全12件 (12件中 1-12件目)
1
Bar UKからの重要なお知らせです。 皆さま、Bar UKは、明日28日(火)から9月4日(火)までの間、店内の設備改修工事のためお休みを頂戴致します。ご迷惑をお掛け致しますが、何卒ご了承くださいませ。 なお、本日27日(月)は、通常通り(午後4時〜10時半)営業致しておりますので、皆さまのお越しを心よりお待ちしております。【Bar UK】大阪市北区曽根崎新地1-5-20 大川ビルB1F 電話06-6342-0035 営業時間 → 平日=午後4時~10時半(金曜のみ11時まで)、土曜=午後2時~8時半、定休日=日曜・祝日、別途土曜に月2回、水曜に月1回不定休(月によっては変更されることも有り)。店内の基本キャパは、カウンター7席、テーブルが一つ(4~5席)。オープン~午後7時まではノーチャージ、午後7時以降はサービス料300円
2018/08/27
コメント(0)
86.テキーラ・サンライズ(Tequila Sunrise)【現代の標準的なレシピ】(液量単位はml) テキーラ(30)、オレンジ・ジュース(40)、グレナディン・シロップ1tsp、氷(ロング・スタイルの場合)、飾り=オレンジ・スライス&チェリー ※氷を入れないショートカクテル・スタイルもありますが、一般的には氷を入れるロング・スタイルで提供されます【クラシックスタイルのレシピ】テキーラ(40)、クレーム・ド・カシス(15)、ライム(またはレモン)・ジュース(20)、氷、ソーダ(適量)=入れないレシピもあります【スタイル】シェイクまたはビルド 欧米でも日本でも、現代のバーで一定の知名度を持つカクテルです。70年代半ば以降、世界的に知られるようになりました。しかし誕生の経緯について、以下のような諸説があり、決定的なものはありません(名前については、「メキシコ湾に昇る朝日をイメージ」して付けたという説でほぼ定着していますが…)。 (1)【現代のレシピ】の原型(当時は「テキーラ・サンライズ」という名ではなかったが)については、米禁酒法時代(1920~1933)の末期に、メキシコ中北部ティファーナにあるカジノ「アグア・カリエンテ」では、取り締まりの目を逃れて合法的に酒を楽しみたい米国人の間ですでに飲まれていたとも伝わる。ただし、レシピについては若干異論もあるという(出典:esquire.com.やsouldiva.tripod.com)。 (2)オリジナルの「テキーラ・サンライズ」(【クラシック・レシピ】)は1930~40年代に考案され、テキーラ、クレーム・ド・カシス、ライム・ジュース、ソーダというレシピだった。考案者はアリゾナのビルトモア・ホテルのジーン・サリート(Gene Sulit)というバーテンダーだという(出典:Wikipedia英語版)。米国の著名なバーテンダーであり、カクテル研究者のDale Degroff氏はその著書で「1946年に出版されたBill Kelly氏の本『Roving Bartender』にTequila Sunriseは登場している」と紹介していますが、そのレシピは「テキーラ、クレーム・ド・カシス、レモン・ジュース(分量比は不明)」となっています。 (3)【現代のレシピ】は、その後もしばらくはメキシコ国内のマイナーなカクテルにとどまっていたが、1972年、ローリングストーンズのミック・ジャガーがメキシコ公演での滞在中にとても気に入って飲んでいたことで有名になり(出典:各種文献、Web専門サイトなど多数)、世界的にブレイクした。このツアーは別名「コカイン&テキーラ・サンライズ・ツアー」と呼ばれていた(出典:rollingstone.com)ことからも、ミックがこのカクテルの知名度アップに関わっていたことはほぼ間違いない ※ミック・ジャガーが初めて飲んだのはメキシコではなく、北米ツアー中のサンフランシスコだったという説もあります。 (4)【現代のレシピ】は1970年代の初め、カリフォルニア州ソーサリート(Sausalito)のトライデント(Trident)・レストランに勤めるボビー・ラゾフ(Bobby Lazoff)とビリー・ライス(Billy Rice)の2人によって考案されたという(出典:Wikipedia英語版→原資料はMercurynews.com)。ミック・ジャガーのために、この2人が考案したという説もある(出典:Webの複数の専門サイト)。 「テキーラ・サンライズ」はその後、イーグルスの曲(1973年発表のセカンド・アルバム「ならず者(Desperade)」に収録)のタイトルになったり、メル・ギブソン主演の映画(1988年公開)のタイトルになったりして、さらに知られるようになりました。 かなり有名なカクテルですが、意外なことに欧米のカクテルブックでの紹介例はきわめて少なく、確認した限りでは、1980年に英国で出版された「ポケット・バーブック(Pocket Bar Book)」(Micheal Jackson著)が欧米初出です。レシピは「テキーラ1.5オンス、オレンジ・ジュース4オンス、グレナディン・シロップ4分の3オンス」(1オンス=約30ml)となっています(もし、70年代のカクテルブックでの掲載例をご存知の方はご教示ください)。 ご参考までに、1980~2000年代の欧米のカクテルブックに登場している「テキーラ・サンライズ」を少し見ておきましょう。・Cocktails(Hilary Walden著、1983年刊)英 テキーラ45ml、オレンジ・ジュース135ml、グレナディン・シロップ2tsp、氷・The Larousse Book of Cocktails(1983年刊)仏 テキーラ30ml、オレンジ・ジュース適量、グレナディン・シロップ15ml、氷、オレンジ・スライス ・Cocktails(Jenny Ridgwell著、1986年刊)英 テキーラ45ml、オレンジ・ジュース180ml、グレナディン・シロップ2dash、氷、オレンジ・スライス&マラスキーノ・チェリー=飾り・Mr.Boston Official Bartender's Guide(1988年版)米 テキーラ60ml、オレンジ・ジュース120ml、グレナディン・シロップ20ml、氷・Schumann's Bar Book(Charles Schumann著、1991年刊)独 テキーラ60ml、オレンジ・ジュース100ml、ライム・ジュース8分の1個分、グレナディン・シロップ数dash、クラッシュド・アイス・New York Bartender Guide(Sally Ann Berg著、1995年刊)米 テキーラ60ml、オレンジ・ジュース適量、グレナディン・シロップ30ml、氷・Cocktail(Oona Van DEn Berg著、2001年刊)英 ゴールド・テキーラ25ml、オレンジ・ジュース60ml、ライム・ジュース1個分、氷、グレナディン・シロップ1tsp・The Book of Cocktails(Salamander編、2006年刊)英 テキーラ45ml、オレンジ・ジュース適量、グレナディン・シロップ20ml、氷、オレンジ・スライス グレナディン・シロップをアロマチック・ビターズに替えると「ティファーナ・サンライズ」に、テキーラの代わりにラムを使えば「カリビアン・サンライズ」になります。 「テキーラ・サンライズ」は、日本にも70年代末には伝わったと思われますが、知名度が出てきたのは80年代前半以降です。【確認できる日本初出資料】「カクテル入門」(福西英三著、1982年刊)並びに「サントリー・トロピカル・カクテルブック」(1982年刊)。レシピはともに同じで、「テキーラ3分の1、オレンジ・ジュース3分の2、グレナディン・シロップ2tsp、氷、オレンジ・スライス」となっています。【追記】”姉妹カクテル”と言われる「テキーラ・サンセット(Tequila Sunset)」も少し紹介しておきます。【標準的なレシピ】ゴールド・テキーラ(30)、レモン・ジュース(またはライム・ジュース)(30)、グレナディン・シロップ1tsp、クラッシュド・アイス、飾り(お好みで)=オレンジ・スライス&マラスキーノ・チェリー ※グレナディン・シロップの代わりに蜂蜜を入れるレシピもあります。【スタイル】ブレンダーまたはシェイク 欧米のWEB専門サイトでは、「テキーラ(45)、オレンジ・ジュース(30)、ライム・ジュース1tsp→シェイクし、最後にブラックベリー・ブランデー(15)をフロート」というレシピもありました。 「テキーラ・サンライズ」に対抗し、考案されたことはほぼ間違いありませんが、詳しい誕生の経緯についてはまったく伝わっていません。クラッシュド・アイスと材料が生み出すカクテルのピンク色のイメージから「サンセット(夕焼け)」を表現したと思われます。「テキーラ・サンライズのフローズン・スタイルをテキーラ・サンセットと言う」と説明しているサイトもあった(出典:Cocktail.seesaa.net)が、根拠資料は明示されていませんでした。 欧米のカクテルブックでは、なぜか紹介例がほとんど見当たりません。上記の「ポケット・バーブック」には収録されています。日本のバーで知られるようになったのも1980年代以降と思われます。【確認できる日本初出資料】「カクテル・ハンドブック」(花崎一夫著、1990年刊)。レシピは「テキーラ30ml、レモン・ジュース30ml、グレナディン・シロップ1tsp、クラッシュド・アイス、レモン・スライス&マラスキーノ・チェリー(飾り) ※ブレンダーを使う」となっています。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/08/26
コメント(0)
遅くなりましたが、Bar UKの9月の店休日をお知らせします。 8月28日(火)~9月4日(火)の間は、ご迷惑をお掛け致しますが店内改修工事のため、お休みを頂戴いたします。 上記のほかに、9日(日)、16日(日)、17日(月)=祝日、24日(月)=振替祝日、30日(日)はお休みを頂きます。 なお、23日(日)は予約があり、臨時営業(午後7時~)いたします(申し訳ございませんが、予約の方以外はご入店できません)。以上、何卒よろしくお願いいたします。【Bar UK】大阪市北区曽根崎新地1-5-20 大川ビルB1F 電話06-6342-0035 営業時間 → 平日=午後4時~10時半(金曜のみ11時まで)、土曜=午後2時~8時半、定休日=日曜・祝日、別途土曜に月2回、水曜に月1回不定休(月によっては変更されることも有り)。店内の基本キャパは、カウンター7席、テーブルが一つ(4~5席)。オープン~午後7時まではノーチャージ、午後7時以降はサービス料300円
2018/08/25
コメント(0)
Bar UKからのお知らせです。 明日23日(木)は台風20号の近畿接近に伴い、JRなどの公共交通機関が終電の大幅繰り上げを予告しています。よって、Bar UKも閉店時刻を大幅に繰り上げる可能性が濃厚です。正式な閉店時刻は、明日改めてお知らせ致しますが、予め御了承くださいますようお願い致します。
2018/08/22
コメント(0)
Bar UKからのお知らせです。 Bar UKの「フード・メニュー(Food Menu)」へのリンクが出来ました。ぜひご活用ください(トップページにも「リンク」を張り付けています)。
2018/08/22
コメント(0)
Bar UKからのお知らせです。 Bar UKの「ドリンク・メニュー(Drink Menu)」へのリンクが出来ました。ぜひご活用ください(トップページにも「リンク」を張り付けています)。
2018/08/20
コメント(0)
Bar UKからのお知らせです。 明日8月15日(水)、Bar UKの営業時間は、午後3時~9時となります。何卒ご了承くださいませ。皆さまのお越しを心よりお待ちしております。【Bar UK】 大阪市北区曽根崎新地1-5-20 大川ビルB1F 電話06-6342-0035 営業時間 → 平日=午後4時~10時半(金曜のみ11時まで)、土曜=午後2時~8時半、定休日=日曜・祝日、別途土曜に月2回、水曜に月1回不定休(月によっては変更されることも有り)。店内の基本キャパは、カウンター7席、テーブルが一つ(4~5席)。オープン~午後7時まではノーチャージ、午後7時以降はサービス料300円
2018/08/14
コメント(0)
オランダへの旅・番外編です。備忘録の意味も込めて、オランダのビール・ブランドについて、最後に改めて、可能な限りご紹介しておきたいと思います(基本は、旅の間に飲んだ銘柄ばかりです。願わくは、この記事を読んだ輸入代理店の皆さまがもっと、オランダのビールに興味を持って、日本に紹介・輸入してくださいますように!)。 (写真は、オランダの大型スーパーのお酒売り場の棚に並ぶビール。日本でまったく知られていない銘柄がたくさんありますが、よく見ると、棚には隣国ベルギーのビールも結構混じっています。オランダ・ビール、頑張れー!)。【ハイネケン(Heineken)】 1863年創業のオランダ最大のビールメーカー。ハイネケン・グループ全体では、ビール総生産量、総輸出量は世界1位。総売り上げ(販売量)では、「バドワイザー」ブランドなどで知られるベルギーの「アンハイザー・ブッシュ・インベブ」に次いで世界2位です。 世界170カ国以上で販売され、とくにヨーロッパや北米、およびアジアを中心に強力な支店網を持っています。日本では、キリンビールがオフィシャル輸入代理店となり、ライセンス生産も行っています。【グロールシュ (Grolsch)】 1615年設立の老舗。オランダのビールメーカーで最も古い歴史を持っています(オランダ語では「フロールシュ」と発音されます)。2016年より日本のアサヒビールの傘下になりました。約50カ国・地域で販売しています。 針金のような金具で蓋(ふた)を止めるスイングトップ・ボトルで知られ、オランダ国内では高級ビールとして認知されています。 米国で開催された世界のビールコンテスト (BTI chicago USA) では、1995年~1997年の3年連続で金賞を受賞しています。 【アムステル(Amstel)】 日本ではあまり知名度はありませんが、1870年に創立された、オランダを代表するビール銘柄の一つです。アムステルダムでも「Amstel Bier」の看板をよく目にします。国内では、ハイネケン、グロールシュ、バヴァリアに次ぐ4位 (主に欧州域内向けに販売されています)。 ブランド名は酵造所の近くを流れる「アムステル運河」に由来します。1968年にハイネケンに買収されハイネケン・グループの傘下となりましたが、現在も「アムステル」ブランドのまま販売されています。【ヴィクセ(Wieckse)】 リンブルフ州マースリヒトにあった「旧ドゥ・リデル醸造所(De Ridder)」が発売するビール。「ヴィクセ・ヴィッテ」は、オランダを代表するホワイトビールとして知られています。 醸造所は1857年の設立(「Ridder」とは「騎士」を意味するオランダ語)。家族経営で運営されてきましたが、1982年に後継者がいないため、ハイネケン社傘下となりました。なお、生産体制などの問題等からドゥ・リデル醸造所は2002年末をもって閉鎖となり、現在ではハイネケンの関連工場で造られています。【バヴァリア(Bavaria)】 1680年、北ブラバント州・リースハウトで創業したスウィンケルズ・ファミリーの主要ブランド。1930年代前半に誕生しました( ブランド名は独バイエルン州が由来で、「ドイツ風のビール」と言う意味です)。 オランダではハイネケンと並ぶ人気銘柄で、欧州はもちろん、北米やアジア、アフリカなど約120カ国で販売されています。世界で初めて、プルトップタイプのペットボトル・ビールを製品化したメーカーとしても知られています。【スウィンケルズ(Swinkels)】 「バヴァリア」で知られる「スウィンケルズ・ブリュワリー」が販売する、創業家ファミリーの名を冠した銘柄(1719年に初めて登場)。 スウィンケルズ・ファミリーは、1930年代に売り出した「バヴァリア」がヒットして急成長し、今ではオランダ第2のメーカーです。1999年にはトラピスト・ビールの人気銘柄「ラ・トラッペ」(以下に紹介)も買収するなど、事業を拡大しています。【ラ・トラッペ(La Trappe)】 オランダ北ブラバント州にある、コニングスホーヴェン修道院で醸造されるトラピスト・ビールの銘柄。1882年に設立され、1884年からビール醸造を開始しました。 厳格なカトリックの修道院ですが、醸造関連設備は大規模でかつ機械化されています。 1996年、高齢化と人手不足のため「バヴァリア」と提携し、その傘下に入りました。現在ではすべての製造過程に修道士が直接関わることはなくなりましたが、それでも(修道士が)毎日数時間、醸造工程をチェックしているそうです。 【アルファ(Alfa)】 ベルギーとドイツに挟まれた、オランダ最南部リンブルフ州スヒネンで、1870年にメーンス一家が創業。現在も家族経営を行っている会社です。オランダで唯一、温泉水100%で製造されているピルスナー・ビール。 1960年までは醸造所のあるリンブルフ州内のみで飲まれていましたが、それ以降、事業の拡大とともにオランダ全域で販売されるようになりました。【ヘルトグ・ヤン(Hertog Jan)】 1915年に旧「アルセンス醸造所」で製造がスタート。1995年にベルギーのビールメーカー「インベブ」のグループ会社になった後に、「ヘルトグ・ヤン醸造所」と名前が変わりました。 「ヘルトグ・ヤン」の名前とラベルの特徴的な王様の肖像は、現在の醸造所があるリンブルフ州にかつて存在した、中世ネーデルラントの「リンブルフ公・ジャン1世」に由来しています。【ブラウェライ・アイ(Brouwerij ‘t IJ)】 1985年創業の新興メーカー。「Drukwerk」というバンド・メンバーであり、ビール好きだったカスパー・ピーターソンが、ベルギースタイルのビールを目指して創業。アムステルダム市内の公営浴場跡の建物に蒸留所を造りました。 蒸留所のすぐ横にはオランダ最大の風車があり、併設のビア・パブは「風車のパブ」としてアムステルダムの人気スポットになっています。会社は現在、ピーターソンから別のパートナーに引き継がれましたが、独特のスタイルのビールを多品種生産し続けています。【御礼】番外編をもって、連載「オランダへの旅2018」は終了いたします。長い間のご愛読ありがとうございました。 うらんかんろ※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/08/11
コメント(0)
オランダへの約1週間の旅は無事終わりました。旅日記を読んで頂いた皆さま、長い間、本当に有難うございました。最後にこれまでご紹介しきれなかった写真や話題をいくつか紹介して締めくくりたいと思います。 滞在期間中、一度も利用しませんでしたが、アムステルダムにはメトロ(地下鉄)もあります。駅間がわりと長いので、中心部の観光には不向きですが、郊外へ行くには便利かもしれません。共通交通カードも使えます(写真は、中央駅前のメトロ駅への降り口)。 アムステルダムの4~6階建ての古い建物は、上の階へに行くほど前に少しせり出して(見た目は、少し前に傾いたような状態)います。なぜだろう?と思っていましたが、地元の人が解説してくれました。 建物にはエレベーターはありません。なので家具など重い荷物を上の階へ運ぶのは大変です。そこで考え出されたのが、前部の最上階にフックを取り付け、そこにロープを掛けて、引き上げるというアイデアです。滞在期間中、最終日に実際、この方法で荷物を上げている光景に出くわしました。 これはオランダの郵便ポスト。横長です。 これはオランダのパトカー。工事業者の車みたいですね。 自転車大国のオランダには、いろんな自転車があります。この自転車の前のボックスでは子供を乗せたり、荷物を運んだりします。 花屋さんも個性的。店のアピールが上手です。 アムスにはこんな素敵なアーケードもあります(というか、欧州の街ではよく見かける風景かも)。 有名観光地のアムステルダムなのに、意外と見ないなぁと思ったら、一度だけ観光馬車を目撃しました。 オランダ在住の日本人の方がぼやいていました。「オランダ人は公共交通機関に乗る際のマナーが悪い。きちんと列に並ぶことができない」と。確かに、滞在中、電車とかトラム、バスに何度も乗りましたが、後から来ても横に並んで平気で割り込んできます(個人主義が大好きな国民とは言え、これはいただけませんね)。 アムスのフライドポテトの人気店とかでは客はきちんと行列していましたが、これはおそらくオランダ人以外の外国人が多く含まれているからでしょう。 最後に、アムスの日本語看板の店をいくつかご紹介(5枚目の写真、いったいどういうつもりで、こう書いたのやら?)。 スキポール空港ターミナル内で名物の「スシ・バー」。欧州へ行くたびに何度か見ていて、一度食べてみたいと思いつつ、まだ味わったことはありません(お味の方はどうなんでしょうか?)。 名残惜しいけれど、オランダともお別れ。本当に楽しい、充実した旅でした。お世話になったオランダの皆さま、本当に有難うございました。<番外編に続く>※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/08/09
コメント(0)
さて、この旅日記もそろそろ終わりに近づいてきました。毎回「前振り」として、オランダ事情をあれこれ紹介してきましたが、まだ取り上げてなかった大事なテーマがありました。オランダ国内での語学教育についてです。 今回の訪問前、「オランダ人の95%はきれいな英語が話せる(逆に、オランダ語しか話せない割合は5%程度)」と聞いていました。実際、そうでした。年配の人(概ね70歳以上)以外は、英米人以上にきれいな発音で流暢に喋ります。 英語を母国語としない国民での「英語力ランキング」では、オランダは毎年、デンマーク、スウェーデンと並んでいつもベスト3に入っています。なので(オランダを)実際訪れた人からは「観光旅行だけなら、どこでも100%英語で通じるよ。オランダ語なんて覚える必要ないよ」とも言われていました。 それでも、僕はオランダに旅行に行く前、オランダ語を3カ月ほど独学で勉強しました。やはり現地では現地語でコミュニケーションがとれたら楽しいだろうし、相手との距離もうんと近くなると思ったからです。しかし結果的に、旅行中オランダ語を使った(喋った)のは、数えるほどでした。 毎日、比較的毎日よく使ったのは、Goodemorgen(フーイェモるヘン=おはようございます)、Goodemiddag(フーイェミダッハ=こんにちは。Halloも普通に使います)、Tot Ziens(トッツィーンズ=さようなら)、Dank u wel(ダンキューヴェル=ありがとうございます)、Pardon(パルドン=すみません! →仏語でも同じですね)、Het is lekker(ヘッティス レッカー=とても美味しいです)くらいです。 一度だけ使ったのが、お土産のコーヒー豆を買った店のお姉さんに「どこから来たの?」と聞かれて答えた Ik kom uit Japan.(イッコム・アウト・ヤパン=日本から来ました)。「観光でわずかの滞在なのに、なぜそんなにオランダ語が喋れるの?」と嬉しい誉め言葉を貰いましたが、まぁ、丸暗記していただけです(笑)。 しかし冒頭に書いたように、オランダ人はほぼ誰でもきれいな英語を話すので、結果的に、旅行中の会話は基本、ほぼ英語ということになりました(もう少し、僕がオランダ語が上手く話せたら、きっと相手もオランダ語で返してくれたでしょうが…)。(写真は、ダム広場そばのオープン・カフェ)。 余談ですが、オランダ人は英語だけでなくドイツ語やフランス語など他の言語も話せる人が目立ちます。EU代表部の調査によれば、EUの中でオランダ人の「マルチリンガル度」は第3位なのだそうです。具体的には、国民の約9割がバイリンガル。約8割が3カ国語以上話すマルチリンガルで、「母語+2言語以上」話す割合は77%、「母語+3言語以上」話す割合は37%もあるそうです(なかには12カ国語を話す人もいるそうです)。 それにしても、なぜオランダ人はこんなに英語が上手いのでしょうか? 元々、インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派に属するオランダ語は、同じ語派の英語やドイツ語などと非常に近い言語で共通の言葉も多いので、習得しやすいという有利さはあります。さらに、オランダ人は好奇心旺盛で、知るための努力を決して惜しまない=語学を学ぶことにも意欲的という国民性もありました。 しかし、それでも欧州でも群を抜くオランダ人の語学力の高さには、いくつかの理由があると言われています。 以前にも一度書きましたが、人口1700万人で九州程度の国土しか持たず、たいした資源もない小国のオランダは、内需だけでは経済を維持できません。外国と交易するしか国を発展させる術(すべ)がなかったので、近隣国の英語やドイツ語を理解する(話せる)ことはビジネス上、必要不可欠で、とても重要でした。逆に、国際性ゼロのオランダ語が役に立たないことをよく心得ていました(写真は、アムスのフライドポテトの専門店前の行列。行列は好きじゃないオランダ人ですが、ここばかりはいつも長い列が)。 加えて、海洋国家として発展してきたオランダ人は元々、良い仕事を得るためには外国で働くこともいといませんでした。逆に、優秀な人材を外国から呼び込むためには、ビジネスの公用語を英語にする必要があったのです。実際、オランダ国内の官庁や民間企業では、英語が話せることを採用条件にしているところが多いそうです。なので、極端な言い方をすれば、英語ができなければオランダでは就職もできないのです。 一方、政府は(とくに戦後ですが)、幼少期からの徹底的な英語教育に力を入れてきました(英語教育は小学校の7、8歳頃からスタートします)。初等英語では、動詞の変化や定冠詞の用法など文法を教えることはせず、コミュニケーション能力に重点を置いているそうです(私立の中学校などは「在学中に3カ国語を習得させます」を宣伝文句にしているところもあるとか)。(写真=アムスのパブはいつも賑やか。パブの従業員も明らかにオランダ人と分かる場合以外は、基本、英語で話しかけてきます)。 また、オランダ国内で放送される英語のテレビ番組(映画、ドラマ、ニュースなどかなり数多くあります)には、必ずオランダ語の字幕を付けることが法律で義務付けられています。オランダ人の話によれば、字幕は意味を確認する程度にしか使わないので、結果的に、耳から自然と英語を覚えてしまうそうです。 言語学的にも有利なのに、”英語シャワー”的な環境が日常的にあるオランダ人は実に恵まれていますが、それでも日本人の英語教育のレベルアップにもいくつか参考になることがあるかと思います。とくに、外国映画や外国テレビ局のニュースを字幕付き画面で、耳から聞くこと(理解すること)はとても大事だと思います。 いずれにしても、日本各地に外国人がどんどん増えてくる昨今、ビジネス上のことを考えても、日本人はもっと英語能力をアップする必要があるでしょう。とくに僕自身も含めて痛感するのは、欧州人と比べた場合の、日本人の(英語の)ボキャブラリー不足です。これは自らの努力でカバーしていきたいものです。 さて、最終日も晩ご飯が近づいてきましたが、まだ少し時間があるので、アムステルダム中心部にある酒屋さんにお邪魔しました。 白州、山崎などジャパニーズ・ウイスキーも売っていますが、目玉が飛び出るほど高~い! 山崎ノンヴィンテージが€158(約2万円!)とは唖然。日本でも7千円~1万円くらいで売っている悪どい酒屋はあるけれど、さすがに2万円はないでしょう。 レジ向こうの棚はこんな感じ。量り売り用の樽(オランダ産モルトウイスキーやジュネヴァ)が5種類もあります。オランダ産のシングルモルトはお土産で1本購入しました。他にもスコッチのシングルモルトもあれこれ置いていましたが、値段もそれなりでした。まぁ、帰国日のアムスのDFS(Duty Free Shop)で何か探します。 アブサンも結構いろいろ置いています。 お酒を入れるためのガラスボトルもいろいろ売ってます。バック・バーにある樽出しの酒をこれに詰めてくれるのかな? ウインドウ・ディスプレーに結構力を入れてるお店でした。気になるボトルはあったのですが、個人で持ち帰るには限界はあるし、航空便で送ってもらうと馬鹿みたいに高い送料がかかるし…。結局、買ったのは1本だけ。 さて、買い物も終えて、オランダ最後の晩ご飯の時間です。実は、当初はオランダ料理の(初日の夜とは)別の店に行くつもりをしていました。しかし、夕方に近づいてもその店の中には人気(ひとけ)がありません。臨時休業みたいです(貼り紙くらいしておいてほしいなぁ…)。 という訳で、きょうは滞在中何度か前を通り、「わりといい感じの店だなぁ…」と気になっていた「Mr.CRAB」というシーフードの店にお邪魔することに。 店内に入ると、新鮮なシーフードのディスプレー・ケースが目に入ってきます。素材をできるだけ生かした料理を提供してくれるみたいです。 メニューを見ると、ハーグで食べて美味しかったニシンがありました!(Taditional Dutch Herring served with onions and pickles)。もう一度食べてみたいと思い、これは”ぜひもの”で注文。 さらに、きょうは魚で攻めようと思い、お腹のふくれる揚げ物料理も( Deep Fried Lekkerbek with sauce ravigotte/※「Lekkerbek(レッカーベック)」とはタラの一種の魚で、この揚げた一品はオランダの人気料理の一つなんだとか )。当たり前だけど、食べてみると、限りなく英国のパブ料理、フィッシュ&チップスのお魚みたいですが、まぁ普通に美味しかったです)。 この店、決してイタリアンをうたっている訳ではありませんが、なぜかパスタもメニューにあります。パスタも久しく食べていなかったので、追加でお願いしました(ロブスターがたっぷり入ったクリーム・ソース味。味付けは上手で、期待以上の旨さでした)。 さて晩ご飯も終えてホテルに帰ります。でも、やはり毎日のルーティーンは崩す訳にはいかないと、帰る途中にあったオープンカフェ&バーに立ち寄り、クールダウン。ウイスキー&ソーダで充実したアムステルダムの夜を締めくくりました。 そんなこんなでオランダ最後の夜もおしまい。明日はいよいよ帰国の途につきます。あっという間の1週間。アムステルダムの魅力は、まだまだたくさんあるはずですが、それを満喫するには日数が全然足りません。アムスは確実に、もう一度来てみたいと思える街の一つになりました。ダンキュー・ヴェル、アムスタダム(オランダ語ではこう聞こえます)! <15回目に続く>※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/08/07
コメント(0)
オランダは欧州の国なので、基本、宗教はキリスト教です。そして、プロテスタントの宗教改革指導者、ジャン・カルヴァン(1509年~1564)=写真下は肖像画(画像引用元:Wikipedia)=の教え、すなわち「カルヴァン主義」が根本となって出来た国です(カルヴァンの名は世界史の授業で聞かれたことがあるかと思います)。 おそらく私と同様、皆さんも「キリスト教のことは難しくてよく分からないぞー」とおっしゃるでしょう。私にも理解不能の部分もありますが、少し歴史的背景も含めて、出来るだけわかりやすく説明してみたいと思います。 プロテスタントによる宗教改革はドイツのマルティン・ルターをもって始まると一般には言われ、カルヴァンは、第2世代の宗教改革者と位置づけられています。カルヴァンはジュネーブに住むフランス人亡命者でした。ルターの行った宗教改革活動の場は、主に領主の支配権が強い農村地帯でしたが、ジュネーブは商人の力が強く、自治独立を求めて、カトリックを信奉する神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)と争っていました。 カルヴァンは1536年、『キリスト教綱要』を出版。 徹底した聖書中心主義に基づき、伝統的なカトリック教会を批判して、「神の絶対的な権威を強調し、神による救済は予め定められている」という「予定説」を主張し、信者には「クリスチャン生活の実践」を求めました。 カルヴァンはまた、「人間の神への絶対的服従は、現世の天職に励むことでしか示すことはできない」と説きました。そして「職業は神から与えられたものである」とし、得られた富の蓄財を認めます。 このようなカルヴァンの教えは、西ヨーロッパの商工業者=中産階級に支持されて商業発展のよりどころにもなり、この結果、近代資本主義が生まれたとも言われています(写真は、アムステルダム中央駅の向かいにある「聖ニコラース教会」。1887年の建立。聖ニコラースは「船乗りたちの守護聖人」ですが、サンタクロースの元祖ともいわれています)。 カルヴァンは有力商人の支持を得て、宗教(教会)改革を実現させます。宗教と政治、教会と国家を機能区分し、質素で禁欲的な生活を推奨しました。オランダは「カルヴァン主義」に基づき、世界で初めて市民社会を実現した国とも言われています。 一方、商人たちは「神に救われる人間は、禁欲的に天命を務める人間のはず」と信じて、仕事に励みました。増えた収入も享楽目的には使わず、更なる仕事のために使いました。その結果、オランダは東インド会社による交易で世界的な海洋帝国を築きます。商業を通じ国際的に信者が拡散していきます。カルヴァン派はフランスでは「ユグノー」、イギリスでは「ピューリタン(清教徒)」などと呼ばれました。 ただし、プロテスタントのカルヴァン派(主義)が誕生させた国とも言えるオランダですが、オランダ人の現代の信仰観はちょっと変わった状況になっています。オランダ中央統計局の調査(2015年)によれば、キリスト教(カトリック24.4%,プロテスタント15.8%),イスラム教(4.9%),ヒンズー教(0.6%),仏教(0.5%),無宗教・その他(53.8%)です(昔はもっとプロテスタントの比率が多かったそうですが…)。 「あれ? カトリックの方が多いの?」と思われるかもしれませんが、これは1581年のネーデルラント連邦共和国独立まで、熱心なカトリックでもあったスペイン・ハプスブルグ家に長く支配された影響が今も色濃く残っている証でしょう。しかしそれよりも注目すべきは、統計の最後の「無宗教・その他」が過半数を占めていることです(写真は、アムステルダム中心部にある「新教会」。15世紀の建立。歴代オランダ王の戴冠式が行われる由緒正しき教会なんだとか)。 現地に住む日本人の方の話によれば、「現代のオランダ人でキリスト教に信心深い人は年々少なっている。カルヴァン主義はそもそも教会の権威を否定していたから、日曜に教会へ行く人なんて、ほとんどいない。若い世代の宗教離れは今もますます進んでいる」そうです。 しかし、それでもオランダは小国でありながら、昔から移民や迫害された難民を数多く受け入れてきた「博愛と寛容の国」です。募金や寄付にも極めて熱心です。「質素倹約につとめなさい。蓄財することは善である。そして、その蓄財を使って他人を助けることで人は救済される」というカルヴァンの教えは、宗教離れが進む現代でも、オランダ人の心に深くしみついていると言われています。 さて、オランダ滞在5日目。「風車のパブ」見学を終えた僕らは、再びアムステルダム中央駅まで戻ってきました。時間はお昼時。きょうは「欧州最古の中華街」と言われるアムスのチャイナタウンで美味しい中華を食べようということになりました。 アムスのチャイナタウンは、中央駅から南へ歩いてほんの6、7分くらいのエリアにあります(いわゆる「飾り窓地区」のすぐ東側辺りです。通りの表示は、この辺りは漢字併記なのが面白いですね)。 チャイナタウンの中には、こんな寺院のような建物も。 アムスのチャイナタウンはロンドンやニューヨークのチャイナタウンに比べると、かなり小規模でした(神戸の中華街よりも小さいです)。とは言っても、やはり雰囲気はチャイナタウンで、オランダにいることを一瞬忘れてしまいます。 で、僕らがお邪魔したのは、「新皇酒楼(New King)」という広東料理のお店。お昼時ということでほぼ満席状態でしたが、2人なのですぐにテーブル席に案内してくれました。 アムステルダムのチャイナタウンで飲む青島ビールの味わいも格別です。 とりあえず、麺が食べたい!コメの飯が食べたい!ということで、五目焼きそばと焼き飯。当たり前ですが、一皿の量が多い(日本なら2人分くらいの量!)。 店内の壁に、お箸を使う時のマナーというタペストリーが掛けてありました。でも、よく見ると、書かれている言葉は日本語。分かる人は少ないのに、なんで?という感じ。 食事の後は、そろそろ実質最終日ということで、お土産をあれこれ探しに行くことに。まずはムント広場のすぐそばにある、オランダ名産の高級陶磁器「デルフト焼」の店へ。 伝統的な絵柄が多い中、モザイクのようなモダンなデザインが施された「タパス皿セット」を購入。これで€50弱(2枚目の写真は、帰国後実際に盛り付けに使った時の様子)。 その足で、さらにお土産を物色しようと、近くにあった地元の大手スーパー「アルバート・ハイン」に転戦。 オランダ土産と言えば、やはりチーズは外せないということで、結構大量に購入(でも、スーパーだからお値段はめちゃリーズナブル!)。重いお土産は、とりあえずいったんホテルに帰って部屋に置き、再び街へ(街の中心部に位置するホテルを選ぶと、こういう時にほんとに助かります)。 さて、晩ご飯前の本日最後の目的地は「アンネ・フランクの家」。ホテルから西へ歩いて10数分の距離です。アンネ・フランク(Annelies Marie Frank、1929~1945)=写真(画像引用元Wikipedia)=は、言うまでもありませんが、有名な『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女です。 僕自身、子供の頃、親から本を渡されましたが、涙なくしては読めなかった記憶があります。 「アンネ・フランクの家」は今回の旅では、時間に余裕があれば、当日のチケットででも買って行こうと思っていました(第二次大戦と陰惨なユダヤ人迫害の悲しい記憶が染みついた場所なので、観光という雰囲気にはなんとなくそぐわないというか、あまり積極的には足を踏み入れにくい場所というイメージでしたが…)。 来てみると、やはりアムステルダムの観光スポットでは一、ニの人気を争う、世界中から人が集まる場所で、基本、事前予約チケットがないと入場はかなり難しいことがわかりました。 という訳で今回は、時間もないので内部の訪問は断念し、外からだけ見学することにしました。ただし、せっかくの機会なので、アンネ・フランク一家のことを少しはおさらいしておきたいと思います(写真は、アンネ・フランクの家<博物館>の入り口に並ぶ人たち)。 フランク一家は元々ドイツのフランクフルトで暮らしていましたが、第二次大戦中のナチスのユダヤ人迫害が激しくなると、一家でオランダのアムステルダムへの亡命を決意します。 しかし、オランダがドイツ軍に降伏し占領されると、身の危険を感じてアムステルダム市内の、プリンセンフラハト通り263番地の隠れ家で潜伏生活を送るようになりました。それがこの建物です。 この建物の裏につながる「後ろ家」の3階と4階部分に、隠れ家はありました。3階の本棚の裏に「秘密の入口」があり、開けると右手に4階へ上がる階段があります。 食料はレジスタンス活動家であった食料品店から購入していましたが、戦況が厳しくなると、食料や野菜の確保が難しくなってきます。電力も制限されていき、暖房の使えなくなると、厚手のコートを重ね着したりして体を温めました(写真は、「隠れ家」に通じる階段を隠していた本棚 (C)Wikipedia)。 『アンネの日記』は、1944年8月1日の記述を最後にして終わっています。3日後の8月4日朝、フランク一家は、密告を受けて捜索に来たナチス親衛隊(SS)に発見され、一緒に隠れていた他の家族と共に全員が逮捕されます。 アンネは姉のマルゴットとともにベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送されましたが、同収容所の不衛生な環境に耐えぬくことはできず、チフスを罹患したため、1945年3月上旬頃、亡くなりました。まだわずか15歳でした。マルゴットもこの収容所で亡くなりました(写真は、アンネの部屋。(C)画像提供Tripadviser)。 隠れ家での生活は2年間に及び、その間、アンネは隠れ家での出来事や思いを日記に書き続けました。日記は一家が逮捕された後、父オットーの会社の社員で、隠れ家住人の生活を支援していたミープ・ヒースという人がこれを発見し、戦後まで保存していました(写真は、日記の原本(C)airfrance.com)。 家族の中でただ一人戦後まで生き延びたオットーは、ミープからこの日記を手渡されます。そして、娘アンネの「戦争と差別のない世界になってほしい」という思いを全世界に伝えるため、日記の出版を決意。1947年にオランダ語の初版が出版されました。今では60以上の言語に翻訳され、2500万部を超える世界的ベストセラーとなっているのはご承知の通りです(写真は、アンネ・フランクの家のそばの公園に立つ「アンネの像」)。 ヒトラーという狂信的な独裁者がユダヤ人迫害を生み出したと言われていますが、そのヒトラーを生んだのは、普通のドイツ国民でした。第一次大戦の敗戦で経済が疲弊する中、ドイツ国民は民主的な選挙でこの独裁者を当選させたのです。一時の国民的熱狂が、その後どんな悲惨な結果を生んだのかという教訓を私たちは忘れてはなりません。このことは今の日本にも当てはまるような、そんな危うさを感じるのは僕だけでしょうか。 いずれにしてもアンネのような人種的偏見に基づく悲劇(迫害)は、もう二度と繰り返してほしくない歴史です。我々は歴史を教訓、鏡として学ぶべきでしょう。 <14回目に続く>※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/08/04
コメント(0)
聞いたことがある方も多いかもしれませんが、英語に「Let's go Dutch!(割り勘にしようよ)」という言い回しがあります。僕自身、なぜ「Dutch(オランダの、オランダ人)」なんだろう?とずっと疑問に思ってきました。調べてみると、この言い回し、「英国人がオランダ人がケチであることを皮肉って言い始めたこと」が由来といいます。 しかし、当のオランダ人はこの言い方を嫌うそうです。「私たちはケチではない。質素倹約なだけだ」と(なので、オランダ人の前では決して使ってはいけない言い回しなんだとか)。実際はどうなんでしょうか、旅で出会ったオランダ人の行動を見たり、現地在住の日本人に聞いてみたりすると、彼らの本当の姿が見えてきました(写真は、アムステルダム中心部の裏通り)。 オランダ人の「ケチ」については、いろんな逸話が伝わっています。「外食はしない」「ブランド物は買わない」「他人におごったりしない」(「ズボンは穴が空いてもパッチワークしてはき続ける」「靴下は穴が空いてもはき続ける」とも。後者はフランス人も同じらしいです)。これらはある意味本当なのですが、オランダ人にとっては、理由があっての行動様式なのです。 オランダ人は基本、食事で贅沢しません。フランス人は「食べるために生きる」と言われますが、オランダ人にとっては「生きるために食べる」のであって、食事は「空腹を満たすためのもの」なのだそうです。連載初めの方の回でも書きましたが、彼らは、晩ご飯を外のレストランで食べるなんてことは、必要がない限りしません(ランチは外食もしますが、まず高級な店には行きません)。「晩ご飯は家で家族と」が原則です。 ブランド物の服やバッグもあまり持ちません(実際、オランダ滞在中、ブランド物のバッグを持った地元の人はほとんど見かけませんでした。そういうバッグを持っているのは、我々のような観光でやって来た外国人ばかりです)。 ファッションは基本質素で、地味です。パリやローマの街角では、目を引くようなおしゃれな格好の女性がたくさん歩いていますが、アムステルダムではほとんど見かけません。基本、H&MやGAPのような店で買ったような服装で通勤しています。オランダは自転車通勤する人がとても多いので、そういうカジュアルな格好の方が動きやすくていいのでしょう(写真=アムステルダム市内の橋の欄干にはフラワー・ポットが飾られている光景をよく目にします)。 また、現地の人に聞くと、職場などの仲間と一緒に食事に行ったり、飲みに行っても、おごったり、おごられたりという習慣は、まずないそうです。上司や先輩、後輩の間でも、いわゆる完全「割り勘」にはしません。みんな、自分が食べた分だけを払います。これが彼らにとっての完全な「個人主義、平等主義」です。 なので、オランダ人は自分たちの金銭感覚が「ケチ」と言われることを嫌います。「自分たちはケチではなく、金銭にフェアで、実質的で、合理的なだけ」「”節約は美徳”を実践しているだけ」と思っています。そして、彼らは「自分たちは金を使うべきところにはちゃんと使っている」と反論します。 その実例としてよく示されますが、オランダ人は募金や寄付に熱心です。高齢の方が、長年ためたお金を全額寄付することはよくあるそうです。ギャラップ社の調査(2015年)によれば、世界寄付率ランキング(「見知らぬ人を寄付で助けた国民の割合」)で、オランダは世界第7位でした(日本はなんと102位。情けないなぁ…)。東日本大震災では、オランダからは約10億円もの寄付が届いたそうです。募金・寄付好きの国民性には宗教的背景(カルヴァン主義)もあるそうですが、この点については別の機会にまた触れたいと思います。 さて、オランダ滞在も5日目になりました。本日は観光としては実質最終日です。きょうはアムステルダムに来たら、やはりこれは外せないという「運河クルーズ」に朝イチで行きます。 「運河クルーズ」は何社かが運航していますが、僕らは中央駅前から出ている「ラバー・クルーズ」の1時間クルーズ(€16)に申し込みました(予約もできますが、キャパの大きい船が15分~30分おきくらいにたくさん出ているので、余程のことがない限り予約は不要です)。 船内はこんな感じ(2枚目の写真)です。乗客はイヤホンを渡されます。席のそばにはイヤホン・ジャックがあり、日本語も含む約15カ国語でオーディオ・ガイド放送も聞けますが、船に同行するガイドさんも道中、英語でしばしば説明するので両方の説明が聞こえてきて、ややこしいです。 船が出航するとすぐ右側に、丸みのある高層の建物が見えてきました。皆さん、これ何の建物だと思いますか? 聞いてびっくり!自転車置き場ビルなんです。ご承知のように、オランダは自転車通勤の人がめちゃくちゃ多いです。人口よりも自転車の数が多いとも言われているので、自転車置き場のスケールも半端じゃないですね。 船はしばらくすると、道路橋の下をくぐり、いったん中央駅北側にある汽水湖に出ます。 汽水湖をしばらく航行した後、再び橋の下をくぐり、中央駅よりも南側の運河に入ります。 ゴッホの絵にもよく描かれる「跳ね橋」です! これは17世紀に造られたという木製の跳ね橋で、「マヘレ橋(Magerebrug)」と言うそうです。実に、オランダらしい風景ですね。 大きな船が通る時は当然橋を跳ね上げます。今は電動ですが、昔は手動で開閉していたそうです。運河にかかる橋は現在、普通の石造りの橋がほとんどで、跳ね橋は数えるほどしかないそうです(ボートは天上が一部空いて見やすい構造。僕らは屋根のある船内に座っていますが、日焼けも苦にしない欧米系の外国人は、船尾のオープンデッキに集まっています)。 運河には、実際に居住している「ハウスボート」が数多く浮かんでいます。見られることを意識しているのか、花や花壇で飾ったボートも目立ちます(維持費に結構カネがかかるでしょうね)。観光客に有料で公開されているハウスボート・ミュージアムもあります。 運河沿いには、東インド会社を通じた貿易でしこたま儲けた豪商の館もたくさん残っているそうです(この写真に写っているのがそうかは未確認ですが…)。 これはオランダを代表する画家レンブラントが埋葬されているという西教会。でも、教会内での埋葬場所がよく分かっていないんだとか。 運河を往くツアー船を外から見たらこんな感じです(これは僕らが載った船そのものではありませんが、同じ会社の船)。 これはオランダ海洋博物館。そばに係留されているのは、18世紀に東インド会社が運航していた「アムステルダム号」を復元した船なんだそうです。 運河クルーズもそろそろ終盤。これは科学技術センター(NEMO)という建物。船の形をモチーフに造られたそうですが、どこか関西国際空港のターミナルビルに似たような雰囲気も。実は、設計者は同じレンゾ・ピアノ氏(イタリア人)なんだとか。なるほど!と納得。 まもなく帰港です。なぜか水上中華レストランがこんなところに。ここで船のガイドさんが「アムステルダムには欧州最古のチャイナタウンが、このレストランから南の方のエリアにあるんだよ」と説明しました。『地球の歩き方』には載っていなかった貴重な情報です。 ニューヨークやサンフランシスコ、ロンドンのチャイナ・タウンは有名で、いずれも行ったことがありますが、アムステルダムにもあるとは初めて知りました。「そうだ!まだきょうはお昼を何にするか決めてなかったから、チャイナタウンで中華にしようよ」と連れ合いと意見が一致。 さて、1時間クルーズを終えましたが、まだ10時すぎです。お昼ご飯にするには少し早いので、3日目のガイドさんに教えてもらった、アムス市内に近年オープンした「風車のあるビール醸造所(風車のパブ)」にお邪魔しようかということに。 醸造所のある場所へは路線バスで向かいます。アムスではトラムを乗り倒していますが、路線バスは初めてです(後で聞いたところでは、「10番」のトラムでも行けたそうです。ただしバスの方が所要時間は短いらしい)。 中央駅から「22番」のバスに乗って、10分ほど東へ走るともう目的地のOostenburgerstraatです(早い!)。本当にこんなところに風車があるのかな?と思って、停留所から歩くこと数分、見えてきました! 近く来て見上げると、さすがにでかいです。6~7階建てのビルくらいの高さです。聞けばアムス市内では一番高い風車なんだとか。 風車の裏側に回ってみるとこんな感じ。右側の建物が醸造所です。この「風車のある醸造所&パブ」、元々は使われていなかった市営の公衆浴場だった歴史的な建物=風車付き=でした。アムステルダム市当局がこの建物の保存活用を目指したビジネスプランを公募。その結果、1985年、若手起業家の提案が受け入れられて実現したものなんだとか。 その起業家とは、昨晩行ったビア・パブと同じ地ビール・メーカー「ブラウェライ・アイ(Brouwerij 't IJ)」の創業者でカスパー・ピーターソン(Kasper Peterson)。ピーターソンは「Drukwerk」という有名バンドのメンバーでしたが、とてもビール好きで、ベルギー・スタイルのビールをオランダでも造ることを目指して起業、その後も醸造実験と改良を重ねてきました。 現在では「ブラウェライ・アイ」は、アムステルダム市内有数のクラフト醸造所に成長。会社はピーターソンから別のパートナーに引き継がれましたが、独自のスタイルのビールを醸造し続けて、高い評価を得ています。 「風車のパブ」は近年、オランダ国内で「最も成功したベンチャー・ビジネス」にも選ばれました。現在では観光客だけでなく、アムステルダムの住民にとっても人気のスポットになっていて、連日多くのビール好きで賑わっているそうです(「ブラウェライ・アイ」は急成長したため今では、市内の別の場所により大規模な醸造所も持っているとか)。 醸造所のパブは、残念ながらオープンが午後2時からということで、まだ開いてませんでしたが、隣にある直営(?)のカフェ・レストランでも醸造所直送(と言ってもすぐ隣へ運ぶだけですが)の生ビールが飲めるということで、ホッとして早速注文! 頼んだのは「ij wit(アイ・ヴィット)」というタイプの生(メニュー中列の一番上)。原材料は小麦がメインで、コリアンダーと柑橘系果物のピールの香りが心地よい、フルーティなホワイトエール系のビールですが、これがめちゃ旨!(メニューの説明には「Delightfully fresh with hints of coriander and lemon and a rich aroma…」とありますが、まさにそんな感じの美味しさです)。 このビール、アムスのスーパーでも売っていたので買って帰れば良かったと、帰国後、一番後悔しています(涙)。どなたかこれからオランダに行く方、ぜひ僕らへのお土産にお願いします(笑)。 <13回目に続く>※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/08/01
コメント(0)
全12件 (12件中 1-12件目)
1