カテゴリ未分類 0
全215件 (215件中 51-100件目)
藤沢えびね・やまゆり園の散策を続ける。4月12日(火) 14:22園内は約8千㎡の竹林を整備して歩道を作り、下草を刈ったり、山野草を植えたりと約40人の会員が手作業で汗を流す。2015年にオープンし、昨シーズンは3千人近くが訪れたと。園内は竹林の中のため、ところどころにタケノコが芽を出していた。遊歩道脇にも芽を出しており赤いリボンをつけた目印の杭が打たれていた、明日の販売用か?これから夏にかけては蚊が多くなり受付で蚊取り線香を貸し出している。もちろん無料。竹林を見上げる。ヤマブキソウ(ケシ科)ヤマブキソウはケシ科ヤマブキソウ属の多年草。同科のクサノオウ属に分類される場合がある。ヤマブキソウの特徴はやや湿った明るい落葉樹林に見られる多年草で、低木のヤマブキに似た山吹色の花を咲かせます。イチリンソウやニリンソウと交じって、春に芽生え、夏から初秋には地上部が枯れて休眠する。ユキワリソウ:雪割草(キンポウゲ科)エリアを決めて植栽されていた。可憐な「ユキワリソウ」が咲く。ユキワリソウは既に終盤になっていた。ユキワリソウは、サクラソウ科サクラソウ属の多年草。高山植物で日本全土の亜高山帯から高山帯に自生する。ズームアップ名札がなく花の名前はわからず花の大きさは1センチほどでズームアップ雪国の春を彩るユキワリソウの特徴は、ほかの花に先駆けて色とりどりの花を開くことから、多くの人に親しまれています。一般に「雪割草」と呼ばれるものには、オオミスミソウ、ミスミソウ、スハマソウ、違う変種のケスハマソウがあり、それぞれ自生地が異なります。クリスマスローズクリスマスローズの特徴は、クレマチス、ラナンキュラス、アネモネなどと同じキンポウゲ科の植物です。クリスマスローズは、冬の花が少ない時期に花を咲かせる常緑の植物です。日本ではヘレボルス属を全てひとくくりにクリスマスローズと呼びますが、本来のクリスマスローズはクリスマスの頃に開花する「ヘレボルス・ニゲル」を指す名前です。他には咲き方や色が豊富な「ヘレボルス・オリエンタリス」や、グリーンの特徴的な花の形状が面白い「ヘレボルス・フェチダス」等、たくさんの種類があります。クリスマスローズにはグリーンの葉を低く繁らせた中から茎を長く伸ばす有茎種と、茎の低い無茎種があります。我が家の庭先にもいろんな種類を植えており春先に楽しませてくれる。この花は、そばに「フジバカマ」の名札があったが。ズームアップ石楠花は咲き始めていた。ニッコウキスゲがこれから成長。夏には手前に、クルマユリ、ヒメユリが咲く。ニッコウキスゲの群生地で、7月中旬頃から咲き誇る。ムサシアブミ(武蔵鐙)の群生地タケノコが気になる私には、目につきやすいタケノコだ(黄色の丸内)。ムサシアブミはサトイモ科テンナンショウ属の多年草。別称「由跋」、古くは「加岐都波奈」とも呼ばれていた。花期は3〜5月。ムサシアブミは関東地方以西〜沖縄の海岸に近いやや湿った林内に生える。葉は2個つき、小葉は3個。葉柄は高さ15〜30cm。葉柄の間から葉よりやや低い花茎をだし、仏炎苞に包まれた肉穂花序をつける。仏炎苞は暗紫色か緑色まで変化があり、白い筋がある。筒部は長さ4〜7cmで、口辺部は耳状にはりだし、舷部は袋状に巻き込む。花序の付属体は白い棒状。ムサシアブミをズームアップ春に山で見かける「マムシグサ(蝮草)」と「ムサシアブミ」はどちらも独特な花姿で、雰囲気がよく似ています。どちらも仏炎苞(ブツエンホウ)がぐるっと丸まった形をしている。違いは、花は似ているが」葉を見ると簡単に区別できると。 ●「マムシグサ」は、鳥足状の複葉の小葉。形は細長い楕円形。 ●「ムサシアブミ」は、成長しても複葉の小葉が3枚。幅の広い卵型。ムサシアブミの隅に新鮮なタケノコ。目印の赤いリボンの杭がなかったので掘られないのか。シャガ(著莪)シャガは、アヤメ科・アヤメ属に分類される常緑性の多年草です。中国が原産とされ、日本にも古くから帰化していました。人里近くの森などやや湿った薄暗い湿地に自生。シャガの花言葉は『反抗』『友人が多い』。葉っぱの形が鋭い剣を思わせ、人が踏み入らない日陰に花を咲かせる姿にちなんで、「反抗」という花言葉が付けられました。また、「友人が多い」という花言葉は、種を作らないにもかかわらず、根茎が地下を這ってたくさん花を咲かせる性質が由来となっています。ヤブテマリニリンソウ(二輪草)キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草。春山を代表する花のひとつ。ニリンソウの花言葉は『協力』『友情』『ずっと離れない』。花の特徴がそのまま反映されています。1つの茎から、まず1輪の花を咲かせ、追いかけるように2輪目の花が咲きます。ここから花言葉が生まれました。イカリソウ(ネギ科)イカリソウ(碇草、錨草)はネギ科イカリソウ属の落葉多年草。低い山地の雑木林に生え、茎の先が3本の葉柄に分かれて、3枚の小葉がつく。春に淡紅紫色の錨形の花を咲かせる。観賞用や薬用に栽培もされる。花期は春の4月から5月にかけて、吊り下がった薄紅紫色の花が下向きに咲く。花径は5~7cm。4枚の花弁が、中に蜜をためる長さ1.5~2cmの距(管状の細長い突出部)を四方に突出して、ちょうど船の錨のような形をしている。根茎は横にはって多数のひげ根を出す。草丈は20~40cm。数本の茎を出し、茎部には鱗片がある。根出葉には長い葉柄がつき、2回3出複葉である。茎の先が3本の葉柄に分かれ、それぞれに3枚の小葉がつく。小葉は全体が歪んだ卵形で、先が尖って基部は心臓型をしており、葉縁に刺毛状の細かい鋸歯がある。草丈が低いのでカメラを地面に置き撮影。クマガイソウ(熊谷草)クマガイソウはラン科アツモリソウ属に分類される多年草の1種。クマガイソウの蕾杉林の中に遊歩道エビネが満開にズームアップ林の中にドラム缶ズームアップ片方にネットが貼られていたが、ハチの駆除?行歩道の下に養生された「クマガイソウ」。クマガイソウの特徴は、北海道南部から九州にかけて分布する。低山の森林内、特に竹林、杉林などに生育し、大きな集団を作る。草丈は40cmくらいまで、葉は対生するように二枚つき、それぞれ扇型の特徴的な形をしている。クマガイソウは大きな花をつけ、扇型の特徴的な葉をつける。和名の由来は、アツモリソウともに、膨らんだ形の唇弁を昔の武士が背中に背負った母衣に見立て、源平合戦の熊谷直実と、一ノ谷の戦いで彼に討たれた平敦盛にあてたものである。花はその間から伸びた茎の先につき、横を向く。花弁は5枚の細い楕円形で緑色を帯び、唇弁は10cmに大きく膨らんだ袋状で、白く、紫褐色の模様がある。唇弁の口は左右から膨らんで狭まっている。14:54クマガイソウも草丈が低いためカメラを下げて撮影。 ー 続く ー
2022.04.28
コメント(0)
久しぶりに藤沢えびね・やまゆり園へ。4月12日(火) 14:10道沿いに「えびね やまゆり園」の幟が立つ。竹林の中に石碑がふたつ。石碑には「道臣命(みちのおみのみこと)」。道臣命は、記紀に登場する古代日本の人物。初名は日臣命(ひのおみのみこと)。天忍日命(あまのおしひのみこと)の後裔で大伴氏の祖。神武天皇の東征の先鋒を務め、神武天皇即位の際には宮門の警衛を務めたと。左側の石碑には「享保七年」と。道路を進み「遠藤まほろばの里 藤沢えびね やまゆり園」の道案内板。直進すると「遠藤竹炭の窯」「遠藤笹窪谷戸」「観音様」があるので進む。藤沢えびね やまゆり園の入口を通り過ぎ「遠藤竹炭の窯」の案内。遠藤まちづくり推進協議会・遠藤竹炭の会所在地:神奈川県藤沢市遠藤4619竹藪に入ってゆくと小屋があるようだが遠藤竹炭の窯の先左側に工事用のフェンス。遠藤笹窪谷戸に「(仮称)遠藤笹窪谷公園」。タウンニュース(2022年4月22日号)に載っていた記事。藤沢市遠藤に自然公園 一般向けに今夏開園予定と茅ケ崎市とも隣接する藤沢市の北西部に位置し、同市3大谷戸の一つに数えられる「遠藤笹窪谷」の一角に「(仮称)遠藤笹窪谷公園」がこのほど完成した。芝生の養生期間を経て、一般に向けては今夏をめどに開園する。フェンス越しに撮影。浸水被害軽減、貯留機能も備えている。公園は谷戸底の約2.5haを活用し、散策路や「(仮称)生物多様性サテライトセンター」(延べ床面積約230㎡)などを整備。調整池には、周辺で発生する浸水被害軽減のため、最大1万1千tの雨水を貯留できる機能を備える。更に奥に進むと「観音様」があるので進む。工事用のフェンスに沿って進み「この先車両 通り抜けできません」の看板。スマホが「目的地はここです」と。同場所から右へ登る坂道があった。振り返ると角に「観音像」が立つ。所在地:神奈川県藤沢市遠藤4505竹林の中に観音像観音像の前には花が供えられていた。道路から石段を上ると墓石が並ぶ。墓石の前にタケノコが芽を出していた(黄色の丸内)。墓碑銘菩提寺寶泉寺は後柏原天皇の御代 北條氏康の武将布施三河守康貞及びその子仙波土佐守次種が永正十六年創建し、開山は如幻宗悟禅師である。開山より七世悦堂存怡までの過去帳は亡失し、八世揚岩竜播が寛永九壬申年より書改め置いた以降のものは現存しているので墓碑と照合して墓碑銘とす。 昭和六十二丁卯年秋彼岸 茂墓石の前のタケノコを押したら簡単に折れるたのでそばに置く。タケノコの新鮮な香りがしていたが。観音像前から、新しく開園する「(仮称)遠藤笹窪谷公園」を見下ろす。14:12観音像から戻り入口から百メートル程で「遠藤まほろばの里 藤沢えびね やまゆり園」へ到着。所在地:神奈川県藤沢市遠藤4580 【カーナビ検索】 藤沢市遠藤4511車でも入って来れるがここには駐車場はなく、この先百メートル程の所に無料駐車場がある。自転車はこの先の左側に駐輪。右側は竹林でタケノコが多く芽を出していた。タウンニュース(2022年4月8日号)に、「里山散策、楽しんで」の記事。豊かな自然が残る藤沢市遠藤で、散策しながら約130種類の山野草が鑑賞できる「遠藤まほろばの里 藤沢えびね・やまゆり園」が4月1日に開園した。同園を運営するのは、里山の景観保全や活用に取り組むNPO法人「里地里山景観と農業の再生プロジェクト」(冨田改理事長)。約8千㎡の竹林を整備して歩道を作り、下草を刈ったり、山野草を植えたりと約40人の会員が手作業で汗を流す。2015年にオープンし、昨シーズンは3千人近くが訪れたと。入口にある案内掲示板。4月はエビネの他、ユキワリソウやイカリソウ、キンラン、ギンランといった山野草が楽しめる。山野草園を訪ねて(夏)ガンセキラン(5月) ヤマユリ(6月) レンゲショウマ(7月)ヤマアジサイ(6月) シキンカラマツ(7月) ショウカイドウ(8月)入場受付と売店受付で 300円を支払い入場。受付のおじさんに「タケノコは売っていないの」と尋ねたら「売り切れた」との返答。受付に飾られていた「ラショウモンカズラ」パンフレットと、手作りの竹製 孫の手をもらう。アクセスマップ藤沢えびね・やまゆり園 山野草位置図「えびね・やまゆりフェアー」のご案内当園には、昔からこの地域の里山に咲いていたエビネやヤマユリを中心に約130種類の山野草があります。今年度は、皆様により親しんでいただきたいと願い、春のベストシーズンに「えびね・やまゆりフェアー」を開催いたします。エビネやヤマユリなど多数の植物をご用意いたしましたので、是非ご来園ください。 期 間 2022年4月9日(土) ~ 24日(日) 開園時間 午前9時 ~ 午後4時 販売植物 エビネ、ヤマユリ、ミヤマオダマキ、イカリソウ 等遠藤まほろばの里 藤沢えびね やまゆり園広場に、販売されている山野草が並ぶ。イカリソウ(メギ科)イカリソウはメギ科イカリソウ属の落葉多年草。低い山地の雑木林に生え、茎の先が3本の葉柄に分かれて、3枚の小葉がつく。春に淡紅紫色の錨形の花を咲かせる。観賞用や薬用に栽培もされる。花の背丈が低いのでカメラを下げて撮影。シラユキゲシ(白雪芥子)(ケシ科)多年草で、中国東南部の高原地帯原産。地中を横に走る橙色の根茎を持ち、排水のよい半日陰を好む。全草無毛。高さ20〜40cmになる。シラユキゲシは灰緑色でときに紫色を帯びる花茎を伸ばして、直径3〜4cmの白色の4弁花をつける。花期は4〜5月。アマドコロ(ユリ科)の名札があったが、この花は???の群生14:20シャガが咲く。園内に植えられている山野草はほとんどが日本在来のものといい、エビネやヤマユリ、ヤマアジサイ、レンゲショウマなど時期折々の花が園路にそって咲く。この時期、エビネの花が膨らんでいた。ムサシアブミヤマブキソウ(ケシ科)14:22ヤマブキソウ ー 続く ー
2022.04.27
コメント(0)
宇都母知神社(うつもちじんじゃ)を参拝。4月12日(火) 13:44養蚕の神として崇められており、「神明様」と呼ばれている。地区名である打戻は、この寺社の名の宇津母知から転称されたという説もある。祭神は天照大御神、稚産霊神、若日下部命。社殿の前には日の丸が掲揚されていた。右奥には境内社の「菅原神社」が鎮座。社殿を右側から。境内社の「菅原神社」菅原神社【御祭神】 右大臣 菅原道真公【御神徳】 学問の神(入試合格・学業成就) 文芸の神(芸道上達) 【御由緒】 菅原道真公は幼少より詩歌に才能を発揮し、十一歳で初めて漢詩を詠んだとされています。宇多天皇の厚い信頼のもと、文章博士に任じられ、寛平六年(894年)には遣唐大使に任じられました。醍醐天皇の御代に右大臣に昇進して左大臣藤原時平とともに国家の政務に努められました。故あって大宰府に赴任されましたが、詩歌・文筆に親しみ励んだことにより、後世広く学問・文芸の神に仰がれるに至りました。現在においても「学問の神様」、「天神様」として入試合格、学業成就、芸道上達の信仰厚く、人々の生活の中に受け継がれています。道真公のお使いとして「使いの牛」があります。これは道真公の生年が乙丑の年、薨去が丑の日という説、道真公の御遺骸を載せた牛車が座り込んで動かなくなった場所を墓所と定めた説など道真公と「使いの牛」の関わりは深いと言われます。一番右側にある境内社の「打錑稲荷神社」稲荷神社【御祭神】 宇迦之御魂大神【御神徳】 稲作・農業の神 (家内安全・商売繁盛・厄除)【御由緒】お稲荷さんは、全国に三万社以上あるとされていますが、総本宮は京都の伏見稲荷大社です。『山城国風土記』によると、和銅三年(711年)秦伊呂具という人物が、餅を的に弓を射た際に餅が白鳥に変って山の彼方へ飛んでいき、その降り立った場所に稲がたくさん実ったと伝えられています。その場所に、神様をお祭りして伏見稲荷大社が創建されました。稲作・農業の神として全国にその信仰は広がり、現在では「家内安全」・「商売繁盛」・「厄除」など、生活全般にご利益をもたらす「お稲荷さん」として崇敬されています。稲荷神社の象徴であるキツネはお稲荷さんの使者であり、神聖な動物として鎮座しています。境内社の右側に並ぶ、石碑と石燈籠。手前の石碑には、霊峰富士山を信仰して浅間講なる集まりが発展したものと思われる。厚木市七沢地区にある、鐘ケ岳の頂上近くにある浅間神社へ登る参道に一丁目毎の石碑に打戻村の住人五十六名の方が刻まれている。この石碑にはその方々の名前が刻まれている、氏名=子孫の名前 上段:19名、中段:19名、下段:18名 計 56名。石灯籠と石碑石碑には、「打錑稲荷神社」燈籠の復元について神社の境内に散乱する燈籠を確認、前場石材店の協力により平成十九年六月に建立する。発願主世話人 左面世話人(本家筋)境内ではこいのぼりが泳ぐ。拝殿の中には祈祷者用の椅子が用意されていた。拝殿内の扁額「宇都母知神社」この扁額は、第65代花山天皇の後裔である神祇伯資顕王(1731年~1785年、花山源氏嫡流、白川伯王家)によって江戸時代中期に謹書されたもの。扁額左下に「神祇伯資顕王謹書」と見える。白川伯王家は、伝統祭祀を継承された公家源氏であり、神祇伯(神祇官の長官)に補任されて、のちに白川を称したと。境内の西側に参集殿、社務所。社殿の左側から本殿を望む。社殿の左側に「神輿殿」神輿殿前から南方向を望む。駐輪場に戻る、境内に聳える杉の木。13:50宇都母知神社の西側に道路を挟んで鐘撞堂。宇都母知神社の西側にある鐘撞堂。鐘撞堂の前に立つ石碑には「寛平三? 式内 宇都母知神社」と。鐘撞堂は三叉路の真中にあり北側から望む。鐘撞堂の横には「大地神」の石柱。梵鐘には「郷社 宇都母知神社」と鋳出しされている。鐘撞堂に貼られていた、「鐘つきについてお願い」藤沢市環境部より早朝の鐘つき音について苦情が寄せられたとの事、参拝の方には申し訳ありませんが早朝の鐘つきについては御遠慮くださるようお願い致します。 令和元年十一月 神社役員一同鐘撞堂廻りに咲いていたツツジ。赤いツツジをズームアップ。宇都母知神社の西側にある「富士見の丘」昼過ぎで気温が上がり春霞で富士山は見えず。以前に比べベンチが増えていた。慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの北側を走る遠藤宮原線は片側2車線の新道。その新道にあるバス停「宇都母知神社入口」。宇都母知神社入口交差点近くにあるバス停で、丘陵地の頂上付近にある。神社名が覚えづらい。遠藤宮原線から北側百メートルに位置する地蔵。桜の木の下に四基の地蔵が立つ。右側から、「念佛供養塔」、「地蔵菩薩像」、「庚申像」、「道祖神」。神佛像 塔鎮座記念之碑 念佛供養塔 天明五年 地蔵菩薩像 江戸時代 庚申像 享保十四年十一月四日 道祖神 明治四年十一月吉日右四神佛塔は各年号に建立されたと聞くが当初安置場所については定かでない。神明谷古老曰く、明治中期頃までは現遠藤宮原線と慶應大学西外周道路交差部に鎮座されていたと聞く。その後、打越神明谷線三叉路(西ノ谷5141番地側)に移転したらしい。又、昭和四十三年この道路拡幅のため現地点東四mに再度した。平成二年前面道路拡幅により現在地に鎮座されたことによりここに記念碑を建立し後に傳える。 平成二年十二月吉日 皇紀二千六百五十年 今上天皇即位せらる 神明谷崇敬者南側の遠藤宮原線方向を望む。遠藤宮原線の東を望む。センターラインにはメタセコイアの並木が植えられている。芽吹き始めたメタセコイア並木の後方には、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス。遠藤宮原線の慶応大学前交差点から、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスのバスロータリー。最寄りの駅からのアクセスは、● 小田急江ノ島線・相鉄いずみ野線・横浜市営地下鉄ブルーライン「湘南台」駅下車、西口 よりバス「慶応大学」行き約15分「慶応大学本館前」下車。● JR東海道線「辻堂」駅下車、北口よりバス「慶応大学」行き約20分「慶応大学本館前」下車。交差点にあった2種類のマンホール。市章の下に「おすい」の文字、廻りに市の木クロマツをデザインした、汚水管マンホール蓋。遠藤宮原線の慶応大学前交差点に今日の目的地「遠藤まほろばの里 藤沢えびね やまゆり園」の案内板。 開園期間 4月1日 ~ 8月 第2日曜日慶応大学前交差点から北側に入る、こちらには「地下式4号調整池」の看板。地下式4号調整池この下は、調整池になっており、大雨の時、雨水を一時貯水して河川へ少しずつ流し、河川の氾濫を防ぐ大切な役目をします。 貯水池概要 貯水量 904m3 水 深 2.0m 貯水面積 452㎡更に進み左側に「慶應義塾湘南藤沢キャンパス 看護医療学部 大学院健康マネジメント研究科」の看板。慶應義塾大学 看護医療学部所在地:神奈川県藤沢市遠藤4411看護の専門性を持ち、保健・医療・福祉を一体化して考えられる先導者の育成をめざしています。医学部・薬学部と連携し、三学部の学生が共通テーマのもとグループディスカッションを行い、質の高い医療を提供するための専門職連携のあり方を実践的に学ぶことができます。慶應看護100年のあゆみ慶應看護の創設慶應義塾における看護教育は、大正7年に開設した「慶應義塾大学医学科附属看護婦養成所」に始まります。160名の志願者から選抜された第一回生54名の入学式が三田で開催されました。 安政5年(1858) 慶應義塾開塾 江戸築地鉄砲洲に蘭学塾を開く 明治元年(1868) 慶應義塾と命名 明治4年(1871) 慶應義塾、三田に移転 明治6年(1873) 三田山上に「慶應義塾医学所」設立(~1880年) 大正6年(1917) 慶應義塾大学部医学科開設 大正7年(1918) 医学科附属看護婦養成所開設 芝白金三光町養生園に仮養成所を設置。第一回生の養成を開始 大正8年(1919) 養成所および寄宿舎四谷区信濃町に移転 大正9年(1920) 医学部開校ならびに大学病院開院 医学部附属看護婦養成所に改称 大正11年(1922) 医学部附属産婆養成所開設 昭和18年(1943) 戦時特令により卒業が短縮となったため、 産婆専修科を設け夜間特別授業実施 昭和19年(1944) 医学部附属看護婦産婆養成所と改称 昭和20年(1945) 5月24日、空襲により医学部・病院施設の6割消失 8月15日、終戦「独立自尊」と「実学」を重んじる看護教育の継承戦後、大きなダメージから立ち直った看護婦産婆養成所は、昭和25年4月「厚生女子学院」として新たにスタートしました。看護婦免許も地方免許から国家免許となりました。 昭和29年(1954) 医学部附属准看護婦学院設置 昭和33年(1958) 慶應義塾創立100年記念式典 ・ ・ 昭和63年(1988) 看護短期大学開設 平成2年(1990) 医学部附属厚生女子学院閉校21世紀の看護医療の先導21世紀のはじまり、変動の大きな時代に看護医療の先導的役割を果たす人材を育成することを目的に、看護医療学部が開設されました。 平成13年(2001) 湘南藤沢キャンパスに看護医療学部開設 平成15年(2003) 看護短期大学閉校 平成17年(2005) 大学院健康マネージメント研究科(修士課程)開設 平成19年(2007) 大学院健康マネージメント研究科(博士課程)開設 平成23年(2011) 医療3学部(医看薬)による合同教育開始 平成26年(2014) 慶應義塾大学が「スーパーグローバル大学創成支援」事業に採択される 平成29年(2017) 海外看護学生短期留学受け入れプログラム開始 平成30年(2018) 慶應看護100年 14:10玄関先には人影がなく。 ー 続く ー
2022.04.26
コメント(0)
タウンニュース(2022年4月8日号)で、「里山散策、楽しんで」の記事を見て、遠出を控えている現在、昼食後、愛車のリンちゃんで出かけた。最近は、新聞等での情報を基にブログ取材に!!4月12日(火) 12:50出発時の自転車の手元標示板のバッテリー残量は100%で、走行可能距離は94kmと安心して走れ回れる距離。今回で電動アシストの充電回数は約1年で28回目、累計走行距離は約2,000キロメートルに。この日は茅ヶ崎から北方向の藤沢の丘陵地へ向かった。13:12神奈川県立茅ヶ崎里山公園所在地:神奈川県茅ケ崎市芹沢1030公園のフジ棚が咲き始めになっていた。そろそろ藤沢のフジ巡りに。ズームアップ、今年は早いのか?以下2枚は、10日後の開花状況(4月23日撮影)満開のフジの花里山公園の西側へ進み東側を振り返る。この辺りの南側に「文教大学 湘南キャンパス」が杜の中にある。道端に「小出地区北西部の主要遺跡と社寺」の案内板小出地区は茅ヶ崎の人間活動の始まりとなる台地・丘陵が広がる地域で、茅ヶ崎の原風景を偲ぶことができる数少ない一帯です。美しい景色を楽しみながら、遠い古代の世界へ想いを馳せてみませんか。① 大久保D遺跡 ⑧ 蓮妙寺② 大久保C遺跡と大久保横穴群 ⑨ 来迎寺③ 善谷寺 ⑩ 臼久保A遺跡④ 腰掛神社 ⑪ 行谷遺跡(貝塚)⑤ 下場A遺跡 ⑫ 宝蔵寺⑥ 下場B遺跡 ⑬ 金山神社⑦ 久保山A遺跡(貝塚) 後日このルートを愛車のリンちゃんで巡ることに!県立茅ヶ崎里山公園の西側に進み、北上し「桜の小径」へ。里山公園の「桜の小径」の森林浴を楽しむ。” 桜の小径 ”数多くある桜の園芸品種は、日本に自生する桜から誕生しました。この「桜の小径」では、日本の野生の桜8種と神奈川県で生まれた「玉縄桜」が楽しめます。玉縄桜(タマナワザクラ) 1969年にフラワーセンター大船植物園でソメイヨシノからつくられました。2月中旬から 咲き出す早咲きの桜で、花が長く楽しめます。 花期:2月中旬 ~ 3月上旬江戸彼岸(エドヒガン) 春の彼岸の頃に花をつけるので名づけられました。本州以南の山地などに広く自生し、淡 いピンクのかわいい花をたくさんつけます。 花期:3月下旬 ~ 4月上旬豆桜(マメザクラ) 花や姿が小さくかわいいことから名づけられました。富士山や箱根周辺に多く見られ、フ ジザクラの名前でも知られています。 花期:3月下旬 ~ 4月上旬 丁字桜(チョウジザクラ) 花の形が香料のチョウジ(クロープ)に似ていることから名づけられました。樹は小形でま ばらに花をつけます。見る機会の少ない桜です。 花期:3月下旬 ~ 4月中旬大島桜(オオシマザクラ) 伊豆の大島で多く見られることから名づけられました。純白の花と緑の葉が同時に楽しめ ます。塩漬けにした若葉を桜餅の皮に用います。 花期:3月下旬 ~ 5月上旬山桜(ヤマザクラ) 山野に自生し、日本を代表する桜として古来から親しまれてきました。花と同時に開く葉 は、芽出しの色の変化が豊かなことが知られています。 花期:4月上旬 ~ 中旬霞桜(カスミザクラ) 野生の桜の中では花期の遅い種類で、葉が開いてから花が開きます。全国で見られますが 北日本に多く見られ、純白の花と緑色の葉が特徴です。 花期:4月下旬 ~ 5月上旬大山桜(オオヤマザクラ) えぞ山桜と呼ばれることからも分かるように北海道を始め北日本に多く見られる桜です。 花は濃い紅色で、紅山桜と呼ばれることもあります。 花期:4月下旬 ~ 5月上旬深山桜(ミヤマザクラ) 北日本や高標高地に多く見られます。白いかわいい花を4 ~ 10個ほどまとまってつけ、 開花期も遅く、桜らしくない桜として知られています。 花期:5月中旬 ~ 6月上旬「桜の小径」には名札がついている木があります。花や実のなる時期や、鳥や昆虫が集まる木であるかどうかがわかります。桜の季節以外にも四季の木々をお楽しみください。桜の小径そばの広場夕映えの丘広大な景色を眺めながらゆっくりと休める傾斜のある芝生広場である。シンボルツリーにしだれ桜が配置され、紅葉する木も多いので、四季折々楽しめる場になっている。広場の右側にはフキが自生しており多くの人が収穫。里の家下の竹林をズームアップ谷の村から北方向へ進む丘の上に「里の家」があり、バーベキュー場。里山の湧水か、うまおい等が水面を動き回っていた。里山公園「里の家」の東側にある「野菜直売所」。この日は100円で「ネギ」を購入。里山公園を通り抜け小出川に架かる新道橋(しんみちばし)へ。まだ川幅の狭い小出川の上流側、彼岸花の遊歩道には野生の菜の花が咲く。川沿いに立つ案内板新道橋から下流側を望む下流側の遊歩道にも菜の花が咲き乱れる。ズームアップ小出川を渡り、大庭獺郷線を東へ進む。慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの南西部を左折、角にある公園。公園の地下は「地下式2号調整池」になっている。この公園の下は、調整池になっており、大雨の時、雨水を一時貯水して河川へ少しずつ流し、河川の氾濫を防ぐ大切な役目をします。 貯水池概要 貯水量 2,685m3 水 深 3.0m 貯水面積 886㎡公園の隅に立札緑のデザイン賞緑化大賞 受賞「緑のデザイン賞」は財団法人都市緑化基金と第一生命保険相互会社が緑化による地域の環境と景観の向上を図ることを目的として行っているものです。この緑は、本賞において優れた緑のデザインとして表彰を受けるとともに助成を受け実現したものです。身近な生活空間の緑化をともに推進し、21世紀を担う子供たちに緑豊かな環境を伝えて行きたいと願っております。公園の南側を大庭獺郷線が走る。勘兵衛地獄慶応大学が建てられる以前、三方を山林に囲まれ、直径二間くらいの摺鉢状の陰気で淋しい窪地があった。勘兵衛さん(屋号)の所有地であったことや、絞れ水が底を流れ周囲の土が崩れ落ちる状態などから、いつともなくこんな地名がついたといわれる。 ” 苅込をほどなく行くと かんべい地ごく ” (遠藤まちづくり推進協議会)そういえば、大庭獺郷線の東に「苅込交差点」がある。東側から公園を見る、地下に貯水池がある。慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの南入口。南入口の守衛横から西側をぞむ。子供用の遊具はないがのんびりできる空間である。コケをズームアップタンポポの種子も旅立ち前だ!種子が飛んできたのかピンクの花が咲く。花の大きさは3センチほど慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの西側の坂を上り「藤沢えびね・やまゆり園」へ向かう途中、前方にサクラが咲いた宇都母知神社の杜が見える。13:40宇都母知神社(うつもちじんじゃ)所在地:神奈川県藤沢市打戻2662宇都母知神社の歴史は古く、平安時代中期にはすでにあったといわれている相模国十三社の一つとされています。「日本総国風土記」によると宇都母知神社は西暦459年にはすでに存在し、祭祀が行われていたことが記されています。いつも訪れる神社であるが覚えにくい名である。鳥居前に幟が数本立っていた。幟には「鎌倉殿と北条氏ゆかり」と。鳥居前に「鎌倉殿と北条氏ゆかり」の幟、境内にこいのぼりが泳いでいたので立ち寄ることに。参集殿の裏に駐輪、境内前にはこいのぼりが十数匹泳いでいた。鳥居から入り参道奥に社殿とこいのぼり。マスクをつけていない狛犬の「阿形像」足下には毬?を踏みつけている。口を開けている狛犬の「吽形像」足下には子か?13:43参道右側に「宇都母知神社 郷土資料館」郷土資料館(維持費) 300円「幕末・明治 勝海舟旧蔵書 展示」とあったが。以前入ったが中には昔の農機具等が展示されていた。 ー 続く ー
2022.04.25
コメント(0)
この日は、茅ヶ崎 成就院の花まつりへ。タウンニュース(2022年4月1日号)記事より4月8日(金) 「はなまつり」が開催される。来場無料。釈迦の誕生を祝い、仏像に甘茶をかけ、健康や子どもの健やかな成長を願う伝統行事。桜や花の名所としても知られる同院。春の風物詩として地域住民らに愛されている。今年はコロナ禍を受け、甘茶や笹酒の振る舞いは行われないと。4月8日(金) 10:45甘沼山成就院お寺の前には、いろんな色のホウキモモが咲く。自宅から約2.5キロに位置するお寺で、四季折々いろんな花を楽しませてくれるので、私の撮影ポイントとなっている。畑にはチューリップが咲いているが、ビニトンには野菜の植え付け。花まつりで、係員の方が交通整理しておられた。駐輪場には多くの自転車。階段前に大きな看板。看板には、 花まつり 甘沼山 成就院 4月8日(金) 午前9時 ~ 午後4時ホウキモモ本堂への階段下に庚申塔本堂前にはマスクをつけた多くの幼稚園児。本堂前に花御堂、幼稚園児と熟年者が多く並んでおられた。幼稚園児が段の上に上がりお詣りしていた。園児の前に小さな誕生仏が立ち、小さな柄杓で甘茶をかけていた。その様子をそばで保育士が一人ずつ記念撮影。時間を要するので、幼稚園児が終わってからお詣りすることにし本堂左へ。枝垂桜が見頃になっていた。まだ満開にはなっていないようだ。枝垂桜の下に句碑本堂左側に立つ「修行大師像」奉納者の名前を刻まれたプレートも修行大師像の左側に、「南無一言大師」の幟が立つ。社の中に「一言大師」社の中をズームアップ一言大師この石仏は、文政年間相模の国八十八ケ所霊場、第三十五番札所の成就院ご本尊として建立された「弘法大師空海」のお姿です。その霊験あらたかなるが故に信仰され、大切な願い事を一心に念ずれば必ずやかなえて下さるご利益により「ひとことたいし」と伝えられます。本堂前を望む、幼稚園児の参拝は終わったようだ。花御堂にまつられた釈迦像に甘茶をかける。本堂前に置かれた花御堂花御堂をアップ「花まつり」は、釈迦の誕生を祝い、故事に習い、仏像に甘茶をかけ、健康や子どもの健やかな成長を願う伝統行事。体長20センチほどの「誕生仏」参拝を終え甘茶を頂く。本堂左側にテントを張った式典会場。式典は、午前は9時?に終り、午後は2時に開催されると。三つの黒い碑にはそれぞれ奉納者の名前が刻まれている。百年経っても後世の人は見るのであろう。修行大師像と石楠花石楠花が満開木全体が赤で寺の方に聞くと「トキワマンサク」花をズームアップ。トキワマンサクはマンサク科の常緑樹で、生長すると樹高は5m近くにまでなる中高木です。花は枝先にいっせいに咲くので、遠くから見ると木全体が花に覆われているように見えるほどです。洋風・和風どちらの雰囲気にも合い、病害虫に強く丈夫なトキワマンサクは生け垣としてもとても人気があります。マンサクの垣根とトキハマンサクトキワマンサクの花びらは葉よりも細く、ひょろりと長い変わった形をしています。花びらの先はくるりと丸まり反り返り、その集合体が花となっている一風変わった形をしています。濃いピンクの花を咲かせるベニバナトキワマンサクは、トキワマンサクの変種で、葉も赤紫色になる種類があり観賞用として流通しています。焼き芋を一個頂きました。帰宅して妻と分けて食したが美味しかった。トキワマンサク越しに満開のサクラ本堂前タウンニュース(2022年4月15日号)に記載されていた。本堂裏に墓地があり、サクラが咲く。石像は「聖観世音菩薩」なんじゃもんじゃの木とハンカチの木。両方ともに芽吹き始めていた。見上げて「なんじゃもんじゃの木」の新芽。花芽が付いているのか。こちらは「ハンカチの木」こちらの方はまだ芽が硬い。シャガが咲いていた聖観世音菩薩手前右側に「敬愛の陵」聖観世音菩薩前から南側を望む。樹木のお墓エリア西側を望むと富士山がうっすらと見える11:12サクラも満開 ー 続く ー
2022.04.18
コメント(0)
「河童徳利ひろば」の後、小出川を下り堤のサクラを楽しむ。4月5日(火) 11:12小出川の西側には河津桜が植えられているが既に葉芽になっていた。湘南平、箱根の山並みを望む。当初自宅を出る時は、相模川に架かる「湘南銀河大橋」から富士山を見る予定だったが、富士山に雲がかかっていたので小出川のサクラを楽しむことに変更。建物の上に「湘南銀河大橋」の橋脚が見える。川岸にはカモが上がり葉を食していた。小出川沿いのいつも行く「小出川桜祭り会場」この方向に富士山が見えるのだが。この辺りは昨年の秋、ざる菊、ひまわりを楽しませてくれた。下流側の萩園橋を望む。11:20萩園橋から下流の右岸に桜並木。右岸の桜並木をズームアップ、満開になっているようだ。萩園橋から上流を望む。花の小径(はなのこみち)小出川に親しむ会は、2007年に植樹したこの場所を「花の小径」と名付けました。小出川が、草木も、鳥も、昆虫も、魚たちも、それぞれの生き物が共存できる環境になるように配慮した草刈り等の手入れをしております。皆様には、ご理解の上、散策を楽しんでいただければ、幸いです。 小出川に親しむ会・茅ヶ崎市・藤沢土木事務所小出川の右岸に自転車を向ける。満開のソメイヨシノサクラは開花して日が経つと雌蕊がピンクになると。下流側の新湘南バイパス高架。堤の下には東屋もあり訪れたご婦人が雑談していた。広場の隅に「NPO法人萩桜会 設立記念植樹 平成二十三年十月十三日」の石碑が建つ。枝垂桜も咲いていたがまだ若木。地面には飛び散った桜の花びらが彩る。枝垂桜をズームアップ蕾もありまだもう少し花を楽しませてくれるようだ。白っぽい「オオシマザクラ ?」小出川に親しむ会が、平成十九年(2007)に植樹、15年でこれだけの木に成長。花の小径(はなのこみち)にはサクラの木が数十本植えられている。河川敷にサクラの木があるが植樹されたのか。高架は新湘南バイパスそれぞれの木に名札が取り付けられていた。品 種 ソメイヨシノ(染井吉野)科 名 バラ科植栽日 平成20年3月2日管理No管理者 萩桜会セブンイレブンみどりの基金 地域で活動する環境市民団体を応援しています。幹から小さな芽が出、サクラが咲いていた。まだ満開前のソメイヨシノズームアップサクラの木の下にはいろんな花も植えられている。白いハナニラハナニラ(花韮)・開花時期 2/10~5/10頃・原産地 南アメリカ・花は星型、白い花。うす紫色の種類もある。・葉っぱをちぎると名前のとおりニラのにおいがする。葉が韮に似ていることから「花韮」。堤に上がり上流側をのぞむが、この辺りの河川敷は草が生い茂っている。その河川敷に咲くサクラ。11:35昼食時に帰ると言っていたので、この後帰宅することに。朝方富士山が見えていたので、急遽訪れた愛車のリンちゃんでの散歩でした。移動距離は11キロでした。 END
2022.04.17
コメント(0)
小出川の河津桜まつり会場から小出川を下る。3月6日(日) 15:00小出川の浜園橋近くにある、「浜之郷樋門」。 樋径間×扉高 2.0m × 2.0m 門 数 2門 昭和58年度 河川改修(第一種)工事浜園橋から鶴嶺通りに架かる新鶴嶺橋までの護岸に、ウメの木が植えられており地域住民の散歩コースになっている。昨年は剪定時期が遅かったようでウメの花が少なかったが今年は綺麗に!鶴嶺通りに架かる朱色の新鶴嶺橋。散歩コースに紅白のウメの花が咲く。空に向かって延びる○○○この花は?ズームアップ。枝の間をメジロが飛び回っていた。しばしメジロを追う。蜜を吸うメジロ。ズームアップ。ウメの木にも。メジロが集団で飛び回っていた。鶴嶺通りに架かる新鶴嶺橋。国道1号の小出川に架かる「下町屋橋」。右側の高架橋は新湘南バイパス。国道1号の茅ケ崎西インター交差点手前を左折すると右手に立つ石碑。『耕地整理記念碑』小出川と千ノ川の流域一帯を美田化する目的で行われた耕地整理を記念する碑。事業は湘東耕地整理組合が組織され、大正十四年(1925)から開始され昭和十五年(1940)に竣工したと記されていた。現在の小出川は、この耕地整理により今の流れとなったものであると。国道1号から左側に下ると、「史跡 旧相模川(馬入川)橋脚」。所在地:神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目-551-2史跡は国の史跡および天然記念物に指定されている。廻りにはサクラが植えられている。所在地B:旧相模川橋脚 下町屋1-551-2 源義経の亡霊伝説が残る、国史跡・国天然記念物の橋の遺跡。 源頼朝の家臣である稲毛重盛が、1198年に亡き妻の供養のため、相模川に橋を架けたと されています。その落成式に参列した頼朝は、帰途で義経らの亡霊に会い、驚いた馬から 落下しました。この時の怪我が原因で頼朝は亡くなったといわれています。茅ヶ崎ゆかりの人物相関図稲毛 重成(いなげしげなり) 妻は北条政子の妹源頼朝や北条時政からの信頼が厚く、御家人として重要な地位を成した。1198年、妻の供養のために莫大な費用をかけて相模川に橋を架けた。史蹟「旧相模川橋脚」天然記念物「旧相模川橋脚」 の石碑が建つ。後方は、神奈川県衛生研究所。以下、ウィキペディアによると、関東大震災(1923年9月)と1924年1月の2度の大地震の際に小出川沿いの水田から7本の木柱が出現した。その後の発掘により地中になお3本あるのが発見された。当時、沼田頼輔博士が『吾妻鏡』にもとづいて鎌倉時代の相模川の橋脚と考証し、中世橋梁遺構として高く評価されている。沼田博士はこの橋を「鎌倉時代1198年に源頼朝の家来であった稲毛重成が亡き妻(頼朝の妻の北条政子の妹)の供養のために相模川に架けた大橋である」と鑑定したと。「国指定史跡 旧相模川橋脚」の説明ボード。1、指定と保存整備■ 指定内容 所在地 神奈川県茅ケ崎市下町屋一丁目 (旧地名 神奈川県高座郡茅ヶ崎町大字下町屋字中河原) 指定地域 指定地の面積 1,879.53 ㎡ 監理団体指定 茅ヶ崎市(平成19年1月17日文化庁指定)■ 指定理由(1)指定基準 史蹟名勝天然記念物保存法第一條ニ依ル 追加指定基準 特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準(昭和26年 文化財保護委員告示第2号)史跡の部六による。(2)説 明 小出川ニ沿ヒタル水田中ニ存ス大正十二年九月及翌十三年一月ノ两度 ノ地震ニ依リ地上ニ露出セルモノニシテソノ數七本アリソノ後地下ニ 隠ルゝモノ ・・・・・・後略・・・・・・出現時の様子写真は「出現時の様子」 仮指定段階の橋脚 整備前の様子保存池精査の様子 保存方法の概念図■ 源頼朝が渡った橋の跡 当遺跡は、沼田頼輔により建久9(1198)年源頼朝の家臣稲毛重成が亡き妻の供養のために 架けた橋と考証されています。鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」には、頼朝がこの橋の渡り初 めをしたこと、帰途落馬し、その後まもなく亡くなったことなどが記録されています。 旧相模川橋脚はこうした歴史をもった遺跡であると考えられています。2、発掘調査の成果2-1 橋脚について■ 橋の大きさと川の流れ 橋脚(橋杭)の本数は、調査によって10本であることが確認されました。これらは南北方向 4列、東西方向3列に規則的に配置されています。橋全体の規模を推定すると、橋幅約9m、 長さ40m以上の橋がおよそ南北方向に架けられていたことが推測でき、流路は東西方向で あったと思われます。■ 橋脚(橋杭)の詳細 橋脚は断面が丸く径は、最小で48cm、最大で69cm、長さは確認できたもので3m65cmで した。この中には、上部が、ほぞ穴状に加工されているものもあり、この部分に梁などが組 まれていたことが窺えます。さらに、下部になるほど細くなり先端は面取りされて尖ってい ます。なお、樹種はすべて檜と同定されています。2-2 中世土留遺構について■ 角柱と厚板の検出 橋脚の北側で発見されたもので、角柱6本と厚板2枚、それに礫(れき)で構築されています。 東西方向に約13mを測りますが、さらに調査区外に伸びており全容は明らかでありません。 角柱は断面が長方形のものと変形六面体のものがあります。また、厚板は厚さ約10cm、幅 約1m、長さは西側が7m20cm以上、東側が5m10cm以上の大きさの一枚板です。■ 川の護岸などを目的 この遺構は、位置や検出状況などから、橋脚との関連性が極めて高いものと判断でき、 川の護岸などを目的とした遺構と考えられます。また、使用されている部材は、船板 や建築材などを転用した可能性があります。2、発掘調査の成果2-1 橋脚について■ 橋の大きさと川の流れ■ 橋脚(橋杭)の詳細全体(橋杭5)2-3 近現代における整備遺構■ 保存池と護岸遺構 本史跡は、指定後に整備された池で保存されてきましたが、調査において当時の池の 護岸遺構が確認されました。杭と板を合わした土留めと幅約1m90cm、高さ50cmの 土盛りによる堤が明らかになり、当時水田だったこの場所にていねいに保存池を作っ たことが明らかになりました。 ■ 地域に守られてきた遺跡 下町屋の青年団を中心に、橋脚の保護のために防腐剤を塗ったことが伝えられてい ます。さらに、1965(昭和40)年頃には隣接地を所有した武藤工業が中心となって 保存池の改修が行われています。 本史跡はこのように地域の人に守られながら今日まで保存されてきました。調査で は、こうした先人の行った保護の足跡を確認することができました。2-4 その他の成果■ 中世土杭墓群 今回の調査では、橋杭や土留め遺構が埋まっている地層よりも上の層で土杭墓が10 基発見されました。土杭墓からは、人骨のほか副葬品と思われる古銭や土器が出土 しました。こうした資料から16世紀代に葬られたものであることがわかり、この時 期には当地が墓地であったことが明らかになりました。■ 古代遺物の出土 調査区の砂礫層からは、土師器、須恵器など古代の遺物が出土し、なかには古代の 瓦も見られました。これらの多くは、角が擦れて、丸みを帯びており上流から流さ れてきたものと思われます。これらの資料は、付近に古代遺跡が存在していること を明らかにするものです。■ 地震痕跡の確認 橋脚は、1923(大正12)年におきた関東大震災の液状化現象によって出現したもの です。調査では地下深くから砂や礫が噴き上げられた場所が数ヶ所確認され、地震 の痕跡がそのまま残っていることを明らかにしました。大正期の整備の様子保存池の南側から保存方法の概念図15:20水上面はレプリカで下部に橋脚が埋められているのだ。 END
2022.03.17
コメント(0)
源頼朝と茅ヶ崎ゆかりの地の途中、小出川の河津桜を散策に。3月6日(日) 14:24小出川の河津桜会場所在地:神奈川県茅ケ崎市萩園附近富士山が見えるポイントだが残念ながらこの日も見えず。会場近くの掲示板に「桜まつり中止のお知らせ」。立春を過ぎましたが、寒い日が続いております。皆さま、お元気でお過ごしのことと思います。河津桜の蕾がかなり色を付けています。今年もまた、「やっぱり春は小出川」。春色のときを迎えます。しかし、残念なことに「コロナ」の感染拡大が続いております。「桜まつりは今年も中止します」私たちはこれからも、この環境の保全、桜など「花」の栽培・育成に努めてまいりますので、何とぞご理解いただきたくお願い申し上げます。 2022年2月 花とともにくらす会東側の堤防を下る萩園橋まで下ることに。ボランティア活動の「花とともにくらす会」の皆さんが河川敷の清掃。萩園橋から上流側を望む。後方の高架橋は、首都圏中央連絡自動車道の茅ヶ崎JCT辺り。川面に映える送電線の鉄塔。川面にはカモの集団。川には大きな鯉も生息しており小魚が多いのか。小出川河津桜会場満開まじかの河津桜ズームアップ。この日は日曜日で多くの高齢者が訪れていた。昨年は満開であったが、今年は一週間位遅いようだ。菜の花とのコラボ。菜の花は既に満開を過ぎ。新湘南バイパスの茅ヶ崎中央料金所。14:39小出川河津桜会場の休憩用テーブル。仮設用トイレが奥にあったが? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3月10日(木) 14:10まだ手術後で遠出ができないので、近場の「小出川河津桜まつり会場」へ再度訪れる。前回訪れた4日後のこの日も天気が良いので愛車のリンちゃんで散歩がてら訪れた。自宅からは、4.9km、約19分の距離。テレビでは松田町の「松田山ハーブガーデンの河津桜まつり」を放映していたが、山へ登る必要があるので諦める。小出川の下流方向。県道44号線(伊勢原藤沢線)の西久保橋上から。木によって開花状況が違う河津桜。菜の花とのコラボ。河津桜の中に「緋寒桜」が咲く。緋寒桜(ひかんざくら)(先祖返えり)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より、カンヒザクラ(寒緋桜)はバラ科サクラ属の原生種のサクラ。旧暦の正月あたりに咲くことからガンジツザクラ(元日桜)と呼ばれることもある。別名ヒカンザクラ(緋寒桜)、タイワンザクラ(台湾桜)、ヒザクラ(緋桜)とも言う。なお語呂が似たヒガンザクラ(彼岸桜)は、エドヒガンとコヒガンの通称であり別種である。緋寒桜の分布は台湾と中国南部に分布する。台湾では主に「山櫻花」と呼ばれ、海抜500~2200mの山地に自生するが、この語は中国大陸部では主にCerasus serrulataを指す。日本では沖縄県の石垣島に国の天然記念物に指定された「荒川の寒緋桜自生地」が存在。日本の代表的なサクラとして知られている野生種のヤマザクラや栽培品種のソメイヨシノの分布域の南限が鹿児島県であるため、沖縄県でサクラや花見と言えばこのカンヒザクラを指す。この種に近いとされるサクラはカンヒザクラ群と呼ばれる。カンヒザクラ群には以下のような種類が含まれる。ここでは一部を上げる。 • アタミハヤザキ(熱海早咲) • イズタガアカ(伊豆多賀赤) • オオカンザクラ(大寒桜) • オカメザクラ(阿亀桜) • カワヅザクラ(河津桜) • カンザクラ(寒桜) • ケイオウザクラ(啓翁桜・東海桜・岳南桜) • シュゼンジカンザクラ(修善寺寒桜) • タイリョウザクラ(大漁桜) • ツバキカンザクラ(椿寒桜) • ハツミヨザクラ(初御代桜) • ミョウショウジ(明正寺) • ヨウコウ(陽光) • ヨコハマヒザクラ(横浜緋桜) • リッシュンカンザクラ(立春寒桜) • リュウキュウカンヒザクラ(琉球寒緋桜・琉球緋桜)以上の出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。河津桜に比べ緋寒桜の方がピンクが濃いようだ。河津桜のほかにも早咲きの桜が植えられている。河津桜をズームアップ。玉縄桜(鎌倉)玉縄桜(たまなわざくら)は、神奈川県鎌倉市にある神奈川県立フラワーセンター大船植物園にて染井吉野(ソメイヨシノ)の早咲きのもの中から選ばれ育成されたもので、1990年(平成2年)に品種登録されたサクラの園芸品種である。名前の由来はフラワーセンターの近くにかつてあった、玉縄城にちなんで名づけられた。玉縄桜はソメイヨシノがベースとなっている桜。ソメイヨシノより早咲きのため、気温の低い時期に咲き、鑑賞期間が長い。数はまだまだ少ない。ソメイヨシノがベースとなっているため、玉縄桜ももとをたどれば、大島桜(オオシマザクラ)と江戸彼岸(エドヒガン)の雑種が含まれている。春めき桜(足柄桜)まだつぼみが硬い桜が一本。春めき桜は、カンヒザクラとシナミザクラの交雑種の一つで、以前は足柄桜とも呼ばれていた。春めき桜(足柄桜)早咲の桜と言うと、河津町の河津桜が有名。神奈川県内では松田山ハーブガーデンで河津桜のお祭り「まつだ桜まつり」が開催される。この河津桜の後に満開になる早咲の桜が春めき桜(旧 足柄桜)である。春めき桜の名所は南足柄市内に2ヶ所あり、 ① 南足柄市の富士フイルム工場の前を流れる狩川の土手にある「春木径(はるきみち)」。 ② JAかながわ西湘 福沢支店の下。春めき桜は、ソメイヨシノよりも色が濃く、河津桜よりも色が薄い。頬をほんのり染めたような可愛い桜だと。ソメイヨシノよりもひとあし早く例年は3月中旬に見頃を迎える。樹高が低いことから美しい写真を写すことができますと。河津桜まつり会場のテラス席。桜並木沿いにはアジサイも植えられている。テラス席からの桜小路。青空に映える河津桜。ソメイヨシノに比べ開花時期(花持ち)が長い。小出川の土手下から見上げる。小出川の河川敷にはカモ。ズームアップ。河津桜には残念ながら香りがないと。14:50今年の河津桜はこれで見納めか。小出川を下り次の場所の「旧相模川橋脚」へ。 ー 続く ー
2022.03.16
コメント(0)
神明大神宮から、旧跡懐嶋山の碑(えな塚)に関連する史跡へ向かう。茅ヶ崎ゆかりの人物相関図大庭景能(かげよし) 源頼朝の重臣 相模国で勢力を拡大した鎌倉権五郎景正の子孫。相模国大庭御厨の一画である懐嶋(現在の 円蔵、浜之郷、矢畑)を本拠地とした。丹後局(たんごのつぼね) 伝説の女性 源頼朝の寵愛を受けて、薩摩の島津氏の祖先となる男子を、懐嶋の大庭景能の桜屋敷(西久 保)で産んだといわれる。丹後局は伝説上の人物とも考えられている。A:旧跡懐嶋山(かいとうざん)の碑(えな塚) 西久保 丹後局が鎌倉から逃れて源頼朝の子を出産、子の忠久は島津氏の祖となった伝説も。 丹後局は頼朝の子を身ごもったことを妻・北条政子に知られてしまいます。身を隠すた め、比企能員が丹後局を懐嶋郷の領主・大庭景能に預け、丹後局は桜屋敷に移った後、 無事男子を出産します。ここに、えな(胎盤)を埋めたことから「えな塚」と呼ばれてい ます。三郎と名付けられた子は鶴岡八幡宮社前で頼朝と対面。後に忠久と名乗り、薩摩 を本拠地とした島津氏の祖となったという伝説があります。3月6日(日) 13:57スマホの案内で「懐嶋山 宝生寺」へ進む。民家の間を進み「北向地蔵」。所在地:神奈川県茅ヶ崎市西久保573信仰心の篤い人がおられいつも花を供えている。14:00高野山真言宗 懐嶋山宝生寺(かいどうざんほうしょうじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市西久保546山門前で地蔵像が迎えてくれた。阿弥陀三尊像 昭和三十四年六月二十七日 国重要文化財指定 銅造阿弥陀如来及両脇侍立像 三躯 左脇侍 観音菩薩 三二・九センチ 中 尊 阿弥陀如来 五八・三センチ 右脇侍 勢至菩薩 三三・八センチ仏法最初の像と伝える信濃善光寺木尊の模像で、いわゆる善光寺式如来といわれるものである。鎌倉時代に非常に多くつくられたという。木像も鎌倉時代の作とみられている。一説にこのあたりを領していた懐島景義(景能)の持仏であったともいわれるが、その来歴については全く不明である。なお、台座および光背は後世のものである。 茅ヶ崎市教育委員会 瓦葺の本堂懐嶋山 宝生寺 御本尊 金剛界 大日如来 宗 派 高野山真言宗 立教開宗は大同二年(807) 総本山 高野山金剛峯寺 和歌山県伊都郡高野町 宗 祖 弘法大師(空海) 宝亀五年(774)六月十五日 香川県善通寺市で御誕生 承和二年(835)三月二十一日 高野山奥之院に御入定御宝号 南無大師遍照金剛教義と信仰 宇宙のすべてのものは、大日如来のいのちの顒われであり、このいのちの世界をあらわしてい るのが曼荼羅です。 高野山真言宗の教えは、いのちの平等と尊厳をさとり、大日如来の智慧をこの世に実現するた めに、生かせいのちを実践し共存共生の世界をめざすことにあります。 本宗の御宝号念誦運動は、弘法大師の共利衆生の精神に立って、すべてがいのちを共にしてい る社会の福祉をめざす具体的な活動です。 弘法大師は未来永劫にわたって衆生を救済すると御誓願され高野山奥之院に入定留身されてい ます。同行二人の信仰のもと大師の御教えをこの世に生かし実現することが、私たちの務めで あり喜びです。本堂の扁額、「宝生寺」本堂の左側に、「瀧不動尊」。石碑には、「秋光や 不動明王 〇然〇」 白楊(徳田白楊?) ピンクの河津桜に囲まれ。まだ満開前の桜。ズームアップ。瀧不動尊本堂前左側に建つ、「阿弥陀堂」御開帳は年に一度、4月29日で閉ざられている。宝生寺の阿弥陀三尊像 昭和三十四年六月二十七日 国指定重要文化財 銅造阿弥陀如来及両脇侍立像 三躯 左脇侍 観音菩薩 三二・九センチ 中 尊 阿弥陀如来 五八・三センチ 右脇侍 勢至菩薩 三三・八センチ善光寺(長野市)の本尊を模したといわれる善光寺式の阿弥陀三尊像です。手のかたちや一つの光背に三尊がはいっているところなどが、一般の阿弥陀三尊像と違います。善光寺式の阿弥陀三尊は、鎌倉時代から造られており、この像も銘はありませんが鎌倉時代の作とされています。しかし、来歴については不明です。なお、台座と光背は近世のものです。 茅ヶ崎市教育委員会宝生寺銅造阿弥陀三尊立像阿弥陀如来を中心に勢至・観音両菩薩を脇侍とする三尊仏は、善光寺式の金銅仏で、鎌倉時代の作と見られています。ご開帳は4月29日。国指定重要文化財。境内を振り返る。14:10日吉神社所在地:神奈川県茅ケ崎市西久保466正面に本堂、左側に神輿殿、右側に西久保自治会館が建つ。銅板葺きの社殿をズームアップ。日吉神社の鳥居の右側に道祖神。新しい座の上に道祖神を移設。花も供えられていた。右側には浄財用の投入口も。日吉神社の西側にある「法性山 妙運寺」所在地:神奈川県茅ヶ崎市西久保1564日蓮宗の寺院で、本堂の裏手には新湘南バイパスの茅ヶ崎JCTがある。駐車場に咲く河津桜。河津桜の中にはメジロが動き回っていた。日蓮宗法性山 妙運寺(みょううんじ)妙運寺本堂本堂の扁額「法性山 妙運寺」。本堂前に建つ、日蓮聖人像。14:18法性山妙運寺裏手(西側)の新湘南バイパス高架下にある、旧跡 懐島山(ふところじまやま)所在地:神奈川県茅ケ崎市西久保附近旧跡 懐島山の碑この地一帯は、中世、懐島郷といわれ、懐島氏を称し、源頼朝の家臣であった大庭景能の支配した所として知られ、鎌倉幕府との関連などが、「吾妻鏡」や「新編相模国風土記稿」の書物にも記録され、地名や伝承が残っています。この碑の立つところは俗に「えな塚」といわれ、次のような話が言い伝えられています。源頼朝の側室、丹後局は源頼朝の子を身ごもりますが、正室の北条政子に知られ、大庭景能の邸に身を隠しました。やがて、西久保の桜屋敷に移った局は、男の子を生みました。その子は三郎と名付けられ、三郎の(胎盤)を納めたところがえな塚と言われています。三郎は、成長した後に島津忠久と名乗り、九州の島津氏の祖となりました。この碑は近くの宝生寺が所有しており、この西久保地区が辿ってきた歴史を語る重要なものとなっています。碑の文中にある阿弥陀三尊は国指定重要文化財としてこの宝生寺に安置されています。 平成二十七年 三月 茅 ヶ 崎 市 茅ヶ崎市教育委員会石碑には「旧跡 懐嶋山」新編相模風土記日 懐嶋山 松四五株立てる小丘也 赤池川 四方萩園村境を流れる 宝生寺 懐嶋山と号す本尊大日を歩んす因ミニ源頼朝ノ妾比企氏丹後局懐妊ヲ政子ノ方ノ知ル処トナルニ及ビ兄能員ニ命ジテ密カニ当地大庭庄懐島景能ノ邸ニ預ケ次デ桜屋敷ニ移ッテ男子ヲ安産。三郎ト名付ケラレタ。文治元年六月十五日三郎七才ノ折鎌倉八幡宮ニテ頼朝ト親子ノ対面アリ忠久ト名乗リ島津氏ヲ称シタ。三郎ノえなヲ埋メタ塚上ニ松樹ヲ植エソノ古株ハ今モ地中ニ存スル。塚ノ東方一帯ヲ小字観音堂ト呼ビ阿弥陀三尊ヲ安置シタ御守堂ガアッタ。 以上 懐嶋山ノ伝承ヲ記ス旧跡懐嶋山の碑「えな塚」から西方向を望むが今日は富士山は見えず。小出川の河津桜並木。首都圏中央連絡自動車道の高架下に小出川沿いの河津桜が咲く。高架橋は、首都圏中央連絡自動車道の茅ヶ崎JCT ー 続く ー
2022.03.15
コメント(0)
「源頼朝と茅ヶ崎ゆかりの地」二回目の愛車リンちゃんでの散策です。北条義時 ~ 13人の重臣 ~1月から大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送が始まることで、鎌倉・湘南エリアに注目が集まっています。800年以上前、武士による政治が始まろうとした時代に茅ヶ崎ではどんな出来事があったのか、ゆかりの地とともに振り返ってみましょう。 【産業振興課観光担当・社会教育課文化財保護担当・文化生涯学習課文化推進担当】鎌倉時代の幕開けと茅ヶ崎ゆかりの地平安から鎌倉時代 ー いざ茅ヶ崎源頼朝が鎌倉幕府を立ち上げようとした時代、茅ヶ崎市域の支配者は大庭一族でした。一族は相模国高座郡南部の大庭御厨(おおばのみくりや)と呼ばれる一帯を治めていたと考えられています。一族のうち、大庭景能(かげよし)は鎌倉幕府の重臣の一人であり、茅ヶ崎にゆかりの深い武士です。景能や頼朝を中心に、この地で活躍した人物とその伝承を紹介します。茅ヶ崎ゆかりの人物相関図茅ヶ崎ゆかりの人物相関図 大庭景能:源頼朝の重臣 → 丹後局:伝説の女性 ← 北条政子大庭景能(かげよし) 源頼朝の重臣 相模国で勢力を拡大した鎌倉権五郎景正の子孫。相模国大庭御厨の一画である懐嶋(現在の 円蔵、浜之郷、矢畑)を本拠地とした。丹後局(たんごのつぼね) 伝説の女性 源頼朝の寵愛を受けて、薩摩の島津氏の祖先となる男子を、懐嶋の大庭景能の桜屋敷(西久 保)で産んだといわれる。丹後局は伝説上の人物とも考えられている。茅ヶ崎ゆかりの地今回訪れるのは、A:旧跡懐嶋山の碑(えな塚)、B:旧相模川橋脚、Ⅽ:神明大神宮。前回は2月24日(木)に、D:鶴嶺八幡宮、E:御霊神社 の2ヶ所を訪れた。所在地A:旧跡懐嶋山(かいとうざん)の碑(えな塚) 西久保 丹後局が鎌倉から逃れて源頼朝の子を出産、子の忠久は島津氏の祖となった伝説も。 丹後局は頼朝の子を身ごもったことを妻・北条政子に知られてしまいます。身を隠すた め、比企能員が丹後局を懐嶋郷の領主・大庭景能に預け、丹後局は桜屋敷に移った後、 無事男子を出産します。ここに、えな(胎盤)を埋めたことから「えな塚」と呼ばれてい ます。三郎と名付けられた子は鶴岡八幡宮社前で頼朝と対面。後に忠久と名乗り、薩摩 を本拠地とした島津氏の祖となったという伝説があります。B:旧相模川橋脚 下町屋1-551-2 源義経の亡霊伝説が残る、国史跡・国天然記念物の橋の遺跡。 源頼朝の家臣である稲毛重盛が、1198年に亡き妻の供養のため、相模川に橋を架けたと されています。その落成式に参列した頼朝は、帰途で義経らの亡霊に会い、驚いた馬から 落下しました。この時の怪我が原因で頼朝は亡くなったといわれています。Ⅽ:神明大神宮 円蔵2282 大庭景能が伊勢神宮を勧請し建立、京に向かう源頼朝が宿泊。 大庭御厨の一画である懐嶋を治めた景能は、自身の館の鬼門に伊勢神宮を勧請し、神明 大神宮を建立しました。1190年に京都へ向かう頼朝がここに宿泊しました。大庭氏が滅 びた後も、地域の人々に尊ばれてきました。館で奏でられた楽人の太鼓の音から、市指定 重要文化財の円蔵祭囃子が出来たと言われています。3月6日(日) 13:40昼食後天気が良いので愛車のリンちゃんで出かけた。民家の間を抜け、北側からの神明大神宮。神明大神宮所在地:神奈川県茅ケ崎市円蔵2282大河ドラマの放送で「ゆかりの地の幟」が立ち並ぶことを期待したが。少々盛り上がりに欠けるのでは。石鳥居と社殿。手水舎口を閉じた狛犬の「吽形像」口を開いた狛犬の「阿形像」。神明大神宮横には消防の分団。神明大神宮境内案内図昨年11月8日(月)に訪れた「懐嶋郷ゆかりの神明大神宮」👈をクリック願います。神明大神宮拝殿拝殿の彫刻拝殿の扁額「神明大神宮」。鶴岡八幡宮景能祭之碑大庭景能は頼朝の命により鶴岡八幡宮の建設を指揮した。社殿左奥にある「懐嶋館址」の石碑。懐嶋平権守景能公年譜保元元年七月十一日(1156) 保元の乱において、為朝の矢に当り負傷する。 保元物治承四年八月十七日(1180) 頼朝の挙兵に従い、山木兼隆攻めに加わる。 源平盛衰記 八月廿日 頼朝に従い、蛭が小島から石橋山へ向かう。 吾妻鏡 八月廿日 弟の景親に対し頼朝軍に加わるよう説得する。 源平盛衰記 八月廿四日 頼朝、石橋山合戦に敗れ、房州へ逃れる。 吾妻鏡 十月九日 景能、頼朝の居館、大倉亭の建築工事を始める。 十月十一日 景能、頼朝の妻政子の鎌倉入りを迎える 十月十二日 景能、鶴岡八幡宮の遷宮を指揮する。 十月十五日 頼朝、景能が移築修理した頼朝邸に入居する。 十月十七日 景能の預かる囚人松田有常の父義常が自殺する。 十月廿三日 景能、頼朝より懐島郷を安堵される。 十月廿三日 景能、囚人の河村義秀を預かる。 十一月廿日 景能、頼朝に有常の免罪を願う。 十二月十二日 頼朝、景能が建築を進めた新造の大倉亭に移る。治承五年一月一日(1181) 頼朝の鶴岡八幡宮拝賀の警固にあたる。 四月一日 頼朝の鶴岡八幡宮参詣につき境内を清掃する。 五月十三日 鶴岡若宮の新築工事の指図にあたる。 五月廿四日 小御所、御厨の建設につき指図にあたる。 七月八日 鶴岡若宮の遷宮の準備を進める。 ・・・・・後略・・・・・ ・・・・・前略・・・・・建久四年八月廿四日(1193) 景能、出家する。建久五年十二月二日(1194) 景能、鶴岡八幡宮の担当奉行に就任する。建久六年二月九日 (1195) 頼朝の上洛に伴い、随行を嘆願する。 三月十日 頼朝の上洛に随行する。正治元年一月十三日(1199) 頼朝、死去する。建仁元年三月十日 (1201) 景能の鎌倉の旧跡、地震により焼失する。承元四年四月九日 (1210) 景能、死去する。建暦三年五月二日 (1213) 景兼、和田の乱に加勢し敗死する。 五月九日 二階堂基行、懐嶋郷の地頭となる。 平成十四年一月吉日建之 奉納 阿諏訪 俊男大庭景能入道像大庭景能(景義)は小さいころから一貫して源氏側に付いた武将です。弟の大庭景親・俣野景久も、保元の乱の時は「源義朝(頼朝父)」に仕えていましたが、平治の乱で為朝が敗北したのちに、平氏方に移った。吾妻鏡から、大庭景能は20代前半で歩行困難となっていることから、1180年の石橋山の合戦以降は頼朝側に付いていますが、多くの戦いには随行せずに鎌倉の留守役を仰せつかっています。また、建築技術・戦術論にも長けていたようで、頼朝からアドバイスを求められたり、囚人を預かったり、建物の建築等と、戦以外の場面で貢献していたようです。本殿裏の狭い場所に石碑が立ち並ぶ。正面に拝殿、右側に円蔵自治会館、左側に神輿殿。県道45号線(茅ヶ崎中央通り)の神明大神宮入口交差点。この交差点を右斜め方向へ進み、神明大神宮へ。交差点を右に入ると角に「神明大神宮道」の石碑が立つ。 ー 続く ー
2022.03.14
コメント(0)
国道1号の鳥井戸橋交差点から鶴嶺八幡宮の松並木の参道を北上。鶴嶺八幡宮(つるみねはちまんぐう)源頼朝の先祖が戦勝を祈願、ゆかりの大イチョウや弁慶塚も。源義家が前九年の役に向かう際、父・源頼義が建立した懐嶋の八幡宮に頼義とともに戦勝祈願を行い、敵の安倍氏を破りました。後三年の役に向かう際も、懐嶋の八幡宮に戦勝祈願し、敵を制圧しました。義家は感謝の意を示すため、懐嶋から新たに浜之郷に分霊し、鶴嶺八幡宮を創建しました。1191年には、頼朝の命により大庭景能が社殿を修復し、再興しています。2月24日(木) 15:00参道脇に建つ石像群。記念碑東海道(国道一号線)より御社頭まで「八丁松並木」と古来より呼ばれ、四季を通じて色変えぬ松のみどり。浜降祭には先駆神社として先頭(露払い)に立ち他の神輿を導く名誉ある役目を果し、宮立ちには文化三年建立の「八幡さま」神輿の雄姿が提灯の灯に映し出され幽玄の世界が繰り広げられるのもこの参道である。「八幡さま」固有の基本形態をなす表参道、馬場道(流鏑馬)とも呼ばれる横参道、源平池の神域。これらの遺産を守り伝えられた先人への畏敬の念あれば、この遺産を更なる次の世代へと引き継ぐことが現世を生きる私たちの責務と思う。ここに平成の大事業として敬神尊祖の思い篤き有志の浄財をもって灯籠を建立する。 平成十四年七月吉日 鶴嶺八幡宮道祖神朝恵上人と参道 松並木八幡宮別当常光院住職 朝恵上人は、慶安2年(1649)三代将軍家光より、御料として七石の御朱印を拝領した記念に地頭山岡景信と相計り、まず社殿を再建し、更に八幡宮参道と社前の馬場に松の木を植えて、神域の保全整備をした先人である。その偉業を賛え後世に語りつぐために、こに上人の碑を祀る。 ながながと 参道に列並む 松のみどり 朝恵上人を 語りつぐべし 三郎 今もなほ 朝恵の松の 若みどり 十八世鴫立庵芳女女護ヶ石女性の守護神として、信仰されていた石神です。からだの悪いところ、願いごとのあるからだの部分に「祓え給え、清め給え」と三回心に念じながら石をなでて、からだの部分もなでる。左に、「女護ヶ石」、右に、「朝恵上人と参道 松並木」の句碑。手前に「授かり石」句碑には、「ながながと 参道に列並む 松のみどり 朝恵上人を 語りつぐべし 三郎」「今もなほ 朝恵の松の 若みどり 十八世鴫立庵芳女」7月の浜降祭にはこの参道を神輿をかついで海岸へ行く。鶴嶺八幡宮所在地:神奈川県茅ケ崎市浜之郷462境内には大イチョウが聳える。駐車場は境内の前に数台分ある。鶴嶺八幡宮のイチョウ境内の右側に鐘楼。神楽殿県指定天然記念物 昭和37年10月2日指定「鶴嶺八幡のイチョウ」 和名:イチョウ(イチョウ科)多数の側枝が叢成し、その数本がゆ着して成長し幹を形づくっていると言われ、ゆ着したと思われる部分が縦の線となって認められる珍しい巨木である。昭和59年12月には「かながわの名木100選」に選定されている。樹高:29メートル、胸高周囲:9.0メートル、樹齢:約1000年(伝承)イチョウは中国原産の落葉高木で、その仲間は古生代から中世代にかけて栄え、日本にも化石が産出する。1科1属1種の雌雄異株の裸子植物である。樹高45メートル、胸高周囲14メートル、樹齢約2000年に達するものもあると言われている。鶴岡八幡宮の大イチョウ 昭和三十七年十月二日 神奈川県天然記念物指定 平成二十二年三月二十六日 茅ヶ崎市指定景観重要樹木第一号 (指定名称 鶴嶺八幡のイチョウ) 根廻り 八・五メートル 目通り 九メートル 樹 高 二十九メートルこのイチョウは実生かまたは移植の際に多くの側枝を叢生し、勢いよいものが四・五本くっついて成長を続け、現在の幹を形づくったものとみられている。きわめて珍しい大木である。なお、次のような伝承がある。この神社は平安時代後期、源頼義が平忠常の乱を平定の折に、このあたり懐島郷を通り風光明媚の小丘に源氏の守り神、石清水を勧請したに始まるといわれ、その後、前九年の役で父頼義を応援に奥州へ向う途中の義家(八幡太郎)がそこに詣で、戦勝を祈願して現在地に遷座したという。このイチョウはその時義家が手植えたものといわれている。昭和五十九年、「かながわの名木100選」に選ばれている。 茅ヶ崎市 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館 (平成二十三年三月) 手水舎の後方に大イチョウが聳える。鶴嶺八幡宮の拝殿。鶴嶺八幡宮御祭神 應神天皇・仁徳天皇・佐塚大神・菅原道真(鶴嶺天満宮合祀)鎮座地 神奈川県茅ケ崎市浜之郷462番地 (電話0467-82-6725)例祭日 九月一五日御由緒相模国茅ヶ崎の総社として往古より八幡信仰の本地として名高い。康平年間(1058~1065)源頼義が東征の際、石清水八幡宮にならい、本郡懐島郷矢畑村本社に一社を創立し、後に源家が現地に奉還したと云う。更に治承年間(1177~1181)に源頼朝が鎌倉由比郷に遷したが、その旧社は存続し本社八幡と称したものと伝えられている。源氏代々が篤く崇敬し、源頼朝は治承年間に懐島の地若干を寄進し、また建久年間(1190~1199)に肥後国有為の庄七百貫を寄せ、懐島権守平景能をして社殿の修復を命じた。弘安四年(1281)には蒙古軍退散を祈り、その後、永禄・元亀年間(1558~1573)に兵火に罹り堂宇・古記録等を焼失した。古くは、本社の別当に十二坊があったが各々村々に離散し廃坊となった。正保年間(1644~1648)別当常光院の住僧朝恵は山岡氏と相計り社殿を再建した。また参道を整備し松を植えた。慶安二年(1649)八月には徳川家光が本村の地七石の朱印地を寄進した。明治維新の神仏分離に際し、別当常光院が復飾して祠掌となる。明治六年村社に、昭和九年九月六日に郷社に列格。 相模川の舟渡し行けば大いなる原あり、砥上ケ原とぞ。 この原のあたりに見えたる神社あり、問えば八幡勧請の一とぞ。 「花の梢一木一木に神さびたり をる人や砥上ケ原の八幡山神のもるてふ花の盛りは。」 東国紀行(天文十三年・一五四四)室町時代より拝殿前から南方向の境内、参道を望む。社殿の左側に「淡嶋神社」「神輿殿」。淡嶋神社御祭神 淡嶋神 少彦名命例 祭 三月三日神 事 針供養 二月八日・十二月八日 人形供養 随時由緒沿革淡嶋神社は鶴嶺八幡宮の末社として鎮座し、御祭神淡嶋神は伊弉諾命・伊弉那美命の御子神であられ、淡嶋信仰として往古より女人の守護神として崇敬篤い。又、少彦名命は太古草創の時に際し大国主神と共に国土を経営し、民生を教導し、医薬禁厭の事を司り給う。寛政元年十一月浜之郷宮ノ前に造営ありたるものを安政六年三月官令により当所に遷座す。明治十年三月、大正元年十月、近くは、昭和五十一年七月それぞれ奉修再興の棟札がその沿革を伝えている。(社前にて)厄除・縁結・子授・安産・学問・芸術・裁縫の上達をはじめ病気・事故などの生命の安全・生活の平穏無事を祈願されたい。又、針供養・人形供養の社としても名高い。ガン封じの祈願石淡嶋神社の前に「がん封じ」の石。ガン封じの祈願石社前右手の石はガンを始め難病を癒す霊石と云われ、多くの人に信仰されている。石と体の悪い所を交互にさすり「祓え給え、清め給へ」と三回念じる。此の石の兄弟石が神明大神(市内 円蔵2282番地)に祀られており、両方の石をさする事により病を癒す力が増すと云われている。針 塚針供養 二月八日・十二月八日。神輿殿。鶴嶺八幡宮の社殿。本殿横に「座敷わらしの遊ぶ場所」。座敷わらしの遊ぶ場所座敷「わらこ」は人の心を癒す為に子供の姿で現れました。「あなたが本来の純粋な自分に立ち返って、人生をもっと楽しみ、幸せや豊かさを感じられるように私が案内します」と。限定朱印「ゆたかさ詣で」 1体 500円このご朱印を枕元に置いて寝るとおかっぱの女の子に出会ったという報告がございました。拝殿の左奥に、「鉾宮神社」。鉾宮神社(ほこのみやじんじゃ)◇ 御祭神 須佐之男命 古刀比羅命◇ 御利益 厄除・疫病退散 開運・縁結び右奥には赤の幟が立つ、「鶴嶺稲荷神社」。鳥居の扁額、「鶴嶺稲荷神社」。鶴嶺稲荷神社◇ 御祭神 宇迦之○○大神◇ 御利益 商売繁昌・家内安全・社運繁昌・金運向上社殿の右側に「御神木 槇」。御神木 槇 樹齢一千余年康平年間(1058~1065)源頼義公 戦勝祈願 前九年役ノタメ一樹ヲ手植セシモノト云ウ 平成十三年四月再建 鶴嶺八幡宮枯れたため風雨を避けるため屋根の下に保存されている。15:20懐嶋山龍前院の石柱が建つ。龍前院六地蔵所在地:神奈川県茅ケ崎市浜之郷425番地15:45住宅街の中にある「本社丘(ほんじゃがおか)」地元の人は「蛇塚、ぽんぽこ山」と言っているとのこと。サクラの木が十数本ある。小さな石祠が建てられている。本社丘(ほんじゃがおか)本社丘は矢畑の鎮守 本社宮 発祥の地である。天保年間に行われたと伝えられる本社宮遷座の後も、旧跡として崇敬され大切に保存されている。本社宮はその後、関東大震災による遷座を経て、この地の北方約450m(矢畑142番地)に鎮座している。矢畑の伝承によれば、平安時代中期 平忠常の乱を平定に向う途次、源頼義がこの地に源氏の氏神である石清水八幡宮を勧請して戦勝を祈願した。陸奥守となり前九年の役に向かう頼義は、長子義家と再度戦勝を祈願、平定後、当八幡宮を鎌倉由比郷に勧請し、鶴岡八幡宮を創建した。後に、頼朝が現在の雪ノ下に遷座。後三年の役平定後、義家は浜之郷に神域を設けて遷座、鶴嶺八幡宮を創建したと伝える。本社丘に残った社は矢畑の鎮守となり、「本社宮」として今に伝わる。なお、別に江戸時代後期の地誌『新編相模国風土記稿』の浜之郷村鶴嶺八幡宮の項に「社伝に長承二年筑紫宇佐鶏足寺の僧が八幡本地種字の正体を奉じ来て祀る」との創建に関する記載もある。 平成二十四年四月 本社宮 総代 小高い丘になっておりスイセン、サクラの木。 ー 続く ー
2022.02.28
コメント(0)
御霊神社、浄土宗西運寺から次に向ったのは、「鶴嶺八幡宮(つるみねはちまんぐう)」。2月24日(木) 14:30浄土宗西運寺から南湖踏切を渡り東海道本線の北側へ。住宅街の中に墓地が点在している。道路脇に道祖神も建つ。石碑には、明治四拾年八月弐拾九日「黒青 馬頭観世音」 亀井要助建之墓地の合間を抜けると地蔵と道祖神。住宅街を振り返る。国道1号の南湖入口交差点からの南湖通り沿いにある、高野山真言宗 金剛院(こんごういん)所在地:神奈川県茅ケ崎市南湖1丁目2-11江戸初期より南湖の閻魔寺として親しまれている古刹で、明治41(1908)年、茅ヶ崎町(茅ヶ崎村、鶴嶺村、松林村が合併)が結成された時、仮の町役場はこの寺に置かれた。正面に本堂、左奥に「長生殿」。本堂の扁額「法林山」。境内の右側に「太師堂」。本堂の手前に庭園があり芭蕉の句碑。芭蕉の句碑「父母の しきりにこひし 雛子の声」句は貞亮5年(1688)〔笈の小文〕の旅で、高野山を訪れたときのもの。本堂前左側に地蔵が立つ。四国八十八霊場の寺名が刻まれている。境内の左側に「長生殿」。長生殿の扁額「長生殿」。若松先生市内最古の茅ヶ崎小学校の前身「琢章学舎」が、金剛院内に開校されたのは、明治六年五月一日である。明治七年に二代目教師として、「若松幹男先生」が赴任せられた。小笠原東陽先生の筆による碑文には、正面に若松幹男墓と書かれ、右側面には施主名が連記されている。いずれも篤学者で、東陽先生の「耕余塾」の門下生である。左側面には碑文が紹介されている。即ち、若松幹男は豊後国直入郡竹田邨の人なり、嘗て吾と同じく鶯林先生の門に游ぶ、既に相武の間に客し終に本邨小学の師となる。年丗五なり、寔れ明治九年五月廿日なり。釈号は道範文隷義應信士と日ふ。子有り里彦と日ふ。尚幼し。 明治十三年五月 東陽居士、小笠原薫 記碑文だけでは在職中に平凡に死去したことになっているが、三年目の学期末試験に南湖の生徒十三名が落第したため、痛切に責任を感じ、翌々月の五月廿日、腹を十文字に載ってその責をとったのである。願わくは檀信徒各位、ご先祖墓参の折、香花灯明を墓前に賜わらんことを。 茅ヶ崎ロータリークラブ若松幹男墓北側から本堂を見る。国道1号の鳥井戸橋交差点から富士山を望む。交差点横の千の川に架かる石原橋上からの「左富士」。国道1号の鳥井戸橋交差点に建つ、鶴嶺八幡宮大鳥居。鶴嶺八幡宮へはここから北上し約1キロある。鶴嶺八幡宮への参道は松並木になっている。国道1号沿いに建つ大鳥居。参道脇に建つ石碑に、「弁慶塚」と刻まれている。弁慶塚は参道から東に入った場所にある。弁慶塚所在地:神奈川県茅ヶ崎市浜之郷843-1入口には案内板もなく解りずらい。以前の写真では木が聳えていたが、枯れたようで切断された幹だけが残っていた。弁慶塚の由来武蔵国稲毛(川崎市)の領主、稲毛三郎重成が亡妻の冥福を願い相模川に橋を架け、建久九年十二月二十八日その落成供養を行った。源頼朝は多数の家臣を引きつれてこの式に参列、盛大な落成式が行われた。頼朝はその帰途鶴嶺八幡宮附近にさしかかったとき、義経・行家ら一族の亡霊があらわれ、乗馬が棒立ちになり、頼朝は落馬して重傷を負い、翌正治元年一月死去した。後年里人たち相計り義経一族の霊を慰めるため、ここに弁慶塚を造ったと伝えている。 昭和五十七年十一月一日 茅ヶ崎ロータリークラブ 茅ヶ崎郷土会廻りは区画整理され住宅地になっている。石碑には「弁慶塚」と刻まれている。国道1号の鳥井戸橋交差点を望む。鶴嶺八幡宮への参道に戻り北上。歩道にも松が植えられており自転車での走行も危ない。鶴嶺通りの「鶴嶺八幡宮前交差点」。鶴嶺八幡宮入口。鶴嶺八幡宮の「太鼓橋」、「鳥居」。鳥居の前に、吽形の狛犬。鳥居の右側に、口を開けた阿形の狛犬。松並木の参道にウメの花が咲く。参道には石燈籠が並ぶ。いつの間にかウメの花も咲き満開に。参道の西側に空堀、「天照皇大神宮(あまてらすこうたいじんぐう)」「天照皇大神宮(あまてらすこうたいじんぐう)」御祭神 天照大神コロナの関係で空堀にしているのか。林の中に、「天照皇大神宮」。天照皇大神宮の反対側(東)に梅林。梅林の中に、「懐嶋弁財天(ふところじまべんざいてん)」御祭神 市杵島姫命天照皇大神宮と同じような新しい石祠。ウメの香りが漂う、枝の中にメジロがいたが。河津桜が咲き始めていた。ズームアップ ー 続く ー
2022.02.27
コメント(1)
茅ヶ崎市観光協会から、ゆかりの地MAPに記載されている、「御霊神社」を訪れることに。2月24日(木) 14:15スマホの案内で国道1号を西に向かい、南湖入口交差点を左折して「南湖通り」を南下するとJR東海道本線の「最乗寺踏切」。東京から、59K731M 茅ヶ崎市十間坂2-614:25南湖通りから右側(西方向)へ入りくねくねと住宅街を進む。茅ヶ崎の南側の住宅街は迷路のようになっている。御霊神社(ごりょうじんじゃ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖2丁目9-10鳥居の前に、神社の石柱と赤いポストが建つ。鳥居から社殿への参道脇に、「地神塔(じじんとう)」。鳥井戸御霊神社の地神塔(じじんとう)昔、村人が鳥井戸御霊神社の参道に、この地神塔を据えたものと思われる。地神塔とは、死者の供養や自分の極楽往生を願って建てられた石塔である。作成は室町時代末期に造られた供養塔と思われる。神仏習合の時代の時である。その時は西運寺が御霊神社の別当寺であった時代でありました。我々、後世の人々がすべての人が幸に暮らせる様に、この地神塔を管理して参ります。令和三年六月 鳥井戸御霊神社 総代 加藤秀美鳥居をくぐり進むと小さな社殿。御霊神社の由緒御祭神 鎌倉権五郎平景政御祭神 九郎半官 源義経御霊信仰とは、厄災の発生や非業の死を遂げた人の怨霊を鎮めて、人々の平穏と繁栄を実現しようとする信仰である。御霊神社の創建年代は不詳であるが、古くより御霊山西運寺の領有地に毘沙門堂があったが、その後幾多の変遷を経て現御霊神社になったものである。言い伝えによれば、治承年間(1177~1182年)にこの地方一帯を治めていた懐島権守平景能が此の毘沙門堂に鎌倉権五郎景政の霊を祀った。建久九年(1198)鎌倉幕府初代将軍源頼朝一行が、相模川の橋供養の帰路、非業の死を遂げた弟の源義経の亡霊が現れ、驚きの余り落馬しそれが原因で翌年死去したとされている。里人たちはその怨霊を鎮めるため、源義経の霊を此の毘沙門堂に合祀したとも伝えられている。後年永く信仰の場になっていた当神社も、明治初年の神仏分離に際し御霊山西運寺より独立し現在に至っている。現社屋は昭和四年再建したものである。社殿前には「御霊神社 神社総代 加藤秀美」さんの説明板が並ぶ。拝殿の扁額「御霊神社」。社殿の前に植樹された「西行桜」。西行桜「ねがはくは 花のもとにて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ 西行」・ 西行法師の辞世の歌として特に有名な歌です。・ 西行法師はこよなく桜を愛した歌人でありました。・ この御霊神社の桜の木を「西行桜」と命名致しました。・ 「西行桜」が参拝者の皆様をお守りいたします。令和三年 正月相州 南湖 鳥井戸御霊神社 神社総代 加藤秀美イチョウの木は上部を伐採されている。社殿の右前に孫生(ひこばえ=切り株から出た芽)の「御神木 イチョウ」。「御神木 イチョウ」・ 御霊神社の境内のイチョウの木は太平洋戦争(突入 S16年8月終戦S20年8月15日) 時、国より苗木が下賜され、境内に植えられたものです。・ 平成28年、幹樹が空洞化したため伐採いたしました。・ そして親木の側より孫生(ひこばえ=切り株から出た芽)が誕生し、元気に成長いた しております。・ このイチョウの木は子孫繁栄の証として、非常に縁起よい木と親しまれ、御霊神社 のパワースポットになっております。・ 孫生(ひこばえ)の成長は鎌倉の鶴岡八幡宮のヒコバエ・イチョウと同じ成長をとげ ております。・ このイチョウの木に触れるだけで、幸福が宿ります。・ ご参拝者の皆様が幸わせになりますように。 令和四年正月 神社総代 加藤秀美砥上が原(とがみがはら)・ 鎌倉時代 相模川から藤沢の曳地川の間は砥上が原と呼ばれる寂しい砂地の荒部で ありました。・ 当時はこのあたりは鹿も多く生息致しておりました。・ 西行法師が鎌倉へ旅する途中砥上が原で次の歌を詠んでいます。 「芝まとふ 葛のしげみに 妻こめて 砥上が原に 牝鹿鳴く里」 意味としては「薮を覆うクズの陰に牝鹿を隠し、淋しい砥上が原に牝鹿の求愛の 鳴き声が響いているよ。」の意味になろう。・ 鳥井戸御霊神社は砥上が原の中央に位置する所へ堂宇を建立され、毘沙門天立像が 祀られました。その当時は毘沙門堂と呼称され、鎌倉権五郎景政公が大庭景能によ ってこの社に祀られてから御霊神社と呼ばれるようになったとおもわれます。・ この歴史・由緒ある鳥井戸御霊神社が皆様方をお守しております。相州 南湖 鳥井戸御霊神社 神社総代 加藤秀美御霊神社の狛犬うずくまった姿勢の獅子に似た一対の像は、御霊神社の狛犬です。魔よけために神殿の前に置かれています。御霊神社を守護すると共に参拝者の皆様も御守りいたしております。皆様が平和に暮らせますように・・・。鳥井戸御霊神社 神社総代 加藤秀美口をあいている方が阿形。口をとじている方が吽形。大庭景義はなぜ自分の祖先の鎌倉権五郎景正を鳥井戸の御霊神社に祀ったのか?まず考えられることは、鎌倉時代には既に現在の社の場所に毘沙門天のお堂があり、近郊では広く知られていたと思われます。当時、毘沙門天は武人たちの信仰が篤かった。毘沙門天は武神として武士一般に信仰されており、このことは北条時政や和田義盛に、いずれも仏師・運慶が造立した毘沙門天があったことで明らかである。・ 北の国、越後の上杉謙信は自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じ、「毘」を旗印とした。・ 和田義盛は、誇り高い鎌倉武士で源頼朝から御家人を統括する侍所の長官に任じられ、強い 権力を得た。北条時政が奈良の運慶に阿弥陀三尊像の彫刻を頼んだと聞くや、義盛も競うように依頼した。これが現在の浄楽寺(横須賀市) ※1 にある阿弥陀如来坐像、観音菩薩、勢至菩薩、不動明王、毘沙門天の立像で、いずれも力強い群像である。大庭景義は祖先の鎌倉権五郎景正をここに祀ったのは、毘沙門天のお堂だからと思われる。そして、西運寺が室町時代末期にこの毘沙門堂の北側に創建され、北側である理由は毘沙門天(多聞天) ※2 は北方を守る北方守護の神として信仰され、戦勝祈願や現生利益を求めて人気が高い守護神であったためである。西運寺の本尊ー阿弥陀如来を守護する役目であると思われる。※1 浄楽寺(横須賀市) 住宅街にある小さな寺だが、和田義盛が創立した寺であり、本尊の阿弥陀三尊像及び脇侍 仏毘沙門天、不動明王の両立像は運慶の作で、国の重要文化財に指定されている。※2 毘沙門天 四天王(持国天・広目天・増長天・多聞天)のうち北方を守る多聞天は特に独立して単独で 祀られることがあり、その場合は多聞天の梵名から「毘沙門天」という。御霊神社の左側にある「稲荷社」の「御霊稲荷」。御霊稲荷扁額は「御霊稲荷」。御霊神社の西側から社殿を望む。廻りには民家が迫る。御霊神社の北側に隣接する西運寺へ。浄土宗 西運寺(さいうんじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖2丁目9-34本堂の前に手入れが行き届いた立派な松。本堂の扁額「西運寺」本堂前に「地蔵菩薩」。本堂の左側に観音堂。観音堂の扁額「観音堂」。観音堂の前に、絵馬が無料「ご自由にどうぞ」と。無料と言っても浄財は・・・、小銭がなく諦める。観音堂の左側に無縁仏の墓石が並ぶ。後方はJR東海道本線。 六地蔵が並ぶ。民家の間に山門。寺標の石碑には「御霊山浄土宗 西運寺」。山門の扁額「御霊山」。樹齢 百年以上の松。松の下の石碑には「南無阿弥陀仏 西運寺旅行会」。年輪を感じさせる幹。 ー 続く ー
2022.02.26
コメント(0)
今年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」、このためタウンニュース等に関連する記事が多く記載されている。鎌倉時代を舞台に、主人公となるのは小栗旬演じる北条義時。合議制で集まった13人による権力のパワーゲームの中で、最も若かった義時が最高権力者になるまでを描くドラマである。初期の鎌倉幕府を支えた13人の御家人。13人とは、二代・源頼家時代にとられた政策「十三人の合議制」の構成員のこと。鎌倉幕府を開いた源頼朝に仕えた有力者のうち、頼家を支えるために選ばれた重臣たちです。● 大江 広元(おおえのひろもと) 1148~1225年 鎌倉幕府創設に貢献した文士御家人で、京都との交渉や鎌倉幕府の整備に活躍。鎌倉殿の 政治を補佐するとともに、和歌などの文化的な活動も支えました。● 中原 親能(なかはらのちかよし) 1143~1209年 京都の下級貴族の養子で幼少期を相模国で過ごしたため流人時代の頼朝と知り合い、京都 との人脈を活かして幕府の対朝廷交渉で大きな功績を果たしました。● 安達 盛長(あだちもりなが) 1135~1200年 頼朝の挙兵にあたり相模国(今の神奈川県)や下総国(今の千葉県)の武士たちを訪れて参加 を呼び掛け、幕府成立後も頼朝に目を掛けられていました。● 梶原 景時(かじわらかげとき) 1140?~1200年 頼朝の信頼が厚く、その側近として権勢を振るっていました。しかし頼朝の死後、御家人 らの弾劾により失脚、追放されて一族とともに滅ぼされてしまいます。● 比企 能員(ひきよしかず) ?~1203年 娘の若狭局が頼家の側室となって息子・一幡を産むと権勢を強めましたが、その後は北条 時政により殺害され、北条義時らに攻められた比企一族も滅亡しました。● 北条 時政(ほうじょうときまさ) 1138~1215年 北条政子・義時の父で鎌倉幕府の初代執権でしたが、政子・義時と対立して失脚、出家(牧 氏の変)し、退いた伊豆で10年を過ごした後、亡くなりました。● 和田 義盛(わだよしもり) 1147~1213年 頼朝が鎌倉を拠点に定めると初代侍所別当(長官)に。頼朝の死後、北条義時の挑発を受け て挙兵に追い込まれ敗死、和田一族も滅亡しました。● 三善 康信(みよしのやすのぶ) 1140~1221年 頼朝挙兵以前は京都でキャリアを積んでいました。鎌倉に下向してからはそのキャリアを 活かし、文書作成などの実務や寺社関係の職務に携わりました。● 三浦 義澄(みうらよしずみ) 1127~1200年 三浦郡を本拠とした三浦氏の一族で、石橋山の合戦で安房国に敗走した頼朝を助けました。 死後は息子の義村が北条氏に協力しながら、勢力を強めていきました。● 二階堂 行政(にかいどうゆきまさ) 生没年不詳 鎌倉幕府では公文所の設置や寺社の差配、幕府の財政などの業務に携わりました。政所が 設置されると、実務能力を発揮して活躍していたと考えられています。● 足立 遠元(あだちとおもと) 生没年不詳 武士として活躍する一方で京都との縁もあり、文筆に長けていました。文書の保管を行う 公文所では、中原親能や二階堂行政などと共に能力を発揮しました。● 八田 知家(はったともいえ) 1142~1218年 頼朝の挙兵では、兄・朝綱に先んじて頼朝のもとに馳せ参じ、重用されました。知家の嫡 男・知重は小田氏を名のり、鎌倉時代を通じて繁栄しました。● 北条 義時(ほうじょうよしとき) 1163~1224年 「十三人の合議制」構成員に選ばれ、初代執権時政を隠退させると、二代執権として姉の政 子と幕府の政治の実権を握ります。1219年、鎌倉幕府の初代から3代にわたる源氏将軍が 途絶えると、鎌倉幕府の実質的な支配者となりました。1221年に後鳥羽上皇より北条義時 追討の宣旨が全国に発布されましたが、幕府軍は朝廷を制圧。義時は幕府を勝利に導きま した。タウンニュースの2022年1月7日(金)、No.1796 では「源頼朝とゆかりの地」を紹介。MAPをもらうため、茅ヶ崎市観光協会へ電話「まだある」とのことで窓口へ行くことに。2月24日(木) 14:00天気が良いので退院後始めて愛車のリンちゃんで出かけた。茅ヶ崎中央公園公園内のウメが綺麗に咲いていた。メジロが動き回っていたが。紅梅も綺麗に咲いていた。公園前の茅ヶ崎中央通り(県道45号線)の北方向。茅ヶ崎市役所横の歩道橋には「祝 茅ヶ崎出身アーティスト 加山雄三さん」の垂れ幕。同歩道橋上からの、茅ヶ崎市民文化会館。茅ヶ崎市役所の東側には「東横INN」が建設中。西側には、茅ヶ崎市役所。南側には、国道1号の茅ヶ崎駅前交差点。国道1号に面した、東横INN湘南茅ヶ崎北口の一階にある「茅ヶ崎市観光協会」所在地:神奈川県茅ケ崎市茅ヶ崎1丁目2-53 東横INN湘南茅ヶ崎駅北口。茅ヶ崎駅の改札口近くにも出張所がある。かつてはこの辺りにも旧東海道の松並があった。東海道を200年以上見守ったクロマツ。この切り株は、高さ 20m、太さ 2.5m、樹齢は約200年(江戸時代後期から生息)で、茅ヶ崎地区に植樹されたクロマツの中で一番の巨木でした。平成21年3月に腐朽のため伐採させましたが、茅ヶ崎駅北口周辺特別景観まちづくり地区のランドマークであった証をモニュメントとして残し、その記憶を継承します。 平成24年3月 茅ヶ崎市頂いた「ゆかりの地 MAP」、「源頼朝と茅ヶ崎ゆかりの地」2022年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」。放送をきっかけに、鎌倉幕府初代将軍源頼朝などに関連する茅ヶ崎ゆかりの地を紹介します。頼朝の生きた時代に思いを馳せてみませんか。【頼朝と茅ヶ崎】鎌倉幕府は1192年(※諸説あり)、源頼朝が創設した武家政権。1180年、伊豆に流されていた頼朝は、反平家の旗をあげた。懐嶋(現茅ヶ崎市の円蔵、浜之郷、矢畑付近)の在地の武士・大庭景能は頼朝に味方した。一方、弟・大庭景親は相模(現神奈川県)の武士を率いて、頼朝と戦い、頼朝は石橋山で敗北した。頼朝が安房・武蔵を経て鎌倉に入ると、景能は頼朝の新邸や鶴岡八幡宮の造営など鎌倉幕府の基盤作りに奔走した。景能の懐嶋の館は1190年、頼朝が京へ上るときには、宿となった。頼朝の寵愛を受けた丹後局の兄・比企能員は、「鎌倉殿の13人」の一人として活躍した。稲毛重成が相模川に架けた橋の落成供養に参列した頼朝は、帰途で弟・義経らの亡霊に会い落馬した。それが原因か定かではないが、その後、頼朝は亡くなった。ゆかりの地 MAPA、鶴嶺八幡宮(つるみねはちまんぐう) 頼朝の祖先が戦勝を祈願。景能が社殿を再興。B、旧相模川橋脚 重成が架けた橋の遺構。義経らの亡霊伝説が残る。C、旧跡懐嶋山の碑(えな塚) 丹後局が頼朝の子を出産。D、御霊神社(ごりょうじんじゃ) 景能が祖先を祀り、義経の霊も祀った神社。E、神明大神宮(しんめいだいじんぐう) 景能が建立、京に向かう頼朝が宿泊。F、弁慶塚 義経の家来である弁慶の霊を供養した。① ~ ⑦ 周辺グルメも案内。既に訪れたところもあるが今後「ゆかりの地 MAP」を参考に再度訪れてアップしたい。 ー 続く ー
2022.02.25
コメント(0)
2月16日(水)に退院後このシリーズの後半をアップしました。連続投稿を継続するためのアップとなりキャプションが今一でしたがお許しの程よろしくお願いします。12月11日(土) 16:56陽が沈んだ稲村ヶ崎より伊豆半島方向。稲村が崎公園には多くの人が座り込み夕陽シーンを楽しむ。遠く左側に箱根の山並み、金時山、富士山と続く。江の島、右に金時山。17時になり、江の島シーキャンドルが点灯。右は国道134号のテールランプ。箱根の山並み。江の島シーキャンドルをズームアップ。17:01稲村が崎公園前交差点横の「稲村ヶ崎温泉」。17:07稲村が崎公園から国道134号を走り、七里ヶ浜海岸駐車場へ。Pacific DRIVE -IN所在地:神奈川県鎌倉市七里ガ浜東2丁目1-12いつも多くの観光客が食事、テークアウトして車中で食べる人も。七里ヶ浜海岸駐車場の西側から江の島をのぞむ。江の島シーキャンドルをズームアップ。江の島シーキャンドルが光る。七里ヶ浜海岸駐車場の西側、行合橋交差点から江の島、富士山を望む。行合橋辺りからの富士山もビューポイントである。17:11七里ヶ浜海岸駐車場を後にし、国道134号を走り帰路に。17:18江ノ電鎌倉高校前駅辺りの藤沢行き電車。17:24腰越、江ノ島駅間の電車通。17:27江ノ電江ノ島駅。スズメも衣裳替えをしていた。江ノ島駅前。17:32江ノ島駅前から、すばな通りを走り境川に架かる弁天橋上から。正面に小田急片瀬江ノ島駅。弁天橋上から境川の上流を望む。17:35小田急片瀬江ノ島駅。ライトアップされた小田急片瀬江ノ島駅。17:38小田急片瀬江ノ島駅から国道134号の、片瀬江ノ島駅入口交差点。片瀬江ノ島駅入口交差点から新江ノ島水族館までの道路脇のライトアップ。ブルー系のイルミネーション。花壇のイルミネーション。新江ノ島水族館前にはこの時間でも観光客が列。17:41新江ノ島水族館のツリー。17:43新江ノ島水族館から江の島シーキャンドルを望む。真っ暗なサイクリングロードを走り茅ヶ崎市内へ、時間も遅くなり夕食をとることに。18:35松林通りにある「へっちゃらや」所在地:神奈川県茅ヶ崎市菱沼3丁目1-37暖簾に広島風とあったので以前から訪れたいと思っていたお好み焼き店に入る。メニューも年期が入り、営業をはじめて十数年と。大きな鉄板があり、広島風お好み焼きをオーダー。これは海鮮風でいろんな具材がのる。焼いたお好み焼きにマヨネーズをかける店長。これもパフォーマンスで1メートル以上離れてお好み焼きに「プッチュ」。マヨネーズが飛んでいるのだが。広島風お好み焼き。ソバと豚バラ入りのお好み焼き。ビールのつまみで、バター牡蠣もオーダー。ビール二杯を飲み占めて、2,250円でした、美味しかった。19:30夕食後自宅へ到着。到着時のバッテリー残量は60%、走行可能距離は51kmであった。よって今日の走行距離は、94ー51=43km であった。歩行数は、9,900歩でした。 END
2022.02.21
コメント(2)
2月2日(水)から16日(水)まで15日間緊急入院したため、このシリーズのアップが遅れましたことをお許しください。16日(水)の午前に退院し自宅に戻りましたので修正の上アップします。12月11日(土)14:45臨済宗建長寺派海蔵寺(かいぞうじ)所在地:神奈川県鎌倉市扇ガ谷4丁目18-8この手前左側にある広い駐車場(無料)に自転車を駐輪。海蔵寺(かいぞうじ)鎌倉時代、七堂伽藍を持つ規模の大きな寺があったと伝えられていますが、鎌倉幕府滅亡時に焼失し、その後、応永元年(1394)に鎌倉公方足利氏満の命で、上杉氏定が心昭空外を招いて再建され、扇ガ谷上杉氏の保護を受けて栄えました。この寺には多くの言い伝えがあります。空外は「那須の殺生石」の話が有名です。仏殿の薬師如来坐像は「啼薬師」「児護薬師」といわれ、胎内に仏面を収めており、啼薬師伝説があります。門前には、「千代能が いただく桶の 底脱けて 水たまらねば 月もやどらじ」と歌われたと伝えられる「底脱の井」や、鎌倉時代の遺跡である「十六の井」もあり、水の寺といわれています。 ● 宗 派:臨済宗建長寺派 ● 山号寺号:扇谷山海蔵寺 ● 建 立:応永元年(1394) ● 開 山:心昭空外(源翁禅師)山門9月に訪れた時は、山門前の階段沿いにはハギ生い茂っていた。ハギの木は綺麗に剪定されていた。海蔵寺には今年何度来たか、境内にはいつ来ても花が咲いており楽しませてくれる。モミジが見事に紅葉。鐘楼、書院。ネコがウメの古木に登る。何かを追いかけているのか。携帯で撮影する観光客。岩の上に植栽されたのかハゼの紅葉。山門から振り返る。早咲きのスイセンが咲く。本堂裏の書院。本堂前から山門を望む。ツツジも咲き終わった後整姿されているようだ。鮮やかな色の紅葉。海蔵寺シンボルの赤い傘。本堂、薬師堂(左側)。山門前の紅葉。14:58山門廻りの紅葉。15:02臨済宗建長寺派寿福寺所在地:神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目17-7壽福金剛禅寺の外門。外門前で子供たちが遊ぶ。寿福寺(じゅふくじ)源頼朝が没した翌年、妻の北条政子が明菴栄西を開山に招いて建立した鎌倉五山第三位の寺です。鎌倉幕府三代将軍の源実朝も、再三参詣しました。栄西は日本に初めて臨済宗を伝えた禅僧で、『喫茶養生記』を著すなど、お茶を飲む習慣を日本に伝えたことでも知られています。裏山の「やぐら」(中世の横穴墳墓)には、源実朝、母・政子の墓といわれる五輪塔があります。墓地には俳人・高浜虚子や作家・大佛次郎などが眠っています。 ● 宗 派:臨済宗建長寺派 ● 山号寺号:亀谷山壽福金剛禅寺 ● 建 立:正治2年(1200) ● 開 山:明菴栄西源実朝(1192 ~ 1219)建久3年、源頼朝の次男として誕生12歳で鎌倉幕府第三代将軍となる。蹴鞠、管弦、和歌に秀でた文化人で金槐和歌集は有名である。寿福寺との関係は深く、開山栄西禅師が実朝に献上した喫茶養生記をはじめとする由縁の品々も、この寺に伝えられている。外門から山門への参道。逆光を浴びるモミジ。山門前から外門への参道。15:06紅葉には少し早かったようだ。15:12イタリア料理の「ラ・ルーチェ」所在地:神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目7-6店は、JR鎌倉駅から小町通りを歩き一番奥に位置しており鶴岡八幡宮の三の鳥居から近い。三の鳥居方向から入り、左前方のビルの一階にある。15:16鶴岡八幡宮の三の鳥居。日蓮宗 妙本寺へ向かう。15:24日蓮宗 妙本寺所在地:神奈川県鎌倉市大町1-15-1二天門前の紅葉が素晴らしいのだがまだ少し早かったようだ。右側の坂を上ると駐車場がある。妙本寺(みょうほんじ)この寺一帯の谷を比企谷といい、源頼朝の重臣・比企能員らの屋敷がありました。比企一族は二代将軍・頼家の後継者争いの際、北条氏を中心とした軍勢にこの地で滅ぼされました(比企の乱)。その後、乱から逃れていた末子能本が、日蓮聖人に帰依し、一族の屋敷跡であるこの地に法華堂を建てました。これが妙本寺の始まりといわれています。四月から八月にかけて、桜・カイドウ・シャガ・ノウゼンカズラなどが鮮やか花をつけ、静かな境内を彩ります。 ● 宗 派:日蓮宗 ● 山号寺号:長興山妙本寺 (ちょうこうざん) ● 建 立:文応1年 (1260) ● 開 山:日蓮聖人 ● 開 基:比企大学三郎能本写真は、祖師堂とノウゼンカズラ二天門前の紅葉が期待されたのだが。二天門天保11年(1840)に建立されたという堂々とした弁柄塗りの「二天門」。脇には大きなカエデがあり、紅葉の季節はとても美しいと妙本寺の境内には比企一族の墓地がある。前撮り撮影にカップルが一組。紅葉を見上げる。妙本寺は、今年放映されるNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のメンバーである、比企能員に関係する寺である。鐘楼廻りの紅葉。鐘楼下から二天門、祖師堂。夏に楽しませてくれたノウゼンカズラ。祖師堂前の境内。祖師堂の前には、カイドウ、手前にはノウゼンカズラの古木。祖師堂の左奥へ。祖師堂。祖師堂左奥にある池に映える紅葉。祖師堂の左奥の一段高いところに「源媄子墓」がある。源媄子(みなもとのよしこ)墓参拝者がいるのであろう、花が飾られていた。15:37源媄子墓鎌倉幕府二代将軍源頼家公の息女で四代将軍源頼経公の夫人である。分暦元年(1234)九月二十七日三十二才で御逝去。尚當地は新釈迦堂の地である。 ー 続く ー
2022.02.19
コメント(0)
円覚寺の弁天堂へ登る。ここは向かい側下の東慶寺境内から見上げている堂である。12月11日(土) 13:43弁天堂の境内の隅に墓碑が立つ。こちらの墓碑は、 「天眞 喜屋宗蔵居士 ○○」 「蘭亭居士之墓」南西の方向に富士山が見える。南方向の眼下には東慶寺境内。2月には境内のウメの花が咲き始める。弁天堂の前に建つ国宝の、「洪鐘(梵鐘)」。13:47洪鐘弁天茶屋お抹茶はもちろんのこと、汁粉やコーヒーも愉しめ、北鎌倉を一望できる場所である。紅葉の最盛期はこれからか。弁天堂を後にし階段を下りる。弁天堂から下り、山門。13:52正面に総門、右は拝観受付、この時間帯観光客が少なかった。まだ見るべきところが多々あったが約1時間45分の散策で後にすることに。総門からの紅葉。総門の扁額、「瑞鹿山」。総門横の塀と紅葉。陽を浴びて映えるモミジ。総門前の石段。円覚寺総門前の紅葉もビューポイントである。14:00JR横須賀線、北鎌倉駅方向。14:04県道21号線(横浜鎌倉線)を鎌倉方面へ向かい、東慶寺入口へ戻る。この塀の後側に自転車を駐輪して円覚寺を散策した。14:09東慶寺から鎌倉側の数百メートルのところにある、「浄智寺」へ。鎌倉五山第四位の「浄智寺」所在地:神奈川県鎌倉市山ノ内1402県道21号線から百メートルに位置し、石段を上ると総門、両側に石燈籠。浄智寺(じょうちじ)鎌倉五山の第四位であり、豊かな緑におおわれた境内は、国の史跡に指定されています。総門の手前にある古い石橋のたもとには、鎌倉十井の一つである甘露ノ井があり、その先には、印象的な苔むした参道の階段と、上に鐘楼がある珍しい山門があります。仏殿には、室町時代に造られたという三世仏坐像(向かって左から阿弥陀・釈迦・弥勅)が安置されており、それぞれ過去・現在・未来を意味するといわれています。また、境内一角の洞窟には、鎌倉・江の島七福神の一つである布袋尊がまつられています。国指定重要文化財に指定されている地蔵菩薩像や「西来庵修造勧進状」などは、鎌倉国宝館に預けられています。 ● 宗 派:臨済宗円覚寺派 ● 山号寺号:金宝山浄智寺 ● 建 立:弘安4年 (1281) ● 開 山:兀庵普寧(ごったんふねい)、大休正念、南洲宏海 ● 開 基:北条宗政、北条師時 ● 史 跡 名 :国指定史跡浄智寺境内(昭和41年2月28日指定) 写真は石段と山門 総門の扁額、「寶所在近」寶所在近の意味は、「がんばって修業を積めば、意外と早く悟りに到達することができる」と。浄智寺の総門手前にある井戸は、鎌倉十井のひとつ甘露ノ井(かんろせい)。総門を入った広場では、いつもキッチンカーで珈琲販売をしている。以前はなかったが、最近できたのかレンタサイクル。また、ここの右側に駐車場(無料)、自販機、トイレがある。広場から苔むした参道の階段を登り、振り返る。参道の階段を登ると正面に「山門」。平成19年(2007)に再建された鐘楼門には「山居幽勝」の額が掲げられ、花頭窓のある上層には慶安2年(1649)の梵鐘が吊るされている。境内一角の洞窟には鎌倉・江の島七福神の一つである布袋尊がまつられている。ここからは拝観料が必要である。浄智寺の外から、鐘楼門。本堂 曇華殿(どんげでん)曇華殿と呼ばれる仏殿で、御本尊は室町時代に作られた木像三世仏坐像で県指定の重要文化財。本堂前では多くの観光客が紅葉を追う。本堂の扁額、「曇華殿」。本堂 曇華殿と紅葉。陽を浴びるモミジ。本堂前の紅葉。浄智寺の東側には、葛原岡神社へ至る葛原岡ハイキングコースがあり、いつも多くのハイカーが登る。イチョウの葉の絨毯が広がる。上を見上げるとイチョウの黄葉が広がる。坂を下り総門へ。14:28総門下に鎌倉十井の一つである甘露ノ井がある。甘露ノ井に映える紅葉。波が起こり揺れる水面。14:36浄智寺から県道21号線(横浜鎌倉線)へ戻り、横須賀線の踏切を渡り鎌倉方面へ進む。臨済宗建長寺派 長寿寺(ちょうじゅじ)所 在 地 :神奈川県鎌倉市山ノ内1520季節・曜日限定特別拝観日 春季:4月・5月・6月 金土日及び祝日 秋季:10月・11月 金土日及び祝日 12月1日から6日まで 拝観時間:午前10時 ~ 午後3時(雨天中止)左側の坂は、亀ヶ谷坂切通で山越えで「扇ガ谷地区」へ。亀ヶ谷坂切通を上り、閉鎖されている境内を覗き見る。4月9日(金)の特別拝観日に参拝し書院から境内を見た。14:39特別拝観日の秋季:10月・11月 金土日及び祝日 12月1日から6日まで。この日は12月11日で閉鎖中であった。 ー 続く ー
2022.02.12
コメント(0)
円覚寺の北側の最奥部へ入る。12月11日(土) 13:18左手奥にあったのが「続燈庵(ぞくとうあん)」の「山門」。ここも立入禁止になっていた。右側に、「續燈庵」の石碑。続燈庵の山門をズームアップ。続燈庵は、第三十世大喜法忻(だいきほうきん・仏満禅師)の塔所。本尊は観音菩薩。室町幕府の引付方頭人の今川範国が法忻のために創建し、のちに今川氏親によって再建された。本尊の観音菩薩は、もと東慶寺に伝えられた像である。黄梅院の山門下には多くの観光客。黄梅院(おうばいいん)北条時宗公の夫人、覚山尼が時宗公追善の為に建立した華厳塔の敷地に円覚寺第一五世夢窓国師の塔所として建てられ、国師の門弟方外宏遠(ほうがいこうえん)が文和三年(1354)に開創した。後の応安元年(1368)、室町幕府二代将軍足利義詮(よしあきら)の遺骨が分骨され足利家の菩提所としての性格を帯びている。山号は「伝衣山」。 本堂には、本尊「千手観音菩薩坐像」の他に「夢窓国師坐像」、室町期のものとされる銅像「千手観音菩薩立像」、木造「聖観世音菩薩立像」がまつられている。黄梅院の境内へ入る。黄梅院の「本堂」。当初は夢窓疎石の塔所として建てられたが、足利将軍家の手厚い保護を受け、以来足利氏の菩提寺としての性格が強くなったとのこと。本堂の扁額、「黄梅院」と書かれているのだろうが、「黄??」。本堂の奥に、観音堂(武山堂)。手前には四季折々にいろんな花が咲くようだが。観音堂(武山堂)。武藤山治の寄進した。観音堂の扁額、「聖観世音」。聖観世音像。黄梅院の山門から南方向を望む。山門前に紅葉が広がる。黄梅院の山門を振り返る、多くの観光客が次から次と。紅葉が映える。佛日庵の向かい側に、「白鹿洞(びゃくろくどう)」。白鹿洞(びゃくろくどう)円覚寺開堂の日、開山無学祖元禅師の説法を聴こうとして集まった多くの人々と共に、この洞穴より白鹿が群れをなし、禅師の説法を聴いたという。大衆は大いに驚異し、この奇瑞譚により山号を「瑞鹿山(ずいろくさん)」と定めた。これはお釈迦さまが初めて説法をおこなった鹿野苑(ろくやおん)の嘉例に擬したという。寺号は「円覚興聖禅寺』というが興聖の号は開山国師ゆかりの地、径山の「興聖萬寿禅寺」に由来している。 大本山 円覚寺 三宝会 参道を南方向に下る、左側に寺号標石「如意庵(にょいあん)」。階段を上り「山門」へ。山門前には、「これより先、檀信徒以外の方は 御遠慮下さい。」と。山門から中を望むと正面に「本堂」、奥に墓地。如意庵は、第三十六世無礙妙謙(むげみょうけん)の塔所。本尊は宝冠釈迦如来。開基は上杉憲顕で1370年(応安3年)の創建。伊豆の国市にある国清寺がその前身であるといわれている。国清寺は律宗寺院であったものを、憲顕が妙謙を開山に迎え禅宗の寺としたと考えられている。妙謙は、1369年(応安2年)に示寂。翌年、弟子たちによって庵が開かれた。開祖木像の頭部が残されている。山崎の昌清院は如意庵の末寺である。如意庵の向かい側奥に「舎利殿」の山門。妙香池廻りの紅葉。国宝 洪鐘(おおがね)洪鐘・弁財天へ向かう。唐門(勅使門)方丈の正門である唐門は天保十年(1839)の建立です。屋根の形が弓を横にしたような形をしていますが、これを「唐破風(からはふ)」といいます。松と鳥、獅子や象(または獏)、扉には龍・雲・波濤など、見事な彫り物が見られます。道案内「国宝洪鐘・弁天堂」仏殿の裏側。唐門(勅使門)を振り返る。国宝洪鐘(おおがね) 案内洪鐘弁天茶屋。蔵六庵裏の竹林。大弁財天への案内。13:36鳥居の手前に、「洪鐘道」の石碑が建つ。洪鐘(おおがね) 国宝一三〇一年「正安三年)に鋳造された国宝の洪鐘です。北條時宗公の子、貞時公が国家安泰を祈願して鐘の鋳造を鋳物師に命じましたが、鋳造がうまくゆかず、江ノ島の弁天さまに七日間参詣したところ、ある夜の夢の中で円覚寺の白鷺池の底を掘ってみよというお告げがあり、その通りにしてみると池の底より龍頭形の金銅の塊を発見、それを鋳造してこの洪鐘を造ったといわれています。この霊験に感激された貞時公は江ノ島の弁天さまを洪鐘の神体として「洪鐘大弁才功徳尊天」と名付けて弁天堂を建立しました。 大本山 円覚寺 三宝会石鳥居の後方に階段。140段の階段を上り、弁天堂へ。石碑は「弁天堂」の修築記念碑。 屋根葺替 北鎌倉 齋藤利助 石段修理 東 京 弁天講中 昭和三十一年四月途中にあったこの石碑の上部は破損していた。石段の上に「弁天堂」の姿が見えて来た。円覚寺 弁天堂執権北条貞時(時宗の子)が7日7夜江の島弁才天に参籠し天下泰平、万民和楽を祈り霊夢を感じて大鐘を鋳造(正安3年、1301年)し、当山に奉納した。あわせて弁天堂を建立し、弁才天を祀り当山の鎮守とした。以来霊験あらたかにして祈願すれば必ず感応を蒙むといわれて来た。又、この境地は眺望絶佳にして遠く富士山をも望むことが出来、多くの人々より称賛されてきた。因に当弁才天の祭礼は11月28日である。又、60年毎の己の年に大祭を行い、江の島弁才天と当山との間て盛大にとり行なわれる。 平成14年2月 大本山 円覚寺 弁天堂の扁額、「大弁財天」。内陣を望む、両側の壁面には絵が飾られている。両側に脇侍。右側の上には2枚の絵、「行列の絵」。左側の上にも2枚の絵。弁天堂の前に、「洪鐘(梵鐘)」。洪鐘(梵鐘)正安3年(1301年)に北条貞時が国家安泰を祈って鋳造、寄進した時の住持は西潤子曇、鎌倉第一の大鐘で国宝に指定されている。物部国光の作て、形が雄大てありながら細部にまて緻密な神経がゆきわたり技法も洗練されている。鎌倉時代後期を代表する梵鐘である。 平成13年10月 文 化 庁 大本山 円覚寺鐘楼も長い年月で劣化。13:42鎌倉で最大の梵鐘で、鎌倉三名鐘の一つで建長寺の梵鐘とともに国宝に指定されている。 ー 続く ー
2022.02.11
コメント(0)
円覚寺の奥(北方向)へ進む。12月11日(土) 12:48龍隠庵(りょういんあん)から下り参道へ。居士林(こじりん)禅を志す在家の人の坐禅道場である。もと牛込にあった柳生流の剣道の道場であったものを、昭和3年(1928)に柳生徹心居士により寄進され移築された。現在も学生坐禅、土日坐禅会など、初心者でも参加できる坐禅会が定期的に開かれている。居士林(濟蔭庵)(さいいんあん)明治の頃より円覚寺では、在家の人の坐禅(居士禅)が盛んになり、山岡鉄舟、鈴木大拙、夏目漱石などの居士が参禅しました。大正十一年にこの濟蔭庵に居士の坐禅道場として居士林が開設されましたが、大正十五年に消失、早大濟蔭団が中心になり復興運動を起こしました。幸いなことに柳生新陰流の剣道場を、柳生基夫氏(徹心居士)が寄付を決断され、昭和三年にこの濟蔭庵に移築して開単となり、以来八十年近く、学生や社会人が中心となって雲水と同じように修行する学生坐禅会、土日坐禅会を運営してきました。堂内には本尊の不動明王がまつられ、「頭燃を救うが如し」の扁額が掲げられ、心の安らぎを求めて坐禅に来る人を持ち受けています。 大本山 円覚寺 三宝会 居士林(濟蔭庵)の庭にはいろんな石碑が置かれていた。紅葉の下でコケも映える。立入禁止になっており庭には入れず。石灯籠も。居士林の裏は広いスペースになっていたが。入口に地蔵が立つ。道を挟んで居士林の向かい側に「法堂跡(はっとうあと)」がある。現在は法堂跡にはなにも建っていない。法堂跡(はっとうあと)法堂とは禅宗寺院で住持が説法をする重要な場である。円覚寺法堂は北条高時公の時代、北条貞時公十三回忌にあたる元享三年(1323)に建立。「直指堂」と命名された。円覚寺が創建されてから約四十年後のことであった。鎌倉時代未期には山門、法堂はもちろんのこと、方丈・華厳塔・佛日庵なども揃い寺の諸建物がことごとく整えられた。法堂落成から応安七年(1374)の大火で全山が焼亡するまでの約五十年間が寺勢の最も繁栄した時期だったのである。 大本山 円覚寺 三宝会参道の左手にあったのが「寿徳庵(じゅとくあん)」への石段。寺号標石「寿徳庵(じゅとくあん)」大本山円覚寺 百観音霊場 第五番札所 寿徳庵寿徳庵は、円覚寺第150世・叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき)の塔所。墓地には中興の三浦道寸(義同)一族の墓がある。三浦道寸は永正十三年(1516)、北条早雲により滅ぼされた。これにより三浦一族は400年の歴史に終止符を打った。寿徳庵へは立入禁止になっており途中で引返すが、南方向に先程訪れた、「居士林」、中腹に、「龍隠庵」が建つ。同場所から、「仏殿」、「山門」の屋根。奥へ進むと左手に「やぐら」の中に石仏。方丈(ほうじょう)禅林の住持の居間をいう。維摩居士の居室が方一丈であったことに由る。今は主に檀信徒の法要、座禅会、研修会等の教化の場に用いられる。方丈の扁額、「方丈」。方 丈本来は住職が居住する所を方丈といいましたが、現在は本山行事の中心的な場所となっています。正面向かって右手の奥に「大書院」「小書院」が配置され、右手前の部分は褝宗寺院の台所である「典座(てんぞ)」になっております。今の方丈は震災後昭和四年に新築され、平成十年に改修工事が行われました。日常は檀信徒の法要、日曜説教、坐褝会、本山各種研修会、宝物風人、更には講師を招いての夏期講座やチャリティコンサートなどに使用されています。 大本山 円覚寺 三宝会方丈の前に無学祖元禅師により植えられたという樹齢700年以上の「柏槇」。幹の中心に樹木医による治療跡が見える。方丈へ上がり、「小書院」、「大書院」へ。壇上から境内を見下ろす。こ大書院に「釈迦牟尼坐像」。方丈の裏側へ廻り、裏庭の「庭園」へ。方丈の裏側の縁側に立ち裏庭を観賞。方丈背後の庭園には「心字池」が配されている。心という字をかたどっていることからこのように呼ばれ、禅宗様式の庭となっている。ライトアップもされているのか。方丈の境内にある、「百観音霊場」の入り口。百観音霊場百観音霊場の由来は、養老二年(718年)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、 観音信仰に篤かった源頼朝が開いた坂東三十三観音霊場と、その後に出来た秩父三十四観音霊場の総称とされています。円覚寺方丈前の百観音は江戸時代、拙叟尊者が百体の石仏を岩窟に奉安したことが由緒となり、明治に至って今北洪川老師が整備されました。円覚寺の百観音を結願所として円覚寺派の寺院に百観音巡礼の札所が開設されました。昔は、霊場に写経を納め、その際に納経印をいただいていましたが、それが現在の御納経帳または御朱印帳に変わったものとされています。行く先々の霊場で観音さまの由来を知り、観音さまの御利益にあずかり、観音さまを念じながらお参りされると、心が清浄になり安心を得られることと思います。柏槇(ビャクシン)市指定天然記念物向いの大木は円覚寺開山、無学祖元禅師により植えられたとの言い伝えから、七百年以上の樹齢だと言われております。幹の中心に樹木医による治療跡が見ることができます。開山様との御縁で平成ニ十四年に京都、南禅寺に若木が移植されました。 大本山 円覚寺 三宝会百観音霊場の紅葉。百観音霊場と方丈。石碑・石仏の前には飛び石が置かれていて、中をぐるりと巡ることができる。いろんな石碑・石仏があり撮影も大変。方丈背後の庭園には「心字池」が配されている。妙香池(みょうこうち)今日の紅葉の撮影スポットになっていた。妙香池(みょうこうち)総門前の白鷺池と並び、円覚寺創定当初から知られた放生池である。建武ニ年(1335)頃の円覚寺境内絵図にすでに見られる。今回江戸時代初期の絵図に基づき、自然風の姿に戻し「虎頭岩」と呼ばれる岸の露出岩盤を景観の中心として復元した。夢窓疎石の作庭であると。 平成13年3月 文 化 庁 大本山 円覚寺立て看板の右下が、「虎頭岩」。後方の建物は、正伝庵(しょうでんあん)で、第二十四世明巌正因(みょうがんしょういん)の塔所。本尊は宝冠釈迦如来。貞和4年(1348)、万寿寺(廃寺)内に創建された寿塔を、文和3年(1354)円覚寺に移した。更に北側に進むと、「国宝 舎利殿」、「北條時宗公御廟所」の石柱。妙香池を振り返る。舎利殿の山門山門には、「臨済録提唱」、「本派専門道場」。「坐禅道場ニ付キ立入ヲ禁ジマス」。円覚寺舎利殿は、円覚寺の塔頭である正続院(しょうぞくいん)の奥にたたずんでおり、静かな雰囲気を漂わせている。円覚寺舎利殿をズームアップ。舎利殿 国宝円覚寺の舍利殿には「佛牙舍利(ぶつげしゃり)」と尊崇されるお釈迦様の歯牙をおまつりしております。その由来は将軍源実朝公が宋の時代、中国能仁寺から請来したものです。この舍利殿は鎌倉にあった太平寺(尼寺・庭寺)の佛殿(鎌倉時代未~室町初期に再建)を移築したもので、中国、南宋時代の建築様式に学んだ禅宗様建築の代表的な遺構です。関東大震災に倒壊しましたが、昭和四年に復元しました。内部正面に佛舍利をおまつりする宮殿が安置され、その前に鎌倉彫りの須弥壇があり、観音菩薩と地藏菩薩がまつられています。隣は円覚寺派の厳格なる修行道場となっており、円覚寺開山無学祖元禅師をおまつりした開山堂とともに円覚寺随一の幽邃の地となっています。正月の三が日、五月の連休日と十一月の宝物風入などの特別期間以外は修行の為、拝観を制限させて頂いております。 大本山 円覚寺 三宝会舎利殿は見れず戻り、「佛日庵」「北条時宗公廟所」「鎌倉観音霊場第三十三番札所」「鎌倉地蔵霊場第十四番札所」「圓覚寺百観音霊場第四番札所」佛日庵(ぶつにちあん) 拝観料 1名 100円 抹 茶 1名 500円佛日庵(ぶつにちあん)は鎌倉時代に元寇の危機から日本を救った8代執権「北条時宗」の廟所として建立されました。また9代執権北条貞時、14代執権北条高時も合葬されています。廟所には木造十一面観音坐像のほか、僧の姿をした時宗、貞時、高時の木造坐像(いづれも江戸時代作)もまつられています。開基廟の山門。山門には「佛日庵」の表札がかけられている。山門から「開基廟」を見る。開基廟の前には、抹茶を飲むための緋毛繊の縁台が置かれていた。開基廟の内部には木造の「北条貞時像」が確認できた。出家した後なので剃髪と。この木造の下には石の棺があるそうで、そこに時宗の遺骨が納められているのだと。元寇の来襲を食い止めた時宗、元寇の植民地計画から日本を護った英傑である。但し、この元の襲来こそが北条家滅亡を生んだのかもしれない。早世で円覚寺創建から僅か2年で亡くなったと。元寇来襲からは3年目であった。開基廟(かいきびょう)圓覚寺大檀那である北条時宗・貞時・高時をお祀りしてあります。廟所とは、石碑を建てその上にお木像を祀るお堂を建てたものが正式のお墓で、国に特に業績のあった人にのみ許されたものです。時宗公は、一二八四年四月四日に亡くなられています。つまりは、圓覚寺が建立されてから二年後のことです。時宗公が亡くなられた後に開基廟が建立されたようですが、現在の開基廟は江戸時代一八一一年に改築されたものとされています。新編相模風土記によれば、お堂の下に各遺骨を納めた石櫃があるとの伝えが記されています。また、幾度の困難な戦災をくぐり抜け、ずば抜けた才能で幕府をまとめあげていたことから、学問の神・開運の神と崇められていました。 時宗公像は、現在修復のため主張中です。 中央に安置されているのは、貞時公像です。 13:18佛日庵、開基廟廻りの紅葉。ズームアップ。 ー 続く ー
2022.02.10
コメント(2)
数十年ぶりに円覚寺に入り、紅葉した境内を楽しむ。12月11日(土) 12:20円覚寺境内配置図階段を上り山門へ。石段を登ると正面に、山門が建つ。楼上に十一面観音像、十二神将、十六羅漢をおまつりしてある。山門の扁額、「圓覺興聖禅寺」は、伏見上皇の勅筆と伝えられている。木組みは匠の技。山門(三門) 県重要文化財山門は三解脱門(空・無相・無願)を象徴するといわれ、諸々の煩悩を取り払う門とされます。山門を通って娑婆世界を断ち切り、清浄な気持ちで佛殿の本尊さまをお参りしなければならないとされます。現在の山門は一七八五年(天明五年)開山五百年遠諱の年に大用国師(誠拙周樗)によって再建され、「円覚興聖褝寺」の扁額は伏見上皇(北条貞時の時代)より賜りました。楼上に十一面観音像、十二神将、十六羅漢をおまつりしてあり、毎年六月十八日に楼上で観音懺法(観音さまに懺悔をする儀式)が行われます。また毎年八月には山門を取り巻いての盆踊りがにぎやかに行われています。 大本山 円覚寺 三宝会山門のバランスは重心が高いのでは。山門の柱の礎石。地震対策がどうなっているのか気になるが。仏殿は大正十二年の関東大地震で倒壊したようだが山門はどうであったのか。山門を抜けると正面に「仏殿」。山門を振り返る。仏殿の前に、ビャクシンが聳える。仏殿の扁額、「大光明寶殿」は、1378年(天授4年)、後光厳天皇より賜りました。ビャクシンが聳える。ビャクシン属は、ヒノキ科の針葉樹の1属。ネズミサシ属とも呼ばれる。 樹高は、ハイネズの様な低潅木からイブキの様な高木まで様々である。匍匐性の品種も見られる。樹皮は赤褐色で、縦方向に薄く長く剥がれる。葉は短く茎に密着し、互いによりあって葉の付いた枝は棒状の外見を持つ。時に針状の葉を持つ枝が見られ1本の木に混在する。 ビャクシン 治療番号第一二八六号 蘇生外科治療 日本樹木保護協会 特許番号 第一七八一二三四号仏 殿円覚寺の本尊さまをおまつりしてある建物で、関東大震災で倒壊しましたが、昭和三十九年に再建されました。本尊さまは冠を被っておられるので、宝冠釈迦如来とよばれます。華厳の盧遮那仏とも称されます。本尊さまは一ニ八ニ年(弘安五年)佛殿開堂の際に安座されましたが、一五六三年(永禄六年)の大火で焼失、お顔のみが救出されました.後に江戸時代、天甫昌円によって一六ニ五年(寛永ニ年)佛殿が再建される際に体部が補造されました。その時、本尊さまの両脇に梵天、帝釈天がまつられました。「大光明寶殿」の扁額は一三七八年、後光厳天皇より賜りました。開山毎歳忌、達磨忌、臨済忌、祝聖などの諷経や毎朝の暁天坐禅がここで行われています。 大本山 円覚寺 三宝会仏殿に入る。ご本尊は冠を被っておられるので、「宝冠釈迦如来(鎌倉市指定文化財)」と呼ばれ、華厳の盧遮那仏とも称されます。脇侍は、向かって左が「帝釈天」、右が「梵天」とされており、何れも鎌倉市の指定文化財となっている。ご本尊の「宝冠釈迦如来坐像」。天井の龍は「白龍図」。天井画の「白龍図」 前田青邨画伯 監修 守屋多々志画伯 作仏殿の左奥に鎮座する二体の坐像は、左が「達磨大師坐像」、右に「無学祖元禅師坐像」。左が「達磨大師坐像」、右が「無学祖元禅師坐像」。右 無学祖元(むがくそげん)禅師坐像左 達磨大師(だるまだいし)坐像 寄木造(樹種不明)黒漆塗り 作風から十四世紀前半、鎌倉時代末期作製。 大変に若々しい青年のような達磨さま。 目を大きく見開き、ロをつよく結んでいる。 先師から嗣いだ「禅の教え」を中国の地に 広めんとする崇高な意志が伝わってくる。 像高 五ニ・七cm」当山歴代住職の位牌 新しいのは「當山二百十七世慈雲進和尚」。仏殿前から山門を振り返る。仏殿の西側にある、茅葺屋根の「選佛場(せんぶつじょう)」。選佛場(せんぶつじょう)選佛場とは、佛さまを選び出すという意味で、修行僧の坐褝道場のことです。創建時代の坐禅道場は建武ニ年の境内絵図に山門と佛殿の間の左側に裳階(もこし)つきの大建築として描かれていますが、永祿六年十ニ月の大火で焼失してしまいました。元祿十ニ年(1699)、伊勢長島城主松平忠充が江戸の月桂寺、徳雲寺住職一睡磧秀の薦めにより円覚寺に大蔵経を寄付され、同じ位置に経典を収蔵する蔵殿と坐禅道場を兼ねた現在の選佛場が建立されました。その後坐褝道場は正続院に移り、現在の選佛場には、南北朝時代の薬師如来が中央に祭られています。年ニ回地元の薬師講衆が参詣し、ご祈祷が行われ、また平成十五年より円覚寺百観音霊場の一番として、大慈大悲観世音菩薩が安置されています。 大本山 円覚寺 三宝会大本山円覚寺 百観音霊場 第一番札所 円覚寺選佛場の扁額、「選佛場」。選佛場内部に入り、正面に南北朝時代の「薬師如来像」、左右に畳が敷かれている。修行僧はこの畳の上で坐褝。選佛場の前から、「仏殿」。仏殿は大光明宝殿ともいい、大正十二年の大地震で倒壊後、昭和三十九年三月再建。唐様禅宗様式の鉄筋コンクリート造りである。左隅に、「龍隠庵(りょういんあん)」の寺標。龍隠庵への途中のやぐらの中に「観音像」。愛らしい地蔵も。円覚寺塔頭の龍隠庵は、黄梅院や正続院などの他の円覚寺塔頭に比べると、歴史的ブランド力に劣る感は否めませんが、円覚寺境内の中でも屈指の魅惑のエリアであると。境内の西側斜面にある「龍隠庵」へ。東側の山門、松嶺院、選佛場を見下ろす。龍隠庵前の見事な紅葉が迎えてくれた。龍隠庵は、百二世大雅省音(たいがしょういん)の塔所。本尊は聖観音。百三十七世芳隠省菊によって開かれた。法珠院の宿寮(龍隠軒)であったが、1426年(応永33年)に塔頭に列せられる。のちに法珠院が衰退し、龍隠軒のみが残った。龍隠庵の境内からは円覚寺の伽藍を一望できる。正面奥から、山門、松嶺院。同場所から東方向に、選佛場、仏殿。同場所から北方向に、居士林、寿徳庵。龍隠庵の奥にある墓地。古い墓碑が立つ。陽を浴びて紅葉が映える。龍隠庵には、小さな本堂と、わら葺きの茶室「楽々庵」、白壁の蔵、客殿らしき建物がある。山の岩場にはやぐら。仏殿の屋根を見下ろす。逆光に映えるモミジ。境内の片隅にスイセンが咲いていた。12:46紅葉の最盛期はこれからなのか。 ー 続く ー
2022.02.09
コメント(0)
今日は数十年ぶりに円覚寺へ行くことにし北鎌倉へ。12月11日(土) 11:45時宗西台山 光照寺(こうしょうじ)所在地:神奈川県鎌倉市山ノ内827光照寺(こうしょうじ)時宗の開祖一遍上人が、念仏布教のために鎌倉に入ろうとしたのを執権北条時宗の警護の武士に阻まれ、野宿した地に建立されたといわれる寺です。山門の欄間には、キリスト教の十字を意味する「クルス紋」が掲げられ、隠れキリシタンを受け入れていた伝承も残されています。本堂の周辺には、たくさんのシャクナゲが植えられ別名「しゃくなげ寺」と呼ばれています。ほかにも、ハギ、ユキヤナギ、レンギョウなど、四季折々の花を楽しめます。 ● 宗 派:時宗(じしょう)遊行寺派 ● 山号寺号:西台山英月院光照寺 ● 開 山:一向俊聖上人(いっこうしゅんしょうしょうにん)写真は「境内のカンヒザクラ」。念は往生なり 一遍上人 語録 お念佛を称える一念々々に 極楽往生が約束される山門の「くるす門」この門はもとは東渓院のもので、明治に入り東渓院が廃寺となったときに光照寺に移された。山門は「くるす門」と言われ、九州豊後国 岡藩主中川家の紋「中川クルス」(十字架を変形させた紋)が掲げられている。四季折々の花を楽しめる寺で参拝は二度目。境内は狭く、モミジの紅葉。本堂の扁額、「英月院」。境内に万両の実。山門の手前右手にある、江戸時代より続く「こそだて地蔵尊」。光照寺から県道21号線(横浜鎌倉線)に戻り、「鎌倉小坂郵便局」。古都鎌倉だけに景観をあわせた設計になっている。建物に、「鎌倉小坂郵便局」。県道21号線(横浜鎌倉線)を進み、前方に鎌倉十橋の一橋である「十王堂橋(じゅうおうどうばし)」橋長は約3.6米ある。11:54JR横須賀線の北鎌倉駅。11:58曹洞宗 東慶寺(とうけいじ)所在地:神奈川県鎌倉市山ノ内1367東慶寺は花の寺です。2月のウメ、3月の花モクレン、4月のサクラ、6月の岩タバコ、岩がらみ、花ショウブ、アジサイなど多種の花が咲きます。東慶寺(とうけいじ)鎌倉幕府の第八代執権北条時宗の夫人・覚山志道尼が開創。夫から離縁状をもらわない限り、妻からは別れることができなかった時代に、駆け込めば離縁できる女人救済の寺として、開山以来六百年近く縁切りの寺法を引き継いできました。後醍醐天皇の皇女・用堂尼の入寺以後は、松岡御所と称され、寺格の高い尼寺として名を馳せるようになり、室町時代には鎌倉尼五山第二位に列せられていました。明治時代になると寺法に終わりを告げ、釈宗演禅師を中興開山とする臨済宗円覚寺派の禅寺となりました。境内にはウメやハナショウブ、アジサイなど様々な花が植えられ四季を通じて楽しめます。学者や作家の墓が多いことでも有名で、鈴木大拙、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、高見順、小林秀雄らの墓があります。 ● 宗 派:臨済宗円覚寺派 ● 山号寺号:松岡山東慶総持禅寺(しょうこうざんとうけいそうじぜんじ) ● 建 立:弘安8年(1285) ● 開 山:覚山志道尼(かくざんしどうに) ● 開 基:北条貞時写真は、「金仏と梅の花」。境内の紅葉、今年は何度訪れたか。山門から参道、両脇にはウメの古木。参道脇には、ウメ、アジサイが咲き四季折々楽しませてくれた。東慶寺 本堂本堂の「泰平殿」は1935(昭和10)年に建立。宝形造の屋根が美しい。関東大震災後、佐藤禅忠師が寄進。昭和10年(1935)に建立したものです。東慶寺の金仏山門から参道を進むと現れる小ぶりな仏さまで東慶寺のシンボルとなっている。金仏を背景に四季折々の花を撮影できるのが、東慶寺の特徴である。4月には本堂前の枝垂れ桜が咲き楽しませてくれた。本堂に祀られた本尊の釈迦如来坐像。鎌倉市指定文化財で、寄木造り、玉眼入りの木造釈迦如来坐像である。本堂の扁額、「波羅密」。本堂に座り境内を見下ろす。金仏前から向かい側の山の中腹に「円覚寺 弁天堂」。この後訪れることにしている。蔦の紅葉も映える。ウメの古木幹に苔が生える。12:11東慶寺の入り口近くに駐輪して、円覚寺へ。県道21号線とJR横須賀線の間に建つ、「大本山圓覺寺」の寺標。JR横須賀線が通過。JR横須賀線のホームから多くの観光客が降り立つ。臨済宗大本山 円覚寺(えんがくじ)所在地:神奈川県鎌倉市山ノ内409境内には、八代執権の北条時宗公の御廟所がある。また鎌倉五山の第二位である。総門右側の塀際にモミジの紅葉。円覚寺境内には紅葉の見所がたくさんあります。NO.1 山門周辺NO.2 居士林周辺NO.3 妙香池周辺総門横に、開門 午前8時閉門 5月 ~ 11月 午後4時30分 12月 ~ 2月 午後4時総門前の紅葉。12:15拝観時間: 8:00 ~ 16:30(12月 ~ 2月 16:00)拝 観 料 : 大人 500円(高校生以上)、小人 200円(小中学生)5月1日より当山文化財保護と伽藍維持のため拝観料を改訂しますとのことで300円からアップ。本日の写経会は「大方丈(だいほうじょう)」です。拝観志納金 値上がりし500円。志納金を納め数十年ぶりに訪れた。円覚寺案内当山は、臨済宗円覚寺派の大本山であり弘安五年(1282)の開創。開山は中国(宋)より渡来の佛光国師無学祖元。開基は鎌倉幕府の執権北条時宗公。国師は時宗公の熱心な招請に接し弘安二年来日。初め建長寺に住し、時宗公はじめ鎌倉の武将を教化し、多くの門弟を育てた。時宗公は弘安四年再度の蒙古の来襲を撃滅した後、翌五年正法を興隆し、師恩に報じ、また文永・弘安の両役に戦死した敵味方両軍の菩提を弔うため当山を建立した。国師の流派を世に佛光派と称し、弟子に佛国国師、孫弟子に夢窓国師が出て、室町時代には国師の法孫は天下に満ち、五山学僧の主流となった。江戸時代やや衰微していたが、江戸時代末期に中興誠拙禅師が出、明治に至って今北洪川、釈宗演の二大禅師が出世され再び関東禅界の中心となった。山 門天明年間、中興の誠拙禅師が再建。「円覚興聖禅寺」は、伏見上皇の勅額。佛 殿大光明宝殿ともいう。大正十二年の大地震で倒壊後、昭和三十九年三月再建。唐様禅宗様式の鉄筋コンクリート造り。本尊は宝冠釈迦如来。禅宗様式七堂伽藍の中心の建物である。方 丈(ほうじょう)禅林の住持の居間をいう。維摩居士の居室が方一丈であったことに由る。今は主に檀信徒の法要、座禅会、研修会等の教化の場に用いられる。 昭和四年竣工。平成十年改修国宝 舎利殿(しゃりでん)源実朝公が宋国より拝請した佛牙舎利を弘安八年(1285)北条貞時公が当寺に遷祀した。舎利殿は日本に残る唐様建造物の中、最も代表的な美しい建物である。開山堂舎利殿の背後にあり、開山佛光国師の木像を奉安す。木像及び須弥壇は重要文化財に指定されている。開基廟佛日庵境内にあり、開基北条時宗公並びに貞時公、高時公の尊像を安置す。北条家歴代の祠堂でもある。白鹿洞(びゃくろくどう)円覚寺落成慶讃の日 佛光国師の法話を聞くため この洞中から一群の白鹿が現われたという。この奇瑞により山号を瑞鹿山と号することになった。居士林禅を志す在家の人の坐禅道場。もと牛込にあった柳生流の剣道の道場であったものを昭和三年に柳生徹心居士により寄進され移築した。国宝洪鐘正安三年、北条貞時が二千五百人の善男善女 当山二百五十人の僧衆の合力により鋳造。当時その巨大なること関東第一。江の島の弁天の助力により鋳造が円成したとして、側の弁天堂にその尊像を祀る。 円覚寺 ー 続く ー
2022.02.08
コメント(0)
北鎌倉の円覚寺へ向けて、遊行寺横の遊行寺交差点から県道302号線(小袋谷藤沢線)を東へ進む。12月11日(土) 10:50県道302号線と県道312号線との立体交差、村岡消防出張所前交差点を右折。この近くにある、以前訪れた紅葉の名所「功徳山早雲禅寺天嶽院」へ。10:54県道312号線(田谷藤沢線)沿いにある、功徳山早雲禅寺天嶽院門前。前回は車で訪れ入り口を間違え時間を要したが今回はスムーズに。県道312号線(田谷藤沢線)の鎌倉・江の島方面。天嶽院の門柱に書かれている文字は、「雨花知佛境 流水識禅心」。パンフレットから「雨花佛境を知り 流水禅心を識る」と。 ー 北条早雲公開基の古刹 ー功徳山早雲禅寺天嶽院(テンガクイン)所在地:神奈川県藤沢市渡内(ワタウチ)1丁目1-1天嶽院境内案内図天嶽院の歴史は真言宗の古寺「不動院」から始まる。 源頼朝公が治承四年(1180年)伊豆に兵を挙げ鎌倉を目指す途中立ち寄り、不動明王様に大願成就の祈願をされたとの伝説がある。明応四年(1495年)、北条早雲公によって伽藍の一寺が創建され、「不動院」を改め曹洞宗の禅寺とし、虚堂玄白禅師を迎えて開山とした。天正四年(1576年)四世住職の代に伽藍は焼失するが、玉縄城主北条綱成・氏繁公父子によって伽藍が復興された。 更に紀伊大納言徳川光貞卿の信仰篤く、六世住職の代に七堂伽藍が完成された。この姿が「相中留恩記略」巻之十八に記載されている。なお天正十九年(1591年)十一月、家康公から三十石の朱印地を賜った事実がある。安政二年(1855年)二月二十六日、二十二世住職の代に再び火災にあい、大伽藍はことごとく焼失した。焼失を免れ現存する総門(山門)は江戸中期に水戸光圀公が建立したと伝えられる。昭和五十一年(1976年)春 伽藍復興に着手、二十年余を経て平成十年(1998年)七堂伽藍を室町時代の様式に統一して復興した。山門前の左右に広い駐車場があり、左側の駐車場に新しい大きな六地蔵が並ぶ。左から、いきいき地蔵・すくすく地蔵・にこにこ地蔵・ふくふく地蔵・らくらく地蔵・ほかほか地蔵。六地蔵の裏には、地蔵さんはマスクをつけていなかったが。藁葺屋根の「山門」とその前に「寺号標石」と「仁王像」が建つ。江戸末期の安政二年(1855)二月二十六日、再び火災に遭って七堂伽藍が灰燼に帰したが、水戸光圀の寄進と伝わるこの総門(現山門)だけが焼失を逃れたのだと。山門右側に、「不許葷酒入山門」。山門を入り参道を彩るモミジのトンネル。石畳、コケとのコラボが見事である。午後の方が逆光でまた色がさえると。石畳を進み山門を振り返る。山門をズームアップ。正面に、「中雀門」、右側に、「浄聖殿」、「道元禅師御道詠碑」石碑には「峰の色 渓のひびきも 皆ながら 吾が釋迦牟尼の 声と姿と」。浄聖殿の扁額、「浄聖殿」。中雀門の奥に「法堂」(パンフレットから)。中雀門の扁額、「湘中早雲禅寺」。中雀門の真ん中に「常香炉」が置かれていた。香炉に乗っている鞠(まり)を踏む唐獅子。中雀門前から参道を振り返る。中雀門の左手前に「庫裡」。庫裡の入口には、地蔵が建つ。赤い毛網の帽子を被るカップルの地蔵。一方には、「おそうじ小僧」、後方に歌碑。歌碑には「掃けば散り 払えばまたも塵積る 人の心も庭の落ち葉も」。右手前から、「不動殿」、「浄聖殿」、「中雀門」。不動殿の扁額、「不動殿」。不動殿の内陣。左から、愛染明王、不動明王、大黒尊天を安置している。石舟の上にある「不動尊」。鐘楼堂、左奥に六地蔵。こちらは小さな六地蔵が並ぶ。天嶽院前の県道312号線(田谷藤沢線)を望む。駐車場の南側に「聖観世音菩薩立像」が建つ。聖観世音菩薩立像の前に建つ「慈光遍照」。11:13聖観世音菩薩立像前から山門を見下ろす。植えられている桜の由来。鎌倉八幡宮若宮大路の段葛より移植された晋山記念の桜である。八幡桜の銘は吉田宮司による。 平成廿八年降誕会 天嶽院廿九卋正三謹誌11:16天嶽院から、県道312号線(田谷藤沢線)を鎌倉方向へ下り、この先を左方向の大船へ進む。11:19県道312号線(田谷藤沢線)の弥勒寺高架下交差点を左折して大船方面へ走る。東海道本線沿いに建つ、「湘南ヘルスイノベーションパーク」。通称「湘南アイパーク 」は、2018年4月、武田薬品工業(株)が湘南研究所を開放することにより設立された、企業発のサイエンスパーク。製薬企業のみならず、次世代医療、AI、ベンチャーキャピタル、行政など、幅広い業種や規模の産官学が結集し、エコシステムを形成することで、ヘルスイノベーションを加速する場となることを目指している。この広大な湘南アイパークの約半分の建屋を、タケダが研究所として利用し、残りがテナントとなっている。11:26日比谷花壇大船フラワーセンター所在地:神奈川県鎌倉市岡本1018同駐車場の歩道橋上から、県道302号線(小袋谷藤沢線)沿いのメタセコイア並木。同場所から、県道302号線の大船フラワーセンター前交差点。大船フラワーセンターの園内を望む。日比谷花壇大船フラワーセンター前の飾り付け。 頭上を湘南モノレールが走る。みちのりホールディングス傘下の湘南モノレール株式会社が運営し、昭和45年(1970) 3月7日に日本初のモノレールとして開業した。 電車は榎島線と呼ばれる6.6kmの路線を走っている。11:38東海道本線の山崎跨線橋を越え、県道304号線(腰越大船線)の台二丁目交差点。 ー 続く ー
2022.02.07
コメント(2)
九州の旅を長くアップした関係で、昨年秋に訪れた北鎌倉の円覚寺から稲村ヶ崎への愛車のリンちゃんでのアップが遅れました。今回時季外れですがそのブログをアップさせていただきます。尚、この散策は昨年(2021年)15回目のリンちゃんとの鎌倉散策です。昨年末にアップしたダイジェスト版「紅葉の鎌倉へ」👈をクリック願います。12月11日(土) 10:00この日は天気が良く、10時前に我が家を出発、旧東海道(国道1号)を藤沢宿へ向けて走る。出発時のバッテリー残量は100%、走行可能距離は94kmで今日一日楽しめる。松並木が残る旧東海道を東へ進む。旧東海道(国道1号)の四ツ谷交差点に四ツ谷不動尊(大山道標)が建つ。交差点を右折して四ツ谷不動尊(大山道標)を振り返る。右奥の鳥居は大山道入口に立つ鳥居、30km先の大山阿夫利神社の一の鳥居で、昔大山まで七つの鳥居があった。県道44号線(旧東海道)を東へ進むと丘の上に稲荷神社所在地:神奈川県藤沢市羽鳥2丁目15-35鳥居前から旧東海道を振り返る。旅友との東海道53次弥次喜多道中時には参拝しなかったが小さな社殿が二社。境内は狭いが整備されているので、地元の有志が管理しているのであろうか。稲荷神社から下り、県道44号線(旧東海道)を東へ進む。県道44号線(旧東海道)と県道43号線が合流する羽鳥交差点、この先から県道43号線。ここを左折して県道43号線を北上すると大庭城があり、今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に出てくる大庭景親に関係する。大庭城を築城したのは大庭景親の父にあたる大庭景宗と言われている。「大庭の舘」とも呼ばれ、景親らの軍事拠点として重要な役割を果たしたと想定される。石橋山の戦いで源頼朝に勝ったものの、一族のほとんどは筑前(現在の福岡県)に渡ってしまうが景親は最後まで抵抗し、平家方の景親は富士川の戦いで敗れ捕らえられ斬首される。その後兄の大庭景義の子である大庭景兼(小次郎景兼)が、和田合戦にまきこまれ大庭氏は滅亡したとされている。タウンニュース(2022年1月28日版)より、今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。今年のブログのネタ探しに愛車のリンちゃんで鎌倉を動き回る予定です。江戸末期、浮世絵師の歌川国芳が描いた武者絵「頼朝の伏木隠れ」石橋山の戦いに敗れた後、山中の伏木に隠れている頼朝を捜索していた梶原景時が見つけるが、「誰もいない」と告げやり過ごす場面。この作品では景時ではなく、大将格の大庭景親が大きく描かれている。七面地蔵尊所在地:神奈川県藤沢市城南4丁目9-32メルシャン工場の門前に残されている。今でも花が供えられている。羽鳥の道祖神「おしゃれ地蔵」北側に向って鎮座しているが、旧東海道を挟んだ向かい側には、藤沢七福神の一つ「養命寺」。女性の願い事なら何でも叶えてくれる地蔵だと。満願の際は白粉を塗ってお礼をするという風習があるとのことで、いつも化粧されている。県道43号線(旧東海道)を東に向い、藤沢宿へ入る。藤沢宿京見附跡(解説版)が建つ。所在地:神奈川県藤沢市藤沢4丁目1-3見附は土居ともいい、江戸方は清浄光寺(遊行寺)の東門付近、京方は台町にありました。見附から見附までが宿場の範囲で、その目印でもありました。藤沢宿の京見附は、古図などからは判然とはしませんが、この辺りであったとの伝えがあり、近くには「見附」という屋号を持つ家があります。案内板の浮世絵は、何故か三重県の東海道宿44番目「石薬師宿」。旧東海道の石薬師宿は旅友のKさんと令和2(2020)年1月20日(月)に歩いた。見附の図 歌川広重「東海道五十三次之内 石薬師(蔦屋版)藤沢市教育委員会蔵10:32清浄光寺(通称 遊行寺)所在地:神奈川県藤沢市西富1丁目8-1時宗開祖の一遍上人より数えて4代目の呑海上人開山の時宗総本山です。藤沢山無量光院清浄光寺が正式な寺名ですが、呑海上人が正中2年(1325)に廃寺を再建して遊行引退後の住まいとし、歴代の上人も遊行引退後に住むようになったので「遊行寺」と呼ばれるようになりました。現在の建物の大部分は関東大震災後に復興されたものですが、中雀門は唯一、江戸時代からのもので向唐門造りになっています。また、菊の御門と三葉葵が刻まれています。延文元年(1356)の銘を持つ梵鐘は県指定重要文化財です。境内中央の大イチョウは市指定天然記念物になっています。昭和26年(1951)の日本観光地百選に選ばれました。境内には多くの熟年者が座り込み水彩画を。境内案内図境内には見所が沢山あるが、今日の目的は北鎌倉であるので本堂前を横切ることに。大イチョウの奥に「中雀門」「御番方」が建つ。本堂前の境内は広い。樹齢約650 ~ 700年と推定される「大イチョウ」。この日は風はなかったが、海風が強いのか樹々は山に向って傾斜。このイチョウはオスの木で銀杏はつかない。大イチョウ 市指定天然記念物 昭和46年(1971)7月5日指定 樹高 約21m、幹回り 710cmひときわ大きなイチョウで、遊行寺境内のシンボルとなっています。境内最大の巨木は、市内で一番太い木でもあります。かつては高さが約31mありましたが、昭和57年(1982)8月の台風で地上6mの辺りで幹が折れてしまいました。今、樹木全体がずんぐりとした形に見えるのは、この時の折損のためです。折れた幹の中は空洞で炭が入っていたので、過去に火災に遭ったことがあるようです。雨で腐らないよう折れた部分にトタン板を張って防いだところ、樹勢が回復しました。平成4年(1992)の調査で686cmだった幹回りは、平成20年の計測では710cmと太くなっていました。境内の県道30号線沿いの遊行寺坂沿いに建つ、「藤沢敵御方供養塔」。藤沢敵御方供養塔 国指定史跡 大正十五年(1926)十月二十日指定 総高 一四九・五センチメートル 安山岩製この石塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永二十五年(1418)に造立されたものです。基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ、塔身に銘文が刻まれています。銘文は、磨滅していて読みとりにくいのですが、次のように解読・解釈されています。 南無阿弥陀仏 自應永廿三年十月六日兵乱至同 廿四年於在々所々敵御方為箭 刀水火落命人畜亡魂皆悉往生浄土 故也過此塔婆之前僧俗可有十念者也 応永廿五年十月六日 応永二十三年(1416)十月六日からの戦乱は同二十四年に至り、あちらこちらで敵方も御方も 箭(矢)・刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、 皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過ぎる僧侶も俗人も十念( 十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。この戦乱は、足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏と、その補佐役との争いだったため、鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年一月に禅宗らの敗北自害で落着しました。銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌にあたります。時の遊行寺住職は遊行十四代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は、持氏が発願主となって、太空上人を導師として造立したものと考えられています。敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては、慶長四年(1599)高野山奥の院(和歌山県)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。時宗では、怨(敵)・親(味方)両者を区別せず平等に祀った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んでいます。 平成二十年(2008)二月 藤沢市教育委員会石塔の途中で破損したものも。今年は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映で鎌倉は賑やかになるのでは。新型コロナウイルス騒動も早く治まってほしいものですが! ー 続く ー
2022.02.06
コメント(0)
現在11月14日から訪れた九州地区の続日本百名城をブログアップしておりますが、今年最後のブログは、今年一年楽しませてくれた鎌倉のお寺を12月に久しぶりに愛車のリンちゃんで出かけましたのアップさせていただきます。尚、移動途中にある、藤沢の遊行寺、天嶽院へも立ち寄りましたので併せてアップさせていただきます。12月11日(土) 10:30時宗 清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺)所在地:神奈川県藤沢市西富1丁目-8-1清浄光寺は時宗総本山の寺院。藤沢山無量光院清浄光寺と号す。近世になって遊行寺と通称され、明治時代より法主・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるために通称の遊行寺の方が知られており藤沢道場ともいう。境内中央の大イチョウは市指定天然記念物になっており樹齢700年。銀杏が付かないイチョウの木が聳える境内では写生会。10:55功徳山早雲禅寺 天嶽院(てんがくいん)所在地:神奈川県藤沢市渡内1丁目1-1この門柱に書かれている文字は、「雨花知佛境 流水識禅心」、雨花佛境を知り 流水禅心を識る。北条早雲公開基の古刹である。山門からの参道の紅葉。旅友からは光線の関係で午後の方が良いとのことであったが。参道脇のコケとのコラボも良く十分に楽しませていただきました。石畳の参道を法堂へと進んだがブログは後日アップします。12:00曹洞宗 東慶寺(とうけいじ)所在地:神奈川県鎌倉市山ノ内1367今日はここの入口に自転車を駐輪して、円覚寺を散策。春先は梅が咲き、四季折々いろんな花が咲き今年一年何度も訪れたお寺である。東慶寺の金仏山門から参道を進むと正面に、小ぶりな仏さまで東慶寺のシンボルである。金仏の後ろには梅の木。本堂前の紅葉。春には枝垂れ桜が咲き目を楽しませてくれた。枝垂桜の幹、来年も楽しませてくれる木であろう。東慶寺の参道から東の山。中腹にはこの後行く円覚寺の弁天堂が見える。12:15臨済宗円覚寺派大本山 円覚寺所在地:神奈川県鎌倉市山ノ内409鎌倉五山第二位のお寺で、国宝の舎利殿や洪鐘、季節の花などが見どころが多数ある。今日は、十数年ぶりに参拝することにして訪れた。総門を入り拝観料500円を支払い境内へ。石段の奥に山門。山門(三門)県重要文化財山門は三解脱門(空・無相・無願)を象徴するといわれ、諸々の煩悩を取り払う門とされます。山門を通って娑婆世界を断ち切り、清浄な気持ちで佛殿の本尊さまをお参りしなければならないとされます。現在の山門は1785年(天明5年)開山五百年遠諱の年に大用国師(誠拙周樗)によって再建され、「円覚興聖禅寺」の扁額を伏見上皇(北条貞時の時代)より賜りました。楼上に十一面観音像・十二神将・十六羅漢をおまつりしてあり、毎年六月十八日に楼上で観音懺法(せんぼう)(観音さまに懺悔をする儀式)が行われます。また毎年八月には山門を取り巻いての盆踊りがにぎやかに行われています。 大本山 円覚寺 三宝会山門を入り進むと、仏殿仏殿の左側を東方向へ進む。左下に「龍隠庵」の石碑。龍隠庵への途中から、山門、仏殿を見下ろす。龍隠庵への石段。龍隠庵ガラス窓に映える紅葉逆光に映えるモミジ、後方に仏殿。龍隠庵から山門、松嶺院を見下ろす。龍隠庵から東方向の寿徳庵もうスイセンが咲いていた寿徳庵から先程登った、龍隠庵を望む。方 丈(ほうじょう)本来は住職が居住する所を方丈といいましたが、現在は本山行事の中心的な場所となっています。正面向かって右手の奥に「大書院」「小書院」が配置され、右手前の部分は禅宗寺院の台所である「典座(てんぞ)」になっております。方丈の裏庭の庭園。方丈の左奥にある、「妙香池(みょうこうち)」総門前の白鷺池と並び、円覚寺創建当初から知られた放生池である。建武二年(1335)頃の円覚寺境内絵図にすでに見られる。今回江戸時代初期の絵図に基づき、自然風の姿に戻し「虎頭岩」と呼ばれる岸の露出岩盤を景観の中心として復元した。 平成13年3月 文化庁 大本山 円覚寺後方は、開基廟ズームアップ黄梅院(おうばいいん)の山門から見下ろす。弁天堂から西方向にある東慶寺を見下ろす。境内から出口の総門を望む。総門脇の白塀とのコラボ。14:00約2時間の円覚寺散策をした。JR横須賀線の北鎌倉駅方向、新型コロナも落ち着き多くの観光客が乗降していた。尚、境内の詳細なブログは後日アップさせていただきます。14:10臨済宗円覚寺派 浄智寺所在地:神奈川県鎌倉市山ノ内1402鎌倉五山第四位のお寺で、長い石段や鐘楼門、仏殿、書院など趣深い古刹である。境内には鎌倉七福神の布袋尊も。総門前にある鎌倉十井のひとつ甘露ノ井(かんろせい)に映える紅葉。総門をくぐりぬけると石階段の参道。左側では、キッチンカーで珈琲を販売、左側に駐車場(無料)、トイレがある。総門から石段を登ると正面に山門の鐘楼門。平成19年(2007)に再建された鐘楼門には「山居幽勝」の額が掲げられ、花頭窓のある上層には慶安2年(1649)の梵鐘が吊るされている。右側に受付があり、拝観料は 200円。この日は後のスケジュールを考えスルー。浄智寺の左側にあるこの坂を上ると、葛原岡ハイキングコースで源氏山公園へ。本堂 曇華殿(どんげでん)曇華殿と呼ばれる仏殿で、御本尊は室町時代に作られた木像三世仏坐像で県指定重要文化財。本堂前のモミジが紅葉。14:36臨済宗建長寺派宝亀山 長寿禅寺所在地:神奈川県鎌倉市山ノ内1520境内の見学は通常は閉鎖されており、時期限定で公開されている、今年4月9日(金)に参拝した時のブログは「長寿禅寺」👈でアップしておりますのでクリック願います。この後、左側の亀ヶ谷坂切通しを上り、扇ガ谷地区へ。亀ヶ谷坂切通しから本堂前の紅葉をのぞき込む。境内右奥に尊氏の遺髪を埋葬したお墓がある。14:45臨済宗建長寺派 海蔵寺(かいぞうじ)所在地:神奈川県鎌倉市扇ガ谷4丁目18-8このお寺も年始めからもう何度も訪れ、四季折々花が咲いており目を楽しませてくれた。山門前の紅葉。9月28日(火)に参拝した時は、山門前に紅白のハギが咲いていたがきれいに刈り取られていた。苔むした石の上に芽吹いた木も紅葉。観光客も多く携帯で撮影。4月初めには左側の枝垂れ桜も咲いた。本堂裏の未公開の庭園。本堂前から山門を望む、赤い傘がこのお寺のシンボル。書院の前の紅葉も色鮮やか。海蔵寺の山門前に、鎌倉十井の一つ底脱の井(そこぬけのい)がある。15:02壽福金剛禅寺(寿福寺)所在地:神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目17-7鎌倉五山第三位で臨済宗建長寺派のお寺。石畳の参道の美しさは鎌倉随一。境内参拝は正月とGWの特別公開時のみ。外門から山門への石畳に参道。見上げるとモミジが日を浴び。山門前から、外門。本堂裏に北条政子の墓があるが今日はスルー。15:16鶴岡八幡宮三の鳥居交差点には多くの観光客。この日は後のスケジュールを考えスルー。15:25日蓮宗 妙本寺所在地:神奈川県鎌倉市大町1丁目15-1二天門前の紅葉が期待されので、二天門下に駐輪して石段を登る。このお寺にも数回訪れ、春はサクラと海棠の競演、夏はノウゼンカズラと楽しませてくれた。二門前の参道は林に囲まれ薄暗い。見上げると日を浴び鮮やかに。祖師堂前の境内では、前撮り写真であろうかカップルが一組。妙本寺は祇園山に抱かれた日蓮宗最古の寺院。祖師堂の左側の石段下に石碑、石碑には、「萬葉集研究遺蹟」と篆書で書かれた文字。二天門とモミジを後にする。15:57妙本寺から、天気が良いので光明寺裏の「かながわの景勝50選 光明寺裏山の展望」へ登る。左側に稲村ヶ崎、遠く金時山、右側に富士山。16:11光明寺裏山の展望台から、国道134号を走り稲村ヶ崎へ愛車のリンちゃんで進む。途中、稲村ヶ崎の東側から、伊豆半島上に夕日。鎌倉海浜公園稲村ヶ崎地区へ到着、既に多くの観光客が待機して日の入りを待っていた。16:24十数分待ち伊豆半島に日が沈む。16:50稲村ヶ崎からの富士山鎌倉海浜公園稲村ヶ崎地区に咲いていたスイセン。廻りにいい香りを放っていた。17:00七里ヶ浜駐車場からの富士山。江の島シーキャンドルも17時から点灯。17:37小田急片瀬江ノ島駅のライトアップ。江の島シーキャンドル周りのイルミネーションでまだ多くの若者が訪れていた。この後、真っ暗な湘南サイクリングロードを走り、自宅近くのお好み焼き屋で夕食をとり帰宅した。この日の走行距離は、43km、歩行数は約1万歩であった。今年も今日で終わり、この一年間我がブログにお立ち寄りいただきありがとうございました。新型コロナ感染もこのまま落ち着いてほしいものですが、来年度も電動アシスト自転車での散策、続日本百名城も攻めたいと思っておりますので、ブログアップ時には今年同様に宜しくお願い致します。最後に、皆様方がよいお年をお迎えされることを祈念します。 END
2021.12.31
コメント(2)
鳥井戸橋から南下、浜見平北交差点を右折して今日の目的地「松尾神明神社」へ立ち寄る。11月25日(木) 11:08神奈中 松尾バス停浜見平北交差点方向の浜見平団地を振り返る鳥井戸橋からのルートバス通りのバス停から北側へ入り、松尾神明神社へ。松尾自治会館の案内看板が目に入る11:10松尾神明神社(まつおしんめいじんじゃ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市松尾3-24当社は、茅ヶ崎市浜之郷に鎮座する鶴嶺八幡社の兼務社の一つとなる松尾神明神社社殿祭神:天照大神例祭:7月16日(金) 2021年度拝殿の扁額、「神明神社」社殿前から境内を見下ろす社殿に貼られていた貼り紙には、 御祈祷案内 ● 初宮詣 ● 七五三詣 ● 家内安全 ● 自動車祓(交通安全祈願) ● 厄 除 ● 安産祈願 ● 合格祈願 ● 商売繁昌 ● 病気平癒 ● 工事安全 ● 人形供養(ぬいぐるみ・節句飾含)その他 出張祭典 ● 地鎮祭 ● 上棟祭 ● 家 祓 ● 竣工式 ● 井戸祓 ● 樹木伐採祓 ● 稲荷祭 ● 神棚祭 ● 神葬祭 ● その他 ※ 御予約にて承ります 御祈祷は本務神社にて行います。 宮司本務神社 鶴嶺八幡宮善性寺の本堂前から西側に隣接する、松尾神明神社社殿松尾神明神社社殿左側に、「飯綱神社」飯綱神社の扁額、「飯綱神社」境内の左側から社殿を望む境内に建つ「松尾自治会館」松尾自主防災会本部になっている。この辺りは海岸から近く、海抜も10メートル以下のため自主防災に熱心境内の隅に宅地化等で集められた石塔群。風化して読めない石碑、〇神大神、道祖神、庚申塔枯れた古木も、また境内には鉄製の物置が置かれていたが防災用?大震災慰霊碑大正十二年九月一日関東ノ地・・・・・・松尾神明神社の東に隣接する、高野山真言宗 松尾山善性寺所在地:神奈川県茅ヶ崎市松尾3-22寺標には「高野山真言宗 松尾山善性寺」最近訪れた、茅ヶ崎市内で6番目の高野山真言宗のお寺である寺標の裏には、弘法大師御入定千百五十年御遠忌大法会記念 奉修為本堂再建落慶法会報恩謝徳也 世話人の名前を列挙 維持 昭和五十七年十二月十八日落慶 建之 現住景暁代他者を許せば心が楽になる 不動明王ありがとうの一言が 幸せの扉を開く 辨才天石碑の側面には「文化十有〇丁〇年三月 建之コンクリート製の本堂本堂の扁額、「善性寺」善性寺の本堂前に猫本堂の右前に、左に「南無観世音菩薩」、右に「???」南無観世音菩薩壁際におかれた地蔵像左側の名札の字が消え「???」中を覗き込む善性寺境内の西側に、稲荷大神稲荷大神の鳥居の扁額、「稲荷大神」善性寺の境内から、松尾神明神社の玉垣、石燈籠善性寺と松尾神明神社に挟まれた民家の庭に大きな柑橘。直径20cm前後のオニユズ(シシユズ)で関東以西で栽培されているが、その物は柑橘としてそれほど美味しい物でもないので、経営的に栽培されている所はほとんどなく、家庭などの観賞用として園芸的に扱われている。大きなオニユズ(シシユズ)越しに本堂の塔を望む狭い参道を入り本堂へ西へ進み、松尾神明神社鳥居11:27松尾神明神社には珍しく、神輿殿がなかったようだが松尾神明神社から西側へ、住宅街の中に畑傍では自動販売機の野菜販売今まで卵等の自動販売機は見たことがあるが野菜は珍しいボックスの中には、ニンジン、秋ジャガイモ、ネギ、ダイコン、ピーマン等が全品100円。中には新鮮な野菜が入っていた自動販売機の傍では従来方式の販売小屋⑮ 農業応援プロジェクト JAさがみつるみね支店○○スタンプラリー。料金ボックスの前には、防犯カメラがセットされていた。ネギが3本 50円と割安、他にも50円~100円で販売11:53途中他へ立ち寄りながら、JR東海道本線の南湖踏切 59K836M下り線12:00国道1号(旧東海道)へ戻り自宅へと、平塚、京方面。東海道五拾三次の旅では、2018年10月20日(土)にここを歩いた END
2021.12.09
コメント(0)
この日は天気が良く富士山が綺麗に見えていたので、昼には帰宅する予定で愛車のリンちゃんで出かけた。目的地は「弁慶塚」、松尾の「松尾神明神社」。11月25日(木) 10:25茅ヶ崎中央通り(県道45号線)の茅ヶ崎駅方向。街路樹もいつのまにか紅葉していた茅ヶ崎中央公園ケヤキは既に散り始めていた公園の入口に、山田耕筰の記念碑(右側)がある。オルガンと赤とんぼをモチーフにしている公園の東側にある、蔦とピラカンサの人工池壁に這う蔦の紅葉を撮影に来る人もいるようだ見事な紅葉であるピラカンサが真っ赤に茅ヶ崎中央通りを挟んで、茅ヶ崎中央公園の反対側(西側)に建設現場タウンニュースに、茅ヶ崎市役所に隣接して「東横INN」が工事を開始したと。左側のビルは、茅ヶ崎市役所分庁舎、北側に市民文化会館、総合体育館その現場を、歩道橋上から見学。大きなリングが置かれていた昔はパイルを打ち込んでいたが、震動・騒音の二次公害対策で、「免震工法」。掘削現場、径は1,500mm位か杭用の穴を掘削何メートル掘削するのか、掘り上げた土砂一度に何m3 掘削するのか汚染水を流さないために設置されたタンク掘削した穴に落とし込む鉄杭のリング輸送費が高いので、現場で組立て溶接しているようだ歩道橋上から南側の、国道1号茅ヶ崎駅前交差点、茅ヶ崎駅方向。バリアフリー対策の歩道橋。左側のビルは、交差点角に建つ「茅ヶ崎中央病院」カメラを左に振り茅ヶ崎中央病院の北側でも工事中工事看板には、医療法人社団康心会 茅ヶ崎中央病院 2期工事建設中 総病床数 324床 令和4年完成(予定) ■ Ⅰ期工事完了済み 〇 急性期一般病棟 ■ Ⅱ期工事完了後 324床既設の建物を倒壊し、こちらも基礎工事に歩道橋から下を望むと「茅ヶ崎市役所」二つのビルは、左に茅ヶ崎市役所、右に茅ヶ崎市役所分庁舎。数年後には、茅ヶ崎市役所分庁舎に隣接して「東横INN」が建つ国道1号(旧東海道)を西に向かう。道路脇には、「日本橋まで 59km」のキロポスト。この辺りは、電線もモール化され、自転車専用道路がある東海道の松並木が少し残る国道1号の鳥井戸橋、鳥井戸橋交差点左富士が綺麗に見えていた鳥井戸橋上から鳥井戸橋交差点鳥井戸橋の欄干に、「関東の富士見100景」 富士山の見えるまちづくり 地名点 茅ヶ崎市からの富士 平成16年11月 国土交通省関東地方整備局 寄贈(社)関東建設弘済会鳥井戸橋上から、千の川越しに富士山石原橋の下の千の川には網。何用の網か千の川に架かる石原橋鶴嶺八幡宮大鳥居八幡宮へはここから北上し約1キロ大鳥居を潜り参道は松並木。直ぐに左側に石碑参道脇に建つ石碑には、「弁慶塚」と刻まれている。以前来た時、ここが弁慶塚と思ったがスマホは別の場所を案内弁慶塚所在地:神奈川県茅ヶ崎市浜之郷843-1スマホの案内に従い石碑の東側の敷地にある弁慶塚へ、入口には案内板もなく解りずらい。以前の写真は木が植えられていたが、枯れたようで切断された枝があった弁慶塚の由来武蔵国稲毛(川崎市)の領主、稲毛三郎重成が亡妻の冥福を願い相模川に橋を架け、建久九年十二月二十八日その落成供養を行った。源頼朝は多数の家臣を引きつれてこの式に参列、盛大な落成式が行われた。頼朝はその帰途鶴嶺八幡宮附近にさしかかったとき、義経・行家ら一族の亡霊があらわれ、乗馬が棒立ちになり、頼朝は落馬して重傷を負い、翌正治元年一月死去した。後年里人たち相計り義経一族の霊を慰めるため、ここに弁慶塚を造ったと伝えている。 昭和五十七年十一月一日 茅ヶ崎ロータリークラブ 茅ヶ崎郷土会石碑には「弁慶塚」と刻まれている国道1号の鳥井戸橋交差点へ戻る。交差点の角に立つ、「東海道南湖左富士之碑」石碑には、「南湖の左富士之碑」と刻まれている南湖の左富士の由来浮世絵師安藤広重は天保三年(1832)に東海道を旅し、後続々と東海道五十三次の風景版画を発表した。その中の一枚に南湖の松原左富士がある。東海道の鳥井戸橋を渡って、下町屋の家並の見える場所の街道風景を写し、絵の左には富士山を描いている。東海道のうちで左手に富士山を見る場所は、ここと吉原(静岡県)の二か所が有名。昔から茅ヶ崎名所の一つとして南湖の左富士が巷間に知られている。下町屋の家並から見える左富士山石碑の裏には、「平成五年三月 茅ヶ崎市建立」鳥井戸橋交差点、鶴嶺八幡宮大鳥居富士山をズームアップ手前は新湘南バイパス高架橋もう何度もこの橋を渡っているが、中々このような光景は石原橋の欄干にある飾りも、「安藤広重の左富士」11:08鳥井戸橋から松尾神明神社へ向けて左富士通りを南下、東海道線の下を潜り浜見平北口交差点。この交差点を右折して、「松尾神明神社」へと進む ー 続く ー
2021.12.08
コメント(0)
円蔵の神明大神宮の境内を巡る。11月8日(月) 16:22拝殿前から、左方向(南側)拝殿左側にある「力石」神明大神宮境内案内図狭い境内だがいろんな史跡がある拝殿の左側に立つ案内板拝殿の左側へ進む。正面に、「慰霊」碑、右に、鶴岡八幡宮景能祭之碑慰霊碑前面に日清戦争から第二次世界大戦で亡くなられた英霊32名の名前が刻まれている。明治二十八年四月 ~ 昭和二十三年二月裏面には、過去百年をさかのぼるまでもなく、われわれは幾多の戦争を経て来た。今日の繁栄はこれらの戦争と無縁なものではない。深く戦争の辛酸をなめてきたからこそ平和への堅い信念はゆるごうとしないでのである。ここに日清日露戦争日華事変太平洋戦争殉国諸士の遺烈を仰ぎ 広く区民の浄財により慰霊の碑を建立し英名を刻して後世に伝え、永く祭祀の誠をいたさんとする。 昭和四十八年八月十五日 円蔵自治会鶴岡八幡宮景能祭之碑「懐嶋郷 景○○」懐嶋館土塁址 基底幅 二・五 M 高 サ 一・五 M石鳥居と石祠鳥居の扁額、「山王権現社」山王権現社 御祭神大山咋命元禄十四年(1701)十二月大吉日 相州大圓蔵村氏子創建 鶴田町の小室勇氏所有地に三〇七年間鎮座 文化財保護の為、当境内を社地と定め遷移 平成二十年十二月吉日 宗教法人 神明大神宮拝殿の横(両側)に遮蔽版があったが養生のためか?享和年間 懐嶋館出土礎石社殿の左側奥に、「懐嶋館址」の石碑。狭い場所の竹林の中にいろんな石碑が立っていた懐嶋平権守景能公年譜保元元年七月十一日(1156) 保元の乱において、為朝の矢に当り負傷する。 保元物治承四年八月十七日(1180) 頼朝の挙兵に従い、山木兼隆攻めに加わる。 源平盛衰記 八月廿日 頼朝に従い、蛭が小島から石橋山へ向かう。 吾妻鏡 八月廿日 弟の景親に対し頼朝軍に加わるよう説得する。 源平盛衰記 八月廿四日 頼朝、石橋山合戦に敗れ、房州へ逃れる。 吾妻鏡 十月九日 景能、頼朝の居館、大倉亭の建築工事を始める。 十月十一日 景能、頼朝の妻政子の鎌倉入りを迎える 十月十二日 景能、鶴岡八幡宮の遷宮を指揮する。 十月十五日 頼朝、景能が移築修理した頼朝邸に入居する。 十月十七日 景能の預かる囚人松田有常の父義常が自殺する。 十月廿三日 景能、頼朝より懐島郷を安堵される。 十月廿三日 景能、囚人の河村義秀を預かる。 十一月廿日 景能、頼朝に有常の免罪を願う。 十二月十二日 頼朝、景能が建築を進めた新造の大倉亭に移る。治承五年一月一日(1181) 頼朝の鶴岡八幡宮拝賀の警固にあたる。 ・・・・・中略・・・・・〇〇〇年三月十日 頼朝の上洛に随行する。〇治元年一月十三日(1199) 頼朝、死去する。〇仁元四年三月十日(1201) 景能の鎌倉の旧跡、地震により焼失する。承元四年四月九日(1210) 景能、死去する。〇暦三年五月二日(1213) 景兼、和田の乱に加勢し敗死する。 五月九日 二階堂基行、懐嶋郷の地頭となる。 平成十四年一月吉日建之 奉納 阿諏訪 俊男懐嶋平権守景能公没八百年祭 承元四年四月九日 圓蔵神明大神宮石碑には、源頼朝、奥州征伐につき景能に意見を聞く大庭平太景能は武家の故老たり。兵法の故實を存ずるの間、故にもってこれを召し出され、奥州征伐の事を仰せ合はせられて日はく、この事天聴を窮ふのところ、今に勅許なし。なまじひに御家人を召し聚む、これをなすこと如何に計らひ申すべし。てへれば、景能思案に及ばず申しで云はく。軍中には将軍の令を聞き、天子の詔を聞かずと云々。すでに奏聞を経らるる上は、強ちに其の左右を待たしめたまふべからず。随って泰衡は累代御家人の遺跡を受け継ぐ者なり。論旨を下されずといへども、治罰を加へたまはんこと何事か有らんや。就中に群参の軍士、数日を費すの條、かへって人の煩ひなり。早く発向せしめたまふべし。てへれば、申状すこぶる御感あり。あまつさへ御厩の御馬を賜はる。 吾妻鏡 文治五年六月三十日石碑の右にある説明板、八一〇余年前のことです。源頼朝は、命令に従わない奥州の藤原泰衡を討つために、多数の軍勢を集めて、後鳥羽天皇からの出陣許可を待っていました。しかし、なかなか許可が下りません。困った頼朝は、兵法にくわしい景能(かげよし)を呼んで意見を尋ねました。「泰衡はあなたの部下です。部下をこらしめるのに天皇の許可はいりません。直ちに進発なされるがよい」と。なるほどと決心のついた頼朝はたいへん喜び、景能に馬一頭をさずけて感謝しました。懐嶋平権守景能公像供養碑の由来高橋庄平家、屋敷内に大正十五年十月九日に建立された供養碑は、高橋藤吉氏が眼を病ってから或る夜、大庭景能が夢枕にたち、自分の供養碑の建立を懇願され、眼の完治を約束した。兄、高橋豊蔵氏と共に懐嶋館の西方内堀北側に供養碑を建立すると忽ち、眼は治癒し効果が現れ、平成十六年十一月二十一日境内に移された。尚、五輪の塔はその時、内堀から出土したものである。大庭平太景能公は、源義朝に従い保元の乱に参戦し、鎮西八郎為朝の強弓を受け膝を負傷した。為朝は射外した口惜しさを、自分の矢が外れたのは不思議だ。日本中で「運」のよい武士を探しても大庭景能ほどの者はいないであろう「保元物語」 宗教法人 神明大神宮 懐嶋ゆかりの五輪之塔景能親子の顕彰碑である。懐嶋平権守景能公大庭小次郎景兼公奉 載景能ゆかりの鶴岡八幡宮源平池、鎌倉懐嶋平権守景能邸跡、大庭小次郎景兼ゆかりの和田塚、三ヶ所の土を戴き、鶴岡八幡宮若宮において、お祓いを受けて層塔内に納め、おまつりしています。 宗教法人 神明大神宮 顕彰碑鎌倉権五郎景正の代々の子孫は広く相模の各地に土着して開発を進め、それぞれが有力な武士団となった。わが懐嶋郷は東の赤羽根川から小出川にまたがる広い地域であって、そこは古くから大庭御厨として開発が進められた土地でもあった。やがて景能は、主君の源頼朝から懐嶋郷の領主と認められ、しかも信頼できる部下として、何事にも重用された。頼朝が上京の際には、懐嶋館に宿泊したのも、主従の絆の堅さを語っている。さらに景能は鎌倉の街の整備、ついで鶴岡八幡宮や若宮の造営、および頼朝邸の建築を任されるなどは、極めて厚い信任によるものであった。それらの工事にあたっては多くの村人らを同伴して、手堅い仕事ぶりを披露していた。建久二年、景能は鶴嶺八幡宮の境内、社殿の大造営を行って面目を一新した。鶴岡八幡宮とは神官僧侶をはじめ、人々を頼りに往来し、鎌倉との文化交流はますます深まった。同時に、懐嶋郷の存在は広く曲間に知れ渡っていった。一方、鶴嶺八幡宮前を鎌倉へ通ずる鎌倉街道は、上方と鎌倉を結ぶ軍事上の要路であって、景能には警備の大任がひそかに課せられていた。かくて景能は、終生鎌倉開府の裏方として志誠を尽くしたが、武士の勢力争いの激しい時、〇のために、やがて孤独に立たされてしまったのは、余りにも寂しい晩年であった。まして、息子の景兼が和田の乱にまき込まれて敗北し、ついに懐嶋氏は滅亡の悲運に終わった。それゆえに、父子の墓さえ明らかではない。ここに有志一同はそ〇〇かをない郷愁にかられ、八百余年前の景能、景兼ら一族がふるさとに遺した偉業を○○し僧塔を供え、併せて建碑して後世に問うものである。 〇品彦一 撰文本殿の北側にある上下二つの祠下の祠の側面に、宝暦三癸未歳 林鐘吉旦上にある祠山王権現社 御祭神 大物主命 滋賀県大津市坂本本町山王総本宮 日吉大社西本宮より分霊を勧請 元禄十四年十二月吉日建之の旧祠が破損し、平成二十五年十二月吉日に改修。 神明大神宮 氏子中境内に聳えるイチョウ境内の隅にいろんな石碑が立つ。左から、「円蔵祭囃子の由来」「円蔵神明大神宮」「道祖神」「神輿九拾年祭」大神輿百参拾年祭 明治十三年十月吉日新造神明大神宮大神輿の由来懐嶋郷大円蔵村の総鎮守鶴嶺八幡宮の神輿は、文化三年(1806)二十七両で新造と、輪光寺の過去帳に記されている。円蔵・浜之郷・矢畑・西久保・下町屋・松尾・茅ヶ崎の氏子は、代々南湖浜で浜降祭(みそぎ神事)を独自で斎行する。わが円蔵の大神宮も神輿を造ろうと、明治十三年(1880)七月十五日の浜降祭の後、その日の内に梅澤の里(中郡二宮町山西)の西山神輿屋に、数人の神輿新設世話人が、神輿の製作を依頼する。金七十五円也。神輿の屋根に巴の神紋がないのは、当時の八幡宮の神輿の屋根になかったので、円蔵は付けなかったと古老は云う。十月中旬に神輿が完成したので、世話人はじめ大勢の氏子が歩いて梅澤の里へ行き、神輿を担いで東海道を通り円蔵に戻る。九月十七日の秋の例大祭を十月十七日に延ばし、初めて円蔵の各町内を氏子が神輿を担いで渡御する。明治十四年(1881)七月十五日の寒川神社浜降祭に、初めて円蔵の神輿が出輿する。浜降場式典後、寒川神社迄随行し着後に社頭で式典。後に円蔵に戻る。(明治十四年~二十五年迄)円蔵の神輿の担ぎ方は、明治時代から昭和三十年代までは、担いで走る事が伝統。甘沼・下赤羽根の神輿は小出県道が開通する前は、円蔵・矢畑・浜之郷の参道を通り鳥井戸橋・・・・・・・・・・ 後略 奉納 神明大神宮総氏子 撰文 責任役員 小室 功神輿九拾年祭 大正八年新造吉野嘉一翁は、鎌倉の建具屋に建具職として弟子入りし、修行に励み、年季明けを記念に、大正八年(1919)十八才の時に子供神輿を製作し、神明大神宮に奉納する。昭和三年神明大神宮の拝殿の造営に当り、軒先の垂木の配列を指導する。拝殿の大扉及び建具の施工等、神社に貢献し功績を残した。又茅ヶ崎町最後の町会議員として二期(昭和十四年十月~二十二年九月迄)務める。神輿新造九拾年祭を記念し建碑する。 奉納 神明大神宮総氏子円蔵祭囃子の由来平安末期頼朝の頃大庭より景義が此の地円蔵に移り姓を懐島と改め懐島平権之守景義と名乗り館を築き住居した今の神明大神宮一帯の地其の一隅に社を建て鬼門除とす。景義は頼朝に味方し又自分の家臣をいたわり時々酒宴を開き楽人が舞を舞い太鼓を叩き其の太鼓が今日の円蔵祭囃子の起源であるこの太鼓が近郷にひろがり叩いて居たが一時途絶えたが近来復活し急に脚光をあび円蔵では後継者を養成しその甲斐あって昭和五十年三月茅ヶ崎市指定無形文化財一号となる。今回保存会の子弟が指導者長老に感謝の意を持って記念碑を造り無形文化財を文化遺産とし後世に伝えんとするものである。 昭和五十五年九月 撰文 芹沢 塩川健寿円蔵神明大神宮本社は鎌倉時代前約八百年の昔、大庭景義が大庭から此の地ふところ島に移って懐島氏を名乗り屋敷の守り神として建てたお宮である。その後二階堂氏代々が導んだが両氏族共亡んでお宮は村の鎮守様となった。私共はここに立つ時毎年九月十七日の祭礼の日、当時遠く東京伊豆方面まで大衆をうならせた神楽の名人鯛さんのお神楽と太鼓連中の祭はやしをなつかしく思い出さずには居〇〇 鶴田栄太郎撰文 小山武雄書円蔵神明大神宮境内整備工事奉納者名右:懐嶋郷発祥の地左:浜降祭今昔懐嶋郷発祥の地神明大神宮附近の懐嶋郷の地形図の復元懐嶋郷の景観(昭和30年代)浜降祭今昔浜降り祭の今昔を写真で紹介している浜降祭参加後境内にて 昭和22年7月15日 小室 功氏所蔵浜降場にて 平成21年7月海の日 高橋昭和氏所蔵神明大神宮浜降祭初めての供奉届イチョウの幹から乳根右側に円蔵自治会館玉垣もきれいに整備このイチョウには銀杏がつくのか?境内にはその残骸が残っていなかった16:35由緒ある神明大神宮をはじめて知る参拝であったJR相模線茅ヶ崎行き電車16:40この車両も新車両に代わると ENⅮ
2021.12.03
コメント(0)
西久保地区の宝生寺の北側にある通称「西久保日吉神社」へ立ち寄る。11月8日(月) 16:01日吉神社(西久保日吉神社)所在地:神奈川県茅ヶ崎市西久保466創建年代や由緒は不詳。御祭神には、山王様といわれる大山咋命境内に掲げられている注意事項。神社境内では次の事を守りましょう。 一、鳥居、狛犬や石灯篭に乗らない。 二、道路と境内の境界(堺)の柵に乗らない。 三、本殿に上がって遊ばない。 その他の建築物にも乗ったり蹴ったりしない。 日吉神社日吉神社の前に移設整備(新しい座)された道祖神。大山街道の道標、江戸時代後期の寛政6年(1794)銘のある道祖神と庚申塔の碑社殿、左奥に神輿殿がある祭 神:大山咋命(おおやまくいのみこと)例 祭:2021年度 7月15日(木) 浜降祭 9月3日(金) 例祭ご利益:家内安全、地域安全、事業成功、産業振興総本社:日吉大社(滋賀県大津市)拝殿の扁額、「日吉神社」拝殿前から鳥居 何故か、かさ上げされた鳥居神輿が接触するためなのか慰霊之碑 防衛庁長官中曾根康弘謹書慰霊之碑の前に「力石」力 石この石は、昔村の若い衆が力競べに使ったものです。その当時、娯楽の一つとして農休みの日や夏の宵の一と刻、村の辻でこの石を相手に汗を流しあって、力自慢をしたのだそうです。 石の重さ100キログラム以上(三〇貫位) 昭和五十五年六月建立茅ヶ崎市内の神社を訪れるとほとんど神輿殿があるが?当宮は、毎年7月の海の日に茅ヶ崎市西浜海岸で行なわれる浜降祭に参加する一社である。当社神輿は、参加神輿の中でも最重量級とされると鈴木訓練学校の看板が目に入り、よく見ると警察犬の訓練学校本殿を見上げる北側に廻り、本殿、拝殿境内には立派な、西久保自治会館が建つ西久保自治会館日吉神社の南方向16:08陽の入りも近くなり、急いで次に訪れる円蔵の「神明大神宮」へ向かう茅ヶ崎中央通り(県道45号線)へ戻り、茅ヶ崎駅方向へ南下電柱に貼られた「迷子猫」の捜索願い茅ヶ崎中央通り(県道45号線)沿いに何個かあるうちのモニュメント。”古代生活を知ることのできる 須恵器(すえき)”この場所で出土したうつわの一種で、今から約2,000年前の平安時代の須恵器という土器です。うつわは杯(つき)とよばれる普段使いの食器で、現在のお茶碗に似た使い方をされていました。模型は、底を上にして出土した状態を実物大で表現しています。須恵器は窯で焼かれ、陶器の源流となる焼物です。この須恵器は、形や使用されている土などから多摩丘陵で生産されたものと考えられています。出土する土器によって、時代と物の流通なども知ることができます。夕闇の茅ヶ崎中央通り(県道45号線)を南下”古代の織物具、紡錘車(ぼうすいしゃ)”ちょっと変わった形をしているこの遺物は、石を加工して作られたもので、糸を紡ぐ道具の一部で古代に使われたものです。周辺からは住居の跡が発見されており、この地に住んだ人が使っていたものでしょう。紡錘車は図のようにして用いられました。また、本資料は刻み線による模様が描かれていることから、本来の使用目的の他に呪術に使われた可能性もあります。模型は、斜め横から見た状態で実物の4倍であらわしてあります。神明大神宮入口の信号神明大神宮入口(Shinmeidaijingu Ent.)この交差点を左折交差点を左折すると直ぐに石碑、「懐嶋平権守景能入道創建 神明大神宮道」神明大神宮への案内交差点からくねくねと住宅街を進む交差点から住宅街を北東方向に数百メートルで到着。神明大神宮所在地:神奈川県茅ケ崎市円蔵2282境内に聳える三本のイチョウの樹門前には「懐嶋郷圓蔵鎮座 神明大神宮」の石柱いちょう 昭和三年十一月十日 昭和天皇御即位記念樹 平成十五年十月吉日 神明大神宮氏子有志門前に鳥居前から社殿を望む神明大神宮境内案内図狭い境内だがいろんな史跡がある神明大神宮社誌 鎮座地 茅ヶ崎市圓蔵守御屋敷二二八二番地 御祭神 大日孁命(天照大神) 境内地 二百二十五坪 相模国高座郡圓蔵村 村誌昔から高座郡に属しています。懐嶋郷は平安時代の百科事典『和名抄』には大島と記されており、鎌倉幕府の公式歴史書『吾妻鑑』には建久元年(1190)十月の頃に相模国懐嶋としてその名がみえる懐嶋郷の圓蔵村こそ私たちの村です。懐嶋郷の西側を沼地(今では水田になっている)が取り囲んでおり、その中央の高所にあるのでそこが懐嶋と呼ばれたのかもしれません。懐嶋権頭平景能の屋敷跡が村の中央の高い所にあるのがその証拠です。圓蔵村の由来は不詳であり、旧大庭の庄の一部であったものが、大庭の名を取り、圓蔵村の名を使っています。村の西南に位置する浜之郷と呼ばれていたところを、明治元年に分けて村にして、浜之郷と呼んでいます。同じ高座郡の茅ヶ崎村にある円蔵寺の記録には、室町時代の永正年間(1504~1520)までは現在の矢畑・西久保・浜之郷・円蔵の四ヶ村の全てが相模国高座郡大庭庄懐嶋郷圓蔵村と呼ばれて今、浜之郷にある鶴嶺八幡宮を全体の鎮守としてお祭りしていました。お宮に付属する別当寺も幾つかありましたが、矢畑・西久保・浜之郷・円蔵の四ヶ村に分離してゆくなかで、別当寺も各村に属するようになりました。各々の寺の名前を名乗っています。圓蔵村は昔からの村の名を継いだので、円蔵寺というようになったとか言い伝えがあります。 神 明 大 神 社延喜式という平安時代の法令に記載された特に古い神社ではありませんが、神社としての規模は、東西に十五間三分、南北に十三間五分で面積は二百六坪、村の西に属する字御屋敷に位置します。大日孁命(天照大神)を祭神とし、創建された年月日は不詳です。里の言い伝えには、承安年間(1171~1174)に懐嶋権頭平景能(大庭平太のこと)がこの地に住んでこのお宮を創建したという。広さは社地として東西六十間南北三十間、面積が千八百坪といわれてきたが、享和年間(1801~1803)に村の領主の一人 旗本の大田善太夫がお宮の周囲を開墾したという。元和元年(1681)から天保六年(1835)に至る社殿造営の棟札四枚が伝わる。明治六年村社に列せられる。明治十三年神輿が新造される。大正十二年関東大震災で倒壊した社殿は、昭和三年に再建される。昭和十七年梵鐘は戦時下で金属回収され、昭和十九年鐘楼は辻町山王社々殿として移築される。昭和二十年神楽殿戦災で焼失し、昭和二十四年に再建される。昭和四十五年大鳥居が再建される。昭和五十六年神輿殿新築、手水舎が再建される。平成九年拝殿屋根銅板に葺替えられ、本殿、幣殿が再建される。平成十三年境内整備事業として社号碑、社誌、神明燈籠、狛犬、春日燈籠、常夜燈、玉垣、懐嶋館址ノ碑が奉献される。 元旦祭 一月一日 景能祭 三月 第四日曜日 浜降祭 七月 海の日 神幸祭 九月 第三日曜日 例大祭 九月十七日鳥居をくぐると右側に手水舎正面に、神明大神宮 拝殿、左側に神輿殿夕刻になり拝殿の灯が灯る拝殿の扁額、「神明大神宮」拝殿前に祠、「癌封じ霊石」癌封じ霊石の由来当宮の御祭神天照大神と当宮創健者懐嶋景能公の夢のおつげにより、元懐嶋郷大圓蔵村の総鎮守鶴嶺八幡宮より霊石を勧請。氏子、崇敬者の方々が癌にならぬ様に一生の息災を願ってお祀りしています。又この霊石の兄弟石が市内浜之郷四六二に鎮座する鶴嶺八幡宮に祀られており、両方の霊石をさすると御利益があります。 平成十九年五月吉日建之 宗教法人 神明大神宮手水舎の裏に石旧鐘樓礎石神輿殿神輿殿の扁額、「神輿殿」16:21拝殿前から境内を見下ろす。境内は狭いがイチョウの樹が聳える茅ヶ崎に住んで50年、このような由緒ある神社があることを初めて知る。 ー 続く ー
2021.12.02
コメント(1)
茅ヶ崎の寺社史蹟巡りを始めたが、この日は自宅より西の西久保、円蔵地区の寺社へ愛車のリンちゃんで訪れた。急に思い立ったので15時に出かけた。11月8日(月) 15:17スマホの行き先を「宝生寺」にセットして出発。JR相模線、北茅ヶ崎駅住宅街を走り、山王社(日枝神社)山王社前にある、道祖神茅ヶ崎中央通り(県道45号線)を北上信号は「神明大神宮入口」、神明大神宮には宝生寺の後立ち寄ることにしている茅ヶ崎中央通り(県道45号線)沿いに何個かあるモニュメント。”井戸から出土した 古代の長頸瓶(ちょうけいへい)”この場所で発見された井戸から出土した、今から約1,000年前の土器です。模型は実物大の大きさで細い方が上部で膨らんでいる方が底です。ここで生活していた古代の人が水などの液体を入れていたものでしょう。全体の形は良く残っていましたが、口の部分が故意に割られている可能性もあることから、祭りごとに使ったのではないかと考えられます。しかし、なぜ井戸に埋められたのでしょうか?”まとまって出ました 古銭(こせん)”本地区で発見された中世の井戸から古銭が10枚重なり合って出土しました。判読できた文字からこれらの古銭の多くは中国の北宋時代以後に作られた渡来銭と考えられます。しかしながら、どういう経緯で井戸に埋まったのかは明らかでありません。呪術的な意味合いで埋められたのか、あるいはうっかり落とされてしまったのかなどが考えられます。皆さんはどのように考えられますか? 模型は、実物の4倍の大きさで表現しています。スマホの案内は、ここ円蔵北交差点を左折茅ヶ崎の道路は区画整理されていないので住宅街をくねくねと進み、ガードされた、道祖神風化してどうにか、左側が「道祖神」と道祖神から北西方向に進み「北向地蔵」所在地:神奈川県茅ヶ崎市西久保573そばに、今日の目的地「国重文 阿弥陀三尊像 高野山真言宗 宝生寺」地蔵が北側を向いているので単純に「北向地蔵」なのか。由来等ががなかったので、また、地蔵の脇に「浄銭」の箱が置かれているが防犯は?地元の人が信仰しているようで、散歩の人が手を合わせていた15:36高野山真言宗 懐嶋山宝生寺(かいどうざんほうしょうじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市西久保546茅ヶ崎には高野山真言宗が多いようで、今まで訪れたところでは柳島の善福寺、甘沼の成就院、円蔵の輪光寺、萩園の満福寺と宝生寺で5寺ある門前の石柱には、「懐嶋山寶生密寺」大きな石柱には、「重要文化財 文部省 阿弥陀如来 脇侍立像 三躯 昭和三十四年六月二十七日 指定」と刻まれている阿弥陀三尊像 昭和三十四年六月二十七日 国重要文化財指定 銅造阿弥陀如来及両脇侍立像 三躯 左脇侍 観音菩薩 三二・九センチ 中 尊 阿弥陀如来 五八・三センチ 右脇侍 勢至菩薩 三三・八センチ仏法最初の像と伝える信濃善光寺木尊の模像で、いわゆる善光寺式如来といわれるものである。鎌倉時代に非常に多くつくられたという。木像も鎌倉時代の作とみられている。一説にこのあたりを領していた懐島景義の持仏であったともいわれるが、その来歴については全く不明である。なお、台座および光背は後世のものである。 茅ヶ崎市教育委員会 門前の掲示板には、 写経会 毎月二十一日 午後一時 修禅会 十一月二十一日 午前九時 護摩祈願 毎月一坐 午前十時”祈りを共に 苦難を 乗り越える”山門の両側に地蔵像が立つ鉄ネットで囲まれた「白蛇辨才天」鳥居の扁額、「白蛇辨才天」鉄ネットで囲まれているので中に入れず、「白蛇辨才天」池に鯉がいるので上にもネット境内の右側に、水子地蔵群?瓦葺の本堂懐嶋山 宝生寺(かいどうざんほうしょうじ) 御本尊 金剛界 大日如来 宗 派 高野山真言宗 立教開宗は大同二年(807) 総本山 高野山金剛峯寺 和歌山県伊都郡高野町 宗 祖 弘法大師(空海) 宝亀五年(774)六月十五日 香川県善通寺市で御誕生 承和二年(835)三月二十一日 高野山奥之院に御入定御宝号 南無大師遍照金剛教義と信仰 宇宙のすべてのものは、大日如来のいのちの顒われであり、このいのちの世界をあらわしてい るのが曼荼羅です。 高野山真言宗の教えは、いのちの平等と尊厳をさとり、大日如来の智慧をこの世に実現するた めに、生かせいのちを実践し共存共生の世界をめざすことにあります。 本宗の御宝号念誦運動は、弘法大師の共利衆生の精神に立って、すべてがいのちを共にしてい る社会の福祉をめざす具体的な活動です。 弘法大師は未来永劫にわたって衆生を救済すると御誓願され高野山奥之院に入定留身されてい ます。同行二人の信仰のもと大師の御教えをこの世に生かし実現することが、私たちの務めで あり喜びです。左側の石柱には、「高野山開創 千百三十年記念 本堂再建之碑」本堂の扁額、「宝生寺」本堂の彫り物本堂前に、香炉香炉の右側に、般若心経が彫られた石(一回一誦)があり、手で回すと功徳本堂前左側に建つ、「阿弥陀堂」御開帳は年に一度、4月29日宝生寺の阿弥陀三尊像 昭和三十四年六月二十七日 国指定重要文化財 銅造阿弥陀如来及両脇侍立像 三躯 左脇侍 観音菩薩 三二・九センチ 中 尊 阿弥陀如来 五八・三センチ 右脇侍 勢至菩薩 三三・八センチ善光寺(長野市)の本尊を模したといわれる善光寺式の阿弥陀三尊像です。手のかたちや一つの光背に三尊がはいっているところなどが、一般の阿弥陀三尊像と違います。善光寺式の阿弥陀三尊は、鎌倉時代から造られており、この像も銘はありませんが鎌倉時代の作とされています。しかし、来歴については不明です。なお、台座と光背は近世のものです。 茅ヶ崎市教育委員会石碑の前にツワブキが綺麗に咲いていた宗祖弘法大師両側に奉納された石燈籠が立つ内陣を、ズームアップ大師堂の裏に六地蔵六地蔵も綺麗な帽子を被り観音堂と二宮尊徳像堂内の観音像南東の方向から本堂を見る本堂の左側に、「瀧不動尊」瀧不動尊石碑には、「秋光や 不動明王 〇然〇」 白楊(徳田白楊?) 本堂裏の西側には竹林本堂裏の広場から東側を望む。右側に小高いところがあるが?水子地蔵群石碑には、「おばあさんをいたわる母をみて その子も母をいたわる」 清水クニ 平成二年「生まれかわってこの胸に 思いきりだきしめて あやしてやりたやかざぐるま」陽も下がり本堂を振り返る15:51宝生寺から次の「日吉神社」へ移動 ー 続く ー
2021.12.01
コメント(0)
松尾大神から南下、今日も国道一号沿いのかつやで遅い昼食をとることに。11月3日(水) 14:10海鮮フライ定食牡蠣とエビが各2個で値段が安いだけに、豚汁は美味しかった14:31国道一号の南にある「史跡 旧相模川橋脚」、「天然記念物 旧相模川橋脚」現在の相模川はこの場所より500メートル以上西側を流れているJR東海道本線の松尾踏切14:53高野山真言宗善福寺所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島1丁目3-28善福寺は、10月29日(金)にも訪れており11月3日(水)との2日間の合作です。柳島山 善福寺(りゅうどうざんぜんぷくじ) 御本尊 阿弥陀如来 宗 派 高野山真言宗 総本山 高野山金剛峯寺 宗 祖 弘法大師(空海)御宝号 南無大師遍照金剛教義と信仰 宇宙のすべてのものは、大日如来のいのちの顒われであり、このいのちの世界をあらわしてい るのが曼荼羅です。 高野山真言宗の教えは、いのちの平等と尊厳をさとり、大日如来の智慧をこの世に実現するた めに、生かせいのちを実践し共存共生の世界をめざすことにあります。 本宗の御宝号念誦運動は、弘法大師の共利衆生の精神に立って、すべてがいのちを共にしてい る社会の福祉をめざす具体的な活動です。 弘法大師は未来永劫にわたって衆生を救済すると御誓願され高野山奥之院に入定留身されてい ます。同行二人の信仰のもと大師の御教えをこの世に生かし実現することが、私たちの務めで あり喜びです。山門前に立つ、石造の真新しい仁王像右の石碑は、「子育地蔵尊」山門前から仁王像(左)仁王像(右)仁王像山門を入り石畳の先に本堂山門を入ると右側に、「大師堂」と「石柱」が2本大師堂大師堂の小さな堂内には、2体の大師像が安置されている向かって右は第38番の善福寺大師像、左が第39番の大師像大師堂の右側に、黒い石柱には、「生かせいのち 同行二人」手前は、「四国八十八ヶ所霊場順〇記念」奥の黒い石柱には、四国八十八ヶ所巡拝 昭和五十八年五月十五日成満裏面には巡拝者の氏名が彫られている手前の石柱の側面には、一年目: 平成四年五月二十五日ヨリ二十八日マデ 一番札所カラ二十八番札所へ順拝二年目: 平成五年五月二十五日ヨリ二十八日マデ 二十九番札所カラ五十一番札所へ順拝三年目: 平成六年五月二十日ヨリ二十四日マデ 五十二番札所カラ八十八番札所へ順拝 結願 高野山へ参詣背面には、巡拝者の氏名が彫られている大師堂の左側に建つ石碑は、関東大震災の慰霊碑大正十二年九月一日関東の地大 震〇當地方最〇・・・・・・・・・・・・・ 昭和七年三月 ・・・・・この字はなかなか読めない本 堂本堂前には、香炉、石灯籠が建つ本堂の扁額、「善福寺」第二次世界戦「戦歿者之碑」 前神奈川縣會議長 添田良信謹書十三重塔と弘法大師の修行像本堂の南側手水舎鎮座する左から、千手観世音菩薩:子年生まれの御守本尊、 虚空蔵菩薩:丑・年生まれの御守本尊、文珠菩薩:卯年生まれの御守本尊、 普賢菩薩:辰・巳年生まれの御守本尊、勢至菩薩:牛年生まれの御守本尊、 大日如来:未・申年生まれの御守本尊、不動明王:酉年生まれの御守本尊、 阿弥陀如来:戌・亥年生まれの御守本尊、枝を切られた大イチョウ、マキの木が聳える観音菩薩像と子供六地蔵下から見上げる客 殿15:00境内への駐車場入口(南側)の門柱には、「高野山 真言宗」、「柳島山 善福寺」真言宗善福寺の裏(東側)に建つ、「救世」この日は花が供えられていた側面に、「地蔵菩薩以大慈悲、若〇名號不陥闇黒」文久元年 霜月 導師 善福寺金海昭和卅七年神無月修復 小川巧二 藤間由五郎別の方角から15:06海岸への途中に立つ地蔵地元の方に信仰されているのか、花が供えられている15:17国道134号の浜見平入口交差点からサイクリングロードへ。夏には、ハマヒルガオが咲き乱れていた場所。今日は富士山は見えず茅ヶ崎漁港、左奥に江の島ズームアップこの日は祭日で、海岸には多くの人が上空を大型ヘリ15:19この日は気温が高く箱根の山も霞がかかる END
2021.11.30
コメント(0)
三島大神から萩園通りを南下、次に訪れたのが松尾大神。10月29日(金)にも訪れており二日間の合作です。11月3日(水) 13:51松尾大神(まつおおおかみ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市今宿586国道1号の今宿交差点から萩園通りを北上。ご祭神は、大山咋命(おおやまくいのみこと)、総本社は松尾大社(京都市西京区)です鳥居の前に建つ二本の石柱左:祇園天満両社、右:松尾大神鳥居の手前に、樹齢1200年くらいの雌雄同体の大イチョウイチョウの樹の生命力を感じる鳥居の扁額、「松尾大神」参道左側に、手水舎、鐘楼手水舎、鐘楼手水舎鐘 楼梵鐘には「奉納 祇園社」と鋳込まれている反対側には、「奉納 松尾大神」「奉納 天満宮」梵鐘に、「銘曰」前鐘は昭和十八年大東亜戦争のため供出されしが永遠の平和を願い家運栄昌を祈念して再鋳されたものなり 昭和五十七年七月吉日参道の右側、道路沿いに建つ石碑石碑は、「氏子人名」氏子約50名の名前が刻まれている。裏面に廻りこみ、大正十二年九月一日・・・・・ 字は風化して読めず本来はこちらの面が通路側になるのではなかろうか。震災記念碑境内の石燈籠、石碑に掲示されている。萩園通り沿いに建つ、道祖神社殿の前にタブノキが聳える。また、右奥には今宿自治会館が建つ松尾大神社殿拝殿前に石灯籠拝 殿ご祭神:大山咋命(おおやまくいのみこと)ご利益:家内安全、地域安全、事業成功拝殿の彫り物拝殿の扁額、「松尾社」拝殿に貼られた、「祇園天満両社」 学業成就・合格祈願拝殿前から鳥居、鐘楼社殿の左側に建つ、「天満宮」天満宮の前に、右に「天満宮」、左に「祇園社」の石碑が立つ「祇園社」の石碑天満宮の左側に、「慰霊碑」表面には、人名、死亡年月、享年何歳、場所が刻まれている。昭和13年9月 29歳 北支 ~ 昭和22年6月 17歳 ソ連 の英霊23柱を合祀した慰霊碑。北支、中支、ミッドウエー、青島、ビルマ、南方洋上、マーシャル群島、等々。先程訪れた三島大神にも同じような石碑が建っていたが、こちらは今宿地区の慰霊碑裏面には、建碑のことば平和で豊かに生活できる現在の私たちは過去苛烈たる戦争に於て尊い一命をささげられた勇士のあったことを忘れることはできません。ここに日中事変太平洋戦争における殉国諸士の遺勲を仰ぐため自治会員の浄財を集めて慰霊の碑を建立しその英名を刻して感謝の意を表し後世に伝えて永く祭祀の誠をつくそうとするものであります。 昭和四十九年三月 今宿自治会 渡辺三郎 謹書移設された石塔延寶八庚申年と読めるが天満宮横から境内拝殿、本殿社殿の裏に建つ神輿殿境内奥に建つ今宿自治会館今宿自治会館の右前に建つ石碑石碑には、「臺小学校跡」石碑の裏側裏面には「沿革」明治のはじめ越後の藩士の川清茂なる人 今宿に居を構え私塾を開き附近の子弟に読み書きなど教える。明治五年五月 学制頒布により今宿村に成誦学舎萩園村に詳恭学舎が創立される。明治十年十月 前記ニ学舎は統合され校名を臺小学と称す。明治廿四年四月 校名を尋常臺小学校と改称。明治四二年三月 本校と円蔵村の尋常懐島小学校及び浜之郷の高等鶴嶺小学校が合併。 尋常高等鶴嶺小学校となる。 謹書 渡邉三郎 石工 鍛代忠義常顕寺にも「萩園学校跡」の石碑があった 社殿を右側から拝殿横に掲げられていた絵今宿自治会館前から境内を望む 14:03萩園通りから振り返り、イチョウの樹を見上げる道路脇にあった「避難所・避難場所案内」 — 続く ー
2021.11.29
コメント(0)
萩園の満福寺、常顕寺から愛車のリンちゃんで萩園通りを南下、次に訪れたのは三島大神。11月3日(水) 13:16萩園通りの前方に大樹が聳える、三島大神前交差点三島大神(みしまおおかみ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園1719萩園通り沿いにある神社である常顕寺から萩園通りを南下神奈川縣指定村社 三島大神石灯籠と、朱色の鳥居鳥居の扁額、「三島宮」鳥居の右側に建つ石碑石碑には、「山宮藤吉翁〇碑」山宮藤吉は明治から昭和時代初期の政治家で、萩園村に生れる。衆議院議員(3期)三島大神の前を走る、萩園通り魯文の碑裏面には、昭和三十九年十一月吉祥日 主催 萩園区有志 後援 茅ヶ崎市教育委員会 茅ヶ崎市郷土会魯文の碑本名を野崎文蔵といい、文政十二年(1829)魚屋、佐吉の長男として江戸・京橋に生まれる。父・佐吉は、萩園野崎一族の生まれであったので、魯文は幼少の頃、父の生家、野崎作右ェ門方で育てられ、寺の小僧や農家の手伝いにやられた。性来、本を読むことが好きで、百姓仕事など身が入らず、何処も長続きはしなかった。江戸へ戻ってからも丁稚奉公などに出されたが、相変わらず本ばかり読んでいた。十五歳の時、英魯文という筆名で戯作を始め、次々と新作を発表、明治八年横浜にて、「仮名読新聞」を創刊、大衆新聞の始めで好評を博した。その頃から、仮名垣魯文と改め、その名を知られようになった。ある時、和田久徳氏の祖祖父が、その居を訪ねた折 訪ふ人もあらしの庭の秋去り 春の日脚の時にあふかな 萩園野崎末仮名垣魯文との一首を贈った。碑文はその直筆である。広い境内に、社殿、右側に鐘楼。三島大神の創建年は不詳だが、源頼朝が伊豆の三嶋大社を勧請したと伝えられる。約40基の神輿が終結する7月の浜降祭に参加する神社の一つである鐘 楼橋 石橋 石この巨石は、小出川に架かっていたもので、番場川の橋といって村人に親しまれていた。大正十二年九月一日・関東大震災にあい、堤防と共に、ことごとく崩壊した。間もなく河川改修が行われ、現在の萩園橋として装いを新たにした。江戸時代中期に建造されたものと推定されるが、川巾四間・橋巾一間にこの巨石を使用した。当時としては、相当な大工事であって、村人には大きな負担が課せられたであろう。それ故に、此処が如何に重要な街道であったが想起される。小さい方の石は、側面に「元禄十四年三月」の記念銘があり、貴重な橋に使用されたものと推定されるので、村の中央を貫いている八王子街道の石橋の十字路にあったものと思われる。何れも萩園の歴史を物語る重要なもので、後世に残すべくここに保存する。 昭和五十六年七月十五日 萩園郷土会有志 萩園自治会 茅ヶ崎境内の隅に風化した石碑が置かれている境内の南西隅に多くの石碑が建つ石碑には、「鎮守の杜に心のふるさと」慰霊之碑西南戦争、日露戦争、支那事変、大東亜戦争における萩園地区出身戦没者の英霊41柱(西南役1柱、日露戦役5柱、支那事変2柱、大東亜戦役33柱)を祀る慰霊碑。 地元自治会によって昭和42年4月に建立された。碑裏面に英霊名、戦没年月日及び享年が刻まれている。碑高230㎝、幅122㎝、厚さ20㎝、台石60㎝、基壇75㎝慰霊之碑の裏面この碑は、過去数次の大戦において祖国の繁栄を念じつつ、尊い一命をささげた英霊の偉勲をたたえてその霊を慰めるため、市民の浄財によって建立されたものです。 昭和四十二年四月 萩園自治会この石碑は、大正十二年九月一日関東之地大震・・・・・字が刻まれているが判読できず、関東とあるので地震関係の碑であろうこの文字は「〇島○○○○○○」、地震に関係?この石碑もわからず。明治十年西南之役相模高座郡萩園村・・・・・・・・・・・明治十一年戊寅十月本郡羽鳥耕餘塾師小笠原東陽造并書又〇境内にはケヤキ、タブノキの大木が聳える三島大神拝殿祭神 大山祇命(おおやまつみのみこと) 誉田別命(ほむだわけのみこと) 菅原道真(すがわらみちざね)御利益 海上安全、家内安全、厄災除け、学業・受験合格社殿横のタブノキ拝殿の屋根には落ち葉が積もり市指定重要文化財 第四一号 東川斎桂山筆 源為朝図東川斎桂山筆(とうせんさいけいざんひつ) 源為朝図は、三島大神の社殿に保管されている絵馬である。絵馬の図柄は、源為朝が鬼島に渡り大暴れしたという『保元物語』にあるエピソードを取材したものであこと、画風や款記から、狩野派に師事した町絵師の東川斎桂山による制作であること、また、奉納者や奉納年が天保七年(1836)であることが明らかになっている。本絵馬の奉納理由を直接伝える資料は残されていないが、源為朝が疱瘡などの疫病除けのモチーフとされる例があることから、図柄を広義の魔除けと捉えることができるほか、奉納された天保年間は飢饉や水害をはじめとする不安定な世相に対する意識を反映したものと考えられる。なお、東川斎桂山は、「金指桂山」「藤原美信」とも名乗り、江戸時代末期、没する弘化三年(1846)までの間、相模国各地で活動し、本市をはじめ、海老名市、相模原市、平塚市でその作品が確認されている。以上のことから、本絵馬は、江戸時代末期の茅ヶ崎における庶民の生活文化を伺うことができ、また、当時の相模地域の民間における芸術文化の受容を知るうえで重要な資料であると考えられる。 令和三年(2021)三月 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物会 社殿前から神楽殿神輿殿東側から神輿殿、社殿境内の北側、社殿の裏側に建つ石碑、「萩園東土地改良完成記念碑」このような碑があるが、現在では住宅街になっている萩園東土地改良完成記念碑本東地区面積は十四ヘクタールの耕地であり古来より未整理の耕地の為、現在の大型化した農機具の使用に大変不便を感じ再三土地改良の計画がありましたが、実現されず今日に至り今回、相鉄興産㈱、相模興業㈱二社の土地改良を前提とした砂利採取の契約が地権者全員の同意のもと成立し昭和六十三年十月県の認可を受けて以来五年の歳月をかけて無事採取が終了し、平成六年十一月土地改良区を設立し県・市・土地改良連合会等関係機関のご指導を頂き県・市の補助により片側の側溝も整備することが出来ました。地権者の皆様には長い間一致団結され理解あるご協力を頂き約十年の歳月を費やして事業は完成致しました。以上で土地改良事業が完成したことを記して記念するものです。 平成九年十二年 萩園東土地改良区右側の建物は、社殿、神輿殿の裏にある萩園自治会館萩園自治会館社殿の西側の杜境内の北側に廻り境内に生える樹齢400年のケヤキの大木が素晴らしい紅葉が始まったケヤキこれからは落ち葉の清掃が大変だ境内には子供たちが木の実を拾いに三島大神の境内には大樹が多く聳える13:42三島大神の南側にある、市立萩園中学校所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園2425グランドの北側の杜は、三島大神 — 続く ー
2021.11.28
コメント(0)
萩園でざる菊、コキア、ひまわりを見たあと愛車のリンちゃんで、萩園通りを南下。11月3日(水) 12:55高野山真言宗 大鼓山 満福寺(まんぷくじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園1632萩園通り沿いの西側に建つ、「真言宗 満福寺」の寺標、右側に鉄枠で囲まれた「地蔵」参道にあり、何故移設されていないのか参道を進み山門を入ると右側に、地蔵堂と石像地蔵堂の中に鎮座する大師石碑には、 「鉦の音 六つの巷に 栄えなば みの入相を 思いしるべし」 新編相模風土記稿萩園の条に 地蔵堂満福寺持木造にて腹籠の 〇あり相州二十四輩札所第八番なりの記あり 昭和五十七年三月彼岸 施主 野崎薫十王堂内陣を覗き見る境内に立つ観音菩薩左の石碑には「屋根修理記念」 享保九年六月建立以来二百七十年の歳月を得たる本堂〇葺屋根も時代の推移・・・・・ 昭和三十六年三月吉日銅板葺の本堂開山は、鎮海、創建は、伝・文治年間・鎌倉期、本尊は阿弥陀如来歴代住職の墓地境内の隅に、移設集められた石像群の無縁仏塚字が刻まれていたが風化して判読できず石碑の字は汚れていて判読できず 菊池翁碑菊池翁碑銘 前宮内大臣正二位勲一等伯爵土方久元○○○○菊池翁〇逝既三年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・後略大正三年八月 神奈川縣立小田原中學校長正七位阿部宗孝撰 雨降山大山寺法主前學頭〇中僧正高木快雅書裏面には「寄附連名」金五拾圓から金壱圓 発起人は5名でそれぞれ金五拾圓 大正六年八月建設満福寺の南に隣接する塀に囲まれた寺日蓮宗 常顕寺(じょうけんじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園1441日蓮宗の寺院で山号を本立山という。大乗阿闍梨日澄の旧跡。旧本山は鎌倉の比企谷妙本寺、脱師法縁。常顕寺の木造日蓮坐像大永七年(1527)在銘 平成八年十一月茅ヶ崎市指定重要文化財 写真は残念ながら外されていた室町時代の年号銘のある日蓮像です。市内の仏像彫刻の古いものの一つであり、全国に数多い日蓮像のうちでも早い時期に造立されたものとして重要です。本堂にまつられています。像高二九センチ、袖張三七・五センチの大きさです。寄木造りで玉眼嵌入、彩色はほとんど剥落しています。像が敷いている上げ畳台座の天板裏に、向かって右から「敬白 願主/大永七年丁宛(亥)四月十八日/小田原 徳乗房/日盛(花押)」と墨書銘があります。 茅ヶ崎市教育委員会境内の駐車場に駐輪して参拝萩園通りに面して建つ山門大きな石碑の「南無妙法蓮華経」左側、「日蓮聖人 法孫 九老僧 日澄聖人 旧跡」山門の扁額「本立山」山門を入り、右側には広い駐車場石畳の参道を進み本堂へと垣根越しに先程訪れた満福寺。ハスの水鉢が境内に置かれ、右奥に「永代供養墓」本堂前に、「日蓮大聖人像」が立つ本堂の扁額「常顕寺」本堂前右側には、「日蓮大菩薩」本堂北側から山門を望む永代供養墓参道を進むと、「子ノ権現」子之権現本立山 常顕寺日蓮宗 鎌倉妙本寺末元応元年(1319年)宗祖日蓮大聖人九老僧行善院日澄聖人によって開かれた。境内に祀る子之権現は日澄聖人の開眼になり諸願成就の神霊として古くより世に知られる。寺宝として日蓮大聖人の直筆を所蔵している。子ノ権現への参道子ノ権現への参道に手水舎手水舎の水受けに、「子太権現」と右側の本堂から渡り廊下を渡り、「子ノ権現」へ石碑に字が刻まれていたが判読できず子ノ権現前から、境内は綺麗に整備されており枝垂れ桜も植えられていた子ノ権現「子ノ権現」の扁額ツワブキが咲いていた住職が栽培されたキクであろうか客殿入口にきれいに咲いていた本堂を望む、右の木は綺麗にカットされた金木犀?萩園学校跡明治五年八月学制布告される。明治七年(1874)常顕寺に詳恭学舎設立後萩園学校と改称萩園新田を通学一区域とす。明治十年六月萩園学校と今宿学校合併、今宿に台小学校設立される境内の南側にある「淨行菩薩」淨行菩薩(じょうぎょうぼさつ)さま淨行菩薩(じょうぎょうぼさつ)さま因縁淨行菩薩さまは法華経涌出品第十五に説かれ、上行等四菩薩のお一人で久遠実成のお釈迦さま、成道の最初のお弟子です。毎に垢穢を淨めることを行とされ、諸人この淨行像を淨めれば、その功徳によって病は即ち消滅の霊験たちまちに至り、御経文の「其身甚清淨 如彼淨瑠璃」の御利益を得られることと存じます。何卒遍く参拝されて淨行徐病の慈恵を受けられるよう念じます。 昭和六十二年十月吉祥 子之権現 常顕寺常顕寺歴代上人の墓地市の指定樹木であろう、樹齢400年の「マキ」。白の標柱の字が消えていたマキの木を見上げる大樹のマキが聳える境内の駐車場13:15常顕寺の山門 — 続く ー
2021.11.27
コメント(0)
前回10月23日(土)に、茅ヶ崎の西地区の寺社史蹟巡りを行ったが、これを機会に茅ヶ崎市内の寺社史蹟巡りを定期的に行いブログアップすることにした。この日は、萩園のざる菊、ひまわりも見頃であろうと愛車のリンちゃんで出かけた。11月3日(水) 12:03小出川に架かる萩園橋からの北西方向北側には、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の高架橋が横切る農地の一角にひまわり畑10月23日(土)に訪れた時は咲き始めであったが満開になっていた。手前の畑には、葉野菜キクも満開にひまわり畑の隅には管理の人のテント茅ヶ崎小出川桜祭り会場所在地:神奈川県茅ケ崎市萩園127番 付近小出川沿いにある、3~4アール程度の花壇にコキアとざる菊を植えているが今年はひまわりも茅ケ崎市の小出川沿いには、、約70本の河津桜が植えられている。春先には、河津桜、菜の花が咲き、紫陽花、秋には彼岸花が咲き四季折々楽しませてくれる高架橋は首都圏中央連絡自動車道(圏央道)、新湘南バイパスの茅ヶ崎JCT辺り掲示板の裏には、11月7日(日) 10:00~14:00ひまわりの花 5本 200円で販売します ひまわりの会ざる菊も咲き、コキアも色づく畑の中には観賞用のテーブルもセットされている東方向この日は雲に隠れ富士山は見えず今年はざる菊の栽培に失敗したとかズームアップざる菊はまだ満開前か綺麗な花を見るためには日ごろから除草等の管理が大変だと。会員の方が第2、4日曜日の午前中に活動しているざる菊をズームアップざる菊エリアの南側にひまわり畑コキアは風にあおられてひまわり畑へひまわり畑黄色い幟には「ひまわりの里へ」会の方に聞くと、今年の9月15日頃 2,500本ほど種を蒔いたと。また、ひまわりもいろんな種類があると今年は約2,000本植えたと満開のひまわりをズームアップ北側のざる菊畑背丈が1メートルも満たないひまわりちょうど昼時で昼食中先程の掲示板に、11月7日(日) 10:00~14:00に、ひまわりの花 5本 200円で販売するとあったが既に満開になっておりその日まで花持ちするか?北側のざる菊畑、木は河津桜カメラを右に振り、後方の高架橋は茅ヶ崎JCTズームアップ萩園にはひまわりの会場は二箇所ある。こちらは、県道44号線田端南交差点から萩園通りを南下、50メートル程で東側へ入る何か販売しているのかひまわり、ざる菊、コキアが咲くが、ざる菊は病気になったとひまわりは満開に12:50左手前にも、異種のひまわりが植えられていたが成長が遅い — 続く ー
2021.11.26
コメント(0)
前回10月23日(土)に、茅ヶ崎の西地区の寺社史蹟巡りを行ったが、これを機会に茅ヶ崎市内の寺社史蹟巡りを定期的に行いブログアップすることにした。この日は、萩園のざる菊、ひまわりも見頃であろうと愛車のリンちゃんで出かけた。11月3日(水) 11:40JR相模線、北茅ヶ崎駅北茅ヶ崎駅南東側に建つ石碑には、「忠烈」。碑には「故海軍航空兵曹長・勲七等功六級 管〇平吉墓」と刻まれており一人の碑である碑のトップをズームアップ、「忠烈」駅の東側に居酒屋が数件並ぶがコロナ禍で営業は?下りの橋本行き電車。JR相模線は一部開業から100年、全線開業から90年、電化開業から30年。2021年11月18日から新型車両E131系500番台の運転が開始されている。この車両は、205系500番台JR相模線鶴田第一踏切。ここを左折(西方面)し、住宅街を進むスマホの地図に、「無縁塔(オチョバンバの慰霊碑)」の案内。鶴田第1踏切の南の工場の塀に沿って西方向へ進む無縁塔(オチョバンバの慰霊碑)所在地:神奈川県茅ヶ崎市円蔵277-2スマホが「目的地はここです」と案内するがそれらしきものがなく。心霊スポットで以前は塀に囲まれて石碑があったようだが更地になり移設されたのか無縁塔のあった場所から狭い住宅街の道を西へ進むと、山王社(日枝神社)所在地:神奈川県茅ヶ崎市円蔵2228山王社(日枝神社)御祭神 大山昨命(おおやまくいのみこと)(山末之大主神)全国の日吉神社、日枝神社、松尾神社の主祭神で、古来日吉山王権現、江戸山王権現、山王権現、山王社などと称したものを明治元年(1868)に日枝神社と改められた。しかし今でも山王さんと親しまれている。圓蔵神明大神宮奥宮にある古器物に、紀元弐千五百三十二年(明治五壬申年秋九月) 天照皇大神 日枝大神 合社記されており、当地より神明大神宮に遷され祀られていたが町内守護神として昭和十九年七月鐘楼堂の建物と共にこの地に遷宮された。昭和四十七年二月竜巻により鐘楼堂は全壊し立替られ現在に至る。御祭神山王権現は安産子育縁結び等に霊験が深く、又酒を造ることが上手な神であった為、酒造業、酒店、酒飲業者から酒の神と敬われている。特に土木の知識にもすぐれているので、土木建築業者からも厚い信仰を受けている神です。尚、申(猿)を神使とすることで知られている。 元旦祭 一月一日 町内祭礼 三月三日 浜降祭 七月十五日 大 祭 九月十七日 昭和六十三年九月吉日三叉路の角に位置しており、狭い境内にサクラの木が一本聳える山王社前から住宅街の道路を振り返る北側に廻り込む10×10メートル以下の狭い敷地に建つ山王社境内にはサクラの木が一本聳える摂社 山王社誌 鎮座地 茅ヶ崎市圓蔵字御屋敷2228番地 御祭神 大山昨命(山末之大主神) 境内地 23.5坪(神明大神宮飛地境内) 元旦祭 一月一日 例 祭 三月第一日曜日 神幸祭 九月第三日曜日山王さまの祭神大山昨命は、農業生産に欠かすことのできない山の自然と山につきものの水〇とを司り給う神、ひいては万物を化育するムスビの霊徳を有せられる神である。山王社の神の使いは猿と云われ夫婦円満、殖産繁栄のご利益がある。特に女猿は安産、子育てに霊験があらたかだといわれている。当社の神猿像は東京都千代田区永田町田官弊大社日枝神社の許可を得て模造する。当社の創建は江戸時代で、本宮は田官弊大社日吉大社東本宮懐島の御屋敷の辰巳(東南)に鎮座と安政六年(1859)の圓蔵村絵図に記されている。明治五年九月政府の一村一社令により圓蔵鎮守神明大神宮に合祀。昭和十九年七月神明大神宮の鐘楼堂を移設、社殿として再鎮座。昭和四十七年二月竜巻により倒壊、同年辻町氏子により再建。平成十八年十一月神明大神宮総氏子により、社殿新造、境内整備事業竣工。 奉納 土垣・社号碑・神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 平成十八年十一月吉日 宗教法人神明大神宮社殿前に神猿像左側の神猿像右側の愛嬌ある神猿像左側に、鳥居があり石碑に、「総本宮 日吉大社」と刻まれている石で囲われた中に、石碑の総本宮 日吉大社、道祖神、子育石が並ぶ子育石社入口には、「摂社 山王社」道路脇に、「道祖神」と左に「歌碑」円蔵稲荷神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市円蔵住宅街の路地に建つ稲荷神社である説明板がなく、廻りは新しい住宅が多いので由緒が言い伝えられないのでは高野山真言宗 天慶山輪光寺(りんこうじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市円蔵タウンニュースの情報で今年の6月4日(金)に訪れたが再度の参拝である。前回のブログは「真言宗輪光寺」👈 をクリック願います本殿前から境内を。秋になり、松の手入れに植木屋さんが訪れていた前回訪れた時、「山王塚」が解らず再度訪れた。今回もこの看板だけでわからず境内にいた方に教わる。山王権現社當寺三世法印隆善大和尚之墓源頼朝の重臣懐嶋平権守景能入道供養塔山王塚墓地の西側に位置し、先程の案内板の左前方5メートルほどにある山王塚由来※ 輪光寺出土の蔵骨器(平安時代末期) 當寺本堂裏手に鍵の手に連なる竹藪があり、本堂に近い約五米の個所は、古くから立入 れば崇りを受けると言われていた。墓地の拡張の為、この薮を取払う事となり一端から 伐除して前記の個所に及んだところ、蔵骨器を発見し作業は中止されるに至った。恐ら くかつての墓域を限った記憶だけは、禁忌の場所だけは禁忌の場所として、失われなか ったものであろう。 発見の際は正位に埋納された蔵骨器の周囲を礎石で固めてあったと云う。 本蔵骨器は備前焼系の素焼土器で、須恵質の蓋を伴っている。蔵骨器の底の方に十糎ほ ど土砂まじりの骨粉があったと云う。火葬骨は現位置に埋納する。※ 源頼朝の重臣懐嶋平権守景能入道供養塔 承元四年(1210)四月九日卆※ 五輪塔 空輪・風輪・火輪(鎌倉時代) 水輪・地輪 (平成時代)※ 無縫塔當寺三世 法印隆善大和尚之墓 永正元年(1504)十月※ 山王権現社 祭神 大山昨命 山王総本宮日吉大社東本宮(滋賀県大津市坂本) 千時寛文十二年(1672)敬白王子三月吉祥日朝宥※ 神使一猿像 寛文十二年五輪塔、懐嶋平権守景能入道供養塔山王塚を案内していただいた方から、「住職が製作した漆塗りがある」とのことで客殿へ。住職は漆塗りの不動明王座像を約5年の歳月をかけて完成した住職が約30年前から製作していると輪光寺から西方向へ進み、茅ヶ中央通り(県道45号線)へ出て北上ここ円蔵北交差点を左折して西方向へ11:55住宅街の中に遺跡発掘現場建売住宅地であろうか何が発掘されたのか発掘調査現場は、「特定開発事業の概要のお知らせ」場所:茅ヶ崎市矢畑字明王ケ谷169番2外 5筆12:03小出川に架かる萩園橋から北西方向を見る ー 続く ー
2021.11.25
コメント(4)
藤沢市の御所見南部・遠藤文化財を巡りを終え、小出川を南下して茅ヶ崎市の寺社史蹟巡りへ。旧藤間家住宅の見学後、更に南下。10月23日(土) 15:46柳島厳島神社(やなぎしまいつくしまじんじゃ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島海岸13-40住宅街を抜け、国道134号に近いところに鎮座しており、鶴嶺八幡宮が兼務する神職不在の神社で海岸に近い柳島厳島神社の社殿祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。厳島神社は弁天さんと通称されている拝殿の扁額、「嚴嶋大神」境内の南東隅に建つ境内社と石祠、石塔群境内社の鳥居はステンレス製石祠と石塔群境内社、石祠、左側に、山状角柱型の「道祖神」境内社境内社の扁額「○○坊」境内の東側にはトイレもある移設された、石塔群右側は、「川﨑大明神」石碑。表面には、川﨑大明神、白龍大明神、青龍大明神、蛇を彫っている。明治31年にこの蛇が出現して何らかの霊験を現したのだろうか石塔の裏には、「八大龍王」側面には、明治三十一年四月廿七日午前三時ノ出現。八大龍王とは仏法を守る八体の龍王のことで、海上の守護神・漁業の神として漁業関係者に祀られています拝殿疫病退散祈願の幟境内に建つ集会所境内を振り返る15:54集会所の入口茅ヶ崎市の寺社史蹟巡りは、今後も定期的にアップ予定です。柳島厳島神社の後、日没も近くなったので、湘南大橋東岸へ向かう。16:05湘南大橋東岸西の空には富士山が薄く見えていた江の島をのぞむこの日は土曜日で多くの人が釣りを楽しんでいた相模川に架かる、トラスコ湘南大橋16:30太陽が箱根の山に沈むこの日は波が穏やかであった富士山の裾野には雲があるが頂上はくっきりと赤焼けを期待したが思うほどには焼けず伊豆大島伊豆半島平塚の平塚新港箱根の山には雲が厚い17:06湘南平(高麗山)越しに富士山が見える富士山をズームアップ頂上付近には積雪しているようだこれ以降は、10月29日(金)の夕日撮影。16:35湘南大橋東岸からの夕日今日は波が荒い箱根の山には雲がないズームアップ富士山には雲がかかる日没後の夕焼けを楽しむ 駒ケ岳に陽が沈む富士山をズームアップ16:54日没後、15分経ち湘南大橋東岸から引き上げることに17:19サイクリングロードを東に走り、茅ヶ崎漁港を通り抜け茅ヶ崎ヘッドランドへ。砂浜に降り立ち、三脚をセットして撮影サザンビーチをズームアップ砂浜には夜釣りを楽しむ人も金時山から富士山へと雲がつながるサザンビーチをズームアップ17:35日没後約1時間を過ぎ帰宅することに END
2021.11.16
コメント(0)
藤沢市の御所見南部・遠藤文化財を巡りを終え、小出川を南下して茅ヶ崎市の寺社史蹟巡りへ。10月23日(土) 15:00旧藤間家住宅所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島2丁目6-30スマホの案内で柳島八幡宮の南側に位置する、旧藤間家の北側の駐車場へたどり着く。運よくこの日は「開館中」お知らせ民俗資料館旧藤間家住宅の開館時間変更について令和3年4月2日より、当分の間、本館の開館時間を下記のとおり変更させていただきます。ご理解、ご協力をお願い申し上げます。なお、開館日は今までどおり金曜日と土曜日(令和3年度は 12月31日と1月1日は休館)です。 開館時間(臨時)・・ 9:30 ~ 15:30 茅ヶ崎市教育委員会市指定史跡である「近世商家屋敷跡」および国の登録有形文化財である「藤間家住宅主屋」を含む屋敷の敷地を保存し、平成30年4月13日から敷地のみを公開している。入口には、いろんな説明が掲示されていた茅ヶ崎市指定史跡 藤間家(近世商家)屋敷跡藤間家は代々柳島村の名主を勤めた家柄であり、近世(江戸時代)では廻船業を営む商家として、所有する四百石船を駆使し、江戸を主体に広範な商いを行いました。敷地の南縁と西縁に現存する石垣をはじめ、新たに発見された土蔵跡などの近世遺構が敷地内にそのまま包含されていることが発掘調査で判明しました。また幕末の文人名主として高く評価され「かながわの百人」にも選ばれた藤間柳庵翁(善五郎)をはじめとする代々の御当主が残した数多くの民俗資料や書画などからも、市内では他にない近世商家の歴史状況を窺うことができる貴重な遺跡です。鎌倉時代の二階堂氏文書(1271年)に初めて「柳島」の地名が見えるものの、これまでほとんど知られていなかった海岸地域の歴史を明らかにする糸口にもなる遺跡であることから、近世商家の痕跡を埋蔵している当屋敷地を保護・調査し後世に伝えていくために、茅ヶ崎市は平成二十五年三月、史跡として文化財指定(第37号)しました。 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館 国登録有形文化財「藤間家住宅主屋」旧藤間家の主屋は昭和7年の建築で、建物は敷地の中央に建ち東面を洋風に設えています。洋間を玄関南脇のみに配していますが、北脇の和室を含む東側立面全体を下見板張りの洋風意匠で統一させています。その他は、簓子(ささらこ)下見板張りとして和・洋の意匠を対比的に採用しています。内部は中廊下の前後に居室を並べています。日本の建築に洋風文化を取り込むなど大正・昭和を代表する建築家でもあった西村伊作の作風の一端を示す近代住宅です。建築当初の姿をほぼそのまま残す数少ない建物であることから、平成27年3月26日に国の登録有形文化財に登録されました。民俗資料館 旧藤間家住宅開館日 金曜日と土曜日(12月27日 ~ 1月4日は休館)時 間 9:30~15:30(令和3年度用時間)災害時で臨時休館する場合もあります。見 学 庭の自然および縁側から主屋をご覧ください(室内は一般公開していません) (主屋の玄関前にパンフレット等を置いています)北側の駐車場から邸内へ藤間家主屋(玄関を中心にした東面)昭和7年の建築で、建物は敷地の中央に東面します。洋間を玄関南脇のみに配しますが、北脇の和室を含む東立面全体を下見板張の洋風意匠で統一されています。その他は、簓子下見板張りとして和洋の意匠を対比的に採用しています。平面は中廊下の前後に居室を並べています。設計者西村伊作の作風の一端を示す近代住宅です。なお、藤間家は江戸中期から名主を務めた豪農で、廻船業も手がけました。建築年代は棟札から分かっています。設計は西村建築株式会社、棟梁は石井兼吉が務めました。建築とともに建設時の図面や書類が残っています。登録有形文化財に指定されており、茅ヶ崎市では藤間家主屋は2番目だと。因みに、茅ヶ崎市では1番目 茅ヶ崎館、3番目 南湖院、4番目 氷室家の4つの建物。登録有形文化財 第14-0192号 この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁玄関先から中を望む、敷地のみ公開で、建築物の中には立ち入りできないのが残念主屋の玄関先にある「枯れたキャラボク」地域の名木「藤間家のキャラボク」を偲んでキャラボクは、もともと山形県の鳥海山から鳥取県の大山にかけての日本側の山々に点々と自然分布がみとめられるといわれていますが、横に広がって小枝を多数出す特徴から庭園樹として用いられることが多い樹木です。藤間家のキャラボクは、樹高は5m、幹は7本に分かれ、枝は地面を這うように10m四方に広がり、緑豊かな見事な樹容を見せていました。海岸に近く暖かい土地にこれほど成長した例が少ないことから、昭和59年(1984年)に「かながわの名木100選」に選ばれ、61年には市の天然記念物に指定されました。選定当時でも樹齢は100年を越すものといわれ、名木というにふさわしい趣を感じさせていました。(「『かながわの名木100選』1987年神奈川県教育委員会」より一部抜粋、写真も同紙より転載)。そうした、人々に親しまれた古木ですが、近年、環境の変化により樹勢が衰えはじめ、根回りの養生などの努力も追いつかず、残念ながら枯死するにいたりました。そして平成28年(2016年)に市の天然記念物指定を解除することになりました。藤間家では、現状のままで残されるお考えであることから、ここに選定当時の緑豊かな樹姿をとどめ、これからも市内散策のスポットとして活用させていただきたいと考えています。 平成29年(2017年)3月 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館 史跡藤間家 近世土蔵跡の石組み史跡藤間家 近世土蔵跡の発見〇 確認調査への経緯 庭木の手入れをしているときに、地中から石垣のような石の並びが見つかったというご 連絡をいただいたことから、市教育委員会(社会教育課)が現地確認を行い、改めて正式 な確認調査を実施したものです。〇 調査期間 平成23年7月12日 ~ 7月15日〇 調査区の設定と方法 五当主が発見した4個の石垣部分を精査し、明らかに地中に遺構が広がって存在すること を確認しました。その際にご当主が示された藤間家に伝わる古文書(家相図)に見える土蔵 跡の可能性が考えられました。これをTP1(テストピット1)として、想定される建物の 四隅を図のとおりTP4まで調査区を設定し、手掘りにより発掘調査を行いました。〇 調査の概要 今回の四か所の調査では、予想していた建物基礎の四隅が明瞭に現れ、南北約4.8m、東 西約6.7mの規模に石組みを施した何らかの建物の基礎の存在が明らかになりました。 ・・・・・後略〇 調査の成果 今回発見された基礎周りを石組みにしたこの建物跡は、藤間家に伝えられている明治五年 の家相図に記された土蔵に合致することが考えられました。家相図では旧宅の北側端に「 二間三間三階建」の「土蔵」が組み込まれた配置となっており、今回の調査結果は、その 家相図に記された当時の屋敷配置を証明するとともに、石組みの基礎は江戸時代では極め て珍しい三階建て建物ゆえに強固な基礎固めをおこなっていたことを物語っているといえ ます。〇 調査から見えてきた当時の景観 江戸時代の終り頃に二間三間三階建ての白壁の土蔵を抱えた大きな廻船問屋の職場兼住宅 がたたずんでいた景観が浮かび上がってきます。 現在、藤間家の西側及び南側に存在している石垣は、・・・・・後略 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館 (平成二十六年三月)土蔵跡2間3間3階建て土蔵の土台となった石垣が発掘調査で明らかになりました。本来は3段組の石垣の土台のうえに立つ3階建の土蔵だったと考えられます。3階部分は「柳庵」という名の書斎でもあり、物見やぐら、火の見やぐらのような役割をもっていた可能性があります。途中から、市の係員の方に説明願う家訓碑確認が困難だが家訓柳庵居士歳五十有七為令誦子孫書於石上 身代は預りものと こゝろえて 冨やすより先 へらさぬかよし旹安政四丁巳稔夏六月上浣之吉庭先の石碑は、「藤間柳庵 生誕・終焉の地」と主屋玄関先の北側から主屋北側の部屋に掲示、「藤間家が所有した400石船」藤間家は江戸時代以前から帆船を所有して物資を輸送する回船問屋であったと考えられます。航海の安全を願った掛け軸に描かれた「観音丸」と「不動丸」の絵です。船窓に人の姿が見え、舳先には4本爪の錨が掛けられています。観音丸(かんのんまる)この絵図の船員の身長を1.6mとすると、船の大きさは長さ21m強、帆の高さは15m程度であったことが考えられます。船体の後半部には船窓(開ノ口)から覗く人の姿も見られます。400石船であれば大きさでは112立米、重さでは60トンの荷物を運ぶことが出来たと思われます。江戸時代後半。不動丸(ふどうまる)観音丸の弟船として嘉永2年(1849)に建造されました。柳島湊を出てまもなくペリーの黒船群に遭遇し湊へ逃げ帰ったことが柳庵により記されています(太平年表録)。藤間柳庵が所有した400石船江戸時代に名主をつとめた藤間家は、幕末の柳庵の時代には「観音丸」「不動丸」という帆船を所有して江戸や伊豆などと行き来して回船商を営んでいました。回船商とは船を使った搬送業であり、その大きさは絵の中の船員とみられる人から知ることができますが、400石積ともいわれ、現在では 112立米(縦・横・高さ1mの箱112個)の大きさの荷を運んでいたと思われます。年貢や相模川上流から集積した木材などを江戸に送り、江戸の物資をいち早く相模地域にもたらしました。馬入川(相模川)の河口を利用した、柳島湊を拠点にして、東西の物資や文化が入り交じるにぎやかな光景が思い浮かばれます。海濵眺望図江戸時代の終わり頃の馬入川河口明治15年作成の地図(陸軍による迅速図)相模川(馬入川)の当時の河口の様子がわかります。江戸時代の柳島湊は、ゆるやかな流れのある入江を利用していました藤間柳庵「太平年表録」「太平年表録」は、ペリーが来航する嘉永六年(1853)に始まって、徳川幕府が崩壊して間もない明治五年(1872)の間に生起した政治、外交、社会の出来事について、柳庵が入手した情報資料、あるいは柳庵自身が執筆した文章を、年代順に書き記したものである。その内容は、①ペリー来航の情報を筆頭とする対外関係の記事、②国内各地の社会や政治の動き伝える外部からの情報、③社会の動きともに・・・後略● 各編の主な内容 一編 ペリーが来日する嘉永六年から、翌年条約調印を求めてペリーが・・・・。 二編 嘉永七年にペリーが幕府の返答を求めて再度来日した記事から、・・・・。 三編 安政三年十二月のハリス応接記録の続きに始まって、文久元年・・・・・。 四編 文久元年十二月に和宮が江戸へ下る情報から、元治元年に天狗党・・・・。係員の方の説明で南側へまわりこみ。洋と和の調和がみえる南面庭から住宅を観察 ・・みどころ・・〇 従来の和の住宅に洋室(応接間)と玄関(ホール)が増改築されている。〇 そのほかは和の造りとなっており、八畳と六畳間には1間幅の縁側があり、屋根が幅の広い ヒサシまで一体的に作られている。〇 座敷は高い天井と部屋の仕切り壁に欄間(らんま)を施している。〇 八畳間の東壁には床の間と違い棚が設えられている。〇 八畳間の北壁上段には柳庵の著作物、中段には書の師であった秦星池(はたせいち)の篆書(て んしょ)の額、右側には柳庵作成の竹の聯(れん)4点。〇 六畳間には絵文字版画とその版木(左)を展示しています。村人思いの柳庵が天保の飢饉や安 政の大地震で不安がる村人のために、江戸で流行していた「宝尽くし」のデザインで文字化 し、自ら作成して配布しました。庭先から居間を望む珍しいテーブルの上に火鉢六畳間には絵文字版画、左側にその版木絵文字の意味は、「家内安全火乃用心」玄関への縁側左上にある2点は広重の作「小倉擬 百人一首」別の部屋には多くの浮世絵版画を陳列。左側壁には、「階段箪笥」階段箪笥(たんす)据え置き型の階段であり、下部は引き出しや戸棚に仕上げられています。江戸時代に建てられた3階建の土蔵に設置されていた可能性があります。〇 浮世絵版画 この家に保管されていた439枚221点(3枚組のものを1点として)の一部です。江戸時代末 (1840~1850前後)に活躍した歌川広重や豊国をはじめとする歌川一門の作品です。 柳庵のコレクション。 ● 縁側の右上にある2点は広重の作「小倉擬 百人一首」 ● 縁側左上の右側は「江の島遠見」左側は「大磯(馬入川渡し)」 ● 9畳間奥の3枚組4点 (左上)三代目歌川豊国「御庭あそび」 1846~1849年 (左下)三代目歌川豊国「能 狂言の内 羽衣の松」 1862年 (右上)歌川国芳「四季遊覧 納涼乃ほたる」 1844~46年 (右下)歌川貞秀「亜墨利迦州迦爾波尓尼亜港出帆之圖」 1862年 ● 9畳間左 四代目歌川豊国「里見八犬傳狗草子之内芳流閣上圖」 1854年これらの絵はレプリカで本物は市の美術館で保存、柳庵は約400枚の絵を購入していると 縁側左上の左側は「大磯(馬入川渡し)」、右側は「江の島遠見」右側の「江の島遠見」左側の「大磯(馬入川渡し)」9畳間奥の3枚組4点(左上)三代目歌川豊国「御庭あそび」(左下)三代目歌川豊国「能 狂言の内 羽衣の松」(右上)歌川国芳「四季遊覧 納涼乃ほたる」(右下)歌川貞秀「亜墨利迦州迦爾波尓尼亜港出帆之圖」西側にある倉庫の中には古きものが整理されていた。懐かしい練炭、炭団もハイカラな乳母車農機具も整理されナンバーが一番左側は大正時代に増築したものだと南側の庭に赤松噴上井(ふきあげい)(掘抜井戸)噴上井(ふきあげい)(掘抜井戸)と藤間温泉江戸時代の終わり頃、柳島村の名主を務めていた藤間柳庵(善五郎)は、幼い頃から書道や学問に親しみ豊富な知識を持つ人でした。その中で、地中深くにある水脈に達すればその水圧で水が吹き上がることを知っていました。掘り抜いた木の筒を継ぎ足しながら掘り下げる方法で一年七ヶ月かけて深さ二十間(約36m)に達すると人の身長をはるかに超える高さまで水が噴上がりました。明治時代初めに描かれた図には、この井戸から南側の敷地端に「水車、槝場(粉挽き場)」があることから、いかに水量があったかを想像することができます。柳庵翁は、さらに有り余る水を有効利用しようと屋敷の南東端に湯屋をつくり村人に風呂の提供をはじめました。後の藤間温泉のはじまりです。その後近くでも同じ掘抜井戸で大南温泉(山口屋)が誕生し、年貢事務を行う幕府の役人の宿舎にも利用されました。柳庵翁は所有する四百石船を使い、熱海や湯河原の温泉水を買い付けて柳島に運び、柳島の井戸水に混ぜて良質を高めていました。また明治時代中頃には藤間家の東方で藪下温泉も開設し、村の人だけではなく海遊びや川遊びなどの行楽者たちの憩いの場ともなっていました。しかし大正十二年の関東大震災の影響により水量が減少するようになり、また第二次世界大戦の開始などにより昭和二十年前後には廃業していったようです。 (平成二年 柳島自治会・五三会編「柳島うつりかわり」より)ニッケイ(肉桂)ニッケイは、クスノキ科ニッケイ属の1種の常緑高木である。ニッキ、ニッケとも呼ばれる。かつては、中国南部・台湾原産とされていたが、自生種の存在も確認されている。日本へは享保年間 に中国から輸入され、盛んに栽培された一月頃には「カンザクラ」が綺麗に咲くと15:38敷地の南側のこちらが表門。民俗資料館 旧藤間家住宅 茅ヶ崎市教育委員会 ー 続く ー
2021.11.15
コメント(0)
御所見南部・遠藤文化財を巡りを終え、小出川を南下して茅ヶ崎の萩園経由、茅ヶ崎市の寺社史蹟巡りへ。10月23日(土) 14:00昼時も過ぎ、かつやで久しぶりにカツ丼を食べることに国道1号沿いに建つ、「かつや 今宿店」所在地:神奈川県茅ヶ崎市今宿1667-1カツ丼+トン汁を食べる。次回の割引券 100円を頂く昼食後、次の目的地「柳島八幡宮」をスマホで検索。かつや前の国道1号を東へ進み、直ぐにある小出川に架かる下町屋橋を渡り右折すると、旧相模川橋脚跡がある。14:35史跡 旧相模川橋脚跡天然記念物 旧相模川橋脚 所在地:神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目4-2地震によって生じた液状化現象の痕跡も確認された他、橋脚の出現状況は関東大震災の地震状況を残す遺産としても評価され、平成24年度(2012)、史跡指定に加え国の天然記念物としての指定を受けることになりました。液状化現象としては全国初の国指定になります旧相模川橋脚は、大正12(1923)年9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、水田に橋杭が出現した全国的にもまれな遺跡です。当時の歴史学者沼田頼輔によって、鎌倉時代の建久9(1198)年に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、大正15(1926)年に国の史跡に指定されました。平成13年から実施された保存整備に伴う調査では、橋脚についての詳細が確認された他、新たに橋脚の北側から関連する大きな土留め遺構も発見され、平成19年2月6日に追加指定を受けています耕地整備記念碑 神奈川縣知縣 松村光磨書碑の裏には、 大正十四年十二月二日着工 昭和十五年十一月十日竣工 高座郡茅ヶ崎町湘東耕地整理組合当時の地形図橋脚に用いられている橋杭はいずれもヒノキ材で、直径は48cm〜69cmという太さで、現存する長さで最大のものは3m65cmでした。確認されている橋杭は10本で、実際には3m65cm以上の高さがあったと推測されています。現在の相模川の流路は、旧相模川橋脚の西側1.5kmですが、鎌倉時代には相模川橋脚の位置を流れていたのか、あるいは支流がここを流れていたと考えられます。『吾妻鏡』によれば、建久9年(1198年)12月27日、源頼朝はこの橋の竣工式に出席した帰りに、馬から落ちてしまい、それがきっかけで体調を崩し、翌年1月13日に死去したとされています。JR東海道本線松尾踏切60K675M 茅ヶ崎市下町屋1-1茅ヶ崎駅、東京方面いつも鉄撮りが待機しているが今日は不在スマホの案内で迷いながら、住宅街を進み「柳島八幡宮」へ。前方に社の杜が見えてくる14:47柳島八幡宮所在地:神奈川県茅ケ崎市柳島2丁目3-10石鳥居の扁額「八幡宮」柳島八幡宮入口に建つ、境内図柳島八幡宮の外から、「折れた鳥居」左側の石柱には「文政五年」と刻まれている。文政五年は、今から200年前の1822年である境内に建つ、柳島自治会館八幡宮復興記念碑と手水舎手水舎は何となく違和感を感じさせる、柱はステンレス製のパイプ。屋根は銅板葺で柱だけを修復したのか社殿と鐘楼鐘楼の前に並ぶ、道祖神など御神木の「椎(しい)」と、折れた鳥居折れた鳥居この折れた鳥居は、大正十二年九月一日(1923年)の関東大震災の被害の状況を示すものです。当時の柳島地区は世帯数161戸、ほとんどの家が倒壊し、残ったのは3戸だけでした。地震の大きさを後世の人々に伝えようと残してあります。折れてはいますが、江戸時代の年号が刻まれている茅ヶ崎市内では数少ない貴重なものの一つです。 平成三十年三月吉日 柳島八幡宮御神木 椎(しい)鳥居の左奥に建つ、「藤間柳庵の碑」藤間柳庵とは?と思いながら、碑の裏には、昭和五十八年十一月吉日建之 柳庵顕彰碑建設委員会 有志一同 石工 三橋石材店柳島八幡宮入口に聳える御神木正面に拝殿、左に神輿殿神輿殿前のイチョウの樹は枝を切り落とされている拝殿、一対の狛犬七五三の幟が立つ拝殿の扁額、「八幡宮」拝殿の彫り物柳島八幡宮現在の祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)(応神天王)である。● 文政五年(1822) 鳥居が造られる。(鳥居の年銘による)● 天保十二年(1841年) 『新編相模国風土記稿』に「十羅刹女社(じゅうらせつにょしゃ) 鎮守なり」とある。 (十羅刹女社とは、鬼子母神と共に法華経の信仰者を擁護する十人の鬼神女のこと)● 嘉永元年(1848年) 柳島の鎮守の社殿建築を、鎌倉郡村岡郷高谷村(現在の藤沢市内)の大工文蔵が総工費29両 で受け、同年十一月十五日に竣工する。(藤間家資料による)● 大正十二年(1923年)九月一日 関東大震災のため鳥居を含め全壊する。● 大正十五年(1926年) 当時の区長の片野荘太郎は神社総代と図り、村民の総意を得て全社殿と鳥居の再建を決め る。大工は地元の石井金寿、宮大工は愛甲郡愛川町半原の矢内匠家に依頼し、倒壊前の姿 に竣工する。● 昭和二十年(1945年)七月十六日 太平洋戦争の平塚空襲の際に、全焼する。● 昭和二十四年(1949年) 千葉県行徳(現在の市川市内)の神輿・堂宮師の後藤直光により、神輿を新調する。● 昭和三十二年(1957年)十一月二十三日 氏子をはじめ多くの方々から寄付を得て、社殿を建立する。 大工は石井幸三郎・府川篤、木彫師は江口裕康。● 昭和五十年(1975年)五月四日 本殿を再建する。大工は石井幸三郎・府川篤、鳶職は山口道雄。現在に至る。 平成三十年三月吉日 柳島八幡宮境内の裏側に建つ、庚申塔など庚申塔庚申塔は、庚申信仰をともにする人たちによって建てられた石仏の一つです。昔、庚申の日の夜は、人々は集まって眠らないで過ごしました。この夜に眠ると悪いことがあると信じられていたのです。このような信仰を持つ人々は、その後、自分たちの死後の安楽を願って庚申塔を建てるようになりました。庚申塔は現在、市内に百基近く見つかっています。ここには三基ありますが、一番大きな塔は、江戸時代初期の万治三年(1660年)に作られたもので、市内では八番目に古く重要なものです。どれにも「見ざる(猿)」「聞かざる(猿)」「言わざる(猿)」が彫ってあります。また、その一つには六本の腕を持った青面金剛も見られます。 平成三十年三月吉日 柳島八幡宮右側は、江戸時代初期の万治三年(1660年)に作られたもので、市内では八番目に古い左の石碑には、「道了大菩薩」と境内の北側から、本殿、拝殿現在の本殿は三代目で、養生されている本殿の西側に「子宝の木」説明板等があったが古い銘板には、この金精さまは縁結び 子孫繁栄 長生不老五穀豊穣 町内安全を祈願して建立されたものです。 平成二十三年 元旦 柳島八幡宮本殿、拝殿を神輿殿横から14:57鳥居横に聳える御神木の椎。次に訪れるのは、「藤間柳庵の碑」に関連する「旧藤間家住宅」 ー 続く ー
2021.11.14
コメント(0)
御所見南部・遠藤文化財を巡りを終え、まだ時間が早いので小出川を南下して茅ヶ崎市の萩園地区へざる菊の開花状況を確認に。10月23日(土) 12:44子聖神社から南下、農耕地脇に石塔、左側面には「大正七年・・・・・」と文化財ハイキングコース案内板御所見南部・遠藤コースのポイント Aコース:①妙福寺 ②大法寺 ③盛岩寺 ④堂の前 ⑤子聖神社 ⑥宇都母知神社 ⑦少年の森 Bコース:①御嶽大神 ②宝泉寺 ③宇都母知神社 ④妙福寺 ⑤少年の森愛車のリンちゃんで全てを巡った12:53藤沢市から寒川町に入り、住宅街の道路脇に咲くコスモス立ち止まりしばしコスモス撮影に青空に映えるコスモス13:07小出川に架かる寺尾橋。橋のたもとに工事看板。川に溜まった土砂を取り除いています工事期間:令和4年2月28日まで 時間帯:8:00 ~ 17:00週休2日制モデル工事に取り組んでいます この工事は、建設産業の労働環境を改善するため、週休2日の確保に取り組む工事です。以下7枚の写真は後日通りがかった時撮影したものです。西方貝塚(にしかたかいづか)所在地:神奈川県茅ヶ崎市下寺尾この場所は、大岡越前通りの小出川近くにある西方貝塚、下寺尾官衙遺跡群と弥生時代環濠集落西方貝塚貝塚の時代:縄文時代前期(6 ~ 7000年前頃)立 地:相模野台地南西端の平坦部北側 海抜約12m所 在 地:茅ヶ崎市下寺尾601付近貝 の 種 類:ヤマトシジミ(主体)、チョウセンハマグリ、カキ、サザエなど伴 出 遺 物:縄文土器(関山式、黒浜式を主に上坊式を含む) 石器(石鏃、打製石斧、削器など)この時期は、地球温暖化による海面上昇で、眼下まで海が寄せていました。小出川、駒寄川の河口には海水と淡水が混ざり合うラグーン(潟湖)が形成されてヤマトシジミが生息していました。縄文時代前期頃の人々の活動やその頃の自然環境を知ることができる貴重な遺跡です。 平成28年3月 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館下寺尾官衙遺跡群と弥生時代環濠集落下寺尾官衙遺跡群は、相模野台地南西端のこの地に7世紀終わり頃に営まれた高座郡衙(郡の役所)と南側の低位部に存在した古代寺院(七堂伽藍跡)、及び小出川に築かれた津(船着き場)、河川を利用した祭祀場などからなる古代の公的機関を包括しています。この辺りには遺跡が多く、某高校の敷地内にも遺跡があり新築工事が保留になっている弥生時代環濠集落は、空堀(巾3m、深さ2m程度)で囲まれたムラで、関東では最大級の規模といわれています(弥生時代中期:2000年前)小出川に架かる寺尾橋東側相模線の電車をズームアップ小出川の河川敷を見下ろすとスズメの集団水浴びをしているのかJR相模線左は、茅ヶ崎駅方向相模線の列車は年内に新しくなる香川駅、寒川駅の間13:35茅ヶ崎小出川桜祭り会場所在地:神奈川県茅ケ崎市萩園127番 付近小出川沿いに、3~4アール程度の花壇にコキアとざる菊を植えているコキアの色づきはいまいちで、ざる菊の開花には早かったようだコキアの先には富士山ざる菊は黄色が最初に咲くようだコキアは風にあおられて赤はこれから見頃にこの辺りの小出川沿いには河津桜を植えており春先には桜祭り。ここを管理している会長さんから以前会員に誘われたがコキアの蕾会員になると定期的に雑草の除去に応援文化の日辺りには満開になるのかまだ開花前のざる菊、この色は?雑草もあり管理が大変ダリアが満開に小出川の土手に咲く、オシロイバナオシロイバナ(白粉花)は種子の中から「おしろい」に似た白い粉が出るのでつけられた名前です。種子は1花に1つでき、割ると胚乳が粉上に出てくるので子どもたちがこの粉をおしろいのように顔に塗って遊んだことからついた名前です。別名夕化粧とも呼ばれます。オシロイバナの花びらに見える部分はがくで、赤、ピンク、白、黄色の単色の他に絞り咲きや染め分けがあり、1枝の枝から異なった色の花が咲きます。オシロイバナは草丈70cmほど、株張りが50cmを超える大型の草姿で、花は夏から秋の午後4時ごろから咲くため英名では開花時刻を示すfour-o’clockと呼ばれています。夕方から翌朝10時ごろまで咲いています。隣接して、ヒマワリも植え付けられていた一部咲いていた11月初旬ごろには見頃か13:50一週間後の11月に再度訪問したい ー 続く ー
2021.11.13
コメント(0)
御所見南部・遠藤文化財を巡りで、「盛岩寺」から「子聖神社」へ。10月23日(土) 12:12盛岩寺から南方向へ進む。道路脇の畑の隅に小さな祠信仰心のある方が建てられたのか次の目的地は、「子聖神社(ねのひじりじんじゃ)」大庭獺郷線の打戻堂の前交差点。この交差点を右方向へ進む交差点の片隅に石塔が四基並ぶ。剣の如き形の二十三夜塔には、「右一之宮 左ふじさわ」と刻まれた道標。右は、「猿田彦大神」で、文化十癸酉年十一月、1813年の造立。交差点の先に、うなぎ・ふぐ専門店の「一幸」所在地:神奈川県藤沢市打戻686昼時でいい香りが漂っていた、いつか食べに来たいものだが打戻堂の前交差点から大庭獺郷線を外れ南方向へ進む。この辺りには豚舎があり風下でいい香りが漂っていたが、子供たちは慣れているのかバースプレイス「みのり台」平安の昔、このあたりでょ養蚕をやって暮らす人々が住んでいて、宇都母知神社をまつったといわれています。「打戻」という地名はこの「宇都母知」がなまったものといわれ、以来今日までこのあたりの集落は豊かな自然に囲まれた環境を生かして江戸時代には一番高い石高を収める恵まれた農村でした。ゆるやかな台地、穀物の実る窪地、そしてカワウソが遊んでいたという小川など、この辺は民話のふるさとのようであったと思われます。春は勢い良く咲く花々、秋は豊かな実りを満喫できる新しい住まいを明るく軽やかにイメージして「みのり台」と名付けました。大庭獺郷線へ戻り西へ進み、「獺郷(おそごう)公民館前」交差点12:25獺郷子聖神社(おそごうねのひじりじんじゃ)所在地:神奈川県藤沢市獺郷799獺郷子聖神社は獺郷地区の鎮守で、祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。出雲神話の最大のヒーロー、大国主の別名石柱には赤く刻まれた、『獺郷 子聖神社』裏面には、子聖神社旌旗之銘 福・・・・・・・・・ 特・・・・・・・・・ 昭和六十三年二月吉日建之 氏子中 宮司 石腰茂謹書石畳の参道が北方向へ境内の道路に面して建つ、風化した石塔獺郷(オソゴウ)昔、各所に沼地があり獺(かわうそ)が多く生息していたことから獺郷と名付けられたという。水田の下に湿地帯に生えていた葦の葉の地層があり、また、小字大道の畑のくぼ地にある水田はその沼地の名残りともいわれている。 藤沢市境内に入り、参道から鳥居、社殿へと、左側に獺郷公民館。右手に神楽殿、神輿殿鳥居の扁額、「子聖神社」手水舎と獺郷公民館境内右側には、社殿、神輿殿、神楽殿正面に、狛犬、社殿拝殿の扁額、「子聖宮」社殿の左側に「子聖神社の由緒」碑。祭 神 大己貴命(おおなむちのみこと)境内地 獺郷雷(いかづち)七九九番地三 二五二平方米明治六年十二月村社列格昭和六年三月指定村社旧神社は獺郷中谷一五五ニ番地にあり当時は境内の樹木うっそうとして繁茂し昼尚暗き様相を呈し見るから数百年を経たる神域であったと伝えられる。明治元年九月大暴風雨により神殿倒壊のため現在地に遷座、同時に八幡社、大六天社、山王社の下宮三社を合祀、社命を子聖神社となった。・・・・・・因みに享保十八年(1733)前社の名を誌した棟札が残存している。大正十二年関東大震災のため社殿が倒壊したるも氏子の協力により復興尚、其の後、再度、屋根の修復等を行って今日に至る。又鐘楼には、文政六年鋳造の古鐘が、第二次世界大戦の際、供出して長く空楼となっていた。このため久しく鐘声を聞くことのなかった氏子は寂寥を感じこゝに梵鐘鋳造の機運高まり再三協議の結果、後に昭和五十六年新規鐘楼を鋳造した以来氏子は氣々と鳴り響く鐘声を聞いて心に安詳を得、朝夕神徳に禅えまつる。 行 事 一、元旦祭(交通安全) 一月一日 一、建国記念日 二月十一日 一、例 祭 九月十五日 一、七五三祝 十一月吉日 一、勤労感謝の日 十一月二十三日 平成四年十一月吉日建立 氏子中拝殿の左側絵馬の由来祈願の際や祈願成就のお礼の証として、上部が山形の木製額を「絵馬」といい、願い事やお礼を書いて奉納します。元々、馬は神様の乗り物という神聖かつ大事な役割をあわせ持つものとして扱われ、大願の祈願の際は生きた馬を奉納する習わしがありました。以後、生きた馬の代わりに土偶の馬や木製の馬が使用され、いつしか馬を描いた絵馬に変化してきました。昨今では描かれる図案も神社特有のものが多く、当神社ではその年の十二支を描いた絵馬を、新年の元旦祭において神殿で祈祷をおこない、提供をしています。祈願する内容を書き込んで奉納して下さい。 子聖神社社殿左側に、鐘楼。境内の梵鐘は棟札と同じく享保期のものであったが第二次大戦時に供出され、1981(昭和56)年にふたたび鋳造されたのだと鐘楼の南側に、獺郷公民館この辺りの農家は温室栽培で社殿右側には神輿殿と境内社道祖神やお地蔵を祀った小さな境内社社の中に青面金剛庚申塔が2体石塔が並ぶ、左は、獺郷雷馬場町739-1より移設された道祖神 道祖神の裏には、昭和十二年五月建之 西北馬場講中他の石塔には、湯殿 月山 羽黒 社殿の裏側から境内の北側は、「第25号 緑の広場」 公園課 御所見市民センター拝殿前から南方向の鳥居境内の南東側に建つ石塔12:41獺郷子聖神社の西側奥に建つ「悠久の大地」碑悠久の大地 藤沢市長 葉山 峻土地改良事業の記念誌獺郷は、ふるく「皇国地誌」によると、かわうそが多く生息していたことからついた地名といわれ、北から南へ浅い谷戸が続き、この地域の降水すべてが当地に集まりドブッ田となり、生産性が低く、農民を長い間苦しめ農業の伸展を妨げていた。1977年(昭和52年)この状況を解消すべく、「子聖神社」を囲む獺郷字六本松、雷、大向、中谷、中村、三清、茅ヶ崎市芹沢字広町の田畑山林他 三十二・一ヘクタールについて、土地改良総合整備事業を実施するに及び、権利者129名は治水排水路の整備と、生産基盤の整備を図るため、度重なる協議を経て土地改良区を設立させた。以来十七年間、幾多の困難を乗り越え総事業費四億五千万円を費やし、農耕地を集団化、整然と区画、すべて幅四メートル以上の道路に接する良好な農耕地に生まれ変わらせ、農道整備事業により地区内南北中央を貫く道路を中心に、八路線二千百メートルについて完全舗装を完成させた。1992年(平成4年)には、農用地集団化優良地区として関東農政局賞を受けた。この土地改良事業は、今後当地の農業経営の安定と発展に寄与するところ限りないものがある。農業は人類の生存と生命を育むものであり、農業の果たす役割が大きく見直され期待が寄せられている。本土地改良事業の完成にあたり、この概要を記して後世に伝えようとするものである。 1994年(平成6年) 3月吉日建立 藤沢市獺郷土地改良区弁天池跡碑碑には、弁天池跡碑 遥か昔より ここに池あり 水清く湧き出枯れることなし 田を潤し皆これを 弁天池と呼び親しんだ 平成六年三月吉日 土地改良区建立 — 続く ー
2021.11.12
コメント(0)
御所見南部・遠藤文化財を巡りで、「少年の森」から南下、「盛岩寺」へ。10月23日(土) 11:50曹洞宗盛岩寺(せいがんじ)所在地:神奈川県藤沢市打戻1119堂の前交差点の北側にある盛岩寺道路脇に建つ石柱門前に立つ案内板「盛岩寺由緒」高照山と号し、慶長18年(1613)朝岩存夙禅師(ちょうがんそんしゃくぜんじ)により開創された禅寺です。御本尊は釈迦牟尼如来(仏師広運作)で文殊・普賢両菩薩が脇侍仏としてまつられています。当寺は高座南部地蔵尊二十四札所中の十九番札所で、本堂内に安置された延命地蔵菩薩は市の文化財調査によれば室町前期の仏像とみられております。 御詠歌 「のちの世は 実の舟に法のふた 打ち戻りても また訪ねこん」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 濃きみどり こゝろ安らぐ 盛岩寺 道路から参道を進み、左側に駐車場がある。参道脇は桜並木、またツツジも綺麗に刈られていた駐車場に建つ案内板、心安らぐ緑の寺 盛岩寺由緒高照山と号し、慶長18年(1613)朝岩存夙禅師により開創された禅寺で、御本尊は釈迦如来(仏師広運作)脇侍仏として文殊・普賢両菩薩がまつられています。当寺は高座南部地蔵尊二十四札所の十九番札所になっており、堂内の地蔵菩薩は市の文化財調査によれば室町前期の仏像とみられています。なお、薬師三尊(室町后期)十二神将は打戻下東光寺の本尊であったが、明治初年、廃寺のため当山にまつられた。 竹林の 葉ずれささやく 盛岩寺もう一つの駐車場に建つ案内板、高照観音(境内) 三十三身に変化し妙智力をもって諸願を成就し玉う慈母観音(墓地) 慈悲心をもって母と幼子を安らぎの園に導き見守り玉う 當山開創400年を迎えた古寺らしい風格の山門。山門前の石柱には『高照山 盛岩寺』と刻まれている山門の扁額、「高照山」山門から本堂を望む山門を入ると貼り紙、邸園文化祭行事公開月釜にお越しの方は、左側の建物薬師堂にお進み下さい。山門を入ると右側に、高照観世音菩薩高照観世音菩薩縁起高照山盛岩禅寺は慶長年間寶泉寺六世朝岩存夙禅師により開創され法燈連綿と継承し現在に至る。大正十二年の関東大震災により伽藍全潰し爾后戦中戦后の激動期に直面し再興の機運熟せず今日となる。昭和五十五年二月堂宇の再建を発願し檀信徒この勝縁によく合力し翌五十六年四月本堂、書院、境内の整備等万端成り高照の浄域に輪奐の美を現ず。百花香ばしき五月八日の吉辰をトし入佛落慶。普山結制の大法会を厳修す。〇徳荘厳入天を照し盛岩の禅苑朝暘に映ゆ。・・・・・・・・後略境内にある稲荷社 山門をくぐると、左手に立派な六地蔵が鎮座当山は高座春は新緑と百花につつまれ、夏が来れば緑蔭に涼を求め蝉時雨を聞き、秋の夕暮れ竹林の風そよぎ虫のすだく音を聞き、そして冬、雪化粧の霊峰富士と阿夫利の山々を遠望する。静寂なひととき・・・風情に満ちた心安らぐ禅寺ですと本堂右前に可愛い、お掃除小像尊(洗心童子)そうじ小僧が箒を持って立ち境内を掃き清めていた石碑には、「掃けば散り 払えばまたも 塵つもる 人の心も 庭の落葉も」 そうじ小僧尊珍しい石の鈴を下げた石造の五重石塔が建ち、層塔の上には相輪本 堂本堂に安置されている地蔵菩薩は高さ 21.5cmと小振りながら室町中期の作で、高座郡南部24札所巡り第19番の地蔵で、延命地蔵と呼ばれている本堂の扁額、「○照○」本堂右側に建つ、「高照閣」高照閣の扁額、「高照閣」本堂前から山門を振り返る本堂から南方向の薬師堂本堂の裏側に入り振り返るこの日は天気がよく、本堂裏から富士山が眺望できた昭和文化館現在薬師堂として使用し、檀信徒会館を兼ねている。構造・形式・建設の年代 木造平屋建鋼板葺、建築面積138㎡ 大正13年建築、昭和13年移築、平成24年移築 大正13 年(1924)に「越前屋号合名会社雨谷商店」の店舗 兼住居として、境川にかかる大正橋の近 くに建築された。雨谷商店の前身である「越前や 與左衛門」は、江戸時代中期から清浄光 寺(遊行寺)の惣門前で薬品・砂糖などを扱っていた卸商で大正8年(1919)に店舗兼家屋を新 たに建て直したが、大正12年(1923)関東大地震によって倒壊。翌年に場所を大正橋の近く に移転し新築した。新築に際し、震災で倒壊した家屋の部材も再利用された。 雨谷商店は昭和恐慌の影響で閉店し、建物は商店の関係者が購入して昭和13年(1938)に打 戻へ移築、住居として使われた。その後、盛岩寺が譲り受け 平成24年(2012)に境内へ移築 された。 大商店の店舗兼住居であったため、規模の大きさ、硝子や 貴重な木材を惜しみな く使っている点など通常の民家には見られない特色が多くある。出桁や庇の太い桁など、震 災復興期らしい重厚さを見せる詩吟や写経、茶会など、打戻地区の文化コミュニティの場となっている。時は流れ2010年老朽化により重機で取り壊すことを知った盛岩寺の中津川雅久住職が「歴史的価値のある建物を壊してしまうのは勿体ない」と私産を投じて、宮大工や建具職人らによって移築したと昭和文化館は、登録有形文化財 第14-0227号この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁南側の墓地へ廻り、「慈母観音」慈母観音石柱には、「真言 おん あろりきや そわか」古い墓石が集められていた歴代住職の墓地當寺 開山歴住 大和尚 宝塔後方に大山墓地から本堂を望む墓地から山門へ戻る。山門を入り右側に、「高照観世音菩薩」が立つ12:08山門から本殿を望み、次の「子聖神社」へ ー 続く ー
2021.11.11
コメント(0)
御所見南部・遠藤文化財を巡りで、妙福寺から北へ向かい「少年の森」へ。10月23日(土) 11:25少年の森への途中、道路脇に、「道祖神」この辺りは、藤沢市打戻1680道祖神は掘りおこされたのか座が大きい右側には「享保三年九月 打戻村」、同行八人と次の目的地は、「少年の森」道路の先右側に「藤沢市 少年の森」県道から住宅街に入り「少年の森」少年の森手前に、ざる菊黄色が先に咲くようだコキアは既に終盤に藤沢市 少年の森所在地:神奈川県藤沢市打戻2345昭和55年(1980)に国際児童記念事業とて建設された、県内で最初の青少年野外活動施設。9ha余りの広大な敷地は自然林に囲まれ、キャンプアスレッチク、オリエンテーリングなどをはじめ、季節に応じた自然とのふれ合いを体験する行事が多数催されている。芝生広場の先に管理棟みどりの泉みどりの泉の廻りは落葉樹で紅葉が楽しみ芝生広場に聳える欅、後方に管理棟手前は、「学習水田」、後方に「自由広場」さわやか広場の西側に、「クローバー広場」があり少年野球。以前我々も野球をやったグランドである少年の森を後にする県道を南下。道路脇に、大きな石碑「機械揚水記念碑」裏面には、「工事誌」溜池だけが頼みの天水耕地○○○水不足のため毎年多少の害○○○此の儘では将来が憂慮されてきた有志相謀って水源を目久尻川に求め當局の賛助と流域の理解とを得て衆議一決昭和二十三年一月○○○・・・・・・・打戻榎戸交差点に建つ庚申塔庚申塔の台座に、上惣連道路脇に石像遠藤宮原線の榎戸交差点榎戸交差点から、富士見の丘を望む慶応大学バス停からの、Twin Liner バス浄土宗 薬応院 称業山大法寺 所在地:神奈川県藤沢市打戻1331大法寺は慶長元年(1596)、僧正誉によって開山された浄土宗の寺院で、元、上土棚にある蓮光寺の末寺であるが、現在は無住の寺院らしい。本尊は阿弥陀如来で、この像は、寺が創建される前路傍の御堂に厨子に入って安置されていたものと伝えられていると。また、本堂には昭和47年(1972)に修理した閻魔王像、法然・善導坐像、神像二体境内には文政5年(1822)の光明真言供養塔、聖観音塔、地蔵菩薩像と慶蔵坊の碑があるとのことであったが、門が閉まっていて中には入れなかった。右側の塔の側面に「文政5年」とあるが大法寺を振り返る。隣は民家で角に道祖神が建つ鉄柵でガードされている「道祖神」道祖神には、「明治三十七年壱月十四日 建之 講中」と刻まれている大法寺から更に南下、次の「盛岩寺」を目指すこの辺りの農家は、パンジーを栽培パンジー畑の先に朱色の鳥居。スマホでチェックすると「日吉神社」とで、訪れることに右上の高台に石碑群と説明板石段を登ると移設された石碑群市指定重要有形民俗文化財 応永二十六年板碑 一基板碑は卒塔婆の一種で元永(1118)頃から慶長(1614)頃まで流行した。この板碑は武蔵型縁泥片岩製で、一般に浄土教的色彩のものが多い中で、真言密教的色彩が濃いところに特徴があるといえる。たとえば、陰刻されている「右所趣者帰弥陀法身擬法界大智依即得往生金言奨」は、「この卒塔婆の趣旨とするところは阿弥陀仏の法身に帰依し、法界大智(真言密教)の心意を覚得したことに依って即往生できる」という意味で、密教色が濃くなっている。このように特徴のある板碑は数少なく、貴重なものといえよう。 平成四年二月一日指定 藤沢市教育委員会保護保管されている「板碑(いたび)」バス停は「荒井」から振り返る日吉神社所在地:神奈川県藤沢市打戻打戻の農村地帯の農道の横にある素朴な神社で鳥居と小さな社殿がある程度神社の由来の解る説明板なども立っていなかったので、縁起などは不明。敷地に「寛政十戊午歳霜月」と刻まれた石碑が立っていたので、比較的古くからの神社。寛政十戊午歳とは1798年、約220年前。社殿の扁額、「日吉神社」内陣を覗き見る社殿前からの西方向境内の植木は剪定等が行われており、氏子による管理が行き届いているようだ11:50日吉神社から県道に戻り南下、盛岩寺へ ー 続く ー
2021.11.10
コメント(1)
御所見南部・遠藤文化財を巡りで、御嶽大神から東へ向かう。10月23日(土) 10:50遠藤あじさい祭り会場所在地:神奈川県藤沢市遠藤5875この辺りの小出川は水源地に近く川幅も1メートルと狭い。あじさいもきれいに剪定されており、来年の開花時が楽しみである次の目的地は、「妙福寺」妙福寺への途中にある食事処「まるたか」所在地:神奈川県藤沢市遠藤4151海鮮丼、魚料理のフライがあり人気の店である。ガードマンが出て交通整理も丸隆水産直営店「味処 まるたか」営業時間 ランチ 11:00 ~ 15:30(オーダーストップ 14:55) 夜の部 17:00 ~ 21:00(オーダーストップ 20:25)定休日 第一・三 月曜日湘南藤沢キャンパス構内案内図バスロータリー「慶応大学バス停」後方のビルは、湘南慶育病院。バスは、Twin Liner湘南台駅 → 南大曲 → 慶応大学遠藤宮原線に聳えるメタセコイア並木湘南慶育病院神奈川県藤沢市にある医療機関。慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスに隣接し、藤沢市マスタープラン「健康と文化の森」構想によるまちづくりの中核施設となる病院である。慶應義塾大学や企業との連携により先進的な医療ICTサービスの提供を目標としている遠藤宮原線沿いに、「雨水貯留施設」打越公園の地下には雨水貯留施設があります。大雨の時、雨水を一時止溜めて、河川へ少しずつ流し、河川の氾濫や洪水を防ぐ大切な役目をしています。 貯留施設の大きさ 貯留面積:625㎡ 水 深:2.3m 貯 溜 量 :1,317m3 管理者 藤沢市土木維持課遠藤宮原線から南側の傾斜地にある、妙見神社(みょうけんじんじゃ)所在地:神奈川県藤沢市遠藤内陣を覗く妙見神社宮元と呼ばれる古谷家で祀っていたのを、後に打越町内で祀るようになる。古谷家には「天保六未年(1835)十月吉日、明口覚え書婦るや氏」と表書きのある妙見社祭礼入用帳や富士講のお伝え書の入った小箱が保存されている。祭祀は十月一日。昔は打越五人組というオキ、ムケエ、ニイヤ、ウエ、シタと呼ばれる五軒だけであったという。 (遠藤まちづくり推進協議会)記念碑本地区は、藤沢市の都市拠点のひとつ「健康と文化の森」に位置し地域と慶應義塾が連携し、みどり豊かで賑わいのある学園文化都市の形成を目指すとしていました。こうしたことから、地権者と慶應義塾とが鼓働し、都市拠点を形成する機能導入のための道路・公園等の公共施設の整備改善と土地の再配置を行い地権者の生活環境の改善を図り、文化的な都市環境の形成を図ることを目的として平成二十年二月から土地区画整理事業に着手しました。以来、地権者の理解と協力を得て、二十億円の費用と五年の歳月を要し、めでたく事業の完成を見ました。ここに事業の完成を記念すると共に、この地区のさらなる発展を祈念しこの碑を建立しました。 2012年(平成24年)10月吉日 藤沢市遠藤打越地区土地区画整理組合 役員一同石には「絆」と妙見神社の裏手には墓地があったが区画整理で移設されたのであろう妙見神社は小高い所にあり、北側を走る遠藤宮原線を見下ろす遠藤宮原線に戻り、メタセコイア並木これからの紅葉が楽しみ遠藤宮原線の南側の傾斜地に工事現場特定開発事業等予告板事業の名称 慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス未来創造塾 ウエスト街区学生寮計画(仮称)計画の建築物 用 途 寄宿舎 (戸数 81戸) 階 数 地上 5階 地下 1階工事の予定 着手予定 2021年4月 完了予定 2023年1月完成予想図遠藤宮原線を西に進み一番高い所に位置する、宇都母知神社入口交差点宇都母知神社入口交差点から下り、正面に富士山雪の積もった頂上をズームアップ今日最初に立ち寄った、「富士見の丘」11:07日蓮宗妙福寺所在地:神奈川県藤沢市打戻2587遠藤宮原線から北側に入り、山門、鐘楼を見上げる山門下に建つ「陽向山 妙福寺」今月の聖語「深く世法(せほう)を 識(し)れば 即ち 是れ仏法なり」Facebook ページを始めました!副住職が楽しく真面目に?お寺の活動報告をしています! ぜひいいね!して下さい!ホームページもやっています。お時間ある時にご覧になってみてください!階段を上り山門へ山門越しに見る本堂日蓮上人像、境内の本堂前にはイチョウの樹が聳える日蓮上人像山門左手に鐘楼妙福寺本堂この妙福寺は慶長八年(1603)に徳川家康の側室であり、家康の次男結城秀康の生母おまんの方(養珠院)が帰依した高僧日遠上人を開基開山として、創建。当時は寺域が広く、七町歩あったが、後の社会変動、第二次世界大戦などを経て大幅に減少。また昭和九年の火事で、堂塔を焼失した。二棟あった蔵にも火が入り、将軍関係などの寺宝をすべて失った。記録類も失われたと。平成五年(1993)、日遠上人第350遠忌の記念として、本堂・客殿・庫裡を新築した。本堂の扁額、『陽向山』。十五代将軍慶喜は隠居後当寺で暮らすことを予定するなど、幕府の厚い保護を受けてきた寺。鳥羽伏見での敗戦で、寺への隠棲は実現しなかったが、170人ほどが宿泊可能な庫裡が建てられていたと。 本尊は日蓮、三宝諸尊を安置。本堂前には可愛い地蔵さん本堂から境内を見下ろすイチョウの樹の下には、搔き集められた銀杏の山。頂きたかったが、この日は袋を持っておらず本堂の左を奧に進むと、御堂が建つ六角堂かと思いきや八角形の屋根の御堂その左奧にも建物建物の裏に、シートで覆われたボート。副住職が愛用しているのであろうか境内の西側に、雲がかかった富士山ズームアップカメラを南側に振り、矢倉岳、金時山山門を入ると左側に、祈願堂祈願堂の扁額には「南無妙法蓮華経」と刻まれていたがその他は読めなかった11:20妙福寺を後にし、少年の森へ — 続く ー
2021.11.09
コメント(0)
かねてから来たかった藤沢市御所見南部・遠藤の文化財を巡る。10月23日(土)御嶽大神(みたけおおかみ)所在地:神奈川県藤沢市遠藤2539御嶽大神の西側の参道入口にある鳥居鳥居の前に「遠藤 御嶽大神」の石柱が建つ御嶽神社(みたけじんじゃ)祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)など九神とされている。遠藤村の鎮守社。神仏習合をうけて「御嶽大権現」と言われた時もある。御神体は新編相模国風土記稿によれば、「運慶作長一尺二寸木像」とある。神社の創建年代は明らかでないが、慶長五年(1600)以前に存在したと言われる。 (遠藤まちづくり推進協議会)Bコースの、① 御嶽大神参道を東方向へ進む参道脇に建つ、郷学琢成学舎跡(きょうがくたくせいがくしゃあと)」江戸末期、寺と神社の別当であった遠藤智英氏により、大験寺(廃寺)に寺小屋「琢成学舎」が開かれたといわれる。明治五年に学制頒布。一時、南原桜井勝衛門邸内に移った後、大験寺跡の新校舎に開校。明治八年遠藤学校と改称した。当時男六十八人、女八人、教員四人であった。秋葉台小学校の前身である。 (遠藤まちづくり推進協議会)境内への石段石段下にある、庚申供養塔、道祖神石段を登り振り返る石段上に、本御嶽大神は、富士山に向けて建てられております。この場所から参道を通して、富士山を見ることが出来ます石段から拝殿を望む狛犬が一対拝 殿拝殿前から西側(参道)を見下ろす枝の間に富士山が見える拝殿左側に、「力石」力石の由来 「うみうみて とおつみおやの 古ゆ力競そいし ほぞ拝む石」此の石は古老の言い伝えによれば、陰形の道祖神として祀り五穀豊穣子孫繁栄旅の安全等々祈願したものなりと云ふ。而し乍ら此の石には銘がない為、昔から若衆達が此の石をもって力だめしをしたので誰れ云うとなく力石と呼ぶようになり今日に到ってゐる。ここに碑を立てて由来を後世に伝えたいと思う。 昭和五十二年九月十五日 奉納 氏子中 当地 青木義春翁 撰文 発起人 世話人一同 総代 櫻井浅之 施工者 片山賢治 神輿百年記念事業境内の南側(大庭獺郷線側)にも鳥居本堂は富士山に面して建てられており、今でも天気のいい日は参道から富士山の雄姿を望むことができる。明治初期に存在した小学校の前身「琢成学舎」跡も遺されている。鳥居の前には、「遠藤 御嶽大神」鳥居の廻りに庚申塔庚申塔、庚申供養塔群県指定重要文化財(有形民俗文化財) 平成十八年(2006)二月十四日指定 御嶽大神の庚申塔市指定重要文化財(有形民俗文化財) 昭和五十二年(1977)四月十三日指定 万治二年庚申供養塔二列の石造物の後列三基の中央の塔には、青面金剛像と猿二匹が彫られています。青面金剛像はふつうは六臂ですが、左の上手に三股叉・下手に棒、右の上手に輪宝・下手に羂策(縄)を持つ四臂の珍しいもので、明暦二年(1656)や高座郡大庭庄遠藤村などの銘があります。同時期の同系統の石工による四臂の庚申塔が茅ヶ崎市八幡大神・金山神社・神明宮、寒川町下大曲神社、平塚市長楽寺・正福寺にあり、いずれも神奈川県指定重要文化財とされています。後列の左の塔は、万治二年(1659)銘のもので、三猿像の上に「奉供養南無山王大権現」と刻まれています。山王は、近江の日吉神社(滋賀県大津市日吉神社)が祀る比叡山に鎮まる神を指し、江戸時代初期の庚申供養塔に多く見られる形態です。 平成二十七年(2015)三月 藤沢市教育委員会後列三基の中央の塔には、青面金剛像と猿二匹が彫られている後列の左の塔は、三猿像の上に「奉供養南無山王大権現」と刻まれている拝殿、本殿、神輿殿境内の周りに、社務所、神楽殿境内の南側を、大庭獺郷線手水舎、鐘楼、社務所手水舎、鐘楼石碑が二基、「記念碑」、「関東大震災記念碑」遠藤地区上水道敷設「記念碑」〇震○○○天災地変は人力を以て豫防し難しとは實なる。大正十二年九月一日午前十一時五十八分の激震は○○○な起り其の震動極めて峻烈にして家屋の潰れ〇男女の惨死幾一〇なるを知らす・・・・・・・後略梵鐘には、「奉納 御嶽大神」鐘楼の奥に、白山神社白山神社の扁額、「白山神社」白山神社の内陣白山神社前から鐘楼、拝殿鐘楼を見上げる石碑には、昭和七年十一月十四日終夜朔風の烈風吹き荒び社木の大松を倒す。後昭和八年農林省地方国救土木事業○より村道改修工事〇際し社地の一隅の欅を撤去す此の賣上金○○りて境外隣地庁山力蔵氏有の山林を購入し之を社地となす。仍而記念の為め碑を建て後〇傳ふ社殿を南側から神楽殿屋根葺替寄附者御芳名 最高額は、金五拾万円 也 ~ 金壱千円 也 寄附年度が記入されていないので葺替時期が解らない拝殿前から南側の鳥居大庭獺郷線側の鳥居かつては遠藤村の鎮守の社として、人々の暮らしに根付いていた神社であると御嶽大神から大庭獺郷線を東へ進み、県道404号線(遠藤茅ヶ崎線)との遠藤松原交差点。この交差点を右折して県道404号線(遠藤茅ヶ崎線)へ県道404号線(遠藤茅ヶ崎線)沿いにある、「養蚕神社(ようさんじんじゃ)」養蚕神社と窪島義翁頌徳碑境内は草が生い茂っていたので社の前には行けず養蚕神社と窪島義翁頌徳碑明治・大正の頃は養蚕が盛んであった。養蚕業の発展を願って神社が建てられた。戦時中食糧増産のために養蚕業はできなくなった。窪島氏は、養蚕組合長、郡畜産組合長として産業振興に尽くされ村長を始め数々の公職に就かれた。その功績を讃えた碑である。碑文には先祖の孫兵衛は北条氏の家臣で後に徳川氏の軍監として関ヶ原の役に出陣、その後帰農とある。 (遠藤まちづくり推進協議会) 窪島義翁碑残念ながら判読できず草に囲まれて、養蚕神社 ー 続く ー
2021.11.08
コメント(0)
この日は天気がよく富士山も綺麗であろうと思い、かねてより訪れたいと思っていた、藤沢市西部の『文化財ハイキングコース 御所見南部・遠藤コース』をハイキングではなく、ガソリンも高騰しているため愛車のリンちゃんで訪れたブログです。10月23日(土) 9:24県道404号線(小出県道)を北上し、ここは富士のビューポイントである稲刈りも終え天日干しの昭和の風景であるポールは、カルペソール湘南スポーツクラブの練習場。大岡越前通り沿いにあるクラブである今年も数回彼岸花を楽しんだ、小出川小出川の下流側。ここで電動アシスト自転車に乗った高齢の女性と出会い会話。青森の弘前から息子に呼ばれて藤沢へ来て以来16年だと。嫁さんがいい人でやることがなく、弁当、お菓子をもらい江の島、大和へ出かけていると。マンションも9階でやることもなく、こちらもそうだが。言葉が一部理解できないところもあったが、話し相手になったので、別れ時にチョコを頂く天気が良いので富士山が期待でき、最近発見した富士のビューポイントへ。前方の杜は、宇都母知神社(うつもちじんじゃ)。畑にはキャベツか宇都母知神社の御神木「椎の木」サクラが咲いていた十月桜であろうか宇都母知神社の鳥居御所見南部・遠藤コース文化財ハイキングコースに入っている、「宇都母知神社」。所在地:神奈川県藤沢市打戻2662既に9月20日(月)に参拝しているので今回はスルー、その時のブログは「宇都母知神社」👈を、クリック願います。この時期、入口に七五三の幟が立つ宇都母知神社の道路を挟んで西側に建つ鐘楼富士見の丘所在地:神奈川県藤沢市打戻2668地主の方が畑の一部を提供して造られたビューポイントであるとかざる菊も植えられ咲き始めていた雲がなければ、9月、3月にダイヤモンド富士が見れると今日は富士の裾野に雲が漂っている、矢倉岳、金時山も眺望できる圏央道の高架も、夜景も楽しみだざる菊の本数はまだ少ないが丹沢連峰も一望今まで海岸からの富士山を追いかけていたが朝も良いのではないかと遠藤宮原線を走り慶応大学前交差点から、湘南藤沢キャンパス入口市道辻堂駅遠藤線沿いに生えるススキススキの穂も風に揺られて曹洞宗 宝泉寺所在地:神奈川県藤沢市遠藤6094今回は宝泉寺はスルーしましたので、今年6月23日(水)に訪れた「6月の宝泉寺」👈 をリンク願います。新築された山門宝泉寺の前に建つ、『文化財ハイキングコース案内図』。御所見南部・遠藤コースのポイント Aコース:①妙福寺 ②大法寺 ③盛岩寺 ④堂の前 ⑤子聖神社 ⑥宇都母知神社 ⑦少年の森 Bコース:①御嶽大神 ②宝泉寺 ③宇都母知神社 ④妙福寺 ⑤少年の森 藤沢市教育委員会遠藤・御所見南部の今と昔昭和30年代から遠藤南東部は開発が急速に進み、昔の面影は残っていませんが、いまでも田畑が広がる農村風景が見られ、生活のなかにも共同体としての習慣が残っています。御嶽大神や宝泉寺の付近は昔から村の中心で、歌舞伎、神楽、鉄砲馬場などの祭りにはにぎわいました。この地にも大学が進出し、大きな変化を遂げています。その建物が立つ丘陵は、御所見の打戻へ連っています。打戻は平安時代中期(十世紀)には養蚕を営む人たちが住み、宇都母知神社を祀ったと考えられています。また、自然を生かして遊び学ぶ「少年の森」もできました。獺郷(おそごう)は昔は沼地が多く、かわうそが多く生息していたのでそれが村名になったようです。丹沢山系や富士山が見渡せるのどかなこの地域では、歴史の風と新しい文化の風とが語り合っています。まず、宝泉寺の近くにある「御嶽大神」へ向かう。途中、大庭獺郷線沿いに建つ石柱には、「芭蕉天神宮」と刻まれていた裏面には、平成二十五年十二月吉日芭蕉天神宮へ行くことに、大庭獺郷線から南側に入り、道路脇に、「南無妙法蓮華経 馬頭観世音」スマホの案内で進むが入口が解らず、小高い所から西側に見つける道案内もなく、農家の温室脇を入ると、芭蕉天神宮(ばしょうてんじん)所在地:神奈川県藤沢市遠藤37階段下の石柱には、「平成二十五年十二月吉日」と刻まれていた真新しい階段を登り鳥居の扁額、「芭蕉天神」小さな社の前には、右側に、「芭蕉天神由緒」、左側に、「芭蕉天神宮改修記念碑」芭蕉天神祭神は愛知県岡崎に本社がある芭蕉天神で学問の神様といわれている。岡崎市史によれば岡崎の天満宮も元は伊豆国芭蕉山の天神を勧請したものとされている。ある時期、窪島家の屋敷内に祀っていたといわれる。三月二十五日が祭日で氏子の新入学生に対し、岡崎から取り寄せた御札を配り祝っている。 (遠藤まちづくり推進協議会)より芭蕉天神宮改修記念碑改修の経路芭蕉天神宮社殿並びに参詣階段は、昭和四十一年十一月の改修からすでに四十七年が経過した。近年、社殿や階段、記念碑などの傷みが甚だしく改修はかねてからの懸案であった。氏子一同協議を重ねた結果一致協力のもとに社殿、参詣階段、鳥居、境内周辺などの改修をするに至った。氏子一同の無事長久並びに子弟の学問の向上を願い崇める為のものである。尚、改修工事奉賛者芳名などは下記・裏面に記載。 平成二十五年十二月吉日 建立竹やぶを開墾して整備されたようだ参道の左側は温室道路脇にカラスウリ朱色の果実と、夜間だけ開く花で知られる。地下には塊根を有する朱色だけによく目立つ果実である芭蕉天神から大庭獺郷線に戻り。おすいマンホール蓋。藤沢市のマンホールは、市の花のフジがデザインされたものをよく見かけるが。珍しく、市の木クロマツをデザイン。中央の丸の中に藤沢市の市章とその上に「おすい」文字が入っている。道路脇に道祖神大庭獺郷線を進むと、左前方に「御嶽大神」の鳥居 ー 続く ー
2021.11.07
コメント(2)
今回は自転車で行く鎌倉16回目で、「ハギの花」を楽しんだシリーズの最終 9/9です。九品寺から、一方通行(自転車は除く)の道路を西へ向かい若宮大路の海岸橋交差点を左折。9月28日(火) 16:00若宮大路は国道134号の滑川交差点と合流。魚藍観世音の石碑所在地:神奈川県鎌倉市由比ガ浜4丁目石碑の裏側に周ってみると、三つの石碑に「観」「世」「音」と一字ずつ、そして細長い石碑に「魚藍観世音」と彫られている倍賞千恵子が唄った、「さくら貝の歌 」作詞:土屋花情、作曲:八洲秀章石碑には、「さくら貝の歌 」。 美(うるわ)しきさくら貝一つ 去りゆける君に捧げん この貝は去年(こぞ)の浜辺に われひとりひろいし貝よ ほのぼのとうす紅染むるは わが燃ゆるさみし血潮よ はろばろと通う香りは きみ恋うる胸のさざなみ ああなれとわが思いははかなく うつし世の渚に果てぬ陽が下がり先を急ぐ、国道沿いに石碑、「稲瀬川」稲瀬川万葉ニ 鎌倉ノ美奈能瀬河トアルハ 此ノ河ナリ 治承四年(1180)十月 政子鎌倉ニ入ラントシテ来リ 日並ノ都合ヨリ数日ノ間 此ノ河邉ノ民家ニ逗留セル事アリ頼朝ガ元暦九年(1184)範頼ノ出陣ヲ見送リタルモ 正治元年(1185)義朝ノ遺骨ヲ 出迎ヘタルモ共ニ此ノ川邉ナリ 元弘三年(1333)義貞ガ當手ノ大将大舘宗氏ノ此ノ 川邉ニ於テ討死セルモ人ノ知ル所 細キ流ニモ之ニ結バル物語少ナカラザルナリ。 大正十二年三月建 鎌倉町青年團建石碑場所から、由比ガ浜海水浴場の東方向海岸にはオシロイバナが咲く光明寺の山門、工事中の本堂屋根を望む。背後の山には鎌倉市立第一中学校の体育館屋根か?。先程登った所である16:11国道134号を進むと、県道32号線(藤沢鎌倉線)の起点。県道32号線(藤沢鎌倉線)は、長谷寺、大仏前を通り、藤沢の国道467号の南藤沢交差点へ。石垣の上に「大太刀稲荷神社」所在地:神奈川県鎌倉市長谷2丁目20-14大太刀稲荷神社の詳しい由来は不明のようですが、境内には庚申塔や石仏などが祀られている。また、不動明王、清瀧不動明王など修験道ゆかりの石碑石仏も多く祀られていると境内の右奥正面に、御嶽大神、八海山大神、三笠山大神の石碑。左側にも、神社名の入った石碑が並ぶが説明板がないので御嶽大神、八海山大神、三笠山大神が祀られおり、これらは木曽御嶽山信仰の三神です法顕不動明王。他にも、不動明王、清瀧不動明王もあったようだが左側にも鳥居が二基建つ石鳥居と大太刀稲荷神社大太刀稲荷神社の扁額は、「大太刀稲荷神社」狭い境内には、多くの庚申塔や石仏がある石鳥居には、「明治三十二年九月吉日」と刻まれていた境内には庚申塔や石仏などが祀られている右側(東)の石碑16:17境内から、由比ヶ浜を見下ろす。こちらの鉄製の鳥居は、「昭和五十二年七月吉日建之」と16:25夕陽を見るために国道134号を走り、稲村ガ崎へ。到着時のバッテリー残量・走行可能距離は、60%、56km。まだ陽は沈んでいなかったが富士山が見えない富士山は、中央右寄りに見えるが、太陽は南方向に沈む。陽の入りまで待つことに国道沿いの足湯のある「稲村ヶ崎温泉」正面に富士山があるのだが、残影もなく。富士山とのコラボを期待して多くの人が待機していた17:00江の島後方の箱根の山、富士山には雲が覆いかぶさり雲の上から後光がさすが江の島の後方に箱根の山々と金時山。この時間でも多くのサーファーが海の中暗くなるまでに上がるのであろうが稲村ガ崎の斜面に風雨に耐える花?カンゾウが咲いていたズームアップカメラを構える人がいるが、これ以上の光景は期待できないのでは17:15夕陽を約45分待つが、これ以上の光景は期待薄のため退去することに17:23七里ヶ浜海岸駐車場の東側の海岸に下り砂浜から砂鉄が入った黒い砂を持ち帰る。珊瑚が入った砂は真っ白だが七里ヶ浜海岸駐車場にある、ハワイ料理の「Pacific DRIVE-IN」。外にある白い車体は物置に使用していた17:28国道134号の行合橋交差点天気が良いと、「夕焼けと富士山」のビューポイントだが砂浜には多くの若者たちが、サーファーも海の中17:42小田急 片瀬江ノ島駅2018年の2月より実施されてきた小田急線「片瀬江ノ島駅」の駅舎改良工事が、'20年7月30日(木)に完了。駅舎は下部を漆喰で塗り固めたアーチ状の通路の上部に木材で軒を組み、入母屋造りの屋根を載せる神社仏閣の技法「竜宮造り」を取り入れ、旧駅舎の竜宮城をイメージしたユニークなデザインを踏襲しながら、より本格的な佇まいに江島縁起の一つとされる「五頭竜と天女の伝説」にちなんだ装飾が施され、屋根にはシャチホコではなくイルカが載っているなど、”品格と遊び心”が共存し、隅々まで見飽きない造りとなっている18:08陽が沈み暗くなったサイクリングロードを走り、国道134号の浜須賀交差点の歩道橋上から同場所から県道30号線(戸塚茅ヶ崎線)を望む、右下は国道134号で江の島方向18:25夕食は欠食届けを出していたので、自宅近くの蕎麦屋へ立ち寄る入店時に、消毒、検温をして店内へ「揚げなす肉汁せいろ」をオーダー、温泉卵は一個サービス食事後、自宅へは19時に到着。バッテリー残量・走行可能距離は、50%、45km。今日は約11時間のサイクで、走行距離は 93ー45=48kmであった。歩行数は7,170歩。一日の総費用は 約2,500円で、鎌倉のハギを楽しんだ一日でした。 END
2021.10.23
コメント(1)
今回は自転車で行く鎌倉16回目で、このシリーズは9日間アップの 8/9です。鶴岡八幡宮から県道204号線(金沢街道)を、横浜横須賀道路朝比奈IC、六浦方面へ進む。9月28日(火) 14:03金沢街道沿いにある、「大江稲荷」所在地:神奈川県鎌倉市十二所114鎌倉幕府で政所別当を務めた大江広元を祀る社。朝廷に仕える貴族だった広元は、1184年(元暦元年)、源頼朝に招かれて鎌倉に下向。頼朝亡き後も幕府内の中心的な役割を担い、鎌倉幕府の基礎を築き上げた。1225年(嘉禄元年)6月10日没(法名覚阿・78歳)。初午祭では大江広元木像を祀り、明王院の住職によって読経供養が行われるのだという。赤地に白抜きの「正一位 稲荷大明神」と書かれた幟が並ぶ大江氏は広元の死後粛清されて、生き残った親族が所領のあった安芸に逃げ、その子孫が毛利元就というのは有名です。この地に残った子孫の方もいたそうです朱色の鳥居の扁額、「大江稲荷」社殿の前に石灯籠が建つ社 殿政治行政の面から源頼朝を支えた右腕、大江広元を祀っている。この十二所には、この大江稲荷に祀られる大江広元、源頼朝の右腕であった梶原景時といった智将、頼朝挙兵成功の立役者、上総介広常らの有力御家人が屋敷を構えていた所でもある大江広元の墓は、法華堂跡のやぐらにも五輪塔が置かれているが、江戸時代に長州藩によって建てられたものだという。広元の四男季光は毛利氏の祖である大江稲荷から更に県道204号線(金沢街道)を進む。街道沿いに旗が並ぶ、「懐石・創作蕎麦料理 峰本 朝比奈店」。所在地:神奈川県鎌倉市十二所152鎌倉からの帰りに立ち寄っているのか多くの車が駐車、旅友もここでランチをとったようだが。値段も手ごろで、天ぷらの素材もいいものを使っているとの書き込み。「釜揚げしらす丼」も14:11左奥の十二所神社に入る金沢街道沿いの交差点下に「野地蔵」が建つ地蔵の台座には「文政十二」と刻まれているように見える。文政12年であれば、1829年であり、200年近く前に建てられたことになる。顔は既に風化して何もないので、いつもマスクをかけており蓮の台座に乗っており、作られた当時はそこそこ立派なお地蔵様だったように思われます。頭巾とちゃんちゃんこは、ずっと赤色ものが着せられているそうです交差点を右斜めに入ると、「朝比奈切通」、「十二所果樹園」鎌倉ものがたり 「十二所」 一色先生の足跡板鎌倉市の北東端に位置する地域で、昔は「十ニ郷ヶ谷」ともいわれたようです。十二軒の村だったのでこういう名前がついたのだとか、熊野神社の十二社があったからだともいわれています。十二所には落ち着いた雰囲気の社寺や果樹園があり、ここから東へ進んだ先の朝夷奈切通しは、鎌倉の自然を象徴するスポットの一つで、その名は朝夷奈三郎義秀という武士が一夜でこの峠を切り開いたという伝説からついたと言われています。漫画「鎌倉ものがたり」の中では、多くの謎を秘めた一色家のばあや「大河原キン」が住む、「鎌倉の秘境」として描かれており、山の神に人身御供を捧げる行事や、裁きに手心を加えてもらうために閻魔大王に袖の下を送る「冥途講」など独自の文化が残る地域として描かれています。十二所神社(じゅうにそじんじゃ)所在地:神奈川県鎌倉市十二所285十二所神社は、光触寺の境内にあったという熊野十二所権現の社が前身とされ、江戸時代末に明王院住職の村人への呼びかけによって、現在の地に新社殿が建立されたと伝えられている。明治の神仏分離によって「十二所神社」と改名された。十二所神社の創建年は不明だが、1182年(寿永元年)、北条政子の出産に際して奉幣使が派遣され、二代将軍源頼家の誕生に際しては、神馬が奉納されているという。十二所(じゅうにそ)という地名は、熊野十二所権現の社があったことから付いた地名と伝えられる。バッテリー残量、走行可能距離は、80%、68kmで途中他へ立ち寄ったが自宅から、25km拝殿、右側に「山の神」。十二所神社は十二所の鎮守社。中世には三浦十二天(『吾妻鏡』)、近世期には十二天社(『新編相模国風土記稿』)・十二天明神社、または熊野十二所権現社とも称された。 ・御祭神 天神七柱(あまつかみななはしら)、地神五柱(くにつかみいつはしら) ・境内末社 山の神 疱瘡神 宇佐八幡 地主神 ・九月第一日曜日十時より例祭が開催されると拝殿の扁額、「十二所神社」拝殿・本殿の右側に、「山の神」山の神の横に、やぐらの中に入っている、「疱瘡神(左)と「宇佐八幡(右)」。疱瘡神は「ほうそうしん・ほうそうがみ」と読み、疱瘡(天然痘)を擬神化した悪神で、疫病神の一種とされていた。今でこそ天然痘は根絶されたが、江戸時代後半までは非常に怖い病気であったのだ。「宇佐八幡」は、三大八幡宮の1つであり八幡神を祀っている境内から石鳥居、金沢街道をみおろす拝殿軒下の見事な、「ウサギ」の彫刻鎌倉市内の神社で、この部分に龍神や鳳凰などが彫られていることはよくあるが、「ウサギ」が彫られているところは珍しいと拝殿を左方向から拝殿手前の左側に境内社の、「地主神(地土神社・大地主神)」左側の拝殿奥に舞殿倒木したのか切られた槇の木、右側に「地主神」14:22県道204号線(金沢街道)脇に建つ、「野地蔵」。右奥に、十二所神社の石燈籠。今日はここで鎌倉市街地へ戻ることに、鶴岡八幡宮まで2.6km、自転車で約8分金沢街道に沿って流れる滑川。この辺りの川幅は狭い14:28滑川に架かる、青砥橋(あおとばし)所在地:神奈川県鎌倉市浄明寺5丁目2鎌倉時代後期の武将・青砥藤綱の屋敷が付近にあった場所で、橋を渡ると「青砥藤綱邸舊蹟碑」が建つ。右は、県道204号線(金沢街道)の鎌倉方向杉本寺14:50鶴岡八幡宮東側の道路脇に、咲き終わった彼岸花綺麗な一輪をズームアップ鶴岡八幡宮から若宮大路を南下、スマホでまだ訪れていない「宇都宮稲荷神社」をセット。若宮大路から東側への小路へ入る。14:55宇都宮稲荷神社所在地:神奈川県鎌倉市小町2丁目15-19嘉禄元年(1225)、三代執権北条泰時は北条政子が亡くなると「大倉幕府」を宇都宮辻子(うつのみやずし)に移した嘉禎2年(1236)、四代将軍藤原頼経が若宮大路に幕府を移すまでの11年間は、ここが政治の中心となる。現在は、幕府があったとみられる一角に宇都宮稲荷が祀られている。※ 若宮大路幕府は、宇都宮辻子幕府を拡張したものだという説もある宇都宮辻幕府舊蹟鎌倉幕府ハ初メ大蔵ニ在リシガ 嘉禄元年(1225)政子薨ジテヨリ 之ヲ他ニ遷サントノ議(論)起リ及チ時房 康時等巡検評議ノ末 同年十一月此ノ他ニ造営 十二月将軍藤原頼経此ニ移リ住ス 爾後嘉禎二年(1236) 頼経再ビ之ヲ若宮大路ニ遷セルマデ 天下ノ政令ノ此ニ出ヅルモノ凡テ十二年ナリ 大正十年三月建之 鎌倉町青年會宇都宮稲荷神社 由緒宇都宮の名称は、下野(しもつけ・現在の栃木)の宇都宮朝綱に由来します。朝綱は宇都宮二荒山神社の神職で在地の武士でもありました。源頼朝が鎌倉に幕府を開いた時、朝綱も当地に屋敷を構え、宇都宮より御霊を分霊して祀ったのが当稲荷です。朝綱の孫 頼綱は、元久2年(1205)謀反の嫌疑を受け出家、京の小倉山麓に隠棲して藤原定家(鎌倉前期の歌人「新古今和歌集」などを編纂)と親交を深め、和歌の道で活躍しました。当社は今も、2月初午の日を例祭日として、講中・地元の有志等に守り継がれています。 令和三年一月吉日 宇都宮稲荷構 辻子(ずし)とは、大路を結ぶ小道の意味で、宇都宮辻子は西の若宮大路とその東側の小町大路を結ぶ小路であり、宇都宮稲荷はかつて御所内にあったと伝えられており、北条泰時の屋敷もこの御所の北側に隣接してかまえられていたと思われる。宇都宮稲荷神社から西側の若宮大路側15:00宇都宮稲荷から若宮大路に戻り、二の鳥居若宮大路を南下、JR横須賀線の跨線橋若宮大路にある「琵琶橋(鎌倉十橋)」琵琶橋と琵琶小路「日本の道百選」の一つ「琵琶小路(別称若宮大路)」。ここにはかつて擬宝珠のついた朱塗りであった鎌倉十橋の一つである「琵琶橋」が架けられている。これらの名の由来は、昔この辺り弁財天が祀られ、その祠をさけるように道が弯曲し、その形が「琵琶」の胴の曲線のようだったためであると伝えられている。その後、源頼朝が妻政子の安産祈願のために鶴岡八幡宮に祠を移し現在のような一直線の道に直させた。古来より女性に大変縁起深いとされており、転じて縁結び通りとされることがある。15:07若宮大路の由比ガ浜歩道橋交差点を左折し、滑川を渡り右側に古民家古民家では、「喫茶 ギャラリーAKI」を営業。所在地:神奈川県鎌倉市材木座1丁目4-5大正より続いた酒屋を閉業し、2007年喫茶ギャラリーとして再開業しました。地元に根付き昭和の香りが残る古民家風の造りと 自家製喫茶メニューは、多くの皆様に好評を頂いておりますと。入口に残念ながら、「本日休業」と15:35材木座海岸から、「和賀江島」の石碑を望む国道134号の、材木座一号橋材木座海岸、由比ヶ浜海岸の先に稲村ヶ崎材木座海水浴場、由比ガ浜海水浴場。この夏はコロナ過で海水浴客はどうであったか満潮の和賀江島、逗子マリーナいつもサーファーが多く、近くにはサーフィンスクールもある15:45材木座海岸の近くにある、大本山光明寺総門から山門光明寺山門前の広場にあるトイレ横に、「光明寺周辺公衆トイレ案内図」15:50急な坂道を電動アシスト自転車で上り、鎌倉市立第一中学校近くにある、かながわの景勝50選 光明寺裏山の展望所在地:神奈川県鎌倉市材木座6丁目19この日も富士山は見えず展望台の近くにある、「御庁所」光明寺歴代の住職の墓地15:57光明寺裏山の展望台から下り帰路につき途中にある、浄土宗 九品寺(くほんじ)所在地:神奈川県鎌倉市材木座5丁目13-14元弘3年(1333)、新田義貞が鎌倉を攻めたときに本陣をかまえた場所で、義貞が敵の北条方の戦死者の霊を慰めるため延元2年(1337)に建立したといわれている九品とは、極楽往生を願う人の生きている間の行いによって決められた、九種類の往生の様子をいいます。上品、中品、下品のそれぞれに上生、中生、下生があり、合わせて九品とされています。今日は時間も遅く、スルーして帰路に — 続く ー
2021.10.22
コメント(0)
今回は自転車で行く鎌倉16回目で、このシリーズは9日間アップの 7/9です。引き続き、宝戒寺のハギを追う。9月28日(火) 13:03本堂前の白ハギが満開本堂前から左側に、「東久邇宮御手植の柏槇」。後方左側に、鳥居の奥に第14代執権で新田義貞の鎌倉攻めの時に自刃した北条高時を祀った、徳崇大権現堂。右側には聖徳太子を祀った聖徳太子堂が建つ水鉢にスイレン今が盛りの白ハギをズームアップ本堂右側東久邇宮御手植の柏槇を見上げる平成水琴柄杓に水を入れ上から注ぐと「水音」が聴こえてきた。ここにもハギが咲く本堂の西側から堂内には、鎌倉・江の島七福神の「毘沙門天」が祀られている。ハギの花は匂いがするのか?本堂手前右側に聖徳太子を祀った聖徳太子堂が建つ境内の廻りにハギが生い茂る本堂内は撮影禁止だが、本堂内には貞治4年(1365) 三条仏師憲円作の子育経読地蔵大菩薩や脇立の帝釈天や梵天像などが安置されている拝観受付は無人で、各自入山料をお盆に置き入山していたが、中には・・・13:15宝戒寺の参道に咲く、白ハギ。県道204号線(金沢街道)の鶴岡八幡宮三の鳥居方向。次の目的地は右側の金沢街道を進み「十二所地区」へ13:25十二所神社への途中にある報国寺へ立ち寄る。臨済宗建長寺派 報国寺(ほうこくじ)所在地:神奈川県鎌倉市浄明寺2丁目7-4美しい参道に続く平成19年(2007) 3月に再建された「薬医門」。山門手前の右側へ自転車置き場があり駐輪。車もここへ数台駐車できる(無料)。人力車で訪れた人が車夫から説明を受けていた駐輪場脇に、古井戸。しかし「この水は飲めません」と薬医門を入り整備された参道を進む。報国寺は、孟宗竹の竹林が有名で、竹の寺とも言われている念佛供養塔と赤い帽子を被る地蔵階段脇には、功臣山(こぷしんざん)、報国寺。正面に本堂、右側に方丈(迦葉堂)本堂の扁額、「報國禅寺」本堂脇にぶら下がる「東国花の寺百ヶ寺」茅葺屋根の鐘楼。拝観料300円を支払うと、白塀の右側から裏庭の竹林へ(今年3月3日に訪問)鐘楼の脚が堅固である13:30ホテイアオイは、単子葉植物ミズアオイ科に属する水草である。南アメリカ原産で、水面に浮かんで生育する。花が青く美しいので観賞用に栽培される。別名ホテイソウ、ウォーターヒヤシンス報国寺の奥にある、旧華頂宮邸へ秋バラを見に立ち寄るが休館日で残念。13:37金沢街道沿いに建つ石碑「足利公方邸舊蹟」所在地:神奈川県鎌倉市浄明寺4丁目2−25足利公方邸舊蹟足利公方邸舊蹟頼朝開府ノ初足利義兼居ヲ此ノ地ニトシテ以来ニ百數十年間子孫相嗣イテ此ニ住ス尊氏覇ヲ握リテ京都ニ遷ルノ後其ノ子義詮ニ代将軍トナリテ京都ノ邸ヲ嗣ギ義詮ノ弟基氏關東管領トナリテ兵馬ノ權シ此ノ邸ニ執ル而シテ之ヲ子孫ニ傳フ子孫京都ニ此擬シテ公方ト僣稱ス亨徳四年公方成氏執事上杉憲忠トノ不和ノ事ヨリ下總古河ニ遷ルニ及ビテ遂ニ永ク廢墟トナル 大正九年三月建之 鎌倉町青年會県道204号線(金沢街道)の泉水橋交差点泉水橋交差点に建つ案内板光触寺まで100m泉水橋交差点から入り、滑川に架かる光触寺橋金沢街道を振り返る13:50時宗 光触寺(こうそくじ)所在地:神奈川県鎌倉市十二所793山門前にある駐車場に駐輪して境内へ山門前にある石碑には、寺号標石「時宗 光触寺」、と、「鎌倉三十三観音霊場 第七番札所、鎌倉二十四地蔵尊霊場 第五番札所」碑。山門には、「重要文化財 頬焼阿弥陀」の看板山門の扁額、「岩蔵山」。山門は文化年間(1804年~1818年)に村民が建てたものとされ、当初は茅葺屋根であったが大正12年瓦葺きに吹き替えられたと山門手前右側に二基の石碑。右、「頬焼阿弥陀」碑。左、「本堂屋根改修記念」碑 昭和五十年六月吉日 寄付者名山門を潜ると石畳の参道、両脇には新旧の墓石が並んでいた光触寺(こうそくじ)時宗の開祖・一遍上人が開基(寺の創立者)と伝えます。本尊の木造阿弥陀如来及び両脇侍立像 (頬焼(ほおやけの)阿弥陀) には、盗みの疑いをかけられた法師の罰の身代わりになり、頬に焼印が残ったといわれる伝説があります。本堂の前の「塩嘗地蔵(しおなめじぞう)」は、六浦 (現・横浜市金沢区) の塩売りが朝比奈峠を越えて鎌倉に来るたびにお地蔵様に塩をお供えしたといい、いつも帰りには無くなっていたところからその名の由来があります。昔は金沢方面から塩が入ってきたことが分かります。 ●宗 派:時宗 ●山号寺号:岩藏山光触寺(がんぞうざん こうそくじ) ●開 基:一遍上人(いっぺんしょうにん) ●開 山:作阿上人(さくあしょうにん)」写真は「境内のノウゼンカズラ」本堂前に立つ、時宗開基の「一遍上人」像。光触寺は弘安元年(1278年)に創建された寺院で、開基は "時宗開祖一遍上人" 、開山は "作阿上人" と言われている。作阿上人はもともと真言宗の僧であったが、一遍上人が弘安5年3月1日遊行の途次、鎌倉へ入られたとき聖人に帰依して時宗に改めた。光触寺は以来およそ700年、念仏の道場となって今日に及んでいる。本堂の扁額、「光觸寺」本堂前には、ここからは入れません。拝観は予約制です。 光触寺 御朱印を希望の方は本堂前のインターホーンでお知らせください。 朱印受付時間 9:00~12:00 休憩 13:00~16:00 当山一遍本人や弟子たちを ”時衆” といい ”時宗” となったのは江戸時代以降のことであると。時宗は浄土宗の一宗派で阿弥陀仏への信・不信を問わず念仏を唱えれば、往生できると説いた宗祖 一遍上人像と、「塩嘗地蔵(しおなめじぞう)」の祠塩嘗地蔵六地蔵背後の大きな像が「塩嘗地蔵」。塩嘗地蔵には今から176年前の弘化2年(1845年)と刻まれており、元々は近くの県道沿いにあったのだと。六地蔵の前には塩の袋が奉納されていた本堂左側の庭紅葉が期待できる庭園である本堂右側の池。境内のノウゼンカズラを探すが見つからず?山門への参道右側には、古い墓石が建つ14:00光触寺を後にする。サクラの時期も期待できるお寺である14:03狭い住宅街を走り、県道204号線(金沢街道)へ戻り、鎌倉方向。道路脇に「大江稲荷」の案内板を発見金沢街道から朱色の鳥居が目に入る大江稲荷祭神は大江広元公である。源頼朝が鎌倉幕府を開いた際、政所の初代別当(長官)として、頼朝の右腕を勤めた人物。初午祭では、神主ではなくご本尊の大江広元木像を祀る。十ニ所の五大堂明王院のご住職が、読経供養する。 — 続く ー
2021.10.21
コメント(0)
今回は自転車で行く鎌倉16回目で、このシリーズは9日間アップの 6/9です。9月28日(火) 12:22海蔵寺から次の目的地、「浄光明寺」へ向かう12:25真言宗 浄光明寺所在地:神奈川県鎌倉市扇ガ谷2丁目12-1萩の名所で、国の重文、土紋装飾の阿弥陀三尊像は晴天の木土日祝(8月を除く)のみ拝観可能。山門と、左奥に大きな屋根の客殿平成27年(2015)5月に、NHKテレビのブラタモリで鎌倉が取り上げられ浄光明寺も紹介された。以来参拝者が多くなったと。境内にはハギの花が咲く山門を入ると前方に「客殿」。境内の左側に「楊貴妃観音像」、右側に駐車場があり駐輪して散策客殿、奥に不動堂客殿のガラス戸越しに境内の木々石段を登ると、国重要文化財の「阿弥陀三尊像」の仏殿がある白のハギも咲く紅白のハギ客殿のガラス戸に映えるハギ石畳の参道脇に咲くハギ。今年6月12日(土)に訪れた時、既に咲き始めていた左側にハギが咲いているのだが、花が小さいので目立たない山門を入り右奥に「不動堂」不動堂は天明三年(1783)に再建された不動堂の扁額、「不動堂」彼岸花が一株咲いていた鐘楼不動堂屋根の宝珠とサルスベリ12:40浄光明寺から宝戒寺への途中、小町通りにある知り合いのイタリアンの「ラ・ルーチェ」へ立ち寄る。緊急事態で予約者のみで営業しているようだ鶴岡八幡宮 三の鳥居12:45鶴岡八幡宮 三の鳥居から県道204号線(金沢街道)を進み、宝戒寺入口道路脇に、「ここは 宝戒寺」天台宗 宝戒寺(ほうかいじ)所在地:神奈川県鎌倉市小町3丁目5-22寺域は北条義時以来の歴代の鎌倉幕府執権の屋敷地跡。元弘3年(1333)、北条氏滅亡後その霊を弔うため、また国宝的人材を養成、修行のための道場として後醍醐天皇が足利尊氏に命じて建立させた。四季の花が美しいが、中でもハギは素晴らしく「萩の寺」と称される。入口左側に自転車を駐輪。バッテリー残量、走行可能距離は、80%、74km参道脇に庚申塔が並べられていた白のハギが満開になっていた拝観受付入山料:大人(高校生以上) 三百円、中学生 二百円、小学生 百円 山門復興志納金 お盆に入れてご参拝ください コロナ対策で、アルコール消毒、マスク着用をお願い致します お盆の中に三百円を入れ入山。本堂前の紅白のハギが満開になっていた宝戒寺は「萩寺」としても有名で、境内一面に白いハギが咲く秋のお彼岸の頃が楽しみだとしばしハギの花を追う数人の熟年カメラマンも訪れていた境内脇に植えられたハギハギの開花は、赤に比べ白の方が咲く時期が遅いようだ本堂前に植えらえた、東久邇宮御手植の「柏槇(ビャクシン)」東久邇宮御手植の碑「柏槇」鐘楼の廻りに咲くスイフヨウこの時期鎌倉のお寺では、ハギとフヨウが競演境内を歩いているといい香りを放つ、「ジンジャー」。ジンジャーは、ショウガ(生姜)と同じショウガ科の植物。草姿は似ていますが、食用ではなく、花を楽しむ多年草です。花言葉は「豊かな心」「慕われる愛」ジンジャーは、熱帯・温帯が原産の植物で、蝶のような白い花を咲かせる多年草。ジンジャーの花が咲いている姿が、白い蝶が群れて飛んでいるように見えるため「バタフライジンジャー」と呼ばれることがある。また、甘くて良い香りと白いユリのような花姿からは「ホワイトジンジャーリリー」や「ジンジャーリリー」と呼ばれていたが、その後「ジンジャー」と省略して呼ばれるようになったハギの後方に鐘楼銘木、「無患子(むくろじ)」と地蔵無患子の実を拾い、実の皮をむいでこすり合わせると、せっけんみたいに泡だつ古井戸と、石燈籠木々の間に咲き終わった彼岸花13:03境内のいたるところにハギが植えられている — 続く ー
2021.10.20
コメント(0)
今回は自転車で行く昨年来16回目の鎌倉で、このシリーズは9日間アップの 5/9です。9月28日(火) 11:35鎌倉駅旧駅舎時計台鎌倉駅の西口にある時計台は、1916年(大正5年)に建てられた旧駅舎の象徴だったもの。長い間、「とんがり帽子の時計台」として市民に親しまれてきた。新しい駅舎の建設により、旧駅舎が取り壊されることになるが、「せめて時計台だけでも残して」という市民の願いにより、 時計塔として残されたのだという。鎌倉駅の旧駅舎は、1984年(昭和59年)に新しい駅舎に建て替えられたJR鎌倉駅西口改札口観光案内のパンフレットを探すが目に入らず11:40鎌倉駅から今小路を北上、今小路に建つ、「ここは 巽神社」の案内板次に訪れる「寿福寺」までは200メートル巽神社(たつみじんじゃ)所在地:神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目9-7前回 8月31日(火)に前を通った時は屋根を覆っていたが巽神社は、801年(延暦20年)、征夷大将軍に任ぜられ蝦夷征伐に向かう途中の坂上田村麻呂が葛原ヶ岡に勧請したのを始まりとする。1049年(永承4年)には源頼義が改修したと伝えられている。壽福寺が創建されると境内に鎮守として祀られたが、のちに現在の地に遷座された。壽福寺の巽(南東)の方角にあることからこの名が付けられたのだという。巽神社の由来であろうか雨漏りで、屋根瓦を補修したのか?本殿の前に鉄柵で囲まれた石灯籠には江戸時代の銘がある本殿は地面に直置きになっているが・・・・・。基礎が崩れ無造作に置かれているように見えるが巽神社の敷地の南側に隣接する「諏訪社」。右の石碑は「猿田彦大神碑」境内社の「諏訪社」諏訪社の扁額「諏訪神社」猿田彦大神碑の裏には「弘化二年己正月日」11:46ここは 寿福寺現在は橋はないが、ここは鎌倉十橋のひとつ「勝ノ橋」があった場所。柵に囲まれて庚申塔等が並べられている11:48臨済宗 壽福寺門前に「壽福金剛禅寺」の石碑。鎌倉五山第三位。昨年来数回参拝しているが、まだ大佛次郎の墓には参っていないので石畳の参道の美しさは鎌倉随一である。これからの秋の紅葉シーズンは最高になる壽福寺の山門仏殿は残念ながら非公開で、正月とGWの特別公開時のみ境内参拝が可能である。堂内には三代将軍源実朝像が安置されている。山門から覗くと正面に仏殿。仏殿前の左の木は「ビャクシン(柏槙)(鎌倉市天然記念物)」山門前から外門を望む11:55壽福寺の北側に隣接する、浄土宗 英勝寺今日の花だよりは、「萩、秋明菊」と。彼岸花は終わったようなのでスルー11:58臨済宗 海蔵寺所在地:神奈川県鎌倉市扇ガ谷4丁目18-8山門前のハギが満開になっていた山門前の階段を塞ぐハギの花苔庭の中にリンドウも咲く山門下に自転車を駐輪してしばしハギの花を追う赤のハギ紅白のハギ山門を入ると正面に本堂。境内にはフヨウとシオンが咲き乱れていた。シンボルの赤い傘は取り外されていた本堂の扁額、「海蔵寺」背丈が2メートル以上あるフヨウとシオンズームアップフヨウ最初、花にチョウが数匹舞っていたのでフジバカマに飛来したアサギマダラかと思ったが。携帯で検索すると違っていたシオンは、キク科シオン属の多年草。別名はオニノシコグサ(鬼の醜草)、ジュウゴヤソウ(十五夜草)、オモイグサ(思い草)時季外れのツツジが咲いていた境内に咲いていた、ホトトギス(杜鵑草)コケの中に「リンドウ」山門を振り返る。左側に背丈の高いフヨウとシオン本堂の裏にある「心字池の庭園」(非公開)心字池にはまだスイレンが咲いていたスイレンをズームアップシラサギも静かに佇むズームアップ本堂裏から薬師堂本堂前から山門を望む海蔵寺は花の寺として知られているので多くの観光客が訪れる本堂の右側に建つ茅葺屋根の庫裡今年の春先に茅葺を一部吹き替えていたフヨウとシオンの後方に鐘楼。昨年の秋以来16回目の鎌倉散策であるが、いつも何かが咲いているのでもう何度目の海蔵寺か。今回もハギ、フヨウの花と楽しませていただいた12:20山門前に咲く、紅白のハギ豪華な花ではないが秋の七草の一つとして親しまれている ー 続く ー
2021.10.19
コメント(0)
全215件 (215件中 51-100件目)