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さて次に向かったのは、今回の旅路で”道しるべ”となった「ベシカパイシス」(冒頭地図にある同じ直径の二つの円〈赤と青〉が重なり合った図形)において、その交点となる二つの地点(南方の「本宮山」と北方の「安宅関」)の一つである(地図では上方左側の)『安宅関』(あたかのせき/石川県小松市安宅町)であった。そこで上の画像は、海を見下ろす松林の砂丘に立つ”県の史跡”で「安宅関址」と書かれた石碑である。そして、この石碑を中心とした海浜の一帯が、「日本の歴史公園100選」にも選ばれた「安宅公園」となっている。小松市を流れる梯川の河口に位置し、日本海に面する海岸域の「安宅」は、当地を含む〔加賀〕や〔能登〕の地域と共に、古代より海を介して出雲や朝鮮半島・中国東北部と深く関わってきた。奈良時代以降に〔古代北陸道〕が整備されると「安宅」に”駅家”(うまや)が置かれ、平安時代には「安宅湊」として加賀国府の外港としての役割を担う日本海交通の要地の一つとなり、さかのぼれば縄文~弥生時代より連綿と続いてきた《陸と海の”交通の要”》だったということである。さらに江戸時代の中頃から明治にかけては〈北前船〉の寄港地としても繁栄し、風情ある街並みに「安宅」の歴史文化を色濃く残している。ちなみに、この「安宅(あたか)」という単語は「身を置くのに安全で心配のない所」との意味合いとされ、その地名の発音が「あた」や「あづみ」とも読めることから、”古代海人族”を代表する氏族の「阿多(あた)氏」や「安曇(あづみ)氏」につながる。以上のことから、ここ小松市の「安宅」とは・・・古代海人族が「身を置くのに安全で心配のない所」として拠点にしてきた《陸と海の”交通の要”》・・・という解釈が成り立つであろう。また、これまでの歴史解釈を含む類推からも、ここ「安宅関」は冒頭で解説した「ベシカパイシス」における、”北方の拠点”として相応しい場所と感じた次第である。上の画像は、公園内に掲げてあった『安宅関』の案内絵図を撮影したものだ。そもそも、この『安宅関』という「安宅(あたか)」という当地の地名に「関」が付いたのは、昔この地に”関所”が設けられた(下段で解説)ことにより通称となった模様で、日本を代表する〔古典芸能〕である〔能〕の演目「安宅」や〔歌舞伎〕の演目「勧進帳」の舞台としても、その名は知られてきた。次に上の画像は、「歌舞伎の十八番 勧進帳」の名場面を再現したとされる「富樫(右側)」「弁慶(中央)」「義経(左側)」が並ぶ三つの銅像を撮影したもので、現在の公園内におけるメインシンボルとなっていた。そこでご参考かたがた、〔歌舞伎〕の演目「勧進帳」の粗筋を下に書いておこう。… 兄の「頼朝」に追われた「義経」が『安宅関』を通る際、関守「富樫」の厳しい尋問にあい、その危機を乗り切るため「弁慶」は、偽の巻物を広げて即興で「勧進帳」を読み上げたが、さらに嫌疑をかけられると、主君である「義経」を打ち据える。その姿に感動した「富樫」が関所の通行を許可したという物語である。…ちなみに「安宅公園」の園内には、例えば”箱根の関所跡”の様な建物はない。実のところ『安宅関』とは、”箱根の関所”のような恒常的な関所ではなく、「義経」を捕まえるためだけに臨時に設けられたということだ。公園内の上の画像に映る銅像の近くには、《「安宅の関」こまつ勧進帳の里》という日本海を一望できるレストハウスがあり、地元の食材を使った食事やショッピングを楽しむことができる。また隣接する施設として《勧進帳ものがたり館》があり、勧進帳にまつわる資料や遊んで学ぶ体験コーナーがあり、大画面シアターでは歌舞伎「勧進帳」のダイジェスト映像を見ることができる。さてここで、改めて今回の旅路の”道しるべ”となった「ベシカパイシス」(上の地図の図形)に関して、今一歩踏み込んだ解説を試みておこう。今回の連載記事(1)では・・・この「ベシカパイシス」の図形に、直角に交差する二本の直線(黄色)を描いてみて、まず興味をひかれたのは「伊吹山」と「御嶽山」を結ぶ直線が、「”夏至の日の出”と”冬至の日の入”を示す約30度の軸線」を示していたことであった。・・・などと書いていた。上の文章を要約すると、上の地図に描いた「伊吹山」から「御嶽山」へ向かう直線が、「”夏至の日の出”を示す約30度の軸線」であり、つまり夏至の日の出時刻に「伊吹山」の山頂に立てば、「御嶽山」の山頂から”夏至日の御来光”を展望できるというわけだ。そして古代の「弥勒(ミロク)信仰」が盛んな時代に、”弥勒の山”とも称された「伊吹山」の山頂には、今でも「日本武尊像」とともに「弥勒像」が祀られ、古文献ではこの山が古くから〔弥勒三会の暁〕を待つ霊場であったことを書き残している。加えて『御嶽山縁起』には、「されば、蔵王権現と申すは現世にて弥勒菩薩なり、今生にて権現なり。」と、修験道および御嶽信仰の主祭神である「蔵王権現」とは「弥勒菩薩」でもあると記されている。以上のことから、「伊吹山」と「御嶽山」を結ぶ”夏至線”で結ばれた両山は、共に「ミロク(弥勒)」を象徴する二つの霊山とも言えるのだが、「伊吹山」山頂を”夏至の日の出”の展望地点とした場合には、「御嶽山」山頂より昇る朝日が、鬼門(東北)より昇る”夏至の太陽”を指標する「弥勒の山」と見立てられよう。ここで興味深いのは、この「伊吹山」と「御嶽山」を結ぶ”夏至線”を強く意識して活躍された御方こそ、当連載の(6)で取り上げた修験僧の「円空」だったのではないかということである。まさしく二つの霊山を結ぶ”夏至線”の〔中心地〕に生まれ育ち、厳しい修行を経て得度した「円空」は、岐阜県関市の「弥勒寺」を再興するために全国を行脚し、「伊吹山」に身を投じて”弥勒下生”を希ったと伝えられていることから、自ずと”弥勒下生”の方位に存在する「御嶽山」のことも強く意識していたことが考えられるというわけだ。しかし、まさかこの最後の項で「円空」にまつわる足跡を、改めて取り上げることになろうとは思わなかった。これもやはり、今回の旅路の”道しるべ”となった図形「ベシカパイシス」との響き合いにより、必然的な〔締め括り〕の指図をいただいたということであろう。思い返せば・・・今回の”列島中央部”への旅路とは、日本列島に地上天国たる”ミロク(弥勒)の世”が到来する転換期(今年の夏至の頃)において、その大いなる”ひびき”を体感すべく縁の深い聖地を巡ってきたのであろう・・・と、当日記を書いてきた只今に感じたところである。(了)※「伊吹山」登拝の関連記事・・・「秋」の旅日記(29)※「御嶽山」登拝の関連記事・・・「秋」の旅日記(15)…木曽の御嶽山(二)末尾画像は、旅路の最後に訪れた『東尋坊』(福井県三国町)で、日本海に沈む夕日を撮影したもの。
2024年08月09日
能登半島の付け根にあった「桜町縄文遺跡」を経て次に向かったのは、能登半島は東北端にある山伏山(標高172m)の山頂部に鎮座する「須須神社 奥宮」(石川県珠洲市狼煙町)であった。半島の東北端へ向かう車道は、まず途中までは敷設された高速道路を走った。道中では地震の影響により各所で工事をしていたが、何とか終点まで走り抜けることができた。また、高速を降りて珠洲市内を走っていると、数多くの家の屋根に青いビニールシートが被せられ、半壊状態など痛々しい住居の多さに驚き、年初に起きた〔能登半島地震〕から約半年が経過した当日(6月27日)でも、震災の生々しい現実を突き付けられたのであった。目的地の「須須神社 奥宮」へ近づけば近づくほどに、年始の震災により今まさに瓦解しつつある家屋を散見するようになり、その厳しい現実を目の当たりにしつつ潜り抜けるようにして当社の入口に到着したのは、午後4時頃であった。そこで上の画像は、「式内 須須神社 奥宮」と記された立派な石標と共に、当社への上り階段を撮影したものである。この新調された階段等は、昨年5月に同地域で起きた地震の後に修復されたものと思われる。階段を上り最初の鳥居を潜ってしばらく歩くと、上の画像のような壊れたままの石造の鳥居が現れた。目の前に現れた惨状に少したじろぎつつも、美しき陽光に誘われるようにして先を急いだ。標高172mの低山とはいえ、社殿の鎮座する山頂までの約20分は、なかなか険しい道程であった。そうして辿り着いた「須須神社 奥宮」の、傾きかけた”拝殿”を撮影した画像が上である。そして上の画像は、当社”拝殿”の斜め右側から、参拝当時の現状がわかるよう撮影したものである。次に上の画像は、”拝殿”の左側から上がらせていただき、正面の上座方面に向けて撮影したものだ。”拝殿”の裏に鎮座する”本殿”へ向かって祈念する〔祭祀の場〕は、このように・・・・・・であった。そして先ほどの”拝殿”の裏手にあって、少し高台に鎮座する「須須神社 奥宮」の”本殿”を撮影した画像が上である。当社”奥宮(本殿)”の主祭神は「美保須須見(ミホススミ)命」。以下は、当社の〈由緒〉である。……崇神天皇の御代の創建と伝え、古来より鈴ヶ嶽奧神社と号し、また、鈴奧大明神と称えられ山伏山(標高172メートル)の頂上に鎮座し、海上からの景観は山容優美にして、鈴を逆さにしたような神奈美の霊山で、北海航行の目標、漁だめの森、御神体山として崇拝され、平安中期には海上警戒の設備を置き、峰火が一度あがると郡家、国府そして京の都へ伝達されたと云われている。明治12年現在の社号に改称。平安時代の昔から修験者の往来をみるようになって、かつての嶽山、珠洲ヶ嶽が山伏山と呼ばれるに至ったのである。……思い返せば、六月中旬の〈出雲行脚〉にて参拝した「美保神社」では、”出雲国風土記”における当社主祭神の「御穂須々美(ミホススミ)命」への”思い”で一色となっていた。おそらく、その”思い”が高じたかたちで、同じ祭神名の「ミホススミ」を祀る「須須神社 奥宮」への初めての参拝が実現したのであろう。※関連記事・・・「出雲大社」の創建にまつわる伝承より(下)上の画像は、当社”本殿”の震災で壊れた門扉に近づいて撮影したものである。その門扉の”鍵”(画像中央部)が外れ、”扉が開いたまま”にしてある風情を見て、思わず浮かんだ想いがあった。語弊があるとは思いつつ、それを言葉に託すとすれば・・・この期に及んで『封印』が解けた・・・ということである。この『封印』に関する所見は、ここでは書かないことにしたので、その”内容”については読者の感性に委ねることにしたい。”本殿”の背後には山頂があり、その山頂より”本殿”の背面を撮影したものが上の画像である。ちなみに”拝殿”は、”本殿”の右側前方に並んで見える配置となっている。目の前にある”本殿”の黒い屋根瓦が新しく見えるのは、昨年五月の震災後に葺き替えたからであろう。今回の「須須神社 奥宮」への初参拝が、例えばこの”本殿”を撮影した上の画像のように、燦燦と輝く陽光に照らされ導かれたかたちで実現したことは、この記事を書きつつ今更のように実感するところだ。そこで下の末尾画像に映る自作の造形《立体七角形》は、今年正月の〔能登半島地震〕が発生する直前の、当日の朝に公開した《 渦巻く【 光 】 》を示唆する作品である。※関連記事・・・新年 「開けまして」 おめでとう!この立体の中央部が”少し開いた形状”となっている《立体七角形》は、『安定的維持』を大前提とした「創造的破壊」あるいは「破壊的創造」の構造性を秘めた《開放系》の端緒となる造形である。(つづく)
2024年08月07日
列島各地に存在する”磐座群”の要たる『金山巨石群』を経て次に向かったのは、能登半島の付け根にあって縄文時代の多くの遺物が発見された「桜町遺跡」(富山県小矢部市桜町)であった。(冒頭地図の下方中央部)この「桜町遺跡」を訪れたのは今回で二度目となる。初回が2000年だったので、およそ四半世紀ぶりの再訪となるが、その初回訪問の際に仮設展示場で見た主要文化財や、それらの解説を聞いた時の感動が忘れられず、再び訪れることにした次第。そして訪れたのは、富山県小谷部市内の「桜町遺跡」の近くで「小谷部ふるさと歴史館」の館内にある”桜町遺跡出土品展示室”であった。そこで上の画像は、展示室の冒頭に掲げてあった当遺跡の解説文である。そこで上の画像の数々は、当遺跡で出土した縄文土器の数々を撮影したものである。その土器類一つ一つの洗練された素敵な意匠に心身は躍動し、また癒された一時でもあった。上の画像に映る解説にあるように、当遺跡の出土品のなかで特徴的なのは、大量に出土した木製品の中でも”建築部材”である。そこで以下に掲載した二枚の画像は、当遺跡で出土した”建築部材”の数例だ。実は、自身が初回の訪問時に最も驚いたのが、「桜町遺跡」で出土した多量の建築部材の中に、今から約4000年前となる縄文時代の「高床建物」の”建築部材”が数多く発見されたことである。それによって、弥生時代のものを最古としていた定説よりも約2,000年も古い縄文時代に、すでに「高床建物」があったことが証明されたということだ。上の画像は、上記の多量に出土した「高床建物」の建築部材を参考にした見取り図(二例)を撮影したものだ。そこで下のリンク記事に掲載の冒頭画像は、「桜町遺跡」から出土した木柱等を参考に復元した今から約4000年前の縄文時代(縄文中期末頃)の「高床建物(通柱式)」を撮影(2000年6月/小谷部市)したものである。※関連記事・・・縄文の高床式建物こんな立派な「高床建物」が縄文時代に建造されていたなんて…まさに”常識がくつがえる”とは、このことを言うのであろう。さて、当遺跡への再訪で強く興味を引かれたのは、大量に出土した木製品のなかでも『Y字材』と呼ばれる用途不明とされた大型加工材であった。そこで上の画像は、その『Y字材』の解説を撮影したものだ。そして上に並べた二枚の画像は、出土した二本の『Y字材』を別々に撮影したものだ。また上の解説にあるように、その二本の『Y字材』が出土した状況を当時の発掘現場で撮影したものが下の画像である。実はこの『Y字材』の現物を、当館の展示室で初めて間近に見た私は・・・「これは〈木股神〉の”木股”につながるはずだ・・・という直感があった。つまり〈木股神〉の神名である”木股”が、私には『Y字材』の形状である”木の股”(二股の木)に観えたのである。・・・ということで、ここからは用途不明とされた縄文中期の木製品である『Y字材』と、日本古来の〈木股神〉にまつわる風習等を関連づけるかたちで、この『Y字材』の用途の解明に迫ってみたい。ここで上記の〈木股神(きのまたのかみ)〉とは、下にリンクした関連記事の下段に記した「御井神社」の由緒に《八上姫は出産のために掘った井戸の水を産湯に使い、産まれた御子を”木の俣”に預けて帰郷した》とあるように、その御子は当社の主祭神として〈木股神〉と名付けられたということであった。また”二股の木”を〔神の依り代〕となる「神木」と解し、八上姫が産んだ御子を”木の股”に挟んだことを、「神の降臨」を迎える実際の儀礼に基づいた行為と捉える説がある。加えて、”幹が分かれて二股になった樹木”を豊穣や多産・生育の神木として神聖視する風習が、日本の「子安信仰」に見いだされることも指摘されており、〈木俣神〉をそうした”豊穣の樹木神”と捉える説もある。※関連記事・・・山陰地方の「白兎」伝説と現地探訪(下)ところで『古事記』では、〈木俣神〉・〈御井神〉という二つの神名は、”異名同神”とされている。そこで〈木俣神〉という”樹木の神”が、なぜ〈御井神〉という”井泉の神”としての別名を持つのかについては、太古より湧泉が多く山の端の森林の中にあったことや、樹木が地下水を吸い上げて成長することの関連性に由来する等の説があるとのことだ。上に掲げた画像は、上のリンク記事にも掲載した出雲市に鎮座する「御井神社」の近くにある「三つの井戸」の内の一つを撮影したものだ。日本古来の風習であった〈木俣神〉の依り代たる”聖なる樹木”と〈御井神〉の依り代たる”聖なる井泉”の、その見事に和合した佇まいを、この画像に垣間見る思いである。・・・と、ここまで記述してきて、おそらく「御井神社」に現存する”三つの井戸”に触発されたのか、自身の脳裏に浮かんできたのは豊前国一之宮「宇佐神宮」の境内に存在する「御霊水」であった。その「御霊水」の湧く神域を撮影したものが上の画像では左側、そして右側の画像は鳥居の内側で撮影した蓋付きの”三つの井戸”である。さらに下の画像は、もう十回は足を運んでいる「宇佐神宮」の神体山である「御許山」の九合目に、おそらく太古より存在する「御霊水」の佇まいを撮影したものだ。そこで下の画像の左側は山頂部の「御霊水」の湧く神域、そして右側の画像は三つの鉢状の窪みから湧く霊水(三鉢の香水)の風情を撮影したものだ。ここまで記すことで、なぜ「宇佐神宮」の御神紋が「左三つ巴」なのかが、判然としてきたのであった。そして、この上下の画像や上掲の「御井神社」の井戸を撮影した画像を見ていると、不思議なことに用途不明とされてきた”二本の『Y字材』”の用途が分かった気がしてきたのであった。それを、この上下に掲載した画像から私なりに洞察すると、おそらく井戸(御井)の出入口に建てられた”鳥居”や”門戸”の役割を担うものだったということになる。つまり『Y字材』の二本を”鳥居”のように立て、二股に開いた上部に残る二つの抉られた窪みは、二本の『Y字材』を繋ぐ屋根のような木製品を支えるものだったのではあるまいか・・・。そこで思い出したのは、当館内の展示室で説明員から聞いた話であった。それは、『Y字材』と共に多くの建築部材が出土した場所の近くには、今でも”良質の井泉”がこんこんと湧いており、地元の人も重宝しているとのことである。(つづく)
2024年08月06日
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