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H氏の住んでいた小倉の篠崎地区の町内は、所謂住宅地で、殆ど勤め人や商売人が多かった。
恐らく、日清・日露戦争後、炭鉱景気やそれに伴う北九州工業地帯の発展により、各地から人が集まり、、最寄り駅も近い篠崎の高台が新興住宅地となって、各地から人が移り住んできたのであろう・・・
H氏一家も、曽祖父迄は 福沢諭吉と同じ、 豊前中津の貧乏士族で、祖父が門鉄小倉工場(国鉄門司鉄道管理局小倉工場)に採用され、中津から移り住んできた訳だから・・
その割りに、最近の都会の新興住宅地とは一味違った地区のまとまりがあったのは今から思うと不思議な気がする。
地区には江戸時代から続く、 普門寺や西安寺という寺もあり、お寺の和尚さんも夏にはお墓で払子を持 ってお化け大会や相撲大会など催し、たまには拓本の取り方等も教えたりしてくれたが、この地区には土着の巫女のおばあさんさんがいて、やや郊外にある篠崎八幡神社に替わり、地区の普請や祈祷を請け負っていた。
思えば、この 巫女さん一家が地域の中心として、機能していたのだろう・・・。
おばあさんには戦死された息子の嫁と孫が二人いたが、ある日、 突然神掛りになり、修行というより、口伝えで神文を覚えたと聞いていたが・・・。
二人の孫の内、弟の方は特に、おばあさんや親のしつけも良く、近所の子供らを統率し、よく面倒をみてくれた。
スポーツマンで、小倉工業高校の正捕手から、南海ホークスを受けたが落ち、地元門鉄のキャッチャーになって、地元では英雄でもあった。
小倉の繁華街で催される、 小倉祇園太鼓の祭りや市役所のある勝山公園の花火大会にも統率して連れて行き、金持ちの子も貧乏な子も、一括して、親から預かった小遣いで、子供達に冷やし氷を食べさしてくれたりしていた。
親達も安心して任せてくれたのは、一つには、その巫女のおばあさんの絶大な人徳がそうさせたのか・・・。H氏のやや年上の兄弟も同様に、よく補佐をして祇園太鼓を満喫して連れて還ってくれた。
年に二回は 巫女さんの家で大祭があった。一つは 初午の祭りで、年初の寒い折、そのボス格のお兄さんらに連れられて子供達は、市内の篠崎・到津・愛宕の各八幡さんを巡ってお参りに行き、いいかげん草臥れて夕刻帰り着くと、近所のおばさん達が、米や野菜など持ち寄り、当然お賽銭も包んで手分けしてご馳走を作り、おいしそうな匂いに包まれた、広い座敷に大人も子供も正座して、静粛に 巫女さんの祝詞を受け、その後は 無礼講の大宴会となるのが恒例でした。
女子供たちも含め豆まきなどあり、日頃真面目なおっちゃん達のひょっとこ踊りや、謡もあり、夜更けまで楽しく過ごした事でした。
それだけに、この地域のまとまりは良く、学校でも、地区の子がいじめにあえば、すぐ、助け合い、また年代の風通しが、小さい子から、高校生位まで一体感があって、今考えても素晴らしい、 地域の連帯社会でした。
H氏は高校卒後、東京の大学に行き、そのまま、地元を離れ、その後、偶にしか帰らぬまま、幾星霜が過ぎ、その後の消息はもう絶えてしまった・・・
十年ほど前には地域の道路拡張工事があり、H氏の家や隣の家も取り壊され、古くから住んでいた人々もちりじりとなり、留守役の姉宅も、戸畑地区に移転し、 その頃の町のイメージはH氏の脳裏の中にしか残っていない・・・。
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