。社殿の脇には石柱が建っています。もはや表面の文字は摩耗して判読できませんが、これが恐らくかん子を供養した塔だと思われます。社殿内陣には、まだ神棚が残っています。中には金属製の幣と稲荷の置物が収められていました。社殿を後ろから見てみます。本当に倒壊寸前、参るなら今の内です。ちなみに今立っている辺りに2基の墓が置かれています。片方は岩藤家の奥津城(神道式墓)、もう片方は岩淵家のものです。岩淵家のものは折れてしまっていて、痛ましい姿をしています。かん子の苗字も岩淵と伝わっていますが、これはもしや・・・。以上です。
2025年04月06日
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埼玉県の神社を旧社格ごとにまとめます。参拝したところから順々にまとめて、内容を充実させていきたいです旧社格・近代社格制度については下のwikiリンクからどうぞ!・近代社格制度参考にしているサイトリンク埼玉県神社庁埼玉県神社一覧wiki 府県社 / 埼玉県の旧県社wiki 郷社 / 埼玉県の旧郷社wiki 村社 / 埼玉県の旧村社wiki 無各社 / 埼玉県の旧無各社埼玉県の神社の旧社格官国幣社諸社県社秩父市:三峯神社 秩父市:三峯神社 山犬に 引かれていただく三峯の 遠吠えに混じる 法の御声が村社秩父市:琴平神社秩父市:竃三柱神社 / 和田神社無格社護国神社社格不明以上です。
2025年10月12日
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帰省3か所目は猿賀神社です。ちょうど桜祭りの日で、参道は車でいっぱいでした。コーヒーやいろいろな料理の出店など、すごく楽しそうでした。そんな中、食べ物の誘惑に負けずお参りしてきましたので、今回もお付き合いください。猿賀神社:水波能女神祭りの日以外は駐車場も利用できます。猿賀神社裏にも駐車場がありますので車でも安心。蓮の花が有名な神社ですが、今回は桜を拝むことができました。桜の時期にお参りするのはなんだかんだで初めて。良い日になりました。まずは一の鳥居です。道路を走っていると急にデカい鳥居が見えてきます。こちらは白いですね。参道を進むと二の鳥居が見えてきます。見えにくいですが額には奥州津軽の霊地とあります。赤鳥居ですね。三の鳥居です。この手前を右に行くと駐車場があります。参道を進んでみます。緑が非常にきれいでした。心鎮まる落ち着いた場所です。右に手水と社務所があります。龍の手水に桜の枝が!春めく春めく、風情がありますね。猿賀神社も狛犬が多いです。阿の狛犬の内、真ん中のものは子護り獅子と呼ばれているそうです。阿の狛犬説明書きです。子護り獅子子を護り、向い側の獅子とともに厳しく外敵をにらみつけている珍しい親子の高麗犬(こまいぬ)です。子供の頭を撫でてあげましょう。子供を護る「お守り」が社務所にございます。高麗犬でも”こまいぬ”と読むんですね!朝鮮経由で仏教が伝わった名残りでしょうか。吽の狛犬手前の狛犬の表情が自信たっぷりでお気に入りです。拝殿です。散り際ですが桜も残っていました。すばらしい龍の木彫り装飾が!とてもよく整備されたお堂でした。賽銭箱前にはおみくじが何種類もあります。斜めから。本堂右手の池上神社です。少彦名神が祀られています。少彦名神は七福神の恵比須様、昔話の一寸法師など様々なものと同一視される不思議な神格です。星野之宣先生の”宗像教授シリーズ”では、少彦名神を南方から渡来したポリネシア系の民族?だとする話も掲載されています。常世の国に帰るのも新天地を求めての航海が神話化したものだったかもしれませんしね。もしそうした民族の移動の痕跡が、大国主の国造りの神話に残っているとすると、それこそ歴史ロマンがありますよねただ検証のしようがないとは思いますが・・・。説明書きです。猿賀神社境内社池上神社(薬師様)御祭神 少彦名神医薬治病を始め、穀物・温泉・酒造の神様として信仰されています。次は拝殿左手にある上毛野田道命の社です。最近駒形神社の由緒を調べていたのですが、現在の関東を治めていた毛野一族から分かれて北へと進んだのが上毛野一族で、彼らは自分たちが崇敬する山と似た形の山に駒形神社を勧請して回ったとありました。現在の東北に駒ヶ岳・駒形山が多いのはその痕跡らしいです。その上毛野一族の一人が上毛野田道命そのひとです。蝦夷と戦い、伊峙水門で戦死、墓を暴いた蝦夷を龍となり倒し続けたという伝説が残っています。この伊峙水門がどこなのかというのは、いくつも説があるらしく定かではありません。ここから遠いところでは千葉県説もあるようです。猿賀神社の由緒では、従者がご遺体を運んで埋めたとあるので、千葉からわざわざこんな遠いところまで埋葬に来るかね・・・と思いました。千葉ではなさそうな感じがする。真偽は定かではありませんが、そうした歴史ドラマの舞台となっているのは非常に面白いです駒形神社と上毛野一族のお話については駒形神社のサイトで詳しくご覧になれます。下のリンクからどうぞ。・陸中一宮駒形神社 / 駒形神社について拝殿から池の方に行ってみましょう。胸肩神社の鳥居が見えてきます。左右に狛犬付き。阿の狛犬吽の狛犬角なのか、帽子なのか・・・何か乗っています。胸肩神社です。左には日吉神社があります。胸肩神社です。宗像三女神の一柱市杵島姫命を祀っています。説明書きです。猿賀神社境内社胸肩神社(弁天宮)御祭神 市杵島姫命安産・交通安全・芸能・学問成就・財運・美人・水の神様として信仰されています。日吉神社です。事代主神を祀っています。説明書きです。※説明看板が倒れてよせられていたため、写真はなし。猿賀神社境内社日吉神社御祭神 事代主神商売繁盛・家内安全・海の神様。胸肩神社(弁天様)の息子とされ、両社が近くにおまつりされる例が多くあります。ではメインの水天宮(龍神)に向かいます。水の上に建つ社が、屋根で覆われています。天井には龍が二匹。自然木ですかね?社の裏で水が湧き出ていました。龍の口から吐き出されています。説明書きです。猿賀神社境内社閼伽井堂御祭神 水波能女神清れつな霊水が湧き出ていることから、水の神様・龍神様として信仰されています。では由緒です。古典(日本書紀)によれば田道命は「仁徳天皇五十五年(西暦三六七年)勅命を受けて北夷の反乱平定のため東北地方に兵を進めたが、戦利あらず、伊寺の水門で戦死なさる。後に大蛇の姿となって平定した」とある。又社伝によれば「五十六年蝦夷の毒手に敗死なされ、従者その屍を仮葬し、賊を捨て帰京す。蝦夷その墳墓をあばくに、たちまち遺体大蛇と化して毒気を吐発す。土人大いにおそれて鹿角郡猿賀野に祀って産土神となす。その後、二百年の星霜を経て、欽明天皇二十八年(五六七年)に大洪水あり。この時、田道命の神霊、白馬にまたがり漂木を舟として流れにしたがい、当地に移遷し給う、当地住民神霊を迎え奉て古木(鍋木)の洞穴に祀る」と、云われている。桓武天皇の御代に再び暴夷を平定することになり、坂上田村麻呂将軍が兵を進め苦戦となった際、田道命の霊感を受けて大勝した。よって将軍は延暦十二年(七九三年)八月二十三日現在の地に祠を祀り、その趣を天皇に奏上した処、勅命により、大同二年(八〇七年)八月十五日社殿を造営、奥州猿賀山深砂大権現として勧請し、神威天長、国家安穏、黎民豊楽、悪鬼退散を祈願した。以来猿賀の深砂宮(神蛇宮)と崇められ御神徳四方に遍く、地方唯一の霊場と仰がれるに至った。かつては国司、探題、(藤原秀衡公、北畠顕家卿、阿倍氏代々等)の崇敬篤く、藩政時代に入り藩主津軽為信公により、祈願所と定められ社殿の改修造営、また社領の寄進などしばしばであった。明治四年太政官政令にて権現号を廃して猿賀神社と改称し、明治六年郷社に列せられ、更に明治十三年県社に昇格、戦後は社格が廃せられたが、昭和三十四年神社本庁別表神社に加列せられ今日に及んでいる。崇敬者は県内は勿論、北海道並に東北一円に及び眼の守護神とする特殊信仰並びに、辰年、巳年生まれの守護神として広く崇敬されている。猿賀神社 / 由緒 より引用猿賀神社公式ホームページ http://ss701927.stars.ne.jp/index.html2024.8.21こちらからも由来を確認できます。・新編弘前市史 / 通史編3(近世2) 474ページ / 深沙宮ここでは津軽為信の祈願所に指定されてから県社に列格するまでのゴタゴタなどを知ることが出来ます。別当寺院の変遷なども面白いです。以下全文です。深沙宮 深沙宮(じんじゃぐう)(現猿賀神社、南津軽郡尾上町)は深沙大将を祀る。「天台宗縁起」(弘前市立図書館蔵)によれば、仁徳天皇の五十五年(三六七)、上毛野君田道命(かみつけぬのきみたみちのみこと)は、蝦夷によって倒され、死容は憤怒の相であったという。土地の人々が南部鹿角郡猿賀野に産土神として祀った。 大同二年(八〇七)、坂上田村麻呂が蝦夷征圧の途中、田道の霊に導かれたところから、社殿を建立し深沙宮とした。これが本地垂迹説により、玄奘(げんじょう)(三蔵法師)がインドを往復した時の守護神で憤怒の相・全身赤色・左手に青蛇の深沙大将と結びつけられ、深沙大権現となった。 永禄八年(一五六五)とも元亀二年(一五七一)ともいわれるが、別当を兼帯していた乳井毘沙門宮(現乳井神社)の福王寺玄蕃は、大光寺城主瀧本重行によって滅ぼされた。天正十四年(一五八六)、為信が参拝し祈願所としたが、翌年別当延命院を追放し、最勝院に兼帯させたという。 元和五年(一六一九)、信枚がもとの天台宗へ戻して神宮寺を別当とし、塔頭四院と神主四軒を置いた。神仏分離によって猿賀神社と改称、郷社となり、明治十三年(一八八〇)に県社となった。池の外縁から撮った胸肩神社です。今回猿賀神社にお参りして、咲き残った桜と共にいろいろな伝説・寓話も楽しめました最後に紹介した閼伽井堂の水波能女神以外にも、市杵島姫命や上毛野田道命も龍神にカウントされるのでは・・・と一人考えていました。単純に水の神が龍とされているというよりは、湧水があるところに祀られている神格が龍神と呼ばれているように感じました。久しぶり参拝し、ゆっくりすることができました。今回貰った御朱印です。過去に貰った御朱印です。以上です。
2024年05月01日
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去年の六月に参拝した時の写真をまとめて記事にしました。このお寺は、青森市から城ヶ倉大橋を通って黒石に抜けた地点にあり、非常に緑がきれいなところです。境内にはカフェもあり、ざるそばを頂きましたが絶品でした黒石方面に遊びに行く際にはぜひお立ち寄りください!2024.5.15津軽八十八霊場三十一番札所:黒森山 浄仙寺こけし館から青森方面に向かい、ローソンのある十字路を過ぎ、次の次くらいの十字路を左に曲がり、長い山道を更に進みます。道幅が狭く、すれ違いが難しいので気をつけて・・・。着きました、黒森山浄仙寺です。門前に広い駐車場があるので、車でも安心。何というか・・・、表現しきれない美しさと言いますか、とにかく緑が映えています。山門も萱葺で、まるで明治や江戸の頃にタイムスリップしたような感覚を味わえますね山門の茅葺屋根には苔が生し、草が伸び、何百年もそこにあるかのように感じます。中には立派な阿吽仁王像が安置され、害意から寺を守っています。説明書きです。浄仙寺仁王像所在地 黒石市大字南中野字黒森下84-3指定月日 昭和59年10月12日沿革元治2年(1865年)、弘前市乳井・福王寺(現乳井神社)山門に同村の工藤丹十郎が寄進。明治初年の「廃仏毀釈」で奉納者へ返却後、当寺へ安置。津軽の神仏分離の実態を物語る貴重な像。意義浄土である寺院の境内を守護し、山門に祀られてきた。向かって右が阿形の「蜜迹金剛力士」、左が吽形の「那羅延金剛力士」で一対。浄泉寺由緒文政7年(1824年)、是空行者が庵を結ぶ。明治8年(1875年)、寺号・浄仙寺となる。昭和63年10月 黒石市教育委員会御堂です。御堂隣接の左の建物は何の施設何でしょうかね?昔学校をやっていたような話が有ったので、その時の建物でしょうか。御堂の裏にある池です。時期が合えば蓮や菖蒲の花が咲いてきれいなんじゃないですかね(あやふや)。池の隣の道を進めば、いろいろな石碑や地蔵堂の方に行けます。うーん、良い!階段の石が不揃いなのが更に良い!自然と調和している、そんな感じです。階段を上り切った先が地蔵堂で、その右側を更に進めます。三十三観音の石像が立ち並び、少し進んだところに小さな祠が有りました。今となっては何の祠だったか忘れてしまいましたが、自然岩の上に鎮座する様は、古い信仰の姿を見ているかのようで最高です。個人的には馬頭観音が好きなんです。観音様には珍しい憤怒相。これも観音様のひとつの御姿なれば。インドの方では、象頭の吉祥天のように馬頭の姿で表わされるものもあるそうです。日本でその姿を象った仏像が有るんでしょうか?もし有るなら見てみたいなぁ養蠶塔とあります。下の方には弘前***との表記も。なにか養蚕にまつわる石碑なんですかね。役目を終えたお蚕達を弔ったとか。石碑や観音像は緑と調和し、すごく良い雰囲気です。三十三観音を見たあとは境内の茶屋で一休み・・・なんてのもオツですよね津軽八十八霊場の中でも印象的な札所でした!では黒石観光協会のサイトに掲載されている御由緒も載せますので・・・。黒森山 浄仙寺浄土宗 紫雲山金臺院来迎寺末寺開山:是空行者本尊:阿弥陀三尊浄仙寺の歴史 浄仙寺は、文政7年(1824年)是空行者が開山(黒石来迎寺良諦の弟子)。寺宝、本尊、阿弥陀如来立像(恵心僧都作と伝えられる)。 是空は中野不動尊境内の洞窟にて断食修行中『これより北の方清泉の湧き出たるところにて修行されよ』との霊告により、黒森山中に至り、清泉(現在本堂脇にある)を見付け、終世陰遁修行の地と定め、後に浄仙庵と号し、明治8年(1875年)浄仙寺となる。 二世寂導行者は、文政8年(1825年)13才にして是空の弟子となり、専ら浄教を修し、師を助けて当寺の開拓整備に尽力され又学僧としても誉れ高く、92才にて入滅した。幼少よりよく仏像を彫刻し、一刀彫数千躰に及び、博く信者に施され、遠くは北海道・秋田までも分布されたといわれる。 四世明空は、明治3年(1870年)教師補を拝命し、寺小屋「黒森学校」運営に専念し、津軽一円より学を志すもの多数ここに学ぶ。政治、経済、有名人多数を輩出している。 明治40年(1907年)明空本堂を新築。昭和19年(1944年)火災により本堂、庫裡全焼し、昭和41年(1966年)本堂を再建し現在に至る。一般社団法人黒石観光協会 / 黒森山浄仙寺 より抜粋開山の是空行者の人生は、黒石市のサイトにて楽しく学ぶことができます。興味のある方は↓のリンクからどうぞ!この記事の最後にも、記事を引用して載せています。・黒石市 / 黒石人物伝 / 是空行者と寂道行者御詠歌くろたにと くろもりとなはかわれども おなじこころの すみぞめのそで本尊:阿弥陀如来 अमिताभ以前貰った御朱印です。山門の仁王像がもともと置かれていた乳井神社の記事が出来ましたので、興味があったらどうぞ!・弘前市:乳井神社 元毘沙門天宮の古社以上です。次の記事・三十二番札所:法隆山 長寿院 地蔵堂 猫突き不動の伝説残る寺院付録:開山 是空行者の人生について是空行者是空行者と寂導行者について是空行者と寂導行者 どうしたものか銀蔵少年は、僧侶のまねをすることがたくみであった。山形町で鍛冶屋を営んでいた父、山崎九兵衛は大弱りであった。よりによって、僧侶のまねごとをするので、いくらやめるよう注意しても効き目はなかった。 九兵衛としては家業に関心をもたず、こりもせず僧侶の仕草を演ずるので、心おだやかでなかった。反面、僧侶の所作を子供ながら、こまかく観察していることに、内心、舌をまいていた。 銀蔵少年は、成長するにつれ出家の気持ちが強くなり、1823年(文政6年)5月、25歳の時、両親が涙ながらにいさめるにもかかわらず、自ら髪をそり菩提寺である黒石町来迎寺住職 良諦和尚(りょうたいおしょう)に入門し、蓮光是空(れんこうぜくう)と名乗った。 生来、仏心のあつかった是空は、一心不乱に念仏修行にはげみ、その頃は、病弱気味の体も、嘘のように健康をとりもどしていた。仏僧として陰ひなたのない一途な修行は、良諦和尚の眼を驚かすに充分なものがあった。 しかし、来迎寺は檀家(だんか)が多いため、参詣する人々や、法事のとりしきり等雑務が多く、是空にとっては必ずしも満足する世界でなかった。 それで是空は、さらに悟りの境地を求め、山形村中野の不動尊の洞穴で、少量の水と山ぶどうの葉を噛みつつ断食を行った。2週間をすぎた満願の夜明け、夢枕に仏があらわれ、「お前は、この地の北の山中に安住の地を定めるが良い。」とお告げがあった。 霊夢をみた是空は、心静かに仏道につかえる地を求め、1824年(文政7年)2月、残雪の多い山中に一夜野宿し、霊地を求め歩いた。黒森山の中腹にたどり着いたら、そこはなだらかで清水も湧き、裏山は雑木林で覆われ、人里とも離れ、時折、木こりが姿をあらわすだけの閑静なところで、それこそ是空の理想郷にみえた。 そこに永住することを決めた是空は、さっそく寺に帰り、良諦和尚に黒森山に隠遁し、修行したいと胸のうちを語った。その当時は、みだりに寺を創建することは許されなかったが、黒石藩側の特別なはからいにより、黒石の上ノ坂(現在の神明宮付近)の廃庵状態にあった、浄仙庵の“再興”という名目で、その年の3月、黒森山への開山が許された。 こうして自分の骨を埋めようとする、ついのすみかを得た是空は、念仏三昧(ねんぶつざんまい)に明け暮れることができ、信仰は日ましに豊かなものになっていた。 しかし、山中での生活は大変きびしいものがあった。小鍋1つ、少量の粟、敷物を1.2枚もって山に登り、まず、身をいれるだけの草庵を結び、あらむしろを敷きその上に寝起きし、ひねもす念仏を唱えた。そのかたわら、残雪まばらな山野から、草の根を掘ったり、手に入れた山菜などを水煮して露命(ろめい)をつないでいた。食料が乏しく寒気のため是空の身体は目にみえて衰弱していった。 噂を聞いた身内の者が、堅雪を歩いて、米、塩を持って来たが、是空は米断ち、塩断ちを守るため、がんとして受けつけず、身内の者たちも、是空の身の上を案じつつも、しおしおと山からおりねばならなかった。 このことを木こりから聞いたふもと黒森村の一老婆は、粟餅をつくり、是空にすすめたが、女人の供養は受けないと是空はこれを拒否した。老婆は「命あってこその信心ではありませんか。」と譲らず、是空も老女の心根に打たれ、粟餅を口にしたといわれる。 これといった仏具を揃えていなかった是空は、響きのよい板を木魚がわりに用い、棒切れで叩きながら、なり振りかまわず、無心に念仏修行に明け暮れていた。 是空の噂を聞いた弘前土手町の町人、三浦某の妻は、かねて黒森山の参詣をしたいと思っていたが、家業が忙しく、参詣のかなわないままに病の床にふしてしまった。臨終の際、家の者に「夢の中で黒森山に参詣したところ、小さな庵に行者が1人いた。見れば、やせ細り、黒ずんだ顔の左眼が少し悪いようだが、一生懸命、板を叩いて念仏を唱えていました。不思議に思って辺りをみても、鉦も木魚もなかった。だから私が死んだら必ず鉦を寄進して下さい。これが私の一生のお願いでございます。」と言い遺して亡くなった。 家中の者が、半ば疑いながらも、忌中もあけぬうち、鉦をたずさえて浄仙庵に来てみると、臨終の際の言葉と寸分違わず、是空は板を鳴らして念仏をしていたのでことのほか驚いたという。弟子寂導とのめぐりあい 1825年(文政8年)年春、板留村の農夫、丹羽九兵衛の三男寂導は、13歳のおり、母と一緒に黒森山に参詣に来たが、突然、ここで出家をしたいと言い出し、家へ帰ろうとしなかった。その場はなだめてようやく家に帰したが、幾日もなく、少年は是空を再び訪れた。やや小柄で利発そうな表情をしている。是空は修行の並々ならぬ苦しさを説き聞かせ、いったん家に帰した。すると、また翌日、少年は姿を見せた。親に相談もなく、出家得度したいので勝手に家から出たのだという。 こんなことをくり返しているうちに、両親も寂導少年のてこでも動かない意志に根負けし、三男を連れ、わずかばかりの什器(じゅうき)、仏具、穀物などをもたせて、正式に是空に入門を嘆願した。このようないきさつから、しばらく考えぬいた挙句、是空は寂導少年を門弟として預かることにした。 寂導の母は、我が子が入門したことを見届けると、その夜から身をきよめ、3週間にわたって、中野村の不動尊の祠に、寂導が立派な僧に成長するよう願をかけた。不動尊の境内は、樹齢数百年と伝えられる杉の木が立ち並び昼でも薄暗いほどであるが、夜ともなれば木立ちのざわめき、鳥とも獣ともつかぬあやしい鳴声、滝の流れ落ちる音や、川の響きが、こだまし、すさまじい気配をかもしだし、男でもめったに近寄りがたいところである。この寂導の母の子を思う真心に、まわりの者、みな心打たれ賞賛したと伝えられる。 寂導が入門するとしばらくの間、板留の生家の丹羽家では、稗(ひえ)や粟、世帯道具をおくるなど生活の手助けをしたといわれる。 当時、黒森山一帯は家畜のための採草地であった。4月ともなれば、待ちかねたように若草がもえだし、庵の裏山の樹々が、黄みどりも鮮やかに芽を吹き出す。そのなかで27歳の青年僧 是空と、髪をおとしたばかりの、まだあどけなさの残る13歳の少年僧寂導の修行生活が始められた。 2人は邪魔な石を動かし、水を引き、木を倒し、土地をならし畑を耕し、大豆・粟・麦等を栽培し、裏庭には栗・くるみを植えた。信仰のかたわら、寺づくりのための師弟の努力がくり返されたが、寂導は悲鳴をあげるどころか、喜々として、是空に従い、是空を驚かせた。 2人の山地での修行が方々に広まるにつれ、近くの黒森村、大川原村、中野村の人々の奉仕や寄進も多くなり、境内もそれらしく形が整ってきた。明治の初め頃「浄仙寺」という寺号も許され、2人のきびしい行と、高い学識が津軽一円に知られるにつれ、他宗派の心ない僧たちが、さまざまな教義上の難問をふきかけ、是空をやりこめようと来山した。これに対し是空は「拙僧は、痴れ者で、ただ念仏をとなえるしか、術を知りません」と意に介さず超然としていたので、その風格に圧倒され、山を訪れる者、ことごとく心服して帰らなかった者はないといわれる。 是空は比叡山の西塔、黒谷の聖人と仰がれた浄土宗の開祖、法然上人を誰よりも崇拝しており、是空のこのような態度は、法然の最晩年の言葉「只一かうに念仏すべし」(一枚起請文)を、そのまま地でいったものであった。 是空は浄仙寺開基以来、1876年(明治9年)5月、78歳で入滅するまでの50年あまり、ただの一度も黒森山を下りることはなかった。1832年(天保3年)、35歳で父九兵衛を病で失ったときも、一人悲しみをこらえ、粗末な庵で父の追悼供養を行ったといわれる。 寂導は師 是空の妥協のない信仰、高い学殖に心底から敬服していたので、その純粋な信仰生活を、少しのためらいもなく踏襲した。魚肉はもちろん、米断ち、塩断ちをし、雑穀を日々のかてとして、一筋に、仏の戒めを守り修行にいそしんだ。 寂導はまた、彫刻に天賦の才能を発揮し、信者や、村人にこわれるままに小刀で仏像を彫って与えた。 のちに寂導の一刀彫りといわれた木像で、その数はおびただしい本数にのぼった。素朴だが気品にとむ作品が多く、素材としては、桐・楓などが好んで使われている。製作中は、絶え間なく念仏を口ずさみ、そばに人がいることも、食事を忘れることもたびたびであった。木こりや猟師が立ち寄ると、お堂の前に腰をかけ、仏の道をわかりやすく説き聞かせ、荒くれ男たちが神妙な面もちで、かしこまっている風景がよく見られた。 2人の評判が高まり、近くの村々から教えをこう青少年がふえ、これら子弟の教育も、課題の1つであった。一時期は塾生が100人を超え、年齢の幅も、上は30歳から下は10歳未満という年齢差があり、よその寺子屋には見られないにぎやかさがあった。漢字を覚えさせるため、机の脚のつけ根に浅い箱をつけ、灰を入れ、塾生に指で字を書かせ、書き取り能力の向上をはかった。 勉強の苦手な塾生を選んで、よく温湯村の商店に買物をさせた。塾生たちは夏だと、山麓を流れる小川堰の清流にひたり、衣類と買物かごを頭上にゆわえ、水にたわむれながら、温湯村の入口の堤沢にたどり着くのが常であった。 二人は普通の人々にできない潔癖な生活を送っていたが、このように教え子には、自由闊達に接したので、その学風を慕い、津軽一円から生徒が集った。「黒森山浄仙寺」と山号・寺号が許された頃は、地蔵堂・不動堂・仁王門も完成し、池も掘られ、庭園も仕上がり、寺院としての輪郭もほぼできあがっていた。1872年(明治5年)8月、学制発布にともない、黒森学校もこれまでと異なり、近代的学校として存続するには、役場で法律的手続き等が必要となった。それで黒森山から下山しない誓願をたてた寂導は、手続きなどを浪岡村から入門している三世寂静にまかせ、隠居の身分となって子弟の教育に当たった。 1885年(明治18年)3月、黒森山の南の麓の井戸沢村を流れる小川堰に、一枚石の橋をかけたとき、村人たちのたっての願いで、寂導は橋の渡りぞめにのぞんだ。この小川堰は黒森山の賽の河原に接した一角であった。そのあと先、親兄弟がなくなっても、黙々として行にはげんだ。1904年(明治37年)1月、92歳で入寂するまで、師の蓮光是空とおなじく、ひたむきに信仰に身をゆだね、まれにみる清らかな一生をつらぬいた。 晩年のある日、黒森山の頂上にのぼり、足元にひろがる景色を眺めていると、いずくともなく紫の雲が、すうっと流れてきた。思わず寂導がその雲に乗ろうと、身をのり出したら、雲がさっと流れ去った。寂導は、そのまま雲に身をまかせ、西方浄土に行こうとしたのかも知れない。ひたすら信仰の道を求め、自在の境地に達した老和尚の姿を垣間みる思いがする。米、塩を断ち、雑穀や、木の実、草の根を掘り食し、妻帯もせず、仏道にいそしむために生れてきたような、2人の清僧の一生は、暖衣飽食の現代の人々に、無言の警告を発しているような気がする。 是空、寂導の法名は「大蓮社良海上人是空行者」・「接蓮社良引上人寂導行者」で、これは浄土宗名越派の(旧)総本山いわき(福島県)の専称寺からおくられたもので「行者」という2字が、師弟の生きざまを簡潔に象徴しているようである。 二人の高僧は、霊地黒森山浄仙寺の一隅に、静かに眠っている。(執筆者 佐藤義弘)黒石市 / 黒石人物伝 / 是空行者と寂道行者 より引用
2024年05月16日
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長者地区の霊園として機能している長者山。大慈寺や南宗寺、祇園宮八坂神社など、多数の神社仏閣がひしめくこの山の頂上に、長者山新羅神社はあります。祇園宮八坂神社の直ぐ脇の道を進めば車でもアクセスできますが、どうせなので近くに車を停めて山中を歩いてみました。長者山新羅神社おそらくこの鳥居が表参道の鳥居です。ここを進むと右側に宮司宅、稲荷社、小祠、御神木?などがあります。階段は見た目よりも緩やかで、登りやすかったです。大山祇と宇賀母智神の小祠。山の神と穀物・畜産の神ですかね。宮司宅前の巨木。見上げるほどに大きいです。一度下って違う参道を見てみましょう。住宅地の方から神社に至るルートもありました。昔の石段の跡なのか、坂道に大きな石がゴロゴロ転がっています。ここを上り切った所にも、鳥居の台座跡が有ったので、昔はここも参道として機能していたんだと思います。長者山桜山招魂社です。救国の英霊たちが眠っています。説明書き御由緒日露の黒溝台戦闘に、中尉として、戦死者収容隊の従軍体験も持つ、柳川保蔵新羅神社元宮司は、第二次世界大戦の、特に第八師団従軍将兵の、力尽きて次々に倒れ逝く同胞の悲惨な姿をみて、この長者山上に招魂社を建立して慰霊したい、というのが予ての念願であった。昭和27年(1952年)4月に日本が独立したのを機に、南部勤皇五世公を始め、日清日露戦没、満州支那事変、第二次世界大戦の戦没者英霊3026柱を奉斎して、御遺族と愛国の有志の賛助で建立され、昭和28年(1953年)5月3日、第一回慰霊祭が盛大に斎行されて以来、毎年5月3日を祭日として慰霊祭が執り行われている。往古は、長者山を桜山と称したので、大和心を象徴する桜をとり桜山神社としたのが、この度、祭神の周知化を期し、長者山桜山招魂社と改名した。昭和62年5月3日長者山桜山招魂社 八戸市英霊にこたえる会包丁塚です。長く大事に使われてきた包丁を供養するための物なんですかね。僕も自分の包丁を大事に使い続けたい・・・。おとぎの桜だそうです。桜の木にしては結構な大きさです。春に来れば良かったよ・・・また来年見に来ます。そしてこの長者山も義経北行伝説の舞台になっています。伝説義経北行コース長者山悲劇の名将と世にうたわれた源九朗判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治5年(1189年4月)、平泉の高館において三十一歳を一期として自刃したが、短くも華麗だったその生涯を想い後世の人々は”義経はその一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た”という伝説を作りあげたのである。世にいう「判官びいき」であろう。当地方に伝えられている伝説によれば、平泉にいた義経に命令された板橋長治と喜三太が義経の居所をこしらえようと柴を回し、木を植えみだりに人が入らないようにした地と伝えられており、昔は長治山と呼ばれていたといわれている。それを今では長者山と呼んでいる。では、拝殿へ向かいましょう。参道はすごくきれいです。手水です。消毒液に置き換わっていました。拝殿です。屋根に見えるのは武田の四菱でしょうか?南部家と所縁があることが分かりますね。木の細工なども精巧で見ごたえがあります。このところ観音堂型の社ばかり見ていたので、こうした形の神社を久しぶりに見て、すごく新鮮に感じました!御祭神:素佐鳴尊・新羅三郎源義光命御由緒江戸時代、延宝6年(西暦1678年)八戸南部2代目藩主直政公が、藩主の守護と領内の五穀豊穣・万民安穏・無病息災の祈願所として長者山の山上に神社を創建、社号を三社堂または虚空蔵堂と称し、歴代藩主の崇敬最も篤い藩直轄の総鎮守である。元禄7年(1694)三社堂を改築、更に文政10年(1827)8代藩主信真公が再改築して現社殿と同時に「桜の馬場」を開設、打毬の奉納も創設され、例祭日には「加賀美流附伝騎馬打毬」を今日まで奉納されている。明治14年(1880)には、天皇御巡幸の砌、天覧の栄に浴している。また、明治14年より「えんぶり」行列である当社相殿神稲荷大神の神輿渡御式が執行されてきた。 現行の2月17日になったのは、明治42年(1908)旧暦廃止に当たり、伊勢神宮の祈念祭の奉弊日に合わせた。明治2年(1868)神社制度確立により、社号を新羅神社と改め、更に昭和51年に長者山新羅神社と改称した。長者山新羅神社 / 歴史概略 より抜粋長者山の額本堂何といっても模様が素晴らしいんです。よく見ると屋根と堂舎のつなぎの部分に紗綾形模様が施されているんです。他の装飾と相まって、非常にお洒落な本堂でした本堂の裏にはたくさんの稲荷が・・・。こちらの祠は参道が折れた枝で塞がれています。これだけ狛犬が置いてあったので、稲荷以外の何かの祠だと思うんですが・・・特定はできませんでした。斜めから。長者山新羅神社は、南部家の遠祖である甲斐武田氏の祖源義光を祀る神社でした。調べてみると源義光(新羅三郎)はなんと、源頼朝・足利尊氏などの先祖である源義家(八幡太郎)の兄弟らしく、なんて華々しい家系なんだとびっくりしました南部家の開祖である南部光行は源義光の四代後の裔らしく、そこからさらに一戸氏・八戸氏などに枝分かれしていったようです。だんだんと南部家のことが分かってきましたね!八戸南部氏にとっては大先祖を祀る、そんな神社でした今回貰った御朱印です。長者山にある他の神社仏閣については、下のリンクからどうぞ!これらの神社仏閣は山中の道でつながっていて、互いに行き来可能です。・八戸市:祇園宮八坂神社 疫病鎮消の願いを託される神社・九番札所:福聚山大慈寺観音堂 素晴らしい山門が有る観音堂・十一番札所:南宗寺横枕観音 八戸の荒武者供眠る霊山の寺以上です。
2024年05月26日
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青森市街から車で数分の所に大星神社という大きな古社があります。坂上田村麻呂が蝦夷鎮護のための祈願所として置いたのが始まりといわれており、神社の管理維持についての問題がありましたが、最近解決したようで徐々に以前の活気を取り戻しつつあるようです。代々津軽藩主からの篤い支援を受けてきたこの神社は、津軽大北斗七星という伝説の舞台となっています。公式サイトから伝説の内容を抜粋すると・・・津軽の北斗七星伝承 1. 田村麻呂は平定した津軽に七つの社を建て、そこに武器を遺棄して、あたかも田村麻呂将軍がこの地に常駐するかのごとくに見せかけることにした。2. 田村麻呂はその際、七社を北斗七星の形に配し、星の威光を借りて鬼神を封じたという。3. 明治九年頃に岸俊武の「新撰陸奥国誌」に熊野奥照神社古文書から引用された図が掲載された。それは岩木山を中心とする十二里四方の範囲に点在する七つの神社の配置図で あった。しかも、その配置が北斗七星の形をなしていた。 『歌枕謎解きの旅・荒俣博』大星神社 / 大星神社について より抜粋とあります。実際に坂上田村麻呂が青森まで来たとする記録はなく、伝説のモデルとなったのは次代の征夷大将軍:文室綿麻呂ではないかとされています。津軽大北斗七星の舞台となっているのは、北から・・・青森市:大星神社 青森市:大星神社 天中不動の星を祀る神社浪岡町:浪岡八幡宮 浪岡町:浪岡八幡宮 有力者からの崇敬篤い八幡宮平川市:猿賀神社 津軽龍神霊場:猿賀神社 奥州津軽の霊地、上毛野一族の痕跡弘前市:熊野奥照神社 弘前市:熊野奥照神社 市内最古社、鎮まる猛魂弘前市:岩木山神社 弘前市:岩木山神社 津軽一之宮と奥富士出雲神社西目屋村:鹿嶋神社(村市) 西目屋村:鹿嶋神社(村市) 目屋山中の雷神弘前市:乳井神社 弘前市:乳井神社 元毘沙門天宮の古社となっています。伝説の真偽はともかくとして、どの神社も坂上田村麻呂開創の伝承が残る古社です。移動距離は結構ですが、一日で廻れなくもない距離。伝説を追体験できる面白い霊場です以上です。
2024年06月30日
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