おじん0523のヒロ散歩

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2019.05.11
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カテゴリ: 東海道53次
宇津ノ谷集落から、旧東海道の峠を越えて岡部宿へ。

3/20(水) 10:46
道路標識。
左方向:登録有形文化財 明治宇津ノ谷隧道(明治のトンネル)。
右方向:国史跡 東海道宇津ノ谷峠越


夢舞台東海道道標「宇津ノ谷」
岡部宿 宿境まで二十六町(2.9km)。
丸子宿 宿境まで十町(1.1km)


10:48
明治のトンネルへ向かっていくと。
宇津ノ谷地区カントリートレイル案内図


明治のトンネル入り口。
一緒に登ってきた女性も一眼レフで撮影


土木學會選奨土木遺産 2018
宇津ノ谷隧道群(明治・大正・昭和)。
宇津ノ谷隧道群は、ひとつの峠において、日本で2番目にできた明治の近代隧道(トン
ネル)をはじめ、大正、昭和の各時代に3つのトンネルが建設され、明治時代から現在
に至るまで百数十年に渡り地域の重要交通路を担ってきた稀有な土木遺産群です


明治宇津ノ谷隧道の登録有形文化財のプレート


明治のトンネルの由来。
宇津ノ谷峠(旧東海道)は、江戸初期東海道の駅伝制が整備され官道となった。
明治のトンネルは、旧東海道を通行する人達のために、明治9年総工費24,800円で築
造された日本最初の有料トンネルです。当時は、測量技術が発達していなかったため
「く」の字型のトンネルになってしまい、見通しが悪いため照明用のカンテラを設置
していた。
このトンネルの構造は、静岡口の約20mは青石造りでしたが、大部分が角材の合掌造
りであったため、明治32年に照明用カンテラ失火により焼失崩壊し、一時廃道となり
ました。現在の赤煉瓦トンネル(通称)は静岡口を直線に手直ししたため、長さ203m
となり明治37年に竣工した。
静岡口のトンネル


二人で記念写真


明治のトンネルの静岡口側の斜面に咲く「寒緋桜」


トンネルの手前には駐車場・トイレもある


ズームアップ


10:53
明治のトンネルから下り、旧東海道の宇津ノ谷峠道へ。
人通りの少ない、宇津ノ谷集落を見下ろす


10:54
旧東海道のぼり口。
国指定史跡『東海道宇津の谷峠越え」


東海道宇津ノ谷峠道の御案内:展望広場下。
現在地からの距離。
岡部町側登り口まで、960m
明治のトンネルまで、140m
峠の地蔵堂跡まで、330m


10:55
峠道の路傍に立つ地蔵


10:56
竹林の中を登るがこの辺りは緩やかだ


11:03
宇津ノ谷は丸子、岡部両宿の間に位置する間宿です。行交う旅人が宇津ノ谷名物「十
団子」を求めたり、無事に峠を越えてほっと息をついたところです。ここからの眺め
は昔も今も変わらず、山間の集落の景観は、当時を彷彿とさせてくれますと


11:04
登坂の途中、大阪からの男性と出会いしばし立ち話し。
前日は藤枝に宿泊して、朝から日本橋へ向かっていると


11:05
雁山(ガンザン)の墓の石碑と説明板


俳人雁山は、山口素堂に俳諧を学び、甲府と駿河に庵を結んで自らの俳諧の地盤を固
めた。享保12年(1727)頃旅に出て音信不通となったため、駿河の文人たちが、旅先で
没したものと思いこの墓碑を建てたと伝えられている。
しかし、雁山はその後『有渡日記』や『駿河百韻』等を著し、明和4年(1767)、82才
で甲府に没した。もとは今より山側にあった東海道の傍らに建てられていたが、山崩
れで流れ、この位置に移された


この辺りは、明治43年8月に起きた集中豪雨による山崩れのため、地形が大きく変わ
ってしまったところです。階段は整備に伴い便宜的に設けたもので、江戸時代には今
より山側上方を、幅2間(約3.6m)の道が通っていた


11:07
旧東海道を登っていくと「峠の地蔵堂跡の石垣」


この石垣は、江戸時代中(十八世紀末)ごろ、宇津ノ谷峠の傾斜地に地蔵堂(石垣上)を
構える際、平らな土地を確保するために積まれたものです。
石垣は二段構えで総高約7m、最大幅約12m。石材は、すべての箇所で横幅が縦幅よ
り長い「平置き」の積み方を施している。根石はやや大きい寸法の石材を用い、天端
石はやや小さい石材を用いているようですと・・・・・・・・・・・・・


峠の地蔵堂跡の石垣を右下に見ながら登る


上から見下ろす


この奥の空地は、もと延命地蔵堂のあったところで、礎石が散乱し、わずかに往時を
偲ばせている。江戸時代末期の歌舞伎脚本作家 河竹黙阿弥の作で、丸子宿と宇津ノ谷
峠を舞台にした「蔦紅葉宇都谷峠」というお芝居がある。・・・・・・・・・
延命地蔵尊は、現在宇津ノ谷の慶龍寺に祀られており、縁日は、毎年8月23、24日


宇津ノ谷峠の地蔵堂。
「峠の地蔵堂跡」は、平成12年度に実施された発掘調査の成果に基づいて整備された。
発掘調査によって、この平地には地蔵を祀っていた建物跡と考えられる痕跡が2箇所
検出された。・・・・・・


峠の地蔵堂。
東海道を往来する人々が道中の安全を祈り、また「道しるべ」の役割を果たしていた


東海道宇津ノ谷峠道の御案内:峠の地蔵堂跡辺り


登ってきた「宇津ノ谷峠道」
天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原征伐のため開いたといわれる道を、江戸時代に整備
し東海道とした。峠道にある地蔵堂跡は歌舞伎『蔦紅葉宇都谷峠』の文弥殺しの舞台。
今でも鬱蒼とした杉木立が殺しの舞台を彷彿とさせる


11:10
宇津ノ谷峠へ到着。
旧東海道のぼり口から約15分で到着。難所と聞いていたが今までの坂と比較すると楽
であった。自宅からの歩行数は、13,800歩


11:12
峠を下り始める


12:13
明治のトンネルがこの下を通過している


東海道宇津ノ谷峠道のご案内:峠を下り
静岡市の市境を過ぎ藤枝市へ入る


この付近は、宇津ノ谷トンネルの管理道ができたことにより、道の様子が大きく変わ
っている。旧道は写真(?色)に示す形状になっていた


11:14
下ってきた旧東海道を振り返る(石垣の上から)


11:17
旧東海道を下り
東海道宇津ノ谷峠道のご案内:明治のトンネル入り口


11:18
振り返る、左方向へ下ると「明治トンネルの岡部入口」方面


岡部側の旧街道は道幅が広い


11:20
髭題目碑(ヒゲダイモクヒ)
碑の正面に「南無妙法蓮華経」の題目が筆端を髭のようにはねて書く書体で刻まれて
いる。側面には「為人馬安全」「天下太平五穀成就」と刻まれており、旅人の安全と
世の平和・豊作を願って建立されたことがわかる。裏面には建立年月の「天保6年霜
月再興」と


このような髭題目碑は日蓮宗の信仰が盛んな県東部には
ごく普通に見受けられるが、中部のこの辺りでは非常に
珍しいものである


備前国(岡山県)木綿屋門平をはじめ、???から島田市辺りまでの建立者達の名前が
刻まれている


11:23
林の中に「蘿径記碑跡」の杭が立つ


この碑は文政13年(1830)、有名な儒学者でもあった駿府代官の羽倉外記(簡堂)が、蔦
の細道の消滅をおそれ、末長く残すために建立した石碑です。「蘿」は蔦を、「径」
は小路を意味します。今は坂下地蔵堂の裏にあります


11:24
夢舞台東海道道標「参勤交代の道」
岡部宿 宿境まで十八町(2km)。
丸子宿 宿境まで十八町(2km)


11:26
つたの細道公園


11:26
旧東海道(別名 大名街道)。
正面の坂が、宇津ノ谷峠方面。
この道は、駿河国の安倍郡と志太郡のさかいにある宇津の山の一番低くなった鞍部に
ある峠道で、二つの峠越しがあった。一つは、源頼朝以後に開発された東海道本筋の
通っている宇津の谷峠で、もう一つは、それ以前の蔦の細道の峠である。
鎌倉幕府は部隊の行進ができない旧道を廃し、新道を開いたのが宇津の谷峠道である


徳川家康が五街道を設け、交通の便を図ってからこの街道は人や物資の往来がひんぱ
んとなり、殊に参勤交代の大名行列は豪華絢爛たるもので、20万石以上の大名は武将
が20騎、足軽が120~300人もあり、1万石の大名でも5、60人の供揃えで、その行
列はこの峠をうめつくしたことであろう。
この道も明治9年(1876)トンネルの開通によって閉ざされたが、明治初期までは上り
下りする旅人の難所であった



                          丸子宿から藤枝宿ー続く





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最終更新日  2019.05.11 06:00:22
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