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函館駅前の駐車場から赤レンガ倉庫群近くの駐車場へ移動。10月18日(日) 15:40赤レンガ倉庫群入口の駐車場へ、駐車料金が30分400円と高いので急いで。街路樹も紅葉を始める、左は「函館西波止場のショッピングモール」駐車場周りの観光地北海道にも、コメダ珈琲店が進出、函館 ベイエリア店所在地:北海道函館市豊川町27-8コメダを利用すると駐車場が2時間無料になると、後の祭りだ!函館ベイエリア ~ 西部地区周辺マップベイエリアにも人力車函館の歴史を伝える『金森赤レンガ倉庫』所在地:北海道函館市末広町14-121869年頃の倉庫群の中にあるユニークなショッピングモールである金森赤レンガ倉庫営業倉庫として函館で初めて倉庫業を行った。初代・渡邉熊四郎は、1863年、24歳の時に長崎からここ函館にやってきました。その後、1869年旧金森洋物店(現市立郷土資料館)・旧金森船具店で輸入雑貨や船具の販売等、数々の業績を残しました。特に社会、文化事業に果たした役割は大きく、学校の建設、公園や水道施設の整備など、多くの公共事業に私財を投じました。その熊四郎がこの地に倉庫業を始めたのは1887年。当時の倉庫は、1907年の大火で焼け落ち、その後すぐに再建工事を行いました。現在の倉庫は1909年に完成した建物です金森赤レンガ倉庫群の間を抜ける。倉庫内にはレストラン、食料品店、土産物店があったが、今回は時間の制約もありスルー古い建物であったが、説明板がなく開港通り沿いにある「茶房旧茶屋邸」大正ロマンの「茶房旧茶屋邸」抹茶セット(他各種) おしるこ、あんみつ、くずきり箱館高田屋嘉兵衛資料館所在地:北海道函館市末広町13-22残念ながら臨時休業中であったお知らせ都合によりしばらくの間休館させていただきます(開館日未定) 箱館高田屋嘉兵衛資料館高田屋嘉兵衛江戸時代末期の豪商、回漕業者、高田屋嘉兵衛は明和6年(1769)淡路島に生れた。28才のとき、北前船「辰悦丸」で箱館(函館)に来航、以後、箱館を本拠地として北洋漁業の開拓、本州各地との交易の発展に尽力した。幕府はその功績を認め寛政12年(1800)嘉兵衛に苗字帯刀を許した。当時の寒村箱館が港として発展できたのは嘉兵衛の力によるところが大きい。更に嘉兵衛は、いわゆるゴローニン事件解決の立役者であった。1818年ロシアの海軍将官ゴローニンが北方領土侵犯の疑いにより捕えられたとき、ロシアは報復としてエトロフ島回航中の嘉兵衛を捕え投獄した。嘉兵衛は少しも臆せず、国土刧掠の非を難じ、両国融和の道を説いた。ロシアは嘉兵衛の勇気に感服し謝罪した。嘉兵衛は箱館奉行に懇請ゴローニンを釈放させ、以後両国の平和友好が促進された。幕府は円満解決の功績を称え賞詞を与えた。文政10年(1827)波乱とロマンにみちた59才の生涯を閉じた後方に赤レンガ倉庫群開港通りの交差点に立つ案内表示。ハリストス正教会 470m新島襄海外渡航の地碑 650m 北海道第一歩の地碑同交差点近くにある「日本最古のコンクリート電柱」日本最古のコンクリート電柱この電柱は、大正12年(1923)10月、当時の函館水電会社(現北海道電力)が建てたもので、日本最古のコンクリート電柱である。高さ10メートルのこの電柱は、現場打ち工法で、底辺が47センチメートル四方、上辺が19.5センチメートル四方の鉄筋コンクリート造りで、角錐形という珍しいものである。火災が頻繁に発生した当時の函館では、この頃から耐火建築が増えはじめたが、この電柱もそのあらわれであり、木柱が普通であった当時から今日まで、耐用年数を越えてもなお現役として街の移り変わりを見守っている。また、後に同形の電柱(昭和46年に撤去し、平成8年に再建)が建物をはさんで建てられたため、「夫婦電柱」と呼ばれて市民の話題となった15:53南方向に「二十間坂」函館朝市から函館山を目指して「開港通り」をまっすぐ進むとこの坂にたどり着く。さらにのぼると函館山ロープウェイの駐車場入口道路標識新島襄海外渡航の地碑 500m日本最古のコンクリート電柱 100m太刀川家住宅店舗 900m 見所がいっぱいだ!ハセガワストア ベイエリア店コンビニエンスストア函館名物、ふるさと函館の味「やきとり弁当」の幟が気になったが壁面の蔦も紅葉赤い靴の少女像「きみちゃんの像」所在地:北海道函館市末広町23横浜の山下公園にもあったが函館にも・・・・・。後方は緑の島童謡の「赤い靴」 野口雨情 作詞、本居長世 作曲 赤い靴はいてた女の子、異人(いじん)さんにつれられて行っちゃった 横浜の埠頭(はとば)から船に乗って、異人さんにつれられて行っちゃった 今では青い目になっちゃって、異人さんのお国にいるんだろう 赤い靴見るたび考へる、異人さんに逢うたび考へる青森につながる国道279号(海峡道)の片隅に立つ、赤い靴の少女像。旅友も熱心に撮影、このあと横に立ちパチリ赤い靴の少女像横から、南方向の八幡坂を望む函館山を見上げる16:02駐車場に戻り、赤レンガ倉庫群。約30分の散策で駐車場から車を出し移動16:11新島襄海外渡航の地碑所在地:北海道函館市大町11後方に、函館港に浮かぶ人工島の緑の島。この島は当初は遊園地やウオーターフロントを活かした施設を計画していたが、結局現在の通り、広い芝生公園(運動場)、駐車場、ヨットハーバーで構成されている車を乗り入れ駐車して撮影。新島襄海外渡航の地碑新島襄は、新知識を海外に求め、吉田松陰の海外渡航の失敗を考慮し、渡航地を箱館に選んだ。元治元年(1864)江戸から来て、ニコライ主教(ハリストス正教会2代主教)に日本語を教えたりなどして脱出の機会を待っていたが、同年6月14日(新暦7月17日)深夜、福士成豊(日本最初の官立気候測量所開設者)の助力により、この地から国禁を犯して海外渡航に成功した。上海経由で渡米した新島襄は、修学10年の後、明治7年(1874)に帰国し、翌8年京都において同志社大学の前身である同志社英学校を創立した新島襄海外渡航の地碑から函館駅方向を望む。この碑にある「男児志を決して千里を馳す 自ら苦辛を嘗む豈(あに)家を思わんや 却って笑う春風雨を吹く夜 枕頭尚夢む故園の花」の漢詩は、新島襄の自作自筆によるもので、元治2年(1865)香港での作である。渡航前の名前は新島七五三太(しめた)であったが、渡航中に船長から「ジョセフ」の名をもらい、略して「襄(じょー)」の字をあてた。明治23年(1890)48歳で没カメラを南に振り、赤レンガ倉庫群ズームアップ16:18道路脇に車を止めて撮影。基坂の下に立つ「明治天皇上陸記念碑」花壇は花で飾られ、南方向に函館山を望む。坂の上には元町公園がある明治天皇上陸記念碑赤御影石の地球儀の上に、青銅の鳳凰が羽を広げた碑は、明治天皇が明治9年(1876)、東北・北海道巡幸で来函の際の、旧税関桟橋への上陸を記したものである。同14年(1881)に再び来道の際、小樽から陸路函館へ巡幸し、ここから乗船して青森へ向かった。明治9年の下船・乗船と同14年の乗船で、計3回となることから三蹴碑(さんしゅうひ)とも呼ばれている。この碑は、函館出身の彫刻家・梁川剛一の作で、昭和10年(1935)9月7日に除幕された。同16年に7月20日を「海の記念日」と定めたのは、明治天皇の明治9年の巡幸の際、7月18日に離函し、20日に横浜に帰着したことを記念したものである。平成8年(1996)から国民の祝日「海の日」となった赤御影石の地球儀の上に、青銅の鳳凰が羽を広げた碑後方の北側には、海上自衛隊 函館警務分遣隊函館市電 本線沿いに建つ、相場㈱所在地:北海道函館市大町9-1相場家の住宅は元町に残っている。案内板は、旧イギリス領事館 ← 150m 旧函館区公会堂 ← 300m 元町公園 ← 200m伝統的建造物この建造物は、伝統的建造物として保存する重要な建物であります 函館市教育委員会入口の上に「相場株式会社」相場株式会社から北側へ進むと海上自衛隊の基地へ振り返り、函館市電 本線の向こう側の坂は「基坂」海上自衛隊函館警務分遣隊の前に立つ「護衛艦 はまゆき 主錨」就役 昭和58年11月18日退役 平成21年 3月14日箱館運上所跡欧米5か国との通商条約に基づき、安政6年(1859)、箱館は横浜、長崎とともに開港し国際貿易港となった。これにともない、税関の前身である運上所が設けられた。開港翌年の入港外国船は商船30隻、捕鯨船21隻、軍艦13隻の計64隻であった。貿易では、輸入はほとんどなく、輸出は中国向けの昆布が4分の1を占め、そのほか、いりこ、するめ、干あわびなど海産物が上位をしめていた。明治5年(1872)、運上所は税関と改称された。昭和43年、海岸町中央埠頭に港湾合司庁舎が完成し、税関も同庁舎に移転した。なお、明治44年(1911)に築された庁舎は、木造ルネサンス風の洋風建築であったが、昭和47年(1972)に取り壊された16:23車を道路脇に路上駐車しているので戻る。約5分の撮影タイムであった - 続く -
2020.11.11
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青函トンネルの通過は2度目であったが、新幹線では初めて。新函館北斗駅前でレンタカーを借り、いよいよ函館市内観光へ。10月18日(日) 13:38新函館北斗駅南口。駅舎からレンタカーの「駅レンタカー(北海道)」へ移動新函館北斗駅の青森側を望む。天気は快晴で最高JR 新函館北斗駅、駅舎の右側は「北斗市観光交流センター」。右側の建物は今夜から三連泊する「ホテル・ラ・ジェント・プラザ函館北斗」カール・レイモンゆかりの地~ 1930年代の新函館北斗駅前には、当時日本最大のハムソーセージ工場がありました ~本物のハムソーセージづくり昭和10年の頃、後に新函館北斗となる本郷の駅前に、当時としては日本最大規模のハムソーセージ工場があった。その主こそ、ドイツからやってきた食肉加工技師カール・レイモンである。1919年に初めて日本を訪れたレイモン。その動機はサムライの国を見てみたいという素直なものであった。食肉加工や缶詰の技術を見込まれ、仕事で函館~カムチャッカ間を往復するようになったレイモンは、ステーキの美味しい勝田旅館の娘、勝田コウと恋に落ちる。海外へ駆け落ちしてまで一緒になった情熱家のレイモンは、許されて函館へもどると、1925年に本場のマイスターの技で本物のハムソーセージづくりを始める1930年代の写真「工場や豚舎、事務所などが立ち並ぶ」函館駅前の若松町、五稜郭と規模を大きくしながら場所をうつし、昭和8年、本郷駅前に3千坪の土地を買い、牛35頭、豚310頭、羊30匹を飼い、畜産施設や食肉処理工場を構えた。近隣農家にも畜産技術を伝えたため、地元産業は大いに振興した。それはレイモンが幾たびも北海道に提唱した、畜産中心に循環型の自給自足を実現する産業構造「北海道開発プラン」を、ミニチュア版として実践してみせたものである13:41レンタカーの「駅レンタカー(北海道)、新函館北斗営業所」所在地:北海道北斗市市渡1丁目3-20営業所内は内地からの新型コロナウイルス対策!検温も。受付で「函館市内では駐車違反の取り締まりが厳しいので注意してください」と14:10函館市内までは、新函館北斗駅から約16kmもある。外気温は19℃と気温も上がり暖かいカーナビはいつものようにKさんが事前に調査した「土方歳三最期の地」函館駅方面へ進むレンタカーは、トヨタ車のSクラス「ルーミー 1000CC」14:35土方歳三最期の地所在地:北海道函館市若松町33-6若松緑地公園の片隅にあり、駐車場もないので隣接する施設へ一時駐車させていただく。入口に「猿田彦塚の碑」一本木関門石碑は「土方歳三最期之地」崇拝者が多いのかたくさんの花が献花されていた新撰組副長として京都の街に勇名をはせた土方歳三は鳥羽伏見の戦いの後、新選組を率いて各地を転戦して北上し仙台で旧幕府海軍副総裁榎本武揚が指揮する脱走艦隊と合流した。明治元年(1868)10月、蝦夷地に上陸した榎本軍は、箱館を占拠して新政権を樹立、土方はその陸軍奉行並の要職についた。翌2年4月、新政府軍の総攻撃に榎本軍は各地で敗退したが、土方が守った二股口(現・北斗市)だけは最後まで落ちなかった。しかし、同年5月11日、ついに箱館も新政府の手に落ちた。土方は箱館奪回を目指し、50名の兵を率いて一本木(現・若松町)の関門を出て箱館の市中に向い、敢然と切り込んでいったが銃弾に当たって倒れ波乱に満ちた生涯を閉じた。時に35歳であったこのような円柱をこれからよく見かける。土方歳三の経歴等が記載されている箱館戦争の様子旧幕府軍陸軍奉行並・箱館市中取締裁判局頭取「土方歳三」1835(天保6)年、武州多摩郡石田村生まれ。1863(文久3)年、幕府兵募集に参加し上京。同郷の近藤勇と新選組を結成し副長を務めた。戊辰戦争時には鳥羽・伏見の戦い、東北戦争で各地を転戦し、仙台で旧幕府軍に合流して蝦夷地へ渡り、箱館戦争へ参戦した。蝦夷地上陸直後の1868(明治元)年10月22日、箱館進攻へ出撃。鷲ノ木から砂原、鹿部、川汲峠、湯川村経由の間道部隊を率いて箱館へ進軍した。引き続き11月には、松前・江差の攻略部隊を率いて進軍して、蝦夷地平定に大きく貢献した。蝦夷地仮政権の陸軍奉行並および箱館市中取締裁判局頭取に就任して、1869(明治2)年3月の宮古湾奇襲攻撃や大野二股口での戦闘に奮戦した。同年5月11日(旧暦)、箱館や弁天台場を奪回・救出のため、一本木関門の突破をはかり、箱館市中へ向う途中で銃弾を受けて戦死した。享年35歳。一本木関門と石碑14:40猿田彦塚の碑昔、この辺りは一本木と呼ばれ、箱館村と亀田村との境になっていた。猿田彦塚は、文化14年(1817)、一本木付近に建立され「天保9年御巡見要用録」という記録書には箱館村と亀田村との境界標であったと記されている。この塚は以前、旧若松小学校西側の鶴若稲荷神社の境内にあったが、鶴若稲荷は昭和20年に疎開のため移転し、取り壊された跡には家屋が建ち、塚は無くなり見つからなかった。しばらくして、昭和31年に付近の民家の庭から字を刻んだ猿田彦塚の破片の一部が発見された。ここに在る二つの碑は、発見した石の破片を使用して昭和33年に猿田彦塚を復元したものである。「土方歳三最期之地」は急ぎ足の5分間の滞在であった。献花の数からいつまでも人気の土方歳三であることを感じた!14:53土方歳三最期之地から近い、函館駅前の駐車場へ車を預ける。駅前に建つホテル ルートインJR函館駅函館駅前広場の赤いモニュメント。函館駅から新幹線の新函館北斗駅までは電車で約20分を要する。また札幌駅までの特急北斗が約一時間ごとに運行しているはこだて観光案内函館朝市北海道は午後3時になると太陽も低くなる函館市民憲章(昭和52年5月3日 制定) 一、真心あふれる函館市民、あたたかいまち 一、健康で働く函館市民、にぎわうまち 一、文化を誇る函館市民、はぐくむまち 一、自然を生かす函館市民、きれいなまち 一、郷土を愛する函館市民、のびゆくまち 安全都市宣言(昭和36年3月6日 制定) 核兵器廃絶平和都市宣言(昭和59年8月6日 制定) 国際観光都市宣言(平成元年8月1日 制定) スポーツ健康都市宣言(平成4年10月10日 制定) いきいき長寿都市宣言(平成6年12月10日 制定)国道5号の起点である函館駅前交差点。左前方のビルには「はこだて みらい館」函館駅前交差点にある函館市電 函館駅函館駅前交差点の角にある「国道元標函館市」所在地:北海道函館市若松町12北海道の玄関函館市は、また、北海道における国道の起点にもなっている。前方交差点中央にある国道元標より、北方向へは、一般国道5号が長万部町、小樽市を経由して札幌に至り、東方向へは、一般国道278号が恵山町を経由して森町で5号に合流する。さらに、南方向へは、一般国道279号が1.8km先の函館市末広町から津軽海峡を渡り青森県の野辺地町へと向かっている。いずれの国道も歴史と伝統を誇る幹線道路であり、函館近郊の代表する区間は、5号「赤松街道」278号「漁火通」、279号「海峡通」の愛称で呼ばれ多くの人びとに親しまれている。 平成5年12月 北海道開発局国道元標から函館駅、JR INN函館駅前交差点角に立つ像「陽」と旅友函館市の、HAKODATE うすいマンホール蓋デザインはイカ函館駅西口、中央口函館朝市へようこそ!北海道産カニ・食堂・青果なんでもある「食」のワンダーランド!!15:05朝市仲通り左側に「どんぶり横丁市場」、この時間になると人通りも少ないが食堂の営業はしていた朝市 函館の朝は早い。函館の朝は、ここ朝市から始まるといわれるように、朝市の人々の朝は早い。まだ夜も明けぬ午前3時半ば、昔ながらの裸電球に日が灯り、商いの準備が始まって行く。ここ函館朝市は、戦後の物不足の時代から、函館市民の食生活を支え続け市民の台所として親しまれてきました。その昔朝市は、現在の函館市役所裏手に近隣農家のおばさんたちが農作物を持ち寄り、野菜を中心とした露店の集まりが始まりました。やがて段々とその規模は大きくなり、昭和32年(1957)、現在の場所へと移り、野菜ばかりではなく陸揚げされたばかりの海産物を地元の漁師達が持ち寄った乾物屋や花屋、やがては衣料品・雑貨などを扱う商人達までもが集いはじめ、今では北海道一と呼ばれる「函館朝市」が誕生したのです。・・・・・後略・・・・・ホタテの貝殻青函連絡船記念館「摩周丸」、ふれあい『イカ広場』1988(昭和63)年3月13日の青函連絡船最後の日まで運航していた摩周丸を実際の乗り場であった旧函館第二岸壁に係留・保存して公開しています。所在地:北海道函館市若松町12番地先開館時間:8:30~18:00(4月~10月末日)、9:00~17:00(11月~3月末日)休 館 日 :年中無休2代目摩周丸の船尾摩周丸は、八甲田丸・大雪丸・羊蹄丸・十和田丸・空知丸・檜山丸・石狩丸とともに青函連絡船の最後になる航海を飾った一艘です。船内には、船長が指揮を執った操舵室・無線室を現役そのままに再現した「操舵室・無線室」や青函連絡船の就航時に使用され、長い歴史を伝える珍しい資料などが展示された「青函連絡船のあゆみコーナー」のほか、大きな船の構造が模型や映像で手に取るようにわかる「船のしくみ展示室」や函館港と函館山を一望できる「シーサイドサロン」などが設けられています。船内には無料の休憩所(サロン)もあったようだが船首からの摩周丸。2代目摩周丸は、高速自動化船として登場した津軽丸型連絡船の5番目の船として、初代摩周丸が引退した翌年の1965(昭和40)年に建造され、同年6月30日の12時25分函館発青森行きの20便から青函航路に就きました。 大きさは8328総トン(新造時の規定による)、全長132メートル、幅17.9メートル、深さ7.2メートル、旅客定員1200名、搭載車両48両。主機関1万2800馬力のディーゼルエンジン、航海速力18.2ノット(時速33キロメートル)で、青森-函館間を3時間50分で結びました南方向に函館山今夜の夜景は良さそうだが函館山の夜景は一般車は進入禁止で、ロープウェイは明日から点検で休止になるとの情報ここの桟橋にはクルーズ船がやって来る。函館駅方向北の方向に駒ケ岳が見えるこの方向から見ると駒ケ岳は尖っているがイカ広場にある「改造型」青函連絡船ゆかりの錨イカ広場の片隅にある像「乙女?」イカ広場から函館山左側の高架橋は、ともえ大橋HAKODATE おすいマンホール蓋デザインは、旧函館区公会堂15:25海光房(かいこうぼう)所在地:北海道函館市若松町11-8大小さまざまな個室を備えるカジュアルな店内では、水槽から出して調理するカニやイカ刺しを提供してくれる。寿司や定食もあるが、現在は昼の営業はしていなかい。海鮮炭火焼水槽でイカが泳ぐビックリ!!巨大ダコ クイズ:何キロあるでしょう?? - 続く -
2020.11.10
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新型コロナウイルスが収まらない中、いつもの旅友Kさんと【Go To トラベルキャンペーン適用】を利用して、今年3月の旧東海道以来の宿泊旅行へ出かける。9月6日(日)ネットで下記、【Go To トラベルキャンペーン適用】往復北海道新幹線利用(東京 ⇔ 新函館北斗駅)函館国際ホテル フリープラン4日間を知る出発日、10月18日(日)で、二人一室 37,000円新函館北斗駅前のホテルへ3連泊、二人一室 37,000円。続日本100名城が道南に2城あるので旅友Kさんを誘う9月7日(月)Kさんから合意を頂き、Kさんがネットで早速申し込み、ツアー料金(2名1室) 但し、食事なし 一名 37,000円 74,000円 レンタカー 一台 19,000円GoTo キャンペーン -35% -32,550円 二名計 60,450円 よって、一名 30,225円 と割安。10月14日(水)阪急交通社から、チケットが届く。往復新幹線の乗車券、チケットは「ハコダテ様一行」地域共通クーポンが二人で、1,000円 × 14枚有効期間は旅行期間中の、20-10-18 ~ 20-10-21 限定。利用エリアは、北海道&青森県何故かクーポン券の支給に差別があるが?出発の日は日曜日の早朝で人が少ない。10月18日(日) 7:15茅ヶ崎駅北口天気が悪い予想であったが雨が降っておらず自転車で茅ヶ崎駅へ茅ヶ崎駅北口2階通路から、国道1号の茅ヶ崎駅前交差点茅ヶ崎駅北口雲が多いがどうにか天気も持ち久しぶりに、茅ヶ崎駅から東海道本線に乗車予定では8時9分に乗車する予定であったが、7:32 上野行きに乗車日曜日のため乗客が少ない。皆さんマスク8:34東京駅9時15分に集合予定であったが、旅友Kさんも既に到着しているとメール受け旅友Kさんとの待合場所:東北新幹線 北乗り換え口北海道新幹線改札口へ北海道新幹線の改札口を確認。Kさんは喫茶にいるとのことで探すことに8:55メールの場所を探すが見つからず、予定の時間に集合することに。時間があるので地下街を散策、1F中央通路に立つ像「仲間」はやぶさ 13号 9:36 新函館北斗行き 23番ホームB1にある「銀の鈴」昔から東京駅の待ち合わせ場所で以前はもう少し広かったような気がするが、現在は新しい店がオープンして狭くなっている。またケースに入ってなかったのでは。「銀の鈴」 宮田亮平 作 東京藝術大学 学長 2007年10月25日散策しながらKさんがいる店を探すが見つからず、当初予定の時間に待ち合わせ場所へ。前方に大きな荷物を持つKさんを見つける改札を入る新幹線ホーム9:23乗車予定の、はやぶさ 13号が入線パンタグラフ新幹線への乗車も久しぶりだ全車指定席のはやぶさ 13号 2号車9:55定刻の9時36分に出発するが2号車は満席。新函館北斗駅まで約4時間の列車旅。到着後運転があるが早速ビールを購入して乾杯乗車券10:10車窓からの筑波山11:06仙台駅盛岡駅手前11:45盛岡駅手前東北新幹線の東側を流れる北上川はやぶさは10車両連結。10号車:Gran Class、9号車:グリーン車。車内販売で地場の弁当を購入することを考えていたが、パン以外なく残念12:33新青森駅手前盛岡以降は初めての乗車であったがトンネルが多い。新しい路線だけに揺れも少ない感がした斜張橋は「青森ベイブリッジ」斜張橋をズームアップ12:35新青森駅新青森駅から北海道新幹線になる2号車車内は満席で、皆さん新函館北斗駅まで乗車12:55はやぶさは、青函トンネルへ。総延長53.85kmを約20分で通過すると青函トンネルは、津軽海峡を横断し本州と北海道を結ぶ延長53.85kmの長大海底鉄道トンネルです。昭和29(1954)年、台風による青函連絡船洞爺丸沈没という世界的にも大きな海難事故を契機として建設が促進されました。海底部の掘削では4度の大出水事故による水没の危機を初めとした難工事の連続でしたが、様々な技術開発や工事関係者の努力と奮闘の末、昭和58年(1983)に先進導坑、昭和60年には本坑が貫通し、昭和63年(1988)に津軽海峡線として開業しました。開業後28年を経た平成28年(2016)3月には、北海道新幹線(新青森・新函館北斗間)が開業し、青函トンネルはその一部となりました。日本の国土を一体化させた意義は大きく、日本の20世紀遺産20選にも選ばれております13:18北海道の知内町13:30進行方向右手に函館山が見えてくる13:35新函館北斗駅へ定刻に到着Go Toキャンペーンで多くの観光客が降りるレンタカー店へ向かう13:37駅前には多くのレンタカー店があり事前にKさんがチェック ー 続く ー
2020.11.09
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三日目は、那覇市内観光後那覇空港へ。この日は参加者は有給休暇を取得していた。2月8日(月) 9:35世界遺産の首里城へ所在地:沖縄県那覇市首里寒川町ちょうど団体さんが来たのか多くの観光客が訪れていた。守礼門守礼門は鮮やかに再現された門で、首里城の玄関口首里城内郭へ瑞泉門めでたい泉という意味を持つ門。門の手前に龍樋と呼ばれる導管があったことが名前の由来城内より市街を、ようやく青空が見えてくる。復元された城壁昨年10月に焼失した首里城の正殿この写真は8年前の平成14年(2002)2月に、旧オジンクラブで初めて沖縄へ旅行した時のものです城壁内にて城壁と歓会門城内から下り振り返る城壁と歓会門世界遺産『琉球王国のグスク及び関連遺産群』平成12年(2000)12月に日本で11番目の世界遺産として文化遺産に登録された。遺産群は9ヵ所で、①首里城跡 ②園比屋武御嶽石門 ③玉陵 ④識名園 ⑤今帰仁城跡 ⑥勝連城跡⑦座喜味城跡 ⑧中城城跡 ⑨斎場御嶽。なお、復元された建物や城壁は世界遺産に含まれていない歓会門尚真王の代に創建されたとされる正門で、石造りのアーチ門の上に櫓をのせた形式守礼門前多くの観光客が次から次と訪れていた守礼門前で記念写真「首里城 めんそーれ 守礼門 2010年2月8日」レイを掛けてもらい沖縄衣装のきれいどころと記念撮影我々は男同士で記念写真10:30約1時間の観光で首里城を後にし国際通りの土産物店へ首里城は、昨年の2019年10月31日午前2時40分ごろ正殿付近で出火して焼失したが、早く復興再建されることを祈ります11:17土産物店にて沖縄名物の「海ぶどう(クビレズタ)」。クビレズタとはイワズタ科イワズタ属に属する海藻。沖縄県や鹿児島県では海ぶどうやグリーンキャビアと呼ばれている。和名はもと、くびれのあるツタの意味で「クビレヅタ」であったが、2000年に改定された日本産海藻目録より「クビレズタ」に改められた花も終わりの寒緋桜13:50昼食後、ガソリンを満タンにしてレンタカーを返却。14:00レンタカーの送迎バスで那覇空港へ、道路脇を走るモノレールの「ゆいレール」ゆいレール那覇空港駅那覇市街地方向那覇空港滑走路14:08送迎バスを降り出発ターミナルへ14:37出発ロビーで、既にワンカップが手に座り込み乾杯胡蝶蘭が綺麗に南国の花胡蝶蘭このあと、15:20発のJAL914便に乗り羽田空港へ17:07機内でくつろぐ中野氏は今は亡き人に17:10羽田空港上空へ搭乗機は房総半島沖へ17:12羽田空港へ17:35に到着、駐車場で解散して帰宅この遠征は私がテレビを見て企画、会計もつとめました。10年遅れでようやくブログを完成アップできました。 END
2020.06.16
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沖縄二日目は、13時から糸満市の西崎球場で交流試合の予定。天気は予報どうり昨夜来雨。2月7日(日) 10:54試合が13時からで時間があるので、準備をして那覇市内の国際通りへ野球仲間の奥さんの実家が沖縄でその親族と会う11:47レンタカー4台に分乗して交流試合会場の『糸満市西崎球場』へ。所在地:沖縄県糸満市字西崎町3-1立派な球場であったが昨夜来の雨でグランドはぬかるんでいたナイター照明もあり両 翼:97.6m、中 堅:122m、収容能力:12,000人本来ならここで交流試合を2試合の予定であったが、グランドコンディションが悪く中止に。夜の懇親会のみとなる14:05懇親会が18時からのため、それまで近郊の観光に。近くにある『ひめゆりの塔』へ所在地:沖縄県糸満市字字伊原671-1第二次世界大戦の沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒隊の女学生たちにささげる慰霊碑。慰霊碑には名前が刻まれ、前には洞窟沖縄陸軍病院第三外科棟跡博物館があり、館内には女学生の写真が貼り出されていた博物館の中庭には花壇があり綺麗に飾られていたがこの桜も寒緋桜あの頃はみんな若かった14:30ひめゆりの塔前のレストランで昼食沖縄そばを食べるうみぶどうと定食平和祈念公園所在地:沖縄県糸満市字摩文仁444第二次世界大戦時の沖縄戦を戦った人々に祈りを捧げる公園。慰霊碑や広場がある平和の式典がこの広場で行われる沖縄平和祈念堂平和の丘沖縄県平和祈念資料館平和の礎(いしじ)地区別に亡くなった人の名が刻まれている米軍との戦いがあった太平洋側沖縄県平和祈念資料館、修学旅行生?も来ていた平和の丘にある大きなモニュメント広場の先の小高い丘に建つ『沖縄平和祈念堂』平和の丘に立つ先輩沖縄平和祈念堂芝生は綺麗に整備されていたこのあと、宿泊ホテルへ帰りタクシーに分乗して懇親会会場へ向かう。18:30西崎球場隣の「スポーツロッジ」で懇親会相手チームの紹介この女性は相手チームのマネージャーだったか?この人はひょうきんであった相手チームが壇上にあがりチーム紹介。交流試合をやっておれば珍プレーで盛り上がったのであろうが我々のチームも紹介19:55両チームで記念写真をみなさん60歳前後全員で記念写真21:05懇親会を終え、金城監督、現地担当の川端氏と記念写真。今回交流試合ができなかったが、この秋千葉県印西市へ遠征するのでその時の再会を誓う21:30懇親会の後は近くのスナックで二次会。ここの費用は御馳走になりました。今の時期このような濃厚接触は出来ないが23:30時が過ぎるのも忘れ、カラオケを楽しみこの後、タクシーに分乗して宿泊ホテルへ帰る。 続く
2020.06.15
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旧東海道の弥次喜多道中記も終わり、新型コロナウイルスの関係で外出自粛、自宅待機のためブログのネタもなくなり新規写真もないため、テレビと同じように以前の写真を引き出し今回アップとしました。過去の自分のブログを見ると、平成22年(2010)2月6日 ~ 8日に沖縄遠征したブログを平成22年3月2日、6日にアップしていたが、まだブログのかけだしの時期で操作に不慣れで挨拶のみで中途半端に終わり、その上撮影した写真も未公開だった。この遠征の企画は、遠征した前年の5月6日に『NHK にっぽん紀行』で、『野球オヤジが燃える日』と題して『糸満中学40歳以上OB野球大会』が放映され、その後このチームへ連絡を取り交流試合をすることになり、二泊三日のツアー (33,600円) を計画してチーム13名で遠征したものです。この時期はプロ野球も数チームが沖縄でキャンプイン中。平成22年2月6日(土) 8:03チームに参加を募り、車に分乗して羽田空港の駐車場へ。野球道具の大きなもの(捕手関係)、バットは事前に宅急便で送る。8:15 JAL903便で羽田空港から沖縄那覇空港へ到着地の天気は、15℃ ☂マークもう10年前になるので若いが、参加者13名の平均年齢は63歳であった。相手チームも、『糸中OB40歳以上野球同好会』が中心でチーム名は『マリンズ28 28期生』あれから10年、昨年亡くなった人もいるが・・・・・10:47那覇への機内にて11:38那覇空港到着ロビー到着ロビーには「歓迎 2010 プロ野球春季沖縄キャンプ」の垂れ幕11:54事前のメールでは横断幕とあったが、こんな大きな横断幕でナインはビックリ。他の観光客はどんなチームかと興味津々15:30試合は明日のため、レンタカー4台を借り沖縄観光へ。日本で一番早く桜が咲く「八重岳の寒緋桜」への途中、名護の海岸海はコバルトブルーだが、天気が良ければこれ以上に鮮やかであったろ―。八重岳の方向16:10八重岳桜の森公園所在地:沖縄県国頭郡本部町字並里921番地もとぶ八重岳桜まつり、”ひとあしお咲きに” をキャッチフレーズに開催される ”日本一早咲き” の桜まつりで、今年は2020年1月18日(土) ~ 2月2日(日)に開催されたが、外出自粛前で無事開催標高453mの八重岳一帯に約7,000本のピンク色の琉球寒緋桜が鮮やかに彩る小雨が降り少し肌寒かった一部、葉も出て露天商も多く出店駐車場もあり入場料は無料だが途中の道が狭い寒緋桜はいろんな桜と交配され新しい品種を、今年花見に行った、河津桜(オオシマ桜と)、おかめ桜(豆桜と、根府川)もピンク色が鮮やか16:20現在監督の、Oさん、当時は宴会部長?小雨も降っており、わずか10分程で山を下ることに16:50八重岳からの帰路、名護市内の「日本ハム」キャンプ地、「名護市営球場(タピックスタジアム名護)」所在地:沖縄県名護市宮里2丁目119:30夜は夕食を兼ね、「ホテルルートイン那覇」近くの居酒屋『夢風亭』へ所在地:沖縄県那覇市西2丁目21-16あれから10年、今でも営業しているのか骨付き・・・70歳の左腕のエースは一人で。現在でも現役で投げている先輩である本場泡盛を飲みご機嫌に沖縄のビールは「オリオンビール」このビヤー樽はわが社で作ったと店の子と店長と「沖縄料理美味しかったよ!」21:45店先でも盛り上がり、明日の交流試合のためこの後は自由行動になり、ホテル組、二次会組と別れる。明日の天気予報は雨、晴れることを祈るがこの時期の沖縄は降雨率が高い。参考までに、この遠征より8年前の平成14年(2002)2月に、旧オジンクラブで初めて沖縄へ旅行しているが、その時のまとめ資料です。その時は首里城へも行っておりますが、残念ながら映像が無く・・・・・ 続く
2020.06.14
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今日から5月、いつまでこの新型コロナウイルス騒動が続くのか・・・・・。本来ならゴールデンウイークのまっただな中、テレビの報道は渋滞、混雑の報道であろう。しかし今年は初めての『外出自粛要請』から、『STAY HOME』と、新幹線も自由席の乗車率が0.0%と。弥次喜多道中は関宿の会津屋で念願の「おこわ・そばセット」を食べ、鈴鹿峠を越え水口宿へ。やはり車での移動は楽だ。 3/20(金) 15:52会津屋前から関宿の『西の追分』方向。この方向は観光客が少ない16:03国道1号線を走り『市瀬一里塚跡』右側の小高い所が一里塚で関宿方面。前回(2/21)に見落とした場所、木もなく石柱のみ16:04国道1号線を走り鈴鹿峠へ、この先の沓掛交差点から上下線が別ルートになる。鈴鹿峠は両側の山の鞍部分になる16:17鈴鹿峠を越え国道1号線を下ると左側に『山中城址』の石柱。前回は、右側の『山神』の石碑には気が付いたが『山中城址』の石柱山中城に係わる話として、天文11年(1542)9月、伊勢の国司北畠具教は甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守および飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛りかえし、さらに北伊勢の軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた16:43水口宿へ入り、前回(2/22)は雨で写真を撮り忘れていたので再度訪問。作坂町にある『水口宿 本陣跡』この地は江戸時代水口宿の本陣が置かれていたところです。本陣とは大名・旗本・宮家・公家・幕府役人などが休泊するための施設で、これを補助するものとしては脇本陣があり、水口宿ではその両方が宿の東部の作坂町にありました。本陣は規模が大きく、一般の旅籠屋には許されない門・玄関・書院などがあって格式を示し、その経営には宿の有力者があたりました。この本陣は代々鵜飼氏が経営にあたり、間口も一般の三軒分に相当する広大なものでしたが、明治2年に行われた明治天皇の宿泊をもって、その歴史を閉じ、その後建物は撤去されました本陣の跡地の中央に『明治天皇聖蹟』、左奥に『明治天皇行在所御旧跡』の石柱三筋の道入口には『高札場跡』がある、前回は雨の中左方向へ進んだ16:54龍王山 大岡寺(だいこうじ)所在地:滋賀県甲賀市水口町京町1-30前回(2/22)雨で訪れなかったので、今回車で立寄る。狭い道を進み境内へ入る龍王山 大岡寺の由緒寺伝によれば、白鳳14年(686)僧行基が諸国行脚に際し、大岡山の山頂に自彫の十一面千手観世音像を安置し創建したという。その後寺勢盛大を極め、十六の坊舎を擁していたと伝えられるが天正2年(1574)の兵火で、堂宇はことごとく焼失し、東之坊(本坊)を残すのみとなった。天正13年(1585)に、中村一氏が岡山城の築城にあたり、東之坊を地頭に移転し、大岡山山頂に城郭を構築したが、落城後享保元年(1716)に至り、時の住職寂堂法院が再び現在の地に堂宇を再建した。以後、水口藩主加藤氏歴代の祈願所となった山門と鐘楼山門から「三筋の道」方向(南側)を望む境内から山門を下り、本来の入口へ山門には「龍王山 大岡寺」山門を入ると正面に本堂、左に行者堂本堂の扁額「大岡寺」、近い将来本堂の屋根裏も修復が必要であろう本尊十一面千手観世音菩薩は、家内安全・商売繁盛・進学・就職・厄除等諸願成就の守護佛で、近江西国三十三か所第二十六番霊場として多数の参詣者がある。また、恵心僧都の作で、阿弥陀如来立像は、ともに国の重要文化財に指定されている境内の史跡を探してカメラを片手に動き回る弥次さん当寺には、史跡が多く、鴨長明発心之所であり、巌谷一六の記念碑や、芭蕉の「命二つ 中に活きたる 桜かな」の句碑等がある。この句に詠まれた桜は「大岡寺の桜」として水口八景の一つに数えられている芭蕉の句碑「命二ツの 中に生きたる 桜哉」行者堂行者堂前の右側に「鉛筆供養・進学祈願法要」鐘楼、山門境内の西側に石碑があり字が刻まれていたが判読できず17:15水口神社所在地:滋賀県甲賀市水口町宮の前3旧東海道から離れているので今回の道中では訪れないので車で訪れる水口神社の石の太鼓橋この太鼓橋は急で渡れず飾りなのか当社の主祭神大水口宿禰命は饒速日命六世の孫出石心大臣命の子であり、祖母淡海川枯姫の縁により当地に移住されたと思われる土地開拓の祖神である。配祀は大己貴命、素盞鳴尊、稲田姫命である。当社は、三代実録貞観元年(859)正月甲申の条に「従5位下水口神に従5位上を授く」とあり、延喜式内の旧社で神明帳にある近江国155座、甲賀郡八座の一つとされる。明治元年(1868)九月明治天皇御東幸の?、勅使を差遣せられた。・・・・・・・・・滋賀県指定無形民俗文化財『水口曳山まつり』のポスター。令和2年 宵宮祭:4月19日(日)、例大祭:4月20日(月) とあったが今年は開催されたか?手水舎、明神鳥居、拝殿水口神社拝殿拝殿裏の顕馬水口神社の神門延喜式内の古社で水口宿の産土神である。4月19・20日の水口神社の水口曳山祭りは有名。享保20年(1735)に9基から始まったといわれ、次第に盛んになり最盛期には約30基が巡行した。祭礼を引き立てる「水口ばやし」は江戸神田囃子の流れを組むという還暦記念植樹左近の桜と右近の橘水口神社(北側から)扁額「式内 水口神社」水口神社(南側から)水口神社神門から拝殿を望む夕焼け沈む東側を望む境内の隅に建つ「滋賀県指定無形民俗文化財『水口曳山祭』〈4月19・20日〉」。水口を代表する水口祭に巡行する曳山は祭礼の顔であり「二層露天式人形屋台」の構造を持ち、下層には囃子方が乗り、上には趣向をこらした「ダシ」が飾られます。祭礼に曳山が登場したのは享保20年(1735)とされており、その後変遷を経て、今日16基が伝存しており県下最多の数を誇ります。江戸時代の近江では、曳山は都市のシンボルとしてその豪華さが競われ、ここ水口でも町人の経済力と心意気によって建造されてきました。曳山の中で演奏される囃子は「水口ばやし」として、その勇壮な調べが人々の心を躍らせ、現在は郷土芸能として、祭礼以外にも盛んに演奏され好評を博しています17:22水口神社境内を振り返る水口神社前の民家の庭先に咲く『リナリア』リナリアとして園芸的に親しまれるのは、一年草のヒメキンギョソウと宿根性のリナリアで、パステルカラーの花色とすらりとした花穂の風にゆれる姿が優しい印象ですホテルへの途中スーパーにより、いつものように今夜の買い出し。18:00宿泊ホテル『グリーンヒルサントピア』所在地:滋賀県甲賀市水口町北内貴1-1前回に続いての宿泊、朝食付きで5,000円とリーズナブル今回は洋室であった年寄にはやはり洋室が良い大風呂に入った後、部屋で明日のスケジュールを確認しながら宴会。明日からいよいよ最後の道中記である。 最後の弥次喜多移動日ーEND
2020.05.01
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日本武尊を祀る能褒野(のぼの)神社を散策。3/20(金) 13:53県道639号線の北方向。道路脇に案内板の『日本武尊御墓』この辺りの桜の蕾は硬い参道入口の石柱は『縣社 能褒野神社』能褒野王塚古墳(景行天皇皇子日本武尊能褒野墓)御幣川と安楽川の合流点に近接する、標高45m程度の段丘端部に所在する前方後円墳である。全長90m、後円部径54m、同高9m、前方部幅40m、同高6.5mで、北勢地域最大規模の古墳である。この古墳から採取されたという鰭付朝顔形円筒埴輪や器材埴輪から4世紀末頃の築造と考えられる。これらの埴輪は、奈良県北部地域や京都府西南地域との関係がうかがえ、畿内周辺地域の勢力が、濃尾地方へ伸展するルート上にある地理的条件によってもたされたものであると考えられよう。日本武尊(倭建命)が東征の帰路に伊勢国能褒野(能煩野)で薨じたとの『記紀』記述により、明治12年(1879)内務省によって「景行天皇皇子日本武尊能褒野墓」に定められ、墳丘の修復に併せて、畿内の王陵墓に倣い周庭帯が設けられた。しかしながら、近世においてはこの古墳が日本武尊の墓という認識はほとんどなかったものと見られる。周囲に十数基の円墳が所在し「培塚」とされているが、これらは後期古墳と考えられる参道を登り石鳥居。能褒野神社の一の鳥居は、JR亀山駅前にあり、二の鳥居は亀山宿の手前にあった静かな参道を進む、宮内庁管理の敷地常夜燈が建ち左側の石柱には「日本武尊御墓参道」能褒野神社境内入り口能褒野神社能褒野神社鳥居と拝殿めずらしく記帳する弥次さん、私も記帳した拝殿の扁額「御祭神日本武尊 能褒野神社」拝殿から参道を振り返る拝殿、社務所石柱には「能褒野墓 飛地ほ号 宮内庁」14:07駐車場で鳥のさえずりが聞こえてくるズームアップすると14:10能褒野神社の東側にある『奈具志理神社跡』の石柱。所在地:三重県亀山市田村町水乃神の碑【倭建命(ヤマトタケルノミコト)之碑】 倭建命は、今からおよそ1600年前に活躍された人で、当時の天皇(父親)の命令で日本の各地 へ遠征し、国内の戦乱を平定されたとされる古代の英雄であり、その神話は今でも人々に永く 伝えられています。東北地方の戦乱を平定された後で、故郷を偲んで和歌を詠まれ、能褒野の 地でその短い生涯を閉じられました。 尚、倭建命が東北の地に遠征した時、その地に子孫を残されて、その子孫が何年かの後、天狗 の姿に身を変えられ亡き父(倭建命)のお墓がある能褒野に辿り着き、その後此の地に住み着か れ原家の御先祖様になられたとのことです。【水乃神の碑】 此の碑は、倭建命の妻であった弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)をお祀りしています。 弟橘比売命は夫の倭建命が遠征の時、荒れ狂う海に自ら飛びこまれて、荒海を鎮め夫を助けら れたとされる神話が永く伝えられています。この神話が水にまつわるとのことで、水乃神様と して倭建命の側にお祀りしました14:13奈具志理神社跡を後に、交差点の右側角に石柱があるが14:20伊勢国府政庁跡所在地:三重県鈴鹿市広瀬町政庁は、中央政府から派遣された国司を中心に、儀式や饗宴などが行われていた国府の中でも最も格式の高い施設です。伊勢国府の政庁は、正殿・後殿・脇殿・軒廊などからなり、周囲には東西約80メートル・南北110メートルの築地塀を巡らしています。政庁の建物はすべて瓦葺礎石建物でその配置や大きさは近江国庁によく似ています。正殿・後殿・脇殿の基壇は、今も森の中に1メートルほどの高まりとして残っており、全国的にも貴重な遺構として保存されています畑の中に林として残っている廻りは畑伊勢国府政庁跡を振り返る14:26国道1号線へ戻ると、もう何度も見たプロペラ機。中古建設機械販売店の社長が組立てたと日本橋から411.8km機体には日本国。機体の重量はどのくらいあるのか14:40亀山の『樋口本陣跡』を探しに亀山市街地へ旧東海道(県道565号線)の路肩へ車を止め、前方は江ケ室交番前旧街道を振り返る、商店街はこの日もシャッター街亀山のアーケード街にある『樋口本陣跡』公園には『旧佐川邸跡』の石柱この木は榎?、木の下に石柱『旧佐川邸跡』立札に何か書いてあったのか14:54前回(1/21)見落とした『浄土宗 終南山光明院 善導寺』所在地:三重県亀山市西町327左の石灯籠寄進は『板倉勝澄公』山門からの本堂元は亀山城本丸付近にあり、岡本宗憲が築城するにあたって現在地に移転したと伝えられる古刹です。境内には亀山城本丸から出土した石造物が安置されているほか、墓地内には江戸時代初期の亀山城主三宅康信室である清光院墓塔や藩校明倫舎学頭の柴田右仲墓(市史跡)があります15:15水口宿へ行く途中遅い昼食をとるために関宿へ立ち寄るが、時間が中途半端で「支度中」と。目的地はここ『山石』であったのだが!所在地:三重県亀山市関町中町521 百五銀行関支店前かんばんには「亀山 みそ焼きうどん」、和洋レストラン上記食堂の軒先には『山石 岩間家』幕末に建った建築で山石は、明治・大正にかけての料亭であった。また廂の屋根の隅に唐獅子の置物が取り付けられているのは、厄除けの一種と思われる江戸後期・明治・大正・昭和のレトロな雰囲気の中でお食事はいかがですか 山石この看板を見て来たのだが、残念ながら支度中、またいつの日か訪れたい山石を振り返る。今日は三連休の初日で観光客も散策していた関宿の京方面観光客が散策、弥次さんもレストランを探しに地蔵院近くへ移動、街道裏に車を止める15:21弥次さんが地蔵院横の『会津屋』前で立ち止まり所在地:三重県亀山市関町新所1771-1メニューおこわが人気の店、今回の道中で数回店先に来たが、時間が遅かったり早かったりで食べれずようやく念願叶う店内に入り「山菜おこわ・そば」1,180円をオーダーそば・おこわとも美味しかった。おこわに南天の葉がなんとも風情がある店内では孫を連れて来店女の子で10カ月?15:51既に、ひな祭りは終わっていたが『会津屋』の札。『会津屋 森元氏宅』会津屋は鶴屋、玉屋とともに関宿で有数の大旅籠であった。明和から天明にかけて会津屋の前身山田屋で育った小万が女の身で亡き父の仇を討った烈女「関の小万の物語」は有名である 最後の弥次喜多移動日-続く
2020.04.30
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東海道五十三次の最後の弥次喜多道中の、延べ日数30~32日目の挑戦へ。今回は京都三条大橋のゴールを目指すので、3泊4日の旅を弥次さんに計画願った。天気が良いとのことで、3月20日(金)の朝弥次さんに我が家へ来ていただき出発。いつものよ うに今までで見落とした所、尋ねたいところはとのことで日本武尊を祀る『能褒野(のぼの)神社』をリクエスト。カーナビを『能褒野神社』にセットし、いつものように一般道路優先で出発。3/20(金) 6:11 春分の日今日も朝から天気が良く富士山がくっきりと見える西湘バイパスからの箱根の山並み、正面は二子山、右に駒ケ岳6:24西湘バイパスの酒匂川辺りからの富士山6:46標高846メートルの箱根峠へ。三連休の初日だが新型コロナウイルスの影響か渋滞もなく順調にここまでくる6:53山中城の裏側を走るバイパスからの富士山国道1号線からの函南辺り6:55食堂 富士見平所在地:静岡県三島市谷田2304-7食堂は時間が早く開店前。食堂の外観は営業しているのか?の感だがネットで調べると、ボリュームたっぷりの定食が自慢で、お刺身、麺類、おつまみなどメニュー数が豊富であると店の裏を箱根峠からの新国道1号線が走り、旧国道はこの上を右へ入る左側は旧国道1号線、右へ上ると旧東海道の『山中城址跡』「食堂 富士見平」横の旧東海道最近バイパスが完成し、この旧東海道も完成していた。山中城辺りからまっすぐ下りて来る完成した旧東海道からの富士山箱根旧街道:浅間平地区の石畳復元・整備慶長9年(1604)江戸幕府が整備した東海道の中で、小田原宿と三島宿を結ぶ、標高845mの箱根峠を越える箱根八里(約32km)の区間に当たる。この旧街道には、通行の人馬を保護する松や杉の並木が作られ、道のりを正確にするための一里塚が築かれ、またローム層の上で大変滑りやすい道なので、延宝8年(1680)頃には石畳の道に改修された静岡県下の「夢舞台東海道」登り口に芭蕉の句碑「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き 芭蕉」7:05国道1号線を下るこの先の「三島塚原I.C」から伊豆循環自動車道へ入る、前方は、三島・沼津市街地伊豆循環自動車道からの富士山宝永山噴火口をズームアップ7:41国道1号線の「東田子の浦」辺りからの富士山、西からの風が強いようで雪が舞う7:54由比バイパスから三保の松原、日本平を望む。薩埵峠からの富士山も綺麗であろうが、既に撮影しているので今回は先を急ぐ8:48掛川の粟ヶ岳の「茶文字」、以前は松を植えていたが現在の木は、『ヒノキ』とのこと。旅友から「幼少のころ遠足で行った」とのコメント、あれから40年記憶がいいですね!9:48国道1号線(浜名バイパス)の浜名大橋今回の弥次喜多道中で何度目の通行になるか?11:05国道23号線(岡崎バイパス)の『道の駅 筆柿の里・幸田』。所在地:愛知県額田郡幸田町大字須美東山17-5筆柿が気になり、トイレ休憩で立ち寄る幸田町観光案内所道の駅 筆柿の里・幸田パーキング。道の駅にはレストランもあり、メニューで「筆柿味噌カツ丼」980円、丼ご飯の上に千切りキャベツ、その上に揚げ茄子と豚カツ、胡麻ダレをかけ、その上に柿ペーストがある筆柿ようかん、筆柿極上ゼリー特産物の「筆柿(通称:珍宝柿)」形が筆の穂先に似ていることから「筆柿」とよばれ、幸田町が生産量日本一を誇ります。富有柿や次郎柿より約一カ月早く収穫でき、一足早い秋の味覚として親しまれていますとろーり食感「たま麩」どのようにして食べるのか、安いので買えばよかった!12:23国道23号線を走り木曽川に架かる「木曽川大橋」12:25揖斐川に架かる「揖斐長良大橋」12:48国道23号線を走り四日市市街地に入ると渋滞。裏道を走ることに、この先を右折して山側へ12:53国道1号線を横切り、県道64号線を西方向へ進む13:08久保田橋北詰交差点を左折して三滝川を渡る13:12久保田橋を渡り南詰交差点を右折して国道477号線を三滝川の上流方面へ進む。この先の、新尾平橋南詰交差点を左折して県道8号線を南下する引き続き県道8号線を南下13:49能褒野(のぼの)神社駐車場所在地:三重県亀山市田村町1409のぼのの森公園古代より伝えられる「日本書紀」や「古事記」によると、景行天皇の皇子日本武尊は東征の帰路に、この地「能褒野」で亡くなり墓が営まれたとされています。その日本武尊御墓周辺の良好な自然環境と四季折々の木々が広がる、のぼのの森公園での散策をお楽しみくださいヤマトタケルの能褒野御墓(亀山市田村)「能褒野王塚古墳」 能褒野王塚古墳は、全長90m、高さ9mの規模を持ち、4世紀後半の築造とみられる北勢 地域最大の前方後円墳です。平安時代以降、ヤマトタケルの墓の所在地は不明となってい ましたが、明治12年(1879)に内務省によって能褒野王塚古墳がヤマトタケルの墓と定め られました。「能褒野神社」 能褒野御墓が定められると、墓に隣接してヤマトタケルを祀る神社創設の機運が高まり、明 治18年(1885)に能褒野神社が創社されました。ヤマトタケルのほか、オトタチバナヒメ(弟 橘媛)タケカイコノミコ(建貝児王)が祀られています。また、明治41年(1911)には、式内社 の県主神社や那久志里神社などが合祀されています駐車場の前は県道639号線の南方向設備の銘板をズームアップ『亀山市井田川・能褒野汚水第一中継ポンプ場』 最後の弥次喜多移動日-続く
2020.04.29
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佐屋街道の佐屋代官所跡址から今夜のホテルがある亀山宿へ向かう。2/20(木) 14:41道標「左 さや舟場道」舟場への道を示すものである。この道標は、佐屋町故山田秀信氏の屋敷内にあったが、同氏の好意により寄付を受け、昭和54年此処に建てた江戸時代このあたりは佐屋宿舟番所前で旅籠(近江屋)があった。現在このブロック塀上に見える「きこくの生垣」は、尾張藩士小田切春江によって天保年間に発刊された「尾張名所図会」にも描かれており、当時の姿を今に伝える貴重なものである佐屋駅 渡口背の高い木が「キコク(枳殻)」カラタチの別名。中国原産のミカン科の植物で、揚子江沿岸地域に自生しており、わが国への渡来は今から1000年前といわれる。果実の香りがよい所から庭木として鑑賞され、また生垣用として利用された14:56佐屋舟場道を出発し、カーナビを亀山の宿泊ホテルにセット。県道458号線(一宮弥冨線)を南下して国道1号線と合流して右折。手前はJR関西本線、近鉄名古屋線の高架カーナビは国道1号線の「尾張大橋東交差点」国道1号線との合流で渋滞15:02木曽川を渡る国道1号線の尾張大橋尾張大橋は愛知・三重の県境の橋であり、昔は橋の上から釣り人が多くいてカメジャコで大ウナギが釣れたが現在は釣り禁止になっている15:10木曽川を渡り国道1号線の「伊勢大橋東詰交差点」この交差点を左折すると、400mで「なばなの里」、7kmで「長島温泉」。なばなの里は、最近ライトアップ等で人気のスポットである長良川を渡る、伊勢大橋下流側に「長良川河口堰」長良川河口堰は、水害の危機に脅かされている長良川沿岸の住民を洪水の被害から守るとともに、新たな水資源を開発するための施設で、1988年着工、1995年に紆余曲折を経て完工。施設諸元/型式は、可動堰(調節ゲート 10門、閘門ゲート 1門、ロック式魚道 1門) 堰総延長は661m、固定部分106m)。施設を見学できる昨年11月24日(日)に、桑名の渡し(住吉神社前)からみた長良川河口堰伊勢大橋からの上流側山は伊吹山か? 夏は高山植物が咲き乱れる所でいつか行きたい場所であるズームアップ、雪が積もっているのか白い山肌渋滞の伊勢大橋を進む15:15長良川河口堰を見学に行きたかったが・・・・・・・。道が遠回りになるので今回はあきらめる15:32国道1号線を進む16:14亀山への途中、国道1号線の采女一里塚近くの「血塚社」へ立ち寄る。今年1月20日(月)に立ち寄っているが、弥次さんの要望で再度訪問した日本武尊御血塚の石柱 16:25石薬師宿の石薬師寺山門ここも今年1月20日(月)に立ち寄っているが、境内の花が咲いているだろうとのことで今回、再度訪問した境内へ入り枝垂れ梅が咲いていた石薬師寺本堂へ紅梅のしだれ梅境内からの鈴鹿市街地16:40石薬師寺の鐘楼16:53国道1号線を進むと右前方に、プロペラ機が離陸?中古建設機械販売店の展示飛行機であった17:06亀山のホテル近くのコンビに到着今夜の夕食を買いホテルへ行くが、チェックインは19時からとのことで再度時間つぶしで関宿観光へ行くことに。17:32まずJR亀山駅へ駅前の観光案内板通常案内板は上側が北であるが、ここは逆で下側が北で、亀山宿は駅から下側に。従って関宿は右方向の西へJR亀山駅前の『能褒野(のぼの)神社一の鳥居』旧東海道筋に、二の鳥居がある亀山駅舎内17:49関宿へ到着前回1月21日(火)に訪れているが、今回は車で旧東海道を移動。一方通行であるので『小萬のもたれ松』から京方面へ進む明日(2月21日)もJR関駅から土山宿へ向けて歩くのだが、早朝であるので夕闇の関宿を散策前回1月21日は雛祭りの準備をしていたが、今回は室内に飾ってあった民家の前にも「ひなまつり」の幟東海道のおひなさま「おひなさま展示中」とあったが閉め切ってあったので外から格子のすき間から覗く車を止め街道を歩く立派な段飾り2020年4月8日(水) 14:30東京オリンピック聖火リレーが店前を通過 『菓子処 いちみ』。折角の予定も延期になるのか?関宿まちかど博物館こちらでは、2020年 東京オリンピック聖火リレー店頭の通過時刻決定!! 4月8日(水) 午後2:30ひなまつりのポスターは「10周年記念 東海道のおひなさま」 開催期間:令和2年2/15(土) ~ 3/7(土)17:54コーヒーの店とあるが既に閉店旧東海道を振り返る18:00西の追分方向明朝はここから西方向の土山宿へ向かう旧東海道を振り返る、こちらからは一方通行のため車は侵入できない関宿の『地蔵院』前回1月21日(火)はここまで歩いてきたが、その時の歩数は、39,100歩であった18:08関宿の『地蔵院』からホテルの駐車場へ戻る夕焼けの鈴鹿の山明日の天気がよいことを祈り、ホテルへチェックイン夕食は、コンビニで買いだした酒&つまみで宴会。 関宿への移動日ーEND
2020.04.05
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佐屋街道は、寛永3年(1626)と11年(1634)の三代将軍徳川家光の通行を契機として整備が進められた。寛文6年(1666)には幕府の道中奉行が管理する官道に指定された。この街道は、熱田(宮)宿と桑名宿を結ぶ七里の渡しの風雨による欠航や、船酔いを嫌う多くの旅人が行き交い、東海道の脇往還として非常に賑わっていた。商用や社寺参りの人々、参勤交代の大名行列、さらにはオランダ商館のシーボルトや十四代将軍家茂、明治天皇もこの道を通行している。永年にわたり日本の幹線道路網の一部を担ってきたこの街道も、明治5年(1872)の熱田と前ヶ須新田(現弥富町)を結ぶ新道の開通により、その役目を終え、現在では地域の幹線道路として親しまれている。2/20(木) 13:35佐屋街道沿いに大きな常夜燈、右側の角に万場宿の高札場があった光圓寺へ真宗大谷派 光圓寺所在地:愛知県名古屋市中川区万場2丁目1003山門の扁額「臥龍山」山門からの本堂山門を入り、鐘楼、三重塔、本堂本堂の扁額「我聞如是」鐘楼と三重塔、右奥に本堂が並ぶ境内に蓮如上人御巡化の像新しい三重塔三重塔の扁額境内からの山門山門の木組み光圓寺から佐屋街道を歩き覚王院へ戻る13:43国玉神社の拝殿 13:47万場交差点、上の高架橋は名古屋高速5号万場線万場交差点を通り抜け狭い道を進む13:49佐屋街道を進む佐屋街道の高札場跡(大治町)13:53西條平ヶ野交差点14:01佐屋街道は県道68号線を進む14:05神守の一里塚所在地:愛知県津島市神守町下町神守の一里塚江戸時代、佐屋街道の一里塚の一つとして造られた。一里塚は、街道の両側に一里(約4キロメートル)ごとに設けられ、その上にエノキを植えて旅人の目印にしたものである。昔は北側の塚が東西7.3メートル南北6.7メートル、高さ1.5メートルの小山でムクが植えられ、南側の塚は長径5.5メートル、短径4メートル、高さ1.4メートルの小山にエノキが植えられていたという。佐屋街道の一里塚の中で、最後まで街道の両側の塚が残っていたのはここの一里塚であったが、今は北側の塚が残っているだけである塚には灯籠が県道68号線一里塚の全景つしましのおすいマンホールデザインは、尾張津島天王まつりのまきわら舟と市の花フジ神守ふるさと散歩道江戸時代、東海道「七里の渡し」に代わる脇街道として利用された佐屋街道。正保4年(1647)万場と佐屋の距離が長いので、中間点の神守に宿がおかれた。ひなびた風情の町並みや、一里塚が残る神守の路。あなたも江戸時代にタイムスリップしてみませんか・・・・・・・・14:11佐屋街道を進む14:17道標の石柱右:つしま・・・、左:さやみち道路の両側に常夜燈津島街道埋田追分埋田町のここには津島神社(天王様)の一の鳥居(昭和34年の伊勢湾台風で倒れて台石のみ)と常夜燈(夜どおしあかりをともすとうろう)一対追分(別れ道)をあらわす道標が残っている。江戸時代ここから右は津島神社への道、左は「佐屋の渡し」への佐屋街道と分かれる所で江戸時代の終わりごろには茶店などもあって通る人々でにぎわい、大正時代ごろまでは松並木が続いていたまた熱田から津島までの道を「下街道」と呼んでいたが、今は耕地整理や新しい町づくりで道すじもかわり、ほとんどがすたれてしまっている。佐屋街道は熱田から岩塚万場(共に名古屋市)砂子(大治町)、神守の宿(宿場)を経て津島追分から佐屋にいたり佐屋川を船で下って桑名へと続き、東海道の脇街道として熱田から桑名までの「海上七里の渡し船」をきらった人達に広く利用されていた。徳川三代将軍家光や、明治天皇の通られた跡や記録が街道各地に残されている14:26県道68号線を進み、名鉄尾西線、名鉄津島線の踏切14:27内佐屋交差点を左折して県道458号線(一宮弥富線)へ14:30佐屋海道址史跡 佐屋海道址かつて東海道の脇往還として多くの往来がみられた佐屋路。往時の栄華を後世に語り継ぐため、昭和54年(1979)11月に碑が建てられました県道458号線(一宮弥富線)沿いに立つ石碑14:31佐屋街道を南下13:38佐屋代官所址所在地:愛知県愛西市佐屋町宅地佐屋代官所址佐屋路が名実ともに天下の往来となったのは、三代将軍徳川家光が上洛の折、道中の宿泊に使う「御殿」を佐屋に建てたことからといわれています。佐屋路の隆盛にともない、尾張藩は藩の海東・海西の109村を治める代官所を佐屋に設けました。街道の治安と、三里の渡しを監督する海の関所的な仕事も手がけていたようです愛西市の歴史にふれて散策しよう!佐屋路江戸時代、幕府は東海道はじめとする街道を整備するとともに、宿駅制度も整備しました。東海道は宮(熱田)から七里の渡しで桑名へ渡るルートをとりました。七里の渡しは、通行の際支障をきたすことが多く、幕府は佐屋宿を創設し、桑名への三里の渡しでもって渡るようにしました。それに伴い、宮と熱田を結ぶ脇往還佐屋路が整備され、多くの通行人で賑わいました。宮宿から桑名宿への距離は? ・宮宿から海路での桑名宿への距離は、七里。 ・佐屋街道の陸路は佐屋宿まで、六里。桑名宿への海路が三里で、計九里。よって、佐屋街道の陸路+海路は、二里の遠回りとなる佐屋宿その昔、あらいの渡しと呼ばれていました。交通上の要衝であったことから元和年間佐屋奉行が設置され、寛永年間佐屋宿が創設されました。徳川家光の上洛をはじめ、多くの大名、文人らが往来しました。大名らが宿泊する本陣のほか旅籠も建ち並び、多くの商家も営業していました。本陣は岩間権右衛門家と加藤五左衛門家が勤め、加藤家は問屋も兼務しました。陸上交通と水上交通の結節点として、また他国との境界として佐屋宿は重要な位置を占めていたことは、天明元年(1781)代官駐在制採用の際、水野(瀬戸市)・北方(一宮市)とともに佐屋代官所が設置されたことからもうかがえます史跡 東海道佐屋路佐屋三里の渡址佐屋と桑名を結ぶ海路三里の船旅は当時多くの旅人が利用したといわれています。明治の中頃に佐屋川が廃止され、農地転用されるまで大いに賑わいました佐屋駅 渡口その昔は、ここまで佐屋街道を歩きここから舟に乗り、三里の渡しで桑名宿へ行ったと。現在は、道路脇に「佐屋三里之渡址」の石碑のみが残るが、今回は訪問しなかった佐屋宿を通った人々懐恩碑と加藤高明内閣総理大臣の碑加藤高明内閣総理大臣の碑加藤高明は、万延元年(1860)正月3日 父 服部重文(佐屋代官所手代)・母 久子の次男として佐屋で誕生、幼名は総吉 7歳で祖父と共に名古屋に移住し14歳で加藤家を継ぎ高明と改名。東京大学卒業後、三菱会社・船舶会社を経て官界に転じ、特命全権駐英大使・外務大臣等を歴任憲政会総裁に推され、大正13年(1924)内閣総理大臣に就任 大正15年1月国会で演説中に倒れ同月28日逝去 享年67歳 伯爵正二位大勲位菊花大綬章を授かる。由緒あるこの地(生誕地はここより南方約百米)に直筆の碑を柚木から移し建立した故郷を遠く離れて暮らし、故郷を懐かしく思うと共に、感謝とお礼の意を込めて加藤高明伯が揮毫したもの 関宿への移動日ー続く
2020.04.04
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東海道五十三次の弥次喜多道中も終盤に入り今回累計28、29回目の道中記です。弥次さんに我が家へ来ていただき、6時半に自宅を出発して今夜の宿泊地三重県の亀山へ向かう。今回も関宿への移動日に、宮宿から桑名宿への七里の渡しに代わる陸路である「佐屋街道」を車で走ることを計画した。2/20(木) 6:44国道134号線を走り、相模川のトラスト湘南大橋上からの富士山、手前の山は湘南平6:51大磯漁港、陽も上がり西湘バイパス小田原辺りからの相模湾7:26箱根峠を越え三島向けに向けて下る。工事が終了したばかりの国道1号線の「食堂 富士見平」辺り、前方は旧東海道の下り坂7:35国道1号線沿いの「錦田一里塚」7:37国道1号線の谷田東小山交差点を右折して県道22号線へ。カーナビは国道1号線が渋滞しているので三嶋大社前を案内9:33掛川市の山肌に「茶」文字10:06国道1号線を走り天竜川へ、前方に「アクトシティ浜松」10:44国道1号線(浜名バイパス)の浜名大橋手前浜名大橋を渡る今切新居堤(今切口西堤)の西側の砂浜11:15カーナビは、国道23号線(豊橋バイパス)を下り、蒲郡街道(国道23号線)を案内豊橋バイパスを下り、豊川橋北交差点を斜め左方向へ進み、国道23号線(蒲郡街道)へ。カーナビのセットは熱田神宮11:30この先を斜め左方向への国道23号線へ11:41国道247号線の水竹町一反田交差点を右折県道73号線(三河湾オレンジロード)を北上11:48県道73号線の上大内東交差点を右折して、蒲郡ICを入り国道23号線へ交差点の角に「えびせん工房一色屋」無料試食や無料ドリンクのサービスがあり、次回は立ち寄りたいものです。エビせんべいの種類が豊富で、海老煎餅、イカの姿焼きもあるとのこと11:51国道23号線(名豊道路)の蒲郡バイパスから、三河湾を望む12:34名古屋市内へ入り、県道59号線を左折12:38県道59号線の名和北交差点を右折して国道247号線へ前方は名鉄常滑線の高架12:41国道247号線は天白川を渡り柴田本通3交差点12:54国道247号線を北上し、内田橋で左下に「宮の渡し公園(七里の渡し)」を見る。橋を渡り終えると左手に『あつた蓬莱軒 本店』昼時でもあり観光バスも来ていた国道247号線は国道1号線との交差点「熱田神宮南」。ここから国道19号線で佐屋街道へ向かう熱田神宮南交差点を過ぎ、右手に熱田神宮12:58熱田神宮を過ぎ、新尾頭二丁目交差点13:00国道19号線の金山新橋南交差点、ここを左折する。直進すると名古屋城へ行ける交差点の角に大きな石碑、『佐屋街道(さやかいどう)』へ道標は、文政4年(1821)佐屋街道の旅籠仲間が、伏見通りから尾頭橋へ抜ける佐屋街道の分岐点に当たるこの地に建てたもの。戦災に遭い破損したが、その後修理された。道標には「東 右 なこや 木曽海道」七里の渡しを渡る船が苦手な人向けに「姫街道」と呼ばれる陸路もあったとのこと。その陸路というのが『佐屋街道』と呼ばれた道であり、「宮宿(七里の渡し)→ 佐屋宿 →桑名宿」というルートも整備されたようです。ただし、佐屋街道はすべてが陸路ではなく、さすがに濃尾平野最大の川幅を誇る木曽川には橋を架けることはできなかったようで、木曽川まで来たところで船着場が設けられることになります。その木曽川のほとりに築かれた船着場を「佐屋宿」と言い、ちょうど佐渡宿から約3里(約12km)下った先が桑名宿だったというワケです。このことから七里の渡しに倣い、別名で「三里の渡し」とも呼ばれていました。また、佐屋路の随所には宿駅が置かれ「佐屋」「神守」「万場」「岩塚」と言う4宿が存在した。特に犯罪や乗船中のトイレを懸念して、乗船を拒んだのが女性や子供であったことから、この迂回路は佐屋街道と呼ばれた以外にも「姫街道」とも呼ばれていた。 画像引用先:ウィキペディア13:01金山新橋南交差点を左折し県道115号線を西方向へ進む尾頭橋東交差点前方は堀川に架かる尾頭橋13:03名古屋高速4号東海線の高架、県道115号線を進む13:05東海道新幹線の高架県道115号線を進む13:08明治天皇御駐蹕之所の石柱明治天皇も行幸の時、ここを歩いたのであろうか13:09長良町3交差点、県道115号線はここを右折するが、佐屋街道は直進佐屋街道は西へ直進前方にJR関西本線の高架13:12松葉町一交差点を直進、前方はJR関西本線、近鉄名古屋線の高架13:18佐屋街道は庄内川の土手に突き当たり、左に折れ堤防に上がり右折して県道106号線へ13:20カーナビは、弥次さんのiPhoneで誘導県道106号線(鳥ヶ地名古屋線)、前方は名古屋高速5号万場線の高架。この先の万場大橋東交差点を左折、万場大橋を渡りきり左折して佐屋街道へ13:23佐屋街道を進む13:30真言宗 医王山 覚王院所在地:愛知県名古屋市中川区万場2丁目705覚王院本堂本堂の扁額「観世音」覚王院の隣に「国玉神社・八劔社相殿」国玉神社・八劔社相殿創建は古く「尾張志」によれば、尾張大国霊神社(現在の稲沢市国府宮)より勘請したという。「延喜式神名帳」に国玉神社、「本国神名帳」に従二位国玉名神と記載されている式内社である。明治元年(1868) 八劔社を合祀。同年明治天皇が東幸の際、勅使より奉幣を享ける。・・・・・。当社前の道は佐屋街道(東海道の脇往還)で、南西曲がり角は万場宿の高札場となっていた国玉神社拝殿拝殿の扁額「國玉神社 八劔社 合殿」国玉神社前から佐屋街道を振り返る。前方は庄内川の堤 関宿への移動日ー続く
2020.04.03
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初めての熱田神宮参拝を続ける。1/19(日) 15:14織田信長が桶狭間の戦いで大勝しその御礼で奉納した『信長塀』飲み友達(後輩)のよく似た人がいるが永禄3年(1560)織田信長が桶狭間出陣の際、当神宮に願文を奉し大勝したので、その御礼として奉納した塀である。土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねている。三十三間堂の太閤塀、西宮神宮の大練塀と並び日本三大土塀の一つとして名高い参道東側の高床の「六末社」第二鳥居を出て参道の東側に立つ『佐久間燈籠』尾張国御器所の城主、佐久間盛次の四男大膳亮勝之が海上で台風に遭った際、当神宮に守護を祈り難を免れたので寛永7年(1630)その御礼として寄進された。京都南禅寺東京上野東照宮の大燈籠と共に日本三大燈籠として名高い日本三大燈籠だけに大きい二十五丁橋参道の西側にある尾張名所図会や名古屋甚句で名高く、板石が25枚並んでいることから二十五丁橋といわれる甚句には「宮の熱田の二十五丁橋で西行法師が腰を掛け、東西南北見渡してこれ程涼しい此の宮をたれば熱田と名を付けた」とある名古屋甚句二十五丁橋を西側から見る参道西側の休憩所、近くに西門がある15:24第一鳥居を振り返る。鳥居の右側に無料駐車場があったが満車で駐車待ちの車が多く待機15:28熱田神宮 正門(南門)から、「秋葉山 圓通寺」に戻る。所在地:愛知県名古屋市熱田区神宮2丁目3-15手前右奥に「奥之院毘沙門天並びに降魔不動尊」。秋葉山 圓通寺日本最古の秋葉大権現出現の霊地秋葉大権現(火の神様)今より1800年程前日本武尊を火難よりお救いになった秋葉大権現は「火防守護・諸難消滅・心願成就」の大誓願をもって日本で始めてこの地に「秋葉神社」として尾張氏により祀られる(後の圓通寺)・・・・・・・・・・境内には多くの車が駐車、我々もそうであったが弥次さんが御朱印を頂く子持石この石は通称「子持石」という、この石に祈願すれば子宝が授かります三波石:天然記念物 群馬県鬼石特産奉 納:群馬県藤岡市 黒沢義広補陀山 圓通寺本堂の扁額補陀山 圓通寺 十一面観世音菩薩創 立:弘法大師空海、弘仁年間(810年頃)開 山:勅徳賜大???誓海義本、明徳2年(1391)開 基:尾張氏 現在田島氏毘沙門天王境内の南側隅にある『紅流』三波石:日本三大銘石の一つ、天然記念物 学 名:秩父?層、水成岩産 地:群馬県鬼石奉 納:群馬県藤岡市 黒沢義広15:35秋葉山圓通寺を後にし、カーナビを「四日市アーバンホテル」一般道優先でセット15:44国道1号線の白鳥橋西交差点を左折して国道154号線へカーナビは、目的地まで33kmで到着予定は16:48と標示15:54港陽I.C で国道23号線と合流、四日市方面へ進む。渋滞でカーナビが迂回路を紹介したが直進する16:17途中昼食を摂っていなかったので、国道23号線沿いの「かつや 弥冨店」へ立ち寄る。かつ丼 539円をオーダー、値段の割に美味しかった!16:52久しぶりにかつ丼を食べ満足国道23号線を走り三重県に入る鈴鹿山脈に夕陽も沈み、明日は天気がよいのであろう17:04国道1号線の金場町交差点17:25ホテルでの駐車が24時間1,100円を要するので、ホテル廻りの駐車場を探すが、全て同金額であったのでホテルへ。宿泊ホテルの「四日市アーバンホテル」へ到着。17:46近鉄四日市駅前のライトアップ右側は近鉄百貨店 四日市店駅前広場ビルのウインドーに映える四日市市内の名所案内末広橋梁:国の重要文化財である、現役最古の鉄道可動橋。 最新情報では、昨年の2019年に停止している中央通りJR四日市駅方面中央通りの広場像は「躍進」祝 東京 2020 オリンピック出場!!男子マラソン:中村匠吾 選手 女子レスリング53kg級:向田真優 選手日本各地でこのような垂れ幕が近鉄四日市駅入口四日市市のマンホールデザインは、港の船と、コアラ&パンダ18:10こちらのデザインは、歌川広重の「東海道五十三次 四日市」夕食は近くのコンビニで買い出し、いつものように部屋で明日のための英気を養う。今日の歩数は、6,014歩。 四日市宿への移動日-END
2020.03.05
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無量寿寺の散策を続ける。1/19(日) 13:27杜若姫供養塔(中央)、祖風翁之墓(右)花崗岩で作られた宝篋印塔で、全高は約1m。全体に風化が著しいが基壇は矢作川流域にみられるれ蓮華を省略した形式のものである。笠は五段であるが四隅の耳を欠き、相輪も途中で折れており塔身の四仏の梵字もはっきりしない当地の伝説によると、杜若姫は小野中納言篁の娘とされ、東下りの在原業平を恋い慕って、ようやくこの八橋で追いついたが、業平の心を得ることができず悲しんで池に身を投げて果てたとされる。この塔は、姫をあわれみ建てたものと思われる祖風翁の句碑 遺章 かきつばた 夏も むかしの なつならず井村祖風は池鯉鮒の旅宿山吹屋の主人で俳人です。延享元年(1744)江戸向島に生れ、芭蕉に私淑して俳諧の道に励み、多くの文人墨客らとも交わりました。岡﨑藩主家の本多忠寛(俳人三秀亭李喬)と親交があり、その縁で山吹屋の跡を継ぎました。山吹屋には蜀山人、太田南畝も訪れ、八橋の方巖売茶とも交わるなど風雅の生活を送り、池鯉鮒を代表する文化人でした。現在知立神社にある芭蕉の句碑「不断たつ 池鯉鮒の宿の 木綿市」は祖風が同好の士とともに建てたものです。この墓と書かれた祖風の句碑は、祖風没後2年の文化8年(1811)に、門人らによって経巻型式で建てられました伝説羽田玄喜二児の墓昔、野呂宿(八橋)に羽田玄喜という医者がいた。妻はこの地の荘司の娘で二人の男児があった。夫は早くに死に、女手一つで二児を育てていた。ある日妻が生活の糧にと浦で海藻をとっていると、母を慕って来た二児が、誤って水に落ち溺れて死んでしまった。妻は、悲しさのあまり当寺に入り、尼となって子の墓を建て菩提を弔った。またお告げにより、浦に流れ着いた材木で橋を八つかけた。以後、この地を八橋と名付けたと伝えている在原業平と万葉椿八橋の街道沿いには、珍種といわれる”万葉椿”が多く見られる。文献によると、椿は日本古来よりの花木で、万葉の頃から、椿をよみこんだ歌もみられる。在原業平も東国への旅に出て八橋に至り、この里にて金魚の尾に似た椿の葉を見つけ”万葉椿”とよんだところ、その後村人達は、業平万葉椿と呼ぶようになったと言い伝えられている神社西側にある、かきつばた池土を入れ替えて整備していた無量寿寺本堂13:33日𠮷神社拝殿約40分程の参拝で無量寿寺を後にした。今日は日曜日にもかかわらず観光の人は少なかったが、杜若の咲く4月~5月頃は、多くの人々で賑わうのであろう。13:53熱田神宮へ向かう途中、知立市と豊明市の境にある『境橋』へ立ち寄る。国道1号線から右斜めに入るが右折禁止のため左折してUターンして「境橋」へ橋を渡り境橋を振り返る。境川に架かり三河国と尾張国の境である。当初は東側(三河側)が土橋、西側(尾張側)が板橋の継ぎ橋だった。京都の公家・烏丸光廣が詠んだ狂歌が有名。「うち渡す 尾張の国の境橋 これやにかわの 継目なるらん 光廣」橋のたもとに石が置かれ、狂歌が刻まれていた説明板には、狂歌集、古今夷曲集が刊行された寛文6年(1666)当時の境橋は、尾張側は木橋三州側は土橋の所謂継橋として有名であった。詠み手は、京都烏丸に邸宅のあった権大納言正二位、藤原朝臣光広卿で俗に烏丸と称された13:56尾張側から江戸側を望む14:15カーナビを「熱田神宮」にして走る。国道1号線を走り、桶狭間古戦場近くを走り過ぎる14:35国道1号線を走り、伝馬町東交差点。この先の交差点を右折するのだが、日曜日で熱田神宮への参拝者の車で渋滞この先の、伝馬町交差点を右折14:40ここ伝馬町交差点を右折するが、向こう側からも多くの車が伝馬町交差点内14:55伝馬町交差点を右折しても熱田神宮への車で渋滞。このため手前にある「秋葉山 圓通寺」境内へ駐車する。所在地:愛知県名古屋市熱田区神宮2丁目3-1514:59熱田神宮 正門(南門)からの第一鳥居。私にとって初めての参拝である熱田神宮である。所在地:愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目1-1境内案内図天照大神、日本武尊、素戔男尊、宮簀姫命などの五神を祀る。天皇の皇位継承の「三種の神器」のひとつ、草薙剣が御神体。源頼朝が大宮司舘で生まれたといわれ、天皇家、源氏一族、織田、豊臣、徳川と武家の尊崇が篤く、代々尾張氏一族が祀官を世襲した。織田信長が、桶狭間の戦いでの戦勝報賛のため寄進した「信長塀」は日本三大練塀の一つ第一鳥居の手前を左に入り「上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)」御祭神は「乎止興命(おとよのみこと)」で尾張氏の祖先とされており、尾張国造でもあります。商売繁盛や家内安全、そして知恵の文殊の神様です。1月5日の「初えびす」はとても盛大なお祭りだそうです上知我麻神社の北側にある「別宮 八剣宮」別宮 八剣宮は熱田神宮の本宮に次ぐ社格で、御祭神も本宮と同じ神様が祀られています。和同元年(708)に鎮座されています。延喜式内社です。八剣宮の「八」は「弥々」と読み、「ながし」「ひさし」の意味で永遠の剣の宮という意であるとのこと別宮 八剣宮からの上知我麻神社木製の第一鳥居第一鳥居を入り参道を北へ向かう。参道に「初えびす」の垂れ幕があるが第二鳥居を過ぎ、参道左手に樹齢千年の「大楠」。境内には多くの楠の木が茂生している。その内、特に大きなものが七本あったので、俗に七本楠と称している。この楠は弘法大師お手植えとも伝えられ、樹齢は千年以上といわれている桜も満開第三鳥居信長塀織田信長が桶狭間の戦いでの戦勝報賛のため寄進した「信長塀」は日本三大練塀の一つ第三鳥居を入り右手に「神楽殿・授与所」熱田神宮・本宮本宮前には多くの参拝者が列をなしていた杉の木立に囲まれた風格のある神社本宮前の参拝者授与所の前にも多くの参拝者神楽殿ならずの梅この梅は、享禄の古図(1529年頃)にも描かれている奇木で毎年2月上旬頃から、薄桃色の清らかな八重の花が咲き始める。一度も実をつけたことがないので「不実梅(ならずのうめ)」と名付けられ古くから有名である15:14西楽所(にしがくしょ)貞享3年(1686)五代将軍綱吉の再建による。毎年5月1日の舞楽神事には、この楽所前に特設舞台を組み伶人がここで楽を奉する。もとはこの西楽所(右楽所)に相向いあって東楽所(左楽所)もあった 熱田神宮ー続く
2020.03.04
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東海道五十三次で四日市宿への途中、弥次喜多道中で行けなかった知立市の無量寿寺へ立ち寄った。無量寿寺は、名勝八橋の中心となるお寺で、杜若の名所で知られた臨済宗妙心寺派の寺院。昔の八橋のあたりは、湿地帯で多くの小川が流れ、八つの橋を架けたことからその名前が付いた。杜若が咲く水郷のような景色の良いところだった。八橋の無量寿寺の杜若は在原業平の和歌で有名になり、古くから文人墨客が訪れた。業平は都から東に下る途中、八橋の美しい杜若を見て都に残した妻を偲び「かきつばた」の五文字を句頭に入れた。1/19(日) 8:57午前中の薩埵峠からの富士山11:15薩埵峠で富士山を見た後国道1号線を走り、浜名バイパスの浜名大橋からの西方面浜名バイパスから、『元白須賀一里塚跡』辺り浜名湖カントリークラブの風力発電11:24潮見バイパス(国道1号線)の「道の駅 潮見坂」所在地:静岡県湖西市白須賀1896-2道の駅に立ち寄る足湯があったが、この足湯は太陽熱を利用していると利用時間:10時 ~ 16時まで11:54東名高速道路を使用せず一般道を走る場合、カーナビはこのルートを案内する。豊橋東I.Cで、国道1号線から国道23号線(豊橋東バイパス・名豊道路)に入いる。自動車専用道路でスピードを上げる。豊川橋を渡り前芝ICを直進する11:58国道23号線(豊橋バイパス)はここで終了、この先は延伸工事中。豊川為当(Toyokawatameto)I.Cを降り一般道(県道31号線)へ、ここを右折12:00県道31号線を300mほど北上、森5丁目交差点を左折。500~600m西へ走り、この森1丁目交差点を右折して北上左のネットは、愛知県立国府高等学校所在地:愛知県豊川市国府町下坊入10-112:03国道1号線の白鳥町交差点を左折12:24しばし国道1号線を走るが、弥次喜多で歩いた旧東海道の一部を走る。国道1号線沿いの「道の駅 藤川宿」所在地:愛知県岡崎市藤川町東沖田44番地12:58国道1号線を走り安城市に入り、この「今本町西交差点」を右折して北上 13:09無量寿寺所在地:愛知県知立市八橋町寺内61-1旧東海道から北側へ約1km入る。昨年10月16日(水)に旧東海道を歩いていたが、その時既に23,600歩歩いていたので参拝を見送ったので、今回訪れた日𠮷神社車は境内に駐車八橋 日𠮷山王社由緒御祭神:大山咋尊創 立:慶雲元年(704) 無量寿寺の開祖、密圓法師が同寺の創建に際し守護神として境内に勧請安置され たと云われている。以来、無量寿寺の住職が累代奉仕してきた。明治4年神仏分 離令により境内に境界を設け町内の氏子が氏神としてお詣りしてきた文化の道「東海道宿場散歩みち」知立市 観光めぐり八橋かきつばた園ご案内 無量寿寺 八橋史跡保存館 かきつばた園左に「芭蕉連句碑」、右に「八橋古碑」芭蕉連句碑「かきつばた 我に発句の おもひあり」 芭蕉「麦穂なみよる 潤ひの里」 知足 松尾芭蕉が「野ざらし紀行」を終えた翌年の貞享2年(1685)4月に、鳴海の俳人下里知足の家を訪れ、そのとき開かれた俳席での作といわれる。芭蕉は知足の案内でこの八橋に遊び、古に思いを巡らしたのであろうか。碑を建てたのは知足の子孫である下郷学海(下里から改姓)で、「安永6年丁酉夏6月」(1777)とある。三河にのこる芭蕉句碑の代表的なものである八橋古碑八橋は古来より和歌の名所として著名であり、多くの文人墨客が訪れた。この碑は、岡﨑藩に仕えた儒者 秋本嵎夷、その門人国分伯機・由良不淰により、寛保2年(1742)に建てられた。撰文は秋本、書は国分である。碑文は「八橋紀事井王孫歌」と題され、八橋と在原業平の故事、それについての感慨が漢文で書かれるが、難解なことで有名である。亀形の碑の台を亀趺といい、一説には中国の伝説上の神獣とされる。地元では、「亀甲碑」とも呼ばれる無量寿寺本堂無量寿寺 臨済宗妙心寺派慶雲年間(704~8)に創建された慶雲寺が、弘仁3年(821)八橋のこの地移され、無量寿寺となったと伝えられているひともとすすき謡曲「井筒」の故事にならって植えられたと伝えられてる。「八橋の一もとす々き穂にいでて はるばる来ぬる人まねくらん」と「三河名勝図絵」にあります。このすすきの葉を片手で結ぶと願い事がかなえられるという言い伝えから、縁結びのすすきと言われている本堂右側の廊下下を潜り「杜若池(心字池)」へ。右側の竹は「業平竹」植えられた時期は不明だが、江戸時代の文献には、当寺の堂前に「業平竹」があったとの記述がみられる。一説には竹(男竹)であるが、笹(女竹)のように一節から多くの枝を出すため、色男と言われる在原業平に見立てたともいわれる。男女竹を称え縁結びの竹として俗に信仰される裏庭に入り、水が干された「杜若池(心字池)」この庭園は、寺の再興者であった方厳売茶翁が、以前からあった池や庭を煎茶式に改造したものといわれています。回遊式、刈込式、借景式の様相が特色です。庫裡前の杜若池(心字池)を中心とし、庭全体の高低の落差を四段に分け、段毎の境を生け垣で区切った回遊式となっています。手前の心字池には全体の要となる中の島があり、築山となった中腹には三尊石が設置されています。造られた当時は正面遠景として岡崎の村積山がみえ、近景に逢妻川の清流が流れ借景として取り入れられていました。この杜若池のほか、境内には昭和になって新しく作られた杜若池があり、毎年5月には合せて約三万本の杜若が咲き乱れ、多くの人々で賑わっています心字池にある中の島築山となった中腹には三尊石が設置されています。中腹に三尊石の説明板この庭の中心、観音菩薩・阿弥陀如来・勢至菩薩茶 室茶室の裏にある竹林茶室前からかきつばたの再生に取り組んでいます 知立市業平池の石柱八橋の一つか?左が「辻灯籠」右の石「玉川卓」奥に「業平の井」左の灯籠は、文政年間に当時の無量寿寺客僧八橋売茶方巌禅師のために、紀州大納言治宝公から贈られた一対の灯籠である。右の長方形の石は、煎茶式庭園玉川庭の玉川卓である。この石の上に茶道具をのせ、青空の下で煎茶を楽しんだのである業平の井業平公の水を御くみの井戸方巌(売茶)井戸のいわれ杜若池と茶室無量寿寺の北側の杜若池知立市の花である「かきつばた」が咲き誇るこの池に導かれた水は、先人たちの壮大な計画により、明治13年(1880)に開削され、碧海大地の農業地帯を創りあげた明治用水の水を利用しています。中央アルプスを源にし、矢作川を経た後この地域までやってきます。この機会に、水の尊さや地域環境について考えてみてはいかがでしょう藤 棚伊勢物語の伝説地八橋ここ八橋は平安時代につくられた「伊勢物語・東下り」の旧跡として、愛知県の史跡に指定されています。特に在原業平が詠んだ「かきつばた」の和歌は、多くの人の心を惹き付けてきました。平安時代の昔から千年余の間、東海道や鎌倉街道を行き来する人々が、業平を偲んでこの地を訪れ、数多くの紀行文や和歌俳句を残しました。また、能や謡曲にも取り入られており、郷土の誇る大切な文化遺産です。当地の旧跡保存会は「県の花・市の花」であるかきつばたの手入れを続け、また「業平毎歳忌」を営んでいます在原業平 像ズームアップ八橋の蜘蛛手に流れる沢のほとりにかきつばたが美しく咲いているのを見て、かきつばたの五文字を句の上にすえて、都に残してきた妻や子を偲び、「から衣きつつなれにしつましあれば はるばるきぬるたびをしぞおもう」と詠まれました。この和歌は平安時代前期の代表的な歌人、在原業平作として勅撰和歌集の古今集に撰ばれています。また、伊勢物語の九段東下りにも採り入れられ、八橋の地が永く語り継がれ親しまれてきました敷地13,000㎡の庭園内には、3万本が生息し5,000㎡の池一面に咲きそろう4月~5月が見どころで、多くの人々を魅了します3月末からは桜も咲く、かきつばた園 無量寿寺ー続く
2020.03.03
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小原の四季桜、香嵐渓の紅葉を散策した後、13時に落部駐車場を出発帰路に着いた。車中の写真は、助手席の旅友に依頼。11/25(月) 13:20カーナビを一般道優先にセット、落部駐車場から県道362号線を走る途中から国道473、257号線を走り、新城方面へ向かう月曜日で道路は空いていた13:41豊川沿いにあるここ「田峯交差点」を右折して県道389号線を浜松方面へ13:44県道32号線を、浜松、豊橋、豊川方面へ進む13:52玖老勢(くろぜ)交差点を左折して、県道32号線を鳳来寺山方面へ県道32号線(富栄設楽線)を浜松方面へ鳳来寺小学校前13:55この先を左折すると「鳳来寺山」、直進して浜松方面へこの先を右折して、県道32号線(長篠東栄線)を長篠方面へ走る13:56この先を右折して、県道32号線の浜松、引佐(いなさ)方面へ14:02この先で国道151号線と合流、左折して浜松、引佐(いなさ)方面へ国道151号線の長篠交差点を左折近くにJR飯田線の「本長篠駅」があり、日本百名城の『長篠城跡』もある長篠交差点を左折してすぐに右方向の国道257号線へ。数年前「長篠城跡」へ来た時走った道と思い出す、直進すると飯田市へJR飯田線の下をくぐる14:03県道439号線との「乗本交差点」を直進して、浜松、引佐(いなさ)方面へ国道257号線沿いの、道の駅「鳳来三河三石」の標識前方に新東名高速道路が見える14:10国道257号線沿いの、道の駅「鳳来三河三石」所在地:愛知県新城市吉田田中106-1国道257号線を浜松へ27km。新東名「浜松いなさインタ」へは4km。先を急がないので一般道を進む新東名高速道路の高架下浜松市街・細江方面へ14:17新東名「浜松いなさ」インタ入口道路案内「ここは奥浜名湖エリア」「龍潭寺」「竜ヶ岩洞」「気賀関所」気賀関所は昨年の10月14日(月)に、稲葉山からの帰りに立ち寄ったが、東海道の姫街道の関所である国道257号線の「井伊谷上交差点」14:28数年前にNHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」の舞台となった。ここも数年前に弥次さんと訪れた14:30この先を左折して国道257号線を走り、浜松市街方面へこの先を右折して国道257号線を三方原方面へ国道257号線(金指街道)の「根洗交差点」国道257号線(金指街道)の「三方原町交差点」三方原古戦場を右手に見ながら進んできた14:45国道257号線(金指街道)の「北星中学入口交差点」14:51東名高速道路を越え国道257号線の「元追分交差点」を斜め左方向へ進み、県道261号線の姫街道へ進む、前方は一里塚橋交差点県道261号線の姫街道、豊隆団地交差点斜め左方向へ進む14:55カーナビは、県道261号線の姫街道五枚橋交差点この辺りの姫街道は県道261号線と分かれている14:57国道152号線と交差する、馬込大橋北交差点道路脇には「姫街道」県道261号線15:00小池一里塚この一里塚は、織田信長が一里を36町と定め街道の一里ごとに塚を築き、その上に、えのき または、松を植えて目じるしとしたのに始まり、その後、徳川時代に至ってさらに整備して旅行者の便としたものである。この小池一里塚は東海道の脇道として本坂通(俗に姫街道)のもので、日本橋よりの距離65里、約260kmに位置している。この集落が、小池村一里山と呼ばれてきたのはこの史跡の故である県道261号線の姫街道15:05与進北(よしんきた)小南交差点15:06この先の交差点を左折、すぐ右折して県道261号線へ15:09県道261号線(姫街道)の市野町交差点市野町交差点の手前に『市野宿』市野宿は江戸時代中頃まで大名や旗本の往来も多く、本坂通(姫街道)の宿場町として栄えた。宿場の名残は「東宿」「中宿」「新丁」などの小字名が残る。東西の桝形区画が見られ、現在も西と東の桝形が残っている。市野宿には本陣(斎藤本陣)が一箇所置かれていたが、現存しない15:14県道314号線(姫街道)の柏木橋交差点、ここから県道65号線へ自宅までまだ188kmで到着予定は20:07柏木橋交差点から県道65号線15:16安間川公園東交差点先で国道1号線と合流天竜川に向って幹線道路が集まる天竜川橋へ15:18天竜川橋、右は下り線天竜川を渡り磐田市へ天竜川橋は4車線であったが、ここから国道1号線は2車線に15:22自動車専用道路で高速道路並みのスピード15:3015:33エコパアリーナ所在地:静岡県袋井市愛野2300-115:35国道1号線もここから1車線になる左方向は掛川市街15:45道の駅「掛川」まで2km今日はまだ昼食をとっていないので、立ち寄ることに15:54とんかつ定食を、720円と安いわが家へは、19:45に到着、三泊四日での走行距離は780kmでした。今日の一日の歩行数は、11,170歩。因みに今回の三泊四日の、『東海道五十三次(鳴海から四日市宿)と香嵐渓の旅』の総費用は約35,000円でした。内訳は、交通費:5,580、宿泊費:17,700、食費:10,600円、その他:土産 END
2020.02.24
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香嵐渓の巴橋まで下り、落部駐車場へ戻る散策です。11/25(月) 12:11巴橋から、待月橋を望むライトアップされると巴川に紅葉が映えるポイント太陽の陽が出ていると最高なのだが生憎曇り空でしばし待っても陽は出ず西町駐車場にある大きな石碑「香嵐渓」もみじの開祖「参栄禅師供養塔」と「太子堂」太子堂をズームアップ飯盛山への道があるが、今回はスルー。この辺りはカタクリの群生地で、毎年早春の3月下旬頃から4月上旬にかけて見頃重要伝統的建造物群保存地区『豊田市足助』足助は、尾張・三河と信州を結ぶ伊奈街道の道筋にあたり、古くから海と山を結ぶ物資運搬の要所として栄えました。重要な交易品の一つが塩です。三河湾等でとれた塩は、足助まで船と馬で運ばれ、ここで配合され、包み直されて、険しい山道を運ばれました。このような塩は、”足助塩” や ”足助直し” などと呼ばれました巴川に映えるもみじもみじトンネルの緩い坂を上る飯盛山の斜面カタクリの群生地である陽が射し鮮やかになる待月橋への下り道五色もみじエリア巴川対岸の遊歩道には多くの観光客香嵐渓広場ズームアップすると多くの観光客が五平餅、刀削麺、フランクフルトを食べているのであろう香積寺急な石段を登り山門を潜り参道へ香積寺山門しばし人の途絶えるのを待つが山門前からの紅葉香積寺本堂前から山門を望む香積寺本堂この裏からも飯盛山へ登れるが道が険しい本堂の扁額「飯盛山」僧堂(坐禅堂)本堂に向って左側にある『僧堂(坐禅堂)』曹洞宗は道元禅師に始まり、瑩山禅師によって広まり坐禅を宗旨とします。当坐禅堂は江戸後期の様式、この地方では唯一つ昔のままで残っています。幕末二十五世風外禅師、二十六世俊龍禅師と共に高邁な人格で、随身より多くの俊英が輩出し香積寺の名を天下に伝えました夜は荘厳で静寂な香積寺への参道を竹灯りで導いてくれる山門から山門には人が絶えない飯盛山 香積寺杉木立ともみじの香積寺は曹洞宗の古刹である。応永34年(1427)足助氏の居館跡に創建されたもので開基は関白二条良基と成瀬三吉丸(尾張犬山城主成瀬家の祖)、開山は白峯祥瑞禅師である。かつては学林として栄え、時には100名もの雲水が参禅したという。もみじの開祖十一世参栄禅師、画技にも卓越した二十五世風外禅師はあまりにも有名で、風外禅師の絵を多数蔵している色鮮やかでしばし見とれる山門前の石段から巴川の流れつり橋(香嵐橋)香嵐渓へ来て約2時間散策してこの場所へ戻って来る更に進み、巴川の上流を朝早いと靄にも囲まれる12:57落合駐車場へ戻る。約二時間の散策でした。数年前からこの店の経営者も年をとり閉店状態になっている13:00カーナビを一般道優先で帰路に着く。【おまけ】昨年’18年11月25日(月)に訪れた時の足助城。今年は時間の関係上立寄らなかったが、落部駐車場の裏山にある『足助城』。この辺りには戦国時代には、このような出城がたくさんあった足助城のシンボルツリー足助城からの南方面足助村 香嵐渓ー完
2020.02.23
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引き続き香嵐渓を散策。11/25(月) 11:34三州足助屋敷の土産物売り場、広場には多くの観光客が食事を楽しんでいた猿回しは、香嵐渓広場で11月1日(金)から12月1日(日)まで随時開演している今年も広場では猿君が、猿回しのショー待機中主人とハグする猿君店先に「もみあげまん」の提灯そして紅葉(もみじ)葉の合間から朱の待月橋(たいげつきょう)が下方に見えて来た巴川に架かる、香嵐渓のシンボル的存在の「待月橋」橋の上には今日は平日で人が少ないがこの辺りは、『五色のもみじ』と呼ばれるもみじがあり、緑・黄緑・黄・橙・赤とその名の通り、五色のグラデーションで紅葉していくのが楽しめる五色のもみじ側からの待月橋もみじのトンネルから太陽の光で色が変わる待月橋へ待月橋からの巴川上流銀杏の木は落葉飯盛山側の『五色のもみじ』光の関係でもみじの色も待月橋も何年か前に鉄筋コンクリート製に巴川沿いの遊歩道の店頭に並ぶ新しいメニュー大きなサツマイモが並んで展示されていた大きなサツマイモをスライスして油で揚げる新メニュー。帰宅後、妻に作ってもらうために撮影。ワンカップの値段はワンコイン?巴川沿いの遊歩道を左折すると多くの露天商が並ぶ。昨年10月に行ったルーマニアでも露店でトウモロコシを150円で売っていたが、日本では一本500円、物価の差か。我々はいつもおばあさんが売っている『味噌田楽』を食べており、今回も100円/2本を購入して食べたが、今回はおじいさんが売っていた香嵐渓観光センター前からの、飯盛山(標高 254m)大きなスーツケースを持った観光客もいたが、ツアー客なのか宮町駐車場には多くの観光バスそして国道153号線沿いにある『足助八幡宮』を訪ねた市指定文化財(天然記念物)『足助八幡宮のスギ』拝殿の正面にあるスギは、幹周6.8m、樹高は45.5m、根回り25.3mです。スギとしては、足助地区で4番目の幹周を持つ巨樹です。根元が膨らんで安定感があり、杉皮が荒々しく厚さ5cmもあり見事です。スギはもっとも寿命の長い樹木で、このスギは樹齢が500年以上と推定されています。残念ながら撮影を忘れました!市指定文化財(天然記念物)『足助八幡宮のイチョウ』市指定文化財(天然記念物)『足助八幡宮のイチョウ』足助八幡宮社務所前にあるイチョウは、幹周4.5m、樹高20.8m、根回り21.1mです。幹周の規模では、足助地区で2番目の大きさになります。イチョウは、強健で抵抗力が強く、土地を選ばず生育します。成長は早く、病虫害が少ないという特徴を持っています樹形は地上1.5mで幹が二本に分かれています。北側の太い方は16.5m、南側のやや細い方は13mで先がなくなっています足助八幡宮拝殿前の『神馬』こっこでも弥次さんが御朱印を頂きました紅葉の香嵐渓だけに色付き足助神社元弘の変(元弘元年ー1331)に、後醍醐天皇に味方して、笠置山(京都)篭城軍三千人の総大将となった足助次郎重範公をまつっている。重範は飯盛山城を本城とした足助氏の惣領で、弓の名手として名高く、笠置で強弓を以って奮戦する様子が「大平記」に名文で書かれている拝殿の扁額には「足助神社」落城の際、捕われて、翌年京都六条河原で斬首されたが、明治天皇より贈位もあり、足助神社として祀るようになった豊田市役所 足助支所横に駐車していたレトロなバス 祭の期間中、香嵐渓 ⇔ 小原の四季桜 間を運行している豊田市役所 足助支所前のイチョウイチョウの葉の絨毯12:09見事な黄葉 香嵐渓ー続く
2020.02.22
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豊田市にある小原の四季桜から香嵐渓へ移動。国道419号線を豊田方面へ戻り、途中で左方面の県道485号線(沢田禍作線)を走る。11/25(月) 10:27県道485号線を走り「御作日沢交差点」で左からの県道33号線(瀬戸設楽線)と合流10:27県道33号線の「御作浜井場交差点」「水勝橋」ここを直進したか、左折したか?10:38国道153号線(=国道420号線)の「中金町平古交差点」右側から県道345号線10:38国道153号線を進み足助へ8km、飯田へ92km10:45国道153号線を進むが車の量が多くなる、先の信号は追分交差点国道153号線(飯田街道)の「追分交差点」カーナビは香嵐渓まで、後 3.2km、到着予定 10:55 の標示。国道153号線の「追分交差点」で、岡崎方面からの県道39号線と合流岡崎方面からの道と合流して車の量が多くなり、途中で右折して巴川を渡り左折して対岸の県道77号線を進む。10:58再度、足助大橋の東側で国道153号線と合流して右折、香嵐渓を流れる巴川に架かる「巴橋」を渡る。この橋の手前右側に大きな駐車場がある香嵐渓駐車場入り口の「香嵐渓交差点」11:05香嵐渓の巴川の上流にある「落部駐車場」所在地:愛知県豊田市足助町一ノ谷今日は平日でスムーズに駐車場へ入れたが、祝祭日はいつも行列を成している。昨年も、’18年11月25日(月)に訪れた。駐車料金1,000円を支払い散策へ今年のパンフレットをもらう。今年は「第64回 香嵐渓もみじまつり」期間:11月1日(金) ~ 30日(土)紅葉みどころマップ香嵐渓へは平成20年(2008)以来恒例行事として訪問しているが、今回が延べ11回目香嵐渓は、愛知県豊田市足助町にある矢作川支流巴川がつくる渓谷にあり、愛知高原国定公園の一角に当たる。一の谷の駐車場も空いていた寛永11年(1634)頃に香積寺第11世住職三栄和尚が、巴川から香積寺に至る参道に スギやモミジを植えたのが始まりとされ、大正末期から昭和初期には住民のボランティアでモミジの大植樹が施された。イロハモミジ、オオモミジなど11種のカエデが約4000本あると言われており、赤や黄色に色づく景色は壮観。 香嵐渓もみじまつりが開催される期間中は21:00までライトアップされ、夜の幻想的な景色も楽しめるが、私は時間的にまだ見たことがない待月橋に向って緩い坂を下る一の谷エリアの紅葉午前中は朝日がよく当たるので、照らされたモミジが色鮮やかになるとこの辺りは香嵐渓でも比較的早めに色づき始める毎年、勤労感謝の日を挟んで訪れているが、今年の紅葉は良い方だ来た道を振り返る藁ぶき屋根の小屋も紅葉の下で存在感いつもこの手前で、名物のおじさんがシンセサイザーを演奏していたがモミジの絨毯は清掃したのか無く茅葺屋根とのコラボ食事処の店の前には綿の実がはじけて、純白のコットンがのぞく巴川上流の一の谷和風料亭・一の谷をズームアップ朱色のつり橋(香嵐橋)には既に多くの観光客露天商の小屋があったが今日は平日で閉店平日にもかかわらず多くの観光客外国人(中国・タイ・・・・)も多く来ていたが、ツアーではないので研修生?太陽に照らされたもみじ紅葉&黄葉のコラボがいいコーヒーを飲みながらのんびりしたいものだが巴川に沿って下ると左手に三州足助屋敷大きな銀杏の木があるが今年もすでに大半は落葉台風の被害で一部通行止めになっていた11:31落葉した銀杏の葉 香嵐渓ー続く
2020.02.21
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小原の四季桜、川見地区にある「川見薬師寺境内」へ急な石段を登る。11/25(月) 9:00真言宗高野山派『瑠璃光山薬師寺』 本寺の開山は不明であるが、二冊の中興建立記によると、寛文5年(1665)本尊開帳以後本堂改修を始め、次々と伽藍が建立され整備された。その地は、山麓田代川右岸の今の畑地である。 現在の伽藍は、江戸末期から明治初期にかけて建立された。鐘楼門には、十二支の彫刻と、京都東寺管長の山号木額は立派である。本堂向拝には、龍の彫刻された蝦虹梁(えびこうりょう))は精巧である。本尊薬師如来像は室町末期の作といわれ、日光・月光初め仏像十三体は、岩村城内の薬師寺より迎えられた。村文化財指定は本尊仏と石燈籠である本堂向拝 蝦虹梁 日本一の龍 欅一木彫り川見薬師寺本堂本堂向拝には欅一木彫りの見事な精細な蝦虹梁(えびこうりょう)を見ることが出来た本堂の扁額「???」豊田市指定文化財(建造物)『薬師寺本堂・鐘楼門』。本堂は、明治3年(1870年)に建てられたもので、宝形造(ほうぎょうづくり)(屋根面の頂上を一点に集める)の前面を入母屋造とした、一見すると神社のような変わった形式が用いられています。間口は3間(5.4m)、奥行は2間(3.6m)で、龍の透かし彫りが施された蝦虹梁(えびこうりょう)は見事なものです。 鐘楼門は明治15年に建てられたもので、形もよく、虹梁の彫りや回廊欄間(2階部分)には、十二支の彫刻が配されていて、装飾的に価値が高いものです市指定有形文化財『木造薬師如来坐像』。 この坐像は、高さ40.5cm、台座総高33.5cmです。銘文に天平3年5月8日とあるのは疑わしいですが、弘治とみえることから、弘治年間(1555~1558)頃のものと思われます。なお、蓮華銘文に于時(ときに)元禄2年(1689)11月26日奉彩色臺座とあるのは、この時期に台座部分の彩色を行った記録だと思われます。 寄木造の漆塗で、作風もよく工芸的に優れています市指定文化財(有形文化財)『燈籠』。 指定 昭和57年7月23日 高さ 香縄(こうつな)燈籠(本堂に向かって右)218cm 内方(うちかた)燈籠(本堂に向かって左)215cm 建立 両燈籠ともに元禄16年(1703年) 10月8日 石材 地元産の花崗岩 香縄は上仁木村春日部庄大夫香縄であり、乙ヶ林城主春日部佐渡守の末裔で、その子孫は現在の上仁木の春日井氏です。内方は庄大夫香縄の妻です手水舎鐘楼門(山門)境内には『南無瑠璃光薬師如来』の幟が林立弥次さんが御朱印を頂く川見薬師寺の東側にある「川見さくら山」へ行きたかったが脇道が無いので境内からまた急な石段を下りることに再度石段下から鐘楼門(山門)を見上げる途中から、見事な紅葉を見ながら九十九折の坂道を下ることに見事な光景を振り返る、絵心があれば絵になるのだが途中から石段下を見下ろす逆光でのモミジもズームアップして皇帝ダリアも咲き椿も咲き急な坂道を登り、川見さくら山へ銀杏、紅葉のモミジ、四季桜の競演だが四季桜は控えめ、まるで・・・・・・四季桜も咲いているのだがモミジをバックにズームアップ矢張紅葉は目立つが一本の銀杏も存在感を四季桜をズームアップ登ってきた反対側へ下りる四季桜は可憐な花である柏ヶ洞の郷紅葉が池に映る場所で 撮影スポット朝焼けや 映る紅葉や この姿た 夢を追いつつ 老を知ても 詠み人知らず隠れたビューポイントである池の水面に映り込むメタセコイア、銀杏、モミジ柏ヶ洞の郷を振り返る。後方は、川見さくら山。樟茶屋のおやじさんが数年前に造ったエリアでログハウスもあるが、今は閉店状態田代川の流れに四季桜前洞の四季桜国道419号線へ戻る樟茶屋前の小原北部生活改善センター中庭には多くのテントが張られ、地元名産品を販売していた。私は、白菜 200円を購入つっみ寿司が生産する、味自慢!いなごの佃煮付!『へぼ箱寿司』 700円。 へぼというのは、特にクロスズメバチの子のことで、秋が近づくと山に蜂の巣を取りに行き、養殖用の箱で蜂の子を育てます。へぼは値段もかなり高価。ここ豊田市小原で秋に作られるのがこの『へぼ箱寿司』いつも立ち寄る「樟茶屋」で五平餅をオーダーここ樟茶屋の五平餅はユニークなひょうたん型。当茶屋の御主人が食べやすく、他にはない変わった形の物を提供しようとこの形になったのだと以前に。 長野県から取り寄せた赤味噌にくるみ、ゴマ、ピーナッツ、醤油、砂糖を調合し、煮詰めて作った特製味噌はちょっと甘めで香ばしい五平餅を食べていると、樟茶屋を切り盛りするオバちゃんが我々の席に来て、東京に勤めるお孫さんが結婚式前の挨拶回りにそろそろ来ると嬉しそうに。式前の記念撮影も兼ねての訪問とのことで、撮影許可をもらう記念写真をバチリ店を手伝うおばちゃん達、そしていつの間にか現れた赤いセーターに青のジャケットのおじいちゃん(柏ヶ洞の郷を造った)も入り記念写真。我々もおじいちゃんでした駐車場の紅葉四季桜も見納め10:15撮影会後、香嵐渓へ向けて出発 小原の四季桜ー完
2020.02.20
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東海道五十三次で、鳴海宿 ⇒ 宮宿 を歩き車で桑名へ移動、翌日桑名宿 ⇒ 四日市宿を歩いた後、岡崎へ戻った。この夜、岡崎の旅友と10月に行った『ルーマニア・ブルガリアの旅』の反省をしながらの宴会。翌日、小原の四季桜、香嵐渓へ立ち寄った。11/25(月) 6:02ホテルの部屋から東の空には月6:28ホテルの部屋からの東の空、今日の天気はよさそうだ!6:36香嵐渓へ行く時は、駐車場の渋滞を考えいつも6時前に出発するので朝食はとっていなかったが、今回はゆっくり朝食を取り出発した7:37カーナビを小原の四季桜の「樟茶屋(くすのきちゃや)」にセットして進む。いつもは先に香嵐渓へ行っていたが、今回は小原の四季桜へ。国道419号線の「梅坪町9丁目交差点」国道419号線を進むがトヨタの工場があり通勤者の車で渋滞。藤岡飯野:12km、小原:20km7:42豊田北郵便局国道419号線は左方向へ進むが、小原へはここを直進して足助方面へ進む7:53県道349号線の「加納町向井山交差点」8:04途中で再度国道419号線と合流国道419号線(豊田多治見線)左側に「飛び出し坊や ?」国道419号線の「迫八反田(Hasamahattanda)交差点」8:07国道419号線(=県道350号線、豊田多治見線)を進む左は「藤岡郵便局」、先の交差点は「藤岡飯野町交差点」8:15国道419号線を進み、国道363号線へ8:23国道419号線の「上仁木白山交差点」小原地区に入ると道端、山の斜面には四季桜が咲き誇る8:25カーナビでセットした「樟茶屋」所在地:愛知県豊田市雑敷町23-2国道419号線(=県道354号線、平畑土岐線)沿いにある樟茶屋。昨年も、’18年11月25日(月)に訪れた小原四季桜まつりのポスター。 今年2019年の開催は、2019年11月1日(金)から2019年11月30日(土)まで向かい側に「小原北部生活改善センター」がある。ここへ車を止め(駐車料金が無料)、田代川沿いに下り会場へ向かう四季桜も満開、ズームアップ国道419号線(県道354号線)沿いの、メタセコイアメタセコイア、銀杏、モミジの競演朝の気温は低かったのか川見(せんみ)四季桜の里川見さくら山は散策路になっており山頂は440mあり急な坂を上る銀杏の黄色も交じって川見四季桜の里小原の四季桜へは、平成21年(2009)以来香嵐渓と共に訪問している。四季桜の会場は他にもあり数カ所あり、ここが一番上流にあるいつもは香嵐渓の後、昼前に訪問しているが今回は午前中に田代川沿いの紅葉、桜のコラボを楽しめる四季桜は小ぶりでズームアップ季桜の由来は、その昔豊田市小原北のひとりの医師が小原に苗を植えたのが最初と言われている。四季桜は春とこの11月の二回花を咲かせ、11中旬から12月上旬に見頃となるのです今年は天気もよく見事に咲き誇る小原地区内の四季桜は約1万本に達していると。これほど多くの四季桜を鑑賞できる場所は他になく、秋は全国で随一の絶景が広がっているのだと四季桜と紅葉を配置しているのかマメザクラとエドヒガンの種間雑種と考えられ、花は一重の白又は淡紅色 夏の間に充実した花芽が秋から冬にかけて順次咲き、小さい花芽は冬を越して3月中旬頃から咲き始める。このため、春より秋の方がよく花を咲かせると(旅友より)川見四季桜の里所在地:愛知県豊田市川見町田代川に映える紅葉多くのカメラマンが三脚を構えていた川見薬師寺下の売店最初に訪れた時は登ったが、その後は石段が急で段数が多いのでいつもは下で引返していた。今回は天気もよく紅葉がきれいであったので登ることに。石段下の石柱には「瑠璃光薬師如来」「薬師観世音菩薩」途中の見事な紅葉。立札には「是より三十三段、女子三十三歳厄除け階段です」と弥次さんも頑張って石段の上に、鐘楼門(山門)が見えてくる四季桜と紅葉を眺めながら登る急な階段途中の右側にあった石仏群石仏群横から駐車場を見下ろす石仏群横から、鐘楼門(山門)を見上げる「是より四十二段、男子四十二歳厄除け階段です」と階段の上にある鐘楼門(山門)。どうみても地震には弱い構造に見えるが9:00川見薬師寺本堂へ。 地元の人から「川見の薬師さん」と呼ばれ親しまれている真言宗高野山派古刹。 本堂に安置されている寄木造りの薬師如来像は、室町時代後期に作られたもので、市指定の文化財。 本堂へは階段を88段、33段、42段、最後に12段のぼった上にあります。本堂までの階段は四国八十八ヶ所にちなんで88段の石段になっていると。次は33段、女性33歳の厄除け石段。その次は42段、男性42歳の厄除け石段。 最後は12段、十二支にちなんだ石段である 小原四季桜ー続く
2020.02.19
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今年初めての東海道五十三次の弥次喜多道中記で、四日市宿への移動日の令和2年1月19日(日)朝、弥次さんとわが家を愛車で出発した。途中、道中で立ち寄れなかった知立市の無量寿寺、熱田神宮へ立ち寄ることを計画。令和2年1月19日(日) 7:05圏央道寒川南インタ。いつもの弥次喜多道中は一般道優先で箱根越えをするが、昨日の雪で凍結の恐れがあり危険な為ため、富士インタ辺りまで高速道路を利用することにした。富士山がきれいなため、車中からの写真は助手席の弥次さんに依頼。圏央道から相模川越えの富士山がきれいに見えていた。昨日の雪で積雪位置が下がっていた。最近開通した、新東名高速道路を伊勢原JCTまで利用。正面に富士山、右の大山(標高1252m)にも雪。大山をズームアップ。この先の新東名高速道路は、伊勢原JCTから御殿場JCT区間まで工期が遅れ未開通のため、左方面へ進み東名高速道路へ合流。東京方面へは行けない。東名高速道路を進み正面に富士山。大井松田インタ辺りからの富士山。ここは富士山のビューポイントである。山の木には樹氷?。足柄サービスエリア手前。富士山がきれいに見えていたので、東名高速道路の「富士川サービスエリア」からの雄大な富士山を見ることに、また薩埵峠からの富士山も!東名高速道路の上り線架橋。8:15富士川サービスエリアからの雄大な富士の裾野、右側に連山があるが、越前岳(1504m)、愛鷹山(1188m)とあるが?赤い橋は、東名高速道路の富士川橋。多くの人がカメラを持ち。雄大な富士山が見え、宝永山も。富士山&宝永山(標高2693m)をズームアップ。更に富士山をズームアップ。宝永山は、江戸時代中期の宝永4年(1707)10月4日の宝永大地震(M8.4)では、伊豆下田、紀州の尾鷲などを大津波が襲い、市街地の家屋がほぼすべて流出した。また、三保半島を襲った津波の高さは3.9mという記録がある(磯田道史)。それから一か月半後、宝永噴火は、宝永4年11月23日(新暦:12月16日)の午前10時頃から爆発的な噴火活動が始まった。16日間続いた噴火活動は翌年の1月1日にドーンという噴火音がして終わったと。東屋も設けられ。富士市の製紙会社。富士川サービスエリアのスターバックス。珈琲を飲みながらの富士山も絵になるのでは。スターバックスの南側。石碑には「富士川サービスエリア」。皆さん、この穴にカメラを入れ撮影に。石碑の中からの富士山。左方向には南アルプス、富士川に沿ってJR身延線も走り甲府へ。8:38国道1号の富士由比バイパスからの駿河湾正面に薩埵山。薩埵峠からの富士山を期待。由比海岸の国道1号を走り、正面に薩埵山。この先を左方向へ進み薩埵峠へ。8:52薩埵峠駐車場。前回は、昨年(2019年)の3月8日(金)に峠下の「西倉沢一里塚」から歩いて登ったがこの時は既に3万歩いており辛かった。今回は狭い道を車で登ったが矢張楽だ!天気がよくカメラマンで混んでいると思ったがどうにかスムーズに駐車できた。矢張絶景、しばし「!!!」下には、JR東海道本線、東名高速道路、国道1号が走る。いつもこの光景を期待していた。登ってきた旧東海道は現在は農道。急な斜面にはミカン畑。右は富士市方面。富士市内、愛鷹連山をズームアップ。下の右側は、東名高速道路の「由比パーキングエリア」。由比市街地、桜えびの由比漁港。駐車場の南側にある展望台から。夕陽の撮影ポイントでもある。前回の道中は昨年(2019年)の3月8日(金)で、JR富士駅から興津駅まで歩き4万歩と一日で最高の歩数であった。交通情報で映し出される画面であるが。見納めて薩埵峠を下りることに。東海道五十三次の弥次喜多道中で、今までこの下の国道1号線を数回走ったが、ようやく富士の全景が見れ堪能した時間でした。このあと、峠にあった無人販売店でミカンを二袋購入して興津宿へ下山、四日市宿への途中熱田神宮へ立ち寄った。 END
2020.02.03
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本興寺散策の後、愛知県新城市にある続日本百名城の『NO.150.古宮城』へ。11/22(金) 13:30国重要文化財の『本堂』建物は桁行五間・梁間五間の茅葺きで、大仏様・禅宗様の二様式と、伝統様式である和様を巧みに取り入れ、三様式を折衷した室町時代の特徴をよく遺しています本堂内本尊に本仏釈迦牟尼世尊及び十界勧請の諸尊を祀っています本堂の濡縁に本堂からの『三十番神堂』前舎・後舎とも桟瓦葺きでしたが、平成25年度の保存修理工事により瓦葺き型鋼板葺きに変更されました。改修前の屋根は、中央に二つの峰を持つ特殊な瓦を配置し、左右逆方向に瓦を葺くという特徴的なものでした三十番神堂番神堂は、日替わりの守護神である三十番神を祀る建物で、文明4年(1472)五世日暹の代の創建。現在の建物は文政4年(1821)二十九世日壇の代に再建されたものです。建物は前舎・後舎にわかれ、前舎は桁行三間・梁間三間の入母屋造りで、前方に一間の向拝があります。前舎の背面に接続する後舎は切妻造りで、三十番神を安置した客殿があります本堂からの『鐘楼』延宝2年(1674)十七世日観の代、上総国佐貫藩主松平山城守重治夫人の発願により建立されました。入母屋造り袴腰付き鐘楼で、組物など細部の意匠に技巧的な特徴が見られます鐘 楼文政5年(1822)二十九世日壇の代に再建、大正4年(1915)三十八世日受の代に修復されました。昭和17年(1942)、太平洋戦争に伴い梵鐘は供出されましたが、昭和34年(1959)四十三世日猷の代に口径二尺七寸の大梵鐘が再鋳され落慶法要が営まれました弁天堂元禄13年(1700)十九世日芳の代に大檀那渡辺越中守方綱(正綱)夫人の寄進により建立されました。音楽・弁財・財福・智慧の徳がある弁財天女が祀られています嘉永3年(1850)三十二世日宗の代に再建され、京都の岩倉実相院義賢大僧正の扁額があります。 縁日 毎月十五日本堂前から樹齢600年余の開山杉本 堂石柱には「國寶本堂」と千仏堂と右に客殿千仏堂は、元禄13年(1700)十九世日芳の代、渡辺越中守方綱(正綱)夫人の発願により建立、天保13年(1842)三十一世日融の代に再建されました渡辺方綱は、寛文8年(1668)武蔵国野本藩主となり、延宝8年(1680)没。方綱夫人が娘で方綱の養子基綱夫人の息災延命を願って千体仏とともに寄進したものです。構造は桁行・梁間ともに三間、屋根は宝珠造で単層の桟瓦葺きで、細部の手法から禅宗様の建築様式を備えています千仏堂前から『鐘楼』『本堂』お墓の奥にある『西郡局供養塔』西郡局は、三河国西郡(蒲郡市)の城主鵜殿長忠の娘。長忠の父鵜殿長持は、天文21年(1552)本堂建立に尽力した人物です。西郡局は永禄7年(1564)徳川家康の側室となり、翌年、岡崎において家康の二女督姫を生みました。慶長11年(1606)伏見城において没し、京都本禅寺に葬られました。法号は蓮葉院殿日浄尊儀。当山十世日梅は、西郡局の舎弟に当たることから遺品を納めて供養塔を建立しました左:客殿、奥に『大書院』まだ雨が降る中「大黒堂」へ。貞亨元年(1684)十七世日観の代の建立で、延亨元年(1744)二十二世日禅の代に再建されました。現世安穏、後世善処を願い招福、開運、学問増進の神である大黒天が祀られています建物は、桁行三間・梁間三間の入母屋造りで、外陣の外側には扉や板壁などがなく、吹き抜けになっているのが特徴です。 祭礼日 正月11日・甲子日 御礼・御守の授与あり方角を変えて「大黒堂」客殿の前は駐車場13:41雨も小降りになり散策を終え、参道から山門へ向かう13:51国道301号線の「太田交差点」13:45に本興寺の駐車場を出発して、続日本百名城の『古宮城』へ向かう14:05浜名湖沿いに国道301号線(オレンジロード)を北上、三ヶ日方面へ。天竜浜名湖鉄道の「三ヶ日駅」近くの「西天王町交差点」を左折14:06左折してから数百メートルの「高橋交差点」を右折して国道301号線を新城方面へ14:29カーナビに従って進むこの先の「稲木交差点」を右折して国道151号線へ古宮城まで、17kmで到着予定は15:0514:30県道392号線から、この「稲木交差点」を右折して国道151号線を走る14:33雨が激しくなる国道151号線の「杉山北交差点」、再度国道301号線を走る14:55新東名高速道路も越え、国道301号線を進んで到着。『作手歴史民俗資料館』所在地:愛知県新城市作手高里縄手上35スタンプが15時のため急いできたのでどうにか閉館5分前像の右には「ポットホール」「力石」歴史民俗資料館営業時間:10:00~15:00 休館日:火曜日15時ギリギリにスタンプを頂いたが、係員の方に尋ねると不在時のスタンプ置き場は『国道301号線へ左折した200mほどの、Y ショップ(コンビニ 7:00~20:00)にておすことができます』とのこと。本には書かれていないので慌てて来たがスタンプを押し、閉館前の館内を見学。館内には自然のジオラマが作手町並みのジオラマ亀山城址、古宮城址、文珠山城址、塞之神城址、川尻城址と城跡が多い認定証『古宮城』平成29年(2017)4月6日の城の日に、日本を代表する歴史的名城として認定されたNO.150.古宮城(ふるみやじょう)のスタンプ15:09愛知東農協Aコープ作手店所在地:愛知県新城市作手高里縄手下54-1JAでガソリンを、10リットル補給この日は11月22日でオロナミンⅭをもらえる「勤労感謝の日」。本来は1台1本のところであったが、1本もらった後別の店員が持参都合3本頂く15:13古宮城址と白鳥神社当城址は、甲斐の武田信玄が三河進出の拠点とするため、宿将馬場美濃守信春に命じ願亀2年(1571)に築城したと伝えられている。城址は、南北約200m、東西約250mの独立した小山全体からなっている。当時は、南・東・北の三方が湿地で地続きは西側のみで、防御の主眼は西側に置かれている。一歩城址に踏み入ると土塁と壕が縦横に入り組み複雑な曲輪配置が見られ、中央部が南北の竪堀状の大堀切で東西の二城に分けられた一城別郭式の城であった東は守備の中心で主将の居る所、西は前衛として敵の攻撃を少しでも永く拒むための工夫が施された要害堅固な城であった。西城の本丸は、ほぼ正方形で、その東に二の丸が並び境として両端を空けた土塁があり、二の丸の東南隅と北側には虎口が設けられている。また、北側には五重の濠を擁して西側からの攻撃に備えている。東城は、頂部において土橋で西城と繋がり、本丸に並んで二つの曲輪があり、その北部には多数の曲輪が見られる古宮城縄張図本丸南側の両袖桝型虎口(内桝型)は、武田氏縄張りの特徴をよく伝えている。一部が社地等になっているが中世の城郭がほぼ完全に保存されているのは珍しい。全山余すところ無く塁郭を配置したこの城も天正元年(1573)8月、奥平・徳川の連合軍の手によって落城した。古宮城の下にある「白鳥神社」右の石段から土塁へ登ろうとしたが雨でぬかるんでおり途中で止める続100名城「古宮城」のスタンプは『作手歴史民俗資料館』と『Y ショップつくで店』に設置しています。作手歴史民俗資料館の休館日・閉館後はコンビニ店舗に押せると15:18亀山城址迄、1.5kmとあり、南方面へ進む15:29亀山城址車で昇って行ったが雨で登城道がぬかるんでいるので引き返す。亀山城(平山城)は、応永31年(1424)8月、奥平貞俊が川尻城から移り、その後貞久・貞昌・貞勝・貞能・貞昌の五代が居城した。天正元年(1573)8月貞能・貞昌親子は、古宮城に本拠を持つ武田製の攻撃を受けたが石堂ヶ根・田原坂等に転戦してこれを敗走させた。天正3年(1575)この戦功によって貞昌は織田信長から長篠城主を命ぜられた。同年5月長篠・設楽ヶ原の戦が勃発、長篠城は武田勢一万五千の猛攻を受けたが貞昌はよく籠城に耐え織田・徳川連合軍の援軍を受け大勝した。戦後、貞昌は信長の一字を貰い信昌と改名、新城に築城してこれに入り、家康の長女亀姫を嫁に迎えた。慶長7年(1602)信昌の第四子松平忠明が父祖の旧領である亀山城へ作手藩一万七千石の藩主として入城し八年間居城し、同15年(1610)伊勢亀山藩五万石の藩主として転じた。その後は元和5年(1619)頃の数年間三河代官として小川又左衛門氏綱が居城、それ以後は廃城となり現在に至っている15:31国道301号線沿いにある『道の駅 つくで手作り村』所在地:愛知県新城市作手清岳ナガラミ10-2字向かい側の『臨済宗 慈昌院』雨も降っているので、一路東岡崎の岡﨑サンホテルへ向かう。17:00宿泊ホテルの「岡崎サンホテル」前にある石像『旅籠屋』伝馬通りは「伝馬歴史プロムナード」となっており、20基の石彫が並ぶ天保年間(1830~1843)の記録によれば岡﨑宿には伝馬町を中心に本陣三軒、脇本陣三軒、旅籠屋(現在の旅館)が百十二軒あったとされ、東海道五十三次中三番目の規模を誇る宿場であった。旅籠屋はその規模によって大宿、中宿、小宿と区分され、その他に庶民が泊まる木賃宿、休息をする茶屋もあった。正保・慶安の頃(1644~51)からは飯盛女という遊女を置く旅篭も現われ(以降岡崎は岡﨑女郎衆で有名な宿場ともなった)。庶民の旅行が増え始めた江戸中期ごろになると各旅篭とも競争が激しかった17:45この夜は雨も降っており、隣のコンビニで酒&夕食を購入して部屋で宴会明日は、東岡崎から名鉄で豊明駅まで行き、そこから七里の渡しまで歩き熱田神宮から東岡崎へ戻り、ホテルから車で桑名のホテルへ向かう事を確認して寝る。今回も、部屋はシングルルーム。移動日は前回も天気がよくなかったが、明日は天気が良いことを祈る。今日一日の歩数は、10,000歩でした。 東海道53次で岡崎へーEND
2020.01.21
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雨の中続いて本興寺境内を散策。常霊山 本興寺(じょうれいざん ほんこうじ)境内26,000坪の中心に国重要文化財建造物本堂をはじめ客殿、千佛堂、鐘楼、番神堂など伽藍を配し、大書院には有名な谷文晁の晩年の傑作、県指定水墨四季山水障壁画十五面を公開し、庭園は小堀遠州作と伝えられる池泉観賞式林泉がある。奥書院は江戸初期の書院造りで県指定となっている。寺宝には国重文の法華経絵曼荼羅や紺紙金字法華経他岸良の絵も多く遺している。春は桜、みやまつつじを賞で、秋は紅葉を楽しむ人が絶えない。市の花クチナシも初夏に匂やかである。11/22(金) 13:01参道の西側にある四坊の塔頭寺院のひとつ「長勝院」長勝院山門長勝院境内の藤棚と本堂参道に戻り13:03参道の西側に「方丈(寺務所)」「奥書院」「大書院」案内板には谷 文晁四季山水壁画及襖絵小堀遠州庭園本興寺拝観受付:9時 ~ 17時 拝観料:300円大書院は、二十九世日壇の代の文政10年(1827)、上段・下段の間取りを持つ公式対面の場所として建立されました。完成の記念として上段の間には、壁面七面、襖四本の両面の計十五面に、谷文晁によって「紙本水墨四季山水障壁画」が描かれ、このことから当寺は「文晁寺」とも言われています。また、下段の間には岸良の「双竜争珠の図」や杉戸絵が描かれています奥書院もと三河国吉田城内にあった建物で、延宝2年(1674)十六世日穏の代、山門とともに当山に寄進されたものです。構造は、木造平屋建てで、桁行八間・梁間五間の寄棟造りの茅葺き、桟瓦葺きの縁側をつけた住宅風書院建築です。創建当初からのものではありませんが、使用されている材料や技法は江戸時代初期の建物様式を遺す建物です。平成24年度から25年度に行われた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き型鋼板葺きに変更されました遠州流庭園裏山の自然林を借景に大書院と奥書院に面して配置された庭園で、当地方の作庭に大きな影響を残した小堀遠江守政一が関わったといわれています。広さは約300坪に及び。池中に鶴島、亀島の二島を浮かべ、山畔には枯滝口が築かれその左手に三尊石、さらにその左手に須弥山石が配され、手前には礼拝石が据えられています。庭園の起源は不明ですが、永禄6年(1563)5月の今川氏真判物に「寺中園林」とあることから、古くから池泉があったことが想像されます。 水の音 ただにひとつぞ きこえける そのほかはなにも 申すことなし (昭和7年) 北原 白秋紙本水墨四季山水障壁画大書院上段の間には、壁画七面、襖四本の両面の計十五面に、谷文晁によって描かれた四季の山水画があります。文晁は江戸時代後期の画家で、四条派、土佐派、洋風画からも影響を受け、さまざまな様式の作品を残しています。また、田原の渡辺崋山ら門人たちとの人脈の広さは、当時の絵師の中でも際立つものがありました。所蔵の絵は、文政10年(1827)二十九世日壇の代、大書院を建築した際に文晁に依頼して製作してもらったものです山門には谷文晁「四季山水」壁画襖絵小堀遠江守一作「遠州流庭園」山門を入った左手に方丈玄関左:大書院の受付、右:方丈拝観料を支払い大書院へ、いろんな賞状が右壁面には、寺宝 国指定重要文化財「法華経曼荼羅図」大書院の縁側からの遠州流庭園奥書院へ奥書院からの遠州流庭園慶長の頃、伝小堀遠江守政一の作。この庭園は大書院から奥書院に面し楕円形の池泉をかかえ背後の自然の山林を借景に深山幽谷の趣を呈し木石の配置も巧妙で、いずれの方角から見ても美しい。蓬莱式池泉観賞式庭園である。その閑静なたたずまいは、歌人北原白秋の歌にも詠まれている御朱印籠幕府より受けた御朱印状を入れる箱と、これを運ぶ籠である。当山は十万石の格式を与えられていたので籠につける標示に「御判物」と書かれている奥書院正面は、「徳川将軍家御霊屋」徳川家康公以来歴代の位牌が祀られている。最下段の両脇には当山の護持に功績があった家康の側室西ノ郡局、小田原城主大久保忠世及び鵜殿休庵の位牌が祀られている家康判物白秋と本興寺昭和7、8両年鷲津を訪れた北原白秋は当寺にて「本興寺林泉」「続本興寺林泉」と題して二十首余を遺す大書院からの「奥書院」奥書院(県指定文化財)は、延宝2年(1674)惣門と同時に吉田城内から移築、県内では数少ない江戸初期書院建築の遺構谷 文晁(たにぶんちょう)文晁は、江戸後期の画家で江戸末期を花鳥山水で飾った。「文晁の間」もある国指定重要文化財:絹本著色大書院:文政10年(1827)建立、上段の間、中之間、岸良の間から成る。大書院の一部は撮影禁止エリア遠州流庭園大書院から客殿への渡り廊下渡り廊下から大書院方向を振り返る客殿内(市指定文化財)寛永14年(1637)建立、安水2年(1773)再建された本興寺の宗紋:6本桜いつものように旅友が本興寺の御朱印を頂く - 定 -静岡縣濱名郡鷲津町 法華宗 本興寺13:24本堂への道から山門を振り返る(北方面)客 殿平成23年度から24年度に行われた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き型鋼板葺きに変更されました寛永14年(1637)、十三世日渕の代に建立され、安永2年(1773)二十五世日義の代に再建されました。桁行十間・梁間八間の寄棟造りで、前面に桟瓦葺きの向拝がつき、側面に濡縁が巡らされています。比較的古式な客殿ですが、江戸時代の特徴をよく示しています工事中の「中門」大書院の本玄関に通ずる中門は、朱塗りの門であることから別名朱門とも言われています貞亨3年(1686)十七世日観の代の建立とされ、本柱と控柱の直上に切妻屋根を載せた薬医門といわれる門です。薬医門は、元来桃山時代創始の城門の一種でしたが、江戸時代には寺院の門として多く用いられました。当初は、客殿正面に建てられていました本堂と開山杉開山杉樹齢600年余と推定されるこの老杉は、永徳3年(1383)門祖日陣聖人の東海巡化の折、改宗した当山の開山杉として植えられたものと伝えられています。京都本山本禅寺を建立された日陣聖人は、応永13年(1406)越後への帰路に再び当山を訪れ、寺門の隆盛をよろこばれ、開山記念として杉樹をお手植えされたと伝えられています北原白秋 歌碑 - 詠 - 北原白秋水の音 ただにひとつぞ きこえける そのほかはなにも 申すことなし国重要文化財の『本堂』本 堂当寺はもと真言宗の寺院で、永徳3年(1383)に開山日乗聖人により法華宗に改宗したといわれています。戦国期には今川氏や徳川氏から寺領を安堵され、天文21年(1552)九世日礼の代に再建されました。建物は桁行五間・梁間五間の茅葺きで、大仏様・禅宗様の二様式と、伝統様式である和様を巧みに取り入れ、三様式を折衷した室町時代の特徴をよく遺しています。本尊に本仏釈迦牟尼世尊及び十界勧請の諸尊を祀っています 東海道53次で岡崎へ ー続く
2020.01.20
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東海道53次も昨年の10/16(水)に、池鯉鮒宿の先の名鉄豊明駅までたどり着いている。この弥次喜多道中の後、10/24(木)から31日(木)まで旅友と「ルーマニア・ブルガリアの旅」を行いこのブログをアップした。このため、11/22(金)から25日(月)の弥次喜多道中記のアップが遅れました。宿泊ホテルの岡崎への途中、前回行けなかった湖西市の本興寺を雨の中参拝した。いつものように弥次さんがわが家へ車で、わが愛車に乗り換え7時に出発。11/22(金) 9:15雨の中、国道139号線を走り静岡方面へ向かう、右側の高架は国道1号線のバイパス9:20国道139号線のJR吉原駅入口9:21国道1号線の高架橋下を通過、本来上を走りたいのだが入り口を間違え国道139号線を進む10:10新幹線の新富士駅横を南下して、国道1号線(富士由比バイパス)と合流今回も天気が悪くて薩埵峠へは行かず。10:42国道1号線(藤枝バイパス)の「薮田東インタ」11:32国道1号線(袋井バイパス)の国本交差点11:44国道1号線の天竜川橋11:47国道1号線を進む、豊橋まで44kmの標示11:52国道1号線(浜松バイパス)の「下飯田交差点」11:59国道1号線(浜松バイパス)の「中田島砂丘入口交差点」目的地の湖西まで24km12:14国道1号線(浜松バイパス)の「篠原交差点」から国道301号線へ分かれ湖西市方面へ。国道301号線の「坪井町交差点」12:18旧東海道と斜めに交差する「新町交差点」右前方は「旧東海道 舞坂宿 松並木公園」で、手前に旧東海道松並木がある国道301号線の「新町交差点」旧東海道はこの交差点を左前方へ進む12:20浜名湖手前の「協働センター前交差点」右側は、JR東海道本線、東海道新幹線12:21国道1号線(浜名バイパス)の「浜名大橋」帰路はこの橋を渡る自動車専用道路国道301号線(旧国道1号線)、日本橋から271.5km地点12:22旧東海道(国道301号線)を走り湖西市へ入るこの辺りは、昨年の’19年5月24日(金)にJR浜松駅からJR新居町駅まで歩いた12:26雨が激しいJR新居町駅前JR新居町駅前先の交差点を直進して新居関所方面へ12:28右側に『新居関所』正式には「今切関所」といい、慶長5年(1600)に設置されて元禄15年(1702)からは、 吉田藩が運営した。新居関所は「入り鉄砲」と「出女」は無論、「入女」も厳しく取り締まり、箱根と同様、改め女(人見女)がいた。改め女による厳しい検査と船渡しの危険を避け、さらに「今切」の言葉に縁起を担いで、多くの女性は浜名湖の北岸を迂 回する脇街道の「本坂道」を利用した。そのため本坂道を「姫街道」とも呼んだ。 明治2年(1869)関所は廃止された復元された「大御門」 大御門は、明六ツ(午前六時頃)に開き、暮六ツ(午後六時頃)に閉じました。大御門の前には、高札を置く枡形広場があり、東海道へつながります。 大御門の大きさは、高さ5.8m、幅4.6mです。 城門と同じ屋根付きの堂々とした高麗門です。礎石建ちではなく、地表より2.7m下に礎石をすえ、柱を埋めた堀立柱の門です前回のブログへのリンクをお願いします『新居宿の寺社巡り』12:30あと引煎餅の『あと引製菓』所在地:静岡県湖西市新居町新居1264-3試食品もあり、お土産に2袋購入した2019年6月25日に、BS日テレ『ふるさと探訪』にて放送された店舗。三宅裕司が訪れた老舗で是非訪問したいと、我がノートの「行きたいところ」に記載今日は作業が終了したとのこと12:33この先の「泉町交差点」を右折して国道301号線をJR鷲津駅、本興寺方面へ12:39国道301号線をJR鷲津駅方面へ12:45法華宗別院 本興寺所在地:静岡県湖西市鷲津384自宅からここまで、224km常霊山 本興寺(じょうれいざん ほんこうじ)当山は今からおよそ630年前、永徳3年(1383)、法華宗越後本成寺の日陣聖人が東海地方巡化の途次、この地にあった法華堂の住持を教化して真言宗から法華宗に改めた寺である。時の住職は大慈悲院日乗聖人でご開山と仰いでいる雨が強くなったが本興寺の散策へ本興寺 境内地図パンフレットから:上が「南側」聖跡「鷲津弘通所(ぐづうしょ)」当法華宗陣門流の祖、南無日陣尊聖人東海巡化の御聖跡「鷲津弘通所」とは室町時代すなわち永徳3年(北朝)弘和3年(南朝)(1383)この地を巡地され、法華宗に改宗された聖跡である。門祖聖人の御消息の中に布教の重要拠点として「鷲津弘通所」と命名されたところ。この度、門祖第六百御遠忌に当りその記念としてここに顕彰する石碑である平成30年5月21日 法華宗本山 常霊山 本興寺山門(惣門)もと三河国吉田城の城門であったものを、延宝2年(1674)十六世日穏の代に吉田城より移築したもので、高麗門といわれる形式の門です。山門をくぐると参道が本堂へと続く山門の扁額の「常霊山」改築される前は、上端が薄く下端が厚い板を段状に葺いた段葺き技法の特徴を備えた風格のある門でしたが、移築時に杮葺(こけら)きに改修されました。その後、享保10年(1725)に現在のような本瓦葺きに改修されました。なお、創建時の段葺き屋根の特徴は、現在も瓦葺きの下に保存されています山門を入ると、両側に四坊の塔頭寺院が配されている参 道浜名湖辺から正面の本堂に向かう全長300mに及ぶ参道には、山門に続き四坊の塔頭寺院が両側に配され(江戸末期には八坊)、本堂手前右側に方丈があります。文化14年(1817)、二十九世日壇の代に山門から本堂にかけて石垣普請が行われ、天保9年(1838)三十一世日融の代に再整備されました。平成の大修理事業の一環として、平成28年に幅員6m、全長140mにわたり完全舗装整備を行いました参道の東側にある四坊の塔頭寺院のひとつ「東光院」東光院の山門と本堂山門手前の石碑は「門祖御旧跡碑」東光院山門山門(惣門)を振り返る雨に濡れた紅葉参道の西側にある四坊の塔頭寺院のひとつ「光明院」光明院本堂本堂内参道の東側にある四坊の塔頭寺院のひとつ「玉葉院」玉葉院山門玉葉院本堂13:00光明院を振り返る 東海道53次で岡崎へー続く
2020.01.19
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秩父宮記念公園から、とらや工房に立ち寄り、道の駅経由帰宅。9/13(金) 11:22とらや工房へ向かう11:24秩父宮記念公園から数分の所にある、東山旧岸邸・とらや工房。無料の駐車場に車を停めて東山旧岸邸概要所在地:静岡県御殿場市東山1022-1東山旧岸邸(1969年竣工)は、第56・57代内閣総理大臣を務めた岸信介(1896~1987)が晩年を過ごした邸宅です。岸信介は、昭和45年(1970)1月から亡くなる前年の昭和61年(1986)まで、この自邸で暮らしました。建物の設計は近代数寄屋建築の創始者として知られる建築家吉田五十八(いそや)によるもので、伝統的な数寄屋建築の美しさと洋式の機能性の両立をめざした吉田五十八の完成度の高い建築空間をご覧いただけます茅葺門(Thatched Gate)営業時間:4月~9月 10:00~18:00、10月~3月 10:00~17:00 * 売切れ次第終了定休日:毎週火曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始とらや工房手前から、喫茶席、テラス席、販売所、厨房とらや工房・東山旧岸邸 ご案内茅葺門(山門)からの敷地内の紹介 テラス席に座り、まんじゅう・大福・どら焼きなど、つくりたての味を楽しめる少々高いが「栗まんじゅうとお茶セット」約\600最中とお茶セットお茶はお代わり自由30分程、お茶をしながらのんびりと過ごすテラス席の前には梅林、池があり癒しの空間である厨房では、どら焼きを焼いている梅林でとれた梅はお菓子に使われている12:04観光バスで訪れるツアー客も訪れている東山旧岸邸へ名木「太郎冠者」植樹記念の碑この椿は、太郎冠者(京都では別名 有楽)と呼ばれる園芸椿の古典品種である。鑑定では国内で現存する同種の中でも最大級の樹冠を備え、樹齢400年近い古木とのこと。・・・中略・・・、元首相が生前にこの椿をご覧になられ、その素晴らしさに感心し所望された木でもあることから、生前の想いを叶えるため、岸信介元首相生誕120年を記念して、御殿場財産区の協力により東山旧岸邸に移植、景観重要樹木として指定し後世に継承するものである 平成28年3月22日 御殿場市長 若林洋平 記念植樹第12期・15期 御殿場財産区議員 平成28年3月22日覆われた「太郎冠者」太郎冠者は樹勢回復に向け強い陽射しを防ぐため囲いで覆っています名木「太郎冠者」東山旧岸邸 利用案内本館入館料:300円平成21年(2009)からは、和菓子の虎屋のグループ会社である㈱虎玄が指定管理者として管理運営を行っている第5回 静岡県景観賞 優秀賞「東山旧岸邸」以下二枚の写真はネットから左は受付秋の東山旧岸邸12:14竹林を歩き茅葺門から駐車場へ12:32二年前にも立ち寄った小山町にある「道の駅 ふじおやま」ヘ所在地:静岡県駿東郡小山町用沢72-2小山町・道の駅案内小山町は、昔話にある足柄山の金太郎の生誕地でる。金太郎は長じた後、京に上り坂田金時という武将になり、四天王の一人として源頼光に仕えた金太郎生誕の地小山町富士からの伏流水が・・・・・・道の駅ふじおやま店内店内で販売のかぼちゃ @\680ここでもブドウを販売シャインマスカット:1,680円山梨県産藤稔:1,280円13:00昼食を食べることに「金太郎パワーうどん」をオーダー自動販売機でチケットを購入するとナンバーが厨房へ届き調理。席に座り、出来上がりを待つ自分のナンバーが出、セルフで引き取る金太郎パワーうどんのお召し上がり方町の木:ふじ桜、町の花:菜の花、町の鳥:うぐいすまさかりをかついだ金太郎。生誕地については神奈川県の南足柄市と争っているが13:29食事も終え国道246号線を走り自宅へ13:35国道246号線を走り、厚木・松田方面へ13:40新東名高速道路の工事現場当初予定では来年度開通の予定であったが遅れるとの報道13:42前方に東名高速道路13:47国道246号線の上を東名高速道路の高架橋東名高速道路の下り線東名高速道路の上り線13:53洒水(しゃすい)の滝:日本の滝百選前回はここから、アサヒビール神奈川工場へ行き工場見学後ビールを試飲したが13:59農産物直販加工所「とれたて 山ちゃん」所在地:神奈川県足柄上郡山北町向原1823-1営業時間は9時?から14:04国道246号線、この先を右折して湘南海岸へ14:06東名高速道路へは入らず直進して西湘バイパスへ東名高速道路、大井松田インタ入口、ここを直進して西湘バイパスへ14:27国道一号線を走りこの先を右折して橘インタへ。ここから入ると高速料金は無料西湘バイパス、平塚・横浜方面へ14:31西湘二宮インタ出口を直進して平塚へ14:37西湘バイパスを出て国道134号線(平塚市)へ14:44国道134号線を走り、相模川の「トラスコ湘南大橋」を渡る14:52鶴嶺八幡宮大鳥居国道一号線鳥井戸橋交差点鳥井戸橋交差点にある「東海道南湖左富士之碑」途中買い物をし、自宅へは15:50に到着した。累計走行距離は181kmでYさんに運転をお願い、私は助手席でカーナビ担当。運転ありがとうございました。また次回の計画を! 三島・箱根の旅ーEND自宅の玄関先で咲く「ノボタン」色鮮やかに咲いている END
2019.09.30
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秩父宮記念公園を引き続き散策。9/13(金) 10:41アメリカ芙蓉?酔芙蓉は、八重で白からピンクに変わる。芙蓉は、花が一重で花の色が咲き始めと同じで変わらない 芙蓉とアメリカ芙蓉の違いは?どちらも、アオイ科フヨウ属芙蓉:樹木で、別名モクフヨウと云う。葉の形が、先がとがり切り込んでいる。芙蓉 はよく枝分かれして、横にも張りこんもりと茂る。原産地は、日本、台湾、中国アメリカ芙蓉:草花で冬を越して咲く宿根草、別名クサフヨウと云い大型の草花。 北アメリカ原産で、葉は切れ込みがなく、卵形で先がとがっているクロアゲハオッ家内は「シュクサ」と言っていたが咲き始めのため色が濃いソリダコ正式には「ソリダゴタラ」別名「ゴールデンロッド」と言われている、キク科の多年草の花です。宿根草で年3回花が咲く、とても強い品種である雑草で、河原などでよく目にする「セイタカアワダチソウ」などととても似ているここよりロックガーデンに咲いていた花。ジャコウソウシソ科ジャコウソウ属の多年草花言葉:活気・勇気ある行動・潔癖症・活発・あなたの姿に感動する・清潔感キレンゲショウマアジサイ科キレンゲショウマ属の多年生の植物。レンゲショウマに似ていることからこの名があるが、レンゲショウマはキンポウゲ科である。日本の紀伊半島、四国山地、九州山地にブナ林などに自生するオタカラコウ(雄宝香)キク科メタカラコウ属の多年草花言葉:私に触れないでオタカラコウ(雄宝香)同属でメタカラコウ(雌宝香)があり、オタカラコウより小さいシュウカイドウボランティアの方に尋ねたら「スズムシソウ(鈴虫草)」と言われたがスズムシソウはラン科だがこの花は?10:48左:うぐいす亭、右:記念館入口から母屋へ行けるうぐいす亭秩父宮殿下の和歌より名付けられたカフェです。月替わりでオリジナルケーキや和菓子、宮邸限定コーヒーや軽食もあり、散策の疲れを癒せるシュウカイドウの群生地竹林の中に「秩父宮同妃両殿下防空壕」当園内には、この他に将校の防空壕、民間人用防空壕(未公開)の三つの防空壕がある。当時、皇位継承順位第三位であった殿下の防空壕は特殊掩体壕というかまぼこ型で、遮弾層として石を1.5メートルほど積み上げ、その後さらに土を盛った構造で強度があるものでした病気療養中であった殿下を、別邸から担架に乗せたまま防空壕の奥まで入れる、カタツムリのような構造になっている秩父宮同妃両殿下防空壕内部。奥には煙突のような脱出口もついている防空壕周りに咲く彼岸花ハギ(萩)マメ科ハギ属で、秋の七草の一つ花の色はピンク、白で、ハギの花にミツバチが花言葉:思案・内気・柔らかな心・柔らかな精神ほおずき&シュウカイドウ公園内を散策敷地面積は約18,000坪(東京ドームの1.5倍)で、標高約500mに位置する庭園秩父宮記念公園の一番奥に位置する「つばき園」平成17年に、新たにヤブツバキを中心とした「つばき園」開園されたヤブツバキツバキ科ツバキ属の常緑樹花言葉:わが運命は君の手にありツバキの実がリンゴに近い大きさ種子からは椿油を採取する母屋の前に立つ秩父宮殿下の登山姿の像クロアゲハズームアップソリダコ薔薇園には黄色の薔薇も咲きクロアゲハが飛び回るこの花の名前は?ズームアップ柿も実り山野草の売店で「大文字草」ダイモンジソウは、ユキノシタ科ユキノシタ属の多年草ピンク色色鮮やかな大文字草ヤマアジサイ出入口の中門へ高齢女性グループが訪れていた11:16森のエントランスから駐車場へ約一時間の散策でした近くにある「とらや工房」へ向かう。 三島・箱根の旅-続く
2019.09.29
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長安寺の散策後、国道138号線(紫陽花通り)を走り、乙女トンネルを通り抜け、御殿場市にある、「秩父宮記念公園」へ向かう。9/13(金) 9:53ふじみ茶屋所在地:静岡県御殿場市深沢11813長安寺から国道138号線を走り乙女トンネルを出た左側にある天気がよいとここから富士山の全景が見れるビューポイントである。売店前では山梨県下のモモ、ブドウ、ナシ、野菜を販売しているふじみ茶屋お店は少し古風な感じだが、飲食もできる場所で、一本150円の団子が美味しいと甘味メニューシャインマスカット:一房 \1,200名札は「富士柿」とあったがので、おばさんに「柿?」と聞くと「間違っていました」と、どう見ても「梨」ですね!ふじみ茶屋の横には名水が湧き出ていた、ペットポトルに入れたかったが。マイカーには焼酎を入れていた2リットルのペットポトルがあるのだが箱根山、伏流水『ふじみの水』この水は地下380メートルから汲み上げている軟水です。飲料水・お茶・珈琲や炊飯にも適しております 店主ヤマアジサイ10:03風流に、石臼の中には一円硬貨が。店内で10数分間お土産を見て、御殿場市の秩父宮記念公園へ向かう10:09ふじみ茶屋から国道138号線を下り深沢東交差点、ここを直進。ここまでの下り坂の両脇にはアジサイが植えられていて、5月から7月頃には目を楽しませてくれる紫陽花通りである10:12東山湖入口交差点を左折して、秩父宮記念公園へ直進すると東名の御殿場インタへ、右前方は東山湖で釣り客が多く10:15秩父宮記念公園の正門所在地:静岡県御殿場市東田中1507-7有料駐車場(¥200/回)へ車を留め、「森のエントランス」へ。心癒される御殿場のビューポイントである苑内の見頃の花情報①シュウカイドウ ②カクトラノオ ③ソリダコ④コスモス ⑤キレンゲショウマ ⑥シュウメイギク⑦ヒガンバナ ⑧ケイトウ ⑨ルドベキア⑩ワレモコウ ⑪椿の実祭16回静岡県都市景観賞 優秀賞「??空間 秩父」のプレート森のエントランスを歩き中門へ「受付・案内所」故三笠宮寛仁(ともひと)親王殿下がお書きになられた園名板と、爽やかなヒノキ林がお客様を歓迎します。5月頃にはシャガ、7月頃はヤマユリが咲き乱れるヤマユリの球根場所を示している2年前の平成29年7月19日(水)に訪れた時の開花状況。ヒノキ林にヤマユリが咲いており、周りにはヤマユリの香りが漂っていた.。『平成29年7月19日の秩父宮記念公園』をリンク願います。四季折々の花が楽しめるので是非訪ねてみてくださいシュウカイドウ(秋海棠)ショウカイドウ科ショウカイドウ属に分類される多年生草本球根植物である。和名は中国名「秋海棠」の音読み。ヨウラクソウ、相思草、断腸花、八月春とも呼ばれる10:21中門の「受付・案内所」入場券:高齢者優遇はなく300円を払い入園開園時間:9:00~16:30(時期により変更) 入園料:300円 休園日:毎月第3月曜日全体案内図秩父宮記念公園は、昭和16年9月から約10年間、秩父宮両殿下が実際にお住まいになられたご別邸です。秩父宮妃勢津子殿下が、平成7年8月にお亡くなりになられた際の遺言により御殿場市に御遺贈いただき、園内を整備し平成15年4月に開園した公園です 檜林に囲まれた本公園は箱根山麓の風光明媚な地域にあり、敷地面積は約18,000坪(東京ドームの1.5倍)で、標高約500mに位置する庭園は豊かな自然と両殿下が愛された山野草をはじめ四季折々の花々を楽しむことができる何かの花の実シュウメイギク(秋明菊)が咲き誇り花茎を長くのばして菊に似た淡紅色や白花を咲かせ、楚々として和風のイメージを醸すシュウメイギクシュウメイギク(秋明菊)の花言葉は、「薄れゆく愛」「忍耐」ズームアップミズヒキホトトギス(杜鵑草)花後の実が付き茅葺の邸宅(母屋)昭和二年に移築したとのことで、現在の金額では2億円とか、廻りには樹齢120年の枝垂れ桜がある、4月中旬が見頃とのこと。今の時期は、白色のサルスベリ(百日紅)が満開、右下には黄色の彼岸花。ここで6人で集合写真を撮影記念館(母屋)木造茅葺平屋建てで、、元蔵相の井上準之助の別荘だったものを宮家が購入し、秩父宮御殿場御別邸とされたものです。もともと享保8年(1723)に建築された御殿場市深沢の小宮山家が所有する家屋でしたが、昭和2年に現在の場所に移築された。土間だった東向きの33畳間が洋間に改造され、応接間・食堂・書斎を兼ねて使用されました。南西側の床下には、御別邸内で栽培された野菜類を乾燥するために、殿下の御発想で作られたトロッコ風の重ね箱が収納されており、また軒下には、妃殿下が愛された「紫のスミレ」が育っています赤い百日紅も咲きこの花後は、何の花樹齢120年の枝垂桜の下では黄色の彼岸花が満開黄色い彼岸花:ショウキラン黒いアゲハが飛び回っていた彼岸花には蜜が多いのか彼岸花には、赤、白、黄色の三色母屋付近に咲く、シュウカイドウ(秋海棠)奥に東屋富士を望む登山姿の秩父宮殿下昭和天皇より贈られた登山服姿の殿下の銅像は、彫刻家の朝倉文夫氏が制作したもので富士山に向けて設置されている。今回も富士山は見れず母屋の屋根母屋の茅葺の屋根には松の芽が育ち白のシュウメイギクピンクのシュウメイギク黄色の彼岸花も鮮やかに咲き三色の彼岸花苑内には梅の木等の古木キアゲハが飛び回りしばし飛び回るキアゲハを追いかける10:41ワレモコウ(吾亦紅)バラ科・ワレモコウ属の植物。日本列島、朝鮮半島、中国大陸、シベリアなどに分布しており、アラスカでは帰化植物として自生している 三島・箱根の旅-続く
2019.09.28
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三島・箱根の旅、昨夕は小雨であったが二日目はどうにか雨も上がっていた。9/13(金) 7:12温泉は大涌谷から引いており、朝食前に入る秋の紅葉シーズンは最高のロケーションである朝食は7:30からで二階食堂へ、地酒、焼酎、ワイン朝食はおかゆを頂く我が夫婦は洋室に宿泊朝食後、出発前に軽散歩。ポーラ美術館までは坂を登り歩いて5分バス停から急な坂道を登って来る岩の上にコケが生えズームアップ鍋フェアで『癒しの秋』の看板。通常夕食に500円プラスで煮物をお鍋に変更できる。2種類のお鍋から選べる、はりはり鍋 or きのこ鍋。秋の飲み比べ:箱根地酒の飲み比べセット 800円。大人くじ:1回 500円でハズレなし。期間:2019年9月1日~11月末日まで通常夕食の一例9時に保養所を出て、近くにある五百羅漢の長安寺へ小塚山から下り県道57号線へ国道138号線の仙石原交差点を直進して長安寺へ左方向:乙女峠、御殿場 右方向:小田原9:13曹洞宗龍虎山 長安寺所在地:神奈川県足柄下郡箱根町仙石原82長安寺入口に立つ、常夜燈と石柱。車はこの間を通り右側に駐車場がある石柱の下にシュウメイギクの蕾白色のシュウメイギクか?駐車場脇に咲いていた、シュウメイギク。キンポウゲ科アネモネ属。別名、キブネギク・ジャパニーズアネモネ名前にキクが付くが、キクの仲間ではなくアネモネの仲間である。原産地は中国で、多年草オミナエシオミナエシは秋の七草のひとつ手水舎と山門弁天池この亀は作り物ナマズにのった五百羅漢五百羅漢が池に長安寺は古くは姥子にあったが、万治元年(1658)現在地の仙石原に創建された名刹である。山門には「東国花の寺百ヶ寺」の看板本堂前からの山門黄蓮華しょうま、みずひきキレンゲショウマは、アジサイ科キレンゲショウマ属の多年生の植物境内および裏山の林の中には五百羅漢が点在し、小京都のたたずまいが感じられる。新緑、紅葉が美しく「東国花の寺百ヶ寺」としても知られているお寺である五百羅漢とは、仏教の開祖であるブッタに仕えた500人を超える弟子たちのこといろんな表情の五百羅漢長安寺の五百羅漢像は現在も制作が続いているそうです個性豊かな五百羅漢山の斜面に鎮座しいている五百羅漢岩の上にコケシュウカイドウシュウカイドウは、シュウカイドウ科シュウカイドウ属(ベゴニア属)に分類される多年生草本球根植物である。和名は中国名「秋海棠」の音読み淡いピンク色ズームアップイワシャジンキキョウ科ツリガネニンジン属秋に紫色の釣り鐘型の花が、岩場から垂れ下がるように開くさまはとても風情があり、人気の高い山野草の一つですイワシャジンの花が一輪筆塚の石碑岩たばこ黄蓮華しょうまお気持ちをお願いします何を思案しているのかシュウメイギクはこれから満開に他に白色等、いろんな色があるようだキキョウ構えているのか優しい表情の五百羅漢長安寺は、四季折々楽しませてくれる古刹である9:45 このあと、国道138号線を御殿場へ行く。 三島・箱根の旅-続く
2019.09.27
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源兵衛川を上流へ向かって散策後、箱根神社へ向かう。9/12(木) 14:35源兵衛川この辺りは湧水が数ヵ所からあり水量が多い14:36この界隈の案内、方位もあり親切源兵衛川の上流へ向かって木道があるがこの辺りで引返すことに。ユリが一輪咲いていたズームアップ岩場にはベゴニアところどころ飛び石があり年配者には危険!ボランティアの方が流れてきた木の枝を除去していた14:41伊豆箱根鉄道駿豆線三島市内は歩いての散策が中心の為このような案内板がいたるところに立っている14:43源兵衛川 →← 雷井戸(Kaminari-Ido Well)井戸からこんこんと湧き出す透明できれいな水が、ミシマバイカモを左右になびかせる姿を見ることができる。かつてこの井戸は田町水道といわれ、地域住民の飲料水を供給する簡易水道の水源でしたが、現在では市民の有志が井戸の土地を買い上げ、市民の手により大切に管理されている歩道面にもこのようなタイルが14:49県道51号線に戻り「お菓子の雅心苑 三島店」駐車させてもらったお礼に、女性軍が今夜のお菓子を購入していた明日13日(金)は中秋の満月だが、果たしてお月さんは出るか?14:50雅心苑前はバス停で三島駅行バス、三島梅花藻の里を後にして箱根へ向かう14:53国道一号線に戻り箱根方面へ向かうが、箱根の山は雲が厚くなっていた国道一号線の箱根路を登る前方に「錦田一里塚」の案内板15:05工事中の国道一号線15:07左側に、三島スカイウオークを見ながら登る15:20道の駅「箱根峠」所在地:神奈川県足柄下郡箱根町箱根381-22道の駅の脇に「箱根峠の境木」箱根宿のはずれから、向坂・赤石坂・釜石坂・風越坂・挟石坂と呼ばれる坂道を登ると箱根峠に至る。この峠の付近に「伊豆相模両国境」と標示した標示杭が立てられていた。標示杭は、道の反対側にももう一つあって、小田原藩領と三島代官の支配する幕府領との境を示していた。この辺りの地名は、「境木」、往時の様子が偲ばれるまだ紫陽花が咲いていた道の駅から芦ノ湖を望む15:23道の駅で売っていた「バターナッツ・スクワッシュ」。アメリカで人気のカボチャ。なんといってもポタージユに向いており、ソテーやフライにしても美味しいですと。小田原産で800円15:32国道一号線の「箱根町バス停」小雨が降っていた、小学生の遠足か?15:34元箱根の「箱根神社 第一鳥居」ここを直進して、箱根神社へ。外国人観光客が多く歩いていたが、この辺りでも韓国人は減少しているのか15:39箱根神社の駐車場へ到着、お札所。女性軍は石段があるので車の中で待機することに、男性三人で参拝第四鳥居と手水舎石段を登ると第五鳥居箱根神社には、第一から第五までの鳥居がある15:42箱根神社箱根神社拝殿前新装された「九頭龍神社 新宮」九頭龍神社 新宮奥に儀式殿の内玄関、右に拝殿九頭龍神社 新宮前にある、「成就水盤」「龍神水」皆さんペットポトルに水を汲み珈琲を沸かして飲むとか安産杉この大杉は、古代山岳信仰の名残りをとどめる幸運の栄木です。遠い神代の昔、高天原から降臨された皇孫・・・・・・・。箱根神社はこの皇祖三神をおまつりしていますが、この木は古代祭祀の象徴たる栄木として崇めてきたものです15:54箱根神社境内15:57宝物殿前にある獅子箱根七福神池の奥に「弁財天社」と「芦ノ湖のけけら木」芦ノ湖の「けけら木」芦ノ湖の「けけら木」の保存神輿庫内の神輿16:03箱根神社を後にし、仙石原の保養所へ向かう。16:06この先を右折して県道75号線へ登る左側は、芦ノ湖畔 蛸川温泉 龍宮殿、直進すると箱根園16:16桃源台の箱根ロープウェイ乗り場16:21県道75号線を進む仙石原すすき草原16:30保養所へ到着、部屋でビールを飲み夕食前に温泉へ入る。18:05夕食の献立表「早秋の箱根路」メインは肉を依頼。ビール&焼酎(ちょうちょ夫人)を水割りで飲む20:0519時半ごろからカラオケを行い、4曲歌わせていただきましたカラオケを21時頃まで行い部屋へ戻り、今日の反省を行い明日のスケジュールを!今日一日の歩行数は、約7,000歩でした。 三島・箱根の旅-続く
2019.09.26
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伊豆フルーツパークがいっぱいで昼食ができなかったため三島市内へ向かう。9/12(木) 12:44国道一号線を下り三島市内へ12:46国道一号線の三島玉川交差点を右折12:49県道51号線を走りJR三島駅方面へ向かう、前方緑の林は「楽寿園」前回訪問していなかったので駐車場があるレストランを探すが13:00この先を左折してJR三島駅へ来るが駐車場がなく13:09先ほどの県道51号線に戻り古い食堂を探す店先に「お昼のサービスランチ」、各800円店内に入りうなぎかつ丼 1,000円があるが、ロースかつ定食をオーダー 800円ロースかつ定食 \800値段も安く大衆的で美味しかった!13:56食事を終え、県道51号線を歩き三島梅花藻の里へ。店の方から老舗和菓子屋の裏に駐車場があると聞き、近いので私は歩いて進む。伊豆箱根鉄道駿豆線「製氷前踏切」伊豆箱根鉄道駿豆線の修善寺行き電車修善寺方向、この先にすぐに三島田町駅14:00お菓子の雅心苑 三島店所在地:静岡県三島市南本町7-20店内にテーブルがあり購入した和菓子とお茶を店内で食べれる。また夏にはかき氷も美味しいですと。コロッケ饅頭も美味しい。帰りに土産を買うことにし、右奥の駐車場へ入る店の南側に「三島梅花藻の里」三島の宝物・ミシマバイカモ(三島梅花藻)とはかつて三島市内の川のいたる所で見られたミシマバイカモは、昭和30年代の湧水減少とともに三島から姿を消してしまいました。平成8年(1996)、市民が中心となりミシマバイカモを復活させようと隣町の柿田川から譲り受け「三島梅花藻の里」を整備しました。土地は、(財)佐野美術館の湧水池を無償で借りている県道51号線を挟んだ東側に「佐野美術館」佐野美術館の指定文化財三島市名誉市民の故佐野隆一氏は、明治22年(1889)三島市に生まれた。氏は鉄興社をおこし、実業界において成功を収めた。その多忙な中美術への造詣を深め、幅広い美術品を収集した。そして郷土の人達の鑑賞と、創意工夫の心を啓発するため、昭和41年財団法人を設立し、土地・建物・美術品・基金を寄贈して、佐野美術館を開館した残念ながらこの日は木曜日で休館日。創立者の佐野隆一が収集した約2,500点の美術品を収蔵・展示している。庭園内には国の登録有形文化財に指定された隆泉苑がある。隆泉苑は、富士の湧水を取り入れた回遊式の日本庭園で、四季折々の表情を楽しむことができる「三島梅花藻の里」界隈の案内この辺りから湧き水が「三島梅花藻の里」この水は飲めませんと!ミシマバイカモは清流に育つキンポウゲ科の多年草で、楽寿園の小浜池で発見され、ミシマバイカモ(三島梅花藻)と名付けられました梅の花に似た白い花をほぼ1年中咲かせ、手のひら形の「浮き葉」をつけるのが特徴です。バイカモの多くは、高地や寒地で育つので、三島のように温暖な低地で育つのは珍しいことです直径が10mmぐらいと小さい花ズームアップするが緑の環境デザイン賞、国土交通大臣賞 受賞今後もさまざまな緑化プランを実現させ、未来を担う子どもたちに緑豊かな環境を伝えていきたいと願っております富士からの湧水がお菓子の雅心苑 三島店土地は、(財)佐野美術館の湧水池を無償で借りている湧水を噴水で放水三島ではいたるところで富士からの湧水が出ている水車で雰囲気を14:19お菓子の雅心苑 三島店から西へ120mに位置する「水の苑緑地」水の苑緑地 案内図源兵衛川に沿った散歩道が整備されている「水の苑緑地」界隈の案内この水の苑緑地は、源兵衛川中流部にあたり、周辺では高木類が最も多く野鳥類が豊富で自然が多く残っている場所である。苑内には、湧泉が数ヵ所あり、旧来より、中郷地区玉川用水の水源地となっている。整備は、現在の生態系を生かし湧水を活用した水と緑に親しまれる親水公園とした苑面積:約3,200㎡源兵衛川は清流で、カワセミがくるとのことでカメラマンがが待機していた。高木類に囲まれた源兵衛川の上流源兵衛川の下流源兵衛川の清流に鴨が梅花藻の間から餌を水中の中の足を器用に動かして移動していたファミリーなのか鴨が集団で梅花藻の花が水の中に。バイカモは、日当たりが良く冷たい清流でしか育たないので、水質のバロメーターといわれています。ミシマバイカモは常時手入れをしないと枯れてしまうので、現在、ボランティアの協力により地道な作業が進められていますミシマバイカモのかわいい花がいつまでも見られるよう、大切に育てていきましょう。皆様の保護活動へのご理解とご参加をお待ちしておりますと。NPO法人 グランドワーク三島 三島ゆうすい会 遊水匠の会ハグロトンボも飛び神様トンボ(精霊トンボ)、オハグロトンボ 等、いろいろと呼ばれている14:29酔芙蓉も咲きピンクに染まり酔いが回って来たのか14:34川沿いに咲いていた、ジンジャ―の花ショウガ科シュクシャ属和名:花縮砂(ハナシュクシャ)、別名:ジンジャー花言葉:豊かな心、無駄なことこの花を国花とする国は「キューバ」 三島・箱根の旅-続く
2019.09.25
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神奈川県立「生命の星・地球博物館」の続編。9/12(木) 11:22アンモナイトの壁海は生命を生み、はぐくみました。海の中では、強い紫外線やはげしい温度変化から身を守ることができ、しかも、食べ物が豊かです。このような恵まれた環境のもとで生物は栄えることができました。アンモナイトも大繁栄した生物の一種です壁面に大きな「アンモナイトの壁」アンモナイトをズームアップウインタクリヌス・ソキアリスウミユリの仲間で、棘皮植物。古生代から現在まで生息しているグループ。海底に生えたユリのような形をしているところから名づけられた私にはクラゲのような「ウインタクリヌス・ソキアリス」大きさが1メートル以上もある「シイラ」リュウグウノツカイこの標本は長さが5メートルぐらいもあり、1990年7月17日に小田原市御幸の浜に漂着したもの地球生命の営みを展示している身体の割には小さな恐竜の頭部恐竜の胴体部分哺乳類の剥製トドのオス(立っている)、右にトドのメス北海道沿岸からカリファオルニア沿岸に分布しているゴマフアザラシベーリング海、オホーツク海、北海道近海に分布しているセイウチカナダ東部、グリーンランド、ユーラシア北部やアラスカ西部の海岸に分布ゴンフォテリウム(複製)時代:2000万年前、産地:アメリカ合衆国 ネブラスカ州アメリカマストドン(複製)時代:1万1000年前、産地:アメリカ合衆国 オハイオ州アケボノゾウ(複製)時代:100万年前、産地:兵庫県明石市コロンビアマンモス(複製)時代:1万年前、産地:アメリカ合衆国 ユタ州一階展示場三階展示場へエスカレーターで上がり神奈川の大地と生物を陳列左:アケボノゾウ、中央:ナウマンゾウ、左:ヤベオオツノシカアケボノゾウ(レプリカ)ヤベオオツノシカ(レプリカ)中央の「ナウマンゾウ」ナウマンゾウ(レプリカ)ヘラジカのオス現在まで地球に現れたシカのなかでもっとも大きなシカです。大きいシカでは、肩の高さまでが2.4m、体重は820kgにもなります。メスにはツノがないエントランスにある大きなシロクマエントランスホールの天上ドーム11:45昼も近くなり約一時間の鑑賞で後にする11:51国道一号線を走りこの先を左折して箱根新道へ国道一号線の箱根新道へ11:58この先の橋は「旧東海道箱根石畳」畑宿からの箱根越えの石畳箱根新道の上を旧東海道が越える12:07箱根峠(標高 846m)、静岡県下に入り函南町へ箱根峠から下り、三島まで17km昨年の12月18日(火)に右側の旧東海道をJR三島駅まで一人で歩いた12:13この先を左折すると、日本百名城の「山中城跡」へ600m山中城バイパスを下り下側の山中城跡入口500m12:16正面に人道の吊橋としては日本で一番長い「三島スカイウォーク」箱根越えの三島側の国道一号線は工事中12:18 三島、沼津、駿河湾が見えていたが、今日も富士山は見えず道路脇の旗は、レストランの「釜揚げしらす丼」「かき揚げうどん」12:25左側に目的地の「伊豆フルーツパーク」12:28伊豆フルーツパーク所在地:静岡県三島市塚原新田181-1 tel;055-971-1151営業時間:8:30~18:30 で年中無休当初の予定どうり昼食で立ち寄るが、バスエリアには多くの観光バスが駐車三島市内の散策ルート案内昨年の12月18日(火)と今年1月16日(水)に旧東海道を歩いた散策ルートである源兵衛川(Genbe-Gawa River):ここから車で14分「水の都・三島」のシンボル。「せせらぎ散歩」を満喫、初夏にはホタルが舞う清流で心癒されますと一階には土産物店があり多くの老々男女がにぎわっていた土産物を購入エスカレーターで二階のレストランへ行くが、「本日のお食事はご予約の為 満席 となっております」の立て札が二階レストランは多くのバスツアー客が食事中。1,000人近く入るレストランだが、仕方がなくここでの昼食はあきらて他の場所へ行くことに変更。バスツアーで行く山梨県甲州市の「信玄館」も同様マスクメロンも一個 \1,800 で販売最近はやりの「シャインマスカット」、一房 \1,480と高価。我が家のブドウとは見た目が大だが12:37売店を出ると駐車場には多くの観光バスが止まっていた。日帰りバスツアーのコースに入っているのであろう伊豆フルーツパークは事前に予約すれば、フルーツ狩りもできる。昼食がとれず三島市内へ向かう。 三島・箱根の旅-続く
2019.09.22
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9/12(木)、13(金)と近所の御夫婦と6名で、会社の保養所を利用し一泊二日の温泉旅行を行った。9/12(木) 10:11朝10時に自宅へ迎えに来ていただき、6名乗車して国道134号線を箱根方面へ。今回の運転は車所有のYさんにお願いする10:19渋滞していたので何事かと、白バイが追い越し線に停車トラックと軽自動車の事故か?車内では、川中美幸の曲が流れ、彼女のTALKで盛り上がる昨日購入したCD10:23平塚市へ入り「湘南大橋」へ、この橋の愛称は、トラスコ湘南大橋国道134号線の湘南大橋、天気が悪く富士山は見えず10:27平塚市南部の海岸線を走る、袖ヶ浜大磯 1km、小田原 19km10:29直進して西湘バイパスへ国道134号線は左方向へ、有料道路の西湘バイパスへ進む大磯海岸辺りの高架橋10:33大磯西インタ手前、箱根の山は曇り空だが。一般道路を走るには、ここのインタを出て国道一号線へ大磯ロングビーチのホテルこの辺りの西湘バイパスは、昨年?の台風被害でまだ一車線規制10:38西湘バイパスの橘料金所ここから普通車 \260小田原方面今日は木曜日で道路は空いていた10:42伊豆フルーツパークへ行く前に、前回休館日で入れなかった「神奈川県立の生命の星地球博物館」へ行くことにする10:45右に真鶴半島、左には初島、台風15号の被害があった大島も見えていた小田原厚木道路方面へ向かう右前方の山には、続日本百名城の「石垣山城」が10:47箱根新道方面へ進みこの先を一般道へ国道一号線を進む地球博物館前の交差点を左折10:50地球博物館の駐車場へ、右側を昇ると石垣山城へ10:57神奈川県立「生命の星・地球博物館」所在地:神奈川県小田原市入生田499 tel;0465-21-1515開館時間:9:00~16:30 休館日:月曜日・祝日の翌日観覧料:65歳以上 100円 共通券200円地下の駐車場(無料)から、一階のエントランスホールへ。私は二度目の訪問であるが、館内には小学生が校外活動で訪れていたチケット売り場特別展/共通券(特別展+常設展)のチケットを65歳以上で購入 \2002019年特別展「アオバトのふしぎ」7/20(土) ~ 11/10(日)開催11:03まず特別展へ入る世界のハト左:オウギバト(剥製)、右:ドードー(レプリカ)日本のハト日本ではこれまでに在来種に加え、野外で繁殖が確認されている外来種2種を含む5属12種、神奈川県ではこれらのうち3属5種と、一時的な逸出とみられる1属1種が記録されている。オガサワラカラスバトとリュウキュウカラスバトは絶滅したと考えられているアオバトとは?アオバトの特徴は全長約33cm、上面は暗緑色、頭から胸にかけては若草色、腹からの下面にかけては淡い黄白色で、下尾筒は長く幅広い緑灰色の軸班があります。オスの雨覆はブドウ色でよく目立ちます丹沢から近い海の岩場、照ヶ崎は水飲みにベストな地形照ヶ崎をつくる地層(大磯層)以前、大磯海岸近くのここ照ヶ崎海岸へ鳥撮りで撮影に行ったことがあるアオバトを待ち受ける捕食者平和に見えるアオバトの暮らしですが、自然の中では様々な捕食者がアオバトを待ち受けています。照ヶ崎海岸ではハヤブサによる捕食がこまたんにより観察されている。・・・・・・・・・・アオバトの卵卵は二個産み、こまたんの観察により、孵化するまでの約2週間はオスとメスが交代で卵を温めます。生まれたヒナにはピジョンミルクを与え、ヒナは約2週間で巣立つことがわかっている。大きさは32.5×26.5mm、10.7g4羽の剥製は、左から、キレンジャク、ヒレンジャク、カケス、ヒヨドリキレンジャク(剥製)ヒレンジャク(剥製)11:12アオバトのふしぎ、~ 森のハト、海へ行く ~11:13常設展へ入口に大きないん石「マンドラビラいん石」1911年、オーストラリア西部に広がるナラーバー平原で発見されたもの表面の小さな穴は、鉱物が溶け出したあとで、重さはおよそ2.5トンあります地殻の形成トラバーチンアフリカのジブチには、針のようなトラバーチンの山が無数にあります。ジブチは、大陸が割れはじめるところ(大地溝帯)にあたります。大地溝帯は、火山や熱水の活動がさかんな熱放出の現場であるトラバーチンは、熱水の噴き出すところにできる石灰質の岩石右は、柱状節理火山活動によってできる代表的な景観の一つです。マグマが冷えて固まる時、体積がちぢむため六角柱状の割れ目ができます。このような柱状の規則正しい割れ目を柱状節理といいます柱状節理(玄武岩)孔雀石同心円状の模様は、孔雀石の微細な結晶が成長してできたものですオパール(たんぱく石)溶岩層にケイ酸分をふくむ地下水がしみこんでできたものです11:21コハク岩手県久慈市、リトアニア共和国 バルト海沿岸地域。六月に行った中国大連では石炭の露天掘りからも産出されると 三島・箱根の旅ー続く
2019.09.21
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帰路は時間があるので高速道路は使用せず、カーナビを一般道路優先にセット。8/12(月) 14:58県道38号線から国道162号線「安掛交差点」と合流。ここを右折して京都方面へ国道162号線を一路京都へ向けて走る。途中、嵐山ー高雄パークウエイ。16:00国道162号線から府道187号線(丸太町通り)」京都市内へ入り、右は山陰本線、花園駅付近16:08府道187号線(丸太町通り)堀川丸太町交差点16:11府道187号線(丸太町通り)烏丸丸太町交差点左の緑は、京都御所、見学したかったが16:13河原町丸太町交差点16:15鴨川を越え、府道187号線(丸太町通り)を直進丸太町通りと川端通りの交差点16:18更に丸田町通りを進むと、右方向に岡﨑公園、平安神宮へ、0.7kmの道路標識16:19テントを張り人だかり16:21山科駅近くを通り、府道143号線を大津方面へ左側は、琵琶湖疎水煉瓦工場跡16:22府道143号線大津方面へ進む、大津まで11km。途中、いつの日か歩くであろう旧東海道を走る16:44山科を過ぎると滋賀県へ17:01近江大橋を渡る17:51国道一号線を走る、四日市まで64km国道一号線のバイパス18:13国道一号線、土山町大野四日市まで50km18:19国道一号線、日本橋から442km18:29鈴鹿峠の看板。旧東海道はこの辺りを歩くのであろうか18:33国道一号線、四日市まで33km、名古屋まで77km18:37鈴鹿峠を下り、関宿の西の追分へ関宿周辺案内図慶長6年(1601)に徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、宿駅は東海道五十三次で四十七番目の宿場となり、問屋場や陣屋などが整えられました旧東海道関宿 おすいマンホール18:41国道一号線、大津・甲賀方面、「関町 新所」西追分休憩施設がある西の追分関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめてで、これが地名の由来ともなっています。ここ西の追分は大和街道との分岐点にあたり、東海道、京都方への次の宿は坂下宿で鈴鹿峠を越えて京都へは19里半(78キロメートル)あります。また大和街道は加太越えをして伊賀から奈良に至りますこの石柱は?18:45道の駅「関宿」19:03鈴鹿フラワーパーク皆さんがよくデジブックで公開される公園四日市、桑名、名古屋は、国道23号線を走り伊良湖方面へ進む。湖西市から国道一号線の浜名バイパスを走り新居宿で見た「浜名大橋」を渡る。途中、もう一泊を考えていたが、台風10号がちかずいているとのことでそのまま帰宅。8/13(火) 2:55無事自宅へ到着した。今回の総走行数は、1,902kmでした。今日一日の走行は、出石城から667kmでした。 広島への旅ーEND
2019.09.13
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続日本100名城の福知山城、黒井城でスタンプを捺印後、帰郷前に来たかった「美山かやぶきの里」をカーナビでセットしてハンドルを切った。ここは、以前からデジブック仲間の方が公開されていて一度は来たかった場所。場所は、京都府中部に位置する南丹市にある美山かやぶきの里8/12(月) 13:58カーブを曲がると昔話の世界が広がる「美山かやぶきの里」。所在地:京都府南丹市美山町北県道38号線沿いに無料駐車場があったが、満車でしばらく待ち駐車。外の気温は30数度と暑かった県道38号線沿いにある「かやぶきの里」県道沿いを美山川(由良川)が流れアユが有名。民宿 またべ(かやぶき民宿・食事)(又兵衛)、カフェもある重要伝統的建造物群保存地区保存地区内の民家の約四割は、江戸時代に建築されたものであり、この伝統的な様式は、萱葺屋根で入母屋造、周囲に下屋を巡らし、棟をほぼ東西に揃えており(川の流れの方向)、棟飾りの千木や破風の意匠にも特徴がある。このほかに、伝統的な様式をもつ納屋、土蔵、社寺建築等と屋敷構えの重要な要素となる石垣、石造物等を伝統的建造物又は環境物件として保存をはかっている保存地区には建築物が六十八棟あり、内、茅葺主屋が三十棟ある真新しい「曹洞宗 異月山 普明禅寺」の石柱昔懐かしい赤いポスト緩い坂を上り、かやぶきの集落へ世界遺産の「白川郷・五箇山の合掌造り集落」とは違う集落お地蔵さんと鯖街道向日葵がきれいに咲きかやぶき屋根に草が生えていたが、どの段階で葺き替えになるのか軒先には古い農機具を陳列みやま おすいマンホールデザインは、アユ?民家萱を葺き替えていたが、費用は?曹洞宗 異月山 普明禅寺から集落を望む異月山普明寺由緒建立の時期は不明であるが、大原良忍の開基と伝えられている。天台宗から臨済宗に変わるのは、この地一帯の荘園を1300年前後に、光厳天皇が天竜寺寄進してから曹洞宗 異月山 普明禅寺普明禅寺境内から、県道38号線沿いの土産物店県道38号線沿いの駐車場と美山川(由良川)の下流方向雪割りと千木(ちぎ)雪割りと千木をズームアップ北山型の特徴フウセンカズラか?夜はイノシシ、シカが出るのか畑には防護柵暑いので観光客は小川に足を入れて涼んでいた。集落を横切るこの水路は、防火用としても年中通じて大切な用水であると向日葵がきれいに咲いてお地蔵さん傾いているのではありません、撮影がまずかったお地蔵さんと、かやぶきの里地蔵前の通りは「鯖街道」暑い中多くの観光客が訪れていた消火用の散水栓かやぶきの里 一斉放水開催日:2019年5月20日、12月2日 開催時間:13:30 ~重要伝統的建造物群保存地区のかやぶきの里「北」では、毎年春と秋に地域住民の火災予防講習と放水銃の一斉点検を行っているこの光景を見るために大勢の観光客が農道に(空撮)冬の雪の花火以上3枚の写真はネットから。春夏秋冬と四季折々の光景を見せてくれる里で、カメラマンに人気14:37約一時間の散策で「美山かやぶきの里」を後にする今回の帰省での目的地を巡り終え、台風10号が来ているので一路自宅へ。 広島からの帰路ー続く
2019.09.12
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三原市にある二つの続日本100名城のスタンプを取得してから、鳥取県米子市にある続日本100名城の「米子城」を目指した。途中、広島県北部の三次に我が妹がいるので事前に電話をして訪れた。道路はカーナビで一般道路優先で走る。8/11(日) 12:23県道33号線を三次方面へ北上する12:37大和南インタ入口交差点を、国道486号線へ進む12:41国道432号線を、庄原・世羅方面へ12:42国道432号線を、庄原・世羅方面へ世羅まで15km12:43国道432号線を直進すると、庄原・世羅。この先の交差点を左折して県道45号線へ入り三次方面へ12:49世羅郡世羅町広島の世羅と言えば、男子陸上競技部の駅伝部。全国高校駅伝大会の第一回(1950年)、第二回を連覇するなど「高校駅伝の草分け」として知られ、かつては小林、中京とともに「高校駅伝御三家」と呼ばれた。1980~1990年代は低迷したが、2000年代以降は海外からの留学生の活躍もあって息を吹き返し、出場45回(全国3位)、優勝9回(全国高校最多)、入賞34回(全国高校最多)の実績もつ(2015年現在)12:52県道を走り、三次、吉舎(Kisa)方面へ。車の量が少なく順調に走れる、スピード違反に注意12:53直進すると吉舎だが、この先を左折して県道45号線を走り三次へ12:59廻りは田んぼで車の量も少なく、この先を右折県道45号線を尾道道の三次へ13:06この先の国道375号線右折して三次へカーナビをセットしているので目的地までの運転が楽13:14国道375号線を直進して三次へ13:19国道375号線を走り三次インタ入口交差点、、左折すると中国自動車道三次インタ。私は、一般道優先でここを右折して三次市内方面へ13:20国道375号線、右側は、マツダ株式会社三次事業所、三次エンジン工場13:21この先の上原交差点を左折して、国道183号線へ三次駅方面国道183号線を三次駅方面へ走るこの先左は、三次駅13:23新装なった、JR芸備線三次駅(みよしえき)。三次市は広島県の北部に位置する市である。みよしと呼ぶ市は全国に、徳島県の「三好市」、愛知県の「みよし市」がある。かつては、ここを起点に島根県の江津市にある江津駅とを結んでいた鉄道路線三江線が運行していたが、昨年の2018年3月31日に全線廃止となった。廃止前に一度乗車したかったが、NHKの六角精児の「呑み鉄本線」でも紹介された三次ピオーネピオーネは、カノンホールマスカットと巨峰をかけ合わせてできた最高級ぶどう。昼夜の温度差が大きい三次地域の気候特性により、糖度が高く果実も大きく着色良好で、まさに「黒い真珠」のようなぶどうである。是非一度食べてみてください!!!品質・規格の統一が図られ、夏果実のギフト品の定番として県内外で認知されている。商標登録:三次ピオーネ、黒い真珠左は三次駅に隣接するバスターミナル13:25妹宅へ到着、夜勤帰りの旦那と昼食を御馳走になった。雑種犬のチワワ、訪れた当初は初めての対面のため盛んに吠えていたが14:4230分も経つと身内と思ったのか慣れてきて、私の足をなめてくれたのです。スマホの写真から15:25約二時間昼食を御馳走になりながら話が弾み、再会を約束して後にした。みよし市のおすいマンホールは、鮎をとる鵜と市の花サクラをデザイン15:34カーナビを「米子城」にセットして運転。この先を左折して、国道183号線を庄原方面の三次東インタへ交差点は「庄原分かれ」国道183号線、米子、庄原方面へ15:40尾道道・松江道の三次東インタ入口。無料区間は、尾道北インタまで、松江方面は三刀屋木次インタまで。中国自動車道の三次東インタは、この先を右折15:42松江自動車道に入り、次のインタ日和まで11km、松江まで91km。交通量も少なく、ところどころ一車線になる高速道路15:50日和・君田インタ出口道の駅「ふぉレスト君田」まで、インタから3km15:51高野インタまで、11km中国山地に位置するインタで、平成28年(2016)8月5日に、日本百名城の松江城、月山富田城へ登城した時、逆に走った自動車道である15:58高野インタまで2km、道の駅「たかの」がある高野・奥出雲インタ出口16:03道の駅「たかの」所在地:広島県庄原市高野町下門田49標高が高いところにある道の駅で、地元産の野菜、卵、和牛の真空パック、チーズなどを販売しており品数が豊富である近郊の観光案内島根県との県境に位置する町「高野」で冬には雪も積雪する16:34吉田掛合・飯南インタ出口島根県に位置するインタである16:35次は無料区間が終了する「三刀屋木次インタ」まで、11km16:43三刀屋木次インタを出て、雲南市街へ直進すると松江まで約40km16:44インタから出てここを右折して、県道332号線へ16:46斐伊川に架かる県道332号線の橋この先を右折して、県道45号線へ桜の時期には、斐伊川堤防桜並木の桜が咲き誇る16:47JR木次線の木次駅所在地:島根県雲南市木次町里方木次線で一番賑わっている有人駅で駅前には商店街もある木次線は、山陰本線の宍道駅から芸備線と接続する備後落合駅間を運行している。営業キロ数は81.9kmで運行本数も少ない鉄道路線。日本海側への鉄道路線も、昨年三次からの三江線も廃線となり近い将来その運命に?トロッコ列車を運行して活性化すべき努力をしているようだがトロッコ列車の機関車と客車は二両編成トロッコ列車「奥出雲おろち号」が一部の運転日を除いてこの駅から出発している。運転は、2019年4月6日 ~ 11月24日までの金曜日・土曜日・日曜日・祝日(GW、夏休み、紅葉期間中は平日も毎日運転)を予定している。運転状況はネットでの確認が必要紅葉時期のトロッコ列車駅弁もあり楽しめるようだ山陰本線の宍道駅から芸備線と接続する備後落合駅間を運行。三段式スイッチバックもあり一度は乗ってみたい路線であるが16:51鉄撮りの若者か?16:54木次駅前の商店街だが人通りが少ない17:06木次線の古い高架県道45号線沿いを走る木次線。この上をトロッコ列車が走るのだ、紅葉時期は最高では17:10県道45号線を、安来、広瀬方面へ進むさらに緩い坂を上る17:14木次線の「下久野駅」所在地:島根県雲南市大東町下久野691住民が清掃しているのかきれいに維持されていた標準時刻表トロッコ列車「奥出雲おろち号」の運行は備後落合方面:10:31、木次方面:15:34 運転日に注意駅周辺案内駅入り口に魚屋「植田魚店」があったが駅舎内にかけられていた絵「下久野界隈」。のどかな田園風景だが、現在の住民数は・・・・・・最盛期の下久野駅全景ホームを挟んで両側に線路があるが、現在は片側のみで列車のすれ違いもないのだ駅のホームで列車を待つ人備後落合方面一日に何人降り立つのか。ネットによると、乗車人員:一人/日(降車客含まず、2016年)17:18改札も昔のままの木製、いつまでも保存してほしいものです。乗降客が少ないので???で活性化!昨年廃線となった三江線とともに、廃線のうわさがたつが地元住民の努力でどうにか維持されているようだ。トロッコ列車の運行等で。路線は山間部にあり最近の集中豪雨の被害が出ればその存続が危ぶまれる。 広島への旅-米子へ
2019.09.06
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今日も真夏日、朝散歩で近くにある「茨木神社」へ出かける。8/9(金) 7:15茨木市立 川端康成文学館 所在地:大阪府茨木市上中条2丁目11-25文学館前の通りは「川端通り」で車の通行量が多いが、桜並木で散歩道に最適茨木市立 川端康成文学館日本で初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成は、大阪生まれの茨木育ちまだ時間が早く、開館時間は9時からのため閉館中石碑には私の村は現在茨木市にはいってゐる、京都と大阪との中間の山裾の農村で、その山を深くはいれば丹波である。村の景色は藝はないけれども、近くに「伊勢物語」や「徒然草」に書かれた所がある。藤原鎌足の遺跡も隣村にある 川端康成佐介樋跡昔来た時はここは川であったが、いつの頃か散歩道になり桜が植えられた公園の中を南へ向かう。朝からセミの声が暑さを増すサルスベリも咲きこの辺りは桜並木昔この辺りは、茨木城がありその面影を残すために石垣を復元像は「希望の像」府道139号線の高橋交差点、ここから南は桜通り7:31茨木神社石鳥居茨木神社は府道139号線に面している。この先の高橋交差点を左折すると「桜通り」右折北上する「川端通り」茨木神社境内、正面に拝殿所在地:大阪府茨木市元町4-3拝殿から境内(南方面)拝殿裏にある、天石門別神社(式内社)東側から拝殿、本殿、奥に稲荷神社境内の東側には、茨木城から移築した「搦手門」があったが。7:36引き返すことに茨木城の町割りの一部が残る公園六軒町橋跡茨木城跡まで260m茨木城は、大阪府茨木市にあった日本の城である。現在の城跡は宅地化され、茨木神社に移築されたと言われている搦手門と茨木小学校に復元された櫓門がある程度で、城をしのばせるものはほとんど残っていない7:49旧佐助屋敷跡の石柱。出かける時間もあり、約40分の朝散歩で伯父宅へ戻る8:54箕面市の丘にある亡き伯父、従弟の墓地へ墓参り都会の墓地は狭い9:12霊苑守護「迎地蔵」墓参の後、伯母、従妹家族とコメダへ立ち寄りモーニングを食べ分かれ広島へ。10:38一般道を走り宝塚方面へ向かう10:43国道176号線の右側を中国自動車道が並行して走る10:49国道176号線を福知山・三田へ向かう10:57宝塚市街地に入り、宮の町9番交差点宝塚歌劇場前交差点道路標識がすべて英文であるが外国人ドライバーが多いのか全国を走り回っているがこのようなすべて英文の道路標識は珍しい11:02国道176号線の生瀬 1(Namaze 1)交差点11:05中国自動道の高架橋下11:07宝塚市郊外の山に広がる住宅地。昔若い時、仕事で丹波篠山市の「黄桜」へ試運転で向かった道自宅から528km走り、ガソリンを満タンにして高速道路へ入ることに。11:33国道176号線を左折して中国自動車道方面へここを左方向へ入り中国自動車道へ11:35中国自動車道「西宮北インタ」入口中国自動車道へ入り、1.1㎞で神戸JCT11:36神戸JCT、ここを左方向の山陽自動車道へ進む11:47山陽自動車道、この先1.0㎞で三木JCT、左方向は明石大橋を渡り四国方面へ。四国遍路の旅ではここを左方向へ向かった12:08山陽自動車道を順調に走り「山陽姫路東インタ」まで2㎞12:34山陽自動車道「竜野西サービスエリア」トイレ休憩で立ち寄る。また、次に訪問する、続日本100名城の「備中高松城」へのルートを検討12:40直進して赤穂・岡山方面へ播磨JCTがあり将来、中国自動車道と結ばれるがいつになるのか12:49赤穂・日生(Hinase)インタ出口日本100名城の「赤穂城」へのインターチェンジである12:51前方を山陽新幹線の高架 広島への旅ー続く
2019.08.31
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東海道行脚は現在静岡県の新居宿まで歩いており、今年の秋から再開する予定であるので、年末か来年早々に訪れる予定である。'19/8/8(木) 9:45東海道伝馬館所在地:滋賀県甲賀市土山町北土山1570石碑は「文豪森鴎外 来訪の地」森鴎外と土山伝馬館に入り見学江戸時代の大名行列の陳列別の建屋の中二階には、各宿の切り絵が東海道名物江戸時代、街道筋の宿場や立場などでは、その土地特有の名物があり、目的地や道中でそれぞれの名物が売られ、味わうことが旅の楽しみのひとつでした。名物は、その多くが饅頭や餅のほか、田楽、麺類が多く、街道をゆく旅人の空腹を満たすとともに、その身味に舌打ちをうっていました土山宿の名物は、蟹が坂飴、お六櫛、そば、土山茶だった。土山茶は明治時代には早くも輸出され、今でも甲賀市の特産品である。私も番茶を購入した。蟹が板飴は土山宿入口で今でも販売しているようだが?土山「生里野モータン松並木」’坂はてる照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る’と歌われた馬子歌の土山はこの鈴鹿峠を境にして天候が変わりやすい入館者名簿に記載、管理のおばさんとまたの再開を誓って伝馬館を後にした漢詩の読み明治天皇聖跡の石柱(左側)土山宿は、明治天皇が即位して初めての誕生日の祝いをした宿である今は古い民家も少ない静かな街並みだが、当時の屋号や旅籠の標識が建っている土山宿の町割り10:13旧東海道沿いには、「歴史の道 東海道 京 ⇔ 土山宿 ⇔ 江戸」東海道土山宿土山町は、平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠を越える旧東海道筋を通るようになって以来、難所を控える宿駅として発達してきた。源頼朝が幕府を鎌倉に開くと従来の京都中心の交通路は、京都と鎌倉とを結ぶ東西交通路線が一層重要視されるようになり、武士の往来のみならず商人、庶民の通行も以前に増して盛んになった10:16国道一号線を走り近江八幡へ向かう。日本橋から442kmの標識国道一号線「大津・栗東」方面300m先を左折すると甲賀駅国道沿いの「日本一たい焼」10:22国道一号線沿いに「旧東海道松並木」の標識があり左折。この辺りの旧東海道の路面は色を変えている大日川(堀切川)掘割の石柱野洲川に流れる大日川に架かる大日川橋、橋を渡ると反野畷の松並木10:24旧東海道松並木左に大きな石碑があるが、次回の楽しみ10:27旧東海道を走り、国道一号線「大野交差点」と合流国道一号線を大津・栗東方面へ10:29国道一号線の「大野西交差点」一国は右側へ、左方向へ入り旧東海道へ甲賀市の観光案内板10:30この先を右折して旧東海道へ10:33今在家一里塚旧東海道はこの先を左折する本町域では、泉・林口・今在家(現在地近傍)三箇所に存在。塚本体は高さ数メートルにおよぶ大きなもので、塚の上には榎の木などを植えて目印とした。行程の目安となり、また日影を与えてくれるものとして親しまれましたが、明治維新後は撤去された一里塚の石柱お江戸日本橋から112里の一里塚今在家一里塚は江戸日本橋から112里目にあたり『今在家村地券取調総絵図』によれば、今の位置よりも東にあり、また道を挟んで両側に対に築かれていたことが描かれている。江戸時代の一里塚は明治の初年に撤去され、現在の一里塚はその後復元浄土寺所在地:滋賀県甲賀市水口町今郷旧東海道が大きく南に折れ曲がる角に権現山浄土寺が建っています。境内の近くには一里塚も残っており、かつては東海道を行く旅人で賑わったことでしょう。浄土寺は浄土宗に属する寺院で、本尊は阿弥陀如来、甲賀四国八十八箇所の八十六番札所として、今も参拝をする人が絶えません。いつお寺が開かれたかは明らかではありませんが、延宝9年(1681)に再建されたと伝わります。現在は八幡神社の境内に移されていますが、かつては歯の神様として信仰を集めていた白山権現社が建っていた旧東海道を振り返る10:47旧東海道(県道549号線)から国道一号線「名坂交差点」ここまでの道中、水口宿の見学する所が多くあったが10:50ホテル ルートイン甲賀水口所在地:滋賀県甲賀市水口町北脇254 tel:050-5847-7567次回の道中で利用するか、無料の和洋朝食バイキング提供するモダンで機能的なビジネスホテル。人工温泉の大浴場を完備国道一号線(水口道路)「里北脇交差点」11:14国道8号線を走り、彦根25km、敦賀まで83km左の建物の看板は「近江牛」11:15国道8号線を進む左手に・・・・・・11:15左を東海道新幹線が走るこの先を左折して、近江八幡市街方面へ11:20正面に目的地の八幡山(標高271m)が見えるこの辺りの田んぼの稲には穂が実り11:35目的地の八幡山へ到着。続日本100名城の「八幡山城」のスタンプは、頂上の瑞龍寺にあるとのこと日牟禮(ひむれ)八幡宮所在地:滋賀県近江八幡市宮内町257日牟禮八幡宮楼門拝殿及び境内古くから近江商人の信仰を集め、二大火祭りの「左義長まつり」と「八幡まつり」は国の選択無形民俗文化財である楼門を入ると左に「手水舎」右に「能舞台」左義長まつりは、織田信長が安土城下で毎年正月に盛大に行い、自ら異粧華美な姿で踊ったという奇祭。信長亡き後、豊臣秀次が八幡山城を築き、安土(現・近江八幡市安土町)から移住した人々によって城下町が開町される。町民は日牟禮八幡宮例祭「八幡まつり」の荘厳さに驚き、これに対抗して、町開町による新進気鋭の喜びと感謝の意を込め、厄除・火防の由緒ある御神徳を仰ぎ、左義長を奉納したと云われる 11:40本 殿 広島への旅ー続く
2019.08.28
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滋賀県近江八幡市にある続日本100名城の「八幡山城」を目指して走る。途中、旧東海道の土山宿の道路標識を見つけ立ち寄る。'19/8/8(木) 8:15伊勢湾岸自動車道を走り、四日市JCTまで、1km四日市JCTまで500m。新名神高速道路が開通したので今回初めて直進。従来は左方向へ向かい東名阪道を走ったが8:17新名神の京都・大阪新四日市JCTまで、3km、京都 97km 道路標識8:20新四日市JCTここを左方向へ行くと東海環状自動車道へ。東海環状は数年後には名古屋の周りを走り名神高速道路、東海北陸自動車、中央自動車道、東名&新東名高速道路と接続する。この先の新名神高速道路は、新四日市JCTから亀山西JCTまでの区間(延長約23㎞)が2019年3月17日(日)16時に開通したばかりの新路線8:21伊勢方面には行けませんとの案内。亀山西JCTで今回開通する区間と伊勢方面をつなぐランプウェイは、2019年度の完成を目指していると8:422019年3月17日(日)16時にオープンした「鈴鹿パーキングエリア」最新鋭の綺麗な男子トイレ小子用のトイレ手洗い場左は石鹸、蛇口部とドライヤー部新タイプだが、英文での説明がないが8:47中国のように派手な赤色の自動販売機。あなたの一本がアスリートを応援する、JOCオリンピック支援自販機8:55鈴鹿パーキングエリアから本線へ9:00新名神高速道路も開通したばかりで、道路標識も未完成か。亀山西JCTまで、2.7km亀山西JCTまで、2kmこの辺りの高速道路は高い高架が続き建設費が高い区間亀山西JCTで接続し、新名神高速道路の土山サービスエリアへ立ち寄る9:09土山サービスエリア滋賀県近江八幡市にある「八幡山城」への道を確認9:18次の「甲賀土山インタ」で出ることに新名神高速道路、甲賀土山インタ出口へ9:21甲賀土山インタ9:23続日本100名城の「八幡山城」へ向かうため甲賀土山インタを出る。国道一号線の、インタ前の交差点。道路標識でこの辺りに「土山宿」の案内があり急遽右折する9:31国道一号線を名古屋方面へ戻り、土山支所交差点を右折して旧東海道へ。旧東海道は現在「新居宿」までたどり着いているが、今回事前に下見で立ち寄る土山宿は東海道49番目の宿場で、起点の江戸日本橋より約110里、終点の京三条大橋まで約15里の位置にある。土山家本陣跡東海道に現存する三本陣のなかで、子孫が住んでいる唯一の本陣。明治元年(1868)9月22日、明治天皇は土山本陣に泊まり誕生日を迎え、住民に神酒とスルメが下賜された。そのときの玉座や手桶をはじめ、江戸時代の多くの資料が保存されている土山宿問屋宅跡土山宿問屋宅跡詳細説明は本番の時とさせていただきますこの辺りの旧東海道の路面は色別している太内屋跡問屋場跡堤家(二階屋)本陣跡土山宿には吉川町の北土山村側にあった土山家本陣と、中町の南土山村側にあった堤家本陣の二軒があった森鴎外の泊まった平野屋平野屋は、鴎外が祖父白仙の墓参のために土山を訪れ、明治33年3月2日に一泊した旅籠であるきぬ屋跡各家の前には石柱土山宿の名物は、蟹が坂飴、お六櫛、そば、土山茶だった。土山茶は明治時代には早くも輸出され、今でも甲賀市の特産品である。今は古い民家も少ない静かな街並みだが、当時の屋号や旅籠の標識が建っている森白仙終焉の地「井筒屋跡」文豪森鴎外の祖父、森白仙は文久元年(1861)11月7日、ここ旅籠井筒屋で病死したつちやまのおすいマンホールこの鳥は???右手前の石柱は「旅籠 江戸屋跡」旅籠跡の石柱が三本並んで「柏屋」「大工屋」「釣瓶屋」9:44あいの土山観光案内図 広島への旅ー続く
2019.08.27
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小学校の同窓会が、8月10日(土)に開催されるとのことで帰郷した。高速道路の割引を利用するためには4時前に高速道路へ入る必要があり、自宅を3時半に出発した。自宅から10分で有料道路へ入いる。8/8(木) 4:44新東名高速道路、富士インタ手前。インタ出口で工事をやっているが、現役時代よく利用したインタである4:54静岡サービスエリアまで30㎞4:55清水パーキングエリア辺り。高速道路は高い所を走っており、下から霧雲が発生5:01片側三車線の新東名高速道路5:10出発してから1時間を過ぎたのでトイレ休憩で立ち寄る。静岡サービスエリア小型車の駐車場コンビニ、土産物店が営業。6月に中国へ旅行し、高速道路で休憩したがやはり日本の高速道路は綺麗5:25約20分休憩して出発5:39西の空は晴れ今日も暑そうだ6:13この辺りは片側三車線だが、所々で二車線に規制6:14浜松いなさJCT.まで9㎞地点。豊田まで新東名or東名高速道路での所要時間が表示される6:19浜松いなさJCT.西へ向かう場合ここを直進するが、我が車のカーナビはバージョンが古いため、この辺りは道のない道路を走る6:30長篠設楽原パーキングエリア長篠設楽原PAには初めて立ち寄るこの近くに日本100名城の「長篠城」がある。「郷土の歴史 ~長篠・設楽原の合戦~」織田信長戦場本陣の白い看板丘に登りパーキングエリアと新城市街吉祥山(382m)、新城市街、右奥に渥美半島方面6:38長篠設楽原パーキングエリア7:14岡﨑、刈谷、上郷サービスエリアまでの距離表示と混雑具合7:16岡﨑サービスエリア7:18岡﨑サービスエリアへ立ち寄るが直ちに出発7:21豊田東JCT.まで500m、右方向へ進む7:22直進して新名神の四日市方面へ豊田アローズブリッジ。新東名高速道路と東海環状自動車道との共用区間の豊田JCT・豊田東JCT間に建設された4径間連続波形鋼板ウェブPC・鋼複合斜張橋で、同路線において最大規模の橋梁7:24豊田JCTまで、1.7㎞直進の伊勢湾岸道を走り四日市方面へ7:25豊田JCT7:52複雑な道路標識だが、カーナビがあるので順調に7:53名古屋南JCT左は「大府出口」「都心環状」7:56東海JCT7:57前方に斜張橋の「名港東大橋」、左奥に白い「名港中央大橋」7:58名港潮見インタ出口まで、500m7:59橋を渡ると「名港潮見インタ出口」名港潮見インタ出口、名港中央大橋名港中央大橋8:00名港中央インタ出口まで、1.2㎞名港中央大橋から名港西大橋名港中央インタ出口8:01名港トリトン(左)、名港西大橋(右)8:02飛鳥インタ出口8:06この辺りは木曽川、揖斐川の河口8:07三重県へ入る8:08ナガシマスパーランド所在地:三重県桑名市長島町浦安333スチールドラゴンや嵐を始め、新アトラクション・白鯨など大迫力の絶叫マシンでスリル&スピードを体験!またおしゃれなカフェやおいしいレストランなどグルメも充実。家族やカップルで思い切り遊べるテーマパークである木と鋼のジェットコースターが11種類ある。お値段は少々高く、遊園地は大人5,200円(入場+のりもの乗り放題)。但し、料金体系はホテルを利用する場合もありいろいろあるようです夜のライトアップも綺麗では8:09営業時間は9:30~のためジェットコースターは休止中 広島への旅ー続く
2019.08.26
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開会式後、千曲市・坂城町の各グランドに分散して4チーム(一部3チーム)のトーナメントにより優勝旗(但し、上位8グループまで)を争う。敗者戦もあり各チーム一日に2試合できる。5/12(日) 7:43我がチームの入場行進大会会長、来賓の前を行進、来賓も入場行進時は立ち上がり手拍子昨年は球団旗を忘れたが7:4657チームが勢ぞろい7:49センターポールに国旗、大会旗、連盟旗を掲揚国旗、大会旗、連盟旗が掲揚され祝砲を打ち上げ7:52前年度優勝チームから優勝旗返還8グループが勢ぞろい7:55優勝旗を返還盾を受け取り7:56吉松大会会長のあいさつ、地元テレビの中継録画。昭和の時代に始まり現会長は3代目8:00来賓の県会議長の挨拶、この後競技上の注意8:09選手宣誓は、前年度優勝チームの「御前崎OB野球俱楽部(静岡県)」。同チームの選手が記念写真この方も80歳以上か?挨拶を終え会長と握手8:11開会式を終了8:12開会式も終わりプラカードも持ってくれた女子中学生と記念写真開会式会場から移動、グランド近くのさかきおすいマンホール9:00から、一回戦の第一試合開始。長野市OB野球クラブ(長野市) 対 亀田1964(新潟県)。外野の後方を「しなの鉄道線」が走る、工場棟は日精樹脂工業㈱桜の花も終わり第一試合の長野市OB野球クラブの攻撃11:00 から一回戦の第二試合開始。東京日本橋ロータリークラブ(東京都) 対 湘南ブルースターズ試合結果は我がチームが、11:3 で勝利。12:53昼食後、敗者戦の、亀田1964 対 東京日本橋ロータリークラブ我々はこの間木陰で休憩。14:30から、決勝戦、長野市OB野球クラブ 対 湘南ブルースターズ試合結果は、若さにも負け、3:10 で敗戦。昨年に続いて決勝で敗れる。Fブロック結果:長野市OB野球クラブ の優勝15:52試合を終え直ちに表彰式準優勝でトロフィーと賞状をもらう15:55表彰式後、今回の参加者13名が揃い記念写真一旦ホテルへ帰り、温泉に入り17:00にホテルを出発して帰路に。17:10酒造コレクション所在地:長野県千曲市大字戸倉1855-1いつも立ち寄る、造り酒屋の「蕎麦料理處 萱」でお土産を購入無料で酒造りの工程が見学できる試飲しながらお土産を購入国道18号線沿いの店先18:03帰路は、更埴インタから上越・上田方面へ入り、上信越自動車道経由。左の高架は北陸新幹線18:04 長野自動車道を走り更埴JCTへ更埴JCT、上信越自動車道へ合流18:04関越道方面「坂城・軽井沢」18:06上信越自動車道の有明山トンネル。この辺りは有明山トンネル、森トンネル、五里ケ峯トンネルと長いトンネルが続く。北陸新幹線でも長いトンネルがあり、東京から来るとトンネルを出ると長野駅に18:13三っの長いトンネルを出ると「坂城インタ出口」 戸倉・上山田へ18:14太郎山トンネル18:18この辺りの上信越自動車道はいつも空いている18:19東部湯の丸サービスエリア近く18:24夕陽が山に沈む18:27小諸インタ出口18:31浅間山畑仕事も18:35佐久平パーキングエリアまで2km各インタまでの距離表示18:36トイレ要求があり、この先のパーキングエリアへ立ち寄ることに。左上の施設は「平尾温泉 みはらしの湯」。所在地:長野県佐久市下平尾2682日帰り温泉施設があり、”温泉、サウナ、炭酸泉、露天、日替湯、景色を満喫できる”佐久平パーキングエリア「佐久平ハイウエイショップ」18:59上信越自動車道「碓氷・軽井沢インタ」20:05関越自動車道と合流20:15関越自動車道「高坂サービスエリア」の小島屋乳業レストランで夕食。他のメンバーは、生姜焼き海老フライ定食、チャーシュウ麺をオーダー私は、肉が欲しくて昨日の昼食に続いてロースかつ定食を食べる21:50渋滞もなく順調に走り、圏央道海老名JCT21:51寒川北インタ近く22:00倉見の駐車場へ到着。今回の走行距離は680kmであった。このあと各自、車等で帰宅、私はメンバーを自宅に送り22時半についた。来年も行けるのか?、チームが高齢化しているので真剣に考える時期ではと思うが!40歳以上の方は参加資格がありますので、人部したい方は是非連絡の程お願いします。健康体での平均寿命アップのために一緒にやりませんか! 長野の旅ーEND
2019.05.20
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中山道の奈良井宿を見学後、千曲市の定宿「千曲館」に宿泊&前夜祭。5/12(日)開催の「第44回寿野球全国大会」へ参加。5/11(土) 14:23旅館「越後屋」の前から街道を望むJR中央本線「奈良井駅」方面、雨が降り出したので引き返す籠を担ぐ現代の中高年者和菓子屋の「てずから」所在地:長野県塩尻市奈良井418手作りおやき、五平もちが美味しい!ここの路地を入ると「臨済宗 妙心寺派 大宝寺」。天正10年(1582)に開かれた臨済宗妙心寺派の寺院であり、奈良井宿に5ヶ寺ある一つ奈良井「とうぶき」中山道奈良井宿の山里には、春から初夏にかけて、大人の背丈程になる大きな蕗が原生している。太さはおよそ直径3センチ、その葉はまるで傘のようです。この大きな蕗は「奈良井とうぶき」と呼ばれ、古くから地元の家庭料理の食材として、子や孫へと受け継がれてきた14:29水場の「横水」手打そば屋、雨が降り出し急いで駐車場へ松坂屋本陣跡中山道奈良井宿名所「鍵の手」の石柱と道祖神たれが自慢の五平餅を購入して食べるが、少々冷たかった14:47奈良井宿権兵衛駐車場にある「Ⅽ12-199号蒸気機関車」製造所:日本車両㈱ 埼玉県蕨工場、製造年月:昭和13年8月20日。この蒸気機関車は、第2次世界大戦前、鉄道省が軸重制限のある簡易線規格路線用に投入するための小型軽量機関車として設計製造した282両のⅭ12型蒸気機関車のうちの一両で、昭和13年(1938)に埼玉県で製造された。初任地の新潟鉄道管理局山形機関区で終戦を迎えたのち飯山機関区を経て、昭和30年(1955)に長野鉄道管理局木曽福島機関区に配置され、以後18年余、主として短路線の貨物輸送や構内入れ替え用機関車として木曽路で活躍した。昭和49年(1974)に役目を終え廃車になり、翌年国鉄長野鉄道管理局から楢川村(当時)に貸与され、当地に設置された八重桜はまだ満開前14:50奈良井川に架かる権兵衛橋を渡り国道19号線へ14:58国道19号線を走り、贄川宿(ニエカワジュク)入口中山道六十九次の33番目の宿場15:22国道19号線から20号線を走り長野自動車道「塩尻インタ」へ向かう15:24長野自動車道「塩尻インタ」15:25塩尻インタ入口15:34松本インタ出口15:38前方に北アルプス安曇野インタ出口まで1km、大町、白馬方面北アルプスがきれいに見えていた15:52トイレ休憩で「筑北パーキングエリア」へ立ち寄る16:09長野自動車道の姨捨サービスエリア辺りからの長野盆地16:15更埴インタを出る16:16北陸新幹線の高架との立体交差右は北陸新幹線16:17更埴インタ出口16:52千曲川に架かる大正橋を渡る、前方は戸倉上山田温泉16:54戸倉温泉街、この先を左折してホテルへ16:55定宿の「千曲館」大会参加でもう十数回宿泊しているホテル所在地:長野県千曲市上山田温泉1丁目 tel:026-275-1111戸倉上山田温泉の「ぶらーりお散歩」毎年8月7日は河川敷(千曲川)で花火大会が開催される18:30から夕食最近の試合はエラーが多く敗戦が続き、明日は試合というのに練習方法等の話で激論。チームも高齢化しているので、早く後継者を勧誘する必要がある。また練習方法も酒抜きで話し合う必要があるのではと。食後はカラオケを始めるが疲れたので早めに席を立ち部屋へ5/12(日) 5:456時から朝食とのことで5時に起床して準備、ホテル前の駐車場7:00 にホテルを出発して会場へ移動。途中、コンビニで試合用のドリンクを購入7:10試合会場へ到着大会小雑誌は新元号の「令和元年」参加資格 ①令和元年12月31日時点で満40歳以上(昭和54年生まれ)の者で、出場選手9名 の年齢合計が450歳以上のチーム ②女子参加は認めるが、年齢は50歳として計算する ③チームの登録選手人数は制限しない競技規則 ①試合は7回戦もしくは、1時間20分を越えて新しいイニングに入らない ②投手は、45歳以上(昭和48生まれ)とし、1人連続3イニング以内とする ③ 他7:20チアガールも練習に、今年はメンバーが少ない感がしたが、吹奏楽も同中学吹奏楽部7:21入場行進のために整列した57チーム、以前は88チームが参加していたが、ここ数年選手の高齢化で年々減っており、昨年は61チームの参加7:23来賓、旅館組合等も整列、今年から来賓は椅子に座り。昨年は午後から雨の予報であったが、今年は天気が良く雨の心配もなく7:27入場行進前に祝砲が3発打ち上げられる7:28チアガールも熱が入り、入場行進開始昨年までは低学年の子もいたが7:29国旗を先頭に入場行進、プラカード先導は戸倉上山田中学校女子生徒国旗大会旗、連盟旗7:30前年度最高クラス「千曲市長杯」で優勝した「御前崎OB野球俱楽部」を先頭に行進7:36石川県からの「寿根上ゴーイング」、元ヤンキース松井選手の地元から。いつもお土産でお菓子(ホームラン)を頂く7:38滋賀県からの「彦根赤鬼クラブ」。応援の熟年女性も遠征に同行してカメラマン7:43我がチームが53番目に行進 長野遠征ー続く
2019.05.19
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今年も、長野県千曲市で開催される「第44回寿野球全国大会」へ参加するため、一泊二日の男旅へ参加。千曲市の定宿「千曲館」へ行く前に、中山道の奈良井宿へ。倉見の工場駐車場に集合してマイクロバスに乗り9:00に出発。今回は13名の参加だが一名は仕事の関係で、明朝の出発で試合に参加。早速近くのスーパーでつまみ・ビール・焼酎を購入。9:30 寒川北インタから圏央道に入ると同時に乾杯!!!5/11(土) 9:53中央自動車道の小仏トンネル、長さ 1642m。圏央道ができて以来、八王子まで30分程度で来れるようになり便利になった!10:08中央自動車道「談合坂サービスエリア」でトイレ休憩10:29大月JCT手前500m10:32中央自動車の大月インタ手前10:39笹子トンネル:長さ 4717m、速度制限 70km/h10:49前方に南アルプスが見える11:03双葉JCT、左折すると中部横断道へ、将来は東名高速道路へつながるがいつになるか?11:05南アルプスの「甲斐駒ヶ岳」甲斐駒ヶ岳は、南アルプス国立公園内の赤石山脈北端の山梨県北斗市と長野県伊那市にまたがる標高2,967mの山。峻険な山容をもち、半ば独立峰のような姿勢で孤立する日本アルプス屈指の名峰で、日本百名山、新日本百名山等に選ばれている11:07前方に深田久弥が選定した日本百名山の一つ八ヶ岳が八ヶ岳は、山梨県と長野県に跨る山塊。南北30km余りの山体で、大火山群である。最高峰は赤岳で標高2,899mマイクロバスの運転は野球仲間、今回はラウンジがない車内。今回の大会参加者は13名で、この日は12名。参加者平均年齢66.3歳(79 ~ 48歳)と高齢化、昨年は平均63.5歳であったが11:10須玉出口辺りで道路工事中11:16八ヶ岳、右奥は最高峰の赤岳11:20トイレ休憩で「八ヶ岳パーキングエリア」へ八ヶ岳パーキングからの甲斐駒ヶ岳11:38小淵沢 富士見インタ出口11:40予定では伊那インタで出て奈良井宿へ11:42富士見パノラマリゾートのゲレンデ所在地:長野県諏訪郡富士見町富士見6666-703冬はスキー場、春・夏・秋は花、紅葉が楽しめるリゾート地で知られる11:44中央道最高標高点:1,015m、ここから長い下り坂に11:57中央道、長野道の分岐点、岡谷JCTまで3km12:00伊那インタまで、21km。昼食をどこでとるか、駒ケ根に名物の「ソースかつ丼」があるので予約を入れる12:10中央アルプスにはまだ積雪がズームアップ12:13中央自動車道「小黒川PA 2km」「駒ケ根SA 18km」は、ETC出口専用12:22駒ヶ根インタ出口ここを左折して予約した昼食会場へ、右折すると中央アルプス駒ヶ岳へ12:24中央アルプス花の道沿いに、予約した「きらく」が前方に。とんかつ、ソースかつ丼の「きらく」所在地:長野県駒ケ根市赤穂北割一区3145運転がないので地酒も飲む全員、名物の「ソースかつ丼」をライス少なめにして食べるライス少なめのソースかつ丼、ライスの上にキャベツ&かつ13:15食事を終え、目的地の中山道奈良井宿へ向かう。13:19中央アルプス花の道を伊那方面へ北上、左手に中央アルプス13:30中央アルプス花の道(伊那西部広域農道)を北上して「かんてんぱぱガーデン」所在地:長野県伊那市西春近広域農道沿い tel:0265-78-2002営業時間:9:00 ~ 18:00 定休日:年末年始を除き無休寒天のトップメーカーが運営する花と緑いっぱいの公園工場。3万坪の敷地内には工場直営ショップや日本初の寒天レストラン、美術館など様々な施設があり、一日中のんびりとくつろぐことができる。途中行くつもりであったが時間が無くなり、ここで昼食をとればよかった写真はネットから13:40中央アルプス花の道「中の原交差点」ここを左折して国道361号線を走る13:41菜の花が咲き(車窓から)道路沿いに咲く芝桜13:46国道361号線の「権兵衛トンネル」所在地:長野県上伊那郡権兵衛峠道路。伊那路と木曽路を結ぶ国道にあるトンネルで長さ:4,470m 標高:1,062m。伊那側は道も良く道路が空いているのでスピード違反には注意を!!!13:51トンネル通過に約5分、冬場は豪雪地帯で凍結に注意と13:53ここを右折して県道493号線を、6.8kmで「奈良井宿」へ13:58奈良井ダム(車窓から)14:01国道19号線に合流、奈良井宿まで1km14:02道の駅「奈良井・木曽の大橋」まで1km。私は二度目の訪問14:06奈良井宿権兵衛駐車場へ車を止める。奈良井宿所在地:長野県江尻市奈良井。中山道六十九次の34番目の宿場。駐車料金はマイクロバスは1,540円であったが、出発時間を15:00にして自由散策へ。中山道奈良井宿ご案内図奈良井は、戦国時代に武田氏の定めた宿駅となっており、集落の成立はさらに古いと考えられる。慶長7年(1602)江戸幕府によって伝馬制度が設けられて中山道67宿が定められ、奈良井宿もその宿場の一つとなった。選定地区は中山道沿いに南北約1km、東西約200mの範囲で南北両端に神社があり、町並みの背後の山裾に五つの寺院が配され、街道に沿って南側から上町、中町、下町の三町に分かれ中町に本陣、脇本陣、問屋などが置かれていた奈良井宿は、中山道最大の難所といわれた鳥居峠をひかえ、峠越えにそなえて宿をとる旅人が多く「奈良井千軒」とよばれるほどの賑わいをみせた。現在も宿場当時の姿をよく残した建物が街道の両側に建ち並んでいるレトロなバスが街道を走る。建物の大部分は中二階建で、低い二階の前面を張り出して縁とし、勾配の緩い屋根をかけて深い軒を出している。屋根は石置き屋根であったが、今日はほとんど鉄板葺きである。二階正面に袖壁をもつものもあり、変化のある街並みを構成している街道にある、おすいマンホール?荒沢不動尊前の道祖神、八重桜が満開荒沢不動尊を振り返る上問屋資史料館。石碑は「明治天皇御駐輦所」。明治天皇が13年の行幸の際に立ち寄ったところです。建物の中は会所としての機能もあり、奥は賓客をもてなす場所のようです。二階から格子越しに宿場町を行きかう人を見下ろすのもいいと、中庭もありおしゃれな作りであると14:23外国人も含め多くの観光客が訪れている 長野の旅ー続く
2019.05.18
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信玄館での昼食を早々に終え近くの「放光寺」へ。4/17(水) 13:08真言宗智山派 高橋山放光寺(ホウコウジ)仁王門所在地:山梨県甲州市塩山藤木2438仁王門にある高橋山の扁額仁王門から境内を望む、花桃がきれいに高橋山放光寺の沿革天正10年(1582)織田の兵火をこうむって一山ことごとく無に帰したが、徳川氏の保護を受け、寛文年間には義定の直子孫保田若狭守宗雪が中興開基となり現在の基礎をなした。寺に保存されている文化財は多く、中でも平安時代の仏像三躯は著名である放光寺は「縁結びと花の寺」として知られており、四季折々の花が咲く。また、事前に予約すれば「名物の精進料理」も食べれるお寺である仁王門から本堂へ、右側に鐘楼堂本 堂本堂前の阿字門、宝物殿本堂前の門から入口方面、右側にはシャクヤクが本堂前に門が二門あり珍しい旅友Kさんが御朱印を頂く左側は阿字門、右側は??門放光寺の駐車場の花桃桜は終わっていたが、毎年多くの人々が除夜の鐘を撞きに訪れる鐘楼堂おじさんたちが駐車場の真ん中に大きな丸いのは「土俵にしては大きいなー?」。ネットで調べると、毎年4月29日に開催される「柴燈護摩火渡り修行」する場所紅白の花桃がきれいに咲き花桃をズームアップ白の花桃境内の花桃出発時間が迫り信玄館へ急ぐ、桜と総門近くのぶどう棚総門の扁額には???国道140号線(雁坂みち)の新隼橋北交差点13:24新隼橋北交差点には「恵林寺」の案内板13:25県道38号線(信玄のみち)。前方側に信玄館駐車場、13:30に次の「ハーブ園」へ向かう。左側に恵林寺がある。乾徳山恵林寺は、臨済宗妙心寺派 の寺院で甲斐武田氏の菩提寺として知られる。前回訪れたので今回はパス13:40ハーブ庭園 旅日記 勝沼庭園所在地:山梨県甲州市勝沼町等々力1736 tel:0553-44-3715営業時間:9:00 ~ 17:30 定休日:年中無休 入園&駐車料金:無料出発予定は、14:30とのことで50分間の滞在。園内には土産物店もあり、肌に良い化粧水やクリーム、目に良いブルーベリーのジュースやハーブティーが買える観光客を笑わせる話し上手なイケメンガイドがついて、園内を案内してくれる前回は12月であったため温室内の案内だったが、今回は園内のチューリップが満開記念写真の椅子観光バスが何台も訪れていた新種のチューリップが満開左が新種で、右は古い種類だとチューリップが満開このマスコット人形の名は?ズームアップしてパンフレットの撮影ポイント菜の花とツツジ5月のゴールデンウイークの後は薔薇がきれいに咲くので、是非来て下さいとブルーベリー『眼』のためのハーブ。白内障・近視・乱視・疲れ目・ドライアイ等の眼に効果があると日本の薬草=日本のハーブshop13:58土産物店の前でイケメンガイドが説明世界で二番目に美味しいソフトクリームと謙虚に書かれているがさて一番は?ナチュラル「ミルクローション」。アトピーなどにも効果があると。「ちびまる子ちゃん」の作者さくらももこさんも使用し漫画に描いて、知られるようになったとブルーベリージュースを、毎朝空腹時に50㎖をゆっくり飲むと目に良いと。1,620円を1,200円にするとのことで、土産用に1本購入14:23出発時間が近くなりバスへ向かうステビア葉をかむと甘みがある、砂糖よりも甘いと14:25ハーブ庭園 旅日記 勝沼庭園を後にする勝沼インタから中央高速道路に乗り、八王子JCTから圏央道を走り茅ヶ崎へ。平日で渋滞もなく順調に走る。15:36厚木パーキングでトイレ休憩、対岸の相模川の堤に咲く芝桜この後、道路の渋滞もなく順調に出発地の茅ヶ崎市民文化会館前に、16:00到着解散していつもの居酒屋へ立ち寄る。参加費6,460円を二人で分担したので、安い料金で一日を楽しむことができた。Kさんありがとうございました。来年はどこへ行けるのか、もう少しルートを変更してほしいものですね。ブログ以外で、デジブックで公開しておりますので訪問していただければ幸いです。「河口湖・甲府バス旅」をクリック願います。 火口湖・甲府盆地の旅ーEND
2019.04.26
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バスツアーの続きです。4/17(水) 9:38フルーツパークの側にある「甲州わさび漬センター」へ前回も立ち寄っており、到着するとおばさんがバスに乗り込み宣伝。何故か前回も同じだが、滞在時間が15分と少なく、この間にお土産を買えと!本日の来客「ツアー」の名札店内入り口にある、試食用の小さなスプーンをとり中に入ると、7種類のわさび漬けがテーブルの上にあり手に載せて試食し放題。好きなわさび漬けを3個選び、店員に渡して購入する(1,100円/セット)。前回もそうであったがつい買うことになりワンセット購入した他にも乾ぶどう、栗まんじゅう等いろんなお土産もあったが時間がなく試食だけで甲府名物「ほうとう」もあったが、9:55には次の訪問先へ移動10:18甲州わさび漬センターを出て、国道20号線を走り「ジュエリー工房」へ。添乗員から、ここの滞在時間は1時間半だとのこと。今回の安いツアーのスポンサーなのか時間が長い10:20前回も来ているので二度目になる「㈱ラッキー商会」所在地:山梨県甲府市湯田2-10-12日本のジュエリーの1/3を生産し、山梨県で最大の地場産業であるジュエリー業界にあって、1937年創業、業界でも屈指の歴史と実績を有しているメーカー。 女性ガイドの説明を聞く、一階ホールに約40,000点のリング型を展示一階から二階への階段横に展示二階ホールで椅子に座り約十分間の説明を聞く。前回もそうであったが、説明が流暢で上手。ダイヤの加工、神明シリカのネックレスをかけると、冷え性・肩こり等がなくなる等々の効果があると。神明シリカは函館近くの山から掘り出している店内に入るとネックレスをかけてくれ、ショッピングの間着用させてくれ血行が良くなるとのことであったが、ちょっと高価(約13万円から)すぎて・・・・・工場内製品売り場では撮影禁止のためポスターを撮影ジュエリーの企画、デザイン、製造、販売のすべての部分を備えて、事業が社内で完結している数少ないジュエリーメーカーである。1988年に中国・大連市に工場を設立、軌道にのり日本人の感性によってデザインされたジュエリーを中国で製造し、全世界に販売するという長期戦略を描いているどの製品も高価であるので、もう必要がない高齢者は控室にて集まり(笑)狭い敷地内に多くの観光バスが停車、観光客の時間調整をしているようだ工場内に咲くハナミズキ11:45までの見学であったが、11:30に出発11:50モンデ酒造㈱所在地:山梨県笛吹市石和町市部476 tel:055-262-3161営業時間:8:30 ~ 17:00 定休日:年内無休ツアーのパンフレットには載っていなかったが・・・・・・。添乗員から滞在時間は30分間、「昼食前で空腹での試飲に注意してください」とWELCOME TO OUR WINE LAND私はもう何度も訪問しているワイン工場であるこの先の製品のボトルラインは撮影禁止エリアこの辺りからは「撮影OKエリア」。音楽を聞かせながら保管していた製品陳列昔の、蒸留器 → 冷却器、と樽モンデのオリジナル製品赤ワイン用ぶどうモンデ酒造自社畑・上屋敷畑「マスカット・ベーリーA」赤ワインの「仕込み方法」「味わい」「良く合うお料理」白ワイン用ぶどうモンデ酒造自社畑・塚ノ越畑「甲州」工場を出ると樽の門から入り試飲&売店へ工場の間に一般道があり、警備員が観光客のために交通整理左側は工場棟土産物店に掲げられた社紋お土産&試飲コーナー飲み放題の試飲買い物を終えバスへ12:20バスに乗り込み、ほろ酔い気分で昼食会場へ向かう12:23JR中央本線踏切12:27フルーツラインを走り甲府盆地12:28山の斜面には桃の花、ぶどう棚12:29万力八幡トンネルの山には、芽吹き前のぶどう畑が広がる12:36国道140号線(雁坂みち)を走り、昼食会場の「信玄館」が見えてくる。所在地:山梨県甲州市塩山小屋敷2311恵林寺近くにあり、前回もここで昼食した12:43信玄館の二階は大食堂で観光バス用のレストラン既に膳は用意され火がついていた。膳はスタンダードの「しゃぶしゃぶとおこわセット」野菜を先に入れて豚肉は後から入れてくださいと説明を受け。ランクアップされた方の膳は、肉が和牛か?おこわが美味しかったが、量が少なかったのが残念!13:02早めに食事を終え外に出る。信玄館前に鎮座する「武田信玄像」。他の店先にも同じような信玄像があったが、果たして山梨県下には何体あるのか?13:05信玄館の近くにある「放光寺」へ所在地:山梨県甲州市塩山藤木2438高橋山放光寺(ホウコウジ)。真言宗の古刹で元暦元年(1184)新羅三郎義光の孫清光の子安田義定が賀賢(ガケン)上人を開山として創建した。戦国時代には、武田信玄の祈願所として篤い崇敬と保護を受けた。往古は、塔頭12末寺70ヶ寺の大寺であったが織田信長の兵火により焼失し、その後慶長年間に再建された。ここには、重要文化財の仏像4件5躯(大日如来・愛染明王・不動明王・金剛力士像)が安置されている真言宗智山派 高橋山放光寺の総門ここの桜の木は満開も終わり。総門から歩いて放光寺仁王門へ13:08民家の庭先に咲く花桃縁結びと花の寺「放光寺」事前に予約すれば「名物の精進料理」も食べれるお寺であるブログ以外で、デジブックで公開しておりますので訪問していただければ幸いです。「河口湖・甲府バス旅」をクリック願います 放光寺境内へ
2019.04.25
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3月頃に旅友のKさんから「以前行った、バスツアーの招待状が来ているので行かないか」とお誘いの連絡があり計画、4/17(水)のツアーに参加した。調べてみると前回は、H29(2017)年12月1日(金)に参加していた。J:COMからの、招待状。招待者は受付時に身分証明書を提示する必要がある。同伴者の参加費は一人\6,460と割安、お料理は「A」のスタンダード。集合:6:30、出発:6:40集合場所:茅ケ崎市市民文化会館前。旅行会社:㈱ステップトラベルパンフレット昼食は「A」:追加無し 「B」:1,620円(税込み) 「C」:2,700円(税込み)訪問場所。①河口湖の桜 ②わさび漬けセンター ③山梨FUJIフルーツパーク ④ファッション工房 ⑤信玄館⑥チューリップパーク(ハーブ庭園)4/17(水) 6:15集合場所の市民文化会館前には既に人だかりが八重桜の桜が満開7:46茅ヶ崎西インタから圏央道を走り、八王子JCTから中央道、河口湖インタへ向かうバスの車内の飾り7:53河口湖インタ手前の車窓からの富士8:10 河口湖へ到着、観光時間は8:40までで30分間。第八回 富士・河口湖さくら祭り期間:2019年4月6日(土)~14日(日)こちらのポスターは「第七回・・・・さくら祭り」とあるが、印刷ミス?会場からの富士と桜青空でないのが残念だが中国人観光客が結婚写真?堤に芝桜が咲きスマホでの撮影今年の桜の開花は、最近の低温で遅れ今が満開サクラと芝桜のコラボもいいゆっくり撮影したいが最近の天気で積雪が多くなっているボートが走り逆さ富士も撮れず満開の桜旅友Kさんも撮影に夢中さくら祭りは終了していたが露天商は営業露出不足で・・・・・・富士をズームアップ8:30出発が8:40のため駐車場へ向かう綾小路きみまろの店がある9:00河口湖から国道137号線(御坂みち)の新御坂トンネルを通り笛吹市へ。中央リニア線の実験線架橋。所在地:山梨県笛吹市御坂町上黒駒この辺りは標高が高いので桃の花が満開山の斜面には、桃の花と菜の花が咲き誇り満開の桃の花9:10山梨FUJIフルーツパーク所在地:山梨県笛吹市御坂町金川原888 tel:055-262-7211営業時間:9:00 ~ 17:00 定休日:年中無休 駐車場:一般・・・約70台三島市の箱根路の登り口にも同じような建物があった今年1月12日(土) 9:00 にオープンしたばかり【いちご狩り予約受付】店先にはイチゴを展示。ツアーのいちご狩り希望者は1200円で姉妹店が、愛知県蒲郡市に「蒲郡オレンジパーク」、三島市に「伊豆フルーツパーク」があり、フルーツ狩り、食事が楽しめる二階にはレストランもある季節により、いちご狩り、メロン狩りが楽しめるもう「令和」のミニ提灯が登場ガラス越しの部屋でバームクーヘンをカットまだ時間が早かったが、たくさんのバスツアーが立ち寄るようだ店内を出るとビニールハウス棟が三島にも同じようなビニールハウスがあったビニールハウスをのぞき見すると段ボールは「らくらく交配」。Kさんからミツバチが入っている段ボール箱で、イチゴ栽培にはミツバチが必須だと水耕栽培ショッピングを終え次の場所へ9:30同じようなバスがあるので乗り間違いをしないようにブログ以外で、デジブックで公開しておりますので訪問していただければ幸いです。「河口湖・甲府バス旅」をクリック願います 甲州わさび漬センターへ
2019.04.24
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三嶋大社へ参拝後、三島スカイウォークへ立ち寄り帰宅。12/9(日) 12:39昭和9年5月1日指定の、天然記念物「三嶋大社の金木犀」キンモクセイと、舞殿、本殿この樹木はウスギモクセイの雄木として、日本有数のもので、大社の神木として大切に保存されている。樹齢は1200年を数えると伝えられ、訪れる参拝者の目を引いている。根廻り約3m、高さ地上約1mのところで二大枝幹に分かれている。枝の展開は円形であり、その先は地面に届くほど垂れている9月上旬から中旬にかけて一度開花し、9月下旬から10月にかけて再び開花する。花は淡黄色で可憐な花をつけ、甘い芳香を発するが、その香は神社付近はもちろん、遠方にまで及び、時には二里(約8km)先まで届いたと伝えられる舞殿と本殿舞 殿古くは、袚殿と呼ばれ神楽祈祷を行ったが、後には主として舞を奉納したので舞殿と呼ばれるようになった。現在は舞の他、お田打ち神事(県無形文化財)、豆撒き神事鳴弦式などの神事の他祈祷等も行う。慶応2年12月18日の再建で、昭和5年の伊豆震災の復旧工事で一部改修を行った神門から総門へ、左は神馬舎芭蕉句碑「どむみりと 棟や雨の 花雲り」棟とは「せんだん」の事で、元禄7年(1694)5月14日三嶋明神に参拝した芭蕉は、雨空に神池の辺りせんだんの花の群を仰いで、江戸に残してきた病床の妻「すて」の身を案じて詠んだ句である芸能殿安政の東海大地震の復旧工事で、時の神主”矢田部式部盛治”により、慶応4年2月11日に完成した旧総門で、昭和5年の伊豆大震災後、現在の総門が落成したため、一時他に移したが戦後再建し、一部改造の上芸能殿として保存している三嶋大社内にある「神鹿園」多くの鹿が飼育され、餌を購入し与えることができる三嶋神社の扁額が宝物館前に置かれていた総門近くにある福太郎茶屋の「福太郎餅」三嶋大社の縁起餅「福太郎餅」を頂く福太郎は生命力を宿すという餅と、邪を払うというヨモギをつきこんだ、百薬・百味の食べて福を呼ぶ、健康を作り出すヨモギ餅です。あんは烏帽子の形、甘さを控えた上品な味に仕上げていると三嶋大社の縁起餅 福の種まく「福太郎」安藤広重は三嶋大社の門前町として栄、富士の湧水がいく筋もの小川となって流れる「水の都」三島には足繁く通った。この絵はその時描いた「お田打ち」の神事”「お田打ち」の神事”三嶋大社では毎年1月7日、古代田祭(お田打)神事が行われている。この神事は平安時代に起こり、鎌倉時代には盛んに行われ今に伝承されたもので、黒いお面をつけた婿の福太郎が、白い面をつけた舅の穂長とともに、苗代所の選定から種まき、鳥追いなどの所作を狂言形式で行い、その年の五穀豊稜、天下泰平を祈るお祭り。旧街道の三嶋大社入口大鳥居前の老舗「うなぎ屋」と門前茶屋旧街道:旧傳馬町沼津宿の宿境まで一里十八町。東海道53次を、弥次喜多道中しているのでここを歩く('18/12/18に訪れた)12:59三嶋大社前の旧街道13:11旧街道から国道一号線と合流国道一号線を箱根峠へ伊豆縦貫道を越えて箱根峠へ向かう13:23三島スカイウォーク所在地:静岡県三島市笹原新田313三島スカイウォークの原寸での一部SKYWALKパーツの紹介 ①メインケーブル:外形47.5mmのスパイラルロープを使用 ②主 塔:直径約1.4m、厚み23mmの円形鋼管を曲げて主塔を作っている ③アンカレイジ:デザイン性を高めた北側のアンカレイジは展望台になっている ④耐風索:風による変形や振動を抑えるために耐風索を設けている ⑤グレーチング構造:歩廊面の中央にオープングレーチングが設置されているこの日もまた富士山が見えないので、スカイウォークは次回の楽しみに三島駅周辺MAP東海道53次の旧街道散策で近々歩く予定('18/12/18に決行済み)上記MAPの説明:うなぎ屋が多い三島スカイウォーク入口土産物店ここの「三島コロッケ」が美味しいのでいつも購入して食べる 200円/ケ広場では地元の野菜等を売っているソフトクリームも美々だが最近完成した「ロングジップスライド」富士山と日本最長の吊橋に向かって空中滑走!13:35みしま市街地MAP東海道53次で歩く市街地だが13:45国道一号線を登り「箱根峠」、昨日はここを右折して西伊豆へ芦ノ湖大観 湯河原方面箱根峠を過ぎ箱根新道を下る14:00箱根新道を下り終える14:05遅い昼食で国道一号線沿いの「そば処 太閤」へ天ぷらそばを食べる14:38昼食を終え、西湘バイパス、小田原厚木道路へ入る14:41小田原海岸辺り大磯海岸の「大磯プリンスホテル」14:47西湘バイパス橘料金所14:53西湘バイパス大磯出口:珍しく渋滞気味だが15:01国道134号線の相模川手前。新湘南バイパスの渋滞情報が表示され15:07茅ヶ崎のガソリンスタンドで満タンにしてわが家へ15時半頃にはわが家へ帰り、一泊二日の西伊豆の旅を無事終えました。来年元気であったら次回の宿泊場所はどこにするか・・・・・ 西伊豆(4/5)へ 西伊豆の旅 END
2019.02.02
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土肥金山散策後、三嶋大社へ。12/9(日) 10:25土肥金山の黄金館前の広場入場金は大人 720円、子供 610円砂金館で、長男の嫁と孫が砂金採りに挑戦(30分)池底から砂を専用の皿に入れて、ふるいながら砂を出す金は重いので下に沈む全て落とすと皿底に小さな金が残っているがなかなか難しい。結果二人とも数個の採取であった、私も以前新潟の佐渡金山で経験したが難しいもので5個?ゲットした10:572018年の砂金採り名人の名前が掲示。最高は30分で96個と、料金は大人で 720円/30分 だが砂金館外のアロエの花11:00人気土産BEST101位:金箔カステラ、2位:金山カステラ、3位:金箔チーズケーキ試食をし、美味しかったので2位の金山カステラを購入した土肥金山を後にして三嶋大社へ向かう11:42有料の修善寺道路へ、右方向は工事中で下田方面?修善寺ICまで1km11:46修善寺IC出口、ここまでで普通車 100円狩野川沿いにある、クライミングのメッカで知られる伊豆大仁にある「城山」11:47修善寺道路の修善寺料金所この有料道路はETCが使えず都度現金で支払い、普通車 200円左方向:伊豆スカイライン、直進して国道136号線の三島方面へ11:57国道136号線の一般道路を走り12:00再度有料道路「伊豆中央道」へここでも再度料金を支払うが、ETCも使用できない、普通車 200円ここは直進して三島方面へ12:03ここを左折して、国道136号線へ、直進は伊豆縦貫道(無料)で新東名へ12:15三嶋大社へ12:22三嶋大社所在地:静岡県三島市大宮町2-1-5創建年代は不明だが日本書紀に登場するほど古い神社で、もともと南伊豆の白浜にあったが、この地に移転された。祭神は「積羽八重事代主神」と「大山祗命」の二神。三嶋大明神と呼ばれ、伊豆国一宮として伊豆地方の信仰の中心であった。伊豆に流された源頼朝が崇敬し、治承4年(1180)8月の決起に際し源氏の戦勝と再興を2ケ月後には平家軍を迎撃するため西に向かう際に戦勝を祈願した。旧街道沿いの大鳥居から総門へ総門への桜並木厳島神社:祭神 市杵島姫命厳島神社:祭神 市杵島姫命北條政子が勧請し殊の外信仰したと伝えられる当社は家門繁栄・商売繁昌・安産裁縫等の守護神として広く信仰されている神池と厳島神社神 池天長4年(827)、神池の水が渇れ天下大旱し神宮の訴えにより朝廷は、三嶋神殿に於て澪祭(雨乞)を行わしめた6月11日から15日まで、大雨が降る時の帝は当社に圭田を寄せ神宮に禄金財帛を賜った(類聚国史)。元暦2年(1185)8月、源頼朝は神池に於て放生会を行い、その際、糠田郷・長崎郷を三嶋社の料と定めた(吾妻鏡)総 門建築中伊豆震災にあったが、昭和6年3月竣工。初めて台湾檜が使用された、昭和の神社建築の代表的建物の一つに数えられ格調の高さは有名(総工費は当時約7万円)総門前から振り返り大鳥居方向総門を入り「神門」神門は、慶応3年(1867)8月10日竣工。この場所より神様をお祀りする第一清浄区域につき静粛にご参拝下さいと(ネットより)神門前では、七五三の家族が記念写真この日は午後2時から「明治維新150年記念奉告祭」が斎行される平成30年戊戌(ツチノエイネ)年九紫火星、厄年生年表神馬舎神馬は慶応4年7月10日完成、旧神馬舎に納められていたが、戦後現在の神馬舎が完成し移したものである古くから当社の神馬は、毎朝神様を乗せて箱根山に登ると言う伝説があり、旧神官はお馬様が帰ったと言って朝食にしたと伝えられ、子供の成長と健脚を祈る風習があるこの日は午後2時半から「勤皇伊吹玉鉾両隊偉業顕彰祭」が斎行される正面の銅像「矢田部式部盛治大人銅像」嘉永7年(1854)11月の東海大地震で倒壊した社殿を十年の歳月と壱万6677両という巨費を投じて見事に復興し、明治維新は大総督宮の先導警護及びに明治天皇の御通行警護を奉仕し、祇園山腹にトンネルを掘り上流から水を引いて祇園原の荒地15町歩、余りを美田と化し住民の感謝敬慕の念により昭和29年建立された「勤皇伊吹玉鉾両隊偉業顕彰祭」の準備神門を入り「舞殿」破魔矢、おみくじ重要文化財「本殿 幣殿 及び 拝殿」本殿 幣殿 及び 拝殿社殿の説明板嘉永7年(1854)11月4日の東海大地震に、社殿工作物悉く倒壊し時の神主矢田部式部盛治が、十年の歳月を費やし総工費壱万6677両余りの巨費を以って慶応2年(1866)9月9日完成させた。総欅造りの豪壮なもので関東随一を誇り周囲の彫刻も又比類ない傑作である。其の他の社殿も慶応4年9月相次いで完成したと本殿前で記念写真本殿左にある「若宮神社」若宮神社古くは八幡宮・若宮八幡宮、又は若宮社等と呼ばれた御祭神は、物忌奈乃命(三嶋大神の御子神)、誉田別命(応神天皇)、神功皇后、妃大神を祀る社である。例祭は8月15日で御本社大祭の前日に行われる12:39舞殿前から神門 西伊豆(3/5)へ 西伊豆の旅 続く
2019.02.01
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西伊豆二日目です12/9(日) 7:33ホテルの廊下から堂ヶ島海岸朝食のバイキングこの日も堂ヶ島海岸は風が強くて「洞くつめぐり」の遊覧船が欠航のため「土肥金山」へ行く事に。9:28土肥金山の駐車場へ到着江戸時代にタイムスリップ! 金塊展示資料館「坑内めぐり・黄金館」見学は、A、B、C コースとある入場券売場十数年前に一度入場したことがあるが、リニューアルしていたので久しぶりに入る土肥金山入場料、砂金採り体験料(30分間)A、C コース入口門番人形をバックに写真は削除しました山神社祠洞土肥金山の経緯建徳、文中、天授(1370年代)の時代、足利幕府直轄の金山奉行が土肥を支配し、盛んに金を掘ったのが土肥金山の始まりと伝えられる。以下時代を追って説明①天正5年(1577)大横谷、日向洞 等五ヵ所を開発、このころより土肥の金山が本格的 に採掘される。②慶長6年(1601)徳川幕府が伊豆の金山開発に力を注ぐ。③慶長11年(1606)幕府金山奉行大久保石見守長安が伊豆の金山奉行も兼ね・・・。④慶長18年(1613)大久保石見守長安が没し、・・・・・寛永2年(1625)には休山。⑤明治39年(1906)神戸の実業家長谷川が外国人技師を招へい、採鉱を行い成功。⑥大正6年(1917)長谷川が発起人となり土肥金山㈱を設立。⑦昭和17年(1942)社名を土肥鉱業㈱に変更。⑧昭和40年(1965)鉱量枯渇のため閉山昭和47年(1972)社名を土肥マリン観光㈱に変更し、坑内の一部を観光坑道として整備し一般観光客に公開している閉山までの採掘坑道の総延長100km、最深部は海面下180mに及び、又、金銀の推定生産量は金40トン、銀400トン、現在(平成24年7月相場)の金額にして約2,045億円となる往時からの伊豆における最大の金山として知名度が高く、最盛期には全国鉱山中で第二位の金生産高をあげ、佐渡金山に次ぐ大金山として著名であった坑道入口の手前に堀があり黄金色の鯉がおよぐ鯉の餌を購入して与えると大きな口を開けて最中を9:43坑道長さ(見学路)約350mの坑内めぐりに金の採掘の様子などを等身大の人形が再現!土肥金山坑内のようす土肥金山の坑道は総延長100km、地底深度180m、面積37ヘクタールに及び、採掘が進むにつれ切羽が深くなると、噴出する温泉熱や通気が悪く酸欠で倒れる(気絶)、灯火も消えるため、各所に唐箕(送風器)を置いて空気を送って稼働した 釜の口・四ツ留の由来坑道入口を釜の口、または鋪口(シキグチ)という。釜の口とは入口が窯の口に似ているため付けられた名前である。鋪(シキ)は坑道の中で鉱夫たちがタガネを使って金鉱を掘る場所である土肥港出入の千石船土肥金山の産金が増加すると人の交流が多くなり、資材や食糧衣類などの消費物資は全国各地から千石船で土肥港に運ばれ陸揚された。また産金は御用船で駿府や江戸へ送り出されて港は活況を呈した土肥金山町屋の賑わい奉行所武家屋敷、鉱夫長屋勝場、床屋などの金山関連の建物をはじめ、商家、旅籠などの町屋が形成され、毎日商人職人、行商人等の働く姿で賑わいと活気とで町中があふれていたと薄暗い坑道内山神社(サンジンジャ)鳥居は金箔?で装飾山神社の説明板祭神 大山衹尊(オオヤマズミノミコト)古来。大山衹尊は金山守護の神であり、金穿たちは坑内の出入りには必ず礼拝して、作業の安全と黄金の幸を祈るのがしきたりで、この伝統は現在の坑夫にも引き継がれている手繰り水替え手繰り水替えの説明板切羽(坑内の採掘現場)が深くなると地下水が噴出するので、水貫(排水坑道)まで水を汲み上げます。この作業に従事する者を水替え人足といい、昼夜を問わず多数の人足が休むことなく働いていた切羽(キリハ)切羽(キリハ)の説明板坑内の採掘現場を切羽といいます。江戸時代には、女性も坑内で働くことが多く、なかには夫婦一緒に働き、男は金堀り、女は運搬の仕事をした。坑内は、地熱や温泉熱で大変暑いので、裸に近い姿で働かざるを得なかった坑内風景ところどころ低いところがあり頭を下げて歩行坑内風呂土肥の温泉は金山から湧き出したのが始まりといわれており、当時から坑内で湧出した温泉は、坑内で働く金堀たちにとって作業の疲れを癒しながら、最も楽しい一時の憩の場所であった岩肌は本物もあれば樹脂製のものもあった金子地蔵尊採掘切羽採掘切羽の説明板ここは400年前、この金山で本格的に採掘が始められた最初の鉱脈です。天井に見られる赤い岩盤の個所が金鉱脈である。この脈に沿って坑夫達が採掘を進めた坑外の風景大久保石見守長安慶長11年(1605)から同18年、69歳で没するまで7年間、金山総奉行として土肥金山を統括した江戸時代の貨幣制度徳川家康は日本で初めて貨幣制度を統一し、貨幣単位を定めて国内流通を目的とした金・銀・銭(銅)貨幣を造った。金貨は小判1枚の1両を基準に、額面金額と枚数で価値を表す計数貨幣、銀貨は匁(=3.75g)という重さの単位により価値を示す秤量貨幣、銭貨は1個が1文の計数貨幣というように別個の価値体系を持っていた。下の小判は徳川家康が、全国に通用させることを目的として、慶長6年(1601)に初めて鋳造した一両小判江戸時代貨幣の交換比:大判(十両)、小判(一両)江戸時代の大判小判千両箱重量実感体験:重量は約22kgある世界一の巨大金塊重量は250kgあり、12月6日の価格で、12億26百万円なりこちらは12.5kgの金塊だが持ち上げることができず。こちらの時価は、61百万円なり坑内観光 → 黄金館 → 広場昭和後期の設備も残る昭和37年(1962)操業停止した鉱山施設上御用金を運ぶ荷車10:25真冬に花咲く土肥桜土肥桜開花時期:12月下旬 ~ 2月上旬まで土肥金山は、2019/1/19(土) ~ 2/3(日) 土肥桜ライトアップ(入場無料) 西伊豆(2/5)へ 西伊豆の旅 続く
2019.01.31
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行きつけの仁科漁港で昼食後、南下して雲見海岸へ。12/8(土) 12:23昼食で仁科漁港の「漁協直売所(沖あがり食堂)」へ到着所在地:静岡県賀茂郡西伊豆町仁科980-6 ☎ 0558-52-0018味のある看板オヤジがお出迎え!!!ここは春先の河津桜を見に行った帰りに数回立ち寄っている食堂。イカで勝負! 丼で勝負! のこだわり食堂。刺身イカを乗せた「イカス丼」、漬けたイカと卵の黄身で夕陽をかたどった「夕陽丼」、刺身イカと漬けたイカを乗せた「いか様丼」など、”イカ”と”丼”にこだわるユニークな食堂で、ライダー等のリピーターが多い。タイミングがよければ「活きたイカ」もお刺身でゲットできる私は、酢飯をベースにしたスルメイカと漬けの2種類を乗せた”いか様丼” \820他に、スルメイカを乗せた”イカス丼” ¥820 漬けにしたスルメイカを乗せた”夕陽丼” ¥820 ヤリイカを乗せた”ヤリイカ丼” ¥1100 等がある。 妻は、海鮮丼いけすから取り上げた”アジの刺身定食”13:07営業時間:11:00~15:00 火曜日は定休日ですのでご注意を!13:35昼食後、国道136号線を南下して松崎町の「雲見海岸」へ所在地:静岡県賀茂郡松崎町雲見雲見海岸から、スフィンクス岩越しに富士山が見える伊豆の中でも、富士見スポットとして素晴らしい場所。遠くに「牛着岩(ウシツキイワ)」も見える松崎町では、伊豆随一!いや、それどころか、世界一!?と。また松崎町では、H24年2月23日の富士山の日に「世界でいちばん富士山がきれいに見える町」を宣言した雲見想い出岬ここの上にある、烏帽子山の山頂(雲見浅間神社)から眺める雲見海岸もきれだが、この日は風が強くあきらめる、またいつか・・・・・スフィンクス岩と富士山静岡県屈指の観光地として知られる伊豆。その中でも、西伊豆町・戸田村・土肥町松崎町一帯は西伊豆と呼ばれ、絶景の夕陽や温泉を目当てに多くの人が訪れるスフィンクス岩、牛着岩、富士山岸壁には青森ナンバーの車が駐車していて、写真撮影のおじさんが待機13:43雲間漁港、近くに”雲見クジラ館”もあり、海岸の一角には、地元の人が手作りした無料で浸かれる”渚の足湯”がある13:45国道136号線を北上、ホテルへの帰路路肩へ車を止めて撮影堂ヶ島海岸越えに富士山牛着岩(ウシツキイワ)と富士山牛着岩の大牛と子牛別名”夫婦岩”とも呼ばれていて綱で結ばれている。名前の由来は、時は文化13年(1816)、伊能忠敬が全国を測量していた頃の話。雲見に大洪水が起こり、十数軒の住居が流されたり埋まったりと大変な被害を出した。その際、家畜も流されてしまったが、牛が岩に流れ着き生きながらえていたため、この岩を「牛着岩」と呼ぶようになったとか。以前は、岩の頂上に鳥居が建っていた、またここは、ダイビングスポットでもある13:55再度車を止めて、白波の堂ヶ島海岸越えに富士山13:59国道136号線を北上して堂ヶ島、右折すると下田へ14:02西伊豆町へ入る14:22ネットで事前予約していたバースデーケーキを受け取りに ”Satouya” へ店先に、”ふるさとのうぜい” 感謝券取扱店の看板がショーケースの中には豪華なケーキが通信販売もしており、ケーキはもちろん、洋菓子、生菓子、焼菓子などを販売。店内には、カフェも常設しているネットには、西伊豆の漁師町に突如現れる、都会的で洋風なお店と14:30国道136号線「沢田交差点」へ戻る堂ヶ島海岸へ到着したが風が強い14:32風が強くて、堂ヶ島の遊覧船が欠航のためホテルへ早めに行くことにする。宿泊のホテルの ”堂ヶ島アクーユ三四郎”フロント横に堂ヶ島三四郎島の ”トンボロ現象” の写真フロントに聞くと、この時期のトンボロ現象は真夜中だとのこと。トンボロ現象とは、普段は海によって隔てられている陸地と島が、干潮時に干し上がった海底で繋がる現象である6階の貴賓室へ案内される一族7人、大部屋に宿泊夕陽を期待するが西の空には雲が多く「三四郎島」は、西伊豆町堂ヶ島の沖に浮かぶ4つの島の総称。潮の干満や見る角度で3つにも4つにも見えるユニークな島である。この島は、干潮になると海の中から道が現れて陸とつながる。この「トンボロ現象」は日本でも大変珍しいもの国道136号線、海は青々としているが風が強い15:46夕焼けを期待するがホテルのベランダからの三四郎島16:04陽がだいぶ沈むが雲が多く16:23ベランダの露天風呂に入るが風が強くて寒かった西の空に太陽が沈む16:28日の入りの時間だが折角ホテルからの日の入りを期待したが17:05空は晴れているのだが18:00夕食会場へ全員の写真は削除しました夕食海老が大好物の孫写真は削除しました19:11夕食後は部屋でバースデーパーティーローソクを8本立て19:15一気に消せるかな?この後はトランプに興じて誕生日を祝う 西伊豆(1/5)へ 西伊豆の旅 続く
2019.01.30
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