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昭和20年代当時、学校給食は、何を食べていたのかも、正確には思い出せない・・否思い出したくない程、貧しかった・・・
クラスに必ず何人かは、弁当を持って来れない人がいた、ような、気がするが、かれらは、昼休みと共に、クラスを抜け、校庭の隅の砂場等で遊んでいた・・
飲み物は、給食として 粉ミルクをお湯で溶かした、マズ~~イ飲み物
!!。
MSA援助
*( 下記参照
)と称し、米国からの無償援助だったと思う。まあ、今の若者が飲めば、その不味さに、口にも出来ないだろうが・・・兎に角、日本中貧しかった・・・。
パンは コッペパン という、硬い奴、(原材料もMSA援助の米国製の安物だったろう・・今とは全然味もやわらかさも違う) とにあれ、口に出来るだけでも、善しと言わざるを得ない状況。
米も足りなかった。したがって、食べ盛りの子供に空腹感を押さえさせるには、どこの母親も苦労したであろう・・
麦飯はまだまし、サツマイモをふかしてつぶし、茶碗の底に飯を盛り、上から、その芋つぶを盛ると、一応、山盛り一膳となる。
茶碗の上に乗っている芋は、毎日続くと、嫌になり、芋飯はそのままにして、箸で穴を開け、下のご飯のみを食べたがっては母親に叱られた。
その思いがトラウマとなり、 今でも、芋は嫌いで、見たくも食べたくもない・
・
俗に女性の好物に「 イモ・たこ・南京 」というが、その頃生まれていれば、嫌になるほど食べれたろうな~と思いますョ!
戦後暫く経っても、国産の米生産が全然不足する為、貴重な外貨を使い、ビルマ・タイ等の外米も輸入したが、これも、今思えば、不味くて、とても食べられたモノではなかった・・
世に言う、「 黄変米事件
」、( 下記参照:
1952年・・昭和27年1月13日)等がおきる中、時の農林大臣が、無理々々、カビの生えて黄色くなった 黄変米
飯を責任上、旨そうに?食べているニュース映画など見た覚えがあるが、・・妙な事をH氏も覚えているもんだ・・・
牛肉は極端に少なく、庶民はまず、口に出来なかった。
代わりに、 鯨の肉
は、それなりに、食べるチャンスは多かった。 鯨のベーコン
も美味かった。
次姉など、一応西洋料理を学校で習って、弟どもに、食させる際、ナイフとフォークを使う要領は、鯨肉料理で教えたりしていた。
南氷洋捕鯨 ( 下記参照 )は小倉からマルハの大洋漁業の基地、下関も近く、子供心に憧れだった。
記録映画も、小4の折、例により、小倉魚町の「 かねやすデパート 」まで、見に行った。大波に揺れる暴風圏を越え、

はるか氷山の浮かぶ洋上に シロナガスクジラ
を追うキャッチャーボートの砲手はかっこう良かったし、又、船尾から続々引揚げられる鯨を
解体する、 第一日新丸
・ 図南丸
の大きな船体も頼もしかった。

後年、三男が戸畑の日本水産に入社し、零下20℃の鯨肉保管倉庫も見学した事も忘れられない。
しかし、時代は巡り、今や鯨肉を食する機会が殆どない・・・紀州太地に行った折、うっかり食事の時間帯をはずれて通りかかり、惜しい事をしたと、夢にみる・・・
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