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大本営の甘い見通しの下に逐次投入を行い、ガダルカナル島に上陸させた総兵力は約31,000余名、うち1943(昭和18)年2月1日から7日に掛けて撤退できたものは10,652名、それ以前に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は約2万名強であり、このうち直接の戦闘での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死(事実上の餓死)だったと推定され、一方、米軍の損害は、戦死1,598名、戦傷4,709名であった。国民には敗北の事実は隠され、そのため、撤退した将兵も多くはそのまま南方地域の激戦地にとどめ置かれた。大本営はこの悲惨な状況について 撤退は「転進」という名で 「ソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は昨年8月以降、激戦敢闘克く敵戦力を撃摧しつつありが、その目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり」と02/09発表された。・・真に後方勤務の大本営 官僚参謀の得意とする迷文!とも言えよう・・ ニューギニア戦線でも連合軍の攻勢により日本軍は1月2日にブナが玉砕、隣接するギルワ、サナナンダも22日に玉砕。さらに、2月28日から行われた日本軍のラエへの増援も失敗した。山本五十六連合艦隊指令長官は昨年6月のミッドウェー海戦の敗北以来 後手々々続きの作戦結果にいたたまれず国内に戻らず、聖上(天皇陛下)に遇わす顔もない心境であったに違いなく、失地回復を図るべくトラック環礁の海軍作戦司令部で指揮を執っていた。 本来 山本長官の編み出した戦術戦略の空母主体の攻撃から 陸上基地を主とする航空兵力での攻撃戦略を取らざるに得ず、事実、数こそ目減りしても残存空母も存在し、艦上戦闘機 零戦の補充はあっても、ベテラン搭乗員の消耗により、未熟搭乗員では発着艦の技術が伴わぬのが実情でもあろう・・ ガダルカナル島沖や、ニューギニア島ポートモレスビー方面の敵艦船や地上を攻撃する「い号作戦」を開始するに辺り、連合艦隊指令長官として、日本海軍航空隊の最大勢力を保有し、複数の滑走路を持つ 最前線視察の為 04/03 ラバウルに到着した。 しかし、アメリカ軍の暗号解読に拠り山本長官の挙動行動は全て筒抜けで、04/18 山本五十六長官が20機の護衛戦闘機を敢えて断わり、6機のゼロ戦の護衛の下に一式陸攻に搭乗しラバウルを出発してブーゲンビル島に向かう途中、待ち伏せしていたアメリカ軍P-38戦闘機16機編隊に撃墜された。 米軍は山本長官機を撃墜した事を伏せ、暗号解読を隠すため ご丁寧にいかにも偶然を装い、翌日以降もP-38戦闘機の編隊を同時刻に索敵出動遊弋させ、 その事実を発表したのは、 05/21大本営が山本長官の戦死を公表し、06/05 山本五十六元帥の国葬が執り行われた日に遅れること3ヶ月後の9月になってからという周到さであった。(左上 新聞は海軍記念日に 山本元帥の遺烈燦然・完勝への決意を覚固する5/27付け毎日新聞) その二日後の05/29 日本軍アッツ島守備隊2000名は05/12 以来上陸してきた2万の米軍の前に玉砕。(左下 新聞は全国民が悲憤慷慨し感涙咽ぶその事実を伝える5/31付け毎日新聞) よりにも寄って06/08 日本海軍の戦艦「陸奥」が、岩国市の柱島泊地で原因不明の火薬爆発で爆沈し、乗員1121人中771人が死亡。生存者350人は大本営にこの事故を一切口外しないとの血判誓約書を書かされた上、南洋の戦地に送られた。閣議では、06/25 学徒戦時動員体制確立要綱を決定、08/01 朝鮮でも徴兵令が施行された。09/10 マグニチュード7.2の鳥取地震が発生。死者行方不明者1083、家屋全半壊1万3643の被害を出す情勢のなか、09/21 閣議が、国内必勝勤労対策を決定。14歳から25歳の未婚女子を勤労挺身隊に動員して、車掌など17の職種で男子の就業を禁止する代りに女子を充てることとし、10/02 学生・生徒の徴兵猶予が停止され。10/21驟雨の明治神宮外苑陸上競技場で 東条首相、岡部文相、嶋田海相列席の下、 都下及び神奈川・埼玉・千葉 三県下 77校○○名の出陣学徒部隊は執銃帯剣の武装姿で 女子専門学校を含む137校5万が見送る中 壮行会が開催された。 新聞は同10/21日付け毎日新聞(・・・記事には「国難克服の秋到る」とあり、本来『国難』とはこういう状況下で使う言葉であり、聞いたようなセリフで「国難選挙」を謳う「僕ちゃん首相」は大方「僕難選挙」と言い間違えたのだろうヨ・・・) 昭和18年末の12/24 には徴兵年齢が19歳に引き下げられ、いよいよ戦雲慌ただしき国内情勢となっていった。1943/01/04,昭和18/01/04 日本軍がガダルカナルからの撤退を開始する。 1943/02/07,昭和18/02/07 ガナルカナル島に残っている日本軍が撤退を終了する。 1943/02/09,昭和18/02/09 大本営がガダルカナル撤退を「転進」と発表する。 1943/02/19,昭和18/02/19 アメリカのルーズベルト大統領が蒋介石政府への武器援助強化の声明を出す1943/03/27,昭和18/03/27 アッツ島増援部隊が、米軍と交戦し輸送を断念する。1943/04/03,昭和18/04/03 連合艦隊指令長官山本五十六がラバウルに到着する。 1943/04/07,昭和18/04/07 連合艦隊がガダルカナル島沖、ポートモレスビー方面の敵艦船や地上を攻撃する「い号作戦」を開始する。1943/04/18,昭和18/04/18 山本五十六がラバウルを出発してブーゲンビル島に向かうが、待ち伏せしていたアメリカ機に撃墜される。60歳(誕生:明治17(1884)/04/04)。連合艦隊指令長官。 1943/04/21,昭和18/04/21 古賀一峯大将が連合艦隊の司令長官に任命される。 1943/05/12,昭和18/05/12 アッツ島に米軍が上陸する。 1943/05/21,昭和18/05/21 大本営が山本五十六の戦死を公表する。1943/05/29,昭和18/05/29 日本軍アッツ島守備隊150名が玉砕する。 1943/06/05,昭和18/06/05 山本五十六元帥の国葬が執り行われる。 1943/06/08,昭和18/06/08 日本海軍の戦艦「陸奥」が、岩国市の柱島泊地で原因不明の火薬爆発で爆沈し、乗員1121人中771人が死亡する。生存者350人は大本営にこの事故を一切口外しないとの血判誓約書をを書かされた上、南洋の戦地に送られる。1943/06/25,昭和18/06/25 閣議が、学徒戦時動員体制確立要綱を決定する。1943/08/01,昭和18/08/01 朝鮮で徴兵令が施行される。 1943/09/10,昭和18/09/10 鳥取地震。マグニチュード7.2、死者行方不明者1083、家屋全半壊1万3643。 1943/09/21,昭和18/09/21 閣議が、国内必勝勤労対策を決定する。14歳から25歳の未婚女子を勤労挺身隊に動員して、車掌など17の職種で男子の就業を禁止する代りに女子を充てることとする。 1943/10/02,昭和18/10/02 学生・生徒の徴兵猶予を停止する。 1943/10/21,昭和18/10/21 明治神宮外苑陸上競技場で、出陣学徒壮行会が開催される。1943/12/10,昭和18/12/10 文部省が、学童の縁故疎開促進を発表する。1943/12/24,昭和18/12/24 徴兵年齢が19歳に引き下げられる。 1943/08/01,昭和18/08/01 日本政府の支援で、ビルマがイギリスからの独立を宣言する。同時に日本と同盟を結び、イギリス、アメリカに宣戦布告する。 欧州1943/01/31,昭和18/01/31 スターリングラードでソ連軍に包囲されていたドイツ軍が降伏する。
September 30, 2017
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太平洋をめぐる日本と連合国との戦いは、年初緒戦の南方作戦では周到に準備した日本軍が西太平洋を制し、南方資源地帯を押さえた。第二段作戦として軍令部はアメリカとオーストラリアの間の交通を分断孤立させ、休戦させるという遠大な構想(米豪遮断作戦)を立て、日本海軍は主目的をフィジー、サモアとする攻略作戦を計画、(・・現代でも、中国海軍が ハワイから東はアメリカが、西側は我が国がとか言っていたような、云わなかったような??)06/05 ミッドウェー海戦での敗北後、航空隊の不足を実感し、これに必要な飛行場建設地をソロモン諸島の、ガダルカナル島に定め、わずかな守備隊と飛行場設営隊を送り込み 1942(昭和17)年7/16日から飛行場の建設を開始。飛行場は8月5日には完成し、16日に戦闘機を派遣する予定だった。一方、この情報をつかんだ連合軍はミッドウェー海戦後の7月2日、反攻作戦を発動。8月7日、アメリカ海兵隊第1海兵師団16,000名を主力とするアメリカ軍がソロモン諸島に無血上陸。逆にガダルカナル島にヘンダーソン飛行基地と予備の飛行場を別に建設 これより6ヶ月に渡る、海陸空の熾烈な消耗戦が戦われる事となった。海上では 08/08 第1次ソロモン海戦が始り、ミッドウェー海戦の仇とばかり日本艦隊が夜襲をかけ、米国の重巡洋艦4隻沈没、1隻大破、駆逐艦2隻を中破させる大戦果を挙げたものの、本来の主目的であったはずの上陸船団への攻撃は行われなかったため、まだ揚陸されていなかった重装備などは無傷で、膨大な軍需品のガダルカナル揚陸に成功し、2つの飛行場および橋頭堡が強化された。その為08/18 上陸した一木大佐の率いる支隊916人程度の兵力では米軍の数十倍の火器の前にかなう筈もなく、08/21全滅。その間 海上では8月24日 - 第二次ソロモン海戦(東ソロモン沖海戦)となりその後も09/02 日本の第17軍がガダルカナル島に上陸し 09/12 川口支隊が突入を決行するも惨敗。 10/09後手々々で兵員をその都度 派遣する大本営は 辻参謀の第2師団を派遣して1万人で10/24 ガダルカナル島飛行場奪回の第3次総攻撃を開始するも。翌日には失敗に終わった、海上では10/11から14日にかけ サボ島沖夜戦やヘンダーソン基地艦砲射撃が行われるも情報不足で予備飛行場の存在は知らず無傷のまま、10/26南太平洋海戦(サンタ・クルーズ諸島海戦)と日米間艦隊同士で死闘が戦われた。 (新聞は日本海軍の赫々たる「南太平洋会戦」の大本営発表を記載する10/28付け大阪毎日新聞)新聞の内容では08/25第二次ソロモン海戦以降10/26に至る帝国海軍部隊の戦果は空母4隻 戦艦1隻 巡洋艦3隻 駆逐艦5隻 他22隻撃沈し我が方の損害は巡洋艦2隻 駆逐艦2隻 潜水艦1隻 輸送船5隻と発表していたが戦後の資料で集計してみると、この間の米軍の実損害は空母「ワプス」「ホーネット」2隻沈没 空母「サラトガ」「エンタープライズ」は中破 戦艦「サウスダコタ」小破 巡洋艦1隻大破 2隻小破 駆逐艦1隻沈没 2隻大破と 主要艦中11隻が被害を受け、一方の日本海軍は空母「龍驤」沈没「翔鶴」「瑞鳳」中破 重巡洋艦「古鷹」」沈没 2隻大破 1隻小破 駆逐艦3隻沈没 2隻小破と 敵への過大戦果は多少の見誤りはあるにせよ、味方の被害は空母の損傷を伏せ 相変わらず過小報告の大本営発表で、真珠湾攻撃以来のベテラン搭乗員を多数失い、これ以上の攻勢に打って出ることが困難となった。11/14 第3次ソロモン海戦が行われ、この時期アメリカはすでに32隻もの強力なエセックス級空母の発注・建造を行い続々と就役を控えており、米軍側は南太平洋海戦で損傷した「エンタープライズ」を応急修理して出撃させて戦艦「比叡」「「霧島」」などの撃沈に大きな効果を挙げているのに対し、日本側の残存空母を出し惜しみする戦略と併せ、暗号解読し日本艦艇の再突入も予想できた米軍の夜間レーダーの前に日本海軍は打撃を受け、これらの海戦以降、日本海軍は水上戦闘部隊と輸送船団によるガダルカナル島への増援と補給を諦め、駆逐艦や潜水艦を用いた程度の鼠輸送となり、この僅かな補給ではガダルカナル島の残存陸上部隊はたちまち餓島と化した。(・・戦闘での戦死者より飢え死にした兵士の割合が7~8割・・、参謀本部は本土の机上で出し惜しみ作戦を繰り返した挙句、部隊をその都度派遣するばかり、誰かが責任を取った形跡はあるのだろうか・・) 結果12/31 に大本営が日本軍のガダルカナル島撤退を決定したのは 日米の明らかな物量と国力の差であった。しかも撤退と云わずに転進と言いつくろう言葉でごまかし、責任も取らず、何万人の命を無駄死にさせたこととなった・・・・07/05 日本軍が、タイとビルマを結ぶ鉄道(泰緬鉄道)の建設を始める07/11 大本営が南太平洋進攻作戦を中止する。07/21 天皇が宇都宮陸軍飛行場で演習を視察する08/05 三菱重工長崎造船所で戦艦「武蔵」が竣工する08/07 アメリカ海軍がガダルカナル島とツラギ島に上陸し、無血占領する08/08 第1次ソロモン海戦が始る。日本軍の勝利。しかし陸上戦ではアメリカ軍の勝利08/18 一木大佐の率いる支隊916人が、1万人のアメリカ軍が守るガダルカナル奪回に向かう。 08/21 ガダルカナルに上陸した一木支隊が総攻撃を開始するが、アメリカ軍の数十倍の火器の前に全滅する09/02 第17軍がガダルカナル島に上陸する09/12 ガダルカナルで川口支隊が突入を決行し、慘敗する8月15日に再び横須賀を出港。アリューシャン列島をかすめて9月7日にオレゴン州沖に到着した9月9日の深夜に空襲を決意し、田上艦長ら搭乗員が見守る中、藤田信雄飛曹長と奥田兵曹が操縦する零式小型水上偵察機は76キロ焼夷弾2個を積んで太平洋上の「伊25」を飛び立った。20日後の9月29日の真夜中に行われ、藤田機は同じく76キロ爆弾2個を再びオレゴン州オーフォード近郊の森林部に投下森林部を延焼させ、「伊25」へ戻った太平洋沿岸部の警備が厳しくなっていたことから、2回目の空襲を最後に空襲を取りやめ帰還することとなった。当時太平洋戦線で負け続きであったアメリカ国民を大いに怯えさせ、この空襲以降、西海岸地域を問わずアメリカの全ての沿岸部における哨戒活動及び防空が厳重なものとなりフランクリン・ルーズベルト大統領の命令により1942年2月からハワイを除くアメリカ全土で行われていた日系人の強制収容を正当化する口実の1つになった。
September 29, 2017
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前年1941(昭和16)/12/08 始った太平洋戦争の緒戦の勝利は歳も改まった昭和17年も破竹の勢いは留まる処を知らず01/02 日本軍がマニラを占領、(前段の左の新聞は比島マニラ完全占領を伝える1942(昭和17)年/1/04付け 大阪毎日新聞)01/12 ボルネオ・タラカン島のオランダ軍が降伏、01/16 日本軍がタイからビルマに侵攻、01/23 日本軍がビスマルク諸島のラバウルに上陸、続いて02/07 日本軍がシンガポール島に上陸、山下奉文司令官率いる第25軍がシンガポールを総攻撃し、02/15 英領シンガポールを占領。シンガポール島プキテマ高地北部のフォード自動車工場事務所で、山下奉文中将がマレー英軍司令官パーシバル中将に全面降伏を迫り、「イエスかノーか」と威圧した。(本段の新聞 左上は シンガポール陥落報道の02/16付け 大阪毎日新聞 )03/01 日本軍がオランダ領ジャワ島へ上陸、03/09 インドネシアでジャワ島のオランダ軍が日本軍に無条件降伏し、前日の03/08 ビルマ独立義勇軍と日本軍がラングーンを占領した。更に04/09 日本軍がフィリピンのバターン半島を制圧。(日本軍は約7万人の捕虜を約60キロも歩かす「死の行進」で約5000人を死亡させ、戦後 問題化した。)05/07 日本軍がマニラ湾のコレヒドール島を占領。ウエーンライト中将司令官以下千人を捕虜とし、日本第14軍に米軍が降伏した。(本段の新聞 左下は コレヒドール島陥落報道の05/08付け 大阪毎日新聞 )この間03/11 アメリカのマッカーサー極東軍司令官がルソン島を脱出し。03/18豪州で西南太平洋連合軍司令官に就任していたが、アメリカは 戦勝に沸く日本に一矢報いるべく、04/02 空母ボーネットが爆撃機B25を乗せ日本に向けて出航、04/18 早朝本土から600海里の犬吠埼東方沖で日本の監視船第23日東丸(直ちに撃沈さる)に発見されるや、発見位置より勘案し、空襲を翌日と油断する日本の裏を掻き、荒れる海もものかわ 直ちにJ.ドーリトルの指揮する米爆撃機B25 16機が日本本土へ向け発進 昼間の午後0時30分、東京を始め名古屋、大阪を初空襲した、(米爆撃機は燃料不足で母艦へ帰れず、殆ど中国大陸へ不時着した・・) 被害は16機程度ゆえ少なかったが、大本営はこれを深刻に受け止め、太平洋から米国艦隊を駆逐すべく先ずは05/07 南方海上珊瑚海で ニューギニア南岸のポート・モレスビー攻略をめざした日本海軍の機動部隊2隻の空母と米国の2隻空母同士が初対決し、日米双方とも空母1隻ずつを失った。これに苛立つ大本営は、05/18山本五十六大将 連合艦隊司令長官の発案する南太平洋でのアメリカ・オーストラリア遮断作戦を発令。 05/27 午前5時、日本の南雲忠一中将率いる機動部隊が空母 赤城、加賀、飛龍、蒼龍4隻を含む戦艦11重巡洋艦10軽巡洋艦6駆逐艦53他の艦船に 参加兵力10万を乗せ出陣陽動作戦として空母「龍驤」、「隼鷹」を中心とする部隊をアリューシャン方面、アッツキスカ島に向かわせた。処が、05/03 にはアメリカはハワイの暗号解読班が日本の作戦計画を概ね解読に成功、主目標がミッドウェイで、アリューシャン攻撃は陽動作戦である事まで筒抜け状態で、ニミッツ提督は空母「エンタープライズ」「ホーネット」2隻に、先に珊瑚海海戦で中破した「ヨークタウン」を72時間の不眠不休の作業により応急修理、修理工を乗せたまま航行中も修理を続行する等、持てる主力部隊 全てをミッドウェイに集中し待ち構えていた。 結果は、06/05 ミッドウェイ沖大海戦が始り、艦隊規模では劣る米軍は しかし情報に元づく索敵も充分な分 有利に戦った結果 米軍側の艦船他の損失は、航空母艦1、駆逐艦1沈没戦死307名に対し、日本側は航空母艦全4艦とその艦載機を一挙に喪失、重巡洋艦1が沈没、重巡洋艦1大破 駆逐艦1中破 戦死者3,057名という大敗北を喫し、これ以降 太平洋戦争における主導権を失うことになった。うろたえた日本軍令部は、この敗北を国民はおろか参謀本部や東條英機 総理兼陸相に対してさえ隠蔽し、06/08 日本軍が主にアリューシャン要点攻略、アッツ島に上陸、ダッチハーバー爆撃の戦果をことさら強調し、ついでに05/31 海軍特殊潜航艇のオーストラリアのシドニー港攻撃やアフリカ東岸で潜水艦で英船3隻撃沈などを散りばめ、突け足しに ミッドウェイ強襲も敢行の趣で大本営発表。戦果は敵航空母艦2隻で残る米国残存空母は後2隻のみ、敵機120機撃墜 他に重要施設爆破し、我が方の被害は航空母艦1隻喪失 1隻大破、巡洋艦1隻大破、未帰還機35機と過少に発表した、(新聞は日本海軍の完敗を隠匿した大本営発表をそのまま記載した 06/11付け東京日日新聞)これ以降 国民に対しても天皇に対しても 誇大妄想的戦果報告(大本営発表)を行なうようになり、この状態は第二次世界大戦の終結まで続く事となった。(否々 この頃から現代迄 不都合を無かった事とする隠ぺい体質はず~と続いている様だ)1942/01/02,昭和17/01/02 日本軍がマニラを占領する。 01/12 ボルネオ・タラカン島のオランダ軍が降伏する。01/16 日本軍がタイからビルマに侵攻する。 01/23 日本軍がビスマルク諸島のラバウルに上陸する。02/07 日本軍がシンガポール島に上陸02/08 第25軍がシンガポールを総攻撃する。02/15 山下奉文司令官率いる第25軍が英領シンガポールを占領する。シンガポール島プキテマ高地北部のフォード自動車工場事務所で、山下奉文中将がマレー英軍司令官パーシバル中将に全面降伏を迫り、「イエスかノーか」と威圧する。 02/28 日本海軍がバタビア沖海戦で連合国艦隊を撃破する03/01 日本軍がオランダ領ジャワ島へ上陸する。 03/08 ビルマ独立義勇軍と日本軍がラングーンを占領する。03/09 インドネシアでジャワ島のオランダ軍が日本軍に無条件降伏する03/09 インドネシアのスカルノがプートラを結成する03/10 日本軍がバンドンに入城する。03/10 チャンドラ・ボースのインド独立連盟が運動を開始する03/11 アメリカのマッカーサー極東軍司令官がルソン島を脱出する。03/18 マッカーサーが西南太平洋連合軍司令官に就任する。(04/02 空母ボーネットが爆撃機B25を乗せて日本に向けて出航)04/09 日本軍がフィリピンのバターン半島を制圧する。日本軍は約7万人の捕虜を約60キロも歩かす「死の行進」で約5000人を死亡させる。04/11 ボルネオ原産油の初の油槽船が横浜に入港する04/18 J.ドーリトルの指揮する米爆撃機B25が日本本土を初空襲する(午後0時30分、東京)04/29 日本軍がラシオ(ビルマ)を占領する。05/01 日本軍第18師団が、ビルマ(ミャンマー)北部のマンダレーを占領し、南方侵攻作戦が一段落する05/03 ハワイの暗号解読班が日本に次の目標がミッドウェイであることを解読して本国に送る05/07 南方海上での日米の空母同士の戦い。日米双方とも空母1隻ずつを失う珊瑚海海戦 ニューギニア南岸のポート・モレスビー攻略をめざした日本海軍の機動部隊 2隻の空母のうち、翔鶴は中破していたが、もう一隻の瑞鶴についてはほとんど無傷05/07 日本軍がマニラ湾のコレヒドール島を占領する。米軍が降伏する05/10 ミンダナオ島の米軍が第14軍に降伏する05/18 大本営が、南太平洋でのアメリカ・オーストラリア遮断作戦を発令する05/31 海軍特殊潜航艇がオーストラリアのシドニー港を攻撃する06/03 マニラで、占領記念観兵式が行われる。 06/05 日本のミッドウェイ攻略の海戦が始る。アメリカは事前に情報を得ており、基地を空にし洋上に空母を配置して日本軍を攻撃する。日本海軍は主力空母4隻、搭載全機263機を失う06/08 日本軍がアッツ島に上陸する 陽動作戦として、主戦場より遠く離れたアリューシャン攻略作戦には、貴重な2隻の空母隼鷹と龍驤を基幹とする艦隊が投入された。06/10 大本営が、ミッドウェイで日本海軍が敵の施設に大打撃を与えたと発表する(事実は日本海軍の完敗であった)。 07/05 日本軍が、タイとビルマを結ぶ鉄道(泰緬鉄道)の建設を始める07/11 大本営が南太平洋進攻作戦を中止する。07/21 天皇が宇都宮陸軍飛行場で演習を視察する08/05 三菱重工長崎造船所で戦艦「武蔵」が竣工する08/07 アメリカ海軍がガダルカナル島とツラギ島に上陸し、無血占領する08/08 第1次ソロモン海戦が始る。日本軍の勝利。しかし陸上戦ではアメリカ軍の勝利08/18 一木大佐の率いる支隊916人が、1万人のアメリカ軍が守るガダルカナル奪回に向かう。 08/21 ガダルカナルに上陸した一木支隊が総攻撃を開始するが、アメリカ軍の数十倍の火器の前に全滅する09/02 第17軍がガダルカナル島に上陸する09/12 ガダルカナルで川口支隊が突入を決行し、慘敗する10/03 第17軍第2師団がガダルカナル島に上陸を開始する10/09 大本営が辻参謀の第2師団をガダルカナルに派遣して川口支隊と合せて1万人で奪回を図る10/24 第17軍が、ガダルカナル島飛行場奪回の第3次総攻撃を開始する。翌日に失敗に終わる10/26 南太平洋海戦。アメリカ空母1隻、日本空母2隻が沈没する。 10/30 北千島要塞歩兵隊がアッツ島に上陸する。11/14 第3次ソロモン海戦が行われ、日本軍は打撃を受ける12/07 駆逐艦でのガダルカナル島への食糧輸送が失敗する12/08 ニューギニアの日本軍が全滅する12/14 日本軍がニューギニアに増援する12/10 御前会議で輸送船を戦争のためにまわすことで政府が大本営の要求をのみ、国民経済が破綻することになる。 12/21 イギリス・インド軍がビルマに前進する。12/31 大本営が日本軍のガダルカナル撤退を決定する。
September 28, 2017
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欧州大戦を含む1941(昭和16)年の世界情勢は如何に!1941/02/10, 破竹の勢いの独逸に比べ、同じ同盟国側のイタリアの地中海方面の戦いに、劣勢気味のムッソリーニは、ドイツ軍1個機甲師団の北アフリカ派遣の申し出を受入れるや、早速02/11 ドイツ空軍がスエズ運河を空爆。翌日02/12 ドイツの戦車部隊を引き連れたロンメル将軍が、イタリア軍支援のためリビアのトリポリに到着。03/31 最初の攻勢に出て一挙にキレナイカのイギリス軍を駆逐、04/03には リビアのイギリス軍が、ドイツのロンメル将軍の戦略部隊に攻撃されてベンガジを放棄するなど破竹の勢いであった。 一方欧州大陸では03/01 イギリス空軍がAI対空レーダーを初めて使用し、ドイツのケルンに1000機爆撃を行うも。これに対し04/16 ドイツ空軍はロンドンに猛烈な無差別爆撃を加え、互角の熾烈な消耗戦となっていた。 この頃03/20 駐米ソ連大使が、アメリカ政府からバルバロッサ作戦の情報を入手、スターリンは欧亜両面に兵を配置するを不利と見て手を打ったが、その一つが、偶々独ソ間を東洋の策士然と移動する日本の松岡外相を焚きつけ、04/13急遽結んだ日ソ中立条約調印であろう・・案の定 06/22 ドイツ軍がバルト海から黒海にわたる戦線で宣戦布告なしにソ連攻撃を開始し(バルバロッサ作戦)。ドイツ軍はバルト3国を占領し。独ソ戦争が始った。06/28 ドイツ軍がミンスクを占領 。07/03 スターリンが、独ソ戦を大祖国戦争と規定し、パルチザン戦をラジオで呼びかける中。 07/21にはドイツ軍が初めてモスクワを爆撃したその頃の8/14 ルーズベルトとチャーチルが、大西洋上で会談し、日ソ独伊を含む国際情勢を分析 米英共同宣言の大西洋憲章を発表した。(これが国連成立のきっかけとなった訳だが・・)08/21 ドイツ軍がレニングラードまで20キロの地点まで迫り、ヒットラーは、今夏中にはソ連を占領できると慢心し、主力部隊にモスクワ進撃を中止しクリミア半島占領を命令した。 しかし、手を緩めた為に これが勝負の綾を分ける事となり、夏中に攻略が終了せず、09/08 レニングラードをドイツ軍が包囲するも落ちず、09/12 改めてヒトラーは機甲部隊をモスクワ攻略に転換するも、09/14 日本国に潜むスパイのゾルゲが、日本の対ソ攻撃はないと判断し通報。この結果スターリンは全軍を対ドイツに向け防御を固めた。10/01 モスクワで、対ソ援助のための米英ソ議定書が調印され10/10 イギリスが貸与条項によりソ連への物資供給を決定するなか 10/02 ドイツ軍が、モスクワ大攻撃を開始した(台風作戦)。10/21 ソ連側ではジューコフ将軍がモスクワ防衛の責任者となり。ドイツ軍の猛攻に耐え 死闘を繰り返す内奇しくも10/25 モスクワ周辺に大雪が降り、夏装のままのドイツ軍の兵士の士気はかなり打撃を受けた。一方早くも冬将軍の到来で士気の上がったソ連軍は10/27モスクワ周辺で反撃に出た。11/06 アメリカが10億ドルの対ソ武器貸与借款を決定するなか11/08 ドイツ軍はレニングラードを完全包囲するも11/09 スターリンは、革命記念集会で「聖なるロシア」を守ることを呼びかけ、11/27 ソ連軍が反撃を開始。 11/28 ドイツ軍がロストフで敗北し12/05 モスクワ防衛ソ連軍が反攻に成功。奇しくも日本が米英に宣戦布告の詔勅を発表した12/08 ドイツではヒトラーが東部戦線休止の声明を出し、ドイツ軍のモスクワ総攻撃が失敗した。 12/16 にはヒトラーが東部戦線の兵士たちに「熱狂的抵抗」を要求、ソ連の総攻撃に対し、死守命令を出し、12/19 ヒトラーはブラウヒッチ陸軍最高司令官をソ連攻撃失敗の責任を取らせ解任して自らがその地位に就くも、雪中の東部戦線にて防寒具なきまま退却する将兵のため 12/20 ゲッベルスが冬期衣類の寄付を全ドイツ市民に呼びかける始末、ついに12/30 ソ連軍にトゥーラを奪回され 総崩れとなった。この状況の中、緒戦の勝利に沸き立つ日本では そんな欧州での実情を知ってか知らざりしか、大東亜戦争開戦まもない12/16 日独伊単独不講和協定が締結され、過去の日露戦争時の如く、敵国米英蘭との間で緒戦に勝利している間に単独で有利な講和への道を探る道は 閉ざされた事となっていた。新聞は比島マニラ完全占領を伝える1942(昭和17)年/1/04付け大阪毎日新聞 及びラングーンに続き ジャワ島 蘭米英豪軍の無条件降伏を伝える 同年3/10付け 大阪毎日新聞欧州戦線1941/02/06,昭和16/02/06 エルヴィン・ロンメル将軍がドイツ・アフリカ軍団(DAK)の総司令官に就任する1941/02/11,昭和16/02/11 ドイツ空軍がスエズ運河を空爆する。1941/02/10,昭和16/02/10 ムッソリーニが、ドイツ軍1個機甲師団の北アフリカ派遣の申し出を受入れる。 1941/02/12,昭和16/02/12 ドイツのロンメル将軍が、イタリア軍支援のためリビアのトリポリに到着する。 1941/03/01,昭和16/03/01 イギリス空軍がドイツのケルンに対して1000機爆撃を行う。AI対空レーダーが初めて使用される1941/03/20,昭和16/03/20 駐米ソ連大使が、アメリカ政府からバルバロッサ作戦の情報を入手する。 1941/03/31,昭和16/03/31 ロンメルが最初の攻勢に出て一挙のキレナイカのイギリス軍を駆逐する。 1941/04/03,昭和16/04/03 リビアのイギリス軍が、ドイツのロンメル将軍の戦略部隊に攻撃されてベンガジを放棄する。 1941/04/12,昭和16/04/12 ドイツ軍がベオグラードを占領する。 1941/04/16,昭和16/04/16 ドイツ空軍がロンドンに対して猛烈な無差別爆撃を加える。 1941/06/22,昭和16/06/22 ドイツ軍がバルト海から黒海にわたる戦線で宣戦布告なしにソ連攻撃を開始する(バルバロッサ作戦)。ドイツ軍はバルト3国を占領する。独ソ戦争が始る。 1941/06/23,昭和16/06/23 ソ連が、ゾルゲに独ソ開戦に対する日本の動向を探らせる。 1941/06/28,昭和16/06/28 ドイツ軍がミンスクを占領する。 1941/07/03,昭和16/07/03 スターリンが、独ソ戦を大祖国戦争と規定し、パルチザン戦をラジオで呼びかける。 1941/07/21,昭和16/07/21 ドイツ軍が初めてモスクワを爆撃する。 1941/08/14,昭和16/08/14 ルーズベルトとチャーチルが、米英共同宣言の大西洋憲章を発表する。国連成立のきっかけ1941/08/21,昭和16/08/21 ドイツ軍がレニングラードまで20キロの地点まで迫る。 1941/08/21,昭和16/08/21 ヒトラーが作戦変更指示する。モスクワ進撃を中止しクリミア半島占領を命令する。 1941/09/12,昭和16/09/12 ヒトラーが機甲部隊をモスクワ攻略に転換する。 1941/09/08,昭和16/09/08 レニングラードがドイツ軍に包囲される。1941/09/14,昭和16/09/14 ゾルゲが、日本の対ソ攻撃はないと判断する。この結果スターリンは全軍をドイツに向ける。1941/09/30,昭和16/09/30 ドイツ軍がモスクワ攻略作戦を開始する。1941/10/01,昭和16/10/01 モスクワで、対ソ援助のための米英ソ議定書が調印される。 1941/10/02,昭和16/10/02 ドイツ軍が、モスクワ大攻撃を開始する(台風作戦)。1941/10/10,昭和16/10/10 イギリスが貸与条項によりソ連への物資供給を決定する。 1941/10/21,昭和16/10/21 ジューコフ将軍がモスクワ防衛の責任者となる。 1941/10/25,昭和16/10/25 モスクワ周辺に大雪が降る。 1941/10/27,昭和16/10/27 ソ連軍がモスクワ周辺で反撃に出る。 1941/11/06,昭和16/11/06 アメリカが10億ドルの対ソ武器貸与借款を決定する。 1941/11/08,昭和16/11/08 ドイツ軍がレニングラードを完全包囲する。 1941/11/09,昭和16/11/09 スターリンが、革命記念集会で「聖なるロシア」を守ることを呼びかける。 1941/11/27,昭和16/11/27 ソ連軍が反撃を開始する。 1941/11/28,昭和16/11/28 ドイツ軍がロストフを失う。 1941/12/05,昭和16/12/05 モスクワ防衛ソ連軍が反攻に成功する。 1941/12/07,昭和16/12/07 ドイツ軍のモスクワ総攻撃が失敗する。東部戦線が休止となる。 1941/12/08,昭和16/12/08 ヒトラーが東部戦線休止の声明を出す。 1941/12/12,昭和16/12/12 ソ連軍が、モスクワに迫ってきたドイツ軍を撃退する。 1941/12/16,昭和16/12/16 ヒトラーが東部戦線の兵士たちに「熱狂的抵抗」を要求する。 1941/12/17,昭和16/12/17 ヒトラーがソ連の総攻撃に対し、死守命令を出す。 1941/12/19,昭和16/12/19 ヒトラーがブラウヒッチ陸軍最高司令官を解任して自らがその地位に就く。1941/12/20,昭和16/12/20 ゲッベルスが東部戦線の将兵のための冬期衣類の寄付を呼びかける。1941/12/30,昭和16/12/30 ソ連軍がトゥーラを奪回する。 ゾルゲ事件関連(対日 ソ連スパイ動向)1941/06/01,昭和16/06/01 ゾルゲがドイツのソ連攻撃が6月15日であると打電する。 1941/06/23,昭和16/06/23 ソ連が、ゾルゲに独ソ開戦に対する日本の動向を探らせる。 1941/07/10,昭和16/07/10 ゾルゲから、7月2日の御前会議の内容がスターリンに届き、日本が積極的にソ連には攻撃しないことが伝えられる。1941/09/14,昭和16/09/14 ゾルゲが、日本の対ソ攻撃はないと判断する。この結果スターリンは全軍をドイツに向ける。1941/10/04,昭和16/10/04 ゾルゲが日米開戦が1941年の年末であることを報告する。 1941/10/18,昭和16/10/18 ゾルゲ事件。ソ連籍のドイツ人でドイツの新聞社の特派員ルヒャルト・ゾルゲがスパイ容疑で逮捕される。
September 27, 2017
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1941(昭和16)/11/20,野村駐米大使、栗栖全権大使が、米側に対米交渉案の乙案を提示した。乙案とは ①日米両国政府はいずれも仏印以外の南亜細亜及び南太平洋地域に武力進出を行はざることを確約す②日米両国政府は蘭領印度に於いても其の必要とする物資の獲得が保障せらるる様互いに協力するものとす。③日米両政府は相互に通商関係を資産凍結前の情況に復帰すべし。南部仏印進駐の日本軍は北部へ移動し、米国政府は年100万トンの航空機用揮発油の対日供給を確約す。④米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与ふるが如き行動に出ざるべし。とあり 日米間の基本問題を一応棚上げし、事態が決定的に悪化した南部仏印進駐以前の状態に戻して交渉をやり直そうという当時の日本としては ぎりぎりの真摯な提案であったが、しかし「それは最後通牒だった。日本の提案は途方もないものであった」とハルは回想録で述べている。乙案は先述の通り以前の状態に戻そうという趣旨のものであるが、なぜこれが最後通牒であるとハルは受け取ったのか。・・・それは米国暗号解読上の誤解にも原因があった。勝手に傍受解読して勝手に誤解し、この為日本が心血注いで作成した甲乙の両案は完全に否定されてしまったのが実情の様で・・・、米国国務省は意識的に乙案についてなんら対案を出すこともなく、以降の日本側の説明に何ら注意を払うこともなく黙殺した。11/21にはドイツで三国同盟を調印した正本人の来栖大使が単独でハル長官と会談し、即ち米国の対独参戦に際して、米国が一番知りたい筈の日本の参戦判断は自主的に行い、他の締結国の解釈に拘束されるものではないことを記した秘密書面を提示し、三国同盟問題で重大な譲歩を示したにも拘らず11/26 ハル米国防長官は、日本側の中国撤退を求める強硬な新提案を提示してきた。 その提案(ハル・ノート)の骨子とは① 中国と仏印からの日本軍の全面撤退② 日独伊三国同盟の死文化③ 中国での蒋介石政権以外の政府または政権を支持しない。という(・・現在の眼で見直しても・・) 積年の日本政府の国策の全否定で、言わば日露戦争以前の状態まで戻れという無理難題な提案であった。(米政府首脳の本意は如何に米国の欧州戦参戦を訴えたくても米世論、米国民は戦争を望んでいなかったので、世論工作として日本を挑発し、多少のリスクを払ってでも最初の引き金を引かせようと躍起になっていた現われでもあった)(・・現在、北朝鮮に対しても同じ手口で、しきりに最初の引き金を引かせようと、B!爆撃機や空母艦隊を近海に遊弋させ、挑発的行動を採っているのは間違いなく、危うい政策!・・)11/27 政府・大本営連絡会議が、26日の「ハル・ノート」を米側の最後通牒と結論。 事ここに至り 12/01 御前会議が対米・英・蘭との開戦を決定した。日本帝国海軍は既に11/26 ハワイ作戦機動部隊が、択捉島のヒトカップ湾を出港しており、12/02 特別暗号「ニイタカヤマノボレ」が発せられる内 12/06 野村駐米大使宛てに、対米最終覚書が打電された。(寺崎御用掛日記によれば、この解読翻訳に手間取り、米側に伝えた時刻が ホノルル時間 7日午前7時49分より遅れたのは事実だが、それを証拠に「だまし討ち」と主張する論法は 既に米側は12/06の日本の対米最終覚書を傍受把握しており、米西戦争以来 先に撃たせてから 戦争に臨む 米国国務省側の策略であるのは言うまでもない)(・・現在に於いても、日本の政策を含め、諸外国にとって、日本の諜報など丸裸に近い筈・・ロシアのプーチン大統領にはこけにされ、アメリカのトランプ大統領に子犬の如く纏わりつくだけの外交で手腕を発揮中と自負している程度では今後も思いやられる・・)12/08 日本時間午前3時19分(ホノルル時間7日午前7時49分)、日本軍がハワイ真珠湾空襲を開始。同日 日本時間午前2時、日本軍がマレー半島へ上陸を開始。日本時間午前4時、米英に宣戦布告の詔勅を発表し、太平洋戦争開戦となった。更に12/10 日本軍機が、マレー沖海戦でイギリスの主力艦のプリンス・オブ・ウェールズを撃沈12/13 日本陸軍が香港の九竜半島を占領し、たちまち12/25 香港のイギリス軍が日本軍に降伏する等 緒戦で嚇々たる戦果を挙げ、大東亜戦争の開戦を臨時ニュースで知った帝国臣民は狂喜乱舞した。(・・奇しくも呉海軍工廠で戦艦大和が秘密裏に竣工したのは開戦8日後の12/16であった。) 新聞は1942(昭和17)/1/1付け 大阪毎日新聞で 一面にはハワイ海戦の模様や八紘一宇実現の新年を謳う社説であふれ、三面には空母○○ (赤城)から ハワイへ向け発艦する艦上攻撃機を見送る写真やシンガポール ・ラングーンに出陣する日本軍機(海軍省提供写真) とともに 東久邇本土防衛総司令官殿下が敵機必襲の国民への心構えのお言葉を諄々と述べている。
September 27, 2017
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前年の07/22 成立した第2次近衛文麿内閣は 日本の対英米発言力が増すとの甘い期待で 独逸に肩入れする松岡外相が主になり強引に薦め 同年09/27 ベルリンで日独伊三国同盟条約に調印したが その予想に反し アメリカが軍備増強に邁進し出した事に慌てはじめた。そこで前年01/14 阿部信行内閣が総辞職するまで外務大臣を3ヶ月半ほど務めたキャリアを持ち、海軍武官として駐米日本大使館附武官・パリ講和会議とワシントン軍縮会議の全権団に随員として加わるなど、海外経験が豊富で国際法にも詳しい野村吉三郎予備役海軍大将が、ルーズベルトとは旧知の間柄ということで 1941年(昭和16年)1月に駐米大使に起用された。03/08 野村駐米大使、ハル国務長官の第1回の日米交渉会談が正式に開始され、04/16 米国は前年よりの民間人同士私案の日米諒解案を交渉の基礎として提案。それは比較的日本に好都合な条件で陸海軍も大筋で納得する案であった為、近衛首相も正式のものにするべく一刻も早く決済すべきところ 優柔不断な現在の(歴史に手柄顔を残したいばかりの自己中な、どこぞの首相宜しく煮えきらず。得てして名門出身で決断が遅く、折角の好機を逃がす宰相のタイプは似たような時期に現れ、国を誤らせるものなのか・・これも 歴史の皮肉ともいえるが・・) 外遊中の松岡洋右外相の帰国を待つこと暫し・・・ この間 03/24松岡外相はモスクワでスターリンと会談 。03/27 ベルリンでヒトラーと会談し、日独伊ソ4国同盟案を提唱し、04/13 にはモスクワで急遽日ソ中立条約を調印させ(これは寧ろ対独戦に備え 欧亜両面作戦を不利とみた 役者が一枚上のスターリンの術中に嵌った条約だったが・・)得意満面で帰国した松岡外相は、自分の描いていた構想と異っていた為、唯一人「この案は陸軍の謀略」と難癖をつけ反対し、不成立に終わった。 やむなく05/12 野村駐米大使へ、ハル国務長官に修正案を提出させるも、これを日本の不誠実さ・慢心とみたハル国務長官は06/21野村駐米大使に、5月31日の米側「中間案」の修正と松岡外相を非難するオーラルステートメントを渡し、アメリカは対日交渉の態度を急変していった。06/22 独逸がソ連に侵攻するや、ヒトラーとの個人密約でもあったのか 松岡外相は、四月に決めたばかりの日ソ中立条約を破り、いまこそソ連イルクーツクまで兵を進められかしと天皇に進言、その豹変ぶりに驚愕。07/02 御前会議で、日本が北進か南進かが議論され、陸海軍とも準備不足で時期尚早と対ソ連宣戦に反対し、その代償の意味を含め、海軍の押す南仏印進駐が決定された。ところがアメリカでは07/08 暗号解読室が、日本大使館へ打電された この2日の帝国国策要綱の解読に成功し、以降の日本の手の内は 筒抜け状態であったとか・・・、07/16天皇の内々の松岡外相罷免の意を受け、対ソ政策や対米交渉問題で、閣内の意見不一致の張本人の松岡外相罷免のため、第2次近衛文麿内閣が総辞職。改めて07/18 第3次近衛文麿内閣が成立。豊田海軍大将が外相となった。そして7/28 日本軍が南部仏印へ進駐を開始するや これがアメリカをして対日交渉に余地なしの腹をくくらせ、対米戦争への直接の原因となる石油供給全面禁止を含む対日経済封鎖へ踏み切らせた。08/28 野村大使が、ルーズベルト大統領に日米首脳会談を申し入れるも、あっさり断わられ、09/06 第二回目の御前会議が、帝国国策遂行要綱を決定。永野修身軍令部総長・杉山参謀総長の計画書に基づく、対米戦争突入へのシナリオが出来上がっていった。10/02 アメリカからは 結局日本に対して強硬な「覚書」を提示され、 10/12 近衛別邸(荻外荘)で戦争の決断を迫られた近衛 は一縷の望みかけ、対米和戦の会議を開いたが、東條陸相の不同意で未決となり、10/16 近衛内閣が総辞職。10/18それではいっそ陸軍に抑えの利く東條に との期待で組閣の大命が下り、内相と陸相を首相が兼任する東条英機内閣が成立した、一方10/20 軍司令部はハワイ奇襲などの海軍作戦方針を内定。11/05 御前会議で、天皇の意で対米交渉案(甲・乙案)と、12月1日午前零時までに対米交渉成立の場合は開戦中止を決定するも、 同日 大本営は、着々と対米英蘭作戦準備を命令。海軍出身の野村大使の補佐として11/15 外務省出身のベテラン栗栖三郎特命全権大使が和平交渉の最後の望みとしてワシントンに着任した。 新聞は11/7 付け 東京日日新聞で 和戦両様と手の内を読んでいた米国は極く冷静に構えていた様子が何と無く紙面に伺え、我方 国策完遂の秋とこれも 譲らぬ日本の腹を新聞は伝えている。日本1941/01/08,昭和16/01/08 東条英機陸軍相が、「生きて虜囚の辱めを受けず」を含む「戦陣訓」を全軍に通達する。1941/01/21,昭和16/01/21 松岡洋右外相が、仏領インドシナ、オランダ領東インド、タイを大東亜共栄圏に含めると表明する。1941/02/11,昭和16/02/11 野村吉三郎が駐米大使としてワシントンに着任し、日米交渉が本格化する。1941/03/01,昭和16/03/01 尋常小学校を国民学校に切り替える国民学校令が公布される。 1941/03/08,昭和16/03/08 野村駐米大使、ハル国務長官の第1回の会談が行なわれる。1941/03/23,昭和16/03/23 松岡外相が、スタインハート駐ソ米大使と会談する。 1941/03/24,昭和16/03/24 松岡外相が、モスクワでスターリンと会談する。 1941/03/27,昭和16/03/27 松岡外相がベルリンでヒトラーと会談し、日独伊ソ4国同盟案を提唱する。 1941/03/31,昭和16/03/31 石原莞爾が、東条英機陸相を批判したため現役を追われて予備役編入となる。 1941/04/09,昭和16/04/09 野村駐米大使が、日米交渉解決のための第1次日本案を提出する。 1941/04/13,昭和16/04/13 モスクワで日ソ中立条約が調印される。1941/04/16,昭和16/04/16 ワシントン、ハル国務長官が野村駐米大使に、民間私案の日米諒解案を交渉の基礎として提案する。日米交渉が正式に開始される。1941/05/12,昭和16/05/12 野村駐米大使が、ハル国務長官に修正案を提出する。 1941/06/21,昭和16/06/21 ハル国務長官が野村駐米大使に、5月31日の米側「中間案」の修正と松岡外相を非難するオーラルステートメントを渡す。 1941/07/02,昭和16/07/02 御前会議で、日本が北進か南進かが議論決定される。1941/07/08,昭和16/07/08 アメリカの暗号解読室が、2日の帝国国策要綱の解読に成功する1941/07/10,昭和16/07/10 関門海底鉄道トンネルが貫通する。 1941/07/15,昭和16/07/15 日米了解案をめぐり、松岡外相と近衛首相が対立する。 1941/07/16,昭和16/07/16 第2次近衛文麿内閣が総辞職する。対ソ政策や対米交渉問題で、閣内の意見不一致による。1941/07/18,昭和16/07/18 第3次近衛文麿内閣が成立する。豊田海軍大将が外相となる。1941/07/28,昭和16/07/28 日本軍が南部仏印へ進駐を開始する。対米戦争への直接の原因となる。1941/08/17,昭和16/08/17 野村駐米大使とルーズベルト大統領の会談が行なわれる。1941/08/28,昭和16/08/28 野村大使が、ルーズベルト大統領に日米首脳会談を申し入れる。 1941/09/06,昭和16/09/06 御前会議が、帝国国策遂行要綱を決定する。対米戦争突入へのシナリオができる。1941/10/02,昭和16/10/02 アメリカが日本に対して強硬な「覚書」を提示する。 1941/10/12,昭和16/10/12 近衛別邸で対米和戦の会議が開かれるが、陸相の不同意で未決となる。1941/10/16,昭和16/10/16 近衛内閣が総辞職する。1941/10/18,昭和16/10/18 東条英機内閣が成立する。内相と陸相を首相が兼任する。 1941/10/20,昭和16/10/20 軍司令部がハワイ奇襲などの海軍作戦方針を内定する。1941/11/05,昭和16/11/05 御前会議で、対米交渉案(甲・乙案)と、12月1日午前零時までに対米交渉成立の場合は開戦中止を決定する。 1941/11/05,昭和16/11/05 大本営が、対米英蘭作戦準備を命令する。 1941/11/15,昭和16/11/15 栗栖三郎特命全権大使がワシントンに着任する。 1941/11/18,昭和16/11/18 機動部隊旗艦「赤城」が佐伯湾を出航して艦隊の集結地択捉島単冠湾に向かう。 1941/11/20,昭和16/11/20 野村駐米大使、栗栖全権大使が、米側に対米交渉案の乙案を提示する。1941/11/26,昭和16/11/26 ハワイ作戦機動部隊が、択捉島のヒトカップ湾を出港する。 1941/11/26,昭和16/11/26 ハル米国防長官が、日本側の提案を拒否し日本側の中国撤退を求める強硬な新提案(ハル・ノート)を提示する。 1941/11/27,昭和16/11/27 政府・大本営連絡会議が、26日の「ハル・ノート」を米側の最後通牒と結論する。 1941/12/01,昭和16/12/01 御前会議が対米・英・蘭との開戦を決定する。 1941/12/02,昭和16/12/02 特別暗号「ニイタカヤマノボレ」が発せられる。 1941/12/05,昭和16/12/05 野村、栗栖両大使が、日本側回答をハル国務長官に手渡す。 1941/12/06,昭和16/12/06 野村駐米大使宛てに、対米最終覚書が打電される。 1941/12/08,昭和16/12/08 日本時間午前3時19分(ホノルル時間7日午前7時49分)、日本軍がハワイ真珠湾空襲を開始する。日本時間午前4時、米英に宣戦布告の詔勅を発表し、太平洋戦争の開戦となる。 1941/12/08,昭和16/12/08 日本時間午前2時、日本軍がマレー半島へ上陸を開始する。1941/12/10,昭和16/12/10 日本軍が、マレー沖海戦でイギリスの主力艦のプリンス・オブ・ウェールズを撃沈する。 1941/12/13,昭和16/12/13 日本陸軍が香港の九竜半島を占領する。 1941/12/25,昭和16/12/25 香港のイギリス軍が日本軍に降伏する。 1941/12/16,昭和16/12/16 呉海軍工廠で戦艦大和が竣工する。 アメリカ1941/01/08,昭和16/01/08 アメリカが全艦隊を太平洋・大西洋・アジアの3地域に編成替えする。1941/02/11,昭和16/02/11 アメリカのルーズベルト大統領が、日米戦が始まってもイギリスへの援助は変らないと言明する。1941/02/15,昭和16/02/15 イギリス、アメリカ、オーストラリア、オランダが、太平洋防衛に関する4ヵ国会議を開く。 1941/05/09,昭和16/05/09 アメリカが中国に武器貸与法を適用する。1941/05/27,昭和16/05/27 ルーズベルト大統領が、国家非常事態・臨戦体制を宣言する。 1941/07/25,昭和16/07/25 アメリカ政府が、日本の南部仏印進出への報復措置として、在米日本資産の凍結令を公布する。1941/08/09,昭和16/08/09 チャーチルとルーズベルトの大西洋上の会談が始まる。 1941/08/12,昭和16/08/12 ルーズベルト大統領とチャーチル首相が大西洋憲章に合意し会談を終る。1941/10/02,昭和16/10/02 アメリカが日本に対して強硬な「覚書」を提示する。 欧州1941/02/06,昭和16/02/06 エルヴィン・ロンメル将軍がドイツ・アフリカ軍団(DAK)の総司令官に就任する1941/02/11,昭和16/02/11 ドイツ空軍がスエズ運河を空爆する。1941/03/20,昭和16/03/20 駐米ソ連大使が、アメリカ政府からバルバロッサ作戦の情報を入手する。 1941/03/31,昭和16/03/31 ロンメが最初の攻勢に出て一挙のキレナイカのイギリス軍を駆逐する。 1941/04/16,昭和16/04/16 ドイツ空軍がロンドンに対して猛烈な無差別爆撃を加える。 1941/07/03,昭和16/07/03 スターリンが、独ソ戦を大祖国戦争と規定し、パルチザン戦をラジオで呼びかける。 1941/07/21,昭和16/07/21 ドイツ軍が初めてモスクワを爆撃する。 1941/09/08,昭和16/09/08 レニングラードがドイツ軍に包囲される。1941/09/30,昭和16/09/30 ドイツ軍がモスクワ攻略作戦を開始する。 1941/10/25,昭和16/10/25 モスクワ周辺に大雪が降る。 1941/10/27,昭和16/10/27 ソ連軍がモスクワ周辺で反撃に出る。 1941/12/17,昭和16/12/17 ヒトラーがソ連の総攻撃に対し、死守命令を出す。 1941/12/20,昭和16/12/20 ゲッベルスが東部戦線の将兵のための冬期衣類の寄付を呼びかける。
September 26, 2017
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欧州での英仏対独逸 との緒戦は海上での戦いに始まり 1940(昭和15)/04/08,遠くノルウェー北部のトロンヘイム峡湾で、イギリス駆逐艦グローウォームがナルヴィクへ向かうドイツ艦隊と遭遇し、重巡洋艦ヒッパーと衝突して沈没する事件から始まった様だ。同日 北海で、ポーランドの潜水艦オーゼルが、ドイツ兵員輸送船リオデジャネイロを撃沈するや、04/09 ベルゲン沖でドイツ空軍機がイギリスの駆逐艦1隻を撃沈。 対して4/10 ノルウェー ベルゲン湾で、イギリス海軍機がドイツの軽巡洋艦ケーニヒスベルクを撃沈し、04/13 イギリス艦隊の戦艦ウォースパイトと駆逐艦9隻が、ノルウェー 北端ナルヴィク峡湾のドイツ駆逐艦8隻とUボート1隻を撃沈。 04/13 アメリカのルーズベルト大統領が、ドイツのデンマークとノルウェー侵攻に対する抗議の公式声明を出する中、04/27 ドイツがノルウェーに宣戦布告し、04/30 ノルウェー国王がイギリスの巡洋艦グラスゴーでモルドから脱出、05/05 ロンドンで亡命政府を樹立した。更に 05/10 ドイツ軍は破竹の勢いでルクセンブルク、オランダ、ベルギーに侵入。05/13 オランダ女王と政府が、ロンドンで亡命政府を樹立。05/29 ベルギー国王レオポルド3世もロンドンに亡命。たちまち欧州の東部戦線側はナチス独逸軍が占領した。西部戦線でも ドイツ軍は 05/14マジノ線を突破してフランスに侵攻。06/04 イギリス、フランスを中心とした連合軍はドイツ軍に追い詰められてダンケルクから命からがら撤退したが、その撤収総数は33万8226人、4万人がドイツ軍の捕虜となり、連合軍はボロ負け状態であった。(・・処で2017年9月9日公開の歴史大作『ダンケルク』は。クリストファー・ ノーランが監督、トム・ハーディが主演。アカデミー賞®最有力!全米興収ランキング2週連続NO.1!本年度是非とも 観てみたい映画・・)イギリスではチェンバレン首相が辞任し、05/10チャーチル挙国一致内閣が成立するや、06/07 挨拶代わりに イギリス空軍がベルリンを初めて空襲した。一方 イタリアは 頃はよしと ヒトラーとの密約により06/10 イギリス・フランスに宣戦布告。同じ日 アメリカのルーズベルト大統領が中立を放棄し、非交戦主義に移ると演説、いよいよ第二次世界大戦の幕開けとなった。06/14 ドイツ軍がパリに無血入城し、フランス政府はボルドーに移転、ドイツに和を乞うためのペタン内閣が成立した。07/10 ドイツ空軍がイギリスへの空襲を開始し。 07/12 イギリスのウェールズ、スコットランド、イングランド南西部を爆撃、更には08/13 長距離砲でフランス海岸からイギリス本土へ砲撃を開始した。英国空軍はこれに対抗し、08/16 空軍の150機の爆撃機がドイツ、オランダを爆撃する等 戦いは熾烈化していった。 イタリア軍は09/13 エジプトへの侵攻を開始するも 補給の不備か 9/18 前進を停止。10/28 にはイタリア軍がギリシアに侵攻するも 逆に11/14 ギリシャ軍からアルバニアに撃退させられる始末。12/09 にはウェイヴェル将軍のイギリス軍からの攻撃で、エジプト・リビアでイタリヤ軍は早くも敗北し撤退した。 その間 、コゼルスク監獄に収監中のポーランド将校をカチンの森で 04/05 銃殺刑に処したソ連は 06/17 バルト3国に進駐し、リトアニアで新政府を成立させたが、当時連戦連勝のヒトラーは これに不快を覚え 07/21 陸軍総司令部の会議でソ連侵攻の意図を通達。11/25ベルリンにて秘密交渉するも ソ連モロトフ外相が3国同盟加入の提案に条件を提示。結果 独ソ交渉が決裂。12/18 ヒトラーはソ連を攻撃する極秘指令(バルバロッサ作戦)を発令した。 独逸国内では02/12 ポーランド総督府へのユダヤ人移送が開始され、04/27 ナチスSS司令官のハインリッヒ・ヒムラーが、ポーランド・オシヴィエンチムの湿地にアウシュヴィッツ強制収容所建設を命令、ヘスが責任者に就任し、11/16 までに、ワルシャワのゲットーにユダヤ人36万人を強制収容した。 日本では01/14 阿部信行内閣が総辞職し、01/16 米内光政内閣が成立。02/02 衆議院本会議で質問に立った民政党の斎藤隆夫が日中戦争の処理を厳しく追及する演説を行うも(反軍演説事件)。斎藤隆夫は3月17日議員除名処分になった。欧州大戦での米英仏の隙を伺う如く 05/31 日本軍は中国南東部への戦略爆撃を開始し、06/06 陸軍機が重慶を爆撃。また06/21 独逸傀儡政権の フランスペタン新政府が、日本が求める仏印と中国の国境封鎖などに同意すると回答するや 08/30 松岡外相とアンリ駐日仏大使間で松岡・アンリ協定が成立し、北部仏印への日本軍の進駐が受諾され、 09/23 日本軍は北部仏印(フランス領インドシナ)に進駐した。 これら日本の挙動を不快に思う米国ルーズベルト大統領は07/05 鉱物、化学製品、飛行機部品の対日輸出停止を発表。続けて07/26 アメリカ政府は航空用ガソリンの対日輸出停止を発表。更には10/16 アメリカは、屑鉄と鋼鉄の対日輸出を禁止した。(・・この辺りのアメリカの主導政策は、現在の北朝鮮政策に ほぼ同じ・・)7/16 米内内閣が総辞職し、07/22 第2次近衛文麿内閣が成立し。陸相には東条英機が就任。戦時色の益々強くなった内閣は 勝ち馬に乗るが如く09/27 ベルリンで日独伊三国同盟条約に調印し、10/04 近衛首相は「最悪の場合、対米戦もやむなし」と発言。国会では10/12 大政翼賛会の発会式が行われ、そんな中で11/10 「紀元二千六百年記念式典」が両陛下臨御の栄えの元、宮城前の式場で4万9017人が参列し開催され、日本国内外でも大々的に奉祝行事が執り行われた。 新聞は奉祝一色の紀元二千六百年(昭和15年11月11日付け)大阪毎日新聞 臨時夕刊 米国1940/01/03,昭和15/01/03 アメリカのルーズベルト大統領が、参戦のための国防予算を要求し、国防費18億3900万ドルを計上する。昭和15/01/12 アメリカが、150隻の海軍拡張計画のビンソン案を決定する。 1940/01/04,昭和15/01/04 アメリカが錫、屑鉄の対日輸出を前年の半額に制限する。 1940/02/17,昭和15/02/17 アメリカのウェルズ国務次官が平和の可能性打診のため、イギリス、ドイツ、フランス、イタリアを訪問する。しかし成果なし。1940/03/02,昭和15/03/02 ヒトラーがアメリカ国務次官サムナー・ウェルズと会談する。 1940/03/07,昭和15/03/07 アメリカが、蒋介石政権に対して錫を担保として2000万ドルの借款を供与する。 1940/05/16,昭和15/05/16 ルーズベルト大統領が、議会に年間5万機の飛行機生産と9億ドルの非常支出を求める。1940/09/09,昭和15/09/09 アメリカで52億5100万ドルの国防予算の追加が成立する。 1940/12/29,昭和15/12/29 ルーズベルト大統領が「アメリカは民主主義国の兵器工廠となろう」との炉辺談話を発表する。日本昭和15/01/10 モスクワで日ソ通商会議が開始される。1940/01/14,昭和15/01/14 阿部信行内閣が総辞職する。昭和15/01/16 米内光政内閣が成立する。1940/02/02,昭和15/02/02 衆議院本会議で質問に立った民政党の斎藤隆夫が日中戦争の処理を厳しく追及する演説を行う(反軍演説事件)。斎藤隆夫は3月17日議員除名処分になる。1940/02/11,昭和15/02/11 紀元2600年の紀元節。 1940/02/11,昭和15/02/11 朝鮮総督府が2つの制令を施行し、日本式の家族制度を朝鮮人に強要する創氏改名を開始する。1940/03/30,昭和15/03/30 日本政府の支援を得て、南京に汪兆銘を中心とする新中央政府が成立する。 1940/05/31,昭和15/05/31 日本軍が中国南東部への戦略爆撃を開始する。1940/06/06,昭和15/06/06 陸軍機が重慶を爆撃する。1940/06/09,昭和15/06/09 ノモンハン国境確定交渉が成立する。1940/06/21,昭和15/06/21 フランス新政府が、日本が求める仏印と中国の国境封鎖などに同意すると回答する。1940/06/29,昭和15/06/29 有田外相が「大東亜共栄圏」確立を公式に表明する。1940/07/05,昭和15/07/05 ルーズベルト大統領が鉱物、化学製品、飛行機部品の対日輸出停止を発表する。 1940/07/16,昭和15/07/16 米内内閣が総辞職する。1940/07/22,昭和15/07/22 第2次近衛文麿内閣が成立する。陸相には東条英機が就任する。1940/07/24,昭和15/07/24 海軍が、零戦を正式に採用する。1940/07/26,昭和15/07/26 アメリカ政府が航空用ガソリンの対日輸出停止を発表する。 1940/07/27,昭和15/07/27 大本営政府連絡会議が、「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定する。武力南進の方針が具体化される。 1940/08/30,昭和15/08/30 松岡外相とアンリ駐日仏大使間で松岡・アンリ協定が成立し、北部仏印への日本軍の進駐が受諾される。1940/09/23,昭和15/09/23 日本軍が北部仏印(フランス領インドシナ)に進駐する。 1940/09/26,昭和15/09/26 アメリカのルーズベルト大統領が屑鉄輸出禁止を宣言する。1940/10/16,昭和15/10/16 アメリカが、屑鉄と鋼鉄の対日輸出を禁止する。 1940/09/27,昭和15/09/27 ベルリンで日独伊三国同盟条約に調印する。 1940/10/04,昭和15/10/04 近衛首相が「最悪の場合、対米戦もやむなし」と発言する。 1940/10/12,昭和15/10/12 大政翼賛会の発会式が行われる。 1940/11/10,昭和15/11/10 「紀元二千六百年記念式典」が宮城前の式場で開催される。4万9017人が参列する。 欧州1940/03/18,昭和15/03/18 ヒトラーとムッソリーニがブレンナー峠で会談し、ムッソリーニが大戦でドイツ側に参加することを約束する。1940/04/03,昭和15/04/03 チャーチルがイギリス国防会議議長に就任する。 1940/04/08,昭和15/04/08 トロンヘイム峡湾で、イギリス駆逐艦グローウォームがナルヴィクへ向かうドイツ艦隊と遭遇し、重巡洋艦ヒッパーと衝突して沈没する。 1940/04/08,昭和15/04/08 北海で、ポーランドの潜水艦オーゼルが、ドイツ兵員輸送船リオデジャネイロを撃沈する。1940/04/09,昭和15/04/09 ベルゲン沖でドイツ空軍機がイギリスの駆逐艦1隻を撃沈する。 1940/04/10,昭和15/04/10 ベルゲン湾で、イギリス海軍機がドイツの軽巡洋艦ケーニヒスベルクを撃沈する。 1940/04/13,昭和15/04/13 第2次ナルヴィク海戦。イギリス艦隊の戦艦ウォースパイトと駆逐艦9隻が、ナルヴィク峡湾のドイツ駆逐艦8隻とUボート1隻を撃沈する。 1940/04/13,昭和15/04/13 アメリカのルーズベルト大統領が、ドイツのデンマークとノルウェー侵攻に対する抗議の公式声明を出す。1940/04/27,昭和15/04/27 ドイツがノルウェーに宣戦布告する。 1940/04/30,昭和15/04/30 ノルウェー国王がイギリスの巡洋艦グラスゴーでモルドから脱出し、トロムセを経てロンドンに着く。 1940/05/05,昭和15/05/05 ノルウェー国王がロンドンで亡命政府を樹立する。1940/05/01,昭和15/05/01 ヒトラーが西部線戦攻撃開始を指令する。1940/05/10,昭和15/05/10 イギリスでチェンバレン首相が辞任し、チャーチル挙国一致内閣が成立する。1940/05/10,昭和15/05/10 ヒトラーが「ダンチヒ」と打電する。ドイツ軍がルクセンブルク、オランダ、ベルギーに侵入する。1940/05/13,昭和15/05/13 オランダ女王と政府が、ロンドンで亡命政府を樹立する。1940/05/29,昭和15/05/29 ベルギー国王レオポルド3世がロンドンに亡命する。1940/05/14,昭和15/05/14 ドイツ軍がマジノ線を突破してフランスに侵攻する。 1940/05/27,昭和15/05/27 英仏軍がダンケルクを撤退する。1940/06/04,昭和15/06/04 イギリス、フランスを中心とした連合軍がドイツ軍に追い詰められてダンケルクからの撤退を完了する。撤収総数は33万8226人、4万人がドイツ軍の捕虜となる。 1940/06/07,昭和15/06/07 ベルリンが初めて空襲される。1940/06/10,昭和15/06/10 イタリアがイギリス・フランスに宣戦布告する。 1940/06/10,昭和15/06/10 アメリカのルーズベルト大統領が中立を放棄し、非交戦主義に移ると演説する。1940/06/14,昭和15/06/14 ドイツ軍がパリに無血入城する。フランス政府はボルドーに移転する。1940/06/16,昭和15/06/16 フランスでドイツに和を乞うためのペタン内閣が成立する。 1940/06/28,昭和15/06/28 ムッソリーニがリビアのイタリア軍にエジプト侵攻を命令する。 1940/07/10,昭和15/07/10 ドイツ空軍がイギリスへの空襲を開始する。 昭和15/07/12 ドイツ空軍がウェールズ、スコットランド、イングランド南西部を爆撃する。。1940/08/08,昭和15/08/08 ドイツ空軍が、イギリス本土昼間攻撃を開始する。 1940/08/13,昭和15/08/13 ドイツが、長距離砲でフランス海岸からイギリス本土へ砲撃を開始する。1940/08/16,昭和15/08/16 イギリス空軍の150機の爆撃機がドイツ、オランダを爆撃する。 1940/09/13,昭和15/09/13 イタリア軍がエジプトへの侵攻を開始する1940/09/18,昭和15/09/18 北アフリカのイタリア軍が前進を停止する。1940/10/02,昭和15/10/02 イギリス海軍が東地中海を制圧する。1940/10/16,昭和15/10/16 イギリス空軍がドイツの軍港キールを爆撃する。1940/10/25,昭和15/10/25 イギリス空軍がベルリン、ハンブルクを爆撃する。 1940/10/28,昭和15/10/28 イタリア軍がギリシアに侵攻する。1940/11/04,昭和15/11/04 ギリシャ軍がイタリア軍に対して反撃に転ずる。 1940/11/14,昭和15/11/14 ギリシャ軍がイタリア軍をアルバニアに撃退する。1940/12/09,昭和15/12/09 ウェイヴェル将軍のイギリス軍が、エジプト・リビアで勝利する。 ソ連1940/04/05,昭和15/04/05 ソ連の国家秘密警察が、コゼルスク監獄に収監中のポーランド将校をカチンの森で銃殺刑に処する。1940/06/17,昭和15/06/17 ソ連軍がバルト3国に進駐し、リトアニアで新政府を成立させる。 1940/07/21,昭和15/07/21 ヒトラーが陸軍総司令部の会議でソ連侵攻の意図を通達する1940/11/25,昭和15/11/25 ソ連が3国同盟加入の提案に条件を提示する。独ソ交渉が決裂する1940/12/18,昭和15/12/18 ヒトラーがソ連を攻撃する極秘指令(バルバロッサ作戦)を発する。ユダヤ1940/02/12,昭和15/02/12 ドイツ本土からポーランド総督府へのユダヤ人移送が開始される。1940/04/27,昭和15/04/27 ナチスSS司令官のハインリッヒ・ヒムラーが、ポーラMド・オシヴィエンチムの湿地にアウシュヴィッツ強制収容所建設を命令する。 ヘスが、ポーランドのアイシュヴィッツ強制収容所の責任者に就任する。1940/11/16,昭和15/11/16 ナチスが、ワルシャワのゲットーにユダヤ人36万人を強制収容する。
September 25, 2017
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1937(昭和12)/06/04に成立した近衛文麿内閣は ここ一年間 あれこれと日支事変不拡大に努力するかと思えば、その割に 軍派遣承認など政策がぶれまくり、陸軍の暴走を抑える事が出来ず結果1939(昭和14)/01/04,内閣は総辞職、翌日 平沼騏一郎内閣が成立したが、 首相の首をすげかえただけの内閣では抑えのきかぬ軍の独断作戦は続き 02/10 日本軍が広東省西の海南島に上陸するなど 戦線は拡大するばかりであった。更には昭和14/05/11 満州国とモンゴル人民共和国の国境ノモンハンで、満州国軍と外蒙軍が衝突。これが所謂ノモンハン事件の発端となり 06/27 関東軍がこれも独断でモンゴル領内のタムスクを爆撃するも、この間 何度も攻撃に失敗し、08/20 ソ連・モンゴル軍が本格的にノモンハンで重装備の機械化部隊で総攻撃を開始し、関東軍第23師団、第7師団が壊滅。 関東軍は壊滅的な大打撃を喫することとなっていった。(しかし皇軍勝利に慣れさせられた国民に 軍はこの重大な負け戦は機密扱いとし、これを報ずる新聞は一切存在しなかった。)同年末の12/08 には昭和15年度予算概算が決定したが、その内軍事費は64%にもなっていた。 一方 欧州では 前年の1938(昭和13)/03/13,ヒトラーがウィーンに入り、オーストリアのドイツへの併合を宣言。更に対チェコ侵略作戦を指示し、 09/15 ベルヒテスガーデンで、仲介のイギリスのチェンバレン首相がヒトラーと会談した際 ヒトラーはズデーテン割譲を要求、遂には 1938(昭和13)09/29 イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの首脳がミュンヘン協定を結び、チェコのズデーテン地方をドイツに割譲することに同意した。 これにすっかり味を占めたヒトラーは この年1939(昭和14) 03/21 ドイツ系住民が多い ポーランドを挟み飛び地状態の旧ドイツ帝国領プロイセンへのダンチヒとポーランド回廊の割譲を要求 拒否されると それを口実に08/31 ヒトラーが電撃的にポーランド攻撃を命令し、軍事行動に突入すると、 流石にたまりかねた イギリス、フランスは1939(昭和14)/09/02,ドイツに宣戦布告。ここに欧州では第2次世界大戦に突入することとなった。新聞は1939(昭和14)09/04 付け 東京日日新聞 で これが当時の商品市況 日支事変に与える影響や、その折は中立を装うアメリカやイタリアの思惑の解説、 又国内に住む英国・ドイツ人の動向を詳しく伝え、結構面白い構成となっている。1939/01/15,昭和14/01/15 双葉山が阿芸ノ海に敗れ、69連勝でストップする。 1939/02/10,昭和14/02/10 日本軍が広東省西の海南島に上陸する。 1939/02/23,昭和14/02/23 理化学研究所の仁科芳雄研究室に世界最大級のサイクロトロンが設置される1939/03/20,昭和14/03/20 大学での軍事教練が必須科目になる。1939/04/01,昭和14/04/01 岐阜県各務原飛行場で、「海軍十二試艦上戦闘機」の試作第1号機の試験飛行が行われる。後の「零式艦上戦闘機(ゼロ戦)」の試作1号機。 1939/07/05,昭和14/07/05 空母「飛竜」が竣工する。 1939/07/06,昭和14/07/06 零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の試作機が試験飛行を行う。1939/08/26,昭和14/08/26 羽田発ニッポン号が世界一周飛行。 1939/04/26,昭和14/04/26 関門海底トンネルが貫通する。1939/05/11,昭和14/05/11 満州国とモンゴル人民共和国の国境ノモンハンで、満州国軍と外蒙軍が衝突する(ノモンハン事件の発端)。 1939/06/27,昭和14/06/27 関東軍が、独断でモンゴル領内のタムスクを爆撃する。1939/07/01,昭和14/07/01 日本軍がノモンハンで攻撃を開始する。 1939/07/03,昭和14/07/03 日本軍のノモンハンでの攻撃が失敗する1939/07/24,昭和14/07/24 日本軍のノモンハン攻撃が再度失敗する1939/08/20,昭和14/08/20 ソ連・モンゴル軍がノモンハンで総攻撃を開始する。関東軍第23師団、第7師団が壊滅する。 1939/08/23,昭和14/08/23 ノモンハンで、ソ連軍が総攻撃を開始し、関東軍が壊滅的な大打撃を喫する。1939/07/28,昭和14/07/28 内務省と厚生省が「朝鮮人労務者内地移住に関する件」を通牒し、朝鮮人強制連行が始まる。1939/08/30,昭和14/08/30 阿部信行内閣が成立する。 1939/08/30,昭和14/08/30 山本五十六中将が連合艦隊司令長官に就任する。 1938/02/21,昭和13/02/21 イギリスのイーデン外相が、チェンバレン首相のイタリアに対する妥協政策に抗議して辞任する。1938/03/13,昭和13/03/13 ヒトラーがウィーンに入り、オーストリアのドイツへの併合を宣言する。1938/05/30,昭和13/05/30 ヒトラーが対チェコ侵略作戦を指示する。 1938/09/12,昭和13/09/12 ヒトラーがナチス党大会でチェコ領ズデーテン地方合併を要求する。 1938/09/15,昭和13/09/15 ベルヒテスガーデンで、イギリスのチェンバレン首相がヒトラーと会談する。ヒトラーはズデーテン割譲を要求する。 1938/09/18,昭和13/09/18 イギリス首相チェンバレンがチェコのベネシュ大統領と会談し、ズデーテンのドイツ併合とソ連との同盟破棄を提案する。ベネシュは拒否する。 1938/09/29,昭和13/09/29 イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの首脳がミュンヘン協定を結び、チェコのズデーテン地方をドイツに割譲することに同意する。1939/03/15,昭和14/03/15 ヒトラーに威されたチェコ大統領ハーハがチェコをドイツ総統の手に委ねるという声明文に署名する。ドイツ軍がプラハを占領する。1939/03/21,昭和14/03/21 ドイツがポーランドにダンチヒとポーランド回廊の割譲を要求する。 1939/03/23,昭和14/03/23 ドイツ軍がリトアニアのメーメル港に上陸する。メール地方を占領し併合する。 1939/03/23,昭和14/03/23 ルーマニアがドイツとの経済協力により枢軸側に傾斜する。 1939/03/26,昭和14/03/26 ポーランドがドイツの領土割譲要求を拒絶する。 1939/03/31,昭和14/03/31 イギリスのチェンバレン首相が、イギリス・フランスの対ポーランド援助を保障する。1939/05/22,昭和14/05/22 ドイツ・イタリア軍事同盟が調印される。 1939/05/23,昭和14/05/23 ヒトラーがポーランド攻撃の意志を表明する。 1939/08/25,昭和14/08/25 イギリスとポーランドの相互援助条約が締結される。 1939/08/29,昭和14/08/29 ドイツが、イギリスの申し入れに対してダンチヒ・ポーランド回廊の割譲要求を繰り返す。 1939/09/01,昭和14/09/01 ダンチヒのナチス指導者フォルスターがドイツとの併合を宣言する。 1939/08/30,昭和14/08/30 スイスが中立を宣言する。 1939/09/01,昭和14/09/01 スイスで総動員令が出され、42万人が兵役につく。 1939/08/31,昭和14/08/31 ヒトラーがポーランド攻撃を命令する。 1939/09/02,昭和14/09/02 イタリアが中立を宣言し、5国会議を提案する。イギリスは拒否する。 1939/09/02,昭和14/09/02 イギリス、フランスがドイツに宣戦布告する。 1939/09/03,昭和14/09/03 2日前にポーランドへ侵攻したドイツに対してイギリスとフランスが宣戦布告し、第2次世界大戦に突入する。1939/12/08,昭和14/12/08 昭和15年度予算概算が決定する。軍事費は64%になる。・・読者各位へ・・H氏 私事都合で帰郷の為 明日より数日間休稿します。悪しからず
September 22, 2017
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各新聞の論調は 前年12月の南京城陥落あたりから がらりと皇軍万歳 大勝利の報道ばかりに変わった。1938(昭和13)/01/16, 第1次近衛声明を発表し、対中国への和平交渉打ち切りを通告するや この年の日本の新聞は 既に支那事変での皇軍の無敵振りの経過や推移の掲載一辺倒となっていった。04/01 国民個人に対する強力な権限を政府に与える「国家総動員法」が公布され、05/01 重要産業統制令改正が実施され、自動車のガソリンが切符制になり、「ガソリン1滴は血の1滴」の標語も登場し、国民の生活は益々窮屈となっていったが、寧ろ我慢するのは国民として当然の義務で、論調は前戦で命がけの兵士・将校を称えるばかりとなっていた。 05/19 日本軍が徐州を占領し (写真1 大阪毎日新聞 5月18付け)08/22 大本営が漢口攻略作戦を発令するや 二ヶ月を要して10/27 日本軍が武漢三鎮を占領すると (写真2 大阪毎日新聞 10月28付け) 国内外の日本人社会は狂喜乱舞し 全国で奉祝行事の提灯行列や神社参拝、武漢陥落記念絵葉書やスタンプが発行された。軍への献金や万歳々々の祝一式の記事に埋まり、更には大陸行進曲の発表行事や小国民体育会、 社説にも 皇軍感謝の文字が踊るばかりで、そこから泥沼の如く続く戦争の幕開けを心配する文言はわずかに「長期建設 締めよ冑の緒」と付け足しに記載あるのみであった。それはオリンピックで わが国の勝利を単純に国威高揚と喜ぶ国民の姿と重なり、現代の卑近な例で言えば、2017年ブタペスト世界柔道選手権大会で団体戦を含め、男女合わせて9つの金メダルを獲得した折と変わらぬ有様。 其処には 無数の彼我の生命や文化や財産の消滅する戦争の悲惨さに思い至るかけらも見受けられないのは 当時としては止むを得ない事実でもあろうか・・・どこまでも広い大陸に攻め込み、拡大するばかりの戦線で 敵主力が放棄した点在する都市群を陥落占領した程度で、何ゆえ ここまで狂喜乱舞するのか 後世に生きる我々には理解しがたい事。一体 往時の日本の他国侵略政策の錯誤と朝鮮・中国への蔑視は何処から始ったのだろか・・ それは明治維新後 各列強国の植民地主義へ対抗する富国強兵策はまだしも、ロシヤからの脅威を意識し始めて鬱勃として起こった所謂「征韓論」でのボタンの掛け間違い(平和裡解決を意図した西郷は野に下り、朝鮮の自主建国を目指した福沢の企画は潰される)から 始ったのであろう・・近世史をざっと振り返れば、江戸期は将軍の代替わり毎に往来した朝鮮通信使を鄭重にもてなしていたのに、日本の明治維新後も宗主国 清国に忠誠を誓い 鎖国政策を取る朝鮮にこだわる余り、征韓論が起こり ひいては朝鮮に介入し、それが日清戦争の遠因となり、その権益を守る為 日露戦争となり、あまつさえ第一次大戦で手に入れた山東半島や遼東半島の権益を拡大解釈し満州国を立ち上げ、その又権益を守る為、中国北支周辺に兵を入れ、それが支那軍・民を刺激し、ずるずると戦線拡大した結果 長びく日中戦争(支那事変)と為ったわけだが・・、「四方の海 皆同胞と思うだに・・」 の明治天皇の歌の意を忖度する見識や人材を 残念ながら日本世論が持つあたわず、日本国の矜持を立て直す機会を どの段階かで見いだせぬままの神国選民意識がなせる 往時の日本の不遜さであろうか・・ 又、元来軍律厳しい筈の日本皇軍の矜持はどの辺りから崩れていったのか・・それはいみじくも、広大な中国 南京城陥落時、中国蔑視のあまり 弱体であった当時の中国(支那)軍の多数の敗残兵や 便衣隊(スパイ)と日本軍が認定した婦女子を含む一般民の始末に困り、日本人が本来持つ矜持を亡くした皇軍の虐待行動から崩れ始めたといえるのでは・・ 結果論だが 国を富ましめる物欲は拘りすぎると、矜持を忘れた嫌味な成金そのままの理屈で 自国(自分)にのみ通用する正論を振りかざして他人の家に上がり込み、異邦人を苦しめ、恨みを買い、結果 後々自国(自分)も地獄に落ちてゆく真実こそ、歴史を振り返る際、決して繰り返し、忘れてはならぬ平和日本の原点が見えてくる。1938/01/03,昭和13/01/03 女優の岡田嘉子が、新協劇団演出家の杉本良吉とともに、樺太で日ソ国境を越えソ連に亡命する。1938/02/05,昭和13/02/05 マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』が刊行される。1938/04/21,昭和13/04/21 大阪市営地下鉄の梅田-天王寺間が全通する。1938/10/30,昭和13/10/30 アメリカでラジオドラマ「火星人の襲来」を放送する。ニュースと間違えた聴取者がパニックを起こす。1938/01/16,昭和13/01/16 第1次近衛声明を発表し、対中国への和平交渉打ち切りを通告する。 1938/03/11,昭和13/03/11 ヒトラーがオーストリア侵入を指令する。1938/03/13,昭和13/03/13 ヒトラーがウィーンに入り、オーストリアのドイツへの併合を宣言する。1938/03/16,昭和13/03/16 衆議院本会議で社会大衆党の西尾末広が、「ヒトラーの如く、スターリンの如く大胆に」と近衛首相を激励し、問題となる。1938/04/01,昭和13/04/01 国民個人に対する強力な権限を政府に与える「国家総動員法」が公布される。 1938/05/01,昭和13/05/01 重要産業統制令改正が実施される。自動車のガソリンが切符制になり、「ガソリン1滴は血の1滴」の標語も登場する。 1938/05/03,昭和13/05/03 ヒトラーがムッソリーニを訪問し、ドイツ・イタリア両国の同盟を誓う。1938/05/19,昭和13/05/19 日本軍が徐州を占領する。 1938/06/03,昭和13/06/03 杉山元が陸相を辞任し、後任に板垣征四郎が就任する。1938/08/22,昭和13/08/22 大本営が漢口攻略作戦を発令する。 1938/10/27,昭和13/10/27 日本軍が武漢三鎮を占領する。1938/11/03,昭和13/11/03 第2次近衛声明が発表される。日本の戦争目的は東亜新秩序にある、というもの。1938/12/31,昭和13/12/31 アメリカが、日本が提案した東亜新秩序構想に抗議する。
September 21, 2017
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前年の昭和11/11/07に、今に残る 帝国議会新議事堂(国会議事堂)が落成したが議会政治の建物や器は出来ても 議会での審議は相変わらず「統帥権は政府の政略主導より独立」を楯に取る軍の政治介入で惨憺たる状況だった。1937(昭和12)/01/21, 衆議院本会議で、政友会の浜田国松が軍の政治介入を鋭く批判すると、陸相が侮辱と発言したため「侮辱あれば割腹」と追及し、軍と政党の対立が深まり、議会は二日間停会した。 ( 写真一上部 東京日日新聞 1月22日 半切 )その収拾もつかぬまま、従前よりの政党政治の腐敗による国民の政治家不信などにより政情が不安定化していた折でもあり、01/23広田内閣が総辞職。 01/25 大正14年(1925年)、加藤内閣の陸軍大臣であったときに内閣の方針に協力し、軍縮に成功した予備役・陸軍大将 宇垣一成の手腕を高く評価していた元老・西園寺公望などに所望され、軍部に抑えが利く人物として宇垣が総理大臣に推挙されたが、陸軍が陸相推薦を拒否したため組閣を断念した。 (写真 一下部 東京日日新聞 1月30日半切 )02/02 同じく予備役の陸軍大将で、石原莞爾大佐ら軍部内革新派からは 組みし易しと見られた林銑十郎が後任首相となるも その内閣の顔ぶれは、政党出身の閣僚が皆無の軍官連立内閣であった。それもつかの間、3月末、林内閣は 突然衆議院の解散・総選挙に踏み切った。昭和12年度の予算はその前日に成立していたため解散の理由がなく、「食い逃げ解散」と評され、国民からは「何にもせんじゅうろう内閣」と揶揄された。<・・・処で現代の話・・ 「仕事人内閣」と名付けた安倍晋三総理が急遽解散するそうだが、今回世評はこの解散及び内閣を どう名付けるのだろうか??「何にも仕事せんまゝ内閣」はなんとなく頷けるが「xx解散」は候補が色々あり過ぎて・・・>林銑十郎首相の本心は元々暫定政権のつもりで、「政治正常化という課題を早く片付けて後は玄人に譲りたい」と、側近に漏らしていたらしく「玄人」とは近衛文麿を指すとされるが 05/31 林銑十郎内閣が総辞職。先代の広田弘毅内閣から続く政局の混乱に 国民は新世代の出現を願い、06/04 後継の近衛文麿内閣が国民の期待の基に成立した。しかし その期待とは裏腹に、早くも07/07 北京郊外の蘆溝橋附近で数発の銃声がとどろき(蘆溝橋事件)。前日の蘆溝橋事件に端を発し、日中両軍が衝突し 日中戦争の始りとなった。(写真 二上部 東京日日新聞 7月9日半切 )7月9日には、不拡大方針を閣議で確認。停戦協定が締結されたにもかかわらず、内地 三個師団を派兵する「北支派兵声明」を発表、一方 国民政府と和平交渉するも軍部に邪魔をされるとそれを不問にするなど ずるずると戦局の拡大に応ずる優柔不断な政策をとり、8月15日には、海軍による南京に対する渡洋爆撃を実行し、同時に、「今や断乎たる措置をとる」の声明を発表。遂に12月上旬 日本軍が南京総攻撃を開始 (南京事件)「支那事変」は長期化全面戦争となった。(写真二 下部 大阪毎日新聞12月8日 半切 )1937/03/08,昭和12/03/08 政府が、海軍補充計画予算を可決する。5ヵ年で戦艦「大和」「武蔵」など66隻の建造と航空力を強化することを決める。1937/11/04,昭和12/11/04 呉工廠で戦艦「大和」が起工となる。1937/04/03,昭和12/04/03 満州国皇帝の弟の愛親覚羅溥傑(34)が、嵯峨公勝の孫娘嵯峨浩(24)と東京の軍人会館で結婚式を挙げる。1937/05/28,昭和12/05/28 政友会、民政党が林銑十郎内閣の即時退陣を要求する。1937/05/31,昭和12/05/31 林銑十郎内閣が総辞職する。 1937/06/04,昭和12/06/04 近衛文麿内閣が成立する。 1937/06/29,昭和12/06/29 アムール川で日ソ両軍が衝突する。 1937/07/07,昭和12/07/07 北京郊外の蘆溝橋附近で数発の銃声がとどろく(蘆溝橋事件)。 1937/07/08,昭和12/07/08 前日の蘆溝橋事件に端を発し、日中両軍が衝突する(日中戦争の始り)。1937/11/06,昭和12/11/06 日独防共協定にイタリアが参加する。1937/11/09,昭和12/11/09 閣議が、国家総動員法制定を決定する。1937/11/29,昭和12/11/29 関東軍参謀長の東条英機が、中国国民政府との絶縁と新中央政権の樹立を陸軍中央に上申する。 1937/11/29,昭和12/11/29 イタリアが満州国を承認する。1937/12/10,昭和12/12/10 日本軍が南京総攻撃を開始する(南京事件)。 1937/12/13,昭和12/12/13 日本軍が南京を占領する。南京大虐殺が起こる。 1937/04/06,昭和12/04/06 朝日新聞社の訪欧機が出発する。新記録を樹立する。1937/04/15,昭和12/04/15 ヘレン・ケラーが来日する1937/04/28,昭和12/04/28 第1回文化勲章の授与式が行われる。長岡半太郎、本多光太郎、木村栄、佐佐木信綱、幸田露伴、岡田三郎助、藤島武二、竹内栖鳳、横山大観が受章する。 1937/05/06,昭和12/05/06 ドイツの飛行船ヒンデンブルク号が、アメリカ・ニュージャージー州レークハースト海軍基地に係留直前の70メートル上空で爆発を起こし、35人の死者と40人の重軽傷者を出す。原因は雷が落ちて水素ガスに引火したためとされる。 1937/04/26,昭和12/04/26 スペイン、バスクの古都ゲルニカが、午後4時半から数時間にわたってドイツ空軍、イタリア機などに爆撃される。街の大半は破壊され、多数の市民が死傷する。
September 20, 2017
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暗い話題が続く そんな折、一般国民は この年 スポーツの話題で暗い世相の憂さを晴らした。1936(昭和11)/02/09,日本最初のプロ野球試合、東京巨人軍と名古屋金鯱軍戦が、名古屋の鳴海球場で行われ、金鯱軍が10-3で勝った。そして02/14 には巨人軍が2度目のアメリカ遠征に旅発った。1936(昭和11)/07/20, 史上初めてのオリンピック聖火リレーがアテネからベルリンに向け出発し、独逸は後にこの道筋を利用し、第二次世界大戦勃発後 欧州大陸蹂躪への道筋として利用した事は 余りにも有名。08/01 いよいよ第11回オリンピックのベルリン大会がヒットラー総統の開会宣言のもとに開催され08/05 オリンピック棒高飛びで、西田修平と大江季雄が2位と3位になり、08/06 三段跳びで田島直人が世界新で優勝、 08/09 マラソンでは、朝鮮の孫基禎が優勝した。又08/11 200メートル平泳ぎで前畑秀子が日本女性として初めてオリンピックで金メダルを獲得し、「前畑ガンバレ、前畑ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ・・・、勝った、勝った、勝った」のラジオの河西三省アナウンサーの絶叫アナウンスに国民が熱狂した。大阪毎日新聞は 開会式に遅れること 08/10の 表裏2面に全面写真入の号外で この世紀の祭典を伝え、08/22 には日比谷公園でオリンピック映画の映写会が開催されたが、 同紙の記事によれば、特派員が 開会式の翌08/02日 7時 写真とトーキーを抱いてベルリン飛行場を発ち、 モスクワよりシベリア鉄道で満州里まで運び チチハル・奉天・京城を経由 大阪練兵場まで 毎日新聞社機で空輸し、その距離の合計一万キロ(内空路5900キロ)を要した旨 それでも7日と18時間2分で届いたと 華々しく伝えており、現代とは隔世の感を覚える。ベルリンオリンピック開会式の前日の07/31には IOCが第12回オリンピックの開催地を東京に決定した旨も伝えられたが それは2年後に返上し、幻の東京五輪となった.....。昭和11/11/07 に、今に残る 帝国議会新議事堂(国会議事堂)が落成した。。②及び③は小倉局 初日スタンプ付の一銭五厘・・(煙草 CHERRYの帝国議事堂竣巧記念外箱上) 及び三銭の記念切手・・
September 19, 2017
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1936(昭和11)/01/28,前年8月に陸軍軍務局長 永田少将を刺殺した相沢中佐の公判が開かれた。それに呼応する如く、同年02/15,後に陸軍皇道派として2.26事件を起こす安藤と磯部が山下奉文少将を訪問したが、それとなく 決起の善後策が打ち合わせたのであろう・・02/20 には第19回衆議院議員選挙が行われ、政友会が惨敗し、民政党が第1党になり、無産派が普選実施以来最高の22議席を獲得した。そんな事には一切頓着せず、02/22 陸軍歩兵大尉 野中四郎が「蹶起趣意書」の原文を書き、その夜、栗原宅に磯部、河野、中橋、栗原、村中が会合し、襲撃目標、決行日時、兵力部署などを決定し、翌々 02/25 には 事件を起こす将校たちが「蹶起趣意書」を書き上げた 折りしも23日 東京地方に54年ぶりの大雪が降り、積雪は35.5センチに達していた。1936(昭和11)/02/26,未明と共に、雪を踏んで 陸軍皇道派将校が約1400名の兵を率いて岡田首相・陸相官邸、斉藤実内大臣私邸、統制派の渡辺錠太郎教育総監、警視庁、朝日新聞などを襲撃し、更に高橋是清蔵相らを殺害した。これが 俗に言う 2.26事件の発端である。翌27日 東京全市に戒厳令が布告され、①はそれを伝える2/27付け 大阪毎日新聞で 写真一枚、論評 一行すらなく、 陸軍省 戒厳司令部の発表を唯々 転載するのみで この先 どう転ぶか判らぬ時勢に戸惑う 当時の言論界の限界でもあろうか・・ 要人の動向で唯一つ判ることは、「弘前歩兵第三十一連隊に御勤務中の秩父宮殿下が けふ午後御帰京」 とあり 27日午前零時廿五分 弘前を御発されたことを記載している。 (どちらかといえば 皇道派決起軍の重要な動機である「天皇親政・統帥権絶対の実現」に理解を示す 天皇の弟君の秩父宮殿下は 今回の陸軍皇道派の意向を 急遽 直接天皇に伝える意思をお持ちだった様だ。)しかし、翌28日 林銑十郎 荒木貞夫 真崎甚三郎 阿部信行 寺内寿一 ら各大将らと叛乱将校代表5人が陸相官邸において会合し、「お前たちの行動は天皇の御耳にも達した ともかくも兵を引け」との甘い「陸軍大臣告示」帰順勧告もものかわ天皇は直ちに叛軍と断じ「今回のことは精神の如何を問わず不本意なり、国体の精華を傷つけるものと認む」とし 「速やかに暴徒を鎮圧せよ」と烈火のごとくお怒りになり、 「奉勅命令」(天皇が直接下す命令で反乱軍は軍隊に帰れという趣旨)が2.26事件の反乱将校たちに出される事となった。帝国陸軍の大幹部連は天皇の剣幕に恐れをなし、やむなく02/29戒厳指令部がラジオで原隊復帰の命令の「兵に告ぐ」を放送し、「勅命下ル軍旗ニ手向フナ」の字がアドバルーンによって掲げられた。(②は 03/01 付け の東京日日新聞の一面左部のコピー)蹶起趣意書を書いた野中四郎(34歳)は絶望し、その日に拳銃自殺、幸楽から山王ホテルに入った安藤隊の安藤大尉も自決し、首相官邸の中橋基明隊と陸相官邸の清原少尉は帰順した。同年 03/04 2.26事件のための東京陸軍軍法会議が開設され、03/09に亡き岡田首相の 後継に広田弘毅内閣が任命された。05/07 国会では民政党の斎藤隆夫が、衆院で「2.26事件」に関して粛軍演説を行い、軍部の責任を追及するも、軍幹部は知らぬ顔でその後も益々横柄となり、所詮 政界人の遠吠えに過ぎなかった07/03 前年永田軍務局長を軍刀で刺殺した相沢中佐が、代々木陸軍衛戍刑務所内で処刑され、続いて07/05東京陸軍軍法会議で2.26事件に判決が出。死刑判決は17名で、同年07/12 2.26事件の首謀者。 香田清貞(34)ら15名の死刑が執行された。 (ひょっとすると 先の 昭和7年の五一五事件の如き甘い判決を期待した軍人の向きには厳しい結審であったかも知れないが・・)一方 既に 同年01/15 日本はロンドン軍縮会議を脱退しており、09/21には日本海軍陸戦隊が漢口に上陸し、大陸もきな臭くなり 、12/31 にはワシントン海軍軍縮条約が失効。世界は各国の軍備拡張競争が強まる無条約時代へ突入していった。
September 18, 2017
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この年の科学的成果としては1935(昭和10)/02/02,大阪帝国大の湯川秀樹(28)が「素粒子の相互作用について」という論文を発表した。戦後の昭和24年のノーベル賞受賞に結びつく大発見である。更に1935(昭和10)11/13, 浜松高工教授の高柳健次郎が、アイコノスコープ式のテレビの送受信機を完成し公開実験を行った。政治問題としては昭和10/04/06 満州国皇帝の溥儀が来日し、昭和天皇は東京駅頭まで出迎え、国を挙げて大歓迎したが、その実、満州国の国政の実権は殆ど 日本軍が取り仕切る傀儡政権そのものであったのは 映画『ラストエンペラー』をご覧の如く。天皇機関説は学問的に記載したはずの美濃部達吉が昭和10/04/07 不敬罪で告発され、世は益々もの言えば唇寒き折、 軍部は血気盛んな青年将校らも含み 統制派(言わば 現実的な日本を見据えた指導派)と皇道派(問答無用派)にわかれ、内部抗争が激しくなっていたが、昭和10/08/12 陸軍きっての俊英と目される永田鉄山少将(陸軍軍務局長)が、皇道派の相沢三郎中佐(47)に軍刀で刺殺される事件が勃発した。新聞はその折昭和10/08/13付けの 東京日日新聞 で その片隅に 後任の軍務局長候補に 東条英機の名が挙げられている。永田鉄山少将は 長野県出身の英才で 陸軍士官学校を主席、陸軍大学を次席で卒業したが、所謂ガリ勉型ではなく、現在の中学や高校でも、たまに「超」の字のつくほど凄い秀才がいる。そんな生徒に限って、大して勉強しなくてもよく出来、友達つき合いもいい。畏敬もされるが、嫉まれもする。永田鉄山は、その手の超秀才だったようだ。各国の駐在武官を歴任し、世界情勢分析にも詳しく、権謀術策を嫌い。徹底した真正面攻撃型で、「合理適正居士」の渾名が示す通り、きわめて現実主義で、割り切りは早く強引な性格が皇道派に狙われたのであろう。永田鉄山陸軍軍務局長の語録としては「いたずらに独善猪突するは、現在日本の実情がこれを許さぬばかりでなく、八紘一宇の大理想を顕現するになんらの意味もなさないのみか、非常なる障碍となる。」と皇道派をいさめ、 「近世物質的威力の進歩の程度が理解出来ず、青竜刀式頭脳が、まだ残って居ること、及び過度に日本人の国民性を自負する過誤に陥って居る者の多いことが危険なり。国が貧乏にして思う丈の事が出来ず、理想の改造の出来ないのが欧米と日本との国情の差中 最大のものなるべし、此の欠陥を糊塗し粉飾する為に、負け惜しみの抽象的文句を列べて気勢をつけるは、止むを得ぬ事ながら、之を実際の事と思い誤るが如きは大いに注意を要す」と正論を述べている。『国策研究会』 という統制派に呼応して昭和9年 設立され、その 中心人物で佐賀県出身の大正・昭和期の黒幕的政治家で、戦後 岸信介の懐刀として活躍した、 矢次一夫(やつぎかずお) (1899—1983)の戦後の記録には 永田軍務局長につき以下の様に述べている。「事実 永田が軍務局長として鮮満視察から帰ったあと相沢に殺される十数日前だったが、一夜会食した席上で、私が視察談を求めたのに答えて、これは極く内密の話であり私見にとどまるがと前置きして、関東軍の満州国に対する内面指導は早く打切る必要があり、また朝鮮は軍備と外交とを除き、国内自治を許す方向にもって行く必要を痛感したと語ったのである。永田によれば、満州国に対する政治的内面指導は、満州国の育成上必要として考えられたものであるが、視察の結果は、満州国創成の意義を理解せざる俗物軍人や、この軍人を利用する一儲け主義の民間人のため、悪用される危険が高まりつつあり、むしろ早きに打ち切って、満州国の自立を助けることこそ賢明と考えたらしい。また朝鮮の内政自治は、満州その他に朝鮮人が日鮮両国名を悪用し使い分けて、種々の弊害を叢生させていることや、日本国内に及ぼしている様々の弊風から考えて、自治こそ賢明得策とし、満州国とともに将来は独立も考えたらよく、そして日満鮮の間に同盟で結合させる方策こそ考究すべしというにあったように思う。私はこの話を聞きながら、軍人と話しているというよりも、大学教授と語っているような気がしたし、静かに落ちついて説く彼に、ありふれた軍人などのもたぬ卓見を聞いたのである。今でこそこんな見解は何でもないようなものだが、当時としては政界人でもここまでは、個人の意見としても言い切れなかった識見であったのだ。」 と・・・彼が存命し、いずれは 陸軍大臣 首相ともなり、その考えで日本を指導しておれば、太平洋戦争に至る道筋は違ったものになったか、少なくともアジア諸国に対して日本国の矜持を保った政策が実行されたであろうし、永田軍務局長の後釜に指名され 当時久留米の第十二師団司令部付に過ぎなかった東条英機少将の登場も、その後首相に到る昇進もなかったのではあるまいか・・・
September 17, 2017
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1934年 昭和9//0101 東京宝塚劇場が開城し、 同年03/16瀬戸内・雲仙・霧島が日本初の国立公園に指定され、続いて08/23には阿寒、日光、中部山岳、阿蘇が国立公園になり、年末の12/01丹那トンネル(全長7804メートル)が開通する。など 明るいニュースもない訳ではないが、大陸では 昭和9/03/01 満州国が帝国になり。清国のラストエンペラー・溥儀が皇帝に即位し、1934(昭和9)/05/19, 日本以外では初となるエルサルバドルが満州国を承認。同年/09/02 ローマ法王庁が満州国を承認したが、この三ヶ国以外の世界は 満州国を国として認めようとはしなかった。しかし、日本は 着々と国策に従い 04/28拓務省が、治安が安定したとして満州移民計画策定を開始し始め、1934(昭和9)/12/19,日本がワシントン条約、ロンドン条約の軍縮協定を一方的に破棄し、いよいよ軍備拡張への途に着き始めた。世相は 右翼による暗殺事件が頻繁に起こり 正論を書く新聞は益々影を潜めていった。昭和9/02/26 日本刀を持った男が、大臣室に居た鳩山一郎文相を襲い同年/03/09 時事新報相談役で前鐘紡社長の武藤山治が北鎌倉で狙撃されるなか同/03/16 衆議院が治安維持法改正案を修正可決し、同/07/03 斎藤実内閣が帝人事件で総辞職し 07/08 岡田啓介内閣が成立した掲載の昭和9/11/22発行の「東京日日新聞」には 昭和7/2/9 東京本郷に選挙の応援演説に来ていた井上準之助が、民間右翼団体「血盟団」団員 小沼正に暗殺され 翌3月 東京の日本橋にある三井本館で、三井財閥の総帥・団琢磨がおなじく「血盟団」菱沼五郎に暗殺され、元大陸浪人で日蓮宗僧侶の井上日召 らの率いる血盟団に暗殺候補者として挙げられたのは犬養毅・西園寺公望・幣原喜重郎・若槻禮次郎・鈴木喜三郎・牧野伸顕らなど、いずれも政・財界の大物ばかりであった。血盟団は海軍と通じて密かにピストルを手に入れたが 軍にはお咎めなしだった。 同紙には判決理由が縷々書かれているが、斜め読みしてみると、「裁判長は井上日召 以下被告らが 国家累卵の危うきを憂い、日本天皇国を生かさんがため 捨石たらんと覚悟し、やむなく一人一殺を企てたものである」との論旨で十分に被告らの真精神を汲み 仕方無く罰するが如き論調で、当時の暗殺に怯える不気味な世相を反映している。そんな折 昭和9/09/21 室戸台風が上陸し、911.9ミリバール、最大瞬間風速60m。死者行方不明3066人。教員・児童の死者が多く、694人にのぼる大被害となった。欧州では1934(昭和9)/04/17, 国際連盟が全会一致でドイツの再軍備を非難する中同年/04/20,ドイツでハインリッヒ・ヒムラーがゲシュタポ長官に就任し、同/06/30,ナチスの血の粛清事件が始り、ヒトラーが、同志のエルンスト・レーム(47)ら突撃隊幹部を処刑する等 血なまぐさくなり同/07/13,ヒトラーが議会演説でナチスの血の粛正事件を正当化するや 独裁への道を歩一歩歩み始めた。
September 16, 2017
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昭和7/02/29来のリットン調査団の満州調査の報告書の内容は日本の満州における特殊権益の存在を認める等、日本にとって必ずしも不利な内容ではなかった。が、「昭和6年(1931)9月18日、(満州事変)勃発以前への原状復帰は現実にそぐわないという認識・滿洲の自治・日本権益の有効性を認め」ながらも結果として「滿洲を国際管理下に置く事」を提案し、滿洲を滿洲国として認めない内容だった。 時の首相の斉藤は、もともとは、脱退反対論だった。閣僚の大半、内相山本達雄、蔵相高橋是清、文相鳩山一郎、農相後藤文夫、拓相永井柳太郎らも脱退には反対だった。また、海軍も斉藤を支持していた。閣僚ではないが、内大臣牧野伸顕も、イギリス提案をのんだ方がいいという意見だった昭和7年10月より、松岡はジュネーブ総会に日本首席全権として派遣されていたが、脱退を既定路線として赴いた訳ではなく、日本外務省の最後の方針であり、「日本の主張が認められないなら ば国際聯盟脱退」は松岡全権の単独行為ではなく、あくまでも脱退を極力避ける方針で望んでいだ。交渉に紆余曲折はあったが昭和8/02/24 国際連盟が対日満州撤退勧告案を42対1票(日本) 棄権シャムで可決した。{昭和八年二月二十五日(土)版 東京日日新聞}事ここに至ってはと、滔々と英語で一時間半も日本の立場を21項目に渡って述べ、松岡洋右日本代表は連盟への決別を述べ退場した。当時の新聞を読み返しても、日本の主張は理路整然として見えるが、根本的に昭和6年(1931)9月18日の(満州事変)は日本軍部の謀略により始まったものである以上、寄って立つ統べはない。すべからく、第一次世界大戦の折、東洋の唯一戦勝国として ドイツの青島権益を譲り受け、その権益を元に「満蒙は日本の生命線」などと拡大解釈しつつ行動する、軍部の横暴を追認していった、政党政府のつけでもあり、その屁理屈は 現代に例えれば、中国の南シナ海の領有権を主張するに、人工島を作り上げる手段が可愛く見えるほどの人的被害はもとより、独断で立ち退かせ、独占する横領に近く、又、当時カリフォルニア州へ日本移民の禁止などと、東洋日本の主張にも拘らず、黄色人種の浸透を快からず思う、米国のルーズベルト政権 他 欧州列国は日本を牽制(けんせい)するための手段として これを利用した節が見え隠れする。更に当時の新聞各社は、圧倒的に脱退論をとなえ、全国百三十二社が共同声明を作って、一面にのせた。内容は、満州国の存在を危うくするような解決案は、いかなる事情があろうとも、絶対に受諾すべきではないことを、全言論機関の名において声明する、というのであった。客観的にいって、新聞はじつにだらしく。陸軍の青年将校の威勢のいい言辞にひきずられていた。あるいは、同情的にいうならば、新聞にはもはや言論の自由はなかった。憲兵隊と特高警察がその力をほしいままにしていたのである。(三好徹 「夕陽と怒濤」 より)一般庶民は真実を知る由もなく、その掛け声に乗せられて唯々「勝った勝った 帝国万歳大勝利」と提灯行列に加わるのみだった。{昭和八年二月二十五日(土)版 東京日日新聞}の、ジュネーブでの松岡代表の談話には 『この際国民に一言伝えたいことは、余の微力ゆえ、日本を今日に至らしめたことを、つくづく相済まぬと思っている』 と全権を任された外交官として殊勝に述べているにもかかわらず、国民は何の事やら判らず松岡が帰朝した折は、まるで凱旋将軍を迎える如く、大歓迎した。これを民意と受けた、松岡自身も 得意絶頂となり、その後大変節し、日本の進路を更に誤らせてゆく事となった。土台、添付新聞の下敷きにしている 『五一五事件白日化に』 の記事は、事件が起きた昭和七年より一年も後の 昭和八年五月十七日版の東京日日新聞 号外である事からも、真実を覆い隠す当時の言論の不自由さが偲ばれる。
September 15, 2017
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濱口雄幸総理が東京駅頭でテロリストに撃たれ、その傷がもとで退陣した後を継いだ第2次若槻禮次郎内閣も、1931年(昭和6年)に勃発した満州事変を巡って閣内不統一に陥り、総辞職した結果満州事変最中の 昭和6年末12月13日に立憲政友会を中心とする政党内閣の犬養内閣が成立したが、しかしこの年も 昭和7/01/08 皇居桜田門外で 陸軍始観兵式行幸より還御の天皇に不敬朝鮮人による爆殺未遂事件が発生(桜田門事件) と言う 不穏な事件と共に始まった。(添付写真 右上、東京日日新聞 一月九日(土)版)昭和7/01/28には 日本人僧侶殺害がきっかけとなって、上海で日中両軍が衝突(上海事変)も発生し、昭和7/02/29 国際連盟よりリットン調査団が満州調査の為、来日するなど、諸外国も中国に対する日本軍部の行動に不審を持たれていた。犬養は組閣の大命が下ると直ちに解散・総選挙を断行し、政友会の議席を大きく伸ばした。これによりまず国民の支持を取り付けた上で、高橋是清を蔵相に起用して経済不況の打開と取り組んだ。高橋は金輸出再禁止と兌換停止を断行、同時に積極財政へと転換を図った。これで日本経済は徐々に回復の方向に向かっていた。犬養は満州国の承認を迫る軍部の要求を拒否し、中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとした。しかし昭和7/05/15 、これに不満な海軍の青年将校と陸軍の士官候補生の一団が乱入し、『話せば判る』と諭す犬養首相に、「問答無用」と射殺した。(五一五事件)(添付写真 左上 東京日日新聞 五月十六日(月)版)この事件の後、テロを恐れるあまり政治家たちが反軍的な言動を差し控える風潮が広がり、新聞社は軍政志向への翼賛記事を書き始め、日本は一気に軍国主義に傾き、これが事実上戦前最後の政党内閣となった。昭和7/05/26 挙国一致内閣、斎藤実内閣が成立し。国際非難の中,昭和7/09/15日本政府は 日満議定書を調印し、軍部の要求通り満州国を正式に承認した。 (添付写真 右下 東京日日新聞 九月十五日(木)版)五・一五事件の犯人たちは軍法会議にかけられたものの軽い刑で済み、数年後に全員が恩赦で釈放され、満州や中国北部で枢要な地位についた。現職総理を殺したテロリストに死刑も適用しなかったことが、さらに大掛かりな 二・二六事件の遠因となったとも言われる昭和7/07/30 ロサンゼルスで第10回オリンピックが開催され。陸上では南部忠平(日本、陸上男子三段跳) 西竹一 (陸軍軍人。男爵、)(日本、馬術障害飛越競技 水上では鶴田義行(日本、競泳男子200m平泳ぎ) 宮崎康二(日本、競泳男子100m自由形) 北村久寿雄(日本、競泳男子1500m自由形) 清川正二(日本、競泳男子100m背泳ぎ) 宮崎康二・遊佐正憲・豊田久吉・横山隆志(日本、競泳男子800m自由形リレー)らが金メダルに輝き、 水泳王国 日本が世界を圧倒し,国民は沸き返った。(添付写真 左下 東京日日新聞 八月十四日(日)版)
September 14, 2017
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昭和二年以來の長引く不況で 都市部では多くの会社が倒産し、就職難の者(学歴難民)や失業者があふれ、(昭和6/08/22 東京市の調査で、市内の浮浪者は2500人と判明。)『大学は出たけれど』の言葉が流行り。農作物は売れ行きが落ち価格が低下し(昭和6/01/09 前年の生糸輸出高が昭和4年に比べて半減)冷害・凶作のために疲弊した農村では娘を売る身売りや欠食児童が急増して社会問題化する中。 昭和6/4/14 浜口内閣が倒れ、第二次若槻内閣が成立するも、汚職の続く政治家や失策の多い政党内閣に対し、軍部には強い危機感が生まれており、 新聞も「満蒙(満州とモンゴル)は日本の生命線」とまで囃し始め、失業や農家の二三男など国内で生活できなくなった人々が大陸へ渡るケースも増えていった。昭和3/06/04 の張作霖爆殺事件後、左遷された河本大佐の後任に満州に赴任していた石原莞爾関東軍作戦主任参謀や 板垣征四郎関東軍高級参謀、土肥原賢二奉天特務機関長らは 政党内閣を 当初からなめきり、爆殺事件後も密かに関東軍による満蒙領有計画を着々と立案していた。そして、昭和6年(1931)9月18日、関東軍は、奉天北部の柳条湖において南満州鉄道の線路を自ら爆破し (爆破されたたふりをして)、これを中国軍の仕業として中国軍の寝込みを襲い、攻撃を開始した。(満州事変)勃発その折の新聞が(添付 9月20日付け東京日日新聞、及び9月25日付け大阪毎日新聞号外)で直後に偽装の証拠品を、生々しく(それらしく)一般国民に迄 公開しているのは、いかにも 謀略の特務機関! 若槻政府の不拡大方針や、陸軍中央の局地解決方針を無視して、自衛のためと称して戦線を拡大し独断越境した朝鮮軍の増援を得て、管轄外の北部満洲に進出し、翌1932年(昭和7年)2月のハルビン占領によって、関東軍はわずか5ヶ月で東北三省(満州)を占領。軍事的には まれに見る成功を収め、国民は歓呼の声を挙げた。これで政党内閣の軍に対するブレーキは 既に浜口内閣の統帥権干犯問題に端を発して壊れかかっており、これ以降、関東軍は勝手に国策を決定して実行するようになった。出先の部隊が軍中央部の命令に従わず独断専行しても、結果さえ良ければ褒章を受け、昇進することはあっても処罰されることはない、という風潮が広まり。軍部の独断専行が日本を専横し始めた 現代でも、某学校法人・二校を巡り、霞が関官僚らの人事が大きな批判を浴び、特に財務省理財局長や経産省出身の首相夫人秘書官等は その折の見え透いた口裏やぼろ隠し、辻褄あわせに、処罰されることなく優雅に昇進し、後に続く内閣府役人等も目白押しでアンチテーゼだが・・石原参謀以外の 板垣征四郎(第一次近衛内閣時:陸相)、土肥原賢二(終戦時:大将)は極東軍事裁判にて満州事変謀略により、絞首刑となるも、現在は靖国神社に合祀されている。 石原参謀の戦中・戦後史はいずれ又・・
September 13, 2017
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昭和三年の鈴木商店・台湾銀行など破たん以来の昭和金融恐慌(昭和恐慌)によって弱体化していた日本経済の中で昭和4/07/02、田中内閣は総辞職し、同日就任した第27代<B>濱口雄幸内閣総理大臣は官僚出身でありながら、謹厳実直さも相まってその風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、大衆に親しまれていた。加藤高明内閣の大蔵大臣、第一次若槻内閣の内務大臣などを務め、日本の国力、実力の熟知を自認していた濱口は社会不安が増大する中で、国防の充実に理解を示しつつも、国家予算の多くが国防費に消費されていることによる国民生活の危機を感じており、昭和4/10/24来 の世界恐慌で、生糸などの輸出の落ち込みにより日本経済は危機的状況に陥いっていた中、政策を軍拡から軍縮に転換し、その軍縮余剰金を財源に、国民負担を軽減する施策を提示した。昭和5/01/21 ロンドン軍縮会議が開催され、それまでの海軍軍縮会議の責任者は海軍出身者だったが、濱口は日本側の首席代表に文官の若槻禮次郎を任命し、内閣としては、提案した7割に近い妥協案を米から引き出せたことで、この案を受諾し、昭和5/04/11 調印した。 しかし、軍令部を中心に、強硬派が巡洋艦の日本の対英米保有比率7割に猛反対、これに右翼や野党も同調して対外問題は一挙に国内問題に転じた。野党や枢密院も明治憲法内の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(統帥大権)を盾に、政府が軍令(=統帥)事項である兵力量を天皇(=統帥部)の承諾無しに決めたのは憲法違反だとするいわゆる統帥権干犯問題が発生した。 そんな 昭和5/11/14 濱口雄幸首相が岡山県下の陸軍大演習参観に出頭の東京駅で、右翼の「愛国社」佐郷屋留雄(21歳)に拳銃で狙撃され重傷を負う事件が発生した。 (添付 夕刊東京日日新聞15日発行分 には軍縮会議当時から首相宛、斬奸状が舞い込む記事も散見)幸い一命を取り留め、当分 幣原外相が臨時首相代理となったが、この折負傷の首相の『身命を賭すに男児の本懐』とのせりふは大方の国民の共感を得た。しかし当時の濱口内閣の経済政策は、実際の日本経済の趨勢を無視して、同年2月に旧平価(円高水準)において金本位制に復帰した為。「嵐の中で雨戸を開けた」と評される如く世界経済混乱の中で正貨を流出させ、 輸出業の減退を招き、その後の より深刻なデフレ不況を招来し、 濱口内閣時の実質GDP成長率は昭和4年(1929年)には0.5%、翌・昭和5年(1930年)には1.1%と経済失政であると評された、濱口自身「我々は、国民諸君とともに この一時の苦痛をしのんで」と語るように、国内の経済問題が一日にして好転するとは考えておらず、むしろ金解禁は経済正常化への端緒であり、その後長い苦節を耐えた後に、日本の経済構造が改革されると考えていた。後日よりみれば、結果的には大不況とその後の社会不安を生み出した要因ともなり、この経済失策は、後に禍根を残した 。 株の暴落により都市部では多くの会社が倒産し就職難の者(学歴難民)や失業者があふれ、『大学は出たけれど』の言葉が流行り。農作物は売れ行きが落ち価格が低下、冷害・凶作のために疲弊した農村では娘を売る身売りや欠食児童が急増して社会問題化し。生活できなくなり大陸へ渡る人々も増えた。
September 12, 2017
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昭和3/06/04 の張作霖爆殺事件は満州某重大事件として後を引いた。 事件直後より、田中首相は外務・陸軍・関東庁三者の共同調査を命じ、一縷の望みをかけて軍の無関係ならんことを望んでいたが 確報を得て当惑と激怒とが交錯して『親の心子知らず』と首相を苦悩せしめ、厳重に処分することを前提として首相が即刻白川陸相に善後の処置を要望した。 昭和3/12/24日 午後二時首相は宮中に参内して 昭和3/11/10 即位大礼直後の、若き昭和天皇に拝謁の上『作霖横死事件には遺憾ながら帝国軍人関係せるものあるものの如く、目下鋭意調査中なるを以て若し事実なりせば法に照らして厳然たる処分を行なうべく、詳細は調査終了次第陸相より奏上する』旨を申上げて退下したが、事はそう簡単には進まず 『昭和天皇独白録』寺崎英成・御用掛日記 (22~23p)によれば 然るに田中がこの処罰問題を、閣議に附した処、主として鉄道大臣の小川平吉の主張だそうだが、日本の立場上、処罰は不得策だと云ふ議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなつて終つた。筆者註 昭和4/06/28 そこで田中は再ひ〔び〕私(昭和天皇)の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふ事であつた。聞く処に依れば、若し軍法会議を開いて訊問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云つたので、軍法会議は取止めと云ふことになつたと云ふのである。 それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云つた。若き天皇に叱責され、恐々恐懼した首相は辞表を提出し昭和4/07/02、田中内閣は総辞職、同日浜口雄幸内閣と 交代した。田中元首相は狭心症の既往があり天皇の叱責はやはり堪えたのか。同年 昭和4/09/28 66歳で没した。一説には自殺説もあるとか・・。『昭和天皇独白録』によれば、昭和天皇は西園寺公からも「意見を直接表明は如何かと・・」と諫められ、若気の至りで田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかもしれないということに責任を痛感し、以後は政府の方針に不満があっても帝国欽定憲法に則り 統治すれども支配せずと一切口を挟まなくなってしまった 張作霖爆殺事件詳しくはhttp://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/chousakurin.html参照 (尚2008年秋、防衛庁航空幕僚長、田母神敏雄氏が「日本は侵略国家であったのか」と題する論稿を発表し、その中で「ソ連犯行説」に触れる等、未だに尾をひいていますが、ご興味ある方は http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/chousakurin3.html 参照下さい。)それは兎も角、 東京日日新聞,昭和4/02/24 付によれば 3年近くにわたって東京市民を震え上がらせた説教強盗がついに捕まる。犯人は左官職人の妻木松吉。(添付省略)昭和4/08/19 大阪毎日新聞号外によればドイツのツェッペリン号が帝都訪問し歓呼に沸きかえり、霞ケ浦に無事着陸した。そうした中、昭和4/10/24 ニューヨーク市場でアメリカが第一次世界大戦に費やした総戦費をも遥かに上回り、米国連邦年間予算の10倍が一週間で消し飛ぶ程 株価が大暴落し、世界恐慌が始った(暗黒の木曜日)。 過剰生産によりアメリカ工業セクターの設備投資縮小が始まったのが大きな要因であり世界恐慌がさらに投資縮小を誘引したため、アメリカ経済への依存を深めていた脆弱な各国経済も連鎖的に破綻することなり、強烈な景気後退に見舞われることになった。 その後銀行倒産の連続による金融システムの停止に、FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)の金融政策の誤りが重なったため 色々な思惑から、同年2月に金本位制に復帰したばかりの日本は。「嵐の中で雨戸を開けた」と評される如く世界経済混乱の中で正貨を流出させた。 現代の世界状況とも対比しつつ、昭和5以降も年を追って、その影響を調査してみる積りだが・・さて・・
September 11, 2017
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昭和2/04/20 に就任した 第26代田中義一内閣総理大臣、は、その後の日本の針路に多大なつけや影響を与えた内閣で、・・或る意味、現代のこの世界不況時の、経済対策はどんな手段をとり、又 取らざるべきか・・という意味の「温故知新」で参考にはなるが・・田中義一首相は 日露戦争 時は満州軍参謀、後シベリア出兵 に関与し、以後、原 第2次 山本各内閣陸相 を歴任し、大正10年(1921)陸軍大将。退役後、立憲政友会 総裁、貴族院勅選議員 となっていた。金融恐慌に動揺する貴族院を含め、政官財に軍部まで、田中待望論の動きが高まり、それを多として 以下の様な かなり思い切った政策を採った。一 大蔵大臣に金融恐慌解決までという条件で高橋是清元首相 (前政友会総裁・元蔵相・日銀総裁)が入り、金融恐慌解決のために日本銀行から市中銀行への緊急融資を行い、その際、需要に間に合わせるためには と 急遽、財源に裏づけなきまま片面だけが印刷された新紙幣 まで発行し、それなりに効果があった。二 更に政党内閣でありながら大正デモクラシーに批判的で、治安維持法の改正 を行って最高刑を死刑とし、3・15事件 によって日本共産党を壊滅に追い込んだ。政府が某重大事件 として、各紙に掲載差し止め中であった上記事件を3週間後の4月11日 付けで東京日日新聞、(添付写真)の如く一般市民に伝え、これを機に 思想取り締まりが強化され 無辜の臣民を震え上がらせた。・・事件そのものも、報道差し止めも、現代では思いも寄らぬ事と一時は思っていたが「テロ等準備罪」が通過してしまえば又同じことが起こりそうな気配・・そういった意味でもいつか来た道、歴史を読み返す意味は大きい・・・田中内閣はこの金融不況を上記のような積極財政と中国大陸における勢力拡大に伴う市場拡大と大陸への移民 で実現しようとして東三省での権益拡大を目論み<B>昭和3/04/19 第二次山東出兵 </B>を決定し、日本軍と蒋介石 率いる国民革命軍 の間で戦闘が開始されたが(済南事件)傀儡として国民革命軍に当たらせるべく、巧みに協力関係を取り付けていた 元馬賊あがりの 奉天軍閥 張作霖 は 実際には頼りなく、反復常なき為 日本政府としても扱いかねていた折既に満州国の建国計画を立てていた現地の関東軍 にとっても、 国民革命軍との戦争に敗れた後 北京を逃れ、列車で根拠地である奉天へ向かっていた張作霖の東三省復帰は迷惑かつ不快なものでしかなく。昭和3/06/04 、関東軍の参謀・河本大作大佐 の策略で、奉天近くの皇姑站で乗っていた列車を爆破し。(張作霖爆殺事件) 更に 予定外の第3回出兵を行ったにも関わらず成果が上がらず、出身母体である陸軍からも反発を受け、田中内閣の山東出兵による日本の権益拡大政策の失態は、益々風雲急を告げていた当時の臣民の最大の明るい希望は、1926/12/25,昭和1/12/25 大正天皇崩御により『書経』の「百姓昭明、協和万邦」により、世界平和・君民一致を意味する 「昭和」と改元され、第124代天皇、昭和天皇として昭和3/11/10 迪宮裕仁(つぐのみやひろひと)親王(28) の即位大礼が京都御所で恙無く 執り行われた。(添付2)は (東京 淀橋局 昭和三年十一月十日付け) 初日 スタンプ 大礼記念切手 付き日本木版芸術社謹製 逓信省 発行 郵便絵葉書・・筆者の親父の形見で 日清・日露 以来の逓信省記念切手の 数ある初日スタンプ付葉書の内の一枚
September 10, 2017
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昭和2年5月29日発行 東京日日新聞の一面トップに山東出兵いよ々々断行 とある。昭和二(西暦1927)年 とは どんな時代背景だったのか 歴史年表で調べると、以下の記述がある。昭和2/01/04 武漢の民衆が漢口の英租界を奪回し、翌日武漢政府が、英租界を接収する。昭和2/01/08 日本が中国の邦人保護のため軍艦「鳥羽」を派遣する。昭和2/03/24蒋介石の国民革命軍が、青天白日旗を掲げて南京に入り占領する。革命軍の一部が各国領事館を襲撃し、米・仏人ら6人を殺害、日本領事館にも負傷者を出す。午後、英米の軍艦が城内を砲撃し、2000人の中国人が死傷する(南京事件)。昭和2/04/18 中国で、南京国民政府が樹立。 と、中国大陸は騒然とした状態、一方日本では昭和2/04/20 田中義一内閣が成立し。翌々22日の施政方針で、中国での共産党の活動に日本は無関係で有り得ずとの声明を出し。昭和2/05/28政府が中国山東省への出兵を決定し、関東軍に出動命令を下す(第1次山東出兵)。を報道した同日付け東京日日新聞は 見出しと共に、宮中へ上奏御裁可を仰ぎに参内する田中首相の写真が掲載されている。先の第一次世界大戦の折、大正3/09/06青島を攻略し、日本が独逸から獲得した青島など山東半島の利権を守る為、欧米各国の様子も伺いつつ出兵した事情が縷々書かれている。しかし、この出兵が後々まで尾を引き、対支邦攻略に拘わらざるを得なかった日本の、泥沼の始まりとなっていった。一方日本国内の経済界は除々に疲弊しつつあり昭和2/03/15 前日に片岡直温蔵相が衆議院予算委員会で渡辺銀行が経営破綻したと発言したことから取り付け騒ぎとなる。昭和2/04/05 兵庫の鈴木商店が、新規取引中止を発表して倒産し、若槻内閣総辞職に追込まれ。昭和2/04/18 台湾銀行が、在台湾店舗を除いて全店休業する。取り付けが激化する。昭和2/04/22 3週間のモラトリアムが施行され、全国の銀行が一斉に休業 等 1929/10/24,昭和4/10/24のニューヨーク市場からの世界恐慌の前兆現象気味に 不況の嵐<が吹き始めており、戦争景気を渇望する如く、同日四面の経済欄には 排日気勢の対支邦貿易を気にしつつも紡績株は原綿高、郵船株は出兵運賃収入増加を煽られ一園廿銭高、などの記載が見受けられる。同日の二面には昭和2/04/01 3月27日 京都で映画「椿姫」の撮影中、駆落ちした岡田嘉子と竹内良一が、福岡県飯塚に潜んでいるところを発見され,その後男爵の子息である彼の爵位剥奪の経緯が ゴシップとして書かれており一方三面には、東京日日新聞で5月14 日から連載された<B>大佛次郎「赤穂浪士」(14)が連載されている。注1「歴史年表」は 碩学者の慶應義塾大学理工学部教授であった故中西正和先生の力作『昭和2年(西暦1927年)』http://www.fuchu.or.jp/~stock/chrono/year/1927.htmlを利用させてもらっておりますので、尚々 物足りない方は同頁を参照下さい。
September 9, 2017
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過日思い立って、収集部数を数えてみると、概ね四つ折で56部あり、年代を発行順に並べてみると、以下の通り・・・・。昭和2年5月29日発行~昭和12年12月8日 迄で 、各年毎に1~5部ずつあり、発行先は『東京日日新聞』が主で合計21部 (毎日新聞はその年代頃『東京日日新聞』名で 発行していた様だ・・・後日正確に調査してみよう・・)昭和13年5月18日以降は主に『毎日新聞』で、以降 昭和20年8月15日終戦の日迄 で同様に各年毎に1~9部で 合計23部 (断然 大東和戦争時の華々しい戦果を告げる昭和17年代が9部と多いが・・・)昭和20年9月3日、の『降伏文章調印式』から 昭和26年9月10日の『サンフランシスコ平和条約』の記載までの合計12部と、各年月の最も重要な事件当日の新聞を、意図的に集め、揃えた貴重な古新聞である事が改めて判明した恐らく、それなりの年代層のインテリが計画的に収集して大事に仕舞っていた遺品の新聞を、残された遺族は その値打ちも判らず、躊躇いもなく、ゴミとして 回収業者に渡してしまったのでは・・・?と思われる。ヒトゴトならず、余計なお節介で ご同輩に告げるが、そういう事は得てして起こり得る事で、貴重な時間や財貨を出して手に入れたものは、早めに、目利きの人か図書館などに寄付目録を作り、整理しておくにししくはなし・・(・・と説教する間に己も反省して 断捨離せずばなるまいて・・・)土台、本掲示板の記事も、はかなく消えてしまう運命にあり、筆者もせいぜいコピーを取り、外部HDDに蓄えておく事にしているが、それとて、いつか誰にも気づかれず処分される筈・・まあ、この世の事は「何事も何事も夢まぼろしの世界」と割り切り、『温故知新』で この古新聞をベースに、 古き「昭和時代」をおさらいしてみようかと、思い立った次第。
September 8, 2017
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何だか 隣国が騒ぎだし、ミサイルだ、Jアラートだと 世の中 物騒になってきた。昔々御幼少の砌 空襲警報が鳴っていた記憶が 少し 脳の奥の海馬に残っている年代のせいか、時代は繰り返し輪廻する 予感がしないでもなく、なんだか嫌な予感も漂い、かと言って、どうする訳にもず・・・あらためて一度消えかけた記憶を思い出すのに、古新聞を引っ張り出し、読み返してみようと思う・・・H氏の宝物 と云う程の高価なモノでもなんでもないが、ひょんなきっかけで貴重な古新聞を手に入れた事がある。種を明かせば、独立前、サラリーマンとしては最後のご奉公で、某電着塗装メーカーの、しがない工場長を任せられていたおり。金属加工品を電着塗装し、後工程先に出荷するのに、簡易包装用紙として、時折、トラック一台分ほど、古新聞を回収業者から購入する折の荷降ろし立会い中 偶然、そのなかに、古色然とした新聞の束を見つけ、職権で確保した訳だが・・今や時効でH氏が所有している。時折 当時のキツイ仕事振りを思い出しながら、大事に仕舞ってある引き出しを開け、興味のある年月日の古新聞を引っ張り出し、いつか閑になったら整理してみようか・・と思いつつ、三十数年経ってしまった。
September 8, 2017
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