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山中城跡の「御馬場曲輪 → 岱埼(だいさき)出丸 → すり鉢曲輪」南エリアを散策。4月13日(木) 14:15整備された植込みの中に説明板。出丸御馬場跡山中城の出丸は、通称岱埼出丸と呼ばれ、標高五四七~五五七m、面積二万四〇〇㎡におよぶ広大な曲輪であり、天正一七年(1588)、秀吉の小田原征伐に備え急ぎ増築された曲輪である。ここは古くから御馬場跡と伝承され、土塁で東側と北側を守り、西側は深い空堀につづき、南側は急峻な谷で囲まれた岱埼出丸最大の曲輪である。曲輪内は、本丸と同様式の二段構築でつくられている。建物跡については確認されなかったが、土塁上からは田方平野を眼下に見渡すことができ、出丸防衛上の拠点であったものと推定できる。 平成〇年〇月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会出丸御馬場跡から富士の頂上を見る。東方向の箱根の山。出丸御馬場跡には四阿があり、二人の高齢のおばさん(マスク装着で?)が草を抜いていた。いつ来ても山中城内は草が刈りとられ綺麗に整備されているが、三島市と造園業とが年間契約しているのであろうか。その中におばさん達も。西方向に、出丸御馬場堀を見下ろす。綺麗に整備された、出丸御馬場堀。出丸御馬場堀堀内に畝が検出されたことから、西櫓堀・西の丸堀と同様畝堀であったと考えられる。畝の高さは、堀底から約二m、頂部の幅〇・六m、馬の背のように丸みを帯び、堀をさえぎるように堀の方向に直角に造り出し、ローム層を台形に掘り残して造られたものである。畝の傾斜度は五○度~六○度の急峻で、平均した堀底の幅は約二m、堀底から曲輪までの高さは、平均九mにも及ぶ。 平成九年十一月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会南側の通路を、出丸御馬場堀から岱埼出丸へ向かう。前方に、岱埼出丸の休憩所。岱埼出丸横にあった説明板。構築途中の曲輪跡東側(説明板の右手)は御馬場曲輪西堀の堀を掘った時に出たブロック状のロームにより小高い丘のように造られ、北側には土塁が積まれている。遺構らしいものはそれだけであるが、尾根を削り成形しながらここに曲輪を構築すべく工事を急いだ様子がうかがわれる。しかし、時間的に間に合わず、そのまま工事の途中で戦闘に突入したものであろう。ここの整備にあたっては、当時のゆるやかな西側への下り傾斜を再現し、構築途中の様子がしのばれるよう配慮した。 平成十一年三月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会表示板には、直進は、「 ← すり鉢曲輪跡」、右は「 休憩所 → 」。前方上に、岱埼出丸の休憩所。岱埼出丸のつつじも残念ながら開花前であった。北側の土塁上のつつじも開花前。富士はかすかに頂上が見えていた(露出を変更)。先輩は、いつも散歩に来ているという地元の人と。つつじの開花状況が判らないので「この方から開花状況を携帯で頂くのもよいか」と思ったが。柴犬であったか?「むさし」。すり鉢曲輪見張台出丸の先端に位置するこの見張台は土塁上の一角をやや拡げて、土塁と兼用させたものである。すり鉢曲輪南側の樹木を低くすることにより、三島・沼津方面から韮山城まで手に取るように望見できる。見張台直下北側の平坦な部分が堀の跡で未調査ではあるが、試掘の結果、非常に傾斜角が強く、この堀底から見張台までは八m以上もあり、武具をつけた敵がよじのぼることは不可能な状況を呈していた。 平成八年十二月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会すり鉢曲輪見張台から愛鷹連山を望む。下のバイパス沿いには新しくできた「ドラゴンキャッスル」。カメラを下げると、斜面下には「岱埼出丸 一の堀」。岱埼出丸「一の堀」第九次発掘調査(昭和56年度)により検出された一の堀は、出丸全域を鉢巻のようにめぐるのではなく、先端のすり鉢曲輪から西側の中腹を箱根旧街道の空堀まで続くものである。第九次調査では、指定地内の約一五○mの間に、一七ヶ所の畝を確認することができた。完掘された一の堀の第三区画はローム層を掘り下げて畝を残し、七〇度前後の傾斜角をもってたちあがっている。したがって堀底からすり鉢曲輪の土塁までは、斜距離一八~二〇m前後の急峻な勾配がつくわけである。 平成八年十二月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会ドラゴンキャッスルをズームアップ。北東方向の、岱埼出丸 一の堀。豊臣方の攻め方もこの急峻な斜面を登るのも大変であったろうと。すり鉢曲輪見張台から東側の御馬場曲輪方向を望む。岱埼出丸にはサクラの木が植えられており開花時も良いのではと。芝に座り込みサクラの木を見上げる。芝の中には黄色の花。ズームアップ。岱埼出丸から東方向の御馬場曲輪跡を見上げる。御馬場北堀御馬場の西側に構築された深い堀は、南は来光川上流に開いているが、北の部分はここの帯曲輪 で堀留めとなっている。この西堀と対をなすかのように、堀の上幅八mの北堀が発掘の結果検出された。この堀は北にのび、すり鉢曲輪から出丸の中腹をめぐる堀と直交するのではないかと推定される。北堀の復元については、未調査部分の中腹の堀が調査されてから検討することになっており、今回の整備では堀の位置だけ示すにとどめた。いずれにしろ御馬場の西堀と北堀の両者で、出丸の尾根を二分しようとする戦略上の意図が察知できる堀である。 平成九年十一月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会岱埼出丸からは傾斜地を上り御馬場曲輪跡へ。山中城跡案内所駐車場。14:40山中城跡案内所を後にし帰路につく。旧国道1号を下りバイパスへ。ドラゴンキャッスル所在地:静岡県三島市山中新田123-1国道1号の山中城口交差点の右側にあるアスレチックタワーで、昨年(2022年)8月8日に新名所としてグランドオープンした。高さ18m、幅32mの六角柱の巨大なスポーツアトラクションタワー「ドラゴンキャッスル」は、様々なアスレチックアトラクションを楽しめる施設で、高さ1mのKIDSコース、高さ3m、8m、13mのアスレチックコース、高さ17mの展望デッキなど、全6階層のタワーである。国道1号のバイパスから。写真はネットから。この後どうするのかわからないが年齢制限があるのであろう。箱根峠交差点新車のノートは、e-POWERで電気で駆動しているためエンジン音が静かで加速も速く三島側の箱根路を上って来た。箱根峠は標高874m、正面に駒ヶ岳。箱根峠からは下り坂で、アクセルを踏み離すと「回生ブレーキ」が作動して発電。山肌にはヤマザクラが咲いていた。箱根新道を下るが途中片側通行に。前方は旧東海道の歩道橋。箱根新道から西湘バイパスへ下り早川I.C。15:20橘料金所のETCゲートへ。先輩の送迎でご自宅へ立ち寄ることに。ここ二宮I.Cを出る。今朝もこの先の交差点から来た。国道1号二宮交差点にある浜端歩道橋。先輩のご自宅に立ち寄り、国道1号二宮交差点へ戻ると渋滞するので裏道を走る。大磯町の石神台の住宅街を下る遠く正面には相模湾が見えた。この道は、今年2月27日(月)に松田町の河津桜を見に行くときに通った道である。カーナビの案内で進む。東海道本線の地下道を抜け国道1号に突き当り、国府新宿交差点を左折。15:40国道1号を東へ進みここ国府本郷交差点を右折して西湘バイパスへ進む。16時過ぎには自宅へ到着、新車での初ドライブを終えた。エンジン音も静かで燃費も良く、カーナビも新しくなったので多いにドライブをしたいが。このドライブに同行した先輩も数日後に自宅の庭で転び圧迫骨折したとの連絡。早い完治を祈願します! END
2023.05.24
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山中城の北エリアの散策を終え、旧国道1号を下り「山中城跡案内所」へ。4月13日(木) 13:15自民党 静岡県支部候補者のポスター。民家の庭先に咲いていたチューリップは満開に。バス停留所「山中」東海バス。運行本数が何本であったか?奥の建物は「山中公民館」、左側の建物は山車の倉庫?。宗閑寺(そうかんじ)所在地:静岡県三島市山中新田94-1旧国道1号沿いの入口に建つ石柱には「史蹟 山中城趾記念之碑」。側面には、漢字だけで「山中城址記」が彫り込まれている。裏面には、「昭和五年三月二十九日 東京 伊豆守直末後裔 一柳貞吉譔竝建」と。宗閑寺本堂宗閑寺は山中城三ノ丸跡にあり、慶長十年(1605)に建立された。開基となったのは、家康の待女・お久の方。北条軍の副将で敵将・一柳直末を討ち取り、73歳で戦死した間宮康俊の娘である。開基のお久の方は、徳川家康に仕え四女松姫をもうけている。本堂の木鼻。本堂の扁額「宗閑寺」。本堂の入口上には葵の紋。本堂の左側に苔むした墓・石碑群。昭和に入り、関東大震災で荒れ果てていた宗閑寺は一柳直末の子孫により再興された。宗閑寺と武将の墓東月山普光院宗閑寺(浄土宗)は静岡市の華陽院の末寺。開山は了的上人、開基は間宮豊前守の女お久の方と伝えられている。ここには山中城落城の際、北条軍、豊臣軍の武将たちの石碑がひっそりと佇んでいる。豊前守康俊(普光院殿武月宗閑潔公大居士)兄弟とその一族、城主松田右兵衛太夫(山中院松屋玄竹大居士)、群馬県の箕輪城主多米出羽守平長定らの墓と共に、豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末(大通院殿天叟長運大禅定門)の墓碑がうらみを忘れたように並んでいる。 平成九年十一月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会武将の墓左側奥に北条軍の墓碑、右側奥に豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末の墓碑。階段を上ると左側に三つの墓碑が並んでいた。左:上州箕輪城主 多米出羽守平長定墓 天正十八庚寅年三月廿九日 於山中城戦死中:長谷川志摩守平近秀墓右:追沼帯刀先生氏雅墓右側の豊臣軍の墓碑は玉垣で囲まれている。その中には豊臣軍の先鋒 一柳伊豆守直末の墓碑。墓碑には「大通院殿前豆州太守天叟長運大禅定門」と刻まれている。玉垣手前左側に建つ石碑には、「○○○碑」と。漢字だけで刻まれており判読できなかった。左側の墓碑は北条軍、一番右側が山中城の城主であった松田康長のお墓で、その隣にある3基の五輪塔は、副将の間宮康俊とその弟、多米長定の3名のお墓である。墓前には、いつもお酒、ワンカップが供えられている。因みにこの間宮一族の子孫のひとりが、のちに間宮林蔵として名を残した。一番右側が山中城の城主であった松田康長(山中院松屋玄竹大居士)のお墓。武将の墓の右側にも墓群があったが「七世」の字が読めたので歴代住職のお墓のようだが。どの墓碑も苔むして詳細は判読できなかったがかろうじて「何世」の字。宗閑寺本堂関東大震災では倒壊したようだ一柳直末の子孫により再興された。本堂の屋根にも「三つ葉葵」の紋。宗閑寺から旧国道1号に出、旧東海道を進み振り返る。前方は交通量が減った旧国道1号。芝切地蔵旧東海道沿いの上に社殿が建っている。芝切地蔵(しばきりじぞう)その昔、山中新田の旅籠に巡礼姿の旅人が泊った折、急に腹痛におそわれ世を去った。この旅人が死ぬ間際に、「私を地蔵尊として祭って下さい。そして芝塚を積んで、私の故郷の常陸が見えるようにして下さい。そうすれば村人の健康を守ってあげます」と言い残したという。村人は旅人の言ったとおり地蔵尊を祭り、毎年七月十九日を縁日として供養するようになった。それにあわせて「小麦まんじゅう」をつくり、参拝に来た親戚の者を接待したが、その味が大そうよかったので有名になり、一般の参拝者に売られるようになった。この祭りには江戸時代、沼津方面からも大勢の参拝人が集まり、さい銭とよく売れた「小麦まんじゅう」の利益とで、一年間の山中部落の費用がまかなえたといわれている。 平成七年十二月 三島市教育委員会階段下に「芝切地蔵尊」の立札、お賽銭箱があった。本堂前に立っていた石碑。本堂の扁額「芝切地蔵尊」。本堂左側の境内中央に「芝塚」、廻りに墓碑が並ぶ。芝塚の後方から。13:30山中城跡案内所・売店☎:055-985-2970城跡内のつつじの開花状況等については電話していただけると対応しますと。城跡内の手入れをしている植木職人から毎日開花状況をもらっているとのことであった。かつては交通量が多かった旧国道1号、下ると三島宿へと至る。山中城跡案内所前に立っている観光案内板。箱根西麓ハイキングコースの案内。案内所で遅い昼食をとることに。店先には「そば」「寒ざらし団子」の旗が立つ。【営業時間】 10:00 ~ 16:00 ※ 1・2月は 10:30 ~ 15:30【 定 休 日】 月曜日、年末年始店先に置かれていた日本100名城「40 山中城」のスタンプ。店内に入ると年配の女性一人が営業、天ぷらそば、寒ざらし団子をオーダー。メニューの横にはいろんな人のサイン色紙が飾られていた。店内の壁には「北条五代を大河ドラマに!」と。 初代 早雲 二代 氏綱 三代 氏康 氏康の娘 早川殿 四代 氏政 氏政の正室 黄梅院殿 五代 氏直 氏直の正室 督姫北条五代観光推進協議会 井原市、大阪狭山市、沼津市、三島市、伊豆市、伊豆の国市、横浜市、相模原市 鎌倉市、小田原市、箱根町、八王子市、川越市、寄居市天ぷらそば 600円汁は関東風で黒っぽく天ぷらは注文受け後揚げ、山菜、麩入りで美味しかった。寒ざらし団子 500円寒ざらし団子は、上新粉を冬場の寒気にさらして作ったことからこの名がついたという素朴な昔ながらの団子である。よもぎ入りとがあり、味噌、きなこをつけて食べる。ひょうたんは、豊臣秀吉のシンボルでは・・・。食事後は南側エリアを散策することに。14:05旧東海道の石畳を渡り南側の山中城跡へ。南エリアの「御馬場曲輪 → 岱埼(だいさき)出丸 → すり鉢曲輪」を散策することに。表示板には「 ← すり鉢曲輪跡 御馬場跡」と。 散歩中の「むさし」。表示板には、直進は、「 ← すり鉢曲輪跡」、右は「 御馬場跡 → 」。14:15フジの花が咲き始めていた。後一週間もすると満開か。 ー 続く ー
2023.05.23
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今日の目的の一つ「山中城のつつじ」は残念ながら一分咲き?であったが。山中城内を散策を続ける。4月13日(木) 12:35北ノ丸の土塁上から北側の空堀を見下ろす。現在は木が植林されているが当時は急峻なもので敵も攻めあぐねたのではと思うが、その山中城も半日で攻略されたのだ。北の丸堀山城の生命は堀と土塁にあるといわれる。堀の深さが深く、幅が広いほど曲輪につくられる土塁が高く堅固なものとなる。北の丸を囲むこの堀は豪快である。四〇〇年の歳月は堀底を二m以上埋めているので、築城時は現況より更に要害を誇っていたに違いない。城の内部に敵が進攻することを防ぐため、この外堀は山中城全域を囲むように掘られ、水のない空堀となっている。石垣を用いるようになると、堀の両岸はより急峻になるが、石を用いずこれだけの急な堀を構築した技術はみごとである。 平成九年十一月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会本丸側から本丸北橋越しに北ノ丸を振り返る。架橋(かけはし)発掘調査の結果、本丸と北ノ丸を結ぶ架橋の存在が明らかになり、その成果を元に日本大学の故・宮脇泰一教授が復元したのがこの木製の橋である。山中城の堀には、土橋が多く構築され、現在も残っているが、重要な曲輪には木製の橋も架けられていた。木製の橋は土橋と較べて簡単に破壊できるので、戦いの状況によって破壊して、敵兵が堀を渡れなくすることも可能であり、曲輪の防御には有利である。 平成十三年三月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会天守櫓跡(てんしゅやぐらあと)標高五八六m、天守櫓の名にふさわしく、山中城第一の高地に位置している。天守櫓跡(てんしゅやぐらあと)標高五八六m、天守櫓の名にふさわしく、山中城第一の高地に位置している。天守は独自の基壇の上に建てられており、この基壇を天守台という。基壇は一辺七・五mのほぼ方形となり、盛土によって五○~七〇cmの高さに構築され、その四周には、幅の狭い帯曲輪のような通路が一段低く設けられている。天守台には、井楼(せいろう)、高櫓が建てられていたものと推定されるが、櫓の柱穴は植樹により攪乱されていたため、発掘調査では確認できなかった。本丸から櫓台への昇降路は基壇より南へ延びる土塁上に、一m位の幅で作られていたものと推定される。 平成十三年三月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会右下の黄色丸内が現在地の「天守台」。天守櫓跡から、本丸跡を見下ろす。右側には西に向かって帯曲輪が伸びる。本丸跡のフジ棚をズームアップ。天守櫓跡の下に聳える「矢立の杉」。矢立の杉 (市指定天然記念物)山中城跡本丸の天主櫓に接して植生しており、樹高三一・五m、周囲の樹木より一段と高く山中城跡のシンボル的存在である。推定樹齢は五○○年前後といわれ、植生地はスギの生育の適地であるため樹勢も良好で、目通り四・三七m、枝張りは西側へ一五m、北東側へ八mも展開し、各枝の葉色もよい。「矢立の杉」の呼称の由来については、出陣の際に杉に矢を射立て、勝敗を占ったためと、『豆州志稿』の中の記述にある。 平成八年十二月 三島市教育委員会本丸跡のフジ棚。後方には天守櫓跡。本丸跡標高五七八m、面積一七四○㎡、天守櫓と共に山中城の中心となる曲輪である。周囲は本丸にふさわしい堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南は兵糧庫と接している。この曲輪は盛土によって兵糧庫側から二m前後の段をつくり、二段の平坦面で築かれている。虎口(入口)は南側にあり、北は天守閣と北の丸へ、西は北条丸に続く。江戸時代の絵図に描かれた本丸広間は上段の平坦面、北条丸寄りに建てられており、現在の藤棚の位置である。 平成九年十一月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会フジ棚北側の土塁、その先の一段高いところに天守櫓跡がある。紫色のフジもつぼみが膨らんでいた。本丸堀と櫓台本丸と二ノ丸(北条丸)との間の本丸西堀は、土橋によって南北に二分されている。北側の堀止めの斜面にはV字状の薬研堀が掘られ、その南側に箱堀が掘られていた。堀底や堀壁が二段となっていたので、修築が行われ一部薬研堀が残ったようである。なお、箱堀の堀底からは兜の「しころ」が出土した。土橋の南側は畝によって八区画に分けられ、途中屈折して箱井戸の堀へ続いている。堀底から本丸土塁までは九メートルもあり、深く急峻な堀である。堀の二ノ丸側には、幅三○~六○センチの犬走りが作られ、土橋もこの犬走りによって分断されていたので、当時は簡単な架橋施設で通行していたものと思われる。一般的に本丸の虎口(入口)は、このように直線的ではないが特別な施設は認められなかったので、通行の安全上架橋とした。説明板左手の、標高五八三メートルの地に二ノ丸櫓台(東西一二メートル、南北一〇メートル)がありそれを復元した。 平成十二年三月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会本丸西橋上から本丸と二ノ丸(北条丸)との間の本丸西堀を見下ろす。ここの畝堀にもアルミ製の梯子が置かれていた。南の土塁上にミツバツツジが咲いていた。本丸西橋を渡り、二ノ丸(北条丸)の西方向を望む。二ノ丸は南方向へ傾斜している。二ノ丸の南側斜面に咲くサクラ。振り返り土塁上のミツバツツジを見る。二ノ丸の傾斜地に咲くスミレ。こちらは大豆の大きさの・・・。タンポポも咲いていた。城内を綺麗に管理されているのでいろんな花が咲いている。本丸跡に戻り南東方向にある駒形諏訪神社を見下ろす。かつては高さ二十五メートルの大カシ(県指定天然記念物)が聳えていたのだが。その右側には、兵糧庫跡に建つ休憩所。兵糧庫跡に二枚の説明板が立っていた。兵糧庫跡(ひょうろうこあと)ここは古くから兵糧庫とか、弾薬庫と伝承されていた場所である。中央を走る幅五○cm、深さ二〇cmの溝は排水溝のような施設であったと考えられ、この溝が兵糧庫を東西二つの区画にわけていた。西側の区画からは南面する三間(六・七m)、四間(八・七m)の建物の柱穴が確認された。このことから周辺より出土している平たい石を礎石として用い、その上に建物があったものと考えられる。東側の区画からは、不整形な穴が数穴検出され、本丸よりの穴からは、硯・坏・甲冑片・陶器などが出土している。 平成十三年三月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会兵糧庫跡の柱穴と大きな穴発掘調査の結果、この西側の区画から約二〇個の小穴がほぼ東西南北に並んで検出された。これらの穴(ピット)のほとんどは、直径五○cm、深さ二〇cm程度で、それぞれ二m~二・二m間隔の列をなしていた。周辺より出土した、平たい石を礎石と考えると、これらの穴は建物の柱穴跡と考えられる。また西北隅、土塁寄りに直径一・五m、深さ二・五mの大きな穴が四基並列して検出された。これらの大穴は建物の柱穴とはまったく性格のちがうもので、壁面は垂直に整形されており、底面は平らで特に加工はほどこされていなかった。なお、その用途については不明である。 平成十三年三月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会兵糧庫跡は発掘調査後整地されており、柱穴跡が残されている。兵糧庫跡から下ると大きな切株があった。駒形諏訪神社平成30年(2018) 9月の台風20号で駒形諏訪神社は倒壊したが復元された。石碑には「駒形諏訪神社の大カシ」側面には「昭和四十六年三月十九日 指定 昭和四十七年三月三十一日 建之」と刻まれていた。駒形諏訪神社の大カシ (県指定天然記念物)ここ駒形諏訪神社は、山中城跡本丸曲輪内にある。大カシ(アカガシ)は樹齢約五○○~六○○年と推定され、本丸への入口部分にそびえており、約四○○年前、天正一八年(1590)の山中城合戦時には、既に生育していたものと考えられる。根廻り九・六m、高さ二五m、幹は地上四mのところで七本の主枝に分かれている。空洞や損傷もなく樹勢は良好であり、県内一・二の大木である。 平成八年十二月 三島市教育委員会説明板に貼られていたシールには、県指定天然記念物に指定されていた「大かし」は、平成30年(2018) 9月の台風20号の大風等の影響により根本近くから倒れてしまいました。よって、県指定天然記念物の指定が解除となりました。県指定天然記念物であったが、台風21号の影響で倒壊、無残にも根本から切断されたのだ。切株の後方斜面には本丸跡。かつての「駒形諏訪神社の大カシ」。諏訪・駒形神社鎮座地 三島市山中新田四○番地の一御祭神 建御名方命 日本武命例祭日 十月十八日 — 由 緒 ー史蹟山中城の本丸に守護神として祀られた。建御名方命は、大国主命の御子神で、父神の国譲りに抗議して、追われて信濃の諏訪に着き、これより出ずと御柱を立つ。後、転じて日本第一武神と仰がれる。日本武命は景行天皇の命を奉じ、九州熊襲や、東国を征した。弟橘姫の荒海鎮静の入海は此の時である。山中城の落城(1590)後、人々移住し箱根山の往還の宿場として栄えた。社殿には二枚の扁額「諏訪神社」「駒形神社」。駒形諏訪神社を振り返る。右側に新しい石祠があったがロープが張られ工事中であった。駒形諏訪神社からの参道を国道1号(旧東海道)へ下る、入り口には鳥居が見えた。右側には竹林がありこの辺りでもタケノコが芽を出していた。竹林の中に可憐なスミレが咲いていた。旧国道1号(旧東海道)沿いに建つ石鳥居。鳥居の扁額「諏訪駒形神社」。鳥居の下に、地蔵、苔むし修復された庚申塔であろうか。錆び付いた歩道橋の廻り階段を降りると旧東海道の箱根宿方向。この国道1号は以前は交通量が多かったため歩道橋が必要であったが、山中城の北側にバイパスが完成してからは交通量が激減し今では必要なくなったようだ。道路標識には「三島宿」と。旧国道1号を挟んで鳥居の向かい側に建つ「お休処 茶屋 竹屋」。所在地:静岡県三島市山中新田34かつては富士山の伏流水でさらした鰻を、備長炭で丹念に焼き上げお客様に提供していたようだがいつからか移転したようだ。今は亡き取引先の社長も鰻を食べに来たと。店先には、道路を下り右カーブしているので交通事故防止用の石垣であろうか設置されていた。店先の「竹屋」。店先には移転等の貼紙もなく、ネットで調べても情報は得られなかった。店先から、三島宿への旧国道1号(旧東海道)を見下ろす。バイパスができてから交通量も減り静かになったが客も減り閉店・移転・・・。バイパスが完成して以来、交通量は1時間?台であろうか。左カーブして坂を上り突き当りでバイパスに合流。店先にはこのようなものが置かれていた。住まわれているのであろうか。店先から駒形諏訪神社の鳥居を見る。鳥居前に建つ、大きな石碑。13:10史跡 山中城跡(国指定史跡)山中城は、文献によると、小田原に本城のあった北条氏が、永禄年間(1558~1570)に築城したと伝えられる中世最末期の山城である。箱根山西麓の標高五八〇mに位置する、自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって、西方防備の拠点として極めて重要視されていたが、戦国時代末期の天正十八年(1590)三月、全国統一を目指す豊臣秀吉の圧倒的大軍の前に一日で落城したと伝えられている。三島市は山中城跡の史跡公園化を目指し、昭和四八年から発掘調査を行い、その学術的成果に基づく環境整備を実施した。その結果、本丸や岱埼出丸をはじめとした各曲輪の様子や架橋、箱井戸、田尻ノ池の配置など、山城の全容がほぼ明らかになった。特に障子堀や畝堀の発見は、水のない空堀の底に畝を残し、敵兵の行動を阻害するという、北条流築城術の特徴の一端を示すものとして注目されている。出土遺物には槍・短刀をはじめとする武器や鉄砲玉、柱や梁等の建築用材、日常生活用具等がある。なお、三ノ丸跡の宗閑寺には、岱埼出丸で戦死した、北条軍の松田康長をはじめ、副将の間宮康俊、豊臣軍の一柳直末など両軍の武将が眠っている。 平成八年二月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会 ー 続く ー
2023.05.22
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今日の目的の一つ「山中城のつつじ」は残念ながら一分咲き?であったが。山中城内を散策を続ける。4月13日(木) 12:00後北条氏の角馬出戦国時代の城で、二つの虎口(出入り口)と一つの広場が組み合わされたものを特に「馬出」と呼んでいる。馬出は、戦国時代の永禄年間に完成したと考えられているが、甲斐武田氏の城では、馬出の土塁と堀を丸く造ったので「丸馬出」と呼ばれ、堀が円弧を描くので通称「三日月堀」である。これに対して、後北条氏の馬出は、その形から「角馬出」と呼ばれている。西ノ丸から障子堀をこえて、前方に突き出たこの西櫓(広場)を四角(長方形)に造り、それに沿って土塁と堀を巡らしている。防御する時は、西ノ丸の虎口を中心に、攻撃に出る時には堀の外側の広場(西櫓)を起点として、堀の南端の土橋と北端の木橋を用いる。この馬出の築造により、攻める機能と守る機能が明らかに区分された。写真は、西櫓・西ノ丸鳥瞰図 平成十六年三月 三島市教育委員会西櫓上から北側の帯曲輪、西ノ丸北側の畝堀を見下ろす。西櫓上から三島市街地を見下ろす。西ノ丸南側の畝堀を見下ろす。南側の帯曲輪に咲いていたこの木は?花をズームアップ。帯曲輪の傍にタケノコが芽を出していた。このまま成長すると・・・。管理人に代わって足で押し倒す。左上は西櫓。廻りには畝堀が続く。西櫓堀(にしやぐらぼり)堀内には、ほぼ九メートル間隔に八本の畝が、堀の方向に対して直角に作られている。畝はローム層を台形に掘り残して作ったもので、高さは堀底から約二メートル、頂部の幅は約〇・六メートルで丸みを帯びている。畝の傾斜度は五〇度から六○度と非常に急峻である。平均した堀底の幅は二・四メートル、長さは中央で九・四メートル、堀底から西櫓までの高さは九メートルもある。現在は植栽されているが、四百年前はすべりやすいローム層が露出し樹木は全くなかったので、もし人間が堀に落ちれば、脱出することは不可能だったと推定できる。 平成十二年三月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会山中城の廻りを囲む帯曲輪を時計方向に廻り、西木戸辺り。西木戸には咲き終わったサクラの古木、石碑が立っていた。西木戸にある石碑には、「史蹟 山中城阯」側面には、 「史蹟名勝天然記念物保存法○○ 昭和九年一月二十二日文部大臣○○」と。裾野市の方向に雲に隠れた富士が見えた。右側から「富士山」手前に「三島市立 箱根の里」「愛鷹連山」「三島市街地」「駿河湾」。愛鷹連山 (あしたかれんざん)愛鷹連山は、裾野市・沼津市・富士市・長泉町の3市1町にまたがる周囲およそ60キロメートルの複数の山々の総称である。最高峰の越前岳 (1504m) をはじめとして峰々がS字型に連なっており、日本二百名山のひとつに数えられている。西櫓堀の後方に西木戸にあるトイレ。畝堀の底からは容易に登れないので梯子が用意されている。帯曲輪沿いには八重桜が咲いていた。ズームアップ。北側の帯曲輪上から左に西ノ丸、左に西櫓。現在はこの間に橋が架かっていないので遠回りになるが、かつては橋があった。西櫓の架橋西櫓の曲輪を囲む約八二メートルの西櫓堀は、ほぼ九メートル間隔に作られた八本の畝によって、九区画に区切られている。第九区画に隣接する一段高い平坦面から四本の柱穴が検出され、この場所に西櫓へ渡る橋が架けられていた事が推定された。日本大学宮脇研究室では、右図のような橋の復元図を示されている。絵は、架橋復原図 平成十二年三月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会つつじの咲く時期に合わせて管理しているのか下草が綺麗に刈られていた。畝堀の畝道には手摺もなく高所になるので高齢者には危険だ!西ノ丸堀(にしのまるほり)西ノ丸堀は、山中城の西方防備の拠点である西ノ丸にふさわしく、広く深く築城の妙味を発揮しており、堀の末端は谷に連なっている。西櫓と西ノ丸の間は、中央に丸い畝を置き、交互に両曲輪にむかって畝を出しているが、西ノ丸の北側では東西に畝をのばして堀内をより複雑にしている。このように複雑な堀の構造は、世に伝えられる「北条流堀障子」の変形であり、学術上の価値も高いものである。 平成十二年三月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会休憩所に立っていた、史跡 日本百名城 山中城跡山中城跡の縄張り、現在地が記されている。休憩所から望む北側の帯曲輪にサクラの木が聳える。北側の帯曲輪にある休憩所から、西側にある「西櫓」、右側に一段高くなった「櫓台」を望む。手前は、畝堀の西ノ丸堀。休憩所から、西ノ丸北側の急峻な下に下りる。斜面の空堀に焼却後。枯れ木、下草を燃やしたのであろうができれば埋めて欲しいものだ。元西櫓の北側に溜池があり、そこを北ノ丸へと進む。右下に溜池。溜 池(ためいけ)ここは溜池(貯水池)の跡である。山田川の支流の谷がここまで延びてきていたものを、盛土によって仕切り、人工土手を作って深い堀としたものである。この溜池へ本丸・北ノ丸等の堀水が集まり、また広大な西ノ丸の自然傾斜による排水も、元西櫓の排水も流入するしくみである。深さ四メートル以上発掘したが、池底には達しなかった。山城の生命は、水の確保にあるといわれるが、貯水への異常な努力をうかがうことができる。 平成十二年三月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会綺麗なミツバツツジが咲いていた。ミツバツツジ ツツジ科葉が枝先に3枚づつつくのでこの名前があります。春、葉が出る前に赤紫色の美しい花を咲かせます。足もとではコケが青々と。確かに葉が出る前に花を咲かせている。ズームアップ。先輩はいつものように携帯で撮影。右側の元西櫓から二ノ丸(北条丸)への二ノ丸橋。堀底にはここにも畝堀。溜池から北ノ丸へ緩い坂を上る。遊歩道には木の根があらわに。遊歩道には杉の木の根であろうか、足元に注意しながら進む。本丸堀左上は本丸跡。本丸堀山中城の堀の特色のひとつに、畝堀があげられる。この堀の中にわずかに見えるのが畝の頂部である。畝と畝の間隔は一定ではないが、ここでは西下りの地形にあわせて、畝の上部も階段状に西へ下がっている。城の防備上からは、堀の中の水が深く、堀も深いのが堀としては最もよいが、高地では普通空堀である。ここの本丸堀は畝をつくることにより、用水地をも兼ねることができるわけである。 平成九年十一月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会足もとの根をズームアップ。北の丸堀本丸堀と同じように杉の木が生い茂っていたが植林されたのか。北の丸堀山城の生命は堀と土塁にあるといわれる。堀の深さが深く、幅が広いほど曲輪につくられる土塁が高く堅固なものとなる。北の丸を囲むこの堀は豪快である。四〇〇年の歳月は堀底を二m以上埋めているので、築城時は現況より更に要害を誇っていたに違いない。城の内部に敵が進攻することを防ぐため、この外堀は山中城全域を囲むように掘られ、水のない空堀となっている。石垣を用いるようになると、堀の両岸はより急峻になるが、石を用いずこれだけの急な堀を構築した技術はみごとである。 平成九年十一月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会12:35北ノ丸跡天守櫓に次ぐ本城第二の高地に位置し、面積も1,920㎡とりっぱな曲輪である。北ノ丸跡標高五八三m、天守櫓に次ぐ本城第二の高地に位置し、面積も1,920㎡とりっぱな曲輪である。一般に曲輪の重要度は、他の曲輪よりも天守櫓により近く、より高い位置、つまり天守櫓との距離と高さに比例するといわれている。この点からも北の丸の重要さがしのばれる。調査の結果、この曲輪は堀を掘った土を尾根の上に盛土して平坦面を作り、本丸側を除く、三方を土塁で囲んでいたことが判明した。また、本丸との間には木製の橋を架けて往来していたことが明らかになったので、木製の橋を復元整備した。 平成十三年三月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会北ノ丸跡に立っていた、史跡 日本百名城 山中城跡 ー 続く ー
2023.05.21
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この日は4月7日(金)に新車が納車されたので、初遠出ドライブで静岡県三島市にある「日本100名城の山中城」のつつじを愛でに訪れた。4月7日(金) 12:40神奈川日産茅ヶ崎の店頭に掲げられていた、「ご納車おめでとうございます!! ○○様 2023.04.07」と。記念写真を撮影しようとしていたら大きなキーを渡された。ゴルフの副賞なら最高だが!車種:日産ノート、型式:6AA-E13、排気量:1198cc、定員:5名。ノートの車名には、音符を意味するノートと筆記用具のノートの2つの意味があります。毎日をリズミカルにするノートと毎日を記録するノートをイメージしたコンパクトカーとして発売されましたと。4月13日(木) 10:15購入後1週間を経、5月12日(金)に1ヶ月検査があるので始めてのドライブに。今年は温暖化でサクラの開花も早かったので、つつじを見に山中城へ行くことに。ガソリンを満タンで走行可能距離は823kmと標示。道路の制限速度は40km/h、外気温は18℃。左のメーターは、POWER %。自宅を出た時は一人ドライブを予定していたが、途中二宮の先輩を思い出し電話。同行するとのことで立ち寄ることに。西湘バイパスを走り、先輩宅へ立ち寄るため大磯ロングビーチ手前を下り国道1号へ。前の愛車のジュークは約12年間乗り累計走行距離も10万キロと今までの車で最高の距離。ジュークの前に乗っていた車もノートであったが、再度乗るノートは日産が販売するコンパクトカーであると。初代モデルの発売から15年以上が経過したが、現在でも高い人気を誇っていると。2020年には3代目モデルが登場し、e-POWER専用車種となっている。電気で駆動しているためエンジン音が静かで加速も速い。国道1号のここ二宮交差点を右折して先輩宅へ。県道71号線(秦野二宮線)を秦野方面へ北上。右側は「二宮町 生涯学習センター ラディアン」。先輩をピックアップして再び国道1号の二宮交差点へ戻る。西湘バイパスの西湘二宮ICへ。西湘二宮ICから西湘バイパスへ入る。橘料金所。左側車線の「箱根新道」へ向かう。早川出口。箱根新道は右側を直進。箱根新道は左方向へ。直進は国道1号の湯本、宮ノ下方面。箱根新道の九十九折の坂を上る。前のトラックには、「枯れ葉マーク」が貼られ高齢者の運転。トラックのボデーには、「トラックの人生は、重荷を背負いて稼ぐ事成り、されど軽ければ銭に成らず 働けど働けど我が暮らし、今なお楽にならず 茶々丸」。先輩との会話で「なるほど」と納得。箱根峠近くの道路脇に「箱根新道終点」と。箱根峠からは下り坂で「ECO」モードで走っているので、アクセルを踏み離すと「回生ブレーキ」が作動して発電する。回生ブレーキとは、ガソリンエンジン車のエンジンブレーキの代わりに走行用モーターを使って減速することを回生ブレーキと呼ぶ。減速するときに発電するため、発電した電力でリチウムイオンバッテリーを充電することができ、エネルギーを無駄にせず燃費を良くすることができると。国道1号を下り山中城北側にバイパスができたため、バイパスの手前を左折する。前方は旧東海道用の歩道橋。11:40山中城跡案内所・売店所在地:静岡県三島市山中新田410-4山中城の入口にある売店で、名物の「寒ざらし団子」「障子堀ワッフル」などを販売している。また、日本100名城のスタンプ設置場所、山中城「御城印」の販売場所となっている。【営業時間】10:00~15:00 【定休日】月曜日定休日や年末年始の休日の際は、山中城跡案内所・売店入口付近の軒下にスタンプ台や、御城印の販売ポストが設置されますと。国道を挟んだ向かい側にも駐車場、トイレがある。以前はこの前の国道1号は交通量が多かったが、バイパスができてからは交通量が激減している。山中城跡案内所・売店廻りにも駐車場がある。五年間分割払いで購入した愛車の「ノート」。五年後に免許証を返納すると残金はチャラに!駐車場から順序に従い、西側にある「三ノ丸堀」へ進む。つつじがあるがまだ開花前?。前回は二年前の令和三年(2021)四月二十四日(土)に訪れているがその時も五分咲きであったか。史跡 日本百名城 山中城跡山中城跡の本丸、各櫓、曲輪等の配置が書かれている。探訪コースの2コースを案内しており所要時間は、 ① 戦国山城探訪コース 約2時間 ② 障子堀・畝堀探訪コース 約1時間国指定史跡山中城跡 (昭和九年一月二二日指定)史跡山中城は、小田原に本城をおいた北条氏が、永禄年間(1560年代) 小田原防備のために創築したものである。やがて天正十七年(1589)豊臣秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ西の丸や出丸等の増築が始まり、翌年三月、豊臣軍に包囲され、約十七倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。この時の北条方の守将松田康長・副将間宮康俊の墓は今も三の丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。三島市では、史跡山中城の公園化を企画し、昭和四八年度よりすべての曲輪の全面発掘にふみきり、その学術資料に基づいて、環境整備に着手した。その結果、戦国末期の北条流の築城法が次第に解明され、山城の規模・構造が明らかになった。特に堀や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を巧みにとり入れた縄張りの妙味と、空堀・水堀・用水池・井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最後の姿をとどめている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。 平成十一年三月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会写真は、畝堀(左)、障子堀(右)。駐車場から三ノ丸堀方向へ進む。本来ならつつじが咲いているのだが、まだ早かったようだ!三の丸堀三の丸の曲輪の西側を出丸まで南北に走るこの堀は、大切な防御のための堀である。城内の各曲輪を囲む堀は、城の縄張りに従って掘り割ったり、畝を掘り残したりして自然地形を加工していたのに対し、三の丸堀は自然の谷を利用して中央に縦の畝を設けて二重堀としている。中央の畝を境に、東側の堀は水路として箱井戸・田尻の池からの排水を処理し、西側の堀は空堀として活用していたものである。この堀の長さは約180m、最大幅約30m、深さは約8mである。 平成八年十二月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会三ノ丸堀沿いに聳えていた杉花粉の元凶である杉の木。花粉症の先輩もマスクを装着して対応。田尻 (たじり) の池田尻の池東側の箱井戸と田尻の池とは、一面の湿地帯であったが、山中城築城時、盛土(土塁)によって区切られたものである。山城では、水を貯える施設が城の生命であるところから、この池も貴重な溜池の一つであったと考えられる。しかも、西側は「馬舎」と伝承されているところから、この池は馬の飲料水・その他に用いられたものと推定される。築城時の池の面積は約148平方メートルであり、あふれた水は三の丸堀に流れ出ていたようである。 平成十一年三月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会田尻の池から三ノ丸堀方向を振り返る。← 西の丸跡、宗閑寺→田尻の池から緩い坂道を登り「元西櫓下の堀」。丸く刈られたつつじがあるが残念ながらまだ開花前であった。元西櫓下の堀城の内部に敵が進入するのを防ぐため人工的に土地を深く掘り下げたものが堀である。掘りあげた土は曲輪の中へ運び、平らにならしたり土塁に積んだりするのに用いられる。山中城では、曲輪の四周は大体堀で囲まれている。堀の深さと幅とは地形と曲輪の重要度に深く関連している。また、山中城の堀に、石垣が用いられていないということは大きな特色である。ここは堀底に近いが、四百年前はローム層が露出し、もっと急斜面であった。 平成十二年三月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会元西櫓下の堀の斜面に一部咲き始めたつつじ。説明板には「土橋」。道案内には「西の丸跡 → 」と。土 橋土橋は城(曲輪)の虎口(入り口)の前を通路だけ残してその左右に堀を掘って城への出入りの通路としてつくられる。この土橋から西の丸へ入るには、土橋を渡って正面の土塁の下を左へ折れ、西の丸南辺からのびてくる土塁との間の細い上り坂の通路を通り、更にこの二つの喰違い土塁に挟まれた通路に設けた木戸を通る。この土橋は第一の関所であり、また高い方の堀の水を溜めておくための堤防でもある。 平成十一年三月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会※ 台風19号の影響で崩落している箇所があります ※令和元年の台風19号の影響で、崩落している箇所がありますが、これは城の遺構(山中城本来の部分)を保護するための土が流れ出したものです。戦国時代の山中城本来の堀や土塁に大きな被害はありません。保護のための土が崩落している箇所については順次修復していく予定です。城内は問題なく散策いただけます。ぜひ障子堀や土塁を見学いただき、北条流の築城術をご体感ください!写真は、台風被害前の西ノ丸(東から) 三島市教育委員会西ノ丸畝堀 (にしのまるうねぼり)二年前の令和三年(2021)四月にもこのシートは敷かれていたが。西ノ丸畝堀西ノ丸内部に敵が進入することを防ぐため、完全に曲輪の周囲を堀によってとりまいている。山中城では場所によって水のない堀と、水のある堀、やわらかい泥土のある堀とに分けられる。この堀の中は、五本の畝によって区画されている。畝の高さは堀底から約二メートル、更に西ノ丸の曲輪へ入るには九メートル近くもよじ登らなければならない。遺構を保護するため、現在は芝生や樹木を植栽してあるが、当時はすべりやすいローム層が露出しているものである。 平成十二年三月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会南側の帯曲輪を上り、西櫓と西ノ丸の間の障子堀。この障子堀越えに富士が見えるのだがこの日は雲がかかり見えなかった。またつつじの開花も。西ノ丸畝堀を見下ろす、東方向に元西櫓、二ノ丸、本丸。西櫓へ。右側には障子堀の上に西ノ丸。西櫓の隅に「障子堀」の説明板が立っていた。。障子堀 (しょうじぼり)後北条氏の城には、堀の中を区画するように畝を掘り残す、いわゆる「障子堀」という独特の堀が掘られている。西ノ丸と西櫓の間の堀は、中央に太く長い畝を置き、そこから交互に両側の曲輪にむかって畝を出し、障子の桟のように区画されている。また、中央の区画には水が湧き出しており、溜まった水は南北の堀へ排出される仕組みになっている。このように水堀と用水池を兼ねた堀が山城に作られることは非常に珍しく、後北条氏の城の中でも特異な構造である。 平成十二年三月 文化庁、静岡県教育委員会、三島市教育委員会西櫓から東方向を見る。箱根山の地形を利用した山中城。西櫓、西ノ丸、二ノ丸橋付近の標高は五八〇メートル。斜面に植えられたつつじが満開であれば絶景だったのだが。今日の目的の一つは初ドライブ。12:00この方向に富士があるのだが、頂上に雲がかかり。つつじをズームアップするがまだ早かった。 ー 続く ー
2023.05.20
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ここ数日の大雨で被害を受けられた方々に対しお見舞い申し上げます。国道135号の熱海伊豆山辺りはいつも利用している道だけに心が痛みます。山中城の散策を続ける。5月25(火) 10:27箱井戸跡後方は二の丸、本丸跡斜面にはアジサイが植栽されている。案内板は「田尻の池跡」「宗閑寺」箱井戸跡ここは古くから箱井戸と伝承されていた所で、発掘調査の結果、箱井戸と西側の田尻の池一帯は湿地帯であったことが確認された。箱井戸と田尻の池の間は、土塁によって分離され、排水溝によってつながれていた。これは湧水量が多く、一段高い箱井戸から田尻の池へ水を落とすことにより、水の腐敗や鉄分による変色を防ぐための工夫と考えられる。箱井戸の水を城兵の飲料水とし、田尻の池は、洗い場や馬の水飲み場等として利用していたのであろう。現在、箱井戸には睡蓮が植えられ、花の季節(7~8月頃)には観光客の目を楽しませている。 平成13年 3月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会写真は、スイレン箱井戸跡の斜面にアジサイ黄色のハナショウブが咲く紫色のハナショウブむしばまれたアジサイの葉箱井戸には睡蓮が植えられ、花の季節(7~8月頃)には観光客の目を楽しませていると箱井戸の周りにアジサイアジサイと、スイレンが同時に楽しめるのか黄色は目を引くズームアップ箱井戸跡を振り返る駐車場への途中に咲いていたアジサイまだ色づき前山中城跡案内所・売店所 在 地 :静岡県三島市山中新田410-1営業時間:10:00 ~ 16:00 ※ 1 ~ 3月の平日は 10:30 ~ 15:30定 休 日 :月曜日 ※ 祝日の場合は営業、翌日休み国指定史跡 山中城跡案内所・売店コロナ対策をして店内に入る。名物は、寒ざらし団子障子堀ワッフル ・山中城の堀に似た形で、山中城の障子堀とワッフルを並べてのコラボ写真が人気だと。障子堀ワッフル本来なら障子堀へ持参して撮影だがパンフレットにスタンプを捺し今日は昼食にはまだ時間が早いので、名物の「寒ざらし団子」500円を購入上新粉を冬場の寒気にさらして作ったことからこの名がついたという素朴な昔ながらの団子。おばさんからヨモギには味噌だれをつけ熱いうちに食べてくださいと。お土産に買ったのだが熱いうちにとのことで早速食べたが素朴な懐かしい味であった!10:45山中城を後にする。今回は山中城の散策は1時間でした。10:50山中城2号トンネル売店から国道1号を三島方面へ下り、途中でユーターンして国道沿いのトンネル手前に駐車三島スカイツリーの全景を撮影したいのだが。 眼下に三島スカイツリーの鉄塔、三島市街地を見下ろす手前の丘に建つ建物は、障害者向けサービス&支援組織の「見晴学園」。見晴学園とスカイツリーの間に丘があるのだが農地で立入禁止?。この後、新しい道が完成していたので三島スカイツリー下まで再度下ることに11:02国道1号を下り、三島塚原IC手前でユーターンして箱根峠へ。道路が新しくなったので旧東海道の三島路も新しく左折すると三島スカイツリーへ箱根路を上る、道路脇に「日本橋まで109.9km」のキロポスト朝出発時に時間があれば走りたいと思っていた「はこね金太郎ライン」3月30日(火) 朝日新聞朝刊より11:36時間が早いので「はこね金太郎ライン」を走るため箱根峠から芦ノ湖畔へ下る。芦ノ湖畔の大涌谷下入口の外気温は24℃11:39芦ノ湖畔の桃源台、箱根ロープウェイ乗り場11:41環境省 箱根ビジターセンター所在地:神奈川県足柄下郡箱根町元箱根164開館時間:9:00 ~ 17:00 ※ 入館は16:30まで休 館 日 :6月 第2水曜日 木曜日・年末年始(12/28 ~ 1/1)利 用 料 :無料コロナ対策で消毒をして館内へ箱根ビジターセンターは、富士箱根伊豆国立公園の箱根地域の自然情報の収集、自然散策の休憩拠点として、どなたでも利用できる無料の施設です。大型ハイビジョンシアターや箱根全山のジオラマ、ゆったりと休憩できる展望ラウンジ等々、思わず時間を忘れて「箱根」に没頭してしまう空間がそこにはあります。季節によって変わる展示、短い時間での楽しめるクラフトコーナー、毎月決まった曜日には自然観察会等のイベントも開催されます。また、各ハイキングコースマップも充実しているので、ハイキングの拠点としてもご活用くださいとおススメのビジターセンターの開放的なラウンジ。芦ノ湖や箱根山が織りなす四季折々の雄大な自然風景が眺められます。晴れた日には心地よい日光が差込み、気が付いたら長い時間ボーっとしていた・・・なんて事も。他にも、常駐している個性的なスタッフとのおしゃべりも楽しみのひとつ。普段の喧騒を忘れ、落ち着いた時間をビジターセンターでぜひお過ごしくださいと展示品も四季折々によって変わるラウンジ前の広場芦ノ湖に向って緩やかな傾斜にビジターセンター周辺湖尻園地散策歩道地図箱根ビジターセンターで入手したパンフレット「はこね金太郎ライン」この後このルートで帰ることに裏面には「箱根・足柄エリアのおすすめスポット情報!」南足柄市 ① 道の駅「足柄・金太郎ふるさと」 ② 夕日の滝 ③ 大雄山 最乗寺ほかに、箱根町、中井町、大井町、松田町、山北町、開成町今日の目的の一つ今までは仙石原から国道138号を箱根湯本へと下り慢性の渋滞であったが11:50箱根ビジターセンターの駐車場12:00箱根ビジターセンターから県道75号線を進み、国道138号の仙石原交差点新ルートは、この交差点を左折 — 続く ー
2021.07.04
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ここ数日の大雨での静岡、神奈川県下の被害がないことを祈ります!訪れてから既に一ケ月を過ぎておりますがブログアップします。山中城へは、一ケ月前の4月24日(土)に訪れているが、この日は天気が良かったので、その後のツツジ、スイレンを期待して8時半に自宅を出発して訪れた。5月25日(火) 8:30茅ヶ崎の道路から富士山が見えていたので山中城からの富士山を期待。山中城へは自宅から約50キロ、一時間で行けるので手頃なドライブコースである西湘バイパスを走るが、小田原ICから箱根口ICが工事中のため、小田原ICで一般道へ。国道1号の山崎交差点から箱根新道へ進む箱根新道入口箱根新道を進む、前方の橋は旧東海道石畳9:40山中城跡案内所・売店所在地:静岡県三島市山中新田410-4この日は西湘バイパスが一部工事中であったが、平日の火曜日で道路が空いており順調に約1時間で到着した。前回は駐車場に車が多かったが今日は時間が早いのか少なかった史跡 日本百名城 山中城跡前回(4月24日)訪問のブログは6月4日から「日本百名城の山中城」でアップしておりますので、今回は説明板等の詳細は省きます。前回のブログ「日本百名城の山中城」をクリック願います元西櫓下の堀城の内部に敵が進入するのを防ぐため人工的に土地を深く掘り下げたものが堀である。掘りあげた土は曲輪の中へ運び、平らにならしたり土塁に積んだりするのに用いられる。山中城では、曲輪の四周は大体堀で囲まれている。堀の深さと幅とは地形と曲輪の重要度に深く関連している。また、山中城の堀に、石垣が用いられていないということは大きな特色である。ここは堀底に近いが、400年前はローム層が露出し、もっと急斜面であった。 平成12年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会前回はツツジがチラホラ咲いていたが既に咲き終わっていた今回も西櫓と西ノ丸の間の障子掘越しに富士山が見えていたが今回はツツジは咲き終わり富士山をズームアップするが雲が麓に前回(4月24日 10:30)の写真。西櫓と西ノ丸の間の障子掘越しに見事な富士山が見えていた既に障子堀の草が伸びてきている西櫓に登り、説明板の後ろは「櫓台」富士山は頂上のみが顔を出していた西櫓の櫓台から裾野市街地を見下ろす西櫓に咲く花、タンポポ?の群生この花は?ズームアップ帯曲輪に咲くアジサイはこれから元西櫓から、東方向の二ノ丸(北条丸)間に、二ノ丸虎口の二ノ丸橋元西櫓から、西ノ丸元西櫓から西方向の、左側下に西ノ丸畝堀、右上は西ノ丸。前回はこの下のツツジが綺麗に咲いていた復旧工事中の西ノ丸畝堀。ツツジが満開時を見たいものです元西櫓の斜面にアジサイ元西櫓の斜面二ノ丸虎口と架橋二ノ丸は東西に延びる尾根を切って構築された曲輪である。尾根の頂部に当たる正面の土塁から、南北方向に傾斜しており、北側には堀が掘られ、南側は斜面となって箱井戸の谷に続いている。この斜面を削ったり盛土して、山中城最大の曲輪二ノ丸は作られたのであるが、本丸が狭いのでその機能を分担したものと思われる。二ノ丸への入口は、三ノ丸から箱井戸を越えてこちら側へ渡り、長い道を上ってこの正面の大土塁(高さ4.5m)に突き当り、右折して曲輪に入るようになっていた。また、二ノ丸と元西櫓の間の堀には、橋脚台が掘り残されており、四隅に橋脚を立てた柱穴が検出された。橋脚の幅は南北4.3m、東西1.7mで、柱の直径は20~30cmであった。復元した橋は遺構を保護するため、盛土して本来の位置より高く架けられている。 平成13年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会二ノ丸の櫓台から富士山本丸堀と櫓台本丸と二ノ丸(北条丸)との間の本丸西堀は、土橋によって南北に二分されている。北側の堀止めの斜面にはV字状の薬研堀が掘られ、その南側に箱堀が掘られていた。堀底や堀壁が二段となっていたので、修築が行われ一部薬研堀が残ったようである。なお、箱堀の堀底からは兜の「しころ」が出土した。土橋の南側は畝によって八区画に分けられ、途中屈折して箱井戸の堀へ続いている。堀底から本丸土塁までは9メートルもあり、深く急峻な堀である。堀の二ノ丸側には、幅30~60センチの犬走りが作られ、土橋もこの犬走りによって分断されていたので、当時は簡単な架橋施設で通行していたものと思われる。一般的に本丸の虎口(入口)は、このように直線的ではないが特別な施設は認められなかったので、通行の安全上架橋とした。説明板左手の、標高583メートルの地に二ノ丸櫓台(東西12メートル、南北10メートル)がありそれを復元した。 平成12年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会本丸から兵糧庫を見下ろす。建物は休憩所本丸から二ノ丸をつなぐ本丸西橋、二ノ丸櫓台本丸のフジは咲き終わり本丸のフジ棚本丸から左下に「駒形諏訪神社」本丸から南方向の御馬場曲輪を望む本丸から西方向の本丸櫓台二ノ丸から田尻の池へ下る坂道から振り返る前方に二ノ丸への入口入口から二ノ丸、本丸を見上げる二ノ丸から降り振り返る道路脇に、史跡山中城跡復旧工事の工事看板箱井戸箱井戸跡ここは古くから箱井戸と伝承されていた所で、発掘調査の結果、箱井戸と西側の田尻の池一帯は湿地帯であったことが確認された。箱井戸と田尻の池の間は、土塁によって分離され、排水溝によってつながれていた。これは湧水量が多く、一段高い箱井戸から田尻の池へ水を落とすことにより、水の腐敗や鉄分による変色を防ぐための工夫と考えられる。箱井戸の水を城兵の飲料水とし、田尻の池は、洗い場や馬の水飲み場等として利用していたのであろう。現在、箱井戸には睡蓮が植えられ、花の季節(7~8月頃)には観光客の目を楽しませている。 平成13年 3月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会写真は、スイレン10:26スイレンがあるのだが以前に比べ少なくなっているのでは、これから芽が出るのか — 続く ー
2021.07.03
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山中城跡の南側エリアをじっくり散策することに。4月24日 (土) 12:42御馬場曲輪から岱埼(だいさき)出丸へ移動前方屋根は、岱埼出丸の休憩所構築途中の曲輪跡東側(説明板の右手)は御馬場曲輪西堀の堀を掘った時に出たブロック状のロームにより小高い丘のように造られ、北側には土塁が積まれている。遺構らしいものはそれだけであるが、尾根を削り成形しながらここに曲輪を構築すべく工事を急いだ様子がうかがわれる。しかし、時間的に間に合わず、そのまま工事の途中で戦闘に突入したものであろう。ここの整備にあたっては、当時のゆるやかな西側への下り傾斜を再現し、構築途中の様子がしのばれるよう配慮した。 平成11年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会国指定史跡 山中城跡案内図現在地は黄色丸で、岱埼出丸休憩所岱埼出丸休憩所説明板は「国指定史跡山中城跡」東側の御馬場曲輪から、ゆるやかな西側への下り傾斜を再現している休憩所から西側の、岱埼出丸西側の ”すり鉢曲輪” に向かってゆるやかな下り傾斜になっている。前方右側の一段高い所が、「すり鉢曲輪見張台」すり鉢曲輪見張台出丸の先端に位置するこの見張台は土塁上の一角をやや拡げて、土塁と兼用させたものである。すり鉢曲輪南側の樹木を低くすることにより、三島・沼津方面から韮山城まで手に取るように望見できる。見張台直下北側の平坦な部分が堀の跡で未調査ではあるが、試掘の結果、非常に傾斜角が強く、この堀底から見張台までは8m以上もあり、武具をつけた敵がよじのぼることは不可能な状況を呈していた。 平成8年12月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会すり鉢曲輪見張台から北側の「一の堀」を見下ろすが急峻で怖い。障子堀には梯子同場所からカメラを上げると、まだ薄く富士山が見えていた。山中城跡から眺められるパノラマはそのスケールの大きさに定評がある。特に西櫓、西木戸、岱崎出丸からの富士山、駿河湾、田方平野、天城連山そして三島の眺望は見事であるすり鉢曲輪見張台から東側の御馬場曲輪方向岱埼出丸にはサクラの木が植えられているすり鉢曲輪すり鉢曲輪山中城出丸の最先端を防備する重要な位置にある曲輪である。そのためか、曲輪の構築方法も、本丸側の曲輪とはまったく異なり、中央部を凹(くぼ)ませて低くし中心からゆるやかな傾斜で土塁までたちあがり、中途から傾斜を強め土塁の頂部に達している。上方から見たようすが、すり鉢によくにているところから通称「すり鉢ぐるわ」とよんでいる。このくるわへの虎口(入り口)は南につくられているが、更に東側に接続して、幅8mの長方形の曲輪が、作られており、防備のための「武者だまり」と推定されている。 平成11年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会岱埼出丸「一の堀」岱埼出丸「一の堀」第九次発掘調査(昭和56年度)により検出された一の堀は、出丸全域を鉢巻のようにめぐるのではなく、先端のすり鉢曲輪から西側の中腹を箱根旧街道の空堀まで続くものである。第九次調査では、指定地内の約150mの間に、17ヶ所の畝を確認することができた。完掘された一の堀の第三区画はローム層を掘り下げて畝を残し、70度前後の傾斜角をもってたちあがっている。したがって堀底からすり鉢曲輪の土塁までは、斜距離18~20m前後の急峻な勾配がつくあわけである。 平成8年12月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会岱埼出丸「一の堀」から西側の空堀。帯曲輪の右側は箱根旧街道に向かって急斜面になっているすり鉢曲輪から岱埼出丸へ戻る。前方左側は、岱埼出丸見張台で一段高くなっている岱埼出丸見張台から東側を望む御馬場曲輪まで緩やかな上り坂になっているすり鉢曲輪を振り返る御馬場北堀御馬場の西側に構築された深い堀は、南は来光川上流に開いているが、北の部分はここの帯曲輪 で堀留めとなっている。この西堀と対をなすかのように、堀の上幅8mの北堀が発掘の結果検出された。この堀は北にのび、すり鉢曲輪から出丸の中腹をめぐる堀と直交するのではないかと推定される。北堀の復元については、未調査部分の中腹の堀が調査されてから検討することになっており、今回の整備では堀の位置だけ示すにとどめた。いずれにしろ御馬場の西堀と北堀の両者で、出丸の尾根を二分しようとする戦略上の意図が察知できる堀である。 平成9年11月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会御馬場曲輪から東側へ下りる広場にツツジが植栽されている。約2時間45分の山中城跡散策を終え、昼食をとるために売店へ向かう13:00山中城跡案内所・売店所 在 地 :静岡県三島市山中新田410-1営業時間:10:00 ~ 16:00 ※ 1 ~ 3月の平日は 10:30 ~ 15:30定 休 日 :月曜日 ※ 祝日の場合は営業、翌日休み山中城跡案内所に建つ、観光案内日本遺産「箱根八里」旅人たちの足跡残る悠久の石畳道 ー 箱根八里で辿る遥かな江戸の旅路 ー『天下の嶮』と歌に唄われた箱根山を東西に越える一筋の道、東海道箱根八里。江戸時代の大幹線であった箱根八里には、豪華な往来を支えるために当時の日本で随一の壮大な石畳が敷かれました。西国大名やオランダ商館長、朝鮮通信使や長崎奉行など、歴史に名を残す旅人たちの足跡残る街道をひととき辿れば、宿場町や茶屋、関所や並木、一里塚と、道沿いに次々と往時のままの情景が立ち現われてきて、遥か時代を超え、訪れる者を江戸の旅へと誘います。「箱根八里」について 箱根旧街道「箱根八里」は、江戸時代初めに徳川幕府が整備した東海道の一部です。標高約10mの小田原宿から標高846mの箱根峠を登り、標高約25mの三島宿まで下る8里(約32km)をいいます。この道は「天下の嶮」と歌に唄われたように、東海道第一の難所とされていました。「箱根八里」のうち、小田原宿から箱根関所を通って箱根峠までを東坂と呼び、箱根峠から三島宿までを西坂と呼んでいました。箱根山は小田原の酒匂川と並び、外様大名の大 藩のある西国から江戸を守るための最重要地でした。・・・後略・・・「日本遺産」とは日本遺産は地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産」として文化庁が認定するものです。・・・・・中略・・・・・神奈川県小田原市、箱根町、静岡県函南町、三島市を結ぶ旧東海道「箱根八里」は、江戸時代の街道旅を追体験するストーリーにより、平成30年(2018)5月に『日本遺産』に認定された。「箱根八里」には、『日本遺産』を構成する多くの文化財があり、往時の旅を彷佛とさせる城下町や宿場町、一里塚、石畳、並木、関所、茶屋のすべてが日本で唯一現存しています。箱根西麓ハイキングコース店先に日本百名城のスタンプが用意されている山中城のスタンプは既に、平成26年(2014) 1月25日(土)に捺印済である最近は新しい御朱印ならぬ「御城印」があるコロナ対策をした店内に入る。名物は、寒ざらし団子 ・上新粉を冬場の寒気にさらして作ったことからこの名がついたという素朴な昔ながらの団子。障子堀ワッフル ・山中城の堀に似た形で、山中城の障子堀とワッフルを並べてのコラボ写真が人気だと。店内に掲示されている、「日本百名城」の認定証「山中城 殿」 平成18年4月6日史蹟山中城跡 花まっぷ前回は「山菜そば」を食べたので、今回は「天ぷらそば 600円」をオーダースープの味は濃かった。珍しく麩が入っていたこの日は土曜日で多くのツーリングをする人が訪れていた。外国人も4、5人で訪れそばを食べていたが13:31台風被害の工事中で、山中城跡に一番近い駐車場スペースは半分になっている山中城跡の3時間強の散策で後にする山中城跡の北側にある「法生寺」へ立ち寄ることに笹原山中バイパスの下を潜り坂を下る。法生寺への道路脇に、大木のシャクナゲが生い茂る林間の中に植えられたシャクナゲズームアップ13:38無量宗 慧光山 法生寺(ほうしょうじ)所在地:静岡県三島市山中新田4743お寺は国道1号から下りた、山中城跡の北側の窪地に位置している本堂の扁額「法生」山の斜面に咲く、ヤマブキが境内を明るくしていたズームアップ窪地に位置しているお寺でいろんな花が咲いていた一日の日差しが少ないのでは13:43スギ林を見上げる13:52箱根新道へ入る箱根新道を下り、西湘バイパスへ14:09帰路も有料道路を走るこのあと西湘バイパスを走り自宅へは15時前に帰宅。今日一日の走行距離は105kmでした。歩行数は山中城跡を歩きまわったが 7,800歩。しかし、アップダウンが多く厳しかった。 END
2021.06.10
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山中城の東側から国道1号(旧東海道)を下り、山中城跡案内所・売店へ。4月24日 (土) 12:08山中城近くの国道1号沿いの木材店に、切断された2本の巨木があった。かってに、「駒形諏訪神社の大カシ」ではないかと想像したが。平成30年9月の台風20号から日が経っているので別のものであろうか処置に困っているのか、用途が見つからないのかと中は空洞になっていた国道1号沿いに建つ石柱「史蹟 山中城趾記念之碑」石柱裏面には、昭和5年3月29日 東京 伊豆守直末後裔 一柳貞吉譔竝建側面には、「山中城址記」山中城係北條氏康創築葢為西方防禦也天正十七年氏政修築之與韮山城兵為小田原城前衛東西約三町北方之森為本丸西方之小丘為二之丸現宗閑寺境内及附近為三之丸城主松田直長與援将北條氏勝以四千餘人守之又南方隔四丁構岱崎出丸間宮康俊以手兵百餘人守之翌年即距今三百四十年三月二十九日豊臣秀吉攻之右翼堀秀政等将二萬人中軍豊臣秀以二萬人左翼徳川家康三萬人而一柳伊豆守直末為中軍先鋒肉薄不避矢砲不孝中流丸而斃弟監物直盛代之奮戦遂略取之城主及武将等悉自刃遁去城址所在属静岡県田方郡錦田村山中新田為史蹟保存建此碑以傳於後世云爾国道1号から参道を入ると、宗閑寺(そうかんじ)所在地:静岡県三島市山中新田94-1宗閑寺は山中城三ノ丸跡にあり、慶長10年(1605)に建立された。開基となったのは、家康の待女・お久の方。北条軍の副将で敵将・一柳直末を討ち取り、73歳で戦死した間宮康俊の娘である。開基のお久の方は、徳川家康に仕え四女松姫をもうけている宗閑寺本堂境内には落ち葉も多く少々荒れ気味である本堂の扁額は「宗閑寺」宗閑寺と武将の墓東月山普光院宗閑寺(浄土宗)は静岡市の華陽院の末寺。開山は了的上人、開基は間宮豊前守の女お久の方と伝えられている。ここには山中城落城の際、北条軍、豊臣軍の武将たちの石碑がひっそりと佇んでいる。豊前守康俊(普光院殿武月宗閑潔公大居士)兄弟とその一族、城主松田右兵衛太夫(山中院松屋玄竹大居士)、群馬県の箕輪城主多米出羽守平長定らの墓と共に、豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末(大通院殿天叟長運大禅定門)の墓碑がうらみを忘れたように並んでいる。 平成9年11月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会本堂の左側に苔むした墓群。また、隠れ切支丹の墓かどうか、十字花形文様が浮き彫りされている墓もある武将の墓左側に北条軍の墓碑、豊前守康俊兄弟とその一族、城主松田右兵衛太夫、箕輪城主多米出羽守平長定らの墓碑。右側に豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末の墓碑右側の墓碑は豊臣軍、豊臣軍の先鋒 一柳伊豆守直末の墓碑、「大通院殿前豆州太守天叟長運大禅定門」左側の墓碑は北条軍、一番右側が山中城の城主であった松田康長(山中院松屋玄竹大居士)のお墓で、その隣にある3基の五輪塔は、副将の間宮康俊とその弟。多米長定の3名のお墓です。墓前には、ビール、ワンカップが供えられていた。因みにこの間宮一族の子孫のひとりが、のちに間宮林蔵として名を残す本堂左奥にある墓群は?昭和に入り、関東大震災で荒れ果てていた宗閑寺を一柳直末の子孫により再興したと忠魂碑故陸軍兵長 と刻まれている12:20国道1号のキロポスト「日本橋から108km」、三島市山中新田国道1号からそれ旧東海道沿いの右上に「芝切地蔵」所在地:静岡県三島市山中新田110階段を上り境内へ本堂の扁額「芝切地蔵尊」芝切地蔵(しばきりじぞう)その昔、山中新田の旅籠に巡礼姿の旅人が泊った折、急に腹痛におそわれ世を去った。この旅人が死ぬ間際に、「私を地蔵尊として祭って下さい。そして芝塚を積んで、私の故郷の常陸が見えるようにして下さい。そうすれば村人の健康を守ってあげます」と言い残したという。村人は旅人の言ったとおり地蔵尊を祭り、毎年7月19日を縁日として供養するようになった。それにあわせて「小麦まんじゅう」をつくり、参拝に来た親戚の者を接待したが、その味が大そうよかったので有名になり、一般の参拝者に売られるようになった。この祭りには江戸時代、沼津方面からも大勢の参拝人が集まり、さい銭とよく売れた「小麦まんじゅう」の利益とで、一年間の山中部落の費用がまかなえたといわれている。 平成7年12月 三島市教育委員会本堂左側の境内に「芝塚」と墓碑が並ぶ一角にユニークな「虫歯地蔵」もズームアップ古い墓石が立つ安永元壬辰十一(1772)享保十九甲寅七月十日(1734)芝塚は旅人の故郷の常陸を向いているのか矢印でもあればと思うが12:25国道1号沿いの、駐車場、山中城跡案内所・売店へ。駐車場は満車状態お知らせ御来場の皆様10月20日 ~ 史跡 山中城跡 は、令和1年度台風19号による被災箇所の復旧工事を行います。当駐車場を使用しての作業となります。御来場の皆様には御迷惑をお掛けしますが、御理解、御協力をお願い致します。駐車場のご案内山中城跡地の復旧工事の為、混雑時は別の駐車場に駐車して頂きますようお願い致します。この日は、土曜日で多くの観光客が訪れていて駐車場は満車状態であった12:28山中城跡案内所・売店12時を過ぎていたが、先に岱崎出丸へ行くことにする旧東海道の石畳を渡り南側の山中城跡へ箱根旧街道 腰巻(こしまき)地区の石畳国指定史跡 山中城跡案内図山中城跡の南側エリアの散策に御馬場曲輪 → 岱埼(だいさき)出丸 → すり鉢曲輪 を散策広場の先に、御馬場曲輪谷を越えた南の山間に、函南ゴルフ俱楽部のクラブハウス直進は、「すり鉢曲輪跡」、右は「御馬場跡」2本のフジ棚西ノ丸、本丸のフジ棚に比べてこの場所は標高が低いので開花が進んでいるズームアップ方向を変えて御馬場曲輪から東側の、山中城跡案内所・売店方向12:41出丸御馬場堀出丸御馬場堀堀内に畝が検出されたことから、西櫓堀・西の丸堀と同様畝堀であったと考えられる。畝の高さは、堀底から約2m、頂部の幅0.6m、馬の背のように丸みを帯び、堀をさえぎるように堀の方向に直角に造り出し、ローム層を台形に掘り残して造られたものである。畝の傾斜度は50度~60度のの急峻で、平均した堀底の幅は約2m、堀底から曲輪までの高さは、平均9mにも及ぶ。 平成9年11月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会 ー 続く —
2021.06.09
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本丸から、北ノ丸、駒形諏訪神社へと回る。4月24日 11:38北ノ丸西側の、北の丸堀自然の地形を活用した要害で急峻である北の丸堀山城の生命は堀と土塁にあるといわれる。堀の深さが深く、幅が広いほど曲輪につくられる土塁が高く堅固なものとなる。北の丸を囲むこの堀は豪快である。400年の歳月は堀底を2m以上埋めているので、築城時は現況より更に要害を誇っていたに違いない。城の内部に敵が進攻することを防ぐため、この外堀は山中城全域を囲むように掘られ、水のない空堀となっている。石垣を用いるようになると、堀の両岸はより急峻になるが、石を用いずこれだけの急な堀を構築した技術はみごとである。 平成9年11月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会北ノ丸の北側の土塁上から北の丸堀を見下ろすがこちらも急峻である本丸北橋を望む北ノ丸跡標高583m、天守櫓に次ぐ本城第二の高地に位置し、面積も1,920㎡とりっぱな曲輪である。一般に曲輪の重要度は、他の曲輪よりも天守櫓により近く、より高い位置、つまり天守櫓との距離と高さに比例するといわれている。この点からも北の丸の重要さがしのばれる。調査の結果、この曲輪は堀を掘った土を尾根の上に盛土して平坦面を作り、本丸側を除く、三方を土塁で囲んでいたことが判明した。また、本丸との間には木製の橋を架けて往来していたことが明らかになったので、木製の橋を復元整備した。 平成13年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会北ノ丸の東側から西方向をのぞむ北ノ丸の東側から、左下は国道1号国指定史跡山中城跡山中城は、文献によると、小田原に本城のあった北条氏が、永禄年間(1558~1570)に築城したと伝えられる中世最末期の山城である。箱根山西麓の標高580mに位置する、自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって、西方防備の拠点として極めて重要視されていたが、戦国時代末期の天正18年(1590)3月、全国統一を目指す豊臣秀吉の圧倒的大軍の前に一日で落城したと伝えられている。三島市は山中城跡の史跡公園化を目指し、昭和48年から発掘調査を行い、その学術的成果に基づく環境整備を実施した。その結果、本丸や岱埼出丸をはじめとした各曲輪の様子や架橋、箱井戸、田尻の池の配置など、山城の全容がほぼ明らかになった。特に障子堀や畝堀の発見は、水のない空堀の底に畝を残し、敵兵の行動を阻害するという、北条流築城術の特徴の一端を示すものとして注目されている。出土遺物には槍・短刀をはじめとする武器や鉄砲玉、柱や梁等の建築用材、日常生活用具等がある。なお、三の丸跡の宗閑寺には、岱埼出丸で戦死した、北条軍の松田康長をはじめ、副将の間宮康俊、豊臣軍の一柳直末など両軍の武将が眠っている。 平成8年12月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会北ノ丸から本丸を通り「兵糧庫跡」へ下りる。兵糧庫跡(ひょうろうこあと)写真は説明板から引用兵糧庫跡(ひょうろうこあと)ここは古くから兵糧庫とか、弾薬庫と伝承されていた場所である。中央を走る幅50cm、深さ20cmの溝は排水溝のような施設であったと考えられ、この溝が兵糧庫を東西二つの区画にわけていた。西側の区画からは南面する三間(6.7m)、四間(8.7m)の建物の柱穴が確認された。このことから周辺より出土している平たい石を礎石として用い、その上に建物があったものと考えられる。東側の区画からは、不整形な穴が数穴検出され、本丸よりの穴からは、硯・坏・甲冑片・陶器などが出土している。 平成13年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会兵糧庫跡脇で、ツツジが咲く兵糧庫跡の柱穴と大きな穴発掘調査の結果、この西側の区画から約20個の小穴がほぼ東西南北に並んで検出された。これらの穴(ピット)のほとんどは、直径50cm、深さ20cm程度で、それぞれ2m~2.2m間隔の列をなしていた。周辺より出土した、平たい石を礎石と考えると、これらの穴は建物の柱穴跡と考えられる。また西北隅、土塁寄りに直径1.5m、深さ2.5mの大きな穴が四基並列して検出された。これらの大穴は建物の柱穴とはまったく性格のちがうもので、壁面は垂直に整形されており、底面は平らで特に加工はほどこされていなかった。なお、その用途については不明である。 平成13年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会兵糧庫跡は発掘調査後整地されている兵糧庫跡から左上に本丸。右の建物は休憩所、奥に駒形諏訪神社がある平成30年(2018) 12月18日(火)に旧東海道を歩いて訪れた時の写真(2枚)。この年の 9月9日未明に神社は倒壊、大カシは根元付近で幹が真っ二つに折れ、倒壊してしまった。静岡新聞の記事によれば、台風21号の影響と思われるとのこと県指定天然記念物であったが、台風21号の影響で倒壊、無残にも根元から切断されたその後、駒形諏訪神社は修復されていた駒形諏訪神社の後方は本丸駒形諏訪神社社殿の扁額は「諏訪神社」「駒形神社」の2枚諏訪・駒形神社鎮座地 三島市山中新田40番地の1御祭神 建御名方命 日本武命例祭日 十月十八日 — 由 緒 ー史蹟山中城の本丸に守護神として祀られた。建御名方命は、大国主命の御子神で、父神の国譲りに抗議して、追われて信濃の諏訪に着き、これより出ずと御柱を立つ。後、転じて日本第一武神と仰がれる。日本武命は景行天皇の命を奉じ、九州熊襲や、東国を征した。弟橘姫の荒海鎮静の入海は此の時である。山中城の落城(1590)後、人々移住し箱根山の往還の宿場として栄えた諏訪駒形神社の前の石柱には「天然記念物 駒形諏訪神社の大カシ」駒形諏訪神社の大カシ (県指定天然記念物)ここ駒形諏訪神社は、山中城跡本丸曲輪内にある。大カシ(アカガシ)は樹齢約500~600年と推定され、本丸への入口部分にそびえており、約400年前、天正18年(1590)の山中城合戦時には、既に生育していたものと考えられる。根廻り9.6m、高さ25m、幹は地上4mのところで七本の主枝に分かれている。空洞や損傷もなく樹勢は良好であり、県内1、2の大木である。 平成8年12月 三島市教育委員会説明板に貼られていたシール、県指定天然記念物に指定されていた「大かし」は、平成30年(2018) 9月の台風20号の大風等の影響により根元近くから倒れてしまいました。よって、県指定天然記念物の指定が解除となりましたかつての「駒形諏訪神社の大カシ」この写真は、平成26年(2014) 1月25日(土)に日本百名城で訪れた時のものである駒形諏訪神社の右側にある「八坂神社」説明板がなく不詳11:54山中城跡から国道1号に降り立つ鳥居の扁額「諏訪駒形神社」史跡 山中城跡(国指定史跡)山中城は、文献によると、小田原に本城のあった北条氏が、永禄年間(1558~1570)に築城したと伝えられる中世最末期の山城である。箱根山西麓の標高580mに位置する、自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって、西方防備の拠点として極めて重要視されていたが、戦国時代末期の天正18年(1590)3月、全国統一を目指す豊臣秀吉の圧倒的大軍の前に一日で落城したと伝えられている。三島市は山中城跡の史跡公園化を目指し、昭和48年から発掘調査を行い、その学術的成果に基づく環境整備を実施した。その結果、本丸や岱埼出丸をはじめとした各曲輪の様子や架橋、箱井戸、田尻の池の配置など、山城の全容がほぼ明らかになった。特に障子堀や畝堀の発見は、水のない空堀の底に畝を残し、敵兵の行動を阻害するという、北条流築城術の特徴の一端を示すものとして注目されている。出土遺物には槍・短刀をはじめとする武器や鉄砲玉、柱や梁等の建築用材、日常生活用具等がある。なお、三の丸跡の宗閑寺には、岱埼出丸で戦死した、北条軍の松田康長をはじめ、副将の間宮康俊、豊臣軍の一柳直末など両軍の武将が眠っている。 平成8年2月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会北ノ丸にあった「国指定史跡山中城跡」と説明文は同じであったが、年度が「平成8年12月」国道1号の歩道橋左側は諏訪駒形神社入口、右側下が旧東海道の石畳で、このあと入る。奥の道路表示板は、左方向が笹原山中バイパスで、右折すると箱根峠へと国道1号沿いの案内表示国道1号から旧東海道の石畳を見下ろす、左側に「雲助徳利の墓」国道1号脇の道路標識石柱「史跡 箱根旧街道」、二つの石碑が建つ旧東海道に建つ、懐かしい静岡県内の標示杭← 三島宿 宿場まで二里一町 11:57ここは、旧東海道を歩いた時の平成30年(2018) 12月18日(火)に訪れた場所である。国道1号から旧東海道に入り振り返る雲助徳利(くもすけどっくり)の墓徳利と盃を浮き彫りにしている風変わりな墓は、西国大名の剣道指南役・松谷久四郎のもの。大酒飲みの武士だったが酒で失敗し、藩外追放の結果、箱根で雲助となった。元来、教養があり剣の腕が立つことから多くの雲助に慕われたので仲間が建てた雲助徳利の墓この墓は昔から「雲助の墓」と言われています。墓石には盃と徳利が浮き出しており、その下に「久四郎」という名前が彫られています。彼は松谷久四郎と名乗り、一説には西国大名の剣道指南役でしたが、大酒飲みのために事件を起こして、国外追放となり、箱根で雲助の仲間に入りました。優れた剣術の腕前があったので、雲助をいじめる武士をこらしめたり、読み書きができるので、文字が読めない雲助たちの手紙を読んだり書いたり、相談に乗ったりしているうちに、やがて雲助仲間から親分以上に慕われるようになりました。しかし、普段はお酒を飲んでごろごろしていたので命を縮めることになってしまったのです。彼を慕い彼に助けられた雲助仲間は、ある日相談して金を出し合い、生前お世話になったお礼に立派なお墓をたてて恩返しをすることにしました。そして、その墓には彼が一生飲み続けた酒を、盃と徳利で刻むことにしました。これが彼に対する最大の供養と考えたのです。「箱根の雲助」は、悪者の代表のように言われています。しかし、もし雲助がいなかったら、箱根の坂をのぼれない弱い女性や病人はどうしたのでしょう。このほほえましい徳利の墓を見ていると、雲助たちの温かい人情が伝わってくるような気がします。なお、この墓の最初の位置は、山中の一里塚のあたりでしたが、いつの日かこの地に移ってきました。酒飲みの墓ですので、ふらふらして一箇所に落ち着かないようです。 平成10年12月 三島市箱根旧街道 願合寺地区の石畳復元・整備箱根旧街道は、慶長9年(1604)江戸幕府が整備した五街道の中で、江戸と京都を結ぶ一番の主要街道である東海道のうち小田原宿と三島宿を結ぶ、標高845mの箱根峠を越える箱根八里(約32km)の区間である。この旧街道には、通行の人馬を保護する松や杉の並木が作られ、道のりを正確にするための一里塚が築かれた。またローム層の土で大変滑りやすい道なので、やがてその道に竹が敷かれたが、延宝8年(1680)頃には石畳の道に改修された。三島市は貴重な文化遺産である石畳の活用を図るため、この「願合寺地区」721mのうち、昭和47年に修復整備をした255mの中間部を除く約466mの区間を、可能な限り江戸時代の景観を保って、平成7年度(1995)に復元・整備した。調査の結果を基に、管理のための下部基礎を設け、下図のように、石畳がよく残っていた所約188mの間は、江戸時代の石を元の位置に戻して復元し、石畳の少なかった所や全くなかった所約278mの間は、江戸時代の石に加え、神奈川県根府川町で採石した安山岩を補填した。 平成8年2月 三島市教育委員会箱根旧街道の石畳発掘調査の結果、石畳幅2間(約3.6m)を基本とし、道の両側の縁石は比較的大きめの石がほぼ直線的に並ぶように配置され、基礎は作らずローム層の土の上に敷き並べたものであることが確認された。また、寛政年間(1789~1801)に描かれた「五街道分間延絵図」に記載がある「石橋」が二か所発見された。また発見された「石橋」のうち、「一本杉石橋」と称される一か所は保存状態がよいのでそのまま残した12:03無量宗 慧光山 法生寺(ほうしょうじ)山中城跡の北側にあるお寺で、帰路に立ち寄ることに笹原山中バイパスの山中城1号トンネルバイパスは山中城跡の北側を走るこの辺りの「箱根西麓ハイキングコース」案内板国道1号から北ノ丸の東側を見上げる12:06笹原山中バイパスから国道1号を下り歩道橋。バイパスができるまでは交通量が多くこの歩道橋も必要であったが現在は不要なものに — 続く ー
2021.06.08
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山中城の散策を続け、二ノ丸、本丸へ。4月24日(土) 11:15二ノ丸と元西櫓の間の深い堀、富士山が見える障子堀を整備している、溜池跡がある富士山がまだどうにか顔を出していたズームアップ二ノ丸は東西に延びる尾根を切って構築された曲輪である。尾根の頂部に当たる正面の土塁から、南北方向に傾斜しており、北側には堀が掘られ、南側は斜面となって箱井戸の谷に続いている。この斜面を削ったり盛土して、山中城最大の曲輪二ノ丸は作られた二ノ丸から南側は斜面となって箱井戸の谷となっている二ノ丸に生えるスミレこの花は?タンポポもスミレと競演これから開花のツツジ本丸堀と櫓台本丸と二ノ丸(北条丸)との間の本丸西堀は、土橋によって南北に二分されている。北側の堀止めの斜面にはV字状の薬研堀が掘られ、その南側に箱堀が掘られていた。堀底や堀壁が二段となっていたので、修築が行われ一部薬研堀が残ったようである。なお、箱堀の堀底からは兜の「しころ」が出土した。土橋の南側は畝によって八区画に分けられ、途中屈折して箱井戸の堀へ続いている。堀底から本丸土塁までは9メートルもあり、深く急峻な堀である。堀の二ノ丸側には、幅30~60センチの犬走りが作られ、土橋もこの犬走りによって分断されていたので、当時は簡単な架橋施設で通行していたものと思われる。一般的に本丸の虎口(入口)は、このように直線的ではないが特別な施設は認められなかったので、通行の安全上架橋とした。説明板左手の、標高583メートルの地に二ノ丸櫓台(東西12メートル、南北10メートル)がありそれを復元した。 平成12年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会二ノ丸櫓台からの本丸北側の空堀二ノ丸櫓台から二ノ丸二ノ丸の南にある箱井戸の谷に咲く八重桜ズームアップ二ノ丸は南方向に傾斜している二ノ丸櫓台から本丸西橋を見下ろす。二ノ丸(右側)から本丸の間の堀に架かる橋で、左側半分は土橋。いざというときは右半分の木橋を堀に落とし、本丸への侵入を防ぐことができます本丸西橋を渡り本丸へ入る。国指定史跡 山中城跡案内図この後は、本丸 → 北ノ丸へと本丸から弾薬庫・兵糧庫を見下ろす。左下に「駒形諏訪神社」本丸跡にもフジ棚西ノ丸のフジと同じようにこれからの開花房が延びこれからの開花西ノ丸と同様に3本のフジ本丸跡標高578m、面積1,740㎡、天守櫓と共に山中城の中心となる曲輪である。周囲は本丸にふさわしい堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南は兵糧庫と接している。この曲輪は盛土によって兵糧庫側から2m前後の段をつくり、二段の平坦面で築かれている。虎口(入口)は南側にあり、北は天守閣と北の丸へ、西は北条丸に続く。江戸時代の絵図に描かれた本丸広間は上段の平坦面、北条丸寄りに建てられており、現在の藤棚の位置である。 平成9年11月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会スマホの標高は、581m天守櫓跡からの本丸の西方向本丸の北側に土塁本丸北側の土塁と本丸堀天守櫓跡(てんしゅやぐらあと)標高586m、天守櫓の名にふさわしく、山中城第一の高地に位置している。天守は独自の基壇の上に建てられており、この基壇を天守台という。基壇は一辺7.5mのほぼ方形となり、盛土によって50~70cmの高さに構築され、その四周には、幅の狭い帯曲輪のような通路が一段低く設けられている。天守台には、井楼、高櫓が建てられていたものと推定されるが、櫓の柱穴は植樹により攪乱されていたため、発掘調査では確認できなかった。本丸から櫓台への昇降路は基壇より南へ延びる土塁上に、1m位の幅で作られていたものと推定される。 平成13年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会本丸の東側に聳える「矢立の杉」”矢立の杉” の周りには石柱で立入禁止矢立の杉 (市指定天然記念物)山中城跡本丸の天主櫓に接して植生しており、樹高31.5m、周囲の樹木より一段と高く山中城跡のシンボル的存在である。推定樹齢は500年前後といわれ、植生地はスギの生育の適地であるため樹勢も良好で、目通り4.37m、枝張りは西側へ15m、北東側へ8mも展開し、各枝の葉色もよい。「矢立の杉」の呼称の由来については、出陣の際に杉に矢を射立て、勝敗を占ったためと、『豆州志稿』の中の記述にある。 平成8年12月 三島市教育委員会北ノ丸への本丸北橋架橋(かけはし)発掘調査の結果、本丸と北ノ丸を結ぶ架橋の存在が明らかになり、その成果を元に日本大学の故・宮脇泰一教授が復元したのがこの木製の橋である。山中城の堀には、土橋が多く構築され、現在も残っているが、重要な曲輪には木製の橋も架けられていた。木製の橋は土橋と較べて簡単に破壊できるので、戦いの状況によって破壊して、敵兵が堀を渡れなくすることも可能であり、曲輪の防御には有利である。 平成13年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会ミツバツツジが咲く我が家の庭では既に咲き終わっているが本丸北橋を渡り、北ノ丸北ノ丸西側の空堀北ノ丸から西方向への帯曲輪左側は本丸堀本丸堀山中城の堀の特色のひとつに、畝堀があげられる。この堀の中にわずかに見えるのが畝の頂部である。畝と畝の間隔は一定ではないが、ここでは西下りの地形にあわせて、畝の上部も階段状に西へ下がっている。城の防備上からは、堀の中の水が深く、堀も深いのが堀としては最もよいが、高地では普通空堀である。ここの本丸堀は畝をつくることにより、川水池をも兼ねることができるわけである。 平成9年11月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会本丸堀の中にはスギの木が整然と林立11:37帯曲輪から北ノ丸を振り返る — 続く ー
2021.06.07
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日本百名城の山中城の散策を続ける。4月24日(土) 10:50北側の帯曲輪にある休憩所から、西側にある、西櫓、右側の一段高い櫓台。手前は、障子掘の西ノ丸堀休憩所から北側の山林へ、下は笹原山中バイパス(国道1号)山中城址の北側は急斜面で自然の防御振り返る道案内標示障子堀跡、本丸跡、元西櫓跡溜 池(ためいけ)ここは溜池(貯水池)の跡である。山田川の支流の谷がここまで延びてきていたものを、盛土によって仕切り、人工土手を作って深い堀としたものである溜 池(ためいけ)ここは溜池(貯水池)の跡である。山田川の支流の谷がここまで延びてきていたものを、盛土によって仕切り、人工土手を作って深い堀としたものである。この溜池へ本丸・北ノ丸等の堀水が集まり、また広大な西ノ丸の自然傾斜による排水も、元西櫓の排水も流入するしくみである。深さ4メートル以上発掘したが、池底には達しなかった。山城の生命は、水の確保にあるといわれるが、貯水への異常な努力をうかがうことができる。 平成12年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会溜池跡の奥に空堀西ノ丸へ上がる西の丸西の丸は3,400㎡の広大な面積をもつ曲輪で、山中城の西方防備の拠点である。西端の高い見張台はすべて盛土をつみあげたもので、ここを中心に曲輪の三方をコの字型に土塁を築き、内部は尾根の稜線を削平し見張台に近いところから南側は盛土して平坦にならしている。曲輪は全体に東へ傾斜して、東側にある溜池には連絡用通路を排水口として、雨水等が集められるしくみである。自然の地形と人知とを一体化した築城術に、北条流の一端を見ることができる。 平成9年11月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会西ノ丸の土塁土塁の前に説明板が立つ土塁(どるい)山中城のどの曲輪も土塁で囲まれている。石垣を使う以前の戦国時代の城は全て堀と土塁が築城のポイントであり、城内の何を隠すか(人・馬・槍等)によって土塁の構築が考えられた。土塁の傾斜は堀に対して急で、内部には緩やかである。このように自然の谷が眼下に迫っている所は、土塁も重厚なものでなく土留程度のものである。 平成8年12月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会西ノ丸広場のフジ棚3本植えられているフジの木は古木で、紫と白色の二色標高が580メートルのため開花が遅いようだ咲き始めた紫色のフジ白色のフジミックスで咲く山中城の建物西の丸を全面発掘したが、建物の遺構は確認されなかった。この地の開墾耕作で攪乱された可能性が強く、もしあったとしても臨時の小屋程度のものであろう。西櫓跡からは3m×2.6mの柱穴跡が、元西櫓跡からは5.4m×7m位の建物の柱穴跡が検出され、また平らな石等も確認されているので、堀立柱の茅葺きの物置程度の建物はあったであろう。日常生活用具である炊事道具や椀類が出土しないので、寝小屋(根小屋)は他の曲輪にあったと考えられる。 平成8年12月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会ドウダンツツジも咲く西ノ丸から東方向の二ノ丸を望む。曲輪は全体に東へ傾斜しており、東側にある溜池へ雨水等が集められるしくみになっている西の丸の西側にある見張台へ上る。北方向に富士山が見える西の丸見張台西の丸見張台は下から盛土によって構築されたものである。発掘の結果、基底部と肩部にあたる部分を堅固にするために、ロームブロックと黒色土を交互に積んで補強していることが判明した。標高は約580mで、本丸の矢立の杉をはじめ、諸曲輪が眼下に入り、連絡・通報上の重要な拠点であったことが推定できる。 平成8年12月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会西の丸見張台から北側の帯曲輪と、右側に休憩所手前の木はサクラ西の丸見張台から西側の「西櫓」右側に一段高い「櫓台」。現在はこの間は障子堀で分断されており、北側あるいは南側の帯曲輪が連絡道となっている西の丸見張台からの東側の「西ノ丸広場」と「二ノ丸」タンポポも終わり西ノ丸から二ノ丸へ移動二ノ丸の南斜面に咲くツツジ山中城址ではここのツツジが最高か?← 西の丸跡 元西櫓跡 →西ノ丸跡から一旦溜池跡へ降り、元西櫓跡へ向かう元西櫓から、正面に西ノ丸への階段。左側は、修復中の「西ノ丸畝堀」元西櫓(もとにしやぐら)この曲輪は西ノ丸と二ノ丸の間に位置し、周囲を深い空堀で囲まれた、640平方メートルの小曲輪である。当初名称が伝わらないため無名曲輪と呼称したが、調査結果から元西櫓と命名した。曲輪内は堀を掘った土を1メートル余りの厚さに盛土し、平らに整地されている。この盛土の下部にはロームブロックが積まれていたが、これは曲輪内に溜まった雨水を排水したり、霜による地下水の上昇を押さえ、表面を常に乾いた状態に保つための施設と考えられる。しかもロームブロック層は溜池に向かって傾斜しており、集水路ともなっている。 平成12年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会左側に西ノ丸畝堀、右は元西櫓、西ノ丸ズームアップ二ノ丸虎口の二ノ丸橋二ノ丸橋から北方向、前方左に溜池がある架橋を渡り元西櫓を振り返る二ノ丸虎口と架橋二ノ丸は東西に延びる尾根を切って構築された曲輪である。尾根の頂部に当たる正面の土塁から、南北方向に傾斜しており、北側には堀が掘られ、南側は斜面となって箱井戸の谷に続いている。この斜面を削ったり盛土して、山中城最大の曲輪二ノ丸は作られたのであるが、本丸が狭いのでその機能を分担したものと思われる。二ノ丸への入口は、三ノ丸から箱井戸を越えてこちら側へ渡り、長い道を上ってこの正面の大土塁(高さ4.5m)に突き当り、右折して曲輪に入るようになっていた。また、二ノ丸と元西櫓の間の堀には、橋脚台が掘り残されており、四隅に橋脚を立てた柱穴が検出された。橋脚の幅は南北4.3m、東西1.7mで、柱の直径は20~30cmであった。復元した橋は遺構を保護するため、盛土して本来の位置より高く架けられている。 平成13年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会11:14二ノ丸から元西櫓を見下ろす。周囲を深い空堀で囲まれた、640平方メートルの小曲輪である — 続く —
2021.06.06
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時間をかけ、山中城のツツジを楽しむ。4月24日(土) 10:30西櫓と西ノ丸の間の障子掘越しに見事な富士山が見えていた。始めて見る光景であるツツジとのコラボも見事に山中城にはもう何度も来ているがタイミングが良かった西櫓南面のツツジ西櫓南面の畝、奥は西木戸口西木戸口にあるトイレ西櫓から西ノ丸の西斜面、下は障子掘。中央の区画には水が湧き出しており、溜まった水は南北の堀へ排出される仕組みになっている西櫓から西ノ丸畝堀を見下ろす二ノ丸、本丸方向の東方向をズームアップ障子掘(しょうじぼり)後北条氏の城には、堀の中を区画するように畝を掘り残す、いわゆる「障子堀」という独特の堀が掘られている。西ノ丸と西櫓の間の堀は、中央に太く長い畝を置き、そこから交互に両側の曲輪にむかって畝を出し、障子の桟のように区画されている。また、中央の区画には水が湧き出しており、溜まった水は南北の堀へ排出される仕組みになっている。このように水堀と用水池を兼ねた堀が山城に作られることは非常に珍しく、後北条氏の城の中でも特異な構造である。 平成12年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会西櫓の一段高い櫓台からの富士山櫓台から富士山をズームアップ後北条氏の角馬出戦国時代の城で、二つの虎口(出入り口)と一つの広場が組み合わされたものを特に「馬出」と呼んでいる。馬出は、戦国時代の永禄年間に完成したと考えられているが、甲斐武田氏の城では、馬出の土塁と堀を丸く造ったので「丸馬出」と呼ばれ、堀が円弧を描くので通称「三日月堀」である。これに対して、後北条氏の馬出は、その形から「角馬出」と呼ばれている。西ノ丸から障子堀をこえて、前方に突き出たこの西櫓(広場)を四角(長方形)に造り、それに沿って土塁と堀を巡らしている。防御する時は、西ノ丸の虎口を中心に、攻撃に出る時には堀の外側の広場(西櫓)を起点として、堀の南端の土橋と北端の木橋を用いる。この馬出の築造により、攻める機能と守る機能が明らかに区分された。 平成16年3月 三島市教育委員会写真は、西櫓・西ノ丸鳥瞰図西櫓・西ノ丸鳥瞰図西櫓の堀立柱建物跡(長方形部分)堀立柱建物跡発掘調査の結果、南西の区画から堀立柱建物跡のものと思われる柱穴が二十本検出した。弓矢や鉄炮等を立て掛ける施設と思われるが、検出した柱穴は、柱間及び方向が不揃いで、どの柱穴がこの建物に伴うものか確定できないため、床面と思われる範囲についてのみ平面表示した。 平成27年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会西櫓の西側の障子掘と北側の帯曲輪サクラの時期も最高であろう西櫓の南側の障子掘、帯曲輪を振り返る左手前から、西櫓、西ノ丸西櫓堀(西櫓の西側の障子掘)と北側の帯曲輪西櫓堀(にしやぐらぼり)堀内には、ほぼ9メートル間隔に八本の畝が、堀の方向に対して直角に作られている。畝はローム層を台形に掘り残して作ったもので、高さは堀底から約2メートル、頂部の幅は約0.6メートルで丸みを帯びている。畝の傾斜度は50度から60度と非常に急峻である。平均した堀底の幅は2.4メートル、長さは中央で9.4メートル、堀底から西櫓までの高さは9メートルもある。現在は植栽されているが、400年前はすべりやすいローム層が露出し樹木は全くなかったので、もし人間が堀に落ちれば、脱出することは不可能だったと推定できる。 平成12年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会西櫓の西側をズームアップ西木戸に建つ、国指定史跡「山中城跡案内図」現在地は赤丸の「西木戸」国指定史跡山中城跡 (昭和9年1月22日指定)史跡山中城は、小田原に本城をおいた北条氏が、永禄年間(1560年代) 小田原防備のために創築したものである。やがて天正17年(1589)豊臣秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ西の丸や出丸等の増築が始まり、翌年3月、豊臣軍に包囲され、約17倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。この時の北条方の守将松田康長・副将間宮康俊の墓は今も三の丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。三島市では、史跡山中城の公園化を企画し、昭和48年度よりすべての曲輪の全面発掘にふみきり、その学術資料に基づいて、環境整備に着手した。その結果、戦国末期の北条流の築城法が次第に解明され、山城の規模・構造が明らかになった。特に堀や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を巧みにとり入れた縄張りの妙味と、空堀・水堀・用水池・井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最後の姿をとどめている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。 平成12年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会写真は、障子掘、畝堀西木戸から東方面箱根の山が後方に見える西木戸に建つ「史跡 山中城阯」の石柱右側は、西櫓、左側は北側の帯曲輪で桜並木西木戸口から富士山の裾野手前の建物は「三島市立 箱根の里」所在地: 静岡県三島市字北原菅4710番地の1箱根少年自然の家は、昭和62年4月18日に開所し、前年度開設の箱根キャンプ場とあわせて「三島市立箱根の里」として運営を開始しました。自然と触れ合う機会の少ない子供たちに自然の中で集団宿泊生活を基調とした諸活動を体験させ、社会性豊かな心身ともに、たくましい人間の育成をめざす社会教育施設です北側の帯曲輪からの西櫓堀、右側は西木戸口に建つ石柱西櫓斜面のツツジズームアップ北側の帯曲輪に「三島市眺望地点 山中城跡」平成14年12月16日指定左から、駿河湾、三島市街地、愛鷹連山、富士山、手前に三島市立 箱根の里山中城跡の北側下を走る、笹原山中バイパス(国道1号)北側の帯曲輪から西ノ丸を見上げる西ノ丸と西櫓の間の障子掘綺麗に整備されている。この間に架橋があったと西櫓の架橋西櫓の曲輪を囲む約82メートルの西櫓堀は、ほぼ9メートル間隔に作られた八本の畝によって、九区画に区切られている。第九区画に隣接する一段高い平坦面から四本の柱穴が検出され、この場所に西櫓へ渡る橋が架けられていた事が推定された。日本大学宮脇研究室では、右図のような橋の復元図を示されている。 平成12年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会絵は、架橋復元図10:48西ノ丸の北側の帯曲輪から西ノ丸堀(にしのまるほり)西ノ丸堀は、山中城の西方防備の拠点である西ノ丸にふさわしく、広く深く築城の妙味を発揮しており、堀の末端は谷に連なっている。西櫓と西ノ丸の間は、中央に丸い畝を置き、交互に両曲輪にむかって畝を出しているが、西ノ丸の北側では東西に畝をのばして堀内をより複雑にしている。このように複雑な堀の構造は、世に伝えられる「北条流堀障子」の変形であり、学術上の価値も高いものである。 平成12年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会 — 続く ー
2021.06.05
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既に日が経っておりますが、この時期ツツジが見頃と判断、自宅から約50キロ先の日本百名城の「No.40 山中城」へ車で出かけた。願わくば併せて、富士山が見えることも期待したが。4月24日(土) 9:20自宅を9時過ぎに一人で出かけた。国道134号の柳島交差点手前、右側は鉄砲道沿いの「柳島スポーツ公園」トラスコ湘南大橋上から。富士山が見えるので山中城からの富士山を期待西湘バイパスを走り箱根路へ右は、大磯ロングビーチの大磯プリンスホテル箱根方面は薄曇りだが今日は有料道路を走り、箱根新道へ右は、湯河原・熱海方面の「真鶴道路」湯河原・熱海方面の一般道は左の早川インタを出る。直進して箱根新道へ前方高架橋はJR東海道新幹線箱根新道の、箱根・三島方面へ箱根方面は薄曇り箱根の二子山雲はあるが富士山が期待できそうだ箱根新道を登る前方の橋は、国指定史跡 箱根旧街道の「石畳橋」。旧東海道を歩いた時、平成30年(2018)11月28日(水)に箱根湯本から箱根関所まで歩いた箱根新道は昔は有料道路であったが、いつ頃からか無料になった国道1号の箱根峠(標高846m)前を走っていた車のナンバーは「品川」コロナ禍の中で外出自粛をいわれているのでナンバーの横には「小田原 神奈川県 在住です ❤」箱根峠から下り、山中城跡入口 ← 0.6km右前方のトンネルは笹原山中バイパス(国道1号)の、山中城1号トンネル10:15山中城跡案内所・売店所在地:静岡県三島市山中新田410-4以前はこの前の道路が国道1号で交通量が多かったが、山中城北側にバイパスができてから交通量が激減したようだ。売店は営業日(休み:月曜日)で昼食はここで取ることに山中城跡の駐車場、トイレ工事中の看板「史跡を整備しています」 期 間:令和3年4月1日から、令和3年11月30日まで 工事名:史跡山中城跡復旧工事 発注者:三島市長 担当 水と緑の課駐車場のご案内山中城跡地の復旧工事の為、混雑時は別の駐車場に駐車して頂きますようお願い致します。この日は、土曜日で多くの観光客が訪れていて駐車場は満車状態であったお知らせ御来場の皆様10月20日 ~ 史跡 山中城跡 は、令和1年度台風19号による被災箇所の復旧工事を行います。当駐車場を使用しての作業となります。御来場の皆様には御迷惑をお掛けしますが、御理解、御協力をお願い致します。国指定史跡山中城跡 (昭和9年1月22日指定)史跡山中城は、小田原に本城をおいた北条氏が、永禄年間(1560年代) 小田原防備のために創築したものである。やがて天正17年(1589)豊臣秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ西の丸や出丸等の増築が始まり、翌年3月、豊臣軍に包囲され、約17倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。この時の北条方の守将松田康長・副将間宮康俊の墓は今も三の丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。三島市では、史跡山中城の公園化を企画し、昭和48年度よりすべての曲輪の全面発掘にふみきり、その学術資料に基づいて、環境整備に着手した。その結果、戦国末期の北条流の築城法が次第に解明され、山城の規模・構造が明らかになった。特に堀や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を巧みにとり入れた縄張りの妙味と、空堀・水堀・用水池・井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最後の姿をとどめている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。 平成11年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会写真は、畝堀、障子掘駐車場から順序に従い、西側へ進み「三ノ丸堀」三ノ丸の土塁から二ノ丸方向へ進む三ノ丸堀から国道1号の南方向を望む三の丸堀三の丸の曲輪の西側を出丸まで南北に走るこの堀は、大切な防御のための堀である。城内の各曲輪を囲む堀は、城の縄張りに従って掘り割ったり、畝を掘り残したりして自然地形を加工していたのに対し、三の丸堀は自然の谷を利用して中央に縦の畝を設けて二重堀としている。中央の畝を境に、東側の堀は水路として箱井戸・田尻の池からの排水を処理し、西側の堀は空堀として活用していたものである。この堀の長さは約180m、最大幅約30m、深さは約8mである。 平成8年12月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会三ノ丸土塁から北方向田尻の池、奥に箱井戸田尻(たじり)の池東側の箱井戸と田尻の池とは、一面の湿地帯であったが、山中城築城時、盛土(土塁)によって区切られたものである。山城では、水を貯える施設が城の生命であるところから、この池も貴重な溜池の一つであったと考えられる。しかも、西側は「馬舎」と伝承されているところから、この池は馬の飲料水・その他に用いられたものと推定される。築城時の池の面積は約148平方メートルであり、あふれた水は三の丸堀に流れ出ていたようである。 平成11年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会田尻の池を見下ろす西ノ丸跡方向へ登るサツキはまだ硬い蕾元西櫓下の堀二ノ丸の斜面を見上げる、ツツジが一部咲いていたが元西櫓下の堀城の内部に敵が進入するのを防ぐため人工的に土地を深く掘り下げたものが堀である。掘りあげた土は曲輪の中へ運び、平らにならしたり土塁に積んだりするのに用いられる。山中城では、曲輪の四周は大体堀で囲まれている。堀の深さと幅とは地形と曲輪の重要度に深く関連している。また、山中城の堀に、石垣が用いられていないということは大きな特色である。ここは堀底に近いが、400年前はローム層が露出し、もっと急斜面であった。 平成12年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会二ノ丸の斜面のツツジ土 橋土橋は城(曲輪)の虎口(入り口)の前を通路だけ残してその左右に堀を掘って城への出入りの通路としてつくられる。この土橋から西の丸へ入るには、土橋を渡って正面の土塁の下を左へ折れ、西の丸南辺からのびてくる土塁との間の細い上り坂の通路を通り、更にこの二つの喰違い土塁に挟まれた通路に設けた木戸を通る。この土橋は第一の関所であり、また高い方の堀の水を溜めておくための堤防でもある。 平成11年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会元西櫓下から二ノ丸を振り返る斜面にツツジが綺麗に咲いていた※ 台風19号の影響で崩落している箇所があります ※令和元年の台風19号の影響で、崩落している箇所がありますが、これは城の遺構(山中城本来の部分)を保護するための土が流れ出したものです。戦国時代の山中城本来の堀や土塁に大きな被害はありません。保護のための土が崩落している箇所については順次修復していく予定です。城内は問題なく散策いただけます。ぜひ障子掘や土塁を見学いただき、北条流の築城術をご体感ください! 三島市教育委員会写真は、台風被害前の西ノ丸(東から)修復中の西ノ丸南面、左は帯曲輪西ノ丸南面のツツジ西ノ丸畝堀を修復中。西ノ丸からの畝が崩壊しているようだ西ノ丸畝堀西ノ丸内部に敵が進入することを防ぐため、完全に曲輪の周囲を堀によってとりまいている。山中城では場所によって水のない堀と、水のある堀、やわらかい泥土のある堀とに分けられる。この堀の中は、五本の畝によって区画されている。畝の高さは堀底から約2メートル、更に西ノ丸の曲輪へ入るには9メートル近くもよじ登らなければならない。遺構を保護するため、現在は芝生や樹木を植栽してあるが、当時はすべりやすいローム層が露出しているものである。 平成12年3月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会10:29帯曲輪を上り、西櫓と西ノ丸の間の障子掘。この障子堀越えの富士山が見えるのだが最高だが果たして — 続く ー
2021.06.04
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今回の紹介は、94番目から100番目です ’16年09月29日(木)から10月1日(土)までの、西中国地方の旅 10月27日(木)から29日(土)までの、北海道道南の旅 11月18日(金)での、日本百名城達成の岐阜城の紹介です’16年09月29日(木)から10月1日(土) 今回は、JALマイレージを使用して二泊三日の一人旅 9/29(木) 早朝自宅を5:40に出て、羽田空港へ 羽田空港 8:05発 JAL291便にて おりしも政府専用機が駐留していたが、安倍さんどこへ? 山口宇部空港を拠点に、山口、島根、広島県下のお城へ 関門海峡に架かる、関門橋 山口県下関市と北九州市門司区をつなぐ、全長1,068m 海面からの高さ61mで 昭和48年に開通した 源義経と、平知盛の像 14:30 角島大橋 天気が良ければ最高のビューポイント 94番目 No.75 萩城 別 名:指月(シヅキ)城 築城者:毛利輝元 関ヶ原の戦いで戦わずにして敗れた毛利輝元が、徳川家康に指定された地に 築いた輝元が最後に見せた気骨の城である 内堀と天守台 後方は、指月山(シヅキヤマ) 城内へ 有りし日の萩城 :明治に破壊された 内堀 北の総門(高麗門)と外堀 海岸線に沿って、北の埋門まで城壁カがつながり 9/30(金) 東萩駅前のホテルを出発 萩といえば、松陰神社の松下村塾へ 11:00 津和野へ到着 95番目 No.66 津和野城 別 名:三本松城、蕗(ツワブキ)城、橐吾(タクゴ)城 築城者:吉見頼行、坂崎成正 中世の縄張りを生かした総石垣の山城 鎌倉時代末期に創築された中世城郭を、関ケ原の戦いの軍功で入城した坂崎成正が 総石垣の近世城郭に大改造した 城下は、津和野市街地 人質櫓台から見た三の丸 紅葉には少し早かった 津和野城遠望 96番目 No.74 岩国城 別 名:横山城 築城者:吉川広家 関ケ原の戦いの後、毛利輝元の家臣であった吉川広家は、新領地岩国に移り築城開始 14:25 錦帯橋からの岩国城 この日は、天守へのロープウェイが修理中で登城できず 岩国微古館? 97番目 No.73 広島城 別 名:鯉城(リジョウ) 築城者:毛利輝元 豊臣秀吉の支配を受けることになった輝元が、郡山から広島に本拠を移して築いた 聚楽第にならった輝元の城 17:00 二の丸表門 天 守:原爆によって倒壊したが、昭和33年に鉄筋コンクリート造りで再建 天守からの内堀と広島市街地 城内からの、平(ヒラ)櫓と櫓門(正面) 内堀と天守 10/1(土) 広島のホテルを出発 雨の平和記念公園へ 世界遺産:原爆ドーム 外人女性も記念写真 ベイスターズとの、クライマックスが当日 今回の旅で、中国地区は完全統一 帰りも山口宇部空港から、JAL296便にて羽田空港へ、22:00前に帰宅した ’16年10月27日(木)から10月29日(土) 妻と二人だけのツアー、二泊三日の旅を計画 朝一の列車で羽田空港へ向かったが、東海道線が人身事故で遅れ予定の飛行機に 乗れず、羽田空港で8時間の待機で次便ADO59にて函館空港へ 98番目 No.2 五稜郭 到着時間が17:30 と遅かったため、この日は五稜郭タワーでスタンプ捺印のみ 21:00以降は、一般車も函館山に登れるためそれまで市街地を見学 函館山からの夜景 外国人も大勢登っていたが、寒かった 10/28(金) 函館駅前のホテルを出発 99番目 No.3 松前城 別 名:福山城 築城者:松前慶広、松前崇広 日本式最後の城である、嘉永二年(1849)幕府は海防のために、松前氏に築城を 命じた。海防上、火砲を重視したため城の内外に37基の大砲を備えた 城内への 天 守:国宝だった天守は昭和24年に焼失、昭和35年に鉄筋コンクリート造りで再建 石垣には、戊辰戦争の時の弾痕が今も残っている 本丸御門と天守 外堀と、砲座が残っている 10/29(土) 乙部温泉のホテルを出発 乙部海岸を見学後、大沼公園へ 前夜の雪で、駒ヶ岳に初冠雪 再度 No.2 五稜郭 別 名:亀田御役所土塁、柳野城、箱館御役所 築城者:江戸幕府 五稜郭は、日本初のヨーロッパで考案された稜保式の城塞である 箱館開港に伴い、蝦夷地の管理と箱館防御のために、徳川幕府の命令で築かれた 紅葉の五稜郭 大手口の手前に半月堡 箱館奉行所庁舎 五稜郭内からの、五稜郭タワー 外周を水堀が巡っている タワーから見た、五稜郭 タワーからの函館山 今回の旅で、北海道の3城をすべて統一 帰路も、箱館空港から羽田空港へ’16年11月18日(金) 恒例の愛知香嵐渓へ行く前日に、旅友K、Nさん、岡崎からMrs.Kさんと登城 日本百名城達成の立ち合人になってもらった 彼女との待合時間の関係で、それまでに大垣城、墨俣城にも立ち寄った 100番目 No.39 岐阜城 別 名:稲葉山城 築城者:二階堂行政?、斎藤道三、織田信長 もう何度も訪問しているが、このスタンプラリでも二度目の訪問である JR東海道線、岐阜駅前にある、織田信長の黄金の像 金華山ロープウェーからの岐阜市街地と長良川 天下布武を宣言した信長の城 このため、私も百番目は岐阜城と決め全国を動き回った 最後のスタンプを捺して 登城完了で、 日本城郭教会へ本を送り『登録番号1,292番目』で認定 登城後、関市板取にある根道神社下にある、『名もなき池』へ 通称、モネの池 ハートの鯉 紅葉した、日本百名城でない郡上八幡城 BS朝日で、毎週木曜日に22:00から放映『日本城見聞録』の録画中 登城者の一人、大谷亮介(相棒でも、三浦刑事役で出演) 今回の百名城登城は、3年以内(一週間短縮)での達成となった このシリーズは 今回の百名城達成で完了 他にデジブック(seo-fa)にて公開しておりますので、閲覧願えれば幸いです 長いお付き合いありがとうございました '17/2/21(火)22:30
2017.02.22
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今回の紹介は、8月と9月に訪れた、東北、南九州地区の85番目から93番目のお城の紹介です登城を始めてから3年近くになり、、年内には達成したいと思い精力的に動いた 8月14日(日)早朝 00:30 に自宅を、一人ドライブで岩手、青森、秋田県下のお城へ85番目 No.6 盛岡城 別 名:不来方城(コズカタジョウ) 築城者:南部信直・利直・重直 南部氏が築いた総石垣の城 花崗岩を加工した見事な石垣が残り、会津若松城と小峰城とともに東北の 石垣造りの三名城として名高い腰曲輪の石垣歴史文化館の前に作られた、ペットポトルの天守86番目 No.5 根城 別 名: - 青森県八戸市 築城者:南部師行 戦国末期の姿がよみがえった南部氏の城 根城は、甲斐から陸奥に移り住んだ八戸南部氏が、南北朝時代から戦国末期まで 本拠とした城である 復元された、主殿 復元された柵と空堀 87番目 No.4 弘前城 別 名:鷹岡城 築城者:津軽信枚 戦国の威風が漂う津軽市の居城 築城時の天守は五重だったが、落雷により焼失。江戸時代後期に本丸の 辰巳櫓を改築して天守代用とした。これが現存する天守である 北門(亀甲門)耐震工事で移動した後の、天守石垣移動された、天守閣 バックは岩木山天守跡の石垣5月連休は、桜の花が満開で田舎館村役場 田んぼアートが有名:役場の上から見えるが一時間待った この後、今夜のホテル『弘前駅前ルートイン』へ8月15日(月) 早朝 7:30 ホテルを出発、秋田県下へ88番目 No.9 久保田城 別 名:矢留城 築城者:佐竹義宜 佐竹氏が誇りをかけた土造り城 築城者佐竹義宜は関ケ原の戦いの後、家康ににらまれて日立水戸から出羽秋田に 天封させられた大大名である 表門::発掘調査や絵図をもとに復元された木造、瓦葺の本丸正門(一ノ門)御隅櫓 御隅櫓からの、秋田市内(秋田駅)御隅櫓からの秋田市内(西側:日本海側) 大手門前の水堀:折から蓮の花が 今回の旅で4城を訪問、東北地方10城を完全制覇 この後、日本百名城でない、横手城、稲庭城に登城、8/16(火) 3:00 に自宅へ到着 今回の走行距離は、二日間で1,813kmのドライブであった9月8日(木) ~ 10日(土) 九州の旅 今回の旅は、【九州ふっこう割】行くばい! 熊本レンタカー付きフリープラン3日間 で 阿蘇くまもと空港を拠点に登城した9月8日(木)朝一の列車で羽田空港へ 羽田空港 7:10 SNA011便にて 阿蘇くまもと空港上空 8:50阿蘇くまもと空港に到着後、レンタカーにて高速道経由、島原城へ向かう高速料金は、復興割引で3日間、\6,500 で乗り放題、12:40 島原城着89番目 No.91 島原城 別 名:森岳城 築城者 :松倉重政 島原の乱の引き金になった巨城 本丸の広さは名古屋城に匹敵するほどで、石垣は延長約4Kmの及ぶ巨城 本 丸 :五重五階の層塔型天守 本丸西側の高石垣:見事な屏風折りの高石垣 武家屋敷跡 多比良港 14:40 発の有明フェリーで、15:20 長洲港へ、小一時間の船旅であった 90番目 No.92 熊本城 別 名:銀杏城 築城者 :加藤清正 16:30 熊本城着、中学校の修学旅行以来の登城であった 加藤清正が築いた鉄壁の城二の丸より見た、宇土櫓と大・小天守 昨年四月の地震で被害 飯田丸五階櫓の修復 手前は、戌亥櫓、後方は大天守と宇土櫓 一番近寄れる、加藤神社からの、小天守、大天守 震災で悲惨な大天守 南大手門 この夜は、熊本『ネストホテル熊本』に宿泊、夜は居酒屋へ9月9日(金) 鹿児島、宮崎県下のお城へ向かう ビルの合間からの被災した熊本城 北十八櫓、石垣も崩壊 復興には、約20年で約600億円とか、早期復興を祈るのみです!91番目 No.97 鹿児島城 別 名:鶴丸城 築城者 :島津家久 館造りだった大大名島津氏の居城 城と背後の城山は、西南戦争の舞台でもある御楼門跡:本丸の正門跡 暑い中、発掘調査中であった 黎明館 入った右側に、篤姫の像がある 来年のNHK大河ドラマの舞台92番目 No.96 飫肥城 別 名:舞鶴城 宮﨑県日南市 築城者 :不明、伊東祐実 シラス台地に残る群郭型の古城 島津氏と伊東氏の約25年にわたる争奪戦をえて、天正16年(1588)、伊東氏が 城主になった 大手門へ大手門 樹齢100年以上の飫肥杉を用いて復元された櫓門 大手門を入って 旧本丸虎口北 門 旧本丸は石垣が残り、飫肥杉が残っている 同じ日南市に、広島東洋カープのキャンプ地『天福球場』があるので訪問訪れた翌日、25年ぶりの優勝 県道28号線沿いの、彼岸花と百日紅93番目 No.93 人吉城 別 名:球麻城、三日月城、繊月城 築城者 :相良長瀬、相良為続、相良長毎 中世城郭の特色を色濃く残す、相良氏歴代の居城 鎌倉時代から江戸時代の終わりまで、この地を治めた相良氏の居城である 相良清兵衛屋敷跡で発見された巨大な地下室は、用途不明の謎の地下室であり 遺構として公開されている 球磨川支流の胸川に面した長塀堀合門と、はね出しの石垣 御下門跡の石垣 再建された建物群 左から、角櫓、長塀、多聞櫓 これで九州地区13城を、二回の旅で完全制覇した夕食は、人吉の有名店で、うな丼を食べる この後、高速道路で熊本へ。『熊本グリーンホテル』へ宿泊9月10日(土) 一日時間が余ったため、急遽、高千穂峡へゆくことにした五ケ瀬川の、真名井の滝 柱状節理の渓谷天岩戸神社 阿蘇くまもと空港へ向かうため、南阿蘇経由で 途中震災跡を、家屋も倒壊 今回の走行距離は、三日間で1,004kmであった 阿蘇くまもと空港内のお土産店 がんばれ熊本!18:45 SNA022便で、羽田空港へ また、訪問することを胸に秘めて、自宅到着は、22:00 着 今回の登城で、日本百名城は後7城になった 10/11部 おしまい
2017.02.13
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'16年8月6日(土)に、小学校の同窓会が故郷福山であったため、この機会を利用して8月4日から7日まで帰郷、中国地方の百名城を訪れていなかったため、マイカーで登城した今回の登城は、76番目から84番目である’16年8月4日(木) 早朝1:15 自宅を出発、東名高速等を使用 7:30 に篠山城へ到着 76番目 No.57 篠山城 別 名:桐ケ城 築城者:徳川家康 徳川家康が大坂城の豊臣氏との戦いに備えて築いた城 総奉行は池田輝政、縄張りは藤堂高虎が担当した 大書院入口 復元された大書院 高石垣 77番目 No.56 竹田城 別 名:虎臥城 築城者:赤松広秀 天空に浮かぶ総石垣の城で、日本のマチュピチュと言われてブレークした 竹田城は15世紀前半に築かれた山城であるが、羽柴秀吉の但馬攻めで落城し 天正13年(1585)に城主になった赤松広秀が数年かかって大改修した 播但連絡道路下からの竹田城 天守台の石垣を望む 天守台より南千畳を望む シャトルバスを降りて、20~30分歩いての登城 一番高いのが天守台跡 雲上に浮かぶ城跡全景:標高354mの山頂部に 写真提供:朝来市、立雲狭から、雲は秋に発生 78番目 No.63 鳥取城 別 名: ー 築城者:山名誠通、宮部継潤、池田長吉、池田光政 中世と近世が共存した堅城であるが、羽柴秀吉の兵糧攻め『鳥取の渇え殺し』の 舞台になったことで有名 西坂下御門:城内唯一の復元門 重要文化財『仁風閣』と石垣 櫓の石垣を修復中 内堀越しに望む久松山(標高263m)に、複合天守があった 79番目 No.67 津山城 別 名: ー 築城者:森忠政 重畳と連なる高石垣の城 関ケ原の戦いの後、、森蘭丸の弟忠政が13年間を要して築いた平山城 鶴山公園の入り口 備中櫓 大手道からの、備中櫓 天守台からの備中櫓 天守台からの津山市街地 8月5日(金) 岡山県湯郷のホテルに宿泊 朝6:30にホテルを出発、中国&米子自動車道をえて、安来I/Cへ 8:35 月山富田城へ到着 80番目 No.65 月山富田城 別 名:月山城、富田城 築城者:不明、堀尾吉晴 毛利氏も攻めあぐねた尼子氏の巨城 戦国大名尼子氏の居城であったが、毛利氏に滅ぼされ、関ケ原戦後に入封した 堀尾吉晴が近世城郭に改修した 安来I/Cからの道路から、月山富田城 山中鹿介幸盛の銅像:尼子氏の再興に務めた 近くにある、足立美術館から 足立美術館:美しい日本庭園や、横山大観をはじめとする近代日本画で有名で 人気のツアーコースである。今回は入り口でお別れ 81番目 No.64 松江城 別 名:千鳥城 築城者:堀尾吉晴 戦国の気風を伝える現存天守(国宝)の城である 関ケ原合戦の論功行賞で、堀尾吉晴が嫡子忠氏とともに入封して築城 南櫓(左)と中櫓(右) 南多聞櫓と、一の門 国宝、現存する十二天守の一つ 内堀の遊覧 松江自動車道で三次東I/C経由郡山城へ、13:50着 82番目 No.72 郡山城 別 名: - 築城者:毛利時親?、毛利元就、毛利輝元 戦国大名に上りつめた毛利氏の山城 本丸跡には、10数年前に登城していたので、暑い今回はスタンプのみ 8月6日(土) AM 83番目 No.71 福山城 別 名:久松城、葦陽城 築城者:水野勝成 西国監視の最前線に築かれた城 福山に入封してきた徳川氏の譜代大名、水野勝成が新たに築いた城 筋鉄御門:伏見城から移築されたという、国の重要文化財 城内からの鉄筋御門 天守:昭和41年に鉄筋コンクリート造で再建された 天守からの福山駅 天守からの北方向 8月7日(日) 早朝 5:45 84番目 No.68 備中松山城 別 名: - 7:20 ~ 9:00 築城者:秋庭重信、小堀遠州(政一)、水谷勝宗 現存する十二天守唯一の山城で、日本三大山城の一つ 13世紀中頃に築かれた山城を、江戸時代に小堀氏が整備し、その後水谷氏が 大改修した近世城郭。標高430mの小松山山頂に建つ天守は、日本一高い所にある 岩盤上に築かれた石垣:駐車場から約20分徒歩で 岩盤上に築かれた石垣:大河ドラマ『真田丸』の撮影現場 二の丸跡からみた本丸 左から六の平櫓、五の平櫓、天守 天守:二重二階と小規模 二の平櫓跡と、三の平櫓跡間の土塀 9:00からのスタンプ捺印を早めてもらい、9:00に城を跡にする 岡山自動車道から、『鬼ノ城』を望む 山陽自動車道経由にて茨木の伯父宅に立ち寄り、新東名&第二東名にて帰路へ 21:30 自宅へ到着 4日間 1,922kmの旅であった 第9部 おしまい 第11部で完です
2017.02.06
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’16年7月7日から9日まで、二泊三日の一人旅をして、九州地区の日本百名城に登城した 九州には日本百名城が13城有り、今回は福岡空港を拠点に、北九州地区の68番目から 75番目の8城を紹介します’16年7月7日(木) 羽田空港から福岡空港へ、航空券はJALマイレージを使用 羽田空港 7:25発 JAL305便にて 9:10 福岡空港上空 68番目 No.85 福岡城 別 名:舞鶴城 築城者:黒田長政 関ケ原の戦いの戦功により筑前に入国した黒田孝高・長政親子が築いた城 祈念櫓 天守台跡 天守台から福岡市街地を望む 大濠公園 在りし日の福岡城 12:30 日本百名城でない、『唐津城』 天守閣 69番目 No.87 名護屋城 佐賀県唐津市 築城者:豊臣秀吉 秀吉が朝鮮出兵の足掛かりにするため、九州大名に命じてほぼ半年で完成 廻りには諸大名の陣城があり、大変な賑わいで約10万人いた 山里口 天守台跡と玄界灘 本丸、二ノ丸、三ノ丸を中心に、多くの高石垣でで構築された曲輪が配され 城域は約17万㎡にも及ぶ壮大なもの 秀吉の死によって文禄・慶長の役が終わると廃城となり、用材は唐津城などの 普請に転用された 18:00 伊万里のホテルにて ’16年7月8日(金) 70番目 No.90 平戸城 別 名:亀岡城、日の岳城 築城者:松浦棟 平戸瀬戸を望む水軍松浦党の城 平戸城天守東面:昭和37年に建造された三重五階の模擬天守 天守より望んだ、見奏櫓(ケンソウヤグラ)、遠くに赤い平戸大橋 海岸線からの平戸城 天守と見奏櫓 平戸大橋 71番目 No.89 佐賀城 別 名:栄城、沈み城、亀甲城 築城者:鍋島直茂・勝茂、鍋島吉茂、鍋島直正 『葉隠(ハガクレ)』を生んだ鍋島氏の城 鯱の門 本丸御殿御玄関:平成16年に復元 本丸御殿から 雨の中、鯱の門 72番目 No.88 吉野ヶ里 築城年代:弥生時代 雨の中訪問したので、スタンプのみであった 駐車場 一般道から、南内郭 またいつか、訪れたいものです 73番目 No.86 大野城 福岡県太宰府市 築城者:大和朝廷 防人たちが守る最大の朝鮮式山城 白村江の戦いで大敗した大和朝廷が、新羅・唐連合の襲来に備え、大宰府を防衛 するため標高410mの四王寺山(大野山)に築いた山城 城は亡命百済人の指導による、朝鮮半島の築城技法によって造られた 雨のため、スタンプの捺印のみ ここもいつか訪れたい 西鉄 大宰府線『大宰府駅』 ’16年7月9日(土) ホテルルートイン鳥栖駅前に宿泊 大分自動車道で大分へ 8:10 別府湾S/A 74番目 No.94 大分府内城 別 名:荷揚城、白雉城 築城者:福原直高 海を背に水に守られた堅城 現存する建物は、宗門櫓と人質櫓のみである 人質櫓 4月の熊本地震で土塀も被害 修復中の城内 75番目 No.95 岡城 別 名:臥牛城 築城者:緒方惟栄、志賀貞朝、中川秀成 天険の要害にそそり立つ総石垣の城 築城は12世紀初め、標高325mの天神山の断崖絶壁を生かした古城 岡城は壮大な総石垣の山城となった 駐車場からの石垣 大手門跡の石垣、紅葉の時期も最高 三の丸北側の高石垣 明治になると建物はすべて解体された、その荒廃したイメージから 滝廉太郎の『荒城の月』が生まれたと言われている 壮大な総石垣の山城 近戸門への坂道、左は城下町へ 12:00 JR豊肥本線『豊後竹田駅』 湯布院インターチェンジから、大分自動車道へ入り、福岡空港へ向かう 今回のドライブは、782Kmであった 福岡空港 16:00発 JAL320便で羽田空港へ 8部 おしまい
2017.02.04
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今回の紹介は、58番目から67番目です ’15年11月21日 ~ ’16年4月8日までの半年間で訪れた、紀伊半島、岡山県下、名古屋 福島県下のお城です′15年11月21日(土) 0:00 自宅を出発 マイカーで一人ドライブで、紀伊半島へ行く 掛川城からスタンプラリーを始めて、丸二年目になる6:00着 58番目 No.47 伊賀上野城 別 名:白鳳城 築城者:筒井定次、藤堂高虎 筒井定次ガ築城し、三重の天守を建てたが除封され、替わって入城したのが 築城の名手藤堂高虎である 天 守:天守は三重三階、小天守は二重二階 昭和10年に個人が、私財を投じて建てたものである 本丸高石垣西面:水面からの高さ約23m(堀底から30m) 天守からの伊賀市街地 59番目 No.48 松坂城 築城者:蒲生氏郷 蒲生氏郷が縄張りした石垣の城 表門跡:野面積の高石垣で防御された枡形虎口になっている 本丸上段跡 黄葉の銀杏の木 御城番屋敷:中央の生垣に囲まれた藩士の居宅20軒が御城番屋敷 60番目 No.61 高取城 別 名:芙蓉城 築城者:越智邦澄、本多利朝 奈良飛鳥盆地の南、標高583mの山頂を中心に築かれた近世山城である 日本三山城で、麓からの高低差は446mで一番高い 在りし日の天守:明治初年頃まで現存していた 麓の城下町 11月22日(日) 紅葉がきれいであったので、和歌山城へ登城した帰路に再度訪れた 天守台:高さ10mの天守台高石垣。この上に、三重の天守が建っていた 紅葉のお城は絵になる、大勢のツアー客 十五間多門跡 紅葉のお城は絵になる、好きな写真である 61番目 No.55 千早城 大阪府南河内郡千早赤阪村 築城者:楠木正成 鎌倉幕府軍を翻弄した楠正成の城 駐車場から、約30分程度登山、金剛山山頂への登山ルートになっている 千早城:厳しい坂道を登る 千早城跡には、千早神社が建立されている(二の丸跡) 金剛山への登山ルートで紅葉がきれい(四の丸跡広場) 和歌山城への途中 日本百名城でない、岸和田城へ立ち寄る 17:50頃 岸和田城 19:30 和歌山城の夜景 ホテルの予約が取れず、車中泊になる′15年11月22日(日) 日本棚田100選『あらぎ島』へ 和歌山県有田郡有田川町清水 6:00~7:00 62番目 No.62 和歌山城 別 名:竹垣城、虎伏城 築城者:羽柴(豊臣)秀長、浅野幸長、徳川頼宜 紀伊徳川家の威光を示す巨城 天正13年(1585)、紀伊を平定した羽柴秀吉に命じられ、弟秀長が築城を開始 家康の十男頼宜が入封し、御三家の格式にかなう大城郭に拡張された 大天守と小天守 大天守:昭和33年に鉄筋コンクリート造で復元 天守からの、紀ノ川河口 岡口門 東堀 南掘(空堀) 二日間で、1,443Kmのドライブであった′16年1月21日(木) 四国への出張の途中、岡山県下の2城に登城した 63番目 No.69 鬼ノ城(キノジョウ) 別 名:鬼城山 築城者:大和朝廷が有力 JR総社駅から、タクシで登城した 岡山県総社市の鬼城山に築かれた日本の古代山城である 吉備平野を見下ろす標高397mの鬼城山に、築かれた謎の古代山城である 吉備平野を見下ろす、復元された西門 JR岡山駅前の桃太郎 64番目 No.70 岡山城 別 名:烏城、金烏城 築城者:金光氏、宇喜多直家、宇喜多秀家 金箔を彩る宇喜多秀家の烏城 旭川に囲まれた岡山城 天守からの、旭川と後楽園(日本三大庭園) 後楽園内 後楽園からの天守 JR予讃線からの丸亀城 ′16年3月2日(水) 65番目 No.44 名古屋城 別 名:蓬左城、鶴が城、金鯱城 他 築城者:徳川家康 大坂包囲網の拠点だった最強の巨郭 天 守:昭和34年に鉄筋コンクリート造で再建された 天守から、名古屋駅方面 本丸御殿の『竹林群虎図』:昭和20年の戦災で焼失した 天守と、本丸西南隅櫓 本丸西南隅櫓と堀 ′16年4月8日(金)~9日(土) 一泊二日で妻とマイカーでのドライブ 66番目 No.13 白河小峰城 築城者:結城親朝、丹羽長重 江戸時代に丹羽長重が築いた総石垣の城 復元された、三重櫓:天守の代用だった木造リ 白河集古苑前から、本丸の高石垣 東日本大震災で石垣が崩れ修復中 復元された三重櫓と前御門 折から桜が満開で 白河小峰城から、二本松城へ 行く途中、福島の花見山公園へ立ち寄る 私は二度目の訪問であったが、ツアー客が多かった → 全国区になった 花のエリアも広がったようだ 67番目 No.11 二本松城 別 名:霞ケ城、霧ケ城 築城者:畠山満泰、蒲生氏郷、加藤明利、丹羽光重 中世と近世が同居する石垣の城 二本松駅前から歩いて登城。桜も満開 本丸石垣 本丸跡から、二本松市街地を 見どころは本丸、三の丸の高石垣と二の丸の大石垣である 7:50 ~ 8:50 福島県下の桜『三春滝桜』 18:00頃 東北自動車道『安達太良S/A』での夕陽 二日間で約1,000Kmのドライブ 7部 おしまい
2017.02.02
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四国の百名城9城を政略するために、9月2日(水)から5日(土)まで 旅友Kさんと、徳島空港を起点に1泊4日の旅をした ちなみに、ツアー代金は一泊+レンターカー付き \25,800 であった 四国一周のドライブは約1,200kmあり、高知、宇和島、松山に宿泊 途中、四国八十八ケ所霊場も巡りながらの旅であった この旅で、旅友Kさんは高知城で日本百名城を達成した 今回の紹介は、日本百名城49~57番目の登城である9月2日(水) 羽田空港から徳島空港へ、JAL453便 8:20 阿波踊り空港着 鳴門海峡に架かる、大鳴門橋 49番目 NO.76 徳島城 築城者:蜂須賀家政 デルタに築かれた蜂須賀氏の平山城 復元された鷲之門 吉野川河口の渭山(イノヤマ)に築いた平山城 本丸跡 桜の時期は最高 石垣は阿波の青石を用い、特に本丸周囲は高石垣を築き堅固にしていた 御殿跡にある、旧表御殿庭園 築城者、蜂須賀家政公の像 高知県安芸郡北川村野友にある『モネの池』 睡蓮もきれいに咲く 高知駅前にある、維新3人衆:中岡慎太郎、坂本龍馬、武市半平太 9月3日(木) 50番目 NO.84 高知城 別 名:鷹城 築城者:山内一豊 現存する十二天守のうちの一つで、追手門と天守閣がセットで残っている 追手門の後方に天守 天守と本丸御殿 天守は、享保12年(1727)の大火で焼失したが、寛延2年(1749)に再建 旅友Kさんは、ここで日本百名城を達成、認定は793人目 天守から 内助の功の手本の妻、『千代』の像 板垣死すとも自由は死せず 9月4日(金) 51番目 NO.83 宇和島城 別 名:藤堂高虎 築城者:鶴島城 太平の世を象徴する天守を持つ城 天守:伊達宗利が再建した三重山階総塗籠式の総塔型の天守 現存する十二天守のうちの一つ 雷門北西下の石垣 52番目 NO.82 大洲城 築城者:宇都宮豊房、脇坂安治 天守は明治21年まで残っていたが、取り壊された。しかし、平成16年大洲市制50周年 を迎え木造で再建された 肱川を堀にした優美な名城である 天守と台所櫓 近世城郭に改造したのは、文禄4年(1595)に入城した、藤堂高虎 53番目 NO.81 松山城 別 名:金亀城、勝山城 築城者:加藤嘉明、蒲生忠知 戦う覚悟を強調する不屈の城 県庁裏の二の丸庭園あたりから歩いて20分くらいであるが、ロープウェイで登った 美しい曲線を描く高さ15.5mの高石垣の上に 天守群 現在の天守は安政元年(1854)に再建された 現存する十二天守のうちの一つ 54番目 NO.80 湯築城 別 名:湯月城 築城者:河野通盛?、河野禅正小粥通直 二重の堀に囲まれた戦国期の拠点城郭 16世紀前半、伊予の国の守護であった河野氏が、館型の城だった湯築城を整備して 戦国期拠点城郭へと転換させた 復元された、武家屋敷 9月5日(土) 55番目 NO.79 今治城 別 名:吹楊城、美須賀城 築城者:藤堂高虎 築城名人高虎が築いた水軍基地 関ケ原合戦後に藤堂宝虎が海城として築いた 山里櫓と天守 天守と、高虎の像 11:50 祖谷渓の、かずら橋へ 旅友も 56番目 NO.78 丸亀城 別 名:亀山城 築城者:生駒親正、山﨑家治、京極高和 丸亀城は、高石垣と小さな天守で有名 現存する十二天守の中でもっも小さいが、予讃線の車窓からもよく見える 天守は幾重にも積み上げた高石垣上にそびえる 天守への坂は急であった 現存する十二天守の一つだが、一番小さい また来てねと 57番目 NO.77 高松城 別 名:玉藻城 築城者:生駒親正 瀬戸内を睨む屈指の海城 豊臣秀吉の家臣、生駒親正が海城の基礎を固めた 旭門 江戸時代末期から大手門として使われた高麗門 艮櫓(ウシトラヤグラ) 内堀内を遊覧 艮櫓(ウシトラヤグラ) 20:10 阿波踊り空港から、JAL464便にて羽田へ 四国八十八ケ所霊場巡りも8寺へ 羽田空港へ、21:20着 Kさん、ご苦労様でした、また達成おめでとうございました 6部 おしまい
2017.01.30
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昨年11月に登城してから、この6月まで約半年間登城しなかった今回は、41番目から48番目の関西、沖縄、北海道地区を紹介します’15年6月13日(土) 滋賀の現場へ行き姫路に宿泊して、兵庫県下5城のうちの3城と大阪城を訪れた 41番目 No.60 赤穂城 別 名:加里屋城、仮屋城、苅屋城、蓼城 築城者:浅野長直 赤穂浪士で有名なお城である。JR赤穂線の赤穂駅から歩いて登城 大手門 本丸厩(ウマヤ)口門と水堀 城内にある大石神社 三の丸隅櫓と、大手門 42番目 No.59 姫路城 別 名:白鷺城 築城者:羽柴秀吉、池田輝政 黒田重隆の居城を羽柴秀吉が改修したのが天正8年(1580)、関ケ原の戦い後 池田輝政が入り、大改修した、現存する十二天守の一つで世界遺産 JR姫路駅からの、天守 結婚式の場でもある 天守群:四つの天守群 白亜の世界遺産である 43番目 No.58 明石城 別 名:喜春城 築城者:小笠原忠真 二代将軍秀忠が執心した西国を睨む堅城である JR明石駅のホームから 坤櫓(左)と巽櫓 44番目 No.54 大阪城 別 名:錦城、金城 築城者:豊臣秀吉、徳川幕府 豊臣のお城の上に築かれた、徳川の最強城郭 JR大阪環状線『大阪城駅』から 内濠にかかる、極楽橋からの天守 昭和6年に建設された、三代目天守:日本初の鉄筋コンクリート造り 天守からの内濠 内堀石垣と遊覧船 ’15年6月17日(水) ~ 19日(土) 旅友のKさんと二泊三日の沖縄旅行で世界遺産、日本百名城の3城を訪問した 沖縄では米国に対して『基地返還』・・・・・・・ 13:50 ANAで那覇空港へ 初日は、平和を祈って ひめゆりの塔 平和祈念公園 平和の礎(イシジ) 沖縄戦などで亡くなられた、国内外の20万人余りのすべての人々に追悼の意を表し 修学旅行生 6月18日(木) ツアー付きのレンタカーでドライブ 45番目 No.98 今帰仁(ナキジン)城 別 名:北山城、今帰仁グスク 築城者:不明 やはり沖縄の地は暑かった 死角のない曲線美の石垣 志慶真門郭 沖縄本島北部標高100mのほぼ独立した丘上にある 『百曲り』と称される石垣がきれい 13:00過ぎ 今帰仁城から中城城へ途中立ち寄る 古宇利大橋:エメラルドグリーンの海に、無料がいいね 46番目 No.99 中城(ナカグスク)城 築城者:先中城按司、護佐丸 沖縄本島中部にあり、城は尾根上に六つの郭がつらなる連郭式 城壁が左右対称なのも貴重で、右奥は『北の郭の裏門』 優美と堅固を合わせ持つ城 親切に案内してもらう、旅友と 石垣は、野面積、布積、相方積と様々な技法が駆使されており優美で堅固である 6月19日(金) 日本百名城でない、座喜味城、勝連城、世界遺産をドライブで訪問 47番目 No.100 首里城 築城者:不明、尚敬 守礼門 瑞泉門:首里城内は琉球石灰岩で築かれた巾約4m、高さ6~10mの石垣が 取り囲 正殿(百浦添御殿) 既に入場しているので、今回はスタンプ捺印のみ 外郭の歓会門(奥)と、久慶門(手前) 沖縄の3城を制覇した ’15年7月7日(火) ~ 9日(木) 北海道ツアーズに予約、妻と二泊三日の道東旅行に行きレンタカーで回る 9:25 たんちょう釧路空港へ、AIRDOで 沖縄では米国に対して『基地返還』であったが、ここ根室ではロシアに対して 『北方領土返還』の看板が多く見られた 7月8日(水) 48番目 No.1 根室半島チャシ跡群 スタンプは根室駅前の観光インフォメーションセンターで捺印 根室駅から、納沙布岬の海岸台地上に造られたアイヌの城砦 チヤシは、砦や柵囲いを意味するアイヌ語 案内板 ヲンネモトチャシ跡 北海道には約500のチャシが存在し、その多くは道央から道東にかけて分布 根室市内には32か所のチャシ跡が確認され、そのうち24か所が国指定史跡に指定 遠方は、知床半島の山 納沙布岬 私は48年ぶりの訪問であった 納沙布岬にある 四島(シマ)のかけはし 早期返還を祈りながら、後にする 5部 おしまい
2017.01.28
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’14年8月10日(日)から11月22日(土)までに登城した、31~40番目のお城を紹介します’14年8月10日(日) 早朝より、旅友のK氏と一泊二日のドライブをして新潟、富山県下の3城を訪問した 31番目 No.31 新発田城 別 名:菖蒲(アヤメ)城、舟形城、狐尾曳ノ城 築城者:溝口秀勝・宜勝・宜直 上杉謙信の重臣新発田重家の居城だったが、後年、入封した溝口秀勝と子孫が 近世城郭に変貌させた 本丸表門 旧二ノ丸隅櫓 再建三階櫓 堀部安兵衛の像 新発田は、安兵衛の出生地 32番目 No.32 春日山城 新潟県上越市 築城者:長尾為景、上杉謙信・景勝の3代 上杉謙信により大規模に整備され、難攻不落の城が完成した 春日山の麓にある、城史跡広場 上杉謙信の像 33番目 No.33 高岡古城 築城者:前田利長 前田利長が居城としていた富山城が火災で焼失したため、高岡に城を築いた 大雨でスタンプのみになったので、いつか訪れたいものです ’14年10月11日(土) 富山への仕事から、マイカーにて滋賀県下の4城を訪問した 34番目 No.49 小谷城 滋賀県長浜城 築城者:浅井亮政 戦国大名浅井氏三代の堅城 織田信長に滅ぼされた浅井三代の居城で、滅亡後豊臣秀吉が入城したが 長浜に新城を築き、この城を廃城とした 巨大な山城である 35番目 No.50 彦根城 別 名:金亀(コンキ)城 築城者:井伊直継・直孝 現存十二天守の一つで国宝である 徳川四天王の一人、井伊直政は関ケ原戦後、佐和山城に入ったが、新城を築く 準備中に没した 遠く、三重三階の国宝天守がある 天守を望む 桜の時期も最高である 電線も地下化された街並み 36番目 No.51 安土城 滋賀県近江八幡市 築城者:織田信長 近世城郭の始祖となった信長の城 天正四年(1576)から築城を開始、五重七階の豪壮可華麗な天守で完成は、天正七年。 その三年後に起きた本能寺の変で信長は横死し、安土城の天守も原因不明の火災で 焼失した 安土城、観音寺城には登城しなかったので、いつか・・・・・・ JR東海道線、安土駅 安土城郭資料館内の天守模型 37番目 No.52 観音寺城 滋賀県近江八幡市 別 名:佐々木城 築城者:佐々木氏頼?(佐々木六角氏) 六角義賢が拠った総石垣の巨大山城 帰路の、岐阜城に立ち寄るが、時間切れで再訪問とした 遠く、金華山に岐阜城 ’14年10月24日(金) AM 滋賀県下の現場へ行く前に立ち寄る 38番目 No.53 二条城 築城者:徳川家康、徳川家光 二条城は徳川幕府の、開府と終焉の舞台である。 家康が征夷大将軍拝賀の祝宴を催し、最後の将軍慶喜がが大政奉還を発表した城 河原町道りから 二の丸御殿唐門 二の丸御殿(国宝) 本丸西の石垣 家光が築いた天守は、伏見城から移築した五重の層塔式だったが、落雷で焼失した 西南隅櫓 ’14年11月22日(土) 妻と、香嵐渓へ紅葉狩りに行ったとき、2城へ立ち寄る 39番目 No.38 岩村城 岐阜県恵那市 別 名:霧ケ城 築城者:加藤景廉、遠山氏、河尻秀隆、各務兵庫、松平家乗 標高717mの日本一高い地に築かれた山城 奈良県の大和高取城、備中松山城とともに日本三山城 太鼓櫓と表御門 岩村歴史資料館から、本丸へはここから歩いて ’16年11月18日(金)に再度、紅葉した本丸へ登城した 本丸北東面の石垣:6段に積み上げられた見事な石垣 岩村街並み 40番目 No.43 犬山城 愛知県犬山市 別 名:白帝城 築城者:織田信長の叔父信康 現存十二天守の一つで国宝である 木曽川に臨む三層の天守 国宝天守 三重四階地下二階で、二重櫓の上に小さな望楼を載せた古式豊かな望楼型天守 天守からの犬山市内 天守からの木曽川 登城を開始してから丸一年で、精力的に40城を制覇した 4部 おしまい
2017.01.24
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今回のお城は、′14年5月1日(木)から7月5日(土)に登城した、21番目から30番目のお城です’14年5月1日(木) 旅友のKさんと二人で、関東地区の5城への登城で日帰りドライブ 21番目 No.14.水戸城 別名:馬場城 築城者:馬場資幹、佐竹義宜、徳川頼房 土塁と堀で守られた御三家の城 鎌倉時代に馬場氏が築いた館を、佐竹義宜が大改修し、さらに徳川頼房(家康の11男)が 入城して御三家にふさわしい城に改築した城 黄門様は、徳川光圀で二代目藩主 弘道館:水戸藩の藩校 JR水郡線が走る、深い堀底 大手門跡 22番目 No.15.足利氏館 築城者:足利義兼 中世地方武士の居館の典型 館は、平安時代末期から鎌倉時代はじめに足利義兼によって築かれたといわれている 吉兼は、館内に持仏堂を建立、これが鑁阿寺(バンナジ)の始まり のちに、尊氏が室町幕府を開くと鑁阿寺は足利氏発祥の地、そして氏寺として尊崇された 鑁阿寺の太鼓橋と山門 鑁阿寺本堂:1299年に再建された 23番目 No.17.金山城 群馬県太田市 築城者:岩松家純 総石垣の巨大な戦国の山城 金山山頂の実城(本丸)を中心に、そこから伸びる尾根を削平して曲輪を造り 堀切・土塁で堅く守った山城である 斬新な設計の、ビジターセンター 山道を登る 通路も、復元整備されている 日の池:御台所曲輪の下にある 復元整備された、大手虎口 石で埋めつくされた大手の通路。両側は脇曲輪 24番目 No.18.鉢形城 埼玉県大里郡寄居町 築城者:長尾景春、北条氏邦 二つの川(荒川、深沢川)を堀とした、北武蔵の堅城 城内には、発掘調査に基づき四脚門や四阿(アズマヤ)などが復元されている 今回は、時間がなくゆっくりと見学できなかった 25番目 No.19.川越城 別名:初雁城 築城者:太田道真・道灌親子、松平信綱 江戸の背後を守る拠点城郭 本丸御殿:車寄(玄関)を備える 本丸御殿の全景 家老詰め所も、移築復元 ’14年6月12日(木) 旅友のKさんと、ロシアからの帰路に立ち寄る 26番目 No.20.佐倉城 別名:鹿島城 築城者:千葉氏?、土井利勝 佐倉城は石を一切用いず、土塁と深い空堀そして水堀で守られた土造りの近世城郭 空堀 城内には、菖蒲畑 雨の中、大勢のカメラマンが ’14年7月5日(土) 出張で富山へ行ったとき一泊して、Yさんと登城した 27番目 No.34.七尾城 石川県七尾市 築城者:能登畠山氏 野面積の石垣が威す巨大山城 能登守護畠山氏の居城で、七代目の義総が整備を進めた。その後、上杉謙信に攻められて落城 調度丸と桜馬場間の石垣 本丸跡:謙信は、この城から望む七尾湾の眺望をこよなく愛でたという 謙信の死後は、前田利家が織田信長に宛がわれて入城 利家は、小丸山城の築城にとりかかり完成すると、七尾城は廃城とした 28番目 No.35.金沢城 築城者:佐久間盛政、前田利家 よみがえる加賀百万石の大城 信長の家臣、佐久間盛政が築城したのが始まりで、その後利家が入城して改修した 左から、菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓 各曲輪を土橋で連結させた 豪壮な建造物群の石垣 29番目 No.36.丸岡城 別名:霞ケ城 福井県坂井市 築城者:柴田勝豊(勝家の甥) 古式を伝える、現存十二天守のひとつ 福井地震(S23年)で倒壊したが、S30年に80%の古材をもって修復再建された 瓦や鯱が石でできている 天守南西面:天守は二重三階の望楼型 天守の廻り縁と高欄 30番目 No.37.一乗谷城 福井県福井市 築城者:朝倉孝景 朝倉氏の栄華を伝える城下町と山城 朝倉氏は一乗谷の南北に、二つの城戸(城門)を設けて城下町を守り、館の背後の山には夥しい 数の畝状空堀群(竪堀)で守られた山城を築いた 織田信長によって灰燼に帰したが、復原整備されている 唐門:朝倉館の西正門跡に建つ、5代義景の菩提寺の門で、豊臣秀吉が寄進したと伝わる 朝倉氏館跡:奥に、五代義景公の墓所 立体復原された町屋 17:30 JR北陸線、福井駅から帰路へ END 3部 おしまい
2017.01.20
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’14年4月5日(土)から、4月26日(土)までの約一か月で登城した、11~20城を紹介します'14/04/05(土) 単独で、早朝からJRを利用して登城 この日は、坂下門から乾門までを一般公開の二日目であった 11番目 No.21 江戸城 別名:千代田城 築城者:太田道灌 皇居二重橋 一般公開二日目で、9時30分に坂下門を開門して、桜鑑賞 この日は、約9万人の人が桜鑑賞に訪れた 富士見櫓:城内に現存する唯一の三重櫓 天守焼失後は天守の代用とされ、どの方向から見ても美しいことから 『八方正面の櫓』とも称される 皇居内の桜、ソメイヨシノは満開であった 乾濠と、北桔梗門方向 清水濠にかかる平川門 大手門、枝垂桜も満開 桔梗濠と桔梗門 昔、若い時に勤務していたビルがあるが、廻りのビルは高層化 '14/04/09(水) 妻と、桜見物で身延山 → 甲府市内へドライブ 12番目 No.25 甲府城 別名:甲斐府中城 他 築城者:浅野長政・行長親子が拡張した 豊臣秀吉が築き、徳川家康が重視した石の城 写真は、撮 影したが見当たらず 13番目 No.24 武田氏館 別名:躑躅ケ崎館 築城者:武田信虎 武田氏三代の居館 '14/04/11(金) AM 出張日の午前中に登城した 14番目 No.41 駿府城 築城者:徳川家康 二の丸東御門 平成8年に復元された 二の丸巽櫓 平成元年に復元された 駿府城内にある、狩りが好きであった鷹狩をする家康の銅像 '14/04/12(土) 翌日、2城へ登城(マイカー) 15番目 No.46 長篠城 築城者:菅沼元成 武田軍の猛攻を凌いだ断崖上の城 主郭部の空堀 本丸跡の後方に、第二東名を建設中であった 16番目 No.45 岡崎城 別名:竜城 築城者:西郷頼嗣、田中吉政 三河武士の聖地となった家康誕生の城である 岡崎城天守 内堀の桜も満開 天守 家康の銅像 '14/04/25(金) 妻と、大内宿から会津若松、山形県の置賜桜街道、宮城県と一泊二日の 桜鑑賞にドライブした 17番目 No.12 会津若松城 別名:鶴ヶ城 築城者:蒲生氏郷 桜が満開の、鶴ヶ城 NHK大河ドラマの、八重の桜 '14/04/26(土) 18番目 No.10 山形城 別名:霞ケ城 築城者:最上義光 二ノ丸東大手門 JR奥羽本線を越える 城内の発掘調査中 城内の枝垂れ桜も満開 二ノ丸堀の屈折 防御力を高くしている 19番目 No.8 仙台城 別名:青葉城 築城者:伊達政宗 伊達政宗の銅像 仙台市街地 本丸跡、天守は建てなかった 20番目 No.7 多賀城 宮城県多賀城市 築城者:大野東人 奈良時代に陸奥の国の国府、および鎮守府が置かれた律令国家の行政、軍事の拠点 約900m四方に築地がめぐる 政庁正殿跡 建物の規模がわかるように、基壇が復元整備 多賀城南門と政庁を結ぶ道路 甲府城、武田氏館の写真の所在が不明で、今回はアップしておりません一か月で、10城に登城したあわただしい旅でした桜も満開で、桜と城のコラボが最高であった。今回は、妻が6城に付き合ってくれました おしまい
2017.01.15
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'13年11月24日(日)に、香嵐渓の帰りに、旅友のKさんと掛川城に立ち寄り、日本百名城スタンプラリーを開始した '16年11月18日(金)に岐阜城へ登城して全国統一したので、この記録を10回に分けてまとめた1番目 No.42 掛川城 '13/11/24(日) 別名:雲霧城、松尾城、 築城者:朝比奈氏、山内一豊 掛川城は、戦国大名今川氏の、重臣朝比奈氏の居城 天守閣から富士山を望む 二の丸御殿からの天守閣 平成6年に復元、三重四階の木造建築 2番目 No.40 山中城(静岡県三島市) '14/1/25(日) 戦国末期に後北条氏と豊臣秀吉の兵が激戦した城 石垣のない畝堀、障子掘等が有名 富士山が遠くに見える、春にはツツジが咲く 3番目 No.23 小田原城 豊臣秀吉に滅ぼされた、後北条氏の居城 天守閣 銅門 二の丸の正門にあたる升形門 '14/2/28(金) 大雪の後、長野県下に日本百名城が5城あるため、旅友のKさんとドライブ4番目 No.30 高遠城(長野県伊那市) 別名:兜城 時間がなく、城内の散策はせず次の松本城へ向かう 四月の桜の時期は、全国各地から観光客が訪れる名所である 5番目 No.29 松本城 別名:深志城 築城者:石川数正・康長の親子 内堀と天守 二の丸太鼓門からの天守閣 天気の良い日は、北アルプスが遠望される 現存する12天守の一つである 6番目 No.26 松代城 別名:海津城 築城者:武田信玄 本丸太鼓門と太鼓前橋、ともに平成16年に復元 城内から、本丸太鼓門 7番目 NO.27 上田城 別名:松尾城、真田城 他 平成28年度のNHK大河ドラマの舞台となる 築城者:真田昌幸 再建された櫓門、南櫓、櫓門、北櫓がつながっている 現存する、西櫓 昨年、5月7日(土)に、千曲市で行われる『寿野球全国大会』へ参加する前日に チーム仲間と登城した。観光客が多かった 8番目 No.28 小諸城 別名:酔月城、城鶴城 築城者:武田信玄、仙石秀久 三の門、懐古園の扁額がかかる明和2年(1765年)に建てられた2代目 時間があり、群馬県下のお城にも立ち寄る9番目 No.16 箕輪城(群馬県高崎市) 築城者:長野業尚、武田信玄、北条氏邦、井伊直政 何故、日本百名城かと思われる スタンプは、箕郷(みさと)支所で '14/3/28(金) 城山のカタクリの里へ行った後立ち寄る10番目 No.22 八王子城 山城 築城者:北条氏照 豊臣秀吉の侵攻を意識した大城 御主殿跡入口と石段 冠木門(かぶきもん)下の石段 城内は発掘され、御主殿跡などの復元整備が進んでいる おまけ、城山のカタクリの花 1-10登城 おしまい
2017.01.11
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10月24日(金)に、富山から琵琶湖への出張時に、日本100名城の二条城を初めて訪れました。二条城は、徳川幕府の開府と終焉の舞台である。初代家康が征夷大将軍拝賀の祝宴を催し、最後の将軍慶喜が大政奉還を発表したのがこの城だ。現代の姿になったのは、三代将軍家光のとき。当日は、京都駅から地下鉄に乗り途中、烏丸御池乗り換えて二条城前で下車。地下鉄、二条城前駅から、観光バスがたくさん並んでいた。 『西南隅櫓』 4間四方の二重二階櫓 二条城には、600円の入場料金を払い、又大きなバックの持ち込みができなかったので、ロッカーに預けての入門となった。豪華絢爛な門に、修学旅行の中学生が感嘆の声を発していた。また、外人客も多く見かけた。 『二の丸御殿』 歴史の舞台となった、現存する城郭御殿である。時間がなく廻りを観るだけになった。 左前方は、天守閣跡約1時間の公費(笑)での、訪問であった。昨年の11月から100名城に挑戦して、これで38城制覇になるが、年内には45城は制覇したいが、旅友は90城制覇?説明文の中に、一部『日本100名城ガイド』から掲載しております。 終わり
2014.10.31
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滋賀県下には日本100名城が4城あり、台風19号が近ずいている10月11日(土)に駆け足で訪れましたので紹介します小谷城 戦国大名浅井氏三代の堅城 彦根城:以前に何回か登城しているので外から安土城:JR東海道線安土駅前の建物時間がなく城跡には行かなかったので、安土城郭資料館内の天守閣模型でご勘弁ください宣教師が描いたと言われる織田信長の肖像画滋賀県下もう一つの『観音寺城』のスタンプは、この資料館で捺印できました時間があり、岐阜城を訪れることにして16:00に到着したがスタンプは、山頂の岐阜城資料館とのことであきらめ帰路に既に数回登城しているが、近日中に目的を達成する予定おわりー
2014.10.12
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夏休みの8月10日(日)に旅友二人で、新潟県下の100名城に行きました。No.31 新発田城 (しばたじょう)所在地:新潟県新発田市大手町6登城日:2014年8月10日(日)上杉謙信の重臣新発田重家の居城だったが、後年、入封した溝口秀勝と 子孫が近世城郭に変貌させた城である 本丸表門 再建三階櫓 堀田安兵衛の銅像 No.32 春日山城 (かすがやまじょう) 所在地:新潟県上越市大字中屋敷字春日山ほか 登城日:2014年8月10日(日) 上杉謙信の居城 この2城で、33城を制覇 完
2014.09.07
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同じ日に静岡県三島市にある山城の山中城と、小田原城に登城した。No40 山中城所在地:静岡県三島市山中新田字下の沢他登城日:2014年1月25日(土)山中城は、箱根越えをし三島市街地への途中にあり、豊臣秀吉対策で北条氏が築城した城である。北方向に富士山がよく見える。防御は、障子堀の空堀である。No23 小田原城所在地:神奈川県小田原市城内6-1登城日:2014年1月25日(土)豊臣秀吉に落とされ、全国統一となる。天守閣 住吉橋と銅門。 END
2014.08.31
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昨年の11月から、静岡県の掛川城を手始めに全国征服を始めました。スタンプを捺印していないため、再度登城した所もありますが、この数年で征服予定です。調略の都度、お城を掲載しますので閲覧をお願いします。No.42 掛川城登城日:2013年11月24日(日)所在地:静岡県掛川市掛川1138-24 END
2014.08.31
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