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日本が 元気と希望 を取り戻したのは、いつ頃の事だろうか?
それは、 湯川秀樹博士 と 古橋広之進 選手を抜きには語れない程です。
1947年(昭和22年) 8月9日:[水泳]全日本選手権大会で、 古橋広之進 選手(日大)は、400メートル自由型競泳で 世界新記録を樹立 したが、更に

1949年(昭和24年)8月16日、米国ロスアンゼルスで行われた 全米水泳選手権 で、 1500・800・400 自由形3種目で世界新記録を連発し 、「 フジヤマのトビウオ 」とたたえられ、 日本国民を熱狂させた。
「 自由形ちゃ何ね ?」「クロールの事よ!」「ほんじゃ教えて」「それよか先ず、 水に浮かばにゃ !」
そんな訳で、H氏以下の近所の小さい子ら数人は、 紫川 に架かる 日豊本線 の 鉄橋 の下の流れに次兄達に連れて行かれ、並んで頭を水に突けられ、先ずは流れに体を流されながら、浮かぶ体験をさせられました・・・
水に顔をつけても、中々足が川底から浮かず、近所の子らが上手に流れて行くのを見て、慌てて、水を飲みながらでも、遅れてついてゆき、何とか、鉄橋の橋げたに辿り着いた時の快感は忘れられません。
今思えば、恐らく数M程度の筈なのに、かなりな距離を泳ぎきった達成感!
途中で目を開けて見た藻に揺れる川底、ブクブクと空気の漏れる音や誰かが水中で小石を叩くとカキーンと耳に響く音。すべてが新鮮で、それからは、毎日々々水泳遊びの 楽しい夏休みでした・ ・・。
もう数年前になるが、国元に法事で帰省し、改めて、その場所を尋ねると、あれだけ広く見えた 紫川 は、ほんの僅かな川幅で、 鉄橋も煙を吐いて驀進する蒸気機関車 に変わってディーゼル車が渡り。姉の監視の元、 夏草に覆われた原っぱ に、 蛍を追った岸辺 は全てコンクリートで冷たく囲われ、H氏らが、夏中遊んだ川は、なかば掘割に近く、それでも、一時よりはきれいになって細々と流れるのみでした・・・
1949年(昭和24年 )、 ノーベル物理学賞が湯川博士に授与 されるというニュースが世界中をかけめぐりました。そのころの日本はまだ敗戦の重苦しさから立ち直れず、暗く悲しい雰囲気が漂っていました。明るいニュースを待ち望んでいた日本は喜びに沸きました。「 全世界的に最大の名誉 」と湯川博士の偉業を賞賛しました。
清水小1年のH氏の同じ組に同姓の 湯川君 がいました。「お前んとこの親戚か?」「いいや違う」「けど、大したもんや!」 そんな会話をしながら下校時に彼と並んで歩いた砂利道を思い出します。名前が一緒だけで、おとなしい彼は一躍、クラスの人気者になりました。
後年、母校小倉高校50周年祭に招かれて 湯川博士の講演 が講堂(といっても 体育館 )でありました。
当時の校長が京大卒で、同窓のよしみで必死に口説いて実現した事だったのでしょう、講堂には後ろに大きな日の丸が掲げられ、校長以下全生徒も、皆、真剣に聞き入りましたが・・・
でも一通り講演が終わった後の 湯川博士の独り言 の方が印象的でした。
「私もあちこちで講演を頼まれてするが、こんな風に、生徒が全員床に座り、私が見下ろして話をするのは、どうも苦手で好きになれない、」・・・(言外に後ろの日の丸を背に、命令口調で過去の軍隊式に話をされるのが、お嫌いな、 自由闊達な博士 が、当時の窮屈な小倉高校の雰囲気を暗にご批判あったのだろうと感じ入りました)
多少は恥じ入ったのか、その折の都合だったのか、その後の50周年の記念講演は場所を 小倉市民会館 に移し、同校卒業生の作家・ 火野葦平 氏以下の講演が後日行われた記憶がありますが・・それは 昭和も35年頃 の事で記憶違いかもしれません・・・
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