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かくして、日本の戦後が始り。 8月17日 東久迩宮稔彦内閣が成立。終戦を円満に遂行し日本軍 百万を武装解除して大過なく占領軍を受け入れるには、天皇の身がわりである皇族が事態を主導するしかなかったからだが・・主要閣僚としては 内務大臣 山崎 巌(元内務次官)外務大臣に重光 葵(駐ソ公使・駐英大使歴任後 東條内閣時 外務大臣)国務大臣には近衛文麿元首相 内閣書記官長 緒方竹虎(朝日新聞副社長・小磯内閣時 情報局総裁)陸軍大臣は下村 定大将(東久迩宮首相と陸軍士官学校同期、終戦時 北支那方面軍司令官に首相が直接依頼し帰国就任)、更に厚生大臣 松村謙三などが任命された。 占領に先立ち、アメリカ軍との連絡のためにマニラに遣使された河辺虎四郎参謀次長の使節団が帰国、米軍の進駐日程を報告した。それによれば、「8月26日、最初の進駐部隊が厚木・鹿島飛行場に到着し、海上戦力が東京湾に進入するので、それまでに全航空機の武装を解除すること。28日には連合国軍総司令官・マッカーサー元帥が厚木に降り立つ予定」とのことであった。ところが、厚木飛行場は海軍第302航空隊などが徹底抗戦を主張していた為、急遽 高松宮宣仁親王が差遣され 武装解除の説得をするなど、騒動が絶えなかった。予定より遅れ、29日、米国先遣隊が厚木に進駐。翌30日、マッカーサーは幕僚団と共に厚木に降り立った。G.H.Qは当初横浜税関に、続いて日比谷の第一相互ビルに引っ越し、日本全土を統治することになった。9月2日午前九時、戦艦ミズーリ艦上で、重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が降伏文書に署名。ここに占領が開始された。(新聞は9月3日付け 毎日新聞・・下段には内閣成立の翌日8月18日に内務省が設置指示した、占領軍向けの特殊慰安施設の急告募集広告アリ)同11日、GHQが東条英機ら39人の戦争反罪人の逮捕を命令。 東條英機元首相は用賀の自宅へ米軍憲兵がジープで乗りつけた際、拳銃自殺を図るも未遂で逮捕、『生きて虜囚の辱めを受けず』という戦陣訓を作った責任者だっただけに多くの国民の冷笑を浴びた。 閣内でも、GHQへ近衛が媚態越権接触に面白からず思っていた重光は9月15日、終戦連絡事務局の問題を種に辞職させられ、代わって元駐英大使で、近衛の人脈の吉田茂が登場。 吉田外相は、マッカーサーに会見を望む天皇の内意を伝えられ、みずからGHQに赴いてこれを打診。マッカーサーは、「私の方から宮中へお伺いするわけには参らないが、陛下がおいでくださるならば、いつでも喜んでお会いする」と答え、吉田と入れ違いに訪れた藤田尚徳侍従長にも同様の趣旨のことを伝えた。 こうして、天皇とマッカーサーの第一次会談が9月27日、米国大使館で行われた。陛下とマ元帥が二人で何を語られたか、これは明らかにされていないが、・・・・陛下は次の意味のことをマ元帥に伝えられている。「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任は全て私にある。文武百官は、私の任命するところだから、彼らには責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の配慮をお願いしたい」と 一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露はマ元帥を強く感動させ。「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願いしたい」・・・藤田尚徳「侍従長の回想」より両者会談後、アメリカ側と記者会見と写真撮影が行われ、マ元帥は玄関まで見送りに出たが、この写真発表を巡り、山崎巌内相は写真の発禁、掲載禁止を指令するもGHQから命令撤回を指令された。(新聞はGHQ指令によりその写真を掲載した9月29日付け 毎日新聞)占領政策が開始されても、なお、政治犯・思想犯の拘留は相次いでいた。 山崎巌内相は、「思想取締の秘密警察は現在なお活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する」と、ロイター通信特派員に語った。これが仇となり、GHQはその翌日10月4日、「政治的自由の制限除去に関する覚書」が発せられた。すなわち、政治犯の即時釈放、思想警察の全廃、内相および警察首脳の罷免、一切の弾圧放棄の撤廃などを実施し、15日までにそのとられた措置を詳細に報告せよ、という内容で 東久邇宮内閣は驚愕し消極的抵抗を示すため、又 すでに進駐軍を無血で受け入れ、終戦・復員事務を軌道に乗せるという この内閣の使命も終り、翌5日 成立後わずか54日で総辞職した。10月9日 幤原喜重郎内閣が成立。その後もGHQからは憲法の自由主義化、婦人解放、12月15日 には国家と神道の分離と指令が続き、12月29日 農地調整法が改正公布された(第1次農地改革)。08/17 東久迩宮稔彦内閣が成立する。08/18 内務省が、占領軍向けの特殊慰安施設を設置するよう指示する。 1945/08/20,昭和20/08/20 灯下管制が3年8ヵ月ぶりに廃止される。 1945/08/21,昭和20/08/21 東京地方に「天気予報放送」が復活する。08/23 ソ連が、日本人50万人のシベリア抑留の指令を発する(9898号指令)。 08/28 連合軍先遣隊が厚木に到着する。 1945/08/28,昭和20/08/28 東久迩宮稔彦首相が記者会見し、敗戦の原因の一つが国民の道義の欠落にあると述べる。 1945/08/28,昭和20/08/28 連合国軍総指令部(GHQ)が横浜に設置される。08/30 マッカーサー元帥が連合軍最高指令寛として厚木に上陸する。 昭和20/08/30 ソ連が、北海道占領への樺太での軍事活動を停止する。 1945/09/02,昭和20/09/02 東京湾内に停泊している米戦艦ミズーリ号上で、日本全権代表重光葵外相が降伏文書に調印し、アジア・太平洋戦争が正式に終結する。 1945/09/06,昭和20/09/06 朝鮮人民共和国が樹立される。1945/09/08,昭和20/09/08 アメリカ軍がジープによる東京進駐を開始する。 1945/09/11,昭和20/09/11 GHQが東条英機ら39人の戦争反罪人の逮捕を命令する1945/09/15,昭和20/09/15 GHQ本部が、東京・日比谷の第一生命ビルに設置される。 1945/09/20,昭和20/09/20 文部省が、中等学校以下の教科書から戦時教材の削除を通達する。 1945/09/27,昭和20/09/27 天皇がアメリカ大使館にマッカーサーを訪問する。 1945/10/05,昭和20/10/05 東久迩宮内閣が、前日のGHQ覚書は実行できないとして総辞職する。 1945/10/09,昭和20/10/09 幤原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣が成立する。吉田茂外相は留任する。 1945/10/11,昭和20/10/11 マッカーサーが幤原首相に、憲法の自由主義化、婦人解放など5大改革を指令する。1945/10/24,昭和20/10/24 国連憲章が発効し、国際連合が正式に発足する。 1945/10/29,昭和20/10/29 日本勧業銀行が第1回宝くじを発売する。1等10万円。1945/11/02,昭和20/11/02 日本社会党が結成される。開会の辞で浅沼稲次郎は国体護持を主張し、大会が終わると賀川豊彦は「天皇陛下バンザイ」の音頭をとる。 1945/11/06,昭和20/11/06 GHQが財閥解体指令を出す。 1945/11/09,昭和20/11/09 日本自由党が結成される。総裁は鳩山一郎。 1945/11/20,昭和20/11/20 ナチス・ドイツの主要戦争反罪人を裁く国際軍事裁判がニュルンベルクで開廷する(ニュルンベルク裁判)。1945/12/01,昭和20/12/01 陸軍省と海軍省を復員省に改組する。 1945/12/06,昭和20/12/06 GHQが、近衛文麿、木戸幸一ら9人の逮捕を命令する。 1945/12/07,昭和20/12/07 マニラの戦犯裁判で、山下奉文元大将に死刑宣告が下される。 1945/12/12,昭和20/12/12 GHQが芝居の仇討ちものや心中ものの上演を禁止する。 1945/12/14,昭和20/12/14 ニュルンベルク国際軍事裁判で、元ドイツ秘密警察員がユダヤ人虐殺は600万人以上と証言する。 1945/12/15,昭和20/12/15 GHQが国家と神道の分離を指令する。 1945/12/16,昭和20/12/16 近衛文麿が自宅で服毒自殺する。55歳(誕生:明治24(1891)/10/12)。戦犯に指名された。 1945/12/29,昭和20/12/29 農地調整法が改正公布される(第1次農地改革)。1945/12/31,昭和20/12/31 GHQが、修身・日本歴史・地理の授業の停止を指令する。筆者 注・・昭和初期より昭和20年末迄 古い新聞を辿り、戦前・戦中・終戦・戦後と歴史を辿ってみましたが、これにて 一旦区切りを付け、平成29年秋現在の総選挙の混沌とした政治情勢にも鑑み、結果も出そろったその後、考を温め、折を見て 後日記載することとします。尚 文中記載の「歴史年表」は 碩学者の慶應義塾大学理工学部教授であられた故中西正和先生の力作「中西正和歴史年表」http://www.softvision.co.jp/history/help/をほぼ丸写しにて利用させてもらっておりますので、尚々 物足りない方は同頁を参照下さい。 拙い文章で短期間に一挙掲載した為、記録間違いも皆無ではありませんが、追々訂正することとします。ご愛読を賜り、有難うございました。
October 5, 2017
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広島への原爆投下と、ソ連の参戦により、8 月9 日午前10時50分、最高戦争指導者会議が開かれた。最高戦争指導者会議は鈴木首相・東郷外相と、阿南陸軍大臣、米内海軍大臣、梅津陸軍参謀総長、豊田海軍軍令総長の6人で構成され、戦争に対する最高の意思決定機関であった。広島への新型爆弾(原爆)投下も、その折は甚大な被害の全容が掴めておらず、一番の問題は、密かにあてにしていたソ連を通じての講和交渉が瓦解し、逆に参戦の事態に6名とも暗澹たる思いで席に着いたその折、長崎にも同日11時2分に新型爆弾投下の第一報が入り、皆 青ざめて咳として声も出ぬ中、鈴木首相が「この事態に至り 四囲の情勢上、ポツダム宣言を受諾せざるを得ないと私は思っている。皆さんのご意見を聞きたい」と声を絞り出した。すかさず、東郷外相が立ち上がり、二つの案を出して採決を迫った。①国体護持だけを要求して、ポツダム宣言を受け入れる。 ②国体護持に加え「戦争犯罪人の処罰」「武装解除の方法」「保障占領(占領軍の進駐)」の4条件を付加した上で、ポツダム宣言を受け入れる鈴木と東郷に続いて、既に特攻機以外に戦力の無い米内海軍大臣も、①案に賛成。本土決戦論だった残りの三人は、会議のテンポに付いていけず、なんとか②案を支持するのが精一杯。3対3の対決で議論は堂々巡りとなって、2時半、閣議が予定されていたので中断。続く閣議では、「ソ連を介した一般講和」を掲げていた鈴木首相に諸大臣より非難 罷免要求が集中するも、何とか持ちこたえ、議論に決着が付かぬまま午後10時半に休憩。休憩時間に、彼は東郷とともに皇居に参内、天皇に直接御前会議の開催を申し入れ了承された。(本来当時の制度では、御前会議の開催には、出席者全員の署名と花押が必要で、国際関係に関する決議は、通常の閣議で決定した事項を、枢密院の審議にかけ、その結果を天皇に報告するという仕組みの所、実務的に先に作成していた「白紙委任状」を書記官長と相談し借用、枢密院議長の平沼騏一郎を、御前会議のゲストとして迎え、いわば強制的に御前会議を開催)。午後11時50分、天皇臨席の元 東郷が提示した①案と②案を巡って、激しい議論の応酬が戦われた。① 案支持は、鈴木、東郷、米内、平沼。②案支持は、阿南、梅津、豊田。② 両者は真っ向からぶつかり一歩も退かず、ついに時刻は、翌8月10日午前2時。 そのとき。鈴木首相が立ち上がり、異例中の異例の事にて天皇の前に進み出て「すでに長時間にわたって論議を尽くして参りましたが、結論を得るに至りません。しかし、事は極めて重大であり、かつ一刻の猶予も許されない状態であります。前例も無く、はなはだ畏れ多い極みでございますが、このさい陛下の思し召しをうかがい、それをもって本会議の決定と致したいと存じます」と申し述べた。天皇があくまで「意見」を言うのであれば、憲法違反ではなく、鈴木は、憲法の規程解釈ギリギリの線で、勝負に出た。「それならば、私が意見を言おう。さきほどから外務大臣の申しているところ(①案)に同意である。 念のために理由を申しておく。戦争が始まって以来、陸海軍の行動は、どうも予定と結果が違う場合が多い。いま陸海軍は本土決戦の準備をしていて、その勝算もあるように申しているが、その点についても心配している。先日、参謀総長から九十九里浜の防衛について話を聞いたが、侍従武官が現地を見てきての報告では、総長の話とは違い、防御対策はほとんどできていないようである。また、新編成の師団について、総長は装備完了といっていたが、実際には、兵士に銃剣さえも支給されていない有様であることも分かった。こういうことで本土決戦に突入したら、どうなるか。私は、非常に心配である。 あるいは、日本民族はみんな死んでしまわなければならないことになるのではないか。そうなったら、先祖から受け継いできたこの日本という国を、子孫に伝えることができなくなる。日本を子孫に伝えるためには、一人でも多くの国民に生き残ってもらい、その人たちに再び立ち上がってもらうほかに道はない。また、これ以上、戦争を続ければ、日本国民だけでなく、外国の人々も多くの損害を受けることになる。私としては、忠勇なる軍隊の降伏や武装解除は忍び難いことであり、戦争責任者の処罰ということも、その人たちがみな忠誠を尽くした人であることを思うと、堪え難いことである。しかし、国民全体を救い、国家を維持するためには、この忍び難いことも忍ばねばならないと思う。私はいま、日清戦争のあとの三国干渉のときの明治天皇のお心持ち(臥薪嘗胆)を考えている。 皆のものは、私のことを心配しているようだが、私はどうなっても構わない。私は、こう考えて、戦争を速やかに終結する決心をしたのだ。 兵士や国民は良く戦った。多くの人が戦死し、傷つき、空襲で死傷し、財産を失った。その人たちや遺族の事を考えると、まことに胸がかきむしられるようだ。また、外地にいる人たちのことも心配でたまらない・・・・」 天皇のお言葉は30分以上も続き、御前会議は要人たちの嗚咽で埋め尽くされた。午前3時から再開された閣議で、ポツダム宣言の受諾が正式に決定。午前4時、東郷外相はその足で外務省に走り、連合軍への通告電文を起草した。同日08/10 同盟通信社と日本放送協会は午後8時過ぎにこれを海外向けに打電、放送。 08/12 日本のポツダム宣言受諾(国体護持)の条件に対し、有条件降伏を実質承認のバーンズ回答が到達。08/13 御前会議・閣議が、連合国回答の解釈をめぐり紛糾するも 08/14 再度 御前会議でポツダム宣言受諾を改めて決定し、天皇が終戦詔書を発布。玉音盤の 争奪を巡る将校の反乱も起こる中 08/15 未明 阿南惟幾陸軍大将が、未明、「一死ヲ以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の遺書を残して割腹自殺。同日 正午 終戦勅書がラジオ放送(玉音放送)され、太平洋戦争が終結した。 (新聞は 08/15付け 終戦勅書を記載の毎日新聞及び終戦勅書コピー )08/09 深夜、最高戦争指導会議構成員による御前会議で、ポツダム宣言受諾に国体維持(天皇制維持)だけを条件とする東郷外相案と、他に3条件を加える阿南陸省の案が対立する。 1945/08/09,昭和20/08/09 B29ボックス・カー号は、小倉市を目標として飛来したが、上空が曇天のため、午前11時2分、長崎市にプルトニウム型の原爆「ファット・マン」を投下する。原爆は地上503mで炸裂し、12月までの死者の数は8万人以上になる。 08/10 午前2時半、御前会議が国体維持だけを条件とするポツダム宣言受諾を決定する。同盟通信社と日本放送協会は午後8時過ぎにこれを海外向けに打電、放送する。08/12 日本のポツダム宣言受諾の条件に対し、実質承認のバーンズ回答が到達する。 1945/08/13,昭和20/08/13 御前会議・閣議が、連合国の回答をめぐり紛糾する。 08/14 御前会議でポツダム宣言受諾を改めて決定し、天皇が終戦詔書を発布する。 08/15 阿南惟幾陸軍大将が、未明、「一死ヲ以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の遺書を残して割腹自殺する。59歳(誕生:明治20(1887)/02/21)。 1945/08/15,昭和20/08/15 天皇が終戦勅書をラジオ放送(玉音放送)し、太平洋戦争が終結する。 08/17 東久迩宮稔彦内閣が成立する。08/18 内務省が、占領軍向けの特殊慰安施設を設置するよう指示する。 1945/08/18,昭和20/08/18 満州国皇帝が退位し、満州国が消滅する。 1945/08/18,昭和20/08/18 チャンドラ・ボース(Bose,Subhas Chandra)の乗った日本軍の飛行機が墜落し、ボースは重傷を負う(まもなく死亡)。48歳(誕生:1897/01/23)。インド独立に貢献した。08/23 ソ連が、日本人50万人のシベリア抑留の指令を発する(9898号指令)。 08/28 連合軍先遣隊が厚木に到着する。 1945/08/28,昭和20/08/28 東久迩宮稔彦首相が記者会見し、敗戦の原因の一つが国民の道義の欠落にあると述べる。 1945/08/28,昭和20/08/28 連合国軍総指令部(GHQ)が横浜に設置される。08/30 マッカーサー元帥が連合軍最高指令寛として厚木に上陸する。 1945/08/30,昭和20/08/30 ソ連が、北海道占領への樺太での軍事活動を停止する。
October 4, 2017
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東京への大空襲爾来 天皇は過大な戦果報告をし続ける大本営 分けても陸軍の主張する『本土決戦』に疑問を持ち、独自に密かに侍従武官を各地に派遣、九十九里浜の防衛対策も参謀総長の報告に反し、実際にはその防衛に当たる新編成の師団の兵士に銃剣さえも支給されていない事実に唖然とし、海軍出身で「日露戦争」に従軍して以来、軍務から遠ざかっていた鈴木貫太郎枢密院議長へ 天皇直々に「この危急の時に際して、もう他に人はいないのだ。どうか承知してもらいたい。頼む」とまで懇願され、度々固辞するも、04/07首相に就任した。(当時79歳)天皇の真意が「和平」にあることを良く忖度し、軽井沢に蟄居する開戦時の外相東郷茂徳を外務大臣に三顧の礼で迎え、2.26事件の折 鈴木は侍従長で当時の侍従武官でもあり、陸軍の切り札 阿南惟畿大将を、表はボケ老人振りを装い本土決戦を呼号し陸軍大臣に迎え、裏では東郷と手を結んで、和平の糸口を必死に模索した。 まずは04/12ルーズヴェルト大統領の訃報に接して『深い哀悼の意を表明』し、アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンは、英国BBCで「ドイツ国民よ、東洋の騎士道を見よ」と題して声明を発表し、鈴木首相の武士道精神を称賛した。これには後任のトルーマン大統領をも驚かせ、交渉による和平の可能性へ志向させた。05/07、ドイツが降伏し、欧州戦線のソ連軍が、満州方面に大挙して移動中との情報が入り、対日参戦を恐れる陸軍は、東郷外相へソ連の参戦を阻止するように依頼。鈴木首相はそれを逆手にとり、06/22 天皇は最高戦争指導会議の構成員懇談会席上で、事実上の終戦工作(参戦阻止交渉を名目にしてソ連に連合国との講和仲介)を承認した。05/24 B29・525機。5/25 B29・470機 の連日東京絨毯爆撃では都区内の大半が全滅し。皇居、大本営も罹災した。 この東京空襲の後5/29 B29・475機の横浜空襲の時から、硫黄島に建設した航空基地より長距離戦闘機P-51約100機の護衛がつき 昼間の中高度以下の爆撃が可能となり日本軍戦闘機の迎撃を困難にしたが、それでも終戦までの間に延べ2,251機のB-29が硫黄島に不時着した、沖縄の戦では18万の米軍の前に最終的な陸軍の沖縄守備軍の数は86,400人で、このほかに海軍陸戦隊が約1万人弱、学徒隊などが2万人で、総計116,400人がいたが 圧倒的な戦力差があったにもかかわらず、洞窟陣地を利用した粘り強い防御戦闘と反斜面陣地などの巧みな陣地形成で善戦した。海軍も菊水一号作戦から6月22日の十号作戦にわたり特攻攻撃が練習機まで投入し続けられたが、現地海軍部隊司令官の大田実少将は6月6日に海軍次官宛に有名な『…沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』という訣別電報を打った後、豊見城の海軍司令部壕内で6月13日頃に自決。 6月23日午前4時ごろに沖縄守備軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が摩文仁司令部で自決した。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅。少年鉄血勤皇隊とひめゆり部隊、他 15万の一般沖縄住民の犠牲を払って沖縄戦が終結したが、残存する第24師団配下の歩兵第32連隊配下の将兵は8月15日に終戦停戦を発表してから2週間後の8月29日まで投降しなかった。7月に入り空襲は益々激しくなり、松山 福井 津 他 と続き、7月14-15日は本土に近づいた米機動部隊より釜石 室蘭が艦砲射撃を受け、同日には艦載機約2000機により北海道全土を空襲。 東北北陸でも青森 富山 長岡 8月5日には 前橋・高崎も空襲を受け、被害のない都市は希少となり、その間 串本 日立 浜松 清水も艦砲射撃された アメリカは日本の外務通信を全て傍受解読し筒抜けで、日本の講話の意思あるを伝えた形となり07/17 チャーチル、トルーマン、スターリンがベルリン郊外のポツダムに参集、07/26 『対日ポツダム宣言』が、ソ連名は伏せ、米英中共同で発表された。 東郷外相は従来のカイロ宣言では『日本国の無条件降伏』とあった文言が、外相は『日本軍の無条件降伏』と見抜き、天皇と鈴木に報告 「当面は意思表示するべきではない」との腹案だったが、軍部が政府の動きを怪しみだし、不穏な軍の動きを抑える為、何か談話を出さねばならず、已む無く 同日 鈴木首相は記者団に「この宣言はカイロ宣言の焼き直しで重視する要なきものと思う」と語り。補足で7月27日に内閣書記官長(今の官房長官)迫水久常が記者団との懇談会で「日本政府としては受諾するといった態度がとれない重要視しないというか、ネグレクトする方向でいくことになるだろう」と語った。この「ネグレクト」の意味で記者団から「黙殺か?」と聞かれると。「黙殺?ネグレクトは黙殺ともいえるかなあ」とやり取りがあった。また迫水は「大きく新聞のトップか何かで『ポツダム宣言黙殺!』っていうように扱かわんでくれ」とも言った。迫水の意向を了承して朝日新聞7月28日付けでは2段見出して6行の記事で「帝国政府としては何ら重大なる価値のあるものに非ずとしてこれを黙殺すると共に、断乎戦争完遂に邁進するのみである」と書いた。この「黙殺する」は日本の同盟通信社が「ignore(無視する、知らないふりをする)」の意味で海外に報じた。しかしアメリカのAP通信やイギリスのロイター通信は「ignore」を更に「reject(拒否)」と言い換えて報じ、これがワシントンに伝わり、アメリカは宣言が「拒否」されたと捉え、原爆投下実行の口実を与えた。08/06 8時15分17秒、B29エノラ・ゲイは、広島の上空9600mで広島にウラニウム型の原爆「リトル・ボーイ」を投下。原爆は高度580mで炸裂。原爆で死亡した人は14万人に達した。(新聞は極小さく、広島に新型爆弾で相当な被害発生とその威力を伝える08/08付け 毎日新聞)続いて 08/08 ソ連が対日宣戦を布告。(新聞はソ連が満ソ国境二正面に越境攻撃を伝える08/10付け 毎日新聞)08/09 にはB29ボックス・カー号が、小倉市を目標として飛来したが、上空が曇天のため、午前11時2分、長崎市にプルトニウム型の原爆「ファット・マン」を投下。原爆は地上503mで炸裂し、死者の数は8万人以上となった。 05/24 空襲で都区内の大半が全滅する。皇居、大本営も罹災する06/06 最高戦争指導会議の御前会議で、豊田軍令部総長らが戦争継続を首長する。06/08 御前会議が、天皇制の固持と本土決戦を決定する06/18 沖縄摩文仁の洞穴で女生徒が集団自決する。06/21 生き残った沖縄守備隊や学徒兵などが最後の総攻撃をかけて全滅する。 1945/06/22,昭和20/06/22 天皇が最高戦争指導会議の構成員懇談会席上で、終戦工作を指示。 1945/06/23,昭和20/06/23 沖縄の少年少女の部隊の鉄血勤皇隊とひめゆり部隊、15万の一般沖縄住民の犠牲を払って沖縄戦が終結する。 07/17 チャーチル、トルーマン、スターリンがドイツのポツダムに会し、イギリス・アメリカ・ソ連のポツダム会議が開催される(8月2日まで)。 07/26 対日ポツダム宣言が、米英中共同で発表される。日本は黙殺する。 08/06 8時15分17秒、B29エノラ・ゲイは、広島の上空9600mで広島にウラニウム型の原爆「リトル・ボーイ」を投下する。原爆は高度580mで炸裂する。11月までに原爆で死亡した人は14万人、5年後の1950年までには24万7000人に達する。被爆者は36万人以上になると見られている。 08/08 ソ連が対日宣戦を布告する。 1945/08/08,昭和20/08/08 ソ連軍が、北満州、朝鮮に進攻する。 08/09 ソ連軍が満州、樺太に進軍する。08/09 深夜、最高戦争指導会議構成員による御前会議で、ポツダム宣言受諾に国体維持(天皇制維持)だけを条件とする東郷外相案と、他に3条件を加える阿南陸省の案が対立する。 1945/08/09,昭和20/08/09 B29ボックス・カー号は、小倉市を目標として飛来したが、上空が曇天のため、午前11時2分、長崎市にプルトニウム型の原爆「ファット・マン」を投下する。原爆は地上503mで炸裂し、12月までの死者の数は8万人以上になる。
October 3, 2017
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昭和19年12/07(東海大地震)に続き、天災は1945/(昭和20)/01/13 三河地震が発生。(マグニチュード6.8)東海地方では死者行方不明者2306、住家全半壊2万3776、非住家全壊9187の被害となった。 01/27マリアナ諸島(サイパン・テニアン)を発進したB29 70機で数編隊を組み 東京都心 有楽町・銀座地区を標的とする空襲に見舞われた。(新聞は01/27付け 毎日新聞) 02/25 には皇居に初めて焼夷弾が落ち、03/10 にはB29 279機が東京を襲い、10万人が死亡、100万人が家を失った。昨19年11月14日以降終戦までに東京は都合、上記の大空襲を含む106回空襲を受け、他の大都市でも、名古屋は3月12日 B29・288機。死者602名。負傷者1238名。全焼2万9千戸を含む63回、大阪は翌日3月13日 B29・279機で死者3115名。焼失13万2459戸を含む33回 神戸は3月17日 B29・309機。死者2598名。負傷者8558名。全焼6万5千戸。罹災人口23万6千名を含む83日間128回、京都は20回以上の空襲を受けた。地方都市でも那覇 八幡 大村 熊本 宇佐・大分・佐伯 門司 小倉 鹿児島 玉野 川崎 徳山 横浜と続き 6月末までには日立 千葉 浜松 四日市 福岡 静岡 豊橋 水島 各務ヶ原 呉 佐世保 岡山 と昼夜を分かたず 二度三度とB29の大編隊に空襲され、国内は焦土と化し、無辜の民は疲弊していった。02/16 アメリカ艦隊が硫黄島に徹底砲撃を開始。硫黄島守備隊の栗林忠道中将はサイパン島での敗因を分析し、中将以下20,933名で、全島の施設を地下で結ぶ全長28キロの坑道を計画、 地下工事は困難の連続だったが激しい肉体労働に加えて、防毒マスクを着用せざるを得ない硫黄ガスや、摂氏30度から50度の地熱に曝され、連続した作業は5分間しか続けられない中で18キロの地下塹壕を完成し 将兵全員で立て篭もっていた、02/19 頃は良しと アメリカ軍海兵隊が硫黄島に上陸を開始するも 地下壕に篭り 持ちこたえ。又2/21日、千葉県香取基地から出撃した「彗星」急降下爆撃機12機、「天山」艦上攻撃機8機、直掩の零戦12機の計32機からなる神風特別攻撃隊第二御盾隊による攻撃も行われた。この特攻は日本本土から初めて出撃したもので、八丈島基地で燃料を補給したのちに硫黄島近海のアメリカ艦隊に突入し、護衛空母「ビスマーク・シー」撃沈、正規空母「サラトガ」大破炎上などの戦果を挙げた。(新聞はその戦果を伝える02/23 付け 毎日新聞)しかし約一ヶ月間の壮絶な善戦空しく 03/17 硫黄島の守備隊が全滅。03/25栗林大将、市丸少将以下、僅かに残った数百名の日本軍守備隊が玉砕するも アメリカ海兵隊も戦死6,821名、戦傷21,865名の損害を受け、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った稀有な戦闘であった。 更に 04/01 アメリカ軍は艦艇1500隻、輸送船450隻、兵員54万8000人(うち上陸部隊18万人)の攻略部隊で沖縄本島に上陸を開始する中 04/05 小磯内閣が総辞職。大本営は同日より菊水一号作戦を発令し、4月6日の特攻作戦は特に熾烈を極め、次々と沖縄周辺の米国艦隊へ向け飛び立ち 体当たりを敢行していった。 「海軍はどうしている?」の 聖上の声に応え 04/06 戦艦大和が片道燃料で沖縄へ向け特攻出撃するも 翌04/07 14時23分、佐多岬沖 徳之島の西方で撃沈された。ちなみに 陸海軍の航空機特別攻撃隊の戦死者数はほぼ4000人。それに対して米軍の特別攻撃隊による戦死者は沖縄だけで約5000人。艦船の撃沈、スクラップ処分は合計69隻、損傷は200隻以上。絶望的な戦争末期において航空機特攻隊は死を賭して、アメリカ軍の日本本土上陸を結果的に逡巡させ、遅らせたと言えようか・・04/07 天皇の最後に信任する臣 として鈴木貫太郎内閣が成立した。この折 アメリカでは04/12 フランクリン・ルーズベルト(Roosevelt,Franklin) 第32代大統領(民主党)が動脈硬化症による発作で死去。63歳(誕生:1882/01/30)。後継大統領にはトルーマンが就任し、ドイツでは04/15 ソ連軍がベルリン攻撃を開始 04/22 ソ連軍戦車隊がベルリン市街に突入。04/23 トルーマン大統領が、ソ連のモロトフ外相に対してヤルタ会談の約束の厳守を通告。遂に04/25 アメリカ・ソ連両軍がエルベ川で合流した(エルベの誓い)。 同日イタリアのムッソリーニと愛人のクララがミラノを脱出するも 翌日避暑地ドモ湖畔で逮捕され04/28 ムッソリーニ(Mussolini,Benito) は銃殺刑に処せられた。61歳04/30 にはヒトラー(Hitler,Adolf)が、前日結婚した秘書エヴァ・ブラウン(Braun,Eva)とともにベルリンで自殺。56歳(誕生:1889/04/20)。エヴァ・ブラウン33歳。1945(昭和20)/05/08ドイツの無条件降伏文書が発効し、欧州における第2次世界大戦が終了したが、日本政府は建前上 05/09 ドイツの降伏後も日本の戦争遂行決意は不変と声明をだした。01/20 大本営が本土決戦を決定し、作戦をたてる01/22 アメリカが日本本土空襲強化のため硫黄島と沖縄の攻略を決定する02/03 アメリカ軍が、マニラ市内に進入する。 02/07 マッカーサー元帥が3年ぶりにマニラに帰還する02/16 アメリカ艦隊が硫黄島に徹底砲撃を開始する。02/19 アメリカ軍が硫黄島に上陸を開始する(新聞 硫黄島 神風攻撃)/02/25 皇居に初めて焼夷弾が落ちる。(新聞 帝都を無差別暴爆B29 70機で)03/10 アメリカのB29型重爆撃機279機が東京を襲う(東京大空襲)。10万人が死亡、100万人が家を失う。03/14 B29が大阪を大空襲する。13万戸が焼失する03/17 硫黄島の守備隊が全滅する。2万3000人が戦死する03/25 硫黄島の日本軍守備隊が玉砕する。03/27 アメリカ軍が渡嘉敷島に上陸する04/01 アメリカ軍が沖縄本島に上陸を開始する。総兵力は54万。04/04 神奈川県日吉地区にB29による大空襲04/05 小磯内閣が総辞職する。 04/05 ソ連の外相モロトフが、日ソ中立条約の不延長を通告する。04/06 戦艦大和が出撃する。 04/07 14時23分、戦艦大和が撃沈される。04/07 鈴木貫太郎内閣が成立する。欧米1945/01/17,昭和20/01/17 ソ連軍がワルシャワを解放する。01/27 ソ連軍が、アウシュヴィッツ強制収容所を解放する。1945/02/04,昭和20/02/04 アメリカ・イギリス・ソ連首脳のヤルタ会談が始る(ルーズヴェルト、チャーチル、スターリン)。 02/13 連合国軍が、ドイツの古都ドレスデンに無差別爆撃を行う。ドレスデンは廃墟の町となる。 1945/02/13,昭和20/02/13 ソ連軍がブダペストを解放する。 04/04 ハンガリー全土が解放される。 /04/12 フランクリン・ルーズベルト(Roosevelt,Franklin)第32代大統領(民主党)が動脈硬化症による発作で死去する。63歳(誕生:1882/01/30)。後継大統領にトルーマンが就任する04/15 ソ連軍がベルリン攻撃を開始する04/22 ソ連軍戦車隊がベルリン市街に突入する04/23 トルーマン大統領が、ソ連のモロトフ外相に対してヤルタ会談の約束の厳守を通告する。04/25 アメリカ・ソ連両軍がエルベ川で合流する(エルベの誓い)。 04/25 ムッソリーニと愛人のクララがミラノを脱出する04/26 ムッソリーニがドモ湖畔で逮捕される04/28 ムッソリーニ(Mussolini,Benito)が銃殺刑に処せられる。61歳04/30 ヒトラー(Hitler,Adolf)が、前日結婚した秘書エヴァ・ブラウン(Braun,Eva)とともにベルリンで自殺する。56歳(誕生:1889/04/20)。エヴァ・ブラウン33歳(誕生:1912/02/06)。ヒトラーはピストル自殺、エヴァ・ブラウンは服毒自殺と言われる。遺言によりゲッベルスが首相に就任する。
October 2, 2017
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昨年来 海軍の太平洋上での負け戦に業を煮やした大本営は、アジア大陸で陸軍が戦局を一気に打開したいという寺内寿一南方軍総司令官の思惑が強く働き、第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将の立案した、(当時でも荒唐無稽と批判のあった)インドビルマ方面からの連合軍の援蒋ルートの遮断を戦略目的とし、インド独立運動救援のためとして 01/07 インド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦を認可した。01/24 インパール作戦に呼応し、大本営が支那派遣軍にも、大陸打通作戦を命令、03/08 より日本軍が佐藤師団長のもとインパール作戦を開始した。しかし、制空権もなく 義経の鵯越の少数軍勢の発想で 日本軍の参加将兵約8万6千人に、山砲などの装備 砲弾 他物資を水牛で運ぶなど前近代的な方法で アラカン山脈を含む山岳地帯へ強行進軍したが、補給線を軽視した杜撰な作戦の為、待ち構えた連合軍に加え、インパール方面独特の自然の猛威の豪雨と泥濘とマラリア病に阻まれ たちまち撃つに弾なく 傷病と飢餓の為に戦闘力を失っていった。 前線よりはるか400k後方に芸者付き料亭一式を引き連れた司令部から無茶な指令を出し、敗色が濃くなると、他方視察を名目に逃げ出す司令官 牟田口中将と現場指揮官の反目も発生し、日本陸軍瓦解の発端となり、歴史的敗北を喫した。軍命により進軍した将兵こそ哀れなもの・・ 戦死者3万2千人余り、戦病者は4万人以上(そのほとんどが餓死者)を出し、日本軍の撤退したビルマの道なき道は累々たる白骨街道と化し、結局7月1日に中止された。大本営ではこの作戦の総括は終戦まで行われず、誰も責任を取らなかった。 一方 アメリカは日本本土の爆撃機基地としてサイパン島を選定、6月11日、アメリカ軍艦載機1,100機によるサイパン島空襲が行われ、13日からは戦艦8隻、巡洋艦11隻を含む上陸船団を伴った艦隊がサイパン島に接近、砲弾合計18万発もの艦砲射撃が開始された。これにより日本の陣地は半壊し、サイパン基地の航空機150機のすべてを失った。その後 アメリカ軍は06/15 サイパン島上陸を開始。これに対し 6/19 日本海軍は航空母艦のほぼ全数9隻 戦艦5隻 他の機動部隊を出動させ アメリカ軍の航空母艦15隻 戦艦7隻 他の上陸援護機動部隊とマリアナ沖海戦を戦ったが、このとき アメリカは最新のレーダーと 対空砲に迎撃効果に優れた信管マジックヒューズを採用していた。更に零戦より防御や速度に優れた新型戦闘機F6Fヘルキャットなど450機で日本の艦載機を上空で待ち受け、戦況悪化の為 洋上訓練も少なく 練度の低い日本海軍航空隊の零戦は、『マリアナの七面鳥撃ち』と称される如く 次々と撃墜され、又撃墜を免れても遠路の母艦に帰還できず、艦載機378機を喪失、日本空母群は 翔鶴 大鳳 飛鷹 の3隻沈没 瑞鶴、隼鷹、千代田も中小破 損傷し、日本海軍は空母主力の機動部隊が壊滅状態となり 以降編成できなくなった。対するアメリカは航空母艦2小破 戦艦2小破 重巡洋艦2小破 喪失艦載機123機 程度であった。本土よりの援軍を絶たれたサイパン島の日本軍守備隊は07/07 までに3万人が玉砕。一般住民の死者も1万人に達した。07/18 東条内閣は事ここに至り 本土防衛の責任を負い総辞職。後任には小磯国昭 朝鮮総督が付託された。(新聞はサイパン陥落玉砕を 重苦しく伝える07/19付け 毎日新聞) 08/10 にはアメリカ軍が早くも サイパン、テニアンをB29、B24の基地として使用を開始し、本格的には11/24 より111機のB29がサイパン基地を出発し、日本本土に向かい、無差別じゅうたん爆撃が 以降連日の如く始った。10/20 アメリカ軍第4個師団がフィリピンのレイテ島に上陸。神風特攻隊が初めて編成され出撃。10/24 レイテ沖海戦が始り、戦艦「大和」と「武蔵」を主力とする連合艦隊が襲撃するも 武蔵が撃沈され、翌朝10/25 大和の主砲が火を吹き 空母1隻を撃沈するが 時既に遅く、勝機にも見放され、日本海軍 栗田連合艦隊はレイテ湾に入ることなく反転 フィリピンから退却した。 更に 弱り目に祟り目の如く、12/07 南東海地方が大地震・津波に襲われ、(マグニチュード7.9、)死者998人、行方不明者225人、住家全半壊5万4119、流失3129の大被害が発生した。(東海大地震)。1944/01/07,昭和19/01/07 大本営が、インド独立運動救援のためとしてインパール作戦を認可する。昭和19/01/07 チャンドラ・ボースの自由インド仮政府がビルマへ移る。昭和19/01/24 大本営が支那派遣軍に、大陸打通作戦を命令する。 01/26 内務省が名古屋の23地区に、改正防空法による初の建物疎開を命令する。以後、各地で強制疎開が始る。 02/17 アメリカの空母が日本の輸送基地トラック島を攻撃する。02/19 東条内閣改造。 02/21 東条英機首相が参謀総長を兼任し、軍政両面で独裁体制を確立する。 1944/02/23,昭和19/02/23 毎日新聞の、「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ」の記事に東条首相が激怒し、新聞を差し押さえる(執筆した記者は懲罰として召集される) 03/08 日本軍が佐藤師団長のもとインドでインパール作戦を開始する。だがこの作戦も次第に孤立化していく。 03/31 古賀連合艦隊司令長官が殉職する。 1944/04/01,昭和19/04/01 学徒勤労動員が実施される。6月11日、アメリカ軍艦載機1,100機によるサイパン島に対する奇襲的な空襲が行われ、13日からは戦艦8隻、巡洋艦11隻含む上陸船団を伴った艦隊がサイパン島に接近、砲弾合計18万発もの艦砲射撃が開始された。これにより日本の陣地は半壊し、サイパン基地の航空機150機のすべてを失った。1944/06/15,昭和19/06/15 アメリカは爆撃機基地としてサイパン島を選び、アメリカ機動部隊がサイパン島上陸を開始する。 1944/06/16,昭和19/06/16 アメリカ軍のB29爆撃機が北九州を初めて空襲する。 06/19 マリアナ沖海戦が始る。このときアメリカはレーダーとマジックヒューズを採用する。アメリカ軍は戦闘機450機で日本軍を待ち受ける。日本は空母3隻と戦闘機の大半を失う。19日、「あ号作戦」で出撃した日本機動部隊はマリアナ沖海戦で大敗を喫した。2日間で艦載機400機を失い、帝国海軍航空部隊は無力化された。これによりマリアナ諸島の日本軍は救援の望みを絶たれた。6時半頃、サイパン島西部にアメリカ機動部隊を発見し、7時25分に空母千歳、千代田、瑞鳳から前衛の部隊として64機(零戦14機、零戦爆戦43機、天山7機)と、7時45分に甲部隊(空母大鳳、翔鶴、瑞鶴) 航空母艦9戦艦5、重巡洋艦11、軽巡洋艦2、駆逐艦20出撃中航空母艦3沈没、油槽船2沈没、航空母艦1中破、航空母艦3小破、戦艦1小破、重巡洋艦1小破艦載機378機消失(空母隼鷹、飛鷹、龍鳳)空母翔鶴 大鳳が突如大爆発。飛鷹 瑞鶴、隼鷹、千代田も損傷してしまった航空母艦15、戦艦7、重巡洋艦8、軽巡洋艦12、駆逐艦67 出撃中航空母艦2小破、戦艦2小破、重巡洋艦2小破、艦載機123機消失06/30 学童疎開促進要綱が閣議決定される。07/04 大本営がインパール作戦の中止を命令する。 07/07 サイパン島の日本軍守備隊3万人が玉砕する。一般住民の死者も1万人。07/18 東条内閣が総辞職する。後任には小磯国昭朝鮮総督。07/21 米軍がグアム島に上陸する。 08/04 学童疎開が始る。 08/10 アメリカ軍がサイパン、テニアンをB29、B24の基地として使用を開始する08/19 御前会議で、欧州情勢に拘らず戦争完遂を決定すると同時に政治決着も考慮する。10/19 日本海軍が神風特攻隊を編成しアメリカ軍艦への体当たりを計画する。10/20 アメリカ軍第4個師団がフィリピンのレイテ島に上陸する。神風特攻隊が初めて出撃する。10/24 レイテ沖海戦が始る。日本軍の主力は戦艦「大和」と「武蔵」。武蔵が撃沈される。 1944/10/25,昭和19/10/25 早朝、大和の主砲が火を吹き空母1隻を撃沈する。さらに神風特攻隊がレイテ沖海戦に出撃する。しかし日本の連合艦隊はレイテ湾に入ることなくフィリピンから退却する。 11/24 111機のB29がサイパン基地を出発し、日本本土に向かう。12/07 南東海地方が大地震・津波に襲われる。マグニチュード7.9、死者998人、行方不明者225人、住家全半壊5万4119、流失3129。(東海大地震)。
October 1, 2017
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