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仙石原のホテル花月園から、義兄が山中城へは行ったことがないとのことで箱根から近いので訪れた。山中城へは新車のノートの初ドライブで4月13日(木)に先輩と訪れていた。5月10日(水) 11:50旧国道1号(旧東海道)沿いにある日本100名城の山中城。国道を挟んで駐車場があるが数台駐車していた。山中城跡案内所・売店所在地:静岡県三島市山中新田410-4バス停の左側にある案内所。山中城の入口にある売店で、名物の「寒ざらし団子」「障子堀ワッフル」などを販売している。また、日本100名城のスタンプ設置場所、山中城「御城印」の販売場所となっている。【営業時間】10:00~15:00 【定休日】月曜日国道1号を横切り「史跡 山中城跡」。右側は旧東海道で箱根の関所から下って来る。駐車場から「三ノ丸堀」へ進む。前回咲いていなかったので期待してきたがつつじは咲き終わっていた。山中城跡の詳細説明は、前回4月13日(木)に訪れた時のブログ「日本100名城の山中城」👈 をクリック願います。遊歩道脇のつつじは一部残っていたがピークには遅かった。杉林の中にある山中城跡。山中城は箱根西麓の尾根上に築城された山城です。山田川や来光川の源流に挟まれ、急峻な斜面に囲まれた自然の要害の地につくられました。城の範囲は東西500m、南北1000mと推定。城からの展望はよく開け、西櫓からは御殿場・裾野方面を、岱崎(だいさき)出丸からは伊豆北部と富士・静岡方面の海岸沿いを一望のもとに見渡すことができる。田尻(たじり)の池から進むが、「元西櫓下の堀」の斜面にあるつつじも既に咲き終わっていた。ピーク時には丸く刈られたつつじが見事なのだが今だその時期に訪れることができない。ここのつつじを期待したのだが。ピーク時の情報が欲しい。西ノ丸見張台から東方向の二ノ丸を見下ろす。西ノ丸に咲いていたタンポポ。西ノ丸見張台愛鷹連山 (あしたかれんざん) の右側に頂上が雲に隠れた富士山が見えた。西の丸見張台西の丸見張台は下から盛土によって構築されたものである。発掘の結果、基底部と肩部にあたる部分を堅固にするために、ロームブロックと黒色土を交互に積んで補強していることが判明した。標高は約580mで、本丸の矢立の杉をはじめ、諸曲輪が眼下に入り、連絡・通報上の重要な拠点であったことが推定できる。 平成八年十二月 文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会西ノ丸見張台から西櫓を見下ろす。西ノ丸と西櫓間にはいつも整備された障子堀がある。西ノ丸を見下ろす。左側には藤棚があるが既に咲き終わっていた。右側に西ノ丸、左側に西櫓。いつも整備された障子堀で雲に隠れた富士がかすかに見えていた。ここのつつじも綺麗なのだが。西櫓に建つ「障子堀」の説明板。西櫓の櫓台下に「後北条氏の角馬出」の説明板。西櫓の櫓台から障子堀越しに西ノ丸を見るがピーク時のつつじを見たいものだ。西側の帯曲輪からの愛鷹連山、富士山を見る。西側の帯曲輪から林の中を抜け、ここにも「ホオノキ (朴の木)」が聳えていた。枝先の花をズームアップ。ホオノキはモクレン科モクレン属に属する落葉高木の1種である。別名としてホオ、ホオガシワなどともよばれる。大きな葉が輪生状につき、枝先に大きな花が上向きに咲く。また、朴の木の葉を利用した岐阜飛騨を代表する郷土料理「朴葉みそ」は有名である。北ノ丸跡に立っていた、「国指定史跡 山中城跡案内図」。本丸の土塁上から杉の木が生える本丸堀を見下ろす。本丸の土塁上から北ノ丸への本丸北橋。山中城跡には多くの杉の木が植栽されている。花粉症の方にとってはつらい場所では。前方に「天守櫓跡 (てんしゅやぐらあと)」天守櫓跡は標高五八六m、天守櫓の名にふさわしく、山中城第一の高地に位置している。本丸の土塁上から本丸西橋を見下ろす。南側に向かって傾斜している二ノ丸。二ノ丸櫓台から本丸西橋を見下ろす。左側の本丸下には兵糧庫跡に建つ休憩所。本丸西橋を渡り、二ノ丸(北条丸)の西方向を望む。二ノ丸橋から北方向を望む。ここからも富士が見えるのだが。二ノ丸からの左側から帯曲輪、西ノ丸畝堀、西ノ丸、二ノ丸から下り「箱井戸」へ。城内には箱井戸と、下流側に馬用の飲み水として使用された田尻の池の二つの池がある。箱井戸には睡蓮が植えられ、花の季節(7~8月頃)には観光客の目を楽しませている。箱井戸跡ここは古くから箱井戸と伝承されていた所で、発掘調査の結果、箱井戸と西側の田尻の池一帯は湿地帯であったことが確認された。箱井戸と田尻の池の間は、土塁によって分離され、排水溝によってつながれていた。これは湧水量が多く、一段高い箱井戸から田尻の池へ水を落とすことにより、水の腐敗や鉄分による変色を防ぐための工夫と考えられる。箱井戸の水を城兵の飲料水とし、田尻の池は、洗い場や馬の水飲み場等として利用していたのであろう。現在、箱井戸には睡蓮が植えられ、花の季節(7~8月頃)には観光客の目を楽しませている。 平成十三年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会写真は、スイレン箱井戸に咲く黄色の花。この花を見ると「いずれ菖蒲 (あやめ) か杜若 (かきつばた)」のことばが浮かぶ。「しょうぶ」と「あやめ」は漢字で書くとどちらも「菖蒲」である。乾いたところに育つのがアヤメ科「アヤメ」(菖蒲/綾目/文目)。よってこの紫色の花は”かきつばた”であろうか。かきつばたの後方の斜面にはアジサイ。あやめとかきつばたは良く似ているが、花びらの付け根を見れば一目瞭然であると。3つの違いをまとめると、花びらの付け根を見たときに、 ・あやめ:模様が網目状である ・菖 蒲:黄色い模様が入っている ・杜 若:白い筋が通っている育つところも違い ・あやめ:陸地 ・菖 蒲:水の中 ・杜 若:水辺赤丸内に白い筋があるので「杜若(かきつばた)」(ネットから)。 予備知識がなく残念ながら撮影した写真からはアップしていないので?13:00山中城跡案内所・売店で昼食をとる。今回は「山菜そば ¥500」を注文。麩(ふ)入りで、わらびは山中城公園内にも芽を出していた。前回は天ぷらそばを食した。昼食後、南側にある「岱埼 (だいさき) 出丸」へ。気温も上がり富士がかすかに見えていた。すり鉢曲輪見張台から岱崎出丸を振り返る。すり鉢曲輪見張台から北東方向の、岱埼出丸 一の堀を見下ろすが急峻である。見下ろすと国道1号のバイパス沿いには新しくできた「ドラゴンキャッスル」。出丸御馬場堀。出丸御馬場堀内には整備中の作業員。斜面に梯子をかけ草刈り機で除草されていたが結構厳しい作業である。ヘルメット無装着であったが、この作業(城跡整備)も三島市と年間契約されているようだ?アゲハチョウが既に飛びまわっていた。史跡内にはこのような看板も。山中城跡案内所・売店前に戻る。バス停には外国人観光客。旧東海道を下って来たのであろうか。三島駅行きのバスに乗り込む観光客。13:45店先には「名物 寒ざらし団子」ののぼり旗。この後箱根越えで帰路についた。山中城跡には毎年のように訪れ”つつじ”を追っているがピーク時と合致せず。売店で聞くと「定休日の月曜以外はここへ電話していただくと開花状況を対応します」と。作業員の方から他の花等も開花状況を聞いているとのこと。「来年はお願いします」。 END
2023.07.15
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山のホテルのつつじを楽しみ、仙石原にある花月園へ。5月10日(水) 10:20シャクナゲ園からつつじ園の富士見の丘へ下り山のホテル本館を望む。富士見の丘の先に富士がまだ顔を出していた。最後に再度、ビューポイント【富士山】から望む。富士見の丘のつつじは数日前の雨で残念ながらピークが過ぎていた。10:35見納めに富士をズームアップ。山のホテルの散策後、仙石原にある花月園へ向かうことに。10:55ホテル花月園所在地:神奈川県足柄下郡箱根町仙石原1244-2当館の「つつじ庭園」では、毎年5月の大型連休が終わる頃から、およそ2週間の間「つつじ」が咲き誇ります。夏でも涼しい仙石原高原にあり、天気が良いと富士山も望める標高800メートルに位置する。駐車場には送迎用バス。老人ホームの方が車数台で訪れておられた。エントランスへの両脇にはつつじ、サクラ並木。エントランスをズームアップ。後方の山は大涌谷の一角であろうか。つつじ庭園へ下りる。ここのつつじ観賞はは無料で楽しめる。芝生広場の周りにつつじが咲き乱れる。ホテルのエントランス側からも下りることができる。夜は宿泊者の為にライトアップもされているのであろうか。以前来た時はテントが建っていたが。つつじ庭園には観賞用のベンチが置かれていた。つつじ庭園から見上げるとカエデの花。青空をバックに。カエデの花をズームアップ。県道75号線沿いに建つホテル案内板。つつじが綺麗に咲いていた。赤、ピンク、白と。こちらの新緑の木にも枝先に花が咲いていた。枝先をズームアップ。ホオノキの花であろう。ホオノキ (朴の木)ホオノキはモクレン科モクレン属に属する落葉高木の1種である。別名としてホオ、ホオガシワなどともよばれる。大きな葉が輪生状につき、枝先に大きな花が上向きに咲く。日本自生の樹木の中では、最大級の葉と花をもつ。南千島から九州に分布する。大きな葉は、食べ物を包んだり焼いたりすることに使われる。枝の間に蕾。右側はホテルエントランスへの階段。今年は開花が早いようで少々ピークを過ぎていたようだ。木は大きいが花は小柄なつつじ。三色?のつつじが咲くつつじ庭園である。11:05約10分のつつじ観賞で駐車場へ戻る。11:10県道75号線のホテル花月園近くの「南温泉荘バス停」。数年前に大涌谷の噴火規制で立入禁止になり、ここで黒卵を販売していた。その時の建物を解体していたのであろうか。 同場所から富士を望む。この後、時間があったので山中城へ行くことに。 ー 続く ー
2023.07.14
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山のホテルのつつじ園からシャクナゲ園を散策。5月10日(水) 10:00シャクナゲ園岩﨑男爵が、ツツジとともに植えたシャクナゲ。おおぶりな花がふっくらと咲くはなは、優雅な貴婦人のよう。洋種シャクナゲの中には、高さ4mに達するものや、樹齢100年近い古木など学術的にも貴重なものとされていますと。残念ながらこの花の名は?。主なシャクナゲの種類は42種で、約300株が咲き乱れている。ズームアップ。光線を後方から浴びる。ゴーマー・ウォータラー(大華殿) であったか?草木慰霊塔碑シャクナゲ園の一番高いところに建っている碑である。草木慰霊塔碑岩﨑男爵が庭園を造成するため、幾多の樹木や灌木を伐採せざるを得ず切り倒した草木のすべての霊に対して供養を施したいという思いから1937年(昭和12年)に建てられたものと伝えられています。日本のシャクナゲ残念ながらネームプレートがなく。西洋シャクナゲの「マイケル・ウォータラー」。鮮やかな農紅色である。ズームアップ。遊歩道の両側に高木のシャクナゲ。白亜のシャクナゲ。蕾の時は薄いピンクで、開花すると白色に変化する「ホワイト・スワン」。シャクナゲ園の遊歩道。残念ながら遊歩道は車椅子対応にはなっていない。ホソバシャクナゲホソバシャクナゲ 野生種 日本原産日本固有種で、静岡県西部と愛知県東部の比較的低い標高の岩場に生える。花は紅紫色で、葉が非常に細長いのが特徴。環境省絶滅危惧Ⅱ類であるが、栽培が容易なため、各地で栽培される。葉が非常に細長いホソバシャクナゲ。このシャクナゲの名は?。クマバチが来ていた。ズームアップ。よく見かけるピンクのシャクナゲである。赤紫色のシャクナゲ。ウィリアム・キングウィリアム・キング 西洋シャクナゲ園芸品種葉は幅広で大きく、花は黄クリーム色の大輪品種。弁先は7つに分かれるため丸く整った花形。近年、鉢植えとして生産販売されるようになった。ニュージーランドで1958年に作出。ピークを過ぎたシャクナゲ。ズームアップ。アズマシャクナゲアズマシャクナゲ 野生種 日本原産日本固有種。花の色は紅紫色で、蕾のうちは色が濃いが、開花するにつれ薄くなる。花弁は5枚で、雄しべは10本ある。葉は小さいが、裏毛は赤褐色でスポンジ状に密に生える。花の色は紅紫色で、蕾のうちは色が濃いが、開花するにつれ薄くなる。花色は開花するにつれ薄くなる。別のシャクナゲが咲いていた。ズームアップ。背丈が2メートル程のシャクナゲ。蕾の時はピンクで花開くと白色になるのであろう。ズームアップ。ヤクシマシャクナゲヤクシマシャクナゲは、屋久島の高地に自生するツツジ科ツツジ属シャクナゲ亜属の常緑低木。屋久島の固有種あるいは固有変種である。屋久島町の花に選定されている。シャクナゲ園からつつじ園へ下り、芦ノ湖を望む。この辺りのつつじはピークを過ぎていた。10:20山のホテル本館を見る。 ー 続く ー
2023.07.13
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山のホテルの散策を続ける。5月10日(水) 9:25チャペルの前にある「ローズガーデン」。ローズガーデン開花時期:6月中旬~7月中旬頃、9月中旬 ~ 10月中旬頃。2002年に向ヶ丘遊園から譲り受けたバラをはじめ、6月と10月の2回見頃を迎えます。高貴で目を引くものから清楚な花が咲く品種など、バラの甘い香りで包まれます。「山のホテル」ツツジ園約70品種3000株のツツジ1911年(明治44年)三菱4代目社長岩崎小彌太男爵がこの地に別邸を建て、ツツジとシャクナゲの庭園を造りました。1948年(昭和23年)、「山のホテル」が開業してからは、この庭園を大切に守り、受け継いできました。しかし、長い間に品種名がわからなくなったものも多く、2016年から5年にわたる調査の結果、2021年現在、約70品種3000株が存在することが判明しました。まだ不明なものも多く、今後も品種数は増えそうです。西側の駐車場傍にある「チャペル」。芦ノ湖畔に佇む小さな礼拝堂である。礼拝堂内を見る。礼拝堂に入り。正面のステンドグラス。チャペルは中世ヨーロッパの古城の片隅に佇む小さな礼拝堂をイメージしたチャペル。ホテルの庭園内にあるチャペルは、その大きな扉を湖に向かって開かれ、湖畔からのさわやかな風と庭園いっぱいに溢れる光を取り込みます。親族や親しい友人に囲まれたアットホームな挙式は、約40名様の参列が可能ですと。9:30西側の臨時駐車場。この時間になると多くの車が駐車していた。朝到着した時の「つつじ・しゃくなげ庭園入口」。トイレが外にあったので係員に許可を得て仮設トイレへ。つつじ園へ戻る。花車 (はなぐるま)花車 (はなぐるま)ヤマツツジ類園芸品種群 モチツツジ系花は、紅桃色の大輪で、一重で花弁が細い采咲き (個々の花弁が完全に分かれる咲き方)。ブロッチ(斑点)は、濃い紅桃色。園内には本品種の大株が多数点在する。ビューポイント【紅葉の小径】ツツジ・シャクナゲで知られる庭園ですが、秋の紅葉シーズンには、この周囲一帯が黄色や赤へと色づき、その葉が敷き詰められると「赤い絨毯」の上を歩くかのようだと。秋の紅葉シーズンもよさそうだ!ここで見られる野鳥アカゲラ、ツバメ、ハクセキレイ、ツグミ、エナガ、メジロ、カワラヒワ、オナガ、キジ、シジュウカラ、ホトトギス、モズ、ホオジロ、ウソ と多くの野鳥が飛来する。鳳凰殿 (ほうおうでん)。鳳凰殿 (ほうおうでん)ヤマツツジ類園芸品種群 オオアマツツジ系 希少品種花は中輪二重。紅ピンク色の白覆輪(花弁の縁が白色)、ブロッチ(斑点)は濃紅紫色。「紫鳳殿」「白鳳殿」の親。歴史的な庭園でまれに栽培されるが、園芸的な生産はほとんどない希少品種。ズームアップ。ピンクが鮮やかな別の品種。ズームアップ。右へ上るとつつじが咲き乱れる富士見の丘へ。坂を上り”しゃくなげ園”へ行くことに。途中木陰から入口方向を見下ろす。露出を変更。同場所から富士見の丘を見下ろす。ピークを過ぎた藤棚。紫色は咲き終わり白色が咲いていた。白色のフジをズームアップ。シャクナゲ園入口に立つ案内板。「山のホテル」のシャクナゲ園男爵が日本で初めて輸入し、ホテルが守り続けた貴重なシャクナゲ■ 海外のシャクナゲ 西洋シャクナゲ (園芸品所) 1800年代後半、欧米で人気を博したシャクナゲは次々と交配され、数多くの西洋シャク ナゲが生まれました。これを1910年頃(明治時代末期)に日本で初めて輸入したのが、岩 﨑彌之助男爵、小彌太男爵父子です。昭和初期に日本でも人気が高くなり、日本名がつ けられましたが、それらは、現在はほとんど栽培されていません。当シャクナゲ園には、 ゴーマー・ウォータラー(大華殿)など、現在では栽培が少なくなった古品種が多数植え られています。 野生種 もともとはアジアに原産が多いシャクナゲは欧米に渡り鑑賞花木として好まれました。 ポンティクムは、岩﨑彌之助男爵の霊廟前にも日本への導入初期に2本が植えられ、当 シャクナゲ園にも存在します。また、当園に30株以上ある、中国原産のフォーチュネイ は、かつてはシャクナゲの接木繁殖の台木としても使用された、香りの良いシャクナゲ です。■ 日本のシャクナゲ 野生種 日本にも古くからシャクナゲが自生していました。当園に約50株ある大株のキョウマル シャクナゲは、環境省の絶滅危惧種に選定されています。また、伊豆半島固有のシャク ナゲ、アマギシャクナゲなど貴重な地域のシャクナゲが植えられているのも特徴です。■ カルミヤ カルミヤは、ツツジ科の植物ですが、シャクナゲではありません。当園には、カルミヤ・ ラティフォリアが50株近く育っています。1915年(大正4年)に日本に導入され、アメリ カシャクナゲの名で販売されていた歴史があり、当園でも別邸時代に植えられたと思わ れます。このような大株が多数保存されているのは全国的にも珍しいことです。 シャクナゲ園の歴史この地は、岩﨑小彌太男爵の別邸でした1911年(明治44年)三菱4代目社長岩﨑小彌太男爵がこの地に別邸を建て、ツツジとシャクナゲの庭園を造りました。なかでも、当シャクナゲ園の「ゴーマー・ウォータラー」は、日本で最初に輸入された「西洋シャクナゲ」と文献に記されていて、歴史的な価値が非常に高いシャクナゲです。シャクナゲ園には、現在、他では栽培されていない貴重な古品種や日本原産のシャクナゲなどが植えられています。そして、その大半は、男爵別邸時代に植えられ、現在大株になっています。希少品種を多く含んだ、約40品種300株1948年(昭和23年)、この地に「山のホテル」がオープンしてからは、ホテルがこの庭園を大切に守り続けてきました。2015年からはツツジ・シャクナゲの維持・再生を目的とした、「山のホテル庭園プロジェクト」がスタートし、品種調査や接ぎ木による希少品種の再生・育成などに取り組んでいます。その結果、2021年現在、約40品種300株のシャクナゲの存在が判明しました。明治時代の品種を含むツツジとシャクナゲ、この貴重な「園芸文化」を、山のホテルは訪れるお客様へのおもてなしとして後世に受け継いでいきたいと考えています。シャクナゲ園の遊歩道を進むがどの木も大株である。ピンク色の”フォーチュネイ”フォーチュネイ 野生種 中国原産樹高 5m以上になる中国原産のシャクナゲです。花はピンクで、花弁は7枚、甘い香りがします。葉か細長く、楕円形です。当園には多数植栽されています。フォーチュネイをズームアップ。白い花を咲かせる「ホワイト・スワン」。ホワイト・スワン 西洋シャクナゲ園芸品種蕾の時は薄いピンクで、開花すると白色に変化する。花弁は7枚。現在は国内での商業的な生産はないと思われる。1958年にイギリスで作出された。ホワイト・スワン10:00ゴーマー・ウォータラー花は大輪、白色で薄藤色が入り、ブロッチ(斑点)は黄茶色。イギリスで1900年以前に作出。本品種は、岩崎小彌太が日本で初めて導入した西洋シャクナゲといわれているゴーマー・ウォータラー「小田急 山のホテル」があるこの地には、かって三菱4代目社長、岩崎小彌太男爵の箱根別邸がありました。岩崎男爵は別邸を1911年(明治44年)に建てましたが、庭園を造るにあたり、多くのシャクナゲを英国から輸入しました。これが日本への洋種シャクナゲの最も古い導入ではないかといわれています。この「ゴーマー・ウォータラー」は、当時輸入された学術的にも貴重なシャクナゲの1株と見られ「日本ツツジ・シャクナゲ協会」にもその存在を認められました。ゴーマ・ウォータラー 日本名:大華殿(たいかでん) 西洋シャクナゲ園芸品種花は大輪、白色に薄藤色が入り、花弁上部のブロッチ(斑点)は黄茶色。イギリスで1900年以前に算出された。日本に初めて輸入されたゴーマ・ウォータラーの1株と思われる。 ー 続く ー
2023.07.12
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山のホテルのつつじ、シャクナゲを愛でる。前回は4年前の2019年5月17日(金)に訪れている。その時のブログは「山のホテル」👈 をクリック願います。山のホテルは、三菱の創始者である岩﨑彌太郎の甥である岩﨑小彌太男爵が、1911年(明治44年)に別邸を建てた由緒ある地にある。5月10日(水) 9:00入場料金は期間中は大人1,000円。駐車料金は無料である。正面に実際には7本あるが「三本杉」と呼ばれている杉の木が聳える。岩﨑男爵の別邸時代から見る角度によって大きな3本の杉に見えるのであろうか。チケット2023年 14日目14日目はつつじが開花してからの累計日であろうか。前回訪れた2019年5月17日(金)は「12日目」であった。地球の温暖化が感じられる!❖ 庭園散策マップ ❖庭園の見どころ A ~ E 三菱財閥4代目当主である岩﨑小彌太男爵に縁深い散策スポットのご紹介です。 ① ~ ⑪ 山のホテルがオススメする散策スポットのご紹介です。チケット売り場の後方がビューポイント【富士山】である。山のホテル本館のテラス席もある。案内のようにつつじはピークを過ぎていたようだ。しかし、三本杉 (実際には七本) の後方に富士が綺麗に顔を出していた。一段高いテラスにあるビューポイント【富士山】は混雑、順番待ちで撮影。遊歩道、左側の三本杉を見下ろす。三本杉とあったが聳えているのは七本。残雪が残る富士をズームアップ。ピークを過ぎたつつじ。係の方に聞くと数日前の雨で花柄が・・・。遊歩道には多くの人が訪れていた。歴史を感じるつつじが植えられている富士見の丘。ビューポイント【富士山】から入口を振り返る。山のホテルの魅力。何度訪れても感動のある本格リゾートホテルヨーロッパの古城を彷彿とさせる、広大な敷地を有する本格リゾートホテル「山のホテル」。受け継がれた歴史と伝統を、より上質な“おもてなし”で。美しい四季の風景を眺めながら、料理人こだわりの美食とともにゆったりと流れる時間をお楽しみくださいと。宿泊施設の前にもつつじが咲き乱れる。つつじを玉仕立てにしているのはどこから見ても綺麗であることからと。遊歩道から富士見の丘越しに富士を望む。広大な敷地を誇る「山のホテル」の大庭園。自然が多く残り、四季折々の花や富士山などを楽しめる人気の観光地である箱根。山のホテルのある芦ノ湖周辺は標高が約723メートルもあり、都心から近いとは思えない気候である。遊歩道に道案内『 ⇐ バラ園・チャペル、しゃくなげ園 ⇒ 』。順路に従って進む。白いつつじの「白錦」。ネームプレート「白錦 (しろにしき)」ヤマツツジ類園芸品種群 オオヤマツツジ系 希少品種白滝とも呼ばれる。花は中輪で白色の二重。がくが不完全に花弁に変化し、緑が不規則に切れ込む桂咲き。稀に関東地方の歴史的な庭園で栽培される希少品種。案内板は「見南山荘の碑」。見南山荘(けんなんさんそう)の碑石碑には漢字のみで「見南山荘記」の説明。「見南山荘」とは、大漢和辞典の編纂者で、漢学者の諸橋轍次氏につけてもらった別邸の名前。碑には1938年、諸橋氏が別邸に赴いて講義をしたときの模様が歌われ、芦ノ湖の景観の素晴らしさなどが記されている。山のホテルは岩崎小彌太男爵の別邸跡に建ち、いまなお当時の面影を色濃く残し、クラシカルなムードを漂わせる「山のホテル」。レンガ色の赤い屋根と白亜の外観は、取り囲む深い森にくっきりと映え、ヨーロッパの古城さながら。目の前には、きらきらと輝く澄んだ芦ノ湖が開け、庭園からは富士山の壮麗な姿も仰ぎ見ることができますと。ビューポイント【富士山】のテラス席。テラス席をズームアップ。真っ赤なつつじ。キリシマツツジ ”ヤエゲラ”< 八重げら >萼が花弁状になる二重咲きの園芸品種。八重霧島に似ますが、別の物です。(ツツジ科)八重げら (やえげら)ヤマツツジ類園芸品種群 江戸キリシマ 希少品種常緑性ツツジ。小輪、がくが花弁化した二重咲きで、江戸時代を代表する深紅の花を咲かせる”本霧島”よりも暗い朱赤色。ほとんど栽培がない希少品種。深紅の花を咲かせる八重げら。ズームアップ。八重げらは約3,000株あるツツジの中でも、一番大きな株の八重げら。高さ、直径ともに3メートル近くあり、その大きさに圧倒されます。つつじの間を抜け順路に従い進む。富士見の丘から見る三本杉。三本に見えるのはホテル側からであろうか。つつじに囲まれて「安藤楢六翁之像」。碑 文当社の前身小田原急行鉄道は昭和二年に開業、その後、一時期戦時統合政策により西南各私鉄とともに東京急行電鉄を形成するに至ったが、二十三年六月分離独立し、新たに小田急電鉄として発足した。戦後の荒廃と混迷のなお続く同年十二月、新生小田急の初代社長に就任した安藤楢六翁は、労使一体を経営の根本理念に掲げ、疲弊した鉄道を復興し沿線地域社会の便益向上に腐心されたが、当時の時代環境を考えるとその苦心は筆舌に尽くせぬものがあったと推察できる。爾来、翁は五十九年一月逝去されるまで三十五年余に亘り代表取締役として社運の興隆を導かれたが、中でも箱根湯本乗り入れに始まる一連の施策により箱根の一貫輸送ルートを確立して経営基盤を強化し、また第二の創業と目された新宿西口の総合開発を完成して事業多角化の基礎を固め今日の布石としたのは、小田急中興の祖と仰がれる翁ならではの経綸であったといえる。現在の社業の伸長と沿線の発展を見るとき往時を顧みて無量の感慨を覚えるが、翁の偉業を更に大きく実らせて次代に引き継ぐのが我々小田急グループ全社員の責務であろう。ここに故翁の遺徳を偲ぶと共に将来へ向けて一層の飛躍を期する記念として建立するものである。 平成二年九月十四日 小田急電鉄株式会社安藤楢六翁之像前から山のホテルを望む。深紅のつつじが咲き誇る。芦ノ湖を見下ろす。西方向には富士の顔も。つつじをズームアップ。富士見の丘からつつじの間を下り芝生広場へ。テント内ではつつじ・しゃくなげの苗木を販売していた。営業時間 10:00 ~ 16:00(つつじ開花時のみ)芝生広場では山野草、アジサイ等を販売していた。9:25芝生広場からの山のホテル。 ー 続く ー
2023.07.11
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訪れたつつじの時期から相当遅れましたが、5月10日(水)に義兄と訪れた箱根芦ノ湖の湖畔にある”山のホテル”のつつじ・シャクナゲです。この日は新車のノートに乗り自宅を7時前に出発。5月10日(水) 8:10西湘バイパス、箱根新道を走り芦ノ湖湖畔の箱根町港へ。雪が積もった富士の頂上が見えていた。湖畔には既に多くの釣り人が訪れていた。釣り人に何を釣るのか尋ねると「ブラックバスを釣りリリースする」と。箱根港に海賊船が停泊。海賊船は3隻あるがこれは「クイーン芦ノ湖」「クイーン芦ノ湖(QUEEN ASHINOKO)」は、「心ときめくクルーズ」をコンセプトとし、芦ノ湖の碧にあざやかに映えるゴールドの船体、多彩な色・形・素材を自在に組合せた装飾性豊かな船内は、床から天井まで木材を張りめぐらせたクラシックなデザインとなっており、上質なリゾート感覚をご堪能いただけます。船 名 クイーン芦ノ湖就航年月日 2019年4月25日総トン数 318t 船の長さ 35.00m 船の幅 10.00m定 員 541名(うち特別船室87名)造船会社 ジャパンマリンユナイテッド株式会社箱根町港乗り場まだ時間が早く観光客はいなかった。箱根町港前に立っていた石碑。桃源台港への1便は9時30分。コロナ前は多くの中国人が訪れていたが。海賊船は3隻あり他に「ロワイヤルⅡ」、「ビクトリー」が就航している。航 路海賊船は箱根町港から元箱根港・桃源台港を約25〜40分で結ぶ。運賃は桃源台港まで片道1,200円、往復2,220円。8:30小田急 山のホテル神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80かつての岩﨑小彌太男爵別邸跡地に建つ、「山のホテル」につつじ園がある。警備員の案内により西側の臨時駐車場へ止めるが時間が早く空いていた。西側の臨時駐車場からの「つつじ・しゃくなげ庭園入口」。時間があったので芦ノ湖畔へ下る。途中林の中にシャガの群生地。山のホテル・箱根神社と湖畔の間を走る神社通り。湖畔にある遊歩道。右側には芦ノ湖があり釣りのポイントにも。新緑の中を山のホテル側の入口へ移動。ヒノキを見上げる。神社通りを挟み右上は山のホテルの庭園。芦ノ湖プライベート桟橋を見下ろす。桟橋をズームアップ。ここも若者達の撮影ポイントに。山のホテルには四季の自然を愉しめる庭園をはじめ、目の前に広がる芦ノ湖の景観も愉しめる。周辺には箱根神社もあり散歩しながらホテル周辺の散策も愉しめる。芦ノ湖の対岸の山の上には芦ノ湖スカイラインが走る。シャクナゲが綺麗に咲いていた。ズームアップ。更にズームアップ。箱根神社前から箱根園への神社通りに「小田急 山のホテル」の案内板。ここにも駐車場があったが既に満車で警備員から箱根園側の駐車場へ誘導された。こちら側には団体大型バス、第1、2駐車場がある。道路沿いのホテル入口に「つつじ・しゃくなげフェア 開催中」と。また看板には「見頃のピークは過ぎました」と。団体大型バス駐車場から山のホテルの第2駐車場を見下ろす。山のホテルのエントランスに送迎用のバス。元箱根から無料のシャトルバスがホテル玄関先まで送迎してくれる。ホテル側からの「つつじ・しゃくなげ庭園入口」。5月2日(火)にNHKのあさイチで山のホテルを放送「5月8日頃が見ごろ」と放送していた。8日の予想日は雨になり、その為訪れるのが数日遅れピークが過ぎたようだ。開園時間が9時からの為しばし門の前で待機。「山のホテル」ツツジ園約70品種3000株のツツジ1911年(明治44年)三菱4代目社長岩崎小彌太男爵がこの地に別邸を建て、ツツジとシャクナゲの庭園を造りました。1948年(昭和23年)、「山のホテル」が開業してからは、この庭園を大切に守り、受け継いできました。しかし、長い間に品種名がわからなくなったものも多く、2016年から5年にわたる調査の結果、2021年現在、約70品種3000株が存在することが判明しました。まだ不明なものも多く、今後も品種数は増えそうです。9:009時ちょうどにオープン。三本杉の向こうに富士が綺麗に見えていた。つつじ・しゃくなげフェア 20232023年4月下旬 ▶ 5月下旬 [庭園見学時間] 9:00 ~ 17:00園内には、つつじ・しゃくなげ園巡回ルート、車椅子使用者ルートがある。 ー 続く ー
2023.07.10
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今年の湘南祭は「持続可能性」を重点に!「茅ヶ崎の豊かさを持続可能なものに」と、飲食ブースでは環境に配慮した循環型の食器の使用など、ゴミの排出量削減を目的とした新たな取り組みも行う。従来の湘南祭と違う、SDGsへのチャレンジもして、来年度以降につなげたいと。パンフレットから、湘南祭 2023開催日:5.27(Sat)・28(Sun) 10:00 ~ 16:00会 場:サザンビーチ茅ヶ崎主なイベント ・ローカルファーストマーケット(飲食・物販など) ・ステージショー Sat:ダンスショー Sun:音楽の創造ステージ ・スケートボードパーク ・スポーツイベント (開催日は内容によって異なります)5月27日(土) 12:40マルシェ会場にはちょうど昼時で多くの人が並んでいた。若者の為にベビーカー置場、授乳室が設置されていた (無料)。飲食屋台の前には長い列。ビール、湘南ゴールド樽生サワー、スコッチハイボールも販売。左隣では「台湾まぜそば」を販売。この日は天気も良くビールを飲む人が多かった。焼鳥トサカ購入するかき氷、わたがし、酒、やきとりに分かれて並んでいた。屋台内には知っている店長も。STAGE PROGRAM 5.27 (Sat) ダンスショー 【MC】MC KENSAKU5.27 (Sat) ダンスショー5.28 (Sun) 音楽の創造ステージ12:48メインステージ上では若者達が踊っていた。STAGE PROGRAMからみると「パルパル湘南 avexDanceMaster K-POP」であろうか。メンバーが代わり十数人で激しいダンスを披露していた。小学生から中学生であろうか。ステージの前には多くの親御さん達であろうかカメラを構えて見入っていた。撮影ポイントを探すがなく後方から撮影。人混みの合間からズームアップ。高学年でプロを目指しているのであろうか。メインステージの横には大きなスピーカーがあり椅子席が設けられていた。この中にはスカウトも来ているのであろうか。ステージ上にMC KENSAKU さんが登場。渋い声で・・・。MC KENSAKU さんは、日本が誇る伝説のダンスチーム「BRONX」のメンバーとして日本のブレイクダンスシーンの火付け役のひとりであると。小学生のグループが登場。グループの紹介をしていたが?。女の子が主だがどの子も曲に乗り見事な踊りを披露していた。単に「ヒップホップ」と呼んだ場合、サンプリングや打ち込みのバックトラックに、MCによるラップを乗せた音楽を指すことがあるが、これらはヒップホップ・ミュージックあるいはラップ・ミュージックと呼ぶのが正しい。これに「ブレイクダンス」と「グラフィティ」などを加えたものが本来のヒップホップである。ヒップホップにおいて、ラップ (MC)、DJプレイ、ブレイクダンス、グラフィティは四大要素と呼ばれると。高齢者にはよくわからないが。踊りが激しい!その点、若い子はテレビを見て覚えるのであろう。スマホを掲げ我が子の撮影に夢中。ダンスを終え勢揃い。最年少の子にインタビュー。小学1年生であったか。三人のグループによるダンス。動きが早かったが動画でないので画像は静止画になっているが。13:12見事なダンスであった。ダンスショーを約30分程見る。飲食屋台が建ち並ぶがどこも列をなしていた。並んで待つのも嫌なので帰ることに。左側には”神奈川トヨタ”も出店。13:20湘南祭ののぼり旗が立ち並ぶ。13:25人が多く、湘南祭は高齢者には・・・、よって早々に帰路に。国道134号のサザンビーチ交差点。交差点からサザン通りを北上。13:40ポルベーカリー所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖5丁目18-21途中、妻から頼まれていた鉄砲道にあるパン屋に立ち寄り購入。以前の店名は「こなふき堂」?。13:50欣ずし (きんずし)所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖2丁目3-12パンを購入後、南湖通りを北上通り沿いにある大衆食堂。昼食をとるため暖簾を潜るがあいにく準備中であった。店先にあった貼紙、「かながわSDGsパートナー登録証」 「欣ずし 殿 えぼしの雫 2022年5月26日 神奈川県知事 黒岩 祐治」2006年に国連が責任投資原則を提唱して以降、持続可能性を重視するESG投資は急速な拡大をみせている。そのような中、2015年の国連サミットにおいて、グ ローバルな社会課題を解決し持続可能な世界を実現するための国際目標である SDGs(持続可能な開発目標:Sustainable Development Goals)が採択された。今や世界中の企業がSDGsを経営の中に取り込もうと力を注いでおり、日本においても、SDGsを経営に組み込むべく様々な取組が進められている。えぼしの雫を知り合いにお土産で渡したが評判は?我が家でも購入しているが妻は料理に使用せず、時々自分で豆腐、玉子ご飯に。13:55だるま食堂所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖1丁目1-29欣ずしが準備中であったので、こちらも以前から一度寄りたいと思っていた国道1号沿いにある昭和を感じる定食屋さんである。赤い暖簾の「中華料理」、看板の「チャーハン 630円」が気になっていた。国道沿いから見ると古い感じがしていたが、店内はカウンター座敷があり広く、綺麗であった。メニューに、昼の部:11:30 ~ 15:00 夜の部:18:00 ~ 23:00定休日:毎週月曜日チャーハンも欲しかったが、メンチカツを注文。店内から国道1号を見るメンチカツ定食 1,000円 (税抜き)。キャベツが少々少なくメンチカツは揚げ過ぎの感があったが美味しかった!14:35店先から国道1号(旧東海道)の東京方面を望む。この辺りの国道はモール化され、自転車優先エリアがある。次回はチャーハンを食べたい!14:56自宅へ到着、到着時の走行可能距離は22kmであった。自転車のかごには途中で購入したパン。バッテリー残量は30%。我が愛車のリンちゃんも、令和3年(2021)3月9日に購入以来、充電も57回目になる。「ECO」モードで走っているのでフル充電で走行可能距離は94km。よって、累計走行距離は、57回 × 94km = 5,358km になる。後日タウンニュースに記載された記事 (6月2日号)。渇望の湘南祭 過去最高12万人茅ヶ崎の4大イベントの一つである「湘南祭2023」が5月27日・28日、サザンビーチちがさきで4年ぶりに開催され、延べ人数では過去最高となる12万人が来場するなど盛況を見せた。湘南祭は初めて訪れたが、若者の祭りで高齢者にはちょっとの感あり。 ENDタウンニュース 茅ヶ崎版2023年6月30日(金)号に、サザンオールスターズ 10年ぶり茅ヶ崎ライブデビュー45周年を迎え、9月27日(水)、28日(木)、30日(土)、10月1日(日)の4日間茅ヶ崎公園野球場でライブを開催すると発表したと。前回はJRも臨時電車を出して対応、茅ヶ崎市への経済効果はいかほどに! END
2023.07.09
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新型コロナウイルスの対策が緩和された今年のゴールデンウイークは、各地で3~4年ぶりにいろんなイベントが開催された。我が茅ヶ崎でも今年は茅ヶ崎市の4大イベントが開催されるとタウンニュースで報道。茅ヶ崎市の4大イベントとは、 ① 大岡越前祭:江戸時代の名奉行大岡越前守忠相公の遺徳を偲んで行われる春祭り。 ・4月29日(土)、30日(日) 4年ぶりに開催された。 ② 湘 南 祭:スポーツ・飲食等の様々な催しが行われる。 ③ 浜 降 祭:神輿が砂浜を乱舞し、茅ヶ崎に夏を告げる。 ・7月17日(月) 海の日に開催予定。 ④ サザンビーチちがさき花火大会:茅ヶ崎海岸の夜空を彩る。 ・8月5日(土) サザンビーチで開催予定。4月14日(金)号タウンニュースに『湘南まつり』4年ぶり開催へ。開催日:5月27日(土)と28日(日)の2日間場 所:サザンビーチちがさき時 間:午前10時から午後4時 (雨天決行)同イベントは、大岡越前祭の一環として1994年4月に第1回が開催され、26回目を迎える。5月27日(土) 11:24湘南祭の会場へ愛車のリンちゃんで出かけたが走行可能距離は37km。バッテリー残量は40%と、サザンビーチまでは十分に行ける残量である。11:45一中通りを南下し茅ヶ崎ヘッドランドへ。西には富士がかすかに見えていた。海岸では多くの人がBBQをやっていた。富士の頂上が見える。アウトドアレジャー用品も、折りたたみテント、搬送用カート。サイクリングロードを西へ走りサンビーチへ。この日の海は穏やかであったか。野球場前ステージ。既に湘南祭は開催されておりサザンビーチには多くの人が。12:00サザンビーチちがさき会場。サイクリングロード脇には多くの「湘南祭」のぼり旗が立っていた。パンフレット。スケートボードパークが設置されていた。一人ずつスケートボードを楽しんでいた。この子は小学校の低学年のようだったが上手くターンしていた。しばし滑り?を追う。オリンピック人気で流行っているようだが。このスポーツのプレーは30歳以前であろうか。次の出番を待つ子も若い。小学校の高学年or中学生であろうか。湘南祭会場を後にし、ハマヒルガオを見に行くことに。12:10サイクリングロードの浜見平入口。ハマヒルガオはここから東の「西浜中学校前」まで約200メートルにわたって群生している。同場所から西方向を望む。既に終盤のハマヒルガオ。今年5月4日(木)に訪れた時のブログ「茅ヶ崎海岸」👈 をクリック願います。ズームアップ。西方向の海岸は浸食対策の工事が行われていた。箱根の山並みを追う。東方向の茅ヶ崎漁港、江の島を遠望。今後茅ヶ崎市の4大イベントの”浜降祭”と”サザンビーチちがさき花火大会”が開催される会場。12:20浜見平入口から戻り国道134号の交通機動隊前交差点。信号は「交通機動隊前」。交通機動隊前交差点を渡り山側へ移動。Chigasaki BEER & Villa所在地:神奈川県茅ヶ崎市中海岸4丁目12986タウンニュースで紹介された、「作りたてクラフトビールが飲めるレストランがOPENした」と。茅ヶ崎のクラフトビールと言えば、市内北部の香川にある老舗酒蔵の熊澤酒造が手掛ける「湘南ビール」がある。ここは、地元企業の亀井工業を母体とする茅ヶ崎のクラフトビールのブルワリー(ビールの醸造所)兼ビアレストランである。国道134号から湘南祭会場へ。多くの露天商が出店していた。湘南祭の看板。サザンビーチに設置された駐輪場。多くの自転車が駐輪していた。12:35スケートボードパークでは初級者の指導が行われていた。【キッズスケートボード体験会】 1回目 12:30 ~ 13:10 土曜日・日曜日共 2回目 14:30 ~ 15:10 土曜日・日曜日共【スケートランプ滑走可能時間】 10:30 ~ 16:00 土曜日 10:00 ~ 16:00 日曜日 ー 続く ー
2023.07.08
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六月の2日(金)に右ふくらはぎが急に痛くなり整形外科へ。診察の結果は「腰部脊柱管狭窄症、右変形性膝関節症、右股関節症」と診断され、三日おきにリハビリ、良くならず現在は二日ごとにリハビリ。このため歩きまわることもままならず自宅待機で毎日ブログ作成。そんな中、庭先から「コツンコツン」と、よく見ると枯れたモチノキにコゲラが飛来。今まで度々飛来していたが、今回は巣穴を作るのか一心に木に穴を掘っていた。6月26日(月) モチノキの頂上部(黄色の丸内)に巣穴を作る。コゲラが飛来。エサの虫を探しているのか?9:30コゲラはキツツキ目キツツキ科に分類される鳥類の1種。英名は “Japanese Pygmy Woodpecker” で、日本にいる小さなキツツキの意である。木にくちばしを当て作業開始?日本最小のキツツキ森だけでなく公園などでも見られる全長15cm。日本で一番小さなキツツキ。背はこげ茶色に白い点模様(白点が続いて線に見えることも多い)が沢山あります。オスは耳羽の上あたりに赤色羽がありますが、風になびくなどしないと見えないくらい小さい羽です。握力の有る両足と尾との三点確保で、垂直な木の幹を上り下りできます。下りは頭は上にしたままの姿勢で、はねながら少しずつ落ちるように下がります。「ギイー ギイー」と聞こえる声。冬には木の幹に巣食う虫を捕らえるために穴をあけることも。春夏は木の葉につく虫を食べていることが多いです。堅い木の実を食べることもあります。日本では北海道から沖縄・西表島までの、ほぼ全国に分布・繁殖していて、渡りはしません(ネット情報)。手前の穴は利用せず、木の西側の側面をつつきだした。モチノキは2メートル程の高さで周りを気にしながら夢中で作業。他の野鳥、人の気配を感じながらの作業。嫁さんを呼び二人でコゲラの作業を追う。木片を外へ吐き出し。オスは耳羽の上あたりに赤色羽があるようだがこのコゲラは?。口の中には木片が残る。部屋から5メートル程だが。頭が入る深さまで掘る。上半身を穴に入れ作業。外に出て木片を外へ吐き出していた。9:4010分ほど作業を追ったが、この後コゲラはどこかへと飛び去った。11:25昼前に再度飛来し作業を続ける。コゲラの周りには木片が飛び散っていた。体の半分以上が穴の中に。木片だらけのくちばしをズームアップ。くちばしに木片。口を開けているがさえずってはいなかった。モチノキは脇芽が出ているが上部は枯れている。こんな場所を巣穴にするのか。器用に穴の中に入り込み作業。既に大きな穴になっているようだ。時々木の周りをつつき「コツンコツン」と。ズームアップ。木片が飛び散る。穴の中を覗き込むコゲラ。11:40今回も15分ほどの作業で飛び去った。13:15昼食後、木を見ると飛来し作業をしていた。くちばしに木片。体のほとんど入る状態に。木片が飛び散っていた。体全体が穴の中に入いり尾っぽのみが。13:20穴から出るコゲラ。16:50夕方見ると巣穴の中からコゲラが頭を出していた。体を乗り出し周辺の安全を確認しているのか。6月27日(火) 13:25翌日見ると丸い穴が開いていた。木の下には木片が散乱しており隣の嫁さんは「木片は?」であったと。6月28日(水) 18:20薄暗くなった夕刻にコゲラが飛来していた。数分後よく見ると巣穴の中から頭を出していた。卵を産み子供を育てるのであろうか。楽しみである。 END
2023.07.07
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新型コロナウイルスの対策が緩和された今年のゴールデンウイークは、各地で3~4年ぶりにいろんなイベントが開催されていた。我が茅ヶ崎でも今年は茅ヶ崎市の4大イベントが開催されるとタウンニュースで報道。撮影枚数が少なかったが「茅ヶ崎市の4大イベント」の一つであるので今回まとめたブログ。茅ヶ崎市の4大イベントとは、 ① 大岡越前祭:江戸時代の名奉行大岡越前守忠相公の遺徳を偲んで行われる春祭り。 ② 湘 南 祭:スポーツ・飲食等の様々な催しが行われる。 ③ 浜 降 祭:神輿が砂浜を乱舞し、茅ヶ崎に夏を告げる。 ④ サザンビーチちがさき花火大会:茅ヶ崎海岸の夜空を彩る。朝日新聞の地方版で報道された記事より、「湘南祭、浜降祭などと並ぶ、市の4大イベントの一つである「大岡越前祭」に ついて、茅ヶ崎市は4月29日(土)・30日(日)に行うと発表。2019年以来、4年 ぶりの開催となる」と。写真は2019年に行われた同祭の越前行列で大岡越前役として騎乗した佐藤光市長。大岡越前祭茅ヶ崎の春の風物詩として知られる同祭は、大岡家5代目当主で「江戸の名奉行」忠相公の数々の功績に対し、1912年(大正元年)に従四位が贈位されたことをきっかけに「大岡祭」の名で始まりました。関東大震災や第二次世界大戦の影響による中断を経て、56年に復活し、94年から現在の名称となっています。大岡越前祭は、4月29日(土)・30日(日)の両日行われる。メイン会場は、29日(土)が浄見寺、30日(日)が茅ヶ崎駅周辺です。浄見寺地元まつり 4月29日(土) 10:00 ~ 14:30 場 所:浄見寺 所在地:神奈川県茅ヶ崎市堤4317 ● 大岡鍋の販売(限定100食) ゆかりの町「岡崎市」の八丁味噌と、茅ヶ崎産の新鮮野菜を使った鍋の販売。 ● 墓前祭 15時より【茅ヶ崎駅南口周辺の交通規制について】令和5年4月30日(日) 12時30分 ~ 15時の間、茅ヶ崎駅周辺は交通規制がある。茅ヶ崎駅から見て南口の鉄砲通りまでの道(雄三通り・高砂通り・サザン通り)と、北口の国道1号線までの道(茅ヶ崎駅前・一里塚通り・新栄町・エメロード)が交通規制エリアです。4月30日(日) 14:20ビッグパレードが終了する間際に愛車のリンちゃんで自宅を出発。茅ヶ崎中央公園に駐輪して駅前へ移動。茅ヶ崎中央通りに架かるふれあい橋上から西側の茅ヶ崎市役所広場を見下ろす。茅ヶ崎市役所広場では青空マルシェが営業。ふれあい橋から南方向の国道1号、茅ヶ崎駅。14:27ヤマダデンキ東側の交差点。正面は茅ヶ崎駅北口。ビッグパレードはここを右に廻りヤマダデンキ前を行進。ビッグパレードのルート。 13:00 ~ 出発式 茅ヶ崎小学校 15:00 頃 終点 ルートは約1キロであろうか。大岡越前祭のビッグパレードは、13時に茅ヶ崎小学校を出発。パレードには吹奏楽部も数校参加。茅ヶ崎小学校を出発する「神奈川県立 湘南台高校吹奏楽部」。茅ヶ崎駅南口前を行進する「神奈川県立 湘南台高校吹奏楽部」。イトーヨーカ堂前に掲示されていた「第68回大岡越前祭御芳名」。御芳名(敬称略)一金、二十万円也 亀井工業ホールディングス㈱、大村紙業㈱、日本精麦㈱、㈱アルバック いずれも茅ヶ崎における有名企業である。一金、十二万五千円也 茅ヶ崎金融協会一金、十万円也 ㈱カギサン、㈱鎌倉まめや、㈱湘南山鉄、茅ヶ崎市役所部課長連絡会、東邦チタニウムG、 ㈱フジプロ、文教大学 湘南校舎、㈱ミヤザワ、ラスカ茅ヶ崎一金、九万円也 ㈱イトーヨーカ堂茅ヶ崎店・・・以降略茅ヶ崎駅北口のバスロータリーをズームアップ。ビッグパレードは右側奥のエメロードから行進してくる。目の前をパレードしていた「GRES アカデミコス・ダ・グローリア」の踊り子さん。沿道の来場者の多くはマスクを装着。パレード終点近くのエメロードを行進する「GRES アカデミコス・ダ・グローリア」。軽四には「湘南支部 日本一輪車協会」の横断幕。子供達が一輪車に乗り行進してきた。パレード最後のグループのようだ。ズームアップ。綺麗な衣装を着て器用に乗っていた。小中学生の子供達であろうか。一輪車の上で綺麗に舞っていた。ドレスが車輪に絡みつくのではと思いつつ。小学低学年の子供達であろう。グループ後方には椅子が高い一輪車。椅子の高さが2メートルであろうか。露天商も多く出店していた。パレードを終了し帰路につく「越前行列」のメンバー。かつての越前行列は俳優の「加藤剛」が馬に乗り大岡越前に扮していたが。久しぶりに露天商を見る。大きなジャガバターを販売していた。一個600円。こちらは、たこ焼きで一個600円。「体にやさしい オリーブオイル 焼きあげました」。大きなたこが入っているようで美味しそうだったが、どの露天商も長い列。こちらは広島焼のお好み焼き。4年ぶりの開催で皆さん楽しみに露天商の味を楽しんでいたが物価高でどれも600円に!露天商の裏側。近くに駐輪場があり現役時代は駐輪していた場所である。パレードを見終え帰路に。店頭の看板には「本日の貴金属相場 24金 9,350円、プラチナ 5,025円」と。国道1号の茅ヶ崎駅前交差点。のぼり旗には「都まんじゅう」と。茅ヶ崎中央通りに架かるふれあい橋上から東側の工事現場を見る。右側は「湘南ふれあいの園」所在地:神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎2丁目2-3介護付き有料老人ホームで、茅ヶ崎中央病院を隣に備え万全の医療体制を整えている「湘南ふれあいの園」。四季の食材を使ったオリジナルメニューや、生活スペースを最優先したゆとりある空間が魅力であると。因みに入居時費用 1990万円~、月額費用 21.6万円~。東側にも建設していたが・・・。その工事現場のフェンスに設置されていた、騒音、振動値。15:15茅ヶ崎中央通りに架かるふれあい橋の西側右に東横イン、茅ヶ崎市役所。4年ぶりに開催された第68回茅ヶ崎大岡越前祭には延べ約3万6千人が来場したと。 END
2023.07.06
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小田原北條五代祭りを見た後、電車の混雑を避けるため駅近くの寺社を訪れた。5月3日(水) 15:35今正山 大乗寺 (だいじょうじ)所在地:神奈川県小田原市栄町2丁目5-21日蓮宗寺院の大乗寺は、今正山と号します。大乗寺は、玉泉院日養上人(慶長17年1612年卒)が開山となり、慶長6年(1601)に創建したといわれる。門前左側に苔むした寺号標石の台座に「大乗寺」。門を入ると正面に本堂。本堂前には2基の石燈籠が立ち「今正山 大乗寺」。左側の立札には「精霊施餓鬼供養会 毎月八日」。本堂の扁額「今正山」。本堂からぶら下がる飾り。扉が開いていたので内陣を見る。本堂前から境内を振り返る。本堂左側の墓地へ進む。正面右は本堂。石碑には「妙法 當山開山日養聖人歴代之墓 中興 祥眞院日〇 建之」と。石碑の裏には、「養師創設幾星更 歴世高僧後薫栄 合〇荘厳梅樹下 大乗風池聖人房 波木井楓暁 昭和十七年七月十五日」。石碑の右側一段高いところに墓石が建つ「當山歴代聖人之墓」他。本堂左側に建つ六角堂。六角堂の中に立つ観音菩薩であろうか。説明板がなく詳細は不明。第六天社本地釈迦如来。木造の立像で像高は5寸 (約15cm)、伝教の作とされていた。祭礼は6月8日と毎月15日で、神事があり、竹花町(栄町)の産神とされていた。階段を上ると右側に手水舎の中に石仏。右側の枝垂れ桜も開花時には目を楽しませてくれると。手水舎の前からの第六天社。第六天社の扁額「第六天」。内陣を見る。覗窓があったが・・・。境内に建つ「末社・六浦明神」であろうか。六浦明神は、疱瘡 (天然痘) の守護神とされていた。本堂前から境内を見下ろす。正面に「末社・六浦明神」。境内は参拝者の駐車場。今正山大乗寺から、錦通りへ戻り小田原駅へ向かう。道路脇に「たかべや」の地名石碑が立っていた。酒場にはパレード帰りの人で混雑していた。祭りによる経済効果も・・・。高部屋 (たかべや)稲葉氏時代、ここ鷹匠(たかじょう)の屋敷が設けられていたため、この地は「鷹部屋」「高部屋」などと呼ばれていた。しかし、江戸時代中期以降は、専ら侍屋敷となっていた。小田原市エリア ジオサイト戦国時代より城下町として栄えてきた箱根ジオパークの玄関口。歴史の舞台となった小田原城や石垣山一夜城には箱根火山の活動による熔岩が石垣として使われ、当時の地質資源の利用や日本の歴史の一端に触れることができるエリアです。小田原北条氏 VS 豊臣氏の小田原合戦を知るコース (所要時間4 ~ 5時間)。おしゃれ横丁の案内図。錦通りを進むと正面左に、ミナカ小田原、右にラスカ小田原。途中地下街に入り、「ハルネ小田原」。小田原駅東口のバスターミナルの地下にある地下街。地上の小田原駅や駅ビルであるラスカ小田原とも通路で直結している。ハルネ小田原は、「地域資源を集めた経済活性化の拠点」を目指しており、開業時の24店舗のうち17店舗が地元の小田原市内の事業者によって出店された。主要な通路の床面に小田原市内の見どころを紹介する地図を埋め込んだほか、かまぼこ板をイメージしたカラフルなベンチのある広場など施設面でも地域色を打ち出している。また、公共・公益的施設も入居している。地下街からエスカレーターで上り、小田原駅や駅ビルであるラスカ小田原と直結している。16:00JR東海道本線、小田急線のコンコースへ。まだ時間が早かったので「金次郎広場」へ行くことに。連絡通路からペデストリアンデッキを振り返る。ミナカ小田原の三階にある金次郎広場はパレード帰りの人で混雑していた。14階にある足湯へのエレベーター乗り場も長蛇の列。3・4・14F 専用EV足湯 展望足湯庭園の営業時間 朝 10:00 ~ 夕 20:00。JR東海道本線改札口ヘ戻る。改札前から海側の東口方向を見る。コンコースにはまだ北條五代祭りパレード帰りの人が多くいた。この後、混雑する16時11分発の高崎行き電車へ乗る。16:42 茅ヶ崎駅へ到着。混雑した車内では、新型コロナ対策のマスク装着は75%ぐらいであったか。茅ヶ崎駅北口のペデストリアンデッキ。ペデストリアンデッキからラスカ茅ヶ崎の北側を見る。17:00居酒屋「ホームラン」所在地:神奈川県茅ヶ崎市元町3-10 (進和第3ビル)昼食も軽食であったのでお腹が空き居酒屋へ立ち寄ることに。開店前であったが開けて頂く。いろんなメニユーがあったが一人で飲むとシェアできないのがデメリットである。複数人だと多くの品をオーダーしシェアでき、いろんなものが食べれる。ホッピーセット、アジフライを注文。お通しでサラダ付き。食べ物は、お通しのサラダがあったので追加で餃子を注文。約1時間ほど飲み帰ることに。17:55国道1号(旧東海道)の東京方面。この辺りの街道には松並木が続いている。愛車のリンちゃんを駐輪していたイオンに立ち寄る。入り口横にモニュメント。翌日の、2023年5月4日(木) 付朝日新聞朝刊より。武者隊700人を含む約1,600人が約2.1キロのパレードに参加し、コロナ前と同じ規模の祭りが復活。市によると、祭りの人出は26万人で、2017年の25万人を超えて過去最多となったと。この日の歩数は、久しぶりに歩き回った16,400歩であった。このブログを書き込んだ6月23日は、6月3日(土)に突然右足のふくらはぎが痛くなり歩けず、現在は、週三日のリハビリ。健康で歩けたことを今更のように感謝! END
2023.07.05
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お堀端通りで再度パレードを楽しむ。この辺りは小田原駅に近いので沿道には人が多かった。5月3日(水) 14:50お堀端通りを「五代北條氏直公隊」ののぼり旗が南下してくる。北條氏直役の柳沢慎吾さん馬上で沿道からの「慎吾!」の声で振り返る人気者の柳沢慎吾さん。私の側からはかけ声がかからなかったのでこちらを向くことなく通過した。仕方がなく後姿を追う。14:55「三、武者隊 先駆け軍団」のパレードが終了。撮影ポイントを「そば処 小田原橋本」から小田原駅方向へ移動。「四、まち衆隊」のパレード。ここからは、なりわい交流館前で見ていなかったので始めて見るパレードである。四、まち衆隊広報車小田原ばやし 小田原囃子多古保存会鳶行列 小田原鳶職組合みこし 松原神社明神會・山王神社氏子神輿會・大稲荷神社氏子神輿會 ・居神神社神輿保存會・下府中富士見神輿連合會パレード終了 横断幕 ガールスカウト神奈川県西湘地区まち衆隊は、13:55頃 三の丸小学校前から出発している。神奈川県指定無形民俗文化財「小田原ばやし」の車両。後方には幸田門の三の丸土塁の木が聳える。この先はお堀端通りの栄町交差点。パレードはこの交差点を右側から来ていた。小田原鳶職組合による「鳶行列」纏(まとい)には「一番」。纏とは、江戸時代に町火消の各組が用いた旗印の一種。各組により様々な意匠が凝らしてある。概ね、上部に組を表す頭があり、馬簾 (ばれん、上部から垂れ下がった細長い飾り) と呼ばれる紙や革製の房飾りがついて、手に持って振り上げたり回転させると踊るようになっている。下部は木の棒の柄になっている。重量は15-20キログラム前後とかなり重いもので、担いで走ったり持ったまま梯子に登る、屋根の上で振り回す等の取り扱いには、かなりの腕力が必要である。一番から四番までの纏の技を楽しんだ。鳶行列の後は5基の「みこし」の登場であると。行列間の時間がありしばしお堀端通りには観光客があふれる。軽四には「小田原御輿連絡協議會」の横断幕。神輿は三の丸小学校前から出発したのであろうか。一番目は、「賀茂神社」の神輿。二本の棒で担ぐ二天棒の神輿。神輿の傍には下府中連合會の小田原提灯。担ぎ手の先頭には「統制」と書かれたたすきをかけて誘導。二番目の「居神神社」。二本の棒で担ぐ二天棒の神輿でかけ声とともに。スマホで追う観光客。栄町交差点の角を勢いよく廻ってくる御輿。ズームアップ。重量感あふれる神輿である。三番目の「大稲荷神社」。提灯には「氏子 神輿連合會」。裃(かみしも)を着た方には「大稲荷神社」と。裃は江戸時代の武士の正装で、登城の時などに着ていた。 小袖の上に着る袖のない肩衣(かたぎぬ)と袴を合わせて裃と呼びますと。栄町交差点には四番目の神輿が現れる。担ぎ手のたすきには「大稲荷神社氏子神輿會」。この神輿は重量感があるので二天棒の両サイドに棒が一本づつ増える四天棒の神輿であるようだ。かけ声とともに担ぐ大稲荷神社の神輿をズームアップ。四天棒の神輿であるので担ぎ手が多い。お堀端通りを馬出門方向へ南下する大稲荷神社の神輿。四番目の神輿は「山王神社」。担ぎ手が多くこの神輿も四天棒の神輿。神輿には「山王社」、提灯には「山王神社」と。山王神社の神輿が通り抜ける。最後の神輿が栄町交差点を廻って来る。神社役員の先導で五番目の「松原神社」の神輿。神輿の前には大漁旗が二本。小田原提灯には「松原神社明神會 会長」と。五基の神輿の中で一番重い神輿であるようだ。この神輿も担ぎ手が多く四天棒の神輿。最近は担ぎ手が少なく大変であるので重量を下げているようだが。神輿には「本社」、提灯には「松原神社」と。神輿の重量は、重量は500キログラム、担ぎ棒込みで1トンを越えるものも珍しくない。 一般的には、本社神輿>町会大人神輿>女神輿または子供神輿の順に大きい。因みに日本で一番重い神輿は重さは2トン。 実際にもまれる(担がれる)神輿として、日本で最重量を誇るのが、「下館祇園まつりの平成神輿」である。 幅は約1.4メートル、高さが3.5メートル、担ぐ棒の長さは縦7メートル、横6.4メートルにもおよびますと。松原神社の神輿を追う。お堀端通りを南下する松原神社の神輿。15:10パレード終了 横断幕 ガールスカウト神奈川県西湘地区横断幕には「きらめく城下町 小田原北條五代祭り パレード最後尾」と。 パレード見終え、錦通り入口交差点からラスカ小田原ビルを見る。お堀端通りにはパレードを見終えた多くの人が帰路についていた。帰宅の人で電車が混雑するであろうと予測して、この後小田原の寺社を訪れた。一方通行の東通りを北方向へ進む。多くの飲食店があったがどこも混雑していた。守谷製パン店所在地:神奈川県小田原市栄町2丁目2-2名物のあんぱんが美味しく出かける時妻に頼まれ立ち寄ったが売り切れで閉店。道路脇の電柱には「駅前東通り商店街」と。前方信号は、東通り入口交差点。ここを左折すると線路を潜り小田原駅西口へと進む。15:30東通り入口交差点から、駅前東通り商店街を振り返る。直進すると小田原駅の東口へ。 ー 続く ー
2023.07.04
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引き続き、小田原なりわい交流館周辺で北條軍団のパレードを追う。5月3日(水) 14:15五代北條氏直公隊ののぼり旗が旧東海道(かまぼこ通り)へ出てくる。五代北條氏直隊。北條氏直公 柳沢慎吾 (俳優・小田原ふるさと大使)北條氏直隊 小田原・足柄地域労働者福祉協議会韮山城主 北條氏規隊 小田原・足柄地域労働者福祉協議会 小田原高校放送部 伊豆の国市手作り甲冑隊小荷駄隊 小田原市職員互助会風魔忍者隊 相州乱破衆「風魔」馬上に乗った北條氏直役の柳沢慎吾さんが登場。沿道に手を振る北條氏直役の柳沢慎吾さん。北條氏直は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。相模国の戦国大名で小田原城主。後北條氏の第五代当主である。父は北條氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北條氏の最大版図を築き上げたが、外交の失敗で豊臣秀吉による小田原征伐を招き、後北條氏の関東支配は終焉を迎えた。俳優で小田原ふるさと大使の柳沢慎吾さん。沿道からの「慎吾!」の声で振り向き「今夜はいい夢見ろよ」の決めゼリフを叫んでいた。馬上から指をさして叫んでいた。柳沢慎吾さんは日焼け止めのクリームを塗って騎乗していた。14:17五代北條氏直公隊が通過。人気者だけに皆さん沿道からスマホで撮影。氏直公が通過後、後続部隊が続いていたが次の撮影ポイントへ移動することに。近くに鎮座している「松原神社」所在地:神奈川県小田原市本町2丁目10-16当神社へは旧東海道を歩いた時(2019年12月4日)、すでに立寄ったことがある。その時のブログは「小田原宿」👈 をクリック願います。社号標石には「松原神社」。松原神社の一の鳥居。創建の時期は不明。かつては鶴の森明神、松原大明神等と呼ばれていた。後北條氏が社領を寄進するなどして崇敬した。稲葉氏、大久保氏からも崇敬され、小田原宿の総鎮守とされた。1869年(明治2年)に松原神社と改称し、1873年(明治6年)1月に県社に列せられた。手水舎、階段を上り二の鳥居、社殿。パレードを追うのでこの日はここで引返し、後日再度参拝することに。松原神社の海側にパレードコースの旧東海道(かまぼこ通り)。小田原城 大手門跡所在地:神奈川県小田原市本町1丁目5-25江戸時代初期の小田原城の大手口は箱根口だったが、稲葉氏の時代に江戸に向く現在の場所に移されている。また、大手門跡の石垣の上には、大正時代に移設された時の鐘があり (現在の鐘は昭和28年製)、現在でも午前6時と午後6時に鐘を打ち、市民に時を知らせている。大手門跡前から小田原城址を望む。鐘楼の下に置かれていた子供用の神輿。子供用の神輿をズームアップ。奥には一回り大きい大人用も置かれていた。北條五代祭りの開催で担いだのであろう。神輿の担ぎ棒棒の名前は神輿の台座を通っている二本の棒を、親棒・台棒・心棒とか言います。これだけしかないお神輿を二天棒(の神輿)と言います。その二天棒の両サイドに棒が一本づつ増えると四天棒(の神輿)と言い、その両サイドの棒のことを添え棒とか脇棒とか呼びます。更にこの四本を横に繋ぐ棒を横棒とかトンボと呼びます(ネット情報)。よってこの神輿は「四天棒の神輿」であろう。14:25大手門跡からパレードコースのお堀端通りへ戻る。沿道には多くの人が座り込みパレードを待っていた。お堀端通りを小田原駅方向へ移動。沿道の両側に多くの人が座る中を「武者隊 先駆け軍団」が行進していた。横断幕には「北條手作り甲冑隊」。なりわい交流館前からここまで約35分行進している。小田原駅方向へ進み「そば処 小田原橋本」前を通過する甲冑隊。後半はここで撮影することに。北條早雲公役の俳優 合田雅史さん。パレード開始から1時間近い乗馬ご苦労様です。馬の手綱を持つのは女性。そば処 小田原橋本前を通過する早雲公。ズームアップ。後方には早雲公の兜を掲げる武者。この荷物は、馬糞処理用?火縄銃を持った「二代北條氏綱公隊」。二代北條氏綱公。北條氏綱公の馬の後にもカートが続く。鎌倉市 玉縄城址まちづくり会議。玉縄城主 北條氏時隊。そば処 小田原橋本北條氏康隊 小田原市役所職員互助会。女性が演じる三代 北條氏康公。1時間近く馬上で揺られるが笑顔で沿道に応える。のぼり旗には「北條左京大夫氏康 小田原北條三代」。旭丘高校の隊列が続く。再度お堀端通りで、四代北條氏政公役の高嶋政伸さんを見る。ズームアップ。馬上から360度笑顔を振りまき、俳優も大変だ!最後の御尊顔を拝する。北條氏政公役の高嶋政伸さんを見送る。火縄銃を持つ北條氏政公隊。14:50北條氏政公隊の後方部隊。 ー 続く ー
2023.07.03
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引き続き、小田原なりわい交流館周辺でのパレードを追う。5月3日(水) 14:05いよいよ北條軍団の登場で「初代 北條早雲公隊」ののぼり旗。初代 北條早雲公隊北條早雲公 合田雅史 (俳優・小田原ふるさと大使)北條早雲隊 一般公募 LIBERTY小田原日本語学校 ときめき国際学校OB 西湘日中友好協会小荷駄隊 小田原市職員互助会のぼり旗を持つ北條早雲隊の「ときめき国際学校OB」。北條早雲公役の俳優 合田雅史さん。北條早雲 / 伊勢 宗瑞は、室町時代中後期の武将。戦国大名となった後北條氏の祖・初代である。「北條早雲」の名で知られているが、実際は存命中には「伊勢」を名乗っていた。街頭からの声に手を振る合田さん。後方には、北條早雲隊「西湘日中友好協会」ののぼり旗。馬は二人の人が手綱を引いていたが合田さんは乗馬経験があるのか。余裕をもって馬上におられたが・・・。手元にマイクがあったのであろう本人の声が聞こえてきた。北條早雲公の後を追う。北條早雲公の後に続く、早雲公重臣団。なりわい交流館の角に次の隊ののぼり旗「二代 北條氏綱公隊」が登場。二代 北條氏綱公隊は小田原市自治会が中心。北條氏綱は、戦国時代の武将、戦国大名。後北條氏第二代当主。 伊豆国・相模国を平定した伊勢宗瑞の跡を継いで領国を武蔵半国、下総の一部、そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる。「二代北條氏綱公隊」ののぼり旗を持つ軍団。馬上に乗った「二代北條氏綱公」が登場。のぼり旗には「北條新九郎氏綱」と。北條氏綱公は「小田原市自治会総連合」の役員であったか。玉縄城主 北條氏時隊。のぼり旗には「鎌倉市 玉縄城址まちづくり会議」と。北條氏時公は歩いて参加。氏時公は北條二代氏綱の弟で鎌倉の玉縄城主であった。北條長綱隊長綱公は北條二代氏綱の弟で国際医療福祉大学の学生が参加。次の隊は「三代 北條氏康隊」。のぼり旗には「小田原市役所 職員互助会」と。三代 北條氏康公は「はたちのつどい運営委員」の女性。第二代当主・北條氏綱の嫡男として生まれる。母は氏綱の正室の養珠院。姓名は平氏康。関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。後北條氏当主として十九年間、隠居後も後継者である第四代当主北條氏政との共同統治を十二年間続け、三十年以上にわたって後北條氏を率いた。どうどうと乗馬の三代北條氏康公役の女性。この女性も乗馬経験があるのか。手綱を引く人も女性だけに気を使って。のぼり旗には「北條左京大夫氏康 小田原北條三代」。相洋高校の川越城主 北條綱成隊。のぼり旗には「川越火縄銃 ○○隊」と。 津久井城主 内藤康行隊。先頭ののぼり旗には「津久井衆甲冑隊」、後方には「津久井城主 内藤左近将監康行」と。津久井城主 内藤康行隊の後方部隊。続いて華やかな「北條五代姫隊」ののぼり旗。後方には、旭丘高校の「北條氏康正室 瑞渓院(今川氏親娘)」。西湘高校の「北條氏政正室 黄梅院(武田信玄娘)」。曲がり角には小田原短期大学の「北條氏直正室 督姫(徳川家康の娘」隊が続く。北條五代姫隊の後方。四代北條氏政隊北條氏政 高嶋政伸 (俳優・NHK大河ドラマ「真田丸」北條氏政役で出演)北條氏政隊 旭丘高校八王子城主 北條氏照隊 八王子観光コンベンション協会 八王子城跡三ツ鱗会鉢形城主 北條氏邦隊 埼玉県寄居町鉢形城三鱗会小荷駄隊 小田原市職員互助会先頭は「四代北條氏政公隊」ののぼり旗。次いで角には「小田原北條四代 北條左京大夫氏政」ののぼり旗。馬上から身を乗り出し声援にこたえる、北條氏政公役の高嶋政伸さん。北條氏政は、戦国時代の相模国の戦国大名・武将。は北條氏康、母は今川氏親の娘・瑞渓院。今川義元の甥にあたる。子に北條氏直など。正室の黄梅院は武田信玄の娘で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたる。通称は新九郎で、官位の左京大夫または相模守も同様に称した。高嶋政伸さんは、NHK大河ドラマ「真田丸」で北條氏政役を演じたことで参加している。沿道からの声援にこたえ振り向いて手を振る。目の前を通過。甲冑の重さは軽いのであろうがパレードの間、馬上で対応するのも重労働であろう。北條氏政公の後方を追う。沿道には多くの人が。馬の後方ではカートで荷物を運んでいたが。スマホで撮影、知人に送信しているのであろうか。14:12四代北條氏政隊の中には、八王子観光コンベンション協会の「八王子城主 北條氏照隊」。馬上の八王子城主 北條氏照公役は女性。北條氏照隊の八王子城跡三ッ鱗会の一行。太刀を持つ武者隊が続く。パレード者の説明がスピーカーから流れていたが。引き続き「鉢形城主 北條氏邦隊」が続く。馬上に「鉢形城主 北條氏邦公」。北條氏邦公役は、埼玉県寄居町鉢形城三鱗会が務める。小田原市職員互助会の小荷駄隊が続く。14:15小荷駄隊 (こにだたい)小荷駄とは、中世から近世にかけての日本において、戦争のために必要な兵粮や弾薬、陣地設営道具などを運ぶための人夫・駄馬、及びそれを率いる部隊「小荷駄隊」のこと。現代の輜重隊に相当する。ロシアのウクライナ侵略では「兵站(へいたん)システム」と。 ー 続く ー
2023.07.02
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パレードが開始される時間になったので撮影ポイントに決めていた「なりわい交流館」へ。5月3日(水) 13:25国道1号の本町交差点。旧東海道は直進、国道1号は左折。交差点右側に目的地の「小田原宿なりわい交流館」がある。旧東海道には大きな山車が出ていた。交差点脇に「宮前町」の地名石碑が立っている。宮前町 (みやのまえちょう)小田原北条氏時代、この町は上町、下町に分かれていたと伝えられている。江戸時代には、町の中央に城主専用の出入口である浜手門と高札場(幕府の法令などを掲示する場所)があり、同時代末期 町内には本陣二、脇本陣二に旅籠が二十三軒ほどあって、隣の本町とともに小田原宿の中心であった。和菓子屋の伊勢屋 本店所在地:神奈川県小田原市本町3丁目6-22創業昭和十年の小田原の和菓子。前回は木曜日で定休日であったのがこの日は営業。小田原駅ビルのラスカにも出店している。店先に立っていた看板。名物 豆大福 新潟県産もち米 100%。北海道小豆と赤えんどう豆、沖縄の命の塩「ぬちまーす」 使用。心を込めて毎日手包みしております。生ようかん 小田原の恵みが詰まった手作りようかん。余計な添加物を使用しない自然の味を お楽しみ下さい。 片浦レモンの生ようかん ノーワックス、防カビ剤不使用の片浦レモンの手搾り果汁と果肉、皮で作りました。 小田原産キウイの生ようかん エコ栽培で丁寧に育てられた小田原キウイがたっぷり。種の食感もお楽しみ。 小田原産梅の生ようかん 小田原特産物「小田原梅」と国産生姜使用。風味豊かな大人の味です。 いちご大福 冬のお菓子の一番人気。 2Lサイズの苺と北海道産小豆を使用したつぶしあん入り。苺の甘酸っぱさと甘 さ控えめなつぶしあんが良く合います。いなり寿司 創業から変わらぬ味 創業当初からのたれを継ぎ足し、変わらぬ味を守り続けております。揚げにしっ かりと味が浸み込み、甘さとコクのあるとても美味しいいなり寿司です。昭和十年、初代大矢平作が横須賀の伊勢屋で修業したのち、ここ小田原で創業した。戦争中の休業を乗り越え、今も創業時と同じ場所で朝餅をつき、小豆を炊いていると。どれも美味しそうなものであったが、昼時も過ぎパレードも始まるので、昼食で「いなり寿司」を食べることにし、いなり寿司、赤飯にぎり、豆大福を購入した。なりわい交流館の西側に建つ、伊勢屋。小田原宿なりわい交流館所在地:神奈川県小田原市本町3丁目6-23この建物は昭和7年に建設された旧網問屋を再整備し、平成13年に開館した公共施設である。1階はお休み処や観光情報のコーナー、2階はイベントスペースとなっており、無料休憩所でお茶のサービスもある。この日はパレードコースになっているので多くの観光客が訪れていた。軒先の看板「小田原宿 なりわい交流館」。なりわい交流館内にもパレードを待つ人が多く待機していた。無料のお茶のサービスもある。昼食代わりに購入した伊勢屋のいなり寿司、赤飯にぎり。豆大福もお土産に購入。座敷もある無料休憩所。ドリンクも販売していたので、神奈川限定販売の「SHONANN GOLD ENERGY」を購入。SHONANN GOLD ENERGY 200円なりわい交流館前の人通り。なりわい交流館前。パレードは交流館の東側を通りここを左へ進む角地。従って斜め右方向の位置から撮影することに。右側になりわい交流館。この辺りでは、「鉄砲演技、忍者パフォーマンス (3チーム)」が行われる。時 間:12:45 ~ 13:35残念ながらこの忍者パフォーマンス(3チーム)は見れなかった。パレードコース現在地は、真ん中下の「なりわい交流館 (矢印)」。【先導役、音楽隊・武者隊・まち衆隊コース】 約2.1km (赤線) 【吹奏楽隊コース】 約1.0km (緑線)パレード隊列編成パレード時間 13時30分 ~ 15時20分頃この場所では、マイクによる編成隊の説明がされていた。国旗 ボーイスカウト小田原地区協議会。市旗 ガールスカウト神奈川県第13団。パレードはなりわい交流館の手前を来てここでⅬ字型に曲がる。小田原観光大使 (団体) 湘南ベルマーレフットサルクラブ。湘南ベルマーレフットサルクラブの選手。有名選手もいるのか?。外国人選手であったか。のぼり旗には「北条之忍び 風魔一党」と。忍者風魔小太郎隊。少年少女武者隊のぼり旗には「小田原市内こども会」。子どもたちも甲冑をつけて参加。多くの少年少女が参加。長刀を持つ少女武者隊。少年武者隊は甲冑で身を固め。長刀を持つ少女武者隊。横断幕には「小田原 北條手作り甲冑隊 平成30年度市民功労賞受賞記念」と。のぼり旗を持つ、北條手作り甲冑隊。北條五代ののぼり旗を持つ甲冑隊。初代:北條早雲、二代:北條氏綱、三代:北條氏康、四代:北條氏政の幟。年配者、子供も甲冑で身を固め。観光客の人は路面に座り込む人も。折りたたみの椅子持参も良いのでは。男性、女性の混成隊も。多くの武者隊が目の前を通過したが後日の新聞報道では武者隊は700人であったと。甲冑は手作りであるようだ。横断幕には「「北条五代」を大河ドラマに!」と。北条五代観光推進協議会。横断幕の後方には北条五代に関係する都市のたすきをかけた参加者。小田原市、三島市、八王子市、伊豆の国市、横浜市、寄居町、伊豆市、・・・。ラジオ・テレビ宣伝隊。後方は、FM ODAWARA、 FM YOKOHAMAのプラカードを持った女性群。先頭の女性のタスキには「日本コロンビア」と、歌手であろうか。後方は「箱根芸者 ○○」と。14:05後方角に「初代 北條早雲」ののぼり旗。 ー 続く ー
2023.07.01
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老舗”ういろう”の見学を終え向かい側の「ちん里う」へ。5月3日(水) 12:40欄干橋 ちん里うういろうの向かい海側に建つ老舗で、この後箱根口交差点を渡り訪れる。小田原駅前には「ちん里う本店」があり、三宅裕司が”ふるさと探訪”で訪れた明治4年創業の老舗である。現在は5代目の女将で旦那さんはドイツ人とか。おみやげには「ほととぎす巻」をと!。箱根口交差点の箱根側にある、箱根口ガレージ 報徳広場。欄干橋 ちん里う所在地:神奈川県小田原市本町4丁目2-37明治4年(1871)創業の老舗で梅干し、佃煮、梅酒等を販売している。また、店内には梅干しの種で作ったおもしろい工芸品や、梅の木の種類ごとの種の標本なども展示してあるほか、150年前に漬けた梅干しも並んでいる。店先の看板「黄梅菴 (おうばいあん)」。前回、お土産で佃煮を購入し美味しかったので、今回も立寄り購入した。店内の説明文がわからず店主の奥様と話をし資料を頂いた。立札には「三年漬梅」此の梅干は、皮が絹肌の様に柔らかくきれいで、種子が小さく肉が豊かなおいしい小田原梅を、盛夏の炎天に三日三晩土用干しをした后、適当な湿度と低温の暗い蔵の中に三年間漬け込んだものでございます。 小田原 ちん里う梅干製造図梅長寿之心得 人生は六十才から一、七十歳でお迎えの来た時は只今梅を喰っていると云へ一、八十歳でお迎えの来た時は梅干の種をしゃぶっている所だと云へ一、九十歳でお迎えの来た時は種の中の天神さんを喰う所だと云へ一、百歳でお迎えの来た時は頃合を見て自分から種の中に入る所だと云え梅干の唄二月・三月花ざかり ウグイス鳴いた春の日の 楽しい時も夢のうち五月・六月実が成れば 枝からふるい落とされ 近所の町へ持ち出され 何升何合量り売り もとより酸っぱいこの私 塩に漬かってからくなり シソに染まって赤くなり七月・八月暑いころ 三日三晩の土用干し 思えば辛いことばかり それでも世のため人の為 しわは寄っても若い気で 小さい君等の仲間入り 運動会にもついてゆく ましていくさのその時に なくてはならない このわたし九月・十月秋の日々 山はもみじやかえでが色づいて 里の庭々秋の声 ふたたび仲間は おにぎりやシソに 巻かれて旅に出る わたしはさびしく樽の中十一・十二のこの月に 山には雪がちらちらと 里には木枯らし吹き荒れて 庭でペッタンペッタン餅をつき 樽の中ではブルブルと 私はふるえて年を越し正月元旦年明けて 書き初め 羽根つき コマまわし 家では家族が笑顔で雑煮たべ 梅の蕾がふくらんで 花の香りを待ちながら 私は樽の中より おめでとう 飾り棚には、明治元年頃からの梅干が瓶の中に。店内の一画に「梅万資料館」。明治4年(1871)創業の梅干店の一角にあり、明治初期から現在までの梅干を漬けたままの状態で展示している。また、梅干の漬け方も教えてくれ、6~7月には梅1kg (2000円~) を使い、梅干造り、梅ジュース造りの体験が可能 (4~5名、要予約) であると。12:50ちん里うで今回もお土産の佃煮を購入。パレード開始時間も近くなり撮影ポイントを探しに国道1号(旧東海道)を東へ進む。小西薬局所在地:神奈川県小田原市本町4丁目2-48旧東海道(国道1号)を歩いていると、趣のある建物がいくつか点在している。その中でも、「済生堂薬局小西本店」は創業が寛永十年(1633)の歴史ある薬局である。今も薬局として営業中。さらに昭和時代には文化遺産に登録され、現在は「街かど博物館」という名のミニ博物館となっている。軒先の屋根付き看板は江戸時代のものであると。また、関東大震災では倒壊したが火災にならなかったので建材を再利用して復元したと。店内に入ると壁面に懐かしい会社の看板等があり歴史を感じた。左側に受付窓口、右側がミニ博物館になっている。高齢の店主さんから「ご自由にどうぞ。写真も大丈夫ですから」と声をかけられ撮影。有名人のサイン色紙も多く飾られていた。店先ではポーターバック、お庚申さんの五猿等が販売されていた。右側がミニ博物館になっている。創業 1633年暖簾には「創業寛永十年 薬 小西薬局本店」と。百味箪笥 (ひゃくみだんす)漢方医が薬品を入れておく箪笥。小さな引き出しがたくさんついている。薬味箪笥とも言う。薬剤をすりつぶす乳鉢や秤など、薬関係の貴重な骨董品が展示されている。懐かしい会社名も。山之内製薬、科研薬化工、中外製薬、エーザイ株式会社、大木製薬。引き出しには、いろんな薬草の名が書かれていた。高齢の店主さんから今でも使用していると説明を受ける。引き出しの中には「すぎな」が収納されていた。名 称:すぎな茶 原産国:日本内容量:500g 賞味期限:2011.06古い写真も掲示されていた。右側:関東大震災前の小西薬局で、鉄道が開通したときの写真。左側:関東大震災後の小西薬局で、建物が全壊している。店舗の奥には蔵があり現在は展示室になっており見学させていただく。ここの室内(旧蔵)にもいろんなものが展示されていた。一枚板には「薬 小さな憩いの場」と。古い陶器、手作りの人形であったか。古い家具類。秤類も置かれていた。奥には中庭もあった。江戸時代からの木の看板。江戸時代の看板で字が刻まれていたが。明治時代の看板「内務省免許薬舗小西」。説明書きがなかったが、古い屏風。写真は「小西薬局 明治20年 ~ 30年」。軒先の屋根付き看板は現在のものと同じようだ。「済生堂」と書かれた古い額縁。店先に立つ旗には「小田原 街かど博物館」と。店先に「中宿町」と刻まれた地名石碑が立っていた。地名石碑には、この町には上 (かみ) の問屋場 (人足や馬による輸送の取継ぎ所) が置かれ、高梨町の下 (しも) の問屋場と十日交代で勤めていた。町内には御用商人の小西家があり、江戸時代末期には脇本陣一、旅籠 (はたご) が十一軒ほどあった。13:15御幸の浜交差点パレードはこのお堀端通りを海側へ向かってくる。お堀端通りへの進入は既に通行止めになっていた。12:30から15:40まで。パレードコース沿いには既に陣取り。パレードはこの先を左折しかまぼこ通りへ進む。himono stand hayase所在地:神奈川県小田原市本町3丁目12-21御幸の浜交差点角に建つドライ シーフード販売店である。小田原の創業109年早瀬のひものの飲食店舗である。その場で炭火で焼いた小田原干物が食べられる。さばバーガーやコーヒもあると。人気の店で書き込みでは皆さんgood!ここでもいつか食べてみたいものだ。片岡本陣跡小田原宿には4軒の本陣があり、片岡本陣もその一つです。伊予(愛媛県)松山の松平家などの大名家が定宿としていました。幕末の当主片岡永左エ門は明治時代には小田原町の要職を歴任し、当時の貴重な記録を数多く残しています。 平成29年3月 小田原市教育委員会13:20明治天皇本町行在所跡 (旧片岡本陣跡)所在地:神奈川県小田原市本町3丁目12-3明治天皇本町行在所跡は、明治天皇が宿泊した片岡本陣のあった場所で、この事蹟を記念し、本陣跡の土地の一部59.5㎡を整備した上、石碑が建てられた。開発された住宅街の中に建立されている。正碑は自然石の台石の上に高さ2mの砲弾形自然石が設置されています。碑文は平沼騏一郎の筆跡で「明治天皇聖蹟」と刻まれています。小田原市指定史跡 (昭和三二年三月三○日指定)明治天皇本町行在所跡 (旧片岡本陣跡)明治天皇本町行在所跡は、明治天皇が宿泊した片岡本陣のあった場所です。正碑は自然石の台石の上に高さ2mの砲弾形自然石が設置されています。副碑には由来が刻まれています。明治天皇がこの場所に宿泊したのは、明治11年北陸・東海御巡幸の際、11月7日のことでした。明治天皇聖跡小田原町保存会は、この土地を買収して、昭和14年2月に整備工事を着手、昭和14年10月に碑文の除幕を行い、昭和15年10月に落成しました。なお、万延元年(1860)に片岡家に生まれた片岡永左衛門は、明治時代に小田原町の助役を務め、『明治小田原町誌』を執筆するなど、小田原の近代史研究に大きな功績のあった人物です。 小田原市教育委員会 ー 続く ー
2023.06.30
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小田原北條五代祭りパレード開始1時間半前になり、パレード出発地点へ。5月3日(水) 12:05御茶壺曲輪 (おちゃつぼくるわ)御茶壺曲輪から住吉堀越しに銅門渡櫓門、住吉橋を見る。御茶壺曲輪 番所跡江戸時代、徳川将軍家には宇治の茶が献上されており、御茶壺曲輪には、道中で茶壺を保管するための御茶壺蔵がありました。この場所には、御茶壺蔵などを警護する番人の詰所(番所)があったとされます。小田原城の最盛期の様子を描いた「寛永年間小田原城廓総図」(宮内庁宮内公文書館蔵)によれば、その規模は六間×二間(約10.9m×3.6m)ほどだったようです。御茶壺曲輪 御茶壺蔵跡この日は真夏日でパレード見学者は木陰の下に座り込み待機。二の丸観光案内所前には本部救護所(白いテント)が設置されていた。御茶壺曲輪 御茶壺蔵跡江戸時代、徳川将軍家には宇治の茶が献上されており御茶壺曲輪のこの場所には、道中で茶壺を保管する御茶壺蔵がありました。小田原は、江戸から宇治に向かう往路に位置しており、小田原城に立ち寄る際に、空の茶壺がこの蔵に収められたと考えられます。小田原城の最盛期の様子を描いた「寛永年間小田原城廓総図」(宮内庁宮内公文書館蔵)によれば、その規模は六間×四間(約10.9m×7.2m)ほどで、入母屋の屋根をのせていたようです。パレードコースは銅門前を出発、この住吉橋を渡る。住吉堀越しに左に銅門渡櫓門、右側に住吉橋。住吉橋前には既に多くの人が待機していた。御茶壺曲輪から馬屋曲輪へ廻る。馬屋曲輪にはテントを張ってパレードを待つ人も。12:10内冠木門 (うちかぶきもん)ここから馬出門へと行きたかったが、既に交通規制 (12時から15時10分頃まで) で行けず。パレードはこの門を潜り馬出門へと行く。この辺りでは、「オープニング演奏、出陣パフォーマンス」。時 間:13:20 ~ 13:25内 容:オープニング演奏出 演:陸上自衛隊第一音楽隊時 間:13:25 ~ 13:30内 容:出陣パフォーマン出 演:城主役ゲスト、小田原北條鉄砲衆保存会スペシャルパフォーマンスがあるので多くの人が座って待機していた。のぼり旗が並ぶパレードコース。撮影隊も準備中。アームの先端にはカメラ、集音マイク。テレビでも放映されるのであろうか。銅門広場に待機する馬を見る。パレードが出る銅門、住吉橋。撮影準備中のカメラマンも。のぼり旗が雰囲気を盛り上げる。住吉橋の手前には、「出陣パフォーマンスステージ」。時 間:13:15 ~ 13:20内 容:出陣パフォーマン出 演:城主役ゲスト、小田原北條鉄砲衆保存会住吉橋の正面には報道席も準備されていた。他にも授乳施設、本部救護所も設置されていた。12:23馬屋曲輪から戻り小峯橋 (御茶壺橋) を渡りバス専用駐車場、三の丸売店。左側の女性用トイレは長い列をなしていた。藤棚交差点の海側に立っていた、小田原城三の丸 箱根口周辺の遺構国道1号線(東海道)からお茶壷橋にかけての一帯は、江戸時代には小田原城三の丸の出入口の一つである「箱根口」とそれに関連する遺構があった場所です。この付近一帯ではたびたび発掘調査が行われ、戦国時代の堀・建物・水路跡や江戸時代の堀跡など、時代の異なった各種の遺構が発見されました。以降は発掘調査の結果報告で後略。上 段:発掘調査等で明らかにされた箱根口周辺の遺構左中段:正保図(江戸時代前期の箱根口付近)左下段:文久図(江戸時代末期の箱根口付近)右 下:● 現在地三の丸土塁所在地:神奈川県小田原市南町1丁目1-5小田原城の三の丸土塁は幸田口門跡にもあり、ここは箱根口の三の丸土塁である。三の丸土塁で聳えていたであろう切株をズームアップ。三の丸土塁から藤棚交差点を振り返る。右側には市立三の丸小学校の土塀。民家の玄関先で咲いていたバラ。国道1号(旧東海道)の箱根口交差点角に食堂「〇じまや」の暖簾。かます棒ランチ 1000円、あじフライ定食 1200円、かます棒バーガー 700円。他にはデザートも。箱根口ガレージ 報徳広場所在地:神奈川県小田原市南町2丁目1-60国道1号 (旧東海道) 箱根口交差点の南側にある広場である。カフェ・パティスリー・フラワーショップが併設され、敷地内の庭には昔懐かしい素朴な風景が広がります。地元の方の憩いの場として人気のスポットであると。この広場は報徳二宮神社のご祭神で、小田原が生んだ偉人二宮尊徳翁の「報徳思想」の精神と「報徳仕法」の手法を元に、報徳仕法㈱が運営を行い、観光活性化と3世代が集う地域コミュニティの形成を目指すSDGs推進事業として注目されている。また、チンチン電車内ではイベントも開催できる。二宮尊徳少年像と里帰りしたチンチン電車。石碑には「Hakoneーguchi Garage 報徳広場」と。このチンチン電車は昭和10年から昭和31年5月31日まで小田原駅ー板橋駅の国道1号を走った。その後、長崎県の長崎電気軌道に譲渡され、1970年代まで現役車両として活躍した電車が、令和2年小田原ゆかりの路面電車保存会の情熱と600名以上の多くの支援者からのご寄付によってここに設置された。二宮尊徳少年像をズームアップ。報徳二宮神社の境内にある「きんじろうカフェ」の姉妹店。ランチタイムには地場食材などを使ったグリル料理とパティスリーのスイーツがお楽しみいただけます。OPEN 11:00~17:00【ランチタイムMENU】11:00~15:00 *14時迄、ケーキ・お飲物のみでのご利用はできません 【カフェタイムMENU】10:00~11:00・14:00~17:00どれも美味しそうであったが。ういろう所在地:神奈川県小田原市本町1丁目13-17国道1号(旧東海道)沿いに建つ外観はまるで城のような建物で、和菓子と薬局が同居するお店屋さんである。店内にはカフェもある。現在は25代当主で名前は「外郎藤右衛門」さん。三宅裕司が”ふるさと探訪”で訪れている。ういろうの左側の駐車場では、「北条早雲 出陣の図」 ・北条早雲4mの巨大切り絵の展示 ・甲冑着付け体験展示時間:10:00 ~ 16:00 高さ4mの北条早雲の巨大切り絵。北条早雲 出陣の図 百鬼丸先生 作平成二十五年四月 北条五代展で小田原城天守閣に展示された四メートルの北条早雲出陣の図。その製作の折り、和紙を切るために抑えとして一緒に切り抜かれた洋紙の作品。こちらは「甲冑着付け体験」ができる。ういろうの入口に、定 休 日 毎週・水曜、第3・木曜年間休業日 12月31日・1月1日営業時間 10:00 ~ 17:00店内に入るとカフェのメニュー。上生菓子と御抹茶、上生菓子とお茶、上生菓子とコーヒー、ぜんざい、其々770円コーヒー、オレンジジュース、其々440円。奥に薬局店。青色は「第3類医薬品」第3類医薬品とは、第1類・第2類医薬品以外の一般用医薬品。ドリンク剤の「リポビタンDロイヤル」や整腸剤、消化剤などが製品例に挙げられる。第3類医薬品は、薬剤師もしくは登録販売者から購入できる。一般従事者からの購入も、薬剤師や登録販売者の管理・指導の下であれば可能。ネット販売・通信販売が許可されている一般用医薬品であり、販売時の情報提供に関する法的制限(義務)は存在しない。黄色は「第2類医薬品」、右の青色は「第3類医薬品」。第2類医薬品とは、一般用医薬品(OTC医薬品)のうちの一つで、日常生活に支障が出るほどの副作用の恐れがある医薬品。ただし、第1類医薬品に分類されている製品は除く。現在市販されている一般用医薬品のうち、大半が第2類医薬品である。〔製品例〕便秘薬の「コーラック」、胃腸薬の「正露丸」など。以上、ネットより引用。外郎博物館明治18年築の蔵を利用した小さな博物館。初祖・陳延祐より600余年、5代目・定治が当地に移住してから500年、25代にわたり伝統を守り続ける外郎家。 独特の店構えの理由、「ういろう」の名の由来、お菓子と薬の起源、歌舞伎十八番「外郎売」との関係などを、小田原で最も古い商家ゆかりの品々とともに紹介している。入館無料。店内の最奥部にあったようだ。写真はネットより。お土産の「ういろう」売り場。約600年前の室町時代に誕生した“ういろう”の発祥の店といわれる「ういろう」。25代にわたり伝統を守る老舗だ。元来“ういろう”とは外郎(ういろう)家が作る薬を指し、その後接客用に考案された米粉の蒸し菓子を“お菓子のういろう”と呼ぶようになったという。現在も「ういろう」では菓子とともに薬の“ういろう”も製造・販売している。「ういろう」が作る菓子の“ういろう”は、モチモチの食感とさっぱりした上品な甘さが特徴。全5種類の棹もの「ういろう」が販売されている。日本人に愛され続ける銘菓を、いにしえに思いを馳せながら味わいたいと。店内の天上の格子造り。12:40カフェ入口。時間がないので今回はスルーして向かい側の「ちん里う」へ向かうことに。 ー 続く ー
2023.06.29
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小田原北條五代祭りのパレード前に小田原城内の散策を続ける。5月3日(水) 11:35菖蒲園の海側に廻り、常盤木坂から常盤木橋を見る。常盤木坂をズームアップ。この時間帯は本丸広場で「鉄砲演技」が行われており、20分間隔で火縄銃の発砲音!本丸南側の石垣、「滑り落ちた本丸の石垣」本丸下の石垣。石垣を下から見上げる。国指定史跡小田原城跡 滑り落ちた本丸の石垣ここは二の丸とともに本丸の周りに配置された曲輪のひとつ「南曲輪(鷹部屋曲輪)」です。南曲輪南側の堀(蓮の花が咲く堀)に面する両側の角には二重の櫓がそびえ、小田原城南側の防備を固めていました【図1】。現在は埋まっていますが、この看板付近には本丸斜面の裾をめぐる掘幅9間(約16.3m)、深さ2間半(約4.5m)の「本丸堀」がありました。南曲輪と本丸とはおよそ14mの高低差があり、堀から立ち上がった法面(斜面)の上部には石垣が築かれていました【図1~3】。この辺りの石垣は、寛永10年(1633)に築かれた本丸の石垣が、元禄16年(1703)の元禄地震などによる被災と修復を経て、関東大震災で滑り落ちたものです。大正12年(1923)、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9の激震が発生しました。小田原での被害は甚大で、明治34年(1901)から城内に所在した御用邸の建物も倒壊し、小田原城の多くの石垣も崩壊しました。この辺りの石垣も崩壊しましたが、偶然にも積み上げられていたままの姿で滑り落ちたため、江戸時代の小田原城の石垣の姿を良く残しています。石垣のコーナー部分の積み方や排水口もそのままの姿で確認でき、小田原城本来の石垣の積み方や関東大震災の被害の大きさを伝える貴重な遺構です。図1 「文久図」南曲輪部分 (小田原城天守閣所蔵)東海道に面する小田原城の南面は、東側の大手口と並ぶ小田原城の正面のひとつです。三の丸には箱根口門を配し、二の丸諸曲輪の一画となる南曲輪には二棟の櫓がそびえていました。図2 「宮内庁図」本丸部分 (宮内庁書陵部所蔵)天守台を含む本丸の規模は、東西83間 (約150m)、南北63間 (約114m)で、元禄16年 (1703)までは徳川将軍家のための御殿がありました。周囲には石垣が巡らされ、その上には瓦を乗せた白亜の土塀があり、常盤木門と鉄門の2つの門が設けられていました。図3 本丸の鉢巻石垣上図【1】【2】の □ 部分の石垣のイメージをイラストで表現したものです。本丸の石垣は、法面(土居)の上の部分のみに石垣を積み上げた「鉢巻石垣」という構造でした。この辺りの石垣とイラストを比べると、石垣の崩れ具合が確認できます。この木は、「ビラン樹」であったか。市内早川の「寶珠山 海蔵寺」にあり、成長すると樹皮がはがれて紅黄色となるので、異名を「バクチの木」又は「ハダカの木」と呼ばれている。四国、九州、琉球列島に分布していて、この地が生育の最北限とされている。成長し樹皮がはがれて紅黄色なったビラン樹。また早川には、国指定天然記念物「早川のビランジュ」がある。南曲輪跡に建つ「星﨑記念館」入り口横の掲示板には、「星﨑記念館は令和2年3月31日に閉館しました。 60年間のご利用ありがとうございました。 図書館の機能と伝統は中央図書館と、小田原駅東口図書館に引き継ぎます。」と。 壁面に貼られたプレート「星﨑記念館」。写真は「星﨑定五郎氏胸像」。星崎定五郎(ほしざきさだごろう、1879年 - 1966年)は、矢作出身の実業家。日系アメリカ人1世。1899年に草柳竹次郎らと共に渡米し、カリフォルニア州各地で農作業に従事。1905年にロサンゼルスで食料品・雑貨品を扱う東海商会の店舗を開業、以後、業績を拡大した。1921年に日本からの輸入品を扱う共同貿易㈱を設立して社長に就任。1930年頃、ロサンゼルスの中心街に多くの土地・建物を所有した。1940年に北京飯店を買収。戦時中のマンザナール収容所での抑留生活を経て、戦後も事業活動を継続。1955年にアメリカに帰化し経営を引退。翌1956年に日本に移住し、熱海で隠棲した。1923年の関東大震災で被害を受けた矢作の浅間神社や春光院の修築や再建のために寄附をし、1958年に小田原市に5万米ドルを寄附、星﨑記念館が建設されたことで知られる。銅門 (あかがねもん) を望む。小田原市郷土文化館所在地:神奈川県小田原市城内7-8小田原城内にある、郷土の自然・歴史・文化に関する博物館相当施設である。展示案内【常設展示】 小田原をとりまく豊かな自然と、そこに暮らす人々の文化や歴史を紹介しています。入館案内開館時間:午前9時 ~ 午後5時 (入館は4時30分まで)入 館 料 :無 料休 館 日 :年末年始(12月28日 ~ 1月3日)小田原橋親柱親柱には「おだわらばし」の銘板。小田原橋(おだわらばし)親柱小田原橋は、昭和四年(1929)現在の東京都中央区築地に架設されたコンクリ―ト製のアーチ橋です。名称は、江戸時代から昭和四一年まで、この一帯に「南小田原町」(その後「小田原町」)と呼ばれる町があったことから名づけられました。「小田原町」の成立は、小田原城下板橋の石工棟梁善左衛門が、ほど近い江戸湾の海浜に江戸築城用の石材の荷揚場を設けた慶長年間(1596ー1615)頃までさかのぼります。善左衛門は、諸国の職人を指揮して小田原や伊豆方面から切出した石材を船で廻送し、ここで荷揚げ加工しました。昭和四一年、当地は築地に編入されて町名が消滅、その名残をとどめる「小田原橋」も平成二五に撤去されたことから、小田原市では、かつて江戸の築城や街づくりに市域の先人が深くかかわっていたことを偲ぶよすがとして、橋の親柱一本を譲り受け、ここに移設したものです。 小田原市教育委員会早川石丁場群の切石についてここに並んでいる二つの切石は、小田原市早川字箕ケ窪の広域農道建設用地より発見され、事業者のご協力により現地より移設したものです。箱根外輪山の早川に面した山腹一帯には、江戸時代初期の寛永年間頃(1630年代)の江戸城修築に使用された石垣用の「石丁場」(石切場の当時の言い方)が広く分布していることが知られており、「早川石丁場群」と呼ばれています。広域農道建設に伴い、平成十七年度に実施された発掘調査の結果、江戸時代当時の石切り作業を生々しく示す多数の切石が確認され、一部は現状保存されましたが、そのほかの切石の中で、歴史的価値の高い刻印が見られるものを移設保存したものです。切石の角には割り取る時に刻まれた「矢穴」が見られ、正面に〇に「寸」の刻印があります。左側の切石にはなぜか逆さまの向きに2箇所刻まれています。このような刻印は、石切りを幕府から請け負った大名もしくは石工の集団を示すものなどという説がありますが、詳しいことはわかっていません。 小田原市教育委員会残念ながら二つの切石の撮影を忘れました。小田原市郷土文化館入口左に建っている碑。皇后陛下御歌台座の裏に刻まれていたが判読できなかった。館内に入りポスターには、「小田原 邸園 散歩」 小田原城周辺の三邸園 邸宅+庭園=邸園手前は「閑院宮(かんいんのみや)別邸で使用されていた長椅子」、後方に「人力車」。 長椅子は:擬石製、大正時代、郷土文化会館人力車人を乗せ、車夫が引いて走る二輪車。明治2年 (1869) に和泉要助(いずみようすけ)らが発明し、駕籠や馬に代わる乗り物として爆発的に普及した。小田原でも1871年頃から人力車の営業を始めたようである。当初は木製の車輪だったが、ゴム輪に代わり、1912年から空気入りのゴムタイヤが用いられた。人々に親しまれ、代表的な公共輸送機関として乗り物の首位を占めていたが、乗用自動車 (タクシー) の普及により、次第に姿を消していった。写真は、茅葺き屋根の民家前を走る人力車。館内の陳列。小田原城周辺写真 (昭和25年ごろ)。こども文化博覧会昭和25年(1950)の小田原市制10周年記念事業「こども文化博覧会」は、時の市長・鈴木十郎が中心となり企画されました。鈴木市長は、生活物資がなく「子どものことなど全く顧みられない時代に子どもたちに夢を与えてやりたかった」と回想しています。博覧会の内容は、文化館、産業間、観光館、アメリカ児童館、ゆうびん・でんしん・でんわ館などの展示、人形劇、のど自慢などの出し物、豆電車・飛行塔・メリーゴーランドなどのアトラクション、動物園などが設置されたそうです。県下最大級の縄文土器 ー 天神山の土器棺墓 ー県下最大級の縄文土器県下最大級の縄文土器7基の埋設土器群のうち、J7号埋設土器から出土した縄文土器の深鉢は、口径45.6cm・底径15.8cm・高さ78.6cmであり、そのサイズは県下最大級です。この土器は、上下逆さまに穴の中に置かれた状態で見つかりました。土器の口の部分から胴体の中央ほどまでは残っていましたが、それより下の部分は壊れており、土器の中から破片となって見つかりました。これらの破片を集めて復元したところ、ほぼ完全な形となったため、埋めた際に土器の下半分をわざと壊して土器の中に置いたと考えられます。これは縄文人の風習だと思われますが、彼らはどのような意味で土器を残し、埋めたのでしょうか?こちらにも大きな土器がケースの中に陳列されていた。常盤木坂への遊歩道脇に立っていた案内板。小田原市郷土文化館を出て海側へ進み、右側に南曲輪南掘、御感の藤棚がある。南曲輪南掘のハス。前回3月30日に訪れた時はハスは芽吹き始めていたが・・・。御感の藤棚はゴールデンウイークの時期はいつもなら見頃であろうが。御感(ぎょかん)の藤 樹名 ノダフジ(マメ科) 昭和三十二年三月三十日 小田原市天然記念物指定 昭和五十九年十二月 かながわの名木百選選定この藤は、小田原城二の丸御殿に鉢植えされていた藩主大久保公愛玩のもので、明治維新後、市内板橋の森元氏の手に渡り、明治十六年に市内唐人町(浜町)の西村氏が買い受けて育てられたと伝えられています。大正天皇が皇太子のとき、小田原御用邸に滞在中のある日、西村邸の前を通過した際、召馬が藤棚の下に駆け入ったために殿下の肩に花が散りかかってしまいました。周囲の人々が恐縮していると「見事な花に心なきことよ」と感嘆されたことから「御感の藤」と呼ばれるようになりました。大正十一年三月、小田原保勝会の人々により西村家からこの地に移植され、今日まで小田原の名物として私たちの目を楽しませています。樹齢は約二〇〇年と推定され、既に壮年期を過ぎた古木ですが、五月の開花期に藤棚いっぱいに花房が下がった様子は誠に壮観です。 小田原市教育委員会残念ながら藤の花は既に咲き終わっていた。いつもなら長い花房が見れたのであろう。南曲輪南掘の右側に小田原市郷土文化館。小峯橋 (御茶壺橋) から駐車場を見る。小峯橋 (御茶壺橋) を渡ると「御茶壺曲輪」。御茶壺曲輪 (おちゃつぼくるわ)御茶壺曲輪は、三の丸南側から二の丸へ入る最初の曲輪で、敵に攻められた際に守り手を有利にするための「捨曲輪」として用いられていました。元禄期(1688~1704)には、徳川将軍家に宇治の茶を献上する「御茶壺道中」の際に、往路で空茶壺を納める「御茶壺蔵」が設けられていたことから、御茶壺曲輪と呼ばれるようになったとされます。12:05土塁があり「御茶壺曲輪」へ。銅門渡櫓門廻りにのぼり旗が並ぶ。 ー 続く ー
2023.06.28
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三の丸土塁からお堀端通りへ戻る。5月3日(水) 10:55そば処 小田原橋本所在地:神奈川県小田原市栄町1丁目13-37お堀端通りに建つそば屋で、北海道産のそば粉を100%使う和の風情ある一軒家のそば処である。店先には風情ある呼び込みの旗「そば処 橋本」が。また多くの人が並んでいた。二階の窓には小田原提灯。おすすめメニュー北条五代そば:1,600円、大人気商品/ミニ桜海老天丼セット:1,680円、お勧め人気商品/桜天ざる:1,650円、せりのざる:1,050円、いずれも税抜き価格。いつか食べてみたいが!お堀端通りの照明灯。防犯カメラも設置されているようだ。アンチックな「お堀端通り」の案内板。お堀端通り沿いでは露天商が営業していた。子供達も着物を着て祭りへ。国指定史跡小田原城跡 二の丸東堀小田原城は、春日局(江戸幕府の三代将軍徳川家光の乳母)の子、稲葉正勝が寛永9年(1632)城主になると、大規模な工事が行われ、石垣を備える近世城郭として整備されました。二の丸の堀も、この時代に形作られたとみられています。二の丸の堀は、二の丸馬屋曲輪の二重櫓を南東角として、東西に伸びている二の丸の南側の堀と、南北に伸びている二の丸の東側の堀で構成され、藩主の居館や行政機関がおかれた二の丸と、武家屋敷などが広がる三の丸とを画しています。二の丸の東側の堀は、本丸や二の丸を守る堀の中でも最も大きなもので、二の丸東堀を中心に、馬屋曲輪東堀や弁財天東堀から成り、堀幅は最大で約40mの規模がありました。堀は後世に埋め立てられたため、この看板が立つ場所もかつての堀の中に位置しており、看板に向かって左側の水堀が右側に約60m(交差点付近まで)伸びていました。二の丸側に見える石垣は、大正12年(1923)の関東大震災で崩れたものを昭和初期に復旧したものですが、右下の写真のとおり、江戸時代の石垣は今のものよりも高く、二の丸の石垣として威厳のある姿を見せていました。なお、震災直後、一時この堀を埋め立てる計画がありましたが、小田原保勝会が中心となって保存運動を起し、その結果、二の丸東堀は、今日までその姿を残すことができました。二の丸東堀に架かる学橋 (まなびばし) には多くの人が渡っていた。昭和4(1929)年に城内小学校が二の丸に移転した際に竣工しました。現在の学橋は昭和24(1949)年に再建されたものであると。学橋の上から左奥に馬出門土橋、馬出門、二の丸隅櫓と。この隅櫓は関東大震災で崩落し、昭和9(1934)年に再建されたもので、当時の予算から1/2の大きさで再建されたそうです。又、地震で崩落する前は石垣も今より3.6mぐらい高かったと。今年3月30日に訪れた時はサクラが満開であった。馬出門土橋、馬出門をズームアップ。今日の小田原北條五代祭りパレードはここを出入りする。学橋から二の丸の石垣。パレード開始までまだ時間があるので、事前にGoogleマップで調べていた二の丸広場にある「明治天皇行幸所碑」「小田原御用邸跡」を訪れるため学橋を渡る。明治天皇行幸所碑所在地:神奈川県小田原市城内3学橋を渡ると直ぐ右側に建っている石碑。明治天皇行幸所は、小田原市内の旧東海道沿いに旧清水金左衛門本陣、旧片岡本陣があった場所にも石碑が建てられている。石碑には「明治天皇行幸所」と刻まれている。もう一つの石碑には、「明治天皇駐蹕趾」明治六年 天皇箱根宮之下温泉ヨリ還幸ノ御途次八月二十八日足柄縣廳ニ臨御遊バサル 實ニ我ガ校舎ノ地ナリ今ヤ 聖蹟ヲ知ル者漸ク稀ナリ 仍テ其ノ盛事ヲ謹シテ記ス 昭和九年五月二十八日当時小田原城内の二の丸跡には学校があり明治天皇が立ち寄られたようだ。二の丸広場広場では5月3日から5日まで「オダワラオープンマルシェ」が開催されており多くの人が訪れて賑わっていた。小さなステージに立つシンガーソングライターも。手を振り、スマホで撮影する人も。ズームアップ。出演料は?、ボランティア活動であろうか。広場の隅ではキャンピングカーショーも開催されていた。後10歳若かったらと今回も思ったが。二の丸隅櫓この日は5月にしては気温が高く、二の丸隅櫓廻りのサクラの下では休憩している人が多かった。二の丸隅櫓江戸時代、小田原城には5棟の二重櫓と1棟の平櫓がありました。この櫓は、関東大震災(大正12年:1923)後に再建された平櫓で、二の丸隅櫓とも呼ばれています。延宝元年(1673)もしくはその翌年に2間×6間(約3.6m×11m)の土蔵としてはじめて建設されました。しかし、元禄16年(1703)の地震により倒壊し、奥2間、折廻し7間(約13m)の鍵の手状の平櫓として再建されました。小田原藩主居館がある二の丸の南東の隅に位置し、三の丸の大手門を入ると正面にこの平櫓が立ちはだかることになります。また、二の丸への入り口である馬出門を見下ろす一でもあります。当時の櫓内部では武具等が保管され、小田原城防御の要とも言える櫓でした。明治3年(1870)、天守をはじめとする城内の建物の多くが解体される中で、この平櫓だけが小田原城内唯一の建物として残されましたが、関東大震災により失われてしまいました。現在の櫓は、江戸時代のものとは異なり、大きさは一回り小さいものとなっています。写真は、明治42年(1909) ~ 大正12年(1923)頃の姿。明治42年(1909) ~ 大正12年(1923)頃の姿。写真には相州小田原御用邸と。二の丸広場で今日の目的地、「小田原御用邸跡」を探すが人が多く見つからなかった。係の方に聞くが「知らない」と、石碑があったのか?国指定史跡小田原城跡 二の丸御屋形跡江戸時代の小田原城には、将軍専用の宿泊施設「本丸御殿」と、藩主の居館や行政を行う政庁としての役割をもった「二の丸御屋形」の二つの御殿がありました。「二の丸御屋形」は、三代将軍徳川家光が上洛のおり小田原城に止宿した寛永年間(1624~44)の頃が最も壮麗で、将軍を出迎える目的で屋形の外に唐門が造られ、内部には能舞台も備えていました。しかし、元禄16年(1703)に起きた大地震により、小田原城は甚大な被害を受け、「二の丸御屋形」も倒壊し炎上してしまいました。その後再建されましたが、将軍家の上洛が途絶え、小田原へ入城する機会も無くなったことから、以前より規模は縮小され、間取りも簡素な姿に変わりました。幕末に国の政治情勢が緊迫し、将軍家や幕府重役が頻繁に上洛する時代に入ると、再建後の「二の丸御屋形」は増改築され、第14代将軍徳川家茂の宿泊施設として使用されるなど、元禄地震の倒壊以後再建されなかった「本丸御殿」の役割も兼ねることになります。この様に「二の丸御屋形」は、幕末まで将軍家上洛の有無に連動して姿形を変えており、このことは、小田原城の特色といえます。その後は、明治34年(1901)に皇族の御用邸、昭和4年(1929)に小田原第二尋常高等小学校の用地となり、現在は小田原城歴史見聞館として小学校の講堂のみを残し、他は広場として利用しています。平成9、10年(1997、1998)には、この「二の丸御屋形」で試掘調査が行われ、元禄地震の火災で真っ赤に焼けた土と前期の御殿の礎石や屋根瓦などが出土しました。また、後期の御殿は、前期の焼け跡を一旦埋め立てて新たに建てられたことも分かりました。二の丸隅櫓から小田原城歴史見聞館、常盤木門へのサクラ並木。サクラ並木沿いに「さくら名所100選の地」銘板には「小田原城址公園・城山公園 平成2年3月3日 財団法人 日本さくらの会」と。同場所から二の丸隅櫓を振り返る。銅門広場には出番を待つ馬が8頭?繋がれていた。11:25後方には、「銅門 (あかがねもん)」。パレードの「武者隊 先駆け軍団」が13:30頃、ここ銅門広場を出発する。二の丸広場に戻り「小田原御用邸跡」が見つからないので次の場所へ。本丸東堀 花菖蒲園。左上は本丸広場。小田原城案内図小田原城あじさい花菖蒲まつり2023年6月3日(土) ~ 6月18日(日)【会 場】 小田原城本丸東堀・花菖蒲園 入場無料と!花菖蒲が一部咲いていた。花の名があるのだがまだ名札が付いていなかった。小田原城あじさい花菖蒲まつりに来たがったが、残念ながら・・・・・。3つの違いをまとめると、花びらの付け根を見たときに、 ・あやめ:模様が網目状である ・菖 蒲:黄色い模様が入っている ・杜 若:白い筋が通っている と。黄色の模様があったので「菖蒲」。常盤木門への常盤木橋。常盤木橋下からの本丸東堀・花菖蒲園。左側の斜面にはアジサイが咲き乱れ、右側に二の丸広場がある。11:35常盤木橋下から海側の菖蒲園。 ー 続く ー
2023.06.27
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パレード前に前回小田原城のサクラ見物で見落とした史跡を散策した。5月3日(水) 10:30まず小田原駅東側の商店街の中にある「北条氏政・氏照の墓所」へ。北条氏政・氏照の墓所所在地:神奈川県小田原市栄町2丁目7-8小田原合戦の責任を取って自害させられた4代氏政と弟氏照(八王子城主)は、この場所にあった伝心庵に葬られました。後に伝心庵は移転し、墓は放置されてしまいましたが、稲葉氏の時代に、追福のために作り直されました。しかし、それも関東大震災で埋没し不明となったため、翌年地元の有志によって復興されました。 墓地内には、五輪塔、笠塔婆型墓碑、石灯籠や、氏政・氏照がこの石上で自害したと伝わる生害石があります。北条氏政・氏照の墓所 小田原市指定史跡北条氏政は、北条氏四代の領主。氏照は、氏政の弟で、八王子城など五つの支城の城主でした。天正十八年(1590年) 豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城が落城すると、五代領主氏直は、高野山に追放され、父氏政とその弟氏照は、城下の田村安斉邸(現南町)で自刃しました。両人の遺体は、当時この地にあった北条氏の氏寺、伝心庵に埋葬されました。 (現在、永久寺所有)その後放置されていた墓所は、稲葉氏が城主のとき(1633〜1685)、北条氏追福のため整備されました。大正十二年(1923)の関東大震災では墓所が埋没する被害を受けましたが、翌年地元の有志により復元されました。 小田原市教育委員会商店街から墓地への階段を上ると柵に多くの鈴が吊るされていた。幸せの鈴箱の中の「鈴」に民を思う領主の優しい心がきっと宿っています。ここに眠る北条氏政、氏照は、長引く秀吉との攻防戦の中、戦禍にまみえる領民を思い、開城を決意されたと伝えられています。願い事をかけて「鈴」を持ち帰り、かけた願いがかなったら、「幸せの鈴」を結びに来て下さい。「幸せの鈴」がいっぱいになれば、ここに眠る領主への、なによりの供養となることでしょう。階段を上った正面の石碑には、「大正十二年九月一日○○○ノ大震ニ襲ハレ○○○○○○史蹟モ亦埋没セ○○○○○ ・・・・・ 大正十五年・・・・」と。階段を上ると約3メートル四方の敷地に、五輪塔、笠塔婆型墓碑、石灯籠や、氏政・氏照がこの石上で自害したと伝わる生害石がある。五輪塔は右から氏政夫人の墓、氏政の墓、氏照の墓。二つの五輪塔前に二人が自刃した生害石。説明板には配置図が記されていた、正面に向かって。● 五輪塔 右 (大) 伝 氏政夫人の墓 中央 (中) 伝 氏政の墓 左 (小) 伝 氏照の墓● 生害石 五輪塔前の平たい石 この石の上で氏政・氏照が自刃したと伝えられています。● 笠塔婆型墓碑 左手の墓碑 この墓碑には、次のように法号(戒名)が刻まれています。なお、正面の北条氏の三つ鱗の紋章は、正体紋ですが、平体紋が使われているところもあり、いずれが正しいかは明らかではありません。 小田原市教育委員会稲葉氏が建立した笠塔婆型墓碑には、氏政・氏照の法号(戒名)が刻まれています。「滋雲院殿勝岩傑公大居士 天正十八庚寅年七月十一日 北條相模守氏政」「青霄院殿透岳關公大居士 天正十八庚寅年七月十一日 北條陸奥守氏照」墓所から見下ろし、下を「おしゃれ横丁」が横切り、正面の通路は小田原駅東口への通路。北条氏政・氏照の墓所を見納め後にする。商店街の中にあり木柱には「小田原市指定史跡 北条氏政・氏照の墓所」とある。墓地には若者たちに人気の「幸せの鈴」が納められており、鈴は商店街の数店舗においてある。北条氏政・氏照の墓所は「おしゃれ横丁 商店会」にある。おしゃれ横丁の路面には「北条氏政・氏照の墓所」と。こちらのマンホール蓋には「姫の姿」が。おしゃれ横丁の頭上を飾るドリームタワー。おしゃれ横丁は『小田原の町並み・50選』に指定される、風情ある商店街です。このおしゃれ横丁が、ハンガリーの首都ブダペスト市ツエ・ダウンタウン商工会と姉妹提携しているのをご存じですか?。ドナウ川沿いに広がる美しい風景の街と、城下町の小さな商店街は昔から姉妹提携を結んでいるのです。名物になっている壁画もぜひゆっくりご覧くださいと。夜のライトアップも見てみたいものだが。そういえば若い頃、出張帰りに小田原駅で途中下車して飲んだものだが。夜は一変してネオンサインが飾るのであろう。おしゃれ横丁を通り抜ける。小田原駅前にあるレンガの小径、ここがおしゃれ横丁入口である。夜はこのネオンサインが招くのであろう。おしゃれ横丁を出ると、右側に北條ポケットパークがある。信号は錦通り入口交差点で直進するとお堀端通りで小田原城馬出門、海へ至る。錦通りからラスカ小田原を望む。北條ポケットパーク所在地:神奈川県小田原市栄町2丁目8公園というまでのスペースはないですが、冬はイルミネーションが点灯しています。北條ポケットパークから錦通りの商店街を望む。錦通り入口交差点からお堀端通りへ。小田原駅東口ターミナルを海側に歩いて数分でお堀端通りに入る。お堀端通りはお堀に沿って一直線にのびている通りで、お城への順路になっています。駅からお堀端通りに入り、お堀を右手に見ながら、橋を渡り城内に入ります。小田原城を巡る代表的な観光コースになっており、週末は観光客の往来も多くさまざまなお店が立ち並んでいる。お堀端通りの左前方に三の丸土塁の木が聳える。国指定史跡 小田原城跡 三の丸土塁 指定 昭和13年8月8日この土塁は、江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡です。当時は、本丸、二の丸(現在の城址公園周辺の範囲)を包むようにお堀と土塁を巡らし、三の丸としていました。この土塁は、三の丸の土塁が残されている数少ない場所のひとつです。この場所の西側に幸田門という三の丸の入口がありました。その跡の一部が発掘調査で見つかっています。戦国時代に上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時は、この幸田門から小田原城を攻めたと考えられています。北条氏康・氏政父子は、籠城策を用いてこれを退け、小田原を守り抜きました。右上の絵は、江戸時代の幸田門 (想像図) 。三の丸土塁石碑には「幸田門趾紀念碑」と刻まれている。三の丸土塁に残されている切株。土塁には多くの松が植えられていた。樹齢は何年になるのか松の根が露わになっていた。かつては堀の跡があったようだが埋め立てられビルが建っている。三の丸土塁から下りる。お堀端通りから三の丸土塁を抜けると日本郵便小田原郵便局へ。松の他にもスダジイであったか。三の丸土塁を戻る。枯れた松の木であろうか。樹齢何年になるのか老松を見上げる。10:55お堀端通りに立っていた「関東大震災から百年」備えあれば憂い無し関東大震災前後の風景 小田原・箱根1923年 大正12年9月1日11時58分44秒 マグニチュード7.9 震度7関東大震災と言えば東京都内の被害が報道されてるが、ここ小田原辺りでも甚大な被害を受けたようで今年は展示会があるようだ。写真は、左上:震災後の小田原駅周辺。憲兵が自転車で動き回っている。右上:根府川 白糸川鉄橋を渡る蒸気機関車。下段:箱根ホテルは大正12年6月15日に4階建てで開業し、盛況だったが、2ヶ月半後の関東大 震災で壊滅した。大正15年に新築開業するが、昭和5年の豆相地震で全壊する。昭和6年 5月に再度新築開業している。 ー 続く ー
2023.06.26
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今年3月30日(木)に小田原城のサクラ見物で訪れた時、今年は4年ぶりにコロナ前の規模での本格開催されるとのポスターを見、この日電車で訪れた。新型コロナの影響で2020年と21年は中止、22年はパレードの規模を縮小するなど一部を変更して実施している。また、今年は小田原北条氏が「伊勢」から「北条」に改姓し500年にあたり、祭りは「小田原北条氏誕生500年記念事業」としていると。開催日:2023年5月3日 (水・祝)5月3日(水) 9:20イオンの駐輪場へ愛車のリンちゃんを預け茅ヶ崎駅へ。駐輪料金は24時間100円。咲き終わったミモザ。茅ヶ崎駅 9:35 発 熱海行きの電車へ乗る。小田原北條五代祭りのパレードは13時半からであったが、前回見落として史蹟を尋ねるので早めに出発した。上りホームの東京、新宿方面。東京方面へもここ数年乗車していない。熱海行きの電車が入線。車内は満席で混雑していた。外国人観光客も乗車していた。10:02満員の電車で小田原駅へ到着。皆さん「北條五代祭り」へ行かれるのか多くの人が下車。駅舎内には「5月3日 祝 小田原 北條五代祭り」の案内。三階のコンコースからエスカレーターで二階のペデストリアンデッキへ。エスカレーターを下りると祭りの案内所が設置されておりパンフレットが配布されていた。後方に二宮尊徳 (金次郎) 像が立っている。2F ペデストリアンデッキ臨時案内所が開設されていた。頂いたパンフレットから。パレード隊列編成パレード時間 13時30分 ~ 15時20分頃パレードコース各所の「城址公園・街角でのスペシャルパフォーマンス」が行われている。ペデストリアンデッキから南西方向へのお城通りを見下ろす。右側には「ラスカ小田原」、新しい「ミナカ小田原」が建っている。二階のペデストリアンデッキから三階へのエスカレーター乗り場。小田原駅案内図二階のペデストリアンデッキに設置されていた説明板。東口バスのりば (箱根方面) への案内。パレード開始まで時間が十分にあったので連絡道を歩き前回訪れた「金次郎広場」へ。途中に、ミナカ駐車場精算所。ペデストリアンデッキからミナカ小田原のテラス席がある「金次郎広場」へ。ミナカ小田原の三階にある金次郎広場。金次郎広場はテラス席になっており両側に甘味処がある。この日は五代祭りでパフォーマンスが行われるようで椅子席が準備されていた。金次郎広場の南側に建つ一見金の像のような「二宮金次郎の夫婦像」。映画「二宮金次郎夫婦像」除幕 令和2年12月1日(火)と。二宮金次郎の夫婦像説明小田原が生んだ偉人、二宮金次郎夫婦の像江戸時代末期、小田原の栢山村に生まれた二宮金次郎(尊徳)の生涯が、史上初めて描かれました。五十嵐匠監督の手によって、2019年1月、尊徳翁の関係した多くの市町村の皆様の協力により、百十三分の劇映画として完成いたしました。多くの皆様にご覧頂きたいと願い、劇中の二宮金次郎夫婦の像を、ここに設置いたしました。尊徳翁の業績に感謝して、今こそ、その教えを実行する時が来たと考えます。 平成三十一年一月六日(小田原市特別上映会日)寄贈 万葉俱楽部会長 高橋 弘 小田原市長 加藤 憲一 彫刻制作 宇野 務二宮金次郎夫婦像をズームアップ。金次郎広場のステージでは時間が早く五代祭りのパフォーマンスの練習が行われていた。金次郎広場からお城通りに下りる。お城通り沿いに江戸時代の雰囲気を醸し出している建物が建っている。町並みの一角にコンビニの「LAWSON」が営業。お城通りを南へ進むと、小田原城(正面入口)へ。小田原北條五代祭り会場へ向かう人の列。小田原駅東口駐車場裏から、ミナカ小田原を見上げる。ミナカは14階建てのタワー塔、4階建ての小田原新城下町の複合建物になっている。ミナカ小田原の14階には「展望足湯庭園」がある。営業時間:10:00 ~ 20:00 無料で入れタオルも自動販売機で購入できる。今回はスルーしたが次回は訪れたい。小田原駅東口駐車場の北側から金次郎広場を見上げる。24時間対応のミナカ小田原駐車場出入口。お城通り沿いにミナカ小田原の「城下町市場」。小田原新城下町1階にある「城下町市場」には土産物店等が入居営業している。魚商 小田原六左衛門創業430余年・魚商『鮑屋』の直売所。ご飯やお酒が進む珍味や出汁など、様々な海産物を取り揃え、お土産、贈り物にも最適です。店内にはおむすび屋を併設しており美味しそうなおにぎりがあった。金目鯛とくぞう網元素材、職人手作りの味、相模湾名産の金目鯛にこだわっています。オリジナルの魚・惣菜、小田原土産、あわび串が自慢であると。お城通り沿いを進む多くの観光客。右側の階段、エスカレーターを上ると金次郎広場へ。小田原駅東口のバスのりば。小田原駅東口ネット内はB1Fの「ハルネ小田原」へのエスカレーター。街かど博物館 小田原の歴史、文化を今に伝える街歩きスポット◆ 小田原駅周辺エリア◆ 旧東海道エリア 後訪れる、薬博物館(済生堂薬局小西本店)、梅万資料館(欄干橋ちん里う)。◆ 板橋・早川エリア東口バスのりば (箱根方面)。箱根方面を訪れる外国人観光客はこの地図を見てバスを利用するのだが。10:251階にあった「アークロード」案内図。 ー 続く ー
2023.06.25
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青木神社の参拝を続ける。5月30日(水) 10:45 銅板葺きの手水舎。貼り紙には「自動式手水舎 お手をかざしてお清めください」と。玉垣に「富士山ビューポイント」の貼紙。玉垣の上には双眼鏡がボックスの中に置かれていた。どなたが置かれているのか立派な双眼鏡が入っていた。天気が良いとこのような写真が撮れる。石段を降りることに。本来の参道はこちら側。青木神社の駐車場はこちら側にもあったのか。青木神社入口の交差点を曲がるとここへ来るようだ。参道横には「鎮守の杜 青木神社 静寂な祈り処」と。青木神社への急な石段。石段下には対の御神燈。石段脇には多くの旗が立っていた。神社の由緒と沿革鎮座地 横浜市栄区笠間町三百二十七番地神社名 青木神社祭 神 天照大神 伊弉諾命 伊弉冉命 手力雄命例祭日 九月第三日曜日 (従来は九月二十六日)由緒と沿革 社伝に因れば建武二年(約六百年前以前)、近藤出羽次郎清秀が領内笠間村の青木 繁る高所に神社を建立、一族と領民鎮護の社としたという。新編相模風土記には 「青木明神社 村の鎮守村持」と記されている。 一、明治六年政令により村社に指定、後に神饌幣帛供進神社に指定 一、明治四十一年九月法令に従い、鹿島神社と神明社を合祀 一、昭和二十年萱葺屋根を瓦葺に改造、幟立の再建等改修工事を実施 一、昭和二十五年九月鹿島神社を分祀 一、昭和二十八年十二月宗教法人青木神社として認証 常に法令規則及び神社本庁の庁規に従って運営 一、天皇在位六十年奉祝記念事業の一環として左の工事を実施 昭和六十一年十二月社殿改造及桜植樹 昭和六十二年六月鳥居と石段造営 昭和六十二年八月 宗教法人 青木神社右側通行で石段を上ることに。石段の段数は120段あるようで鳥居下までは「50段」であった。鳥居の扁額「青木神社」。鳥居の右側に石碑が立っていた。旗には「天照皇大神宮と氏神さまの神札をおまつりしましょう 神奈川県神社庁」と。石碑には「奉納 一金 壹千百圓 青木神社基本財産 大正十年一月」 石碑の下段に多くの方の名が刻まれていたが風化して判読できなかった。鳥居下から上ると石段のステップに貼られていた。「中間点・頑張れ 120ー60」と。中間点の上から石段を見下ろす。石段を上り社殿を見上げる。プレートには「到着・御苦労さま 120ー120」と。いろんな所で石段を上ったがこのような親切なプレートは初めてである。石段から拝殿への石畳の参道。青木神社は高所にあり境内は狭い。拝殿の木鼻 (右側)。拝殿の木鼻 (左側)。拝殿には新しい注連縄が飾られていた。拝殿の左側に建つ社務所。社務所に吊るされた「青木神社社務所」の表札。青木神社境内の左側に裏側の広場 (駐車場) がある。社務所の後方に笠間稲荷社の鳥居が見える。笠間稲荷社所在地:神奈川県横浜市栄区笠間5丁目4-1青木神社の隣にある稲荷神社である。鳥居の扁額「笠間稲荷社」。青木神社の由緒沿革によると、平成22年(2010)に境内稲荷社を改築し、笠間稲荷社として整備したと。平成22年に建立、茨城県笠間市にある日本三大稲荷の笠間稲荷より御分霊を頂いた。笠間稲荷社の左側に「二十三夜供養塔」。後方には「ツゲ」の木、石祠。二十三夜供養塔二十三夜供養塔農耕を司る月読尊を祀った供養塔です。月待供養塔ともいいます。十五夜から八日すぎた、二十三夜の月は真夜中に東の空から昇ってきます。月を信仰の対象とした村人たちが、その夜、煮炊きした食べ物や飲物を持って集まり、精進・勤行し、飲食を共にしながら境内で真夜中に出る月を待つ月待ちの行事を行いました。その際の供養に建てた月待塔のひとつが二十三夜供養塔です。村人たちが真夜中までいっしょに行動し飲食を共にすることで絆を確かめ合ったことと思います。この供養塔は萬延元年 閏三月に建てられたものです。 青木神社 石祠をズームアップ。ツゲツゲ科 ツゲ属庭木として用いられる他、質の良い高価な材がとれる木として有名です。イヌシデが聳える。イヌシデカバノキ科 クマシデ属雑木林に多く見られる高木の一つ。秋に美しく黄葉します。青木神社 御輿倉壁面には「青木神社 御輿倉」、「笠間 笠青睦會」の2枚の看板。笠青睦會(りゅうせいむつみかい)は、昭和60年、旧国鉄より神輿を譲り受けた笠間地域の若者十数名が集まり睦會を発会。その會は、笠間の「笠」と青年の「青」を合せて「笠青睦會」と名付けられました。昭和61年には新たに万灯神輿が、平成11年には青木神社宮神輿が作られましたと。御輿倉の横にアジサイが咲いていた。いつの間にかアジサイが咲く時期になっていた。11:05青木神社を後にし帰路についた。青木神社境内の樹々にはネームプレートが吊るされており勉強になった。 END
2023.06.24
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この日も嫁さんのアッシーで大船へ行きその合間に近くにある寺社を訪れた。鎌倉市の大船は横浜市との界にあり訪れた寺社は横浜市であった。松竹前交差点から砂押川を渡り北方向 (鎌倉街道(中の道)) へ進み横浜市栄区へ。5月30日(水) 9:55浄土宗 笠間山法安寺 (ほうあんじ)所在地:神奈川県横浜市栄区笠間5丁目20-16法安寺は、持阿智光了専が文安二年(1445)に創建。光明寺十四世法誉智聡が永正五年(1508)に中興したといわれているお寺である。大船の松竹前交差点から北方向へ進み右側にあった法安寺。参道にあった創建以来の石碑には「奉巡拝西国四国秩父坂東百八十八ヶ所供養塔」と刻まれているようだ。木柱には「創建以来法安寺入口石塔」と。木柱の裏面には「四国巡礼成満記念塔」と。境内入り口に「法安寺創建1353年」「やすらぎのお寺 法安寺」と。境内に入り正面に山門が建っている。法安寺関係者以外の進入は、固くお断り致しますとあったが、山門前に駐車させていただく。山門の後方に本堂が見えたが、山門だけが独立して建っている。山門の右側にはサクラの木が聳えていたがサクラの開花時期も素晴らしいのではと。山門の扁額「笠間山」。山門を入ると右側に六地蔵が並んでいた。六地蔵の廻りは柵で囲まれ保護されていたが。石畳の参道の先に朱色の本堂。参道脇にほうきを持った微笑ましい掃除小僧の像。本堂前左側の、石碑には「鎌倉十五番札所 弘法大師一夜爪彫之作 刻石観音」と。朱色に塗られたコンクリート造りの本堂。本尊は阿弥陀如来像。本堂の扁額「法安寺」。本堂前に立っている観音像?本堂前から山門を振り返る。本堂の左奥には寺務所であろうか。本堂の右側には山林が広がっている。本堂前には笠付きの立派な墓石が並んでいた。法安寺前に駐車して近くにあった石塔を見に。法安寺前の道路 (鎌倉街道(中の道)。左折すると大船駅方面へ。この道は大船方面への鎌倉街道 (中の道) であろう。同場所から県道23号線 (環状4号線) の栄区笠間町交差点方向を望む。右脇に今泉村不動の社。栄区笠間町交差点をズームアップ。交差点は国道1号の原宿交差点からの環状4号線でいつも渋滞している。今泉村不動所在地:神奈川県横浜市栄区笠間5丁目20-20大船方面を望み、住宅地の片隅に建っている。この先の右側に笠間中央公園があり、縄文時代から平安時代にかけての住居跡など多数の遺構が発掘されている。紙垂で飾られた今泉村不動。宝永七年 (1710) に建立されたもので、ちょっと分かりずらいが道標の「今泉村不動江之道」があると。写真から道標らしきものはなく確認できなかった。不動明王をズームアップ。今泉村不動から法安寺へ戻り車へ。右側の新築の家は住職の住宅であろうか。左手前には幼稚園らしき建物もあったが。門前を横切る鎌倉街道 (中の道)。笠間庚申塔所在地:神奈川県横浜市栄区笠間5丁目2-43鎌倉街道 (中の道) 沿いに4基の庚申塔が並んでいる。後方の森は笠間中央公園。狭い道路であったが街道脇に車を停める。左から古い順に並んでおり、左は地蔵坐像(年代不詳)。左から2番目から延宝8年(1680)、正徳4年(1714)、文政6年(1823)、万延元年(1860)の建立。10:10後方の森は笠間中央公園で、縄文時代から平安時代にかけての住居跡など多数の遺構が発掘されているので後日訪れたいものです。10:40青木神社所在地:神奈川県横浜市栄区笠間5丁目4-1大船駅前で妻をピックアップ、カーナビで次の目的地「青木神社」へ向かい鎌倉街道 (中の道)を進むと、青木神社入口の交差点があったがカーナビに従って直進。途中右折して新興住宅街を抜け境内裏の駐車場へ到着。木の幹に「ケヤキ」のネームプレート。ニレ科 ケヤキ属日本で最も大きくなる落葉樹の一つ。材は堅く、建築装飾や器具に利用します。宗教法人 青木神社 由緒沿革鎮座地 神奈川県横浜市栄区笠間五丁目四番一号御祭神 天手力男命 (あめのたぢからおのみこと) 伊弉諾尊 (いざなぎのみこと) 伊弉冉尊 (いざなみのみこと) 天照大神 (あまてらすおおみかみ)由 緒 新編相模風土記及び口碑の伝える所によると 第九十六代・後醍醐天皇の御代 建武二年(1335)足利直義配下の武将出羽次郎清秀 が小坂郷領主と成り郷内笠間村に現今の社地を宮地と定め社殿を造営、平素尊崇せ る天手力男命・伊弉諾尊・伊弉冉尊を奉祭し近藤一族並びに領内鎮護の神社とした。 これ即ち当社の設立なり、現在は郷土笠間の総鎮守として崇敬されている。 沿 革 明治以降は新祇院が置かれ政令により明治六年村社に指定される。 明治四十一年 村内の無各社 神明社および鹿島神社を合祀 大正十一年 神饌幣帛供進神社に指定される 昭和二十五年 宗教法人鹿島神社を分祀 昭和二十八年 宗教法人青木神社として認証 昭和五十二年 本殿・拝殿改修整備 昭和六十二年 参道石段・鳥居・狛犬等境内整備 平成六年 境内擁壁・玉垣・手水舎等境内整備 平成九年 青木神社社務所新築 平成十一年 青木神社宮神輿及び神輿倉新築 平成二十二年 境内稲荷社を改築し、笠間稲荷社として整備青木神社社殿昭和52年(1977)に本殿・拝殿は改修整備された。拝殿の扁額「青木大明神」。拝殿前の狛犬 (右側) は大きなマスクを装着していた。左側の狛犬もマスク。左側に社殿、右側に社務所があり奥にトイレがあった。境内に聳えるスダジイ。青木神社の神様天手力男命 (あめのたぢからおのみこと) 腕力に勝れ大力無双で気はやさしく力持ち 日本神話天の岩戸開きで活躍した神様。伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)・伊弉冉尊 (いざなみのみこと) 日本神話で最初に夫婦神として登場した神様で数々の国土と人々を生成。 天照大神の親神様。天照大神 (あまてらすおおみかみ) 皇室の祖先神としてひとしく尊敬されている。高天原を支配した女性の神様。スダジイブナ科 シイ属秋に実る細長いドングリは、ほんのり甘く食べられます。タイワンリスであろうか樹々の枝を動き回っていた。10:45社殿前から石段を見下ろす。 ー 続く ー
2023.06.23
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月日が経ちましたが嫁さんに付き合い大船へ行った時のブログです。3月29日(水) 9:40JR大船駅前の湘南モノレール。JR大船駅東口前の交差点。駅前には地方統一選挙の神奈川県知事立候補者の黒岩祐治氏が立っていた。候補者の現知事黒岩祐治氏。女性スキャンダル問題が発覚したが対抗馬がなく当選。9:45嫁さんが用事を済ませる間に近くの神社へ参拝。JR大船駅からの松竹通り沿いに立っている石鳥居。山蒼(さんそう)稲荷神社所在地:神奈川県鎌倉市大船2丁目21山蒼稲荷神社は、鎌倉大船に鎮座する大船駅からもほど近い場所にある稲荷神社である。鳥居の扁額「山蒼稲荷神社」。鳥居を潜ると右側に建っている朱色の社務所であろうか。数百年の歴史ある神社が多い鎌倉の中で比較的新しく出来た神社であると。石燈籠と鳥居が建つ。こちらの鳥居の扁額も「山蒼稲荷神社」。鳥居の奥に朱色の小さな社殿が建っている。奉献 山蒼稲荷神社由緒碑今世初期 或ル先覚カ遠大ナ都市計画ヲ目論ミ 此地一帯ノ開発ニ着手シタカ当初ヨリ災厄ノ続出ニ事業ノ中断ヲ余儀ナクシ 為ニ 地元有志ト協議ノ末 霊主教某教主ニ本旨ノ時宜ヲ謀ツタ スルト某ハ此地ノ 守護神トナスベク稲荷大明神ヲ招致シ以テ 鎮守ヲ祈願スルニ然カス トノ指教ヲ寄セラレ 且 昭和五年秋教主カ御神体ヲ刻マレタノテ時ヲ籍サス 眺望絶佳 樹木〇蒼ノ丘ニ社殿ヲ建テ 山蒼稲荷神社ト命名シ御神体ヲ祭祀スルニ 以降 神助ノ故カ事業ノ都テカ順調ニ進捗シ所期ノ目的ヲ遂ゲ 大船今日ノ発展ノ因ヲ作シタ而ルニ同九年 松竹蒲田撮影所ガ此地ニ嘱目シ進出セントスルヲ識リ 本所ニ社殿ヲ遷シ現今ニ至ツテイル。本神社カ此処ニ在シ坐ス経緯ヲ叙述シタ所以ハ向後 尚 彌増シ 此地ノ伸張ト災厄祓除ニ既往ノ霊験ヲ垂レ給ワランコトヲ希ツテニ他ナラナイニ拠ル以上ノ考証ハ巷間 僅カニ散見サレタ記録ト流布スル口碑ニ基スイタモノデアル 昭和五十七年十一月三日 枡岡 智 撰鳥居を潜ると左側に手水舎がある。稲荷神社らしく朱塗りである。社殿横の建物も朱色に塗られているが社務所であろうか。社殿の前には1対のお稲荷様が鎮座していた。右側の狐様。同左側の狐様。社殿の前にも大小の狐様が供えられていた。社殿の扁額「山蒼神社」。二の鳥居前から松竹通り側を望む。地域の方が参拝するお稲荷様であるようで手を合わせておられた。松竹通りに出て振り返る。直進するとJR大船駅へ。振り返り反対方向には元松竹大船撮影所跡地。交差点をズームアップすると「松竹前」の信号。砂押川プロムナード沿いに建っている碑。「贈 松竹大船撮影所落成紀念 櫻樹壱千弐百本 昭和十一年四月十八日」 砂押川沿いに咲くソメイヨシノ。砂押川の上流側。既に樹齢は百年近い古木のソメイヨシノである。砂押川に架かる古い橋の袂には「松竹大通橋」と。コンクリート製の橋である。袂には「昭和十年四月架」と。砂押川に垂れ下がるサクラを見下ろす。砂押川はこの先の大船駅の北側を流れ柏尾川と合流、境川へ。歩道にはられていた鎌倉市の「市の花 リンドウ」。松竹通り。この後帰路につき鎌倉経由で帰ることに。11:25県道21号線(横浜鎌倉線)を走り北鎌倉駅前から鶴岡八幡宮前へ来たが道路は渋滞していた。八幡宮前交差点から若宮大路沿いにある「段葛 (だんかずら)」。段葛とは、鎌倉市の鶴岡八幡宮の参道、若宮大路の中で、二の鳥居から鶴岡八幡宮までの車道より一段高い歩道をいう。終着点には三の鳥居があり、鶴岡八幡宮の境内へと到る。神奈川県指定史跡。若宮大路は一部が国の史跡に指定されており、県道21号横浜鎌倉線の一部である。鶴岡八幡宮の参道若宮大路は、1182年(養和2年)3月15日、源頼朝が妻政子の安産祈願のために造営を始めたのだと伝えられている(同年8月12日、長男頼家が誕生)。曲がりくねっていた鶴岡八幡宮の社前の道をまっすぐにして、由比ヶ浜まで通じさせた。その中央に一段高く造られたのが「段葛」である。2014年 (平成26年) 11月4日から、参道を支える石積みのひび割れ修復と、立ち枯れが目立ち始めた桜の植え替えのため、平成の整備工事が実施され、2016年 (平成28年) 3月30日に竣功している。その為、サクラも若木である。渋滞していたので車窓から見上げる。前方に二の鳥居。二の鳥居を過ぎ前方の信号は「鎌倉駅入口」。11:40国道134号沿いを走る江ノ島電鉄。七里ヶ浜駅手前辺り。国道は渋滞、いつもは愛車のリンちゃんで走っているのでスムーズに走れるのだが。 END
2023.06.22
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NHK放送の反響で賑わう「藤沢えびね・やまゆり園」の満開のエビネを楽しむ。4月27日(木) 10:25引き続き遊歩道脇のエビネを楽しむ。名札には「八幡様 寄贈 エビネラン」と。エビネ昨日(4月26日)、NHKの首都圏ネットワークで「神奈川県藤沢市でエビネが見頃」で訪れたが本当に見頃であった。どのエビネも満開であった。順路に従って反時計回りに多くの訪問者。販売店では手作り手芸品「タワシ 100円」等々が販売されていた。園の入口には「大売出し」の旗が立っていたが何を大売出ししていたのか?。皆さんNHKの放送を見て来られたのであろうが。受付で待つ高齢者の長い列。今日一日の来園者は何人になるのか後日聞いてみたいものだが、NHKも地域の活性化に貢献!遠藤まほろばの里藤沢えびね・やまゆり園NHKでの放送で観光客が多くなり係り員の方達もビックリ。嬉しい誤算はいつまで続くのか。10:35園内で約1時間強のエビネを楽しみ、藤沢えびね・やまゆり園を後にする。南方向からは「慶応大学バスターミナル」から歩いてこられる人も(下車徒歩約8分)。藤沢えびね・やまゆり園の山林・竹林。前方の駐車場は満車になっていた。係員の方が交通整理。藤沢えびね・やまゆり園の北側を走る県道43号線(藤沢厚木線)。県道43号線(藤沢厚木線)の交差点に案内板。この交差点から請之木線を南下、慶応大学入口交差点へ至るが途中に入口があり右折する。11:00天気が良かったので富士を見に「富士見の丘」へハンドルを切る。遠藤宮原線を西へ向かい坂を上り、宇都母知神社入口交差点からの富士。目的地の「富士見の丘」はこの交差点を左折。富士見の丘所在地:神奈川県藤沢市打戻2668田畑の中にベンチが置かれ無料で楽しめる絶景スポットである。この場所は地権者が無料で提供しているようだ。畑仕事をしておられた方と話をすると「ダイヤモンド富士は春分の頃」であると。絵を描いている方もおられた。西側には金時山、矢倉岳、富士山。富士をズームアップ。11:10富士見の丘からの帰路、小出川からの富士。送電線の鉄塔が景観を損なっている。11:30高野山真言宗 甘沼山成就院所在地:神奈川県茅ヶ崎市甘沼473ゴールデンウイーク前後に成就院の境内にナンジャモンジャが綺麗に咲くので立ち寄る。今年は開花が早く10日前の4月17日には満開であったがその後どうなっているか。その時のブログは「成就院のナンジャモンジャ」👈 をクリック願います。駐車場の壁に貼られていた、4月19日現在の写真。4月19日現在の写真 左:黒ろうばい 今が見ごろです。 中:はんかちの木 今が見ごろです。 右:なんじゃもんじゃ これからが見ごろです。タウンニュースにいつも記載され多くの人が訪れる花の寺として知られる成就院である。本堂裏の墓地に咲くナンジャモンジャ。10日前にはテントは設置されていなかったがゴールデンウイークを迎えるので・・・。満開のナンジャモンジャを見上げる。西の空には富士が見えていたがここでも送電線の鉄塔が景観を損なっている。ハンカチノキも一部咲いていた。ナンジャモンジャは10日前に比べると白味を帯びているようだが。ナンジャモンジャは花もちが長いようだ。遅咲きのナンジャモンジャの雌の木も開花していた。雌のナンジャモンジャを見上げる。ズームアップ。雄のナンジャモンジャは花びらが散り始めていた。雪が積もったようになっているナンジャモンジャ。クロバナロウバイもまだ綺麗に咲いていた。ズームアップ。テレビで放送されると来園者、来客者が多くなるので、今回のNHKの放映効果は相当なものであるようだ。 END
2023.06.21
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藤沢えびね・やまゆり園の満開のエビネを引き続き楽しむ。4月27日(木) 10:05エビネの傍に名札がなかったのでここからは写真のみでキャプションはありません。キエビネズームアップ。よく見かけるエビネの色である。白色のエビネ。カメラを下げズームアップ。更にズームアップ。いろんな色のエビネがある。赤色のエビネ。ズームアップ。ヤマユリ (ユリ科)ヤマユリとはユリ科ユリ属の多年生植物。山地に生える日本特産のユリで、夏に咲く花は大型で白く、山中でもよく目立ち、強い芳香を放つ。鱗茎は食用のユリ根になり、別名リョウリユリともよばれている。左の名札は「カタクリ」と。開花時期は3月末頃で既に開花後である。クマガイソウラン科 アツモリソウ属開花時期:4月中旬花の写真をズームアップ。 開花後のクマガイソウ。花柄をズームアップ。花は見るタイミングを合わせるのが難しい。園路はチップ敷散策路と木道になっている。梅雨時には蚊が多く以前来た時は受付で蚊取り線香を貸し出していた (無料)。竹が山林を攻めており杉と竹のコラボになっている。高さ十数メートルを見上げる。杉の木立を見上げる。木道の横にはベンチも設置されている。木道の下には山野草の「シライトソウ」が咲いていた。シライトソウシュロソウ科シライトソウ属開花時期:5月シライトソウは野生の多年草である。和名は糸屑を束ねたような花の姿に由来する。属名は雪の筆を意味する。スウェーデンのカール・ツンベルクによる『日本植物誌』で、この種が世界に紹介された。ブラシのような「シライトソウ」。園路はチップ敷散策路と木道になっている。また、園内は約8mの高低差がある。いつもは人が少ないのだが。遊歩道脇に咲くエビネをローアングルから撮影。ズームアップ。更にズームアップ。赤のエビネ赤のエビネをズームアップ。更にズームアップ。名札には「白根アオイ」。こちらには左から「ガンセキラン」「シラネアオイ」「レンゲショウマ」の名札。ヒメサユリユリ科 ユリ属開花時期:5月中旬傾斜地にいろんなエビネが咲いていた。ズームアップ。ズームアップ。10:25満開のエビネを楽しんだ。 ー 続く ー
2023.06.20
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NHKで放送されたため来訪者が多い「藤沢えびね・やまゆり園」の散策を続ける。4月27日(木) 9:40エビネは、ラン科・エビネ属に分類される多年草で、その仲間は日本から東南アジアの広い範囲に分布しています。日本では、全国各地の低山に古くから自生していました。ただ、現在は愛好家による乱獲によって数が減り、環境省のレッドリストでは準絶滅危惧種に指定されています。エビネは、海老のような太く節のある根茎を持ち、そこから長さ20cmほどの縮れた大きな葉っぱを数枚茂らせます。そして、春になるとその間から30~40cmほどの茎が生え、茎先にいくつもの花を咲かせていきます。花びらが3枚の花を横向きに咲かせ、茶色や緑色と質素な色合いが特徴です。エビネの主な品種花色違いなど、様々な変種、改良・交雑品種が存在します。一般的に売られているものは丈夫な園芸品種が多いですが、中には栽培が難しいものもあります。エビネの花言葉『謙虚』『誠実』『にぎやかな人柄』『忠実』『謙虚な恋』。エビネは、他のランに比べて落ち着いた花色で、控えめな印象を与えます。この姿が、「謙虚な恋」という花言葉の由来だとされています。名札立っていなかったので名前は?。エビネの仲間は150種ほどあるとされていますが、日本では「カランセ属(エビネ属)」のみを指す場合がほとんどです。自然に生えているものの数は減ってしまっていますが、交雑しやすい性質を生かして、現在ではたくさんの園芸品種が作られています。花色も赤やオレンジ、紫など「ない色はない」と言われるほど多彩。春に花を咲かせるものが一般的ですが、夏や冬に花開くものもありますと。藤沢えびね・やまゆり園の北側に位置する「ハナショウブ園」。ニッコウキスゲススキノキ科ワスレグサ属で多年草。属名の Hemerocallis はギリシャ語の「hemera(一日)+callos(美)」からきている。この属の植物の花は一日でしぼむことから名づけられた。 変種名の esculenta は「食用になる」という意味である。 日光に多いのでこの名がある。 漢字では「日光黄菅」とも書く。 別名を禅庭花 (ゼンテイカ) と言う。 近縁種の黄萓 (キスゲ) は夕方から咲き始めて翌日の朝にしぼみ、夕萓 (ユウスゲ) とも呼ばれる。 園芸種のヘメロカリスは黄萓が欧米で品種改良されたものである。属名のワスレグサは「忘れ草」で、この名は万葉集にも登場する。葉の特徴根際から生える葉は線形である。花の特徴花はラッパ状に開き、直径7センチくらいである。 花びら(花被片)は6枚あり、黄橙色をしている。 朝開いて夕方にはしぼむ一日花である。ニッコウキスゲは、北海道から本州の中部地方にかけて分布。 海外では、朝鮮半島、中国、シベリアにも分布している。オドリコソウシソ科オドリコソウ属開花時期:4月和名オドリコソウは、「踊子草」の意で、花が輪生したようすが、笠をかぶって踊る踊子に似ていることによる。オドリコソウをズームアップ。更にズームアップ。ムサシアブミ (武蔵鐙)サトイモ科テンナンショウ属の多年草。別称「由跋」、古くは「加岐都波奈」とも呼ばれていた。関東地方以西〜沖縄の海岸に近いやや湿った林内に生える。葉は2個つき、小葉は3個。葉柄は高さ15〜30cm。葉柄の間から葉よりやや低い花茎をだし、仏炎苞に包まれた肉穂花序をつける。仏炎苞は暗紫色か緑色まで変化があり、白い筋がある。筒部は長さ4〜7cmで、口辺部は耳状にはりだし、舷部は袋状に巻き込む。花序の付属体は白い棒状。花期は3〜5月。ムサシアブミに似た花でマムシグサがある。名の由来は、「ムサシアブミ」は、馬に乗ったときに足をかける鐙(あぶみ)に似ていることに由来しています。 「マムシグサ」は、花の様子がマムシが鎌首をもたげている様に似ている、茎の模様がマムシの模様に似ていることに由来してるようです。遊歩道を進むといろんなエビネが咲いており花の傍に名札が立っていた。エビネ「蘭丸」「織姫」。エビネ「蘭丸」。エビネ「幻の金鳥」。エビネ「幻の金鳥」をズームアップ。エビネ「岩屋姫」。名札に花の写真もありわかりやすい。エビネ「岩屋姫」をズームアップ。更にズームアップ。エビネ「渡川の幻」。木漏れ日の中に咲く、エビネ「渡川の幻」。更にズームアップ。キエビネであったか?。エビネ「島紫光」。エビネ「島紫光」をズームアップ。エビネ「天竜」。エビネ「天竜」をズームアップ。更にズームアップするが背丈が低いので撮影が大変である。ローアングルから撮影。遊歩道の下に咲いているので難しい。ズームアップしても視線が上からになる。一区画にいろんな種類のエビネが植えられていた。エビネ「富士の羽衣」。エビネ「富士の羽衣」をズームアップ。名札がなかったのでエビネの名は?。10:05ズームアップ。 ー 続く ー
2023.06.19
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昨日(4月26日)、NHKの首都圏ネットワークで「神奈川県藤沢市でエビネが見頃」であるとの放送があり車で訪れた。放送では「園内では 5,000株、130種のエビネが咲いており、例年より1週間早い」と。なお、ダイジェスト版を既に4/27(木)にアップしております。4月27日(木) 9:10NHKでの放送もあり人が多いのではと思い早めに訪れた。駐車場は無料で、いつもは係員はいなかったがこの日は2名の方が誘導していた。予想通りいつもは少ない駐車場には既に十数台が駐車。次から次と車が・・・。駐車場脇の畑では地元産の野菜も販売。駐車場にはいつもは係員の方はいないのだがこれも予想して2名の方が誘導。この先を右折して駐車場へ。駐車場から歩いて「藤沢えびね・やまゆり園」へは数分の距離。案内板「藤沢えびね・やまゆり園」。慶応大学入口交差点から請之木線を北上、「農家レストランいぶき」前を左折するとここへ。駐車場を振り返るが狭いので既に満車近くなっていた。道路脇に咲いていたウズキであろうか。藤沢えびね・やまゆり園は竹林の中に位置する。南方向からは慶應義塾大学看護医療学部から竹林の中を上って来る。遠藤まほろばの里 藤沢えびね やまゆり園所在地:神奈川県藤沢市遠藤4580当園は遠藤に残された山林、竹林、畑など里山の自然景観を多くの人に楽しんでもらうと同時に、地域や農業の活性化の一助となることを目指して2015年春に開園した。エビネ、ヤマユリ、ヤマアジサイなど約130種類の山野草を鑑賞していただいたり、地元の新鮮な農産物に親しんでいただくための施設です。入口に掲示されている掲示板。9:20藤沢えびね・やまゆり園受付開園期間:4月 第2日曜日 ~ 8月 第2日曜日 午前9時 ~ 午後4時 期間中は無休入 園 料 :おとな 300円 小中高生 200円当園は「NPO法人 里地里山景観と農業の再生プロジェクト」の活動。地権者の方々の協力を得て、面積8,500㎡の山林に山野草園「藤沢えびね・やまゆり園」を開園し、運営している。NPOの会員募集中!と。受付で係員の方に聞くと「今日は開園早々から多くの人が訪れNHKの放送反響はすごい!」と。受付でもらったパンフレット。交通アクセス湘南台駅 (小田急江ノ島線) から慶応大学バスターミナル下車 徒歩約8分辻堂駅 (JR東海道) から慶応大学バスターミナル下車 徒歩約8分。今日の来訪者は何人になるか?園内では「山ゆり 500円」も販売。藤沢えびね・やまゆり園 山野草位置図施設概要 面積約8,500㎡の山林内に、山野草や樹木が約130種が植栽されています。 園路はチップ敷散策路と木道となっています。 園内は約8mの高低差があります。このため 変化にとんだ地形になっており、一部傾斜路や階段がありますのでご理解ください。 丘陵地状の里山に、山野草が咲き自然景観も楽しめる施設となっています。園内には休憩所も設置され花図鑑も置かれている。既に多くの人が訪れていた。現在NHKで放送中の朝ドラ「らんまん」も影響して植物に興味を感じる人が多くなっている。売店では、地元の新鮮な農産物、山野草を販売しているが食べ物は?。廻りは竹林であるのでタケノコの販売も行っていると。園内でも採れるのでは。トイレも仮設ではあるが設置されている。順路(反時計回り)に従って竹林の中を進む。園路はチップ敷散策路と木道となっています。また、園内は約8mの高低差がありますと。エビネラン科エビネ属の多年草で地上性のランである。ジエビネ、ヤブエビネと呼ばれることもある。花のそばには名札が立てられている。ガンセキランラン科 ガンセキラン属開花時期:5月中旬ガンセキランをズームアップ。花の背丈が低いのでカメラをローアングルにするが。キエビネズームアップ。キエビネは鮮やかな黄色い花色が特徴で、やや大型になります。原種の中では比較的栽培しやすい種である。ミヤコワスレキク科シオン続開花時期:5月ミヤコワスレこれも「キエビネ」であったか。エビネの特徴多数の品種がそろう人気の山野草です。種類や品種によっては性質の弱いものもありますが、普及している園芸品種は丈夫なものが多く地植えでも容易に育てられます。一般的には春咲きのエビネの改良・交雑品種がよく育てられています。原種も出回っていますが、キエビネやナツエビネを除けば玄人向けといえます。花は総状花序になり、控えめながらもラン科特有の美しい姿です。葉は左右に大きく広がり葉脈がよく目立ちます。株はロゼットタイプでバルブ(塊茎)がつきます。根は「エビ根」の名のとおり太くなります。ヤマブキソウ (ケシ科)ヤマブキソウをズームアップ。山林、竹林の中にチップ敷散策路がある。傾斜地にはタケノコが頭を出していた。ヒメサユリ (ユリ科)。開花時期は6月頃?、楽しみであるが。ユキワリソウサクラソウ科 サクラソウ属開花時期:3月中旬開園期間が4月の第2日曜日からであるので見ることができるのか。咲き終わったユキワリソウの群生地。キエビネ名札が立っていなかったが。名札立っていなかったので名前は?。ズームアップ。エビネの育て方木漏れ日が当たるような半日影の、水はけのよい土の場所が適地。明るい日陰でも育ちますが花つきは半日陰の方がよいです。夏に直射光が当たるようなら遮光して葉焼けを防ぎます。通気性の悪い土だと上手く育ちません。粒状の鹿沼土や桐生砂などを混ぜて改善しますと。こちらも名札立っていなかったので名前は?。9:40ズームアップ。 ー 続く ー
2023.06.18
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林泉寺のフジは花房の長さが最高1m50cmにものび、平均90cmと立派なものである。4月24日(月) 15:50本堂前の藤棚。藤棚の下には真新しい木のベンチが置かれていた。本堂前?「藤の花志納 ひと口500円 玄関にて」とあったようだが私の目には入らず・・・。本堂前の藤棚を見上げる。本堂前の左側にある池のある日本庭園。池を見下ろす羅漢像。フジのほのかな香りがしていたがここでもクマバチが少なかった。駐車場脇にある六地蔵を藤棚が飾る。15:50花房が長いものでは1m50cm近くにも及び、貫禄ある美しさである。林泉寺のフジを楽しみ、道路を挟んだ向かい側に石鳥居があったので参拝することに。山神社 (やまじんじゃ)所在地:静岡県伊東市荻65県道351号線 (池東松原線) 沿いにある神社である。道路沿いに一の鳥居。一の鳥居の扁額「山神社」。東海バスのバス停「荻 (おぎ) 」。一の鳥居を潜り階段を上り参道へ進む。参道右側の木柱に「伊東市指定 天然記念物 山神社のムクの木(群落) 伊東市・荻区」。ムク(椋)の木はニレ科の落葉高木。関東地方から西に分布している。 伊豆では低地にみられるが、この神社の社叢のように大木がある面積にかたまっているのは珍しい。ムクノキはケヤキと樹皮や葉が似ているが、葉はケヤキより硬く、物を磨いたり、陶器の模様をつけるのに使われた。 樹幹はケヤキより赤っぽい。果実が秋に黒く熟し、食べると甘い。 以前参拝した音無神社にも大きな木があると。参道を進むと手水舎、ニの鳥居。二の鳥居の扁額は「三社宮」。山神社 (やまじんじゃ)鎮座地 伊東市荻六五番地御祭神 大山祇命 (おおやまずみのみこと)例祭日 十月十五日由 緒創建は詳かでないが、元禄十五年八月再建の棟札、並びに元禄年間奉納された鰐ロ等から判断すると、江戸時代初期以前に建立され、山村神社として信仰、崇敬されていた由が分かるが、社殿は幾度かの火災によって、記録を留めた資料はなく、その証を顕著に示しているものは、境内地に繁茂する推定四〇〇年、六〇〇年を越えた老杉、欅や、伊東市より天然記念樹と指定されたムクの木がある。マスクを取り外された右側の狛犬。同じく左側の狛犬。正面に「拝殿」。拝殿の扁額には「山神社」。拝殿前から参道を振り返り二の鳥居、一の鳥居。道路を渡ると林泉寺。境内には推定400 ~ 600年を越える老杉、けやき、ムクの木の群落が聳える。境内の右側(南)。拝殿の左側に廻り込み本殿を見る。宗教法人 山神社 沿革祭 神 大山祇命 (おおやまぐいのみこと)例 祭 十一月四日 現行 十月十五日由 緒 當神社の創建年月は不詳なれど、神木の樹令などから考察して五百年以前と推定せられ 寛文十年(1671)正月御西霊元天皇の御代 小岡村崇敬者により鰐口が奉献しあり三百年 以前當時の社の姿を彷彿せるものあり。元禄十五年(1703)八月 東山天皇の御代社の老朽 甚だしきに至り小岡村氏子中により此の地に再建す。文化十三年(1804)十月荻村土屋五左 衛門氏願主となり氏子中と共に初めて石の鳥居を奉献せり。宝暦十年九月同じく石燈籠の 奉献あり其の後明治に至り六年(1873)九月賀茂郡荻村社に列すとの棟札あり。明治十三年 社殿漸やく腐朽し来るにより荻村氏子改築の計を立て當時富戸村棟梁田畑某の弟子荻村政 水傳兵衛氏により前の本殿、拝殿を建立せり。明治二十二年(1889)二月川奈、吉田、荻 十足四村を統合し小室村となり、郷社 山神社となる。大正五年(1917)小室村社となる。 昭和に至り二十年(1945)八月世界第二次戦争の終戦を迎え 二十六年政宗分離による宗教 法人法施行せられ宗教法人 山神社となる。爾来再三に亙り補修を加え来るも神殿を除き 本殿拝殿及び庁舎の腐朽甚だしきに至り四十六年氏子総代相議り神社本庁の認可を得て此 等改築に着手し昭和四十六年八月十三日社務所並びに手水舎を竣功せしめ翌四十七年十月 十五日本殿、拝殿の竣工並に鳥居、狛犬燈籠の建立、幣殿拝殿の内装を完了せり。 関係者の名が刻まれている。 昭和四十八年(1973)九月 伊東市荻氏子中 建之拝殿横からの境内には老杉、けやき、ムクの木の群落が聳える。鬱蒼とした樹々を見上げる。ムクの木の幹であろうか。境内の南側には、推定400 ~ 600年を越える老杉、けやき、ムクの木の群落があった。市指定文化財 (天然記念物) 「山神社のムクの木(群落)」ムクの木は、丘陵地帯に多くみられるニレ科の落葉高木で、関東地方から西に分布する。材質は堅く、割れにくいため、野球のバット、げたの歯などに用いられている。また、果実は球形で、秋には黒く熟し甘味がある。 指定 昭和45年5月12日 伊東市教育委員会老木が聳える境内。山神社から林泉寺へ戻る。多くの人が訪れておられたが休日には道路も渋滞すると。このような長いフジの花房は見たことがないので再度本堂前へ。花房は最高1m50cmにものび、平均90cmもあるという林泉寺のフジ。赤頭巾をかぶった六地蔵は2か所に置かれている。境内には何体もの羅漢像が置かれている。本堂前の藤棚から花房が垂れ下がる。藤棚を見上げる。駐車場脇にかんざしに似た藤棚。いつまでも見飽きない長い花房である。藤棚を見上げる。六地蔵の先に老杉が聳えていたのだが。六地蔵の後方から。メジャーを持っていなかったので解らないが、1メートル以上あったか。駐車場脇に立っていた羅漢像がこいのぼりを持っていた。また、庚申塔、馬頭観世音等もたっていた。16:10数日前の4月19日にも藤沢市のフジを楽しんだが今回もここ伊東市のフジを堪能した。静岡県下には吉田町にも同名の林泉寺があり、フジが有名とのことであるので来年訪れるか。約30分間フジの花を楽しみ帰路につく。林泉寺から帰路はカーナビで検索、熱海経由国道135号を走り小田原早川から西湘バイパスルートを走ることに。自宅までの所要距離は75キロメートルで約2時間と。渋滞を心配したが熱海、湯河原の国道135号を順調に走り、真鶴駅辺りから渋滞が始まっていたので山側の県道740号線(小田原湯河原線)を走る。17:45根府川の先で国道135号(真鶴街道)と合流。真鶴街道からの大山を望む。左手前には小田原城の天守閣が見えた。18:35予測より早く動けたので夕食は取らず自宅へ到着。今日のドライブは、反時計回りに走り走行距離は324km。また、私の歩行数は8,600歩であった。来年訪れたい「林泉寺の長藤」所在地:静岡県榛原郡吉田町片岡2599林泉寺の長藤は、1915年牧之原市東光寺の住職が有名な「熊野の長藤」を譲り受けたその子株です。毎年4月下旬頃から5月上旬頃まで林泉寺の境内は紫の藤棚を楽しむ人で賑わいます。甘い香りただよう藤の下でお花見が開かれ、長藤まつりも開催されますと。 END
2023.06.17
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小室山つつじ園から国道135号を南下。4月24日(月) 14:55国道135号の城ヶ崎入口交差点を左折して何度か訪れている「城ヶ崎海岸」方向へ進む。ロータリーに大きな看板「ニューヨークランプ&フラワーミュージアム」。「 ⇐ P つり橋遊歩道駐車場 (城ヶ崎門脇灯台・つり橋入口) ミュージアム入館のお客様は駐車料無料」と。ニューヨークランプミュージアム& フラワーガーデンへ。案内板。ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン所在地:静岡県伊東市富戸841-1ステンドグラスのアイコン的存在であるティファニー ランプに特化したミュージアムである。園内にはカフェと四季折々の花が咲く庭園が併設されている。右側の門扉には「NEW YORK LAMP & FLOWER MUSEUM」。祝認定 ユネスコ世界ジオパーク左側には「城ヶ崎つり橋遊歩道入口 ← 林間コース片道約15分、散策コース片道約25分」と。入口には「フラワーカレンダー」「ミュージアムマップ」。園内には静岡県内屈指のあじさい苑があり、その年の開花状況によるが、例年5月末 ~ 7月初旬にかけてオープンするあじさい苑では、圧巻の200種類以上、3,000株のアジサイが見れると。今回は入園料も平日1500円と高く、時間もないのでスルー。ニューヨークランプミュージアム& フラワーガーデンミュージアムマップニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデンの駐車場。出口方向に、バス停、ANTIQUE & SHOP さくらさくら。テイクアウトショップ Lilyニューヨークランプミュージアムのチケット売場の横にあるショップ。店の前には、パラソル付きのテーブルと椅子があるので、ちょっとした休憩スポットになっている。ショップの前にはバスの停留所も併設している。ニューヨークランプミュージアム& フラワーガーデン入口をズームアップ。テイクアウトショップ Lilyの隣に「ANTIQUE & SHOP さくらさくら」。園内の案内が掲示されていた。旅友から抹茶ミックスソフトを頂きました。さくらさくら所在地:静岡県伊東市富戸841和と洋が絶妙に溶け合うミュージアムとフラワーガーデンの旅のエピローグがここ「ANTIQUE & SHOP さくらさくら」。ここには日本の伝統の奥深さを感じる陶器や根付などの工芸品や、華やかなファブリルガラスの花器、そして伊豆のおみやげまでバリエーション豊かな逸品を取り揃えていますと。旅友は店内に入り撮影していたが路上駐車のため私は外で待機。ステンドグラスのランプや小物雑貨、お菓子類が購入できる洒落たお店である。店内の一部写真。15:20愛車のノートを路上駐車して美味しくいただきました。この後、旅友がスマホで「近くにある名所」を検索「林泉寺」をカーナビにセット。15:45曹洞宗 水東山 林泉寺 (りんせんじ)所在地:静岡県伊東市荻90境内には日本庭園と藤棚を有しており、その樹齢300年あまりの藤の大木は県の『天然記念物』に指定されており、県内有数の長藤の名所として知られている。寺号標石の左に「南無阿弥陀佛」碑。県道351号線沿いに立つ、寺号標石「林泉禅寺」。境内入り口に駐車場(10数台可能)があり車を停め散策をはじめる。伊東温泉七福神のひとつで、御本尊として釈迦如来像を安置する曹洞宗寺院。幸福・財産・長寿の三徳を兼ね備えた福禄寿や、江戸時代の1802年に当地に移ってきた際に安置されるようになった薬師如来像と月光菩薩像、一刀彫の三十三体観世音菩薩像などがある。毎年5月8日には、三十三観音大祭も執り行われる。フジの花はその薄紫色の色合いといい漂う香りといい、上品で高貴なイメージがすると県指定天然記念物 林泉寺のフジ林泉寺は、約500年前に建立され、薬師如来像、日光月光菩薩を御本尊とし、今から約300年前に信者がフジを寄贈しました。花の長さは最高1m50cmにものび、平均90cmの紫色のフジが咲き乱れます。 目通り 1m55cm 枝張広さ 36㎡ 指定 昭和45年6月2日 伊東市教育委員会藤棚の下に赤頭巾を被った六地蔵が並ぶ。耳を出し仲良く語り合う羅漢像の姿も。境内入り口には、糸が引かれたかのように、ピンと目が合い息がピッタリの羅漢像が座る。左側には幹回り数メートルの杉の古木が聳える。羅漢像は酒を酌み交わしているのか。林泉寺の花房の長さは最高1m50cmであると。静岡県内には同名の林泉寺が吉田町にもあり「林泉寺の長藤」として知られ、ここ伊東の林泉寺も県内有数の藤の名所に数えられると。参道の左側に庚申塔も並ぶ、背後には杉の木。境内に入ると本堂右前に二本のフジが植えられている。こちらにも六地蔵が並んでいた。本堂前の藤棚からフジの花房が下がる。本堂前のフジをズームアップ。鉄パイプ製の藤棚に古木のフジの枝が伸びる。この枝振りも見て欲しいと!境内の六地蔵。本堂の扁額「林泉寺」。本堂の内陣を見る。本尊の釈迦牟尼仏をズームアップ。本堂前から右側の藤棚を見下ろす。同場所から左側を見下ろす。葉芽も出ているが花房も長い。本堂左側奥に六角堂。本堂の左奥にあったのが、旧落雁堂、六角堂の「水子堂」。手前の赤い葉の木は「ノムラモミジ」と旅友から。ノムラモミジは、カエデ科落葉樹であるイロハモミジの赤葉品種です。葉が新しく出たときから赤く色づいています。夏場は緑になりますが、紅葉シーズンになると再度赤になりますと。内陣には、水子地蔵。水子堂の奥に墓石群があった。合同墓であろうか、台座には「南無」と。15:50太平洋戦争で亡くなられた陸軍兵士の墓が並んでいた。 ー 続く ー
2023.06.16
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40haの公園内に植えられている10万本ものつつじの散策を続ける。4月24日(月) 13:55小室山公園の石碑。石碑の裏に廻り込み、小室山観光リフト、小室山レストハウスを望む。石碑にはめ込まれた小室山公園の写真。小室山公園には、からあげ、フライドポテト等の露天商も出ていた。平和への道標 (みちしるべ)良い子の皆さんここに祀られている方々は、皆さんの美しい故郷の山や川を守り日本の平和と豊かな暮らしを願いながら、いくたびかの戦争の中でなくなられました。今日の平和を思うとき、私たちは、ここに眠る方々を決して忘れません。この尊い心を受け継ぎ感謝の心をもって一日一日を大切にしてください 合掌広場の丘の上に白い塔。参道への左手にあった苔むした石碑には、「みたまよ麗しくふる里にねむりたまえ」と。参道の右手前には「海軍の錨の墓標」が奉納されていた。ここには「航空隊のプロペラの墓標」が。参道両側にはピークを過ぎた赤いつつじが咲いていた。参道を登ると右側に狛犬の阿形像。左側には狛犬の吽形像。戦歿殉難者慰霊塔この慰霊塔の中には、「帝国在郷軍人会伊東町分会海軍部旗」があり、東郷平八郎元帥の直筆が添えられているとのこと。塔の壁面には「慰霊の塔」この塔は過去数次の大戦において祖国の繁栄を念じつつ尊い一命をささげた英霊壱千五百柱の偉勲をたたえその霊を慰めるため市民の浄財によって建立されたものである。 昭和四十二年四月 伊東市戦歿殉難者慰霊塔から下り右側に「忠魂碑」。こちらにも一段高いところに「忠魂碑」。忠魂碑には「元帥陸軍大将○○○○○○書」とあった。小室山公園案内図小室山公園 つばき園約15,000平方メートルの敷地に1,000種4,000本のつばきが植栽され、10月上旬から咲き始め4月中旬までさまざまな種類を観賞できる、日本一の規模を誇るつばき園です。見頃を迎える2月中旬なら3月中旬には「つばき観賞会」が開催され、可憐なつばきの一輪挿しの展示などが行われます。園内にある庵「富士見亭」からの、咲き誇るつばきと富士山の眺望も見事です。小室山公園は、一年を通して楽しめる自然公園です。海抜321メートルの山頂ならは360度の大パノラマがひろがり、つつじ、つばき、小室桜をはじめとする四季折々の花は公園全体を彩ります。つつじ園公園の西側麓には、約35,000平方メートルに40種・10万本のつつじが植栽されているつつじ園が広がっており、4月下旬頃から5月初旬までの開花時期には、園内は赤い絨毯を敷き詰めたようにつつじが咲き誇り、つつじの絨毯と富士山を望むことができます。4月29日 ~ 5月5日の小室山つつじ祭りは市内外から多くの観光客が訪れます。山頂からの眺望観光リフト、遊歩道で向かう小室山山頂からは富士山をはじめ相模湾と伊豆の島々、天城連山など、360度の眺望をお楽しみいただけます。小室神社小室神社は、元禄十六年(1703年)の大地震によって被害を受けた小田原領の西方鎮守として、広く関東一円の沿岸を望み見る小室山山頂に建立されました。地震・海難・火災・疫病から人々を守り、復興を見守る神として信仰されています。小室山レストハウス前のロータリー。伊東駅へのバス発着場である。工事中の小室山レストハウス前から見下ろす。小室山案内図小室山レストハウスから山頂へ二つの登山コースがある。 ・森林浴と癒し満喫コース 徒歩約20分 ・ジュラシックコース 徒歩約18分 途中、恐竜広場があり全部で16体の恐竜のモニュメントが設置されている。山頂の自然な起伏を活かしたボードウォークからは、北に富士山、東には相模灘や房総半島、南には伊豆諸島、西には天城連山など雄大な景色が360°広がります。山頂にある「Cafe 321」。山頂の自然な地形を活かし、地中に潜り込むようなカフェ。店内からは相模灘と伊豆大島などが眺望できる絶景ビューポイントです!小室山観光リフト乗り場。営業時間:9:30~16:00 (荒天・点検時運休)料 金 表 :大人 往復料金 800円、片道料金 500円レトロなシングルリフトで片道約5分の空中散歩をお楽しみください!この日は天気が悪く頂上からの眺望が期待できないのでスルーすることに。ツアー客が長い列をなしていた。伊東市 広域図伊東市観光マップ春は10万本のつつじと桜、10月中旬から4月中旬にかけて咲きほこる4,000本のつばきなど、一年中楽しめる花の名所です。標高321mの山頂までは観光リフトがあり、山頂からは伊豆七島や天城連山など、360度の景観を楽しむ事ができます。小室山リフトバス停横の広場にあった作品。地元彫刻家の重岡建治氏作の平和モニュメント「愛のモニュメント」原水爆禁止伊東市協議会と憲法9条を守る伊東市民の会が市に寄贈した作品で、高さは台座部分を含めて3.2メートル。重岡氏が手掛け、2011年に新築された中国・北京の日本大使館に設置された像とほぼ同じ形としたのだと。四阿から北西方向下には市営グランド。かすかに富士が見えていたので露出を変更するが・・・。西方向にこれから訪れる「つつじのトンネル」を見下ろす。手前は一斉に咲き終わったつつじ。つつじのトンネル入口をズームアップ。つつじのトンネル入口から下りてきた階段を振り返る。つつじのトンネル入口。ピークを過ぎていたが見事なトンネルであった。つつじの樹高は5 ~ 10メートルになるのでこのようなトンネルを形成するのだ。記念撮影されるご夫婦。背丈以上のつつじが両側に並ぶつつじのトンネルは写真映えするスポットとして人気!満開のつつじを見上げる。ちなみに、つつじの花言葉は、赤色の花は「恋の喜び」、白色の花は「初恋」だと。右奥に小室山観光リフト。つつじの小路を抜ける。このような種類のつつじも。老木になったつつじ。つつじの後方に小室山観光リフト。小室山観光リフトをズームアップ。14:30ピーク時にはこの光景は真っ赤な絨毯になるのだ、またいつか、奥には枝垂れ桜も。約45分間小室山つつじ園のつつじを堪能し後にすることに。次の目的地は近くにある「ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン」へ。 ー 続く ー
2023.06.15
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富士山本宮浅間大社の参拝を続ける。4月24日(月) 11:05祈祷殿、交通安全祓所の西側にある忠魂碑。鳥居の扁額「富士地区 忠魂碑」。石鳥居をくぐると丘の上に様々な忠魂碑が並んでいた。石碑には、 「明治三十七八季戦役 彰忠碑 侯爵 西園寺公望 書」。こちらは「慰忠」碑。碑には多くの人の氏名が刻まれていた。鳥居建設境内整備寄附者芳名 昭和四十四年十一月吉日 多くの人の住所氏名が刻まれていた。西鳥居。楼門前に戻る。参道の南側に三之鳥居、二之鳥居を見る。富士宮富士公園線(県道180号線)の御手洗橋交差点。境内の駐車場へはここを入る。朱色の橋が「御手洗橋」。交差点には「御手洗橋 (Mitarashi Bridge)」。11:10参拝を終え駐車場へ戻ったが、富士山本宮浅間大社へ来た時気になっていた「お宮横丁」へ。時間が早かったが伊東へは時間がかかるので、富士宮へ来たらB級グルメの「富士宮やきそば」を食べないと思い昼食をとることに。お宮横丁は富士山本宮浅間大社の門前にある屋外フードコートである。お宮横丁にはアンテナショップ、同じ富士宮やきそばの店があった。お宮横丁にはお土産店もあった。フードコートでは飲料用の水が湧き出ていた。その中で「むすび屋」のやきそばを楽しむことに。店先ではやきそば以外にもだんご等いろんなものを販売していた。富士宮やきそばの他に別腹で「ずんだまんじゅう」も注文。また、来客した有名人の写真も貼られていた。店長の許可を得て撮影。カメラを構えたから店長さんも緊張したか。別のお客さんが食べていた、ミックスやきそば (ソース味&塩味) を撮影させてもらった。我々はソース味の「富士宮やきそば」550円 を楽しんだ。ゴルフで来た時いつもお土産で購入していたので久しぶりの味であった。コシの強い麺と、肉かすやイワシの削り粉を入れた味付けで美味であった。どれも美味しそうであった!11:30駐車場にある二之鳥居。観光バスが一台訪れていた。次の目的地「伊東市の小室山つつじ園」をカーナビにセットして出発。一般道を利用し目的地までは約75キロ、所要時間は約2時間と。二之鳥居には、「奉納 大昭和製紙株式会社 創立三十周年記念 社長 斎藤知一郎」と。13:00富士山本宮浅間大社から国道139号を南下、国道1号、三島から国道136号を南下。大仁中央インタを右折して県道19号線(伊東大仁線)を走り、亀石峠を越え東伊豆へ向かう。13:15県道19号線(伊東大仁線)の亀石峠から下り途中にあった漂流船?「安針丸」。この設備は現在は閉鎖中なのか?入口に立っていた看板。近くに「うさみ観音寺」があったのか。県道19号線(伊東大仁線)を海岸線へ進む。13:20亀石峠から下りこの先の亀石峠入口交差点で国道135号と合流、ここを右折し目的地へ。国道135号を進むと道路脇に「小室山公園 つつじ鑑賞会」と書かれた看板。ここを左折して目的地の「小室山つつじ園」へ。13:45小室山つつじ園所在地:静岡県伊東市川奈 公園中央伊東駅からバスで20分、40haの公園内に植えられている10万本ものつつじ。公園内には美しい自然林の間を縫って通じている観光リフトも有り、頂上からの展望はすばらしく、春、つつじの花に覆われた丘も見事である、他には、椿もみられる。 通年はG.Wの期間にはつつじ祭りが開催されるが今年は咲き終わっているのではと。小室山公園つつじ観賞会2023年4月15日(土) ~ 5月7日(日)の間「小室山公園つつじ観賞会」を開催します。小室山のつつじ園には、40種類10万本のつつじが植栽されている。入園料は無料で期間中は小室山グランドを臨時駐車場として開放している (駐車料金 500円)。下の道はリフト乗り場へのバス道。枝垂れ桜の下につつじ。つつじは、ツツジ科の植物であり、学術的にはツツジ属の植物の総称である。ただしドウダンツツジのようにツツジ属に属さないツツジ科の植物にもツツジと呼ばれるものがあるので注意が必要である。 主にアジアに広く分布し、ネパールでは国花となっていると。ピーク時には丘陵地を覆うつつじの絨毯であろう。つつじとさつきの違いはいろいろあるが、花の咲き方はつつじが一斉に咲くのに対し、さつきはパラパラと咲きますと。別の方角もピークを過ぎていた。丘の上に四阿が建っている。階段を上るとリフト乗り場へ至る。ズームアップ。つつじは同時に咲かないようだ。つつじの植え込みの中に「小室山 五俳人の句碑 小室山を詠む」の句碑。 ● 恋すてふ落暉追ひ落つ寒椿 恭子 ● 鄙ぶりのくれなゐ強き椿かな 茂雄 ● つつじ燃え伊⾖の近か富⼠親しうす 南畦 ● 人語絶ゆるまて繚乱とつゝし燃ゆ 龍人 ● 神々の襖をはづす五月富士 器句碑「小室山を詠ふ」伊東市俳句連盟では、伊東市文化協会の主催により例年伊東温泉つつじまつり俳句大会を開催しておりますが、本年第五回大会を迎えるに当りこれを記念して選者五先生の御染筆により句碑を建立しました。選者名 渡辺恭子 曲 水主宰 島村茂雄 笛 主宰 河野南畦 あざみ主宰 小笠原龍人 塔 主宰 神蔵 器 風 土主宰副碑裏面 文字なし昭和六一年四月満開のつつじをズームアップ。階段を上り途中から駐車場方向を見下ろす。ピーク時も見てみたいものだが。つつじの開花はタイミングが難しい。更に階段を上り西方向を見下ろす。階段の最上段から見下ろす。下の道路はリフト乗り場へのバス道。丘の上の四阿から正面奥に小室山グランドの臨時駐車場を見る。13:55奥は小室山観光リフト乗り場、小室山レストハウス。植込みに中には「敬宮愛子内親王お誕生記念植樹」の立札。 ー 続く ー
2023.06.14
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富士山本宮浅間大社の参拝を続ける。4月24日(月) 10:50湧玉池(わくたまいけ)は十数名の人が清掃していた。湧玉池は、富士山本宮浅間大社の境内にある湧泉で、国の特別天然記念物に指定されており、平成の名水百選のひとつでもある。右側辺りが富士への登山者が身を清めた「禊所」であろうか。湧玉池の水深は膝下の深さであろうか。湧玉池は富士山の雪解け水が伏流水となって毎秒2.4kℓ流出している。水温は一年を通して13℃でほぼ一定である。末社 稲荷神社稲荷社の前には狐。後方に湧玉池。末社 稲荷神社祭 神 宇迦之御魂神 (うかのみたまのかみ) 猿田彦神 (さるたひこかみ)、大宮姫神 (おおみやひめのかみ)例 祭 ニ月初午湧玉池(下池)を東へ進むと朱色の橋「神路橋」。神路橋を渡ると湧玉池の川中島に鎮座する巖島神社。巖島神社社の前には鳥居の後方に対の狛犬。末社 嚴島神社祭 神 市枡島姫神 (いちきしまひめのかみ)例 祭 六月十七日嚴島神社の社殿。白のフジが咲き始めていた。社の左側には紫色のフジが満開。旅友のブログでは湧玉池の清掃時にはお賽銭も回収?とか。嚴島神社から神路枚橋上へ。湧玉池の東側から、朱色の神路枚橋、川中島に鎮座する嚴島神社、神路橋。右奥には参集所。湧玉池 (下池)池の中では7~8人ほどの作業員の姿が。この森の中から富士山の雪解け水が伏流水となって流出しているのだ。駿州赤心隊の碑その左隣には「駿州赤心隊之碑建設趣意碑」。駿州赤心隊富士亦八郎重本 文政九年 (1826年) ~ 明治三十年 (1897年)は駿州赤心隊を結成、勤皇に献身した。富士山本宮浅間大社の大宮司家に生まれ十五歳で江戸に出て、漢学・武術を学ぶ。ニ十歳で帰郷第四十四代大宮司家を継ぐかたわら塾を開き、国学、漢学、兵学を教える。東征軍に参加、駿川赤心隊を率いて幕軍と戦う。その後、西南戦争に従軍、現靖国神社の前身、東京招魂社の社司となり祭祀を司り最後は東京麹町区長。この石碑は明治維新の激動の時代を勤皇の志士として、国家に尽くした駿川赤心隊顕彰の碑である。この石碑は1934年に町民によって建てられたものである。。御神幸道道標(ごしんごうどうしゅひょう)の碑明治の初めまで行われていた「山宮御神幸」に利用された御神幸道の起点の碑である。御神幸は、舂秋の大祭前日に浅間大社と山宮浅間神社との間を祭神が往復するもので、祭神は鉾に宿って移動した。鉾を安置した鉾立石が、浅間大社の楼門前と山宮浅間神社の境内に残されている。御神幸道の5 0丁 ( 1丁は約109m) の間には、1丁目ごとに目安の丁目石が置かれていたが、現在その大部分は確認することができない。湧玉池の畔に「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれた石碑が立っていた。この首標は、昭和59年に浅間大社境内の土中から発見され、奉納者の子孫の方によって現在地に再建されたものだと。国指定特別天然記念物 湧玉池 (わくたまいけ)湧玉池は、約1万年前の富士山噴火によて噴出した溶岩流の末端に位置している。富士山に降った雨や雪が溶岩流の隙間に貯えられ、溶岩流の末端から押し出されるように湧き出し、池となったと考えられている。湧玉池は、富士山の湧水のうちでも規模が大きく、学術上貴重なものであることなら、昭和27年 (1952年) 3月29日に特別天然記念物に指定された。また、湧玉池は世界遺産富士山の構成資産である「富士山本宮浅間大社」に含まれている。池の面積は約2,500㎡。水温は四季を通じて約14℃、水量は平均毎杪2.1m3 (平成25年度) あり、池から神田川に流れ出し、市内を流れている。浅間大社の社伝によると、噴火する富士山を水徳の神(浅間神)の力により鎮めるために、湧玉池の畔に浅間神社を建てたという。また、湧玉池は登山者が身を清めるために禊を行ったところで、室町時代の富士登山の姿を描いたとされる「絹本著色富士曼荼羅図」(国指定重要文化財浅間大社蔵)には、湧玉池で禊をする道者(登山者)の姿が描かれている。神田川に架かる最初の橋「神幸橋」。神田川として流れ出る富士山御霊水。神田川は静岡県富士宮市宮町の富士山本宮浅間大社内にある湧玉池に源を発し、南へ流れ同市浅間町付近で潤井川に合流する。湧玉の池は、富士山の雪解け水がおよそ15年かかって麓に湧き出た清水であって、夏冬通して水温は常に約13度である。市街地であるが天然のカジカが生息しており、上流部においては自然の渓流の流れが再現されている。富士山御霊水は湧玉池から勢いよく流れ出し神田川となる。湧玉池の下池。神幸橋横に立つ「国指定特別天然記念物 富士山御霊水 湧玉池」。富士宮富士公園線(県道180号線)の湧玉池交差点。この辺りは富士の裾野であるため富士へ向かって坂道になっている。湧玉池交差点の左後方に富士が見えていた。神幸橋からの「東鳥居」。5月の流鏑馬は、東鳥居と西鳥居の間で開催されるのだ。左側は神田川の下流側。東鳥居の前に立つ社号標石「冨士山本宮淺間大社」。湧玉池(下池)に架かる左から「神路橋」、「川中島に鎮座する嚴島神社」、「神路枚橋」。朱色の橋、鳥居が湖面に映える、右奥には参集所。富士宮富士公園線(県道180号線)沿いを勢いよく流れる神田川。神田川傍に立っていた石碑。平成の名水百選「湧玉池・神田川」 認定 平成20年6月25日 環境大臣 鴨下一郎平成の名水百選「湧玉池・神田川」環境省では、全国各地域の生活に溶け込んでいる清澄な水や水環境の中で、地域住民等による主体的かつ持続的な保全活動が行われているものを「平成の名水百選」として認定しました。富士宮市からは「湧玉池・神田川」が選定され、これを記念し伝承するために記念碑を建立しました。 平成20年6月25日 富士宮市長 小室直義 神田川の下流側に御手洗橋交差点がある。湧玉池から富士山本宮浅間大社の拝殿前へ戻ることに。途中で会った家族、七五三にしては時期が違うが。湧玉池(上池)に建つ水屋神社。フジが例年より早く綺麗に咲いていた。東門前には「咲良 (さくら) みくじ」。富士山本宮浅間大社「咲良みくじ」 ~ 富士山からとどいたキセキの水で体験できる神秘的なおみくじ ~人気上昇中の水みくじ「咲良みくじ」は結ぶと富士山の形になる と。新緑に覆われた「富士山御霊水 水屋神社」。東門を入り境内へ、信玄桜が聳える。左側に社務所があり御朱印受付。楼門西廻廊を出て振り返る。西廻廊を出ると石碑が並んでいた。左前方には西鳥居。一番右の石碑は「皇太子手植櫻樹碑」。明治二十七年二月十八日 皇太子拝駿河〇富士郡浅間神社・・・(後略)刻まれた字が風化し判読できなかった。富士山 第三十回登頂記念碑富士山と琵琶湖は 一夜の故事にちなみ 世界平和国土安全を願い 毎年登頂本年五十年目を迎え ここに記念碑を建立する。 平成十八年七月吉日 富士と琵琶湖を結ぶ会 滋賀県近江八幡市富士山本宮浅間大社 思えば千と二百年唄 渡辺通久作詞作曲 後藤良夫編曲 高岡利光 一、君と歩いた参道は 木漏れ日のゆれる 石田川 浅間の宮は 天高く 思えば千と二百年 歴史を伝ふ ニ、祭囃子か 締め太鼓 あれは若衆の 心意気 水の流れも そのままに 思えば千と二百年 歴史を浮かべる 神田川 三、杜の向こうに 富士の山 千古の雪を 頂いて 湧玉池に 湧くと聞く 思えば千と二百年 歴史を奏でる 笙の笛11:05シャクナゲが綺麗に咲いていた。 ー 続く ー
2023.06.13
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富士山本宮浅間大社の参拝を始める。4月24日(月) 10:30楼 門楼門は、間口4間、奥行2間半、高さ6間半2階入母屋造で、正面・左右脇に扉が付きます。楼門の左右には随身が安置してあり背銘に慶長十九年(1614)の年号があります。楼門に掲げる扁額は聖護院入道盈仁親王の御筆で文政2年に制作されたものです。鳥害を防ぐために金網をかけられた楼門の扁額「冨士山本宮」。楼門前には左右に大きな絵馬があり右側には「萬邦共和」、左には今年の干支「うさぎ」の絵。楼門前の石段上にある紙垂で飾られた木枠の中にある自然石は鉾立石といい、明治初年まで行われていた山宮御神幸の際、神鉾を休め奉った所です。説明板には「その昔 四月・十一月両度の大祭礼に山宮へ御神幸の際鉾を立てた石です。」と。鉾立石をズームアップ。ひびが入っていたが。楼門前左側には手水舎。立派な手水舎と西廻廊。楼門の左右には随身が安置してあり背銘に慶長十九年(1614)の年号がある。随身を撮影しようとしたが窓がなく・・・。旅友が随身の撮影に挑戦していたので私も隙間から。随身(楼門の右側)に左大臣。随身(楼門の左側)に右大臣。楼門前から振り返り東西に走る「桜の馬場」。5月5日勇壮な神事流鏑馬式が執り行われる馬場で、馬場にはご神木の桜が植えられている。境内には500本以上の桜が植えられ、春には桜の名所として賑わっている。石鳥居の三之鳥居、参道の先に朱色の二之鳥居。楼門を入り境内へ。正面に拝殿。拝殿の注連縄。拝殿の扁額「淺間大社」。楼門を振り返る。拝殿前から左側へ回り込む、拝殿の後方には二重の楼閣造の本殿。境内の配置図。境内の左側に「祈祷受付・お守授与所」、祈祷殿。西門の手前に、二つの説明板。左に「名称 火山弾」、右に「南極の石」。南極の石この石は、南極奥地より氷河に乗り幾億年もの歳月を経て流出し、地吹雪により風化したもので、第七次南極観測船ふじの乗組員により採取されました。富士浅間大神の、御神霊を奉斎して、昭和基地に赴いた砕氷艦、ふじ、の乗組員赤池 稔氏の(富士宮市出身)奉納であります。 富士山本宮 浅間大社南極の石名称 火山弾 目方約三十貫 (約百キロ)これは富士山噴火の時に、地中の岩漿が火熱のために溶けて空中に吹き上げられ落下した際に、酸化して冷却したものです。この様に形が整って大きなものは、珍しいといわれています。火山弾本殿の左側に鎮座する摂社「三之宮浅間神社」、左に「富士山 浄砂」。防災用の消火栓が設置されていた。三之宮淺間神社江戸時代には境内・境外に摂社19社、末社15社と多くの摂末社を抱えていた浅間大社だが、安政大地震により大破し内陣に合祀されたり明治以降の統廃合により、現在は境内に摂社2社・末社4社を抱える神社となっている。「駿河国神名帳」に列する正三位浅間第三御子明神と考えられ、江戸期までは三之宮と称されていた。祭 神 淺間第三御子神例 祭 十一月四日富士山 浄砂この砂は敷地の隅に撒いて清めたりする「お砂取り」に使われるもので、富士山奥宮の清浄な土地の砂をお守りとしたり、家の敷地を清める為に撒いて使用する。授与所に申し出れば一握りほどいただけるのだ と。右側から「本殿」を見上げる。本殿は二重の楼閣造で棟高45尺、浅間造りと称し其の構造は他に例がないと。1階は5間4面葺卸の宝殿造り、2階は間口3間奥行2間の流れ造りで共に桧皮葺。明治40年5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に指定され、以後国宝又は重要文化財として特別の保護を受けている。祭神が木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)であることから桜が御神木。本殿をズームアップ。拝殿前の右側に「信玄桜」が聳える、開花時期に見たいものだが。境内には「御朱印・湧玉池 → 」の案内板。東側から本殿を見上げる。本殿の右側に鎮座する摂社「七之宮淺間神社」。 祭 神 淺間第七御子神例 祭 十一月四日 左側の石柱には「富士山頂奥宮境内地行政訴訟勝訴之碑」と刻まれている。信玄桜武田信玄公お手植えの枝垂れ桜の二世で廻りには多くの祈願絵馬が吊るされていた。境内の東側にある湧玉池への入口「東門」。「水屋神社 ▶ 」への案内板。東門を出ると、明治廿年七月七日 富士山本宮と刻まれた「霊水鉢」。植込みには「文化財愛護 重要文化財 富士山本宮浅間大社 本殿 慶長9年(1604)」の立札。湧玉池 (わくたまいけ) の上池国指定特別天然記念物 湧玉池 (わくたまいけ)この池は霊峰富士の雪解けの水が溶岩の間から湧き出るもので水温は摂氏十三度、湧水量は一秒間にニ、四キロリットル、年中殆んど増減がありません。昔から富士道者はこの池で身を清めて六根清浄を唱えながら登山するならわしになっております。 つかふべき数にをとらむ浅間なる御手洗川のそこにわくたま 平兼盛湧玉池は清掃中であったが、池には多くのカモが泳ぎまわっていた。藤棚に「富士山御霊水 水屋神社」。水屋神社への左側には竹で作られたパイプから「御霊水」が流れ落ちていた。竹製の採水口が10箇所あり飲料水の水取場。掲示板に「飲用の場合は煮沸推奨です」と。藤棚から紫色のフジが暖簾の如くに綺麗に咲いていた。ネットでは「このフジの花が咲くと今年も流鏑馬祭(5月4・5・6日)の時期になったと実感する」とあったが、この日は4月24日で開花日が相当早いようだ。花房の長さは1メートル以上あったであろうか。藤棚の奥にあったのが「富士山御霊水 水屋神社」。末社 水屋神社祭 神 御井神(みいのかみ)、鳴雷神(なるいかづちのかみ)例 祭 一月四日富士山からの御霊水を守護する神社で、水屋神社では平成の名水百選にも選ばれている富士山御霊水を、汲み持ち帰ることができるようになっている。この御霊水は、霊峰富士の御神体に滲み込んた天水がながい年月を経て湧き出している神水です。どうぞ、水徳の神、浅間大神のお恵みを御神徳としていただいて下さい。御霊水のいただき方お気持ちをお供えの上、ニ礼ニ拍手一礼の後、感謝・祈念し手水鉢よりお汲み下さい。この御霊水は古来神様にお供えし、私共も日常の飲料としておりますが、あくまでも天然水ですのでお気になさる方は沸かしてお使い下さい。藤棚下から湧玉池を見る。10:50湧玉池を廻り込み水屋神社を見る。 ー 続く ー
2023.06.12
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富士芝桜まつり会場を約1時間半堪能し、国道139号を南下し目的地の伊東市へ向かう。4月24日(月) 9:25国道139号沿いに真黒な朝霧高原が目に入り一時停車して撮影。雄大な富士をバックに記念写真。野焼きを終えた朝霧高原。9:35道の駅 朝霧公園所在地:静岡県富士宮市根原字宝山492-14当道の駅は富士山を背景に富士宮市北部国道139号沿いに平成12年3月27日に開駅した。近くには白糸の滝、田貫湖、狩宿の下馬ザクラ、富士山本宮浅間大社等の観光名所がある。静岡県側からみる富士は稜線が綺麗である。いつも見慣れている神奈川県側からはの富士は宝永山があり違う光景に。近くには牧場がありサイロをイメージした建物に時計塔、時間は9時35分。地元の野菜を販売していた。あさぎり高原キャベツ 170円。道の駅の裏から富士が綺麗に見えていた。富士の頂上をズームアップ。この時期になると積雪量が少なくなっている。右側に「あさぎりフードパーク」があり、牛乳・お茶・お菓子工房やレストランのある建物がいくつもあるが営業時間に注意。入口の看板には「富士山 味のさんぽ道 あさぎりフードパーク」。駐車場に戻り、富士の稜線をだすため露出を絞って撮影。伊東市への途中にある以前から参拝したかった「富士山本宮浅間大社」へ急遽行くことに。10:20富士山本宮浅間大社 (ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)所在地:静岡県富士宮市宮町1-1道の駅朝霧公園からカーナビの案内で国道139号を南下、富士山本宮浅間大社の駐車場へ到着。浅間大社の御由緒は、富士山の噴火を鎮めた御神徳により崇敬を集め、富士山信仰の広まりと共に全国に祀られた1300余の浅間神社の総本宮と称されるようになった。大社前の駐車場へ愛車を止めたが駐車料金は200円で後払いであった。駐車場の間に建つ二之鳥居。富士が見えていたのでズームアップするが空は曇り空。浅間大社前の県道76号線(神田通り)から東側を見る。現役時代にゴルフで富士宮カントリーへ行く時、この浅間大社前交差点を左折していたので、その時富士山本宮浅間大社の存在を知っていたので今回急遽立ち寄った。県道76号線(神田通り)沿いに建つ大きな朱色の「大灯籠」(右)。左側にも朱色の「大灯籠」。バス専用駐車場脇に土産物店がある。境内案内図。二之鳥居、社号標石、参道の奥に三之鳥居が建つ。本宮の境内の広さは約17,000坪、徳川家康公寄進の神殿、楼門を中心とした御神域は御神徳の偉大さを物語っています。また、富士山8合目以上は奥宮境内地であり、約120万坪の広さに達します。古来富士山は富士山本宮浅間大社の御神体として崇められる神聖地であって数々の霊場行場があります。因みに、富士山登頂は平成16年(2004)7月24日(木)に行っている。二之鳥居の扁額「富士山本宮」。二之鳥居の右側に大きな社号標石、更に右側には富士。ズームアップ。社号標石には「冨士山本宮淺間大社」、右側には木製の「富士山大金剛杖」。富士山大金剛杖石碑には「富士山大金剛杖」。金剛杖を持っている方は、富士登山道中の各山小屋で杖に「焼印」を押してもらうことができます(有料)。五合目から六合目、七合目、八合目と登っていくたびに新たな焼印をつけると自分の頑張った証が焼きつけられているようで杖の相棒感がどんどん増していきます。気がつけば、富士登山の思い出とともに、一生もののお土産になっていますと。周辺案内図。高低差日本一のまち富士宮富士宮市は、海抜35mから富士山の山頂剣が峰の3776mまでの日本一の標高差を誇るまち。と言うことは富士山の山頂は富士宮市であるのだ。家康の浅間大社の造営1604 (慶長9 )年、家康は関ヶ原の戦いでの勝利を記念して、天正10年から仮殿のままであった社殿の造営を行いました。建物は2年後に完成、正遷宮※が行われました。浅間大社の本殿はそれまで一階建て構造でしたが、この時、現在のようにニ重の楼閣造(浅間造)になったと言われています。本殿は現在、重要文化財に指定されています。 ※ 造営などのために移動させた神様を、新しい建物に移すこと富士山はだれのもの? ~ 家康と富士山 ~現在、富士山八合目以上は浅間大社の所有となっています。そうなったことには家康が深く関わると伝わります。江戸時代の1609 (慶長14)年、浅間大社は家康から山頂部の「散銭」(賽銭)を、修理費用として寄進されたとされ、これを足掛かりにした浅間大社は、境内地として山頂部の支配・管理権を強めました。これに対し、他の登山口もそれぞれの由緒から、富士山における権利を主張しました。その結果訴訟となり、1779 (安永8)年、幕府の判決文に基づき、浅間大社にハ合目以上の支配が認められました。その後近代になって一旦は国有地となりますが、1974 (昭和49)年の最高裁判決により、浅間大社に返還されました。 富士宮市教育委員会二之鳥居の下から土産物店を振り返る。一階屋根に「ここずらよ」と書かれて看板。店内では「富士宮やきそば」、「虹鱒甘露煮」、「富士のやぶきた茶」、「あさぎり牛乳」や「地酒」などの地元特産品が販売されている。地方発送も承りますと。参道入口の左右にも大きな白色の石灯籠。参道脇の旗には「家康公の遺産 FUJINOMIYA」と。2023年大河ドラマ「どうする家康」の放送をきっかけに、富士宮の新たな魅力を全国に発信するため、オリジナルロゴマークを活用したのぼり旗を作ったのだ と。石畳の参道の先に「三之鳥居」。三之鳥居の前に狛犬。右側の狛犬阿形像。台座には大正7年(1918)5月吉日建立。左側の狛犬吽形像。三之鳥居を潜ると右側に「流鏑馬像」。台座の「流鏑馬練行之図」。武将の名はなかった。逆光のため後方から撮影するが馬上は?。流鏑馬祭縁起社伝によれば建久四(1193)年五月源頼朝が富士の裾野で鎌倉武士を率いて巻狩を行ったとき、当浅間大社に参拝し、流鏑馬を奉納したのに起因すると言われる古儀である。当大社所蔵の天正五年(1577)の富士大宮御神事帳や、慶安三年(1650)の富士本宮年中祭礼之次第にも、五月五日の条に五月会流鏑馬 と記載されている。又その当時の古文書、朱印状等によれば武田勝頼より流鏑馬料、豊臣秀吉及び徳川家光よりは御朱印地の寄進があり神事祭礼として国家安寧のため誠を尽して斎行するように下知されていたことを知ることができる。現在は五月四・五・六日の三日間にわたり行なわれ、四日が前日祭、五日が本祭、六日が後日祭になっている。五日の本祭はこの祭の中心で、拝殿で祭典を行い、ついで練行と称して神馬を中心に宮司以下神職、弓武者、槍武者、鎧武者、射手代官、射手、氏子代表、稚児等が市内を練り歩いた後、桜の馬場に参入して、鎌倉武士を髣髴させる絢爛豪華な神事流鏑馬式が古例によって盛大に行われる。当日は端午の節句でもあり近郷近在から二十万余の参拝者で境内は終日殷賑を極めることは昔も今も変ることがない。 平成七年五月五日鏡池に架かる「輪橋」。鏡池は楼門前の池で一名眼鏡池とも云われます。中央の輪橋は大正四年御即位記念として石造りに改められた。一名眼鏡池とも云われている右側の鏡池。左側の鏡池。10:30輪橋を渡ると正面に「楼門」。本宮社殿は慶長九年(1604)徳川家康が奉賽のために造営したもので、本殿・拝殿・舞殿・楼門等壮観を極めたものでしたが、寛永安政等の大地震で破壊したものもあり、当時の建物で現存するのは本殿・幣殿・拝殿・楼門のみですと。楼門前のこの道は西鳥居から東鳥居までの「桜の馬場」で今年も5/4~6に「流鏑馬」が行われる。奥には朱色の「東鳥居」が見える。馬場にはご神木の桜が植えられており、これらを含めて境内には500本以上の桜が植えられ、春には桜の名所としても賑わいますと。 ー 続く ー
2023.06.11
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富士芝桜まつり会場の竜神池廻りの散策を続ける。4月24日(月) 8:45Peter Rabbit™ English Garden と書かれた切り株に座る「Peter Rabbit™」。Peter Rabbit™と記念写真をする女性。青空で富士が映ればインスタ映えするのだが。西方向を振り返る。イングリッシュガーデンにある四阿を望む。遊歩道脇にはいろんな花が植えられていたがゴールデンウイークが見頃になるのか。団体専用入口からの遊歩道脇に立っていた旗。竜神池越えに撮影ポイントを見る。団体専用入園口奥に団体・バス駐車場があり多くの観光バスが駐車。香港人、台湾人であろうか多くの中国人観光客が来園していた。順路であろうか「園路」方向へ進む。ムスカリ標高が高いので今が見頃だがユキヤナギと同様に我が家では既に咲き終わっている。ムスカリ キジカクシ科穂状にたくさん咲かせるぶどうのような小花が魅力的です。竜神池の東側から会場を見る。右側は団体専用入口からの遊歩道で旗が立つ。 竜神池の南側に広がる芝桜。ゴルフ場のコースを感じさせるレイアウトであるが。まだ若木のゴテンバザクラ。ゴテンバザクラをズームアップ。ゴテンバザクラは、バラ科の落葉樹である。本種はマメザクラと他のサクラとの交雑によって生まれたものと推測されている栽培サクラである。比較的栽培・繁殖も容易であり、加えて小さな木でも花が付くことから盆栽等にも用いられている品種である。(GKZ 植物事典より引用)。竜神池の南東側から見る。遊歩道脇に旗が立ち並ぶ。濃いめのピンクの花弁を持つ存在感あふれる「マックダニエルクッション」が植えられている。マックダニエルクッション大輪咲きのシバサクラです。濃いめのピンクの花弁を持つ存在感あふれる園芸品種です。北米が原産で寒さにとても強いのも特徴です。 濃いめのピンクのマックダニエルクッションの中にハートのマーク。ハートの白色は「モンブラン」であろう。モンブラン白の芝桜を代表する品種です。葉色が黄緑色なので、他の品種と区別しやすく、花がない季節でも明るい印象になります。ピンクのマックダニエルクッションの中に四つのハート。青空の中の富士を撮影したかった。遊歩道は湾曲になっておりドローン撮影も良いのでは。いつの間にか富士の頂上が見えていたので露出を下げ撮影。遊歩道の右側にはゴテンバザクラが満開であった。ゴテンバザクラ竜神池の西側。ビューポイントエリアには多くの人が。赤い芝桜と言えば「スカーレットフレーム」。「スカーレット」は緋色(ひいろ)、目にも鮮やかな赤という意味で、園芸品種としても人気種です。神秘性と幻想性に満ちた花叢 (はなむら) です。ズームアップ。富士の頂上が見えていたので竜神池前へ急いで移動。ピンク、赤色の芝桜が広がる。ゴルフ好きな人は池越えのコースでバンカーが横たわるとイメージ。オータムローズ芝桜の中にネームプレートが挿されている。オータムローズ花色は、ローズビンク。一般的に「ピンクのシバザクラ」と呼ばれてます。優雅でエレガント、女性的な優しさに満ちた、たおやかな挑色の雲を想起させます。西側に広がるローズピンクの「オータムローズ」越しにミニ芝桜富士。ミニ芝桜富士をズームアップ。傍に一本のサクラの木が聳える。東を見るとまだ富士の頂上が見えていた。出来るならば青空が欲しかった!!!入口近くに植えられていた「富士芝桜まつりのシバザクラ」。会場内で楽しめる8種類の芝桜の内の4種類。スカーレットフレーム赤い芝桜と言えば、この花を指すことが多いです。「スカーレット」は緋色 (ひいろ)、目にも鮮やかな赤という意味で、園芸品種としても人気種です。神秘性と幻想性に満ちた花叢 (はなむら) です。花叢:花が一面に広がった叢 (くさむら) の意。ジャイアントローズ存在感あるピンクの大きな花をつけます。マックダニ工ルクッションに比べて花びらが細く、咲いている期間も長いのが特徴です。市場ではほとんど流通しておらず、あまり目にする機会のない貴重な品種です。オーキントンブルーアイ名のオーキントンは、柔らかい紫を表すオーキッドから来ているのか花色は淡い赤紫で、ロマンチックで甘美な世界へと誘ってくれます。花の中央に、青みの強い顔を持ち清らかさも感じさせます。マックダニエルクッション大輪咲きのシバサクラです。濃いめのピンクの花弁を持つ存在感あふれる園芸品種です。北米が原産で寒さにとても強いのも特徴です。 9:05出入口にある土産物店。店先で温かい桜茶を頂く。気温が約10℃と低く美味しかったのでお土産で購入。出口を出ると多くの人がチケット売り場へ。9:15寒い中約1時間半の散策であったが堪能して後にすることに。次の目的地は伊東市へ。 ー 続く ー
2023.06.10
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富士芝桜まつり会場の散策を続ける。4月24日(月) 8:15高さ約8mの展望塔から会場を見下ろす。手前にキッチンカー、飲食エリアがあるが時間が早くまだ準備中であった。一方通行の階段を降りショップ1階を見下ろす。壁面の花の絵をズームアップ。明るくきれいな店内である。まだ早い時間帯であったが多くの観光客が土産物を購入しておられた。壁面には右に「こねこのトムのおはなし」、左に「かえるのジェレミーのおはなし」。振り返ると「赤りすナトキンのおはなし」。Peter Rabbit English Garden ー FUJI MOTOSUKO RESORT ーここへ座り記念写真を撮っておられたが、店内はスルーした。富士の頂上が見えていたが青空でないので・・・。気温が5~7℃であるので皆さん厚着で訪れておられた。徐々に観光客が増えてきていた。キッチンカーが並んでいたがまだ準備中であった。手前から「ショップ&ギャラリー」、「展望塔」、「The Cafe」が並ぶ。Peter Rabbit™ English GardenWelcom to Peter Rabbit™ English Garden ピーターラビット™ イングリッシュガーデンに寄せて ー 監修 マーク・チャップマン ー人口に入ると直ぐに庭の中でピーターラビットを見つける事でしよう!田舎のコテージガーデンでよく見かける植物とフルーツの茂みで囲まれ、芝生ではピーターラビツトが家族やともだちと共有している大きな巣穴を見ることができます。その後に続くと、両サイドにイングリッシュボーダーガーデンがあります。反対側には大きな芝生の塚があり、気軽に座って富士山の雄大な景色をお楽しみください。春から秋にかけて、たくさんの素敵な写真スポットを楽しめます。庭はまだ新しく、多くの食物が成長し始めたばかりです。どうぞ、別の季節にこのガーデンに戻ってどのように発展していくのかをお楽しみください。マーク・チャップマン英国リンカンシャー出身、大規模ランドスケープから個人邸を手掛ける実力派の英国人ガーデンデザイナー。長野県「自馬コルチナ・イングリッシュガーデン」を始め、全国各地のプロジェクトを手掛け、デザイナーだけでなくガーデナー、講師、ショップ運営と幅広い園芸サービスを提案している。英国内、日本国内で開催の様々なガーデンショーで多くのメダルを獲得し、有名ブランドとのコラボレーション、NHK「趣味の園芸」ガーデンマスターとしてTV出演等、その実力が広く知られるところとなる。ピーターラビットたちにも出会えるガーデンイングリッシュガーデン内にピーターラビット絵本シリーズの仲間たちがいます。一緒に写真を撮ってお楽しみください。ガーデン内の植物情報イングリッシュガーデンには季節ごとに咲く約300種類の草花が植えられています。代表的な植物には花名板がついており、QRコードから詳細がこ覧いただけますので是非お楽しみください。イングリッシュガーデンへ入り竜神池がある東エリアへ進む。ピーターラビットの親子。説明板がなかったがこれは?上着をハンガーにかけ周りにハト。イングリッシュガーデンを振り返る。季節ごとに咲く約300種類の草花が植えられているとあったが。根元に名札があったがこの木か?根元の名札?。白い花をズームアップ。振り返るとイングリッシュガーデンにスイセンも咲いていた。絶景ポイントの竜神池前だが富士の頂上は雲に隠れていた。自撮り用の台も設けられ多くの中国人がポーズをとって撮影していた。中には遊歩道に座り込み撮影する人も。西方向の芝桜の海原にある撮影ポイント。左から「ピンクの海を旅する小舟」「ミニ芝桜富士」「展望台」「幸せの黄色い扉」と。芝桜の遊歩道を歩き芝桜の海原の先に竜神池前の撮影ポイントを見る。三脚をセットして富士の頂上が出るのを待っておられるのか。観光地によっては三脚の持込禁止の所が多いがここは珍しくOKのようだ。ピンクの絨毯が広がっているが植込みは一本づつ。高さ約8mの展望塔がひときわ高い。展望塔方向をズームアップ。富士の頂上が見えないので芝桜内の遊歩道を歩き、竜神池前の撮影ポイントを見る。シャッターチャンスを多くの人が待っていた。天気が良ければこのような写真が(写真はネットから)。今回撮影した写真は青空でなかったので残念ながら。竜神池には逆さ富士が期待できるのか。遊歩道脇にユキヤナギが咲いていた。我が家ではとっくに咲き終わっているがここでは満開であった。竜神池前の撮影ポイント。撮影ポイントには自撮り用の台も何台か設けられている。この後歩く対岸の芝桜。写真の構図は空に変化がないので芝桜を中心にと指導を受ける(笑い)。竜神池の廻りにはピンクの絨毯が広がる。竜神池はさざ波で逆さ富士は映らず。湖面にはピンクの芝桜が映える。竜神池でのんびり釣りをする・・・。8:45釣り人はカエルさんであった、蓮の葉も人工?。 ー 続く ー
2023.06.09
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富士芝桜まつりは5年前の2018年5月5日(土)以来二度目の訪問である。その時も今回と同様に富士山は見えていたが青空ではなかった。4月24日(月) 7:55東方向には赤・ピンクの絨毯の先に富士山。入口方向を見る。芝桜の香りが漂っていなかったが匂いはあるのか?。ネットで調べると、芝桜は花が満開の時期でもほとんど香りがありませんと。 別の情報では、芝桜は地面を這うように生える植物のため、大抵は足下くらいの高さで咲いていることが多いです。よって、しゃがみこんだりしないと、花の香りは感じにくいと思います。マスクをしている今は、なおさら気付きにくいでしょうと。よって、目の高さに植えこむとかすかな香りを感じると!また、芝桜を増やす場合は、挿し芽か株分けで増やしてくださいと。富士の頂上にかかる雲の流れが早いようだ、よって頂上が見え隠れしていた。振り向くとミニ芝桜富士、展望台。5年前はなかったが芝桜の中に「ピンクの海を旅する小舟」が設けられていた。左側の山は大室山であろうか。ピンクのジャイアントローズと赤いスカーレットフレームの芝桜の中に浮かぶ小舟。後方の山は大室山であろう。小舟をズームアップ。北側から、ミニ芝桜富士、展望台を見る。富士を見ると頂上部分は雲で隠れていた。展望台へ向かう。マックダニエルクッションが広がる。マックダニエルクッション大輪咲きのシバサクラです。濃いめのピンクの花弁を持つ存在感あふれる園芸品種です。北米が原産で寒さにとても強いのも特徴です。 北方向にあるイングリッシュガーデン、展望塔を見る。芝桜の中にこれも新しく「幸せの黄色い扉」が設けられていた。廻りの芝桜は「多摩の流れ」。ドアを開けると、富士山と一面ピンクの世界に入り込んだかのような写真が撮れますと。このためインスタ映えの写真を撮るため列をなしていた。ミニ芝桜富士、雲に隠れた富士山。公園内に立っていたポスター「予告 虹の花まつり 9月1日 ~ 10月15日開催予定 カラフルな花々と富士山の共演」と。展望台入口この日は展望台上には観光客の数が少なかったが祝日は混みあうので一方通行になっている。展望台入口に咲くサクラ。満開のサクラはゴテンバザクラであろうか。展望台上から東に広がる会場を見下ろす。地上約3.8mの高さから会場を一望できる展望台である。空と富士山と芝桜の美しいコラボレーションを存分に味わえるまさに「特等席」であると。旅友が撮影した写真を拝借したが青空が欲しかった。私が展望台へ上がった時は富士の頂上には雲。左は富士山の麓にある大室山。左側の木の後方に「ピンクの海を旅する小舟」がある。北方向にある「幸せの黄色い扉」を見下ろす。後方にはイングリッシュガーデン。黄色い扉の前では皆さんスマホで記念撮影。展望台上から北北東方向を見る。大室山は、山梨県南都留郡富士河口湖町本栖、富士山の北西麓にある標高1468mの山。富士山が持つ多くの測火山のひとつで、なだらかな富士山の麓にあるため外見は独立峰に見える。頂上部には火口の窪みがある。青木ヶ原樹海の南側に位置し、周辺には本栖風穴、大室風穴、神座風穴などの風穴が点在する。再度富士を見、展望台を下りる。展望台を下り、グランドレベルからの芝桜。芝桜の中に「イギリス式庭園 ピーターラビット™ イングリッシュガーデン」の案内板。案内板には「 Peter Rabbit™ English Garden ー FUJI MOTOSUKO RESORT ー」。左側にイングリッシュガーデン。南方向の展望台を振り返る。右奥の展望台をズームアップ。振り返ると、左側から総ガラス張りの「The Cafe」、「展望塔」、「ショップ&ギャラリー」が並ぶ。イングリッシュガーデンが広がる。左に展望塔の「GARDEN TOWER」、右に「ショップ&ギャラリー」。展望塔の入口に「🦋 展望塔ご利用にあたり 🦋」。 塔内は一方通行の狭い階段となっております。 お足元にご注意の上、ゆっくりとお進みください。 また、次のような行為はご遠慮ください。 ・物を投げる ・身を乗り出す ・火気および危険物のお持ち込み ・大きな荷物のお持ち込み ・ご飲食 ・ペットのご同伴 🐞 Observation Tower Rules 🐌狭い廻り階段の壁に、「Peter Rabbit English Garden ー FUJI MOTOSUKO RESORT ー」のボード。こちらには、「Benjamin Bunny (ベンジャミン・バニー)」。「Mr. Jeremy Fisher (ジェレミー・フィッシャー)」。高さ約8mの展望塔から会場を見下ろす。手前に「Peter Rabbit English Garden」、この時間帯も富士の頂上は隠れていた。ピンク・赤色に染まる富士芝桜まつり会場が東西に広がる。手前にイングリッシュガーデン、正面奥に入口、左奥は竜神池。手前にはキッチンカー、飲食エリア。旅友は次の場所へ移動。8:15展望塔頂部は狭く、次の方が上って来られたので譲り早々に下りることに。 ー 続く ー
2023.06.08
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旅友から「富士芝桜まつり」への誘いがあり新車のノートで出かけた。尚、富士芝桜まつりは5年前の2018年5月5日(土)にも訪れており今回が2回目になる。その時のブログは「富士芝桜まつり」👈 をクリック願います。尚、訪れた翌日にダイジェスト版をアップしております。入り口でもらったパンフレット「富士芝桜まつり」期間は、4.15 Sat ー 5.28 Sun主催:富士芝桜まつり実行委員会 後援:富士河口湖町・(一社)富士五湖観光連盟新聞にも掲載された。4月24日(月)この日はいつものように旅友に我が家へ来ていただき、我が新車で出かけた。5時半に我が家を出発、今回は有料道路を利用し寒川南インタから圏央道、中央道を走った。6:30大月JCTから中央自動車道富士吉田線の河口湖インタへ向かい前方に富士山。曇り空であったが富士が顔を出していた。旅友は車窓から撮影に夢中。道路脇のスペースに車を駐車して撮影。前方に富士急ハイランドのジェットコースター。中央自動車道富士吉田線の河口湖インタ。6:40河口湖インタ料金所。河口湖インタから国道139号を走り会場がある本栖湖方面へ向かう。時間も早く月曜日でもあったので渋滞もなく順調に進む。6:55富岳風穴辺りにあった案内板には「富士芝桜まつり会場 10.9km先」と。7:05国道139号を走って来たが、右折禁止になっているのでユーターンして最後部に並んだ。駐車場がまだ閉門のため道路脇に並んだが平日で時間が早かったのでまだ十数台目であった。7:10国道139号沿いに立つ案内板「富士本栖湖リゾート」。この案内板は富士・富士宮方面から見える。7:30時間が早かったので第一駐車場へ車を駐車できた。駐車場から東方向に富士が見えたが青空が欲しかった。自宅では気温は15℃あったが、ここ本栖湖辺りは標高が960メートルあり5℃と寒かった。妻から出かける前に言われていたので寒さ対策を十分にして自宅を出発。開場は8時からであったが寒さ対策をして入口へ向かう。旅友もジャンバーを着て進む。前方に入園券売り場入 場 料 /大人:1,200円、こども:600円駐 車 料 /普通車:500円、バイク:500円、大型車:2,000円(マイクロバス含む)開園時間/8:00 ~ 16:007:35富士本栖湖リゾート所在地:山梨県南都留郡富士河口湖町富士ヶ嶺212富士芝桜まつり会場は首都圏最大級約50万株の芝桜が、富士山麓の広大な敷地に咲き誇ります。鮮やかな色のコントラストが美しい、富士山を彩る春の風物詩ですと。チケット売り場は「キャッシュレス決済」と「現金払い」に分かれ、列も別々に。開門前だが後方には既に多くの人が列をなしていた。係員の方から前日の土日は長い列になっていたと、この日は月曜日で先頭に。右側は「現金払い」左側は「キャッシュレス決済」の列。7:50会場入り口の左側には芝桜の飾り付け。私はキャッシュレス決済にしたため操作に手間取り時間を要したが、旅友は現金払いであったため既に会場内へと進んでいた。5年ぶりの「富士芝桜まつり」である。会場は、富士山の麓にある 1.6ha(400m×400m=160,000m2)の広大な敷地に広がる。新聞記事では「富士芝桜まつり」では、8種類約50万株が「笑顔も、春色に」というテーマのとおりに咲きみだれていると報道。会場入口から北北西方向を望む。平成20年(2008)から始まった富士芝桜まつり。首都圏最大級約50万株の芝桜が広大な富士本栖リゾートの敷地に咲き誇ります。会場内一面に、淡かったり、濃かったり、鮮やかな色のコントラストが美しい芝桜が咲いていて、青い空と雪の残る富士山の絶景が楽しめます。敷地をぐるっと歩けるようなルートが整備され、写真撮影に人気なのは「展望広場」と竜神池の前。富士山うまいものフェスタには、富士吉田うどんや富士宮やきそばなど、富士山周辺のおいしいものがたくさんある。会場の南側ではサクラが満開であった。来る途中の国道139号沿いでも綺麗に咲いていた満開のミツバツツジ。ミツバツツジをズームアップ。シバザクラ(芝桜)の基本情報 学名:Phlox subulata 和名:シバザクラ(芝桜) その他の名前:モスフロックス 科名 / 属名:ハナシノブ科 / フロックス属。 4~5月に、赤・桃・白・紫などの、径1.5㎝ほどの小さな花を咲かせます。 原産は、北アメリカで別名「ハナツメグサ(花詰草・花爪草)」と呼ばれます。 花の形がサクラに似ているのが特徴で、匍匐性が強く芝生のように地面を覆って育つ ことから芝桜と呼ばれている。会場内で楽しめる8種類の「富士芝桜まつりのシバザクラ」。マックダニエルクッションマックダニエルクッション大輪咲きのシバサクラです。濃いめのピンクの花弁を持つ存在感あふれる園芸品種です。北米が原産で寒さにとても強いのも特徴です。 モンブラン白の芝桜を代表する品種です。葉色が黄緑色なので、他の品種と区別しやすく、花がない季節でも明るい印象になります。オータムローズ花色は、ローズビンク。一般的に「ピンクのシバザクラ」と呼ばれてます。優雅でエレガント、女性的な優しさに満ちた、たおやかな挑色の雲を想起させます。多摩の流れ花弁の周りに白い覆輪ふちどりを持ち、ピンクがストライプのように可憐な斑(まだら)模様を花びらに描きます。遠くから眺めると肌色を帯びたピンク(トキ色)の群生のように映ります。オーキントンブルーアイ名のオーキントンは、柔らかい紫を表すオーキッドから来ているのか花色は淡い赤紫で、ロマンチックで甘美な世界へと誘ってくれます。花の中央に、青みの強い顔を持ち清らかさも感じさせます。ジャイアントローズ存在感あるピンクの大きな花をつけます。マックダニ工ルクッションに比べて花びらが細く、咲いている期間も長いのが特徴です。市場ではほとんど流通しておらず、あまり目にする機会のない貴重な品種です。スカーレットフレーム赤い芝桜と言えば、この花を指すことが多いです。「スカーレット」は緋色 (ひいろ)、目にも鮮やかな赤という意味で、園芸品種としても人気種です。神秘性と幻想性に満ちた花叢 (はなむら) です。花叢:花が一面に広がった叢 (くさむら) の意。アメージングレース(会場で未撮影のためパンフレットから)やわらかい白色で、中心にピンクのドットの入る花を咲かせます。芝桜の中でも市場流通量が少なく、珍しい品種です。順路に従って時計方向に廻る。開場間もないのでまだ来園者は少ない。ジャイアントローズのピンクの絨毯が広がる。満開のサクラ。会場内では芝桜以外にもいろんな花が植えられている。アネモネであろう。入口辺りの土産物店。樹々の後方に富士山が見えているが頂上部には薄い雲。西方向のピンクの絨毯の後方に、ミニ芝桜富士、展望台を見る。ミニ芝桜富士、展望台をズームアップ。芝桜の中にサクラの木が一本。ハートのマークも。前回はハートのマークはなかった。左側のミニ芝桜富士にはいろんな色の芝桜が植えられている。7:55会場の北方向を望む。5年前の2018年5月5日(土)に訪れた時は既に咲き終わった芝桜もあったが今回は最適期。 ー 続く ー
2023.06.07
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大庭城址公園の散策を続ける。4月20日(木) 13:30城址公園にあの樹々を追う。ユリノキの葉。城址公園内の木にはネームプレートが付けられている。ユリノキ百合木(ゆりのき)。落葉高木。葉は半纏(はんてん)のような形をしています。花は緑色で枝先に上向きにつき、基部が橙色となり、カップ状です。モクレン科。 メタセコイアが三本。メタセコイア生きた化石といわれる落葉針葉高木。樹形は円錐形です。葉は細長く、羽状に対生し、秋に赤茶色に紅葉します。 ヒノキ科 (旧 スギ科)メタセコイアの葉。逆光の中にメタセコイアの葉。メタセコイアの幹。樹々にネームプレートがあると勉強になる。公園の北側にあるもう一つの藤棚も満開になっていた。藤棚のフジの花をズームアップ。更にズームアップ。ケヤキの幹。ケヤキ欅。扇を半開したような樹形が特徴で、街路樹に多用される落葉高木。葉は秋に黄葉します。ニレ科。ケヤキの葉。秋に黄葉し落葉する。三本のメタセコイア。樹形は円錐形で街路樹として植えられ黄葉した並木が撮影対象になっている。遊歩道沿いに植えられているソメイヨシノ。ソメイヨシノの幹。ソメイヨシノ染井吉野。落葉高木。葉の出る前に淡紅色で一重の花を枝いっぱいにつけます。花色は満開にちかづくにつれ淡くなります。 バラ科。引地川親水公園にあったネームプレート。ソメイヨシノエドヒガンとオオシマザクラからできた品種といわれ、生長が早いので、明治末には全国に広まりました。名は江戸染井の植木屋から出たもの。(バラ科)大芝生広場に植えられているサクラ。サクラの開花時には多くの家族が訪れたのであろう。石碑には「からぼり」。大庭城址の石碑。大庭城址大庭城は、平安時代の末期(12世紀末)、大庭荘を本拠としておこった関東平氏の雄、大庭氏の拠点であったと伝えられますが、明らかな記録はなく、室町時代中頃(15世紀後半)になって、扇谷上杉定正の執事太田道灌が、本格的な築城を行ったとされています。その後、上杉朝良のとき、北条早雲によって攻略され、以後、小田原北条氏の支配下に置かれました。そして、天正18年(1590)、小田原北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、大庭城は、廃城となったようです。現在残されている土塁・空堀などの城址の構えには、小田原北条時代の改修があったものと考えられますが、雄大でかつ綿密に設計されていたことは、築山、裏門、ニ番構、駒寄などの地名からもしのばれます。城址公園の南東部にある「花の広場」にも藤棚があるが葉が伸びていた。花の広場にはバラ園があるがまだ開花前であった。小さな藤棚が2箇所あるが既に葉が伸び終盤になっていた。今年も色鮮やかな赤いシャクナゲが咲いていた。ズームアップ。公園内の案内板。城址公園内の藤棚を見終え公園管理事務所へ向かう。城址公園内の遊歩道脇には公衆電話も設置されている。大庭城址公園管理事務所大庭城址公園内の花木にはネームプレートが吊るされており勉強になる。現在NHKで放送されている「らんまん」に因んで各地の公園でも取り組んでほしいものだが。13:55管理事務所前から駐車場を見下ろす。駐車料金は無料だが閉門時間に要注意!14:10端山藤園所在地:神奈川県藤沢市大庭2249Googleマップにも載っている個人宅の藤棚である。前日見落としたので車で訪れた。カーナビをセットして訪れたのでスムーズに到着したが、道路沿いに入口の表示がないので見落としやすい。入口にもフジの木が一本。駐車場がなく、ちょうど娘さんがおられたので許可を得て入口へ駐車させていただいた。フジが咲く時期に開放されている個人宅の庭先で、椅子も用意されている。親父さんが亡くなられ、現在は娘さんが管理。フジロード Fuji Road「引地川・フジ史跡ロード」を3年巡ったが今回はじめて訪れた。ネットでここの花房は長いことを知り訪れた。この日は風がなかったので花房は揺れていなかったが。動画でも撮影し知人へ送信。樹齢は何年になるのか。娘さんとの会話で、今年は開花が早く例年より10日ほど早く遅いと。藤棚は鉄製のポールで支えられていたが管理が大変だと。端山藤園は谷戸の中にあり南側には芙蓉カントリー俱楽部がある。よって太陽光の関係で撮影時間帯はいつ頃が良いのか。藤棚をズームアップ。メジャーを持っていなかったが花房は1メートル近くはあったか。ズームアップ。クマバチもいるのだが。花も終盤で葉芽も長くなっていた。庭先から外に出て西側へ回り込む。西側の藤棚には白色のフジが咲いていた。白の方がより終盤になっていた。白と紫色のコラボ。ズームアップ。藤棚の下に入り見上げる。藤棚の下ではフジの香りが漂っていた。ここでもクマバチは少なかった。なかなか上手く撮れなかったが来年も又撮影に訪れたいものだ。この南側の山の先は芙蓉カントリー俱楽部のコースになっていると。東側の庭先には鉢に植えられた多くのフジの花。水を入れた発泡スチロールの中に鉢を置き、伸びた根を切っている。また、フジは水を好むので水気があるとその方向に伸びると。3年後には花が咲くと。14:45娘さんといろいろ話しながら約30分ほどフジの花を撮影、お礼を言い後にした。滞在30分ほどの間に10人ほど来られたか珈琲を飲みながら至福の時間を持ちたいものだが。入園料は無料であったのか、来年は愛車のリンちゃんで訪れたいものです。今年も藤沢市の花である「フジ」を楽しんだ。 END
2023.06.06
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この日は昨日(4月19日)見落とした場所を新車のノートで訪れた。大庭の名の由来延長五年(927年)に書かれた『延喜式』には、この地の鎮守である「大庭神社」が登場する。平安時代に作成された倭名抄にも大庭郷の名が登場する。また、大庭という言葉には、本来「神社」という意味を持つと記されている。4月20日(木) 12:45カーナビの案内で熊野神社、市杵島神社下へトウチャコ。廻りは新興住宅地になっている。大庭郷には、台、谷、小糸、入、稲荷の五地区があり、藤沢市の西部開発により、湘南ライフタウンとなり大きく変わっている。交通量が少ないので階段手前に駐車して参拝。熊野神社所在地:神奈川県藤沢市大庭5429-2大庭城址の東側にある神社。一説によると、建長六年(1254)、五代執権北条時頼が、聖寿丸(時宗)と福寿丸(宗政)兄弟の武運長久を祈って建てられた聖福寺の跡ともいわれている。熊野神社は「北の谷熊野神社」ともよばれ、熊野久須比神(くまのくすひのかみ)を祀っている。境内には市杵島神社がある。熊野神社の鳥居の扁額「熊野大権現」。境内の東側に「落慶記念碑 熊野権現 市杵島神社 氏子」と刻まれている。中央の丸柱には「天保十三寅正月」と。一段高いところに社殿、狛犬が立っている。右側の狛犬阿形像。左側の狛犬吽形像。新型コロナウイルスの感染も治まりマスクは取り外されていた。社殿裏の八重桜は満開に。ピンクの絨毯に。八重桜は葉と供に咲く。ズームアップ。熊野神社横から境内の南にある市杵島神社を見下ろす。狛犬の台座には、 「平成五年九月吉日 株式会社 大川工務店 代表取締役 大川 博」と。市杵島神社 (いちきしまじんじゃ)所在地:神奈川県藤沢市大庭5429-3市杵島神社(北の弁天さま)は市杵島姫命を祀っている。この神社には、この地域を統治する加々爪氏によって苦しめられた農民達が弁財天を勧請したところ、悪政や凶作が治まったという言い伝えが残っている。社殿の前には珍しい木製の木組みの鳥居。市杵島神社の南側奥に、山車庫であろうか。市杵島神社横の八重桜の下に石碑が二基。石碑には「○○天」と見えたが・・・。左側の石碑には「○○供養塔」と。側面には「文化二年乙丑八月吉日」と判読できた。建屋が高いので山車庫であろう。山車庫の隣には新しい神楽殿であろうか。境内の南側から市杵島神社、熊野神社を望む。市杵島神社の廻りには照明灯?が二基立っていた。熊野神社、市杵島神社の東側には新興住宅。階段右側の玉垣には「市杵島神社」、左側には「熊野神社」と刻まれている。熊野神社の北側から社殿を見る。北の谷公園所在地:神奈川県藤沢市大庭大庭城址公園へ向かう途中、熊野神社、市杵島神社の北側の住宅街の中にある公園。北の谷公園は藤沢市にある住宅街の十分な広さの公園です。昭和後期につくられた第二次ベビーブームのための公園で、公園の設備には水飲み・手洗い場があります。湘南ライフタウンは1971年に事業が開始され1992年に完了している。藤沢市の資料によると、2022年時点で、高齢化率が、34%を超え、2035年には、40%に迫るとされている。また近年(2020年以降)、外食施設、温浴施設などの閉鎖が相次いでいる。また、近隣の文教大学湘南キャンパスの大部分の東京都内移転が行われ、ワンルームアパートを中心に空室が目立つと。湘南ライフタウンは坂道が多いため、自転車での他地区との行き来には多大な疲労が伴うため、車とバイクが生活必需品となっている。確かに坂道が多いが私は電動アシストのため楽だが。湘南ライフタウンが完成した頃に設けられた公園であるので樹齢は30~40年であろう。今年も綺麗に咲いていた。ここでもクマバチは少なかったがフジの香りが漂っていた。フジの香りは甘い!いつもは子供達が動き回っているが住民の高齢化で子供達も減少しているか。大庭城址公園所在地:神奈川県藤沢市大庭5230管理事務所下の駐車場から大庭城址公園管理事務所を見上げる。昨日はスルーしたが、駐車場(無料)に駐車して公園内のフジを期待して散策することに。大庭城址公園管理事務所館内には大庭城址のジオラマ等が設置されているが今回はスルー。入口には「ご注意 本日の駐車場の閉門時間は 5:30 です」と。管理事務所から新緑の遊歩道をのぼり城址公園へ。大庭城址公園の案内図公園の概要大庭城址公園は、藤沢駅から北西に約4km、市の中心を南北に流れて相模湾にそそぐ引地川沿いの大庭の地にあります。この地は古くから人々に大庭城山と呼ばれ、城址としての歴史性とともに、緑の山として親しまれてきました。大庭城址公園はその特性を生かして昭和60年3月に供用を開始した広さ約12.6haの総合公園てす。主な施設としては、大芝生広場、チビッ子冒険広場、休息広場、館址広場、花の広場等があり、フジ棚のパーゴラや複合遊具、四阿等も設置されています.園内にはウメやツツジ、バラ、アジサイなどの花木の他、ソメイヨシノを中心とした300本以上のサクラが植栽されており、お花見の時期には大変販わいます。大庭城址公園の配置。文化財ハイキングコース案内板大庭の歴史を訪ねて藤沢市の西にある新しいまち・湘南ライフタウン。稲荷台地に沿って流れる引地川の両岸には田園風景が一眼に広がり、季節の移ろいもひときわ美しいところです。大庭地区は、中世の城、大庭城が存在した所として知られ、かつて縄文・弥生時代から人々が集落を営んでいた所でもありました。平安時代後期(12世紀頃)には、桓武平氏の流れをくむ鎌倉権五郎景政が、大庭を中心とした広大な所領を開発し、伊勢神宮に寄進しました。この土地が大庭御厨です。大庭城は、鎌倉権五郎景政の子孫が後に大庭姓を名のり、源平合戦で有名な大庭三郎景親が居城したのが始まりといわれ、室町時代中頃(15世紀後半)には扇谷上杉氏の執事、太田道灌がが本格的な築城を行ったと伝えられています。扇谷上杉氏の守る大庭城は、永正9年(1512)、北条早雲に攻められて落城し、その後は北条氏の支配下に入りました。大庭橋脇の舟地蔵は、この時の落城にまつわる悲しい伝説があります。やがて、北条氏は豊臣秀吉に滅ぼされ、廃城となったようです。現在は、城址としての歴史性や緑を生かした大庭城址公園ができ、市民のいこいの場として親しまれています。また、裏門・二番構・駒寄などの地名が、大庭城の名ごりとして、いまも使われています。大庭城址周辺コースの文化財 ① 宗賢院(そうけんいん) ② 市指定・台谷戸稲荷の森 ③ 熊野神社(旧大庭神社跡) ④ 舟地蔵 ⑤ 大庭城址公園 ⑥ 熊野神社と市杵島神社 ⑦ 市指定 寛文12年庚申塔 ⑧ 削除されていたが「柏山稲荷神社?」 ⑨ 佐波神社 藤沢市教育委員会後は、⑨の佐波神社を訪れていないので後日参拝したい。大庭城址公園内にはソメイヨシノを中心とした300本以上のサクラが植栽されており、今年は既に咲き終わっているが、お花見の時期には大変販わうと。大庭城址公園内には藤棚は3カ所ある。フジロード Fuji Road「引地川・フジ史跡ロード」① 円行公園、② 桐ヶ谷公園、③ なかむら公園、④ 二番構公園、⑤ 引地川親水公園、⑥ 大庭城址公園、⑦ 舟地蔵公園、⑧ 引地川緑地、⑨ 引地川親水広場、⑩ 長久保公園⑪ 八部公園満開の藤棚。白と紫色の二本のフジが植えられているようだ。花房の長さは50センチ程度であろうか。ズームアップ。藤棚の下から城址公園内の新緑の樹々を見る。13:30藤棚を廻り込み振り返る。 ー 続く ー
2023.06.05
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宗賢院を後にし、Googleマップで調べていた「臺(だい)谷戸稲荷の森」を目指した。4月19日(水) 16:50スマホの案内で愛車のリンちゃんで緩い坂を上り、臺谷戸稲荷の森と呼ばれる丘へ。森の中に朱色の鳥居、説明板を見つける。大庭郷には、台、谷、小糸、入、稲荷の五地区があり、台谷はそのうちの台と谷からなる地区である。戦前から約20軒が暮らしていた。台地区には、同じ苗字の世帯も多く屋号で呼び合うなど、今でもその頃の面影が残っている。谷地区は、藤沢市の西部開発により、湘南ライフタウンとなり、現在では台谷地区全体で250軒ほどの町内になっている。臺谷戸(だいやと)稲荷の森 市指定天然記念物 昭和四十八年(1973)三月七日指定中央に稲荷神社が鎮座する小さな森です。このあたりの台地上はダイ(臺)、北側の谷はヤト(谷戸)と通称されているので、このように呼ばれます。中でもタブノキ一株は幹回り約六メートルの巨木です。かつては樹高が約十八メートルありましたが、残念ながら、老朽化のため、平成八年(1996)に東側の大枝が折れてしまいました。それでも、地上一メートルで双幹になっているもう一本のタブノキや、ヒサカキ・ヤブツバキ・ケヤキ・ムクノキ・エノキ等が混生して、美しい森を形成しています。昭和五十九年(1984)「かながわの名木100選」にも選定されています。 平成二十年(2008)二月 藤沢市教育委員会臺谷戸稲荷神社所在地:神奈川県藤沢市大庭1809道路脇に駐輪して手摺が設置されている階段を上ると朱色の鳥居が並んでいた。朱色の鳥居の先には鉄製?の鳥居。臺谷戸稲荷神社稲荷社の前には対の狐。奥には地上1メートルで双幹になっているタブノキ。大庭御厨を開発した鎌倉権五郎景政が境内を馬つなぎの場としたと伝えられ、近くには、先ほど訪ねた大庭景親の居館が近くにあったという宗賢院や大庭神社の旧跡といわれる熊野神社がある。地上1メートルで双幹になっているタブノキ。入口側には、幹周りが六メートルもあるタブノキ。かっては樹高が十八メートルもあったが老木化により平成八年(1996)に大枝が折れてしまった。幹回りも老朽化により朽ちているが、新しい生命が芽生えている。タブノキの根元。臺谷戸稲荷神社から臺谷戸の南方向を望む。臺谷戸稲荷神社の森を後にし、西側にある次の目的地「熊野神社」へ向かう。スマホの案内で狭い道を進むと左側に階段と石碑。階段を上ると石碑があり「大庭神社舊趾」と刻まれていた。熊野神社 (大庭神社舊蹟)所在地:神奈川県藤沢市大庭1846熊野神社は、稲荷にある大庭神社の旧跡といわれている。大庭の地に鎮座し、本来はこの神社が「延喜式内相模国十三座」に数えられていた大庭神社だといわれている。江戸時代には「御霊社」、「権現社」とも呼ばれていた。大庭神社と同様成就院が別当寺を勤めていた。竹林の中を進むと鬱蒼とした階段の上に社殿が建っている。足もとにはタケノコ。崩れかけた階段を上ると鬱蒼とした中に小さな社殿。社殿前のお賽銭箱はコンクリートの台座に鎖でつながれていた。社殿の大きさは間口1間、桁行1間ぐらいのサイズか。祭神は熊野久須比命。社殿前から参道を見下ろす。白い木柱には「保存樹木 指定第36ー5号」と。また朽ちた白い板には「祝奉 天皇陛下御在位六十年」と確認できたが。鬱蒼とした森を見上げる。この地が大庭神社の旧跡と伝えられている。当地の前方に広がる丘陵地からは、縄文時代前の土器や弥生時代・奈良時代の住居跡が見つかる(大庭築山遺跡)など、古くから大庭郷の集落が形成されていたと推測されると。熊野神社 (大庭神社舊蹟) から下りスマホの案内で「舟地蔵」へ向かう。東へ進むと前方に臺谷戸稲荷神社の森を望む。臺谷戸稲荷神社の前を右折し進み道路脇に舟地蔵。舟地蔵所在地:神奈川県藤沢市大庭803-8県道43号線(藤沢厚木線)の舟地蔵交差点そばにも同じ名の舟地蔵がある。船の形をした石の上に地蔵が座る舟地蔵。横乗り縦乗りがあるようだが。舟地蔵を後にし、フジが咲く「舟地蔵公園」を目指す。舟地蔵から緩い坂を下り正面に臺谷戸稲荷神社の森。県道43号線(藤沢厚木線)へ戻り北方向へ進む。舟地蔵公園所在地:神奈川県藤沢市大庭5143公園には遊具や砂場、広場、公衆トイレが設置されている。また、舟地蔵公園の近くには、引地川親水公園や大庭城址公園がある。近年ではネモフィラも植えられている。公園内に聳えるメタセコイア。フジロード Fuji Road「引地川・フジ史跡ロード」。① 円行公園、② 桐ヶ谷公園、③ なかむら公園、④ 二番構公園、⑤ 引地川親水公園、⑥ 大庭城址公園、⑦ 舟地蔵公園、⑧ 引地川緑地、⑨ 引地川親水広場、⑩ 長久保公園⑪ 八部公園舟地蔵公園の藤棚。昨年訪れた時は樹勢が弱く芽吹きが少なかったが多少回復したように見えたが。ここのフジは一本である。昨年は花をもっていなかったが今年は・・・。花房は少なかったが綺麗に咲いていた。舟地蔵公園から県道43号線(藤沢厚木線)の舟地蔵交差点へ。舟地蔵所在地:神奈川県藤沢市大庭5202-7大庭城には「舟地蔵伝説」と呼ばれる言い伝えがある。北条早雲が大庭城を攻め落とした際に、城周辺の沼地を干上がらせるための方法を教えてくれた老婆を斬り殺したというもので、この老婆を哀れんだ地元の人々が祀ったのが舟地蔵だといわれている。藤沢市指定重要文化財 史跡 大庭の舟地蔵伝承地 平成三十一年二月一日指定この地蔵尊は、台座が舟型となっていることから、「舟地蔵」と呼ばれている。永正九年(1512)の夏、北条早雲(伊勢宗瑞)は鎌倉の扇谷上杉氏の居城であった大庭城を攻めたが、北条軍と大庭城の間には引地川がつくった大きな沼があり、なかなか攻め入ることができなかった。やがて、北条軍は、近くに住むボタ餅売りの老婆から、沼に引地川の水を取り入れている取入口の堰を止めて、下流の堰を開けば水が干上がることを聞き出したうえ、口ふさぎとして老婆を切り殺した。かくして、北条軍はようやく沼を越えて、大庭城を攻め落とすことができた、と伝わる。この舟地蔵は、殺されたあわれな老婆を供養するために、土地の人々がのちに城の近くに建てたという言い伝えがある。舟地蔵が建てられた時期は後世(江戸時代)に降り、その後この地区の開発により、何回かの移転を経て現在地に落ち着いた。この周辺が上杉・北条両軍の激戦の地であったこと、また引地川の水が昔より周辺を潤していたことを今に伝える史跡である。 藤沢市教育委員会17:20舟地蔵にはいつも花が供えられている。時間も遅くなり帰路につく。茅ヶ崎バイオマス発電所所在地:神奈川県茅ケ崎市赤羽根3905剪定枝を燃料としてエネルギーに変える「茅ヶ崎バイオマス発電所」が2021年8月1日に赤羽根で運転を開始してから1年が経ちました。発電所では、今日もクリーンなエネルギーを作り続けています。剪定枝を燃やしたあとに出る灰は「草木灰」という肥料になります。この「草木灰」を「グリーンリサイクル茅ヶ崎営業所」にて無料配布していると。農地調整区域の赤羽根へ戻り東を望む。17:50茅ヶ崎市内でも「茅ヶ崎市議会議員選挙ポスター掲示場」。出発時の愛車のリンちゃんのバッテリー残量、走行可能距離は70%、66kmであったが自宅到着時は40%、30kmで今日の走行距離は、36kmであった。 ー 続く ー
2023.06.04
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宗賢院は、永正二年 (1505) の創建と伝えられる曹洞宗の寺院。開山は虚堂玄白、開基は宝珠院殿華窓智栄大姉。4月19日(水) 16:25参道を進むと右側に建つ「宗賢院寺務所」。寺宝に大庭景親の陣釜とされる茶釜や、面山老師自筆の『相州養命寺記』一巻、「相州大庭荘」の扁額が伝えられている。宗賢院の裏手には、大庭御厨の経営を行った大庭景親の居館があったものと考えられている。宗賢院寺務所の表札寺務所の前に置かれた石像。芍薬が綺麗に咲いていた。参道を進むと正面に大きな宝篋印塔が立っていた。宝篋印塔の前には地蔵菩薩石像が二体。かつてはこの間に大師像が露座で置かれていたが。宝篋印塔の横に「宗賢院」の説明板。蟠龍山と号し曹洞宗の寺院で、永正二年(1505)に開創され開山虚堂玄白です。慶安三年(1649)三代将軍家光のとき寺領十石の御朱印を賜わり十七箇寺の末寺がありました。本堂前の竜骨堂にまつってある竜骨は雨乞いの霊験あらたかであると有名でかんばつになると近くの村から借りる人が多かったといわれています。宗賢院本堂本尊は「釈迦如来」。本堂の扁額「蟠龍山」。本堂前から振り返り龍骨堂を見る。本堂右手前には象に乗って経文を読む賢者らしき像。また木立の中に十三重塔。龍骨堂幕末頃に納められたという「龍骨」を安置する堂である。筑波山中で発見されたものといわれ、夏の旱魃のときに水中にひたして雨を祈ると、必ずそのご利益があったといわれ、大正年間頃まで、近隣の村から龍骨を借りにきていたという。 龍骨堂の右手前には黒い「宗賢院歴代住職供養碑」が立っている。本堂左前には、大師像と社の中には六地蔵。かつては大師像は宝篋印塔の前に置かれていたが移設されたようだ。六地蔵が並ぶ。本堂の左側に建つ「蟠龍〇」、左には「翠龍 永代供養塔」。扁額には「蟠龍〇」と。龍骨堂は高床式になっている。右側に本堂。境内の西側奥は墓地になっており、更に奥は芙蓉カントリー俱楽部のコースになっている。コースから打ち込まれないように高いネットが張られている。境内と墓地との間の通路。根元が太くなった珍しい木。木柱には「藤沢市保存樹木 主な樹種 クス」と。保存樹木のクスノキであろうか。後方には龍骨堂。境内の南側に阿弥陀像を中心に多くの墓石が並んでいたが無縁仏か。阿弥陀像の背後には「慶雲院淨戒〇」。階段を上ると高台には、歴代上人の墓所。中央に「開山之〇」と。歴代上人の墓所から北側に建つ本堂を見下ろす。右奥に寺務所、左に龍骨堂。輪光背を持つ観音菩薩立像。右奥に龍骨堂。龍骨堂の左下に小さな社があったが説明板がなく・・・。社をズームアップ。社の右側に立つ石仏。同左側に立つ石仏。どれも移設してここに集められたようだが。木の右下には「為先祖代々菩提 施主大竹○○」とあった。龍骨堂を見上げる。龍骨堂の扁額「宗龍殿」。龍骨堂から北側に本堂を見下ろす。龍骨堂から東方向の駐車場、イチョウの木を見る。階段下には大きな宝篋印塔。龍骨堂の前に立つ宝篋印塔寛政八年(1796)、十九世大温知暾のときに建立されたものである。川越城主の武運長久、天下泰平、五穀豊穣、西国・坂東・秩父札所の観世音供養などをために法華経一千部を漸読した祈念碑。境内中央に堂々と立つ大イチョウで、秋には知る人ぞ知るイチョウの名所であると。境内の手入れをしている人の話では、午後2時頃が陽が当たり一番綺麗だと。この秋は撮影に挑戦。参道にある太鼓橋を渡り山門へ。参道には八重桜の絨毯。宗賢院の山門を後にする。16:45普段は通行止めになっている冠木門。参道にあった藤沢市のマンホール蓋。市の木クロマツをデザイン。こちらは市章の下に「おすい」の 文字が入っている。 ー 続く ー
2023.06.03
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大庭神社から下り再度引地川親水公園の南側エリアへ。4月19日(水) 15:45小高いところにある二本の藤棚。昨年も綺麗に咲いていた。10メートルほどの小さな藤棚だが今年も綺麗に咲いていた。フジの花は下垂する大きな総状花序につき青紫色である。見事な花をズームアップ。後方には大庭城址公園。フジ(マメ科)藤。落葉つる性木本。つるは右巻きです。花は下垂する大きな総状花序につき青紫色です。花穂の上部の花から開きます。西側には、引地川、大庭遊水池、後方には大庭城址公園の杜が広がる。この辺りの引地川の堤は一段低くなり治水対策用の大庭遊水池になっている。大庭遊水池内には、多目的レクリエーション&スポーツゾーンがありサッカー場に利用される。大庭遊水池この公園は遊水池で、大雨の時は川の水が浸入してきます。その際、危険なため回転灯、電光掲示板、放送等によりお知らせしますので、すみやかに園外へ避難して下さい。また、浸水時は、水が完全に引くまで園内に立入ってはいけません。 神奈川県藤沢市土木事務所 藤沢市湘南ライフタウンの集合住宅。右側には大庭城址公園の丘。湘南ライフタウンの集合住宅をズームアップ。富士がかすかに見えていた。富士をズームアップ。藤棚の構造も上から吊るす構造になっている。この後引地川親水公園を後にし、引地川沿いを下りGoogleマップに載っている柏山公園近くにある「馬頭観音」を目指す。昨年訪れた4月21日(木)は、つつじとのコラボが見頃であったが今年はつつじの開花と合わず。前方は引地川と合流する小糸川。正面奥に「湘南ライフタウン城山住宅」。引地川を渡り小糸川との角にある広場にも藤棚。藤棚の下にはベンチも設置されている。藤棚を見上げる。藤棚の下に、フジロード Fuji Road「引地川・フジ史跡ロード」。① 円行公園、② 桐ヶ谷公園、③ なかむら公園、④ 二番構公園、⑤ 引地川親水公園、⑥ 大庭城址公園、⑦ 舟地蔵公園、⑧ 引地川緑地、⑨ 引地川親水広場、⑩ 長久保公園⑪ 八部公園この後引地川の西側堤を下る。大庭大橋が横切る。東の丘と西側の県道43号線を結ぶ大庭大橋。この辺りの橋の下ではいろんな楽器 (尺八・トランペット等) を持った演奏者であろうか各々一人で練習しておられた。引地川沿いに建っていた「藤沢市議会議員選挙ポスター掲示場」。柏山稲荷神社神社の廻りは相変わらずロープが張られ立入禁止になっていた。石柱には「奉納 柏山稲荷神社」。杜の中に目立つ朱色に塗られた柏山稲荷神社への辨天橋。スマホの案内で、柏山稲荷神社横から柏山橋を渡り振り返る。西側には柏山公園の杜が広がり、丘には共同住宅の「サンクタス湘南藤沢アネーロの丘」。柏山橋を渡り右折すると直ぐに左側傾斜地に馬頭観音が並んでいた。馬頭観音所在地:神奈川県藤沢市稲荷1丁目2右側から、五輪塔、安永八年 双体道祖神、馬頭観音、馬頭観世音 (天保十四卯年) が並ぶ。馬頭観音前から西側をのぞむ。馬頭観音から次の目的地は「宗賢院」にセット。県道43号線(藤沢厚木線)に戻り北上、宗賢院の案内板を見つける。Googleマップで藤沢のこの地にこの古刹を知り訪れた。県道から入ると直ぐに冠木門。二本の柱の上部に冠木を貫き渡し上に屋根をかけた門。現在は屋根のないものをいうことが多い。冠木門の奥に山門が建つ。山門をズームアップ。曹洞宗 宗賢院 (そうけんいん)所在地:神奈川県藤沢市大庭819宗賢院は、約500年以上前に創建された曹洞宗の古刹で、境内には神木の銀杏や高木が鬱蒼とした荘厳な雰囲気の寺院である。秋には知る人ぞ知るイチョウの名所でもある。山門の扁額「蟠龍山」。山門前右側に立つ寺号標石には「曹洞宗 宗賢院」。手の凝った石燈籠も。いろんな彫り物が。寺号標石の側面には「昭和四十七年 秋彼岸 宗賢院丗一世宗雲○○○建立」と。山門前から県道43号線(藤沢厚木線)、右奥に冠木門を振り返る。山門を入ると左側に社。社の中には石像。イチョウの木が聳える境内から山門を見る。新芽が出たイチョウの木を見上げる。青々としたイチョウの葉。16:25境内にはイチョウの雄花が大量に落ちていた。銀杏の実は臭いことで多くの人が避けるが、進化の秘密を保つ、素晴らしい植物である。動物のように個体ごとに性、雄木と雌木とに分かれており、雄花は春に咲き、花粉を風に散布させると大量に落下してしまう。雌木では、小さな実が実り始めています。普通は、花粉を受け取って受精して、だんだん実が大きく熟していくのですが、銀杏は特別な受精方法を持っているのです。まだ、植物の祖先が陸へと進出していなかった途方もない昔の受精方法、液体中を精子が泳ぐ方法を保っているのです。夏を過ぎるころ、この小さな実がもっと大きくなった頃、雌の果実のなかに液体が湧き出し、春に入り込んでこの時をまっていた花粉から精子が泳ぎだすのですと(ネットから)。 ー 続く ー
2023.06.02
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引地川親水公園の後は、親水公園の東側にある寺社を訪れた。4月19日(水) 15:25高野山真言宗 成就院所在地:神奈川県藤沢市大庭8157山門前に「高野山真言宗 成就院」と刻まれた寺号標石が立つ。成就院山号は稲荷山、真言宗、古くは宝染寺と呼ばれ、山号伊豆守(文和3年 1354没)が開いたとされています。江戸時代は大庭神社の別当寺をつとめていました。本尊は市内でも珍しい愛染明王です。弘法大師霊場相模国準四国八十八箇所の第三十四番札所でもあります。 藤沢市山門を見上げる。山門を入ると左側にソメイヨシノの古木が聳える。成就院本堂創建は文和年間 (1352年ー1356年) 頃である。『新編相模国風土記稿』によると開基は山名伊豆守で山名時氏か山名師義ではないかと指摘、中興は辨應としている。古くは宝染寺という寺号で大庭神社の別当であったという。天保年間(1830年ー1844年) に火災にあった。本堂前には二つの像が立っている。本堂左側には観世音。台座の正面に「大東亜戦争戦没英霊」が刻まれている。側面には「支那事変・大東亜戦争 戦没英霊」が刻まれている。右側には地蔵像。昭和六十一年九月建之 施主○○○。哲ちゃんの願い「交通安全」輝かしい未来ある子供達の生命が奪われないようにと。山門を入ると右側に新しい五輪塔、後方の斜面に墓地が広がる。本堂の右側に廻る。水子地蔵、左奥には不動明王、斜面にはつつじが綺麗に咲いていた。池の中には不動明王。不動明王をズームアップ。墓地に咲くつつじをズームアップ。山門を振り返る。境内の隅に咲く満開のフジが綺麗であった。大庭神社 一ノ鳥居所在地:神奈川県藤沢市大庭6984成就院から南下、引地川親水公園の東側にある、大庭神社下の石鳥居。大庭神社之由来当大庭神社ハ御祭神トシテ嚝古神皇産靈尊ヲ奉祀シ延喜式内郷社ナリ藤沢市稲荷998番地ニ鎮座セラル相模十三社ノ一ニシテ小社ニ列セラレ当地ハ往古ヨリ旧地ナリト伝承ス当社配神大庭三郎景親公ハ第百十八代後桃園天皇ノ御代安永六年十月神秖白川従二位伯資顕王ニ依ツテ勧請セラレ同ジノ配神菅原道眞公ハ第百十九代光格天皇ノ御代天明三年秋地頭諏訪部定太郎 名主山崎六郎兵衛包高等ノ願ニ依リ勧請セラレ靈験灼ニシテ普ク庶民ノ守護神デアリ氏子崇敬者ノ神ト世代ニ伝エラレマス 昭和五十四 己 末 年九月十三日 奉納 藤沢市稲荷 長谷川菊松 謹書鳥居横の石柱には「郷社 大庭神社」、側面には「相模國鳥居下から108段あるという石段を見上げる。前回は電動アシスト自転車で成就院横の坂を上り境内へ向かったが、今回は石段を上ることに。石段の途中に平地があり更に石段を上る。氏子さん達の手で清掃されたのか石段は綺麗に清掃されていた。一ノ鳥居から境内に登り石段を見下ろす。石段を上ると鬱蒼とした森の北側に鐘楼、社殿が見えた。奥に銅板葺きの鐘楼。手前には関東大震災で倒壊した鳥居 (二ノ鳥居?) 。関東大震災で倒壊した鳥居の残骸が置かれている。鐘 楼ネットでは元の梵鐘は、1721年(享保6年)の鋳造とあったが。第二次大戦で供出されたのか、この梵鐘には「昭和二十九年九月吉日 茨城縣真壁町 御鋳物師 小田部庄右エ門」の鋳出し。大庭神社所在地:神奈川県藤沢市稲荷997大庭神社は、大庭・稲荷の鎮守。大庭城址の南を流れる引地川沿いの高台にある古社で、「延喜式内相模国十三座」の一つ。『延喜式』とは、927年(延長5年)にまとめられた全国の神社の一覧のこと。1777年(安永6年)、大庭の地を本拠とし、大庭御厨の経営に当たっていた大庭景親が祀られた。1783年(天明3年)には、菅原道真も祀られたことから「天神社」とも呼ばれている。大庭神社の社殿 祭神 神皇産霊神(かみむすびのかみ) 大庭景親 菅原道真拝殿に吊るされた注連縄。拝殿の扁額「大庭神社」。社殿前左側には屋根の下に手水舎。二つの石碑があったが左は、「軍人戦死碑」、右は「○○碑」。右側の石碑をアップするが風化して字が読めなかった。社殿の右側から裏側へ廻り込む。つつじが綺麗に咲いていた。本殿を見上げる。本殿裏を廻り、本殿、拝殿。左側から本殿を振り返る。社殿前に立つ大きな常夜燈。境内の東側に石碑群があったが判読できず。手前の石碑は「大庭神社石坂石燈籠建設紀念碑」で奉賛金と氏名が刻まれている。境内から石段を下り、最後の石段。15:45石段を下り大庭神社一ノ鳥居を振り返る。境内は前回に比べ綺麗に清掃されていた。 ー 続く ー
2023.06.01
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日枝神社から引地川親水公園へ向かう途中、小糸稲荷神社へ立ち寄る。4月19日(水) 14:35小糸稲荷神社所在地:神奈川県藤沢市大庭5125スマホのGoogleマップに載っていた、湘南ライフタウン小糸の一角に鎮座する稲荷神社である。小糸稲荷神社に隣接して左側に建つ「小糸町内会館」と一段高いところに建つ社殿。小糸稲荷神社に隣接して建つ「小糸町内会館」。新しい社殿だが。内陣を覗き込む。左側に朱色の小糸稲荷神社。小糸稲荷神社の南側には丘陵地。小糸神明社 (こいとしんめいしゃ)所在地:神奈川県藤沢市大庭5244-6小糸稲荷神社から新興住宅地の坂道を上り北側にある当社へ愛車のリンちゃんで訪れた。新興住宅地の中にある神社らしく境内は綺麗に掃除され、明るく整然とした境内となっている。総本社 皇大神宮 (三重県伊勢市)ご祭神 天照大神 (あまてらすおおかみ) (推定)ご利益 諸願成就 他鳥居手前に立つ社号標石には「神明社」。鳥居を潜り階段を上ると右側に狛犬の阿形像。台座には昭和11年(1936)4月吉日建立と。左側の狛犬吽形像。記念碑 皇大神宮宮司 関根正統この地は古代の「大庭郷」ゆかりの地で平安時代に鎌倉権五郎景正が私領として開発し、伊勢神宮に寄進した大庭御厨。その御厨内の郷村に神宮の分社、神明社が勧請された。小糸神明社の境内にはかって五、六百年を経た老松があり、由緒の古さを物語っている。古来旧小糸村(小糸・羽根沢・小ヶ谷)の鎮守として人々から深く崇敬されてきた。伊勢講での本宮参詣や本宮への御初穂がすすめられ神宮敬神への姿をみる。例祭は春祭りとしてこの地方でも特出したにぎわいを示した。幕末、明治、昭和の造営により本殿・拝殿・神楽殿・鳥居・狛犬・灯籠と境内の整備が行われた。しかるに昭和四十七年市西部開発事業により周辺の環境は激変し、八十八段の石段を有した社地は切り下げられ社殿も移築された。これを契機に老朽化した社殿新築の機運が起こり、平成十一年に建設委員会が発足。翌十二年七月から奉賛の御浄財が寄せられ、本年二月本殿の上棟式が営まれた。かくて平成十三年(2001)五月吉日に造営は完成した。ここに当社の由来を記し、御神徳をたたえ国の平和、地区の繁栄、氏子御一家の安泰を祈念して建碑する。 平成十三年五月吉日 湯山 學 撰文拝殿の左側から。平成十三年(2001)五月に完成した社殿。こじんまりとした本殿である。拝殿前の彫刻も平成十三年のためシンプルである。拝殿の扁額「神明社」。拝殿内部をズームアップ。拝殿内に置かれていた「?」。小糸神明社の社地はかつては八十八段の石段があったと。後方には大庭城址公園。拝殿前から境内を見下ろす。境内にはいろんな石碑が立っていた。右側に「招魂碑」左側の石碑には「明治三十七八年 戦捷紀念」。右側に「招魂碑」には、第二次の大戦からすでに半世紀を過ぎ、わが国は復興から繁栄へと平和の内に二十一世紀を迎えました。大戦中この神明社の社頭から祖国の守りのため出征し、大陸で孤島でまた洋上で砲弾弾雨のなか壮烈なる戦死を遂げられた。勇士十六御柱の英霊をここに祀るものであります。ここに神明社の社殿造営と新世紀を期して御霊の安らかなる眠りと、世界の恒久平和地域の繁栄、一家の安泰を祈念して、有志により碑を建立いたしました。 湯山 學 撰文 平成十三年五月吉日 下段には、十六名の戦没者氏名、戦死場所、戦死年月、年齢が刻まれている。 小糸神明社から下り、小糸川。引地川へと流れる。小糸川に架かる城山橋。大庭城稲荷神社所在地:神奈川県藤沢市大庭大庭城址公園の北側を走る湘南大庭1号線から坂を上ると鎮座している。この稲荷神社もGoogleマップに載っている。大庭城址公園の横に有る約一坪に石造りの小さくて可愛いお稲荷さん。民家に隣接しており屋敷神っぽいが一般の参拝も可能であると。新しい稲荷神社であるようだ。大庭城稲荷神社から県道43号線(藤沢厚木線)へ下り、北方向を望む。県道43号線(藤沢厚木線)を南方向へ走り、引地川親水公園入口交差点。この交差点を左折して引地川親水公園へ。引地川親水公園所在地:神奈川県藤沢市大庭6510引地川親水公園は、指定管理者「公益財団法人藤沢市まちづくり協会・藤沢市緑化事業協同組合グループ」が維持管理をしている。ここにも藤棚がある。駐車場は無料の駐車場がP1,P2とある。フジロード Fuji Road「引地川・フジ史跡ロード」① 円行公園、② 桐ヶ谷公園、③ なかむら公園、④ 二番構公園、⑤ 引地川親水公園、⑥ 大庭城址公園、⑦ 舟地蔵公園、⑧ 引地川緑地、⑨ 引地川親水広場、⑩ 長久保公園⑪ 八部公園引地川を渡り東側エリアにある藤棚の回廊。藤棚には紫色のフジ、下にはつつじが咲いていた。藤棚を見上げると満開のフジ。三年連続の訪問であるが今年が最高。房の長さは50センチ程であろうか。つつじとのコラボ。つつじはまだ蕾が多いようだ。今年はつつじとの競演も見れ最高であった。藤棚の回廊とつつじの丘と呼ばれている。フジの木も数本植えられているようだ。フジは満開に。こちら側は白色のフジであったか、開花は遅れていたようだ。今年は満開のフジが見れ最高であった。藤棚の後方にはメタセコイアも聳える。多くの人がカメラを持ち訪れていた。藤棚をズームアップ。引地川親水公園の間を流れる引地川の上流側を望む。公園内にはソメイヨシノが多く植えられている。Googleマップで引地川親水公園に隣接して東側に「道祖神」があるとのことで移動。道路脇には「不法投棄監視中」と書かれた立札。愛車のリンちゃんで竹林の中を登り振り返る。目的の道祖神は見つからず折り返す。スマホではこの辺りに。ネットの写真ではフェンス辺りに双体道祖神があるのだが草が生い茂り。草に覆われて隠れているのか。道祖神が見つからず折り返すと畑の中に小さな木の鳥居が立っていた。15:20山の木に絡みついたフジが咲いていた。 ー 続く ー
2023.05.31
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フジの花のアップが遅くなりましたが、今年も藤沢市の花である「フジ」を愛でに大庭地区を、併せて同地区の寺社史蹟を愛車のリンちゃんで訪れた。フジロードは昨年、一昨年と訪れているがピーク時に訪れていないので再度訪れた。昼食後、スマホの目的地を「日枝神社」にして家を出発した。4月19日(水) 13:30県道47号線(藤沢平塚線)の茅ヶ崎市から藤沢市へ入る。この辺りは湘南ライフタウン。13:45二番構公園(にばんがまえこうえん)所在地:神奈川県藤沢市大庭二番構5528番目的地は日枝神社であったがスマホの音声が低く迷いながら先に「二番構公園」へ到着。ここのフジも「フジロード Fuji Road 引地川・フジ史跡ロード」のひとつである。公園入口に、「藤沢市立 二番構公園」。「二番構」という名前は、すぐ近くにあった大庭城に由来する地名で、湘南ライフタウンの区画整理事業によって生まれた近隣公園である。公園の北側には遊具広場がある。公園配置図には、本公園名は所在地の字名(二番構)からとりました。この場所までが、大庭城の範囲であるとの説があります。市道(中央けやき通り)沿いに南北に長い公園である。二番構公園にあった案内板、フジロード Fuji Road「引地川・フジ史跡ロード」① 円行公園、② 桐ヶ谷公園、③ なかむら公園、④ 二番構公園、⑤ 引地川親水公園、⑥ 大庭城址公園、⑦ 舟地蔵公園、⑧ 引地川緑地、⑨ 引地川親水広場、⑩ 長久保公園⑪ 八部公園公園にはL字型の藤棚が設けられている。藤棚の下にはベンチが設けられている。床面には花びらが散っていた。藤棚から暖簾のように花房が下がっていた。又良い香りも漂っていた。フジの樹齢は何年であろうか。三つ編みの如くに絡みついている。いつもはクマバチが飛びまわっているのだが、今年は少ない感がするが。満開のフジをズームアップ。東側の藤棚。南側の藤棚。二番構公園内噴水池にブロンズ像。新型コロナウイルス以来噴水は止まっている。公園に咲く白のハナミズキ。ズームアアップ。二番構公園の南側に自然石を配した流れがあり水路の両側に散策路。水路の最上部に立つブロンズ像。その像の水壺から水が流れ落ちる。最下段部には二人の子供の像。13:55湘南大庭市民センター所在地:神奈川県藤沢市大庭5406-1当市民センターでは、戸籍や住民票の交付や各種届出などの行政窓口事務をおこなっています。地域住民団体育成援助、福祉手続きなど、地域まちづくりの新しい市民相互の交流の場として、また、社会教育施設としての公民館を併設した地域活動の中心的な施設として、各種の行政サービスをおこなっていると。市民センターの前には近郊の観光案内板があった。ネモフィラも植えられ綺麗に咲いていた。ふるさとマップ 湘南大庭この後、最初に参拝する予定であった左上の「日枝神社」へ向かうことに。市民センターの前に二体のブロンズ像。作品名は「春の詩」作 者:桒山 賀行氏(くわやま がこう) 竣 工 年 :1995年。作品材質:ブロンズアプローチを挟んで二体の作品が向かい合って立っている。鳥と戯れる二体の少女像は、さわやかな春のイメージなのであると。ズームアップ。市民センター前の右側に立つブロンズ像。14:10市民センター前からスマホの目的地を「日枝神社」にセットして進む。左側の柵内は小ヶ谷水路でその先の建物は大庭小学校。スマホの案内でこの橋を渡り西側へ進む。スマホの案内で、東小ヶ谷公園に駐輪。公園の隅には「防災倉庫 小ヶ谷町内会」の倉庫。東小ヶ谷公園から坂を上ると前方に鳥居が見えた。14:15日枝神社所在地:神奈川県藤沢市大庭5313-8スマホの案内でどうにか到着したが谷戸の丘陵地にあった。階段を上ると石鳥居、社殿、右側には集会所があった。社号標石の「日枝神社」。社殿の前には狛犬に代わって献燈が対で立っていた。左側の献燈の後方に立札があったが。社殿内を覗き込む。社の両側に小さな御輿らしきものがあったが布で覆われていた。社殿の右側に年輪を感じさせる木があった。神社裏の民家の庭先では鯉のぼりが泳いでいた。社殿の西側から。日枝神社の由来等は説明板、石碑もなく不詳。14:20日枝神社から坂を下り小ヶ谷水路上に戻る。 ー 続く ー
2023.05.30
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梶原景時館跡から県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)を東へ戻り、松戸橋跡交差点を左折し北上、花川用水を追うことに。現在地は、左下の「南部公民館」の北側(赤矢印)。4月3日(月) 15:50南台畑交差点を北西方向へ進むと県道44号線へ至る。南台畑交差点近くにある「花川用水路第15号橋」を振り返る。南台畑交差点近くから北方向を望む。進むと相模線の寒川駅へ至る。この時期(4月3日)の花川用水にはゴミが多く落ちているが。田植えが始まる頃には清掃されるのであろう!。花川用水路第13号橋所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目13第15号橋から北へ進み、この先から民家の裏を廻り右方向に大きく蛇行する花川用水。スクリーンが設置されていた。南方向を振り返る。この辺りの川にもゴミが多く散乱していた。スクリーン上の用具箱に寒川町・花川用水組合と、中には何が入っているのか。粗目のスクリーンには多くのゴミ。民家の裏を廻り右方向に大きく蛇行する花川用水。県道47号線(藤沢平塚線)の交差点。向かい側には居酒屋の「具志堅の家」があったが、元ボクサーの具志堅用高とは関係ないと。寒川駅へは交差点を渡りこの間を進む。JR相模線の大山踏切。踏切手前左側数十メートルに目的地の花川用水路10号橋がある。右へ進むと寒川駅。花川用水路10号橋所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮2丁目1-6コンクリ製水門は金網で囲まれていた。フェンスの金網に、「お 願 い この場所は、一般のゴミ置場ではありません。ゴミを捨てないで下さい。 寒川町・花川用水組合」とあったが、ゴミが置かれていた。フェンスの金網を廻り込み、水路には、昭和の雰囲気が漂うコンクリ製水門で、ゲートは珍しい木製であった。水路の上はコンクリ製蓋で覆われていた。北側はJR相模線。花川用水路10号橋から南側は、住宅街の間を流れている。南側へ流れ、寒川町の一之宮、田端、茅ヶ崎市内の萩園の水田を潤す。大山踏切を北側に廻り込み、相模線越しに花川用水路10号橋を望む。寒川駅方向。県道47号線(藤沢平塚線)へ戻り、南東方向へ進む。渡辺製パン所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目9-9工場直売の安くて美味しいパン屋さんであると。揚げパンの旗が気になり立ち寄る。入口に「平日のみ営業 11時開店 売り切れ次第閉店 土 日 祝日 休み」。小さな町工場の入り口で、ショーウィンドウに惣菜パンからデザートパンまでいろいろな種類のパンを売ってた。どれもリーズナブルな価格であった。気になった揚げパンの値段は、140円だったので3個購入。水曜日は120円になると!渡辺製パン工場。学校給食専門の製パン工場だが、店先で揚げパンなどを売っているとのこと。いろんなパンがあるので再度水曜日に訪れたいものだ!相模稲荷神社所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田渡辺製パンから県道45号線(中原街道)の用田踏切を渡り左折して寒川駅近くにある神社へ。相模線寒川駅の南東50m程の所にあり背後に相模線。駅北口の再開発で整備されたようだ。正一位相模稲荷大明神 ・商売繁盛 ・交通安全 ・家内安全 ・安産祈願 ・五穀豊穣社殿の前にキツネ稲荷神社では狛犬の代わりにキツネの像が安置されている。それらのキツネは境内を守っているのではなく、ご祭神である稲荷神のお使い(神使)なので境内に控えていると。社殿の前に進み。内陣を覗き見る。提灯には「相模稲荷大明神」と。社殿前から約一間幅の参道を見る。16:12相模稲荷神社から帰路につき、小出川に架かる寺尾橋から上流側を望む。ズームアップすると上流側に県道47号線(小出中央通り)に架かる一ツ橋。寺尾橋から下流側にはJR相模線。河川敷には菜の花が咲き乱れていた。寺尾橋から砂利道を上流側へ進み、対岸に湘南公園墓地のサクラ並木。寺尾橋から砂利道を北上し、菜の花とサクラのコラボ。サクラ並木の東側には湘南公園墓地が広がっている。県道47号線(小出中央通り)の寒川町と茅ヶ崎市の境に架かる一ツ橋。一ツ橋から上って来た小出川の下流側を見る。左側の丘に「湘南公園墓地」。湘南公園墓地下に寺尾橋までの遊歩道がある。湘南公園墓地から香川駅前通りを香川駅方向へ進み。右に入ると、熊澤酒造㈱本社がある。地ビールの湘南ビール、レストランがある。香川駅前通り沿いにある「直売 伊右衛門」。ダイコン、春キャベツを購入して帰る。16:50千ノ川に戻る。ここのサクラも散り始めていた。空にはお月さんが。満月前のお月さん。サクラにピントを合わせると葉ザクラに。今年は多いにサクラを楽しんだ。 END
2023.05.29
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水道道から県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)へ戻り西へ向かう。4月3日(月) 15:10重要文化財(建物)?に申請中の敷地にクスノキが聳える。更に西へ進むと、「日蓮宗 妙光寺」。妙光寺は最近訪れているので今回はスルー。松戸橋跡所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮旧大山街道の交差点角にあり、かつては橋があり川が流れていたが今は川は埋められている。八幡大神の例祭の宵宮(前日の夜)に行われる神賑行事で、一之宮の東・西・北の三町の屋台が各町内から出発し、太鼓、笛、鉦(かね)等による囃子にのってここ松戸橋に集結して、三基揃って巡幸しながら宮入りする。南部文化福祉会館所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目5-20南部文化福祉会館は、公民館と老人福祉センターとの複合施設で、教育文化活動の学習の場として、また高齢者の健康増進、生きがいの創造の場として広く町民の教育文化の向上、増進に資することを目的として設置された二つの機能をもつ施設である。南部文化福祉会館の南側に立っていた「高座郡寒川町南部土地改良区」の石碑。高座郡寒川町南部土地改良区本地区は明治初年士族伊藤勇氏により土地の丈量地番等級その他道水路等が設定されて以来百年有半 幾多の変遷を経て今日に至ったが 東は県道海老名寒川茅ヶ崎線に西は相模川に接し 南は茅ヶ崎市に境し 北は国鉄相模線より県企業庁水道局浄水場に至るまでの面積約二百五十ヘクタールの広域に及び 水田地帯は中央部より東南部延び 島畑は各所に点在し畑地帯は相模川の控堤に沿うて位置し 道路は狭隘 区画もまた極小複雑 その管理には甚しい不便を託つていたが時代の推移は更にその感を深めつつあった 昭和二十九年高座鎌倉地方事務所の土地改良事業の勧奨は一之宮部落の有志をいたく動かすものがあり これに田端中瀬大曲ひいては岡田小谷大蔵の一部の人々までが相呼応し翕然としてこれに参画したのであった。昭和三十年土地改良区設立の申請 翌年三月認可・・・後略 昭和四十八年六月吉日花川用水 (はなかわようすい)所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目4-30南部文化福祉会館の南側にある説明板。説明板は読みずらかったがネットから。花川用水は、基幹用水路として、江戸時代から利用されています。当時は、宮山村地内に設けられた大柳堰(現在のクリーンセンター付近と考えられている)から目久尻川の水を取り、宮山村以下、小谷村、大蔵村、岡田村、中瀬村、大曲村、一之宮村、田端村と茅ヶ崎市内の萩園村の九ケ村に供給していました。そのため九ケ村用水とも呼ばれていました。用水を利用するにあたって、施設の管理・運営、利害を調整した用水組合があり、江戸時代では用水を分流する堰をめぐって用水組合内部で争いが多く起こっています。当時、用水の確保がいかに重要だったかがうかがえます。その後、昭和15年(1940)に相模川左岸用水路の一部として再編されましたが、現在も基幹用水路として利用されており、町内の多くの水田に用水を供給しています。 平成16年(2004)3月 寒川町教育委員会説明板の裏側に三猿が陽刻された板碑型「庚申塔」があった。横には小さな文字道祖神があった。三猿をズーム、左に文字道祖神。入沢家弁財天堂所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目5。花川用水からスマホの案内で「入沢家弁財天堂」へ進むが入り口がなく廻りは新興住宅地に。どうにか入口へたどり着くが門扉が閉まっていた。入沢家弁財天堂は、入沢家が最も繁栄していた明和・安永年間(1764~1781)に建立された。中へ入れなかったので写真はネットから。弁財天堂 寒川町指定重要文化財第十五号 昭和六十三(1988)年八月二十六日指定この建物は、財宝をもたらす幸福の神といわれる弁財天を祀るためのお堂である。総欅造で随所に彫刻を飾り化粧面漆塗とするなど近世の装飾性豊かな建築の特徴をよく示していると共に、この地域に於ける建築水準を理解する上での基準的な建物として貴重である。堂内に保存されていた棟札から天明二(1782)年の建立と推定される。 寒川町教育委員会新興住宅に囲まれた「入沢家弁財天堂」から戻り、南部文化福祉会館手前を左折して路地を進むと朱の鳥居が姿を現した。両替子育地蔵尊堂所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目7-7右側の稲荷神社を背にして両替子育地蔵尊堂が建っていたが、案内板等が設置されていないので由緒等は不明である。立派な社の右側に新しい「両替子育地蔵尊」。社の中には「子育地蔵」が納められていた。道路を挟んで向かい側には別の社が建っていた。Googleマップでは「祠」と。こちらも案内板等が設置されていないので由緒等は不明である。社の左側に「妙法大神」と刻まれた石碑があった。廻りに住宅地がありその一角に三つの社。後世への伝承のためには説明板が欲しいものです。県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)に戻り、南側に立っている石碑「濱降祭駐輿記」。濱降祭駐輿記相模國一宮國幣中社寒川神社濱降祭有里古例爾依里七月十五日神輿茅ヶ崎南湖濱爾渡御在良世良留此乃日近郷近在十数社乃神輿供奉志縣下唯一乃盛儀奈里還幸乃途次一ノ宮當所爾御休憩御發輿爾當里清淨乃地爾栽培世志麥〇爾火乎〇自神輿爾投牙掛久留故事有里當地乃舊家川崎家爾氏代々奉仕世里茲爾其乃所以乎刻志永久後世爾傳閉牟登須留爾當里需爾依里記須事斯久乃如志 昭和8年6月 國幣中社寒川神社宮司正七位橋本甚一撰書濱降祭駐輿記碑横に駐輪して、梶原氏一族郎党(七士)の墓へ。以前来た時より住宅地がより近くなっていた。2年前の状況は「寒川町の寺社」👈 をクリック願います。梶原氏一族郎党(七士)の墓所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目7-1伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓廻りが住宅に開発されているので台座の上に集められた石塔群が並ぶ。伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓この石造物群には次のような言い伝えがあります。正治二年(1200)正月、梶原景時一族郎党が一宮館を出発、上洛の途中清見関(静岡市清水区)で討死してしまったので、一宮館の留守居役であった家族、家臣らが弔ったといいます。また、景時親子が討死してから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が変わったのを見て鎌倉に梶原氏に復権、所領安堵を願い出たが許されず、七士はその場で自害し、それを祀ったものという説もあります。なお、後ろの水路は当時の内堀の名残ともいわれています。 平成二十一年三月 寒川町教育委員会伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓ここへは濱降祭駐輿記碑横から廻り込む。広場には枝垂れ桜が植えられている。西町集會所(薬師堂)所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目6-31車の場合はここへ駐車可能。先程訪れた「伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓」は左方向にある。集会所の入り口横に地蔵。入口上には「西町集會所 薬師堂」。この辺りの案内図。梶原景時館跡所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目6-6ここには駐車場がないので、先程の西町集會所 (薬師堂) へ駐車して100メートル程歩く。現在は狭いスペースになっているが入口に「梶原景時館址」の石柱。梶原景時館跡梶原景時は治承四年(1180)八月、源頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を救いました。翌年正月、頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府の土台を築くのに貢献しました。一宮を所領としており、この地に館を構えたとされています。図に示すとおり館の規模は広大だったとの説もあり、現在も当時の堀のなごりを留めていると伝えられています。天満宮の位置はその一角で、当時は物見の場所として一段と高く構築したとも伝えられています。景時は和歌もたしなみ文武両道で秀でた武将でした。頼朝の死後、多くの家臣からそねまれ、ついに正治元年(1199)十一月、鎌倉を追放され、一族郎党を率いて一宮館に引き揚げました。その後、景時は再起を期し、上洛するため、翌正治二年正月二十日午前二時頃ひそかに館を出発しました。一行は清見関(静岡市清水区)で北条方の軍の攻撃を受け、景時以下討死という悲劇的な最期を遂げました。館の留守居役の家臣も翌年尾張(愛知県)に移ったと伝えられ、また物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。 平成二十一年三月 寒川町教育委員会石碑には「天満宮遺蹟碑」。一之宮天満宮天満宮の社は、梶原氏の風雅をたたえ里人によって創建されたと伝えられている。現在の梶原景時館跡は、子供たちの遊び場になっているようで遊具もある。広場の隅に社が立っていた。広場に聳えるイチョウの木。お地蔵さん所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目6-24Googleマップに載っている、梶原景時館跡の近くにあるお地蔵さんであるが由来等は不明である。15:45梶原景時館跡から県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)を東へ戻り進む。右側に「西町集會所 (薬師堂)」。 ー 続く ー
2023.05.28
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景観寺から県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)を西へ向かう。4月3日(月) 14:45旧大山街道沿いに大きな石鳥居が建っている。石鳥居の扁額には「八幡大神」。鳥居の下に「一之宮八幡大神」の丸い社号標石。一の鳥居横に建つ石碑「いちのみや 大山道」。裏面には、東海道の四ツ谷(藤沢市)を起点に大山へ至る街道、田村の渡しで相模川を渡ることから田村通り大山道と呼ばれ、江戸から鎌倉・江ノ島を経由して大山詣りをする際によく使われた。特にここ一ノ宮は中原道とも交わる交通の要衝で、旅館 茶屋をはじめさまざまな商店が軒を連ね賑わいをみせた。 令和元年五月吉日建立 和田 邦夫 鳥居前から大山道を振り返り、中瀬大神の鳥居を望む。参道の奥に八幡大神の社殿。参道脇の掲示板には「平成四年 八幡大神境内整備(大鳥居建立・玉垣建設) 特別協賛者ご芳名金額と多くの協賛者の名が書きだされていた。一、金 五百万円也 一之宮生産組合 一、金 参拾万円也 十数名一、金 弐百万円也 寒川神社 一、金 弐拾万円也 十数名一、金 壱百万円也 若林孝治 一、金 拾五万円也 二名一、金 七拾万円也 小泉彦一 一、金 拾万円也 多数一、金 五拾万円也 五名 一、金 壱仟円也 多くの人が協賛八幡大神(はちまんおおかみ)所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目21-10長い参道を進むと正面に二の鳥居、手水舎、社殿、左側には神輿殿。 神輿殿の扁額「神輿殿」。社殿の前に二の鳥居。宗教法人 八幡大神一、鎮座地 高座郡寒川町一之宮一丁目二十一番地十号一、御祭神 誉田別尊、大日貴神、倉稲魂命、大山咋命、 奥津比古命、奥津比女命、大雀命、菅原天神一、由 緒 元禄十年(1697)八月の創立と伝えるが、平安時代の和名抄に「佐牟河波伊知乃三夜牟 良(さむかわいちのみやむら)」と記されていることから、古くより奉祀されていたと 推定される。爾来武門・上下の尊崇をうけ、明治元年の神仏分離令により妙光寺持よ り村持となり、社格制度制定により同六年、村社に列せられ、更に村内の数社を合せ 祀り一之宮の氏神様としての姿を整える。 大正十二年、関東大震災により建物一切倒壊するが、同十五年本殿他を再建す。昭和 二十年の終戦により宗教法人となる。 同五十九年、境内整備事業により社殿の改修、神楽殿、社務所の新築を奉行する。 平成二十一年一月二十一日、明治の御代に合祀されてより正に百年目に当たる吉き日 に八幡大神に縁深き氏子等参列のもと、合祀百周年記念奉告祭が斎行された。 八月一日例祭。宵宮に氏子三町より奉納される屋台巡行は明治より連綿と受け継がれ 殷賑を極める。一、祭 事 歳旦祭 一月一日、 節分祭 二月節分、 虫送祭 六月夏至に近い日曜日、 浜降祭 七月第三月曜日(海の日) 例 祭 八月一日、 七五三祝祭 十一月上旬、 煤払祭 十二月二十八日、 月次祭 毎月一日 平成二十一年一月二十一日社殿の右側(東)にある広い境内には、屋台保存殿、神楽殿が建つ。右側に新しい手洗い場の水鉢には「心洗」。左側の古い水鉢には「○○○」と。玉垣手前の石碑に「記念 社務所神楽殿新築落成及社殿屋根葺替竣工竝神輿殿奉製」。右側の狛犬(阿形像)。左側の狛犬(吽形像)。左側の狛犬の座には「奉献 昭和三十一年一月」と。社殿を左前方から。拝殿の扁額「八幡大神」。拝殿の前に置かれていた賽銭箱。二の鳥居をくぐると社殿左側手前に同一台座上に2つの石碑。左側に、大正4年の「玉垣建造碑」。右側に「大震災紀念碑」、「大正十二年九月一日午前十一時五十八分 大震災紀念碑」。裏面には、殃死者18名の氏名と年齢が刻まれている。後方の朱色の鳥居は個人宅の稲荷社。左に「御大典奉祝記念」碑。右側に「故陸軍歩兵一等卆鈴木庄蔵君之碑」。紙垂で飾られた「御大典奉祝記念」碑。碑には「大鳥居並玉垣建造の碑」と刻まれ由来が、 平成四年十一月吉日社殿左奥にある境内社の「稲荷大明神」。境内社手前のクスノキ?が紙垂で飾られていた。稲荷大明神の社殿。境内の左奥に集められた石碑群。常夜燈、竪空地神塔、二十三夜供羪塔、石祠、石碑、双体道祖神が並べられていた。常夜燈、竪空地神塔、二十三夜供羪塔、石祠。一之宮八幡大神 屋台神賑行事(やたいしんしんぎょうじ) 寒川町指定重要文化財第三号 昭和五十一年七月一日指定八幡大神の例祭の宵宮(前日の夜)に行われる神賑行事で、一之宮の東・西・北の三町の屋台が各町内から出発し、太鼓、笛、鉦(かね)等による囃子にのって松戸橋に集結して、三基揃って巡幸しながら宮入りする。制作は愛川町半原で、明治時代の初期に始まったと伝えられている。 寒川町教育委員会石碑には、創立三十周年記念碑 相川一之宮屋台ばやし保存會 とんとこ とんとん とことん とろすく 平成十七年八月吉日石碑の裏には、一之宮屋台ばやし保存會 創立三十周年寄附者会長、副会長、顧問、理事一期生 ~ の名前が刻まれていた。神楽殿、右奥に社務所。八幡大神を後にする。三基の屋台が巡幸する屋台神賑行事を見てみたいものだが。15:02社殿前から参道、一の鳥居を望む。右折して旧大山街道を西へ向かう。和菓子 豊月堂所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目23-13八幡大神から旧大山街道を100メートルほど進み交差点の北側にある老舗和菓子店。NHK大河ドラマの影響でレーズンの入った洋風な「景時まんじゅう」が人気だと。同交差点の西側に建つタウンニュースに載っていた古住宅。所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目辺り重要文化財(建物)?の申請を検討していると。元は医院であったか?庭に聳えるクスノキ。木の根元には「保存樹木(樹木名 クスノキ)寒川町。庭は綺麗に整備されていたが。金刀比羅宮所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目1-20県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)の南側に鎮座する金刀比羅宮。鳥居は鉄製。境内には子供用の遊具があり、奥に社殿。曹洞宗 西光寺跡所在地:神奈川県寒川町一之宮8丁目辺り。金毘羅宮の南の道を西へ進むと、住宅地の一角がブロックに囲まれ3基の石碑が建っていた。右側から「馬頭観世音 大正十年」「無縁供養塔」「観音像}」。15:10西光寺跡から萩園通りへ戻り、水道道の入口(南東方向を望む)。 ー 続く ー
2023.05.27
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