おじん0523のヒロ散歩

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2019.05.05
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カテゴリ: 東海道53次
府中宿の駿府銀座発祥の地から安倍川を越えて、丸子宿の入口にあるJR安倍川駅へ。

3/15(金) 16:04
旧東海道(県道208号線)を丸子宿へ


16:07
駐車場の上にある「津島神社」
所在地:静岡県静岡市葵区梅屋町4-1


二階が神社で、おみくじも自動販売機でユニークなシステム


新通りの旧東海道


16:15
ここの神社も二階にある「秋葉神社」
所在地:静岡県静岡市葵区新通1-8-15


16:19
県道208号線沿いにある、「府中の一里塚」
所在地:静岡県静岡市葵区本通8-4-7


一里塚の説明板だが判読できず。
残っている一里塚は少ないと。市内長沼、本通八丁目、丸子、??、四?か所に設置
されたが、いずれも現形をとどめていない。本通りの一里塚はその位置を変え、ここ
に移動してきたものであると


県道208号線から振り返る


16:25
県道208号線から旧東海道の新通りへ戻る。
たい焼きが美味しそうだったが


16:28
旧東海道の新通りを直進して、この交差点を右折


16:29
この先の安倍川橋手前で、旧東海道の新通りと県道208号線が合流する


16:30
県道208号線の弥勒(ミロク)交差点
正面は「川根本町」方面、右は県道208号線


県道208号線の弥勒交差点で安倍川橋方向


16:31
葵区弥勒、安倍川橋近くにある弥勒緑地にある
安倍川架橋の碑


この石碑は、宮崎総五氏が社会事業のためにと、明治7年に多額の私財を投じて建設
した安倍川橋の架橋の顛末を、後世の人に伝えるために、明治41年に建てられた


由比正雪公之墓趾


夢舞台東海道道標「弥勒(MIROKU)」
道標には丸子宿 宿境まで十六里(1.8km)
府中宿 宿境まで二町(0.2km)


弥勒歩みの跡(案内図)
弥勒の町には、近世以降の歴史の中で「由比正雪墓趾碑」、昭和初めの小学校4年の
教科書に載った「安倍川の義夫の碑」、溺死や剣難者のための「慰霊碑」・・・・・
をはじめ、近世以降の弥勒を語る多くの歴史の跡が残されている


江戸時代の地誌「駿河志料」には、現在の弥勒町一帯は、古くは安倍川の河原で『正
保年間に開かれ、江戸時代のはじめ慶長年間に、弥勒院という山伏が還俗して安倍川
の河原で餅を売るようになった。この餅を”安倍川餅”という。これが「弥勒町」の名
の由来となった』と記されている


16:36
弥勒緑地から旧東海道の新通りを振り返る


県道208号線沿いに「駿府キリシタン殉教之碑」
慶長17年(1612)3月、徳川幕府はキリシタン禁教令を発して原主水、おたあジュリア
ン直臣のキリシタン武士や侍女を駿府から追放し、当時二つあった駿府の教会を破壊
した。禁教は次第に強化拡大され、慶長19年3月には町人キリシタンの中心として、八
名が逮捕牢送りとなり、棄教を迫られた。・・・・・・・・・・・


16:37
元祖 安倍川餅「石部屋(セキベヤ)」
休みであったが、安倍川餅は当初は餅に黄粉をまぶしただけだったが、貴重品の砂糖
を使ってから評判になり、慶長年代には名物になっていた。家康が近くの金山に巡視
に行ったときも、この餅が献上されたという。茶店では一個五文で十個を皿に盛り、
客に出した


石部屋の駐車場もあり、この横に「安倍川の義父の碑」がある


安倍川の義父の碑
所在地:静岡県静岡市葵区弥勒2-5


この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。
元文3年(1738)初秋の頃、紀州の漁夫が仲間と貯めた金百五十両の大金を持って、安
倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。しかし
着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、その近くにい
た人夫の一人(川原町彦右衛門の息子の喜兵衛)が財布を拾い旅人のあとを追い、宇津
の谷峠で引返してくる旅人に出会って財布を渡した。旅人は喜んで礼金を払おうとし
たが「拾ったものを落とし主に返すのは当たり前の事だ」といって、喜兵衛はどうし
ても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。そこで、町奉行が喜兵衛を呼
び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉
行所からほうびの金を喜兵衛に渡したのである。
昭和4年(1929)、和歌山県と静岡県の学童や有志の人々の募金によって、安倍川の近
くのこの地に碑が建てられた。
昭和初めの小学校4年の教科書に載った「安倍川の義夫の碑」


16:38
安倍川橋の手前で、県道208号線を振り返る。
この先の右方向は、旧東海道の新通り


16:39
安倍川橋
橋の架かる安倍川は、静岡県と山梨県の境にある大谷嶺・八紘嶺・安倍峠に源を発す
る。源流の大谷嶺(標高2000m)の斜面は「大谷崩れ」と呼ばれ、長野県の稗田山崩れ
富山県の鳶山崩れとともに日本三大崩とされている。
一級水系安倍川の本流で、清流としても有名でその伏流水は静岡市の水道水にも使わ
れている。大河川でありながら本流・支流にひとつもダムがない珍しい川である


ネットがかけられているが塗装中?
この橋は、静岡県内の4大河川(富士川・安倍川・大井川・天竜川)に架かる最初の橋と
して完成した。橋の建設には、失業した川越人夫を助ける雇用対策の側面もあったよ
うです


95年前の安倍川橋の工事風景
大正11年3月に工事が着工され大正12年7月に安倍川橋が架けられた。この時の総工費
は上記から当時の金額で、594,000円であった。
工事期間は1年4か月と、今では考えられない工期である!


大正から現在へと受け継がれる95才の安倍川橋。
安倍川橋の歴史。
1,明治4年(1871)6月、安倍川の川越人足が廃止になることに伴い、渡し船を配置する
 ことになったが、秋冬(10~2月)は川の水量が少ないため、この期間に使用するため
 の木製の仮橋を架設した。
2,明治7年(1874)3月24日、本設の木橋が完成し「安水橋」と命名。全長509m。総工
 費は当時の金額で7,000円。通行料は一人につき4厘。
3,明治29年(1896)10月、県に移管され、通行量が無料となる。
4,明治36年(1903)4月、架け替え(木橋)、総工費は当時の金額で14,900円。
5,大正12年(1923)7月23日、鉄橋(トラス橋)に架け替え。「安倍川橋」に改称、総工
 費は当時の金額で594,000円。
6,昭和43年(1968)4月、歩道橋を新たに設置。
7,平成2年(1990)3月、右岸側一部(2径間分)架け替え。


富士川、大井川と同じような鋲止め


大正12年に完成した現在の安倍川橋は、橋の長さ・桁の数で日本有数のボーストリン
グトラスト橋である


一週間前(3/8)に渡った、富士川橋も同じような構造であった


16:45
安倍川橋から下流の新幹線


3月の初め頃は水がなく渇水状態であったと。
安倍川にはダムが一つもない為水量の変化が激しいのだと、このブログ作成時に知る


16:47
安倍川橋西、ここまでの歩行数は37,100歩


16:51
橋を越えたあたりは「千手の里 手越」


史跡案内があったが、歩行数が4万歩近くなり時間も遅くなったので、JR安倍川駅へ
向かうことに。
ネットで調べると、1335年の南北朝時代に、足利尊氏と新田義貞が争った「手越河原
の戦い」が起きた場所である


16:52
旧東海道(県道208号線)


17:01
国道一号線「手越原東交差点」の丸子宿方面


同交差点から国道一号線の駿府方面。
この交差点を渡り、JR安倍川駅へ向かう


17:12
東海道新幹線の「横井架道橋」を通って南側へ。
東京駅から171km94m地点の標示


17:13
左はJR東海道本線、右側は東海道新幹線


17:17
ひたすら歩き、JR安倍川駅へ


17:19
ようやく安倍川駅に到着


17:20
JR安倍川駅に到着


17:21
改札は、一日乗り放題の「青春18きっぷ」で入場


改札を入いりビールを買いたかったが、売店もなくあきらめてホームへ下りる


藤枝方面、次回はこの方向から帰ってくるのだ!


17:28発の熱海行きが入線


今日はひたすらJR興津駅からJR安倍川駅まで歩いた。今日一日の歩行数は43,300歩
約9時間の道中でした。
帰りの乗車券は青春18きっぷを利用して、17:28発の熱海行きで帰路に着いた。

                        興津宿から丸子宿手前ーEND





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最終更新日  2019.05.05 23:13:22
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