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北九州のおいしいロールケーキのキャラクター、「くるる」です。誕生日は6月6日、ロールケーキの日。大きなロールケーキの頭に、つぶらな瞳、チャームポイントはおでこにくるりと下がった巻髪とお腹のまきまき。お腹が減ると、お腹のまきまきがグルグル回るとか?趣味はロールケーキの食べ比べです。
2011.01.31
北九州港開港120周年記念事業のPRキャラクター、「スナQ」です。1977年11月15日(北九州港開港日)に生まれました。
2011.01.30
山中家屋敷跡文政9年(1826年)の絵図に「山中加左衛門」の名前が書かれていました。以降、ここは現代まで山中家の屋敷地でした。平成8年までは屋敷も残されていました。屋敷跡には、建物の礎石や縁石、庭石などが残されていました。建物の間取りや庭園のデザインに江戸時代の特徴が見られます。 山中家屋敷跡(現地案内板より) 鶴屋城(佐伯城)の麓にあたるこの地区は、江戸時代には佐伯藩の上級武士の住む屋敷が建ち並んでおり、今でも当時の景観が残されています。 山中家屋敷跡はその一角に位置します。平成22年に、残されていた建物の礎石などを活かして広場として整備しました。 平成22年3月 平成21年の発掘調査で、江戸時代後半から明治にかけての陶磁器や金属製品、ガラス製品などの日常生活品が出土しました。
2011.01.27
山際史跡広場所在地:大分県佐伯市城下東町779番地開園時間:8:30~17:00閉園日:毎週月曜日(但し月曜が休日の場合は、翌日)・年末年始(12/29~1/3)山際通り山際通りは、江戸時代に佐伯藩の上級武士屋敷が建ち並んでいたところです。今でも当時の景観が残されています。山際史跡広場は、その一角に位置しています。建物の礎石や縁石、庭石などを活かして整備された広場です。ベンチがありますので、城下町の散策途中の休憩にぴったりです。
2011.01.27
佐伯の城下町にて 波付き亀巴蓋佐伯の城下町を散策中、亀巴蓋をあちこちでみかけました。亀巴蓋は飾りだけではなく、火災などから守る、お守りの意味もあるそうです。この亀さんは、首も尾も長いですね。いい波に乗っていますね。
2011.01.26
佐伯の城下町にて城下町を散策していると、屋根の上に大きな鬼瓦が睨みを効かしていました。ちょっと出っ歯気味の鬼さんですね。こちらの鬼瓦の鬼さんの方が顔が厳ついですね。
2011.01.25
佐伯の城下町にて菊の巴蓋が上がっていました。巴蓋(ともえふた)とか留蓋(とめふた)とも呼ばれています。従来は、屋根の四方の重なり部分からの雨漏りを防ぐために置かれたものだそうです。お椀を伏せたような瓦が多いのですが、獅子、菊、ボタン、波、恵比須さん、大黒さん、亀、鶴など装飾性が高い巴蓋もあちこちで見かけます。「巴蓋」と変換したいのに「巴豚」と出てきてしまいました。ぬ
2011.01.25
佐伯の城下町にて 佐伯の城下町には、趣があるお屋敷がたくさんあります。 佐伯市史には、「佐伯の城下町には、文化7年(1810年)の人口調査によると、219戸、1,004人と藩士339戸、1,762人を加えた約2,700余りの人々が生活していた。また、文政9年(1826年)の商家の数は 129軒であった。」と書かれています。 江戸時代の人口調査って、どのようにして行われていたのでしょうね?現代のようにインターネットも電話もパソコンもないから大変な作業だったでしょうね。
2011.01.24
佐伯の城下町にて赤いポストが城下町にぴったりですね。 今日、会社の給湯室のガス湯沸かし器が壊れてしまいました。すっごくガス臭くなって、お湯もでなくなってびっくり急いでメンテナンスさんを呼びました。「修理するから1週間位使用禁止です。」え~、なんてことを!お茶わんや布巾を洗うのが大変。手が冷たくてちぎれそうです。困ったものです
2011.01.24
安井(あんせい)の井戸城下町の町並みに、古い井戸がありました。昭和初期まで生活用水として使われていたそうです。このまま保存されているのが素晴らしいですね。 安井の井戸 (佐伯市指定文化財)(以下現地案内板より) この井戸は藩井今泉元甫(げんぽ)が飲用水に苦しむ城下町の人々のために私財を投じて掘った。三つの井戸(今泉元甫の三義井(さんぎせい))、安井(あんせい)・?泉(あせん)・甘泉(かんせん)の一つである。 寒い日が続きますね。インフルエンザも流行っているとか。お体にはくれぐれも気をつけてくださいね。
2011.01.23
佐伯藩三泉の一 ?泉 の平成塔佐伯市藩の城下町は元々は干潟だった為、飲料水に困っていたそうです。当時の藩医・今泉元甫が私財を投じて井戸を掘ったそうです。?泉と安井と甘泉の三つの井戸は、「今泉元甫の三義井」と呼ばれています。これらの井戸は昭和初期まで、生活用水として使われていたそうです。佐伯藩三泉の一 安井戸 の平成塔
2011.01.23
佐伯の城下町佐伯の城下町は、白壁土塀が続く、趣がある町並みです。国木田独歩によって、小説の中に描かれいる佐伯の城下町。国木田独歩の小説の一節を諳んじながら、佐伯の城下町をのんびりと散策しました。城下町佐伯の昔と今明治4年頃の佐伯藩時代屋敷図 城山の文学 (現地案内板より) 城跡には国木田独歩文学碑がある。 国木田独歩の「春の鳥の一節」 頂上には城跡が残っています。高い石垣に蔦葛(つたかずら)がからみついて、それが真紅に染まっている塩梅など得も言われぬ趣でした。昔は天守閣の建っていたところが平地になって、何時しか姫小松疎らに生いたち、夏草が隙間なく茂り見るからに昔を偲ばす哀れな様となっています。 私は草を敷いて身を構えた数百年の斧の入れた事のない鬱たる深林の上を見越しに、近郊の田園を望んで楽しんだことも幾度であるか解りませんほどでした。
2011.01.22
城山周辺案内図鶴屋城の沿革 (現地案内板より)慶長11年(1606年)築城・竣工元和3年(1617年)二の丸失火炎上寛永14年(1637年)三の丸築城明治2年(1869年)版籍奉還廃城鶴屋城(山城)鳥瞰図豊後佐伯城 別名・鶴谷城 鶴屋城の規模 (現地案内板より) 御城直高(三の丸より):60間(約110m) 御城台地形・長さ:80間(約160m) 御城台地形・幅:13間~20間 御天守台石垣:7間半×8間半 御城地形総廻り:333間余(1055m) 御城山廻り:27町30間(3km) 三の丸より山城まで:390間(527m) 鶴屋城の建物 天守閣:三層 二十櫓:五か所 櫓門:四か所 平櫓:一か所 冠水門:八か所明治時代に城を壊してしまったのは、本当にもったいなかったですね。日本中にどれだけの立派なお城があったかと思うと残念です。奇跡的に残っているお城が、これからも保存され続けますように。
2011.01.21
佐伯文庫跡大分県佐伯市大手町 三の丸公園内佐伯文庫は、八代藩主高標(たかすえ)が創設しました。和漢洋書八幡巻を二棟の書庫に納め、書物奉行所を置いて管理させました。十代高翰(たかなか)は約二万巻を幕府に献上しました。佐伯文庫の蔵書には「御禁書」十数冊も含まれていたそうです。図書館が大好きな私にとっては、身近に充実した図書館があるととっても嬉しいです。江戸時代に既にこのような文庫があったのは、佐伯の文化や教育の質の高さを感じます。すばらしいですね。図書館って夢と希望がいっぱい詰まっている気がします。 佐伯文庫 (以下現地案内板より)〇佐伯藩八代藩主毛利高標は学問を奨励し、安永6年(1777年)城内に藩校「四教堂」を創立、天明元年(1781年)三の丸に「佐伯文庫」を創設し、書物奉行を任命した。〇高標の収集した蔵書は八万巻にもおよび、大部分は中国(宗・元・明・清)の本であり、分野は儒教の四書五教をはじめ歴史書・詩文・仏典・医学書・数学書・天文・生物学と多岐にわたる。またオランダ語やフランス語で書かれた植物書や医学書・世界地図など西洋の本も含まれていた。〇文政7年(1824年)十代高翰のとき二万巻余りが幕府に献本され、現在は、宮内庁書陵部・国立公文書館・内閣文庫・国立国会図書館に保管されている。佐伯に残された書物は明治以降に散逸し、毛利家から寄贈された二千九百余冊が佐伯市に保管されている。 平成18年4月吉日 四教堂塾建立 気が付くと昨夜(1/19)、300,000アクセスを超えていました。いつも御来訪くださる皆様、ほんとうにありがとうございます。細々とですが、これまでブログを続けることができたのは、本当に皆様のお蔭です。感謝しています。これからも九州の情報を写真満載で紹介していきたいと思っています。どうぞ今後もよろしくお願いします。
2011.01.20
野村先生像昭和35年1月再建大分県佐伯市大手町 三の丸公園内 野村越三 (1884.6~1925.4.29) 佐伯市山際出身 佐伯小学校の教師だった野村越三は、大変優秀で人柄も素晴らしいのみならず、スポーツの重要性を認識し、スポーツ教育指導にも力を注ぎ、スポーツ振興にも力を注いだ方です。当時、佐伯小学校は優秀校として文部省から表彰されるほどの実績をあげています。文武両道、人間性も素晴らしい野村先生は、生徒にも父兄にも教師にも尊敬されていました。 すばらしい先生、師との出会いは、人生をも大きく変えてくれます。佐伯市の方々に今でも尊敬し続けられている野村先生は、本当に素晴らしい方だったのでしょうね。そして、その恩義を忘れず、語り続けている佐伯市の方も素敵だと思います。
2011.01.20
村上勇先生の銅像大分県佐伯市大手町の三の丸公園にて 村上勇(むらかみいさむ)1902.4.7~1991.1.28 佐伯市出身(旧・南海部郡大入島村) 元自由民主党衆議院議員、第三次鳩山内閣で郵政大臣、第二次岸内閣改造内閣で建設大臣、三木内閣でも郵政大臣を務めました。 初期の村上派には、稲村左近四郎(石川県羽咋市出身)、大野明(岐阜県出身・出生地は東京都)、神田博(新潟県東蒲原郡阿賀町)、佐藤文生(大分県別府市出身)、田村元(三重県松阪市出身)、徳安実蔵(鳥取県出身)、原田憲(大阪市出身)、福田篤泰(東京都出身)、三原朝雄(福岡県遠賀郡遠賀町)がいました。 1983年に引退し、衛藤征士郎(大分県玖珠郡玖珠町出身)が地盤を引き継ぎました。
2011.01.19
矢野龍渓顕彰碑佐伯市大手町 三の丸公園にて 龍渓 矢野文雄について (1850年~1931年) (以下現地説明板より) 嘉永3年山手区に生まれる。佐伯藩校四教堂に学び、常に成績抜群であった。上京して慶応義塾に入学、福澤諭吉の薫陶を受け、大隈重信の知遇を得て国会開設に力を注いだ。郵便報知新聞を主宰し、藤田茂吉(佐伯市出身)箕浦勝人、犬養毅、尾崎行雄など三田派の気鋭を集め政府系新聞 東京日日に対し自由民権の論陣を張った病中口述した政治小説「経国美談」は当時の政治的自由を求める全国の青年に愛読され多大の影響を与えた他に浮城物語、新社会等の著書がある。 後年大阪毎日新聞副社長となり社の発展に尽力した。鶴谷中学への国木田独歩招聘は龍渓の依頼を受けた徳富蘇峰の人選によるものである。碑文の詩は佐伯中学開校に帰郷の際、佐伯湾を望み尺間彦岳を仰いで佐伯の風土を歌ったものである。結成十五周年記念事業 佐伯ライオンズクラブ 昭和50年10月26日(以上現地説明板より)矢野龍渓は、明治16年に古代ギリシャ史に材を得た「経国美談 」を発表しました。大評判になった「経国美談」によって得た収入を資として翌年、フランスを経てロンドンに外遊しました。明治・大正・昭和には歴史に残る政治家がたくさんいらっしゃいます。彼らから学ぶことは大変多いです。平成の政治家・・・歴史に残るような方はいらっしゃるでしょうか?
2011.01.19
三の丸公園のカッパさん佐伯市には「六兵衛じいさんと河童」の伝説があります。六兵衛じいさんは、河童と相撲を取って河童に勝ったそうです。その際河童の大将の腕をもぎとった六兵衛じいさんに、河童が「なんでもいうことを聞くから腕を返して」と懇願し、腕を返してあげたところ、河童が悪戯をしなくなったというような話です。ちょっとはしょりすぎでごめんなさい。佐伯の街を眺めているカッパさん日本のあちこちに河童伝説がありますが、「河童がお尻を抜く」という表現が度々使われています。お尻を抜くってどういう意味なんでしょうね?
2011.01.18
佐伯文化会館の壁面に描かれいている鶴のマークこれは、JALの鶴丸マークではありません。佐伯の文化会館に描かれている鶴です。ちょっと似ているでしょ?私、JALの鶴丸マークが大好きでした。復活と聞いて、ちょっとわくわくしています。JALも早く元気になってくれるといいな~。
2011.01.17
佐伯文化会館所在地:大分県佐伯市大手町1丁目1-1三の丸櫓門があるところです。休館日:第1・3月曜日、12/29~1/3大ホール(1,308席)、中ホール(250人)、会議室などがあります。交響楽、演劇、邦楽などを自主事業として主催し、優れた舞台芸術にふれる機会を、安い料金で市民に提供しています。また、各種文化行事や発表会、式典などが行われます。 私が高校生の時、高文連の文化祭で、この佐伯の文化会館で独唱をしました。あがりまくってカチカチになっていた私を他校の生徒がすごく優しく励ましたくれました。とってもいい思い出がある佐伯文化会館です。久しぶりに伺って懐かしかったです。
2011.01.16
鶴屋城 三の丸櫓門 大分県指定文化財この櫓門(やぐらもん)は、藩主の居館が山頂から三の丸に移った、寛永14年(1637年)に藩庁の正門として創建された。近世城郭建築の遺構として城下町佐伯の面影を伝えている。(以上現地案内板より)鶴屋城の概略 (現地案内板より)慶長6年(1601年)佐伯庄、二万石に封ぜられた。毛利高政はここを居城の地と定めてこの山頂に城を築いた。石垣師は播州の人 羽山勘右エ門、築城師は江州の市田祐定。慶長9年着工、慶長11年竣工した山城である。海抜140メートル登城にはここから四町五十三間(約533メートル)で、西の丸入口の一の門に達する。山城石垣の総長三百三十三間(約600メートル)本丸、二の丸、北出丸、西出丸にわたり、ほとんど石垣だけは昔の姿そのまま残っている。
2011.01.15
四教堂跡 (しこうどうあと) 八代藩主高標(たかすえ)は、藩の文教をすすめるため、安永6年(1777年)城内に一大学舎を新築し、これに名づけて「四教堂」(しこうどう)といった。名称の由来は「礼記」にある詩・書・礼・楽の教えとされ、また「論語」にある文(学問)・行(徳行)・忠(忠実)・信(誠心)の教えともいわれている。玄関ノ間の床には文宣王(孔子)の聖像がかかげられて、四教堂教学のよるところを明示していた。 (佐伯市史より)四教堂の教授矢野黙斎・山本七兵衛・松下筑陰(筑後久留米・広瀬淡窓の師)・吉田節右衛門・関三左衛門・佐野渉・明石秋室・中島子玉・高妻芳州・秋月橘門 (以上現地案内板より)ここは大手町 藩校四教堂・直心影流道場後 安永6年(1777年)八代高標(たかすえ)は、藩校「四教堂」を開設、隣接して直心影流稽古場開き文武両道の教育を奨励した。これより佐伯藩の学芸は興隆し、多くの人材を輩出した。(以上案内板より) 各々の藩で、文武両道の教育が行われていた時代は、優秀な人材が多数育ち、藩の繁栄にも貢献しています。現代も学ぶべきことが多いですね。もっと教育のレベルを上げて、優秀な人材を育てなければ、日本は浮上できないのかもしれません。 全体のレベルを合わせるという教育方法は、全体的な教育レベルを下げているのかもしれません。優秀な人材は国の宝です。国でも地方でも、素質・才能・やる気がある人材には特別な教育を受けるシステムが定着すれば、もっと多くの優秀な人材が育つのではないでしょうか。
2011.01.14
夢遥 Far Dreaming作者:佐脇健一所在地:大分県佐伯市 大手町公園内公園内に少女と犬の像がありました。遥か彼方をみつめ、夢が叶うようにと祈っているのでしょうか?
2011.01.13
スイング作者:佐脇健一所在地:大分県佐伯市大手町1丁目2-12 三余館敷地内おさげが可愛い、華奢な少女ですね。躍動的でリズム感がある動き、今にも走り出しそうな勢いがあります。
2011.01.12
鳥と少年作者:佐脇健一建立:1989年所在地:大分県佐伯市大手町1丁目2-12 三余館前大分県出身の彫刻家 佐脇健一の彫刻です。青空に向かって、鳥と共に飛び立とうとしている少年。のびやかで気持ちがいいですね。佐脇健一のウェブサイト
2011.01.11
恵比須神社織幡宮のすぐ隣に恵比須神社がありました。目の前は海岸です。釣り人が、釣りに行く前にお参りをしていました。鯛が釣れるといいですね~。
2011.01.10
織幡宮のすぐそばのマンホールの蓋水仙の花かな?鐘崎の海岸の近くのマンホールの蓋山か岩の後ろから可愛いお日様がにっこり、廻りを囲んでいるお花はなんでしょう?宗像市の市の花「カノコユリ」かな?
2011.01.09
筑前鐘崎海女の像織幡宮の境内に海女の像が立っていました。鐘崎の海を微笑みながら眺めています。海女発祥の地 鐘崎 (以下碑文より) ここ鐘崎は、古来風光明媚、海路の要衝として万葉の古歌に詠われ沈鐘の伝説で名高い。 先祖は鐘崎海人と呼ばれ、進取の気性に富み、航海術に秀で各方面で大活躍をした。特に潜水の技術に優れた鐘崎海女は「西日本の海女発祥の地」として有名である。 海女の出稼ぎ地であった能登・長門・壱岐・対馬には、枝村(分村)ができた。海女の使用した道具は、県の文化財に指定され保存されている。 ここに石像を建立し功績をたたえ、航海の安全と豊漁を祈る。 平成7年4月吉日 筑前鐘崎海女保存会
2011.01.08
織幡宮の巨石沈鐘と巨石 昔の人は、金埼は鐘崎でここには海の向うの国から来た釣鐘が沈んでいると語り継ぎ信じてきた。そして宗像興氏や黒田長政など、その権力にまかせてこの釣鐘を引揚げようとしたが失敗に終わった。 ところが大正8年に山本菊次郎なる人が万金を投じてこれを引揚げることに成功した。しかし姿を現わしたのは、釣鐘ではなくして、このような巨石であった。人びとはがっかりしたが、いまでも本当の釣鐘は海底に沈んでいるとの思いを捨てかねている。 このような話は、沈鐘傳説といって諸国に例があるが、ここのはそのもっとも有名なものである。 沈鐘と巨石、夢と現実、まことに面白い郷土鐘崎の物語である。 昭和49年10月 碑文 宗像県文化財専門委員 筑紫豊 (現地碑文より)鐘崎の海岸 海底には大きな沈鐘や難破船の財宝があるとか、徳川埋蔵金だとか、様々な伝説がありますが、伝説は伝説のままの方がいいのかもしれませんね。 昨年の年末ジャンボ宝くじ、1等と下一桁の1番違い。「おし~い」と思ったのも束の間、組が全く違うので前後賞も一瞬の夢でした。結局300円しか当たっていませんでした。
2011.01.05
新年あけまして おめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。皆様にとって素敵な一年になりますようにお祈りしています。私たちは、今年も夫婦仲良く元気で、楽しい旅を続けることが出来たらいいな~と思っています。
2011.01.03
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